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教行信証講義/序講

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教行信証講義

序講
総序
教巻
行巻
 正信念仏偈
序講 信別序
信巻 本
信巻 三心一心
信巻 重釈
証巻
真仏土巻
化身土巻 本
化身土巻 末

教行信証講義

   第一巻  教の巻 行の巻 (第13版)
   山邊習學 赤沼智善 共著

―― 第一巻目次・序講 ――

 教行信証講義
  自序
 若い人々の間に、宗数的旋風が捲き起って、その人達の心霊上の糧として、千古の名著「教行信証」が、その机上に置かるる様になったのは、ずっと以前のことである。その時分から、「教行信証」を少しづつ味わさして貰うて来た私共の間に、「教行信証」の新しい講義書を書いてはという相談はぼつぼつ起りかけて居った。またその仕事を是非にとすすめて下された人達もあった。けれども、あらゆる意味に於て高貴なこの「教行信証」に対して、どうしてそう容易く筆を下さるるであろうか。時日はこの間に宗教的情操の進歩を孕んで矢の様に過ぎた。
 事の成るというものは誠に不思議の力で成るものである。四囲の事情が追々に、私共に筆を取らせるように仕向けて来た時、柏原君の「浄土三部経講義」が出た[1]。この新しい試みは、私共を刺撃して遂に決意せしめた。私共は茲に勇みながら且つ恐れながらつつしみつつしみ筆を取った。本書は実にその生み出した果実である。
 私共が本書に筆を取った態度は、講義の序講第一章に書いて置いたから、茲には云わない。只今感ずる所は、私共のようなものが、この尊い霊界の一つの仕事に参し得たことを感謝すると共に、乳に水を交ぜたということを恐懼する情切である。唯静かに念仏を称え奉るのみである。[2]
 私共は本書に於いて余義の一段を設けて、古来のいわゆる宗乗というものを述べた。実際私共の真実に希うた所からいえば、古来の講者方が苦心せられて出来た型を離れて、疎未ながらも至極生に私共の胸に湧く霊興をのみ書き載せたいと思うた。けれども更に考えてみれば、潜心「御本書」[3]に浸って、その生命を摘み微意に触れようとすれば、また存覚上人以後講者方の血の垂るるような研究に指南を仰がねばならぬ。してその結果は、将に捨てられようとして居る宗乗の生命を復活するにあるのである。斯う思うて、講者方の指南に依って、鈍い頭を「御本書』に浸けた結果が見らるる通りになったのである。それで処々に、煩鎖な、要らぬことと思われるような処があろうが、実は、決して不要でもなく、又面倒くさいと捨つべきものでないことを確信して居るのである。勿論海洋の如き「教行信証」の深さと広さとは本書に尽きて居らない。尚深く深く味い進んだら、血の凝り付くように有難くうれしく感じられる電的生命は到処に張って居るであろう。それは今後、猶読者と私共とに残された恩寵である。要するに、本書には書き尽くさないものは多いが、要らないものは一つもないことを確信して居るのである。
 終りに本書に対して、いろいろの方から示教、助言を頂いたことを感謝するのである。
 大正二年一月三十一日  東都尚羊社ニテ  著者識

教行信証講義 第一巻 教の巻 行の巻  目次

 序講
第一章 『教行信証』拝読の古実方軌       一
第二章 『教行信証』の製作年処         八
第三章 『教行信証』の真本、刊本、延書    十六
第四章 『教行信証』刊本校合         二四
第五章 『教行信証』の註疏          九二
第六章 『教行信証』製作の縁由        九七
第七章 当時の教界と他力浄土教       一〇三
第八章 浄土宗の異流と浄土真宗       一一二
第九章 親鸞聖人の著書と『教行信証』    一二〇
第十章  『教行信証』の要義        一二四

 本講
 第一編 解題
第一章 題号                一四五
第二章 選号                一五一
第三章 組織                一五三

 第二編 総序
第一章 題号と選号             一五六
第二章 弥陀教の利益            一五七
第三章 教興の縁由と諸聖の大悲       一五九
第四章 行信の勝徳と易行の大益       一七二
第五章 聞法の重縁と疑慮の大過       一八二
第六章 七祖の師訓と選集の意楽       一八五
付章  標列                一八七

 第三編 真実教(教巻)
第一章 解題                一八九
 第一節 題号               二八九
 第二節 選号               一八九
第二章 標挙                一九〇
第三章 一宗の大綱             一九九
第四章 真実教               二一五
 第一節 正説               二一五
  第一項  一宗の根本経         二一五
  第二項  根本経の大意         二二四
  第三項  根本経の完体         二二八
 第二節 引文               二三四
  第一項 徴問              二三四
  第二項 引証              二三五
   第一科 経文の一。正顕『大無量寿経』 二三六
   第二科 経文の二。助顕        二五五
       『無量寿如来会』
       『平等覚経』
   第三科 註釈             二五九
 第三節  結嘆              二六三

 第三編 真実行(行巻)
第一章 解題                二六七
 第一節 題号               二六七
 第二節 選号               二六九
第二章 標挙                二七〇
第三章 真実行               二七五
 第一節 略顕               二七五
  第一項 総標              二七五
 第二項 正顕               二七七
  第一科 大行の体相           二七七
  第二科 大行の出拠           二八六
  第三科 十七願名            二九一
 第二節 引文               二九六
  第一項 経文              二九六
   第一科 『大無量寿経』の文      二九六
       因願の文
       成就の文
   第二科 『無量寿如来会』の文     三一〇
     重誓の文 成就の文
   第三科 『大阿弥陀経』の文      三一七
   第四科 『平等覚経」の文       三二〇
       本願の文
       聞経宿因文
       聞名利益文
   第五科 『悲華経』の文        三三四
  第二項  論文             三四二
   第一科 『十住毘婆娑論』の文     三四三
       「入初地品」の文
       「地相品」の文
       「浄地品」の文「易行品」の文
   第二科 『浄土論』の文        三九五
       偈頌 長行
  第三項 師釈の一。支那師釈       四〇一
   第一科 曇鸞大師の釈文        四〇一
       発端文
       三念門の文
       成上起下の文
       回向門の文
   第二科 道綽禅師の釈文        四三九
       念仏巧能の文
       諸障皆除の文
       具足功徳の文
    証成勧信の文
   第三科 善導大師の釈文        四五三
       礼讃の五文
       玄義分の二文
       観念法門の二文
       般舟讃の三文
   第四科 私釈             四九一
       帰命字訓釈
       発願回向の釈
       即是其行の釈
       必得住生の釈
   第五科 法照法師の釈文        五一九
       序文釈五会念仏の文
       荘厳文
       讃文五
   第六科 憬興師の釈文         五四七
       科経の文
       浄土因果を証する文
       回施功徳文
       宿因聞法文
       正勧往生の文
       傷嘆重勧の文
       願力を釈する文
       勝聖共生を釈する文
       此土修行を釈する文
       聞名不退の文
   第七科 張リン居士の文         五五八
   第八科 慶文法師の釈文        五六一
   第九科 元照律師の釈文        五六三
       浄土に帰すべきを示す文
       念仏に摩事なきを示す文
       果号の徳を示す文
       持名の益を示す文
       往生の利益を勧むる文
       古釈に依って信を勧むる文
       両師解釈
   第十科 戒度律師の釈文        五八四
   第十一科 用欽律師の釈文       五八五
   第十二科 嘉祥大師の釈文       五八八
   第十三科 法位法師の釈文       五九〇
   第十四科 飛錫禅師の釈文       五九二
  第四項 師釈の二。日本師釈       五九二
   第一科 源信僧都の釈文        五九二
       念仏証拠門文
       礼拝門の文
       作願門の文
       臨終念相の文
   第二科 法然聖人の釈文        六〇三
       文前要義文
       流通総結文
 第三節 私釈               六一一
  第一項 総結嘆             六一二
   第一科 正勧             六一二
   第二科 引証             六一七
  第二項 他力              六一八
   第一科 正説             六一八
   第二科 引証             六二四
  第三項 両重因縁            六二五
    第一科 正説            六二六
    第二科 引証            六三五
  第四項 一念              六三五
    第二科 正説            六三五
    第二科 引証            六四五
    第三科 釈義            六四七
    第四科 示益            六五二
    第五科 引証引文会意        六五四
  第五項 総結              六五七
第四章  重釈要義             六六〇
 第二節 他力               六六〇
  第一項 正説              六六〇
  第二項 引文              六六六
   第一科 曇鸞大師の釈文        六六六
       第五門を釈する文
       二利成就を説く文
       二利満足を説く文
   第二科 元照律師の釈文        六八三
 第二節 一乗海              六八四
  第一項 一乗              六八六
   第一科 正説             六八六
   第二科 『涅槃経』の引文       六九五
       「聖行品」の文
       「徳王品」の文
       「獅子吼品」の文
       「獅子吼品」の文
   第三科 『華厳経』の引文       六九八
   第四科 結文             七〇八
  第二項 海               七〇八
   第一科 正説             七〇八
   第二科 『大無量寿経』の証文     七一五
   第三科 曇鸞大師の釈文        七一六
       不慮作住持功徳文
       大衆功徳文
   第四科 善導大師の釈文        七二〇
   第五科 宗暁大師の釈文        七二二
  第三項 一乗の機教           七二三
    第一科 約教対顕          七二三
       相対 絶対
    第二科 約機対顕          七三九
       相対 絶対
 第三節 譬喩讃嘆             七四二
  第一項 総嘆              七四二
  第二項 出喩              七四三
  第三項 結文              七四九

第五章 結前生後の偈文           七五四
 第一節 来意               七五四
  第一項 綱要              七五四
  第二項 生起              七五九
 第二節 偈頌               七六八
  第一項 帰敬              七六九
  第二項、依経讃嘆            七七三
   第一科 弥陀因位の本願        七七三
   第二科 弥陀果上の摂化        七七六
       衆生救済の縁
       衆生救済の因
   第三科 釈尊出世の本懐        七八三
   第四科 信順の功徳          七八四
   第五科 信順の至難          七九四
  第三項 依釈讃嘆            七九四
   第一科 総標             七九四
   第二科 龍樹菩薩           七九六
       人格上の指導
       教義上の指導
   第三科 天親菩薩           七九九
       人格上の指導
       教義上の指導
   第四科 曇鸞大師           八〇二
       人格上の指導
       教義上の指導
   第五科 道綽禅師           八〇五
       人格上の指導
       教義上の指導
   第六科 善導大師           八〇七
       人格止の指導
       教義上の指導
   第七科 源信和尚           八〇九
       人格上の指導
       教義上の指導
   第八科 法然聖人           八一一
       人格上の指導
       教義上の指導
  第四項 結勧              八一二

教行信証講義 第一巻 教巻 行巻 目次 終

(1-001)
教行信証講義巻一
   赤沼 智善 山辺 習学 共著

 序講

第一章 「教行信証」拝読の古実方軌

一。「教行信証」は、学解智弁の産物ではなくて、醇乎(じゅんこ)として醇なる信仰上の産物である。全篇六万八千字、冷静なる批判学究の文字ではなくして、一々の文字に、生命と歓喜の躍って居る聖典である。仏陀の経典の如く、基督の「聖書(バイブル)」の如く、マホメットの「コーラン」の如く、世に顕れてから、常に幾百千万の心霊を統率し、支配し、生命の源泉となって居る聖典である。さらばこの「教行信証」は、殊に、智慧才学を以て読むべきものではなくて信仰を以て読まねばならぬものである。心霊と心霊と相触れて読むでなければ、畢竟、その真意を得ることが出来ず、一字一句も解することが出来ないのである。華厳宗の
(1-002)
鳳潭師の如き、あの識見と、あの才学を以てして、猶「教行信証」の真意を摂取することが出来ず、酒呑のくり言の如しと嘆ぜられたというではないか [4]。心で書いたものは、心で読まねばならぬ。「教行信証」の如きは、殊にこの感を深くするのである。

(信仰の告白)[5]
 二。「教行信証」は親鸞聖人の信仰の告白であって、同時に、立教開宗の本典である。告白の側からいえば、純粋なる絶対他力の信仰を、自己の心胸に味うかぎり発表せられたので、それが、同時に、今まで世界にない水際の立った醇乎として醇なる宗教を建設せしめたのである。真宗十派の基はここに立ち、七百年以来、幾百千万の心霊が、この教に依って救われて来たかということを考えて見ると、信仰の偉大なる力を驚嘆せすには居られないのである。同時に、「教行信証」に対して何ともいうことの出来ない一種の尊信の情を感じて来るのである。
 「教行信証」は、親鸞聖人の信仰に凝結した一切経である、すべて一つの帰結に達するとはいい、恐らくは、これ程、内容の空漠偉大なものはなかろう。浄土の三部経はいうまでもない、「華厳経」「涅槃経」等の一代経、論釈、外典に亘って、数十部の文を引き来り悉くこれを聖人自身の坩堝の中に陶冶して、渾然たる一宝玉と練り上げてあるのである。
(1-003)
聖人の信仰に参したものでなければ、宛然(さながら)、迷宮に迷い込んだ如く、酔漢のくり言をきくが如く、殆んど一読するだも堪え得ないことであろう。

(拝読の方軌)
 三。それで「教行信証」を拝読するということは、実は容易ならぬことである。況んや講義をするとか、解釈するとかいうことは、まことに恐れ多いことである。信仰の書であるから、内にし熱の信仰がなければ、真意を得ることは出来ぬ。又、聖人の高邁なる識見と、豊饒な学識を傾倒せられたものであるから、こちらにもそれだけの用意がなければならぬ。二回向四法の法門にせよ、行信の交際にせよ、真仮の分判にせよ、殆んど千々に乱れた糸の如く、到底すらすらと解けるということがないであろう。識見の乏しく、学解の浅い、そうして、信仰の薄いものが、この「教行信証」にたずさわるということは、誠に危険千万なことである。
 それであるから、浄土真宗に於ては、古来この「教行信証」の拝読ですら、古実(故実来歴の意)がある。「本尊はかけやぶれ、聖教は読みやぶれ」といわれた蓮如上人ですら、二十歳までのものには、「教行信証」を読ませるなと仰せられた。「実悟記」に、
 「教行信証」は蓮如上人の仰せには、二十歳より内にはよますべからず候。若き時は
(1-004)
何としても聊爾に存する間、二十歳より以後、よますべしとの仰せ候間、愚老も二十五歳にてよみ申し候、兄弟中、悉く、慶聞房被教事候由、被申候て、我等もよみ果て候て、宿へ罷り越し候時、前住様へ請習い申し候て、今拙者、兄弟中にも皆々教え果て候とて、涙落つる事にて候き。慶聞は、大概空に、一部は被覚たると見え候き。第一始一丁御住持へ請申し候事とて、各々請け申し候。拙者も少し、実如へ請け申し候。御目かすみ候とて、始め少し請け申し、次を円如へ一丁斗りの末を請け申し候き。実従順興寺同前に候き。近年人々御堂にて請け申す事に被申候。拙者などは、南殿御亭にて請け申し候き。南殿と申すは、野村殿にて、蓮如御隠居方也

とある。また、同じく「実悟記」(48右)にも、同じいことがしるしてあって、その次に、
 よって、よむべきものは、奏者を以て申し入れ、御免有るべきの由、仰せ出され候。一家衆は、第一の初め一丁斗り御住持より申し請くる事大法也

と示されてある。二十歳までは、読むことすらならぬ。読むというは訓読することである。訓読を習うにも、このように一々方軌があって、本寺の善知識へ願書を指し出して、一定の儀式の下に習うのである。御一門の方は、その時の善知識から、親しく、「教巻」の初一丁
(1-005)
の口授を受けるのである。
 すでに、「教行信証」の訓点を習うすら、こういうむずかしい方規を要する具合であるから、まして、講義とか、解釈とかいうことは、全然許されなかったものである。それで、漢和の聖教の中でも、「文類聚鈔」までは御免になって講釈をしたものであるけれども「教行信証」は「六要鈔」の外、注解の書もなく、全然、御制禁であったのである。それが、後世になって、その御制禁もゆるみ、又、尊い聖教だからというて、高閣につらねて置いても、所詮がないので、一代の学匠が、身血を注いで研鑚され、御本書の講義というものも始まったのである。然し、無暗に誰しも講義をする訳には行かぬ。そこに自ら、制禁があって、大谷派にあっては、嗣講以上の学識のある人でなければ、出来なかったものである。本願寺派においても、同様である。その上、高倉学寮においても、龍谷寮においても、制規の安居において、「教行信証」の講義のあったことは一遍もない。即ち法主殿の大命で、講ずるということはなかったものである。一宗の学者は、各々畢生の力をつくして、「教行信証」を研鑚し、その研鑚の結果をば、私設の講義会において、公にして来たものである。
 かくの如き尊厳なる聖教に対して、今、私共の如きが、筆を下さんとするは、まことに
(1-006)
恐懼措く能わざる所である。私共は、この企をするに幾度躊躇したであろうか、現に慙汗背に湿(うるお)うるを覚ゆるのである。私共は、罪を故聖人に得るのみならず、又天下に得るのである。然も止むに止まれずしてここに至った微衷は、仏天も必ず照覧し給う所ならんと信ずるのである。
 我が聖人の信仰は、今や天下の青年の間に、その感化を及ぼして、愈々深く聖人に接せんとする熱望は、青年の間に燃え立って居る。この熱望ある青年が、聖人のこの「教行信証」に走らんとするは至当のことである。「教行信証」は、今や一般の青年の机上の師となり友となり、直に、その心霊を堂奥に導かんとして居るのである。しかも、この「教行信証」は適当の指南なくしては、決してその精神を汲むことの出来ない聖教である。然らば聖人の最も強く現代に生き給わんがためには、是非とも「教行信証」の新しき解釈書を要する訳である。今は、「教行信証」は、決して、宗学専門者のみの専有すべきものでなくなった。
 「教行信証」は、もっと普遍的な、もっと生きいきした生命を持って居るのである。それで、古来講者学者の心血を注がれた解釈は、積んで山の如くあるけれども、用語が余りに専門的で、且つ講義の脈絡等が、不完全であるために到底「教行信証」を現代に生かす
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役には立たぬのである。私共はこれを非常に遺憾に思うて居った。今や機会は来た。私共は覚悟をした。罪はこれを荷う。責罰はこれを受ける。然し願くは、微力を尽して、及ぶ限り、心眼ある青年者の友となって、もろともに「教行信証」を色読体読せんと決心した。「六要鈔」の御指南を始め、古来の講者先輩の命掛の研究を重んじて、私共の小さな心に味われる丈けを味おうて発表した。
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第二章 「教行信証」の製作年処

 一。或日、聖人の仰せに、辺鄙には、書籍乏しかるべき哉と、其時、頼重申上候。下野国薬師寺には、日本三戒壇の随一と承り候えば、文庫もこれ有るべく。この寺は、宗家宇都宮の支配に候間、御心安かるべく候。又足利文庫は、小野篁〈たかむら〉以来、書籍相聚め候儀も承り候。この地は足利氏の支配に候。足利氏は、私の親戚に候えば、是又御心に任せ申し上ぐべき候。
 ここにおいて、聖人御気色斜めならず、御満悦にて、後日、毎度、頼重房供奉、薬師寺並に足利文庫へ、御越相成り、蔵経其の他秘書珍籍、随意御持帰り遊ばさせ候。其内、弘法大師真筆の書籍これ有り、聖人特に御賞玩の所、御筆跡も自然と大師流に相移り候由に御座候。
 聖人は毎日参集の人々へ、御教化遊ばされ、其の余は諸経論の要文、御抜書遊ばされ、凡そ十巻余もこれ有りて候て、後日真仏房へ下され候由に候。歳月相嵩み、要文の類聚、追々御成功相成、元仁元年に至り、一部六巻即ち「教行証文類」と題され、立教開宗の御本書と相称え、浄土真宗根本の宝典に御座候。

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 以上の文は、了波の「正保記」から引いたものである。「教行信証」御製作の年処については、古来、略、三通〈みとおり〉の説に分れて居る。一は、高田派に伝わる説、二は、木辺派に伝わる説、三は、両本願寺に伝わる説である。

 二。高田派の方では、承久二年四十八歳の夏これを草し、元仁元年五十二歳の正月十五日、稲田に於いて、これを集め、安貞二年五十六歳の三月、高田に於いて、これを作り、九月に至ってその功を終り給うたというのである。これは、高田の「顕智伝」に依って、説を立てたものである。顕智上人は、親鸞上人の常随昵近の弟子であり。且つ親しく見聞せられたことを、筆点に記し置かれたものであるから、聖人のことについては、最も信頼するに足る資料である。然し、「顕智伝」には、

 五十二歳、元仁元年甲申正月十五日より、稲田に於て、「教行信証」を書き揃え給う。始め四十八歳夏の頃より草按ありしかども、ここかしこ抜書の体なり。今年の初春より巻を六部に分ち、前後始終を書き調べられたり。然れども清書は五十六歳の秋なり。
 五十六歳、三月下野高田にましまして「教行信証」の清書を遂げられる。秋九月に至って功畢んぬ。

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と記してあるからみれば、製作にかかり給うたのは、正しく、元仁元年五十二歳の正月十五日であり、御脱稿は、その年の暮であるということ、而してその処は、稲田の草庵であるということを否定する訳には行かぬ。御清書は安貞二年五十六歳の三月から九月までに下野高田に於て御成就なされたということもこれで明らかである。御清書は、ただこの時計りではなく、帰洛の途中でも又、帰洛後も遊ばしたように思われる。

 三。木辺錦織寺の伝説に依ると、「教、行、信、証」の四巻は稲田に於てそれを作り、真仏土、化身土の二巻は、嘉禎三年丁酉四月中旬、御年六十五歳にて、木辺錦織寺に於て、これを製し、ここに初めて、六軸御撰述の功を遂げ、御弟子善性房の願に依りて、御満足の紀念として、真向の御真影を授け給うたというのである。
 この依処とするところは、存覚上人の作「錦織寺伝縁記」である。その「伝縁記」には左の如く顕われて居る。

 ここに聖人御製述の抄物あり、題して「顕浄土真実教行信証」と名けて六軸なり。そのなか教行信証の四章は、常陸の国にて述作ありといえども、しかれども所々御行化御教導に御暇なくて、全備し給わざりしに真化二土の両章は、聖人当山に入らせられ、嘉禎
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三年丁酉年四月中旬迄に、著述の功終り給う。誠に、この抄は、真宗の所詮を抄し、浄土の要を拾うこと、今正に満足せりと、深く御喜び在す。又是と同じもので、存覚上人の作と伝うる「錦織寺伝絵記」には左の如く記してある。

 ここに製述の抄物あり、題して「顕浄土真実教行信証」となづく、巻をととのうること六軸、章をたつること六篇なり。嘉禎二丙申年正月下旬より、翌丁酉年四月中旬著述の功おわり給う・・・・・ここをもって、愚魯の管見をかえりみず、真宗の所詮を鈔し、浄土の要文をひろうこと、今まさに満足すると云々

 存覚上人は、錦織寺には関係の深い方であって、錦織寺の慈空大徳は、上人の教に接し又その願に依って、上人の直弟綱厳僧都は、慈空の後を承けて、住持をせられた関係があり、上人も亦その錦織寺の歴代の中に数えられてあるのである。然し、この「錦織寺伝絵記」というものは果して上人の真撰か否かということは頗る疑わしい。「伝絵記」に依れば「教行信証」は全然、木辺に於て御製述になったことになって稲田とは全く関係のないことになるのである。それでは、「教行信証」の中の文字とは全く合わないことになるのでこの説は全然依用し難い。勿論、木辺に於て再治御清書なされたとは否む必要はない。再
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治御清書の上、その御満足の御影を御許しになったものとみるべきであろう。

 四。両本願寺の用いて来て居る説は、元仁元年正月十五日、稲田に於て御起筆、同年の暮、御脱稿遊ばされ、その後屡々再治清書なされたというのである。御起筆が、元仁元年正月十五日であったということは各説ともに異存はないのである。ただ問題になるのは、本典脱稿の年月と、「真仏土」「化身土」の、両篇が、何年に御製作になったかということである。これに就いては、妙なことであるが、各派、各寺ともに、自派、我寺を神聖にしようという考えから、どうしても我田引水の説を立てるから、そういう説に依るよりも、直に「教行信証」そのものに、内存的に史実を探るが一の手である。処が、「化身土巻」に次の語がある。

 三時教を按ずれば、如来涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王の五十一年壬申に当れり。その壬申より、我が元仁元年(後堀河院、諱茂仁聖代也)甲申に至る、二千一百八十三歳なり。

 釈尊の入滅年代を計算して、我が元仁元年甲申に至る二千一百八十三歳であると決せられたのである。すべて年代の起算は、今現在筆を取りつつあるその年から始めるのが人情
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の一致する処である。して見れば、元仁元年というは、正しく、今聖人が「化身土巻」を稿して居給う時でなければならぬ。而して「化身土巻」は「教行信証」六軸の最後巻であれば、六軸全体を元仁元年に脱稿し給うたものとみるのが当然である。然しこの述作の準備は数年前から致して居給うたことは「顕智伝」の示す通すである。

 五。ところが、ここにただ一つ問題がある。それは、同じく「化身土巻」終りに、師匠法然聖人のことを記して、

 同じき二年壬申寅月の下旬第五日午の時、入滅し給う。奇瑞称許すべからず。別伝に見えたり

というてある。法然聖人の入滅は、建暦二年で、元仁元年を去る十二年前であるから聖人の入滅を記し給うは、普通のことであるが、別伝というが、何を指したものか、一寸見渡すところ、どうも、「聖覚法印」の「十六門記」より外にはないのであるが然し、もし、「樹心録」や「略讃」の如く、「十六門記」とすれば、「十六門記」の著作は、安貞元年、我が親鸞聖人五十五歳の時である。即ち「化身土巻」御製作の三年後である。三年後の著作を引き給うわけはないから、「化巻」御製作を元仁元年とすれば、この「別伝」というは「十六門記」以外
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に求めねばならぬ。且つ、「十六門記」は聖人の心友聖覚法印の著作であるから、我が聖人には、最も縁故の深いものであるが、然し、この書は法然聖人の一生記で、臨終の祥瑞は余り多く記してないのである。それで祥瑞の多く記されてゐない「十六門記」を「臨終の奇瑞あげて数うべからず、別伝に見えたり」と仰せられる筈がない。別伝はどうしても「十六門記」の外に求めねばならぬのである。

 六。法然聖人の臨終を記したものものでは、「臨終祥瑞記」という一冊の書があって、「漢語灯録」に収めてある。然し、この「祥瑞記」も、法然聖人滅後三十年に著わされたもので、聖人の所謂別伝ではない。
 この外に「法然聖人臨終行儀」と称する書がある。臨終の祥瑞が委細に述べてある。親鸞聖人の集録と伝うる「西方指南鈔」に収めてある。この「臨終行儀」の跋に、「康元二年丁巳正月二日、愚禿親鸞八十五歳校了」と記してある。それで、私には聖人はこの「臨終行儀」を指して別伝と曰われたものでなかろうかと思われるのである。然し、この「臨終行儀」は何人の著作ということも明かでなし、また、実の処「西方指南鈔」という書も、真偽未決のものであって「西方指南鈔」が世に顕われたのは、寛永年間で、その間四百年間は、全く
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世に示されなかったものである。先啓師は聖人の真撰として聖人の部に編入し、「二十四輩記」などには、「指南鈔」の真筆の所在を語るけれども未だ、人をして首肯わしむるに足らないのである。
 かく考えて来ると、別伝というは、全く何を指し給うたものかわからなくなる。或は、この見別伝の三字は、聖人「十六門記」御覧の後に加筆し給うたものでなかろうか。坂東本で見ると、見別伝で行がきれて、次から別行になって居る。又、以上に掲げた御伝、記録の外に、早く編集された記録があったのか。その辺は何とも断言することは出来ない。暫らく疑問として、大方諸賢の教を請うのである。
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第三章  「教行信証」の真本、刊本、延書

 一。前章に於て述べたように、「教行信証」は、元仁元年、稲田に於て、御製作御脱稿なされて、その後、処々に於て御清書なされたものである。稲田に於て御脱稿の「教行信証」を御草稿本と称して居る。現在坂東報恩寺に珍蔵するものがこれである。その後の清書本は、御清書本と称して、錦織寺に一部、高田専修寺に一部、西本願寺の宝庫に一部ある。錦織寺の御清書本は、惜しい哉、元禄七年閏五月五日の夜の火災に依って焼失した。「高田本」のことはよくはわからないが、専修寺の宝庫にあって多くの人に示されぬ。明治四十五年四月、専修寺出版の「教行信証」はこの御清書本を本として、諸本を校合した結果のものであろう。その版本に依ってみると、西本願寺宝庫の御清書本や坂東の御草本とは処々異なる処がある。一例を出してみると、行巻の標挙、諸仏称名之願の下には本願寺の御清書本も、坂東の御草本も、「浄土真実之行、撰択本願之行」と二行に細書してあるが、高田刊本には只「真実之行」とあるからみると、高田御清書本にも、「真実之行」とある丈けと思われる。再治御清書の内に、幾度か、字句、文章を改変なされた処があるのであろう。
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西本願寺本山には、御真本と称するものは二種あるということである。一は蓮如上人御所持の御真筆御清書本で、その証巻は、有名な本光坊了顕師の肉付き腹篭の聖教と称するものである。巻頭の写真版は、その一葉である。今一本は、坂東報恩寺所蔵の御草本の写しである。「略讃」に御真本と称するは、この報恩寺本の写本のことをいうのである。私は安永元年癸巳の夏、越中僧鎔、伊勢正覚寺本誓、石見浄泉寺仰誓三師が信慧院殿の恩許に依って、錦花殿に於て、この肉付きの御聖教を熟拝し、僧鎔師、寛文の板本に校異をしるされたものを、仰誓師が更に写された寛文板本を借覧して居る。因に茲に芸州教順寺雲幢師が文化十酉歳、石州瑞泉寺自謙師と共にこの御真本内覧を許された行儀を記して置こう。

 大法主許容あらせられ、六月十九日九つ半時、自謙並に、予両人を召し給い、黒書院にて真本を拝見仰せ付けられ候。乃ち、大法主上席に御出席あらせられ、池永氏、其外諸士列席せらる。中席に見台あり。其上に御真本あり。先ず両人を見台の前に召し出され、次に、大法主見台の右の傍へ御来臨あらせられ、御手ずから真本を一枚づつ披き給い、拝見せしめ給えり云々。

これは雲幢師の記である。
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僧鎔師や仰誓師の所覧の真本と称するは、果して、蓮師御所持の肉付きの六軸か、これは頗る疑問である。所覧の真本がその肉付きの六軸であるとしても、僧鎔師が校合せられた御真本は、決して肉付きの、六軸ではない。坂東御草本の写しであることは明かである。何故ならば、次の校合の結果にも顕われて居る通り、字訓の体裁、頭註体裁、文字の写誤等全然、御草本と同じである。聞く所に依れば、蓮師所持の後真本には全く頭註というものはないそうである。高田御真本にも頭註がないとみえて、版本には、すべて書してない。御清書本としては然かあるべき筈であろう。西本願寺蔵版の明暦縮刻本の中の別冊の「追加校異」に、古本というが挙げてあるが、これは、坂東御草本の写本をさしたものだということである。然し、坂東御草本と対照してみると少しの相違はある。写す時に、変えたものであろうか。

 二。坂東の御草本は、紙質が一定して居らないで、反古のような紙もあり、糊付けした紙もあり、黄色の粗紙もあり、これらをつなぎ合わせて、遒勁の筆力で記してある。訓点、左訓、送り仮名も施し、大切な字には、三本松葉のような符号も記してある。字訓は大底、頭に記してある。「信巻」と「証巻」の表紙に蓮位の署名があって、「化巻」本末奥書には
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  弘安六癸未二月二日釈明性譲預之沙門性信 華押

とある。弘安六年というと御製作の年を距る五十九年、聖人滅後、二十一年目である。この外、化身土巻の表紙に、釈性海、真仏土の表紙にも同じく釈性海とあり。其の側に性信と記して華押がある。この御弟子方の法名がこの御草本の歴史を語って居るのである。巻頭の写真一葉は、この御草本の信巻の初めを謹写し奉ったものである。

 二。「教行信証」の刻本に四種ある、寛永本、正保本、明暦本、寛文本である。

 一、寛永本は、寛永十三丙子年春に上祥したもので、大谷派に於ては、宣如上人の代、本願寺派に於ては、良如宗主の学林創設の前二年である。これは、西村又左衛門の刻したもので後大谷派本山の蔵版となった。誤字脱文が非常に多い。早く板木を失うて流行せなんだが、天保十一年庚子年夏、更に、再鐫して世に行なわれて居る。天保本は、多少寛永本を訂正してあるが、誤字は猶多く、脱文はそのままになって居る。

 二、正保本は、寛永本に遅るること十年、正保三年の春出版せられ、中野という人が刻したものである。殆ど寛永本そのままで、多少訂正してある丈けである。板木も早く焼失して、今は容易に得ることが出来ぬ。
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 三、明暦本は、正保本に遅るること十一年、明暦三丁酉年冬の上梓である。版元は西村九郎右衛門である。後百十九年にして、安永五年、西本願寺で、この明暦本の版権を譲り受けて、後これを覆刻し、更に縮刻し、明治年間に入りて更にまたこれを縮刻し、三本の異同を冠註に掲げ、別に「追加校異」一巻を付して、上の冠註に洩れたるもの、及び古本、文明本、引用の現行本を検して校異を施してある。然し明暦本の本文は、寛永本、正保本からみれば、魯魚の誤は少ないけれども、一々真本に照し合せて上梓したものではない。
 四、寛文本は、明暦本の後十六年、寛文十三癸丑年秋菊屋喜兵衛、丁子屋九郎右衛門の上梓したものである。最もこの刻本は寛文九年になったものを後都合に依って跋を入れ変えたものということである。明暦本の後へ出て居るだけで、多少は宜しい。然し、已上四本、すべて皆、後者が、前者をそのまま襲踏した、形跡は歴々たるもので、文字の出没異同はあるが、真面目に御真本に依って上梓したものとは思われない。寛永、正保、寛文三本は、九行十七字詰であるが、明暦本だけは、八行十七字詰である。

 三。外に、渋谷仏光寺蔵版の天保十四癸卯年晩夏上梓の「教行信証」がある。これも九
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行十七字詰で、魯魚の誤の少い良本である。巻尾に、校異が付してある。明暦版の追加校異のように、古本を参照してあるが、「古本者本刹従来、所珍秘之精本也」と記してある。
 今一つ安芸本というがあって、宗学の盛んになってからのことであるが、安芸の国で小本を作ったことがあるそうである。名だけきいて居るのである。
 猶、これに先だつこと百五十七年前、即貞享三丙寅年選述の高田の恵雲抄の中には、「教行信証」の本文全部が引かれてあるそうである。仰誓師のいう所に依れば、この貞享版も、前の四本と異なる所が大分あるそうである。

 四。猶今一つ挙げねばならぬ。それは円爾の「六要鈔会本」である。この会本の跋に依ると、豊後光西寺の円爾師先考の遺志を継いで、多年御本書と「六要鈔」の会合に力を尽し、漸やく事を終へて、自ら京都に齎し本廟の允許を得て上木し、僅かに教巻一巻の刻成るを見て、老疾にて往生せられたので、その遺弟の豊後府内法専寺の全鳳師が、先師の遺属を受けて、多年の苦辛の末、安永八年に剞劂[ケツ02]の功を終えたものである。この会本には三代の労がかかって居る。今とは違い、一本の上木せられるにも、これだけの犠牲が払われてあるかと思えば、何ともいえぬ尊い感がする。
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 この会本の「教行信証」の本文はそれまでの版本から見ると、非常に完備して居る、然し猶、誤字脱字も少なくはない。然し、次の校合の結果にも示されてある通り、坂東御真本と余り違って居らないものである。確かに良本と曰わねばならぬ。

 五。最後に、明治四十五年四月、御遠忌紀念出版として、高田山専修寺から、完全な「教行信証」が出版せられた。魯魚鳥焉の誤字は全く絶無である。恐らく、高田御真本に依って丁寧に出版せられたものであろう。この出版本に依れば、真本に頭書にしてある字訓細注などは、大抵除かれて居る。又御真本以外に、読み易いために引用の本文に依って字を加えられた処も確かにあるようである。高田版本に就いては、今度その出版にたずさわった方の直話に依れば、高田御清書本は、聖人京都へ御帰りになってから、関東にて作製の御本書の引用文に誤の多いのを憂い、京都の文庫にて校訂せられ、御往生の際まで御傍に置き給うた最善の清書本であって、御臨終に顕智房へ賜わったものであった。この事は今まで誰にも知られて居らず、高田派の学者すら知らず、またその御清書本を拝見したものも殆んどなかったのであるが、今回六百五十回の遠忌紀念として法主の許可を蒙むり、高派の学者数名拝見し、謹んで研鑚いたせしに以上の事実、確実に証明せられ、皆驚喜して、
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一字一句加減せず、その儘出版したものだということである。この事もし果して真ならば、まことに喜ばしい次第であるが、私共はなお全く信じ切る訳にはゆかぬ。せめてその出版と共に七百年の古を偲ぶべき御真本の一葉の写真でも謹載してあったならと残念に思われるのである。それは、兎にもあれ、この完本を公にされた出版者の労は頗る多とせねばならぬ。

 六。「教行信証」の延書には覚如上人本、綽如上人本、蓮如上人本、外に善如上人本との四種がある。大谷派蔵版として出版せられて居るのは、蓮如上人本である。本願寺派にては、綽如上人本を依用して居るのである。

 七。「教行信証御自釈一巻」は、引文は悉くこれを乃至して、親鸞聖人の私釈だけを集めたものである。もと大谷派初代の講師光遠院慧空師が、暗記の便のために自ら作られたものを、後にいたって宝月、宣明師等の尽力に依って上木せられたものである。後世仏光寺派に於ても「教行信証捷覧」と呼んでこれを出版して居る。
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第4章 「教行信証」刊本の校合

 一。上に述べた様に「教行信証」には種々の版本があって、文字の異同が非常に多い。其で特に茲に校合の一章を設けて、一覧して異同を知り、いずれが正かを明にしたのである。「六要鈔会本」は明治十八年、西村九郎右衛門出版の赤表紙の、三冊本である。丁数はこの会本の丁数である。「六要鈔」を土台にしたから、寛文本、明暦本、正保本、寛永本の四本は、これを年代順に逆さに並べたのである。
 御草本は、坂東御真筆御草本。御真本は、西本願寺所蔵の御真本である。然し蓮師御所持のものでなかろう。高田本というは、今春出版の専修寺の出版本である。引用文というは、本典中に引用せられて居る経論釈外典の現行本を指すのである。
 寛永本の下で○印のしるしあるは、寛永本の誤字で天保十一年の再銑の時、訂正せられたことをしめすのである。
 「六要鈔」の下で●印のあるはその字に異同あることを示し、他の諸本の下で●印あるはその本に殊にその字の加われるを示すのである。

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丁数 六要鈔 寛文本 明暦本 正保本 寛永本 御草本 御真本 高田本 引用本文

 25~89頁は省略


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第五章 「教行信証」の註疏

 一。「教行信証」の註疏は汗牛充棟もただならぬ程多数に上って居る。今その署名、巻数著者を左に列記して見よう。もとよりこの外なお地方地方に講述されたものが余程沢山あるであろうと思われるが、今は派別にして大体に止めて置く。
 一。 「教行信証大意」一巻    存覚上人作(本願寺派にては覚如上人作と伝う)
 二。 「六要鈔」十巻       存覚上人作
   本願寺派
 三。 「本典私考」三十巻     定専房月筌
 四。 「本典字義弁疑誤」一巻   同人
 五。 「本典樹心録」九巻分節一巻 智暹
 六。 「本典拾瀋記」八巻     浄応
 七。 「本典高堅記」十三巻    月渓
 八。 「本典一渧録」或云「顕考記」十六巻 僧鎔
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 九。 「本典略註」一巻      同人
 一〇。「本典義例」一巻      慧雲
 一一。「本典光融記」四十巻    玄智
 一二。「本典科図」一巻      同人
 一三。「本典証巻講疏」二巻    同人
 一四。「六軸科節」一巻      環中
 一五。「本典頂戴録」四巻     柔遠
 一六。「六要鈔指玄録」十一巻   同人
 一七。「本典略讃」八巻      道隠
 一八。「本典義例略讃」一巻    大瀛(エイ)
 一九。「本典科節」一巻      同人
 二〇。「広書箋」十二巻      履善
 二一。「本典講記」        性海
 二二。「本典徴決」十九巻     興隆
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 二三。「文類述聞」八巻      僧叡
 二四。「六軸標挙提綱」一巻    道振
 二五。「行巻文義略決」一巻    同人
 二六。「化巻科節弁意」一巻    同人
 二七。「本典大意略解」一巻    同人
 二八。「本典大意略解余論」三巻  同人
 二九。「教行信証三則」二巻    曇龍
 三〇。「教行信証大節」一巻    同人
 三一。「同徳徴記」八巻      同人
 三二。「同綱要」一巻       同人
 三三。「同略弁」一巻       同人
 三四。「本典折衷」二巻      宝雲
 三五。「広書自釈筆記」一巻    同人
 三六。「本典好密」一巻      同人
(1-093)
 三七。「本典奉持記」十五巻    行照
 三八。「教行信証文類丙申記」五巻 僧朗
 三九。「証文類記」一巻      同人
 四〇。「本典対問記」旧名「敬信録」六巻 月珠
 四一。「教行信証私記」      普行
 四二。「本典講録」二十巻     南渓
 四三。「本典録」二巻       断鎧
 四四。「教行信証検要」五巻    慶忍
 四五。「本典録」十一巻      善譲
 四六。「信巻録」五巻       同人
 四七。「教行信証大意管窺録」一巻 同人
 四八。「教行信証大意略釈」一巻  玄雄
 四九。「教行信証摘解」四巻    義山
 五〇。「広文類論題」二巻     覚音
(1-094)
   大谷派
 五一。「教行信証字箋」三巻    恵忍
 五二。「六要鈔補」八巻       慧琳
 五三。「教行信証音訓考」一巻   同人
 五四。「教行信証口義」三巻    徳成
 五五。「教行信証講義」二十五巻  深励
 五六。「広文類顕真録」六巻    宣明
 五七。「御本書講義」十巻信巻まで深励 霊暀
 五八。「教行信証報恩記」十三巻  同人
 五九。「御本書化巻講義」八巻   同人
 六〇。「教行信証科図」一巻    同人
 六一。「教行信証聞書」五巻    知現
 六二。「帰命好〈字?〉訓釈解」一巻    大含
 六三。「教行信証総字訓」一巻   了祥
(1-095)
 六四。「教行信証講義」九巻    霊暀
 六五。「御本書講義」十一巻    義導
 六六。「御本書総序弁述」一巻   開華院法住
 六七。「教行信証金剛録」一巻   同人
 六八。「広文類行巻講義」十巻   龍山
 六九。「同 信巻講義」七巻    同人
 七〇。「同 化巻聴記」      同人
 七一。「御本書講義」十六巻    霊城
 七二。「広文類論草」四巻     神興
 七三。「教行信証講録」      大円
 七四。「教行信証分科」一巻    観順
 七五。「教行信証六要鈔講讃」四巻 覚寿
 七六。「冠註六要鈔」三巻     湛霊
   高田派
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 七七。「教行信証鈔」十五巻    恵雲
 七八。「師資発覆鈔」二百五十巻  普門
 七九。「教行信証文類序詒謀録」一巻 智伝
 八〇。「摂取院法梁の録」十八巻
 八一。「教行信証集註」二巻    慧弁
 八二。「悦浄院の録」二十五巻
 八三。「和敬縁」十二巻      忍成

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第六章 「教行信証」製作の縁由

 一。「教行信証」は、親鸞聖人の信仰の告白であって、聖人はこれを告白して、すべての人が、自分と同じいように、この他力の行信に帰命することをすすめられたものである。
 更にこれを対他的にいえば、恩師の「撰択本願念仏集」を註解して、聖道の諸師の誤れるを正し、浄土の異流の邪道に陥らんとするを防ぎ、異教者の偏執を止めんためである。

 二。古来この「教行信証」を講ずるに就いて、先哲は、大抵この本典製作の興由という一節を立てて苦心をして弁じて居られる。近く、吉谷覚寿師は、左の様に解釈して居られる。

  ┏通━━自信教人信念報仏恩のための故に。
  ┃
  ┃  ┏開宗立教のための故に。
  ┗別━╋真仮の権実を判ぜんための故に。
     ┣真宗の教行証を弘通せんがための故に。
     ┗破邪顕正のための故に。
               ┏聖道の難破
         邪というは━╋浄土の異流
               ┗外教の邪執
 また或る師は、
  ┏通━自信教人信のため
  ┃          ┏向内━「撰択集」の真意を顕す
  ┗別━立教開宗のため━┫  ┏浄土の異流を糺すため
             ┗対外╋聖道の諸師を誘うため
                ┗異教の邪執を誡むるため
として居られる。こう分けてみると、はっきりして来るが、要するに、一番最初にいうた意味に外ならないのである。
 それで、この「教行信証」の製作せられるに至った縁由を少しく歴史的に、その当時の模様から、みて行こうと思うのである。

 三。元来この「教行信証」製作の縁由もみるべきものは、明かに、本典の後序に顕
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われて居るのである。後序には、先ず、承元丁卯の法難、即ち師弟の遠流を叙し、次に、建仁元年の吉水入室と、元久二年の「撰択集」付属とを記して、終りに師教の恩厚を仰ぎ仏恩の深きことを念じて、人倫の哢言を恥じず、真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭〈ひろ〉うたので斯の書を見聞するものは、信順を因とし、疑謗を縁として、願力を信楽して、安養に往生せよと結んであるのである。これで、聖人が「教行信証」を御製作にならねばならぬ所の外的の縁と、内的の因を充分に知ることが出来るのである。
 初めに承元の法難を示して下されたことなどは、非常に意味深く味わわれる。この法難は法然聖人をば、土佐の国幡多に流し、親鸞聖人をば、越後国国府に流したのである。而も、この恐るべき法難が因縁となって、愈々弥陀の本願は、日本の津々浦々にまで弘まらせられた。正しくこれ逆縁興法である。今、親鸞聖人が「教行信証」御製作になるのも、もとはといえば、この逆縁の賜と曰わねばならぬ。宗教は常に逆縁に依って最も広く弘まる者であるが、この真理は、今我が聖人の場合に於て最も多く其光輝を発揮して居るのである。
 次に、建仁元年の雑行を捨てて本願に帰し給うた吉水入室と、元久二年、恩恕を蒙むりて、「撰択集」付属を得給うたことが、正しく、聖人の本典述作の興由である。「教行信証」
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は幾度もいう如く、我が聖人の信界の写象であって、捨雑帰正のすがたを示し給うたものである。六軸の中、前五巻は、本願に帰するすがたであり。後の一巻「化巻」は雑行を捨て給うたすがたである。果して然らば聖人は、「教行信証」六軸を製して、自己の信仰をあからさまに述べ給うものというべきではないか。而してこれ実に吉水入室の相でないか。
 かくの如く、一面自己の信仰を述べ給うとともに、他面に於ては、「撰択集」の正意を闡明し給うた。当時、諸方より讒謗批難を受け、又内部よりは誤解者を生じて、漸やくその真意を乱らんとする時に当たって「撰択集」の真意を闡明するは、恩恕を蒙むりて、「撰択集」付属を受けたものの一大責任ではなかろうか。

 四。いうまでもなく、当時は、教界の新興者に対する迫害圧迫の盛んなる時であった。南都北嶺の聖道門の人々は一概にこの新興者を悪んで、教界の惑乱者となし、屡々法難を醸さんとして居る。又他面、儒道二教の徒は、邪正の道路を弁うこともなく、無暗に念仏者に対して謗難の唇を翻がえして居る。かくて明慧上人の抗議となり、解脱上人の弾劾となり、次で吉水の解散となる。この騒動は、一に「撰択集」を中心として起って居る。南北の奏達もこれがためなれば、明慧上人の「摧邪輪」公胤の「浄土決疑鈔」定照の「弾
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選択」等、みな「撰択集」を破さんがための著述である。外患は猶、忍ぶべしとするも、恐るべきは実に内憂である。親しく法然聖人の教を蒙むりながら、美しく聖人の真意を得たるものは殆んど絶無という有様で、一念義あり、多念義あり、諸行本願義あり、悉く皆聖人の真意を得て居らぬ。殊に諸行本願義の如きは、「撰択集」は念仏の要義をききたいというものに対して与えられた方便説である、聖人の実意は、諸行本願にあるなどと途方もないことをいいつのる。また直弟中のあるものの如きは、「撰択集」は、親選にあらずして弟子の偽作であるなどと主張する。この外西山義にあれ、鎮西義にあれ、悉く一方に偏して、自分の字力を以て「撰択集」を解してみなその真髄に徹入して居らぬのである。茲に我が親鸞聖人は奮然として立って、「教行信証」六軸を製述して、信行を別開し、邪正を弁別し「化身土巻」を開いて真仮を判じ「撰択集」の正意が、正しく弥陀如来の本願の行を信受して、報土に往生するにある旨を闡明し給うたのである。それ故、親鸞聖人は、本典「信巻」別序には

 末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈んで、浄土の真証を貶しめ、定散の自心に迷うて、金剛の真信に昏し。

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と嘆じ、また「化巻」後序には

 諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路を弁うることなし

と嘆じ、かくの如き次第であるから、親鸞茲に、諸仏如来の真説に信順し、論家釈家の宗義を披閲して、正義を勧むるよしを述べ給うたのである。
 先に道といい、諸寺の釈門というは、浄土の異流と聖道の難破を指し、俗といい、洛都の儒林というは、外教の邪執を指すのである。我が聖人は、これら道俗の難破と邪執と誤解に対して、「撰択集」の正意を詮顕し給うたのである。

 五。かくの如く我が親鸞聖人は、自己心中の信仰を傾けて、「撰択集」の正意を詮顕し給うた。それ故、「教行信証」は聖人の信仰の描写であり、また「撰択集」の生ける註解であった。而して、聖人自らは、自覚せずにし給うたことではあるが、これがやがて、浄土真宗の立教開宗となったのである。語を強うしていう。立教開宗は、聖人の素志ではなくして、聖人の活動の結果であったのである。
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第七章 当時の教界と他力浄土教

 一。前章に於て、「教行信証」は一面対他的の側からいえば、時代の要求に応じて、その病弊の救済者として生れたものであることをいうた。茲に章を改めて、当時の教界の模様を今少しく委しく探って、当時の教界に於ける聖人の位置を明かにしたいと思う。すべて人物は時代という背景の前に躍動するものである。その一言一行も皆その時代の大波小波の影響を受けて居るものであるから、時代の影響を察して、その言行を見れば、真にその活躍せる意義を握ることが出来るのである。聖人の背景は、同時に「教行信証」の背景である。「教行信証」は鎌倉時代の宗教という舞台の上に躍って、万古不変の人心の秘奥を語る名優である。されば、茲に、この章と次の章を置くも決して徒爾ではなかろうと思う。
 二。三千年の昔、韋提希夫人という一女姓が、家庭内の逆縁に依って目が醒めて、弥陀他力の本願に救われてから以後、醍醐の慈雨は次第次第に人の心の上に降り注いで、心霊の救済を得るものが益々多くなった。龍樹大士は、儜弱怯劣の凡夫は、弥陀の弘誓に依る
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の外道なきことを断定し、天親菩薩は、「世尊我れ一心に尽十方無碍光如来に帰命し奉る」と告白し、曇鸞大師に千年の寿を延びんがために仙術を学ばんとして、却って無量寿の教に驚き覚め道綽禅師は一生造悪の凡夫はとても開悟の道がなければただ如来の本願に依るより外なきことを述べ、善導大師は、殊に痛切に、浮世の偽虚相と、自己の罪悪相に目が醒めて、ひたすら、かかるものを救済せんと誓い給うた本願の約束を喜び嘆え給うた。

 三。我が日本国に於ても、欽明天皇の十三年、仏教の初めて伝わった時から、阿弥陀如来に因縁が多く、聖徳太子や光明皇后や、行基菩薩、智光礼光の両師等の浄土願生者を出して来たのであるが、それが平安朝に入って伝教大師は天台教を伝うると共に念仏を喜び、引いて叡山の大衆の念仏三昧となった。高野山の弘法大師も亦、その母に念仏をすすめ、その末流に多くの念仏者を出された。叡山と高野の末流なる慈覚、延昌、慈恵、空也源信、良忍、永観、実範等は、みなこの念仏の人である。中についても源信僧都は、遠く善導流の念仏を伝えて、「往生要集」を著わし、極重悪人、無他方便、唯称弥陀、得生極楽の旨を示し給うた。他力本願の念仏は、次第に、その色を濃くし、その範囲を広くして来
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た。然し、これまで他力本願の宗教は、他の宗旨の付属宗であって、猶、独立の旗幟を翻えすには至らなかったのである。教理としては聖道難行の法を奉ずる人が、実行門に於て易行易修なるが故に念仏法を信奉して来たのであった。

 四。機は追々に熟して来た。茲に日本の宗教界に於て古今未曾有の大変動を来した法然聖人の心機の大変動があった。これ実に承安四年、親鸞聖人の御誕生の翌年であった。法然聖人はこれよりその畢生の勢力を傾けて専ら浄土宗独立の興行に尽瘁し給うたのである。
 洛東、大原勝林院にて各宗の碩学と会し、談義し給うたのも、この浄土宗別興行のためであった。東大寺の落慶供養に大導師として南都の住侶の前に演説し給うたのもそのためであった。「撰択集」に於ては、浄土宗の伝灯を探り、浄土宗という立名の可能なることを諸経典に亘って証拠立てつつ、一宗を興行し給うた。寓人は主人となった。独り立ちの出来なんだ念仏がすけを待たずに独り立ちするようになった。宗教界の復興期は起った。一道の霊気は吉水を中心として、都鄙一円に満ち渡った。されば、これまで頼む所のない依る所のなかった民衆は、靡然として念仏の大法に帰し、女人非器と卑しめられて、教法
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の慈悲に洩れた天下の女性は始めて信眼を開いた。我が親鸞聖人も亦、建久元年の春、吉水に入室して、二十九歳の迷を転じて信界の人となり給うたのである。
 この法然聖人の新興の宗教は、教界の幾多の問題を解決すると共に、また幾多の問題を呈供した。而して今まで二千余年の間浄土教の雌伏に依って、平和を保ち来った教界は、茲に著しく聖浄二門の対抗となって、空前の法難を醸し来ったのである。

 五。聖浄二門の対抗とは何か、一口にいえば宗教の実際的効果について起って来た実際的論争である。嘗て上代に於て、宗教的偉才の生命となった高邁なる理解と、生々溌剌たるその宗教的苦行とは、時代が下るに従って、その意義と生命とを没却して、高邁なる理解は迂遠なる理談となり、生々の苦行は、煩瑣な律法となった。眼の開いて居る聖道門の修業者は、みなこの迂遠なる理談と、煩瑣な律法とを、いかにして、生命と意義あらしむべきかに腐心した。而して彼等は、理談と律法とが、遠い昔に既に実際的の効果を失うたのを看破して、一方に於ては、教行の廃退を慨いて末徒を激励すると共に、自らは、傍に他力念仏の実際的生命に頼って、その枯渇した心霊を湿〈うるお〉して居ったのである。支那のことは曰わずとも、日本仏教の開拓者と曰わるる伝教大使がその人であった。大師は、
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その著「末法灯明記」に於て、聖道の教行の三時の廃退を説き「末法の中に持戒のものあらば既に是れ怪異なり、市に虎あらんが如し」と断じ、根本的に聖道の諸教の実際的効果を否定し去って、而も自分は表面、その聖道教を奉じ、円頓戎を布き、弟子を激励して、女人を却け、山居して清浄の生活に入ろうとせられた。而もその聖道の諸教の時機不相応という根本的破綻は、大師をして、最後の実際の宗教的安心をば、念仏の大法に求めしめたのである。大師の流を汲める叡山の念仏者は皆この大師の型を取った人であった。源信和尚もその型の人であったのである。今法然聖人は、いつ迄もこの大師流の弥縫的な教界の態度に満足することが出来なんだ。聖人は断然として、山を下って野の人となり、「聖道門の諸教は教〈おしえ〉は尊善の法なれば、上代上智のもののためには、利益はあろうけれども、余の如き頑魯のものには、更に何の甲斐もなければ、甲斐なき法を捨てて、有縁有益なる弥陀の念仏の大法に依る」旨を宣伝せられたのである。この法然聖人の野に下っての大宣伝に対して、攻撃は二方より起った。一は、南都北嶺の伝習にのみ囚われて権力争いに汲々たるがやがや連中からである。一は、嘗て法然聖人と共に教界の腐敗を慨いて、精神的復古を計りつつ、法然聖人と異なる路を歩んで改革の火の手を挙げた人々からであ
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る。この後者には、栂尾の明慧上人、笠置の解脱上人などがあった。この両上人の法然聖人に対する攻撃は誠に真剣であった。生命掛けであった。明慧上人は専ら教義の上より、解脱上人は、専ら化風の上から攻撃せられたけれども、然もその攻撃を側面的に見れば、法然聖人が、聖道門の諸教の生命と力と利益のないことを断ぜられたに対して両上人は、その聖道の諸教の生命と力と利益とを自己一身の上に体現せんとしての抗争であったのである。南都北嶺のがやがや連中のことはいう迄の価値がないが、茲に法然上人と明慧解脱の両上人に依って代表せられた聖浄二門の対抗は、聖道の諸行が果して生命と力と利益があるか、否かの実際的論争であったのである。明慧解脱両上人は、俊厳なる戒律を奉じ細々ながらも、聖道の教益を一身の上に顕わさんとせられた方である。而してその血の垂るような熱烈なる努力の上に確に生命と力とあったのである。法然聖人は自ら十悪の法然房、愚痴の法然房と告白して、かかるものは弥陀他力の念仏より別の道なきことを唱導しながら、身は聖道門のひじりのする清高なる出家聖人の生活をなされた。而して法然聖人より更に進んで、法然聖人の精神と信仰とを最も具体的に身を以て実証せられたのが、我が親鸞聖人であった。我が聖人は、進んで、肉食妻帯の在家人となって、法然聖人の精神
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の註解者証明者となり、茲に法然聖人と明慧解脱上人等の、論争に最後の決着を与えられたのである。身を以て法然聖人の註解者証明者となられた我が聖人はその著「教行信証」を以て、「撰択集」を註解し証明し給うは当然である。「化巻」一巻を熟読するものは、我が聖人が、この聖浄二門の対抗にいかに最後の決着を与え給うたかを知得するであろう。

 六。この聖浄二門の対抗はかくの如くして、我が親鸞聖人に依って最後の決着を与えられたけれども、頑迷者に依って送られた法難は、なおひしひしと迫って来た。大原の問答宮中の逆修に聖覚法印の弁明、月輪殿上の邂逅に我が聖人の逃走、明慧上人の抗議、解脱上人の弾劾、山門の圧迫、住蓮安楽の鹿谷の事より、師弟の遠流と斬罪、吉水の解散、念仏の停止、これらは皆その壮烈なる対抗と、悲惨なる最後であった。僅かに芽生えした新芽は惨たらしくも無情の人の足の下に蹂躙せられたが、而も春なればこそ、その下より若芽はむくむくと生え出て、遂に緑の世界を占領するように、新興の宗教は形に於て、旧宗教に破れたけれども、末法の春なれば念仏の声は禁止の札と共に却って都鄙に溢れて益々盛大に赴いたのである。

 七。今少しくこの聖浄二門の対抗の模様を法然聖人の「撰択本願念仏集」の上に見て
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進もう。「撰択集」が一度世に行わるるや、問題は弥やが上にも大きくなった。謹厳にして、殆んど仏時代の聖弟子の俤〈おもかげ〉のあった栂尾の明慧上人は血涙を振って「撰択集摧邪輪」三巻、「摧邪輪荘厳記」一巻を著わして、真正面に面も振らずに攻撃をして来た。これを開戦の第一砲として盛んに砲弾の交換が行われた。播州朝日山の信寂房は、「慧令義」一巻を著わして「摧邪輪」を破し、円城寺の法務公胤は「浄土決疑抄」二巻を作り、上野並榎堅者定照は、「弾撰択」一巻を作って、共に「撰択集」を破し、長楽寺の隆寛律師、「顕撰択」一巻を製して、これを反駁し、山門東塔仏頂房隆真また「弾撰択」一巻を作って「撰択集」に当り、中道寺覚性は「扶撰択論」七巻を作り、その外「護源報国論」一巻、「新扶撰択報恩記」二巻、「念仏撰択評」一巻、「浄土正論集」一巻等は皆難破の書に対して「撰択集」を保護した書である。時代は少しく後れているが日蓮の「立正安国論」日遠の「無得道論」また「撰択集」の破斥の書であった。かくの如く当時の教界は「撰択集」を中心としての論争であった。破斥するもの否か守護するもの是か、悲しいかな。当時、破斥するものの「撰択集」の正意を得ざるは勿論、守護するものもまた、多く「撰択集」の明確なる正解者ではなか
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った。かくて「撰択集」は猶正当なる将来の註解書を待ちつつ、時代の幕に覆われたのである。
 されば、これより当時「撰択集」の味方であった吉水の門下の上に眼を転じて進もう。
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第八章 浄土宗の五流と浄土真宗

 一。吉水の解散将に起らんとして、悲風粛々たる時、親鸞聖人の発義に依って信行両座を分って吉水門下の人々の信仰を試みられたことのあるは、人のみな知る所である。信行両座というは、他語を以ていえば、信仰主義と律法主義のことである。律法を宗教の精髄とするか、信仰の宗教の骨髄とするか、この一事は正しく宗教を活殺するものであって、この両主義者はいつの世にも存在するものである。枯渇せる宗教は常に律法を重んじ生ける新興の宗教は常に信仰を主とするものである。聖道門は概ね律法主義にして浄土門は信仰主義である。法然聖人を舞台の主人公とせる聖浄二門の対抗は正しくこの律法主義と信仰主義の対抗であった。而していつの時代にも見る如く信仰主義は着々としてその勝利の実を上げて、念仏の信仰は天下に瀰漫したのである。しかしなお細かにいえばこの勝利の聞を挙げた念仏者の中に於ても、猶律法主義者と信仰主義者との別であった。而してこの信行両座の別ちというはこの両主義者が試みられるのである。而もその結果は悲しいかなしける信仰主義者は五六輩だにも足らずして、三百余人の門侶は大抵、昔の律法を
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捨てやらずして、真に信仰に入らなんだ人であった。浄土の五流と称するもの、挙げ来って、その内容をみれば、またみな、美しく師匠法然聖人の意を得たるものではなかったのであった。

 二。浄土の五流というは、近く「浄土源流章」にも出でて鎮西流、西山流、九品寺流、長楽寺流、成覚房流である。今その主義とするところを簡単に見て行こう。
(一)鎮西 聖光上人の一流は、阿弥陀仏の本願はただ称名念仏にあって、他の諸行は全く廃せらるる行業であるという諸行非本願の義を主張する。然しながら、阿弥陀仏は普ねく万差の機類を利益せらるる大悲の覚者で在すから、諸行の行者でももし回向して往生を求めるときは、必ず往生ができると云う。尤も諸行でも念仏でも、ともに三心(至誠心、深心、回向発願心)を発すことを肝要とし、もしこれがかけたときは孰も往生は出来ぬと教える。それゆえ、此一流は、諸行非本願説を執って、而も二類各生(念仏と諸行と二類各往生すること)を許すのである。
 二類各生の説は猶可とするも、この派は、心存助給口称南無と称して、心に助け給えと深く念じて、一心に南無阿弥陀仏と称せよとすすめ、念仏の称え心を詮義し、真実至誠の
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心を以て、身命を捨てる思になって、弥陀に向うて回向発願し、臨終の夕に至るまで、安堵の思いなく、常に策励勤修して、助け給えの心に住して念仏せよというのである。一見なお定散の自心に迷うて絶対他力の妙味を解せないことが知れるでないか。
(二)西山 証空上人の一流は、諸行非本願を主張することは鎮西流と同じいが、二類各生を許さぬと云う点は彼流と異なっている。
 然し二類各生を許さずして念仏一類往生義を立つるは法然聖人の廃立を受けてそういう説を立てたので、西山流の極意としては、更にこの廃立の上に傍正説を立て、念仏はその体、万行を摂在し、諸行は念仏体内の功徳なれば、大に諸行を修せよとすすめて居る、且つこの宗では、天台宗、真言宗の教義を取り入れて、高遠なる生仏不二、機法一体説を立てて居る。衆生と仏とは本来一如のものにして別のものではない。且つ弥陀は衆生成仏せずは、我も正覚を取らじと誓うて已に十劫の昔に成仏し給うたことなれば、我等は已に弥陀正覚の一念に成仏し終ったのである。然るにこれを知らずして迷い居るは弥陀の無量寿の寿命をかりてさまよい居るのである。今我が寿命を振り返れば、十劫の昔に成仏せし弥陀の仏体である。この事を知るが安心である。この一念が証得往生である。帰命と
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は弥陀より借りたる命を正覚の一念に帰すことであるというて居る。これに依って見れば西山義が、聖道門の所談をその儘取り入れて、その理談を事相の上に焼き直したものであることが知れるのである。この派は所謂自性唯心に沈まんとする亜流である。
(三)九品寺 覚明上人の一流は、第十八の念仏往生の願と共に、第十九の諸行往生の願ある以上は、念仏も諸行も阿弥陀仏の浄土に往生すべきであると主張する。されば二類往生は鎮西流と同一であるが、進んで諸行本願義を立てて居るのである。
 諸行本願義を立てて居るから、法然聖人の生命を打ち込まれた「撰択集」に対しても、「撰択集」の念仏をすすめた給うは一往の説にして、真意は却って諸行をすすめ給うにあるなどというて居る。定散の二心に迷うて、金剛の真心を知らず、法然聖人の真意を害すること一目瞭然である。
(四)長楽寺 隆寛律師の一流は、諸行非本願説という点だけは西鎮両家と同じいが、その諸行に対する見解が違っている。此一流では、本願の行なる念仏を修むるものは真実報土の往生を遂げ、非本願の行なる諸行を修むるものは化土に往生するという。そして往生の業の成り立つのは平生業成でなく、全く臨終の一念に定まるというている。即ち平生から
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沢山の念仏を勤めて怠らぬときは、臨終の夕に心乱れず、仏を見奉りて往生すると教うるのである。それで他流の人から多念義と呼ばれている。
 然しこれは隆寛律師の末流のいう所で、律師自らは茲までは曰われなかったのである。律師の曰われるのは、常に臨終を引き寄せて、とりつめて念仏を称えよ、念々が臨終であって、念々の称名が往生の正定業であるというので、その切りつめた信仰及び化風の上から一念ということを余り曰われなったので、その末流が遂に多念義の邪義を唱導するに至ったのである。何は兎もあれ、多念義は、弥陀本願の正意を知らずして、自力定散の心に迷うものである。
(五)成覚房 幸西上人は天台宗の教義を取りこんで、衆生と仏とは本来二つのものでなく衆生の具する理仏と本門の弥陀とはもと一体のものであるから、阿弥陀仏すでに成仏せば吾等また同じく成仏したものというべきである。この理を一たび信じて、仏の智慧と衆生の心とが一念に合するとき、往生即ち定まるのである。念仏の多少によって往生が定まるのである。
 且つ已に一念仏智に冥合して成仏し終れば、更に称名する必要はなく、又仏を思念する
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要もない。「経」に十念と説くは十法衆生というから十念の語を置いたのみである。又念仏往生というも、口称念仏往生ではなくて一念弥陀の仏智を念ずることである。念仏は口称でなく心念である。生仏不二、仏凡一体の妙理を知りて、一念仏智に冥合すれば、万事了するのであるというのである。この一念義の如きは、余程聖道門の理談に近く、法然聖人の畢生の努力を以て実際的念仏を説き給うたのを根本的に覆えしたものと見ねばならぬ。これまた明かに自性唯心に沈む一派である。
 かくの如く、法然聖人門下の代表的五流は、すべて皆一念義、多念義、諸行本願義、生仏不二義、口称回向義の邪義に陥いって、一として師範聖人の真意を得ては居らぬ。実あるものは黙し、虚なるものは吠ゆるたぐいで、聖人の門下中、また勝れたる念仏の信者もあったけれども、いずれも、遠く隠退し、又は沈黙して独り大悲を讃嘆して居る有様であるから、聖人の法流も漸く乱れんとし、自性唯心に沈迷するものと、定散二善に迷惑するもののみ多かったのである。ここに至って、我が親鸞聖人の任、又頗る大なるものがあったのである。
 三。御弟子も多い中に「撰択集」の付属を受けたものは指を屈する程しかなかった。我
(1-118)
が親鸞聖人は多幸にも、その一人となって、元久二年、恩恕を蒙むって、「撰択集」の付属を受け給うたのである。「撰択集」の正意隠れんとし、聖人の法流乱れんとする時、我が親鸞聖人の心中は果していかがであったであろうか。況んや過ぐる建仁元年吉水入室以来の恩顧を思い、「撰択集」の付属を偲べば、時ならざるに我が袖に時雨るるものもあったであろう。善導大師以来嫡々相承の浄土真宗を興立し、「撰択集」の微意を闡明するは、蓋し我が親鸞聖人の重大な職務であったのである。嗚呼誰か「教行信証」六軸は法然聖人相承の浄土真宗の興立にして「撰択集」の正当なる註解書でないというものぞ。
 聖人は晩年に至って、建長四年二月二十四日付の御文に
  さりながらも往生をねがわせたまう人々の御中にも、御こころえぬことも候いき、今もさこそ候らわめとおぼえ候。法然聖人の御弟子の中にも、われはゆゆしき学生などと思いあたる人々も、この世にはみなようように法文をいいかえて、身もまどい人をもまどわしてわずらいあうて候めり。
と申されてある。一言にしていえば法然聖人が愚痴無痴の法然房として御喜びになった他力浄土教を、智慧沙汰し文沙汰し、さがさがくなって真意を誤ったのが、聖人の門下であ
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った。我が親鸞聖人は、更に法然聖人の真実の愚痴に復古されたのである。
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第九章 聖人の著書と「教行信証」

 一。親鸞聖人の書き残し給うた著述は左の通りである。
     書名       著作年時      真筆所在
 一。 「教行信証」 六巻 元仁元年(五十二歳) 坂東報恩寺、本派本願寺、高田専修寺、木辺錦織寺(焼失)
 二。 「浄土和讃」 一帖 宝治二年(七十六歳) 加州本蓮寺、高田専修寺
 三。 「高僧和讃」 一帖 宝治二年(七十六歳) 加州本蓮寺、高田専修寺
 四。 「唯信鈔文意」一巻 建長二年(七十八歳) 奥の本誓寺
 五。 「浄土文類聚鈔」一巻 建長四年(八十歳) 本派本願寺、越後浄興寺、専修寺
 六。 「尊号真像銘文」三巻 建長七年(八十三歳) 越前法雲寺、専修寺
 七。 「浄土三経往生文類」一巻 建長七年(八十三歳) 興正寺、専修寺
 八。 「愚禿鈔」  二巻 建長七年(八十三歳) 専修寺、三州良円房
 九。 「皇太子聖徳奉讃」七十七首 建長七年(八十三歳) 天王寺宝庫
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 一〇。「入出二門偈」一巻 康元元年(八十四歳) 越前法雲寺、専修寺
 一一。「往還回向文類」一巻 康元元年(八十四歳) 三河上宮寺
 一二。「聖徳太子奉讃」百十四首 正嘉元年(八十五歳) 野代願永寺
 一三。「一念多念証文」一巻 正嘉元年(八十五歳) 専修寺
 一四。「正像末和讃」一巻 正嘉二年(八十六歳) 加州本蓮寺、専修寺
 一五。「獲得信心集」一巻 正嘉二年(八十六歳) 専修寺
   外に猶
 一六。「諸経要文」 一巻 安禎二年(五十六歳) 専修寺
 一七。「磯長夢想記」一巻 建久二年(十九歳) 磯長叡福寺(紛失)
 一八。「六角堂夢想記」一巻 建仁元年(二十九歳) 専修寺
 一九。「二十一箇條掟」一巻 貞永元年(六十歳) 越後浄興寺
 二〇。「無言辭集」 一巻 建長七年(八十三歳) 願入寺(焼失)
 二一。「三経大意」 一巻           専修寺
 二二。「西方指南鈔」一巻 康元二年(八十五歳) 専修寺
(1-122)
 二三。「迎接曼陀羅由来」一軸         嵯峨清涼寺
 二四。「浄土二経門図」一巻         専修寺
 二五。「四十八願願名附」一巻        専修寺
 二六。「本尊色紙文」 一巻
 二七。「十七箇條掟」 一巻
 二八。「一紙遺書」 真仏房に与えられたるもの 野代西光寺
 二九。「十五首和讃」 一巻
  註。以上二十九部を聖人の自選として伝えて居るが、然し第十六部以下は猶相当の研究を経ねば聖人の親選として断言する訳には行かぬ。
   滅後編集のもの
 一。 「御消息集」  三巻 覚如上人纂
 二。 「末灯鈔」   二巻 正慶二年 従覚上人纂
 三。 「血脈文集」  一巻 覚如上人集
 四。 「帖外和讃」数首 異本多し、専修寺、仏光寺、三州上宮寺にあり
(1-123)

 二。我が聖人の著述は、以上の多数に上って居るが、この中、どうしてみても、「教行信証」六軸が、聖人の一生の身血を注ぎ給うたものであることがわかる。後年その余りに浩澗にして捕捉し難きを恐れて、これを簡略に約〈つづ〉め給うたものが、「浄土文類聚鈔」一巻である。「三帖和讃」は仏徳讃嘆の書であり、「唯信鈔文意」は師友聖覚法印の「唯信鈔」の意を解いて示したものである。「愚禿鈔」は安心と教相を抜書の体裁にて述べ給うたもの、「尊号真像銘文」は尊号と真像の御銘の文を解釈したるもの、「入出二門偈」は自利利他入出二門の義を偈を以て説き「三経往生文類」は「浄土三経」の文を摭〈ひろ〉うて「三部経」の真意を説き、その交際を示し「往還回向文類」はその名の如く二回向を説き「一念多念証文」は証文を出して一念に偏せず、多念に偏せざるように誡め給うたものである。されば、「教行信証」六軸はこれら全著書を悉く含んで、恰も黄河の水の天上より落下し来るが如く、我が聖人の全精神の滔々として流るる河床であるのである。
(1-124)

第十章 「教行信証」の要義

 一。「教行信証」の要義は、浄土真宗の要義である。であるから、一口に「教行信証」の要義をいい顕わすことは出来にくいが、すでに、存覚上人の「教行信証大意」にも、
  しかれば、当流聖人の一義には、教行信証といえる一段の名目をたてて、一宗の規模として、この宗をばひらかれたるところなり。このゆえに、親鸞聖人一部六巻の書をつくって、「教行信証文類」と号して、くわしく、この一流の教相をあらわしたまえり。
 と宣べてあれば、真仮邪正を弁別して、真実の教行信証の四法を顕わすを、本典一部の要義というべきであろう。以下少しく四法のことを述べて、本典一部の要義、浄土真宗の教義の概観を申してみたいと思う。

 二。教行信証の四法は、我が親鸞聖人御己証の法門であって、他門他流に於ては全く知らないものである。教というは、仏陀の言教、行というは、その教に説かれた修行、信というは、その行の功徳利益を信ずること、証というは、その行信の因に依って得るところの証果である。これを図に示してみると、左の如くになる。
(1-125)

   ┏能詮━━━━━━━━━教
   ┃      ┏所信━━行
   ┃   ┏因━┫
   ┗所詮━┫  ┗能信━━信
       ┗果━━━━━━証

 行を信じて、証を開くことを教ゆるのが、教であるから、教は、ものの道理をいい詮〈あら〉わすものである。即ち能詮である。行信証はいい詮わさるるもの、即ち所詮である。又、行と信とは証の結果を得る原因であるから、証に望みて因である。証はその果である。信と行との関係は、行は信ぜられるもの、信は、信ずるものであるから、行は所信、信は能信である。四法には以上の関係があるのである。
 三。次に然らば、浄土真宗の教とは何ぞや、行とは何ぞや、信とは何ぞや、証とは何ぞやと、その体を求めてみると、これが、所謂「教行信証」の四巻に顕わされて居るので、これを簡単にいうてみると、左の如くになる。教というは「大無量寿経」であり、行は南無阿弥陀仏の大行、信は至心信楽欲生の三信、証は難思議往生である。
 「大無量寿経」というは、阿弥陀如来の因果の功徳を説いて、我等に、安養の浄土に往
(1-126)
生せよと勧め給うた釈尊の教である。
 南無阿弥陀仏は、如来の御名であって、吾等が浄土へ往生するに就いて貰い受けねばならぬ大功徳の結晶である。大体、衆生が、仏になるには、それだけの修行をして功徳を積まねばならぬ。聖道門の聖者が、六度万行の修行をして、福智二荘厳の功徳を積んで居られるのは、これがためである。ところが、阿弥陀如来は、我等の様な愚痴暗鈍の衆生が、到底難儀な修行をすることの出来ないのを知り給うて、自ら、吾等衆生になりかわらせられて、永劫の修行をなし、その功徳善根を悉く、南無阿弥陀仏の六字名号に封じ込めて、我等に回向して下されるのである。我等もしもこの六字名号を頂けば、その大善大功徳は悉く我がものとなって仕舞ふのである。丁度親の財産を子がその儘貰うたような訳である。それで、南無阿弥陀仏は、浄土真実之行であり、他力の大行である。
 至心信楽欲生の三信とは、つめてみれば、南無阿弥陀仏を信ずる一信心である。いかに、功徳善根を摂めた南無阿弥陀仏があっても、信ずる信心がなければ、我がものとならぬ。信ずる一念に、大善大功徳が、衆生のものとなるのである。それなら、その信ずる信心とは、我等衆生の起したものかというと、そうではない。散乱麁動と乱れ散り、疑蓋を性と
(1-127)
する凡夫の心では、到底信ずることは出来ぬ。それで、阿弥陀如来は、自らの御心の上に信心を起させられ、これをその儘、我等に与えて、信ぜしめ給うのである。親の誠が子に通じて、子が親に振り向くが、この味である。それで、行が他力の行があると同じく、信もまた他力回向の信心である。
 難思議往生とは、浄土の証のことで心も語も絶え果てた不可思議のさとりであるから、難思議往生という。茲に往生というは、往生即成仏で、凡夫のなりで往生する即時に弥陀同体の証果をひらくことである。

 四。以上述べ来った教行信証の四法は、これを真実の四法というて、「教、行、信、証」の四巻に説き明してあるものである。これに対して方便の四法というがある。これは第六巻の「化身土巻」に明されて居る。この方便の四法がまた要門の四法、真門の四法の二つに分れる。便宜のために、左に図示せよう。

        ┏教━━「大無量寿経」
  真実の四法━╋行━━南無阿弥陀仏の大行
        ┣信━━至心信楽欲生の三信
(1-128)
        ┗証━━難思議往生

               ┏教━━「観無量寿経」
        ┏要門の四法━╋行━━修諸功徳の諸行
        ┃      ┣信━━至心発願欲生の三心
  方便の四法━┫      ┗証━━双樹林下往生
        ┃      ┏教━━「阿弥陀経」
        ┗真門の四法━╋行━━植諸徳本の称名
               ┣信━━至心回向欲生の三心
               ┗証━━難思往生

 かくの如く、四法というにも、真実の四法と方便の四法ということがあるが、親鸞聖人の仰せられる四法というは、真実の四法をいうのである。方便の四法というのは、真実の四法に対してみれば、こういう風に立てられるというまでのことで、聖人の上には、方便の四法ということは立ててないのである。或る師は、方便の四法ということは、義として立たないものであると曰われて居る。それも道理のあることであるが、ただ、真実の四法
(1-129)
を分明ならしむために、仮りに方便の四法を分配しても、別に差支はないのである。このことは心得て居てせねばならぬ。

 五。さてこの四法は、前にもいう如く親鸞聖人の御己証の法門であり、聖人の信仰の自発的説明であるが、事〈こと〉、典にあつからざるは君子の恥ずるところで殊に自我を骨張〈こっちょう〉せられず、全然、没我的な聖人は、珍らしいことを発明していう様なことは大嫌であるので、聖人のこの四法の法門も、自らより処があるのである。然らば、何が披処であるかというと、阿弥陀如来の大悲本願がより処である。本願にこの施設があるから、聖人の信仰的実験[6]となり信仰的説明となって顕れて来たのである。先ず、第十八の因願の文に、「至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者」と誓うてあるが、至心信楽欲生我国は信である、乃至十念は行である。若不生者は証である。この行信証を釈尊が「大無量寿経」に説かせられたが教である。

       ┏至心信楽欲生我国━━信┓
  因願の文━╋乃至十念━━━━━━行╋━四法
       ┗若不生者━━━━━━証┛

成就の文には猶一層はっきりと示されてある。
(1-130)
       ┏聞※  (※聞と信を線でつなぐ)
       ┣其━━━━━━━━━ 教┓
  成就の文━╋名号━━━━━━━━ 行╋━四法
       ┣信心歓喜乃至一念━━※信┫
       ┗即得往生━━━━━━ 証┛

 かくの如く、第十八の因願の文にも、成就の文にも示されある。一願に示されて居る計りでなく、四十八願に当ててみると、これが又いろいろに味われて来る。それで此一願中に四法をみるのを古来、一願該摂の法門といい、種々四十八願中の多願にあててみるのを分相の法門というて居る。先ず三願に配当してみると、

     ┏教━━「大経」
  四法━╋行━━第十七願┓
     ┣信━━第十八願╋━三願
     ┗証━━第十一願┛

となる。これを古来四法三願の法門という。又、この教行信証を二回向に配属して、更に
(1-131)
四願に配当して見ると左の如くになる。

            ┏教━━『大経』
      ┏往相回向━╋行━━第十七願┓
  二回向━╋     ┣信━━第十八願╋━四願
      ┃     ┗証━━第十一願┫
      ┗還相回向━━━━第二十二願┛

 (「教行信証」「教巻」初めに、「謹んで浄土真宗を按ずるに二種の回向あり。一には往相、二には還相なり。往相の回向に就て、真実の教行信証あり」と仰せられてある。往相回向というは、吾等が極楽に往生する因果即ち教行信証の四法を悉く阿弥陀仏が吾等に回向して下さることである。還相回向というは、吾等が一度極楽に往生した後に、再びこの世に還って、他の人類を救う能力を阿弥陀仏が、往生者に回施して下さることをいうのである。)
 これを二回向四願の法門と名づける。更にまた、証を開いて、真仏真土を出し、これを五願に配当する法門がある。
(1-132)

     ┏教━━━『大経』
     ┣行━━━第十七願┓
  六法━╋信━━━第十八願┫
     ┣証━━━第十一願╋━五願
     ┣真仏┓┏第十二願┫
     ┃  ┣┫    ┃
     ┗真土┛┗第十三願┛

 (真仏真土というは、真実の仏身と、仏土ということで証の内容である。この真仏真土は、「教行信証」の第五巻「真仏土巻」に説き明してある。)
これを六法五願の法門という。
 以上は、真実の四法、真実の願のみについていうたのであるが、猶、弥陀如来は、この真実の四法に入り得ないもののために、方便の願を立てられた。この方便の願から、先に延べた方便の四法が出る。而して、方便の四法は前に述べた通り、さらに、

  ┏要門の四法━━第十九願
  ┗真門の四法━━第二十願
(1-133)
 (この方便の四法は「教行信証」第六巻「化身土巻」に示されて居る)
に分れる。
 それで、以上の法門を悉く一にしてみると、左の図式が得られるのである。

       ┏教━━━━━━━「大経」
       ┣行━━━━━━━第十七願
    ┏往相╋信━━━━━━━第十八願
    ┃  ┣証━━━━━━━第十一願
  ┏真┫  ┃    ┏━━━第十二願
  ┃ ┃  ┗真仏土━┫
  ┃ ┃       ┗━━━第十三願
  ┃ ┗還相━━━━━━━━━第二十二願
  ┃        ┏要門━━第十九願
  ┗仮━━━━化身土┫
           ┗真門━━第二十願

これを真仮八願の法門と名ける。
 かくの如く種々の法門があるが、この法門の名称が、聖人の「教行信証」の上にあると
(1-134)
いうのではない。聖人の教行信証を味わうて行くと、自然に、このように顕われて居るので、古来かくの如く、分類をして、いいならわして来て居るのである。教行信証という四法の上に直接に関係のないことではあるが、四法の法門から流れでるもので、浄土真宗の根本的の法門であるから、因に出したのである。

 六。さて、四法のより処が、本願の施設の上にあることは前段で明瞭になった。されば、我が親鸞聖人は、本願の上にこの四法をみ、自らの実験として告白せられたのでこの外に別に他処を探る必要はないのであるが、茲に四法の語拠、語例というべきものがある。それは、いかなることかというと、親鸞聖人は、「化身土巻」に、長々と伝教大師の「末法灯明記」を引き給うた。その中に、教行証という名目があるのである。我が祖、既に「灯明記」を引き、教行証の名目を列ね給うとすると、これが四法の語拠であるというも、強ち不当ではあるまいと思われる。即ち「化身土巻」に、「末法灯明記」の
 然らば末法の中に於ては、但、言教のみあって、行証なけん、
という語を引いてある。この引用の御思召は、「和讃」のいわゆる、
  釈迦の教法ましませど 修すべき有情のなきゆえに
(1-135)
  さとり得るもの一人も 末法にあらじと説き給う
  末法五濁の有情の   行証かなわぬときなれば
  釈迦の遺教ことごとく 竜宮に入りたまいき
の意味で、末法の今日に至っては、いかに教は高尚でも行証のかなわぬときであるから、浄土の行信に帰命せよとすすめ給うのである。それで、「化身土巻」後序に
  聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土真宗は証道今盛なり。
と宣うてある。猶この聖道の教行証の像末の世に廃退することは、慈恩大師の「義林章」六末四右「法華玄賛」十五三右に出でて居ることで、「伝教大師」これを「灯明記」に引かれたのであるから、我が聖人、この「灯明記」を引いて、聖道の教行証の廃退を示し給えば、いかに我慢の南都の僧侶も、叡山の比丘も、その開祖の慈恩、伝教の書きのこされたものであるから、不服を唱えることが出来ないのである。この聖道門の人達に対して、その教行証は漸次に廃退するから浄土門の教行証に頼れということは、既に、法然聖人が示して居かれたので、「大経釈」二右には

 抑も、三乗四乗の聖道は、正像既に過ぎ、末法の時に至って、但、虚〈むなし〉く教あって、行
(1-136)
証あることなし。故に澆末の世、断惑証理入聖得果の人を求むるに、是れ甚だ得難し、然らば即ち、濁悪の衆生、何を以てか生死を離るることを得ん。然るに、往生浄土の法門は、未だ無明煩悩を断尽せずとも雖も、弥陀の願力に依って、彼の浄土に生じ、三界を超出して、永く生死を離る。その事跡を求むるに紀伝の載する所甚だ多し。故に知ぬ。往生浄土の法門は是れ未断惑にして三界を出過する法門なり。末代の出離生死、往生浄土を除いて外、この理あることなし。故に、速に五濁の魔境を出でて二死の苦際を越んと欲せば、必ず当に、浄土門に帰すべし

というてある。かくの如く先師の相承あるところからみても、この教行証を四法の語拠とし給うたものと見るべきであろう
 然らばこの教行証に更に信を加えたのはいかなる訳か、これが頗る大切の問題である。この問題を一言に解決すれば、聖道浄土二門の差を示すと真仮分判をなすとのためである。
(一)聖道浄土の差を示すというは、聖道門からいえば、先ず教を信じて修行して証を開くので、行ずるという所に已に信ずるということがあるのである。行ずるのは已に信ずる
(1-137)
からである。それで教行証という三法であるが、実は教行信証の四法次第である。修行をするのは已に教を信じたから行ずるので、信ということを別にいう必要がないから教行証の三法としたのである。処が浄土門殊に真宗では、信ずるというは、行を信ずるのである。行というは、聖道門の自力の修行ではない。阿弥陀如来の我等に代って永劫の間修行して万善万行を封じ込めて下さった六字名号の大行を信ずるのである。この信に依って往生の証果を開くのであるから、信が最も大切である。それで行から更に信を開き出し教行信証の四法となし給うたのである。
(二)次に真仮分判をなすためというは、浄土門の他流の人が、皆定散の自心に迷うて、金剛の真信を知らず信も自力、行も自力に沈んで居るから、これに対して行というは、弥陀撰択の大行、信は、その大行を信ずる大信、信が大切であるぞ、この信に依って浄土の真証を得るのであるぞと示し給うのである。猶この行信別開のことは、今すこしく後にもう一度、真仮二巻開出の理由とともに記さねばならぬが今はざっというたのである。
 処が今一つ茲に四法の語例とも称すべきものがある。此れは、存覚上人も、その「六要鈔」にいうて居られることで、聖道門でいう教理行果の名目である。教は能詮の言教、理
(1-138)
は所詮の義理、行は能得の因行、果は、所得の証果である。この名目は、存覚上人曰われる通り、教行信証の四法の名目に大いに同じいのである。この教理行果の名目は本は「心地観経」二(十一右)で左の如く出でて居る。
  一法宝の中、無量の義あり、善男児、法宝の中に於て其の四種あり。一者教法、二者理法、三者行法、四者果法なり
 これがもとで「唯識述記」一本(十八丁)「義林章」雑章門(八丁)「弥陀経義疏」(二右)等、その他多数の論釈に出でて居るのである。聖道門でいうと、仏陀の教に依りて、真の理を知り、その理に依って修行し、行因に依って証果を得るのであるから、この四法の順序となるのである。もとより我が聖人の四法とは根本に於て相違がある。ただ語の例というのである。
 それで以上の処を約して言ふと、徒に出拠など辿って、難しくしたようであるが、「教行信証」の四法には左の義拠と、語例があるとでもいうのである。

     ┏義拠━━本願、成就の文
  四法━╋語拠━━「末法灯明記」の教行証
     ┗語例━━「心地観経」の教理行果
(1-139)

 七。さて今一度行信別開のことを曰わねばならぬ。先きにもいう通り、教行証の三法の名目は聖道門でも浄土門でも普通に使うて来た名目であって、珍しいことではないが、我が祖親鸞聖人の功績は、行から信を開き給うた処にある。それで「信巻」には殊に、別序をさえ置き給うてあるのである。然らば、何故に信を行より別開せねばならぬかというと、前にもいう通り、一は、聖道門に対して、他力教の行信の如何なるものなるかを示し一は真仮分判して、十九願、二十願に止まって居る浄土門中の異流の人々に対して弘願他力の行信を示し給うのである。信の一字を置く為に、行という意味までが、はっきりして来て居るのである。更に、これを歴史的に法然聖人の門下の人々のその当時の態度に照し合せてみると一層明かになる。当時門弟の人達の間に、日夜論議せられた問題は、信行関係であった。聖道門から転入して来た頭の人に、他力教的の大行大信が、そうはっきり入ろう筈がないのである。それで門下の大多数は、法然聖人の称名主義の真意を得ることが出来ずに、行といえば口に出して力一杯に南無阿弥陀仏を称うること、この称名の行業力で、往生を得るのが、他力の教であるというように半自力的に解釈して居ったのは無理もないことである。その人々にとっては、信ずるとは、称名の行業力を以て、往生を得
(1-140)
るを信ずるのであるという具合に解せられて居ったのである。又西山流の如きは聖人の実際主義を大乗の純理的に解釈して仏体即行説、知解即信説を立てて居る。最も元祖門下の人というてもこれ許りではない。美しい信仰の人もあったであろうけれども、この誤まった傾向の人々が一番多かったのである。それでこれに対して、我が親鸞聖人は、いつも行は、我が力で称うる行業のことではない。信とは、そんなことを信ずるのではない。行は、南無阿弥陀仏の大行、即ち如来の本願の行、信も如来回向の大信にして、如来の本願の独りはたらきで救わるることを信ずるのであると主張して居られたのである。このことは、近く「御伝鈔」上第七段などにて伺われる。これが後に至って、立教開宗の時に、教行信証という法門となって顕われたのである。これで行信というても、何等の自身の自力的の意味がなくなったのである。絶対他力の味が顕われたのである。
 然らば、これ程重大な意味を持つ信をば、時として略されるのはどういう訳か。現に、「教行信証」の内題には、「顕真実教行証文類序」として信を略されてある。又「文類聚鈔」は、行に信を摂して、教行証の三法を説き明す体裁になって居る。これは如何なる訳かというと、已に信を別開して、四法の綱格を立て、絶対他力の教行信証なることを示して
(1-141)
仕舞えば、信を行に摂しても、その意を失うこともなく且つ、行に信を摂し収めるところに、信心は凡夫手作の信に非ずして、如来の大行がその儘大信、信体が、大行の外に別にないということが顕われて、愈、他力ということが示されるからである。また一つには教行証というが仏教全体の通途の名目であるからである。

 八。「教行信証」六巻には、この四法の外に、真仏土と化身土が説かれてある。これは、結局どういう関係になるかという問題がある。この問題を少しく説明しよう。
 真仏土は、証から出たものである。勿論、証は、衆生の証果を示したものであり、真仏土は、弥陀の証果である。けれども弥陀の証果は、やがて、衆生の証果を説明して居るものであるから、茲に真仏土を説いて、四法の中の証の内容を示されたものである。
 それから化身土は、証から出たものではなくて、真仏土に対して化身土を示されたものである。然し、化身土というても、実は、方便の結果たる化身土のみが、明されて居るのではなくして、その方便の因も明されて居るのである。この点からみると、真実の四法に対して、方便の四法を開かれたものとも見ることが出来るのである。然らば、方便の因
(1-142)
果ある中、表面には、化身土という果の方面を出されるは、何故かというと、一つは、真仏土に対し、一つは、真仮の得失を明すに、果に約すれば顕著であるからである。

 九。然らば、もう一つ、かくの如く真実の四法と、方便の四法を分立せられた御思召はいかんという問題がある。
 この問題を説明する前に先ず、真実と方便の機教利益等を図示して置こう、これが所謂、三願三経三機三往生の三々四科の法門というものであるからである。

      ┏要門━第十九願━「観無量寿経」━邪定聚機━双樹林下往生┓
  ┏方便━┫                           ┣「化身土巻」
  ┃   ┗真門━第二十願━「阿弥陀経」━━不定聚機━難思往生━━┛
  ┃
  ┗真実━━弘願━第十八願━「大無量寿経」━正定聚機━難思議往生━━「前五巻」

 聖人が、かくの如く真実と方便を分ち、方便の中でも要門と、真門とを分ち、水際を立て、分類なされたのは、一面からみれば、所謂廃立であって、仮を廃し、真を立つるのである。法然聖人の門下の中に、聖道門の臭気がとれないで、どうしても自力に落ちたがる人々が多い。定散の諸善を積んで、往生の行に擬せんとする人もあり。南無阿弥陀仏の大行を称えた力で往生せんと計らうものもあり。美しく第十八願他力の正意を知らず、法然
(1-143)
聖人の他力の教を乱さんとした人々が多かったので、聖人はこの人々に対して、真仮を分別し、要真弘三門を開いて、弘願他力を立てられたのである。
 然し、これを、もう一つ他の一面から味わうことが出来る。それは、聖人自ら、「化巻」に

  是を以て、愚禿親鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行諸善の仮門を出で、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて撰択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れ。難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓良に由有る哉。

 と示し給うてあることから伺うのである。この時には要真弘三門は、如来の機根を調熟し給う始中終であると共に、自己の信仰の円熟して行く順序である。その如来の善巧摂化の次第を示し、自己の信仰の次第を告白なされたのが、「化身土巻」である。この点からみると「化身土巻」は聖人の法悦の道場となるのである。
 どうも、聖人の化身土開出には、以上の二面が確にあるに相違ない。前者は対外的であり、後者は内向的である。前者からみると、仮といい方便というは偽というような意味を
(1-144)
以て廃せられるものとなるが、後者からみると、仮といい方便というも、真実に入らしむる手段で、其処に如来の御慈悲が味われるのである。恐察し奉るに、親鸞聖人は、一般の人々に対しては、要真弘の三門を開いて、早く要真二門の仮偽を離れて、弘願門に入れとすすめ、自ら、一身の心霊的経験の跡を尋ねて、如来の大悲摂化の容易ならなんだことを感謝せられたのであろう。

 一〇。親鸞聖人はかくの如く、教行信証の四法を開いて真仮邪正を弁じ給うたのであるこの中に聖人の教相判釈もあり、世界観もあり、道徳観もあるのである。これらは、皆教行信証という四法の法門の錦の上に織り出された綾である。猶、委しきことは、各章の余義をみて貰いたいのである。(序講おわり)


脚 注

  1. 明治45年の柏原祐義氏の『浄土三部経講義』であろうか。明治・大正期の学僧は新しい近代文明の思想の波の中で浄土教という伝統宗教を護るために苦労したのであった。→『浄土三部経講義』
  2. 霊という語は元々個々の「精神」という形而上の意味で使われていたのだが、近年は心霊写真という言葉のようにオカルトチックな事象の意味の語とされているので誤解しないこと。
  3. 『教行証文類』のこと。大谷派での呼称で本願寺派では「御本典」と呼称する。門徒からみればアホみたいだが、そぞれぞれの言語カルマの上で呼ぶのでどうでもいい。
  4. 鳳潭僧濬(1659-1738)は、当代随一といわれた華厳宗の学僧。鳳潭は未だ読んで理解が出来なかった書はない。しかし、『教行証文類』を読んで全く理解できず、このような理解不能な書物を書くような者は酔人か狂人であると云ったという。鳳潭は悪舌であり他宗との論争を重ねたのだが、本願寺派の日渓法琳師はこの鳳潭との論争で名声を博したといわれる。法琳師の「対食の偈」は、この鳳潭の問いに応えて即興で誦した偈であるといわれる。なお、『出定後語』(1745)で大乗非仏説をとなえた富永仲基が唯一評価したのが鳳潭であったともいわれている。ともあれ、『教行証文類』は信なくして読んでも理解不能な書であった。
  5. 信仰告白という表現は、当時の西欧思想由来の造語の影響による表現であろうが現在では誤解を受けるかも知れない。以下信仰や自覚という表現が多出するが、ある意味では当時の宗教者に共通の概念であろう。
  6. 実験という語が随所にあるが、明治期の翻訳語での自然科学の上での実験という意ではなく実際の経験という意味で使用されている。己証という仏教語の言い換えであろう。