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ようであるというので、輪の字を須〈もち〉ゆ。<br />
 
ようであるというので、輪の字を須〈もち〉ゆ。<br />
 
 二。習気  薫習した気分。臭いものを取り去りても、尚その余臭の器物に残っているようなものをいう。煩悩の体尽きても、なほ習慣性の残っているを習気という。<br />
 
 二。習気  薫習した気分。臭いものを取り去りても、尚その余臭の器物に残っているようなものをいう。煩悩の体尽きても、なほ習慣性の残っているを習気という。<br />
 三。肇公  僧肇のこと。三論宗の僧。支那長安の貧家に生まれ、傭書を業とし、老荘の学を好む。後「維摩経」を読みて仏教に帰し、鳴摩羅什を師として、翻経を助く、「宝蔵論」「物不変論」「不真空論」「般若無知論」等の註釈を作り、頭悩の透徹せること、什門中第一と称せられた。姚秦の弘始十六年(西暦、四一四)寿三十一歳にして寂す。<br />
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 三。肇公  僧肇のこと。三論宗の僧。支那長安の貧家に生まれ、傭書を業とし、老荘の学を好む。後「維摩経」を読みて仏教に帰し、鳩摩羅什を師として、翻経を助く、「宝蔵論」「物不変論」「不真空論」「般若無知論」等の註釈を作り、頭悩の透徹せること、什門中第一と称せられた。姚秦の弘始十六年(西暦、四一四)寿三十一歳にして寂す。<br />
 
 四。至韻  至極の韻〈ひびき〉、妙なる精神的音律。<br />
 
 四。至韻  至極の韻〈ひびき〉、妙なる精神的音律。<br />
 
 五。玄籍  幽玄なる意義を有する典籍。<br />
 
 五。玄籍  幽玄なる意義を有する典籍。<br />

2018年7月28日 (土) 20:00時点における版

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教行信証講義

序講
総序
教巻
行巻
 正信念仏偈
序講 信別序
信巻 本
信巻 三心一心
信巻 重釈
証巻
真仏土巻
化身土巻 本
化身土巻 末

目次

(2-675)

第四編 真実証(証巻)

第一章 解題

第一節 題号

 顕浄土真実証文類四

【講義】浄土真宗の証果を顕わす文類。
【余義】前巻に於いて、浄土真宗の真実の信を明し終ったから、当巻に於いては、その信によりて獲る所の証果を顕わす。

    行┓
     ┣━因┓
    信┛  ┃
        ┃
    証━━果┛

 他力の行信の因によりて獲る所の証果は、真如一実の涅槃である。行信の功徳利益の種が、正しく円かに華実を結ぶ所である。浄土を論じた支那の高僧達は、浄土をもって単に不
(2-676)
退の位を獲る所とし、往生即成仏の極致とはせなかった。即ち諸師の多くは、経典の文面を固執して、その裏に流れている実義を知ることが出来なかったのである。然るに我聖人は当巻に於いて、他力回向の大信心が必然的に生む所の浄土の証果と、これに即した如来の大慈悲の至極を開顕〈あら〉わされた。
 真実証は、また方便化土の証果を選びすてた言葉である。即ち下の化身土にも対するのである。

第二節 選号

 愚禿釈親鸞集

 上二五頁をみよ、この六字、御真本にも御草本にもない、後人の手に依って付け加えられにものであろう。
(2-677)

第二章 標挙

【大意】この「証巻」一部に説き明かすべき証を標したまうのである。この十一字御草本、御清書本ともに表紙の裏に二行にしてかしかれてある。

必至滅度之願 難思議往生

【字解】一。必至滅度の願、下の余義(次頁)をみよ。
【文科】「証巻」一巻にとき明かす証を標挙する一段。
【講義】この巻に説き明かす証というのは、第十一願成就のもので、浄土真実の証である。阿弥陀如来が、どうしても吾等をして浄土の証果を開かせずばおかぬという誓いが即ちそれである。吾等が久遠劫来の流転の三界をいでて無碍円満の証りを開くのは、この誓願力によるのである。これ実に不可思議である。故に難思議往生と仰せらる。
【余義】一。行巻には第十七願、信巻には第十八願を標せられ、ここには第十一願を標せられた。行信証は一々みな本願の上にあるのである。即ち凡夫の起こす所でない、偏〈ひとえ〉に如来の回向であることを示し給う。
(2-678)
 願名に就いて、『略本』には三名を挙げられた。ここの二願名の外に、往生証果願を添う。その中、今は願文に親しいのと、元祖相承の名であることによりて、この必至滅度之願名を標せられた。
 凡そこの十一願には、二つの願事がある。即ち住定聚と必至滅度である。この二つの中、何れを願の中心にするか、即ち何れを願体とするかが一問題である。次の第十一願文の下の『六要』には、支那の義寂、法位、玄一の三師の説、日本の静照、真源二師の説をあげ、何れも住正定聚を願体としていることを述べ、さて是を通釈して云うには、正定聚は浄土の始益、滅度は浄土の終益であるとせられた。
 支那、日本の諸師の説は、往生即成仏とたてるのではなくして、往生して喜ぶ正定聚に住し、次に長い修行の後、始めて証りを開くというのである。即ち弥陀の浄土は、此の娑婆世界のように修行の障りがないから、先ずそこへ行きて、仏道修行を続けるというのが説の根本となっているのである。故にこの十一願も、我等に親しい願事は往生して正定聚に住することである。これが第一に入用なのである。滅度は終局の目的ではあるが、それは今の我等に取りては第二の問題である。そこで此の住正定聚を願体とし、名も令
(2-679)
住定聚.願住定聚、住定聚願、住必定聚之願と云われた。
 然るに我聖人は、往生即成仏の根底の上に据っていられるから、従って此の十一願の願体を必至減度とせられ、名も亦必至滅度之願、証大涅槃之願等と云われたのである。即ち我聖人にありては住正定聚は現益である。これは信の一念の所に獲るのであるから果というても真実の証果ではなく、寧ろ信心に具わる利益である。故に正しく往生の証果はこの必至滅度である。これ実に我聖人が諸師の説と異る所以である。存覚師が、浄土の証果に始益、終益を分けられたのは、所謂他宗対抗門の態度で、態〈わざ〉と一歩下って、融和説を試みられたまでに過ぎない。
 二。更にこの必至滅度は、明らかに浄土往生の証果を指すのであるが、聖人はまた是を現益と味おうてもいらせられる。『一多証文』五丁に
  このくらい(正定聚)にさだまりぬれば、必ず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆえに、等正覚をなるともとき云々
とあるはそれである。此は文字の上から云えば、「必至」を強く見たのである。蒔いた種は必ず生えると云うことは、種はまだ生えぬが、必ず生える種であるという意味である。吾等
(2-680)
はまだ仏とはならぬ、されど仏となるべき信心の因を獲ているから、必ず仏になる身である。無上涅槃に至るべき身であるというのである。ここが亦信仰の妙趣である。往生の確信と希望は、現在の感味である。これを全く離れては、往生とか済度とかと云うことは無意義である。この意味に於いて、結果は原因に含まれていると云わねばならぬ。是れ聖人が必至滅度を正定聚の内容として味わい給う所以である。覚如上人は之を受けて『本願鈔』三丁に
 一念歓喜のおもいおこるについて、往生たちどころにさだまるを、正定聚のくらいに住すともいい、かならず滅度にいたるともいい、摂取不捨の益にあずかるともいうなり。
と云われ、『御文』二の一通には
  又このくらいを、あるいは正定聚に住すとも、滅度にいたるとも、等正覚にいたるとも、弥勒にひとしとも申すなり。
とあるは、皆この謂われである。されど是をもって、直ちに一益法門を主帳するならば、早計と誤謬の甚しいことは云うまでもない。
 三。細註の難思議往生は、化巻の難思往生、双樹林下往生に対す。これは聖人が、善導
(2-681)
大師の『法事讃』四丁の文意を探りて、要、真、弘の三門に配せられたものである。『愚禿鈔』上五丁
  法事讃に三往生あり
   一には難思議往生は大経の宗なり
   二には双樹林下往生は観経の宗なり
   三には難思往生は弥陀経の宗なり
と仰せられ、自力他力の行信の因によりて、獲る所の証果を褒貶せられたのである。今試みに『三経往生文類』の文を引いて、三往生の分斉を明らかにするであろう。
  大経往生というは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力ともうすなり。
  これ即ち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚のくらいに住して、かならず真実報土にいたる。乃至、これを大経の宗教とす。このゆえに大経往生ともうす、また難思議往生ともうすなり。(中略)
  観経往生というは、修諸功徳の願により、至心発願のちかいによりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。乃至 これは他力の中に自力を宗教としたま
(2-682)
えり。このゆえに観経往生ともうすは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生ともうすなり。(中略)
  弥陀経往生というは、植諸徳本の誓願によりて、不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号をえらびて、万善諸行の少善をさしおく。しかりといえども、定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず、如来の尊号をおのれが善根として、みずから浄土に回向して、果遂のちかいをたのむ 乃至 しかれども如来の尊号を称念するゆえに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆえに難思往生ともうすなり。不可思議の誓願疑惑するつみによりて、難思議往生とはもうさずとしるべきなり。(下略)

上の引文によりて三往生の区別は明らかである。自力作善の往生は双樹林下往生、半自力半他力の往生は難思往生、絶対他力の往生はこの難思議往生である。
 されど三往生の拠〈よりどころ〉である所の『法事讃』を見るに、唯迷界の厭うべきこと、浄土の楽〈ねが〉うべきことをのべてこの三往生を讃詠せられたもので、上に掲げたような自力他力に配当したものではないのである。然るを我聖人は、例の如く文面に拘泥せず、直ちに善導大師の腸〈はらわた〉に入りて、この三往生の真意義を発揮せられたのである。
(2-683)
 四。なお当巻には還相回向をも説示しているが、それを滅度のように標示せないのはどういう訳であるかと云えば、もと還相回向は証果の活動である。証りというても、単なる寂静無為ではない。その証りに根ざした化他の大活動である。その方面が即ち還相回向である。『和讃』に
  願土にいたればすみやかに  無上涅槃を証してぞ
  すなわち大悲をおこすなり  これを回向となづけたり。
がそれである。従って証果を主として明かす時は、還相回向は全く証りの内容となる。故に今は必至滅度の中に含まれてあるのである。時に名目に掲げられないのは是が為である。
 『略本』は二回向を二大綱格とし、その住相回向の中に教行信証の四法を説かれたもので、二回向が主であるが、本典の組織は是と異り、四法を綱格とし、その中に二回向を摂めている。即ち還相回向は、証果の大用として当巻に出だされたことである。条理整然としている。
(2-684)

第三章 真実証

【大意】これより以下正しく浄土真実の証を説き示し給うのである。第一節に真実証の何たるかを総括〈ひっくる〉めて示し、第二節には証の義〈わけがら〉を釈し給う。それに四項あり、第一項は真実証の出拠、第二項は願名、第三項は現当の両益、第四項は浄土の主伴同証を示したまう。

第一節 総標

謹顕真実証者 則是利他円満之妙位 無上涅槃之極果也。

【読方】謹んで真実証をあらわさば、すなわちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。
【字解】一。利他円満之妙位  利他は他力のこと。他力回向の、万徳円満せる仏果をいう。仏果は無上不可思議の極位であるから、妙位という。
 二。涅槃  梵語ニルワーナ(Nirvana)泥洹、涅槃那と音訳し、滅度、円寂、寂滅、等と訳す。又無生、無為、無作等ともいう。迷妄を脱し、悪業の繋縛を離れ、真理を窮めて、寂滅無為の法身の証りを開くを云う。小乗の身を灰にし、意識を滅する、消極的の涅槃に対して、無上涅槃、又は大般涅槃とも云う。
【文科】他力回向の証を総標したまう一段。
(2-685)
【講義】教行信証の真実四法のうち、今謹んで、真実証を頂いてみるに、これは弥陀如来御回向の他力の欠け目のない証りの位である。又弥陀如来と同じ位の、この上ない大涅槃のさとりである。
【余義】一。「利他円満之妙位」等の二句は、『略本』には簡明に「証というは、即ち利他円満の妙果也」とせられてある。広略異るけれども、その意はともに真実証の内容を示されたものである。
 初句の利他は他力の異名である。弥陀如来より回向せられたることを明かす。円満は、よろずの功徳のみちみちて欠け目ないこと。次の「無上涅槃の極果」とは、証りそのものをいう。我等の真実信心によりて獲る所の真実証果は、弥陀回向の証りにして亦弥陀如来の証りそのものであるというのである。
 下の『真巻』五十丁左に『法事讃』の文たる「弥陀の妙果をば、号して無上涅槃という」を引かれた。いまこの二句に照らし合わせて見ると、我等の証果と弥陀の妙果が全く同一たることが知られてくる。この幽玄微妙なる味わいを、聖人は『末灯鈔』の「自然法爾事」に説いて言い顕わされた。初めに行者のはからいを離るることを述べられ、後に
(2-686)
ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとてはじめて弥陀仏ともうすとぞききならいてそうろう。弥陀仏は自然のようをしらせんりょうなり云々。
と仰せられた。即ち無上涅槃とは無上仏のことである。証身〈さとりのみ〉と証〈さとり〉とは全く一つである。故に弥陀如来の誓願は、御自身と同じ証りに入らしめ、証りの身となせしめんが為に外ならぬ。かくて弥陀の証りは我等の証り、釈尊は弥陀と等しき無上仏となるのである。これ実に不可思議の誓願力の然らしむる所である。従ってその味わいも計いを離れた時に自ずと味わわるる不可思議の信味である。唯教理として、言葉として記憶〈おぼ〉えることでない。亦徒〈いたずら〉に饒舌を逞〈たくま〉しても何の益にも立たぬ。 ここの消息を同文の終りに
  この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるになるべし。
(2-687)
これは仏智の不思議にてあるなり。
と云われてある。誠に他力自然の妙を徒に云為することは捕〈とら〉えることの出来ぬ不可思議の宗教的生命を、捕えんとするのである。もし捕える時には死んで仕舞うのである。
 荘子に一つの譬喩〈たとえ〉がある。南海の帝たる儵と、北海の帝たる忽とが相談して、中央の帝揮沌の徳に報ぜんが為に、彼が耳目等の七竅なきを見て、日々揮沌の身に一竅ずつ穿つと、七日にして七竅が成就上るとともに揮沌は直ちに死んだという。この喩はそのまま移してここに味わうことが出来ると思う。他力自然不可思議の旨趣は、徒なる義理や、単なる思索をもって目鼻をつければ、却って死んで仕舞うのである。吾等がこの証巻を味わうにつけても、大いに心を留めねばならぬ点である。

第二節 釈義

第一項 真実証の出拠
即是 出於必至滅度之願。

【読方】即ちこれ必至滅度の願よりいでたり。
(2-688)
【文科】真実証の拠〈よりどころ〉を示したまう一段。
【講義】而して凡夫がどうしてこういう無上のさとりを頂けるかというに、弥陀如来因位に於いて四十八願の中に特に第十一の必至滅度の願を御立てなされてあるからである。
【余義】一。『略本』には必至滅度と、証大涅槃の外に往相証果之願をあぐ。されどここには真実証の下に還相回向を明かされることがあるから.此の名前は却って思想上の混雑を惹起する恐れがある。それ故に態〈わざ〉と此処には往相証果願名を略されたらしい。どこまでも用意周密である。

第二項 十一願名
亦名証大涅槃之願也。

【読方】また証大涅槃の願となづくるなり。
【文科】第十一願の別名をあげたまう。
【講義】この第十一願は大涅繋を証らしむる願であるから亦証大涅槃の願とも名づけるのである。
(2-689)

第三項 現当両益
謹顕真実証者 則是利他円満之妙位 無上涅槃之極果也。
即是 出於必至滅度之願。
亦名証大涅槃之願也。
然煩悩成就凡夫 生死罪濁群萌 獲往相回向心行 即時入大乗正定聚之数。
住正定聚故 必至滅度。
必至滅度 即是 常楽。
常楽 即是 畢竟寂滅。
寂滅 即是 無上涅槃。
無上涅槃 即是 無為法身。
無為法身 即是 実相。
実相 即是 法性。
法性 即是 真如。
真如 即是 一如。

【読方】しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行をうれば、即ちの時に、大乗正定聚の数にいるなり。正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。かならず滅度にいたるは、すなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。無上涅槃は、すなわちこれ無為法身なり。無為法身は、すなわちこれ実相なり。実相はすなわちこれ法性なり、法性はすなわちこれ真如なり。真如はすなわちこれ一如なり。
【字解】一。群萌  衆生のこと。
 二。往相回向心行浄土往生の因たる如来回向の三信(心)十念(行)。即ち信心のこと。
 三。大乗正定之聚  小乗の正定聚に対して大乗という。即ち必ず円融無碍の大乗の証りを開くにきまる位。下六九一頁の余義参照。
(2-690)
 四。滅度  浄土の証り。涅槃の訳。上(六八四頁)をみよ。
 五。常楽  常住に移り変りなく、楽しみずくめということ。
 六。畢竟寂滅  終局の証りということ。生もなく滅もなく、絶対平等の静寂境をいう。涅槃の訳語。
 七。無上涅槃  このうえない証り。
 八。無為法身  色もなく、形もなき、常住にして一切に遍き法身仏のこと。迷いの流転生滅する有為法に対して、不生不滅の本来常住法なることを示して無為の二字を冠す。
 九。実相  ありのままの相〈すがた〉。これに二面ありて、相対的方面から云えば、万有みな異なるが、絶対的方面は、万有みな平等である。そして此の相対そのままが絶対、絶対そのままが相対である。故に一塵といえども真如実相にして、虚妄ではないというのである。今は此の実相の智見の開覚は浄土の証りによりて獲らるるという意味である。
 一〇。法性  一切万有の体性。真如のこと。
 二〇。一如  一は唯一絶対。如は平等無差別。絶対平等の真如法性をいう。
【文科】他力信心の果たる現当両益を示したまう一段である。
【講義】それで、あらゆる煩悩をかかえた凡夫、生死の海に沈みきりの罪に汚れた衆生が、浄土へ参らして下さるる働きのある大信と大行を頂けば、その時直ぐ様、浄土へ生る
(2-691)
るに間違ない位にして下されるのである。この正定聚の位に定まるから、命終れば、必ず大涅槃のさとりをひらき、大涅槃のさとりをひらくから、常楽我浄の四徳を具うるようになる。この常楽我浄の四徳を具うるものは、その後のない、おんづまりの寂滅である。寂滅は、この上ない涅槃である。無上涅槃は、為作造作を離れた真如法身である。この無為法身は実相であり、実相は法性であり、法性は真如であり、真如は絶対唯一の無差別平等の法である。
【余義】「此の下正しく証果の大益を挙ぐ。即ち現益としては正定聚、当益としては滅度である。この二益は共に十一願に誓う所である。そして此の中滅度が願体であることは、上六七九頁に詳述した所である。既に滅度が願の眼目であるとするならば、いまや正定聚の何たるかを講究せねばならぬ。
 第一にこの正定聚については『行巻』私釈他力の下に龍樹、曇鸞二祖を引いて、「即時入必定」「入正定聚之数」を挙げ、『信巻』現生十種益には、入正定聚益をあげて、信の一念に正定聚の位に定まることを示してある。是等に依りて見れば、正定聚は第十一願の願事たるのみならず、第十八願にも属するものと云わねばならぬ。この関係はいかに。
(2-692)
 この疑難に対しては、勢い第十八願と第十一願の関係を見ねばならぬ。既に『三経往生文類』初丁に「念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり」と云う如く、第十八願の信心の因によりて、第十一願の証果を獲るのであるが、この中正定聚は、二願に通じているのである。第十八願にありては、正定聚は現生の利益として其の役目を演じている成就文の「即得往生住不退転」が即ち是れである。是は信の一念の同時にうる所の利益であって決して離れることは出来ぬ。云わば信一念の位である。されど且く因果相望して其の所属を論ずれば、正定聚は矢帳り第十一願に属せねばならぬ。信は因であり、この因によりて正定、滅度の果を獲るのである。この証果を誓うが第十一願である。『正信偈』の「等覚を成じ、大涅槃を証するは、必至滅度願成就したまえばなり」が是である。其の他『三経往生文類』四十『願々鈔』初丁『最要鈔』三丁等みな之と同じ。
 かように正定聚は明らかに第十一願の願事ではあるが、現益であるから正しく信因の証果とは云うことは出来ない。唯信の一念に摂取不捨の光益に預り、横に四流を断ちて、当来には必ず大涅槃を証るべき位に定ったという丈である。門戸を開くべき鑰〈かぎ〉は握られたけれども、未だその門戸は開かれてはないのである。正しく浄土の門戸が開かれてその中に
(2-693)
悟入した所が第十一願の眼目である。之を『論註』の果の五功徳門に配すれば、正定発は近門、大会衆門に当るのである。

挿図 yakk2-693a.gif
     ┏果位━━━┯第十一願
  正定聚┫  ┌──┘
     ┗願事┷━━━第十八願

 二。かように正定と滅度は此の世と浄土の二益であることは、諸聖教に明示する所である。『執持鈔』初丁に
  真実信心の行人は摂取不捨のゆえに正定聚に住す。正定聚に住するが故に必ず滅度にいたる。
 又『御文章』(『御文』)二ノ四通には、
  問うていわく、正定と滅度とは、一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。
  答えていわく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅渡は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもうべきものなり。
 又『御一代聞書』十丁に、
(2-694)
正定聚のかたは.御たすけありたるとよろこぶこころ、滅度のさとりのかたは、御たすけあろうずることのありがたさよともうすこころなり。いずれも仏になることをよろこぶこころよと仰せそうろうなり。
 かように正定聚と滅度とはこの世と浄土の二益であることは明らかである。そして是が又他力宗教の妙味のある所である。信の一念に迷妄の業因を断ちて不退位に入り、必ず滅度に至る身となるけれども、吾等の終局の理想たる大涅槃、如来の大悲の至極たる法性の証りは、之を当来に俟〈ま〉たねばならぬ。ここに無限の希望が湧くのである。真実の目的地は正しく之に向けられたる第一歩に依りて定まる。即ち真実の希望は、真実の信に根ざしているのである。証巻の正しく明かす所は、その信心の証果たる大般涅槃である。
 三。滅度の異名は、そのまま滅度の内容を表現しているのである。『略本』には此の八名の外に利他教化地果と畢竟平等身の二名を添う、『一多証文』二十丁には
  一実真如ともうすは無上涅槃なり。無上涅槃すなわち法性なり。法性すなわち如来なり。
とあり。『唯信文意』十七丁にも此の滅度の異名をあぐ。今試みに此の八名を先輩の指導によりて図示すれば、
(2-695)

挿図 yakk2-695a.gif
 体 総        滅度
   別 修徳 善導  常楽    所証境
            畢竟寂滅
        曇鸞  無上涅槃
            無為法身  能証身
     性徳 善導  実相    所顕理
            法性
            真如
        曇鸞  一加
 用          従如来生

 此の中、修徳とは修行によりて得たる後天的の功徳、性徳は本来固有の先天的の徳である。所証、能証、所顕と分かてど、此の三が全く絶対の一に円融して無碍なることは云うまでもない。そして是等は一括して体であるとすれば、次の「従如来生」は如来の活動であるから用である。
(2-696)

第四項 主伴同証
然者 弥陀如来 従如来生 示現 報・応・化 種種身也。

【読方】しかれば弥陀如来は如より来生して、報応化種々の身を示現したまうなり。
【字解】一。報応化種々身 下六九八頁をみよ。
【文科】浄土の弥陀如来と往生人と同証なることを示したまう。
【講義】阿弥陀如来は一如の法性法身からあらわれて、因行に酬いては報身を現じ、衆生の機類に随うては、応身化身種種のすがたを示し給うのである。
【余義】一。「然れば弥陀如来は、如より来生して」等の文は解し難い文である。従って先輩の説も区々に分れておる。
 文勢から云えば、上に往生人の証する涅槃を広説したのであるから、此は其の涅槃の果徳から還相の化他に出づる有様を示さるる筈であるのに、突如として、弥陀如来の顕現を説かれた。ここが解し悪〈にく〉い点である。
 されどこの解し難い点が亦信仰上非常に味わいの深い所である。即ち上には吾等の証るべ
(2-697)
き絶対の証果を説いて、是が一如法界である、法性真如であると、無辺無限の涅槃界を示し、直ちに是を承けて、その真如法性から吾等の救済主たる弥陀如来が顕現せられたことを明かされたのである。即ち吾等に対しては往生の一念にいろもかたちもなき一如法界の真身に悟入して、弥陀同体の証りを開くことを示し、弥陀如来に関しては、その一如法界から罪濁の吾等を救い給う報身仏と顕われたということを顕示したのである。素よりここの一段も文章が極めて簡浄であるから、味わい方によりては、還相回向を明かすとも、吾等をして法性の理を悟らしめんとする如来の御心を示すとも、いろいろに考えられることであるが、大体に於いて此所は真実証を顕わす主文であるから、どこまでも此の立場を離れてはならぬと思う、この意味に於いて『樹心録』の主伴の所証平等を明かす文と解することが尤も妥当の説であると思う。この見解に立ちて類文を見れば、一層明らかとなる。
 『一多証文』二十丁に
 一実真如ともうすは、無上涅槃なり 乃至 この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして阿弥陀仏となりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり。乃至
(2-698)
この如来を方便法身とはもうすなり。方便ともうすは、かたちをあらわし、御名をしめして、衆生にしらしめたまうをもうすなり。(『唯信文意』十七丁以下参照)
 阿弥陀仏の真身を説くは次の『真巻』であるが、ここは唯一如法界より顕現し給う方面を示すの意である。
 『和讃』に
  無明の大夜をあわれみて  法身の光輪きわもなく
  無碍光仏としめしてぞ   安養界に影現する。
とあるは是である。この法身とは方便法身である。同一阿弥陀如来を、因願に醐報せられた方面から報身仏と名づけ、法性より顕現せられた方面から方便法身と名づけ奉るのである。云わば一枚の紙の裏表のようなもので離すことは出来ぬ。今は主伴同証を示す所であるから、法性顕現の方面を説いて「従如来生」云々と云われたのである。上の『一多証文』の文は能く之を明らかにしてある。
 二。「従如」の如は『論註』二法身の中、法性法身、「報」とは方便法身である。即ち光寿無量の阿弥陀仏である。「応化種々身」とは『唯信文意』十八丁に
(2-699)
  この報身より応化等の無量無数の身をあらわして、微塵世界に無碍の智慧をはなたしめたまうゆえに、尽十方無碍光仏ともうす。
にて明らかである。衆生済度の為に機縁に応じて限りなく現わしたまう身を応化身という。『正信偈』の「生死の園に入りて応化を示す」というは是れである。

第三節 経文証

【大意】上にて釈義を了〈おわ〉ったから、これより下は例の如く経文を引いて上の義を証したまう。第一項は本願文、第二項は成就の文である。各項に『大経』と『如来会』を引きたまう。

第一項 本願文
第一科 『大無量寿経』の文

必至滅度願文 大経言
設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚。{已上}

【読方】必至滅度の願文、大経にのたまわく、設いわれ仏をえたらんに、国の中の人天、定聚に住し、かならず滅度にいたらずば正覚をとらじ。已上
(2-700)
【文科】『大経』第十一願文を引いて真実証を証明したまう一段。
【講義】必至滅度の願、即ち『大無量寿経』の第十一願に言わく、若し我仏となるであろう時に、国の中の人天、現生に正定聚の位に入り、命終わり次第必ず大涅槃の仏果を得ぬようなことがあらば、正覚は取らない。
【余義】一。願文中、住定聚を現益とせられしにつき、文章の意義を通ずるには、次上の「国中人天」を娑婆世界の人とせねばならぬ。そうでなければ文面の上には、住定聚も当益とせねばならぬこととなる。これが為に随分詭弁を弄して、強いて「国中」を娑婆国土であると断定した人もあるが、それはどうしても無理である。
 然るに存覚師は次上の『六要』に、経文の顕正(文の表面)から云えば、正定聚は往生後の益、隠傍に依れば、現生の益であると云われ、又西派の道隠師は『略讃』に日珠師は『対問記』に、各これを承けて、密益から云えば現生不退、顕益から云えば彼土不退であって、滅度と一体である。畢竟一涅槃中の示現の相違であって、体は一つであるというておられる。
 然るに東派の皆往院師は、之に反し、飽くまでも正定聚は現益である、と主帳せられた。即ち蓮師が「御一代聞書」八十一丁に「不退の密益」と仰せられたのは、往生の定った約
(2-701)
束を指すので、浄土の顕益に対して云われたのではない。正定滅度一体説は、畢竟一益法門に陥ったものであるという。
 以上の二説は大きな相違があるのでない。道隠師の説も敢て正定聚の当益を主張せられたのではなく、現生の密益とは、云わば可能性若くば潜勢力の意味で、之が浄土に顕勢力となって開発する所が正定聚滅度の一体である。又他方面から云えば、この潜勢力たる正定聚は、やがて開発すべき滅度を孕んでおるから一体とも云えると云うたまでに過ぎないのである。殊に『六要』の「正定聚に隠顕傍正あり」についての見解なども極めて巧妙である。即ちこの正定聚は、第十八願にありては、信の一念に正定聚の位に入るのであるから密益(現)の正定聚は正、顕益(当)の正定聚は傍。次に第十一願にありては、滅度が主であるから、密益の正定聚は傍、顕益の正定聚は正という。

挿図 yakk2-701.gif

       第十八願 密益(現生) 正
  正定聚       顕益(当来)
       第十一願 密益(現生) 傍
            顕益(当来)

(2-702)
願文を解釈する点から云えば、一種の見解と云わねばならぬ。
 二。されど我聖人は、強ちに文面の通解を主せられなかった。唯平生業成の信仰上の見地からこの願文の住定聚を信の一念同時の現益と味わわれたのである。さてこの見地に立ちて諸経論を読まれた。そして殊に明白に現生正定聚を見られたのは、龍樹の『易行品』の文「即時入必定」等の文である。かくて天馬の空を駆くるが如く、現生正定聚を唱えられたのである。存覚師の『六要』の釈は、他宗対抗の釈が多いから、常に一段下りていることに留意せねばならぬ。唯祖意を失わずに他宗を誘引せられた努力を謝するばかりである。

第二科 『無量寿如来会』の文

無量寿如来会言
若我成仏 国中有情 若不決定 成等正覚 証大涅槃者 不取菩提。{已上}

【読方】無量寿如来会にのたまわく、もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚をなり、大涅槃を証せずば、菩提をとらじ。已上
【文科】異訳の文を引いて上出の正依の経文を助顕したまう。
(2-703)
【講義】『無量寿如来会』に言わく。もし我、成仏した時に、国の中の生あるものが、必ず等正覚不退の位に入り、大涅槃の仏果を開き得ないようなことがあれば、菩提を取らない。
【余義】「ここに云う等正覚は一生補処である。即ち正定聚である。『末灯鈔』十丁
  信心をえたる人は、かならず正定聚のくらいに住するがゆえに等正覚の位と申すなり。大無量寿経には摂取不捨の利益にさだまるものを、正定聚となづけ、無量寿如来会には、等正覚とときたまえり。云々
 かように我聖人が、信心を獲たる位を正定聚といい、一生補処といい、又は初歓喜地、等正覚といわるるは、何れも是等の言葉に寄顕して、再び流転することなき信心の位を示されたもので、常並〈つねなみ〉の意義をもって解すべきものではない。
 因〈ちなみ〉に等正覚等について新旧両訳の差を示せば

    ┏等覚━━━補処
  旧訳┫
    ┗等正覚━━仏果

(2-704)

    ┏等正覚━━━補処
  新訳┫
    ┗大涅槃━━━仏果

 今は新訳によりて、等正覚を一生補処とし、弥勒の位とし、そして之を信心を獲たる位であるとせられたのである。

第二項 成就文
第一科 『大無量寿経』の文

願成就文経言
其有衆生 生彼国者 皆悉住於正定之聚。所以者何 彼仏国中 無諸邪聚 及不定聚。

【読方】願成就の文、経にのたまわく、それ衆生ありてかの国に生ずるものは、みなことごとく正定の聚に住す、ゆえはいかん、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。
【字解】一。正定聚  正しく仏となるべき身に定められたる機類。第十八願の他力念仏の機。真報土に往生す。(七〇七頁を看よ)
 二。邪聚  邪定聚。如来の本願でない自力の諸善を以て、浄土へ生れんとする機類。第十九願
(2-705)
の要門の機、正定に対して邪定という。往生の土は化土。(同 上)
 三。不定聚  正定聚と邪定聚の中間にありて、自力念仏を励みて、浄土に生まれんとする機類。半自力、半他力である。故に不定聚という。第二十願真門念仏の機。(同上)
【文科】『大経』第十一願成就文を引いて真実証をしめしたまう一段。
【講義】『大無量寿経』の第十一願成就の文に言わく、もし衆生あって、彼の安楽国に生れようとするものは、皆悉く正定聚の位に入ったものでなければならぬ。何故かなれば、彼の安楽浄土には、諸の邪定聚や不定聚のものは生まるることが出来ぬからである。
【余義】一。此の引文は第十一願の中、現生正定聚の成就の文として引用せられた。『一多証文』五丁
  それ衆生ありて、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。
と訓まれてあるによりて知らる。かくの如くこの文は正定聚の成就であって、滅度が略されてあるから、次の文を引いて滅度の成就を明かす。故にこの二文合して十一願成就の文となるのである。
(2-706)
 二。さて聖人が此文を現生正定聚とせられたに就いては、元より信仰上の実験より味わわれたることは無論であるが、亦有力な根拠があるのである。それは下に引用せられた『如来会』の文である。かしこには「当に浄土に生まれんとする者」の中、邪定聚、不定聚の人々は、彼の往生の因たる名号の謂われを了知することが出来ない。即ち正定聚の人のみが往生成仏すると云うことを示して居る。あの文を以て此の文を読めば、「生彼国者」は「若当生者」に当ること明らかである。即ち「彼の国にうまれんとするものは皆悉く正定聚に住すと」訓〈よ〉まれたのである。従って「所以者何」等の文は、浄土には邪定聚、不定聚の人は生まれることはないという意味となる。『和讃』に
  安楽国をねがうひと  正定聚にこそ住すなれ
  邪定不定聚くにになし 諸仏讃嘆したまえり。
とあるは此の意である。かくて異訳助顕の功果は鮮やかである。
 然るに一説には、正定滅度一体の立場から此の文を当益にとり、正定聚の中に滅度を含んでいるというは、文字に拘泥して祖意を失うた説と云わねばならぬ。此の文に滅度をあげてないから、次の二文に滅度の成就をあげてある。文証歴然として諍うの余地はないの
(2-707)
である。
 二。因に三定聚に就いて略述すれば、此の下の『六要』に広く常並の意味に於ける三定聚を挙ぐ。
 一『倶舎論』巻十、十八丁の説
   四果の聖者・・・・・正定聚
   五逆の罪人・・・・・邪定聚
   其の他の凡夫・・・・不定聚
 二『釈摩訶衍論」第一に三説をあぐ。
  第一説
   十信位以下の凡夫・・・・邪定聚(業報を信ぜざる故に)
   三賢十聖・・・・・・・・正定聚(不退位なる故に)
   十信・・・・・・・・・・不定聚(進退未決の故に)
  第二説
   十信以下並びに十信・・・邪定聚(皆無根の故に)
(2-708)
   大覚果・・・・・・・・正定聚(已に満足の故に)
   三賢十聖・・・・・・・不定聚(皆未究竟の故に)
  第三説
   十信以下・・・・・・・邪定聚(楽求心なき故に)
   十聖・・・・・・・・・正定聚(已に真証を得る故に)
   十信、三賢・・・・・・不定聚(未だ正証を得ざる故に)

 斯の如く三定聚は「倶舎論」等にいで、自力修道者の修行の階級に名づけたものである。
即ち悪道に退堕せざる位に正定聚、必ず退堕する位が邪定聚、その中間にありて進退定まらざる位が不定聚である。
 然るに聖人は大体に是等の意味を含めながら、此の三定聚を特殊の意義に須いられた。

  正定聚・・・本願名号を信受したる人。第十八願の機類。(上五六頁参照)
  不定聚・・・名号の謂われを聞信せず、称うる名号を己が善根として浄土に回向する人(『化巻』第九、所引『如来会』文参照)半自力半他力。第二十願 真門の機類。
(2-709)
  邪定聚・・・自らの善根功徳を回向して、他力の信を生ずることが出来ない人(『化巻』第八、所引『如来会』の文参照、)第十九願、要門の機類。

 即ち三定聚は、全く現世に於ける本願所被の機類となった。かくて支那の浄土経の註釈家が、経文に拘泥〈かかわ〉りて正定聚を浄土の土徳としての不退とせるに反して、信の一念に獲る所の現生不退となし、そして第十九、二十の邪定、不定聚の機も、遂にはこの第十八願の正定聚に転入することを示された。(『化巻』第九、三十四丁左以下参照。)

又言
彼仏国土 清浄安穏 微妙快楽。次於無為 泥洹之道。其諸声聞・菩薩・天・人 智慧高明 神通洞達。咸同一類 形無異状。
但因順余方故 有人・天之名。顔貌端政 超世希有。容色微妙 非天非人。皆受自然 虚無之身 無極之体。

【読方】又のたまわく、かの仏国土は清浄安穏にして、微妙快楽なり。無為泥洹の道にちかし。そのもろもろの声聞、菩薩、天、人、智慧高明にして神通あきらかに達せり。ことごとくおなじく一類にして、形に異る状なし。ただし余方に因順するがゆえに人天の名あり。顔貌端正にして世にこえて希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず、みな自然虚無の身、無極の体をうけたるなり。
(2-710)
【字解】一。無為泥洹  無為涅槃のこと。無為は本来法爾の真如。故に無為泥洹とは、真如法性の証りをいう、「涅槃」は上六八四頁を看よ。
 二。自然虚無之身  自然は、凡夫の智慮を絶した、無為常住のこと。虚無は、色も形もなきこと。即ち法性法身を指す。
 三。無極之体  一切に遍満せる法身仏の体のこと。
【文科】引つづいて第十一願成就の文を引用したまう一段。
【講義】彼の安楽浄土は、清らかにして安らかに、微妙〈いみじ〉くして快楽に満ちて居る。固より弥陀如来の因願に酬い現われた御浄土であるから、空寂無相のものではなく、相形のある御浄土ではあるが、而もその常住不変の有様は、無為涅槃の道理に離れぬ寂静なものである。その浄土の声聞、菩薩、天人の智慧は高く明らかで、神通は自由自在である。そして姿形はみな同じで、大小美醜の差別はない。ただ他の世界になろうて、天人とか人間とかいう名称だけを用いて居る。顔貌〈かおかたち〉の正しいこと、この世に比べるものもなく、容色の妙なるさまは、天界にも人界にも見出すことは出来ぬ、みな無為涅槃の理〈ことわり〉にかなった自然虚無の身、無極の体を受けて居る。
【余義】一。本文は第十一願の眼目たる滅度を説いた文として引用せらる。初めより「泥
(2-711)
洹之道」までは依報荘厳の殊勝なることを明かす。「次〈ちか〉し」は親近の意にて「相離れぬ」こと。即ち浄土の宮殿。園林等の客観世界が、無為法性の妙理と離れぬということである。
 『和讃』に
   宝林宝樹微妙音   自然清和の伎楽にて
   哀娩雅亮すぐれたり 清浄楽を帰命せよ。
   七宝樹林くににみつ 光耀たがいにかがやけり
   華菓枝葉またおなじ 本願功徳聚を帰命せよ。
等、依報の微妙安穏なることを、心ゆくばかりに讃詠せられたのは、これ法牲に即した浄土の依報荘厳を嘆美せられたのである。
 「其諸声聞」等以下は正報荘厳を説く、浄土の無量の眷族は、智慧明らかにして神通自在である。『和讃』に
   安楽声聞菩薩衆   人天智慧ほがらかに
   身相荘厳みなおなじ 他力に順じて名をつらぬ。
   顔容端正たぐいなし 精微妙躯非人天
(2-712)
  虚無之身無極体    平等力を帰命せよ。
等是である。無限広遠の土、超勝無二の眷族、あらゆる美と善と、功徳と神秘の円融せる畢竟の大涅槃界である。如来の至極の慈悲の発現せる所、吾等が百川の海に注ぐように遂に至りつく大理想世界である。そして此の理想世界は現実にその悌〈おもかげ〉を宿し、現実の世界は、神秘の波をうたせて、かの楽土と共鳴する。良〈まこと〉に芸術と哲学と宗教と道徳の融会せる大楽土である。

第二科 『無量寿如来会』の文

又言
彼国衆生 若当生者 皆悉究竟無上菩提 到涅槃処。何以故。若邪定聚 及不定聚 不能了知 建立彼因故。{已上抄要}

【読方】またのたまわく、かの国の衆生、もし当に生まれんもの、みなことごとく無上菩提を究竟し、涅槃のところにいたらしめん、何をもっての故に、もし邪定聚および不定聚は、かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえなり。 已上要を抄す
【文科】異訳の文を引いて上出の正依の経文を助顕したまう。
(2-713)
【講義】『無量寿如来会』に言わく。彼の浄土の衆生も、娑婆の正定聚に住して居る衆生も、皆必ず、この上ない菩提を得、大涅槃の極果にいたるのである。何故かなれば、娑婆に於ける邪定聚のものや、不定聚のものは、彼の無上菩提の因たる大信大行を建立する訳合〈わけあ〉いを知らないから彼の国へ生れることが出来ないのである。
【余義】この文をよみて、更に上七〇六頁にいづる此の文の意味に関する説をよんでいただきたい。

第四節 釈文証

【大意】上に経文を引きおわったから、これより下は釈文を引用したまう。第一項は曇鸞大師の五文。第二項は道綽禅師の一文。第三項は善導大師の二文である。

第一項 曇鸞大師の釈文
第一科 妙声功徳の文

浄土論曰
荘厳妙声功徳成就者 偈言 梵声悟深遠 微妙聞十方 故。
此云何不思議。経言 若人 但聞 彼国土清浄安楽 剋念願生 亦得往生 即入正定聚。此是国土名字 為仏事。安可思議。

【読方】浄土論にいわく、荘厳妙声功徳成就というは、偈に梵声悟深遠、微妙聞十方といえるがゆえに、これいかんぞ不思議なるや。経にのたまわく、もし人ただかの国土の清浄安楽なるをききて、尅念して生ぜんと願ぜんものと、また往生をうるものは、すなわち正定聚にいる。これはこれ国土の名字仏事をなす、いずくんぞ思議すべきや。
【字解】一。『浄土論』 天親菩薩造。五言九十六句をもって極楽を讃詠し、長行をとって其の意義を論ず。北魏永安二年、菩提留支の訳。
 二。偈  偈文。梵語ガートハ(Gatha)頌と訳す。詩句をもって仏徳を讃嘆し、又は教理を述べたるもの。
 三。梵声  梵は清浄の義。清浄なる声のこと。即ち如来の御声をさす。
 四 剋念  刻念のこと。信心の相〈すがた〉である。心を専注すること。
【文科】『論註』五文の中、初めに妙声功徳の文である。
【講義】『浄土論』に曰わく。荘厳妙声功徳成就というは、偈文には、極楽浄土の清らかなる御名に深遠なる意味合いがあって、微妙〈いみ〉じくも十方に聞え、きくものをして信心を得せしめ給うというてある。このことは何故に不思議といわれたのであるか。
(2-715)
 経には、このことを、若し衆生あって、五念門の行をつとむることは難かしくとも但、彼の安楽浄土の清らかにして安楽なるをきき、信心をいただいて生まれたいと願うものと、又既に彼の国へ往生して居るものとは、共に正定聚不退の位に入るというてある。これに依って見れば、安楽浄土の御名が、衆生を利益済度し、正定聚に入れしめ給うのである。されば、まことに思い議〈はか〉ることの出来ぬことではないか。
【余義】一。是より以下『論註』によりて五文を引く。『論註』の文なれど「浄土論曰」と仰せらるるは、『論註』は『浄土論』の真意を得てあるから註を本論と同じに見給う我聖人の常の格式である。五文の中初文は正定聚を明かし、後の四文は滅度を示す、即ち十一願の願事に応ずるのである。
 「経言」の「経」に就いて諸説区々であるが、要するに此の文通りの経文は見当らぬ。恐くば第十八願成就の文と『平等覚経』等の文意を合糅〈いっしょ〉にしたものであろう。『平等覚経』の文は
 十七、我、作仏せん時、我名をして、八方上下無数の仏国に聞かしめ、諸仏各弟子衆の中に 我功徳国土の善を歎ぜん。諸天人民蠕動の類、我名字を聞きて、皆悉く踊躍して我国に来生せん。爾らずんば我作仏せじ。
(2-716)
である。「尅念願生」等の文は『一多証文』七丁に釈あり。
  この文のこころは、もしひと、ひとえにかのくにの清浄安楽なるをききて、尅念してうまれんとねがうひとと、またすでに往生をえたるひともすなわち正定聚といるなり。
 この釈によりて見れば、往生せんとする人と、往生した人が正定聚に住すという意である。常の解釈から云えば「尅念して生ぜんと願ずれば、亦往生を得て、即ち正定聚に入る」と当益丈を明かしたことになるのであるが。聖人は上のように訓点を施して、現当の正定聚とせられた。この当益の正定聚は軽い意味で、尅念願生の一念に正定聚に住することが今の主要であることは云う迄もない。「尅念」は上の『一多証文』には「えてという」と左訓してある。即ち信心獲得の相をいう。尅は克である。「己に克つ」の竟で、我妄心に克ちて、一心に弥陀をたのむことである。
 「国土名字」等は、上の『一多証文』に「くにの名字をきくに、さだめて仏事をなす」とありて、聞信の一念に、無辺の聖徳自ずと身に備わりて、化他の活動をなすことが不可思議であるというのである。
(2-717)

第二科 主功徳の文

荘厳主功徳成就者 偈言正覚阿弥陀 法王善住持 故。
此云何 不思議。正覚阿弥陀 不可思議。彼安楽浄土 為正覚阿弥陀善力住持。云何 可得思議邪。住名不異不滅 持名不散不失。如以不朽薬 塗種子 在水不蘭 在火不燋。得因縁 即生。何以故 不朽薬力故。若人一 生安楽浄土 後時意 願生三界教化衆生 捨浄土命 随願得生 雖生三界雑生火中 無上菩提種子 畢竟不朽。何以故 以経 正覚阿弥陀善住持故。

【読方】荘厳主功徳成就というは、偈に正覚阿弥陀法王善住持といえるがゆえに。これいかんぞ不思議なるや、正覚の阿弥陀不可思議にまします。かの安楽浄土は、正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することをうべきや。住は不異不滅になづく、持は不散不失になづく、不朽薬をもって種子にぬりて、水におくに爛れず、火におくに燋〈こが〉れず、因縁をえてすなわち生ずるがごとし。何をもっての故に、不朽楽の力なるがゆえなり。もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意〈こころ〉に三界にうまれて衆生を教化せんと願じ
(2-718)
て、浄土の命をすてて、願にしたがいて生をえて、三界雑生の火の中にうまるといえども、無上菩提の種子、畢竟してくちず。何を以てのゆえに、正覚阿弥陀の善住持を径るをもってのゆえに。
【文科】第二主功徳の文を引いて、如来の住持力をのべたまう一段である。
【講義】荘厳主功徳成就というは、偈文には、正覚果上の阿弥陀如来に善く住持せられて居るというてある。これが何故に不思議といわれるのかというに、御さとりを開き給うた阿弥陀如来はまことに思い及ぶことも議〈はか〉ることも出来ぬ方でましまして、あの安楽浄土は、この阿弥陀如来の御力に依って住持せられて居るのであるから、どうして思い議ることが出来ようぞ。住持の住は異〈かわ〉らない、滅びないこと、持はしっかと持〈も〉ちて散失せしめないことである。丁度不朽薬を木の実に塗って置けば水の中に入れても朽らず、火の中へ入れても焼けず、春になって、雨露水上の因縁があれば、芽を吹き出して来るように、もし衆生あって、一度、御浄土へ生まれた後に、自分の願いで、再び迷の三界へ顕われて縁ある衆生を済度したいと思う時には、その願いの通り浄土を離れて三界に生まれることは出来るが、いかに迷いの三界四生の水火の中に生まれても、一度いただいたこの上ない菩提の種子は、その水火に朽ちず焼けず、時あって菩提の花を開くのである。何故かといえば、正覚果上の
(2-719)
阿弥陀如来の御力にしっかと住持せられているからである。
【余義】一。吾等の浄土の証果は、阿弥陀仏の善く住持し給う所であるという此の文によりて見れば、上の正定聚も、自ずと仏力住持たることが暗示せらる。本文は心ゆくばかり、弥陀如来の威神他力を表現〈あら〉わしている。

第三科 眷属功徳の文

荘厳眷属功徳成就者 偈言如来浄華衆 正覚華化生故。此云何不思議。凡是雑生世界 若胎 若卵 若湿 若化 眷属若干苦楽万品。以雑業故。
彼安楽国土 莫非是阿弥陀如来 正覚浄華之所化生。同一念仏無別道故。
遠通夫四海之内 皆為兄弟也。眷属無量。焉可思議。

 【読方】荘厳眷属功徳成就というは、偈に如来浄華衆、正覚華化生といえるがゆえに。これいかんぞ不思議なるや。おおよそこの雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。堅牢をもってのゆえに。かの安楽国土はこれ阿弥陀如来、正覚浄華の化生する所に
(2-720)
あらざることなし。同一に念仏して別のみちなきがゆえに。とおく通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。眷属無量なり。いずくんぞ思議すべきや。
【字解】一。万品  千差万別のこと。
【文科】眷属功徳の文によりて宗教的同胞の意義を示したまう一段である。
【講義】荘厳眷属功徳成就というは、偈文には、かの御浄土の人々は、皆阿弥陀如来の正覚の華の中より化生し給うので、それで如来の浄華衆と呼ばれるというてある。これは何故に不思議といわれるかというに、この辺の三界には生まれ方にもいろいろあって、胎生あり、卵生あり、湿生あり、化生あり、それぞれ沢山の仲間があって、苦悩〈くるしみ〉、快楽〈たのしみ〉いろいろ品品ある。雑多の業因があるから、この雑多の果生を受けるのである。とこが彼の安楽浄土に於いては、阿弥陀如来の正覚の華から化生せないものはないのである。もともと、すべて同じく弥陀の御名を称えて生まれさせて貰うので、外の道で往生するのでないから、因も平等なれば、果も亦平等なのである。十方法界、一様に弥陀の浄土へ往生するものは、仮令どんなに遠く離れて居っても、念仏の行者なれば皆兄弟である。この兄弟眷属は数限りもなく多いので、これらのことはどうして思い議〈はか〉ることが出来ようぞ。
(2-721)
【余義】「純一無雑の信念仏の一因によりて、同一化生をうることを示す。『和讃』に
  安楽仏国にいたるには   無上宝珠の名号と
  真実信心一つにて     無別道故とときたまう。
が是である。大願清浄の報土は自力雑行をもっては生まれ難い。唯如来回向の信念仏の一道だけにて余の道はないというのである。
 この下の『六要』は、常に異なりて往生即成仏の真実義を述ぶ。
 問う、極楽の中に、胎生化生の差別分明なり。何ぞ此の如く釈するや。
  答、彼の胎生は即ち是れ化土、疑惑仏智の行者の生ずる所なり。此の化生とは、即ち是れ報土、明信仏智の行者の生ずる所なり。今の釈最も真実証を明すの要文たる歟。
とあり。即ちここにいう化生とは他力信心の行者が、本願の一道によりて往生成仏するの謂いである。
 二。四海兄弟の文、宗教的同胞の真意義を示す。如来回向の同一念仏の行者は、四海を通じて皆兄弟である。『御一代聞書』二十丁
  一、仰せに、身をすてておのおのと同坐するをば、聖人のおおせに、四海の信心のひとはみ
(2-722)
な兄弟と仰せられたれば、われもその御ことばのごとくなり。云々
 又『同』百一丁には、進んで
 一、蓮如上人、順誓に対し仰せられ候。法敬と我とは兄弟よと仰せられ候。法敬申され侯。是は冥加もなき御事と申され候。蓮如上人仰せられ候。信をえつれば、さきに生まるる者は兄、後に生るる者は弟よ、法敬とは兄弟よと仰せられ候。仏恩を同一にうれば、信心一致のうえは、四海みな兄弟といえり。
誠に実際について、此の本文を味わいたる活きた解釈と云わねばならぬ。温かい信仰的気分が、身を包むように感ぜられる。同一信心の人々は、その生命の根を一つにした人である。如来の血を頒かちたる真の兄弟である。

第四科 大義門功徳の文

又言
願往生者 本則三三之品 今無一二之殊 亦如溜(淄)澠{食陵反}一味。焉可思議。

【読方】またいわく、往生を願うもの、本はすなわち三三の品なれども、いまは一二の殊なし。また淄澠の
(2-723)
一味なるがごとし。いずくんぞ思議すべきや。
【字解】一。淄澠  淄水、澠水の二河のこと。
【文科】真実報土に往生すれば皆一味の証りを開くことを示さるし文である。
【講義】又曰わく、浄土へ往生したいと願うものの中には、三々九品の機の差別はあれども、一度本願海に帰して、浄土へ往生して見れば、決して少しの差別もないのである。譬えば、淄水と澠水とは別れて居れば二つの川であるが、一つになってみれば、全く一つ味わいに融け会うようなものである。このことはどうして思い議〈はか〉ることが出来ようぞ。
【余素】一。三三の品に就いては、『六要』に二義をあぐ。初義は、二乗、女人、諸根不具の三に各々名と体とあるにより、体三、名三となる。之を三三の品という。かように本は三三の差別があるが、同一念仏して往生すれば、大海に入る淄澠二河のように互いに異なることはないという意。二義は、九品の機類を指す。機に差別あれど、浄土に至れば一味平等である。又浄土に九品の差別あるは、化土の相であって真実報土ではないと云うのである。
 後義を取るべきである。『和讃』に
(2-724)
  如来清浄本願の   無生の生なりければ
  本則三々の品なれど 一二もかわることぞなき。
はこの意である。極楽は無生の生である。絶対の生である。そこに差別はない。機に九品の差あれども、同一念仏の道によりて、同一絶対の往生をうるのである。

第五科 清浄功徳の文

又論曰
荘厳清浄功徳成就者 偈言 観彼世界相 勝過三界道故。
此云何不思議。有凡夫人煩悩成就 亦得生彼浄土 三界繋業 畢竟不牽。
則是不断煩悩得涅槃分。焉可思議。{已上抄要}

【読方】また論にいわく、荘厳清浄功徳成就というは、偈に観彼世界相、勝過三界道といえるがゆえに。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることをうれば、三界の繋業、畢竟してひかず。すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分をう。いずくんぞ思議すべけんや。已上要を抄す。
【字解】一。涅槃分  此処には分は分証の義ではなく、分斉の義。涅槃の分斉のこと。果上の分斉は、口筆に説くことは出来ぬ。故に今は不可説の涅槃の境界という意。
(2-725)
【文科】浄土の清浄なる土徳を示したまう文である。
【講義】又『浄土論』に曰わく、荘厳清浄功徳成就というは、偈文には、彼の極楽浄土のことを考えみると、全く有漏三界の迷妄の境界とはかけ離れて居るというてある。これは何故に不思議といわれるのかというに、あらゆる煩悩を一つも欠目なく具えて居る凡夫が、他力の信心を頂いて、彼の御浄土へ生まれさしていただけば、迷いの三界の悪業はいかに強くとも引き止めて置くことが出来ず、凡夫はそのまま煩悩を一分断ぜずに、涅槃を証するのである。このことはどうして思い議ることが出来ようぞ。
【余義】一。此の文は上の諸文を総括〈しめくく〉っているから、態〈わざ〉と本文の前後を顛倒して引用せらる。
 「不断煩悩得涅槃分」に就いて、聖人は当益として引用せられた。『二門偈』四丁
  煩悩成就の凡夫人 煩悩を断ぜずして涅槃を得、則ちこれ安楽自然の徳なり。
明らかに安楽浄土の徳としてある。又『尊号真像銘文』末十五丁には
  不断煩悩得涅槃というは、煩悩具足せるわれら無上大涅槃にいたるなりとしるべし。
等是である。この時の「分」は分斉の義にして、彼の果分不可説等の分である。
(2-726)
 然るに覚如、存覚、蓮如三師は、之を現益に解しておられる。『改邪鈔』二十一丁に
  しかれば凡夫不成の迷情に令諸衆生の仏智満入して、不成の迷心を他力より成就して、願入弥陀界の往生の正業成ずるときを、能発一念喜愛心とも、不断煩悩得涅槃とも、正定聚之数とも聖人釈し給えり。
存覚上人の『浄土真要鈔』九丁に『正信偈』の「不断煩悩得涅槃」の文を釈して
  一念歓喜の信心をおこせば、煩悩を断ぜざる具縛の凡夫ながらすなわち涅槃の分をう。
と云い、蓮如上人の『正信偈大意』十一丁
  不思議の願力なるがゆえに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはついに涅槃にいたるべき分にさだめましますものなり。
等と、明らかに現生に涅槃分を獲ることとせられた。この時の分は分属の義、涅槃の分ということである。併しかように文面の上では相違しているようであるが、信の一念に「横に五趣八難の道を超え」るという点から云えば、この文は、自ずと三師のように解せられるのである。少くとも、此の説は祖意を発揮していると云うても差し支えがないと思われる。
 終わりに『六要』の当益説は、浄土の分証の意味で、例の如く誘引的の方便説に過ぎない。
(2-727)

第二項 道綽禅師の釈文

安楽集云
然二仏神力 応亦斉等。但釈迦如来 不申己能 故顕彼長 欲使一切衆生 莫不斉帰。是故釈迦 処処嘆帰。須知此意也。
是故曇鸞法師正意 帰西故 傍大経奉讃曰。
安楽声聞菩薩衆 人天智慧咸洞達。
身相荘厳無殊異。但順他方故列名。
顔容端政無可比。精微妙躯非人天。
虚無之身無極体。是故頂礼平等力。{已上}

【読方】安楽集にいわく、しかるに二仏の神力また斉等なるべし。ただし釈迦如来、おのれが能を申べずして、故〈ことさら〉にかの長を顕したまうこと、一切衆生をして、ひとしく帰せざること莫からしめんと欲してなり。このゆえに釈迦処々に嘆帰せしめたまえり。須くこの意をしるべしとなり。このゆえに曇鸞法師の正意、西に帰するがゆえに、大経にそえて奉讃していわく、安楽の声聞菩薩衆、人天の智慧ことごとく洞達せり。身相荘厳殊異なし。ただし他方に順ずるがゆえに名をつらぬ。顔容端正にして比すべきなし。精微妙躯にして人天にあらず。虚無の身、無極の体なり。このゆえに平等力を頂礼したてまつる。已上
【文節】「『安楽集』道綽禅師著。上四九〇頁を看よ。
(2-728)
【文科】『安楽集』によりて西方浄土を讃美し往生を勧めたまう文。
【講義】道綽禅師は『安楽集』にのたまうよう。釈迦如来と阿弥陀如来の果力の不思議に在〈おわ〉すことは同じいことであろう。ただ釈迦如来の御自分の御力を示し給わずして、阿弥陀如来の勝れ給うことのみを説き給うは、すべての衆生をして一様に阿弥陀如来に帰命させたいからである。それであるから釈迦如来は経説のいたるところに、阿弥陀如来のことを称説して、衆生をして帰命するようにとすすめ給うた。この称説する意味合いを知れということである。それであるから曇鸞大師も亦西方の弥陀如来に帰命し給うものであるから、『大無量寿経』に依って『讃阿弥陀仏偈』を作り、左のように讃嘆なされた。
安楽浄土の声聞も、菩薩も、天人も人間も、みな智慧明らかに神通に自在である。すがたかたちはみな一様で、異なる処がないが、他の国々の模様に順うて暫く人天等の差別の名を立てて置くだけである。顔貌〈かほかたち〉は正しくして、比類すべきものなく、立派な相好の身体は人天の境界のものではない。自然虚無之身、無極の体を得て居るのである。それであるから私は平等力の阿弥陀如来に帰命し奉る。
【余義】一。道綽禅師の口を籍りて、曇鸞大師の正意を彰わす。『和讃』に
(2-729)
   一切道俗もろともに   帰すべきところぞさらになき
   安楽勧帰のこころざし  鸞師ひとりさだめたり。
の意である。ここに二師の精神的一致を知ることが出来る。

第三項 善導大師の釈文
第一科 『玄義分』の文

光明寺疏云
言弘願者 如大経説。一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏大願業力 為増上縁也。又仏蜜意弘深 教門難暁。
三賢・十聖 弗惻所闚。況我信外軽毛。敢知旨趣。仰惟釈迦此方発遣 弥陀即彼国来迎。彼喚此遣 豈容不去也。唯可懃奉法 畢命為期 捨此穢身 即証彼法性之常楽。

【読方】光明寺の疏にいわく、弘願というは大経の説のごとし。一切善悪の凡夫.生ずることを得るに、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなしとなり。また仏の密意弘深なれば、教門暁〈さと〉りがたし。三賢十聖と測〈はか〉りて窺うところにあらず。いわんやわれ信外の軽毛なり。あえて旨趣をしらんや。仰
(2-730)
いでおもんみれば、釈迦は此の方にして発遣し、弥陀はすなわち彼の国より来迎す。かしこに喚ばいここに遺〈つか〉わす。豈ゆかざるべけんや。ただねんごろに法につかえて、畢命を期としてこの穢身をすてて、すなわちかの法性の常楽を証すべし。
【字解】一。光明寺疏  光明寺は善導大師の居られし寺、ここでは善導の『観経疏』を指す。
 二。三賢  三賢位。小乗にては、五停心観位、別相念住位、総相念住位の聖者を指す。大乗にては、十住、十行、十回向位の菩薩をいう。共に自力修行に進む因位に於ける修道の三階次をいう。
 三。十聖  初地より十地までの菩薩をいう。
 四。信外軽毛  信は十信の位の事。即ち十信の位に入る事の出来ぬ常没の凡夫の事。凡夫は修行を退堕する事、軽毛の風に飛ばさるるようであるからである。又一説には、十信の位は、十住の外であるから、十信の事を信外というと。此の説に依れば、軽毛のような賤しい取るに足らぬ十信位の凡夫を指す。
 四。畢命  命おわるまで。一生涯の意。
【文科】『玄義分』により、仏の増上縁によりて極楽へ生まれることをとき、更に二尊の遣喚、常楽証のをのべたまう文である。
【講義】光明寺の善導大師は『玄義分』に宣わく、弘願というは、『大無量寿経』に説いてある教えをいうのである、その教えというは、あらゆる凡夫が、浄土に往生するのは、皆阿
(2-731)
弥陀如来の大願のおはたらきを増上縁として、この願力によって往生を得るのであるということである。
 また、阿弥陀如来の御智慧は弘くして深く、従ってこれを説き給う釈迦如来の教説も甚深微妙にして、容易に暁〈さと〉り得るものではない。三賢の位の聖者も十聖の位の聖者も、影のぞきすら出来ないのである。況んや私の様な十住位にも至らぬ外凡のつまらぬものでは、どうしてその思し召しを知ることが出来よう。恐れ多いことではあるが、仰いて思えば、釈迦如来はこの娑婆より浄土へ参れよとおすすめ下され、弥陀如来は浄土の方からお迎えに出て下さるのである。向こうからは来いよと喚び、此方〈こちら〉からは行けよとすすめて下さるのに、どうして御思し召しに従わずに居られようぞ。ただ一生懸命になって、法の如くに奉行して、生命のある間つとめはげみ、この汚れた肉体を離れる時、極楽浄土の真如法性のおさとり(常楽我浄の四徳を具えた)を開かしていただくのである。

第二科 『定善義』の文

又云
西方寂静無為楽 畢竟逍遥離有無。
大悲熏心遊法界。分身利物等無殊。
或現神通而説法 或現相好入無余。
変現荘厳随意出。群生見者罪皆除。

又賛云
帰去来   魔郷不可停。
曠劫来流転 六道尽皆逕。
到処無余楽。唯聞生死声。
畢此生平後 入彼涅槃城。{已上}

【読方】またいわく、西方寂静無為のみやこには、畢竟逍遙にして、有無をはなれたり。大悲心に薫じて法界にあそぷ。分身して物を利すること、等くして殊なることなし。あるいは神道を現じてしかも法をとき、あるいは相好を現じて無余にいる。変現の荘厳、意にしたがいていづ。群生みるもの、罪みなのぞこる。また讃じていわく、帰去来〈いざいなん〉魔郷にはとどまるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみなへたり。いたるところに余の楽なし、ただ愁歎のこえをきく。この生平を畢えて、後、かの涅槃の城にいたらん。已上
【字解】一。逍遥  邈〈はるか〉なる形容。
 二。有無  有見、無見の事。万物の常住を固執するは有見。万物の空無を固執するば無見。是等は、単に法の一面を見たる偏頗の邪見である。従って有無二見の言葉は凡夫の一切の迷妄の見解を指す。
 三。無余  煩悩を余す処なく断じて、証りを開きたる事。即ち涅槃の事。
 四。生平〈しょうひょう〉 今生一生ということ。
【文科】『定善義』によりて悠々たる西方願生の心情〈まごころ〉を披瀝したまう一段である。
【講義】又『定善義』に宣うよう。西方極楽浄土は、寂静にして為作造作〈はからい〉をはなれた
(2-733)
無為無漏の浄国〈くに〉である。第一義諦微妙の境界なれば、この上なく、際辺〈きわほとり〉もなく、中道にして有無の二辺を離れて居る。この国に生るる衆生は、大慈悲を心に薫じ附けて、十方法界に遊び、一時に諸方に顕われて、いろいろの身相〈すがた〉を示し、衆生を利益済度することがみな同じく、或いは神通を示して法を説き、或いは相好を現わして無余涅槃に入るを見せ、思いのままに、種々の荘厳を変じ出して、衆生のこれを見るものをして罪悪を離れしむるのである。
 又讃文に宣うよう。いざいなん、娑婆世界、悪魔の栖家は長く停って居る所ではない。私は、久遠劫の昔から、六道をへめぐって、何処〈いずく〉として生まれて見ない所はないが、何処でもたのしみのある所はない。行くところとして愁嘆の声のみきこえない所はないのである。願わくは、この一生を畢った後には、彼の安楽浄土の涅槃の境界へ行きたいものである。
【余義】一。是等の文に依りて、吾等は善導大師の悠々たる限りなき信徳に接することが出来る。この種の文字は煩わしく法門の義理をもって解剖すべきでない。吾等も自らの心中に躍動する生命の喜びを以て始めて此の文字と共鳴するのである。良に逍遥たる無為
(2-734)
涅槃界は、大師の如く痛烈に現実の魔境、現実の毒悪なる自我を味おうた人でなければ、感知することが出来ない。深い悲しみに接して、深い喜びを生む。吾等はこの文を読むとともに信巻の至誠心釈を併せ読まねばならぬ。かくして始めて「帰去来、魔境には停まるべからず」等の心持ちに接することが出来るであろう。この暗黒の底より迸〈ほとばし〉り出でたる精神的実験が、西方浄土の感念と憧憬である。この散文でない、流れるような讃詠の底に、大師の躍動せる信生命は、不久の音楽を奏でているのである。ここに大師の円かなる信念の表現〈あらわれ〉がある。そして是が亦そのまま我聖人の信仰の表現である。
(2-735)

第四章 結釈

夫案真宗教行信証者 如来大悲回向之利益。
故若因若果 無有一事 非阿弥陀如来 清浄願心之所 回向成就。
因浄故果亦浄也 応知。

【読方】それ真宗の教行証を案ずれば、如来大悲回向の利益なり。かるがゆえにもしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の 清浄願心の回向成就したまえる所に非ざることあることなし。因浄なるがゆえに果また浄なり。しるべし。
【文科】上来明かし来った教行信証の四法を結釈したまう文である。
【講義】上来説き明かし来った浄土真宗の教行信証は、これまでの処で充分知られた通り、阿弥陀如来の大悲心より衆生にさし向けて下さるる利益である。行と信との因も、大涅槃の証果も、何れ一つとして、阿弥陀如来の清らかな本願の御心からさし向けて成就して下されたものでないものはないのである。行信の因が清浄無漏であるから、浄土往生の証果も亦清浄無漏である。
(2-736)

第五章 還相回向

【大意】是より以下還相回向を明かす。『教巻』初めに
 謹んで浄土真宗を案ずるに二種の回向あり。一には往相、二つには還相なり。
と標してある。その還相をここに説示するのである。即ち「二」は上の文の「一に往相」に対するのである。元、広本は教行信証の四法を大範疇として、その他の凡てはこの中に摂めたのであるから、『教巻』に掲げた還相は、証果の大用〈はたらき〉の意味の下に、この証巻に摂められたのである。故に本巻を主として云えば、上に広く証果を明かしたから、是より以下第二に還相回向を示すのである。されど広本全体より見れば、還相回向は、上述の如く、遠く教巻に遡りて往相回向に対するのである。
 第一節略顕、第二節引文である。そして第三節総結文にて『証巻』は了るのである。

第一節 略顕

第一項 総標
二言還相回向者 則是利他教化地益也。

【読方】二には還相回向というは、すなわちこれ利他教化地の益なり。
(2-737)
【文科】還相回向を総標したまう一段。
【講義】「教巻」の始めに、浄土真宗を案ずるに二種の回向あり、一には往相、ニには還相と標し、これまでにてその往相回向の四方を説示し畢った。それでこれから還相回向を表彰〈あらわ〉すであろう。
 還相回向というは、浄土へ往生した衆生が、他の衆生を利益し教化する大用をいうのである。

第二項 還相回向の出拠
則是出 於必至補処之願。

【読方】すなわちこれ必至補処の願よりいでたり。
【文科】還相回向の出拠を示したまう一段。
【講義】この還相回向は四十八願中の第二十二必至補処の願から顕われたのである。

第三項 願名

(2-738)

亦名一生補処之願。亦可名還相回向之願也。

〔読方】また一生補処の願となづく。また還相回向の願となづくべきなり。
【字解】一。一生補処  一生を過ぐれば、仏処を補うべき等覚の位。
【文科】還相回向の願名をあげたまう一段。
【講義】またこの第二十二願は、一生補処の願ともなづけ、また還相回向の願ともいわれて居るのである。
【余義】一。還相回向を明かすに当り、ここに願名を標し、願文を掲ぐべき咎であるが、今は唯願名丈を列挙し、その願文は、次の『論註』に譲られた。
 これは聖人の御考えのある所で、四法(教行信証)三願(第十七、第十八、第十一)の綱格によりて、既に本巻の初めに第十一願を標挙〈かか〉げてあるから、今ここに第二十二願を標しては、この綱格を破り、思想上の混雑を惹き起す恐れがあるから、わざと略されたのである。更に内容の方面から云えば、還相回向は四法の綱格と相対立すべきものではなくして、此処には証果の大用〈はたらき〉として挙ぐるのであるから、勢い第十一願の下に隷属せねばならぬ。故に願名を標せず、願文をあげないのである。
(2-739)
 二。次に願名については、初めの二名は諸師の同意する所、後の還相回向之願は聖人の命名に係〈かか〉る。そして又この三名は其の儘第二十二願の内容を示すものである。即ち此の願の願事は、一生補処と還相回向の二つであるからである。

第二節 引文

【大意】これより以下、経論釈を引いて還相回向を各方面より明かしたまう。その中第一項の経文は、次の『論註』に引かれる願文に譲って、わざと引用したまわず、第二項は論文、第三項は起観生信の文以下広く『論註』の九文を引きたまう。

第一項 経文
顕註論 故不出願文 可披論註。

【読方】註論にあらわれたり。かるがゆえに願文をいださす、註論をひらくべし。

【文科】経文を引用すべき所、わざと下の『論註』にゆずることを宣給う一段。
【講義】この還相回向の経文のことは、次下に引く『浄土論註』に願文を引いて説き明か
(2-740)
してあるから、今は別に第二十二の願文を標挙〈かか〉げない。親しく次の『浄土論註』を披いて見るべきである。

第二項 論文

浄土論曰
出第五門者 以大慈悲 観察一切苦悩衆生 示応化身。
回入生死園煩悩林中 遊戯神通 至教化地。以本願力回向故 是名出第五門。{已上}

【読方】浄土論にいわく、出の第五門は、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して応化の身をしめす。生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯して、教化地にいたる。本願力の回向をもってのゆえに、これを出の第五門となづく。已上
【字解】一。応化身  三身の一。応身に同じ。報身仏が、衆生の機縁に応じて示し給える仏身。
 二。出第五門  果の五功徳門中、最後の園林遊戯地門のこと。下七四二頁以下を看よ。
【文科】『浄土論』によりて、還相菩薩の大用〈はたらき〉を示したまう一段。
【講義】『浄土論』に曰わく、入(自利)の前四門に対する、出(利他)の第五門、即ち園林遊戯地門というは、極楽へ往生した菩薩が、大慈悲心を以て、迷界の苦しみ悩める衆生を
(2-741)
見て、機を勘〈かんが〉み、種々の応化の身を顕わし、極楽より出でて、生死の園、煩悩の林の中へわけ入り、神通を示し、種々の方便をめぐらして衆生を教化し給うことをいうのである。そのはたらきは、もと弥陀如来の本願力より回向して下されたので、この回向に依って、浄土を出でて衆生を化益するのであるから、出の第五門というのである。
【余義】一。

挿図 yakk2-741.gif

       ┏ 礼拝   ┓
       ┃ 讃嘆   ┫
 因の五念門━┫ 作願   ╋━━━━━━━━入━自利┓
       ┃ 観察   ┫            ┃
       ┗ 回向   ┫  ━(往相)┓     ┣『論註』顕文
              ┃      ┃     ┃
       ┏ 近門   ┫      ┣━出━利他┛
       ┃ 大会衆門 ┫      ┃
 果の五功徳門┫ 宅門   ┫      ┃
       ┃ 屋門   ┛      ┃
       ┗ 園林遊戯地門 ━━(還相)┛

(2-742)
「出第正門」ということについて、一応『論註』の入出二門と往還二回向の関係を知らねばならぬ。
 もと入出は五念門の「門」字の解釈よりいで、菩薩が五念門に入出するによりて門というのである。その入出の模様はどうであるかと云えば、上に図示した通りである。
 即ち論註の顕より見れば、菩薩はかくの如く因の五念門を修めて果の五功徳門を獲る。
 この中、往相回向は五念門中第五の回向文の下にいで、前四念門に修めた功徳を一切衆生に回向して、共に安楽浄土に往生することである。又還相回向は、果の五功徳門中第五の園林遊戯地門の下にいで、浄土より此の土へ衆生済度の為に還り来ることである。
 然らば此の菩薩は何を指すかということは、『論註』の本文の上には解り悪〈にく〉いのであるが、聖人は巻末の
  然るに覈〈あきらか〉に其の本〈もと〉を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。乃至 凡て是れ彼の浄土に生まると、及び彼の菩薩人天の起す所の諸行は、皆阿弥陀如来の本願力に縁〈よ〉るが故に、何を以てこれを言はば、若し仏力に非らずんば四十八願便〈すなわ〉ち是れ徒〈いたずら〉に設けたることとならむ。
(2-743)
等の文によりて、上の五念門の行を修めて五功徳の果を獲たる菩薩は、実に弥陀の因位たる法蔵菩薩にて在〈おわし〉ますと解せられ、かくて『入出二門偈』三丁には明らかに
  無碍光仏因他の時、斯の弘誓を発し、此の願を建つ、菩薩すでに智慧心を成し 乃至 速に無上道を成就することを得、自利利他の功徳を成ず。則ち是を名づけて入出門と為すといわれ、入は如来の自利証入、出は如来の利他教化とせられたのである。かように明快〈はっきり〉と入出二門が如来の自利々他の因果を示すものとせられたことから、期せずして単に出の下に属した往還二回向の意義は、拡大せられ、如来の入出二門は畢竟する所、往還二回向の外はないということになり来った。
 ここが宗教上の妙趣である。即ち如来の入出二門はそのまま一括すれば、本願力回向である。他力回向である。そは如来の因行果徳は、吾等苦悩の衆生に回向する為であるからである。この回向を外にしては如来の本願はないのである。『和讃』に
   如来の作願をたずぬれば  苦悩の有情をすてずして
   回向を主としたまいて   大悲心をば成就せり。
が是である。そしてこの回向は云うまでもなく往還二回向である。ここに於いてか初めに
(2-744)
法蔵菩薩の成仏の歴程を示せし五念五功徳の因果の一隅にありし二回向は、今や如来の因願果徳全体を籠〈こ〉めたるものとなったのである。そして是は必然のことである。この結果に立ちて試に入出他力、往還の関係を図示すれば

挿図 yakk2-744.gif

 弥陀因位之自利々他┓
┏━━━━━━━━━┛
┃     ┏礼拝   ┓
┃     ┃讃嘆   ┫
┃┏五念門━┫作願   ╋━━━━入━自利┓
┃┃    ┃観察   ┫        ┃    ┏自利━往相回向━━━┳教┓
┃┃    ┗回向   ┫ ━┓     ┣他力回向┫          ┣行┣━四法
┗┫          ┃  ┃     ┃    ┃          ┣信┃
 ┃    ┏近門   ┫  ┣━出━利他┛    ┗利他━還相回向━━━┗証┛
 ┃    ┃大会衆門 ┫  ┃
 ┗五功徳門┫宅門   ┫  ┃
      ┃屋門   ┛  ┃
      ┗園林遊戯地門 ━┛

 斯の如く如来成道の因果歴程たる入出は、一括して他力回向となり、その回向を開いて
(2-745)
住還二種となし、更に細かにその二回向の内容を明らかにし、吾等の上に親しく大悲回向の功徳を色味することを示したのが教行信証の四法である。即ち吾等の成道の因果である。かくて如来の因果功徳は、そのまま吾等の因果功徳となる、如何にその大系の巧妙と剴切〈がいせつ〉と善美を極むるよ。(『第一巻』二〇〇頁 六六七頁以下参照)
 二。上の如く入出二門は如来成仏の因果を示したものであるが、此処に「出第五門」の出は、上にいう如く利他の替名〈かえな〉にして、吾等衆生が、浄土の真証から衆生済度に出づる還相回向のことである。即ち如来より与えられたる還相回向が正しく実現する所である。この旨趣を明らかにせん為に、次に『論註』の還相回向の文を引かれたのである。

第三項 釈文
第一科 起観生信の文

論註曰
還相者 生彼土已 得奢摩他 毘婆舎那 方便力成就 回入生死稠林 教化一切衆生 共向仏道。
若往若還 皆為抜衆生 渡生死海 是故言 回向為首得成就大悲心故。

(2-746)
【読方】論の註にいわく、還相はかの土に生じおわりて、奢摩佗、毘婆舎郡、方便力成就することをえて、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道にむかわしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生をぬきて、生死海をわたさんがためなり。このゆえに回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえにと言えり。
【字解】一。奢摩他  山。定のこと。上三五〇貫を看よ。
 二。毘娑舎郡  観。観察のこと。上三五〇頁を看よ。
 三。生死稠林  三界生死の巷。上三五〇頁を看よ。
【文科】以下『論註』九文の中、第一に起観生信の文である。正しく還相菩薩の相を示す文である。
【講義】『浄土論註』に宣わく、還相回向というは、彼の極楽浄土へ往生してから、止観の力と、善巧摂化の方便力とを成就して、再びこの生死苦悩の世界へ還り来り、あらゆる衆生を導いて、仏果菩提に向かわしむることである。それでこの往相回向というも、還相回向というも、阿弥陀如来が迷悶の巷から衆生を救い出し、生死の大海を渡り越えしめ給うために御与え下されたものである。
 であるから、『浄土論』に回向を首として大悲心を成就することを得たまえりというてあるのである。
(2-747)

第二科 観行体相の文

又言
即見彼仏 未証浄心菩薩 畢竟得証平等法身。与浄心菩薩与上地諸菩薩 畢竟同 得寂滅平等故。
平等法身者 八地已上法性生身菩薩也。(寂滅平等者 即此法身菩薩所証)寂滅平等之法也。
以得此寂滅平等法故 名為平等法身。以平等法身菩薩所得故 名為寂滅平等法也。此菩薩 得報生三昧。
以三昧神力 能一処一念一時 徧十方世界 種種供養一切諸仏 及諸仏大会衆海。能於無量世界 無仏法僧処 種種示現 種種教化度脱一切衆生 常作仏事。
初無往来想 供養想 度脱想。是故此身名為平等法身。
此法 名為 寂滅平等法。
未証浄心菩薩者 初地已上 七地以還諸菩薩也。
此菩薩 亦能現身 若百若千若万若億若百千万億 無仏国土 施作仏事。
要作心 入三昧 乃能非不作心。
以作心故 名為未証浄心。
此菩薩 願生安楽浄土 即見阿弥陀仏。見阿弥陀仏時 与上地諸菩薩 畢竟身等法等。
龍樹菩薩 婆藪槃頭菩薩輩 願生彼者 当為此耳。

問曰 案十地経 菩薩進趣階級 漸有無量功勲。逕多劫数。然後乃得此。云何見阿弥陀仏時 畢竟与上地諸菩薩 身等法等邪。

答曰 畢竟者 未言即等也。
畢竟不失此等故 言等耳。

問曰 若不即等 復何得言菩薩。但登初地 以漸増進 自然当与仏等。何仮言与上地菩薩等。

答曰 菩薩於七地中 得大寂滅 上不見諸仏可求 下不見衆生可度。欲捨仏道 証於実際。爾時若不得十方諸仏神力加勧 即便滅度与二乗無異。
菩薩若往生安楽 見阿弥陀仏 即無此難。是故須言畢竟平等。
復次無量寿経中 阿弥陀如来本願言
 設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 来生我国 究竟必至一生補処 除其本願自在所化 為衆生故 被弘誓鎧積累徳本 度脱一切遊諸仏国 修菩薩行 供養十方諸仏如来 開化恒砂無量衆生 使立無上正真之道 超出常倫 諸地之行現前 修習普賢之徳 若不爾者不取正覚。
按此経 推彼国菩薩 或可不従一地至一地。言十地階次者 是釈迦如来 於閻浮提一応化道耳。他方浄土 何必如此。五種不思議中 仏法最不可思議。若言菩薩 必従一地至一地 無超越之理 未敢詳也。
譬如有樹 名曰好堅。是樹地生 百歳。乃具一日長 高百丈。日日如此。計百歳之長 豈類循松邪。見松生長日不過寸。聞彼好堅 何能不疑即日。
有人聞釈迦如来 証羅漢於一聴制 無生於終朝 謂是接誘之言 非称実之説。聞此論事亦当不信。夫非常之言 不入常人之耳。謂之不然。亦可其宜也。

【読方】またいわく、すなわちかの仏をみたてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟して平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上他のもろもろの菩薩と、畢竟しておなじく寂滅平等をうるがゆえにとのたまえり。平等法身は八地已上法性生身の菩薩なり。寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもっての故に、なづけて平等法身とす。平等法身の菩薩の所得なるを以てのゆえに、なづけて寂滅平等の
(2-750)
法とするなり。この菩薩は報生三昧をう。三昧神力をもって、よく一処、一念、一時に十方世界に遍して、種々に一切諸仏および諸仏の大会衆海を供養す。よく無量世界の仏法僧ましまさぬ処にして、種々に示現し、種種に一切衆生を教化し度脱してつねに仏事をなす。はじめより往来のおもい供養のおもい、度脱の想〈おもい〉をなし。このゆえにこの身をなづけて平等法身とす。この法をなづけて寂滅平等の法とす。未証浄心の菩薩は、初地已上、七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩またよく身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。かならず作心す。三昧に入れども、いましよく作心せざるにあらず。作心を以てのゆえに、なづけて未証浄心とす。この菩薩、安楽浄土に生じて、すなわち阿弥陀仏をみんと願ず。阿弥陀仏をみるとき、上地の諸菩薩と畢竟して身ひとしく法ひとし。龍樹菩薩、婆薮槃頭菩薩のともがら、かしこに生ぜんと願ずるものは、まさにこの為なるべしならくのみ。
 問うていわく、十地経を案ずるに、菩薩の進趣階級、ようやく無量の功勲あり。おおくの劫数をふ。然してのち乃しこれをう。いかんぞ阿弥陀仏をみたてまつるとき、畢竟して上地のもろもろの菩薩と、身ひとしく法ひとしきや。
 こたえていわく、畢竟は未だすなわち等しというにあらず。畢竟してこの等しきことを失せざるがゆえに等というならくのみ。
 問うていわく、若しすなわち等しからずば、またなんぞ菩薩と言うことをえん。ただ初地にのぼれば、以て漸く増進して、自然にまさに仏と等しかるべし。なんぞかりに上地の菩薩と等しというや。
(2-751)
 こたえていわく、菩薩、七地のなかにして大寂滅をうれば、かみに諸仏の求むべきをみず。しもに衆生の度すべきをみず。仏道をすてて実際を証せんと欲す。そのときにもし十方諸仏の神力加勧することをえずば、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して、阿弥陀仏をみたてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須く畢竟平等というべし。またつぎに無量寿経のなかに、阿弥陀如来の本願にのたまわく。
 設えわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して究竟してかならず一生補処にいたらん。その本願自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧をきて、徳本を積累し一切を度脱し、諸仏の国にあそび、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸国の行現前し、普賢の徳を修習せん。若ししからずば正覚をとらじと。
 この経を按じて彼のくにの菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次というは、これ釈迦如来、閻浮提にして一の応化道ならくのみ、他方の浄土はなんぞ必ずしも此の如くならん。五種の不思議のなかに、仏法もっとも不可思議なり、もし菩薩、必ず一地より一地にいたりて、超越の理なしといはば、未だあえて詳らかならず。たとえば樹ありて、なづけて好堅という。この樹、地より生じて百歳ならん、いまし具に一日に長高なること百丈なるがごとし。日々にかくのごとし。百歳のたけをはかるに、あに脩松に類せんや。松の生長するをみるに、日に寸をすぎず。かの好堅をききて、なんぞよく即日をうたがわざらん。
(2-752)
人ありて釈迦如来、羅漢を一聴に証し、無生を終朝に制すとのたまえるをききて、これ接誘の言にして、称実の説にあらずとおもえり。この論事をききてまた当に信ぜざるべし。それ非常の言は常人の耳にいらず。之を然らずとおもえり。亦それ宜しかるべきなり。
【字解】一。未証浄心菩薩  浄心を証せざる菩薩。初地より七地迄の菩薩のこと。此の位にある修道者は既に不退の位には到達しておるが、なほ任運無作の活動することが出来ず、微細の煩悩の束縛を受けている。故に未証浄心と名づけられるのである。
 二。法性生身菩薩  八地以上の菩薩のこと。法性より生じたる身をもてる菩薩ということ。真如を証り、法性の理に随いて、衆生済度の為に、変易自在の身を有する故にいう。
 三。寂滅平等之法  涅槃寂滅の理に即したる無縁平等の慈悲のこと。
 四。報生三昧  報生は生得の意。目に物を見るように、先天的に備っている能力のこと。八地以上の菩薩は、意志を働かさず、努力を須いず、其の位より自然に得たる三昧力を以て、化他の活動を為すことが出来る。此の三昧を報生三昧と名づけるのである。
 五。神力  神通力。静寂の定なり起る活動力。
 六。龍樹菩薩  梵語ナーガールジュナー(Nagarjuna)那伽樹那と音訳す。龍猛とも意訳す。紀元二世紀。即ち仏滅七百年に南印度(或は西印度)の人、幼より頴悟、弱年にして当時の諸学に精通した。初め欲楽
(2-753)
に奔り、果は三友とともに宮中に入りて譜妾を犯し、事顕われて三友は殺され、彼は身を以て死地を免れ、深く欲楽の苦しみの根本たるを痛感し、迦毘摩羅を師として小乗教を学び、後雪山地方に趣き、一老僧より大乗の経典を授かり、深く其の奥底を究め、大いに大乗仏教を宣揚して、外道の邪義を催破す。晩年浄土他力教に帰し、『十二礼』『易行品』等に弥陀の本願を宣べられた。後遂に外道の手に仆〈たお〉されしと伝う。著わす所『大智度論』百巻、『十住毘婆娑論』十七巻、『中論』四巻、『十二門論』一巻等。弟子伽那提婆も亦英俊であった。後世諸宗の教義は、皆龍樹の教えに基づく為に八宗の祖師と尊崇せらるるに至った。
 七。婆薮槃頭菩薩  梵語ワスワンドフ(Vasuvandhu)旧訳には天親という。紀元二世紀、仏滅八百年に北印度、健陀羅国に生まる。父は憍尸迦、兄は無著、弟は師子覚という。初め『倶舎論』等を著わして、大乗教を謗ったが、後兄の勧めによりて大乗教に帰し、『唯識二十論』『唯識三十論頌』『十地経論』等を作りて、大乗仏教を弘め、晩年浄土他力教に帰して、有名なる『無量寿経優婆提舎』(浄土論)を作りて、衷心の信仰を披瀝せられた。
 八。十地経  『大方広仏華厳経』の十地品の別訳をいう。菩薩十地の位を具に説いてある。
 九。閻浮提  須弥四州の一。梵語ヂヤンブ、ドイーパ(Jambu-dvipa)穢洲、穢樹城、勝金洲、好金土、等と訳す。前二訳は印度の喬木、閻浮樹の名より訳したのであろう。此の樹は四五月に深紫色の花を開いて実を結ぷ。印度の到る処にあり。後の二訳は閻浮檀金にとりて訳したのであろう。須弥山の南方に突出し、地形は
(2-754)
北広く南狭し、十六大国、五百中国、十万小国ありという。人寿百歳にして、夭折する者は多い。けれども仏に逢い、法を聞くことは、本洲を第一とする。此の説は、釈尊出世以前の古代の印度人が、雪山を理想
化して須弥山となし、印度を拡大して、南閻浮提として、吾等の住む世界としたのである。
 一〇。五種不思議  一、衆生多少不思議(衆生界無限にして成仏するも減ぜず、成仏せざるも増さず、多少増減なきことの不思議なるをいう)。二、業力不思議(衆生界の複雑多端なるは、みな業力の然らしむる所で、不思議であるということ)。三、龍力不思議(龍、一滴の氷をもって、四天下に雨ふらすことの不思議なること)。四、禅定力不思議(禅定によりて数百年間も身体を保留し、又神通を現わすことの不思議なるをいう)。五、仏法力不思議(諸仏の智慧、教法等の不思議なることをいう)。
 一一。好堅樹  上にあげた閻浮樹を理想化せる大閻浮樹の訳であろう。『智度論』巻十に「此の好堅樹、地に生じて後百年にして枝葉を具足す。一日に百丈ずつ成長す」というてある。比喩的な、空想的な樹である。
 一二。無生  央崛摩羅をいう。梵語アングリマールヤ(Angulimalya)指鬘と訳す。 憍薩羅国の国師の子、外道の弟子となりて、或る動機によりて狂気の如く多くの人命を傷〈そこな〉うたが、釈尊の尊容に接するや、立〈たちどころ〉に改心して弟子となる。伝記は山辺著『仏弟子伝』に委し。
 一三。終朝  朝飯前。
(2-755)
【文科】観行体相の文中、初めに浄土の菩薩の一生補処を示したまう一段である。
【講義】又言わく。浄土に生まれて一度彼の阿弥陀如来を見奉れば、初地より七他にいたる未証浄心の菩薩も、八地以上の平等法身を証り得るのである。八地の浄心の菩薩及びその上の九地以上の菩薩と同様に寂滅平等の法を得るのである。平等法身というは、煩悩・所知の二障を離れて、分段生死(善悪の業によりて感得する身、即ち分々段々に制限されたる果報をいう)の麁身を捨て、変易生死(無漏の大悲願力によりて衆生済度の為に感得する依身)の細身を受け、真如法性の平等を証得した菩薩のことである。寂滅平等というは、この平等法身の菩薩が証りを顕わし給う法であって、すべての微細の煩悩も滅び去って真如平等の顕現した法であるから、寂滅平等と名づけるのである。この寂滅平等の法を得る菩薩であるから平等法身と名づけ、この平等法身の菩薩の証得し給う法であるから寂滅平等の法と名づけるのである。
 この平等法身の菩薩は、四種の徳を具え給う。第一には報生三昧を得、第二には三昧の力で、処を動かさず、一念一刹那の中に、十方法界海の何処にもすがたを顕わし、第三にはかくしてあらゆる諸仏と、諸仏の会座の大衆を供養し、第四には、数限りもない多くの世
(2-756)
界の中、仏法僧の三宝のない処へ、種々にすがたを現じ、種々の方便を以て、あらゆる衆生を化益し済度して、常に衆生済度の仏事をなすのである。かくの如く活動して衆生済度をなしながら、十方世界に往来する想もなく、十方諸仏菩薩を供養する想もなく、衆生を済度する想もないのである。任運無作に、このはたらきが出来るのである。それであるから、能証〈さとりて〉の人の方から名づけては平等法身といい、所証〈さとられて〉の法の方から名づけては寂滅平等というのである。
 未証浄心の菩薩というは、初地から七地までの菩薩のことである。この位の菩薩は、位に従って、百国土、千国土、万国土、億国土、百千万億国土の仏の在〈い〉まさぬ世界に種々のすがたを顕わし、衆生済度をなし給うが、必ずかくかくするという心を用いてなさるので、任運無作用の境地に達して居らない。三昧に入った時でも、猶この作心(努力心)があるから、それで未証浄心の菩薩と名づけるのである。この菩薩が阿弥陀仏を見たて奉りたいと願いを起こし、その願に依って、阿弥陀仏を見奉る時には、阿弥陀仏の威神力に依って、八地以上の菩薩と、能証の身も所証の法も同じいことになるのである。それであるから、龍樹菩薩、天親菩薩等の方々が、極楽へ参らして頂きたいと願生し給うたのである。
(2-757)
 問うて曰わく、『十地経』を開いてみるに、菩薩がだんだん位を昇り給うには、非常に手数のかかるもので、無量の功徳と、非常に長い時間を要するものである。然るに阿弥陀仏さえ見奉れば、八地以上の諸菩薩と同じい様になるとはどういう訳であるか。
 答えて曰わく、畢竟等しいというたのは、今直ぐ等しいというのではない。仕舞に等しくなるという意味でいうたのである。
 問うて曰わく、今直ぐに等しいのでなく、やがて等しくなるのだというならば、何も特別に上地の菩薩と等しいという必要もないことである。即ち菩薩は一度、初地不退の位に昇れば、漸次に昇階して、終には仏と同じくなるのである。してみれば何も別に、上地の菩薩と等しいという必要はないではないか。
 答えて曰わく。菩薩は、七地の位に入って沈空の難というがある。この大難関に当って、煩悩が尽きて寂滅を得る時には、その寂滅を執じて上に仏果の大涅槃を求むる心もなくなり、下は衆生の済度すべきことをも忘れて仕舞い、益々向上すべき仏道をすてて、現実の涅槃に満足するようになる。この時には十方の諸仏方が威神力を加えて勧めはげまして下さらなければ、涅槃に入って、声聞縁覚の二乗と異なることがないようになるのである。
(2-758)
もし菩薩にしてこの時、安楽世界に往生して、阿弥陀如来を見奉れば、この沈空の難を免かれるのである。それで畢竟、上地の菩薩と等しいというのである。
 次に『大無量寿経』の中、第二十二願には左の如く説いてある。もし我、仏となるであろう時は、十方世界の衆生が、我国に生れ来って、菩薩の極位をきわめ、必ず一生補処の位に入るようにしたい。抑〈そ〉もこの位は、来生する者に特別の望があって、自在に衆生を化益してみたいという意から、衆生のために弘誓の鎧を著て、功徳善根を積み、一切衆生を助け、諸仏の国に参って菩薩の修行をするとか、十方諸仏を供養するとか、無数の衆生に道を求める心を起こさしめたいとかいう者が、本人の随意によってこの一生補処に入るのである。要するに一生補処に至るものは常並のものに超え勝れて、十地の菩薩の行がまどかに現われ、衆生教化に出かけるものは、普賢大悲の徳が欠目なく行えるように致したい。もし左様でないならば正覚はとるまい。
 この『大無量寿経』の願文をいただいて彼の浄土の菩薩のことを考えみるに、初地二地三地と次第に歴上〈へのぼ〉るのではない。一体十地の階段というは、釈迦如来が南閻部州〈このせかい〉に於いて説き給うた随機方便の教化である。他方の浄土、殊に西方極楽世界がこの道りでとはいえな
(2-759)
いのである。五種の不思議の中でも、わけて仏法は思い議〈はか〉ることの出来ぬものである。もし菩薩は必ず初地二地三地と順序正しくのぼるもので、飛び越えるということはないというならば、いまだ仏法の深い道理が知れないのである。譬えば好堅と呼ぶ樹があるが、この樹は地中に在ること百年、枝葉が具わって地上に出で、一日の中に百丈も延びるのである。毎日この様に生長するから、百年も立てば大変の高さになる。どんな丈の高い松でも及ぶものではない。松が生長するというた所で、一日に一寸も延びるものはない。こういう松ばかり見て居る人が、彼の好堅樹のことをきいたら一日にこのように延びようとは、どうして疑わずに居られよう。浅近の智慧を以て仏法不思議に対する人も丁度このようにいろいろの疑いを起こして来る。晋の劉憍居士は、釈迦如来が、舎利弗をして一座の説法に依って阿羅漢を証らしめ、鴦屈摩羅を朝食前に済度なされたということをきいて、これは真実のことではなくて下根懈怠のものを誘うためのものだというて居る。そういう人ならば、今この浄土へ生まれて諸地の位を超証するということをきいても信用せないであろう。常並でない語は、常並の人の耳に入るものではない。彼等が、そんなことはないと力んで居るのも亦致し方のない次第である。
(2-760)
【余義】一。此の文は『論註』下十九丁以下、観行体相の文である。観行体相とは、観法の対象たる浄土の二十九種の荘厳を説いて、観法の有様を教えたものである。其の観境たる荘厳は依報十七種、正報八種、菩薩四種の二十九種である。依報は客観世界、正報は弥陀如来と、浄土の眷族たる菩薩である。されど此処に引用の文は正報八種の中第八の不虚作住持功徳の文と、菩薩四種の文全部とに過ぎない。
 初めの不虚作住持功徳の文は、浄土の還相回向の菩薩の自内証を彰わさんが為に引用せらる。即ち初地以上七地までの未証浄心の菩薩が、浄土へ往生すれば八地以上の上地の菩薩と等しく、平等法身を得るということ、次に菩薩修道の大難たる七地に於いても、弥陀の浄土には二乗のように沈空に堕することはないと云うこと、是等は文面の上では、浄土に往生した菩薩が、浄土という土徳によりて修道を続けてゆくように見えるけれども、聖人は是等の文によりて、還相菩薩が必ず補処の位に入り、普賢の徳たる利他教化に出づることを示さんが為である。この根本の思想をもって此の文を見れば、錯雑〈こみい〉っている多くの問題も必ず其の中心点に於いて、全く別の意義と色彩を呈〈あら〉わすであろう。
 二。第二十二願は、正しく還相回向の願である。この願によりて自利満足の往生成仏の上
(2-761)
に、利他の応用〈はたらき〉が起こるのである。真実報土は往生即成仏であるが、利他の志願あるものは任意に一段下った一生補処の位に住することが出来る。即ち仏果より除かれて一生補処に至るのである。そして此の一生補処の位は、普通の階級ではなく、仏果を証った後の位であるから、偏に利他の応用〈はたらき〉を主とす。是利他教化他の果と云わるる所以である。『和讃』に
  安楽無量の大菩薩   一生補処にいたるなり
  普賢の徳に帰してこそ 穢国に必ず化するなれ。
は即ちこれである。
 三。因〈ちな〉みに本文には未証浄心の菩薩に就いて云うてあるが、その意は菩薩以下の人天にも通ずることは明らかである。 『安楽集』下二十一丁に、此の文を釈して
  浄土論に云わく、十方の人天彼国に生ずれば、即ち浄心の菩薩と二つなし。浄心の菩薩は即ち上地菩薩と畢竟して同じく寂滅忍を得、故に更に退転せず。
と云うてある。今はただ代表的に菩薩丈を挙げたのである。

略説八句 示現如来自利利他 功徳荘厳 次第成就応知。
此云何次第 前十七句 是荘厳国土功徳成就。既知国土相 応知国土之主。是故次観仏荘厳功徳。彼仏若為荘厳 於何処座。
是故先観座。既知座 已宜知座主。是故次観仏荘厳身業。既知身業 応知有何声名。
是故次観仏荘厳口業。既知名聞 宜知得名所以。是故次観仏荘厳心業。既知三業具足 応知為人天大師 堪受化者 是誰。是故次観大衆功徳。 既知大衆有無量功徳 宜知上首者誰。是故次観上首。上首是仏。既知上首 恐同長劫。是故次観主。既知是主 主有何増上。是故次観荘厳不虚作住持。八句次第成也。

【読方】略して八句をときて、如来の自利々他の功徳荘厳、次第に成就したまえるを示現したまえりと。しるべし。これはいかんが次第するとならば、さきの十七句はこれ荘厳国土の功徳成就なり。すでに国土の相をしんぬ。国土の主をしるべし。この故につぎに仏荘厳功徳を観ず。かの仏もし荘厳をなして、何〈いずれ〉の処にしてか坐したまえる。このゆえにまず座を観ずべし。すでに座をしんぬ。已によろしく座主をしるべし。この故につぎに仏、身業を荘厳したまえるを観ず。すでに身業をしんぬ。いかなる声名かましますとしるべし。このゆえにつぎに仏、口業を荘厳したまえるを観ず。すでに名聞をしんぬ。よろしく得名
(2-763)
の所以をしるべし。このゆえにつぎに仏の心業を荘厳したまえるを観ず。すでに三業具足したまえるをしんぬ。人天の大師となりて、化を受くるに堪えたる人はこれ誰ぞとしるべし。この故につぎに大衆の功徳を観ず。すでに大衆無量の功徳いますことをしんぬ。よろしく上首は誰ぞとしるべし。この故につぎに上首を観ず。上首はこれ仏なり。すでに上首を知んぬ。おそらくは長幼に同じきことを。この故につぎに主を観ず。すでにこの主を知んぬ。主いかなる増上かましますと。このゆえにつぎに荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。
【字解】一。不虚作住持  虚作はむだごと、如来は、むだでない真実の大威力〈おおみちから〉を以て、しっかりと持ちこたえ給う事。
【文科】観行体相の文の中、下にとく所の還相菩薩の背景として、この文を引きたまう。
【講義】『浄土論』に、「略して八句を以て、阿弥陀如来の自利利他の功徳荘厳を次第に成就し給うたことを示現した」というてある。この八種の荘厳はどういう風に次第するのであるかというに、前の十七句を以て国土の功徳荘厳の成就を示し畢ったから、次に、その国土の主を知らねばならぬ。それで仏の荘厳功徳を観察する。この中第一に、仏はいかなる座に坐し給うかを知らねばならぬから、座を観ずる。座を観じて了って、今度は座主を観ずるのであるが、この中三つに分かれて、初めに御身体の上にいかなる相好の荘厳を成就
(2-764)
し給えるかを観ずる。仏身を知り已って、仏にはいかなる名がましまし、いかなる声を以て衆生を摂し給うかを知らねばならぬ。それで口業を観ずる。仏の御名の遠く聞え給うを知って、この御名を得給うた所以を知らねばならぬから、次に仏の心業を観ずる。扨て斯くして仏の三業悉く円満に具足し給うを知って、その次にはこの人天の大師から化益を受くべき人は誰であるかを思い、次に大衆を観察する。この大衆に無量の功徳の在すを知って、次にその上首は誰で在すかを観ずる。上首というは仏である。既に上首を知り終ったが、これだけでは、仏と大衆との区別がはっきりせず、仏を長とし、大衆を幼とし、長幼の区別丈では特別の恭敬を仏に致さぬ恐れがあるから、次に主を観ずる。仏は主、菩薩人天の大衆は眷属ということを知る。それから次に、この主たる仏にはいかなる増上〈すぐれた〉る功徳在すかを知らねばならぬ。それで不虚作住持の功徳を観ずるのである。以上が八句の次第をなしているのである。
【余義】一。此の文は『浄土論』の八種荘厳を結んだ文を釈したものである。即ち「此云何次第」以下は正しく『論註』の解釈である。懇切に依報荘厳の後に正報荘厳の来るべきことをのべ、更にその八種荘厳の次第を述べ、終りに仏の本願力たる不虚作住持の徳を
(2-765)
あげて八種荘厳の次第を結ぶ。
 本文の引意に就いて諸説区々であるが、要するに下の四種荘厳に説く所の還相菩薩の背景として、此の文を引用せられたことと思われる。即ち此の文は初めに依報をあげ、次に正報八種を略述してある。即ち次の菩薩四荘厳を鮮かにするには、極めて適当なる背景である。

観菩薩者 云何観察菩薩荘厳功徳成就。観察菩薩荘厳功徳成就者 観彼菩薩 有四種正修行功徳成就 応知。
真如是諸法正体。体如而行則是不行。不行而行名如実修行。体唯一如 而義分為四。是故四行以一正統之。

何者為四。一者於一仏土 身不動揺 而徧十方。種種応化 如実修行常作仏事。

偈言
安楽国清浄 常転無垢輪
化仏菩薩日 如須弥住持。
故。

開諸衆生淤泥華故。八地已上菩薩 常在三昧 以三昧力 身不動本処 而能徧至十方 供養諸仏 教化衆生。
無垢輪者 仏地功徳也。仏地功徳 無習気煩悩垢。仏為諸菩薩 常転此法輪。
諸大菩薩亦能以此法輪 開導一切 無蹔時休息。故言常転。法身如日 而応化身光 徧諸世界也。言日未足 以明不動 復言如須弥住持也。
淤泥華者 経言 高原陸地不生蓮華。卑湿淤泥 乃生蓮華。此喩凡夫在煩悩泥中 為菩薩開導 能生仏正覚華。諒夫紹隆三宝 常使不絶。

二者 彼応化身 一切時不前不後 一心一念放大光明 悉能徧至十方世界 教化衆生。種種方便 修行所作 滅除一切衆生苦故。
偈言
無垢荘厳光 一念及一時
普照諸仏会 利益諸群生
故。
上言不動而至。容或至有前後。是故復言 一念一時無前無後也。

三者 彼於一切世界 無余照諸仏会。大衆無余 広大無量 供養恭敬賛嘆 諸仏如来功徳。
偈言
雨天楽華衣 妙香等供養
讃諸仏功徳 無有分別心
故。
無余者 明徧至一切世界 一切諸仏大会 無有一世界・一仏会不至也。
肇公言 法身無像而殊形。並応至韻。無言 而玄籍弥布 冥権無謀 而動与事会。蓋斯意也。

四者 彼於十方一切世界 無三宝処 住持荘厳 仏法僧宝功徳大海 徧示令解如実修行。
偈言
何等世界無 仏法功徳宝
我願皆往生 示仏法如仏
故。
上三句 雖言徧至 皆是有仏国土。
若無此句 便是法身 有所不法。上善有所不善。観行体相竟。

【読方】菩薩を観ぜば、いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行功徳成就したまえることありとしるべし。真如はこれ諸法の正体なり。体如にして行ずれば、すなわちこれ不行なり。不行にして行ずるを如実修行となづく。体はただ一如にして、義をもってわかちて四とす。このゆえに四行は一をもって正しくこれを統〈つか〉ぬ。何者をか四とする。一には一仏土において、身動揺せずして十方に遍す。種々に応化して実のごとく修行して、つねに仏華をなす。偈に安楽国は清浄にして、つねに無垢輪を転ず、化仏菩薩は日の如く、須弥に住持するが如きの故にとのたまえり。諸の衆生の淤泥華を開くが故にとのたまえり。八地已上の菩薩はつねに三昧にありて、三味力をもって身本処を動せずして、よくあまねく十方に至りて諸仏を供養し、衆生を教化す。無垢輪は仏地の功徳なり。仏地の功徳は習気煩悩の垢ましまさず。仏もろもろの菩薩のために、つねにこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩は、またよくこの法輪をもって、一切を開導して暫時も休息なけん。かるがゆえに常転という。法身は日のごとくして、応化身の光もろもろの世界に遍するなり。日というは未だもって不動を明かすにたらざれば、また如須弥住持というなり。淤泥華というは、経にのたまわく、高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず。これは凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よ
(2-768)
く仏の正覚の華を生ずるにたとう。諒〈まこと〉にそれ三宝を紹隆して、常に絶えざらしむと。二には、かの応化身、一切のとき前ならず後ならず、一心一念に大光明をはなちて、悉くよくあまねく十方世界にいたりて、衆生を教化す。種々に方便し、修行所作して一切衆生の苦を滅除するがゆえに、偈に無垢荘厳の光、一念および一時に、あまねく諸仏の会をてらして、もろもろ一の群生を利益する故にとのたまえり。上に不動にして至るといえり。あるいは至るに前後あるべし。この故にまた一念一時無前無後とのたまえり。三にはかれ一切の世界において、余なくもろもろの仏会をてらす。大衆余なく、広大無量にして諸仏如来の功徳を供養し、恭敬し讃嘆す。偈に天の楽華衣、妙香等をふらして諸仏の功徳を供養し讃〈ほ〉むるに分別の心あること無きが故にとのたまえりと。無余というは、あまねく一切世界、一切諸仏大会にいたりて、一世界一仏会として、至らざること有ること無きを明かすなり。肇公のいわく、法身は像〈かたち〉なくして 形をことにし、ならび応ず。至韻に言なくして玄籍いよいよしき、冥権はかりごと無くして、動じて事と会すと。蓋しこの意なり。四には、かれ十方一切の世界に、三宝ましまさぬ処において、仏法僧宝、功徳大海を住持し荘厳して、遍くしめして如実修行を解〈さと〉らしむ。偈になんらの世界にか仏法功徳宝ましまさざらん。我ねがわくばみな往生して、仏法を示して仏の如くせんとのたまえるが故にと、かみの三句は遍く至るというと雖ども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句なくば便ちこれ法身、法ならざる所あらん。上善、善ならざる所あらん。観行の体相はおわりぬ。
【字解】一。無垢輪  穢れなき法輪。煩悩のけがれなき教法のこと。教法の流通せらるること、車輪のめぐる
(2-769)
ようであるというので、輪の字を須〈もち〉ゆ。
 二。習気  薫習した気分。臭いものを取り去りても、尚その余臭の器物に残っているようなものをいう。煩悩の体尽きても、なほ習慣性の残っているを習気という。
 三。肇公  僧肇のこと。三論宗の僧。支那長安の貧家に生まれ、傭書を業とし、老荘の学を好む。後「維摩経」を読みて仏教に帰し、鳩摩羅什を師として、翻経を助く、「宝蔵論」「物不変論」「不真空論」「般若無知論」等の註釈を作り、頭悩の透徹せること、什門中第一と称せられた。姚秦の弘始十六年(西暦、四一四)寿三十一歳にして寂す。
 四。至韻  至極の韻〈ひびき〉、妙なる精神的音律。
 五。玄籍  幽玄なる意義を有する典籍。
 六。冥権  深い企図〈もくろみ〉。麁難な心でかれこれ計うのではなく、自然任運の計いをいう。
【文科】観行体相の文によりて、還相菩薩の利他の大用を説く一段である。
【講義】『浄土論』に「菩薩を観ずるというは、いかように菩薩の荘厳功徳成就を観ずるのであろうか。菩薩には四種の正修行功徳を成就し給うてある。応に知るべし」というてある。正修行というは、真如は万法の本体である。今茲に真如というは、空無所得の理のことで、色法であれ、心法であれ、その体を押えれば無所得の空である。而してこの真如の
(2-770)
理は辺邪h離れているものであるから、諸法の正体といわれるのである。この諸法の正体たる真如に体達して行ずるを体如而行(体如にして行ず)という。空無所得の真如に体達して行ずれば、終日度して度する衆生もなく、終日供養して供養する仏もなし、行即不行である。不行にして行するを如実修行という。これが正修行である。この正修行は四種に分かれるというけれども、体にかわりのあるのではない。同じく真如の理に体達して行じるのであるが、義の方からわけて四種とするのである。それでこの四行を一に統〈つか〉ねて正修行とするのである。四種とは何であるか。
 一には、一仏の浄土にあって実身を動かさずして、十方世界に至り、応化の身を種々に現じ、上諸仏を供養し、下衆生を済度し、如実の修行をなし、常に供養済度の仏事をなし給うのである。偈には安楽国は清浄にして常に無垢輪を転じ、化仏菩薩は日の如く、須弥に住持するが如しというてある。諸の衆生の淤泥華を開かしむるからである。以上は『浄土論』の論文であるが、八地以上の菩薩は常に三味に住し、この三味の力に依って、実身は本処を動かず、応化の身を十方世界に現じ、上諸仏を供養し、下衆生を教化するのである。無垢輪というは、仏果位の功徳のことで、正使の煩悩もなく、その習気も在さぬ故に無
(2-771)
垢という。仏は諸の菩薩のためにこの法輪を転じて、功徳を得せしめ給う。大菩薩も亦この法輪を転じて一切人天を開化し、暫くも休み給わぬ。これを常に無垢輪を転ずというのである。法身即ち功徳の実身は太陽の如く、その御身より応化身の光を十方世界に遍満せしめ給う。須弥の住持するが如しというは日の如しというた丈ではまだ不動ということを顕わし得ないから、更に言を重ねて、大須弥山のこの世界を支へ持って動かざるに譬え給うたのである。淤泥華というは、『維摩経』に「高原の陸地には蓮華を生ぜず、低い湿地の淤泥の中に蓮華を生ず」とあって、蓮華を指して淤泥華というたものである。これは凡夫が煩悩の泥の中にあって、菩薩の開導を受け仏のさとりの華を開くに譬えたものである。この第一の正修行は三宝の種子を紹経〈つぎたて〉て、世間に絶えざらしむる大功徳あるものである。
 二には、彼の大菩薩の応化身、すべての時、前後なく、一念一時に同時に大光明を放って、十方の世界に至り、衆生を教化し、種々に善巧方便のみ手をまわして、修行し、その所作、一切衆生の苦悩を除いて下さるのである。それで偈には無垢荘厳の光、一念一時に、普く一切諸仏の会座を照し、諸の衆生を利益済度し給うというたのである。前の第一の正修行の処では実身を動かさずして十方世界に至ると示しであるが、その不動にして十
(2-772)
方に顕われ給うには前には西に顕われ、後には東に顕わるというように前後のあるのではないから、茲に一念一時に前も後もないのであると示し給うたのである。
 三には、彼の大菩薩、残す処なく一切の世界にいたり、余りなく諸仏の会座の大衆を照らし、その力広大にして量ることが出来ぬ程、諸仏如来を供養し恭敬し、讃嘆し給うのである。偈には「天楽華衣妙香等を雨ふらし諸仏を供養し、その功徳を讃嘆して、分別の心はない」というてある。余りなくというは、一切世界に残らずいたり、一切諸仏の大会座を残らず照らし、いたらぬ世界もなく、照らさぬ仏会もないということを示すのである。僧肇師は『註維摩経』の序に「諸仏大菩薩の実身は眼根の対境でないから像はないが、而も像なくして無類の形を示し、衆生の機に応じて、無量の説法をなし給う。その声は又空無所得にして畢竟して所有のないものであるが、それでいて幽玄なる八万四千の教法を布〈し〉き給うのである。深淵なる方便利物の智慧は空無所得に佳して、度すべき衆生も、求むべき菩提もなし、何の衆生を縁じてあれやこれや謀らうことなきも、而も苦楽差別の因果を縁じて、衆機に応じて誤たず化益し給うのである」というてあるが、蓋しこのことをいうたものである。
(2-773)
 四には、十方のすべての三宝の絶え果てた世界に於いて、三宝の限りなき功徳をしかと持ち、その徳を称め讃えて荘厳し、遍く一切衆生に示して、如実の修行を解〈わか〉らしめ給うのである。偈に何等の世界なりとも、仏法(僧)の功徳宝のない処に、私は応化の身を示現して、仏の如く仏法を示すであろうというてある。上の三正修行の処では、遍く十方世界に至るというてあるが、然しこれは有仏の世界である。それでこの無仏の世界に三宝を住持するというこの句がなければ、法身も法身たるを得ない処があり、上善の教法も上善と云われぬ処があるのである。これで観行体相が終ったのである。
【余義】一。此の下、正しく還相菩薩の利他の応用〈はたらき〉を明かす。法性の証りから自ずと起こる活動〈はたらき〉である。第二十二願文の「諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修む」等の文を細かに示した文である。
 第一は不動遍至の徳である。身を動かさずして十方の諸仏を供養し、衆生を化益して暫くも休息〈や〉む時はない。この不断の活動、不断の進転が菩薩の生活である。吾等はこの理想の生活を、近く味わわねばならぬ。
 その活動の中に衆生を化益することを示したのが「諸の衆生の淤泥華を開かしむる」の文である。鸞師は『維摩経』巻八の文を引いて、高原に蓮華は生ぜずして、泥中に生ずる
(2-774)
喩えを出だし、そして煩悩具足の凡夫が、還相の菩薩の為に開導せられて、正覚華を開くことを釈せられた。この時の正覚の華とは云うまでもなく他力の信心である。
 『六要』には二義をあぐ

     ┏淤泥‥‥衆生煩悩
  第一義┫
     ┗華‥‥‥仏性

     ┏淤泥‥‥性徳
  第二義┫
     ┗華‥‥‥修徳

 その他、正覚華を仏知見とか、菩提心とかという説もあるが、要するに他力回向の信心を指す。以上の説も此の信心の替名〈かえな〉としては意味がある。即ち還相菩薩の利他の活動ということは、要するに教人信の外はないからである。
 第二は一念普生の徳である。第一を空間的と云えば、是は時間的である。一念の心のゆらぎに十方に至りて化益を施すのである。これ実に神秘不可思議境である。
 第三は無余供養の徳である。即ち下衆生を化益するとともに、どこ迄も上菩提を求めるのである。果後の還相菩薩の応用〈はたらき〉が、果前の修道の形式を同じいことは注意すべきもので
(2-775)
ある。
 肇公の言とは、『註維摩』の序文である。「法身無像」等は身業、「至韻無言」等は口業、「冥権無謀」等は上を結んだ言葉である。此の文の初めに「夫聖知は無知にして、而して万品倶に生ず」という意業の文を略してある。但し「冥権無謀」等の文を意業と解することも出来るから、態〈わざ〉と上の文を略されたのかも知れない。そして此の文は第三徳の下に引用せられてあるけれども、総じて還相菩薩の化益を三業に順じて示したものである。是れ真実の意味に於ける伝道の形式である。一定の像がないから、方円の器に順う水のように、形を異にして万機に応ずることが出来る。又真実の言葉は、決して常識に考えているような定〈きま〉った浅いものではない。この真〈まこと〉の言葉を使用することによりて、その言葉が直観的に伝達流布せらるるのである。更に伝道の意志も、計〈はか〉らいを離れた自然に流露するものでなければならぬ。この自然法爾の意志によりて、能く対機〈あいて〉の心に感応するのである。巧なる猟人は何心なく覘〈ねら〉う。この覘〈ねら〉いが早や射ているのである。伝道の意志〈こころ〉もこれでなければならぬ。
 第四は、無仏世界の伝道である。還相の菩薩は単に仏法流布の国のみならず、常に無教地に向かって三宝を宣伝することを怠らない。ここに生々溌刺たる生新の活動がある。不断
(2-776)
の希望がある。

第三科 浄入願心の文

已下 是解義中第四重。名為浄入願心。浄入願心者 又向説 観察荘厳仏土功徳成就 荘厳仏功徳成就 荘厳菩薩功徳成就。此三種成就 願心荘厳 応知。
応知者 応知此三種荘厳 成就由 本四十八願等 清浄願心之所荘厳 因浄故 果浄。非無因 他因有也。

【読方】已下はこれ解義の中の第四重なり。なづけて浄入願心とす。浄入願心はまた向〈さき〉に観察荘厳仏土功徳成就と、荘厳仏功徳成就と、荘厳菩薩功徳成就とをときつ。此の三種の成就は、願心の荘厳したまえるなりとしるべしといえり。応知というは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄願心の荘厳せるところなるによりて、因浄なるがゆえに果浄なり。因なくして他の因のあるには非ずとしるべしとなり。
【文科】初めに正しく浄入願心の相を示したまう一段。
【講義】これから下は、『浄土論』解義分の中の第四番目で浄入願心と名づけてある。
(2-777)
浄入願心というはいかなることかというに、『浄土論』の文には、向〈さき〉に仏土荘厳と、仏荘厳と、菩薩荘厳の三種の荘厳を説き終ったが、この三種の荘厳は阿弥陀如来の本願心から荘厳成就し給うたものである。応に知るべしというてある。この意味はこの三種二十九種の荘厳は阿弥陀如来因位四十八願の清浄の御心から荘厳成就し給うたもので、因の願心已に清浄なるが故に、果の荘厳も清浄である。因のないのでもなければ、他の因に依るのでもない、清浄願心の因に依るのである。三種二十九種の荘厳一々皆清浄であるが、これを因にかえして、如来の願心に摂入するを浄入願心というのである。
【余義】一。浄入願心章は、大凡〈おおよそ〉三段に頒〈わか〉る。此の文と以下の二文である。此の文は浄土の三種荘厳は、法蔵菩薩の願心より成就したことを示し、次の文は、その三種荘厳は真如法性の一法句に摂〈おさま〉ることを明かし、終りの文は、その一法句より二種清浄を開顕することを説く。
 其の中、此の文は正しく浄入願心を明かす。浄は清浄の義、法蔵菩薩の清浄なる願心の因と、それより起こる清浄なる浄土の三種荘厳の果をいう。入は酬入の義、浄土の広大微妙なる三種荘厳は、法蔵菩薩の願心に酬入したることを示す。三段の意義は各異なるけれども鸞師は
(2-778)
初めの文を以てその章の名とせられた。
 二。大凡〈おおよそ〉浄土の三種荘厳は二種の因をもつ。一は正因、二は依因である。正因とは正しく浄土を建立すべき本願力である。依因とはこの浄土が依って立つ所の真如法性である。例えば彫刻師が大理石を用いて仏像を刻むに、その彫刻師の美的思想力は正因、その材料たる大理石は依因である。そして完成したる仏像は三種荘厳である。この二因の中、正しく主要なるものは正因である。浄入願心とは即ちこの正因を明かす。次の一法句の文は依因を明かす。

        ┏正因━━(美的思想)願心
 (仏像)三種荘厳┫
        ┗依因━━(大理石)真如

 三。上の観行体相章は、平淡〈あっさり〉と浄土の三種荘厳の模様を叙述〈のべ〉たのであるが、是より以下は深く浄土の荘厳を内面的に表現したのである。これは還相の菩薩から云えば、その生起の源を明かしたもので、彼等は真如に依り、正しく法蔵菩薩の願心より生起したことを示すものである。
 四。因に此の文と上の「出第五門」等の文は、『信巻』欲生心の下(三四九頁)にも引用せられ
(2-779)
てある。彼処は、清浄願心によりて回向せらるることを主とし、此処は清浄願心によりて修起せられたる浄土の荘厳を明らかにす。文章は同じであるが、その彰わす意義の異なることを忘れてはならぬ。聖人は常に各種の思想を表わすに、文章の位地や言語の前後を変えることによりて、巧みに成功せられた。即ち聖人の心の前には、定〈きま〉っている文章も、宛然方円の器に順う水のように、聖人の思うがままに意義を改めた。此の鉄をも熔〈とろ〉かす熱気と、洞察〈みとお〉す力とはただ驚くの外はない。

略説入一法句故。上国土荘厳十七句 如来荘厳八句 菩薩荘厳四句 為広。
入一法句者 為略。何故 示現広略相入 諸仏菩薩有二種法身。一者法性法身。二者方便法身。由法性法身 生方便法身。由方便法身 出法性法身。此二法身 異而不可分。一而不可同。是故広略相入 統以法名。菩薩 若不知広略相入 則不能自利利他。

【読方】略して入一法句を説くが故にとのたまえり。かみの国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩
(2-780)
薩の荘厳四句とを広とす。入一法句は略とす。なんがゆえぞ広略相入を示現するとならば、諸仏菩薩に二種の法身まします。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身をいだす。この二法身は異にしてわかつべからず。一にして同ずべからず。このゆえに広略相入して、統〈かぬ〉るに法の名をもってす。菩薩もし広略相入をしらざれば、すなわち自利々他するに能わず。
【字解】一。一法句  真如法性のこと。浄土の二十九種荘厳の事相に対して、その実体の理性を一法句と称す。二十九種荘厳は差別にして広、一法句は平等にして略である。即ち一如の略より浄相の広を生じ、浄相によりて一如を顕わす、是を広略相入という。
 二。広略相入  次上を見よ。
 三。法性法身  方便法身に対す。いろも形もなき法性の理体にして、一切の処にみちみち給う。
 四。方便法身  法性法身より衆生済度の為に形を現じて法蔵比丘となり、発心修行して尽十方無碍光如来となり給う仏身を指す。
【文科】この下は一法句と三種荘厳の相入の理を示したまう一段である。
【講義】二十九種の荘厳を清浄願心を以て成就するとはいかにして知るを得るかというに、三種荘厳を広説すれば二十九種の荘厳なれども、略説すればただ一法句に入るからで
(2-781)
ある。上の三種荘厳(国土荘厳十七句、仏荘厳八句、菩薩荘厳四句)はこれを広説したものである。これを略説すれば一法句に入るのである。然らば何故二十九種荘厳の広説は一法句の略説に入るかといえば、諸仏菩薩には二種の法身が在します。真如の理体たる法性法身と、酬因の果体たる方便法身である。この真如の理体たる法性法身から、酬因の因体たる方便の法身を生じ、方便法身に依って法性法身を顕わすのである。この二種の法身は理智と分かれて、異なるものであるけれども、二つに分けることの出来るものでない。又一ではあるが混ずることの出来ないのである。一法句というはこの法性法身である。それであるから広説の二十九種荘厳は、略説して一法句の法に収まって仕舞うのである。菩薩はこの広略相入の智慧がなければ、自利利他することは出来ないのである。
【余義】一。此の下、三種荘厳と一法句との相入を説く。一法句とは『六要』に、一法は文句に詮〈あら〉わされる体、句はその体を詮〈あら〉わす文句を指すという。即ち真如をいう。
 上来浄土の三種荘厳を広説したが、その復雑な荘厳は、只真如の一法に摂まるというのが「入一法句」の論文である。此の「広略相入」の理由を述べたのが次の二法身である。『一多証文』二十一丁
(2-782)
 一実真如ともうすは無上涅槃なり。涅槃すなわち法性なり。法性すなわち如来なり。
 乃至 上の一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏となりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり。
 乃至 この如来を方便法身とはもうすなり。方便ともうすは、かたちをあらわし、御なをしめして、衆生にしらしめたまうをもうすなり。(『唯信文意』十七丁参照)
 本文には、「諸仏菩薩に二種の法身あり」とあるから、通常の法門のように取れるけれども、聖人の意は明らかに阿弥陀如来の二種法身であるとせられてある。即ち法性法身は真如一法句である。方便法身は悲智円満の報身であるから、自ずと二十九種荘厳を彰わしている。この浄土の荘厳を孕んでいる報身と法身とが不一不二であるとすれば、かの三種荘厳が真如と相入することは自明の道理である。
 「菩薩若不知」等の菩薩は、法蔵菩薩を指す。これは裏から言葉を強めて、相即相入の道理を説いたのである。怯性真如の方面から云えば、一切万法みな真如大海の波浪に過ぎないけれども、それは正しく発心修行に依らなければ、ほんの一片の空想に過ぎないのである。然るに法蔵菩薩の本願力によりて、真如法性を体現した厳浄超勝の浄土が顕現せら
(2-783)
れた。これが広(三種荘厳)略(一法句)相入の浄土である。故にこの広路相入の証りを獲ないならば、自利々他することは出来ないことは無論であるからである。

一法句者 謂清浄句。清浄句者 謂真実智慧 無為法身故。此三句 展転相入。
依何義 名之為法 以清浄故。
依何義 名為清浄 以真実智慧無為法身故。真実智慧者 実相智慧也。実相 無相故 真智無知也。無為法身者 法性身也。法性寂滅故 法身無相也。無相故 能無不相。是故 相好荘厳即法身也。無知故能無不知。是故一切種智 即真実智慧也。以真実而目智慧 明智慧 非作 非非作也。
以無為 而樹法身 明法身 非色非非色也。
非于非者 豈非 非之能是乎。蓋無非 之曰是也。
自是 無待復非是也。非是非非 百非之所不喩。是故言 清浄句。清浄句者 謂真実智慧無為法身也。

【読方】一法句はいわく清浄句なり。清浄句はいわく真実の智慧、無為法身なるがゆえに。この三句は展転して相入す。なんの義によりてか、之をなづけて法とする。清浄をもっての故に。なんの義によりてか、なづ
(2-784)
けて清浄とする。真実の智慧、無為法身をもっての故なり。真実の智慧は実相の智慧なり。実相は無相なるがゆえに真智無智なり。無為法身は法性身なり。法性寂滅なるがゆえに法身は無相なり。無相のゆえによく相ならざることなし。このゆえに相好荘厳すなわち法身なり。無知のゆえに能く知らざることなし。このゆえに一切種智すなわち真実の智慧なり。真実をもって智慧になづくることは、智慧は作にあらず、非作に非ざることを明かす。無為をもって法身を樹〈たつ〉ることは、法身は色にあらず、非色に非ざることを明かす。非にあらざれば、あに非々の能く是〈ぜ〉ならんや。けだし非なきをこれを是〈ぜ〉という。自ずから是〈ぜ〉にして、待なし。また是〈ぜ〉に非ざるなり。是〈ぜ〉にあらず、非にあらず、百非のたとえざるところなり。このゆえに清浄句といえり。清浄句というは、いわく真実の智慧無為法身なり。
【字解】一。清浄句  浄土の清浄なる依正二報を指す。
【文科】上にあげた広略相入を詳らかにに述べたまう一段。
【講義】一法句というは清浄句のことである。清浄句というは真実智慧無為法身のことである。この三句は互いに相入して一つとなるのである。その模様はいかんというに、何故〈なぜ〉法というかというに清浄であるからである。何故〈なぜ〉清浄と名づけるかというに、真実智慧無為法身であるからである。真実の智慧というは真如実相の智慧のことである。実相はこれぞという相のないものであるから、これをさとる智慧も無知にして何も知る処はないのであ
(2-785)
る。無為法身というは法性身にして、色心不可得の寂滅平等身である。法性は寂滅平等不可得であるから法身は無相にして一相もないのである。一相もない無相であるから澄淵〈すむふち〉の一相もなくして、物至れば悉くその影を宿すが如く、相々宛然として所有の相を存すのである。それであらゆる相好荘厳その儘が無相の法身である。これぞと定った智慧のない無知であるから、例〈たと〉えば明鏡の影なくして、物これに対すればすべてを写し出す如く、何事も知らないということなく一切差別の智慧を有するのである。それで一切種智が真実智慧である。何故〈なにゆえ〉真実智慧というかというに、この智慧は何も知る所ないから非作である。又一切知らざる所ないから非作でもない。それで真実智慧という。作とは物を知る作用のことである。法身を無為法身というは、この法身はこれぞと見るべき色相もなく、而して同時に一切の相好荘厳を具し給うが故に非色にして非色にあらずである。それで無為法身という。非を非するは非でない是〈ぜ〉であるということではない。是〈ぜ〉と執を留むる是〈ぜ〉のことではない。是であるといふ執著を離れた、非でない是のことである。又、ただ是で、非という相対を離れたものも是ではない。それであるから今茲に作に非ず、非作にあらず、色に非ず、非色に非ず等というたのは、是にも非ず、非にもあらず、百非を離れて喩えることの出
(2-786)
来ない処をいうたものである。これを清浄句という。それで清浄句というは真実の智慧無為法身のことである。
【余義】一。「一法句者謂清浄句(一法句は謂わく清浄句)」以下は、進んで広略相入を詳述す。一法句は真如、清浄句は三種荘厳、真実智慧無為法身は法性を離れざる報身仏を指す。この三句か互に相入するとは、相寄りて各自の何たるかを表わすというのである。即ちこの三句は、三本の竹を束ねて大地へ建てたように、因果同時に一の具体的の表現をなしているのである。従って一をあぐれば他の一つは同時に摂〈おさ〉まる。即ち真如の「法」とは何ぞやと云えば、二種清浄(浄土の依報正報)を有しておるからである。然らば二種清浄は何であるか、それは法性を離れざる真実の報身如来の内容であるからである。かように三句は相寄りて各自の意義を表わし、又各の一つは他の二つを含めた具体的のものである。この融通無碍にして亦徒〈いたずら〉に理談に奔〈はし〉らぬ所に、思弁を離れ、常識を超越した神秘がある。「法身は無相の故に相ならざるなし」等は、鸞師一流の表現法であるが、ここに云わんとして云うことの出来ない妙趣があるのである。古、支那の鳩摩羅什門下に僧肇、道生の二師あり、僧肇は法身有相説をたて、道生は法身無相説を唱えた。この二説の内容は単なる文字によりては
(2-787)
容易に知ることは出来ないのであるが、絶対に対する見解は大凡この二系統に属するものである。有相説は稍もすれば浅薄に流れ、無相説は亦空寂の消極説に陥る。この二説相破し、相救うて真実義を生むのである。即ち有相は肯定説にして、無相は否定説である。或いは実の所、真の否定は真の肯定であり、真の肯定は真の否定であるかも知れぬ。即ち永遠の肯定と永遠の否定は同一であらねばならぬ。この意味に於いて二師の正反対の説は根底に於いて一致しておったのかも知れない。とまれ鸞師はその中、有相説を取られた。湛然寂静のそのままに端厳絶妙の浄土があるとせられた。無為涅槃界そのままが七宝妙楽の荘厳であるというのである。寂滅無為の静を望む吾等は、亦神通方便の動を願わずにはおられぬ。吾等の理想の浄土はこの動静を円備した絶対界である。そして是れ亦我聖人の浄土である。

此清浄有二種 応知。上転入句中 通一法 入清浄 通清浄入法身。今将 別清浄 出二種故。故言応知。

何等二種 一者器世間清浄 二者衆生世間清浄。器世間清浄者 如向説十七種荘厳仏土功徳成就 是名器世間清浄。
衆生世間清浄者 如向説 八種荘厳仏功徳成就 四種荘厳菩薩功徳成就 是名衆生世間清浄。
如是 一法句 摂二種清浄義 応知。

夫衆生 為別報之体。国土為共報之用。体用不一。所以応知。
然諸法 心成無余境界。衆生及器 復不得異不一。則義 分不異 同清浄。
器者用也。謂彼浄土 是彼清浄衆生之所受用故 名為器。如浄食用不浄器 以器不浄故 食亦不浄。不浄食 用浄器 食不浄故 器亦不浄。要二倶潔 乃得称浄。
是以 一清浄名 必摂二種。

問曰 言衆生清浄 則是仏与菩薩。彼諸人天 得入此清浄数不。

答曰 得名清浄 非実清浄。譬如出家聖人 以殺煩悩賊故 名為比丘。凡夫出家者 亦名比丘。
又如灌頂王子初生之時 具三十二相 即為七宝所属。雖未能為転輪王事 亦名転輪王。以其必為転輪王故 彼諸人天 亦復如是。皆入大乗正定之聚 畢竟当得 清浄法身。以当得故 得名清浄。

【読方】この清浄に二種あり。しるべし。かみの転入の句のなかに、一法に通じて清浄にいり、清浄に通
(2-789)
じて法身にいる。いま将に清浄を別〈わか〉ちて二種を出だすがゆえなり。故にしるべしといえり。
 なんらか二種、一には器世間清浄、二には衆生世間清浄なり。器世間清浄というは、向〈さき〉に説くが如きの十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄となづく。衆生世間清浄というは、さきにとくが如きの八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就と、これを衆生世間清浄となづく。是のごとく一法句に、二種の清浄の義を摂すとしるべしとのたまえり。それ衆生は別報の体とす。国土は共報の用とす。体用ひとつならす、このゆえにしるべし。しかるに諸法は心より成ず。余の境界なし。衆生および器、また異にして一ならざることをえず。すなわち義をもってわかつに異ならざれば同じく清浄なり。器は用なり。いわく、かの浄土はこれかの清浄の衆生の受用するところなるが故になづけて器とす。浄食に不浄の器をもちうれば、器不浄なるを以てのゆえに食また不浄なり。不浄の食に浄器をもちうれば、食不浄なるがゆえに器また不浄なるがごとし。要〈かなら〉ず二ともに潔〈いさぎ〉よくして、いまし浄と称することをえしむ、ここをもってひとつの清浄の名、かならず二種を摂す。
 問うていわく、衆生清浄といえるはすなわちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人天、この清浄の数に入ることを得んやいなや。
 こたえていわく、清浄となづくることをうるも、実の清浄にあらず。たとえば出家の聖人は、頓悟の賊を殺すを以ての故に、なづけて比丘とす。凡夫の出家のものをまた比丘となづくるがごとし。また潅項王子初生のとき、三十二相を具してすなわち七宝のために属せらる。いまだ転輪王の事をなすこと能わずといえども、ま
(2-790)
た転輪王となづくるごとし。それかならず転輪王たるべきを以てのゆえに。かのもろもろの人天もまたまた是の如し。みな大乗正定の聚にいりて、畢竟してまさに清浄法身を得べし。まさに得べきを以てのゆえに、清浄となづくることを得るなり。
【字解】一。別報の体  有情〈いきもの〉の各々は、それ自身特有なる果報である。そしてまた果報の主体であるから、衆生の心身を指して、別報の体という。
 二。共報の用  山河大地等は、各々の有情が共に等しく受 用する所であるから共報の用という。
 三。潅項王子  輪王の王子。王子はやがて潅項の式を受けて、輪王の位に昇るに定っている故に此の名あり。
【文科】この下第三に、一法句と二種清浄の交際を明す。
【講義】『浄土論』の論文に、この清浄に二種あり、応に知るべしというてある。これは、上の三句転入を示した処に、一法句は清浄句に入り、清浄句は無為法身に入るというた、その清浄を今茲に二種に分かとうとするのである。それで応に知るべしというたものである。
 二種の一清浄とは何であるか。一に器世間清浄、二に衆生世間清浄である。器世間清浄というは、前に説かれた依報十七種の仏土荘厳のことである。衆生世間清浄というは前に説かれた八種の仏功徳荘厳と四種の菩薩功徳荘厳のことである。それで略説すれば一法句に
(2-791)
収まり、開けば二種清浄となり、更に開けば三種荘厳二十九種荘厳等となるのである。
 一体、衆生は不共業で感得する果報であり、国土は共業で感得する果報である。正報は果報の本体であるから体といい、依報は正報に依って起こったもの故、用という。不共業の果、共業の果、体用と別れて居るから、二種清浄と二つに分けたものである。それで応に知るべしと宣うのである。
 元来諸法は心より生じたもので、心は巧みなる画師の如く何物をも作り出すのである。この心から成じたもの、外に別に物があるのではない。それであるから衆生と国土と別に異なったものでもなく、さりとて又一ということの出来るものでもない。心より成じたもの故異なるを得ず、有情非情異なれば一でもない。不一の辺で義を以て衆生と器界を分かち、同じく心より成じで不異であるから、衆生器界共に清浄というたのである。抑も器とは用という義で何かに使用するものを器というのである。彼の極楽世界は清浄の衆生即ち仏菩薩の受用し給う所のものであるから器という。清浄な食物を不浄の器に盛れば、器が不浄であるから食も不浄になり、不浄の食を清浄の器に盛れば、食が不浄であるから器も亦不浄になる。食も器も清浄で、初めて清浄ということが出来るのである。それで、一の清浄
(2-792)
という語に、器界の清浄と衆生の清浄を含んでいるのである。
 問うて曰く、衆生の清浄というのは、仏と菩薩を指していうのであるが、この外にかの安楽世界の人天もこの清浄という数に入るのであるか。答えて曰く、清浄とは名づけてあれども、実の清浄ではない。譬えていうと、剃髪染衣して袈裟を着けたる見道以上の聖者は、煩悩の賊を殺して畢〈しま〉ってあるから比丘と名づける。然し普通の凡夫の出家でもやはり比丘と呼ぶようなものである。又潅項の王子、即ちやがて潅項を受けて転輪聖王となるべき輪王の王子は初め生まるる時、三十二相を具し、輪王の七宝を所有して居る。いまだ転輪王の事業はなさずとも、いつか転輪王となるべき人であるから転輪王と呼ぶようなものである。彼の安楽世界の人天も皆大乗正定聚に入っていつかは無為清浄法身を得給うべき方であるから清浄というのである。
【余義】一。此の文は一法句と二種清浄の関係を細説す。良〈まこと〉に吾等の心を離れて世界の何たるかを知ることが出来ず、又世界を離れて吾等の心を知ることも出来ない。主観と客観とは暫くも離れることが出来ないのである。されど深く考えれば境界は心の産む所である。故に心が浄ければ世界も清い。心が穢〈きた〉なければ世界もまた随って穢いのである。この二つは
(2-793)
全く一つではないが決して相離れず、常に一身同体のように同一の血が流れておる。今や浄土にありてもこの通りである。円〈まど〉かに仏心を開発している主観の前には、あらゆる客観は皆清浄微妙のものである。この浄土に於ける主観と客観が同一清浄であるというのが、一法句の真如と二種清浄の相即する所である。

挿図 yakk2-793.gif

            ┏器世間━━依報十七種荘厳━━━┓
一法句(真如)⇔二種清浄┫               ┃
            ┃       ┏仏八種荘厳━━╋二十九種荘厳
            ┗衆生世間━正報┫       ┃
                    ┗菩薩四種荘厳 ┛


 第四科 善巧摂化の文

善巧摂化者 如是菩薩 奢摩他 毘婆舎那 広略修行 成就柔軟心。
柔軟心者 謂広略止観 相順修行 成不二心也。
譬如以水 取影 清静相資 而成就也。

如実 知広略諸法。如実知者 如実相而知也。広中二十九句 略中一句 莫非実相也。

如是成就巧方便回向。如是者 如前後広略 皆実相也。以知実相故 則知三界衆生虚妄相也。知衆生虚妄 則生真実慈悲也。知真実法身 則起真実帰依也。慈悲之与帰依巧方便 在下。

【読方】善巧摂化というは、
 是のごときの菩薩は、奢摩他、毘婆舎那、広略修行成就して、柔軟心を成就すと。柔軟心というは、いわく広略の止観相順し、修行して不二の心を成ず。たとえば水をもって影をとるに、清と浄とあひ資〈たす〉けて成就するがごとし。
 実のごとく広略の諸法を知るとのたまえり、如実知というは、実相のごとく而もしるなり。広のなかの二十九句と、略のなかの一句と実相にあらざることなし。
 かくのごとき巧方便回向を成就したまえりとのたまえり。是の如きというは、前後の広略みな実相なるが如きなり。実相を知るをもっての故に。即ち三界衆生の虚妄の相をしる。衆生の虚妄をしれば、即ち真実の慈悲を生ず。真実の法身をしれば、すなわち真実の帰依をおこす。慈悲と帰依と巧方便とはしもにあり。
【文科】三段に分かちて浄土の菩薩の善巧摂化を示したまう。第一は菩薩の止観広略の修行円かに相応す
(2-795)
ること、第二にその広(二十九種荘厳)略(一法句)は実相であること、第三にその実相を知ることから大慈悲の生ずることをのべたまうのである。
【講義】善巧摂化というは、是の如き大菩薩達が、心を一境に止むる奢摩他の止と、広(二十九種)略(一法句)を観ずる毘婆舎那の観と、この止観の修行を以て、大慈悲心を成就し給うのである。柔軟心というは大慈悲心のことで、広略を観ずる観と此の観に離れない止と、止観亙いに相資〈あいたす〉け相順して、止観不二の心を成ずるので、この不二の心は実相に契い、空無所得に住して、そのまま衆生の迷悟因果の相を知って、任運に大慈悲心が起こすのである。この止と観と相資け相順して不二の心を成ずるは、譬えば水が影を宿すには、清くて静かでなければならぬ。清と静と相資けて影を宿すようなものである。
 『浄土論』文には実の如く広略の諸法を知るというてある。実の如く知るというは、実相無相に契〈かな〉うて知るということである。広の二十九種荘厳であれ、略の一法句であれ、すべて実相ならぬものはない。それで、広略を知るというはつまり実相を知るということである。
 『浄土論』文に、菩薩は是の如くに善巧方便の回向を成就し給うたというてある。是の如
(2-796)
くにというは、前の観行体相章に示された二十九種荘厳の広説を、その次の浄入願心章に示された一法句の略説も、皆実相無相ならぬはなく、この実相を知るから、衆生の迷悟因果の相を宛然〈さながら〉に見、その虚妄の有様を知って、真実の大慈悲心を起こすのである。又実相無相は真実の法身であるから、実相を知るはこの真実の法身を知るのである。真実の法身を知れば、真実の帰依を生じて、仏に帰依する。真実の帰依というは、凡夫有所得の顛倒の帰依ではなく、無所得に住して帰依し、終日帰依して、帰依の仏を見ないことをいうのである。この下衆生に対して起こす慈悲と、上仏に対して起こす帰依と具足して欠けず、相随いて離れざるのを菩薩の巧方便というのである、この巧方便は尚くわしく下に示されている。
【余義】一。善巧摂化章以下主題となれる菩薩の意義が曖昧である為に、非常に解し悪〈にく〉い。之に就いて先輩は大凡〈おおよそ〉左の説に一致している。
 (一)願生行者を指す。論文の表面より見れば、この菩薩は明らかに願生行者の修道の因果を示したものであるという。
 (二)法蔵菩薩を指す。これは聖人が其の著『二門偈』に於いて示されたもので、論文に
(2-797)
表われたる菩薩の修道の因果は法蔵菩薩の発心修行を説いたものであるという。
 (三)還相菩薩を指す。之は今の還相回向の下に此の文を引用せられたことによりて知られるという。
 以上の三説はあらゆる場合を尽しているが、此の下は第三説が主要であると思う。此処に引用せられたるあらゆる文章は、皆この還相回向の菩薩を各方面より表起〈あらわ〉さんが為に外ならぬ。然るに其の還相の菩薩が、単に菩薩という普通名詞であるが為に、或る時は願生行者にも解せられ、又或る時は法蔵菩薩にも解せらるることは、其の同一の引文が異なる意味をもって、各書籍に引用せられたというばかりではなく、此の二義は、ともに還相菩薩の裏書をなしているが為である。即ち還相の菩薩というても、単に客観的に平淡〈あっさり〉と叙述〈のべ〉られるものではない。もっと深くその内面に立ち至りて味わわねばならぬ。之を表現〈あらわ〉すには、この多含の意味をもてる『論註』の此の文が一番適切である。
 即ち還相の菩薩は、第一は現実の願生行者としての意味をもたねばならぬ。自分という小さいものに没頭する利己心の為ではなく、普く一切衆生を導いて諸共〈もろとも〉に安楽国に往生する修道者の方面を有せねばならぬ。之は少なくとも我聖人の味わわれた所である。還相の菩
(2-798)
経と云えば遠い理想界の人のように見えるがそうばかりではない。信念の上から自ずと現実にこの菩薩に接することが出来るのである。『末灯鈔』三丁
 権教というは、すなわちすでに仏になりたまえる仏菩薩の、かりにさまざまの形をあらわして、すすめたまうが故に権というなり。
『和讃』に王舎城の悲劇によりて『観経』の開説を見たるを味わわれて
   大聖おのおのもろともに  凡愚底下の罪人を
   逆悪もらさぬ誓願に    方便引入せしめけり
と仰せられ、自分を導いて下されたこの世の一切の聖賢をはじめとし、其の他順逆の二縁に関して自分を真道に赴かしめ、自分の心霊を育てて呉れる人は皆還相の菩薩であると味わわれたように思われる。そして是等の菩薩の内面生活を示したのが此の『論註』の文である。読者試みにこの見解に立ちて是より以下の文を味わわれるならば、諸文は悉く還相菩薩の現実に活動する様を示したこととなるであろう。
 若し又眼光を一転して、此の菩薩の利他大悲の根本を求むれば、法蔵菩薩である。止観相順じて五念門の行を修め、広大なる二十九種の浄土を建立す。是れ即ち深く三界の迷いの
(2-799)
衆生の心に立ちいたりて、嬰児〈おさなご〉の苦しみを苦しみとする母のように大悲の胸を絞りて、救済の力を獲られたのである。そしてこの救済力が吾等に実現する所が回向である。還相の菩薩はこの源より生起〈おこ〉り来ったのである。この見解より見れば、全文尽〈ことごと〉くみな法蔵菩薩の発心修行の因果を説いたものとなる。
 更に第三には、正しく還相の菩薩が広略相入の浄土から、大悲心をもってこの迷界に来らんとする有様を示したという意である。止観相順、広略相入は還相菩薩の自内証を示し、大悲回向の心は、その証りより出る自然の活動心を説き、巧方便回向は正しく衆生済度の模様を示す。そして此は上の第一、第二の裏書を俟ちて初めて具体的にその意義を発揮するのである。

挿図 yakk2-799.gif

   ┏━━━━━┓
   ┃ 願生行者 ┃
   ┣━━━━━┫
  還┃ 法蔵菩薩 ┃
  相┗━━━━━┛
  菩薩

(2-800)
 因に願生行者は、論の表面の意義に従えば、自力の修道者であるが、今は還相菩薩を中心として本文を解したものであるから、態〈わざ〉と還相菩薩が願生行者となりて自利利他することに味おうたのである。

        ┏願生行者━━迷いより悟りに向かう(還相菩薩の現実界の活動)
        ┃
  還相菩薩三義╋法蔵菩薩━━還相菩薩の根柢
        ┃
        ┗還相菩薩━━悟りより迷いに向かう

何者菩薩巧方便回向。菩薩巧方便回向者 謂説礼拝等五種修行。所集一切功徳善根 不求自身住持之楽 欲抜一切衆生苦故 作願 摂取一切衆生 共同生彼安楽仏国。是名菩薩巧方便回向成就。

案王舎城所説 無量寿経三輩生中 雖行有優劣 莫不発皆 無上菩提之心。
此無上菩提心 即是願作仏心。願作仏心 即是度衆生心。度衆生心即是 摂取衆生 生有仏国土 心。是故 願生彼安楽浄土者 要発無上菩提心也。
若人 不発無上菩提心 但聞彼国土受楽無間 為楽故 願生亦当不得往生也。
是故言 不求自身住持之楽 欲抜一切衆生苦故。住持楽者 謂彼安楽浄土 為阿 弥陀如来本願力之所住持 受楽無間也。

凡釈回向名義 謂以己所集一切功徳 施与一切衆生 共向仏道。
巧方便者 謂菩薩願 以己智慧 火焼一切衆生煩悩草木 若有一衆生 不成仏 我不作仏。
而衆生 未尽 成仏菩薩已自成仏 譬如火擿{聴念反}欲擿{聴歴反}一切草木 焼令使尽 草木未尽 火擿已尽。以後其身 而身先故 名(巧)方便。此中言方便者 謂作願 摂取一切衆生 共同生彼安楽仏国。彼仏国 即是畢竟 成仏道路 無上方便也。

【読方】なにものか菩薩の巧方便回向なる。菩薩の巧方便回向というは、いわく礼拝等の五種の修行をとく。所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽をもとめず。一切衆生の苦をぬかんとおぼすがゆえに、作願して一切衆生を摂取して、共におなじくかの安楽仏国に生ぜしむ。これを菩薩の巧方便回向成就となづくとのたまえり。王舎城所説の無量寿経を按ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発さざるはなけん。この無上菩提心はすなわちこれ願作仏心なり。願作仏心はすな
(2-802)
わちこれ度衆生心なり。度衆生心は即ちこれ衆生を摂取して、有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の受楽無間なるをききて、楽のためのゆえに生ぜんと願ずるは、またまさに往生をえざるべし。このゆえに自身住持の楽をもとめず。一切衆生の苦を抜かんと欲するが故にとのたまえり。住持楽というは、いわくかの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、受楽ひまなきなり。おおよそ廻向の名義を釈せば、いわくおのれが所集の一切の功徳をもって、一切衆生に施与して、ともに仏道に向かわしめたまうなり。巧方便というは、いわく菩薩願ずらく、おのれが智慧の火をもって、一切衆生の煩悩の草木をやかん。もし一衆生として成仏せざることあらば、われ仏にならじと。しかるに衆生 いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみずから成仏せんは、たとえば火[テン01]の一切の草木を摘みて、焼きて尽くさしめんとおもうに、草木いまだ尽きざるに、火[テン01]すでに尽きんがごとし、その身を後にして、身を先にするを以ての故に方便となづく。このなかに方便というは、いわく作願して一切衆生を摂取して、共におなじくかの安楽仏国に生ぜしむ、かの仏国はすなわちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。
【字解】一。礼拝等五種  礼拝、讃嘆、作願、観察、回向の五念門。
 二。王舎城  梵語ラージヤグリハ(Rajagrha)の訳。中印度摩竭陀国の都城、紀元前六世紀の頃、頻婆娑羅王これを築き、釈尊御一生中に、尤も多くおられし地である。今のラージユギリ(rajgir)の地である。
 三。三輩生  浄土へ往生する三種の機類。上三八八頁を看よ。
(2-803)
【文科】正しく還相菩薩の巧方便の化益を示したまう一段である。
【講義】『浄土論』文には、菩薩の巧方便回向とはどういうことであるかというに、礼拝、讃嘆、作願、観察、回向の五念門の修行をして、得たる一切の功徳を、自分の住持の楽のためにせず、あらゆる衆生の苦悩を抜いてやらんが為に、一切の衆生に回向して、衆生と共に安楽世界に往生したいと願うのであるというてある。王舎城に於いて釈迦仏の御説きなされた『大無量寿経』を繙いてみると、三輩往生の行に優劣はあるが、皆無上菩提心を起こしている。無上菩提心は仏果を求めたいという心である。願作仏心はその儘、又一切衆生を度し尽さんという利他の大慈心である。この度衆生心は、衆生を摂取して阿弥陀如来の極楽世界に生まれさせたいという心である。それであるから、かの阿弥陀如来の極楽国土に往生したいと望むものは、必ず無上菩提心を発さねばならぬ。無上菩提心を発さないで、只極楽世界の楽しみの断え間のないということをきいて、楽しみしたいばかりに往生を望むものは、生まることは出来ぬ。それで論文には自身住持の楽しみを求めないで、一切衆生の苦悩を抜いてやろうと欲〈ねが〉うからというてある。住持楽というは、極楽世界は阿弥陀如来の本願力に住持せられて楽しみを断え間なく受けることをいうのである。
(2-804)
 それで回向というはいかなることかというに、自分が集め得たすべての功徳を以て、一切の衆生に施し与え、無上菩提に向かわしめ給うことである。即ち回施し趣向することである。巧方便とは、菩薩の御願いに、自分の智慧の火で、すべての衆生の煩悩の草木を焼き尽そうと覚召〈おぼしめ〉し、一人の衆生でも成仏しない内は、自分も仏とはならないと誓い給うたが、衆生の全体成仏せない中〈うち〉に菩薩自ら成仏し給うたことをいうのである。これを譬えていうと、火[テン01]〈ひばし〉を以て、艸や木をはさんですべて焼き尽そうとする時、草木の尽きない中〈うち〉に火[テン01]〈ひばし〉の方で焼き尽きるようなものである。一切衆生を済度した上でと、自分を後にしながら、自分先ず成仏し給うのが巧方便である。巧みな御手まわしで、衆生を成仏せしめたいとその身を後にし給う大悲心に依りて却って自ら成仏し給い、衆生往生の方法の出来上ったのが巧みな方便である。茲に方便というは、一切衆生を摂〈おさ〉めとって、安楽浄土に往生せしめたいと願を超こし給うことで、その極楽に往生するは畢竟成仏〈かならずほとけとなる〉の道であり、成仏のこの上ない方便〈てだて〉であるからである。

第五科 離菩提障

(2-805)

障菩提門者 菩薩如是 善知回向成就 即能遠離三種菩提門相違法。
何等三種 一者 依智慧門 不求自楽 遠離 我心貪著自身故。知進守退曰智。
知 空無我 曰慧。依智故 不求自楽 依慧故 遠離我心貪著自身。

二者 依慈悲門 抜一切衆生苦 遠離無安衆生心故。抜苦曰慈。与楽曰悲。依慈故 抜一切衆生苦。依悲故 遠離無安衆生心。

三者 依方便門。憐愍一切衆生心。遠離供養恭敬自身心故。正直曰方。外己曰便。依正直故 生憐愍一切衆生心。
依外己故 遠離供養恭敬自身心。是名遠離三種菩提門 相違法。

【諸方】障菩提門というは、菩薩かくのごとくよく回向成就したまえるをしれば、すなわちよく三種の菩提門相違の法を遠離す。なんらか三種、一には智慧門によりて自楽をもとめず。我心自身に貪著するを遠離せるがゆえに。進むを知りて退くを守るを智という。空無我をしるを慧という。智によるがゆえに自楽をもとめず。慧によるがゆえに我心自身に貪著するを遠離せり。二には慈悲門によれり。一切衆生の苦をぬいて、無安衆生心を遠離せるがゆえにとのたまえり。苦をぬくを慈という、楽をあたうるを悲という。慈によるがゆえに一切衆生の苦をぬく。悲によるがゆえに無安衆生心を遠離せり。三には方便門によれり。一切衆生を
(2-806)
憐愍したまう心なり。自身を供養恭敬する心を遠離せるがゆえにとのたまえり。正直を方といい、己を外にするを便という。正直によるがゆえに、一切衆生を憐愍する心を生ず。己を外にするによるがゆえに、自心を供養し恭敬する心を遠離せり。これを三種の菩提門相違の法を遠離すとなづく。
【文科】還相菩薩の智慧、慈悲、方便の三種の法を示したまう一段。
【講義】障菩提門というは、菩薩が、この前に示した巧方便回向成就の義を知って、その様に善く行えば、菩提に相違する三種の法を離れることが出来るのである。三種というのは、我心貪着自身と、無安衆生心と、供養自身心であって、第一には智慧門に依って、自分の快楽を求めず。自分というものに愛著する心を離れるのであるというてある。智慧というは分けて解釈すれば、智は俗諦門について、進むべきを知り、退くべきを知って失わぬをいい、慧というは、真諦門について、空無我の道理を知るをいうのである。俗諦の智に依って、進んで衆生済度を知り、退いて二乗の一心にならぬようにして、自分の快楽を求めず、真諦門の慧に依って、自分というものに愛著する心を離れるのである。
 二には慈悲門に依って、あらゆる衆生の苦悩を去って、衆生を安じない心を離れるのであるというてある。慈悲というは、わけていえば、苦を抜くを慈といい、楽を与うるを悲と
(2-807)
いうのである。それで抜苦門の慈に依ってあらゆる衆生の苦悩を抜きとり、与楽門の慈に依って、衆生を安んぜしめない心を離れるのである。
 三には方便門に依って、あらゆる衆生を憐愍〈あわれ〉み、自分を供養し恭敬する心を離れるのであるというてある。方便というはいかなることかといえば、方はただしきことにて正直の義、便は便宜と熟し、宜しきに従うこと、即ち衆生の機に従って自己のことを顧みないことである。この正直に依って、あらゆる衆生を憐愍〈あわれ〉む心を起こし、己を外にする心に依って、自分を供養恭敬する心を離れるのである。
 これを菩提に相違する三種の法を離れるというのである。

第六科 順菩提門の文

順菩提門者 菩薩遠離 如是三種菩提門相違法 得三種随順菩提門法 満足故。何等三種 一者無染清浄心。以不為自身求諸楽故。菩提是 無染清浄処。若為身 求楽 即違菩提。是故 無染清浄心 是順菩提門。

二者 安清浄心。以抜一切衆生苦故。
菩提 是安穏一切衆生 清浄処。若不 作心 抜一切衆生 離生死苦 即便違菩提。
是故 抜一切衆生苦 是順菩提門。

三者楽清浄心。以令一切衆生 得大菩提故 以摂取衆生 生彼国土故。菩提是 畢竟常楽処。若不令一切衆生 得畢竟常楽 則違菩提。此畢竟常楽 依何而得 依大義(乗)門。大義(乗)門者 謂彼安楽仏国土是也。是故又 言以摂取衆生 生彼国土故。是名三種 随順菩提門法 満足。応知。

【読方】順菩提門というは、菩薩はかくのごとく三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法、満足することを得たまえるがゆえに。なんらか三種、一には無染清浄心。自身のために諸楽をもとめざるを以ての故にとのたまえり。菩提は是無染清浄の処なり。若し身の為に楽を求めなば菩提に違しなん。このゆえに無染清浄心はこれ菩提門に順ずるなり。二には安清浄心。一切衆生の苦を抜くを以ての故にとのたまえり。菩提はこれ一切衆生を安穏ならしむる清浄の処なり。もし作心して一切衆生を抜いて、生死の苦を離れしめずば、すなわち菩提に違しなん。このゆえに一切衆生の苦をぬくは、これ菩提門に順ずるなり。三には楽清浄心、一切衆生をして大菩提を得しむるを以てのゆえに、衆生を摂取して、かの国土に生ぜしむるを以ての故にとのたまえり。菩提はこれ畢竟常楽の処なり。もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめずば、すなわち菩提に違しなん。この畢竟常楽は何によりてかうる。大乗門によるなり。大乗
(2-809)
門というは、いわくかの安楽仏国土これなり。この故にまた衆生を摂取して、かの国土に生ぜしむるを以ての故にとのたまえり。これを三種の随順菩提門の法満足せりとなづく。しるべし。
【字解】一。作心  故意にの意、ここでは、自ら進んでという程の意である。
【文科】還相菩薩の三種の順菩提の法をのべたまう一段である。
【講義】順菩提門というは、菩薩はこのようにして、菩提に相違する三種の法を離れ、菩提に随順する三種の法を満足に得給うのである。三種の順菩提法は.何であるかというに、一には、無染清浄心。これは無我を知って自身に愛著する心を離れ、自分のために快楽を求めないことをいうのであると宣うてある。菩提は染汚〈けがれ〉のない清浄処である。もし自身のために楽を求めるとなると菩提に違するが、自楽を希求〈もと〉めない無染清浄心は菩提に随順するのである。
 二には安清浄心、あらゆる衆生の苦悩を抜きとって遣ることだと宣うてある。菩提はあらゆる衆生を安らかにする、三界の業煩悩の汚れを離れた清浄心であるが、もしわざと一切衆生をそのままに抛って、生死を離れさせてやらないならば、これは菩提に違するが、一切衆生の苦悩を救い安穏ならしむる抜苦与楽の慈悲心は菩提に順ずるのである。即ち菩
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提も安清浄、慈悲心も安清浄心、相順するのである。
 三には楽清浄心、一切衆生をして大菩提の楽を得しめ、衆生を摂めとって極楽に生まれしむることであるというてある。菩提は最後の常住快楽の処である。もし衆生をしてこの最後の常楽を得せしめないならば、菩提に相違する。今は衆生に常楽ならしめたい菩提を得せしめたいという心であるから菩提に順ずるのである。扨て又この最後の常楽はいかにしてうるかというに、大乗門に依って得るのである。そして彼の極楽浄土はこの大乗菩提を得る門戸である。それで衆生を摂取〈おさめと〉って彼の極楽世界に生まれしむるのであると宣うたのである。以上を菩提に随順する三種の法を満足するといふのである。

第七科 名義摂対の文

名義摂対者

【読方】名義摂対というは、
【文科】名義摂対の名を標〈かか〉げたまう。
【余義】一。名義摂対の解釈に就いて、此の下の『六要』の釈に依れば、この下三段ある中、
(2-811)
初段に就いて命名されたとしてある。即ち名は能詮の名、義は所詮の義理にして、上の障菩提門に挙げた智慧、慈悲、方便の名と、其の名の詮〈あら〉わす所の般若、方便の義との摂対を明かすという意味である。この説によれば、上の浄入願心章の標目〈みだし〉のように初段に就いて命名したもので、下二段は間接にその名を蒙るというのである。
 然るに大谷派の開徹院香酔師は此の説に飽き足らずして、更に一説を立てられた。其は上の障菩提門、順菩提門に挙げたる九種の法門の名と、その所詮の義たる四心との相摂を明かすというのである。この一説によれば名義摂対の標目は、三文全体に行き亘る。即ち第一文に於いては、障菩提門の智慧、慈悲、方便の三種門の名をもって、其の詮わす所の義たる般若方便の義を摂対し、第二文には、同じく障菩提門の遠離我心貪著自身等の三法の名と、其の詮わす所の義たる無障心と摂対し、第三文には順菩提門の無染清浄心等の三心の名と、其の詮わす所の義たる妙楽勝真心と相摂相対するというのである。
 以上二説の中、摂対というは名に親しきは第一文であるから、此の点から云えば第一説は勝れているが、併し第二説が三文の義理を開顕して、九法四心の相摂を唱えた功績は棄てることは出来ぬ。今は第二説に従う。
(2-812)

向説智慧・慈悲・方便三種門 摂取般若。般若摂取方便 応知。
般若者 達如之慧名。方便者 通権之智称。達如 則心行寂滅。通権 則備省衆機之智備応而無知。寂滅之慧 亦無知而備省。然則智慧方便 相縁而動 相縁而静。動不失静 智慧之功也。静不廃動 方便之力也。

是故 智慧 慈悲 方便 摂取般若。般若摂取方便。応知者 謂応知智慧方便 是菩薩父母。若不依 智慧方便 菩薩法則 不成就。何以故。若無智慧 為衆生時 則堕顛倒。若無方便 観法性時 則証実際。是故応知。

【読方】さきに智慧、慈悲、方便の三種の門、般若を摂取す、般若方便を摂取すとときつ。しるべしとのたまえり。般若というは、如に達する慧の名なり。方便というは、権に達する智の称なり。如に達すれば、すなわち心行寂滅なり。権に通ずれば、すなわちつぶさに衆機を省みるの智なり。つぶさに応じて無知なり。寂滅の慧まだ無知にしてつぶさに省みる。然ればすなわち智慧と方便とあい縁じて動じ、あい縁じて静なり。動、静を失せざることは智慧の功なり。静、動を廃せざることは方便のちからなり。このゆえに智慧と慈悲と方便と
(2-813)
般若を摂取す。般若は方便を摂取す。しるべしというは、いわく智慧と方便はこれ菩薩の父母なり。もし智慧と方便とによらずば、菩薩の法則成就せざることをしるべし。何を以ての故に、もし智慧なくして衆生の為にするときは、すなわち顛倒に堕せん。もし方便なくして法性を観ずるときは、すなわち実際を証せん。この故に知るべしと。
【字解】一。実際  二乗の涅槃のこと、単に空理に入るのみで、有の差別相を見ることが出来ないからである。
【文科】第一に障菩提門の智慧、慈悲、方便の名をもってその詮〈あら〉わす所の義なる般若方便を摂対する一段。
【講義】扨て今茲に上に説き明かした諸心の名義を論じて相摂相対すれば、上の無我を知って自楽に貪著せない智慧、他の衆生の苦を抜いて楽を与えんとする慈悲、衆生を憐愍〈あわれ〉んで利他の行をなさんとする方便、この三心はくるめて言えば利他の方便智であって、これは般若と互いに相摂するのである。方便はただの方便でなく般若に依るの方便であり、般若は又方便を伴う般若なのである。般若というは真如実相を照らす真諦の智で、空無所得にて度すべき衆生もなく求むべき菩提も認めないのである。方便は具さに衆生を縁じて済生の善巧をめぐらす俗諦の智慧である。空無所得の真諦に達すれば、色も不可得なり、心も不可得なり。知るべき色もなく、知るべき心もなく、心行共に滅して唯無知があるだけである。
(2-814
又俗諦に通ずる時には、衆生の機類の差別、苦楽因果の相をすべて知り尽し、この真智と俗智と相〈あい〉即して居るから、終日苦楽因果の相を知り衆機に応じていながら何も知るところなく、又心行共に滅して何も知るところなくして、同時に一切衆生の機を知り尽しているのである。それであるからこの般若と方便と相縁〈あいよ〉って、動にして静、静にしで動、動の中に静を兼ねるは般若の力であり、静の中に動を兼ねるは方便の力である。以上の理に依って、智慧と慈悲と方便とは般若を摂め、般若は方便を摂めているというたものである。応に知るべしとあるは、この般若と方便とが菩提の父母で、この二つが具わらなければ菩薩の功徳は成就せないのである。菩薩もし般若を有せずして、衆生を愍む時には凡夫の顛倒に堕し.もし又方便の権智なしに、空無所得の法性を観ずる時には、二乗の無余涅槃に入って仕舞うのである。それを知れということである。
【余義】一。智慧に根本智と後得智とあり。前者は真如法性を証る第一義的の智慧にして、後者は根本智より流れ出づる差別を知るの智慧である。故に此の二者を実智、権智とも称す。今智慧、慈悲、方便の智慧は還相菩薩の利他の方面の智慧であるから、その当面の意義は後得智である。之に対して般若は根本智を彰わす。今この名義摂対を図示すれば、
(2-815)

挿図 yakk2-815.gif

       智慧(後得智、権智)  般若(根本智、実智)
   三種門 慈悲                     二心 義
       方便          方便(後得智、権智)

 三種門は全体、二心の中、方便に摂めらるるが、後得智の裏に自ずと根本智を具備しているという点から云えば、図の如く三種門の智慧は、般若と相摂することが出来る。この相摂相対によりて、還相菩薩の智慧が深い根柢と、内容とをもっていることが明らかとなって来た。真如と冥合する第一義的の智慧と同時に、差別の万象を宛然〈さながら〉に観ずる方便智がある。この二智を円備して初めて真の証りとなる。もし根本智なくして化益の活動に出づれば、盲人の溝に落ちるように顛倒の見解に陥り、又若し方便智なくして真如を観ずれば、活動なき二乗の灰身滅智の消極的の証りに堕ちるであろう。かように動静相資〈たす〉けて進みゆくがこの二智の力である。

向説 遠離我心貪著自身 遠離無安衆生心 遠離供養恭敬自身心。此三種法 遠離障菩提心 応知。。
諸法各有障礙相 如風能障静。土能障水。湿能障火。五黒・十悪 障人天。四顛倒障声聞果。
此中三種 不遠離 障菩提心。
応知者 若欲得無障 当遠離此三種障礙也。

【読方】さきに遠離我心貪著自身、遠離無安衆生心、遠離供養恭敬自身心をときつ。この三種の法は、障菩提心を遠離するなりと知るべしとのたまえり。諸法におのおの障碍の相あり。風はよく静をさう。土はよく水をさう。湿はよく火をさう。五黒十悪は人天をさう。四顛倒は声聞の果をさうるがごとし。この中の三種は菩提をさうる心を遠離せず。知るべしというは、もし無障をえんと欲わば、まさにこの三種の障碍を遠離すべきなり。
【字解】一。五黒  黒は悪業。即ち五逆のこと。
二。四顛倒  四つの顛倒〈さかさま〉の見解。涅槃の常、楽、我、浄を非常、非楽、非我、非浄とする見解のこと。
【文科】第二に障菩提門の遠離我心貪著自身等の三法の名と、その義〈わけがら〉たる無障心と摂対する一段。
【講義】前に我心貪着自身と無安衆生心と供養自身心とを遠離することを説いたが、これは菩提を障碍する三種の心を遠離するのである。よくこれを知らねばならぬ。『浄土論』に右の如く説いてあるが、すべて何の法でも皆それの障碍となるものがあるのである例えば、静けさは風に妨げられ、水は堤に障えられ、火は水に碍えられる。五逆十悪は人天に
(2-817)
生まれることが出来ないように至らしめ、常楽我浄の四顛倒の見は声聞の果を得ることが出来ないようにする。今この我心貪著自身、無安衆生心、供養自身心を離れないとは菩提を得る碍〈さまた〉げとなるのである。応に知るべしというは、菩提を得る障碍をなくせようとならば、この三種の障碍の心を除かねばならぬことを教えて下さるのである。

向説 無染清浄心 安清浄心 楽清浄心。
此三種心 略一処 成就妙楽勝真心 応知。

楽有三種 一者外楽 謂五識所生楽。二者内楽 謂初禅二禅三禅 意識所生楽。三者法楽{五角反}楽{魯各反}謂智慧 所生楽。此智慧所生楽 従愛仏功徳起。
是遠離我心 遠離無安衆生心 遠離自供養心 是三種心 清浄増進 略為妙楽勝真心。妙言 其好。以此楽縁仏 生故。勝言 勝出三界中楽。真言 不虚偽 不顛倒。

【読方】さきに無染清浄心、安清浄心、楽清浄心をときつ。この三種の心は、略して一処にして妙楽勝真心を成就したまえり。知るべしとのたまえり。楽に三種あり。一には外楽、いわく五識所生の楽なり。二には内楽、いわく初禅、二禅、三禅の意識所生の楽なり。三には法楽楽〈ほうがくらく〉、いはく智慧所生の楽楽〈がくらく〉なり。
(2-818)
此智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するよりおこれり。これは遠離我心と、遠離無安衆生心と、遠離自供養心と、此の三種の心、清浄に増進して略して妙楽勝真心となる。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもっての故に。勝の言は三界のうちの楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず顛倒せざるなり。
【字解】一。五識  眼、耳、鼻、舌、身の五識をいう。ここには五官の意。
 二。初禅、二禅、三禅  色界四禅定の初めの三を指す。この三禅定に入る時は、意識に楽〈たのしみ〉起こる。
【文科】第三に、順菩提門の無染清浄心等の三心の名とその詮〈あら〉わす所の義たる妙楽勝真心と相摂相対する一段。
【講義】前に順菩提門の処で、無染清浄心と安清浄心と楽清浄心の三種の心を説いたが、この三種の心は合すると妙楽勝真心という一心になる。このことを知らねばならぬと『浄土論』文に示されてある。一体楽〈たのしみ〉というものに三種類あるので、一には五識の起こす所の楽受で、外境を縁じて起こるものであるからこれを外楽といい、二には初禅二禅三禅の意識の起こす楽受で、内に転じて超こす楽故、内楽といい、三には仏の功徳を愛楽〈あいぎょう〉して生ずる智慧の楽で、これを法楽楽〈ほうがくらく〉という。それで前の離菩提障三心、遠離我心、達離無安衆生心、遠離自供養心が益々増進して三清浄心となり、合して妙楽勝真心となるのである。妙
(2-819)
というは好という義で、この楽は前の二楽とは異なり勝れた仏を縁じて起こる楽しみであるから妙といい、勝という三界のあらゆる楽(外楽は欲界の楽、内楽は色界の楽)よりは勝れていること。真というは、一には偽りでないこと、二には顛倒でないこと、真の楽しみであることをいうのである。

第八科 願事成就の文

願事成就者 如是菩薩 智慧心。方便心・無障心・勝真心 能生清浄仏国土。
応知 応知者 謂応知此四種清浄功徳 能得生彼清浄仏国土 非是他縁而生也。

是名 菩薩摩訶薩 随順五種法門 所作随意 自在成就。如向所説 身業・口業・意業・智業。方便智業 随順法門故。
随意自在者 言此五種功徳力 能生清浄仏土 出没自在也。身業者 礼拝也。口業者 讃嘆也。意業者 作願也。智業者 観察也。方便智業者 回向也。言此五種業 和合。則是 随順往生浄土法門 自在業成就。

(2-822)
【読方】願事成就というは、是のごときの菩薩に、智慧心、方便心、無障心、勝真心をもって、よく清浄仏国土に生ぜしめたまえり、知るべしとのたまえり。応知というは、いわくこの四種の清浄の功徳よくかの清浄仏国土に生ずることをえしむ。これ他縁をもって生ずるにはあらずと知るべしとなり。
 これを菩薩摩訶薩、五種の法門に随順して、所作こころにしたがいて、自在に成就したまえりとなづく。さきの所説のごとき、身業、口業、意業、智業、方便智業、法門に随順せるがゆえにとのたまえり。随意自在というは、言うこころはこの五種の功徳力、よく清浄仏土に生ぜしめて、出没自在なり。身業というは礼拝なり。口業というは讃嘆なり。意業というは作願なり。智業というは観察なり。方便智発というは回向なり。この五種の業和合せり。すなわちこれ往生浄土の法門に随順して、自在の業成就したまえりとのたまえり。
【文科】還相菩薩の衆生利益の願事成就を明かす一段。
【講義】願事成就というは衆生を浄土に生ぜしめたいという事業の成就することである。菩薩はこのようにして般若の智慧と方便智と、離菩提障の三心と、妙楽勝真心とを以て、衆生をして清浄の安楽国土に生ぜしめ給うのである。応に知るべしと『浄土論』文に示し給うてある。応に知るべしというは、菩薩がこの智慧心、方便心、無障心、勝真心の四心の清らかな功徳を以て、衆生を導いて安養の浄土に生ずることを得せしめ給うので、他の善根功徳の因縁で生ずるのではないということを知れというのである。
(2-821)
 『浄土論』文に、是を菩薩大士が五念門に順うて、何でも思うように心まかせに、成就し給うというのである。前に説き来った身業、口業、意業、智業、方便智業は五念門に相応随順するからであるというてある。茲に随意自在とあるは、この五念門の功徳を以て、衆生を引いて安養浄土に往生せしめ、穢土に出でて化他度生が思うままに行くということである。身業は礼拝、口業は讃嘆、意業は作願、智業は観察、方便智業は第五の回向である。この五念門の五種の業が具足し成就し浄土往生の法門に契〈かな〉えて修行すれば、出没自在に衆生を済度が出来るのである。
【余義】一。願事成就とは、願は即ち智慧、方便、無障、勝真の四心、事は五念門の行である。上の障菩提門以下の全体をここに総括したのである。
 ここにいう菩薩は云う迄もなく還相菩薩である。彼の菩薩はこの四心をもって、衆生を済度し安楽国土に往生せしめ給う。初めの一段は菩薩利生の大願心を明かす。菩薩がこの心をもって衆生を導くとは、この心を衆生に回向して、衆生の心とし、往生の正因とするの謂いである。それは即ち信心である。
 次に正念の行成或は、上の願心成就とともに成就せられたる大行を明かす。そしてこの
(2-822)
心行の成就は源〈みなもと〉法蔵菩薩によりてなされたることは明らかである。法蔵菩薩の心行成就は、還相菩薩の心行成就であるからである。

第九科 利行満足の文

利行満足者 復有五種門 漸次成就五種功徳 応知。何者五門 一者近門 二者大会衆門 三者宅門 四者屋門 五者園林遊戯地門。此五種 示現 入出次第相。入相中 初至浄土 是近相。謂入大乗正定聚 近阿耨多羅三藐三菩提。
入浄土已 便入如来大会衆数。入衆数已 当至修行安心之宅。入宅已 当至修行所居屋宇{尤挙反}。修行成就已 当至教化地。教化地 即是菩薩自娯楽地。是故 出門 称園林遊戯地門。

【読方】利行満足というは、また五種の門ありて、ようやくに五種の功徳を成就したまえりと知るべし。何ものか五門。一には近門、二には大会衆門、三には宅門、四には屋門、正には園林遊戯地門なりとのたまえり。この五種は入出の次第の相を示現せしむ。入相のなかに、はじめに浄土にいたるはこれ近相なり。いわく
(2-823)
大乗正定聚にいるは、阿耨多羅三藐三菩提にちかづくなり。浄土にいりおわるは、如来の大会衆の数にいるなり。衆の数にいりおわりぬれば、まさに修行安心の宅に至るなるべし。宅に入りおわれば、まさに修行所居の屋寓にいたるなるべし。修行成就しおわりぬれば、まさに教化地にいたるべし。教化地はすなわちこれ菩薩の自娯楽の地なり。このゆえに出門を園林遊戯地門と称すと。
【文科】初めに、還相菩薩の五念五功徳の因果を示したる一段。
【講義】自利利他二利の行を満足するというは、五種の門があって五種の功徳を得ることである。その五種の門とは何を指すかというに、一に近門、二に大会衆門、三に宅門、四に屋門、五に園林遊戯地門のことである。此の五種の門は入の自利と、出の利他との次第を示してあるので、先ず初めに自利のすがたの中、初めに浄土に生るるは近門で、極楽に往生して大乗の正定聚に入り、無上の菩提に近づく義〈いわれ〉である。浄土に往生すれば、すぐさま浄土の会座の大衆の一人となる、これが大会衆門である。扨て又大衆の一人となれば今度は修行もし、安心もする、愈々極楽世界に入りたることを喜び、邸宅に到著したる心持になるのが第三の宅門である。その次には更に進んで恰も屋内に入りて永く幸福を受くるが如く、浄土の二十九種の荘厳を受用し、種々の修行の法味楽を享楽するが第四の屋門で
(2-824)
ある。扨てかくして自利全く円かに成就すれば翻って利他の教化に出づる。教化は利他の大行であって同時に菩薩の娯楽である。それで、この出門即ち利他門を園林遊戯地門というのである。

此五種門 初四種門 成就入功徳。
第五門成就出功徳。
此入出功徳 何者是。
釈言 入第一門者 以礼拝阿弥陀仏 為生彼国故 得生安楽世界。是名第一門。礼仏 願生仏国 是初功徳相。

入第二門者 以賛嘆阿弥陀仏 随順名義 称如来名 依如来光明智相 修行故 得入大会衆数。是名入第二門。依如来名義 讃嘆 是第二功徳相。

入第三門者 以一心専念作願 生彼 修奢摩他寂静三昧行故 得入蓮華蔵世界。是名入第三門。為修寂静止故 一心願生彼国 是第三功徳相。

入第四門者 以専念観察 彼妙荘厳 修毘婆舎那故 得到彼所 受用 種種法味楽。是名入第四門。種種法味楽者 毘婆舎那中 有観仏国土清浄味・摂受衆生大乗味・畢竟住持不虚作味・類事起行願取仏土味。有如是等 無量荘厳仏道味故 言種種。是第四功徳相。

出第五門者 以大慈悲 観察一切苦悩 衆生示応化身 回入生死園 煩悩林中 遊戯神通 至教化地。以本願力回向故。是名出第五門。示応化身者 如法華経 普門示現之類也。
遊戯有二義。一者自在義。菩薩度衆生。譬如師子搏鹿 所為不難如似遊戯。二者度無所度義 菩薩観衆生 畢竟無所有。雖度無量衆生 実無一衆生 得滅度者。示度衆生 如似遊戯。言本願力者 示大菩薩 於法身中 常在三昧 而現種種身 種種神通 種種説法 皆以本願力起。譬如阿修羅琴 雖無鼓者 而音曲自然。是名教化地 第五功徳相。{已上抄出}

【読方】この五種の門は、はじめの四種の門は入の功徳を成就したまえり。第五門は出の功徳を成就したまえりとのたまえり。この入出の功徳は何ものかこれや。釈すらく、入第一門というに、阿弥陀仏を礼拝して、彼の国に生ぜしめんが為にするを以ての故に、安楽世界に生ずることをえしむ。これを第一門となづく。仏を礼して仏国に生ぜんと願ずるは、これはじめの功徳の相なり。入第二門というは、阿弥陀仏を讃嘆し、
(2-826)
名義に随順して如来の名を称せしめ、如来の光明智相によりて修行せるをもってのゆえに、大会衆の数にいることをえしむ。これを入第二門となづくとのたまえり。如来の名義によりて讃嘆する、これ第二の功徳の相なり。入第三門というは、一心に専念し作願してかしこに生じて、奢摩他寂静三昧の行を修するをもっての故に、蓮華蔵世界に入ることをえしむ。これを入第三門となづく。寂静止を修せん為のゆえに、一心にかの国に生ぜんと願ずる、これ第三の功徳相なり。入第四門というは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修するをもってのゆえに、彼の所に到ることをえて種々の法味の楽を受用せしむ。これを入第四門となづくとのたまえり。種々の法味の楽というは、毘婆舎那のなかに、観仏国土清浄味、摂受衆生大乗味、畢竟往持不虚作味、類事起行願取仏土味あり。是の如きらの無量の荘厳仏道の味あるがゆえに、種々とのたまえり。これ第四の功徳の相なり。出第五門というは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して応化身をしめして、生死の園煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯し教化地にいたる。本願力の回向をもっての故に、これを出第五門となづくとのたまえり。示応化身というは、法華経の普門示現の類のごときなり。遊戯に二の義あり。一には自在の義、菩薩衆生を度すること、たとえば師子の鹿をうつには所為難〈はばか〉らざるがごときは、遊戯するがごとし。二には度無所度の義なり。菩薩、衆生を観ずるに畢竟して有るところなし。無量の衆生を度すといえども、実に一衆生として滅度をうるものなし。衆上を度すとしめすこと遊戯するがごとし。本願力というは、大菩薩、法身の中において、つねに三昧にましまして種々の身、種々の神通.種々の説法を現ずることを示すこと、みな本願力より起こるをもってなり。たとえば阿修羅の琴の鼓するもの無しといえども、
(2-827)
音曲自然なるがごとし、これを教化地の第五の功徳相となづくとのたまえり。已上抄出
【字解】一。奢摩他  止。定のこと。上三五〇頁を看よ。
 二。蓮華蔵世界  阿弥陀如来の極楽浄土のこと。語は『華厳経』に出てあり、華厳の十仏摂化の境であるが、今この弥陀の浄土は蓮華の泥に染まぬように、清浄端厳の世界であると云うので、蓮華蔵世界と名づけるのである。
 三。毘婆舎那  観。観察のこと。上三五〇頁を看よ。
 四。類事起行願取仏土味。  類事は、仏を供養し、衆生を済度する、種々なる事柄のこと。即ち天衣妙香等を以て、諸仏を供養し、布施、持戒等を以て衆生を済度する故に、類事という。起行とは、供仏、度生、のそれ等の行をなすことをいう。願取仏土とは、願望の如く、無仏世界に生まれて、三宝を弘め、有仏世界とすること。是等は、皆浄土の菩薩の徳をいうのである。
 五。『法華経』の普門  『法華経』第二十五品、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』のこと。単に「普門品」とも、「観音品」ともいう。観世音菩薩が、衆生の諸難を救い、諸願を満たし、三十三身に形を現じて、説法せらるることを説く。
 六。阿修羅琴  阿修羅は、衆相山中、又は大海の底にありて、常に三十三天(忉利天)と戦う天部の種族。其の琴は、自然の福徳によりて、彼等が聴きたいと思えば自ずと意に随って妙音を奏でると云われて居る。
【文科】次いで入出二門の関係を細説して、終わりに還相菩薩の利他の化益の相をのべたまう一段である。
(2-828)
【講義】この五種の功徳門は、初めの、四門は自利の功徳を成就すること、第五の一門は利他の功徳を成就することである。
 この入出自利利他の功徳というはいかなるものかというに、自利の第一門即ち極楽に往生するは、五念門の中第一の礼拝の行の成就満足した利益であって、安楽世界に往生するは自利の第一門、礼拝願生はこの功徳を得る行因である。自利の第二門大会衆の数に入るは五念門の中第二の讃嘆の行の成就満足した利益であって、阿弥陀仏を讃嘆し、その名義に契〈かな〉うて、如来の御名を称え、如来の光明智相に依って修行するからして大衆の数に入ることが出来るのである。大会衆門が自利の第二門で、如来のみ名の名義を讃嘆するがこの第二の功徳を得る因である。自利の第三門というは、蓮華蔵世界に入ることで、五念門の中第三の作願の行の成就満足した利益である。一心一向に、極楽世界に生じて心を一境に止むる奢摩他寂静の定を修したいと願うその願が成就して、蓮華蔵世界に入るを得るのである。これが自利の第三門であって、奢摩他の行を修するために浄土に生まれたいと願うは、この第三の功徳を得る因相である。自利の第四門というは、浄土に往生して種々の法味楽を得ることで、五念門の中第四の観察の成就に依って得る利益である。専心に極楽
(2-829)
の依正二十五種の荘厳を観察して、この行成就して極楽に生まれ、種々の法味楽を得るを自利の第四門というのである。種々の法味楽というは、国土の清浄の功徳を観じて得る法楽、一切衆生を摂取し悉く平等の証りを得せしめるという大義門功徳を観じて得る法楽、阿弥陀如来の不盧作住持の功徳を観じて得る法楽、菩薩の衆生の機類に随って種々の行を起こし、これを以て仏土を感得したいと覚召す功徳を観じて得る法楽、こういう種々の仏道を荘厳し各々の衆生に仏道を増進せしむる法味楽が沢山あるから種々というたものである。この法味楽は正しくは浄土に於いて得るものであるが、今この世界に於いて二十九種荘厳を観察するが、この第四の功徳を得る因相である。
 利他の第五門というは、大慈悲心を起こし、あらゆる苦悩の一衆生をあわれみ、実身より応化身を処々に現わし、生死の世界、煩悩の泥中に帰って来て、種々の神通を示し、衆生を教化することである。これは浄土へ往生した行人の得る利益であるが、原〈もと〉をたずぬれば、阿弥陀如来の本願より回向して下されたことであるから、利他の第五門というのである。往生の行人の得る利他の大行は、その源〈みなもと〉阿弥陀如来の御回向に依るというのである。
 応化身を示すというは、実身は一処に居して、別に化身を処々に現わすことで、『法華経』
(2-830)
の普門品に観音菩薩が三十三身を示し給うことが説かれてあるが、それと同じいのである。園林遊戯の遊戯に二通りの意味がある。一は自由自在という義で、還相の菩薩が衆生を済度し給うのは、丁度獅子が鹿を搏〈う〉ち殺すに困難なく遊戯しているようなもの、自由自在であることを示し、二には済度しても一向済度する処がないことを示すのである。還相の菩薩は空無所得の真諦智を得給う故に。
 衆生畢竟無所得、終日無量の衆生を済度して、度すべき衆生を見ないのである。それで衆生を度するということが宛然〈あたかも〉遊戯のようだというのである。
 本願力というは、還相の菩薩が、浄土の真証の法身を得、常に禅定に住して、種々の応化身を示し、種々の神通を顕わし、種々の説法をなし給うのは皆原〈もと〉をいえば阿弥陀如来の本願力から出て居るので、その回向に依って自然に顕われるのである。丁度阿修羅琴がかきならすものはなくとも自然に音曲を奏するようなものである。これが第五の利他教化地の功徳の相〈ありさま〉である。
【余義】一。利行満足とは、自利々他の二利の行満足することをいう。即ち上に述べたような還相菩薩の二利満足を明かすのである。文の表面より云えば、願生行者が自利々地
(2-831)
円満して浄土の証果を獲る次第を説いたように見ゆるのであるが、聖人は深い考察の上から此の文を還相菩薩を彰わす最後の重要なる文として引用せられた。故に常識的の見解をもっては到底解し難い一段である。それであるから先輩の多くは、この一段の講述に就いて多大の努力を費やされた、随って其の説明は種々に分かれておる。
 されどそれ等の一々を列挙するは余りに煩わしい。今や直ちに此の真意を述ぶれば、是等の文中に於いて尤も主要とする所は五功徳門中の出の第五門、即ち利他教化地の果である。是は上の七〇四頁に還相回向の第一の引文に『論』と『論註』の文を引いて提出した終始一貫の文である。されど一冊の書籍に譬うれば彼処は云わば表紙の題目のようなもので、其の複雑なる内容は上来多くの引文によりて示され、今や正しく其の総括〈しめくくり〉の文として此の五念五功徳の因果関係を錯説したる文を引用せられたのである。
 吾等は先ずこの見解に立ちて本文を解釈せねばならぬ。即ち本文に於いては第五の教化地の果が主要であるとすれば、其の他はほんの附加物に過ぎないかと云えば、決してそうではない。利他の第五門は、その内容として自利の前四門を孕んでいねばならぬ。即ち還相の菩薩は利他一方を主とするのであるが、真の利他は真の自利に俟たねばならぬ。この主
(2-832)
要なる問題を解決したのが此の一段である。
 二。文面から云えば、初めに浄土の証果を近門、大会衆門等の五階級に分かち、往生人が漸次に進み行くように説き、次に入の四門に於いて、四念門、四功徳門の因果関係を述べ、更に出の第五門に於いて回向利益他の因果を明かしている。明らかに願生行者の次第に階級的の証果を進みゆくようになっているが、吾等は、殊に此の場合に臨んで「法は一念に在れども、説けば必ず次第す」の古語を想い出ださねばならぬ。即ち前述の如く還相菩薩の利他教化地は、前四念四功徳の自利門を籠めていることを明かしたものである。ここは還相菩薩が文面の如く歴次入証することを示すが主眼ではなくして、説明すれば是丈の自利の内容をもっている利他であることを述べたものである。故に際どく云えば此の利行満足ということは、自利を円備したる還相菩薩の利他という意味である。
 故に第五の教化地を述べた後に「応化身」「遊戯神通」の「遊戯」並びに「本願力」を解釈した文を引用して、自然不可思議なる本願力の大活動を説いておられる。聖人の御意は上述の如くなることは火を視るより明らかである。
 三。五念門、五功徳門の配属の意義は大体上の如くなるを決定して、さて此の下の『六要』
(2-833)
の釈を味わうことは極めて肝要である。
 第一に五因五果を一々配属することは一応の義である。次に総じて此の世に於いて修する所の五念門を浄土の生因とするは再応の義である。即ちこの五念門は一心帰命に摂めらる。この一心によりて浄土の五果を獲るとなす。さてこの再応の義の中、次第に歴次して五果を獲てゆくは堅の義であって差別門である。往生の一念同時に五果を具足するは横の義であって、平等門であると云うてある。精緻を極めた釈である。

 五念門五功徳門之関係┓
┏━━━━━━━━━━┛
┃┏ 一応之義 ━━━━━━ 五因五果一々の配属
┗┫
 ┃     ┏ 竪之義━━ 一心正念の因をもって浄土の五果を歴証す
 ┗ 再応之義 ┫
       ┗ 横之義━━ 一心五念の因をもって浄土の五果を頓証す

 是れ還相菩薩そのものの具体的表現である。五念五功徳の関係を明かすことは今の主要ではないのである。
 四。因〈ちなみ〉に聖人は五功徳門の中、第一近門、第二大会衆門を現生に於ける正定聚の位と
(2-834)
し、第三宅門、第四屋門を浄土の滅度とし、第五の園林遊戯地門を還相回向とせられたことは、上来各処に述べた所である。従って上の『六要』の所説と異ることは明らかである。されど此処は還相回向を主要とする所であるから、『六要』のこの説も解釈上の一説として味わうことが出来ると思う。

第三節 総結の文

爾者大聖真言 誠知。証大涅槃 籍願力回向。
還相利益 顕利他正意。是以 論主宣布 広大無礙一心 普徧開化 雑染堪忍群萌。
宗師 顕示大悲往還回向 慇懃弘宣 他利利他深義。
仰可奉持 特可頂戴矣。

【読方】しかれば大聖の真言、まことにしんぬ、大涅槃を証することは、願力の回向によりてなり。還相の利益は、利他の正意をあらわすなり。ここをもって論主は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑善堪忍の群萌を開化す。宗師は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまえり。あおいで奉事すべし。ことに頂戴すべし。
【字解】一。論主  天親菩薩。新訳には世親菩薩。
(2-835)
 二。雑染  染は煩悩、種々雑多の煩悩ということ。
 三。堪忍  娑婆世界の訳語、この世のこと。
【文科】ここに正しく「証巻」を終えるに当り、経論釈の要義をもって結釈したまう一段である。
【講義】扨て上来説き明かし来った処に依って、茲に左のことを知ることが出来る。釈迦如来の経説に依って見れば、私共衆生が浄土に往生して無上の涅槃を得るは、ひとえにこれ阿弥陀如来の本願力の回向に依るのである。そして又浄土からこの穢土へ帰って、度人天のはたらきをするのも、阿弥陀如来の他力回向の御力に依るのである。それであるから天親菩薩は『浄土論』の中に、貪瞋煩悩のさわりはいか程あってもそれに妨げられず、如何なる衆生も普く摂取し給う法を信ずる一心を説き、この雑染〈けが〉れにけがれし娑婆世界の衆生の心を開発して利益を施し下され、曇鸞大師は、往相回向も還相回向も皆阿弥陀如来の大悲心より回向し給うものであることを示し、天親菩薩が自利利他と宣うたその利他という語に就いて、他利と利他の区別を示して、その深義を開顕して下されたのである。されば何人もこの弥陀如来の他力回向の法を仰いで有難く御請けせねばならぬ。
【余義】一。証巻を終わるに当り、経論釈の要義をもって簡明なる結釈を下された。初
(2-836)
め「大聖の真言」より「利他の正意を顕わす」までは、第十一、第二十二の二願の意によりて、正しく証巻を結び給う。此の中「利他の正意」とは、弥陀他力本願の正意をも含むけれども、正しくは吾等の利他の正意と云わねばならぬ。吾等の完全なる利他は、還相の時に初めて円現せられるのである。これを「還相の利益は、利他の正意を顕わす」と仰せられたのである。
 次に天親論主と、曇鸞大師の要義を挙げて、遠く教行信証の四法を結釈し、近くは上の第二十二の還相回向を結ぶ。即ち上来広説した四法は、吾等より云えば論主の一心の安心である。又如来より云えば往還二回向の外はない。故に「無碍の一心を宣布し」といい「大悲往還の回向を顕示す」と仰せらるる。そして更に鸞師の上に「他利々他深義」を加えられた。是れ蓋し『論註』一部の要〈かなめ〉にして、よく他力真宗の枢機を把住〈つか〉んでいるからである。即ち鸞師は『浄土論』の「自利々他」の「利他」の言葉に著眼し、上来五念門の行も、往還二回向も吾等衆生に属して解釈せられたのを、一転して他力回向とせられたのである。そは利他という積極的の言葉は、決して罪濁の力弱き私共の能くすべきものではない。それは弥陀の利他でなければならぬ。若し吾等のする所ならば「他利」と云わね
(2-837)
ばならぬ。この意は「他(衆生)が利せらる」若くは「他(弥陀)によりて獲る利益(五念の行)」となるのである。今は仏力を指すのであるから、利他というとて、上来吾等衆生(願生行者)に属した五念門、往還二回向を、尽く弥陀如来の願力回向とせられたのである。ここに絶対他力教の面目が開顕せられている(『第一巻』二〇九頁参照』)。この故に特に他利々他の深義」をこの結文に添えられたものである。


脚 注