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「教行信証講義/化身土巻 本」の版間の差分

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(第一章 化身土巻の来由)
 
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 二。更に思うに、自分一身は、時代そのものの縮写図である。時代そのものが自分一身に悉く具わっているものである。今聖人の場合に於いても、聖人がかくの如く時代を解剖し批判せられたのは、その儘自身の解剖と批判である。聖人は自ら「化巻」に、
 
 二。更に思うに、自分一身は、時代そのものの縮写図である。時代そのものが自分一身に悉く具わっているものである。今聖人の場合に於いても、聖人がかくの如く時代を解剖し批判せられたのは、その儘自身の解剖と批判である。聖人は自ら「化巻」に、
  
  是を以て、愚禿親鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行諸善の仮門を出て、永く双樹林下の往生を離る。前本徳本の真門に回入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて選択の願海に転入し、速やかに難思往生の心を<br />
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  是を以て、愚禿親鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行諸善の仮門を出て、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて選択の願海に転入し、速やかに難思往生の心を<br />
 
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離れ、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓良に由有る哉、
 
離れ、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓良に由有る哉、

2018年7月29日 (日) 00:07時点における最新版

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教行信証講義

序講
総序
教巻
行巻
 正信念仏偈
序講 信別序
信巻 本
信巻 三心一心
信巻 重釈
証巻
真仏土巻
化身土巻 本
化身土巻 末

目次

 教行信証講義
   第三巻  真の巻 化の巻 (第13版)
   山邊習學 赤沼智善 共著

 化身土巻

序講

第一章 化身土巻の来由

(3-195)
一。劇しい苦闘と、長い努力に依って、遂に到るべきところへ到りついた人は、必ず翻って、自分の環周一切を見直して、これが解剖と批判とをなすものである。つまりこれは、その到達点たる思想もしくば信仰を一切の上に行き亘らせるのである。時代思想の正当な解剖と批判が出来ず、その時代思想の上に批判者たる権威を有せない思想信仰ならば、それは力ないものである。死せるものである。時代の劣敗者が遁げ込む避難所たるに過ぎないものである。到底後世の人々を支配する思想信仰たることが出来ないものである。
 我が親鸞聖人は、劇しい苦闘と長い努力に依って、到り着くべき所へ到り着いた人である。その信仰は円融無碍自在の一道である。その思想は淳乎として淳なる彩想である。聖人はその思想信仰を直説法に依って、『教行信証』前五巻に吐露し給うた。宇宙の一原を掴んだ微妙なる聖人の思想信仰は光彩の陸離たる明玉の様に高く揚げられた。而も聖人は、
(3-195)
今や振り返って、自分の環周〈めぐり〉を見給うべき時は来た。その淳なる思想信仰を一切の上に蒙らしめ給うべき時は来た。換言すれば、その思想信仰を以て、当時の時代思想を解剖し批判して、それぞれの正当なる位置を与え給うべき時は来たのである。「化身土巻」一巻は正しくその晴の舞台である。
 「化身土巻」一巻は、聖人の思想信仰の力を試すべき舞台である。聖人の思想の一刀が振るるものを切り断ちうる名刀で有るか否かの明らかになる舞台である。換言すれば、「化身土巻」一巻は当時のあらゆる時代思想の縮図であり、聖人の解剖刀の利鈍を示した手術室である。この意味に於いて、「化身土巻」一巻は聖人にとって非常に重大なる意味を有し、『教行信証』六軸の中に於いて重要なる位置を占めるのである。
 聖人の思想は、自然法爾の力を掴む思想である。淡い狭い自我のはからいなき任運法爾の生命の力を得る思想である。これを表現して仏力といい、他力という。他力というは局限せられた待対の力ではない。少なくとも自力という対手〈あいて〉を持つような力ではない。それ自ら絶対的な不変の力である。この法爾の力を知らないものを貶して自力執心の徒と名づける。この自力は他力に対する価値ある力ではない。局限せられた力を執するものを貶する名
(3-196)
称である。
 翻って当時の思想界を見るに悉くこれ自力執心の徒である。円かに法爾自然の力を感得しているものがない。みな自性唯心に沈み、定散二心に迷い、真仮の門戸を知らず、邪正の道路を弁えずして彷徨〈うろうろ〉している輩ばかりである。これみな型にこだわって、その中に湧き返る生命を忘れているからである。
 かくして、我が聖人は、自己の思想の最高峰に立って、時代を見下し、茲にその当時に流行する思潮を遺憾なく解剖し批判して、「真なるものは甚だ尠〈すく〉なく、偽なるものは頗る多き」を見給うた。然も驚くべきことには、大悲は、この真偽を一括して、願海の中に置き給うのである。大悲方便の手は飽くまで低く広く垂れて、定散の諸善と、自力の執心とをその因願に摂取して、一機をも洩らさじと誓わせられた。而してこの因願は広く『観経』『弥陀経』に開設せられ、因願既にこの方便引接の御手あるが故に、証果も亦如来の方に於いて約束せられてある。解剖刀を取って、時代の思潮に対せられた我が聖人は、茲にあらゆるものの上に蒙らせ給う法爾の力、大悲の働きに驚嘆して、一は自身の取らせ給う解剖刀の利きを示して真仮を明らかにし、一は大悲の思召を開いて時代を覚醒せしめ給うたのであ
(3-197)
る。
 それで聖人は、この「化身土巻」に於いて、水際立てて時代を解剖し、分類せられた。「化身土巻」一巻の正所明は二願二経二機二往生であるが、これを『教行信証』前五巻所明に照らし合わせてみると、茲に所謂三願三経三機三往生という三々四科の法門が確立して、聖人の思想信仰を明かに知ることができるのである。先ずこれを図示してみよう。

挿図 yakk3-198.gif
           ┌──────┬───────┬─────┐
      三門   三願     三経      三機    三往生
       :    :      :       :      :
     ┌要門──第十九願──『観無量寿経』──邪定聚機──双樹林下往生┐
 ┌方便―┤                               ├―化身土巻
 │   └真門──第二十願──『阿弥陀経』───不定聚機──難思往生──┘
 │
 └真実―─弘願──第十八願──『大無量寿経』──正定聚機───難思議往生─―前五巻

 「洛都の儒林行に迷って、邪正の道路を弁うることなし」と歎かせられた当時の儒者達は、いつの世でも同じように受け売り専門の道学者であったのであろう。道学者は高貴な霊性問題を取り扱うには余りに血の涸れた無資格者である。「諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず」と悲しまれた当時の貴族的仏学者は、これも亦遊戯的思弁に日を消す
(3-198)
型にくくられた人達であったであろう。当時聖道の諸教は定型に囚われて、内部生命を忘却して仕舞っていた。この囚われた遊戯的思弁者が、霊性の問題に嘴を入れる資格のないことは前の道学者と同様である。茲に霊性の明るみを尋ねる三種の人がある。一は要門の人、二は真門の人、三は弘願の人である。この三種の人は因願に引接を誓われ、三種の往生を得る人々である。然も、要門の機は、進んでは真門に入り、真門の機は更に進んで弘願に入るのである。弘願門に入って、法界は始めて洞然として一法爾力の顕現として認められるのである。この三種の機教は世界の現相にして、大悲力の活現の相状である。前にもいう通り、聖人はこの「化身土巻」に於いてかく時代を見、かく時代を誘導せられたのである。
 二。更に思うに、自分一身は、時代そのものの縮写図である。時代そのものが自分一身に悉く具わっているものである。今聖人の場合に於いても、聖人がかくの如く時代を解剖し批判せられたのは、その儘自身の解剖と批判である。聖人は自ら「化巻」に、

  是を以て、愚禿親鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行諸善の仮門を出て、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて選択の願海に転入し、速やかに難思往生の心を
(3-199)
離れ、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓良に由有る哉、

と示し給うた。聖人一身の上に世界の現状は順次に転換した。大悲力の活現は順次に効を奏した。聖人の思想信仰は次第に円熟して到り着くべき所に到着した。その模様を告白なされたのがこの「化身土巻」一巻である。
 それであるから、「化身土巻」一巻の開出は二方面から伺うことが出来る。一は対外的であり、一は向内的である。対外的にいえば、聖人の御時代の全思想界の解剖である。向内的にいえば、聖人御自身の信仰円熟の過程の告白である。然も、その二方面は決して相離れて別なるものではなく、不一不異の関係にあるものである。
(3-200)

「化身土巻」の組織 (挿図 yakk03_02kesindo.pdf)
(3-213)

本講

第一編 化身化土

第一章 題号と選号

(3-215)

 顕浄土方便化身土文類  愚禿釈親鸞集

【講義】浄土真宗の方便門たる化身化土を顕わす文類。愚禿等は上七頁を見よ。
【余義】一。「化身土巻」はただ題号だけをみると、顕浄土方便化身土とあるからただ化仏と化土とを示してある様であるが、実は前述の如く時代の全思想界の解剖であって、委しく方便の四法を説いて、「前五巻」の真実の四法に対してあるのである。更に云えば、方便の四法と化身土とを説いて、「前五巻」の真実の四法と真仏土に対してあるのである。ただ、「前五巻」には真実の四法を前に説いて、真仏土を後に明かし、「化身土巻」に於いては化身土を先に説いて方便の四法を後に明かしてある区別があるのである。
(3-215)

(挿図 yakk3-216.gif)
      「前五巻」     「化巻」
      真実四法      化身土
 真実六法                方便六法
      真仏土       方便四法

 それで茲に問題が二つ起こる。一は何故、「化身土巻」に於いても、前五巻の所明の如く方便の四法を先に挙げて次に化身土を後に出し給わぬか。二は、当巻の内容に方便の因果が皆示してあるのに、何故題号に化身土という果の方面のみを出し給うたかという問題である。
 この理由は外ではない。前にもいう通り「化身土巻」は「真仏土巻」から開かれたもので「真仏土巻」の「仮之仏土在下応知(仮の仏土、下にあり、知るべし)」とある文を承けて顕われたものであるから、それで初めに化身土を明かし、次に四法を説き給うたものである。第二問の題号に化身土のみを挙げ給うたのも、第一には前の理由の直接に「真仏土巻」に対する処から、第二には真仮の得失を明かすに、果の化身土についてすれば、顕著であるからである。
 即ち因の四法について明かすよりも効果が顕著であるから、それで、果の化身土を題号に挙
(3-216)
げ給うたのである。
 真仏土に対する名ならば、化身土よりは、仮身土の方が然るべきではないかと思われるが、この化の字を用い給うたところにも特殊の意味があるので、この「化身土巻」の化身は普通にいう三身門の中の化身ではなく、報中の化である。この報中の化というは横川の源信僧都の相承であり、それに依って、化身土を顕わし給うものであるから、源信僧都の報中の化の、化の字を用い給うたものである。
 二。次いでに、この「化身土巻」の本末二巻の科段を切って見ると、大科二段に分れ、更に四段に分かれていて、下の様に図示せられるのである。

(挿図 yakk3-217.gif)
   ┌十九願開設の観経に就いて化土の因果を明かす─┐
  ┌└二十願開設の小経に就いて化土の因果を明かす─┼─本巻
  └┌三時の興廃を分別す ────────────┘
   └内外二教の真仮を分別す ────────────末巻
(3-217)

第二章 標挙

(3-218)
 【大意】化身化土の本願たる第十九第二十の二願を標挙し給う。御草本、御真本、高田本は、共に本文標題の前、表紙の裏にあり。「無量寿仏観経之意也」「阿弥陀経之意也」は各願文と平行して右に並べられてある。そして御草本のそれは朱書になっている。本書第一巻六七頁の刊本の校合参照せられよ。

  [無量寿仏観経之意]
  至心発願之願 {邪定聚機 双樹林下往生}
  [阿弥陀経之意也]
  至心回向之願 {不定聚機 難思往生}

【字解】一。邪定聚機  三定聚の一。第十九願の機類を指す。正しく他力の仏意に叶いたる第十八願の正定聚に対して、これは自力修善の機類であるから貶〈おと〉して邪定聚と名づけられたものである。『倶舎論』第十には、聖者を正定聚と名づくるに対して、五無間業を造る罪人を邪定聚としてあるが、今は随宜転用せられたのである。(本書第二巻七〇七頁参照)。機とは縁に遇うて発動する可能性をいう。即ち教えに薫育せられたる心の
(3-218)
有様を指すのである。
 二。双樹林下往生  三往生の一。第十九願自力修善の機の往生である。双樹は沙羅(Sala)双樹にて、釈尊、拘尸那城外に入涅槃の際、この双樹の下にせられた。即ち娑婆界の仏身(化身)入滅の象徴〈しるし〉であるから、これをもって化土往生を顕わし給うものである。三往生の名目はもと『法事讃』上四丁に、極楽往生を称えられたものであるが、今これを三三の法門に転用せられたのである。
 三。不定聚機  三定聚の一。第二十願の機類を指す。第十八願の正定聚、第十九願の邪定聚の中間にありて、半自力半他力の機類であるから不定聚と仰せられた。『倶舎論』第十には、正定聚の聖者、邪定聚の逆罪者に対して、凡夫を不定聚という。今は上のような意味にて、転用せられたものである。(本書第二巻七〇七頁参照)。
 四。難思往生  三往生の一。第十八願の難思議往生、第十九願の双樹林下往生に対して、第二十願の機類の往生を難思往生という。法は他力念仏なれどもそれを修する機に自力を雑〈まじ〉えるから、一字の褒貶をもって義を略し難思往生とし給う。
【文科】「化身土巻」全体に説き明かすべき方便の行信を誓い給える本願及びその機類等を標挙し給う。
【講義】第十九至心発願の願は浄土の要門自力の機類の往生を誓うたものにして、即ち正所被の機は邪定聚と名づけ、その往生は化土の往生であるから双樹林下往生と云う。そして
(3-219)
これ全体は『観無量寿経』一部の大意である。
 次に第二十至心回向の願は浄土の真門、即ち半自力半他力の機類の往生を誓いたるものにして、その正所被の機は不定聚と名づけ、その往生は難思往生という。そしてこれ全体は『阿弥陀経』の大意である。
【余義】一。茲に第十九第二十の二願が標挙せられてあるが、これに依って「化身土巻」全体の所明が充分に知られるのである。第十九願開説の経は『観経』第二十願開設の経は『小経』にて、この「化身土巻」は、願につけば第十九第二十の両願、経につけば『観経』『小経』の二経、機につけば邪定聚、不定聚の二機、往生につけば双樹林下、難思の二往生を説き明かすのである。既に前五巻に説き終わった第十八願と『大経』と正定聚と難思議往生とに合して、三願三経三機三往生の三々の法門となり、これより眺むれば、当「化身土巻」は『観経』『小経』二経の開説の疏となり、前五巻と合して『浄土三部経』の開説の疏となるのである。
 それで、当「化身土巻」は前五巻に残された浄土三部経の中、『観経』『小経』を提げ来たって、茲にこれを開説し、三々四科の法門を以て、一見その所明を詳らかに了らしめ、四
(3-220)
法の綱格を挙げて、所説の骨法を明了ならしめ給うのである。茲に出されたる観小二経は方便の教である。十九、二十の二願は方便の信である。双樹林下、難思の二往生は方便の証である。而して、邪定聚、不定聚の二機は行に依って生ずる差別の機であるから、方便の行に当たるのである。この二願の標挙と細註に於いて、既に四法を挙げて、一部の所明を知らしめ給うのである。
 二。第十八願は至心信楽、第十九願は至心発願、第二十願は至心回向。信楽と発願と回向、この二字ずつに、三願の特色が最も明了に顕われているので、また茲に全世界の縮写図が明了に見られるのである。人間の思想は種々雑多に分かれているけれども、大別すれば三種になるものである。一は純一無雑な匂こぼるる豊かな信である、明かに全一を見て惑わない眼を有するものである。一は乱れた心を持ち、暗い眼をもって、全一を見ることが出来ず、常に善を積んで果を得たいと望むものである。一は同じく全一を見る眼を有せず、自然法爾の理に戻って、運心して功を得たいと望むものである。信楽を生命とするものと、発願を生命とするものと、回向を生命をするものである。この信楽と発願と回向の三語は、それぞれの機類の特性を最も明了に示すと共に、三願の真意特色を最も精確に
(3-221)
示す語である。それであるから、第十八願には念仏往生の願以下五名ある中、至心信楽の願名を「信巻」に標挙し、第十九願には修習功徳の願以下五名あり、第二十願には植諸徳本の願以下四名ある中、至心発願の願、至心回向の願の二願名を、この「化身土巻」に標挙し給うたのである。
 勿論、第十九願にも回向の義のないことはない。発願がある以上必ず回向の心もある訳であるし、また第二十願にも、『阿弥陀経』に「応当発願」とあって、発願の義もあるが、これは主となる処に従って、発願と回向に分けたものである。
 三。三定聚のことは、『教行信証講義』第二巻七〇七頁に詳細に説明してあるから、其処を見て貰いたい。また、三往生のことは、同じく『教行信証講義』第二巻六八〇頁に出でているから、参照して貰いたい。
 四。因みに『愚禿鈔』上巻に三往生を挙げて、「大経宗、観経宗、弥陀経宗」とあり、今この細註には、「観経之意也」「阿弥陀経之意也」とあり、宗と意と使い分けてあるが、これは大した意味があるようにも思われない。雲樹院師は『論草』に於いて、『愚禿鈔』は三経差別門に約して三往生を以て三経の宗要とし、今この「化巻」は観小経に隠顕を立て
(3-222)
三経一致門の義辺に約するから、語を柔らげて意の字を用い給うたと曰われてあるが、これ位に穿って見て行っても差し支えはないようである。
(3-223)

第三章 略顕

第一節 化身

謹顕化身土者 仏者如『無量寿仏観経』説 真身観仏是也。

【読方】謹んで化身土をあらわさば、仏というは無量寿仏、観経の説のごとし。真身観の仏これなり。
【字解】一。化身土  または化土、方便化身土という。衆生の機に応じて化現せる浄土。但しここには通常いう所の変化土ではなく、弥陀の報土中の化土である。第十九、第二十の自力を執する機類の為に方便して、真報土中に仮に化現せる仏土をいう。即ち嬰児を抱く胎中のような浄土である。
 二。真身観  観経十六観法の第九観。阿弥陀仏の身相光明を観ずること。この観法をなせば、十方一切の諸仏も観ずることが出来るから、「遍観一切色身想」とも名づける。第八の像観に対して、この観法を真身観という。
【文科】本章は化身土の大略を示されるのであるが、その中第一節に化身を顕わし給う。
【講義】謹んで浄土真宗に建つる所の化身化土の何たるかを顕開せば、その仏は、『観無量寿経』に説かれたる十六観法の第九真身観の仏である。即ち法性より顕現〈あらわ〉れたる報身仏ではなくして、機に応じて形を示し給える六十万億那由他恒河沙由旬という有量の方便化仏
(3-224)
にてまします。
【余義】一。化身とは『観経』の真身観の仏であるというこの文について疑いがある。真身観の仏というは、いうまでもなく、定善十三観の中、第九の真身観の六十万億那由他恒河沙由旬の仏身のことであるが、古来この仏を応化身とするか、報身とするかについて、劇しい議論があったので、浄影、天台の諸師が、みな応化身と判ぜられたに対して、善導大師独り弥陀仏を是報非化と定め、古今を楷定して、一宗の宗要を確立せられたのである。
 これは、浄土教史の上に於いて、特筆すべきことなのである。法然上人は、この善導の意を承けて『漢語灯録』一 二十一丁には、「仏の色身相好の功徳は、謂くその身量は六十万億那由他恒河沙由旬・・・これ即ち六度万行の修因に酬い、六八大願の顕現する所なり」といい、『同』初七丁にも同様に六十万億那由他恒河沙由旬の仏身を報身といってある。然るに今我が親鸞聖人は、善導大師に乖き、諸師の謬解に従い、何故に、更に改めて、化身となされたのであるか、これ甚だ解し難いことではないか。六要鈔主も亦この文の下に(六要八 三丁)この疑問を呈出していられるのである。
 然しこの疑問は何でもない。善導大師が、弥陀如来を報身にして化身に非ずと判せられ
(3-225)
たのは、決して、この第九真身観の文の当相についてその所説の仏身を報身と判ぜられたのでなく、単に弥陀如来を報身と定められたのである。第九真身観の文の当相はいかにしても、観門所見の仏身であり、六十万億那由他という数量があるから、化身に相違ない。我が聖人は善導大師を相承して報身は不可思議光如来、化身は第九真身観の仏これなりと判ぜられたので、善導大師の定判と少しも相違していないものである。茲に真身というも、真報身の義ではなく、第八像観所見の仏に対して真身と云われてあるのである。六要鈔主は、茲に解答に二義を出し、第一義は有数量有限仏であるから化身と判じたのであるとし、第二義は真身観に示されたる真身所共の化身を指して、真身観の仏これなりと判ぜられたのであるとなされてある。第一義は当然の説であり、第二義は、他宗に遠慮してなされた解答である。しかも、「但し第二義穏便と称す可し」と云われてあるが、在覚上人の意中も傍らから見る時には茲に隠顕を立てて見ねばならぬのである。これは存覚師作『四法大意』六丁を見れば上人の意底も略知れるのである。それに依っても、当時の教界の相状と、その中に立てる真宗の位置が読み得らるるのである。
 もしかくの如く、第九真身観の仏を化身とする時には、経文に少しく解し兼ねる処が出
(3-226)
来て来る。経文で見ると、この六十万億那由他恒河沙由旬の仏身から光明を放ち、念仏衆生を摂取し給うとあるが、仏は化身にして、衆生は他力念仏の行者ということになる。念仏衆生を摂取し給うは因願報酬の大悲の報身の御作用でなければならぬではないか。然るに経文では方便の化身と、真実の衆生と喰い違うことになるのではないかという難が出て来るのである。
 然しそれも少しく考えて見ると何でもないことである。『観経』は誰も知る如く、要弘二門の説相がある。この真身観の文も、要弘二門から見て行かねばならぬ。もし要門の機に約すれば、この仏は観門所見の化身であり、弘願の機に約すれば、六十万億の数量の化身に即して不可思議光の報真仏である。それで善導大師は、「定善義」にこの文を釈する時には、釈相廃立門に依って、六十万億の仏身は、要門の機に約する観門所見の化身、摂取不捨の仏は、弘願の機に約する真報身となされてある。我が聖人は釈意隠顕門に依り、顕説から見れば、経文全体、要門定善の観法にて、仏は数量ある化身、念仏衆生は観念仏の衆生となり、隠の義から見れば、仏は不可思議光の報身、念仏衆生は称念仏の弘願の機となると見給うたのである。要するに常に『観経』に対する要弘二門の見方を以てこの文に対す
(3-227)
れば、義意自ずから明了となるのである。

第二節 化 土

土者『観経』浄土是也。復如『菩薩処胎経』等説 即懈慢界是也。
亦如『大無量寿経』説 即疑城胎宮是也。

【読方】土というは観経の浄土これなり。また菩薩処胎経等の説のごとし。すなわち懈慢界これなり。また大無量寿経の説のごとし。すなわち疑城胎宮これなり。
【字解】一。観経浄土  『観無量寿経』に説かれたる浄土のこと。即ち定善十三観に説かれた宝地、宝樹、宝池、宝楼等の依報荘厳、及び第九の真身観等の正報荘厳を総称して観経浄土という。
 二。菩薩処胎経  七巻。具には『菩薩従兜術天降神母胎説広普経』という。天宮品、遊歩品より起塔品、出経品まで凡て三十八品あり。仏一代の行化に寄せて、種々の法門を説く。
 三。懈慢界  懈慢辺地ともいう。極楽浄土の辺地にして三宝を見聞することが出来ない。真門の自力念仏者の生まるる疑城胎宮に対して、これは要門自力の行者の往生する化土の称である。
 四。疑城胎宮  二十願の自力念仏の行者の往生する化土である。この疑城に生まるれば三宝を見聞することが出来ないこと、恰も胎児のようであるから、胎生という。その胎生の宮殿であるから疑城胎宮といい、単に胎
(3-228)
宮ともいう。この疑城胎宮は、二十願の機のみならず、第十九願の要門の機の往生する上にも通ずることがある。
【文科】化身の次に化土の大略を顕わし給う。
【講義】そして仏土は同じく『観無量寿経』に説かれてある有相の浄土で矢張り観門の機に顕われた方便の浄土である。復『菩薩処胎経』に説かれたる懈慢界の浄土、及び『大無量寿経』下巻に説かれてある疑城胎宮というはこの化土である。
【余義】一。何事でもこれを客観的に物的にのみ観察し研究せんとする時には、随分幾多の滑稽を生ずるものである。宗教上のことは別してそういうものであるが、今この「化巻」に説き明かさるる化土についても、これを主観的に精神的に読んで行く時には聖人の至醇な思想生活が想像せられて、不尽の興趣を呼び起こし来るけれども、もし、これを客観的に物的に見て、化土の種類とか、位置とか、方処とかを研尽せんとする時には、随分憐れむべき滑稽を生ずるのである。古来この化土について種々の議論があった。然も、その議論が精細を極むれば極むる程、わけがわからぬものとなって居る。この罪は、研究者の主観がいつも、客観的であり、物的の見方を離れることが出来ない処に負うているのである。
(3-229)
 化土については、我が聖人の文章の上にても、随分錯雑し矛盾していて、一寸見ては、どう区別し系統だててみれば善いのかわからないようになっている。前にもいう通り、この化土については、特別に、主観的精神的の見方を要求するのであるが、今は、先ず、古来先輩の研究に従って、この化土の所明所説を整理してみよう。
 二。我が祖聖人の文書の上に顕われている化土の名は数も多くまた非常に錯雑している。先ずその名を挙げて行こう。
 (一)「化巻」八 初丁・・・・・『観経』の浄土‥‥‥『処胎経』の懈慢界‥‥『大経』の疑城胎宮。
 (二)『愚禿鈔』上 六丁・・・・疑城胎宮‥‥‥懈慢辺地。
 (三)『同』下の終・・・・・・・胎宮辺地‥‥‥懈慢界。
 (四)「化巻」九 十三丁・・・・辺地胎宮‥‥‥懈慢界。
 (五)『三経文類』十一丁・・・・懈慢界‥‥‥胎宮。
 (六)『末灯鈔』六丁・・・・・・懈慢辺地‥‥‥胎宮疑城。
 (七)『疑惑和讃』・・・・・・・辺地。辺地懈慢。胎生辺地。辺地七宝の宮殿。
 (八)『浄土和讃』・・・・・・・辺地懈慢。(草本左訓に辺地と懈慢とにわかち、辺地を疑惑胎
(3-230)
生辺地とよんである。)
 こういう具合にいろいろ説かれてあって、一体化土の数がどれほどあるのか、そしてその名称は何れを正しとすべきか一寸解らないようであるが、少しく義によりて文に依り精細に研〈しら〉べて見ると上の結果を得るのである。
 A、土類無量、我が聖人も「真仏土巻」七 五四丁に「良に仮の仏土の業因千差なれば土も復千差なるべし、これを方便化身化土と名づく」と宣う如く、化土の特徴の一は、その業因の千差万別なる点である。真報土は同一念仏無別道故で、一平等因に依って一平等果を得るのである。自力に執するものは差別に囚わるるからその化土往生の因が千差である。因が各別であるから果も亦各別である。これ自力迷執の輩の特色であって、時に方便化土の特徴である。この土類の千差無量なるを顕わして、茲に「観経の浄土これなり」と宣うたので、『観経』の浄土は九品にわかれ、この九品というが、三々九品、九々八十一品と無量の品類あるを示すのである。
 B、土名二種。上述の如く、化土の品類には無量あり、名は類に依りて異なりあるものであるけれども、無闇に漫〈みだ〉りに命名すべきものでなく、それぞれの拠り処あって称呼とな
(3-231)
るものであるから、我が聖人も慎重に化土の呼称を取り扱い給い、土名は二種を出だし給うのである。「観経の浄土」というは、化土の名称ではない。『観経』に九品の浄土が説かれてあるからその土類の無量を示すために出し給うたものであって、『処胎経』に依って称える懈慢界と、『大経』に依って呼ぶ疑城胎宮とが、化土の名称である。それであるから、「化巻」要門の下九(十三丁)には辺地胎宮と懈慢界の二名を出し、『三経文類』、『和讃』等、またこの二名のみを出し給うのである。猶後に述べる名義の解釈を見て貰えば上の一見錯乱している名称が明かになるであろう。
 C、土体唯一。かく土類は無量であり、土名は二種であるが、土体は全く一であるのである。ひとり化土の土体が一である計りでなく、報土化土共に土体は全く一なのである。何故なれば、前にも幾度か出でたる如く、弥陀の化土は諸仏通相の化身化土でなく、所謂報中の化であるから、因願酬報の土であることはいうまでもない。それであるから、真実報土は十二・十三両願の成就であることは「真仏土巻」に既に説き明かされたが、化土建立の願というがない。弥陀の浄土は自受用他受用不二の真報土であって土体に二・三あるのでないが、自力にかかわっている衆生の機根が千差であるから、その衆機に応じて暫く
(3-232)
真報土の中に方便の化身土を顕現し給うので、それは、弥陀如来の方からいえば第十八弘願の外に十九、二十の両方便願を建立し給う願意である。衆生の方からいえば、一真報土の中に業因に応じて、種々の化土を感見するのである。けれども土の体を押さえていえば唯一である。かく真化の主体が一であるから、化土の土体の一であることはいうまでもない。
 三。この化土の名称の中、懈慢界というは、源〈みなもと〉、『処胎経』二 十八丁に出でて、懐感禅師、これを『群疑論』四に引き、源信和尚、『往生要集』下の末 十一丁に引用し給うたのである。
 懈慢というは字義にも出づる通り、雑行雑修の人は執心不牢固にて、その信若存若亡であるから、これを懈怠慢堕と貶め、そのものの滞って前進むことの出来ない所であるから懈慢界と称したのである。
 疑城胎宮は、『大経』の胎生、七宝宮殿という文を根本の拠処とし、善導大師の「定善義」の「喩処胎(胎にましますに喩う)」の文、及び『守護国界経』に「生於疑城五百歳受楽(疑城に生まれて五百歳、楽を受く)」とあるのを取りて、親鸞聖人の名づけ給うた名称である。不了仏智の疑惑の罪に依り、宮殿の中に五百歳間、三宝を見聞せずして過ぐるという意である。
 この疑城胎宮の名称は、疑城は疑惑のものの居する城の意味で、因に依って名づけ、胎宮は
(3-233)
果に依って、報土の化生に対して胎生、外から見れば五百歳の間、三宝を見聞することが出来ず、蓮華に包まれて母胎に処〈お〉るようなものであり、胎生者自身は七宝の宮殿にいることと観じているから、胎宮といったものである。それで、上に出でた辺地の名は我が聖人の始終用い給う所であるが、この名はもと『大経』に出で、懈慢と胎宮の失を顕わすに用い給うたので、両方に通ずるのである。その辺地の名義は曇鸞大師の『略論』五右に二義を出だして解釈し、一は不見聞三宝の故に貶して辺地といい、二は実際、極楽浄土の辺地にあるから名づけるというてあるが、二義共に用いて差し支えない。此処〈ここ〉らは客観的の説相であって、同時に主観的な味わいの豊かな処である。これを以て前にいろいろと説かれている化土の名称を見るとはっきりして来るのである。懈慢界は、懈慢、懈慢界、懈慢辺地と説かれ、疑城胎宮は疑城胎宮、胎宮疑城、胎宮辺地、辺地胎宮、胎生辺地、辺地と説かれているのである。
 四。扨、化土に懈慢界と疑城胎宮の二名あることは、上に既に述べ終ったが、茲に我が聖人が、この二土を十九、二十願に配当し給う上に釈相が一様でないからいろいろ問題が起こっている。『三経往生文類』十一丁、『末灯鈔』九丁には、懈慢界を十九願、疑城胎宮を二十願
(3-234)
に配し、この「化巻」八には、疑城は通じて十九、二十願の下に出だし、懈慢は十九願に限って出だし給い、『疑惑和讃』、『愚禿鈔』下の終、「化巻」九 十三丁には両化土両願混雑して説き明かしてある。これをどう見て、どう解釈すれば可いかというについて種々異論が起こっているのである。
 然しこれは前にもいう様に、客観的にこうこうと定められるものではなく、要は主観がいか様に色味するかという点にかかっているものであるから、両化土、両願の配当も一応のものと見て置かねばならぬのである。一応わけて配当すれば、懈慢というは雑行雑修心不牢固のことであるからこれを十九願に配し、疑城の名は不了仏智の疑惑の失を顕わすものであるから、第二十願の自力疑心の念仏者に配当したものである。『三経文類』『末灯鈔』はこの説相である。
 然し乍、更に尅実して見れば、懈慢も不了仏智の疑惑者であり、疑城も執心不牢固の懈慢者であるから、懈慢と疑城と一応名は異なっても、諸行念仏十九・二十の両願に通ずることは明了である。それで『疑惑和讃』始め「化巻」『愚禿鈔』等、両願に通じて両化土を並べ給うたものである。
(3-235)
 以上述べたところで、我が祖聖人の所説の混乱は筋道をつけることが出来ると思う。然し大切な問題は、懈慢界、疑城胎宮と説かれた精神的意義を主観的に色味するところにあるのである。
(3-236)

第四章 第十九願開設『観経』意

(3-237)
【大意】本章には正しく第十九願『観経』の意を広述し給う。初め第一節に第十九願の大旨として、所化の機類、二尊の能化、第十九願名を挙げ、次にその証文として第二節は経文証である。第一項因願文、第二項成就文、第三項は化身土の証文として広く『大経』『如来会』の文を引く。進んで第三節は釈文証にして、善導、憬興、源信三師の文を挙げて本章了わる。

第一節 第十九願の大旨

第一項 所化の機類
然濁世群萌 穢悪含識 乃出九十五種之邪道 雖入半満・権実之法門 真者甚以難 実者甚以希。偽者甚以多 虚者甚以滋。

【読方】しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道をいでて、半満権実の法門にいるといえども、真なるものは甚だもって難く、実なるものは甚だ希〈まれ〉なり。偽なるものは甚だもっておおく、虚なるものは甚だもって滋し。
(3-237)
【字解】一。九十五種の邪道  釈尊当時の遊行者婆羅門として有名であった六師外道(『第二巻』五七頁参照)に各十五人の弟子あり、合して九十となる。それに師の六師を加うれば九十六種の外道となる。その中、小乗の一派に似たるものがあるから、それを除いて九十五種の外道となる。ここでは一般に仏教以外の邪道を総称するのである。
 二。半満権実  一代仏教を判じたる二種の教判。半満は半字教(小乗教即ち蔵教をいう。愚かなる子に、父が半字を教えておくようなもので、不完全な教えということ)と満教(大乗教即ち通教、別教、円教を指す。父が賢い子には満字を教えるように、完全なる釈尊の説法ということ)の称。
 権実は、権教(実大乗の真実教に入らしむる為の方便の教をいう)と実教(真実なる教え、実大乗の教えを云う)の称。
【文科】第十九願の所被の機類の何たるかを示し給う。
【講義】然るに五濁の世の汚された群萌〈ひとびと〉、即ち煩悩悪業の含識〈ひとたち〉は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、または権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真にその教えに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。これに反して仏徒というは名ばかりにてその実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
(3-238)

第二項 二尊の能化

(3-239)

是以釈迦牟尼仏 顕説福徳蔵 誘引群生海 阿弥陀如来本発誓願 普化諸有海。

【読方】ここをもって釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、もと誓願をおこしてあまねく諸有海を化したまう。
【字解】一。福徳蔵  『観経』に説かれたる定善、散善の諸善のこと。即ち第十九願の修諸功徳を指すのである。
【文科】上の所被の機に対して二尊の能化を示し給う。
【講義】釈迦牟尼仏、これを憐れみ給いて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説き顕わして修道者の取るべき心霊の方向を指し示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引〈さそ〉うて下された。然るに釈尊のこの権化の本を繹〈たず〉ぬれば阿弥陀如来の第十九願である。如来はこの本願を発して、普く迷いに沈める一切衆生を化導して下された。
【余義】一。この福徳蔵というは、「化巻」九 十七丁の功徳蔵と、「行巻」三 三十六丁の福智蔵と
(3-239)
に対する語であって、ついでの如く、要門、真門、弘願の三法を顕わすものである。福徳蔵というは散善三福の功徳に名づけ、要門はこの三福を往生の因とするから、要門法の名となし、功徳蔵というは、真門の行者が念仏の功徳を募って往生の業因に擬するから真門法の名をなし、福智蔵というは弘願一乗の法は福徳智慧二荘厳を円備しているから弘願法に名づけたものである。
 茲に一つの難問がある。要門の法は散善三福ばかりではない。定善もある。定善は観法であるから、智慧があることはいう迄もない。しからば要門法、亦福智蔵と名づくべきではないかというのである。
 然し定善はもとより観察であり智であるはいうまでもないが、その智も未だ無漏の真智でないから、福に摂して福徳蔵というたものである。

第三項 第十九願名

(3-240)

既而有悲願。 名修諸功徳之願

【読方】既にして悲願います。諸修功徳の願となづく。
(3-240)
【文科】第十九願名をあげたまう。
【講義】かくの如くその悲願は既に建立せられて修諸功徳之願と名づけられてある。即ち善根功徳の何たるかを知らないものの為に、善根功徳を修めることを教えて下されたのである。

第四項 異名布列

 復名臨終現前之願 復名現前導生之願 復名来迎引接之願 亦可名至心発願之願也。

【読方】また臨終現前の願となづく。また現前導生の願となづく。また来迎引接の願となづく。また至心発願の願となづくべきなり。
【文科】第十九願の異名列挙。
【講義】復この本願を臨終現前之願と名づける。即ち諸の功徳を修して極楽へ生まれんと願う者の臨終の時に、阿弥陀如来がこの人の目の前に現れて来迎し給う本願であるからである。復、臨終の時に現れて極楽へ導き給う願であるから現前導生之願とも名づける。復、
(3-241)
臨終の時に来迎して極楽へ引接〈みちび〉き給う願であるから来迎引接之願とも名づける。上の三名は来迎引接の方面から名づけたものであるが、かような来迎引接を受ける行者は、心を一つにし、真実にして、諸功徳を浄土に回向し、これによりて往生せんことを願わなければならぬことを誓うた本願であるから至心発願之願とも名づけられるのである。
【余義】一。茲に第十九願の願名が五つ出してある。この中、前四者は諸師共許の願名、後の一名は我が聖人御己証の願名である。修諸功徳というは、義寂、法位、憬興の諸師の用いたるものにて、臨終現前の願は静然、現前導生の願は智光、御廟、来迎引接の願は真源、恵心、了恵の諸師の用いたる願名である。
 この五願名布列の次第は、この第十九願に行と信と益の三つの願事があり、修得功徳は因行について名を立て、次に三名は果益について立名し、最後の至心発願は信について立命したものである。臨終現前と現前導生と来迎引接とは全く同じい意味の願名で、前二者は願文の上から名を立て、後の来迎引接は『観経』九品段の説相から名づけたものである。至心発願の願名はこの五名の中にて最も大切なるものにて、前に述べた如く、第十八至心信楽の願、第二十至心回向の願に対して、発願の二字を以て、第十九願の特色をはっき
(3-242)
りと浮き出させているのである。修所功徳の功徳は三学六度の聖道門の因行であるが、これが浄土の因行となるは信の発願の力に依るのである。それで我が聖人は「化巻」始めにこの五願名の中、至心発願之願名を標挙し給うたのである。

第二節 教文証

(3-243)

第一項 因願門
第一科 『大無量寿経』の文

是以 『大経』願言、
設我得仏 十方衆生 発菩提心 修諸功徳 至心発願欲生我国 臨寿終時 仮令不与 大衆囲遶現其人前者 不取正覚。

【読方】ここをもって大経の願にのたまわく。たといわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心をおこし、もろもろの功徳を修し、心を至し、発願して、我が国に生ぜんとおもわん。寿終のときに臨んで、たとい大衆と囲遶して、その人のまえに現ぜずといわば正覚をとらじ。
【文科】正依大経の第十九願を挙ぐ。
(3-243)
【講義】いまその本願の文を挙げれば、『大経』第十九願にいわく、もし我仏となるであろう時、十方の一切の衆生が、証〈さと〉りを開きたいという無上道心を起こし、この道心を成就せしめんが為に、諸の功徳を修め、かくして至心〈まごころ〉をもって願いを発し、修めた功徳をもって我が浄土に生まれんと欲〈おも〉うならば、その人を囲遶〈めぐ〉り、その人の前に現れて来迎せないならば、我は正覚を開かないであろう。
【余義】一。この仮令の二字について、三種の解釈がある。一は『望西疏』三に出づる「仮令等者不現非実故云仮令(仮令等とは現ぜずば実にあらざるが故に仮令という)」の義で、必ずという意味を持たせたものである。若不生者と同じく誓の語となるのである。二は『六要』八 八丁に出づる仮益を示す語と見る義である。摂取は実益、来迎は仮益。来迎は弥陀の実意に非ずと雖も、諸行の機も洩らしたくないという大悲心から仮益を施し給うが来迎なりと見るのである。『六要』九 十三丁「仏身の光明は余の雑業行者を照らさざるなり。仮令の誓願良に由有る哉」という祖文に依り、願意から仮名の二字を見て行くのである。三は不定の義で『口伝鈔』下 二十三丁「願としてかならず迎接あらんことおおきに不定なり。されば第十九の願文にも現其人前者のうえに仮令不
(3-244)
与とおかれたり。仮令の二字をばたといとよむべきなり。たといというはあらましなり‥‥‥不定のあいだ仮令の二字をおかる。さもありぬべくばといえるこころるなり」とあり。来迎の益の不定なることを示して仮令の二字を置き給うたものと見る義である。今この三義を評するに、第一義の決定の義は文として一番穏当である。然し我が祖の仮令の誓願と仰せられ、存師が仮益を顕わす仮令の二字なりと見らるる如きは、文に執して解釈するのではなく、文意に依って文字を左右せらるるので、徹底的な意味はこれらの解釈の上に見らるるのである。不定の解釈も同じく願意から見た当然の義である。
 二。扨、臨終来迎はかくして第十九願に誓われてある。第十八願、第二十願には誓われていない。要真弘の三願の中、浄土の初門にこのあらわな得益の誓われている所で、他力引接の御思召が明らかに伺わるる様である。
 三。それならば、第十八願弘願他力の念仏行者には来迎の益はないか。善導元祖両師は真仮二願の分別なしに、第十九願の来迎を以て、直ちに本願念仏の利益としていられるではないか。然るに何故に浄土真宗に於いては、特別に際立てて不来迎を云々するのであるか。
 この問題は一応尤もの様であるが、然し、浄土真宗に於いて不来迎というは、来迎がない
(3-245)
という義ではなく、『御文』の所謂「来迎までもなきなり」の意で、念仏の行者には、常に弥陀如来の摂取護念の益があり、それがひきつづいて臨終に及ぶので、特別に臨終の益を云為するまでもないと云う意味なのである。善導大師、法然上人の来迎を仰せられしは、一面衆生誘引の意を含み、一面常照護念の引き延ばしと見給うのである。であるから法然上人は『漢語灯録』二 三十五には、近縁の中に平生と臨終とを分ち、「二に平生とは、もし人、仏を念ずれば阿弥陀仏無数化身化観世音化大勢至、常に来たって、この行人の所に至り、念仏の草庵隘〈せま〉しと雖も、而も恒沙の聖衆雲の如く集まる」と宣うてある。平生既に弥陀如来及び化仏菩薩の常照護念を受けているのであるから、臨終の夕べに来迎を期するという危ない芸当は、他力の行者には要がない。『末灯鈔』の初丁の「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆえに、臨終ということは諸行往生の人にいうべし。いまだ真実の信心をえざるがゆえなり、‥‥‥真実信心の行人は摂取不捨のゆえに正定聚のくらいに住す。このゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし‥‥‥来迎の儀式をまたず」とあるのはこの意味である。『御文』一帖目第四通の「不来迎のことも、一念発起住正定聚と沙汰せられそうろうときは、さらに来迎を期するなんどもうすこともなきなり。そのゆえは来迎を期するなんどもうすことは諸行
(3-246)
の機にとりてのことなり。真実信心の行者は、一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあづかるときは来迎までもなきなり」とはこれを相承して宣うたものである。『一念多念証文』初丁に、善導大師の「恒願一切臨終時、勝縁勝境悉現前(恒に願わくは一切臨終の時、勝縁・勝境、悉く現前)」を釈し、臨終時をいのちのおわらんときまでと解釈し給うたのも、この意味から来ているのである。『尊号真像銘文』末四丁の「またまことに尋常のときより信なからん人は日頃の称念の功により最後臨終のとき始めて善知識の勧めによりて信心を得んとき願力に摂して往生を得るものあるべしとなり。臨終の来迎をまつものはかくのごとくなるべし」とあるは、臨終に信を開く人について宣うものにて、これまた信の一念に摂取不捨の益を得、来迎までもなきことを示し給うものである。これを要するに、真実の不来迎というは、来迎なくして出掛けるという義に非ずして、常照護念の益が臨終まで往生の大益を得るものにて、この外に更に来迎を要せぬという意味である。この真境に入りて始めて現在の一念に真に安住しうるのである。

第二科 『悲華経』の文

(3-247)

『悲華経』大施品言、
願我成阿耨多羅三藐三菩提已 其余無量無辺阿僧祇諸仏世界所有衆生 若発阿耨多羅三藐三菩提心 修諸善根 欲生我界者 臨終之時我当与大衆囲繞 現其人前其人見我即於我前得心歓喜 以見我故離諸障閡 即便捨身来生我界。{已上}

【読方】悲華経の大施品にのたまわく。願わくばわれ阿耨多羅三藐三菩提をなりおわらんに、その余の無量無辺阿僧祇の諸仏世界の所有の衆生、もし阿耨多羅三藐三菩提心をおこし、もろもろの善根を修して、わが界に生ぜんとおもわんもの、臨終のとき、われまさに大衆と囲遶してその人のまえに現ずべし。その人、我を見て、すなわち我が前にして心に歓喜をえん。我を見るを以ての故に、もろもろの障碍を離れて、すなわち身をすてて我が界に来生せしめん。已上
【字解】一。悲華経  梵語(Karunapundarika-Sutra)一巻。北凉の世、中印度の沙門曇無讖の訳。転法輪品、陀羅尼品、大施品、諸菩薩本授記品、壇波羅密品、入定三昧門品の六品より成る。
【文科】正依の助顕として『悲華経』の類門を引き給う。
【講義】『悲華経』の大施品には下の如く説いてある。願わくば我無上道心〈わがさとり〉を開くであろう時には、あらゆる無量無辺阿僧祇〈かずかぎりない〉諸仏世界の所有〈あらゆる〉衆生が、無上道心を発して、諸の善根功
(3-248)
徳を修め、我が極楽世界に往生〈うま〉れたいと欲うならば、その人の臨終の時に、我は観音勢至等の大衆とともに、その人を囲遶〈めぐ〉り、その人の眼前に現れるであろう。さすればその人が我来迎するを見て、我が前に歓喜の心を起こすであろう。我を見奉るが為に、諸の悪業煩悩の障碍を離れ、命終わると同時に穢身を捨てて我が極楽世界に来り生まれるであろう。

第二項 成就文指示
此願成就文者 即三輩文是也 『観経』定散九品之文是也。

【読方】この願成就の文はすなわち三輩の文これなり。観経の定散九品の文これなり。
【文科】成就文をあげず、唯それを指示し給う。
【講義】上に挙げた第十九願の成就の文は『大経』下巻の初めに説いてある三輩往生の文がそれである。『観経』で云えば定善十三観、散善三観の文がこれに当たる。即ち『観経』一部全体に亘りて顕より見れば、この第十九願成就の文に当るのである。

第三項 化身土の証文

(3-249)

第一科 『大経』道樹講堂の文

又『大経』言、
又無量寿仏其道場樹 高四百万里 其本周囲五十由旬 枝葉四布二十万里 一切衆宝自然合成 以月光摩尼・持海輪宝衆宝之王 而荘厳之。{乃至}
阿難 若彼国人天 見此樹者得三法忍。
一者音響忍 二者柔順忍 三者無生法忍 此皆無量寿仏威神力故 本願力故 満足願故 明了願故 堅固願故 究竟願故。{乃至}
又講堂・精舎・宮殿・楼観 皆七宝荘厳自然化成。復以真珠・明月摩尼衆宝 以為交露 覆蓋其上。内外左右 有諸浴池。十由旬 或二十・三十乃至百千由旬。縦広深浅各皆一等。八功徳水湛然盈満。清浄香潔味如甘露。

【読方】また大経にのたまわく、無量寿仏のその道場樹は高四百万里なり。そのもと周囲五十由旬なり。枝葉四〈よも〉に布きて二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼、持海輪宝、衆宝の王たるをもってしかもこれを荘厳せり。乃至 阿難、もし彼国の人天、この樹を見るものは三法忍をえん、一には音響忍、二には柔順忍、三には無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆえに、本願力のゆえに、満足願のゆえに、明了願のゆ
(3-250)
えに、堅固願のゆえに、究竟願のゆえなり。乃至 また講堂、精舎、宮殿、楼観みな七宝をもって荘厳し、自然に化成せり。また真珠、明月摩尼、衆宝をもって交露とす。その上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。十由旬あるいは二十三十乃至百千由旬なり。縦広深浅おのおのみな一等なり。八功徳水湛然として盈満せり。清浄香潔にしてあじわい甘露のごとし。
【字解】一。月光摩尼  月光と名づくる摩尼宝珠のこと。摩尼は梵語(Mani)、無垢、離垢、如意珠などと訳す。龍王の脳中よりいで、衣服、飲食、財宝等を自由にいだすという。
 二。持海輪宝  梵名、娑迦羅陀羅斫迦羅々多那(Sagaradharacakra-ratna)。この宝のいかなるものかは古来知れ難しとする所である。一説に『大法矩陀羅尼経』に説ける威華宝のことであろうという。その説によれば、世界の最下に風輪あり、その上に火輪あり、その火輪の上に一威華宝ありて一摩尼宝の上に安住し、この二宝の威徳によりて火輪をして大地、大鉄囲山、須弥山及び大海水を焼尽〈やきつく〉さしめないのであるという。かように能く海水を持つ徳があるから、威華宝のことを、持海輪宝と名づけるのであろうというのである。
 三。三法忍  または三忍ともいう。忍は忍可決定。確実に悟ること。『浄影疏』には音響忍は初地より三地、柔順忍は四地より六地、無生忍は十地以上としてある。その他所説不同である。兎に角、音響忍は仏菩薩の音声に順って得る忍であり、柔順忍は諸法平等の理を観じ、それに順じて証る忍、無生法忍は諸法平等の理を体達することである。かような根機に応じて、忍に浅深が分かれる。これが階次ある化土の相〈すがた〉である。
【文科】『大経』上巻の文によりて化土の相を示し給う。
(3-251)
【講義】また『大無量寿経』上巻に曰く、また無量寿仏の成道せられた道場樹は、高さ四百万里である。その樹の根本の周囲は五十由旬もあり。枝葉は四方に布き拡がること二十万里に及ぶ。あらゆる衆〈おお〉くの宝が自然に集まりて天巧の荘厳を極めておる。衆宝の王たる月光珠、摩尼珠、持海輪宝のような宝玉がこの道場樹を鏤〈ちりば〉めておる 已上。
 阿難よ、もし極楽国土に生まれてある人間天上の人達が、この道場樹を見るならば、三法忍という三種の証りを得るであろう。一は音響忍、即ち仏菩薩の音声によりてうる忍。二は柔順忍、諸法平等を観じてうる忍。三は無生法忍、諸法平等の理に体達してうる忍である。
 これ皆無量寿仏の果上の威神力の致す所である。この威神力は因位の本願力と相離れないから、また本願力の致す所というべきである。この本願力の内容を開けば、あらゆる願という願を欠け目なく具えているから満足願である。またそれが明瞭していて虚偽を離れてあるから明了願といわれる。また如何なる煩悩と悪魔も障りとならぬ意味に於いて堅固願である。またこの願は永劫の苦難にも逡巡〈たじろ〉がず、飽くまでも「我行精進忍終不悔(我が行は精進にして忍んでついに悔いず)」とやりおおせてあるから究竟願である。
 かように道場樹の功徳は、如来の因果力の致す所である。乃至
(3-252)
 また講堂、精舎、宮殿、楼観〈うてな〉等は皆七宝をもって荘厳り立て、自然の天巧をもって鏤〈ちりば〉めてある。復、真珠、明月珠、摩尼珠等の衆の宝玉をもって交露(玉簾)を造り、それを幔幕のように其等の建物の上に張って覆いとしてある。宮殿、楼観の内外や左右に多くの浴池がある。十由旬の大きさのもの、または二十由旬、三十由旬、乃至百千由旬の大きさなものがある。縦や広さや深さ浅さが、その大いさに等しくし方形をなしておる。その池には八功徳水が湛えられて岸に満ち溢れ、清浄にして底まで透き徹りて、まるで玉を溶かしたよう、香よくして味わいは甘露のようである。

第二科 『大経』『如来会』の疑城胎宮の文

又言、
其胎生者 所処宮殿 或百由旬 或五百由旬。
各於其中受諸快楽 如忉利天上。亦皆自然。
爾時慈氏菩薩 白仏言世尊。何因何縁彼国人民胎生化生。
仏告慈氏 若有衆生 以疑惑心修諸功徳 願生彼国。不了 仏智 不思議智 不可称智 大乗広智 無等無倫最上勝智 於此諸智疑惑不信。然猶信罪福 修習善本 願生其国。
此諸衆生 生彼宮殿 寿五百歳 常不見仏 不聞経法 不見菩薩声聞聖衆。是故彼国土謂之胎生。{乃至}
弥勒当知 彼化生者智慧勝故 其胎生者 皆無智慧。{乃至}
仏告弥勒 譬如転輪聖王。有七宝牢獄。種種荘厳張設 牀帳懸諸繒幡。
若諸小王子 得罪於王 輒内彼獄中繋以金鎖。{乃至}
仏告弥勒 此諸衆生 亦復如是。以疑惑仏智故 生彼胎宮。{乃至}
若此衆生 識其本罪 深自悔責求離彼処。{乃至}
弥勒当知 其有菩薩生疑惑者 為失大利。{已上抄出}

【読方】またいわく、その胎生のものは、処するところの宮殿、あるいは百由旬あるいは五百由旬なり。各その中にしてもろもろの快楽をうくること忉利天上のごとし。またみな自然なり。そのときに慈氏菩薩、仏にもうしてもうさく、世尊、なんの因なんの縁ありてか、彼国の人民、胎生化生なると。仏、慈氏につげたまわく、もし衆生ありて疑惑の心をもって、もろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。仏智、不思議智、不可称智、大乗広智、無等無倫最上勝智を了せずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなお罪福を信じて善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生じていのち五百歳、つねに仏をみたてまつらず、経法をきかず、菩薩声聞聖衆をみず。このゆえにかの国土をばこれを胎生という。乃至 弥勒、まさに知るべし。かの化生の者は智慧すぐれたるがゆえに、その胎生の者はみな智慧なし。乃至 仏、弥勒につげたまわく、たとえば転輪聖王の七宝の牢獄あらんがごとし。種々に荘厳し、牀帳を張設し、も
(3-254)
ろもろの繒幡をかけたらん。もしもろもろの小王子、罪を王に得たらんに輙ちかの獄の中に囚われて、繋ぐに金鎖をもってせん。乃至 仏、弥勒につげたまわく、このもろもろの衆生またまた是のごとし。仏智を疑惑するをもっての故に、かの胎宮にうまれん。乃至 もしこの衆生その本の罪を識りて、深く自ら悔責して、かの処を離るることを求めん。乃至 弥勒まさに知るべし。それ菩薩にありて疑惑を生ぜば大利を失すとす。  已上抄出
【字解】一。忉利天  梵音トラーヤストリンシャーフ(Trayastrimsah)三十三天と訳す。六欲天の第二。須弥山の頂にあり、城郭八万由旬にして喜見城と名づく。帝釈ここに住す。四方に峰あり広さ各五百由旬、各に八天あり、喜見城を加えて三十三天となる。
 二。大乗広智  仏の智慧のこと。小乗のように一部でなく、広く一切の法門を智〈さと〉り尽くす故に、大乗広智という。これを妙観察智であるといい、または『平等覚経』平等性智であるともいう。
 三。罪福  悪業悪果を罪といい、善業善果を福という。悪業は必ず悪果を招いて、衆生を摧き破るから罪といい、善業は必ず善果を招いて、衆生を富楽ならしめるから福という。
 四。弥勒  梵音、梅恒利耶 マイトレーヤ(Maitreya)慈氏と訳す。釈尊滅後五十六億歳の後、閻浮提に下生成仏して、三会を開きて法輪を転じ、説法度生したまう仏。釈迦仏の後に此の世にいで、其処〈そこ〉を補うべき仏であるから補処の弥勒等覚補処の菩薩ともいう。(『第二巻』五二三頁に委し)
 五。転輪聖王  梵名、斫迦羅伐辣底曷羅闍 チャクラワルチラージャ(Cakravarti-raja)。転輪聖王、転輪聖帝、略して輪王という。須弥四州を統御する王である。王位に即く時に感得する輪宝の種別によりて、金輪王(須弥四州を領す)、銀輪
(3-355)
王(東西南の三州を領す)、銅輪王(東南二州を領す)、鉄輪王(南閻浮提を領す)の四別あり。輪宝を転じて山を砕き谷を埋め、及び一切の有情を威服する故に転輪王という。三十二相を具え、人寿無量歳より八万歳の時までにいで、その後には出世しないという。
 六。七宝牢獄  金、銀、琉璃、頗璃、硨渠、瑪瑙、金剛の七宝にて造りたる牢獄。
 七。牀帳  牀は寝床、帳はその寝床を覆う為に張る帳〈とばり〉。
 八。繒幡  絹に縫い取りした幡〈はた〉。
【文科】『大経』疑城胎宮の文によりて化土の相〈すがた〉を示し給う。
【講義】また『大経』下巻に曰く、浄土に往生する中に胎生というものがある。これは「正覚華化生」と異なり、その居る所の宮殿は百由旬のものもあれば、また五百由旬のものもある。何れにしてもその宮殿の中にありて、様々の快楽を受けることは、忉利天界のように極めて自然である。
 かように釈迦牟尼仏が御説きになると、弥勒菩薩が御問い申していうには、世尊よ、如何なる原因と助縁とありて、彼の極楽国土に生まれる人達の中に、胎生というものがありまするか。仏、弥勒菩薩に仰せらるるようは、それは衆生が娑婆界にある時、疑惑の心をもちながら
(3-256)
善い果報を求めるという功利的の考えから、様々の善根功徳を修め、これを因として、彼の極楽世界に往生しようと願う為である。即ち真実に仏智を信じておらないのである。抑その仏智は凡夫聖者の智慧の及ぶ所でない不可思議の智慧、称〈はか〉り知ることの出来ぬ不可称智、大乗の見解をもって、あらゆる俗諦万差の事柄を知り給う大乗広智、等しいものなく、倫〈くら〉ぶるものなき最上の勝智をいう。その人はこれらの諸智を解了〈さと〉らず、これ等の広大なる仏智を疑うて信ぜず、唯小さな凡夫の見解で因果応報を信じ、自力の小善を修して小果を獲んとし、または只管〈ひたすら〉自力の善根として名号を称えて、彼の極楽へ往生せんと願求するのである。かように自力の計らいを捨て仏智に溶け込むという自然法爾の道理を疑っておる衆生が、彼の極楽浄土の宮殿に生まれて、五百歳の間真仏を見奉らず、即ち真仏と一体になることが出来ず、真の経法を聞かず、真の菩薩声聞の方々をも見ず、唯快楽に耽〈ふけ〉りておるばかりである。かように自然の大活動、大智慧を体得せず、只恍惚として母胎に処る嬰児のような生活をしておる為に、彼の人々の生まれる国土を胎生と名づけるのである。乃至
 弥勒よ、これらの胎生の人々に反して、彼の不思議の仏智を信じて、正覚の華より化生した真実報土の往生者は、弥陀の勝れたる大智慧を我有〈わがもの〉にしているのであるが、その胎生の人
(3-257)
達は皆如来の智慧をもってはおらぬのである。乃至
 仏、弥勒菩薩に仰せられるよう、譬えば転輪聖王は七宝の牢獄をもっておる。種々に荘厳〈かざりた〉てて光り輝く牀〈とこ〉や帳〈とばり〉を帳設け、また様々の縫い取りをした幡〈はた〉を懸けて置くが、もし王子達が禁を破るようなことがあると、王は直ちに捕えてこの七宝の獄に禁固し、金の鎖をもって繋ぐのである。乃至
 仏、弥勒菩薩に告げ給うよう、あの胎生の衆生も亦この輪王の王子のようなもので、仏智を疑惑〈うたが〉い奉ったことによりて、自業自得の道理で、極楽界中の胎宮に生まれ五百歳の間、精神的牢獄に禁固せられるのである。乃至 さればもしこの胎生の衆生が、その根本の罪が疑惑にあることを知り、深く自ら悔いて我が身の不明を責めるならば、その牢獄から免るることを求めるに至るであろう。乃至
 それ故に弥勒よ、道を修める菩薩にして、もし疑惑を起こすものがあるならば、その人は大いなる利益を失うことを知らねばならぬ。

『如来会』言
仏告弥勒 若有衆生 随於疑悔 積集善根 希求 仏智・普徧智・不思議智・無等智・威徳智・広大智。
於自善根 不能生信。
以此因縁 於五百歳住宮殿中。{乃至}
阿逸多 汝観殊勝智者 彼因広慧力故 受彼化生 於導(蓮)華中 結跏趺座。
汝観下劣之輩{乃至}不能修習 諸功徳。故無因 奉事無量寿仏。
是諸人等 皆為昔縁疑悔 所致。{乃至}
仏告弥勒 如是如是 若有随於疑悔 種諸善根 希求仏智乃至広大智。
於自善根 不能生信。由聞仏名 起信心故 雖生彼国 於蓮華中 不得出現。
彼等衆生 処華胎中 猶如園苑宮殿之想。{抄要}

【読方】如来会にのたまわく、仏、弥勒に告げたまわく。もし衆生ありて疑悔にしたがいて善根を積集して、仏智、普遍智、不思議智、無等智、威徳智、広大智を希求せん。自らの善根において信を生ずること能わず、この因縁をもって五百歳において宮殿のなかに住せん。乃至 阿逸多、なんじ殊勝智の者を観ずるに、彼は広慧の力によるが故に、かの化生を蓮華の中に受けて結跏趺坐せん。汝、下劣の輩を観ずるに。乃至 もろもろの功徳を修習すること能わず、かるがゆえに因をなくして無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人達はみな昔、疑悔に縁りて致すところなればなり。乃至 仏、弥勒につげたまわく、是の如く、是の如し。もし疑悔にしたがいてもろもろの善根を種えて、仏智乃至広大智を希求することあらん。自らの善根において信を生ずることあたわず。仏の名を聞くによりて、信心を起こすがゆえに、かの国に生ずといえども、蓮華の中にして出現することを得ず。かれらの
(3-259)
衆生華胎のなかに処すること、なおし園苑宮殿の想いのごとし。要を抄す
【字解】一。阿逸多  弥勒の姓。梵語アヂタ(Ajita)。『弥勒上生経』具には『仏説弥勒菩薩上生兜率天経』には、弥勒、姓は阿逸多、南印度の婆羅門であったが、兜率に生まれて内院に説法しつつあり云々とあり。
 二。結跏趺坐  全跏趺坐、本跏趺坐ともいう。左の足を右の股の上におき、右の足を左の股の上におく坐相。
 三。下劣の輩  仏智を疑惑する人、即ち自力修善の機類を指す。
【文科】『如来会』の文によりて化土の相を示し給う。
【講義】『無量寿如来会』に言わく、仏、弥勒菩薩に告げ給うよう、もし衆生にして疑悔の煩悩に堕ち込みながらその疑いの根を切らずして、自力の善根功徳を積み集め、そして仏智即ち一切に遍満する普遍智、不可思議の仏智、等〈ならび〉なき智慧、威神極みなき智慧、広く俗諦を知り給う広大智を得んことを求め、または自ら善本徳本の名号を信ずることが出来ないならば、この仏智疑惑の因縁によりて、五百歳の間、宮殿の中に閉じ込められるであろう。乃至
 弥勒よ、汝はあの信心の因によりて生まれたる殊勝の仏智を我が智慧とせる人々を見るであろうが、彼等は如来の広大なる智慧力によりて、正覚の華の中に生まれ、その中に結跏趺坐
(3-260)
しているであろう。然るに汝はまた下劣の輩即ち胎生の人達を観るであろう。乃至 彼等は疑惑の心をもった為に諸の功徳を修めても、それが真の功徳とならなかった。即ち諸の功徳を修めることが出来なかったのである。かように信ずるという正因がなくして、無量寿仏に奉事〈かしず〉き奉ったのである。これらの人達は、皆宿世に於いて仏智を疑惑した罪によりて、かような精神的牢獄に入るに至ったのである。乃至
 仏、弥勒菩薩に告げ給うよう、実にこの通りである。もし疑惑に堕ち込みながら、諸の自力の善根を積んで、それをもって不可思の仏智、広大なる仏智を得んことを求めるのは、天に向かって梯子を掛けるようなものである。この人々はまた善根の本たる所の名号を称えても、その名号の真意義を信ずることが出来ず、唯その仏の名号を聞くことによりて、自力の信心を起こす為に、彼の極楽浄土に往生しても、而も如来の正覚の蓮華の中に出現〈あらわ〉れることが出来ず、華の中に包まれて、恰も母胎に処するが如く、恢廓広大なる楽土を知らず只華の中にありて、園苑や宮殿の中におる心地しているのである。乃至

第三科 『大経』『如来会』の不可称計の文

『大経』言
諸少行菩薩 及修習少功徳者 不可称計。皆当往生。
又言
況余菩薩由少善根 生彼国者不可称計。{已上}

【読方】大経にのたまわく、もろもろの小行の菩薩、および少功徳を修習するもの称計すべからず。みなまさに往生すべし。またいわく、いわんや余の菩薩、少善根によりて彼の国に生ずるも称計すべからず。已上
【字解】小行菩薩  通常の解釈に依れば、十信退位の菩薩を指すのであるが、ここでは諸行修善を修して化土に生まるる行者を指す。
【文科】『大経』『如来会』の文によりて化土の往生者を示し給う。
【講義】『大経』下巻に言〈のたま〉わく、自力の善根を修める修道者、及び自力の功徳を修習〈おさ〉める人達は、挙げて数えることが出来ない程多いが、これらの人々も弥陀の浄土へ往生するに相違ない。これ即ち不信疑惑の往生にして、化土胎生の人達である。
 また『如来会』に仰せらるるよう、況やその外の修道者にして、自力の少善根をもって彼の極楽浄土へ往生する者は挙げて称計〈かぞえ〉ることは出来ない程多い。これらは皆不了仏智の輩にして、宮殿に生まれるのである。

第三節 釈文証

(3-262)

第一項 善導大師の釈文

光明寺釈云
含華未出 或生辺界 或堕宮胎。{已上}

【読方】光明寺の釈にのたまわく、華に含まれて未だ出でず。あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕す。已上
【文科】「定善義」の文によりて化土の往生を示し給う。
【講義】光明寺の善導大師の「定善義」の釈に云わく、或る者は浄土に生まれて華に含まれて未だその中を出づることが出来ないと説かれ、或いはまた、或る者は浄土の辺鄙辺地懈慢界に生まると云い、また或る者は胎中の如き宮殿なる疑城胎宮に生まると貶めて説いてある。

第二項 憬興師の釈文

憬興師云
由疑仏智 雖生彼国 而在辺地 不被聖化事。若胎生宜之重捨。{已上}

【読方】憬興師のいわく、仏智を疑うによりて彼の国に生まれて、しかも辺地にありといえども、聖化の事を被らず。もし胎生せばよろしくこれを重く捨つべし。已上
【文科】『述文讃』の文によりて疑心自力の往生を説きてこれを誡誨し給う。
(3-263)
【講義】憬興師の著『述文讃』下に云わく、不思議の仏智を疑い奉った罪によりて、彼の弥陀の浄土に生まれても、辺地に貶められて、自由無障碍なる利他の大行を預かることが出来ない。それであるからもし胎生するならば、深く自ら省察して、疑惑を捨つるが宜しい。

第三項 源信和尚の釈文
第一科 引文

首楞厳院『要集』引 感禅師釈云
問 『菩薩処胎経』第二説 西方去此閻浮提 十二億那由他有懈界。{乃至}
発意衆生 欲生阿弥陀仏国者 皆深着懈慢国土 不能前進生阿弥陀仏国。億千万衆時有一人 能生阿弥陀仏国。云云。
以此経准難 可得生。
答。『群疑論』引善導和尚前文 而釈此難 又自助成云、
此『経』下文言 何以故 皆由懈慢 執心不牢固。是知雑修之者 為執心不牢之人。故生懈慢国也。
若不雑修 専行此業 此即執心牢固 定生極楽国。{乃至}
又報浄土生者 極少。化浄土中生者 不少。
故『経』別説 実不相違也。{已上略抄}

【読方】首楞厳院の要集に、感禅師の釈をひきていわく。問う、菩薩処胎経の第二にとかく、西方この閻浮提をさること十二億那由他に懈慢界あり。乃至 意をおこせる衆生、阿弥陀仏の国に生ぜんと欲うもの、皆ふかく懈慢国土に著して、前〈すす〉んで阿弥陀仏の国に生ずることあたわず。億千万衆、ときに一人ありてよく阿弥陀仏の国に生ずと云云。この経をもって准難するに、生ずることを得べきや。答、群疑論に善導和尚のさきの文をひきて、しかもこの難を釈してまたみずから助成していわく、この経の下の文にいわく、何を以ての故に、みな懈慢によりて執心牢固ならずと。ここにしんぬ、雑修のものは執心不牢の人となす。ゆえに懈慢国に生ず。もし雑修せずしてもっぱらこの業を行ぜば、これすなわち執心牢固にして、さだめて極楽に生ぜん。乃至 また報の浄土に生ずるものは極めて少なし、化の浄土に生ずるものは少からず。かるがゆえに経の別説、実に相違せざるなり。已上略抄
【字解】一。首楞厳院  比叡山横川谷の中堂。天長六年、慈覚大師の草創。源信和尚がここに居られしより、今は源信和尚の別名とす。
 二。感禅師釈  懐感禅師の釈、即ち『釈浄土群疑論』七巻をいう。禅師は紀元七世紀の人。支那長安、千福寺に住せられた。初めは法相宗であったが、後、善導大師に謁して浄土の要義に通入し、常に阿弥陀仏を念ぜられた。寂年かく。
【文科】『要集』の文によりて懈慢界を顕示し給う。
(3-265)
【講義】横川の首楞厳院の主、源信和尚の『往生要集』下末に、懐感禅師の『群疑論』四の釈を引いて云うには、問う、『菩薩処胎経』第二に、この閻浮提を西の方へ去ること十二億那由他の仏国を過ぎて懈慢界がある。乃至 初め菩提心を発して阿弥陀仏の浄土へ往生せんと欲うた者が、皆この懈慢国の快楽に耽溺〈ふけ〉って、弥陀の浄土へ前進むことが出来ない。億千万という多くの人の中に僅に一人ありて能く阿弥陀仏の極楽浄土に生まれると説いてある。
 今この経説に依りて見るに、弥陀の浄土へ往生することは容易のことではない。この難問をどうして解釈することが出来るか。
 答う、『群疑論』にこの文(要集)の前に引いた善導和尚の『往生礼讃』前序の文、即ち専修を捨てて雑業を修むるものは、本願に相応せないから、百人の中に稀に一二の往生である等を引いて、その難問を解釈し、また感師自ら善導の釈を助釈して云うには、この『菩薩処胎経』の次下の文には「何故に多くの願生者がこの懈慢界に退堕するのかと云えば、皆が怠惰にして心に堅く執るべき筈の信心が堅固でないからである。それであるから雑修の者というのは、心に確信なく牢固〈しっかり〉せない怠惰〈なまけもの〉であることが知られる。それ故にこの懈慢界に滞って
(3-266)
弥陀の浄土に往生することが出来ないのである。されば余の行業に心を移す所の雑修を捨てて、専らこの浄土の行業を修めるならば、即ちこれ信心堅固の人で、この人ならば必ず極楽浄土に往生するに相違ないのである」。乃至 また『同論』に真実報土に往生する人は非常に少なく、化土に往生する人は少なくないのである。故に『処胎経』に億千万の衆中僅かに一人の往生を説いてあっても、別に三経の経説と衝突はせないのである。

第二科 私釈
爾者夫 按楞厳和尚解義 念仏証拠門中 第十八願者 顕開 別願中之別願。
『観経』定散諸機者 勧励 極重悪人唯称弥陀也。
濁世道俗 善自思量己能也。応知。

【読方】しかれば楞厳の和尚の解義を按ずるに、念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまえり。観経の定散の諸機は、極重悪人唯称弥陀と勧励したまえり。濁世の道俗よく自らおのれが能を思量せよ。しるべし。
【文科】源信和尚の文によりて方便を捨てて真実に入れと私釈を施し給う一段である。
【講義】それであるから彼の楞厳院の源信和尚の解義〈ときあかし〉を考えて見るに、『往生要集』下本
(3-267)
念仏証拠門の中に、弥陀の第十八願は別願中の別願であるといわれてある。それは弥陀の四十八願は諸仏の通途の本願に比較して特殊の本願であるが、その四十八願の中にも第十八願は画龍の点睛ともいうべきものにて、この願が正しく弥陀の本意を円現〈あら〉わしておるから別願中の別願であると、この願の内容を顕開されたことである。
 また『観経』に広く説かれてある定善散善の機類は、抑も何を意味するのであるかと云えば、定善を修めることも出来ず、散善を行ずることも出来ずして、而も自らこれらの善を修するに価する者であると思い謬っている極悪深重の衆生をして、これらの定散二善の試金石によりて、その無能無知を自覚せしめ、唯本願を信じ名号を称えしめんと勧励〈すすめはげ〉まして下されたものに外ならぬことである。これらの解義によりても、彼の善導大師の仰せられたように、濁世に生まれた出家の人も在家の人も、真面目に各自の能力を反省せられよと云うことを、よくよく考えて見なければならぬ。
【余義】この私釈段の「爾者」というは、何処を承けて来たものかというについて古来異説があるが、「化巻」の初めから以下をずっと承けて来たものと見るのが至当である。我が聖人の御思召しを伺うに、上来説き明かし来れるが如く、弥陀如来に方便の第十九願あり、釈迦如
(3-268)
来は『観経』に定散両門を開いて、諸機の仮益し給うたが、これ畢竟、方便誘引の教門である。横川の源信僧都も第十八願は別願中の別願であると宣うてある。また「極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽」と勧め給うて在します。されば方便要門の法に滞らず、弥陀如来の別願中の別願たる真実弘願の法に帰命して、真実報土に往生せねばならぬ。また『観経』には表に定散の諸機について、定散両善を勧めてあるけれども、実を尅すれば、すべてこれ極重の悪人である。されば弥陀の名号を称念して浄土往生を得る外はないという意である。これで「化巻」始めの「是を以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して、群生海を誘引し、阿弥陀如来、本〈もと〉誓願を発して普く諸有海を化し給う」にかっきりと当たるのである。釈迦牟尼仏福徳蔵を顕説し給うも、実は極重悪人無他方便唯称弥陀の弘願法を説かんがためであり、阿弥陀如来の誓願を発し給うも別願中の別願を以て衆生を救わんがためであるということになるのである。中間に引用せられている経文釈文はこの証明となるのである。
 別願中の別願の文は、『往生要集』下本二十一丁 念仏証拠門十文の中第三文である。別願中の別願という意味は無論、諸仏には総願別願というがあり、四十八願は弥陀如来の別願で
(3-269)
あるが、第十八願はその別願中の別願ということである。六要鈔主はこの外に、諸善万行の中、念仏一門を選んで取り給うは一重の別願、念仏の中に観念と称念とある中、称念を選び給うは二重の別願であると云う義を立てられた。別に差し支えある義でないから二者共に依用すべきであると思う。
 「極重悪人無他方便」の文は念仏証拠門十文の中第四文である。この文は『要集』では、観経下々品の意を述べたものとなっていて、定散の諸機に冠らすべきものではないのであるが、我が聖人がこの文を引用して、『観経』定散の諸機は極重の悪人、他の方便なければ唯弥陀を称念せねばならぬと見給うたので、茲にも聖人の醇乎たる宗教的態度を見ることが出来る。即ち聖人から見れば、下々品の念仏はすべて定散の諸機に蒙らしむべきもので、定散の機類は一往善機と云われるけれども、徹底的にいえばすべて極重の悪人であるというのである。我が聖人はいつもものの表面を見ないで、真を徹見し給うのである。定散の機というは表相〈おもてのすがた〉である仮相である。真なる相は、本願所被の極重悪人なのである。
(3-270)

第五章 問答広釈

【大意】以上化身土の略示と引文を終わったから、ここに方便化土の真意義を説示せんが為に、問答を設け、釈文を引いて、広釈せらる。
 第一節に『大』『観』両経の相違を融会せんが為に第一項第二項に亘りて隠顕の釈義を施し、第三項には広く善導師の釈文を引用してこれを証明し、更に曇鸞、道綽の祖文を引いてこれを釈成せられた。
 第二節には、進んで三経に亘りて論じ、第一項に三経隠顕、第二項に『観経』隠顕を釈し、第三項に広く機相を述べ、引文し文釈し給う。
 第三節には聖浄二門を対論し、第一項聖道門、第二第三項に亘りて浄土門を詳釈し、所行の体として横出横超を述べ、能行の相〈すがた〉として雑行、助正等を釈成せらる。
 第四節には、『大』『観』両経を結釈し、
 第五節には、三経の相違を融会せんが為に問答を設け、第一項は問、第二項はその方便相を総答し、第三項には隠顕義を別答して、細かに三科に亘りて釈成し、第四項には三経一致を結釈し給う。重さ千鈞である。

第一節 大観両経の融会

(3-271)

第一項 問
問 『大本』三心与『観経』三心 一異云何。

【読方】問、大本の三心と観経の三心と一異いかんぞ。
【文科】初めて『大』『観』両経の異同を問う。
【講義】問う、『大経』に説かれてある至心、信楽、欲生の三心と『観経』に説かれてある至誠心、深心、回向発願心の三心とは、同一であるか、または異っているのであるか。

第二項 隠顕略答
第一科 標 挙
答 依釈家之意 按『無量寿仏観経』者 有顕彰隠蜜義。

【読方】答、釈家の意によりて無量寿仏観経を按ずれば、顕彰隠密の義あり。
【文科】上の問に対して『観経』に隠顕あるを標挙せらる。
【講義】答う、『無量寿仏観経』を解釈せられた善導大師の御意見に依りて本経を考え
(3-272)
て見るに、本経には顕の義と彰隠密の義の二面の意義がある。即ち一文に表裏の二義があるのである。彰は陰から顕わすこと、隠は顕に対して文の幽意を示し、密は如来の密義のこと。三字熟して顕義に対す。即ち経文の裏面を流るること、大地を流るる水の如くに、不尽の法水を迸〈ほとばし〉らせているというのである。

第二科 隠顕釈義
言顕者 即顕定散諸善 開三輩・三心。
然二善・三福 非報土真因。
諸機三心 自利各別 而非利他一心。
如来異方便 忻慕浄土善根。
是此経之意。即是顕義也。
言彰者 彰如来弘願 演暢利他通入一心。
縁 達多・闍世悪逆 彰釈迦微笑素懐。
因 韋提別選正意 開闡弥陀大悲本願。
斯乃此経 隠彰義也。

【読方】顕というはすなわち定散諸善をあらわし。三輩三心をひらく。しかるに二善三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、しかも利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経のこころなり。すなわちこれ顕の義なり。
(3-273)
 彰というは如来の弘願をあらわし、利他通入の一心を演暢す。達多闍世の悪逆によりて、釈迦、微咲の素懐をあらわし、韋提、別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなわちこの経の隠彰の義なり。
【字解】一。三輩  『大経』下巻に説かれたる三種の往生者。上輩、中輩、下輩。これは定散諸機各別の勝劣を示すものである。この三輩の各を更に三等に分かったものが『観経』の散善九品の機類である。
【文科】広く『観経』の隠顕を釈成し給う一段。
【講義】その中、経の顕の義というは、行の方面から云えば定善散善の諸善万行を顕わしてあり、信の方面から云えば、上中下の三輩の機類に通じる自力の三心を開説してあるのがそれである。『観経』一部を表面から見れば、この自力の信行の外はない。然るに定善散善の二善、そしてその中の散善の内容たる三福九品の善根は、真実報土に往生する真因ではない。これら定散諸善を修める機類は、それぞれ根機が様々に分かれておるから、その起こす所の三心も各自の能力に応じて異なっている自力の三心であって、如来回向の絶対他力の一心でない。相対有限の信である。則ち如来が特に方便を垂れ給いて、自力修善に係わっている人々をして、浄土を欣慕せしめ給う方便の善根に過ぎないのである。されば本経一部の顕説は、他力の三心に引入せしめんが為の方便たる定散二善であることが知られるのである。
(3-274)
 経の隠彰というは、本経は『大経』と同じく阿弥陀如来の第十八願の正意を彰わし、人々をして他力回向の一心に通入せしむることを演暢〈のべあか〉されたもので、諸機各別の三心ではなくして、如来回向の一心を開説せられた経典であるというのである。
 即ち提婆達多の教団に対する反逆、阿闍世太子の父王に対する悪逆が興法の縁となりて、釈尊は始めて出世の本懐を説くべき時期至れりと満足の微笑を彰わし給い、また我が子の悪逆によりて囹圄〈ひとや〉に幽閉せられた韋提希夫人は、これが求道の動機となりて釈尊の説法を冀〈こいねが〉い奉り、遂に如来の威神力によりて、広大なる諸仏の国々の中より、特に安楽世界を選ぶに至ったことが正因となりて、弥陀如来のやるせなき大悲の本願が、本経に於いて開説せらるるに至ったのである。これが本経の隠彰の実義である。
【余義】一。かつて述べたる如く、『教行信証』六軸は『浄土三部経』の註釈書である。『三部経』の深旨を開詮して、他力本願を讃仰する書である。然らばその『三部経』は要として何を説き明かす経典であるか。
 いうまでもなく弘願一乗法を宣説するものである。それ故、我が祖は「信巻」別序に「広く三経の光沢を蒙って特に一心の華文を開く」と宣うた。「信巻」に於いて、既に充分『大経』
(3-275)
の真意を開詮し給うた我が聖人は、茲に至って、『観経』の中心思想を闡明し、自己の信仰を披瀝し給わねばならぬ。況や当「化巻」に来って、次上の結釈に於いて、第十八願を別願中の別願と讃仰し、『大経』所説の弥陀如来の真実法を示し給えることなれば、是非進んで『観経』の真意を説き給わねばならぬ。且つ『観経』は第十九願開説の経典にして、一見『大経』と法門を異にするものであるから、茲に問答を設けて、『大』『観』二経の同異如何を研尽し給うのである。
 茲に注意すべきことは、この大切な問答が、その端緒を信に開いていることである。『大経』の三信と『観経』の三心と一異如何と問題を起して、『観経』の潜在的精神を説明し、『観経』の見方を一変せしめ給うことである。この大切なる問題を信に起こし給うあたりが、最も宗教的なる所以で、我々の一番味わねばならぬ点である。「化巻」九 十六丁及び『略文類』十六丁には
  三経の大綱、顕彰隠密の義ありと雖も、信心を彰わして能入となす
と宣うた。信は宗教の眼睛で、宗教の死活に一にこの信にかかっているからである。
 扨、茲に問答を設けて『観経』の精神を研〈しら〉べられた結果はどうなったか。『観経』には
(3-276)
隠顕の二面あって、もし顕の義に依れば、定散二善三輩三心を説く教典にて、『大経』と真仮の差別をなすけれども、もし隠彰の意を開けば、弘願他力を宣説する経典にて、『大経』と全く同一であるという結論に達したのである。
 二。然らばその隠顕というはいかなることか。この隠顕の見方は誰が始めてであるか。以下このことに関する事項を少しく研究してみよう。
 隠顕の意味を了解するには、廃立という名目の意味と合わせ味わう時にはっきりするのである。
 廃立というは、一経典の中に二法を並べ説いてその一法を貶し捨て、他の一法を取り立てることである。隠顕というは、一経典に全く一法しか説いてないが、その一法が、顕面〈おもて〉には堂々と顕了に説いてあるに拘わらず、裏から返して見ると全く別種の法となっていることである。例えば「田舎は嫌だ、東京は善い」といえば廃立の説法であり、親が子供を叱る時に、「お前は悪い奴だ」という語は表面から見れば悪々しいが裏から見れば涙のこもった慈愛の語であるから隠顕の説法である。
 今経典の上で云うて見ると、『大経』の三輩段には、出家とか戒律を持つとか、寺塔
(3-277)
を建てるという諸功徳の修行と、一向専念無量寿仏の念仏とが並べ説いてある。これを元祖法然上人は、『選択集』の三輩章に、
  諸行を廃して念仏に帰せしめんがために、而も諸行を説く
とか、また、
  諸行は廃のために説く、念仏は立のために説く
とも解釈なされた。これはもとをいえば、善導大師の『観経疏』の釈相から窺って申されたのであるが、これは廃立である。
 次に隠顕の義はどうかというに、『観経』は一部全体定散二善十六観法を顕了に説いた教典であるが、而もこれを裏から見ると、釈尊教主の意、全く他力弘願の法を説くにあたって、『観経』一部全体弥陀如来の弘願を彰してある。それで『観経』は一経両義の経典であって、表には定散一善を説き、裏には他力弘願を説いてあるのである。これが隠顕の説法である。
 三。これで廃立と隠顕との名目の意義は明らかになったことを信ずるが、茲に問題が起る。元祖法然上人は『観経』一経を廃立の経説と見ていられる。善導大師の『観経疏』も廃立
(3-278)
で見てあるらしい。何故なら善導大師は「散善義」に
  上より来〈このかた〉、定散両門の益を説くと雖も、仏の本願に望むれば、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏名を称せしむるにあり。
と申されてある。これは『観経』の正宗分に、定散二善を説いてあるのに、流通分に至って「この語を持〈たも〉てというは、無量寿仏の名を持てとなり」と称南無阿弥陀仏の一法を讃えてある所から見込まれた解釈で、法然上人は正しくこの解釈に依って、定散諸善は廃のために説き、念仏は立のために説くと断定せられたのである。然る時は、善導法然両祖は『観経』を廃立の説法と見ていられるに対して、我が聖人は何故にこの解釈を捨てて隠顕の説法という異説を立てられたのであるか。
 この問題は頗る興味ある問題であって、私共から見ると、茲に我が聖人の上に一段の進歩があることを認め得るのである。この『観経』に対する善導法然両祖と、我が聖人の態度はいつも出て来る例の両祖が願に真仮を立てず一願建立門で行かれるから、第十九願の臨終現前の益も第十八願念仏所得の利益とせられる如く、『観経』を以て第十九願開説の経と見ず、従って、『観経』一部、念仏の勝れたるを顕わさんがために諸行の説いて而もこれ
(3-279)
を廃し、念仏を立てたる経典と見られ、我が聖人は、五願別開して、願に真仮を立てられるから、『観経』は表面飽くまでも第十九願開説の方便経であって、而もその裏面を探れば、方便経その儘大悲真実の弘願法を説く経典と見給うたものである。
 然しかくはいうもの、善導大師に全く隠顕釈がなかったのではない。我が聖人も、この隠顕の釈をなされるに就いて、「釈家(善導)の意に依って無量寿仏観経を按ずれば顕彰隠密の義あり」と宣い、善導大師は諸師に対する対抗の必要上、釈し振りの当相では、廃立釈に出でて、随所の文に隠彰の実義を開いて仏の正意称南無阿弥陀仏にあるを顕わし、定散二善は弘願に通入の方便にして、定善は以て念仏三昧に入るを益とし、散善九品は善悪の機類を示して、九品共に一念仏に帰入すべきを教ゆるものと解釈なされたのである。何故なれば諸師は『観経』の顕文に執着して定散の二善に惑うているから、大師その諸師の執着する顕文その儘を取って、見よかくの如く弘願他力の意が説かれてあるでないかと教え給うたのである。然し大師の解釈の意底を探る時には、隠顕釈に依り給い『観経』の当相を第十九願開説の経とし、定散にもそれぞれ得益あり、下々品の念仏も万行随一の念仏にして、法然上人の所謂諸行の分斉にあるもの、『観経』一経顕文に依ればすべて定散
(3-280)
教、その裏をくぐれば、一経の始終、隠には弘願念仏を説くものとなし給うたのである。大師はこれを流通の念仏付属の文から振り返って見給うたのである。それで大師の釈文の中には、同一の要門に依って釈し、一文両義の釈文があるのである。古来これを善導大師の釈相廃立、釈意隠顕というている。我が聖人は、この大師の釈意隠顕に依って『観経』の隠顕釈を立て給うたから、今茲に「釈家の意に依って」と宣うたのである。然しかく大師の微意を探り知り給うたは我が聖人の卓見であって、明白な隠顕を以て『観経』を釈し給うたも我が祖聖人を以て始めとするから、廃立釈から出でて隠顕釈に入り『観経』に一段の精彩を加え給うた功は当然我が祖のものである。隠顕釈は実に他宗に談ぜざる浄土真宗独特の深妙の解釈法である。
 三。こういう具合に『観経』に隠顕釈を加え給うたは、我が聖人の功であるが、こういう解釈の類例は外にもある。一例を挙げれば、『倶舎』の頌に顕密両宗を立て、顕に有部宗の宗義を明し、隠密には経量部の宗義を主とするというが如き、また密家に於いて浅略、深秘の両釈を用うるが如きはこの隠顕に近き釈体である。
 隠顕の二字は「散善義」の後序その他に出でているが、こういう穿鑿は無用である。
(3-281)
 隠顕の義拠も、古来、「玄義分」序題門の「娑婆の化主その請いに因るが故に、即ち広く浄土の要門を開き、安楽の能人は別意の弘願を顕彰す」という文、及び同宗旨門の「今この観経は即ち観仏三昧を以て宗と為す、亦念仏三昧を以て宗と為す」という文であるというている。勿論これらの文は、我が聖人がこの隠顕釈の下に引用し給うてある所から見れば、聖人の眼光を鋭からしめたものであるが、前にもいう通り、聖人は深く善導大師の解釈の意底を徹見し給うたので、何の文に依り給うたなどということは必要のないことと思う。
 四。次にこの隠彰顕密の四字を解するに異説がある。一二を挙げると、(一)には、顕彰隠密の四字を分けて三義とする。謂く顕の義、彰の義、隠密の義である。顕は文面に分明に顕われていること、彰とは錐が袋を破ってその鋭先をみせている如く、雲に隠れる龍が爪牙をちらちら雲の間から出だしているようなこと、隠密は錐の体、龍体が隠れて表面に見えないことを解するのである。これに更に隠密の二字を分けて解するものもある。その時は、密は隠す意志という風に見えるのである。即ち雲間の龍という一軸の画にして見ると、雲は顕である、彰は雲間にちらちら見える頭面爪牙である。隠は隠るる体である。密は画
(3-282)
工の意匠であるという風に見るのである。これは西派にて多く依用する説である。(二)は大まかに顕と彰隠密との二つに解釈するので、顕は文面顕了に顕われていること、彰隠密は隠微に著わるる義で、親が子供を叱る時に、その悪々しげな語の中に、何処となく慈愛が溢れて見えることである。これは主に東派にて依用する説である。私共は大ざっぱな二分解釈法が何となく床しいように思われる。
 五。扨、もとへもどって、この隠顕の解釈は三部経全体に通ずるかというに、『観経』にこうして明らかにこの隠顕の両義があり、『阿弥陀経』もこの『観経』に準じて見ると隠顕の両面があるが、『大経』は純粋な真実教であるから、隠顕の両面がない。勿論先にも出だせし如く、三輩段の如き、諸功徳の修行は説いてあるから、これは所廃のための所説で、廃立こそあれ、隠顕はない。全く弘願他力の真実法である。然らば「化巻」九、『略本』に「三経の大綱、顕彰隠密の義ありと雖も、信心を彰して能入となす」といい、『御伝鈔』下巻 平太郎の段に「すなわち三経に隠顕ありと雖も、文といい義といい、ともにもって明らかなるをや」とありて、『大経』にも隠顕あるらしいのはどうかというに、これは三経を大体の上からいったので、細かにいえば『観経』と『小経』に隠顕があるというのである。
(3-283)
 猶この隠顕については、細かく面倒な議論もあるけれども、筋道だけは以上で尽きていると信ずるから、煩わしい議論は一切省いて仕舞うたのである。

是以『経』言 「教我観於清浄業処」。
言「清浄業処」者 則是本願成就報土也。
言「教我思惟」者 即方便也。
言「教我正受」者 即金剛真心也。
言「諦観彼国浄業成」者 応観知 本願成就尽十方無礙光如来也。
言「広説衆譬」 則十三観是也。
言「汝是凡夫心想羸劣」 則是彰為悪人往生機也。
言「諸仏如来有異方便」 則是定散諸善顕為方便之教也。
言「以仏力故見彼国土」 斯乃顕他力之意也。
言「若仏滅後諸衆生等」 即是未来衆生 顕為往生正機也。
言「若有合者名為麁想」 是顕定観難成也。
言「於現身中得念仏三昧」 即是顕 定観成就之益 以獲念仏三昧 為観益。即以観門 為方便之教也。
言「発三種心即便往生」。
又言「復有三種衆生当得往生」。依此等文 就三輩 有三種三心 復有二種往生。

(3-284)
【読経」ここをもって経には教我観於清浄業処といえり。清浄業処というは、すなわちこれ本願成就の報土なり。教我思惟というは、すなわち方便なり。教我正受というは、すなわち金剛の真心なり。諦観彼国浄業成者といえり。本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。広説衆譬といえり。すなわち十三観これなり。汝これ凡夫心想羸劣といえり。すなわちこれ悪人往生の機たることをあらわす。諸仏如来有異方便といえり。すなわちこれ定散の諸善は方便の教たることをあらわす。以仏力故見彼国土といえり。これすなわち他力の意をあらわす。若仏滅後諸衆生等といえり。すなわちこれ未来の衆生往生の正機たることをあらわす。若有合者名為麁想といえり。これ定観成じがたきことをあらわす。於現身中得念仏三昧といえり。すなわちこれ定観成就の益は、念仏三昧をうるをもって観の益とすることをあらわす。すなわち観門をもって方便の教とせるなり。発三種心即便往生といえり。また復有三種衆生当得往生といえり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり。また二種の往生あり。
【字解】一。十三観  『観経』に説かれたる定善十三観をいう。日想観、水想観、地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観、華座観、像観、真身観、観音観、勢至観、普観、雑想観。
 二。三種心  『観経』の三心。至誠心、深心、回向発願心。
【文科】『観経』の隠彰を証明せんが為に、要文を挙げてその意義を述べ給う一段。
【講義】それ故に上述の義を証拠立てる為に、左に経文を引いて、その意義を解釈するで
(3-285)
あろう。
 韋提希夫人が、「我に清浄業処を観せ教〈し〉めたまえ」というたが、その清浄業処というのは、弥陀の本願によりて成就〈できあが〉った真実報土のことである。韋提は実に真実報土に往生することを願うたのである。
 次に「我に思惟を教えたまえ」と申したのは即ち方便である。思惟は定善十三観である。釈尊この願いによりて定善を説かれたのである。
 「我に正受を教えたまえ」は他力金剛の信心である。即ち正しく金剛心を獲得することを教えたまえということである。
 「諦〈あきらか〉に彼の国の浄業成じたまえるを観ずべし」とは、因位の誓願によりて成就したまえる尽十方無碍光如来を観ぜよということである。即ち弥陀如来を信じ奉れということである。
 「広く衆々〈もろもろ〉の譬〈たとえ〉を説かん」というは、定善十三観の方便説を指す。
 「汝はこれ凡夫、心想羸劣」というは、本願の目的たる悪人往生の実機を示されたものである。即ち韋提一人を指されたのでなく、広く本願の正機たる一切衆生そのものを示さ
(3-286)
れたものである。
 「諸仏如来は異の方便あり」というは、定散二善は真実信心に入らしむるの方便教であることを顕開〈あらわ〉されたものである。
 「仏力を以ての故に、彼の国土を見る」というは、如来の他力を顕わしているのである。
 「もし仏滅後の諸の衆生等」と韋提の申し上げたことは、即ち未来濁悪の衆生が、浄土往生の正機であることを顕わされたものである。
 以上は序分であるが、進んで正宗分の第八像観の終りの文「もし合する有れば名づけて麁想と為す」とあるは、定善の観法の成じ難いことを示されたものである。即ち行者が観法の際、定中に聞く所の妙法が、出定後、経説に合わなければ妄想であるし、合っても麁想をもって極楽を見るに過ぎないというのであるから、これによりても定善の観法の困難なることが知られる訳である。
 尚第八像観の次の文に「現身中に念仏三昧を得」というは、定善の観法が成就したら如何なる利益を得るかと云えば、畢竟念仏三昧を得るの益に外ならぬことを示されたものである。
(3-287)
 更に散善の下、上品上生の初めに「三種の心を発せば即便往生す」とある文、並びに「復三種の衆生ありて、当に往生を得べし」等の文に依りて考えるに、散善の上中下三輩の機即ち九品の機類に通じて、三種の三心、即ち定善の三心、散善の三心、弘願他力の三心があることが解る。そして復その往生にも三種ありて、定散二種の三心を起こす人は便往生即ち化土の往生であり、弘願他力の三心を発す人は、即往生すなわち真実報土の往生であることが知られるのである。
【余義】一。茲に『観経』の顕彰隠密の義をあらわすに当たり、『観経』の序分から九文、正宗分から四文、合わせて十三文を引用し給う。前にもいう通り、隠顕釈は一経に両面を見るものにて、一面よりすれば、第十九願開説の定散教となり、一面よりすれば純他力弘願教となるのである。既に一経全体両義となるのであるから、文々も亦両義の隠顕となるのである。即ち茲に引用せられた十三文は顕文の当相は定散教に関し、その隠れたる処に弘願の意を闡明しているのである。
(一)清浄業処。 顕には諸仏の浄土、隠には弥陀の浄土。
(二)教我思惟。 思惟は顕には定善十三観に入る方便、隠には浄土方便の修行、即ち定散二善。
(3-288)
(三)教我正受。 正受は顕には定善十三観、隠には他力金剛の信心。
(四)諦観彼国浄業成者。 顕には浄土の依正二報を観ずること、隠には本願成就の弥陀如来を観知すること。
(五)広説衆譬。 顕には定善十三観のこと、隠にはその十三観の弘願の方便たる意味を顕わす。
(六)汝是凡夫心想羸劣。 顕には韋提夫人が定善の観法に堪えざる機根なること、隠には悪人が本願正所被の機たることを示す。
(七)諸仏方便有異方便。 顕文からいうと、定善の観門が極楽浄土を見る方便たることを示し、隠からいうと、広く定散の諸善が弘願に通入する方便なること。
(八)以仏力故見彼国土。 顕文でいうと、釈尊の力に依って光台に浄土を見ること、隠からいうと、弥陀の仏力に依って浄土に往生して彼の国土を見ること。
(九)若仏滅後諸衆生等。 顕文では、韋提夫人が未来の衆生のために安楽浄土を観ずる法を教え給えと願うこととなり、隠相では、未来の衆生が往生の正機なるを示す。
(3-289)
(十)若有合者名為麁相。 顕では所観の境が経説に合すれば麁相と名づくるという義(像観は仮観であるから麁観という)にして、隠では定観の成じ難きことを示すもの。
(十一)於現身中得念仏三昧。 顕文では像観成就すれば、現身に真身観の利益を獲ること、従って、念仏三昧というは観仏三昧となるのである。隠では定観成就して得る益は口称の念仏三昧なることを示すことになる。
(十二)発三種心即便往生。 顕文では至誠心等の自利の三心を発せばすなわち往生を得るという。隠では利他の三信を発せば報土往生を得るという。
(十三)復有三種衆生当得往生。 顕文でいうと三種衆生というは、慈心不殺等、読誦大乗、修行六念の三種にて、隠では定機と散機と利他一乗の機の三種の衆生のことである。それで前の文と今の文とを合せて見ると、三種の衆生に三種の三心(自力《定と散》と他力)があり、従って即往生と便往生と当得往生があるということになるのである。
 茲に注意すべきことは、この即便往生は即往生便往生の二種にをわかち給う語拠であるけれども、我が祖は、この文から直ちに、二往生を開き給うたものではない。前に述べたる
(3-290)
如く『観経』は一経全体隠顕の二義にわかれ、従って一文一句にも隠顕の二義あるから、この即便往生も、顕の義に依れば即便の二字共に化土の往生となり、隠の義から見れば二字共に報土の往生となるのである。ただ我が祖は、この『観経』の即便往生の語を『大経』に対照し、十八願成就の真土の往生には即得往生の語あり、十九願成就の化土の往生には便於七宝華中自然化生の語あることから、二種の往生をひらき給うたものである。

良知此乃此『経』 有顕彰隠蜜之義。
二経三心 将談一異 応善思量也。
『大経』『観経』 依顕義異 依彰義一也。
可知。

【読方】良に知りぬ、これいましこの経に顕彰隠密の義あることを。二経の三心まさに一異を談ぜんとす。よく思量すべきなり。大経・観経、顕の義によれば異なり。彰の義によれば一なり。しるべし。
【文科】隠顕の結釈。
【講義】以上の文証に依りて見れば、この『観経』には顕説と彰隠密説の二義あることが、明かに知られることである。問いに応じて斯の如く『大』『観』二経の三心の同不同を弁じたいものであるが、この処をどうぞ間違わずに思慮〈かんが〉えて頂きたい。即ち『大経』『観経』は、顕の義
(3-291)
に依れば真実と方便に分かれておるが、彰の義によれば両経ともに弘願真実の一法を明かしているのである。

第三項 引 文
第一科 善導大師の釈文

爾者光明寺和尚云
然娑婆化主因其請故 即広開浄土之要門。
安楽能人 顕彰別意之弘願。
其要門者 即此『観経』定散二門是也。
定即息慮以凝心。散即廃悪以修善。
回此二行 求願往生也。
言弘願者如『大経』説。

【読方】しかれば光明寺の和尚ののたまわく、しかるに娑婆の化主、その請によるが故に、即ちひろく浄土の要門をひらき、安楽の能人、別意の弘願を顕彰す。その要門というは、すなわちこの観経の定散二門これなり。定はすなわち慮をやめてもって心を凝らす。散はすなわち悪を廃してもって善を修す。この二行を回して往生を求願せよとなり。弘願というは大経の説のごとし。
【字解】一。娑婆化主  娑婆界の教化主。大聖釈尊のこと。
(3-292)
 二。安楽能人  安楽浄土に在して、能く衆生を教化する能力ある人の義。すなわち阿弥陀如来を指す。
【文科】「玄義分」序題門の文によりて浄土の要門弘願を明かし給う。
【講義】されば光明寺の和尚善導大師は、「玄義分」の序題門に、然るに娑婆界の教化主釈尊は、韋提希夫人の請願を因縁として、広く弘願他力の方便門たる浄土の要門を開説したまい、安楽浄土の能人(自在人)即ち弥陀如来は、定散二善の外なる弘願他力の三心を顕彰〈ときあら〉わされた。
 かように本経には一文両義を含んでいるのであるが、その中、要門というは定善散善の二門を指す。定というのは、麁雑な思慮分別をやめて、心を一つに専注することにて、坐禅観法等がそれである。散はかように瞑想思惟等は出来ないが、その散り乱れる心をもって悪を廃〈や〉めて善を修めることをいう。これら二種の行によりて得たる功徳善根を回向して、往生を求願〈ねが〉うものを要門と名づける。
 弘願というは、『大経』に説いてある通りで、即ち第十八願の他力の信行を指すのみであるが、これは本経にありては、隠彰の実義である。
【余義】一。上に『観経』の中から、十三文を引いて、『観経』に隠顕あることを証し了
(3-293)
ったから、今次いで、善導、曇鸞、道綽の三祖の釈文十七を引き、『観経』に隠顕両面を見しは、善導大師より相承したる旨を顕わし給うのである。それで善導大師の釈文十四は正証にして、曇鸞、曇鸞両師の三釈文は助証である。それ故に善導、曇鸞、道綽の順序で引用し給うたのである。善導大師の十四の釈文の中、本疏の文八、具疏の文六あり、本疏の八文中、初めの三文は正しく隠顕の証にて、余の五文は顕説の証、具疏の六文は、弘願に転入せしめんため結勧の意にて引用し給うのである。かくこの光明大師の十四文を以て『観経』に隠顕両面あることを証しながら、猶これに加えて、この十四文を以て要門方便の四法を示し給うのである。便宜のため、これを図示すれば。

    (一)「玄義分」要門二門の釈文
 教  (二)『同』念観両宗の釈文      正しく隠顕両面あるを証す
    (三)『同』如是の釈文
    (四)『同』散善顕行縁の釈文
    (五)『同』三心の釈文
 行  (六)『同』示観縁の釈文
(3-294)
    (七)『同』顕行縁の釈文       顕説の証文         正証
    (八)「散善義」後序の文
 信  (九)『礼讃』の三心釈文
    (十)『同』若欲捨専等の文
    (十一)『観念法門』の総不論摂の文  弘願転入を勧むる文
    (十二)『法事讃』如来出現の文
 果  (十三)『般舟讃』万劫修功の文
    (十四)『同』定散倶回の文┘
    (十五)『論註』の文
    (十六)『安楽集』の文                      助証
    (十七)『安楽集』の文

 二。次に上出の序題門の釈は、善導大師にありては、廃立に見るが正当であって、『観経』一経の上に廃立のために、要弘二門の説かれてあるを釈されたもんである。すなわち釈迦如来は韋提夫人の請に依りて、定善を説き、更に散善一門を説き給うた、この定散二門を今
(3-295)
茲に「娑婆化主広開浄土之要門(娑婆の化主、広く浄土の要門を開く)」といい、一経の随所に弘願法の散説せられているのを、「安楽能人顕彰別意之弘願(安楽の能人、別意の弘願を顕彰す)」と云われたものである。この弘願の顕彰せられている文は、『漢語灯録』二 三三丁には七文拾うてある。(一)第九観光明遍照の文、(二)十二観無量寿仏化身無数の文、(三)下品上生智者復教合掌叉手の文、(四)下品上生化仏称讃行者の文、(五)下品中生聴聞弥陀功徳往生の文、(六)下品下生十念往生の文、(七)若念仏者当知此人是人中分陀利華の文である。善導大師は『観経』の一部中これらの文の散説せられてあるを見、一経に廃立を立てられたものである。処が我が祖聖人は、この一文の文字の用い方から見て、善導大師の要弘二門というは、隠顕説にて、顕説要門、隠説弘願の意であると看破し、今茲に隠顕の証文として引用し給うたのである。即ちこの釈文中、「広開」といい、「顕彰」といい、「即ちこれ」といい、「如大経」とあるは、善導大師が、一経の隠顕方面に要弘二門ありと見給うたものというべきだというのである。「広開」と「顕彰」とは猶適切の度を欠くから今説明の労を取らぬが、「要門というは即ちこの観経の定散二門是也」の用語は、正しく『観経』の顕説全体が、要門法なることを宣うを示しているではないか。また「弘願というは大経の説の如し」といって、『観経』中の一箇所をも指さず、直ちに『大経』を指し給うは、善導大師の正意、
(3-296)
『観経』の一部顕説は要門法にして、隠説に弘願法ありと見給うにあること明らかではないか。弘願は『大経』に顕了に説いてあれども、『観経』には表面に説いてないから「大経の説の如し」と譲り給うたのである。これが善導大師の釈相廃立、釈意隠顕たることを見込む根拠となるのである。それでこの釈文は正しく隠顕の証文となるのである。

又云
今此『観経』即以観仏三昧 為宗。
亦以念仏三昧 為宗。
一心回願 往生浄土 為体。
言教之大・少者
問曰 此経二蔵之中何蔵摂 二教之中何教収。
答曰 今此『観経』菩薩蔵収 頓教摂。

【読方】またのたまわく、いまこの観経はすなわち観仏三昧を宗とす。また念仏三昧を宗とす。一心に回願して、浄土に往生するを体とす。教の大小と云うは、問うていわく、この経に二蔵の中にはいずれの蔵にか摂する。二教の中にはいずれの教にかおさむるや。答えていわく、いまこの観経は菩薩蔵におさむ。頓教の摂なり。
【字解】一。菩薩蔵  二蔵の一。声聞蔵の対。大乗菩薩の修因証果の法を教うる教の称。
 二。頓教  二教の一。漸教の対。修行の階級を経ずして速やかに証果をうる教。利益を受くることの速やか
(3-297)
なる方面よりいう。
【文科】「玄義分」宗旨門の文によりて念観両宗を明かし給う。
【講義】また「玄義分」に曰く、今この『観経』は、定善観たる観仏三昧をもって宗要とする。即ち教説の如く心を一つにして弥陀如来を観ずるのが一経の骨目である。これは顕説の上であるが、隠彰から云えば念仏三昧を宗要〈かなめ〉とする。即ち他力の信心不離の称名をもって一経の骨目とするのである。
 そして一心に回向発願して浄土に往生することが一経の主質である。かように念観両宗は一心回願往生浄土の一に結帰するのであるが、これにもその内容は二種あることは明らかなることである。即ち一心回願は観仏に対しては自力の願生心、念仏に対しては他力回向の願生心であり、また往生浄土は、観仏には化土、念仏には報土である。
 次にこの『観経』は大小乗の何れであるかというに就いて問いを起こしていう、この経は声聞蔵菩薩蔵の二蔵の中には何れの教説に摂するか、頓教、漸教の二教の中には何れに収められるか。答う、今この『観経』は、大乗菩薩蔵の中に収められ、そして二教の中では、頓極頓速の教であるから頓教に収められるのである。
(3-298)
【余義】一。この念観両宗の文も、釈相から見れば、廃立にて、釈意から見れば隠顕となるのである。
 即ち釈相から見れば、観仏三昧、念仏三昧共に『観経』の顕文に依って立つところにて、観仏三昧は要門定散の法、念仏三昧は弘願の法である。観仏というは無量寿仏を観ずることにて『観経』一部に広く説かれたる定散十六観を摂するのである。この中定善十三観は正観、散善九品は相従して観と名づけるのである。次に念仏というは『観経』の顕説に顕われたる念仏である。かく善導大師が、一経に両宗あるを見給うたのは、流通の文に、一方には「此経名観無量寿仏観世音菩薩大勢至菩薩(この経は観無量寿仏観世音菩薩大勢至菩薩と名づく)」とあり、一方には「若念仏者当知之人是入中分陀利華(もし念仏するは当に知るべし、この人はこれ入中の分陀利華なり)」とあるより、この流通を一経正宗分に冠らしめて一経両宗ありと判ぜられたのである。
 次に釈意から見て行く時には、隠顕の一経両宗となる。我が聖人の今茲にご引用なされたはこの見方であって、この時には、観仏三昧は顕説の方便、念仏三昧は隠彰の実義である。この観仏三昧という中には、広く定散十六観を摂し、下々品の称名までもこの中に収めるのである。故に経文には下々品の最後に、「是名下輩生想名第十六観(これを下輩生想と名づけ、第十六観と名づく)」と結んであ
(3-299)
る。一生造悪の凡夫、十声の称名に依って往生を得る想〈おもい〉(観想)をなすが観仏の相である。隠彰の実義たる念仏三昧が弘願他力の念仏たるはいうまでもないことである。
 然らばかく善導大師の釈意が隠顕の両宗にあるは、いかにして知ることを得るかというに、これもこの一文中の文字の使い方に依ってその一端が知れる。即ち、茲に両三昧を挙ぐるに就いて、即ち観仏三昧を以て宗となす。亦念仏三昧を以て宗となすといってある。この即と亦の二字、即は経文に親しきを示し、亦は傍及の意味である。経文の顕説に顕われたる観仏三昧に即の字を用い、隠彰の念仏三昧に亦の字を用い給うたことが暗々の裡に会得することが出来るのである。勿論釈相廃立の両三昧の時も即亦の二字に意味はある。観仏三昧は所廃とはいい、経文の当意にして広く説かれてあるから即の字を用い、念仏三昧は所立とはいい、所々に散説せらる経文の当意でないから亦の字を用いたのである。またかく善導の釈意隠顕説にあるを知るも、実をいえばかくの如き区々たる一二字の使い方に依るのではなく、何処となくそう見るより外なからしむるものである。今茲に両宗を立て給うたことなども、その隠顕説を見ざるを得ざる一因由となるもので、宗というは独尊、統接、帰趣の義あり(六要八 二十七丁)、所立の念仏には立宗すべきも、所廃の定散には
(3-300)
立宗すべきものではない。既に両宗を立てたるからには、廃立の外に別の意がなければならぬのである。別意とは外にはない。一経に隠顕両面を見ることである。
 二。かく、善導大師は、一経に両宗を立てながら、体は一心回願往生浄土の一体となされてある。何故一体とせられたかというに、観仏三昧といい、念仏三昧といい、帰するところは、衆生をして浄土に往生せしむるより外ないからである。それでこの「一心回願往生浄土為体」の文は、一文両義として解釈せねばならぬ。観仏三昧為宗の時は、一心とは定散諸機各別の自力の一心、回願とは回願発願、定散二善を回向して往生を願うことである。浄土は方便化土、往生は双樹林下往生である。また念仏三昧為宗の時には、一心とは弘願他力の一心、回願とは思いをめぐらして願往生心を発起すること、浄土は真実報土、往生は難思議往生である。
 それから、『観経』の教相を判する文を引くは、『観経』に隠顕両宗あるけれども、究極する所、弘願念仏を実義とする旨を顕わすのである。菩薩蔵といい、頓教という。頓教一乗海といえば我が聖人のいつもの所判の如く弘願他力の念仏の外ないからである。
(3-301)

又云
又言如是者 即此指法 定散両門也。是即定辞。機 行必益。此明如来所説言 無錯謬。故名如是。
又言如者 如衆生意也。随心所楽 仏即度之。機教相応 復称為是。故言如是。
又言如是者 欲明如来所説。説漸如漸 説頓如頓 説相如相 説空如空 説人法如人法 説天法如天法 説小如小 説大如大 説凡如凡 説聖如聖 説因如因 説果如果 説苦如苦 説楽如楽 説遠如遠 説近如近 説同如同 説別如別 説浄如浄 説穢如穢 説一切法 千差万別。
如来観知 歴歴了然 随心起行 各益不同。業果法然衆無錯失。
又称為是。故言如是。

【読方】またいわく、また如是というは即ちこれ法をさす。定散両門なり。是すなわち定むることばなり。機行すればかならず益す。これ如来の所説のみこと、錯謬なきことをあかす。かるがゆえに如是となづく。
 また如というは衆生のこころのごとし。心の所楽にしたがいて仏すなわちこれを度したまう。機教相応せるをまた称して是とす。かるがゆえに如是という。
(3-302)
 また如是というは、如来の所説を明かさんと欲す。漸をとくこと漸のごとし、頓をとくこと頓のごとし、相をとくこと相のごとし、空をとくこと空のごとし、人法をとくこと人法のごとし、天法をとくこと天法のごとし、小をとくこと小のごとし、大をとくこと大のごとし、凡をとくこと凡のごとし、聖をとくこと聖のごとし、因をとくこと因のごとし、果をとくこと果のごとし、苦をとくこと苦のごとし、楽をとくこと楽のごとし、遠をとくこと遠のごとし、近をとくこと近のごとし、同をとくこと同のごとし、別をとくこと別のごとし、浄をとくこと浄のごとし、穢をとくこと穢のごとし、一切の法をとくこと千差万別なり。如来の観智歴々了然として、心にしたがいて行をたて、おのおの益すること同じからず、業果法然としてすべて錯失なし。また称して是とす。かるがゆえに如是という。
【文科】「序分義」証信序の文によりて「如是」の三義を明かし給う。
【講義】また「序分義」に曰く、この『観経』の初めに「如是」というてあるのは、即ち一経に広説せられてある定善、散善の法門を指すのである。もとこの「如是」というのは決定の言辞である。この場合で云えば、教を受くる機の方で実修すれば必ず真実の利益があるというのである。即ち如来の説かれた言説には決して錯謬がないということを明らかにする為に「如是」と云われたのである。
 また「如」というのは衆生の意〈こころ〉の通りという意味である。如来は衆生の心を察して、その所楽〈ねがい〉に随って化益を施し給う。これを「如」という。此は如来の教を主としていうたのであ
(3-303)
る。次の機の方に就いて云えば、如来の教えが衆生に感応して道を求めるという所楽〈ねがい〉となるので、この所楽が起こると同時に如来の化益が機に実現せらるるのであるから、かように衆生の機と如来の教えとが函蓋相合うようにピタリと相応するのを、復称して「是」となす。如是というはかような意味である。
 また「如是」というは、様々の様式によりて説かれたる如来の教法を指すのである。漸教を説くには実の如く漸教の何たるかを説き、頓教を説くには実の如く頓教を説き、諸法の相を説くには如実に相を説き、諸法の空を説くには如実に空を説き、諸法を人と法とに分けて説く時には、実の如く人法の何たるかを説き、天上界へ生まるる法を説くには実の如く天上の法を説き、小乗を説くには小乗、大乗を説くには大乗、凡夫の何たるかを説くには実の如く凡夫を説き、聖者を説く時には聖者、諸法の因を説くには実の如く因の何たるかを説き、諸法の果を説くには実の如く果を説き、その他、苦楽、遠近、同別、浄穢等の一切法をそれぞれその法に随って千差万別に説き明かし給う。かように如来の一切諸法を観察して実の如く知り給う智慧は、掌を観るが如く歴々〈ありあり〉と解了して蘊〈あま〉す所なく、御心の儘に化他の行をなし、その機に随って化益も亦不同である。かように、如来の活動〈おはたらき〉と及びその功果〈おてがら〉は法理整然と
(3-304)
して一糸も乱れず、少しも錯失がない。この如来の如実の教説を指して「如是」というのである。

又云
従 欲生彼国者 下至名為浄業已来 正明 勧修三福之行。
此明一切衆生機 有二種。一者定 二者散。若依定行 即摂生不尽。是以如来方便 顕開三福 以応散動根機。

【読方】またいわく、欲生彼国者より名為浄業にいたるこのかたは、まさしく三福の行を勧修することを明かす。これは一切衆生の機に二種あることをあかす。一には定、二には散なり。もし定行によればすなわち生を摂するに尽きず。ここをもって如来方便して三福を顕開して、もって散動の根機に応じたまえり。
【字解】一。三福  『観経』序分に於いて、釈尊が三世諸仏の浄業として示されたる散善の行業。福とは善業ををいう。世間、出世間の善業を三種に分類して三福と称す。

(挿図 yakk3-305.gif)
     ┌─世福──孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業。
  三福─┼─戒福──受持三帰、具足衆戒、不犯威儀。
     └─行福──発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧進行者。

【文科】「序分義」顕行縁の文によりて散善開設の聖意を顕わし給う。
【講義】また「序分義」に云わく、『観経』序分の「彼の国に生ぜんと欲する者は、当に三福を修
(3-305)
すべし。」等から下「此の如き三事を浄業となす」までの間は、正しく釈尊が孝養父母等の三福の行を修めることを勧められたのである。この教説によりて考うるに、一切衆生の機類は凡そ二種に分かたれることが明示されてある。一は定善の機、二は散善の機である。もし定善の行だけでは一切衆生を尽くしてはおらぬ。即ちこの教行に洩れる散善の機類があるから、如来はここに方便を垂れ給い、心を一つに凝らすことの出来ない散乱麁動の機類の為に、この三福散善の法、即ち廃悪修善の行を顕開〈ひら〉いて、その機を摂〈おさ〉め取り給うたものである。

又云
又真実有二種。一者自利真実 二者利他真実。
言自利真実者 復有二種。一者真実心中 制作(捨)自他諸悪及穢国等 行住座臥 想 同一切菩薩制捨諸悪 我亦如是也。
二者真実心中 懃修 自他・凡聖等善。真実心中口業 讃嘆彼阿弥陀仏及依正二報。又真実心中口業 毀厭 三界・六道等 自他依正二報苦悪之事。
亦讃嘆 一切衆生 三業所為善。
若非善業者 敬而遠之 亦不随喜也。
又真実心中身業 合掌礼敬 四事等 供養彼阿弥陀仏及依正二報。
又真実心中身業 軽慢厭捨 此生死三界等 自他依正二報。
又真実心中意業 思想観察憶念 彼阿弥陀仏及依正二報 如現目前。
又真実心中意業 軽賤厭捨 此生死三界等 自他依正二報。{乃至}

又決定 深信 釈迦仏 説此『観経』三福・九品・定散二善 証賛彼仏依正二報 使人忻慕。{乃至}
又深心深信者 決定建立自心 順教修行 永除疑錯 不為一切別解・別行・異学・異見・異執之所 退失傾動也。{乃至}

次就行立信者 然行有二種。一者正行二者雑行。言正行者 専依往生経行 行者 是名正行。何者是也。一心専 読誦此『観経』『弥陀経』『無量寿経』等。一心 専注思想観察憶念 彼国二報荘厳。若礼即一心専礼彼仏。若口称 即一心専称彼仏。若讃嘆供養即一心専讃嘆供養。是名為正。
又就此正中 復有二種。一者一心専念弥陀名号 行住座臥不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故。
若依礼誦等 即名為助業。除此正助二行 已外自余諸善 悉名雑行。
若修前正助二行 心常親近憶念不断 名為無間也。若行後雑行 即心常間断。雖可回向得生 衆名疎雑之行也。故名深心。

三者回向発願心。言回向発願心者 過去及 以今生身口意業所修 世・出世善根 及随喜 他一切凡聖身口意業所修 世・出世善根 以此自他所修善根 悉皆真実深信心中回向 願生彼国。故名回向発願心也。

【読方】またのたまわく、また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。自利真実というはまた二種あり。一には真実心の中に、自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住座臥に一切菩薩の諸悪を制捨するに、同じく我も亦かくの如くせんと想う。二には真実心の中に自他凡聖等の善を勤修す。
 真実心の中の口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃嘆す。また真実信の中の口業に、三界六道等の自他の依正二報の苦悪の事を毀厭す。また一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。もし善業にあらずば、敬〈つつし〉んでしかもこれ
(3-308)
を遠ざかれ。また随喜せざれ。また真実心の中に身業に、合掌し礼敬し四事等をもって、かの阿弥陀および依正二報を供養す。また真実心の中の身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心の中の意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目のまえに現ずるごとくす。また真実心の中の意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賎し厭捨す。 乃至
 また決定してふかく釈迦仏、この観経の三福九品定散二善をときて、かの仏の依正二報を称讃して人をして、欣慕せしむと信ず。 乃至
 また深心は深信なりというは、決定して自身を建立して、教に順じて修行し。ながく疑錯をのぞきて一切の別解別行異学異見異執のために退失傾動せられざるなり。 乃至
 つぎに行について信をたつというは、しかるに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり。正行というは、もっぱら往生経の行によりて行ずるものはこれ正行となづく。何者かこれや。一心にもっぱらこの観経、弥陀経、無量寿経等を読誦する。一心にかの国の二報荘厳を専注し思想し観察し憶念する。もし礼するにはすなわち一心に専らかの仏に礼する。もし口に称するには、すなわち一心に専らかの仏を称する。もし讃嘆供養するには、すなわち一心に専ら讃嘆供養する。これを名づけて正とす。
 またこの正の中についてまた二種あり。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住座臥に時節の久近をとわず、念々にすてざるもの、これを正定の業となづく。かの仏の願に順ずるがゆえに。もし礼誦等によるをば即ちなづけて助業とす。
(3-309)
 この正助二行をのぞきて已外、自余の諸善を諸善をばことごとく雑行となづく。
 もし、さきの正助二行を修するは、心つねに親近して憶念たえず。なづけて無間とす。もし後の雑行を行ずるは、すなわち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといえども、すべて疎雑の行となづくるなり。かるがゆえに深心となづく。
 三には回向発願心、回向発願心というは、過去および今生の身口意業に修するところの世出世の善根および他の一切の凡聖の身口意業に修するところの世出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもって、ことごとくみな真実の深信の中に回向して、かの国に生ぜんと願ず。かるがゆえに回向発願心となづくるなり。
【字解】一。凡聖  凡夫、聖者。
 二。依正二報  依報(山河、大地、衣服、飲食等凡て有情の所依となる果報をいう)と、正報(衆生の肉体精神をいう。これ自分の業因によりて与えられた正しい果報であるからである)の称。
 三。四事  衣服、飲食、臥具、湯薬、古の仏弟子はこの四事をもって身体を養うたのである。
 四。三福九品  『観経』に説かれたる往生浄土の散善の行である。『同経』序分には三福(上三〇四頁を見よ)をとき、正宗分には九品をとく。三福は正因、九品は正行、三福は浅深の次第、九品は勝劣の次第である。一応配属すれば

(挿図 yakk3-310.gif)
   ┌行福──上三品
   ├戒福──中上、中中の二品
(3-310)
   └世福──中下品

 として下三品は三福なき悪人である。
 五。定散二善  定善(慮〈おもい〉を息〈や〉め、心を凝らして観想すること。即ち観法によりうる善)。散善(悪をやめて善を修めること。即ち上の三福を修めること)
【文科】「散善義」三心釈のもんによりて自力の三心を顕示し給う一段。
【講義】また「散善義」に云わく、またこの真実ということに就いて二種ある。一は自利真実、二には利他真実、第一の自利真実に就いて、復二種に分かれる。一は厭離の方面にして、即ち誠実の心をもって自己の身口意の悪業、及び穢れたこの世界に執着する心を制捨〈うちす〉て、また他人の身口意の悪業に随喜せず、そして行住座臥〈たちいふるまい〉にも、あの一切の大乗の修道者が諸の悪業を制捨〈うちすて〉るように、自分も亦その通りにしたいと想うことである。二は欣求の方面にして、即ち誠実の心をもって自己と他人即ち凡夫聖者等の一切の善根を勤め修めることである。
 この厭欣の一対は二双四重判に就いては堅出の自利真実にして、即ち聖道門権教にあたるのである。
(3-311)
 上の一対は厭離を先とし、欣求を後にしてあるが、以下の三対は浄土門中の方便たる横出の自利真実を明かしたもので、欣求を先とし厭離を後にし身口意の三業について述べてある。
 即ち真実心をもって口業に彼の阿弥陀如来及び極楽浄土の依報正報を讃嘆し、また真実心をもって口業の三界、六道に亘りて自己と及び他人(正報)並びに自他の業によりて受けておる果報(依報)の苦痛や罪悪を厭い毀〈そし〉り、亦一切衆生の身口意の三業になす所の善根を讃嘆〈ほめたた〉えもし苟しくも善業でないものならば、敬遠主義をとりて、近よらず随喜せないことをいうのである。
 また身業については、真実心をもって掌を合せ、阿弥陀仏を敬礼し奉り、衣服、飲食、臥具、湯薬の四事をもって如来及び極楽浄土の依報正報を供養し奉ること、また真実心から身業に引きつけて、この三界生死の巷、即ち自己と及び他人の依報正報の果報を軽慢〈かろし〉め厭捨〈いといすつ〉るをいうのである。
 また意業には誠実に阿弥陀如来及び極楽浄土の依正二報を思想〈おもいうか〉べ観察し、深く心に思い取りて、さながら目前に現わるる如くし、また意業には誠実にこの三界生死の巷、即ち自己及び他人
(3-312)
の依報正報の果報を軽賎〈かろし〉め厭捨〈いといす〉つることである。乃至
 また心を決定〈きめ〉て、釈迦牟尼仏はこの『観経』に於いて、三福九品の散善と並びに定善十三観を説いて、彼の弥陀如来の極楽浄土の依報正報の功徳荘厳を証明し讃嘆して、有縁の人々をして浄土を欣慕〈こいねが〉わしめ給うということを深く信ずることである。
 また第七深心に就いて云えば、抑この深信は、自ら奮い立って勇猛精進に決定心を起こすことである。即ち如来の教説に順いて行を修め、どこどこ迄も我が心中の疑錯〈うたがい〉を除いて、浄土門中の雑行者たる別解別行の人々や、聖道門中の雑行者たる異学異見の人々の為に自分の決定心を傾動〈くつがえ〉されたり退失せられることがないようになるのである。乃至
 次に行に就いて信を立てるというは、その行に二種あり。一は正行、二は雑行である。
 正行というは、浄土の正行という意味にして、二心なく浄土往生の経典たる三部経に説く所の行によりて実修する正行というのである。然らばその正行とは如何なるもの
(3-313)
であるか。
 一には読誦、一心に余念を雑えずこの『観経』『弥陀経』『無量寿経』の三部経を読誦すること。
 二には観察、一身に彼の極楽浄土の依報正報の荘厳に意〈こころ〉を専注し、思想〈おもい〉を凝らし、はっきりと観察〈おもいうか〉べ、よく心に銘記して忘れないこと、即ち浄土の二十九種荘厳を観察すること。
 三には礼拝、もし礼拝する時には、即ち二心なく専ら弥陀如来を敬礼し奉ること。
 四には称名、もし口に仏名を称える時には、二心なく専ら南無阿弥陀仏の御名を称うること。
 五には讃嘆供養、もし讃嘆供養する時には、即ち二心なく専ら阿弥陀仏を讃嘆供養し奉ること。
 これを名づけて五正行となすのである。
 またこの五正行は二つに分かれる。一には心を一つにして専ら弥陀の名号を称え、行住座臥〈たちいふるまい〉にも廃せず、時間の長短に関せず、一念一刹那も止めることなく、常に称名相続する
(3-314)
を名づけて正定の業となす。即ちこれが浄土に往生する正しき業因であるというのである。何故かと云えば、この称名の一行は、彼の弥陀如来の王本願たる第十八願の御思召に順応しているからである。
 然るにもし礼拝、読誦等の他の四行に依るならば、それは第四の称名正業の為の助業である。
 この正業と助業の二行を除いて、外の様々の諸善万行は、悉く一括して雑行と名づける。
 故にもし前に述べた正業助業の五正行を修めるならば、その人の心は常に如来の心に親しく接近し奉り、そして御心に憶念〈おもい〉い奉ることが断えることはない。これを名づけて無間修というのである。然るにもし後に挙げた純粋に浄土の行でない所の不純な雑行を修めるならば、その人の心はいつも如来の御心と離れ、心は余念に遮られて間断するのである。元よりこれらの善根も浄土へ回向して往生することが出来るけれども、衆〈すべ〉て一括して弥陀の本願には疎い行と名づける。
(3-315)
 以上は第七深心に就いて述べたのである。
 『観経』三心の第三は回向発願心である。この回向発願心というのは、行者がその修むる所の善根功徳を浄土に回向する心である。即ち過去より今生に亘りて、自ら身口意の三業に修めた所の世間有漏の善根、及び出世間無漏の善根と、並びに他のあらゆる凡夫や聖者達が身口意の三業に修めた所の有漏無漏の善根に随喜することによりてうる所の功徳と、これら自他に修めて得たるあらゆる善根功徳を挙げて、真実なる第二深心の中に摂めて、それを浄土に回向〈さしむ〉け、それを因をとして彼の極楽世界に往生せんと願うのである。これを回向発願心と名づけるのである。
【余義】一。この三心釈の文は顕説の証文として引き給うものであって、また要門自力の信を明かすのである。もとこの善導大師の三心釈は、『観経』一部定散二善と弘願の念仏に通じて釈し給うものであるから三心は諸行と念仏に通ずるのである。それであるから、我が聖人も、この三心釈も文に、自利の三心と利他の三心とを分別して、「信巻」に略する所は「化巻」に引き、「化巻」に略する所は「信巻」に引き、或は両巻に合せ引き、出没自
(3-316)
在に引用し給うてある。
 二。それで茲に、「真実に二種あり、一には自利真実、二には利他真実」と標してあるが自利真実の分だけ引用して利他真実は「信巻」に引き給うたのである。
 三。この自利真実を釈する中、復有二種(また二種あり)とあるが、この二種というは何を指すかというに、次に一者二者とあるものを指すと見るが、文に近いようであるが、それでは次の三業に約する釈文の所属が知れ難くなる。我が聖人は『愚禿鈔』下二十丁右以下に、この解釈法を教えて、「復有二種」の下へ「一者厭離真実、二者欣求真実」の句を入れ、「一者真実心中」から「自他凡聖等善」までを厭離真実、「真実心中口業」以下を欣求真実として解釈なされてある。厭離真実というは厭離を先とし、欣求を後にする聖道門自力権教の真実のこと。欣求真実とは、欣求を先とし厭離を後にする浄土門要門の真実のことである。即ち竪出の真実と横出の真実のことである。この御指南に依ってこの文を依ってこの文を解釈して行かねばならぬ。

又云
定善示観縁。
又云
散善顕行縁。
又云
浄土之要難逢。[文]{抄出}

【読方】またいわく、定善は観をしめす縁なり。またいわく、散善は行をあらわす縁なり。またいわく、浄土の要あいがたし。抄出
(3-317)
【文科】「序分義」示観縁の文、「同上」顕行縁の文、「散善義」後序の文によりて、定散二善等の真意を明かし給う。
【講義】また「序分義」に云わく、定善十三観広いけれども、約〈つづ〉まるところ観の何たるかを示さんが為の方便である。即ちその「観」とは他力の信心である。言を換えて云えば真実信心に入らしめんが為の方便として広く定善を説かれたというのである。
 また同じく「序分義」に云わく、散善三観は約〈つづ〉まるところ他力念仏の一行を顕わさんが為の方便として説かれたものである。
 また「散善義」に云わく、浄土の真実門たる弘願に入る為に要道たる定散二善の要門に逢い奉りて、これを実修することは罕〈まれ〉なことである。故にもしこの法に逢い奉るならば、喜んで奉行せられよ。それは方便教なれども、一路直ちに弘願の大道に通じておるから、必ず行者を導いて真如の門に入らしむるであろう。
【余義】一。定善示観縁、散善顕行縁というは『観経』序分七縁の中の二縁である。序分の説相は散善顕行縁、定善示観縁の次第であるが、今は正宗分が定善散善の説相であ
(3-318)
るから、その説相に依って次第したものである。
 この二文の解釈は善導大師の疏文にあっては、「序分にあって正宗分に説くべき定善観の端緒を開くこと、無量寿仏が依正二報を観ずるが仏力なるを示す縁由」「序分にあって正宗分に説くべき散善九品の端緒を開くこと、三福九品の散行が往生の業因なるを顕わす縁由」ということであるが、今御引用の上からいうと、「定善は観を示す縁なり」、「散善は行は顕わす縁なり」と読むべきである。「定善示観縁也」を解釈してみると『観経』一経の顕文に定善十三観を説くは釈尊の方便であって、これを以て他力往生の観を示す縁由とするという意味になる。この他力往生の観というは、他力往生の観知、即ち他力往生の信心のことである。私を助けて下さるは阿弥陀如来であると信知することである。『一念多念証文』に観仏本願力の観を解釈して、「観は願力をこころにうかべみるともうす。またしるというこころなり」とあるが、この観の字の意味である。次に「散善顕行縁也」というは『観経』の顕文に散善三福九品を説くは、釈尊の方便にて、他力往生の行を示す為の縁由という意味である。
(3-319)

又云
如『観経』説 先具三心 必得往生。何等為三。一者至誠心。所謂 身業礼拝彼仏 口業讃嘆称揚彼仏 意業専念観察彼仏。凡起三業 必須真実故 名至誠心。{乃至}
三者回向発願心。所作一切善根 悉皆回 願往生 故名回向発願心。具此三心 必得生也。若少一心即不得生。如『観経』具説 応知。{乃至}
又菩薩已勉生死 所作善法回 求仏果 即是自利。
教化衆生 尽未来際 即是利他。
然今時衆生 悉為煩悩繋縛 未勉悪道生死等苦。随縁起行 一切善根具速回 願往生阿弥陀仏国。到彼国已 更無所畏。如上四修 自然任運 自利利他無不具足。応知。

【読方】またいわく、観経の説のごとし。まず三心を具してかならず往生をう。何等をか三とする。一には至誠心、いわゆる身業にかの仏を礼拝し、口業にかの仏を讃嘆し称揚し、意業にかの仏を専念し観察す。凡そ三業を起こすに、かならず真実を須〈もち〉いるがゆえに至誠心となづく。(乃至)三には回向発願心、所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず。かるがゆえに回向発願心をなづく。この三心を具してかならず生ずることを得。もし一心少〈か〉けぬればすなわち生ずることをえず。観経に具にとくがごとし。しるべし。(乃至)菩薩は
(3-320)
すでに生死をまぬかれて、所作の善法、回して仏果をもとむ。すなわちこれ自利なり。衆生を教化して未来際をつくす。すなわちこれ利他なり。然るに今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いま悪道生死等の苦をまぬかれず。縁に随いて行を起こして、一切の善根具に速やかに回して、阿弥陀仏の国に往生せんと願ぜん。彼の国到り已りて、更に畏るるところ無けん。上の如きの四修、自然任運にして自利利他具足せざることなし。しるべし。
【字解】一。四修  仏道修行を四種に分かてるもの。これに聖道、浄土の二種あり。今は浄土の四修である。第一、恭敬修 仏及び一切の聖者を恭敬すること。第二、無余修 専ら阿弥陀仏名を称して、また弥陀仏及び聖衆を礼讃して余業を交えざること。三、無間修 恭敬、礼拝、称名、讃嘆、憶念等をなすに、常に心々相続して念を隔てず、時を隔てず、清浄にして余念を交えざること。四、長時衆 一生涯を通じて修むることを誓い、決して中止しないこと。
【文科】『礼讃』前序の文によりて自力の三心を明かし給う。
【講義】また『往生礼讃』の文に云わく、『観経』に説かれてあるように、先ず三心を具足するならば、必ず間違いなく浄土の往生することが出来るのである。その三心とは如何なるものであるか。
 一は至誠心、身業に彼の阿弥陀仏を礼拝し、口業には彼の仏の威神功徳を讃嘆称揚〈ほめたた〉え、意業
(3-321)
には専ら阿弥陀仏を念じ奉り、観察〈こころにうか〉べ奉り、凡そ彼の御仏に対し奉りて身口意の三業に起こす所は、必ず誠実〈まこと〉にして虚偽〈いつわり〉を離れておる故に至誠心と名づけるのである。乃至
 三には回向発願心、自ら修めた所の一切善根功徳は、悉く皆如来の方に捧げ奉り、それを因〈たね〉として極楽に往生せんと願う、これを回向発願心と名づけるのである。即ち如来に対する至誠心は必ずこの願求の心を具えておるのである。回向発願心は至誠心の活躍したものである。
 ここに第二の深心を略してあるが、この『観経』の自力の三心を具足すれば、化土に往生することは疑いない。けれどももし真実の一心即ち他力回向の信心を欠くならば真実報土の往生は出来ないことである。それは『観経』に具に説いてある。『観経』の当相には表われておらぬようであるが、眼を一経の幽意に注いで、その隠説を見るならば、自力他力の信心によりて報土化土の果を得ることは委しく説示してあるのである。乃至
 また大乗菩薩の自行化他を案ずるに、菩薩はその修行の力によりて、既に生死輪回に迷うことはなくなっている。そして作〈な〉す所の善根功徳をもって正覚の果を得んことを求める。それは即ち自利である。而もこれと同時に一切衆生に化益を施し未来際を尽くして終わることはない。
(3-322)
これは即ち利他である。菩薩はこの自利利他の行によりて仏果を証するのである。
 然るに当今の衆生は、悉く煩悩悪業の為に繋縛〈しばりつけ〉られて生死〈まよい〉の三悪道を免れ出でることが出来ずにいる。それであるから上根の菩薩の後を追うことは出来ない。唯速やかに縁に随い自己の能力に応じたる定散の行を励み、それによりて得る所の一切の善根を悉く阿弥陀如来に捧げ奉り、そして極楽浄土に往生せんことを願うに若〈し〉くはない、一度彼の浄土に生まれるならば、もう外魔悪業等の凡てに就いて畏るることは要らぬ。上に述べた無余修、長時修等は四修の行は、努力をまたずして自然に滞りなく、実現せられ、自利利他の大行は自ら行者に具足せられる。これは極楽浄土の土徳の然らしむる所である。

又云
若欲捨専 修雑業者 百時希得一二 千時希得五三。
何以故 乃由雑縁乱動 失正念故
与仏本願不相応故
与教相違故
不順仏語故
係念不相続故
憶想間断故
回願 不慇重真実故
貪瞋諸見 煩悩来間断故 無有慙愧・懺悔心故。
懺悔有三品。{乃至}
上・中・下。
上品懺悔者 身毛孔中血流 眼中血出者 名上品懺悔。
中品懺悔者 徧身熱汗 従毛孔出 眼中血流者 名中品懺悔。
下品懺悔者 徧身徹熱 眼中涙出者 名下品懺悔。
此等三品雖有差別 是久 種解脱分善根人。致使 今生敬法 重人 不惜身命 乃至小罪若懺 即能徹心髓 能如此懺者 不問久近 所有重障 皆頓滅尽。
若不如此 縦使日夜十二時急走 終是無益。差不作者 応知。雖不能 流涙・流血等 但能真心徹到者 即与上同。{已上}

【読方】またいわく、もし専を捨てて雑業を修せんとする者は、百はときにまれに一二を得、千はときにまれに五三を得。何をもっての故に。いまし雑縁乱動して正念を失するによるがゆえに。仏の本願と相応せざるがゆえに。教と相違せるがゆえに。仏語に順せざるがゆえに。係念相続せざるがゆえに。憶念間断するがゆえに。回願慇重真実ならざるがゆえに。貪瞋諸見の煩悩きたりて間断するがゆえに。慚愧懺悔の心あることなきがゆえに。懺悔に三品あり。(乃至)上中下なり。上品の懺悔というは、身の毛孔の中より血ながれ、眼の中より血出づるものを上品の懺悔となづく、中品の懺悔というは、遍身に熱き汗、毛孔より出で、眼の中より血ながるるものを中品の懺悔となづく。下品の懺悔というは、遍身にとおり熱くして眼の中より涙いづるものを下品の懺悔となづく。これらの三品差別ありといえども、これ久しく解脱分の善根を種〈う〉えたる人なり。今生に法を敬い人を重くして身命をおしまず、乃至小罪ももし懺すれば、即ちよく心髄にとおりて、能くかくの如く懺すれば、久近を
(3-324)
とわず所有の重障の頓に滅尽せしむることを致す。もしかくの如くせざれば、たとい日夜十二時に急に走〈もとむ〉れどもついに益なし。差〈たが〉いて作〈な〉さざる者は、応に知るべし、流涙流血等にあたわずと雖もただよく真心徹到する者はすなわち上とおなじ。已上
【字解】一。雑業  雑行の意、即ち五種の正行を除いたる余の功徳善根のこと。但しここでは雑行の外に、五正行中の正定業たる第四の念仏を除いて、他の読誦、観察、礼拝、讃嘆の助業をも含む。
 二。正念  他力信心のこと。
 三。係念  念を四方に係ける意、一心専念のこと。
 四。真心徹到  真心は誠の心、浮いた心でなしに深く心に徹到〈つきとお〉ること。中心から命懸けに懺悔すること。この心は如来回向の信心の相である。
【文科】『礼讃』の文によりて雑修の失を判じ給う。
【講義】また『往生礼讃』に云わく、もし浄土往生の正因たる専修称名の一行を捨てて助業や雑行を修めるならば、百人の中に僅かに一二人、千人の中僅かに五人か三人位しか往生することが出来ぬであろう。但しそれだけの人が往生することが出来るのは、元より化土の往生である。真実報土ならば千中無一、万不一生である。真実報土へは回向の信行によりての外は決して往生することを得ない。
(3-325)
 何故かと云えば、これらの雑業を修める人達は、力弱い不確実な自力に依りているのであるから、第一に外界から乱れ来る様々の刺激が悪縁となって、信心を得せしめない。第二にこの自力の雑業は弥陀の本願に叶うてはおらない。第三に釈迦如来の出世の本意たる教えと相違している。第四に十方諸仏の証誠讃嘆の御語に順〈したご〉うてはおらぬ。第五に自力の行であるから一心に浄土を念ずることが相続せない。第六に如来の常に憶念〈おも〉い奉ることが間断〈きれぎれ〉になる、第七に如来に向い奉りて回向発願して願生する念〈おもい〉が慇懃〈ねんごろ〉でなく、亦誠実〈まこと〉でなく、常に疎々〈うとうと〉しい、
 以上第五より第七まで親疎に就いて述べたのである。
 第八に自力の雑業を修める時には、貪欲、瞋恚等の三毒の煩悩、並びにさまざまの悪邪見が障りをなして、修道の心を間断にする。第九にこれら自力の修道者には慚愧の心、懺悔の念がない。これが甚だしい修道の妨げである。
 懺悔について三種あり、乃至 即ち上中下に分かつ。上品の懺悔とは身体中の毛孔から血を流し眼の中から血涙を流す。かような熾烈なる懺悔が上品の懺悔である。中品の懺悔とは、遍身〈からだぢゅう〉の毛孔から熱い汗を絞り、眼の中から血涙を流す懺悔。下品の懺悔とは、遍身〈からだぢゅう〉が内外を
(3-326)
徹してほてり、眼から熱涙を流す懺悔をいうのである。これらの三品の懺悔に差別はあるが、何れにしても宿世に菩提心を発〈おこ〉したその善根によりて、今生に法を敬う心篤く、また僧を重んじ、仏法僧の為に身命を惜しまないようになり、乃至 小罪でも懺悔する時には、上の如く心髄に徹〈とお〉るような深みに触れることが出来るのである。それであるから能くかように懺悔するならば、時間の長短に関せず、所有重罪は霜の朝日に消ゆるように、速やかに滅び尽くして仕舞うのである。もしかような熾烈なる懺悔に依らなければ、縦使〈よしや〉日夜十二時即ち昼夜休むことなく、頭燃を払うように気を焦〈いら〉ちて奔〈はし〉り回っても、畢竟何も益するところはない。併しそれかと云うて、急奔急作の行を全くせないならば、これ亦何の得る所もないことは言うまでもない。
 但し涙を流し、血を流すような熾烈なる三品の懺悔はせずとも、但よく如来の真実心に徹入し、仏凡一体の妙境に達するならば、上の三品の懺悔に等しいのである。即ち真心徹到する人は金剛心の人であるからである。
【余義】一。善導大師『往生礼讃』に雑修の十三失を挙げ給う中、今はその九失を出し給うのである。残りの四失はこの下真門の処に出し給うたある。かく九失と四失とを、要
(3-327)
門と真門との下に分かって出し給うたのは、九失は雑修雑心の失、四失は専修雑心の失であるからである。雑修というは法の失、雑心は機の失にて、真門には機の失あれども、法の失なく、要門には法の失もあり機の失もあるから、雑修雑心の失たる九失をこの要門の下に出し、専修雑心の失たる四失を真門の下に出し給うたのである。雑修というは雑行と同じい意味であって、雑行が行体に就いて名づけられるに反して、雑修は機に就いて名づけられる相違があるだけである。しかしかく九失と四失と要門と真門にわかつのは、所謂拠勝為論で、要門には雑修の失がないから暫らく九失と四失とを分かったので、剋実して論ずれば、要門真門共に十三失あるのである。
 それで、この九失を図示して見ると下のごとくなる。

 (挿図 yakk3-328.gif)
 (一) 雑縁乱動失正念────────────所成
 (二) 与仏本願不相違──┐
 (三) 与教相違─────┼─三仏三随順の反─能成
 (四) 不順仏語─────┘
 (五) 係年不相続───相続心の反─┐
(3-328)
 (六) 憶想間断──── 一心の反─┼─失正念を開く
 (七) 回願不慇重真実──淳心の反─┘
 (八) 貧瞋諸見煩悩来間断──外障─┐
                   ├─雑縁乱動を開く
 (九) 無有慚愧懺悔心────内障─┘

これを摂〈おさ〉むれば、前四失となり、第一の失は所成、第二三四失は能成である。即ちこの二三四失は序〈つい〉での如く、三仏三随順の相反で、この三不随順は本願不相応の一に治まり、本願と相応せないから、雑縁乱動して正念を失するのである。『和讃』には、これを「本願相応せざるがゆえ、雑縁きたりみだるなり。信心乱失するゆえに、正念うすとはのべたまう」と宣もうてる。
 次の五失は第五第六第七は『論註』の淳一相続の三信の相反で、信心乱失のすがたである。第八第九は、前者は外障、後者は内障であって、雑縁乱動のすがたを顕わしたものである。それでこの九失はつづむれば前の四失となり、この四失の関係は所成能成となるのである。
(3-329)

又云
総 不論照摂 余雑業行者。

【読方】またいわく、すべて余の雑業の行者を照摂すということを論ぜず。
【文科】『観念法門』護念縁の文によりて、仏光雑業者を摂取せずと標し給う。
【講義】また『観念法門』に云わく、弥陀如来の摂取の心光は、唯念仏の行者を摂護し給うので、その余の雑行を修し、雑修をこのむ輩を摂取し摂護し給うことはないのである。

又云
如来出現於五濁 随宜方便化群萌
或説多聞而得度 或説少解証三明
或教福恵双除障 或教禅念座思量
種種法門皆解脱

【読方】またいわく、如来五濁に出現して、宜しきにしたがいて方便して群萌を化したまう。或は多聞にしてしかも得度すととき、或は少しく解りて三明を証すととく。あるいは福慧ならべて障りを除くと教え、あるいは禅念して坐して思量せよとおしう。種々の法門みな解脱す。
【字解】一。群萌  衆生に同じ。雑草の芽を生ずるように、迷界に群がり生ずる故にいう。
  二。福慧  福徳と智慧、六波羅蜜のこと。布施、持戒、忍辱、精進、禅定の前五は福、後の智慧は慧である。
【文科】『法事讃』如来出現の文によりて、仏一代の摂化方便を述べ給う。
(3-330)
【講義】また『法事讃』下に云わく、釈迦如来この五濁悪世に出現〈おでまし〉になって、機の宜しきに応じて、方便を巡らし群萌を化益し給う、或は如来の教説を多く聞いて生死を度脱すると説かれた。即ちこれは声聞教である。或は少しく法門を解了して三明を証るとも説かれた。それは縁覚教である。或は亦大乗菩薩の法を説いて、福徳(六度中の前の五)と智慧(六度中の後の一)双べ行して煩悩障、所知障を除くとも説かれた。以上は三乗教にして教であるが、更にまた禅を説かれ、座禅して深く己心を思量〈かんが〉えよと教えられた。これらの教禅の様々の法門は、教えの如く修行すれば皆それによりて解脱することが出来るのである。

又云
万劫修功実難続 一時煩悩百千間
若待娑婆証法忍 六道恒沙劫未期
門門不同名漸教 万劫苦行証無生
畢命為期専念仏 須臾命断仏迎将
一食之時尚有間 如何万劫不貪瞋
貪瞋障受人天路 三悪四趣内安身{抄要}

【読方】またいわく、万劫に功を修せんこと実に続きがたし。一時に煩悩百千〈ももたび、ちたび〉間〈まじ〉わる。もし娑婆にして法忍を証せんことをまたば、六道にして恒沙劫にもいまだ期あらじ。門々不同なるを漸教となづく。万劫苦行して無生を証す。畢命を期としてもっぱら念仏すべし。須臾に命断すれば仏迎え将〈いで〉ます。一食の時なお間〈ひま〉あり。いかん
(3-331)
ぞ万劫に貪瞋せざらん。貪瞋は人天をうくる路を障う。三悪四趣の内に身を案ず。要を抄す
【字解】一。万劫  一万遍の劫波。聖道門には十信の凡夫位に一万劫を経なければ、初住不退位に入ることが出来ない。故にここに万劫というは、聖道門の十信一万劫を指すのである。
  二。法忍  無生法忍のこと。不生不滅の真如法性を認知して安住決定する位、七地以上十地の位をいう。或は初地不退位、または初住不退位をもいう。
  三。三悪四趣  三悪は三悪道。地獄道、餓鬼道、畜生道のこと。四趣は四悪趣。上の三悪道より修羅道を開きたるもの。趣は趣き住むの意。
【文科】『般舟讃』の文によりて、捨聖帰浄を勧め給う。
【講義】また『般舟讃』に云わく、通途の念仏修行する時は、十信の位に一万劫を経過して初住の不退位に入ると称せられてある。然るにこの万劫の間修行の功を積み、少しも退堕せずして継続してゆくということは容易のことではない。一時の間でも百千種の煩悩が群がり起こって、修道心を散々に破るではないか。さればもしこの娑婆界に於いて不退の位を証することを待つならば、六道を経巡りて恒沙無量の劫波を経ても、出離の時期はないであろう。
 良〈まこと〉や教の門戸を異にしているものを漸教と名づける。これは皆な方便教であるからである。
(3-332)
この教えによれば、万劫の長い間、苦行の功を積みて不退無生の位を証るという。かような歴劫迂回の聖道門に滞ってはならぬ。
 即ち聖道方便の教を脱れて、浄土真実の法門に入るが宜しい。命のある間、専ら念仏するならば命終の時如来は必ず来迎し給い、須臾にして浄土へ往生せしめ給うのである。
 これというも外ではない。もし聖道の難行を修することになれば、万劫の長い間にどうして貪欲、瞋恚の煩悩を起こさないで済もうか。然るにこれらの煩悩は、証りを妨げるよりも、もっと低い人間天上の果報を受けることさえ障りをなして、地獄、餓鬼、畜生の三悪道(これに修羅を加えて四悪趣)の中にその身を置くでないか。

又云
定散倶回入宝国 即是如来異方便
韋提即是女人相 貪瞋具足凡夫位{已上}

【読方】またいわく、定散ともに回して宝国にいれ。即ちこれ如来の異の方便なり。韋提はすなわちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり。已上
【字解】一。韋提  韋提希(Vaidehi)夫人。摩竭陀国主婆娑羅王の妃。北の隣国毘舎離(Vaisali)国主チェー
(3-333)
タカ(Chetaka)王の娘である。毘舎離女と呼ばれ、思惟、勝身等と訳せらる。頻王がその子阿闍世の為に幽閉せられ、韋提希も亦監禁の身となるや、深く人生の悲痛を感じ、釈尊に説法を請い奉ったので、釈尊は為に『観無量寿経』を説かれた。
【文科】『般舟讃』定散倶回の文によりて、自力の定散をすてて他力に帰せよと勧め、実機を指し示し給う。
【講義】また『般舟讃』に云わく、浄土の方便たる定善心も散善心も倶に翻して本願の正意に帰し、真実報土の往生を遂げよ。これぞ釈迦如来が特異〈とく〉に開設せられたる方便にして即ちこれ弘願他力の正意である。
 見よ、『観経』の正所被の機として、また本経興起の代表者たる韋提希夫人は、正しき一個の女性として、貪欲、瞋恚、愚痴の煩悩に繋縛せられている罪業の凡人ではないか。この定散の二善を修し兼ねる彼女は、正しく他力念仏の一道によりて生死を脱〈のが〉れることが出来たのである。已上

第二科 曇鸞大師の釈文

『論註』曰
有二種功徳相。一者従有漏心生 不順法性。所謂凡夫・人・天諸善 人・天果報 若因若果 皆是顛倒 皆是虚偽。故名不実功徳。{已上}

【読方】論の註にいわく、二種の功徳の相あり。一には有漏の心より生じ法性に順ぜず。いわゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒す。みなこれ虚偽なり。かるがゆえに不実の功徳となづく。已上
【字解】一。有漏心  漏は漏泄の義、煩悩のこと。自他の煩悩を増長せしむる煩悩心のこと。凡夫の心を指す。
【文科】『論註』の文によりて有漏心所生の功徳を貶し給う。
【講義】『浄土論註』上に云わく、功徳相に二種ある。一には煩悩心から生まれた功徳である。これは迷妄から起こったものであるから真如法性の理に叶うてはおらぬ。所謂天上、人間の迷いの凡夫が修めた諸善及びこれらの善によりて得る所の果報をいう。これら迷いの因果は真実の因果と比ぶれば、皆顛倒である。皆一括にして虚偽である。それであるからこれらを真実功徳とは名づけず、不実功徳と名づけるのである。
 一般人はこれら有漏の功徳に執着して、真実功徳相を知らずにおる。暫らくこれらの不実の功徳を翻して真実功徳相に転入せねばならぬ。

第三科 道綽禅師の釈文

『安楽集』云
引『大集経』月蔵分言 我末法時中 億億衆生起行修道 未有一人得者。当今末法 是五濁悪世 唯有浄土一門 可通入路。
又云
未 満一万劫 已来 恒未勉火宅 顛倒墜堕故。各用功 至重 獲報偽也。{已上}

【読方】安楽集に、大集経の月蔵分をひきていわく、わが末法の時の中の億々の衆生、行をおこし道を修せんに、いまだ一人として得るものあらじと。当今は末法これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。またいわく、いまだ一万劫に満たざるこのかたは、恒にいまだ火宅をまぬかれず。顛倒墜堕するがゆえに、おのおの功を用いることは至りておもく、報をうることは偽なり。 已上
【字解】一。大集経月蔵分  『大集経』は具には『大方等大集経』(Mahabaipuly-Mahasamupata-Sutra)六十巻。北涼の天竺三蔵曇無讖等の訳。月蔵分は、最後の須弥蔵分の次上にあり、月憧神呪品より法滅尽品に至る二十品を含む。また月蔵分は独立して『大方等大集月蔵経』と称せられ、隋の天竺三蔵、那連提黎耶舎に訳せらる。魔王波旬詣仏所品乃至法尽品等二十品あり。この下の文は五ケの五百年の取意の文である。
【文科】『安楽集』によりて末世の機教を顕示し給う。
【講義】道綽禅師はその著『安楽集』上に『大方等大集経』月蔵分の文を取意して、かように仰せられてある。
(3-336)
 釈尊のたまわく、我末法の時節に及んでは、億々の衆生が修行を励み、道に進んでも、未だ一人も証りを得るものはないであろう。
 この教説に就いて考えて見るに、当今は末法万年の初期に属し、世は五濁に穢されておる。通途の自力の修行では釈尊の前もって説かれたように、成仏得道は望みの断えたことである。唯ここに他力易行の大道たる浄土の法門だけが、凡夫直入の近路〈ちかみち〉として、一切衆生の為にその門戸を開いておるのである。
 また『安楽集』下に云わく。十信の位の間一万劫を経過せない間は、どうしても生死の火宅を免れることは出来ない。この間の長遠なる修道の間は、常に魔縁、魔障に妨げられて修行を退堕し、生死海中に落ちこんで漂蕩〈ただよ〉わされる。これが聖道門の至難なる点である。すなわち斯道に進む人々は、自力の努力を注ぐこと極めて重いにも係わらず、その獲る所の果報は虚偽顛倒の生死の苦果である。故に我々は第一にこの踏み出しに就いて、充分なる思慮を須いねばならぬ。

第二節 私釈の一(三経通顕)

(3-337)

第一項 三経隠顕
然今拠『大本』 超発 真実・方便之願。
亦『観経』 顕彰 方便・真実之教。
『小本』 唯開真門 無方便之善。
是以三経真実 選択本願為宗也。
復三経方便 即是修諸善根 為要也。

【読方】然るにいま大本によるに真実方便の願を超発す。また観経には方便真実の教を顕彰す。小本にはただ真門をひらきて方便の善なし。ここをもって三経の真実は選択本願を宗とするなり。また三経の方便はすなわちこれ諸の善根を修するを要とするなり。
【字解】一。大本  『大無量寿経』のこと。正依の三経の中、この経は広く浄土因果を明かすにより、『阿弥陀経』の略明に対して大本と称す。
  二。小本  『阿弥陀経』のこと。『大無量寿経』の広説に対して、本経には簡潔に浄土の因果を説く故に小本という。
  三。真門  要、真、弘三門の一。『阿弥陀経』の顕説に示されたる自力念仏の教をいう。これ第二十願成就の法にて、機は自力であるが、法は他力真実の名号であるから、第十九願成就の諸行往生の方便仮門たる要門に対して真門と名づく。されど第十八願の純他力の法門に対すれば、尚方便門たるを免れることは出来ぬ。
(3-338)
【文科】三経について隠顕の義を釈し、その真実を明示したまう。
【講義】然るに『大経』によれば、そこには弘願他力を説かれたる真実の第十八願と並びに修諸功徳等を説かれたる方便の第十九願、第二十願を超発され、明らかに真実と方便の相〈ありさま〉を示された。亦『観経』には、表には方便の定散二善を説き、その裏面に弘願真実の一法を説かれた。然るに『阿弥陀経』には唯自力念仏の真門の一法を説いて、定散二善等の方便の教を説かれてない。
 それ故に今これら三経に亘りて考えて見るに、三経の真実とする所は、如来選択の本願たる他力の行信をもって宗要〈かなめ〉とするのである。これは弥陀如来の願意であって、三経に一貫した根本精神である。この三経の真実に対して、三経の方便とする所は、定善散善等の一切の善根功徳を修することを宗要〈かなめ〉とするのである。
【余義】一。先に『観経』の隠顕両面ある旨を大体の上から申し来たって、その証として、善導、曇鸞、道綽の十七個の釈文を引用せしに依り、今この私釈に来たって、正しく『観経』一経に隠顕両面あるを釈成し給うのである。抑『観経』にかくの如く隠顕両面あるは、もと『大経』所説の弥陀の本願に、真実方便の両願あるに依り、釈迦如来、その
(3-339)
本願の思召しに依り、善巧方便して、方便の願を一経に開設し給うたからである。それで今この私釈に於いては、先ず初めに『大経』に真実方便の願を超発すといい、次に『観経』を出し、『小経』をも並べ出し、三経対弁して、然る後に正しく『観経』の隠顕の義を示し、三経の宗とする所は隠彰の他力信心にありと釈成し給うのである。文中の真実方便の願というは、いうまでもなく、十八願と十九、二十願のことである。方便真実の願というは、『観経』一経の顕説と隠彰のことである。『大経』は顕露〈あらわ〉に真実を説いた経典であるから、真実を先に出して真実方便の願といい、『観経』は顕説方便の経典であるから、方便を先に出して、方便真実之教といったものである。『小経』に方便之善なしというは、『小経』は教頓機漸といい、法は他力念仏の真実の法なれども、機が自力の漸機ゆえに、方便真門を教となるのであって、法には方便なきことを示すのである。
 それで、以上述べ来たったところを帰納し約言すれば、大観小三経の真実は第十八選択本願を宗とするのである。『大経』第十八願の所説と、観小二経の隠彰の実義とは全然一致して、茲に三経一致となるのである。然し『観経』には顕に方便を説き、『小経』また顕説真門方便にて、『大経』の十九二十の方便の願に応ずれば、三経の方便の一面は修諸善根を
(3-340)
要とするのである。

第二項 『観経』隠顕
第一科 方便門
依此 按方便之願 有仮有真 亦有行有信。願者即是 臨終現前之願也。
行者即是 修諸功徳之善也。
信者即是 至心・発願・欲生之心也。

【読方】これによりて方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願というは即ち臨終現前の願なり。行というは即ちこれ修諸功徳の善なり。信というはすなわちこれ至心発願欲生の心なり。
【文科】『観経』隠顕の中、初めに方便の行信を標し給う。
【講義】この見解に立ちて方便を説き給える第十九願そのものを考えて見るに、この願の中に権仮方便と真実とがある。即ち願の表面を見れば方便の諸善を修めることを説いてあるが、これを説かれた如来の幽意は、初めにこれらの諸善をもって衆生を誘引し欣慕せしめ、そして遂にこれら方便を方便としらしめて真実の弘願に転入せしめんとの真実の御意が動いて
(3-341)
いるのである。
 亦この方便の願には、行と信とがある。その願とは第十九願臨終現前之願である。その願に誓わせられた行は、定散二善等の諸の功徳善根を修めることをいう。また信は至心、発願、欲生の自力の信である。すなわち至心をもって修むる所の善根を回向して往生浄土を願求する心をいう。これ第十九願方便の行信である。
【余義】一。「方便の願を案ずるに仮あり真あり」という文について、『樹心録』には二通りの解釈法が挙げてある。一は方便の願というを第十九、第二十の両願と見て、方便の願に、第十九の仮門と、第二十の真門があるという見方である。これを下にいうが如く願に隠顕を立つるを嫌って、こういう解釈をしたものであるけれども、その解釈としては適当でない。何故なれば、次下に「願というは臨終現前之願也」とあり、明らかに、この方便の願というを第十九願のことと制約してあるからである。それで『六要』九 十一丁の「方便真門の願に真実あり方便あり」とあるに相対するのである。第二の解釈は、仮真を方便と真実とに解し、第十九願には修諸功徳の方便と弘願の真実があるというのである。願に真仮があるというて、これを直ちに隠顕と解し、本願に隠顕があるというのではない。隠顕は釈
(3-342)
尊の教説に関して立てたもので、願についていうべきものでない。第十九願は修諸功徳の方便を誓うたものであるが、阿弥陀如来の願を立て給うた意趣から伺うときには、この願を以て衆生を導いて弘願他力に入らしめるためであるから、第十九願の本意第十八願にあるを真というたものである。それで、今この願に仮有り真有りというを承けて、「有仮(仮あり)」に対して、「顕開浄土之要門方便権仮(浄土の要門方便権仮を顕開す)」といい、「有真(真あり)」に対して、「亦此経有真実斯乃開金剛真心欲顕摂取不捨(またこの経に真実あり。これすなわち金剛の真心を開き摂取不捨を顕わさんと欲す)」と宣うたものである。

依此願之行信 顕開 浄土之要門方便権仮。

従此要門 出 正・助・雑 三行。就此正助中 有専修 有雑修。就機有二種。一者定機 二者散機也。又有二種三心。亦有二種往生。二種三心者 一者定三心 二者散三心。定散心者 即自利各別心也。
二種往生者 一者即往生 二者便往生。便往生者即是胎生辺地 双樹林下往生也。
即往生者 即是報土化生也。

【読方】この願の行信によりて浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正助雑の三行をいだせり。
(3-343)
この正助の中について専修あり雑修あり。機について二種あり。一には定機、二には散機なり。また二種の三心あり。また二種の往生あり。二種の三心というは、一には定の三心、二には散の三心なり。定散の心は即ち自利各別の心なり。二種の往生というは、一には即往生、二には便往生なり。便往生というは、すなわちこれ胎生辺地双樹林下の往生なり。即往生というは、すなわちこれ報土化生なり。
【字解】一。要門  要真弘三門の一。弥陀の第十九願成就の法にて、『観無量寿経』に顕説せられたる定散自力の教をいう。これらの定散自力の諸行は、弘願の要法に転入する門戸であるから要門と称せられるのである。
  二。胎生辺地  懈慢界の称。第十九願要門自力の行者の生まるる化土をいう。上二二八頁、懈慢界、疑城胎宮を看よ。
  三。双樹林下往生  第十九願自力修善の往生である。上二一九頁をみよ。
【文科】方便門の中、浄土の要門を詳述し給う。
【講義】この第十九願の行信に依りて、釈迦如来は浄土の要門(弘願真実に入る為の要道)即ち弘願真実の為には方便であり権仮である所の教えを顕開された。そしてこの要門から正行助行雑行の三行を開き出された。

(挿図 yakk3-344.gif)
   ┌─正──五正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養)
(3-344)
   └─助──前三後一(第四の称名を除いた他の四正行)

 この正助二行を正しく実修する上に於いて、専修と雑修の二つがある。即ちこれらの一行を専修すると、二行三行を兼修するとの相違である。専修という名はあれども、この場合は弘願他力でないことは無論である。
 またこの正助二行を修める機類に就いては、定善の機と散善の機の二種ある。
 またこれを信の上から観察すれば、二種の三心となる。そしてそれを結果より見れば二種の往生がある。二種の三心とは定善の機の起す所の定の三心即ち瞑想的な禅定的な三心、並びに散善の機の起す所の散の三心である。この定散二善の機類の三心というのは、即ち自力の機類に不同があるから、種々無量に相違せる三心である。次の二種の往生とは、即往生と便往生で、後者は胎生辺地の往生、即ち化土の往生で、これを三往生から云えば第十九願の双樹林下往生である。前者は真実報土の往生にして、正覚の華より化生する第十八願の往生である。
【余義】一。「この願の行信に依って浄土の要門方便権仮を顕開す」というは、正しく釈尊が『観経』を説き給うことを示すのである。「この要門より正助雑三行を出す」というは、
(3-345)
『観経』一部に説き明かされたる行体を出し給うのである。これまで主として善導大師の釈文を引用して来たから、今も正助雑という善導大師の名目を藉りて行体を出し給うのである。しかし善導大師の常に用い給う正雑二行と云わず、特に正助雑三行というは、善導大師に依って、この名目を用いながら、猶その釈義に至っては、多少大師のそれと異なるところあるを示し給うのである。今茲にその異なる所を述べて見よう。
 二。『観経』の正宗分に定散二善正雑二行の説いてあることはいうまでもない。正行というは開けば読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五正行である。合すれば正定業(第四)助業(前三後一)の二業である。これを開門五種、合門二種と呼んでいる。この開門五種の時は、五正行の中観察と称名を以て主体とし、読誦は観察の加行、礼拝は称名の加行、讃嘆供養は観察と称名に通ずる等流の正行である。それで『観経』の正宗分は観仏三昧と念仏三昧を両宗とするのである。かくの如く開いて五種とする時には、観仏念仏両宗あるが、しかもこの中猶観仏三昧を主とするものにして共に要門に属する。合して正助二業とする時は、附属の文の念仏の一行こそ弥陀の本願なるが故に、余行を廃してこの念仏を附属し給う廃立の位から見るものにて、弘願に属するのである。これが今家浄土
(3-346)
真宗にて五正行を扱う時の法相である。
 ところが、善導大師は、五正行を『観経』の正宗分の顕説に就いて立て、観察の観仏三昧を要門とし、称名の念仏三昧を弘願となし給うのである。これが我が聖人の御指南と異なる点である。我が聖人は、前にいう通り、開門五種の時はすべて要門に属するものとなし給うのである。それで今茲に、「この要門より正助雑三行を出す」と宣うのである。我が聖人の御考えからして見ると、『観経』一部の法門は、『選択集』末九丁に善導大師の『疏』に依って、定散と念仏の二行を説くものとなされる如く、正宗分には定散二善を説き、流通分には念仏の一行を説き給うものとなされるのである。その定散二善というは、語を換えて言えば、正雑二行であり、正雑二行というは『観経』一部顕説の法門を総摂する要門自力の行である。試みにこれを『観経』の文についていえば、五正行の読誦というは、経文を読誦して、浄土の依正二報を相を知り、観察の加行とするものである。観察は、教説に従って修定し、浄土の荘厳を観ずることである。それでこの読誦と観察の二行は定善十三観に於いて立ててるものである。次に散善九品の中、上中六品には大小世間の諸善を説いてあるが、これは雑行である。次に下三品の合掌叉手は礼拝、称南無阿弥陀仏は称名である。第五の
(3-347)
正行讃嘆供養は称名と観察に通ずる等流の正行である。かくの如く見来る時には、この五正行中の称名は弘願他力の念仏に非ずして、散善に摂められる念仏である。十九願開設の経典たる『観経』顕説の要門自力の念仏である。それで、我が聖人は「この要門より正助雑三行を出す」と宣うたものである。勿論先にもいう如く正助と合ずる合門二種の時は弘願他力の念仏となるので、今茲に「要門より正助雑三行を出す」という用語は不穏当の様であるが、ここの正助は正助二業の正助ではなく、下(六要九 十二丁)に出体し給う如く、正とは五種正行、助とは他力念仏の外の四種五種六種の助正兼行を指したので、正行、助行、雑行の三行といったのである。(茲に称名を除いてと曰わず名号を除いてといい、名号の二字を出したのは他力の称名の意味である。また茲に四種とあるは五正行の中称名を除いて四種の意であるが、高田本には五種とある。この時は助正兼行の称名が自力の称名であるから他力の称名以外の五種の兼行という意味である)それで、茲では正助雑三行と云っても、善導大師の正雑二行の意味であるが、只善導大師の釈義と多少異点あるを示して、正雑二行と云わず、正助雑三行と宣うたものである。五正行を合して、称名を正定業とし、前三後一を助業とするは、流通の廃立より立て
(3-348)
たる合門であって、この時は、弘願他力の行となるのである。

(挿図 yakk3-348.gif)
 釈迦は要門ひらきつつ(序分の定善示観縁、散善顕行縁のこころ)

 定散諸機をこしらえて
           (正宗分のこころ、要門の正雑二行)
 正雑二行方便し

 ひとえに専修をすすめしむ(流通分のこころ、弘願の一向専修)

この一首の『和讃』に依って、我が聖人の見給うた『観経』の一部の大綱を知るべきである。
 三。それで、この五正行の中の念仏の扱いについて、善導法然両祖と、我が祖聖人と異なる点が出て来る。善導法然両祖は、念仏に自力他力隠顕をわけ給わず、真身観の念仏も、下三品の念仏も皆、弘願の念仏となされてある。上二九五頁に引いた『漢語灯録』二 三十三丁に『観経』の念仏の文を拾い集め給うたのに依っても這般の消息は知れるのである。両祖からすると、要門は定散二善、弘願は念仏と定められたのである。処が、我が祖はこの大判門から更に細判して、経に隠顕を立て、念仏に自力他力をわかち、『観経』所説の念仏は、顕説からすれば、自力要門の念仏、諸行の中に摂まる万行随一の念仏、隠彰の実義からすれば
(3-349)
弘願他力の念仏となされるのである。このことについては上二七六頁以下隠顕と廃立を説いた余義を参照して貰いたい。

第三科 真実門
亦此経有真実。斯乃開金剛真心 欲顕摂取不捨。然者濁世能化釈迦善逝 宣説 至心信楽之願心。
報土真因 信楽為正故也。
是以『大経』 言信楽。如来誓願疑蓋無雑故 言信也。
『観経』説深心。対諸機浅信故 言深也。
『小本』 言一心。二行無雑故 言一也。
復就一心 有深有浅。深者利他真実之心是也 浅者定散自利之心是也。

【読方】またこの経に真実あり。これすなわち金剛の真心をひらきて、摂取不捨をあらわさんとす。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまう。報土真因は信楽を正とするが故なり。ここをもって大経には信楽といえり。如来の誓願疑蓋まじわることなし。かるがゆえに信とのたまえるなり。観経には深心ととけり。諸機の浅信にたいせるがゆえに深といえるなり。小本には一心とのたまえり。二行雑わることなきがゆえに一と言えるなり。また一心について深あり浅あり。深いうは利他真実の心これなり。浅というは定散自利の心これなり。
【文科】『観経』の真実門を明かし給う一段。
(3-350)
【講義】亦この『観経』は方便の定散二善ばかりを説かれたのではなくして、真実の誓願が説かれてある。それは乃ち他力回向の金剛の真心の何たるかを開設して、如来の摂取不捨の理〈ことわ〉りを顕わさんが為である。されば五濁悪世に出現せられた教主釈迦牟尼善逝世尊は、『大経』第十八願たる至心信楽の願心を宣説〈おと〉き下されたのである。この如来の願心が凡夫に実現〈あらわ〉れた所が他力金剛の信心である。この如来回向の信なればこそ、報土往生の真因となる。即ち回向の信楽が正しく報土の真因なのである。それ故に『大経』に信楽を誓われたので、如来の誓願を信じて疑いの雑わることはないのを信というのである。この計らいを離れた本願を信ずる心が、回向の仏心の顕現したものである。これを『観経』には深心と説いてある。如来の深遠なる御心ということを表わしたので、機類の不同によりて実質の異なるという自力の浅薄なる信心に対して「深」と仰せられたものである。『阿弥陀経』には、これを一心と説かれた。弘願念仏の一行を専修する外に余行の雑わることがないからである。故に一と仰せられた。復この一心に就いて深浅の相違がある。深とは、凡夫自力の浅薄な一心ではなく、如来他力の真実心をいい、浅とは、定善散善を修する自力心を指すのである。
(3-351)

第三項 機相広述
第一科 引 文
依宗師意云 依心起於勝行。門余八万四千。漸・頓則各称所宜。随縁者則皆蒙解脱。

【読方】宗師のこころによるに、心によりて勝行をおこせり。門八万四千にあまれり。漸頓すなわちおのおの所宜にかのうて、縁に随うもの則ちみな解脱を蒙こうぶるといえり。
【文科】機相を述ぶる中、初めに総説。
【講義】上述の如く、本経に於いては真実方便の様々の教説があるが、この点に関する善導大師の見解を窺うに、如来は広く衆生の根機を知ろしめして様々の勝れた修行の様式を御説き下された。それであるから教の門戸が八万四千という多きに達したのである。歴劫迂回と長い修道を経て証りを開く漸教、または一念の立〈たちどころ〉に頓悟する頓教、何れにしても、各の根機に相応する所を選び、その良縁に随うて実修するならば、皆生死を解脱して証りに至ることが出来ると仰せられてある。
(3-352)

第二科 正 明
然常没凡愚 定心難修 息慮凝心故。散心難行 廃悪修善故。
是以 立相住心 尚難成故 言縦尽千年寿 法眼未曾開。
何況無相離念 誠難獲。故言 如来懸 知末代罪濁凡夫 立相住心尚不能得。
何況離相而求事者 如似 無術通人 居空立舎也。

【読方】しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに、散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたし。かるがゆえに縦い千年の寿をつくすとも法眼いまだかつてひらけじといえり。何にいわんや無相離念まことに獲がたし。かるがゆえに如来、懸〈はるか〉に末代罪濁の凡夫を知ろしめして、立相住心なお得ることあたわじ、何にいわんや相を離れてしかも事をもとめんは、術通なき人の空に居して舎をたてんがごとしといえり。
【字解】一。立相住心  『観経』に説く所の観法をいう。すなわち事観にして、立相は指方立相にて、西方に方処を定め、仏の相好を観じて、心を一処にと止どむる観法のこと。
  二。無相離念  上の事観に対す。理観のこと。相好光明等の事を観ぜす、疎雑の念慮を離れて、実相無相の真如実相を観ずること。
【文科】正しく末代凡夫の機相を述べ給う。
(3-353)
【講義】然るに過去遠々の昔から、常に生死海に浮沈して出離の便〈よすが〉もない愚かな凡夫は、中々もって定善の心を修めることは出来ない。それは散り乱れる心慮を息めて一境に心を専注するという至難なことに属するからである。また散善の心を実の如く行ずることも容易の業ではない。それは悪に浸っている心の悪を廃して善を修めるという困難をもっているからである。これは吾等のような悪凡夫に取りては、ちょうど水に入って湿〈ぬ〉れないことを求めるようなものである。それであるから『観経』に説かれてある所の浄土の相を立てて心を止住せしむる立相住心の観法を修するということさえ仕遂げることは出来ない。則ち「定善義」にもあるように、「縦い千年の寿命があっても真理を見るの智慧眼〈ちえのまなこ〉を開くということは未だ曾てないことである」と申されてある。かように有相の観法さえ出来ないとするならば、況や客観的には相を離れ、主観的には能観の念を離れた空寂な智慧を獲るというようなことに就いては、どうして吾等凡夫の能くする所であろうか。
 それ故に「定善義」には釈迦如来はるかに末世の罪に穢れた吾等凡人の根機を知ろしめされて、方便の相を立てて心を一境に専注する観法さえ出来難い、ましてこの相は離れて空寂の智慧を裳求むる無相離念の証〈さとり〉を獲ることは、神通を有たない人が、空におって舎を建てようとす
(3-354)
るようなものであると、仰せられてある。

第三科 文釈
言門余者 門者即八万四千仮門也。余者則本願一乗海也。

【読方】門余というは、門はすなわち八万四千の仮門なり。余はすなわち本願一乗海なり。
【文科】第二科の説を証せんが為に、上の所引の「玄義分」の「門余八万四千」の文を解釈し給う。
【講義】上に挙げた「玄義分」の文に「門余」云々とあるが、その「門」というのは釈迦如来御一代の間に説かれたる八万四千の法門をいう。これらの法門を云わば月を待つ間の手づさみという程のもので、真の出世の本懐の教えを説く迄の方便仮門の教えである。如来はこれら聖道八万四千の方便教をもって衆生の心田を耕し、そのよく純熟するをまって真実教を説かんとしたまうのである。
 「余」というは、これらの聖道の諸法門以外という意味で、則ち他力真実の本願、大乗無上の法門のことである。

第三節 私釈の二(聖浄対顕)

(3-355)

第一項 聖道門
凡就一代教 於此界中 入聖得果 名聖道門 云難行道。就此門中 有 大・小・漸・頓・一乗・二乗・三乗。権・実・顕・蜜・竪出・竪超。
則是自力利他教化地 方便権門之道路也。

【読方】おおよそ一代の教について、この界の中にして入聖得果する聖道門となづく。難行道といえり。この門のなかについて大小、漸頓、一乗、二乗、三乗、権実、顕密、竪出、竪超あり。すなわちこれ自力利他教化地方便権門の道路なり。
【字解】一。漸頓  漸教と頓教。漸教とは、文字言語によりて漸次に証果をうることを教えるもの、或は誘引的に大小乗の順序によりて教えるもの、または修行階級を経て漸次に証果の益をうる教えを指す。何れにしても漸次に証果を獲る教えを指す。
  頓教とは、文字言語を離れて直ちに絶対の真如を説く教え、または小大乗の順序をとらず、初めより大乗一仏乗を説く教え、または修行の階級を経ずして直ちに証果をうる教法を指す。何れにしても頓極に証果を得ることを示す教法を総称す。
  二。一乗  一仏乗のこと。権大乗は、三乗(声聞、縁覚、菩薩)各別の法を立てるが、一乗教は一切
(3-356)
衆生をして平等に悉く成仏せしむる法をたつ。ちょうど一の車をもって万人を乗載するようなものである。故に一乗という。
  三。二乗  声聞乗と縁覚乗をいう。または、声聞乗と菩薩乗、或は大乗と小乗等の称。一仏平等の教法ではなく、二乗差別の教法である。
  四。三乗  声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の称。或はこれを大乗(菩薩乗)、中乗(縁覚乗)、小乗(声聞乗)ともいう。かように各自が自己に適する教に運載せられて迷いを出ずる故に三乗教という。
  五。権実  権は権教、即ち方便の教え、実は実教、即ち真実の教えをいう。
  六。顕密  顕教と密教。顕教は衆生の機に応じて顕了に説かれたる教え。密教家(真言宗及び天台宗の一部)が自宗以外の教法を指していうのである。
  密教は他受用(他の為)応化身の随機方便の説たる顕教に対して、自受用(自の為)法性身が、自内証の法門を説きたる密教という。即ち大日法身如来が、自受用法楽の為に、自らの眷族とともに三密門をとくをいう。密教が自宗を讃めていう言である。
  七。竪出  真宗の教判たる二双四重判の一。竪は自力、出は漸証を顕わす。自力聖道門中の漸教をいう。歴劫修行をとく法相等の漸悟の法を指す。
  八。竪超  二双四重判の一。竪は自力、超は頓証を彰わす。自力聖道門中の頓教。即身成仏の法を説く所の華厳、天台、真言、禅宗等の実大乗教をいう。これらの教法は、自力にして而も頓悟の法であるから竪
(3-357)
超という。
【文科】聖道門の意義を示し給う。
【講義】凡て釈尊一代の教法に就いて、その証果を獲るという結果の方面から観察するに、この娑婆世界に於いて聖果を獲るのを聖道門と名づけ、またこれを修道の困難という点から難行道とも云われておる。この聖道門の中に、大乗あり小乗あり、漸教あり頓教あり、菩薩一乗の法門あり、声聞縁覚二乗の法門あり、また、声聞、縁覚、菩薩三乗の法門あり、また権教、実教、顕教、密教と分かれ、また自力の漸教たる竪出の教、自力の頓教たる竪超の教がある。かように様々の教と分かれているけども、深くこれら諸教の帰一する意義を繹〈たず〉ぬるに、一括して自力教であるが、この自力の法門を衆生に勧め給うは、還相回向の菩薩である。この菩薩は衆生済度の利他教化地の果より此の世に出現〈あら〉われて、これら自力の権仮方便の教をもって、衆生を誘引して、遂に真実門に入らしめんとし給うものである。即ち釈尊一代の教えに聖道浄土と対立する二つの法門のある筈はない。その所謂聖道門なるものは、浄土の還相の菩薩が衆生の機に応じて説き給う所の方便の門戸に過ぎないのである。この真実の見解に立てば、恰も千里の雲霽〈は〉れて、碧空に銀輪の影さわやかなる如く全法界を尽くして他力真実の
(3-358)
一法が長しえに、光を放っているのみである。

第二項 浄土門
第一科 釈名と総標
於安養浄刹 入聖証果 名浄土門 云易行道。就此門中 有横出・横超・仮・真・漸・頓・助・正・雑行・雑修・専修也。

【読方】安養浄刹にして入聖証果するを浄土門となづく。易行道といえり。この門のなかについて横出、横超、仮真、漸頓、助正、雑行、雑修、専修あるなり。
【字解】一。横出  二双四重判の一。横は他力、出は漸証を彰わす。定散の諸善を修めて弥陀の方便化土に往生することを説く。『観経』要門の教、並びに自力念仏を修する『弥陀経』真門の教をいう。他力にして而も漸証の法であるから横出という。(『第二巻』三八一頁参照)
  二。横超  二双四重判の一。他力浄土門の頓教をいう。獲信の一念に往生決定し、命終の時直ちに大涅槃を超証する『大経』真如門の教を指す。(『同上』)
【文科】浄土門の中、初めに釈名総標を出し給う。
【講義】聖道門の此の土に証果を獲るに対して、安楽浄土に於いて聖果を得る教えを浄土
(3-359)
門と名づけるのである。これをまた実修上より聖道門の難行道に対して易行道という。
 因みに易行ということは、単に「行じ易い」という便宜的な功利的な意味を表わしているのではなく、真実の大道に入る時は、自ずと自然法爾の道理にて易行という結果をもち来すので、これはそのまま教の真実なることを反証しているのである。
 この浄土門の中には、要門自力の教えたる横出、弘願他力の教えたる横超の二つがある。前者は権仮方便の教え、後者は弘願真実の教えである。そして要門は漸教、弘願は頓教、またこれを助正、雑行、雑修、専修等に分かたれてある。

第二科 所行体
正者五種正行也。助者除名号 已外五種是也。
雑行者 除正助已外 悉名雑行。此乃横出・漸教 定散・三福 三輩・九品 自力仮門也。

【読方】正というは五種の正行なり。助というは名号をのぞきて已外の四種これなり。雑行というは正助をのぞきて已外をことごとく雑行となづく。これすなわち横出、漸教、定散、三福、三輩、九品、自力仮門なり。
【文科】浄土門の修行の体として初めに横出の正、助、雑の三を挙げ給う。
(3-360)
【講義】この中、正というは浄土の五種正行を指す。助というは五正行の中から第四の称名を除いて余の読、観、礼、讃の四正行をいう。
 雑行というは、この浄土の正行助業を除いた余の一切の修道を尽く雑行と名づける。これらは阿弥陀如来に対して疎遠なる行業にして、そしてまた六度万行等の種々雑多なる行業であるから雑行と名づけられるのである。
 これらの正助、雑行は、『観経』に説かれたる要門自力教の内容にして、即ちこれを横出と名づける。また迂遠なる根機各別の果を得る教えであるから漸教と名づける。これ即ち定善、散善の法門にして、散善を開けば、三輩九品の機類に分かれるが、畢竟するに自力の方便仮門である。『観経』一部に亘りて説かれたる顕説の法門はこれより外はない。

横超者 憶念本願 離自力之心 是名横超他力也。斯即専中之専 頓中之頓 真中之真 乗中之一乗。斯乃真宗也。已顕真実行之中畢。

【読方】横超というは本願を憶念して自力の心をはなる。専修というはただ仏名を称念して自力の心を
(3-361)
離る。これを横超他力となづくるなり。これすなわち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。すなわち真宗なり。すでに真実行の中にあらわし畢んぬ。
【文科】浄土門の真実の所行の体として横超他力の行を挙げ給う。
【講義】次に浄土門中の横超というは、他力の本願を信じて自力の計らい心を離れるのである。この時如来の広大なる功徳智慧は、すべて吾等の功徳智慧となりて、仏凡一体の妙趣を得るのである。
 専修というは、弘願他力の行を示す、上の「憶念本願」は他力の大信、この裏を返せば他力の大行たるこの専修である。即ち唯如来の名号を称えて自力の計らい心を離れる事である。これを横超他力と名づける。
 これ即ち専修のなかの真実の専修である。あらゆる頓教中の唯一の頓教である。真実の了義教中の尤も真なる教えである、真実の一乗教中の最も至極した一乗教である。これが乃ち真宗の真意義〈まことのいわれ〉である。これは「行巻」の終りに諸善と念仏を比較べて四十八対の相対を明し委しく真実行の何たるかを述べてある。

第三科 能行相

(3-362)

夫 雑行・雑修 其言一而其意惟異。於雑之言 摂入万行。対五正行 有五種雑行。雑言 人・天・菩薩等解行 雑故曰雑。自本非往生因種 廻心回向之善。
故曰浄土之雑行也。

【読方】それ雑行雑修そのことば一にしてその意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五種の正行に対して五種の雑行あり。雑の言は人天菩薩等の解行雑せるがゆえに雑という。もとより往生の因種にあらず。回心回向の善なり。かるがゆえに雑行と雑修というなり。
【文科】能行の相を明かす中、第一に雑行と雑修の混同を簡び給う釈。
【講義】それ雑行雑修というは、雑の字は同一であるが、その意味はやや相違しているのである。雑行の雑は一般に行そのものに関して名づけたもので、よしや一行でも雑行といわれるので、即ちその行が浄土の行ともなり、また菩薩、人天の因行ともなる場合に雑行と名づけられる。この意味の於いて五戒十善は各みな雑行である。
 然るに雑修の雑はこれと異なり専ら弥陀一仏に向かい奉る上に於いて、その行業が幾個も間雑られることをいう。即ち五正行に就いて云えば、第四の称名と他の前三後一の四正行を兼業する如きは雑修と名づけるのである。
(3-363)
【余義】一。雑行雑修その言一にしてその意〈こころ〉惟〈これ〉異なり、善導法然両祖にあっては、正行即専修、雑行即雑修である。即ち雑行と雑修とは同体の異名である。正行雑行は行せられる行体について名を立て、専修雑修は、行ずる機相について名を立てたものである。雑修というは諸善万行を修して浄土に回向するのこと、専修というは専ら正行を修することである。この時、正行は五正行なれども、総別別名で、選択本願の念仏のこととなるのである。それ故に法然上人の『選択集』本十二丁には、「百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執する乎」という文がある。かの雑修十三失というは、雑行を修するものの十三個の失ということである。
 処が我が聖人はいつも善導法然両祖の微意を得て両祖の大判の上に更に細判を施し給うように、今も一歩を進めて、正行と雑行を分ちたる上に、更にその正行について専修と雑修とをわかち給うのでる。今便宜のために、正行雑行、専修雑修の名体を分別して見よう。
 二。正行。正は純一無雑の義で、純粋なる極楽浄土の行ということである。体はいうまでもなく、五正行である。
 雑行。雑は疎雑の義(弥陀の浄土に疎遠なる行)雑通の義(人天三乗及び十方浄土に
(3-364)
通ずる義。純粋なる極楽浄土の行に非ざる義)雑摂の義(諸善万行を雑じえ摂める義)の三義あって、三学六度四諦十二因縁の万行を体とする。
 専修。専は専一無雑の義で、余行を雑じえず、専ら一行を修すること。体を出せば、唯称仏名と五専修である。
 雑修、雑は兼雑の義で、五正行を兼ね雑じえ修することである。体を出せば助正兼行である。『和讃』『持名鈔』に依れば、他の雑修もある。即ち一は部類の雑修とも称すべきもので、『和讃』に「仏号むねと修すれども、現世をいのる行者をば、これも雑修と名づけてぞ、千中無一ときらわるる」とあり。往生極楽のために専ら称名を称えながら、現世祈祷の心の絶えないものをいう。二は正行雑行兼行の雑修で、『持名鈔』本三丁に出でている。故に雑修という中にも助正兼行の雑修、正雑兼行の雑修、部類の雑修の三種ある訳であるが、後二者は例外とも称すべきもので、正統なる雑修はこの下に明かされる助正兼行の雑修である。
 かくの如く各の名体を出せば、一目瞭然となるが、雑行雑修は語は似ているけれども、名体共に異なり。我が聖人は両祖の微意を探ってかくの如く細判なされたものである。
(3-365)
 何故両祖の微意を探ってなされたものとするかというに、前にもいう如く、善導法然両祖は一往は明らかに正行即専修、雑行即雑修である。然し善導大師が五正行を取り扱い給うには、誰も知る如く開合の二門がある。開門五種、合門二種というのである。開門の場合には、五正行肩を並べて称名は一称名行で、正定業と云われてない。処が合門に来たって、「一向専念の称名を、これを正定の業と名づく、仏の本願に順するが故に」と結び止め給うた。これから見るともし五正行がすべて専修ならば、合門というは不要のものとなる。いやしくも合門に来たって称名の一行を正定之業といい、この一向専念をすすめ給う意底から伺う時には、五正行並べ修する場合を明らかに雑修とは名づけ給わぬけれども、何とか貶する思召しがあったに相違ない。而してこの善導大師の意底を知るは法然上人の『選択集』二行章に依るものなれば、これを両祖の微意というのである。我が聖人はこの微意を開闡して二行二修を別立し給うたものである。

復就雑行 有専行 有専心 復有雑行 有雑心。
専行者 専修一善 故曰専行。専心者 専回向故 曰専心。雑行・雑心者 諸善兼行故 曰雑行 定散心雑故 曰雑心也。

【読方】また雑行について専行あり専心あり。また雑行あり雑心あり。専行というはもっぱら一善を修す。かるがゆえに専行という。専心というは回向をもっぱらにするがゆえに専心といえり。雑行雑心というは諸善兼行するがゆえに雑行という。定散心雑するがゆえに雑心というなり。
【文科】能行相の第二として雑行を明し給う。
【講義】今雑行に就いて述ぶれば、雑は雑摂の意味にして、この中にあらゆる諸善万行を摂め入れるのである。即ち浄土の五種の正行に対して、五種の雑行がある。弥陀一仏に向かい奉りて修する時に五正行であるが、余の諸仏に向かい奉りて修する時は五種の雑行となるのである。
 また雑は雑通の義で、その修する所の因行が、人間、天上、菩薩等の凡ての果報に通ずる故に雑行と名づけられる。これもとより純極楽往生の為の唯一の因種〈たね〉ではなく、修道者の各自が、その心の儘に弥陀の浄土へ回向する善であるから、この意味に於いて浄土の雑行と名づけられるのである。
 復この雑行に就いて専行、専心あり、これに相対して雑行、雑心がある。これを図示すれば
(3-367)

(挿図 yakk3-368.gif)
           ┌─専心
      ┌─専行─┤
      │    └─雑心
   雑行─┤
      │    ┌─雑心
      └─雑行─┤
           └─専心

 本文には表わしてないけれども影略互顕して上の如くなるのである。
 専行というのは、専ら諸善中の一善を修めるのをいう。上にも述べたように、一行を専修しても、行そのものが雑行であるから矢張り雑行の中に摂められる。
 専心というは、雑行を修する信心にして、その修むる所の五戒十善等の善根を一心に極楽に回向して往生を求める心をいうのである。
 次に専行中の雑心は文には表われておらぬが、これは定散の雑わる心をもって一行を専修するをいう。行は専行であるが、それを修むる心が定散心権雑しているから、雑心というのである。
 次に雑行、雑心に就いて云えば、先ずこの雑行は、専行に対するものにして、五戒十善等の諸善を兼ね行ずるがゆえに雑行と名づけらる。
(3-368)
 雑心とは、この雑行の信心にして、それに定善心、散善心ありて、互に相間雑したる心をもって雑行を修する故に雑心という、更にこの雑心を委しく云えば定善心、散専心、定散雑心の別がある。定専心は、純粋なる定善心にて専ら息慮凝心を修めること、散専心とは、純粋なる散善心にて専ら廃悪修善を修める心、定散雑心とはこの二心が間雑することで、或は心を凝らし、或る時は善を修するのである。
 これは上に述べた専行の下の雑心にも通ずるのである。即ち雑行の雑心は、これらの心をもって諸善を修むるに反して、専行の雑心は、これらの定散心をもって一行を専修するの相違あるのみである。
 終りに雑行専心はこれも文面に表われていないが、人天二乗等の善根兼行の雑行を、一心に極楽浄土に回向することである。これと専行専心との相違は、専行が一雑行たるに反してこの雑行が諸善兼行たるにある。

亦就 正・助 有専修 有雑修。就此雑修 有専心 有雑心。就専修 有二種 一者唯称仏名 二者有五専。就此行業 有専心 有雑心。
五専者 一専礼 二専読 三専観 四専称 五専讃嘆。是名五専修。専修 其言一而其意惟異。即是定専修 復散専修也。
専心者 専五正行而無二心故 曰専心。即是定専心 復是散専心也。雑修者 助正兼行故 曰雑修。
雑心者 定散心雑故 曰雑心也。応知。

【読方】また正助について専修あり雑心あり。この雑修について専心あり雑心あり。専修について二種あり。一にはただ仏名を称す。二には五専あり。この行業について専心あり雑心あり。五専というは一には専礼、二には専読、三には専観、四には専称、五には専讃嘆、これを五専修となづく。専修その言一にしてその意これ異なり。すなわちこれ定専修なり。また散専修なり。専心というは五正行を専らにしてしかも二心なきがゆえに専心という。すなわちこれ定専心なり。またこれ散専心なり。雑修というは助正兼行するがゆえに雑修という。雑心というは定散心雑するがゆえに雑心というなり。しるべし。
【文科】能行相の第三として助正を明かし給う。
【講義】以上は浄土の行ならぬ雑行に就いて述べたのであるが、今や浄土の正行たる五正行の助正二業に就いて論ずれば、初めにこの五正行を修めるに就いて専修、雑修の二つがある。
(3-370)
 雑修というは、この五正行の助業、正業を並べて修することで、この雑修に就いて専心雑心の二と分かれる。
 次に専修に就いて云えば、また二種あり。一は唯仏名を称すること、これは五正行を助正分別して、前三後一の四行を廃して、第四の念仏一行を専修することである。これは第二十願真門の念仏である。二には五正行に就いてかように批判を加えず、各の行を同等と見て、その中の一行を専修することである。

(挿図 yakk3-371.gif)
         ┌専心
      ┌雑修┤
      │  └雑心
   五正行┤
      │  ┌唯称仏名───┐ ┌専心
      └専修┤       ├─┤
         └五専修────┘ └雑心

 さてまた雑修の下に専心、雑心があるように、この二専修にも専心、雑心の二つがある。即ちこれらの心をもって二種の専修を修するのである。
 二専修の第二の五専というのは、一は専ら弥陀一仏を礼拝すること、二は専ら浄土の経典を読誦すること、三は専ら弥陀仏の正依二報を観ずること、四は専ら弥陀の名号を称す
(3-371)
ること、五は専ら弥陀一仏を讃嘆供養すること、即ちこれらの五正行に正助の批判を加えずにその中の一行を専修するのである。
 ここに専修というてあるが、上の唯称仏名の専修とはその言葉は同一でも、その意味は異なっておる。唯称仏名の専修は唯行ずる所の心の専一を意味し、ここは定専修、散専修の意味である。即ちこれを図示すれば

(挿図 yakk3-372.gif)
       ┌ 読誦
         観察            定専修┐
   五正行─┤ 礼拝               ├─五専修
         称名            散専修┘
       └ 讃嘆供養

 かくの如く五専修をその質によって区別すれば、第二の観察は正しく定心をもって修する行にして、余の四正行は散心に修むる所である。
 上に雑修と専修の下に、各専心、雑心ありと申して置いたが、その専心というのは、専ら五正行を修めて余行へ心を移さぬことをいう。即ち二心なきが故に専心というのである。
(3-372)
これは亦息慮凝心の定専心と、廃悪修善の散専心の二つに分かれる。
 また上に雑修というたのは、五正行の中第四の称名正定業と他の前三後一の助業とを兼行するのを雑修というのである。
 また上に専心に対して雑心というたのは、定善心と散善心が間雑〈まじ〉るをいう。即ち或る時は定心を以て修め、また或る時は散心を以て修める。この不定の心を指して雑心というたのである。
 因みに雑行、雑修、五専、唯称の能所相と三願を配属すれば左の如くである。

(挿図 yakk3-373.gif)
     ┌ 所修行相──万行
   雑行┤                               修諸功徳
     └ 能所心相──専心、雑心                    十九願
                                     至心発願
     ┌ 所修行相──正助二行
   雑修┤
     └ 能修心相──専心、雑心
                        専読
                        散専心
     ┌ 所修行相──正助中随一      専観
                        定専心          植諸徳本
   五専┤                  専礼            二十願
                        散専心          至心回向
     └ 能修心相──専心、雑心      専心
                        定散専心称名
                        専讃供
                        散専心
(3-373)
     ┌ 所修行相──真実大行                    乃至十念
   唯称┤                                十八願
     └ 能修心相──真実大信                    至心信楽

第四節 異名と結釈

凡於浄土一切諸行 綽和尚云万行 道和尚称雑行。感禅師云諸行。信和尚依感師 空聖人依導和尚也。
拠経家 披師釈 雑行之中 雑行雑心・雑行専心・専行雑心。亦正行之中専修専心・専修雑心。雑修雑心 此皆辺地・胎宮・懈慢界業因。
故雖生極楽 不見三宝。仏心光明 不照摂 余雑業行者也。
仮令之誓願 良有由哉。仮門之教 忻慕之釈 是弥明也。

【読方】凡そ浄土の一切諸行において、綽和尚は万行といい、導和尚は雑行と称し、感禅師は諸行といえり。信和尚は感師によれり、空聖人は導和尚によりたまう。経家によりて師釈をひらくに、雑行の中の雑行雑心、雑行専心、専行雑心あり。また正行の中の専修専心、専修雑心はこれみな辺地胎宮
(3-374)
懈慢界の業因なり。かるがゆえに極楽に生ずといえども、三宝を見たてまつらず、仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよ明らかなり。
【文科】雑行雑修の異名を挙げて結ぶ。
【講義】上に雑行、雑修等の様々の名目を挙げて来たが、凡そ浄土往生に関する一切の諸行に就いて、道綽和尚は『安楽集』下末にこれを万行といい、善導大師は「散善義」に雑行と称し、懐感禅師は『群疑論』四に諸行といい、源信和尚は『往生要集』下末に懐感禅師に依りて同じく諸行と云われ、源空聖人は『選択集』本に善導大師に依りて雑行と仰せられた。
 今経説を根拠として、善導大師の「散善義」『観念法門』等の師釈を繙いて見るに、雑行の中に、雑行雑心、雑行専心、専行雑心あり、

(挿図 yakk3-375.gif)
            ┌─雑心
       ┌─雑行─┤
            └─専心
    雑行─┤
            ┌─雑心
       └─専行─┤
            └─専心 ─ 欠く

(3-375)
 亦正行に就いては、専修専心、専修雑心、雑修雑心あり、

(挿図 yakk3-376.gif)
            ┌─専心
       ┌─専修─┤
            └─雑心
   ─正行─┤
            ┌─雑心
       └─雑修─┤
            └─専心 ─ 欠く

 かように諸行、雑行等を修める機類に種々あるけれども、これらは自力の行であるから、辺地胎宮、懈慢界の化土に往生する業因に過ぎない。故に極楽へ往生しても牢獄に入るが如く、華胎につつまれて真の三宝を見奉ることが出来ない。即ち還相の大活動、浄土の大荘厳を我有とすることができないのである。即ち弥陀の心光は、現当に亘りて浄土往生の正因を外にした雑行雑修をこととする行者を照らし給うことはない。これ真の意味に於いて仏心光に照らされるということは、往生の正因を獲、仏心を感得することであるからである。
 これというも雑行雑修等を広説せられたる『観経』は、第十九願の内容を示されたもので、この中に一代仏教が皆総じて摂められ、そしてこの衆生の根機に応じたる仮の方便によりて、真実の弘願に入らしめんとし給う如来の大悲方便の御思召しは誠に深いものである。
(3-376)
そしてまたこの第十九願は、方便仮門の教えであり。これによりて生死の暗黒を慕う衆生をして、絶対界の光景を欣慕せしめ給う仏意であると善導の釈せられたことは、弥〈いよいよ〉もって明らかとなったことである。
【余義】一。「雑行について専行あり専心あり、雑行あり雑心あり」この下は雑行雑修について、能修の心相から種類をわけ給うのであるが、御私釈がいろいろに入り乱れていて一寸了解するに困難である。それ故に解釈にも古来いろいろ差違があるが、先ず各々の名目の名義を明らかにして置いて、図表にして見ると一番明かになる。

 雑行 (正行に対する)人天菩薩等の解行雑わる故に、往生の因種に非ず回心回向の善なるが故に雑行という。
 雑行 (専行に対する)諸善兼行すること。
 専行 専ら一善を修すること。
 雑心 定散心雑わること。 心左右に乱れて不純のこと。
 専心 回向を専らにすること。 一心不乱のこと。
 正行 純極楽の行。
(3-377)
 専修 五正行の中専ら一行を修すること。
 雑修 助正兼行、

これが各名目の意義である。この中専心と雑心の釈体がはっきりせないものであるから、或る人は、専心は修相から解釈し、雑心は心相から解釈してあるけれども、実を尅すれば影略互顕であるといっている。要するに、上の如く専心は回向を主として一心不乱なること、雑心は定散交わり、心左右に乱れて不純なることと解釈すべきであると思う。それで御私釈に顕われれたる雑行正行を図表にすると下の如くになる。

(挿図 yakk3-378.gif)
            雑行雑心(諸善兼行 ─ 定散心雑わり心不純なること)
        雑行
            雑行専心(諸善兼行 ─ 回向を専らにし一心不乱なること)
  雑行
            専行雑心(専ら一善を修し定散心雑わり、心不純なること)
        専行
            専行専心(専ら一善を修し回向を専らにし一心不乱なること)

            他力の専修
        専修         専修専心(五正行を専らにして二心なきこと)
            自力の五専修
  正行               専修雑心(五正行を専らにし定散心雑わり心不純なること)
(3-378)
            雑修雑心(助正兼行し定散心雑わり心不純なること)
        雑修
            雑修専心(助正兼行して回向を専らにし一心不乱なること)

 結釈の処では、雑行の下に専行専心の一句なく、正行の下に、雑修専心の一句がない。これにつれていろいろの異論がある。しかし、その異論というも約〈つづ〉めて見れば、専行専心、雑修専心の二句はないが当然である。雑行の下で一善を修し回向を専らにするということはあるべき筈がなく。雑修の下で助正兼行して二心ないということはあるべきでないからという義と、義としてこの両者共にあり、御結釈にも八句となるべきであるけれども、今は略して互顕し給うたものであるという義である。私共の見る所にすれば、専行専心、雑修専心の二者は義としてあるべきであり、御結釈にも八句となるべきであるという後者の説に与〈くみ〉したい。然し、それなら何故八句を略して六句とせられしものかというに、それは分明〈はっきり〉わからない。いろいろの会通もあるが、どれも徹底しない。此処はそう大切な処でもないから、そう無理に会通する必要もないと思う。
 次に、専修の下で、一者専称仏名とあるを自力の称名と解する説がある。この時は専修の下に他力の専修と、自力の専称仏名と、自力の五専修と三者を出さねばならぬ訳
(3-379)
となる。この説は、この御私釈に於いて先ず「専修とは唯仏名を称念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。・・・・・・已に真実行の中に顕わし畢んぬ」と宣い、それから更に雑行雑修を釈する中に、専修について二種一者唯称仏名二者五専と挙げ、終りにこれ皆辺地胎宮懈慢界の業因なり」と宣うてある処から見ると、自力の念仏と解釈した方が善いように思われるというのである。然らばこの自力の専称仏名と、五専修の中の専称仏名と異同如何というに、五専修の中の専称仏名は五正行肩を並べた称名で未だ廃立を経ず、自力の専称仏名は前三後一の助業を簡んだ、念仏の一行である。廃立を経た念仏であるというのである。細かい処まで注意した説のようであるが、却って穏当でないようにも思われる。矢張り、この専称仏名は他力の称名と見て、真実行の中に顕わし畢ったものを、茲に更に専修の下に出されたものと見るが至当であろう。こう見ると、『愚禿鈔』下十二丁の五正行とはいって五専修を出し、更に一心専念弥陀名号是名正定之業と、他力の念仏を出された義にあてはまるのである。

第五節 大観両経結釈

(3-380)

二経之三心 依顕之義異也 依彰之義一也。
三心一異之義 答竟。

【読方】二経の三心、顕の義に依れば異なり。彰の義に依れば一なり。三心一異の義答え竟んぬ。
【文科】第一節に提起せられし大観両経の異同論は、上来の波乱曲折を経て、ここに隠顕一異の結釈を見るに至ったのである。
【講義】上を提出した『大経』『観経』二経の三心の交際に関しては、以上長く述べ来ったのは正しくその解答であるが、今ここにその結論を下せば、二経の三心は顕説に依れば、『大経』の三心は弘願他力の信、『観経』の三心は要門自力の信と異なるが、もし如来の隠彰の実義、即ち二経の根本精神に至りては、二経の三心は全く同一の絶対他力の真実信心である。
 二経の三心一異の問題はこれにて解答し竟った。

第六節 三経融会問答

第一項 問
又問。『大本』『観経』三心与 『小本』一心 一異云何。

(3-381)
【読方】また問う、大本観経の三心と、小本の一心と一異いかんぞ。
【文科】上に大観両経を融会し了わったから、次で三経の融会を進む。初めに問題提起。
【講義】上に大観二経の三心に就いて明かされたあるが、次にこの二経の三心と『阿弥陀経』の一心との異同に就いて考えて見ねばならぬ。よってここに問題を提起する。
 また問う、『大経』『観経』二経の三心と『阿弥陀経』の一心と同異いかに。

第二項 方便相の総答
答。今就方便真門誓願 有行有信。亦有真実 有方便。願者即植諸徳本之願是也。行者此有二種 一者善本 二者徳本也。信者即至心回向欲生之心是也。{二十願也}
就機 有定 有散。往生者此難思往生是也。仏者即化身。土者即疑城胎宮是也。

【読方】答、いま方便真門の誓願について行あり信あり。真実あり方便あり。願というはすなわち植諸徳本の願これなり。行というはこれ二種あり。一には善本、二には徳本なり。信というは、すなわち至心回向欲生の心これなり。機について定あり散あり。往生というはこれ難思往生これなり。仏というはすなわち化身なり、
(3-382)
土というはすなわち疑城胎宮これなり。
【文科】上の問いに対して、第一にここに問題となっている『小経』開設の方便真門をあげて答う。
【講義】答う、今方便の誓願たる第二十願真門に就いて按〈しら〉べて見るに、この願にも行信あり、また真実と方便とがある。その願というは即ち植諸徳本の願である。その願の説かれたる行について二種あり、一は善本、二は徳本である。善本とは因行の円に具足せるをいい、徳本とは果徳が欠け目なく成就せられたことである。この因果の完備せるものが即ち弥陀の名号である。義は二つであるが、体は名号一つである。
 この願の信とは即ち至心、回向、欲生の心である。即ち真実心をもって、称うる所の名号の功徳を浄土に回向して、往生を願求する心である。(これ第二十願の行信である)。かくの如く行は他力の名号であるが、信は行者の自力の信である。
 またこの願を受くる機に就いて云えば、定善、散善の機に分かれておる。そして往生は絶対他力の往生たる難思議往生に対して、これは半自力半他力であるから難思往生である。即ち一字の褒貶である。浄土の仏は化身、浄土は疑城胎宮即ち化土である。
【余義】一。上来『観経』一部の法門はこれを説き了った。『観経』一部隠顕両面あって
(3-383)
隠彰の実義はいうまでもなく弘願他力にあるが、顕説は要門自力方便の四法である。聖人は、この『観経』の表面に顕われたる方便の四法を解剖し批判して『観経』の根底的精神の弘願他力の法にあるを闡明なされた。聖人はこれから進んで、筆を『阿弥陀経』に染めて、その根本的精神を突き止めなさろうとするのである。
 『大本』と『観経』の三心と『小本』の一心と一異如何と問いを起して、方便真門の四法を説明し、『小経』一部の法門を総べ摂め、進んで嘗て『観経』に用い給うた隠顕の釈義を以て『小経』の内的生命を掴み、遂に浄土三部経の一致的精神を開闡し給うた。世に『小経』を読んだ読書子はその数多かろう。また『小経』を釈し註した学者も数多くある。けれども我が聖人の如く、巧に『小経』を整理して、言外の大旨を色読した人が外にあろうか。我等はこの三一問答以下の御私釈を読み行き、飽くまでものの奥の奥までも入り込まねば止まぬ聖人の精神の強烈なるを偲ばずにいられない。
 二。我が聖人は、『小経』の隠顕両面を説くに際して、
 『観経』に准知するに、この経にも亦顕彰隠密の義あるべし。
と宣うた。この御語に顕われている如く、『阿弥陀経』の隠顕は『観経』に批准して知り得
(3-384)
たるものにて、隠顕の釈義は正しくは『観経』を解釈する方軌なのである。このことは、『浄土三部経』の解釈の上に心得て置かねばならぬことである。
 それで『観経』の隠顕と、『阿弥陀経』の隠顕とは全く同じいものであるかというに、隠顕という抽象的意義にかわりはないけれども、直接教説に就いて判する具体的意義に至っては多少異なる点がある。今この異点を挙げて見ると、
 (一)『観経』の隠顕は機法に通じ、『小経』の隠顕は機に局る。『観経』にありては、法は定散二善を説き、機も亦自力定散の二機が説いてあるから、隠顕の釈義は機法共に通じている。それで聖人は、
  顕と言うは定散諸善(法)を開き、三輩三心(機)を開く、・・・・・彰というは如来の弘願を彰わし、利他通入の一心を演暢す。
と宣うたのである。ところが、『阿弥陀経』は法然上人の『小経釈』にも示されてある通り『観経』の流通に「持是語者即是持無量寿仏名」の意を布演した経典で、説き明かされている法は弘願念仏の法にて、『大経』に説かれたる法と異なることなく、従って、法に隠顕ある筈はない。故に聖人はこの下に「教は頓にして根は漸機」と宣うたのである。かく教は頓に
(3-385)
して『大経』と同じく隠顕はないが、『小経』にあっては、能修の機に失がある。息慮凝心の定心にて念仏するもあれば、廃悪修善の散心にて念仏するもあり、共に己が称えた念仏に功を募るから、法は弘願の念仏でも、機の失によって、真門の自力念仏となるのである。この真門の自力念仏となる点が『小経』の顕説である、方便である。而も『小経』はこの顕説の方便を説きながら、一面弘願他力を彰わし、金剛の真信を得せしむるようになし給う。これが隠彰の実義である。それ故に、今我が聖人は、
  顕と言うは……善本徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。
  彰というは真実難信の法を彰わす、……無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。
と宣うたのである。善本徳本は体を押さえていえば弘願の念仏である。それが、定散自力の機の失に依って真門の念仏となる。これが経の顕説である。不可思議の願海を光闡して無碍の大信心海に帰せしむるが隠彰の実義である。
 (二)『観経』の隠顕は一経の始終に通じ、『阿弥陀経』の隠顕は経の一部分に局〈かぎ〉る。『観経』の隠顕が一経全体に通じ、一経の顕説は全体定散の諸善、一経の隠彰は全体弘願他力なるこ
(3-386)
とは既に上の要門の下で説き了ったことである。今『阿弥陀経』は前項にいうが如く、所説の法には隠顕なく、顕文に明らかに、真実の法を説いてあるから、隠顕が一経全体に通ずるとは云われない。先ず『阿弥陀経』の初めに極楽の依正二荘厳が説いてあるが、これは化土の相ではなく、明らかに真土の相である。故にこの「化巻」に要門の下に化土を挙ぐる時は「観経の浄土これなり」といいながら、真門の下に化土を挙ぐる時には、「土は即ち疑城胎宮これなり」と『大経』の化土を出し、『阿弥陀経』の浄土と云ってない。また弥陀の名義を説いて、光寿二無量を出し給うが如き、六方段の諸仏の護念の如き、みな方便の説ではなく、顕了に弘願他力の法が説いてあるのである。『阿弥陀経』にありて、正しく隠彰両面あるは、「舎利弗不可以小善根」より「応当発願生彼国土」まで、「舎利弗若有人已発願」より「生彼国土」までである。
 同じく隠顕とはいいながら、『観経』『阿弥陀経』にあっては、この両項の差異がある。これを知って両経典を繙けば、経典の奥義を読み知ることが出来るであろう。

第三項 隠顕義の別答

(3-387)

第一科 標挙
准知『観経』 此『経』 亦応有顕彰隠蜜之義。

【読方】『観経』に准知するに、この経にまた顕彰隠密の義あるべし。
【文科】『小経』に隠顕義を述べるに先だち初めに標挙し給う。
【講義】今『観経』に准じて考えて見るに、この『小経』にも亦顕説と彰隠密の二義あることが知られて来る。

第二科 顕義解釈

言顕者経家 嫌貶一切諸行少善 開示善本徳本真門 励自利一心 勧難思往生。

是以『経』 説多善根多功徳多福徳因縁 釈云九品倶回得不退。
或云 無過念仏往西方 三念五念仏来迎。
此是此『経』示顕義也。此乃真門中之方便也。

【読方】顕というは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本徳本の真門を開示し、自利の一心をはげまして難思の往生をすすむ。ここをもって経には多善根、多功徳、多福徳因縁ととき、釈には九品ともに回して不退をうといえり。あるいは念仏して西方に往くにすぎたるはなし、三念五念までも仏来迎したまうといえり。これは
(3-388)
これこの経の顕の義をしめすなり。これすなわち真門の中の方便なり。
【文科】次に別して『小経』の顕義を述ぶ。
【講義】初めに顕説を述ぶれば、釈尊はこの経に於いて、一切の諸行万行を少善根に過ぎないと嫌貶〈おとし〉め、これに対して真の善本徳本は弥陀の名号を執持することであると開説〈ときあ〉かし、そして一心不乱の自力の一心を奮い起こすことを励まし難思往生の果を得よと勧められた。これ即ち浄土の真門である。
 この理由によりて、本経には名号を称うるをもって多善根、多福徳の因縁であると説き、善導の『観念法門』下には「散善九品の機類が、諸倶〈もろとも〉に回心して浄土の証果を得よ」と仰せられてある。この文には念仏を称えることはないが、九品の機が回心することは、即ち諸行を捨てて、念仏に帰することを示しておるは明らかである。而も尚その念仏を執じて己が善根とする故に、化土に往生するのである。今善導大師は、要門自力の機に対して、真門の念仏を勧められたのである。
 また同じく『観念法門』下に「念仏して西方極楽へ往生するに若〈しく〉はない。三声、五声までも称うるものを必ず来たり迎う」と仰せられてある。かように念仏して来迎に預かるは、真門
(3-389)
自力の念仏なることは明らかである。
 以上は『阿弥陀経』の顕説の義を示すものである。これ乃ち真門中の方便説である。

第三科 隠義解釈

言彰者 彰真実難信之法。

斯乃光闡不可思議願海 欲令帰無礙大信心海。良勧既恒沙勧 信亦恒沙信。故言甚難也。
釈云 直為弥陀弘誓重 致使凡夫念即生。斯是開隠彰義也。

【読方】彰というは真実難信の法をあらわす。これすなわち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんとおぼす。良に勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。かるがゆえに甚難といえるなり。釈に、ただちに弥陀の弘誓の重きによりて凡夫をして念ずれば、すなわち生ぜしむることを致すといえり。これはこれ隠彰の義をひらくなり。
【文科】初めに正しく『小経』の隠義を明かさるる一段。
【講義】『小経』に隠彰というは、弘願真実の法をいう。この法は凡夫の自力の心にては信じ難い法門であるから本経には極難信の法であると彰わしてある。これ乃ち仏智不可思議の広大なる本願の正意を光闡〈ときあらわ〉して、煩悩悪業等の何者にも碍えられぬ大信心に入らしめ
(3-390)
んが為である。この信海に帰することは、百川の大海に朝するように、皆一味の誓願海に溶け込むのである。
 本経には広く六方恒沙の諸仏の勧信が説かれたあるが、その勧信が既に恒沙の諸仏方の勧めであるから、それらの諸仏方の保証を得た信心も亦恒沙の諸仏方に証拠立てられた信心と云わねばならぬ。故にこれを裏から味おうて見れば、かように恒沙の諸仏の勧信証誠を要する程極難信である。従ってまた極善最上の法たることが知られるのである。
 『法事讃』下の釈には、「弥陀如来の本願が深重の力をもっていらせられるから、吾等凡夫が、それを信じ奉る一念に即ち往生せしめ給う」とあるは、即ちこの経の隠彰の実義を開闡されたものである。

『経』言執持。亦言一心。執言彰心堅牢而不移転也。持言名不散不失也。
一之言者 名無二之言也。心之言者名真実也。斯『経』大乗修多羅中之無問自説経也。
爾者 如来所以興出於世 恒沙諸仏証護正意 唯在斯也。

(3-391)
【読方】経に執持といえり。また一心といえり。執の言は心堅牢にしてしかも移転せざることを彰すなり。持の言は不散不失になづくるなり。一の言は無二の言になづくるなり。心の言は真実になづくるなり。この経は大乗修多羅の中の無問自説の経なり。しかれば如来、世に興出したまうゆえは、恒沙の諸仏証護の正意ただこれにあるなり。
【文科】『小経』の要門を引いて隠義を釈成し給う。
【講義】本経には「執持」と説き、亦「一心」というてある。執とは、心に堅く執りて、動転〈うご〉かないこと、持とは、よく持〈たも〉ちて散り乱れず、また失わぬということである。即ち執持とは、金剛の如く堅固なることである。「一心」の一は無二ということ、心は真実ということ。即ち二心なき誠実〈まこと〉の心ということ。この執持と一心とは、金剛の信心の換え名である。
 またこの『阿弥陀経』は大乗経典中に於いて、無問自説の経である、即ち釈尊が、対手〈あいて〉の機類に応じて説かれた方便の経典ではなくして、他人の問いを待たず、御自身が自内証の儘を説かれた随自意の経典である。それであるから釈迦如来のこの世に出世し給いし本懐は唯この経説にあるのである。そして恒沙塵数の諸仏が、弥陀の本願の真実なることを証誠
(3-392)
し、その本願を信ずる衆生を護念〈まも〉り給う正意も本経に説かれてある。本経が弘願真実を説いた経典たることは、昭々として火を視るよりも明らかである。
【余義】一。『広本』の三一問答には、「大本観経の三心と小本の一心」とあり、略本の三一問答には「二経の三心と小経の執持」とあり、執持と一心と共に信心を顕わす語なることは、『略本』に「執持は即ち一心なり、一心は即ち信心なり」とあり『広本』の私釈に
  経は執持と言えり、また一心と言えり
とあるに依って明らかであるが、かく『広本』と『略本』に一心と執持を用いわけ給うについて議論がある。それは一方に執持の語には隠顕なく、正しく他力の信心を顕わす語であるから、ただ弘願を顕わす『略本』にこの語を用い、一心は隠顕両面を顕わす語であるから隠顕両義を詳しく分別して明かす『広本』に用い給うというに対して、一方には執持の語にも隠顕両義ありとするのである。
 前者の説に依れば、『小経』の執持名号というは『観経』流通分の持名の行を受けたるものにて、『観経』流通分にありては、既に定散の方便を廃捨し了り、弘願の念仏を立てたるもの故、この廃立し了りたる名号を執持するは隠彰の実義なりとするにある。後者の説に
(3-393)
依れば、成る程、念仏は弘願の法にて隠顕なきことは論者のいう所の如くなれども、この法を修する機に依って、隠顕が分かれて来るのである。既に一心の隠顕ある以上は、一心と全く同じき執持にも隠顕両面あるべき筈ではないか。南無阿弥陀仏の六字を称え、称えた力をあてにして功を募るは、自力顕説の執持である。他力金剛の信心は隠彰の実義の執持である。今祖釈の上に於いて、「執というは心堅牢にして移転せざることを彰わすなり。持の言は不散不失に名づくるなり」とあるは隠彰他力の執持、引文に入れて、『孤山の疏』の「執は執受なり、持は謂く住持なり、信力の故に執持心にあり、念力の故に住持して忘れず」というを引き給うは、顕説方便の執持を顕わし給うのであるというのである。
 『孤山の疏』の文が顕説の執持を示したものかどうかは決定することが出来ないが、義としては執持にも一心と同じく隠顕両面あるべきことと私共は思うのである。
 二。次に執持も信心を顕わし、一心も信心を顕わす語ならば、『阿弥陀経』の一ヶ所に信心の語が二つ重なってあるではないかという難があるが、共に信心を顕わす語とはいえ、その顕わす風光が異なっているから繁重の嫌いはないのである。執持は法を堅く信ずるを顕わし、一心は信ずる心に二心なきを示すのである。
(3-394)
 三。無問自説ということが、『小経』の出世本懐を顕わし、延〈ひ〉いて『大経』の出世本懐の経典たる証文となることは既に本講義第一巻二五二頁に詳説した通りである。釈尊は一代教を説き給い、涅槃の雲に隠れ給うも間近くして、執持せしめたいと思召す一法を『阿弥陀経』に於いて無問自説し給うたのである『口伝鈔』下五丁に
  これによりて、世尊説法時将了と釈しまします。一代の説教むしろをまきし肝要いまの弥陀の名号をもって付属流通の本意とする条文にありて見つべし。
とあり、舎利弗よ舎利弗よと幾度も呼べ給えども、智慧第一の舎利弗も、不可思議の弥陀法に打たれて、一言も問い奉らず、始めから終りまで、釈尊自ら説教し給うがこの『阿弥陀経』である。無問自説は、一代の結経たる『阿弥陀経』の一大特色であって、この特色に依って『阿弥陀経』の出世本懐の経説たることが知られるのである。猶出世本懐に就いては、第一巻二四七頁以下に詳説してあるから参考して貰いたい。

第四項 三経一致結釈

是以四依弘経大士 三朝浄土宗師 開真宗念仏 導濁世邪偽。

三経大綱 雖有顕彰隠蜜之義 彰信心為能入。故経始称如是。如是之義 則善信相也。
今按三経 皆以金剛真心為最要。真心即是大信心。大信心 希有・最勝・真妙・清浄。何以故 大信心海甚以叵入 従仏力発起故。真実楽邦 甚以易往 籍願力 即生故。
今将談一心一異義 当此意也。
三経一心之義答竟。

【読方】ここをもって四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏をひらきて濁世の邪偽をみちびきたまう。三経の大綱、顕彰隠密の義ありといえども、信心をあらわして能入とす。かるがゆえに経のはじめに如是と称す。如是の義はすなわちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みな金剛の真心をもって最要とせり。真心はすなわちこれ大信心なり。大信心は希有最勝真妙清浄なり。何を以ての故に、大信心海は甚だもって入りがたし。仏力より発起するがゆえに。真実に楽邦は甚だもって往きやすし。願力によりてすなわち生ずるがゆえに。
 いままさに一心一異の義を談ぜんとす。まさにこの意なるべし。三経一心の義こたえはおわんぬ。
【字解】一。四依  人々の依憑すべき四大士の称。初依五品(十信以前の五階級、随喜品、読誦品、説法品、兼行六度、正行六度)、十信位の菩薩。 第二依、十住、十行、十回向の菩薩。第三依、十地の菩薩。第四依、等覚、妙覚。或はまた初依、五品、十信。第二依、十住。第三依、十行十回向。第四依、十地、等覚の称。
【文科】正しく三経一致を釈成し給う一段である。
(3-396)
【講義】かような訳合いであるから、万人の依憑すべき仏経の宣説者たる龍天二菩薩、及び支那、日本の浄土の宗師、即ち曇鸞、道綽等の三朝に於ける七高祖の方々は、他力真宗の念仏門を開いて、普く末世の罪濁に沈みつつある邪見驕慢の人々、虚偽諂曲の人々を導いて下されたことである。
 浄土三部経の肝要とする所は、実に他力の信心一つである。これをもって経の極意に達することが出来るのである。よしやその説相には、顕説と彰隠密の異なりがあっても、畢竟する所はこの信心を明かすの外はない。それ故にこれらの経典の初めに「如是」というてある。如是ということは、善く信ずる相〈ありさま〉をいうたものである。今これによりて三経の真意を案〈かんが〉えてみるに、何れも皆他力金剛の真心をもって最要〈かなめ〉としてある。そしてこの真心は他力回向の信心にして、この信心こそ世にも稀有なる、最も勝れた、真実不可思議にして清浄なる仏心である。何故かと云えばこの他力の信心海に帰入することは甚だ困難であるからである。それは凡夫の力では及ばず、唯如来の他力不可思議力によりてこの信心を獲ることが出来るからである。即ち吾等は迷妄の自力を執ずる心が深いから、自己の努力で獲られる信心ならば、易いことであるが、唯仏力のみに依るとなれば、これ程困難のことはない訳である。併しそれが
(3-395)
他力であり、困難であるということが、凡夫迷妄の心慮を絶した最勝真妙の金剛心たることを証明しておるのである。
 併し凡夫に著する方面から云えば、困難であるが、一度回心すればまた甚だ容易である。則ち真実の極楽へ生まれることはいと易い、それは自力の功用〈はたらき〉を籍らず、偏に本願力に乗托して、頓悟頓証するからである。
 今大観二経の三心と、『小経』の一心との異同を述べ来たったが、それは大凡上述の如くであろうと思われる。即ち『小経』の顕説によれば、真門念仏であるが、隠彰の実義から云えば、三経全く同一の他力信心を顕わすというのである。三経の肝要は唯他力の一心であるという義は、これに答え竟った。
(3-398)

第六章 第二十願開設『小経』意

【大意】上に第四、第五章に亘りて、広く第十九願『観経』意を開説し了ったから、本章に来りて第二十願『小経』意を開説し給う。
 第一節には第二十願大意として、第一項にこの願所破の機類を勧励し、第三項に正しく方便の真門を顕わし、第一科より第五科に亘りて、雑心、専心、善本、徳本を略釈せらる。更に第三項には二尊の能化、第四項に第二十願を標し、第五項にこの願の異名を挙ぐ。その様式は大凡第十九願開説の場合と等しい。
  第二節には、善本の経文証として、第一項『大経』第二項『如来会』第三項『平等覚経』第四項『観経』第五項『小経』の文をあげ
 第三節には善本の釈文証として、第一項に善導の釈文を第一科「定善義」以下第五科『往生礼讃』まで九文を引き、第二項に大智律師の文、第三項に智円法師の文を引き給う。
 第四節には、勧信を経文証として、第一項に『大経』第二項に『涅槃経』の三文、第三項に『華厳経』の二文を引き給い、
 第五節には、勧信釈に証として善導大師の『般舟讃』以下四文を引き給う。
 これ蓋し『小経』の要義は上に挙ぐる如く善本、勧信の外にないからである。
(3-399)
 次の第六節の私釈には第一項に機情の失、第二項に悲嘆自督を述べ、第三項に自力の真門に滞るることを誡誨し給う。明徹の択法眼と、懇切なる宗教味は至れり尽くせりである。『小経』を各方面より研覈色味して蘊〈あま〉す所はない。

第一節 第二十願大意

第一項 所機の勧励
夫濁世道俗 応速入円修至徳真門 願難思往生。

【読方】それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門にいりて、難思往生をねがうべし。
【文科】第二十願の大意の中、初めにこの本願に帰入することを勧め給う。
【講義】五濁の末世に生まれた出家、在家の人達よ、自力作善の心を捨てて、速やかにあらゆる功徳という功徳が円かに修得せられてある名号の真門に帰入して、難思往生を願うが宜しい。

第二項 方便真門
第一科 標

(3-400)

就真門之方便 有善本 有徳本。復有定専心 復有散専心 復有定散雑心。

【読方】真門の方便につきて善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり。また定散雑心あり。
【文科】真門の要目を標挙し給う一段。
【講義】第十八願の真実に入らしめんが為の第二十願真門の方便に就いて、善本、徳本の二つがある。復これを修める機に就いて云えば、定専心あり。復散専心あり。復定散雑心あり、これは一々に下に弁述〈の〉べるであろう。

第二科 雑心釈

雑心者 大小・凡聖一切善悪 各以助正間雑心 称念名号。

良教者頓而根者漸機。行者専而心者間雑。故曰雑心也。

【読方】雑心というは、大小凡聖一切善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。かるがゆえに雑心という。
【文科】教頓漸機の雑心を釈し給う。
【講義】先ず定散雑心というは、定善散善の二心が間雑〈まじ〉っている心をいう。すなわち大乗、小
(3-401)
乗の聖者、及び善悪の凡夫が、五正行中第四の称名正業、並びに前三後一の助業を雑〈まじ〉え修むる心にて名号を称名することをいう。即ちこの五正行は、第二観察は定心、その余は散心の修する所であるから、助正間雑の心ということは、定善、散善の心が間雑り起こる心を指すのである。
 良に定散雑心なるものは、教の側から云えば円修至徳の名号であるから一乗頓教であるが、これを修する機から云えば自力を離れることが出来ない故に漸教迂回の機と云わねばならぬ。修せらるる行体は余行を選びすてた純善無漏の名号であって、これは一向に専修すべきものであるが、いま修する心は自力なるが為に定散心の間雑る心である。故に雑心と云われるのである。
【余義】一。『阿弥陀経』を判じて茲に「教は頓にして根は漸機」というてある。この教頓漸機というは、所謂『阿弥陀経』の教相判釈である。この機教頓漸の教相判釈を『大経』と『観経』とに加えて見ると、『大経』は機教倶頓であり、『観経』は機教倶漸である。
 然らば、この教頓機漸等ということはいかなることかというに、先ず『阿弥陀経』についていうて見ると、『阿弥陀経』はいうまでもなく、第二十願を開設したる経典であって、
(3-402)
『観経』に広説せられたる定散の諸善を小善根少福徳と貶め、『観経』流通の念仏を多善根多福徳と褒めてこれを開説し、定散雑心の機類が、この念仏を聞いてその功徳に目をかけ、能称の功を募り、この功に依って、臨終来迎を得て往生せんとするを説いて居るのである。それで、所説の法を挙ぐれば、弘願他力の念仏にして、『大経』の法と同一なるものである。これを教頓と曰われたものである。頓というは所謂円頓で、『愚禿鈔』上の頓極頓速円融円満之教とある意味である。一名号の中に万善万行恒沙の功徳を悉く摂在し(円満)、この念仏の一行に一切行を具し、一切行に即しての念仏の一行(円融)であり、信の一念に速やかに無上大利の功徳を獲(現益の頓極頓速)臨終の夕べに大涅槃を超証する(当益の頓極頓速)法であるから教頓というのである。しかし法はかくの如き円頓の法であるけれども、この法を信受する機類が、なお弘願一乗に帰入せずして、定善自力の心にて、本願の名号を執して自己の善根となし、能称の功をつのり、一日七日の称名に依って、臨終の来迎を待って果遂の利益を得て往生せんとするから、機漸というたものである。『大経』は法は弘願他力の真実法にて、これを信ずる機は充分に誘引の実顕われて、無手〈むず〉と本願のみのりを信受する衆生であるから、教機倶頓である。『観経』は法は定散の二善にて、機も亦定
(3-403)
散各別の機類であるから、教機倶漸と判じたものである。それで我が祖の常に用い給う要真弘の三門を以て、三経を判ずる時には、『阿弥陀経』の念仏は真門自力の念仏となるが、要弘二門を以て判ずる時には、『阿弥陀経』は二つに分かれて法は弘願他力、機は定善要門の自力となるのである。図示すれば下の如し。

(挿図 yakk3-404.gif)
   『大経』───────────────弘願
   『観経』───────────────要門
   『小経』───────────────真門
   教機倶頓──『大経』─────────弘願
   教機倶漸──『観経』
              法
   教頓機漸──『小経』         要門
              機

『阿弥陀経』の念仏が真門自力の念仏となるは、前にいくたびもいうが如く、法の失でなくて、機の失である。白玉を紅錦の上に置けば赤く見ゆるが如く、弘願他力の念仏が機の失に依って、真門自力の念仏と呼ばるるに至るのである。
(3-404)
 因みに、この『阿弥陀経』の機を『愚禿鈔』には一乗の機と呼んであるが、これは『観経』の漸教回心の機、『大経』の一乗円満の機に対し前者に対しては一乗の法を信ずるが故に褒じて、一乗の機といい、後者に対しては、定散の自力心を帯して念仏に臨むから貶して、円満の二字を奪ったものである。

第三科 専心釈

定散之専心者 以信罪福心 願求本願力。是名自力之専心也。

【読方】定散の専心は罪福を信ずる心をもって本願力を願求す。これを自力の専心となづくるなり。
【文科】真門中、専心の意義を顕わし給う。
【講義】また定散の専心というは、専ら定心をもつ所の定専心と、専ら散心をもつ所の散専心を指すので、即ちこれらの心をもてる行者が、唯自力の因果罪福を信ずる心をもって、如来の本願力を願い求めるのである。即ち自力の計度〈はからい〉を捨て本願力に乗託する一念に、如来の大善大功徳の因果が、そのまま行者の大善大功徳となることを知らず、唯自力に執着する為に、如来の名号を我が功徳として、それをもって往生を願求〈もと〉めんとする。即ちこれは如来の絶対不可思議力を、小さな自分の型に取り込み、それを我有〈わがもの〉として、功利的に好結果
(3-405)
を獲ようと企てるので、即ち仏智不可思議を信ぜず、善本、徳本の功徳を信ずる故に罪福を信ずる心というのである。
 されどまた余へ心を向けず、一向に弥陀一仏に向かい奉る故に、これを自力の専心と名づけるのである。

第四科 善本釈
善本者 如来嘉名。此嘉名者 万善円備一切善法之本。故曰善本也。

【読方】善本というは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり。一切善法の本なり。かるがゆえに善本というなり。
【文科】真門中、善本の意義を顕わし給う。
【講義】先に真門の方便に善本、徳本ありと申したが、その善本というは、弥陀如来の嘉名を指す。あらゆる万善万行が円かに備わっておる。即ちこれ一切の善法の根本である。故に善本というので、これは名号の因位の方面に就いていうのである。則ち如来が因位に於いてこれらの万善の法を円備せられたことを顕わしておる。
(3-406)

第五科 徳本釈
徳本者 如来徳号。此徳号者一声称念 至徳成満 衆禍皆転。十方三世徳号之本。故曰徳本也。

【読方】徳本というは如来の徳号なり。この徳号は一声称念するに至徳成満し衆禍みな転ず。十方三世の徳号の本なり。かるがゆえに徳本というなり。
【文科】真門中、徳本の意義を顕わし給う。
【講義】徳本というは、弥陀如来の至徳の尊号をいう。上の嘉名が因位に属するに対して、これは果位に属する。或は上は法の完美を示し、これは正しく機の上に円現する方面を述べるというても宜しい。即ち弥陀の名号は、一声信じ称うる時に、その名号の広大なる功徳利益が、行者の識心に満ちみちて、煩悩悪業の禍は頓に功徳と転じ変わる。良にこれ十方三世に於けるあらゆる徳号を生む所の根本である。故に徳本と名づけられる。

第三項 二尊能化
然則釈迦牟尼仏 開演功徳蔵 勧化十方濁世。阿弥陀如来 本発果遂之誓{此果遂之願者廿願}悲引諸有群生海。

【読方】然ればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂のちかいをおこし諸有の群生海を悲引したまう。
【字解】一。功徳蔵  功徳の蔵。善根を収め貯えたること。福徳荘厳の充満せること。ここでは万善万行の功徳を蔵めたる弥陀の名号のこと。
【文科】第十九願の下と等しくここに二尊の能化を明かし給う。
【講義】これによりて見れば、大聖釈迦牟尼如来は功徳の宝蔵ともいうべき弥陀の名号の威徳利益を開き演べて、普く十方の濁悪世に生まれたる衆生を化益し給うたが、更にその源を云えば、阿弥陀如来はその因位に於いて、果遂の誓願即ち第二十願を起して、あらゆる二十五有界の衆生を導き、遂に大悲をもって弘願真実に入らしめ給うからである。

第四項 第二十願名
既而有悲願。名植諸徳本之願

【読方】すでにして悲願います。植諸徳本の願となづく。
【字解】一。植諸徳本之願  弥陀の四十八願中の第二十、念を弥陀の浄土に係けて諸の功徳の本因を植
(3-408)
え、これを回向すれば、いつかは往生の願望を果たし遂げるであろうと誓う。故に係念定生願、不果遂者の願、または至心回向の願と名づけらる。
【文科】真門の本願標挙。
【講義】即ちここに如来の悲願います。それは第二十願である。それを植諸徳本之願と名づける。これは諸の徳本を植えるもの、即ち如来の名号を称えた功徳をもって往生を願う者を助けるという本願である。

第五項 第二十願異名

 復名係念定生之願 復名不果遂者之願 亦可名至心回向之願也。

【読方】また係念定生の願となづく。また不果遂者の願となづく。また至心回向の願となづくべきなり。
【文科】異名布列。
【講義】復この願を係念定生之願と名づける。係念は念を西方に係けること、これは因である。そして定生はこの因に対する往生の果である。即ち係念するものは、必ず往生せ
(3-409)
しむるという誓願である。復不果遂者之願と名づける。如来がこの願に入るものは、どうしても真実報土の往生を果たし遂げさせずにおかぬと誓わせられた本願である。亦本願の名号を己が善として回向するのであるから至心回向の願と名づけることが出来ると思う。
【余義】一。茲に第二十願について四名を挙げ給うてある。前三名は諸師共許の願名であり、後の一名は我が祖御己証の願名である。植諸徳本の願というは、第二十願の一願事因行について名を立てたるもので、願文の儘の名称である。
 係念定生の願、不果遂者の願というは、同じく第二十願の一願事利益について立て、係念定生は義に依り、不果遂者は願文の儘の名である。
 至心回向の願というは、同じく第二十願の一願事信について立名し、願文の儘の名である。例の如く御己証の願名であるから、「亦可名」と仰せられてあるが、第二十願の特色を最も明かに発揮する願名である。

第二節 善本経文証

(3-410)

第一項 『大無量寿経』の文
第一科 因願文

是以『大経』願言
設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心回向 欲生我国 不果遂者 不取正覚。

【読方】ここをもって大経の願にのたまわく、たといわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念を我が国にかけて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して我が国に生ぜんとおもわん。果遂せずといわば正覚をとらじ。
【文科】正しく第二十願標挙。
【講義】されば『大経』第二十願にのたまわく、設〈もし〉我、仏となるであろう時、十方の衆生が、我が名号の謂われを聞いて、我が極楽国へ念〈おもい〉を係〈か〉け、諸の徳本たる名号を称え、一心にその功徳を回向して、我が極楽浄土へ往生せんことを欲〈ねが〉うならば、必ず真実報土の往生を遂げさするであろう。もし左様にすることが出来ないならば、我は正覚を得ないであろう。
【余義】一。第二十願に就いては、法位、憬興、玄一等の諸師の如き、称名往生の願とし
(3-411)
て順次生を許す説もあれど、義寂、御廟、真源等多くの諸師は、皆この願をもって結縁の願としている。即ち係念定生の願とか、聞名係念の願等と称するものこれである。これは「係念我国」を、願の中心と見たので、弥陀の名号を聞いて、極楽へ往生したいと、ただ念〈おもい〉を係けたことが結縁となりて、次生には往生することは出来ないが、第三生には往生することが出来るというのである。
 この説を判明せしめたのは『鎮西宗集』『選択決疑鈔』に表れたる二種の三生果遂説である。第一は過現門の三生である。即ち過去世に於いて定散の善根を修むるが一生、願文に所謂「植諸徳本」である。次に現在に於いて、これらの過去の善根を弥陀の浄土に回向するが一生、願文に所謂「至心回向」である。更に第三生に至って弥陀の浄土に生まれる、願文に所謂『不果遂者』である。第二は現未門の三生である。即ち現在に諸善を修めても未だ弥陀の浄土に回向せない。次生に再び娑婆に生まれて初めて先に修めたる善根を浄土に回向するが第二生、かくて第三生は弥陀の浄土へ生まれる。かくの如く三生に亘りて果遂の意義がある。以上の中第一の結縁の一生には、その厚薄によりて幾生をも経るのであるが。それを一括して結縁の一生というのである。
(3-412)
 西山にも『略箋』『選択集私集鈔』等に第二十願を宿善果遂の願と称して三生果遂説を述べてある。その意によれば、過去に修めた善根が外障等に妨げられて果し遂げないのが、第二生に弥陀念仏に帰するに至って、百合の根が春に逢うて芽を出して花が咲くように、念仏の功徳として開発する。かくて第三生には往生させずには置かぬとはこの願意であるという。即ち「植諸徳本」は過去生の善根、「至心回向」は第二生の念仏の中へ回向する所、かくて「不果遂者」が第三生の往生である。
 二。然るに本宗にては、第二十願を真門の分斉と見、第十八、第十九と関連して三願、三経、三機、三往生に配して、自力念仏の誓願とするので、諸師他流の間に立ちて、卓然たる見解を発揚しているのである。即ちこの願の「植諸徳本」は善本徳本の名号、「至心回向」は自力回向の安心である。
 されど、三生果遂説は天台、華厳等にも三生成仏の名の下に、既に建立せられている程、人心の深い所に根拠ある説である。然るに本宗に於いてこの説がないのであるか。
 これに就いて、在覚師はこの下の『六要』に上説に同じて本宗独特の三生果遂説を述べてある。第一生は聞名、第二生は化土往生、第三生は報土、これは自ずから彼の鎮西の現未門に相
(3-413)
当しているものである。これを『樹心録』には二義を以て解釈している

(挿図 yakk3-414.gif)
                        一、「定善義」説
       ┌ 一、約経生(亦名転生果遂)─
 『樹心』二義│                二、『大経』説
       └ 二、約歴念(亦名一生果遂)

 初めに転生果遂に約する中、第一に「定善義」の説は、その文「過去已曾修習此法(過去の已〈むかし〉曾てこの法を修習し)」は過去の第一生にして、この法とは念仏の一法を指す。即ち植諸徳本である。次に「今得重聞即生歓喜(今重ねて聞くことを得て即ち歓喜を生ず)」は第二生にして、現在世である。かくしてこの人は未来必ず浄土に往生することが第三生である。これは鎮西の過現門に相当するのである。
 次に転生果遂の第二、『大経』説は下巻勧信誡疑の下、「於此諸智疑惑不信(この諸智において疑惑して信ぜず)」は、此の世に於いて自力疑心をもって名号を聞き、次生に「生彼宮殿(彼の宮殿に生まる)」と化土に生まれ、かくして「識其本罪深自悔責(その本の罪を識り深く自ら悔責せん)」して報土に生まるるが第三生である。これは上述の如く鎮西の現未門に相当する。
 更に第二の歴念とは、一生に於ける信念の歴程に就いて三階段を経るというのである。「化巻」第九の「是をもって愚禿鸞、乃至、久しく万行諸善の仮門をいで、乃至善本徳本の
(3-414)
真門に回入し、乃至選択の願海に転入せり、乃至果遂の誓い良に由ある哉」というものこれにして所謂三願転入である。
 これを要するに、果遂の誓願は、深重なる大悲の正しく機に加わる歴程を示すものにして、転生と歴念と相俟ってこの願の円現を見るのである。『浄土和讃』に
   至心回向欲生と     十方衆生を方便し
   名号の真門ひらきてぞ  不果遂者と願じける
 と宣給い、進んで
   定散自力の称名は    果遂のちかいに帰してこそ
   おしえざれども自然に  真如の門に転入する。
 と仰せられしは、よく斧鑿を離れて、精神過程の妙味を歌い出したるものである。

第二科 成就文

又言
於此諸智疑惑不信 然猶信罪福 修習善本 願生其国。此諸衆生 生彼宮殿。

【読方】またのたまわく、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになお罪福を信じて善本を修習して、そ
(3-415)
の国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生。かの宮殿に生ぜん。
【字解】一。罪福  悪業、悪果を罪といい、善業、善果を福という。悪業は必ず悪果を招きて衆生を摧〈くだ〉き破る故に罪といい、善業は必ず善果を招きて、衆生を富楽ならしむるが故に福という。
【文科】『大経』下巻成就文を引用し給う。
【講義】また『大経』にのたまわく、この如来の殊勝なる諸の智慧を疑惑〈うたご〉うて信じ奉らず、却って罪福因果の理のみを信じ、悪因悪果を怖れて、善因善果を得んとし、乃ち功徳善根の本たる名号を称え、その功徳をもって極楽国土に生まれんと願い奉る。これらの自力疑心の機は、彼の浄土中の化土たる七宝の宮殿に生まれるのである。

第三科 三十行偈

又言
若人無善本 不得聞此経。
清浄有戒者 乃獲聞正法。{已上}

【読方】またのたまわく、もし人、善本なければこの経をきくことをえず。清浄に戒を有〈たも〉てるもの、いまし正法をきくことをえん。已上
【文科】『大経』下巻三十行偈の文引用。
【講義】また同じく下巻にのたまわく、もし衆生にして、過去世に於いて弥陀の名号を聞いて、念を両方に係けたという所謂係念の宿善がないならば、今世に於いて第二十願の真門の
(3-416)
教えを聞くことは出来ない。そしてまた同じく過去世に於いて弥陀の浄土は念じないが、兎も角も仏の教えによりて清浄の戒を有〈たも〉ったもの、即ち汎爾の宿善がないならば、今世に於いて念仏の法門を聞くことは出来ないのである。
【余義】一。茲に経典と釈書から二十八文引用してある。共に真門念仏の証として引き給うたのである。大体に於いて三段に分かれる。即ち(一)、第一文から第五文まで真門念仏の証文。(二)、第六文から第十八文まで執持名号の名号、功徳を証し、(三)、第十九文から第二十八文まで難を挙げて信順を勧むる証文として引き給うたものである。

(挿図 yakk3-417.gif)
  (一) 『大経』願文………正しく真門念仏を証す─┐
  (二) 『同』疑惑段文……真門念仏の意義を証す─┤
  (三) 『同』往懃偈………果遂の願意を証す───┼────     真門念仏の証
  (四) 『如来会』の文……『大経』願文の助顕──┤
  (五) 『平等覚経』の文…果遂の願意助顕────┘
  (六) 『観経』流通の文…『阿弥陀経』所説の念仏の出所を証す──┐
                   『観経』流通の念仏を承けて
(3-417)
  (七) 『阿弥陀経』の小善根の文…              ─┤
                    捨小善根執持名号と説く
  (八) 「定善義」の文………『阿弥陀経』の執持名号の説明────┤
  (九) 「散善義」の文………同─────────────────┤
  (十) 同………………………同
  (十一)同………………………同
  (十二)『法事讃』の文……… 同 ────────────────┼執持名号を証顕す。
  (十三)同………………………同
  (十四)同………………………同
  (十五)『般舟讃』の文……… 同
  (十六)『礼讃の文』………… 同
  (十七)元照律師の文…………同─────────────────┤
  (十八)孤山の『疏』の文……同─────────────────┘
  (十九)『大経』の文………… 五難を挙げて信を勧む ───────┐
(3-418)
  (二十)『涅槃経』の文……… 遇善知識の難を挙げて信を勧む
  (二十一)同………………………信楽受持の難を挙げて信を勧む
  (二十二)同………………………同
  (二十三)『華厳経』の文……… 遇善知識の難を挙げて信を勧む ───┼ 難を挙げて信を勧む
  (二十四)同………………………同
  (二十五)『般舟讃』の文……… 同
  (二十六)『礼讃』の文………… 信楽受持の難を挙げて信を勧む
  (二十七)『法事讃』の文……… 聞法と信楽受持の難を挙げて信を勧む
  (二十八)同………………………信楽受持の難を挙げて信を勧む ───┘

   第二項 『如来会』の文

『無量寿如来会』言
若我成仏 無量国中所有衆生 聞説我名 以己善根 回向極楽。若不生者不取菩提。{已上}

【読方】無量寿如来会にのたまわく、もしわれ成仏せんに、無量国のなかの所有の衆生、わが名を説かんを聞きて、もっておのれが善根として極楽に回向せん。もし生まれずと云わば菩提をとらじ。已上
(3-419)
【文科】『如来会』の因願引用。
【講義】『無量寿如来会』に言く、もし我、仏となるであろう時、数限りない国々のあらゆる衆生が、我が名号の謂われを説くことを聞いて、即ちその名号を己が善根となし、それを極楽に回向して往生を願うならば、必ず我が国へ往生せしむるであろう。もし往生することが出来ないならば、我は正覚を得ないであろう。

第三項 『平等覚経』の文

『平等覚経』言
非有是功徳人 不得聞是経名
唯有清浄戒者 乃還聞斯正法
悪驕慢蔽懈怠 難以信於此法
宿世時見仏者 楽聴聞世尊教
人之命希可得 仏在世甚難値
有信慧不可致 若聞見精進求{已上}

【読方】平等覚経にいわく、この功徳あるに非ざる人は、この経の名を聞くことをえず。ただし清浄に戒を有〈たも〉てるもの、いまし還りてこの正法をきく。悪と驕慢と蔽と懈怠とは、もってこの法を信ずることかたし。宿世のときに仏を見たてまつれる者、このんで世尊の経を聴聞せん。人の命まれに得べし。仏は世にましませども甚だも
(3-420)
うあいがたし。信慧あること到るべからず。もし聞見せば精進してもとめよ。 已上
【字解】一。悪  ここでは弊悪のこと。即ちかたいぢのわるきこと。
  二。蔽  教法を悪しく聞くこと。聞きようの悪きこと。
【文科】『平等覚経』の文を引用し給う。
【講義】『平等覚経』にのたまわく。この弥陀如来の御教えは訳なしに聞くことは出来ない。即ち宿善の功徳を具えたるものでなければ、この経の名を聞くことは出来ないのである。また前世に於いて清浄なる戒行をたもったものでなければ、この世に於いて如来の正法〈みおしえ〉を聞くことは出来ないのである。根性のねじけた者、驕慢者〈たかぶりもの〉、自ら自分の智慧を眩ますような聞きようの悪い者、懈怠者〈なまけもの〉とは、この法を信ずることは、極めて難しい。宿世に諸仏に逢い奉った人々は、自ら楽〈この〉んでこの如来の御教えを聞くであろう。
 人界に生を禀〈う〉けることは罕〈まれ〉である。人界に生を稟けても仏の御出世に逢うことは甚だ難い。更に仏に御逢い申しても、仏を信ずる智慧を得ることは中々容易なことではない。もし耳に仏法を聞き、目に仏法を見ることが出来たならば、誠に獲難い機会を獲たと喜び精進んで法を求めよ。
(3-421)

第四項 『観無量寿経』の文

『観経』言
 仏告阿難 汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名。{已上}

【読方】観経にのたまわく、仏阿難につげたまわく、汝よくこの語をたもて、この語を持〈たも〉てというは、即ちこれ無量寿仏の名をたもてとなり。 已上
【文科】『観経』流通分を引用し給う。
【講義】『観無量寿経』にのたまわく、仏、阿難尊者に仰せらるるよう。阿難よ、汝よくこの語を心に執持〈たも〉てよ、この語を執持〈たも〉てとは即ち無量寿仏の御名を持てということである。

第五項 『阿弥陀経』の文

『阿弥陀経』言
不可以少善根福徳因縁 得生彼国 聞説阿弥陀仏執持名号。{已上}

【読方】阿弥陀経にのたまわく、少善根福徳の因縁をもって、かの国に生ずることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持せよ。已上
(3-422)
【文科】『阿弥陀経』の文御引用。
【講義】『阿弥陀経』にのたまわく、極楽は大乗善根界であるから、自力の定善散善等の少善根、小福徳の因縁をもっては、往生することは出来ないのである。
 然らば如何なる因縁によりて往生することが出来るのであるかと云えば、唯阿弥陀如来を説き奉ることを聞くだけである。即ち弥陀の名号の謂われを心に聞き開いて執持〈たも〉つことである。

第三節 善本釈文証

第一項 善導大師の釈文
第一科 「定善義」の文

光明寺和尚云
自余衆行雖名是善 若比念仏者 全非比校也。是故諸経中処処広讃念仏功能。如『無量寿経』四十八願中 唯明専念弥陀名号 得生。又如『弥陀経』中 一日七日専念弥陀名号 得生。又十方恒沙諸仏 証成不虚也。
又此『経』定散文中 唯標専念 名号得生。此例非一也。広顕念仏三昧竟。

【読方】光明寺の和尚ののたまわく、自余の衆行はこれ善となづくといえども、もし念仏に比ぶべればまったく比校にあらず。このゆえに諸経のなかに処々にひろく念仏の功能をほめたり。無量寿経の四十八願の中にごときは、ただ弥陀の名号を専念して生ずることを得とあかす。また弥陀経の中のごときは、一日七日、弥陀の名号を専念して生ずることをう、また十方恒沙の諸仏証誠虚しからざるなり。またこの経の定散の文の中には、ただ名号を専念して生ずることをうと標す。この例一にあらず。ひろく念仏三昧をあらわしおわんぬ。
【文科】「定善義」の文によりて、諸行を廃し念仏を勧め給う。
【講義】光明寺の善導和尚の「定善義」にのたまわく、念仏以外の種々の行業は、元より浄土の善根と名づけられてはおるけれども、もしこれを念仏に比べるならば、全く比較〈くらべもの〉にはならぬ。それであるから諸経典の中に、処々に広く念仏の功徳利益の広大なることが讃嘆〈ほめたた〉えられてある。先ず『大無量寿経』の四十八願の如き、その所詮とする所は第十八願にして、即ち唯弥陀の名号を信じ称えて、極楽に往生するものであると明かされてある。また『阿弥陀経』には、一日乃至七日専ら弥陀の名号を信じ称えて往生するのであると説き、また十方恒沙の数限りない諸仏は、念仏往生の虚しからざることを証誠〈あか〉し下されてある。終りにこの『観無
(3-424)
量寿経』には、定善散善を説いた中に、唯専ら弥陀の名を信じ称えて、極楽浄土へ往生することが出来ると標明〈かか〉げられてある。これらの例は上に挙げる如き一二に止まるものではない。挙ぐるに遑〈いとま〉あらずである。広く念仏三昧の意義を顕わし竟る。

第二科 「散善義」の文

又云
又決定 深信『弥陀経』中十方恒沙諸仏 証勧一切凡夫 決定得生。{乃至}
諸仏言行 不相違失。縦令釈迦 指勧一切凡夫 尽此一身 専念専修 捨命已後 定生彼国者 即十方諸仏 悉皆同賛同勧同証。
何以故 同体大悲故。一仏所化即是一切仏化。一切仏化即是一仏所化。即『弥陀経』中説{乃至}
又勧一切凡夫 一日七日一心専念弥陀名号 定得往生。
次下文云 十方各有恒河沙等諸仏 同賛釈迦 能於五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪・無信盛時 指賛弥陀名号 勧励衆生称念 必得往生。即其証也。
又十方仏等 恐畏衆生不信釈迦一仏所説 即共 同心・同時 各出舌相 徧覆三千世界説誠実言 汝等衆生 皆応信是釈迦 所説・所讃・所証。一切凡夫不問 罪福多少時節久近 但能上尽百年 下至一日七日 一心専念弥陀名号 定得往生 必無疑也。
是故一仏所説一切仏 同証成其事也。
此名就人立信也。{抄要}

【読方】またのたまわく、また決定してふかく弥陀経の中に、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して、決定して生ずることを得と信ぜよ。(乃至)諸仏の言行あい違失したまわず。たとい釈迦指して一切の凡夫を勧めて、この一身をつくして専念専修して、命を捨てて後さだめてかの国に生ずというは、すなわち十方の諸仏ことごとく皆おなじく讃〈ほ〉め、おなじく勧め、おなじく証したまう。何をもってのゆえに、同体大悲のゆえに。一仏の所化は、すなわち一切仏の化なり。一切仏の化は、すなわちこれ一仏の化なり。すなわち弥陀経のなかにとかく。(乃至)また一切の凡夫をすすめて、一日七日一心にして弥陀の名号を専念すれば、さだめて往生を得と。次下の文にのたまわく。十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、おなじく釈迦をほめたまわく、よく五濁、悪時、悪世界、悪衆生、悪煩悩、悪邪、無信の盛んなる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生を勧励して称念せしむれば、かならず往生を得と。すなわちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを畏れて、すなわちともに同心同時におのおの舌相をいだしてあまねく三千世界を覆うて誠実の言をときたまわく、なんだち衆生、みなこの釈迦の所説、所讃、所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近をとわず、但よく上百年をつくし、下一日七日に至るるまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、さだめ
(3-426)
て往生をうること、必ず疑いなきなり。このゆえに一仏の所説をば、一切仏おなじくその事を証誠したまう。これを人に就いて信を立つとなづくなり。要を抄す
【字解】一。同体大悲  諸仏の慈悲をいう。三世諸仏の慈悲は、衆生をして弥陀の浄土へ往生せしむることである。故に諸仏の慈悲は弥陀の同体の慈悲である。
  二。五濁  末世に行わるる五つのいまわしき事。劫濁(時代の堕落)、見濁(人々の見解汚る)、煩悩濁、衆生濁(民衆の堕落)、命濁(短命)。
【文科】「散善義」第一文によりて諸仏証誠の念仏を明かし給う。
【講義】また「散善義」にのたまわく、また『阿弥陀経』の中には、十方恒沙の数限りない諸仏方が、一切の凡夫の為に、念仏往生の虚しからざることを証拠立て、この経説を信ぜよさらば決定往生することが出来ると御勧め下されてあるが、この証誠の御言葉を決定して深く信ぜられよ。
 諸仏の御言葉とその行力〈ちから〉とは相離れることはない。即ち御言葉は真実にして行力の表現〈あらわ〉であり、行力はそのまま言葉と表われるのである。
 あの釈迦如来があらゆる凡夫を教え勧めて、弥陀の浄土を願生せしめ、この肉身〈からだ〉のあ
(3-427)
る限り、ひたすら念仏の一行を修すれば、命終わって後極楽へ往生することが出来ると説かれたことを、十方にましますあらゆる諸仏も、亦釈迦如来と同じように、念仏の一行を讃嘆し、信心を勧め、自ら証拠に立って下された。
かくの如く釈迦如来を始め、一切の諸仏がすべて皆弥陀如来の名号を称えよと勧めなされることは、何故であろうかと云うに、弥陀の大悲も諸仏の大悲も、目指す所は同じであるからである。そは諸仏というも、元は弥陀一仏より顕われ給うたもので、諸仏の大悲というも、畢竟ずる所、一切衆生をして弥陀の浄土に往生させたいというに外ならぬ。故に一仏の化益し給う衆生は、同時に一切の仏の化益し給う衆生であり、一切の仏の化益し給う衆生は、同時に一仏の化益し給う衆生である。かくの如く諸仏の大悲は全く同じく、釈迦も諸仏も、同時に弥陀如来の名号を讃嘆し、念仏一行を修せよとお勧め下さるのである。
 即ち『阿弥陀経』の中に 乃至 釈迦如来はまたすべての凡夫を勧めて、一日乃至七日の間、一心に弥陀の名号を称念すれば、必定極楽に往生することが出来ると説かれてある。そして同経の終りの文には、十方の世界に、恒河の沙〈すな〉の数程の諸仏がましまして、口を揃えて、釈迦如来が、能くもこの五濁の悪時、悪世界、悪衆生、悪見、悪煩悩、悪邪、無信仰の時代
(3-428)
に、弥陀の名号を讃嘆し、衆生を勧め励まして、名号を称念〈とな〉うれば、必ず往生が出来ると御説きになったことぞと、讃嘆せられてある。これは釈迦如来と諸仏とが、同体の大悲で、同じように讃嘆勧信なされた証拠である。
 また十方にまします諸仏方は、衆生が、釈迦如来一仏の説法だけでは、信ぜないようなことがあるかも知れぬというので、同体の大悲心から、釈尊の『阿弥陀経』を説かれると同時に、銘々に広長の舌を出して三千世界を覆い、汝ら衆生、この釈迦如来の説き給う所、讃嘆し給う所、証誠し給う所を信仰せよ。あらゆる凡夫、いかなるものでも、罪業福徳の多少に拘らず、念仏を修する時節の長い短いには依らず、ただ上は命のある限り、下は一日乃至七日の間でも、一心に専ら弥陀の名号を称念すれば、必ず極楽へ往生することが出来る。これは微塵も疑うことはないと御説きになった。
 かように釈迦如来一仏の説法を、一切諸仏が証明せられたのである。上来述べ来たった所は、釈迦諸仏の能説の人に就いて信を立てるのであるから、就人立信というのである。

又云
然望仏願意者 唯勧正念 称名。
往生義 疾 不同雑散之業。如此経及諸部中 処処広嘆 勧令称名 将為要益也。応知。

【読方】またのたまわく、しかるに仏の願意にのぞむれば、ただ正念を勧めて名を称せしむ。往生の義の疾きこと雑散の業には同じからず。この経および諸部の中に、処々にひろく嘆ずるがごときは、すすめて名を称せしむるをまさに要益せんとするなりしるべし。
【字解】一。雑散之業  浮いて散り乱るる心にて修むる行業。ここには大乗十二部経の首題名字を聞いて得る処の効能をいう。一心正念の正業に対して雑散之業という。
【文科】「散善義」第二文によりて専修念仏を述べたまう。
【講義】また「散善義」にのたまわく、然るに弥陀如来の本願の正意に引きつけて考えて見るに仏願の正意とする所は、唯念仏一行を専修して、称名せよというのである。そして極楽往生に就いて、その頓速なることは、かの十二部経の首題名字を聞くような利益とはその選を異にしている。それらは浄土の正行ではなくして、全く雑行である。そしてその行を修める心は常に浮動しているから、雑散の業と名づけられるのである。
 それ故にこの浄土の三部経はじめ、諸部の大乗経典の中に、処々に広く讃嘆してあるものは、全く称名の一行を勧めて、これが一大仏教の粋を集めた至要の利益であることを知ら
(3-430)
しめ給うものである。

又云
従仏告阿難汝好持是語已下 正明付嘱弥陀名号 流通於遐代。上来雖説定散両門之益 望仏本願 意在衆生一向専称弥陀仏名。

【読方】またのたまわく、仏告阿難汝好持是語というより已下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することをあかす。上よりこのかた定散両門の益を説くといえども、仏の本願に望むれば、こころ衆生をして一向にもっぱら弥陀仏の名を称ぜしむるにあり。
【文科】「散善義」第二文によりて付属を述べたまう。
【講義】また同じく「散善義」にのたまわく、『観経』流通分に、「仏、阿難に告げたまわく、汝好くこの語を持〈たも〉て」已下は、正しく一経の至要たる弥陀の名号を阿難尊者に付属して、遠く末代に流伝し、宣布せしめて、一切衆生を利益せんと欲〈おぼ〉しめし給うものである。それであるから、この流通分の念仏付属から考えて見るに、上来正宗分に於いて、広く定善十三観、散善三観という二門の利益を御説きになったけれども、弥陀如来の本願に望めて見ると、
(3-431)
その正意とする所は、正しく一切衆生をして、一向に心を専らにして、弥陀の名号を称えしめんとするに在るのである。

第三科 『法事讃』の三文

又云
極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生
故使如来選要法 教念弥陀専復専
又云
劫欲尽時五濁盛 衆生邪見甚難信
専専指授帰西路 為他破壊還如故
曠劫已来常如此 非是今生始自悟
正由不遇好強縁 致使輪回難得度
又云
種種法門皆解脱 無過念仏往西方
上尽一形至十念 三念五念仏来迎
直為弥陀弘誓重 致使凡夫念即生

【読方】またのたまわく、極楽は無為涅槃界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし。かるがゆえに如来要法を選びて、おしえて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえりと。またいわく、劫つきなんと欲するとき五濁さかんなり。衆生邪見にしてはなはだ信じがたし。専らにして専らなれと指授して西路に帰せしむれども、他のために破壊せられてかえりて故〈もと〉のごとし。曠劫より已来〈このかた〉つねに此〈かく〉のごとし。これ今生にはじめて自ら悟るにあらず、まさ
(3-432)
しくよき強縁に遇わざるによりて、輪回して得度し難からしむることを致す。またいわく、種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるはなし。かみ一形をつくし、十念三念五念に至るまでも仏来迎したまう。ただちに弥陀の弘誓の重きをもって、凡夫をして念ずれば即ち生ぜしむることを致す。
【文科】『法事讃』の三文を引いて五濁の世相応の念仏一行を勧め給う。
【講義】また『法事讃』にのたまわく、弥陀如来の極楽浄土は、無為自然の国、涅槃常楽の世界である。真如法性の理に即して、而も厳浄円徳の相を示す絶対界である。随ってこの証果をうるにはそれに相応する因行がなければならぬ。則ち人々が各自の縁に随って善根を修するというような雑悪の善根では、往生することは出来ないのである。それ故に釈迦如来は、諸善万行の中より、弘願念仏の要法を選びて、一切衆生に教え、唯弥陀の名號を信じ称えて、二心なく復二心なく専修専念せよと御勧め下された。
 またのたまわく、この劫波〈とき〉が終りに近づく時、末世の特色なる五つの濁りが盛んになって世を汚す、一切衆生〈あらゆるひとびと〉は邪の見解に惑わされて、智慧の眼眩み、如来の正法を信ずることが出来なくなって仕舞うておる。それ故に専修念仏を勧めて、末世に於いてはこの一法の外はないと、偏に西方の極楽往生を指授〈さししめ〉して、本願の一道に帰〈もとづ〉かせても、また解行を異にしている人
(3-433)
々の為に惑わされ、その信仰を破壊〈やぶ〉られて故〈もと〉の邪見無信の輩となってしまう。この有様は曠劫の昔から常に繰り返している惨〈いたま〉しい修道の退堕である。かように自ら霊に覚醒するということも、今生が始めてではないのであるが、正しく本願に帰せしむる好き強縁即ち真の善知識に逢うことが出来なかった為に、虚しく生死の巷に輪回して、出離の時期がないのである。
 またのたまわく、釈尊一代に御説きになった種々の法門は、皆吾々をして証りを開かしめるものであるが、併〈しか〉しながら弥陀の名号を専ら信じ称えて、西方極楽浄土へ往生するに若〈し〉くはない。それは良〈まこと〉に易行易修の教えであり、吾々の根機に相応したものである。即ち生命のある間は、一生涯を尽くし、乃至十声、三声、五声の称名でも、如来は直ちに来り迎え給う。これというも外ではない。この弘願の念仏が如来の直説、出世の本懐であるからである。即ち弥陀の「若不生者」の誓願力が深重にまします故に吾等凡夫が一念の信を起こせば、たちどころに即得往生の位に定めしめ給うのである。

第四科 『般舟讃』の文

又云
一切如来設方便 亦同今日釈迦尊
随機説法皆蒙益 各得悟解入真門{乃至}
仏教多門八万四 正為衆生機不同
欲覓安身常住処 先求要行入真門

【読方】またのたまわく、一切の如来、方便を設けたまうことまた今日の釈迦尊におなじ。機に随いて法を説くにみな益をこうむる。おのおの悟解をえて真門にいれ。(乃至)仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機の不同なるがためなり。安身常住の処を覓〈もと〉めんと欲〈おも〉わば、まず要行をもとめて真門に入れ。
【文科】『般舟讃』の文によりて真門に入ることを勧励し給う。
【講義】また『般舟讃』にのたまわく、一切如来が衆生化益の為に、方便を設け給うことは、この度御出世になった釈迦牟尼世尊と同じである。即ち衆生の区々〈まちまち〉なる根機に随って、それぞれの法を説き給う故に、その法縁に触れるものは皆化益を蒙るのである。
 それであるから今この大聖釈尊の化導に預かる衆生は、各自に一代仏教の肝要は何であるかということを考え、ここに正しい了解を起こして、念仏の一道に入るが宜しい。乃至
 一代仏教の門戸は種々に分かれて、八万四千と云われておる。これというも、正しく衆生の根機が様々に分かれている為である。故にいやしくも真実に身を安んじ、心を常住不変の天地に憇わしむることを覓めるならば、先ず一代仏教の要行たる念仏の一道を求めて、浄土真
(3-435)
門の教えに入るがよい。

第五科 『往生礼讃』の文

又云{智昇師礼懺儀文云光明寺『礼賛』也}
爾比日 自見聞諸方道俗 解行不同 専・修(雑)有異。但使専意 作者 十即十生。修雑不至心者 千中無一。{已上}

【読方】またのたまわく、爾〈それ〉このごろ自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専雑異あり。ただし意を専らにして作〈な〉さしむれば、十はすなわち十ながら生ず。雑を修して至心ならざれば、千が中に一もなし。
【文科】『礼讃』の文によりて、専修至心を勧め給う。
【講義】また『往生礼讃』にのたまわく、この日〈ごろ〉我各処に道を修めている出家在家の人々の状態〈ありさま〉を見聞〈みきき〉するに、その信心も行業も、皆それぞれ相違していて、専修の人もあれば、雑修の人もある。然るにもしも心を一にして他力念仏を専修するならば、十人は十人ながら極楽に往生することが出来る。然るに自力の計らいに陥り、助正兼ね修めて、専修専念でないならば、千人の中一人も真実報土の往生を遂ぐることは出来ないのである。

第二項 大智律師の釈文

(3-436)

元照律師『弥陀経義疏』云
如来 欲明 持名功勝。先貶余善 為少善根。所謂布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行 一切福業 若無正信 回向願求 皆為少善。非往生因。
若依此経 執持名号 決定往生。即知 称名是多善根・多福徳也。
昔作此解 人尚遅疑。近得襄陽石碑経本文 理冥符。始懐深信。彼云 善男子・善女人 聞説阿弥陀仏 一心不乱 専称名号。以称名故 諸罪消滅。即是多功徳・多善根・多福徳因縁。{已上}

【読方】元照律師の弥陀経義疏にいわく、如来持名の功勝れたることを明かさんと欲し、まず余善を貶して少善根とす。いわゆる布施、持戒、立寺、像造、礼誦、坐禅、懺念、苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなわち知んぬ。称名はこれ多善根多福徳なり。むかしこの解をなしし人なお遅疑しき。ちかく襄陽の石碑の経の本を得て文理冥符せり。はじめて深信をいだく。彼にいわく、善男子善女人、阿弥陀仏をとくをききて、一心にしてみだれず名号を専称せよ。称名をもってのゆえに諸罪消滅す。すなわちこれ多功徳多善根多福徳の因縁なり。已上
【字解】一。礼誦  礼拝、読誦。
(3-437)
  二。懺念  懺は梵語クシャマ(Ksama)、音訳懺摩の略。悔過と訳す。即ち懺悔の念〈おも〉いのこと。懺悔は罪障りを滅する徳あり。
【文科】『弥陀経義疏』によりて諸行を貶して念仏を勧め給う。
【講義】元照律師の『弥陀経義疏』に云く、釈迦如来が、弥陀の名号を執持する功徳の勝れたることを顕わさんと御思召して、先ず念仏以外の余の諸善万行を貶めて少善根とせられた。諸善万行とは、所謂修道者の一般形式ともいうべき布施、持戒等の六波羅密、または寺塔を立てること、仏像を造ること、または浄土の五正行中の礼拝や読誦や、或は坐禅、懺悔、苦行、及び一切福徳を得る行業等を指すのであるが、然るにもしも念仏を信ずる正信がないならば、よしやこれらの行業をもって、浄土に回向し往生を願い求めても、皆それは少善根であって、正しく浄土往生の正因ではない。然るにもしこの『阿弥陀経』の説く所に随って弥陀の名号を信じ執持〈たも〉つならば、間違いなく往生することが出来る。これによりても称名が他の一切の諸善万行に超え勝れて、多善根多福徳であることが知られるのである。私は嘗て上の如き解釈を施したが、人々は尚疑いを挾〈さしはさ〉んで信ずることがなかった。然るに近ごろ襄陽に建ってある石碑の経文を獲て、これを見るに、その経文の示す所と、私の上
(3-438)
の釈義と能く符節を合せたように一致し、人々も始めて深い信仰を懐くようになった。その経文は、宿縁ある善男子、または善女人ありて、阿弥陀如来を説きたてまつる教えを信じて、一心に余へ心を散らさず、専ら弥陀の名号を称えよ。この称名の功力によりて、一切の煩悩悪業尽くみな消滅する。これは何故であるかと云えば、称名の中に多善根多福徳の因縁が備わっておるからである。

第三項 智円法師の釈文

孤山『疏』云
執持名号者 執謂執受 持謂住持。
信力故執受在心。念力故住持不忘。{已上}

【読方】孤山の疏にいわく、執持名号というは、執はいわく執受なり。持はいわく住持なり。信力のゆえに執受、心にあり、念力のゆえに住持してわすれず。已上
【字解】一。孤山疏  智円法師の『弥陀経疏』をいう。法師は支那銭唐の人。天台宗に出家し、法化を西湖の孤山に宣揚す。故に本書を孤山疏と称す。西遼の天喜五年寂。寿四十七。西紀一一七二。
【文科】『孤山疏』によりて『小経』の執持名号を釈し給う。
(3-439)
【講義】孤山の智円法師の『弥陀経疏』にいわく「執持名号」というは、執は心に執受〈うけと〉ること、持は心に住持〈たもつ〉ことである。如来を信ずる力によりて、心に堅く名号を領納〈うけいれ〉れ、如来を念ずる力によりて、心に深く名号の謂われを感銘し忘れることのないのを執持名号という。

第四節 勧信経文証

第一項 『大無量寿経』の文

『大本』言
如来興世 難値難見。諸仏経道 難得難聞。菩薩勝法諸波羅蜜 得聞亦難。遇善 知識 聞法能行此亦為難。若聞斯経信楽受持 難中之難 無過此難。是故我法如是作 如是説 如是教。応当信順如法修行。{已上}

【読方】大本にのたまわく、如来の興世、値〈もいあ〉いがたく見たてまつりがたし。諸仏の経道得がたく聞きがたし、菩薩の勝法諸波羅密、聞くことを得ることまた難し、善知識にあい、法をきき、よく行すること、これまた難しとす。もしこの経をききて、信楽受持すること難きが中にかたし、これに過ぎて難きことなし。この故にわが法、かくのごとく作し、かくのごとく説き、かくのごとく教う、まさに信順して法のごとく修行すべし。已上
(3-440)
【文科】『大経』下巻の文によりて聞法難を説き信を勧め給う。
【講義】『大無量寿経』に曰く、釈迦牟尼如来の興世〈おでまし〉に逢〈あ〉いたてまつり、親しくその説法の会座に列なることは容易でない。それは三千年に一度咲く優曇華に逢うようなものである。また親しき見仏聞法でなくとも、その一代の間に御説きになった諸仏の経道〈おしえ〉を心に会得することも容易でなく、また聞くことも容易なことではない。また大乗菩薩の勝法〈おしえ〉及びその行ずる所の六度の行を聞くことも亦難い。そして善知識に逢い、その教法を聞いて教えの如く能く実修〈おさ〉めることも亦容易なことではない。それであるから、今この『大無量寿経』に説く所の教法を聞いて信楽〈しん〉じ受持〈たも〉つことは、難きが中にも、これに過ぎたる難いものはない。それ故に我(釈尊)この大経の教法を説かんとする時に、是の如く上巻の初めに、五徳の瑞相を作し、次に是の如く弥陀如来の因願果海を広説し、更に是の如く下巻には五善五悪をあげて教誨〈おし〉えたことである。汝等皆まさにこの教法の通りに行ずるがよい。
【余義】一。この一文修道の難を挙げて信心を勧め給う。上の『法事讃』等の勧信は弘願の念仏に転入することを勧められたものであるが、これは直ちに弘願の信心を勧めて仏智疑惑を誡めん為に引用し給う。
(3-441)
 この文を解するに文段に二あり。

     ┌ 一、値仏難(如来興世等)───────────────┐
     │             ┌ 経教難聞(諸仏経道)   │
 四難五難┼ 二、聞法難(諸仏経道等)┤              ├ 総
     │             └ 行法難聞(菩薩勝法)   │
     ├ 三、修行難(遇善知識等)───────────────┘
     │
     └ 四、獲信難(若聞此経等)──────────────── 別

 即ち第二聞法難を二つに開いて五難となる。五難の中初めの三は、順次の如く仏法僧の三宝に当たる。そして図の如く初め四難は総じて一代教に行き亘るが、第五は別して本経の獲信である。
 然るにこの下の『六要』には図の如く少しく解釈を異にしてある。

    ┌ 初三 ── 三宝 ───── 総一代教(総じて一代教)
    │
  五難┼ 第四 ── 修行難 ──── 総中置別(総中に別を置く)
    │
    └ 第五 ── 獲信難 ──── 別中之別

(3-443)
 即ち初めの三宝を一代教に通ずる総とし、第四の修行難に就いて、善知識というは、総じて一代教に通ずれどもこの大経に於いて善知識という上は、別して浄土の善知識でなければならぬ。これ総中置別(総中に別を置く)という所以〈わけがら〉である。
 『浄土和讃』及び本文より見れば上述の総別にて尽きているのであるが、『六要』の釈も亦棄つべきにあらず。この両説は併せ存して差し支いはないと思う。
 二。因みに如是作等の三に就いて、義寂師は序の如く如来の神通輪(身)、教誡輪(口)、記心輪(意)の三輪に配当して弥陀の利他に約してあるが、承陽師は如是作を弥陀、如是説、如是教を釈迦に配当している。後説の方が趣きが深い。

第二項 『涅槃経』の文
第一科 迦葉品の文

『涅槃経』言
如経中説 一切梵行因善知識。一切梵行因雖無量 説善知識 則已摂尽。如我所説 一切悪行邪見。一切悪行因雖無量 若説邪見 則已摂尽。或説阿耨多羅三藐三菩提 信心為因。是菩提因 雖復無量 若説信心則已摂尽。

【読方】涅槃経にのたまわく、経の中に説くがごとし。一切梵行の因は善知識なり。一切梵行の因、無量なりといえども、善知識を説けば則ちすでに摂尽しぬ。わが所説のごとし。一切の悪行は邪見なり。一切の悪行の因無量なりといえども、もし邪見をとけば則ちすでに摂尽しぬ。あるいはとく、阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とす。これ菩提の因また無量なりといえども、信心を説けば則ちすでに摂尽しぬ。
【字解】一。梵行  梵は清浄の義。清浄なる行いのこと。修道者が空有二辺の執着を離れ、清浄の心を以て、上菩提を求め、下衆生を化益すること。
【文科】『涅槃経』迦葉品の第一文によりて、善知識、信心等を述べ給う。
【講義】『涅槃経』迦葉品に言わく、この経の初めにも善知識と信心の徳を讃説してある如く、証りに至る一切浄行の因は善知識である。それらの浄行の因は実に無量の多きに達している、けれども善知識を挙ぐれば、皆その中に摂め尽されて仕舞う。嘗て我説く所の如く、証りを障げる一切の悪行の因は邪見である。一切の悪行の因は無量の多きに達しているがもしこの邪なる見解一つを挙ぐればこれらの悪行の因は皆この中に摂め尽されて仕舞う。
 或いはまた説く。無上証真道即ち証りに至る真実の智慧は信心をもって因とする。これら証りに至る因は復無量の多きに達しているが、その中に信心一つを挙げるならば、則ちそれら
(3-444)
無量の因はこの信心一つに摂め尽されて仕舞うのである。

又言
善男子 信有二種。一者信 二者求。如是之人 雖復有信 不能推求 是故名為 信不具足。
信復有二種。一従聞生 二従思生。是人信心 従聞而生 不従思生 是故名為信不具足。
復有二種。一信有道 二信得者。是人信心 唯信有道 都不信有得道之人 是名為信不具足。
復有二種。
一者信正 二者信邪。言有因果 有仏法僧 是名信正。言無因果 三宝性異 信諸邪語 富闌那等 是名信邪。是人雖信仏法僧宝 不信三宝同一性相。雖信因果 不信得者。是故名為信不具足。是人成就 不具足信。{乃至}
善男子 有四善事。獲得悪果。何等為四。一者為勝他故 読誦経典。二者為利養故 受持禁戒。三者為他属故 而行布施。四者為非想非非想処故 繋念思惟。是四善事 得悪果報。
若人修習 如是四事 是名没没已還出 出已還没。何故名没 楽三有故 何故名出 以見明故 明者即是聞戒・施・定。何以故還出没。増長邪見 生驕慢故。是故我於経中 説偈
若有衆生楽諸有 為有造作善悪業
是人迷失涅槃道 是名蹔出還復没
行於黒闇生死海 雖得解脱雑煩悩
是人還受悪果報 是名蹔出還復没
如来則有二種涅槃。一者有為 二者無為。
有為涅槃 無 常楽我浄。無為涅槃。有常人 深信 是二種戒倶 有因果。是故名為戒。戒不具足 是人不具信戒二事。


{有為涅槃 無常楽我浄。無為涅槃 有常楽我浄。是人深 信是二種戒倶 有因(善)果。}

所楽(修)多聞亦不具足。云何名為聞不具足。如来所説十二部経。唯信六部 未信六部。是故名為聞不具足。雖復受持是六部経 不能読誦 為他解説 無所利益。是故名為聞不具足。
又復受是六部経已 為論議故 為勝他故 為利養故 為諸有故 持読誦説。是故名為聞不具足。{略抄}

【読方】またのたまわく、善男子、信に二種あり、一には信、二には求なり、是の如きの人、また信ありといえども推求にあたわず。この故になづけて信不具足とす。信にまた二種あり。一には聞より生ず、二には思より生ず。この人の信心、聞より生じて思より生ぜず。この故になづけて信不具足とす。また二種あり。一には
(3-446)
道あることを信ず。二には得者を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて信不具足とす。また二種あり、一には信正、二には信邪なり。因果あり、仏法僧ありといわん。これを信正となづく。因果なし、三宝の性ことなりといいて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪となづく。この人、仏法僧宝を信ずといえども、三宝同一の性相を信ぜず。因果を信ずといえども得者を信ぜず。この故になづけて信不具足とす。この人、不具足信を成就す。乃至
 善男子、四の善事あり。悪果を獲得せん。何等をか四とする。一には勝他のためのゆえに経典を読誦せん。二には利養のためのゆえに禁戒を受持せん。三には他属のためのゆえに而して布施を行ぜん。四には非想非々想処のためのゆえに、繋念思惟せん。この四の善事、悪果報をえん。もし人かくの如きの四事を修習せん。これを没となづく。没しおわりて還りていづ。出でおわりて還りて没す。何が故ぞ没となづくる。三有を楽うがゆえに。何が故ぞ出となづくる。明を見るを以てのゆえに。明はすなわちこれ戒施定を聞くなり。何を以ての故にか、かえりて出没するや。邪見を増長し驕慢を生ずるがゆえに。この故にわれ経の中において偈を説かく、もし衆生ありて諸有を楽〈ねが〉うて、有のために善悪の業を造作する。この人は涅槃道を迷失するなり。これを暫出還復没となづく、黒闇生死海を行じて、解脱を得といえども、煩悩を雑するは、この人かえりて悪果報をうく。これを暫出還復没となづく。
 如来にすなわち二種の涅槃あり。一には有為、二には無為なり。有為涅槃は無常なり。常楽我浄は無為涅槃なり。常人ありて、ふかくこの二種の戒ともに因果ありと信ぜん。このゆえになづけて戒とす。戒不具足とは、こ
(3-447)
の人は信戒の二事を具せず。所楽多聞もまた具足せず。いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、この故になづけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦して他のために解脱する能わずして利益するところなけん。この故になづけて聞不具足とす。またこの六部の経をうけおわりて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。この故になづけて聞不具足とす。 略抄
【字解】一。非想非非想処  無色界の第四天。無所有処定を厭いてこの天に生ず。この地は前の有想無想を離れたる故に非想非非想処の名あり。これ三界中、最上位にあるので有頂天とも云わる。
 二。諸有  諸の有。有とは現実世界のこと。そしてその現実世界の内容は名利であるから、ここではあらゆる名利をいうこと。
 三。十二部経  上五五頁を看よ。
【文科】迦葉品の第二文によりて信不具足を説いて信心を解脱し給う。
【講義】また『涅槃経』に言わく、善男子よ、信心に二種ある。一は仰いで信ずること、二は推求すること。即ち信心より生ずる所の智慧である。ここに一人ありて唯仰いで信ずるとも、能くその信の心を呑み込んで、如来の大慈悲の奥底を窮めることが出来ないのは信不具足と名づける。是人は絶対他力の信を獲た人ではなくして、自力の因果、罪福を信
(3-448)
ずる不了仏智の人である。
 また信心に二種ありて、一は本願の謂われを聴聞することから起こり、二は能くその本願の謂われを確乎〈しっかり〉と会得することから生まれる。ここに一人ありて唯大様〈おおよう〉に聞いてよくその本願の謂われを審らかに思考〈かんが〉えない。これも真実とは云われない。信不具足である。
 また信心に二種あり、一はこの『涅槃経』を説を聞いて、大般涅槃の一道があるということを信ずる。二はその涅槃を体得した人があるということを信ずる。然るに一人ありて、唯涅槃の一道あることを信ずるけれども、その涅槃を体得した人があることを信じない。押しつめて云えば、自分もその涅槃を得ることが出来ると信じ得ないのである。これを信不具足と名づける。
 復信心に二種あり、一は仏教の正しい信心、二は外道の教える邪の信心である。即ち一切諸法は因果の道理に順〈したが〉っているものであると云うことと、並びに世に真実の仏法僧の三宝あることを信ずるを信正と名づける。これに反して正しい因果の道理を無視し、そして仏法僧の三宝は、その性を一にしてはおらない、それらは根柢に於いて一体ではなくして、全く孤立しているものであると信じ、更に多くの道理を外れた邪の言説を信ずるのを信邪と名づける。
(3-449)
彼の因果を撥無した富闌那外道等の六師の如きはこれである。
 更に一類の人あり、仏法僧の三宝を信ずるけれども、この三宝の性相は全く一つであるとは信じない。即ち真の意味に於いて三宝は同一なのである。仏もその教法も、それを修する僧も全くその根柢を一にしているものである。この三宝同一性を信ずることが出来ず、また因果の道理を信じても、その道理を真に身を引き当て味おうている人を信じないならば、その人は亦信不具足の人と名づける。即ちこの人は完全なる信仰ではなく不完全なる信を獲ているのである。乃至
 善男子よ、これらの四善事を修むれば、却って悪果を獲〈う〉るであろう。その四善とは何であるか、一は他人に勝れたる名聞を得たいと思うて経典を読誦すること。二は我が身の利益ということを目的として禁戒を受持〈たも〉つこと。三は他人に属している物をもって布施を行ずること。四は外道の人達が最後の理想処としている人天の善果である所の非想非々想処に生まれたいと思うて念を其処へ凝らして思惟〈かんが〉えること。
 これらの四善事は事柄が善であっても、それを行う動機が自分の利益という穢い考えが主となっている為に、悪果報を獲るのである。それ故にもし人ありて上の如き四事を修習〈おさめ〉るなら
(3-450)
ば、その人は先ず悪道に沈没〈しず〉み、次に悪道より浮かび出で、浮かび出でても還〈また〉悪道に没するのである。
 何故に没するのであるか、それは三悪道を楽うておるから。何故に三悪道を出づるのであるか、それは明(智慧)を得るからである。明というは布施、持戒、禅定の意義を聞いて、心に智慧を得るをいう。何故にこの明によりて悪道を出でながら復再び悪道に沈没するのであるか、それは折角悪道を出でても、人天の善果に執着して、邪見を増長し、驕慢の心を起こすからである。凡夫は常にこの名利の為に堕落する。これ故に我は経典の中に下の偈文を説いた。
   あらゆる名利を楽む衆生は、
   名利の為に善悪の業を造る。
   この人は涅槃を迷失〈うしな〉い、
   暫時〈しばし〉悪道をいでて復沈む人と名づけらる。

   黒闇〈くらき〉生死海〈まよいのうみ〉を渡りて
(3-451)
   一度は苦を解脱〈のが〉れても
   煩悩は復この人を三塗に牽〈ひ〉かん。
   これを暫し浮かびて復沈む人と名づくる。
 如来には二種の涅槃がある。一は有為涅槃、二は無為涅槃である。有為涅槃とは真実の帰依処でなく無常にして究竟安穏の証〈さとり〉ではない。それは一時的な涅槃である。然るに無為涅槃とは、常住にして変易〈かわり〉なく真実の法楽、真実の大我、真実の清浄に満てるものである。真の涅槃は決して空寂なるものではなくして、斯の如く積極的なる常楽我浄の徳を具えたものである。
 もし常人〈つねのひと〉ありて、五戒十善等の善戒も、外道の教ゆる所の牛戒、狗戒等の悪戒も、共に善果を生ずるものと信ずるならば、その人は戒不具足と名づけられるのである。この人は亦無上菩提心たる信心も善根を修する所の戒も、二事ながら具えておらない。そして教法を聞知することを楽いとする所謂所楽多聞をも具足〈そなえ〉ておらない。
 抑も聞不具足とは云何なるものであるか。如来の教説の全体は十二部経である。この十二部経全体に行き亘っている教えを信ずることが聞具足であらねばならぬ。然るにその中の
(3-452)
六部を信じて他の六部を信じない。即ち教えの半ばを失うておるのであるからこれを聞不具足と為す。更に上に信じないと云ったその六部を受持ちても、即ち十二部経全体を受持っても、それを読誦〈よみ〉て他人の為に解説することが出来ず、利益を施すことが出来なければ、それは亦聞不具足と云わねばならぬ。亦この六部経を受持〈たも〉ち即ち十二部経全体を受持っても、徒なる論議の為や、他に勝れたいという名聞の為、またはその他の様々の世俗的の事柄の為にこの経説を利用し、それを読みそれを解説するならば、それは亦聞不具足と名づけられる。

第二科 徳王品の文

又言
善男子 第一真実善知識者 所謂菩薩・諸仏。世尊 何以故 常以三種善調御故。
何等為三。一者畢竟軟語 二者畢竟呵責 三者軟語呵責。以是義故菩薩・諸仏 即是真実善知識也。
復次善男子 仏及菩薩為大医故 名善知識。何以故 知病知薬 応病授薬故。譬如良医善八種術。先観病相。相有三種。何等為三。謂風・熱・水。風病之人授之蘇油。熱病之人授之石蜜。水病之人授之薑湯。以知病根 授薬得差。故名良医。
仏及菩薩亦復如是。知諸凡夫病 有三種。一者貪欲 二者瞋恚 三者愚痴。貪欲病者 教観骨相。瞋恚病者 観慈悲相。愚痴病者 観十二縁相。以是義故 諸仏・菩薩名善知識。
善男子 譬如船師 善度人故 名大船師。諸仏・菩薩亦復如是。度諸衆生 生死大海。以是義故 名善知識。{抄出}

【読方】またのたまわく、善男子、第一真実の善知識は、いわゆる菩薩、諸仏世尊なり。なにを以ての故に、つねに三種をもって善く調御するが故なり。何等をか三とする。一には畢竟軟語、二には畢竟呵責、三には軟語呵責なり。この義をもっての故に菩薩諸仏はすなわちこれ真実の善知識なり。また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆえに善知識となづく。何を以ての故に、病を知り薬を知りて、病に応じて薬をさずくるがゆえに。たとえば良医のごとし。八種の術をよくせり。まず病相を観ず。相は三種あり。何等をか三とする。いわく風熱水なり。風病の人にはこれに蘇油をさずく。熱病の人にはこれに石蜜をさずく。水病の人には薑湯をさずく。病根を知るを以て薬を授くるに差〈いゆ〉ることをう、かるがゆえに良医となづく。仏および菩薩もまたまた是の如し。もろもろの凡夫の病をしるに三種あり。一には貪欲、二には瞋恚、三には愚痴なり。貪欲の病には、おしえて骨相を観ぜしむ。瞋恚の病には慈悲の相を観ぜしむ。愚痴の病には十二因縁相を観ぜしむ。この義をもっての故に諸仏菩薩を善知識となづく。善男子、たとえば船師のよく人を度するがゆえに大船師と名づくるがごとし。諸
(3-454)
仏菩薩もまたまた是の如し。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもっての故に善知識となづく。 抄出
【字解】一。十二縁相  十二因縁の理をいう。これは三界の迷いの因果を詳説して衆生輪回のさまを示したものであるから愚痴の者の為の薬となるのである。
【文科】『涅槃経』徳王品の文によりて善知識の徳を述べ給う。
【講義】また『涅槃経』に言わく、善知識にも種々あるが、その中第一真実の善知識というは、大乗の菩薩と諸仏世尊を云う。何故かと云えば、これらの仏菩薩は三種の方法をもって善く衆生の心を調御〈ととの〉えて下さるからである。三種というは、一は行き届いた軟らかな語を御使いになる。これは摂受門である。二は欠目のない呵責である。これは折伏門である。三は軟語と呵責を時に応じて兼ね用い給うことである。この訳合いをもって菩薩諸仏は良に真実の善知識にていらせられるのである。
 復次に善男子よ、仏及び菩薩は精神上の大医であるから善知識と名づける。何故かと云えば病その物を知り、薬の性質を熟知し、さて病に相応する所の治療薬を授けるからである。これは良医に譬うるに、良医は八種の医術に熟達している。その中先ず病気の相状を見るに、大凡三種ある。その三というは風、熱、水である。乾燥する病気には蘇油を授け、熱病
(3-455)
の人には石蜜を授け、冷える病気の人には薑湯〈しょうが〉を授ける。かように病根を知っている為に、それに相応した薬を授くれば、直ちに癒ゆるのである。故に良医と名づけられる。
 今仏菩薩も亦この通りである。あらゆる凡夫の病に貪欲、瞋恚、愚痴の三種の病気あるを知り、貪欲の病人には、骨相観を教え、瞋恚の病人には慈悲観を教え、愚痴の病人には、十二因縁の道理を観ずることを教えるのである。蓋しあらゆる貪欲の中で、尤も修道を妨げるのは、色欲であるから、その美しい皮の下には醜い骨や血膿等が満ちみちていることを観じて、その欲念を払い、また瞋恚を払うには、他人に対しても我が子を愛する如き慈悲心を起こせば、自ずとその瞋恚は消えて仕舞う。愚痴を払うには、吾等凡夫が如何にして今日まで流転し来ったかということを知らしむる縁理を教えることが近道である。かように凡夫の病気相応に薬を盛るのであるから、諸仏菩薩を善知識と名づけるのである。
 善男子よ、譬ば船師が能く人を乗せて河海を渡して呉れるから、大船師と名づけられるように、諸仏菩薩も亦この船師のように、衆生を乗せて能く生死の大海を渡して涅槃常楽の彼岸に到らしめる故に、善知識と名づけるのである。
(3-456)

第三項 『華厳経』の文
第一科 善知識の文

『華厳経』言
汝念善知識 生我如父母
養我如乳母 増長菩提分
如医療衆疾 如天灑甘露
如日示正道 如月転浄輪

【読方】華厳経にのたまわく、なんじ善知識を念ぜよ。我を生ずること父母のごとし。我を養うこと乳母のごとし。菩提分を増長す。医の衆疾を療するがごとし。天の甘露をそそぐがごとし。日の正道を示すがごとし。月の浄輪を転ずるがごとし。
【字解】菩提分  菩提は梵音ポードヒ(Bodhi)、智、道、覚等と訳す。仏の智慧をいう。分の字を添えたのは、菩提に関わりあいのある凡てという意味を表わさん為である。
【文科】唐訳『華厳経』巻七十七によりて善知識の徳を讃え給う。
【講義】『華厳経』に言わく、汝、善知識を念ぜよ。善知識によりて真の自分が生まれるのである。善知識こそ真の我が父母にて在す。また我が菩提を求める心を長養い育て給うことは、恰も乳母のようである。それは亦衆〈もろもろ〉の疾を治療するが如く、我が心の煩悩の疾を癒し、天の甘
(3-457)
露を灑ぐが如く、我が渇いたる心を豊かに湿〈うるお〉し、白日の正しい道を示すように、正しき教法を指し示し、月の浄輪をみ空に転じて、清涼の光を放〈な〉ぐるように、善知識は実に我が心を清らかしむ。

第二科 如来大恩の文

又言
如来大慈悲 出現於世間
普為諸衆生 転無上法輪
如来無数劫 勤苦為衆生
云何諸世間 能報大師恩{已上}

【読方】またいわく、如来大慈悲、世間に出現して、あまねくもろもろの衆生のために、無上法輪を転じたまう。如来、無数劫に勤苦せしことは衆生のためなり。云何がもろもろの世間よく大師の恩を報ぜん。 已上
【文科】唐訳『華厳経』巻六十の文によりて如来の大恩を述べ給う。
【講義】また言わく、大慈悲の如来はこの世に出興になりて、普く一切衆生の為に、真に帰依すべき道なる無上教法を宣伝〈のべつた〉え下された。如来が無数劫の長い間、道を修めて勤苦〈くるし〉み給いしは、全く衆生の為である。世の諸の衆生はどうしてこの如来大師の恩徳に報い奉ることが出来ようぞ。
(3-458)

第五節 勧信釈文証

第一項 『般舟讃』の文

光明寺和尚云
唯恨衆生疑不疑 浄土対面不相忤
莫論弥陀摂不摂 意在専心回不回
或道従今至仏果 長劫讃仏報慈恩
不蒙弥陀弘誓力 何時何劫出娑婆
何期今日至宝国 実是娑婆本師力
若非本師知識勧 弥陀浄土云何入
得生浄土報慈恩 }}

【読方】光明寺の和尚のたまわく、ただ恨むらくば衆生の疑うまじきを疑うことを。浄土対面してあい忤〈たが〉わず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ、こころ専心にして回すると回せざるにあり。あるいはいわく、きょうより仏果にいたるまで、長劫に仏をほめて、慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずば、何れの時いずれの劫にか娑婆をいでん。いかんしてか今日宝国に至ることを期せん。まことにこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識のすすめにあらずば、弥陀の浄土いかんしてか入らん。浄土に生ずることをえて慈恩を報ぜよ。
【文科】『般舟讃』の文によりて、信を勧めたまう。
【講義】光明寺の和尚、善導大師の云わく、唯嘆かわしいことは、衆生が折角この無上の法門に逢いながら、疑うてはならぬことを、疑うことである。吾等の求めてやまぬ究竟安穏
(3-459)
の極楽世界は、吾等の目前にありて、吾等の願いに忤〈ちが〉うことはない。唯本願を信ずる一つで往生することが出来るのである。阿弥陀如来が助けて下さるか、下されぬかということをいっている場合でない。唯吾々の意に一念の信心があって、浄土へ参りたいという回願心を起こすかどうかということである。
 或浄土の行人はいう。今日只今より臨終の夕、仏果を開かして頂くまで、その間仏徳を讃嘆して、大慈大悲の仏恩を報じ奉ろうと思う。弥陀如来の本願力を受けなんだならば、何万劫かかった所が、どうしてこの流転の巷たる娑婆世界を出離することが出来ようぞ。
 今日弥陀の宝国へ生まれさせて頂こうとは、どうして思おうぞ。かく往生の仕合わせを獲ることは、皆これ本師釈迦牟尼如来の御力である。もし本師釈迦如来の御勧めがなかったならば、どうしてこの弥陀如来の浄土へ往生することが出来ようぞ。それであるから教えの如く信じて浄土に往生し、大慈の恩徳に報いるがよろしい。

第二項 『往生礼讃』の文

又云
仏世甚難値 人有信慧難
遇聞希有法 此復最為難
自信教人信 難中転更難
大悲弘{弘字知昇法師懴儀文也}普化 真成報仏恩。

【読方】またいわく、仏世はなはだ値いがたし。人、信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす。自らも信じ人を教えて信ぜしむること、難きが中にうたた更に難し。大悲ひろく普く化するは、まことに仏恩を報ずるになる。
【文科】『礼讃』の文によりて自信教人信を勧め給う。
【講義】また『往生礼讃』に言うよう。仏の御出世の時に生まれ逢うことは非常に難事である。一体、人と生まれて信心の智慧を有〈たも〉つことは容易なことではない。それであるから、別して世に希有な弘願念仏の法を聞くということは、はなはだ難しいことである。自らこの他力念仏の法を信じて、これを人にも信じさせるということは難中の難事である。かように弥陀大悲の誓願を広く人々に伝えて信ぜしむることは、真に報仏恩の大行である。

又云
帰去来 他郷不可停 従仏帰本家。還本国一切行願自然成。
悲喜交流深自度 不因釈迦仏開悟
弥陀名願何時聞 荷仏慈恩実難報

(3-461)
【読方】またいわく、帰去来〈いざいなん〉、他郷に停まるべからず。仏にしたがいて本家に帰せよ。本国にかえりぬれば一切の行願自然に成ず。悲喜まじわりながる。深く自らはかるに、釈迦仏の開悟によらずば、弥陀の名願いずれの時にか聞かん。仏に慈恩を荷いても、まことに報じがたし。
【字解】一。本家  迷いの娑婆を他郷というに対して、悟りの極楽浄土を本家という。吾等の帰著すべき永遠の故郷という意味である。
  二。名願  名号成就の本願をいう。第十七、第十八の不離一体たる弥陀仏の深重なる誓願をあらわして名願という。
【文科】『法事讃』の文によりて厭離欣浄を勧め善知識の徳を嘆じ給う。
【講義】また『法事讃』に言く、いざ諸共〈もろとも〉に手を取って行こうではないか。この世は全く他郷である。吾等の永遠に住むべき場所でない。如来に従うて浄土の本家に帰ろうではないか。一度浄土の本国に還るならば、一切の修せねばならぬ行も、起こさねばならぬ願も、自然に一身に具わるのである。これほど喜ばしいことがあろうか。慶喜の涙をとめどなく流れて頬を湿〈うるお〉すことである。かような至幸の身の上になったことを深く自ら考えて見るに、これ全く大聖釈迦牟尼如来の御力の然らしむる所である。もし釈迦牟尼世尊が迷いに沈む心を開発して下さらなかったならば、何れの時に弥陀如来の本願名号を聞信することが出
(3-462)
来ようか。かように広大なる弥陀釈迦二尊の慈恩〈おめぐみ〉を、どうして報い奉ることが出来ようぞ。

第二項 『法事讃』後序の文

十方六道 同此輪回無際 循循沈愛波 而沈苦海。
仏道人身難得 今已得。浄土難聞 今已聞。信心難発 今已発。{已上}

【読方】またいわく、十方六道おなじくこれ輪回してきわなし。循々として愛波に沈んで、しかく苦海にしずむ。仏道の人身えがたくして、今すでに得たり。浄土きき難くして、今すでに聞けり。信心おこし難くして、今すでにおこせりと。 已上
【文科】『法事讃』後序の文によりて聞法難を挙げて、勧信し給う。
【講義】また同じく『法事讃』に曰わく、十方の衆生は、等しく車の回るように、六道生死の巷に輪回して、打ち止めがない。回りめぐりて愛欲の波に漂わされ、苦悩の海に沈淪〈しず〉む。良に仏の御法を聞く身になるというは、至難のことである。然るに幸いにして今はもうその得難い身となっている。その教えの中にも浄土真実の要法を聞くと云うことは、困難中の困難であるが、それも今はもう聞くことが出来た。更にこの教えを聞いて信心を起こすことは難しい
(3-463)
ことであるが、それも今はもう起こすことが出来た。

第六節 私釈

【大意】上来第十九、第二十願の開設了わり、ここに私釈を施して自督を述べ給う。第十九、二十の願というも、畢竟凡夫の機相を徹見し給う如来の大悲方便の外はない。そしてそれは近く自身の信念に於いて実験せらるる所である。即ち第一項機情の失、第二項は悲嘆自督、第三項は自力の誡誨〈いましめ〉である。

第一項 機情の失
真知 専修而雑心者 不獲大慶喜心。
故宗師云 無念報彼仏恩。
雖作業行 心生軽慢。
常与名利相応故
人我自覆 不親近同行善知識故 楽近雑縁 自障障他 往生正行故。

【読方】真〈まこと〉に知んぬ。専修にしてしかも雑心なるものは大慶喜心をえず。かるがゆえに宗師は、かの仏恩を念報することなし。業行をなすといえども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆえに、人我おのずからおおうて同行善知識に親近せざるがゆえに、このみて雑縁にちかづきて、往生の正行を自障々他するがゆえにといえり。
(3-464)
【文科】自障々他する機情の失を述べ給う。
【講義】以上の引文によりて第二十願の機類を知ることが出来る。第二十願の機は、法は他力にして機は自力であるが、かように諸行の中から念仏一行を専修しても、それを修める機が自力の定散心であるから、仏凡一体の往生一定の大慶喜心を得ることが出来ない。それ故に善導大師は『往生礼讃』に、半自力半他力の機類〈ひとびと〉は、真に如来の恩徳に報い奉るの念〈おも〉いがない。従って身口意の三業に報恩の行をなしても、心に軽慢〈たかぶ〉る思いが起こり、常に名聞利養の欲念に穢され、「おれが」という我慢我執に真実心を覆われて、真〈まこと〉の道に進む友達と師に親しみ近づかず、却って正道を擾〈みだ〉す雑多な悪縁を楽〈この〉むようになる。かように往生の正行たる本願念仏の一道を自ら障え、他〈ひと〉をも退堕せしむるものである。これというもその本を繹〈たず〉ぬれば、機に雑心の失あるが致す所である。

第二項 悲嘆自督
悲哉 垢障凡愚 自従無際已来 助正間雑 定散心雑故 出離無其期。
自度 流転輪回 超過微塵劫 叵帰仏願力 叵入大信海。
良可傷嗟 深可悲歎。

【読方】かなしきかな垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆえに出離その期なし。みずから流転輪回をはかるに、微塵劫を超過すとも仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし。ふかく悲嘆すべし。
【字解】一。微塵劫  具には大地微塵劫、大地を微塵(兎毛の塵、羊毛の塵のような小さいもの)に打ち砕いた程の数多い劫波。数知れぬ長い時間。
【講義】これを思うにつけても、吾等煩悩の垢障に覆われたる愚純の凡夫は、無始久遠の古から、助業を捨てて正行に帰するという簡別〈えらび〉の心なく、唯この二つを修める心が雑然として存するとともに、定善散善の自力心は、常に心の内に雑わりて、純一無雑の信念に住することが出来ない。これは良に悲しむべきことである。それ故に何時になっても、この生死輪回の巷を出づる時期がなかったことである。熟〈つらつら〉生死流転の我が身を考えて見るに、この離れ難い自力疑心の為に、微塵劫の長いながい時を過ごしても、真実の他力本願に帰し難く、洋々として海の如き自力の計らいを離れたる大信海に帰入し難い。これは良に傷嗟〈いた〉むべきこと深く悲嘆〈かなし〉むべきことである。

第三項 自力誡誨
凡大小聖人 一切善人 以本願嘉号為己善根故 不能生信 不了仏智。
不能了知 建立彼因故 無入報土也。

【読方】おおよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもっておのれが善根とするが故に、信を生ずることあたわず。仏智をさとらず。かの因を建立せることを了知すること能わざるがゆえに、報土に入ることなきなり。
【字解】一。嘉号  弥陀の名号のこと。この名号は万徳を円備せるものであるから嘉号という。
【文科】真門自力の分斉を示し給う。
【講義】他力の大信海に入り難いことはかようである。これというも、外のことではない。あらゆる大乗小乗の聖人の方々も、またあらゆる善人も、如来の名号を自分のもの、自分の善根であると、この自分というものに力を入る為に、即ち自力の根切れがしておらぬ為に、真実の信心を起こすことが出来ず、不思議の仏智を解了して、これと一致になるという境地に至ることが出来ないのである。即ち『如来会』の願文に所謂弥陀如来が名号を建立せられた御意を了知することが出来ない為に、真実報土に入り得ないのである。即ち
(3-467)
名号建立の正意は、自力の心をもって信じさせる御思召しではなくして、全く自力の計らい全体を投げ捨てて他力回向の名号一つになれというのである。
(3-468)

第七章 方便開示と入真勧発

【大意】上に第十九、第二十願の開説了わり、ここに水涸れて石の出づる如く、方便二願の真意を開示して、真実の第十八願との交際を明らかにし、これを御自督の上から信念歴程の表白として具体的に披瀝せられた。即ち第一節は有名なる三願転入、第二節は仰信の表白である。

第一節 三願転入の自督

是以 愚禿釈鸞 仰論主解義 依宗師勧化 久万行諸善之仮門 永双樹林下之往生。回入善本徳本真門 偏発難思往生之心。
然今 特方便真門 転選択願海。速離難思往生心 欲遂難思議往生。果遂之誓良有由哉。

【読方】ここをもって愚禿釈の鸞、論主の解義をあおぎ、宗師の勧化によりて、ひさしく万行諸善の仮門をいでて、ながく双樹林下の往生をはなる。善本徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心をおこしき。然るに今ことに方便の真門をいでて、選択の願海に転入せり。速やかに難思往生の心をはなれて、難思議往生を遂げんとおもう。果遂の誓いまことに由〈ゆえ〉あるかな。
(3-469)
【文科】三願転入をあげて信念の歴程を示し給う一段である。
【講義】それであるから、我愚禿釈親鸞は、天親論主の『浄土論』の明快〈すきとお〉った解義〈おさしず〉を仰ぎ、また善導大師の燃ゆるが如き勧化〈おすすめ〉に依りて、自力の諸善万行をこととする要門の第十九願を出で、かくてその結果たる双樹林下の往生を永くながく見捨てるに至った。かくして善本徳本の名号を己の善根とする真門の第二十願に入りて、難思往生の半自力半他力の心を発こした。しかしかように第十九願より第二十願に転入した私は、今や特に大悲の矜哀によりて、この方便仮門たる第二十願の真門を出でて選択本願たる第十八願に転入するに至った。これ実に難思往生の心を離れて、難思議往生の真証を遂げんと欲〈ねご〉うたからである。この第十八願を信ずる心は外ではない。あらゆる自力の計らいをすてて、全く不可思議の如来他力の御心に溶け込んで仏凡一体の妙境に入ることである。
 良に第二十願は果遂の誓いと称し、いやしくもこの願を信ずるならば、遂には第十八願の真実に入れずには置かぬと云われてあるが、良にこの果遂の御誓いのあるのは、深い由〈わけあい〉のあることである。
【余義】一。この下三願転入論は、上の歴念の果遂を詳述するに外ならぬ。古来東西派の
(3-470)
学者各々見解を異にして自説を唱えておる。その中一二の説を挙ぐれば、
 西派の道隠師は『略讃』に、この下宗祖の自督を述べ給うに就き、「久しく万行諸善の仮門を出づる」等とは、出家得度の後、諸善万行を修められたが、既にして宿善開発して、念仏を万行中の最勝往生の勝行となし、即ち諸行を捨てて真門に帰することを云い、更に「方便の真門を出でて」等とは、二十九歳の時、黒谷聖人の化導によりて選択本願に帰入せられしことをいう。これを『御伝鈔』に「立〈たちどころ〉に他力摂生の旨趣を受得し」云々と宣給う所であると。この説によれば、黒谷入室の時に真信獲得と立て、それ以前に三願転入ありしというのである。
 更に東派の皆往院師は、黒谷入室の獲信と決定するを嫌うて云わく、『御伝鈔』の説は、師資面授の本意を示したもので、必ずしもこの説の如くこの時をもって実の如く獲信せられたとは決断する訳にゆかぬ。元より獲信せられぬとも断ずる訳にもゆかぬが、要するにこの三願転入の文より見れば、初めから真信決定でなかったことは明らかである。さりながら五十二歳の御本書御製作の時でもあるまい。吉水当時に信心諍論や信行両座等によって見ても、既に弘願の信心を獲られておったことは知られるからである。されば正しく年代を決する
(3-471)
訳には行かぬが、この三願転入の信仰的歴程は、元祖門下にありし時のことであろう云々。
 この説によれば、三願転入を吉水入室以後の或る期間として、強ちに年時の長短を問題にしないのである。
 更に東派の慧空師は『視聴記』に於いて、聖人は『御伝』の示す如く絶対不二の頓機にいらせられる故に、強ちに時間的に三願転入を事実なし、「化巻」の三願転入は、方便の三願に滞る人をして真実の本願に入らしめんが為に、信念歴程の義意を顕わせしまでにて、年時の次第を述べ給いしにあらず、唯果遂の玄旨を顕わせしものに外ならず。即ち義の前後次第を示し給うものである。但し元より漸機あることを否定するのではない。且く漸機に同じて果遂の旨趣を示し給うものである云々。
 この説は『御伝鈔』の説と、「化巻」の後序の「建仁辛酉暦、棄雑行兮帰本願(雑行を棄てて本願に帰す)」を根拠として聖人の入信を三願転入でないと断じたものである。
 二。以上三説の中、第一説は、巧に三願転入の文と吉水入室の文とを会通し過ぎて却って平面的の説明に陥り、信念の幽旨を失いたるの趣きがある。然るにこれに反して第二説が三願転入を吉水入室以後と見て、『御伝鈔』や「化巻」後序の吉水入室の文を、文字通りに解せ
(3-472)
ずして、深い信仰上の奥旨を握〈つか〉まんとした努力は嘆称すべきものである。が尚不徹底の憾みがある。更に第三説が、三願転入をもって、年次の次第にあらずとし、唯果遂の玄旨を顕わすにありとせるは、是とすべきも直ちに聖人を頓機として、三願転入なしとするは、余りに独断説に陥ったと云わねばならぬ。三願転入は、決して単に果遂の玄旨を明かすという位の軽いものにあらずして、聖人の真摯なる信仰経験の告白である。この文字は法門を述べたる教説にあらずして、血肉をもって描かれたる信念の内容である。簡単に会通し去らるべきものではない。
 三。これに関する吾等の見解を述ぶれば、従来三願転入論の基点は、「化巻」後序の吉水入室の文と、これを継承する前出の『御伝鈔』の文に対するこの三願歴念の文の会通である。即ち問題の中心は。吉水入室の際三願転入して弘願の信心を決定せられしや否やという点である。もし『御伝鈔』の報ずる如くその時をもって真信決定とすれば、三願転入は道隠師の如く入室以前より始まらねばならず、或は慧空師の如く三願転入を宗祖の上に否定せねばならぬこととなる。然るにもし『御伝鈔』の文字に拘泥せず。そしてこの三願転入の文を主とすれば、勢い皆往院師の説たらざるを得ない。何れにしても上の三説に一貫せる思想は、三
(3-473)
願転入を時間的に見ることである。即ち弘願に入るまで第十九、第二十を年代的に迂回するものとする見解にして、云わば客観的に定型的に見んとするのである。これが為に上の如き不徹底の会通となるのである。
 これに就いて第一に意義を明瞭にする必要あることは、三願転入の意義である。これは文字の上より見れば、第十九、第二十、第十八と時間的に転々迂回するように思われることであるが、事実はこれに反して、これを体験する人に取りては、弘願に入りし自覚の一念の開展である。そして更に進んで云えばこの弘願の自覚は、第十九、第二十にありし自己を反省するの謂いである。第十九願の分斉たる自力の諸善を修むる時に、その自力の無功なるを感じて、自分は如来の方便の善たる第十九願にあると自覚する一念の立〈たちどころ〉に第十八願の機となるのである。第二十願にあってもこの通りである。但しかように客観的に云えば、容易く第十九、第二十を識別しうるけれども、自ら実修するに当たっては、第十九願にある時も、自分としては第十八の弘願にあると思うているのである。然るに如来の招喚によりて真智、内に萌〈きざ〉して自己の空虚を感じ、自己に執して他力自然に叶わざることを痛感する時に、忽然として第十八願に転入するのである。これは第二十願にありても同様である。この転入真
(3-474)
信の一念に、宛然として第十九、第二十の分斉にありしことが心に浮かぶのである。この一念の真自覚に立ちて回光返照する時に、この下に表現せられし如き三願転入となるのである。
 この見解に立ちて上来の問題を解決すれば、宗祖の獲真信は「化巻」後序の文の示す如く吉水入室にありしなるべく、そしてその時この三願転入は完成せられたのである。この方面を見たのが道隠師の説である。但しこの時聖人の自意識に於いて、この下に発表せられし如き信仰過程に対する明快なる批判があったかどうかは問題である。否、かかる批判は、多くの場合多年の経験と信念の円熟より自然に生まれるを常とすることなれば、聖人にありても三願三経三機等の信仰批判は、或は常陸時代に経典を渉猟せられし結果獲られたものであろうと思う。即ちこの説は皆往院師の如く、元祖門下にありし時とするよりも有力であると信ずる。よしや元祖門下にありて、信心諍論の多少これに類似する聖人の信仰批評を見ることが出来るけれども、而もこの下に表れし如き精厳なる信仰批判を、当時に於いて有せられしかは頗る怪しむべきものであると思う。故に厳密に云えば、聖人の三願転入の自覚は御本書御製作の当時というた方が最も事実に近いものであろう。
(3-475)
 四。上来吾々の力説した処は、三願転入の自覚と吉水入室の獲信とは何等の衝突を見ないと云うことに結帰するのである。即ち吉水入室の真信決定は円熟し精錬せられて、三願転入の宗教的批判となったもので、それは吉水入室の際、既に萠芽として宿ってあったというのである。かように明瞭となり来れば、この三願転入の自覚が年代的に何時であったかというような問題は、極めて些細なものとなる。それよりは、信念の事実として、常にこの三願転入の自覚に入り、益々濃厚に、益々清淳に、益々強烈に体験せられることとなる。これは生々化育せられ、またそれ自身向上して止むことはない。
 抑も第十九、第二十願の建設は何故であるかと云えば、如来が深く吾等の機能を洞察し給い、無始以来の自力疑心を調順〈ととの〉えて、弘願真実に入らしめんとする大悲方便に外ならぬ。故に聖人は『末灯鈔』第二通の終りに
 仏恩のふかきことは、懈慢辺地に往生し、疑城胎宮に往生するだにも、弥陀のおんちかいのなかに、第十九、第二十の願の御あわれみにてこそ不可思議の楽しみにあうことにそうらえ云々。
と仰せられた。如来摂化の方より云えば、十九、二十は大悲方便の願である。そしてこの
(3-476)
方便を惹き起せしものは、実に久遠劫来の凡夫の修諸功徳心、自力疑心である。されば吾等は方便の願意を案じて、常に念々に深く自己の真相を反省すべきである。その時大悲の方便は目的を達して、定散の諸機を調順し、弘願に帰入せしめるのである。その模様を表現せるは、三願転入の文と一連する次上の文である。
 悲しい哉、垢障の凡愚、無際より已来、助正間雑し、定散心雑わるが故に出離その期なし。乃至 良に傷嗟すべし。深く悲嘆すべし。云々
 これ即ち法の方便の願意が、正しく第十九、第二十の機に透徹したる所である。この傷嗟悲嘆に入りし者は、一念同時に弘願の人となりて三願転入の信仰的過程を自覚するのである。
 五。因みにこの下の文の中、「論主」「宗師」に就いて、七祖の何れを指したるものであるかという諸説を述べれば

挿図 yakk3-477.gif
      ┌天親         円乗院
   論主─┤
      └上二祖
(3-477)
      ┌曇鸞         皆往院初義
   宗師─┼善導         道隠師
      └下五祖        皆往院後義

 何れも一長一短の説であるが、文に親しく且つ宗教的情緒を重要視せる点に就いて円乗院師の説は最も勝れている。天親を挙ぐれば、龍樹と曇鸞はそれに摂まり、善導を挙ぐれば、道綽源信源空の三祖はこれに摂せらる。皆往院の後義も隠健であるが、上の天親、善導説と雖も、元より他の五祖を包含せることは前述の如しであるから、今はこの説に順う。

第二節 仰信の自督

爰久入願海 深知仏恩。為報謝至徳 摭真宗簡要 恒常称念 不可思議徳海。弥喜愛斯 特頂戴斯也。

【読方】ここにひさしく願海に入りて、ふかく仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために真宗の簡要を摭〈ひろ〉いて、つねに不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
【文科】仰信の自督を述べて化身土を結釈し給う。
(3-478)
【講義】私は久しい以前から真実の他力本願を帰入させて戴き、誠に仏恩の深重なることを知ることが出来ました。この極みない恩徳に報謝〈むく〉い奉らんが為に、浄土真宗の要とする所の類文を摭〈ひろ〉い集め、常に如来の不可思議なる広大の慈恩を念じて御名を称することである。弥〈いよいよ〉深くこの本願を喜愛〈よろこ〉び、特にこの大法を奉戴することであります。これ実に私の真実の喜びであります。
(3-479)



脚 注