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「法然教学の研究 /第二篇/第ニ章 選択思想の成立と展開/第七節 選択本願論の継承」の版間の差分

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===第七節 選択本願論の継承===
 
===第七節 選択本願論の継承===
  
 法然の選択本願論は、その弟子たちに継承され展開されていくが、ここでは親鸞のそれについて概観しておこう。親鸞が、法然の教説の中核を「選択本願」に見出しておられたことは、「正信偈」の源空章に「真宗教証興片州、選択本願弘悪世」{{SH3|no1|真宗の教証、片州に興す。選択本願悪世に弘む。}} と、その釈功をたたえ、「高僧和讃」の源空讃に「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、'''浄土真宗'''をひらきつつ、'''選択本願'''のべたまふ」と讃詠されたものによっても明らかなところである<ref>「行文類」正信念仏偈(真聖全二・四六頁)、『浄土文類聚鈔』念仏正信偈(真聖全二・四五〇頁)「高僧和讃」源空讃(真聖全二・五一三頁)</ref>。親鸞が浄土真宗とか真宗とよばれたものは、まさしく法然が開顕された浄土宗の中核をなす選択本願の法義だった。『末灯鈔』所収の御消息には「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり、浄土真宗は大乗のなかの至極なり」<ref>『末灯鈔』第一条(真聖全二・六五八頁)</ref>
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 法然の選択本願論は、その弟子たちに継承され展開されていくが、ここでは親鸞のそれについて概観しておこう。親鸞が、法然の教説の中核を「選択本願」に見出しておられたことは、「正信偈」の源空章に「真宗教証興片州、選択本願弘悪世」{{SH3|no1|真宗の教証、片州に興す。選択本願悪世に弘む。}} と、その釈功をたたえ、「高僧和讃」の源空讃に「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、'''浄土真宗'''をひらきつつ、'''選択本願'''のべたまふ」と讃詠されたものによっても明らかなところである<ref>「行文類」正信念仏偈(真聖全二・四六頁)、『浄土文類聚鈔』念仏正信偈(真聖全二・四五〇頁)「高僧和讃」源空讃(真聖全二・五一三頁)</ref>。親鸞が浄土真宗とか真宗とよばれたものは、まさしく法然が開顕された浄土宗の中核をなす選択本願の法義だった。『末灯鈔』所収の御消息には「選択本願は浄土真宗なり、[[chu:定散二善|定散二善]]は方便仮門なり、浄土真宗は大乗のなかの至極なり」<ref>『末灯鈔』第一条(真聖全二・六五八頁)</ref>
 
等とのべられている。法然によって開宗された浄土宗という選択本願の宗教こそ真実の仏法であるというので浄土真宗と名づけられたのであろう。
 
等とのべられている。法然によって開宗された浄土宗という選択本願の宗教こそ真実の仏法であるというので浄土真宗と名づけられたのであろう。
  
 そもそも親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類』は、元久二年、法然から『選択集』を伝授され、その真影を図画することを許された甚深の師恩に応答するために「真宗の詮を鈔し、浄土の要を<kana>摭(ひろ)</kana>う」て成立したものであった<ref>『教行証文類』後序(同右・二〇三頁)</ref>。<br>
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 そもそも親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類』は、元久二年、法然から『選択集』を伝授され、その真影を図画することを許された甚深の師恩に応答するために「真宗の<kana>詮(せん)</kana>を<kana>鈔(しょう)</kana>し、浄土の要を<kana>摭(ひろ)</kana>う」て成立したものであった<ref>『教行証文類』後序(同右・二〇三頁)</ref>。<br>
 
それは何よりも選択本願念仏の深意を祖述し展開するものだったのである。「行文類」の偈前の文に、この書に開示された法義を要約して、
 
それは何よりも選択本願念仏の深意を祖述し展開するものだったのである。「行文類」の偈前の文に、この書に開示された法義を要約して、
  
:凡就誓願、有真実行信、亦有方便行信、其真実行願者、諸仏称名願、其真実信願者、至心信楽願、斯乃選択本願之行信也。其機者則一切善悪大小凡愚也、往生者則難思議往生也。仏土者則報仏報土也。斯乃誓願不可思議一実真如海、大無量寿経之宗致、他力真宗之正意也。{{SH3|no3|おほよそ誓願について真実の'''行信'''あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち'''選択本願の行信'''なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。}}<ref>「行文類」偈前文(同右・四二頁)</ref>
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:凡就誓願、有真実行信、亦有方便行信、其真実行願者、諸仏称名願、其真実信願者、至心信楽願、斯乃選択本願之行信也。其機者則一切善悪大小凡愚也、往生者則難思議往生也。仏土者則報仏報土也。斯乃誓願不可思議一実真如海、大無量寿経之宗致、他力真宗之正意也。<ref>「行文類」偈前文(同右・四二頁)</ref>{{SHD|no3|おほよそ誓願について真実の'''行信'''あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願([[chu:第十七願|第十七願]])なり。その真実の信の願は、至心信楽の願([[chu:第十八願|第十八願]])なり。これすなはち'''選択本願の行信'''なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち[[chu:難思議往生|難思議往生]]なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。}}
  
といわれたように選択本願の{{DotUL|行信の因果}}を釈顕するほかにはないのである。
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といわれたように{{DotUL|選択本願の[[chu:行信|行信]]の因果}}を釈顕するほかにはないのである。
  
 「行文類」の初には「諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行」と標願細註し、「行文類」にあらわす浄土真実の大行が、法然が釈顕された選択本願の行たる他力の念仏であることを標示されている<ref>「行文類」標願細註(同右・五頁)</ref>。それは『選択集』の三選の文に第二、第三章をうけて、「正定之業者、即是称仏名、称名必得生、依仏本願故」{{SH3|no4|正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。}}といわれたものをうけていることはいうまでもなかろう<ref>「行文類」(同右・三三頁)に、『選択集』の題号と標宗と三選の文とが引用されているが、その意義については第一篇第二章・第七章等に詳述した。</ref>。ところで法然が選択本願の行といえば、第十八願の乃至十念をさしていたのに、親鸞は第十七願によって行を建立し、この願を「選択称名之願」と名づけられたことから、{{DotUL|後学に種々の論議をよびおこした}}。しかしこれも法然の幽意をうけて展開されたものと考えられる。すなわち『三部経大意』に、
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 「行文類」の初には「諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行」と標願細註し、「行文類」にあらわす浄土真実の'''[[chu:大行|大行]]'''が、法然が釈顕された選択本願の行たる他力の念仏であることを標示されている<ref>「行文類」標願細註(同右・五頁)</ref>。それは『選択集』の三選の文に第二、第三章をうけて、「正定之業者、即是称仏名、称名必得生、依仏本願故」{{SH3|no4|正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。}}といわれたものをうけていることはいうまでもなかろう<ref>「行文類」(同右・三三頁)に、『選択集』の題号と標宗と三選の文とが引用されているが、その意義については第一篇第二章・第七章等に詳述した。</ref>。ところで法然が選択本願の行といえば、[[chu:第十八願|第十八願]]の[[chu:乃至十念|乃至十念]]をさしていたのに、親鸞は[[chu:第十七願|第十七願]]によって行を建立し、この願を「選択称名之願」と名づけられたことから、{{DotUL|後学に種々の論議をよびおこした}}。しかしこれも法然の幽意をうけて展開されたものと考えられる。すなわち『三部経大意』に、
  
:弥陀善逝、平等の慈悲にもよをされて、十方世界にあまねく光明をてらして転一切衆生にことぐく縁をむすばしめむがために光明無量の願をたてまへり。'''第十二の願'''これなり。つぎに名号をもて因として衆生を引接せむがために念仏往生の願をたてたまへり。'''第十八の願'''これなり。その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり。'''第十七の願'''これなり。このゆへに釈迦如来この土にしてときたまふがごとく、十方におのく恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。しかれば光明の縁あまねく十方世界をてらしてもらすことなく、名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずといふことなし。……しかればすなわち、光明の縁と、名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかぶらむことうたがふべからず。……又このぐわんひさしくして衆生を済度せむがために寿命無量の願をたてたまへり、'''第十三の願'''これなり<ref>『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七八四頁)。なお『同』金沢文庫本(真宗学報一七・一七頁 ̄二〇頁)には第十七・第十八願文が略引されており『和語灯録』一所収の「三部経釈」(真聖全四・五五三頁)には、第十八、第十七願の次第であげられているが、いずれも文意は同じである。</ref>。
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:弥陀[[chu:善逝|善逝]]、平等の慈悲にもよをされて、十方世界にあまねく光明をてらして<kana>転(うたた)</kana>一切衆生にことぐく縁をむすばしめむがために光明無量の願をたてまへり。'''第十二の願'''これなり。つぎに名号をもて因として衆生を引接せむがために[[chu:念仏往生の願|念仏往生の願]]をたてたまへり。'''第十八の願'''これなり。その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり。'''第十七の願'''これなり。このゆへに釈迦如来この土にしてときたまふがごとく、十方におのく恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。しかれば光明の縁あまねく十方世界をてらしてもらすことなく、名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずといふことなし。……しかればすなわち、光明の縁と、名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかぶらむことうたがふべからず。……又このぐわんひさしくして衆生を済度せむがために寿命無量の願をたてたまへり、'''第十三の願'''これなり<ref>『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七八四頁)。なお『同』金沢文庫本(真宗学報一七・一七頁 ̄二〇頁)には第十七・第十八願文が略引されており『和語灯録』一所収の「三部経釈」(真聖全四・五五三頁)には、第十八、第十七願の次第であげられているが、いずれも文意は同じである。</ref>。
  
といわれている。ここには、第十二、第十三、第十七、第十八の四願を引いて、光明名号の摂化と、それによって念仏の衆生たらしめられ、摂取不捨の利益を得しめられるという、いわゆる光号因縁の義意が釈顕されている。すなわち第十二願は往生の外縁となる光明の摂化をあらわし、第十七願は、諸仏の讃嘆によって名号を衆生往生の因として与えていくことをあらわし、第十三願は光号摂化の永遠性をあらわしている。この光明の縁と、名号の因とが、衆生の上で因縁和合しているのが、第十八願における「念仏衆生、摂取不捨」という念仏往生の成立であるといわれるのである。のちに親鸞が「行文類」に光号因縁(両重因縁)の妙釈をあらわされるのは、この釈義をうけて展開されたものといえよう<ref>「行文類」光号因縁釈(真聖全二・三三頁)</ref>。ともあれ法然は第十八願の念仏往生の根源を第十七願に見出し、諸仏所讃の名号が、選択の行体であって、これを往生の因体として信受し奉行しているのが第十八願の念仏往生であるとみられていたことがわかる。この十七、十八願の関係は、聖覚が法然に代わってあらわしたという「登山状」にもみられ、聖覚の『唯信抄』にも伝承されている<ref>「登山状」(『拾遺語灯』中・真聖全四・七二一頁)、『唯信鈔』(真聖全二・七四二頁)[[拾遺語灯録中#17gan]]</ref>。『唯信抄』に「まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられむといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこゝろふべし。名号をもてあまねく衆生をみちびかむとおぼしめすゆへにかつく名号をほめられむとちかひたまへるなり。……さてつぎに第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものおもみちびかむとのたまへり」といわれている。法然にせよ聖覚にせよ、選択本願念仏の法門は、諸仏の讃嘆をとおして衆生のうえに実現するのであって、第十七願の教法と、第十八願の機受が一体となって成就しているとみられていたことがわかる。親鸞はこのような考え方を伝承し、選択本願の念仏は、第十七願をとおして与えられたとして、第十七願をことに「往相回向之願」とよび、如来の本願力回向の相をこの願の上にみられたのであった。
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といわれている。ここには、第十二、第十三、第十七、第十八の四願を引いて、光明名号の摂化と、それによって念仏の衆生たらしめられ、摂取不捨の利益を得しめられるという、いわゆる光号因縁の義意が釈顕されている。すなわち第十二願は往生の外縁となる光明の摂化をあらわし、第十七願は、諸仏の讃嘆によって名号を衆生往生の因として与えていくことをあらわし、第十三願は光号摂化の永遠性をあらわしている。この光明の縁と、名号の因とが、衆生の上で因縁和合しているのが、第十八願における「念仏衆生、摂取不捨」という[[chu:念仏往生|念仏往生]]の成立であるといわれるのである。のちに親鸞が「行文類」に光号因縁([[chu:両重因縁|両重因縁]])の妙釈をあらわされるのは、この釈義をうけて展開されたものといえよう<ref>「行文類」光号因縁釈(真聖全二・三三頁)</ref>。ともあれ法然は第十八願の念仏往生の根源を第十七願に見出し、諸仏所讃の名号が、選択の行体であって、これを往生の因体として信受し奉行しているのが第十八願の念仏往生であるとみられていたことがわかる。この十七、十八願の関係は、聖覚が法然に代わってあらわしたという「登山状」にもみられ、聖覚の『唯信抄』にも伝承されている<ref>「登山状」(『拾遺語灯』中・真聖全四・七二一頁)、『唯信鈔』(真聖全二・七四二頁)[[拾遺語灯録中#17gan]]</ref>。『唯信抄』に「まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられむといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこゝろふべし。名号をもてあまねく衆生をみちびかむとおぼしめすゆへにかつく名号をほめられむとちかひたまへるなり。……さてつぎに第十八に'''[[chu:念仏往生の願|念仏往生の願]]'''をおこして、十念のものおもみちびかむとのたまへり」といわれている。法然にせよ聖覚にせよ、選択本願念仏の法門は、諸仏の讃嘆をとおして衆生のうえに実現するのであって、第十七願の教法と、第十八願の機受が一体となって成就しているとみられていたことがわかる。親鸞はこのような考え方を伝承し、選択本願の念仏は、第十七願をとおして与えられたとして、第十七願をことに「往相回向之願」とよび、如来の本願力回向の相をこの願の上にみられたのであった。
  
 「教文類」の初めに、浄土真宗の教義体系を明かして「謹按浄土真宗、有二種回向、一者往相、二者還相、就往相回向、有真実教行信証」{{SH3|no5|つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。}}といわれている<ref>「教文類」(真聖全二・二頁)</ref>。如来の本願力回向の救済相に往還の二相を開き、回向された往相に教行信証の四法をあげ、第十七願によって教と行が、第十八願によって教行を信受する信が、第十一願によって行信の因に対応する証果がそれぞれ回向成就されたといわれるのである。ここに示される親鸞独自の二回向四法の教義体系は、『論註』の指南に依るところが多かった。それは、「証文類」に「宗師顕示大悲往還回向、慇懃弘宣他利々他深義」{{SH3|no8|宗師は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。}}<ref>「証文類」(真聖全二・一一九頁)</ref> といい、「正信偈」の曇鸞章に「往還回向由他力」といい、「高僧和讃」の曇鸞讃にも、往還二回向説が『論註』によって立てられたと言明されている如くである。たしかに『論註』下「起観生信章」に回向門を釈して「回向有二種相、一者往相、二者還相」{{SH3|no9|回向に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。}}<ref>『論註』下(真聖全一・三一六頁)</ref> 等と往還二回向の名目は出されている。しかしこの場合往相回向とは、願生行者の利他回向のことであり、還相とは、浄土に往生した願生行者が大悲を起こして還来穢国し、利他教化することであって、往還の回向を行う主体はどこまでも行者であった。それに対して親鸞が釈顕される往還二種の回向は、本願力回向であって、回向の主体は阿弥陀仏であり、往還する行者は回向せられる者だったのである。親鸞は往還回向という言葉をうけつぎながら、その内容を衆生から如来へ百八十度転換されたわけである。そのような転換の機縁となったのは、「証文類」にのべられたように、『論註』の最後に釈された覈求其本釈における「他利々他」の深義であった。今はそれについて詳説するいとまはないが、この他利々他の釈と、それにつづく第十八、第十一、第二十二願の三願的証によって、親鸞は衆生が往相することも、還相することも、すべて阿弥陀如来の本願力を増上縁として、あらしめられているということを読み取られたのであった<ref>『論註』下・「利行満足章」(真聖全一・三四七頁)、尚この文意については、第二篇第四章第一節(三四一頁)參照。</ref>。
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 「教文類」の初めに、浄土真宗の教義体系を明かして「謹按浄土真宗、有二種回向、一者往相、二者還相、就往相回向、有真実教行信証」{{SH3|no5|つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには[[chu:往相|往相]]、二つには[[chu:還相|還相]]なり。往相の回向について真実の教行信証あり。}}といわれている<ref>「教文類」(真聖全二・二頁)</ref>。如来の本願力回向の救済相に往還の二相を開き、回向された往相に教行信証の四法をあげ、第十七願によって教と行が、第十八願によって教行を信受する信が、第十一願によって行信の因に対応する証果がそれぞれ回向成就されたといわれるのである。ここに示される親鸞独自の二回向四法の教義体系は、『論註』の指南に依るところが多かった。それは、「証文類」に「宗師顕示大悲往還回向、慇懃弘宣他利々他深義」{{SH3|no8|宗師は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。}}<ref>「証文類」(真聖全二・一一九頁)</ref> といい、「正信偈」の曇鸞章に「往還回向由他力」といい、「高僧和讃」の曇鸞讃にも、往還二回向説が『論註』によって立てられたと言明されている如くである。たしかに『論註』下「起観生信章」に回向門を釈して「回向有二種相、一者往相、二者還相」{{SH3|no9|回向に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。}}<ref>『論註』下(真聖全一・三一六頁)</ref> 等と往還二回向の名目は出されている。しかしこの場合往相回向とは、願生行者の利他回向のことであり、還相とは、浄土に往生した願生行者が大悲を起こして還来穢国し、利他教化することであって、往還の回向を行う主体はどこまでも行者であった。それに対して親鸞が釈顕される往還二種の回向は、本願力回向であって、回向の主体は阿弥陀仏であり、往還する行者は回向せられる者だったのである。親鸞は往還回向という言葉をうけつぎながら、その内容を衆生から如来へ百八十度転換されたわけである。そのような転換の機縁となったのは、「証文類」にのべられたように、『論註』の最後に釈された[[chu:覈求其本釈|覈求其本釈]]における「[[chu:他利利他の深義|他利々他]]」の深義であった。今はそれについて詳説するいとまはないが、この他利々他の釈と、それにつづく第十八、第十一、第二十二願の[[chu:三願的証|三願的証]]によって、親鸞は衆生が往相することも、還相することも、すべて阿弥陀如来の本願力を[[chu:増上縁|増上縁]]として、あらしめられているということを読み取られたのであった<ref>『論註』下・「利行満足章」(真聖全一・三四七頁)、尚この文意については、第二篇第四章第一節(三四一頁)參照。</ref>。
  
 
 このような曇鸞教学と同時に、親鸞の本願力回向説を内面から支えていたのは、上述のような法然の選択本願念仏の教説、特に第十七願に注目されたそれであったといえよう。念仏はただ選択されただけではなく、第十七願に誓われたように諸仏の教説をとおして衆生に教示し、施与されるのである。これによって衆生のうえにとどくのであるとすれば、念仏はまさに選択回向の行法であるといわねばならない。このような諸仏による行法回施のありさまを詳説されたのが「行文類」であり、そこに示される仏祖の引文であった。「行文類」の顕真実行の引文は『選択集』で結ばれる。そこには『選択集』の題号と撰号と標宗の十四文字と、それに三選の文八十一字が引かれたあと、上来所引の七高僧をはじめ、各宗の祖師たちの顕真実行の全文を結ぶ意味をこめて、
 
 このような曇鸞教学と同時に、親鸞の本願力回向説を内面から支えていたのは、上述のような法然の選択本願念仏の教説、特に第十七願に注目されたそれであったといえよう。念仏はただ選択されただけではなく、第十七願に誓われたように諸仏の教説をとおして衆生に教示し、施与されるのである。これによって衆生のうえにとどくのであるとすれば、念仏はまさに選択回向の行法であるといわねばならない。このような諸仏による行法回施のありさまを詳説されたのが「行文類」であり、そこに示される仏祖の引文であった。「行文類」の顕真実行の引文は『選択集』で結ばれる。そこには『選択集』の題号と撰号と標宗の十四文字と、それに三選の文八十一字が引かれたあと、上来所引の七高僧をはじめ、各宗の祖師たちの顕真実行の全文を結ぶ意味をこめて、
  
:明知是非凡聖自力之行、故名不回向之行也。大小聖人重軽悪人、皆同斉応帰選択大宝海念仏成仏。{{SH3|no10|あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに'''不回向の行'''と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。}}<ref>「行文類」(真聖全二・三三頁)</ref>
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:明知是非凡聖自力之行、故名不回向之行也。大小聖人重軽悪人、皆同斉応帰選択大宝海念仏成仏。<ref>「行文類」(真聖全二・三三頁)</ref> {{SHD|no10|あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに'''不回向の行'''と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。}}
 
といわれている。凡聖逆謗のすべてを平等に救うて成仏せしめる選択本願念仏は、自力回向の行ではないから、衆生のがわからいえば、不回向の行である。称名していることは、行者が、みずからのはからいを捨てて、万人を平等に往生成仏せしめようとはからいたまう如来の選択の願海に帰入し、如来の御はからいに随順している相にほかならない。それゆえ衆生からいえば法然がいわれるように'''不回向の行'''であるが、そのことを如来のがわからいえば、'''本願力回向の行'''であるといわれたのが親鸞であった。すなわち本願力回向ということは、法然が念仏は不回向行であるといわれたものをうけて展開されたものであるといえる。『浄土文類聚鈔』に「聖言論説特用知、非凡夫回向行、是大悲回向行故、名不回向」{{SH3|no11|聖言・論説ことに用ゐて知んぬ。凡夫回向の行にあらず、これ大悲回向の行なるがゆゑに不回向と名づく。}}といい<ref>『浄土文類聚鈔』(真聖全二・四四四頁)</ref>、「正像末和讃」に「真実信心の称名は弥陀回向の法なれば不回向となづけてぞ自力の称念きらはるゝ」<ref>「正像末和讃」(真聖全二・五二〇頁)</ref> と讃述された如くである。
 
といわれている。凡聖逆謗のすべてを平等に救うて成仏せしめる選択本願念仏は、自力回向の行ではないから、衆生のがわからいえば、不回向の行である。称名していることは、行者が、みずからのはからいを捨てて、万人を平等に往生成仏せしめようとはからいたまう如来の選択の願海に帰入し、如来の御はからいに随順している相にほかならない。それゆえ衆生からいえば法然がいわれるように'''不回向の行'''であるが、そのことを如来のがわからいえば、'''本願力回向の行'''であるといわれたのが親鸞であった。すなわち本願力回向ということは、法然が念仏は不回向行であるといわれたものをうけて展開されたものであるといえる。『浄土文類聚鈔』に「聖言論説特用知、非凡夫回向行、是大悲回向行故、名不回向」{{SH3|no11|聖言・論説ことに用ゐて知んぬ。凡夫回向の行にあらず、これ大悲回向の行なるがゆゑに不回向と名づく。}}といい<ref>『浄土文類聚鈔』(真聖全二・四四四頁)</ref>、「正像末和讃」に「真実信心の称名は弥陀回向の法なれば不回向となづけてぞ自力の称念きらはるゝ」<ref>「正像末和讃」(真聖全二・五二〇頁)</ref> と讃述された如くである。
  
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 また念仏について「利益章」に、諸行を小利有上とし、念仏を大利無上功徳と判じ、「既以一念為一無上、当知以十念為十無上……」{{SH3|no15|すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし……}}といい、一声々々が無上功徳であると、念仏の無上功徳性を強調されている<ref>『選択集』「利益章」(真聖全一・九五三頁)</ref>。それによって、たとえば「念仏往生要義抄」には「問ていはく、一声の念仏と、十声の念仏と、功徳の勝劣いかむ。答ていはく、たゞおなじ事也」といわれるのである<ref>「念仏往生要義抄」(『和語灯』二・真聖全四・五九五頁)</ref>。このように一声一声が絶対無上であるような念仏は、本願の名号が信者の上に全体露現しているからであって、如来の全体が名号となり、念仏となって衆生の上に与えられているといわねばならない。実際法然は如来から衆生に向かって行徳が回向せられるという言葉を用いられることがある。『三部経大意』の次のような文がそれである。
 
 また念仏について「利益章」に、諸行を小利有上とし、念仏を大利無上功徳と判じ、「既以一念為一無上、当知以十念為十無上……」{{SH3|no15|すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし……}}といい、一声々々が無上功徳であると、念仏の無上功徳性を強調されている<ref>『選択集』「利益章」(真聖全一・九五三頁)</ref>。それによって、たとえば「念仏往生要義抄」には「問ていはく、一声の念仏と、十声の念仏と、功徳の勝劣いかむ。答ていはく、たゞおなじ事也」といわれるのである<ref>「念仏往生要義抄」(『和語灯』二・真聖全四・五九五頁)</ref>。このように一声一声が絶対無上であるような念仏は、本願の名号が信者の上に全体露現しているからであって、如来の全体が名号となり、念仏となって衆生の上に与えられているといわねばならない。実際法然は如来から衆生に向かって行徳が回向せられるという言葉を用いられることがある。『三部経大意』の次のような文がそれである。
  
:弥陀如来は因位のとき、もはら我が名をとなえむ衆生をむかへむとちかひたまひて、兆載永劫の修行を衆生に回向したまふ。濁世の我等が依怙、生死の出離これにあらずばなにおか期せむ、これによりてかの仏は、われよにこえたる願をたつとなのりたまへり<ref>『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七八二頁)、『同』金沢文庫本(真宗学報一七・八頁)、「三部経釈」(『和語灯』一・真聖全四・五五一頁)</ref>。
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:弥陀如来は因位のとき、もはら我が名をとなえむ衆生をむかへむとちかひたまひて、兆載永劫の修行を衆生に回向したまふ。濁世の我等が[[chu:依怙|依怙]]、生死の出離これにあらずばなにおか期せむ、これによりてかの仏は、われよにこえたる願をたつとなのりたまへり<ref>『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七八二頁)、『同』金沢文庫本(真宗学報一七・八頁)、「三部経釈」(『和語灯』一・真聖全四・五五一頁)</ref>。
  
 
 ここには衆生の帰依処となるような、如来の行の回向がいわれている。文脈からいって、法蔵所修の行徳が名号中に摂せられて、称名の体徳として回向されているという意味とみられるから、萠芽的ではあるが、本願力回向への展開契機がうかがわれる<ref>石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』上(一三六頁)</ref>。
 
 ここには衆生の帰依処となるような、如来の行の回向がいわれている。文脈からいって、法蔵所修の行徳が名号中に摂せられて、称名の体徳として回向されているという意味とみられるから、萠芽的ではあるが、本願力回向への展開契機がうかがわれる<ref>石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』上(一三六頁)</ref>。
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 なお親鸞が、信心を語られるとき、その信は「如来選択の願心より発起」せるものであるといい、「選択回向之直心」といわれるように、法然の選択思想をうけて、信心の根源を如来の願心に見出し、念仏を選んで、一切衆生を救わんと思しめす如来の願心が、わが心に徹到したものが信心であると領解されていた。すでに別稿で詳述したように信心を以て涅槃の真因であるといい、信疑を以て迷と悟を分判される[[chu:信疑決判|信疑決判]]も法然を伝承されたものであることはいうまでもない<ref>信疑決判については、『本論』第二篇第三章第三節二項(二九七頁)參照。</ref>。さらに醍醐本『法然上人伝記』所収の「三心料簡事」によれば、
 
 なお親鸞が、信心を語られるとき、その信は「如来選択の願心より発起」せるものであるといい、「選択回向之直心」といわれるように、法然の選択思想をうけて、信心の根源を如来の願心に見出し、念仏を選んで、一切衆生を救わんと思しめす如来の願心が、わが心に徹到したものが信心であると領解されていた。すでに別稿で詳述したように信心を以て涅槃の真因であるといい、信疑を以て迷と悟を分判される[[chu:信疑決判|信疑決判]]も法然を伝承されたものであることはいうまでもない<ref>信疑決判については、『本論』第二篇第三章第三節二項(二九七頁)參照。</ref>。さらに醍醐本『法然上人伝記』所収の「三心料簡事」によれば、
  
:由阿弥陀仏因中真実心中作行 悪不雑之善故云真実也。其義以何得知、次釈凡所施為趣求、亦皆真実文、此以真実施者、施何者云、深心二種釈、第一罪悪生死凡夫云施此衆生也、造悪之凡夫即可由此真実之機也{{SH3|no17|阿弥陀仏因中の真実心の中に作なすに由(よ)る行こそ、悪雑(まじ)はらざる善なるが故に真実と云ふなり。その義なにを以て知ることを得ん。次の釈に「おほよそ施為(せい)・趣求(しゅぐ)するところ、またみな真実なり」の文。この真実を以て施すとは何者に施すと云はば、深心の二種の釈の第一、「罪悪生死の凡夫」と云へる、この衆生に施すなり。造悪の凡夫、すなわちこの真実に由(よる)べきの機なり。}}<ref>醍醐本『法然上人伝記』三心料簡事(法然伝全・七八二頁)、これについては第二篇第三章第二節五項(二八三頁)參照。</ref>。
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:由阿弥陀仏因中真実心中作行 悪不雑之善故云真実也。其義以何得知、次釈凡所施為趣求、亦皆真実文、此以真実施者、施何者云、深心二種釈、第一罪悪生死凡夫云施此衆生也、造悪之凡夫即可由此真実之機也。<ref>醍醐本『法然上人伝記』三心料簡事(法然伝全・七八二頁)、これについては第二篇第三章第二節五項(二八三頁)參照。</ref>{{SHD|no17|阿弥陀仏因中の真実心の中に作なすに由(よ)る行こそ、悪雑(まじ)はらざる善なるが故に真実と云ふなり。その義なにを以て知ることを得ん。次の釈に「おほよそ施為(せい)・趣求(しゅぐ)するところ、またみな真実なり」の文。この真実を以て施すとは何者に施すと云はば、深心の二種の釈の第一、「罪悪生死の凡夫」と云へる、この衆生に施すなり。造悪の凡夫、すなわちこの真実に由(よる)べきの機なり。}}
  
といい、如来が、真実心をもって成就された行のみが真実といわれるが、その「所選取之真実者、本願功徳、即正行念仏」{{SH3|no18|選取するところの真実とは、本願の功徳すなわち正行の念仏なり。}}である。この真実なる念仏を、罪悪生死の凡夫に施されるから、衆生は、これによって、浄土を趣求していくことを善導は「所施為趣求亦皆真実」[[chu:施したまふところ趣求をなす|[*]]]といわれたというのである。また以下に二河譬の白道を論じて、雑行中の願生心と、専修正行の願往生心を分判し、後者は、願往生心が即願力の白道であるような信であるといわれている。これらはいずれも本願力回向の行信という言葉こそ用いられていないが、内容的には殆ど同じことがらがあらわされていたといえよう。こうして親鸞の本願力回向の教義体系は、たしかに『論註』の強い教学的影響下に形成されたものにちがいないが、信仰的には、そしてより根源的には法然の選択本願論を展開したものであったといえよう。すなわち正確には選択本願念仏の信仰を、『論註』教学をとおして教義体系化したものが、『教行証文類』の教義体系であったというべきであろう。
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といい、如来が、真実心をもって成就された行のみが真実といわれるが、その「所選取之真実者、本願功徳、即正行念仏」{{SH3|no18|選取するところの真実とは、本願の功徳すなわち正行の念仏なり。}}である。この真実なる念仏を、罪悪生死の凡夫に施されるから、衆生は、これによって、浄土を趣求<ref>◇:趣求(しゅぐ)。趣(おもむ)き求めること。</ref>していくことを善導は「所施為趣求亦皆真実」[[chu:施したまふところ趣求をなす|[*]]]といわれたというのである。また以下に二河譬の白道を論じて、雑行中の願生心と、専修正行の願往生心を分判し、後者は、願往生心が即願力であるような信であるといわれている。これらはいずれも本願力回向の行信という言葉こそ用いられていないが、内容的には殆ど同じことがらがあらわされていたといえよう。こうして親鸞の本願力回向の教義体系は、たしかに『論註』の強い教学的影響下に形成されたものにちがいないが、信仰的には、そしてより根源的には法然の選択本願論を展開したものであったといえよう。すなわち正確には選択本願念仏の信仰を、『論註』教学をとおして教義体系化したものが、『教行証文類』の教義体系であったというべきであろう。
  
 なおここで注意すべきことは、親鸞の大行論は『選択集』の「二行章」をうけられたものにちがいないが、「二行章」の標章には「善導和尚立正雑二行、捨雑行帰正行之文」{{SH3|no19|善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する文。}}といって正雑二行対で説かれている。従ってその内容をみると[[chu:安心門|安心門]](廃立門)では、雑行は勿論、助業も捨てて、称名正定業の一行が独立せしめられているが、[[chu:起行門|起行門]](相続門)で法義をあらわすときには助正二業が勧められている。それが「本願章」では、唯称名一行を所選の行として明かし、最後の三選の文では「称名必得生、依仏本願故」と安心門に立って一行専修が主張されている。親鸞は、この三選の文意によって「行文類」では[[chu:大行|大行]]を一行として顕わされるのである。また「三心章」の標章には「念仏行者、必可具足三心」といい『観経』の三心をもって信心が釈されている。しかし私釈にいたって、迷悟の決判をするときには、深心の一つにおさめて「当知生死之家、以疑為所止、涅槃之城、以信為能入」{{SH3|no20|まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。}}
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 なおここで注意すべきことは、親鸞の大行論は『選択集』の「二行章」をうけられたものにちがいないが、「二行章」の標章には「善導和尚立正雑二行、捨雑行帰正行之文」{{SH3|no19|善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する文。}}といって正雑二行対で説かれている。従ってその内容をみると[[chu:安心門|安心門]](廃立門)では、雑行は勿論、助業も捨てて、称名正定業の一行が独立せしめられているが、[[chu:起行門|起行門]](相続門)で法義をあらわすときには助正二業が勧められている。それが「本願章」では、<kana>唯(ただ)</kana>称名一行を所選の行として明かし、最後の三選の文では「称名必得生、依仏本願故」{{SH3|no19-1|名を称えれば必ず生ずる、仏の本願によるがゆえに。}}と安心門に立って一行専修が主張されている。親鸞は、この三選の文意によって「行文類」では[[chu:大行|大行]]を一行として顕わされるのである。また「三心章」の標章には「念仏行者、必可具足三心」{{SH3|no19-2|念仏行者、必ず三心を具足すべし。}}といい『観経』の三心をもって信心が釈されている。しかし私釈にいたって、迷悟の決判をするときには、深心の一つにおさめて「当知生死之家、以疑為所止、涅槃之城、以信為能入」{{SH3|no20|まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。}}
といい、信と疑をもって対決されている。親鸞は、この信を本願の信楽とおさえ、三心即一の信楽一心をもって「信文類」の[[chu:大信|大信]]を顕わされるのである。すなわち五行三心という立場に対して、一行一心を、法然教学の究竟の立場として伝承されたのが『教行証文類』における行信だったといえよう。「行文類」の行一念釈において、『大経』付属の一念の当釈である一念の遍数釈のほかに、あえて行相釈を出し「一行、形无二行」{{SH3|no22|一行なり、二行なきことを形(あらわ)すなり。}}といい、また「信文類」には、信一念の当釈である時尅釈のほかに、信相釈をあげて「言一念者、信心无二心故曰一念、是名一心、一心則清浄報土真因也」{{SH3|no23|一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。}}といい、一行一心の義を強調される所以である<ref>「行文類」行一念釈(真聖全二・三五頁)、「信文類」信一念釈(真聖全二・七二頁)</ref>。『唯信抄文意』に「教念弥陀専復専」{{SH3|no24|教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり}}を釈して、
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といい、信と疑をもって対決されている。親鸞は、この信を本願の信楽とおさえ、三心即一の[[chu:信楽|信楽]]一心をもって「信文類」の[[chu:大信|大信]]を顕わされるのである。すなわち五行三心<ref>◇:五行三心。五正行の読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の[[chu:五正行|五正行]]と、至誠心、深心、回向発願心の三心。</ref>という立場に対して、一行一心を、法然教学の究竟の立場として伝承されたのが『教行証文類』における[[chu:行信|行信]]だったといえよう。「行文類」の[[chu:行の一念|行一念]]釈において、『大経』付属の一念の当釈である一念の遍数釈のほかに、あえて行相釈を出し「一行、形无二行」{{SH3|no22|一行なり、二行なきことを形(あらわ)すなり。}}といい、また「信文類」には、[[chu:信の一念|信一念]]の当釈である時剋釈[[chu:信巻末#P--250|(*)]]のほかに、信相釈をあげて「言一念者、信心无二心故曰一念、是名一心、一心則清浄報土真因也」{{SH3|no23|一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。}}といい、一行一心の義を強調される所以である<ref>「行文類」行一念釈(真聖全二・三五頁)、「信文類」信一念釈(真聖全二・七二頁)</ref>。『唯信抄文意』に「教念弥陀専復専」{{SH3|no24|教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり}}を釈して、
  
 
:選択本願の名号を一向専修なれとおしえたまふ御ことなり。専復専といふは、はじめの専は一行を修すべしとなり、復はまたといふ、かさぬといふ。しかればまた専といふは一心なれとなり。一行一心をもはらなれとなり。……この一行一心なるひとを摂取してすてたまはざれば阿弥陀となづけたてまつると光明寺の和尚はのたまへり<ref>『唯信抄文意』専修寺本(真聖全二・六四九頁)</ref>。
 
:選択本願の名号を一向専修なれとおしえたまふ御ことなり。専復専といふは、はじめの専は一行を修すべしとなり、復はまたといふ、かさぬといふ。しかればまた専といふは一心なれとなり。一行一心をもはらなれとなり。……この一行一心なるひとを摂取してすてたまはざれば阿弥陀となづけたてまつると光明寺の和尚はのたまへり<ref>『唯信抄文意』専修寺本(真聖全二・六四九頁)</ref>。

2019年10月22日 (火) 17:45時点における最新版

法然教学の研究 /第二篇/第ニ章 選択思想の成立と展開/第七節 選択本願論の継承

第ニ章 選択思想の成立と展開

第七節 選択本願論の継承

 法然の選択本願論は、その弟子たちに継承され展開されていくが、ここでは親鸞のそれについて概観しておこう。親鸞が、法然の教説の中核を「選択本願」に見出しておられたことは、「正信偈」の源空章に「真宗教証興片州、選択本願弘悪世」「隠/顕」真宗の教証、片州に興す。選択本願悪世に弘む。 と、その釈功をたたえ、「高僧和讃」の源空讃に「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗をひらきつつ、選択本願のべたまふ」と讃詠されたものによっても明らかなところである[1]。親鸞が浄土真宗とか真宗とよばれたものは、まさしく法然が開顕された浄土宗の中核をなす選択本願の法義だった。『末灯鈔』所収の御消息には「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり、浄土真宗は大乗のなかの至極なり」[2] 等とのべられている。法然によって開宗された浄土宗という選択本願の宗教こそ真実の仏法であるというので浄土真宗と名づけられたのであろう。

 そもそも親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類』は、元久二年、法然から『選択集』を伝授され、その真影を図画することを許された甚深の師恩に応答するために「真宗の(せん)(しょう)し、浄土の要を(ひろ)う」て成立したものであった[3]
それは何よりも選択本願念仏の深意を祖述し展開するものだったのである。「行文類」の偈前の文に、この書に開示された法義を要約して、

凡就誓願、有真実行信、亦有方便行信、其真実行願者、諸仏称名願、其真実信願者、至心信楽願、斯乃選択本願之行信也。其機者則一切善悪大小凡愚也、往生者則難思議往生也。仏土者則報仏報土也。斯乃誓願不可思議一実真如海、大無量寿経之宗致、他力真宗之正意也。[4]「隠/顕」
おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

といわれたように選択本願の行信の因果を釈顕するほかにはないのである。

 「行文類」の初には「諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行」と標願細註し、「行文類」にあらわす浄土真実の大行が、法然が釈顕された選択本願の行たる他力の念仏であることを標示されている[5]。それは『選択集』の三選の文に第二、第三章をうけて、「正定之業者、即是称仏名、称名必得生、依仏本願故」「隠/顕」正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。といわれたものをうけていることはいうまでもなかろう[6]。ところで法然が選択本願の行といえば、第十八願乃至十念をさしていたのに、親鸞は第十七願によって行を建立し、この願を「選択称名之願」と名づけられたことから、後学に種々の論議をよびおこした。しかしこれも法然の幽意をうけて展開されたものと考えられる。すなわち『三部経大意』に、

弥陀善逝、平等の慈悲にもよをされて、十方世界にあまねく光明をてらして(うたた)一切衆生にことぐく縁をむすばしめむがために光明無量の願をたてまへり。第十二の願これなり。つぎに名号をもて因として衆生を引接せむがために念仏往生の願をたてたまへり。第十八の願これなり。その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり。第十七の願これなり。このゆへに釈迦如来この土にしてときたまふがごとく、十方におのく恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。しかれば光明の縁あまねく十方世界をてらしてもらすことなく、名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずといふことなし。……しかればすなわち、光明の縁と、名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかぶらむことうたがふべからず。……又このぐわんひさしくして衆生を済度せむがために寿命無量の願をたてたまへり、第十三の願これなり[7]

といわれている。ここには、第十二、第十三、第十七、第十八の四願を引いて、光明名号の摂化と、それによって念仏の衆生たらしめられ、摂取不捨の利益を得しめられるという、いわゆる光号因縁の義意が釈顕されている。すなわち第十二願は往生の外縁となる光明の摂化をあらわし、第十七願は、諸仏の讃嘆によって名号を衆生往生の因として与えていくことをあらわし、第十三願は光号摂化の永遠性をあらわしている。この光明の縁と、名号の因とが、衆生の上で因縁和合しているのが、第十八願における「念仏衆生、摂取不捨」という念仏往生の成立であるといわれるのである。のちに親鸞が「行文類」に光号因縁(両重因縁)の妙釈をあらわされるのは、この釈義をうけて展開されたものといえよう[8]。ともあれ法然は第十八願の念仏往生の根源を第十七願に見出し、諸仏所讃の名号が、選択の行体であって、これを往生の因体として信受し奉行しているのが第十八願の念仏往生であるとみられていたことがわかる。この十七、十八願の関係は、聖覚が法然に代わってあらわしたという「登山状」にもみられ、聖覚の『唯信抄』にも伝承されている[9]。『唯信抄』に「まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられむといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこゝろふべし。名号をもてあまねく衆生をみちびかむとおぼしめすゆへにかつく名号をほめられむとちかひたまへるなり。……さてつぎに第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものおもみちびかむとのたまへり」といわれている。法然にせよ聖覚にせよ、選択本願念仏の法門は、諸仏の讃嘆をとおして衆生のうえに実現するのであって、第十七願の教法と、第十八願の機受が一体となって成就しているとみられていたことがわかる。親鸞はこのような考え方を伝承し、選択本願の念仏は、第十七願をとおして与えられたとして、第十七願をことに「往相回向之願」とよび、如来の本願力回向の相をこの願の上にみられたのであった。

 「教文類」の初めに、浄土真宗の教義体系を明かして「謹按浄土真宗、有二種回向、一者往相、二者還相、就往相回向、有真実教行信証」「隠/顕」つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。といわれている[10]。如来の本願力回向の救済相に往還の二相を開き、回向された往相に教行信証の四法をあげ、第十七願によって教と行が、第十八願によって教行を信受する信が、第十一願によって行信の因に対応する証果がそれぞれ回向成就されたといわれるのである。ここに示される親鸞独自の二回向四法の教義体系は、『論註』の指南に依るところが多かった。それは、「証文類」に「宗師顕示大悲往還回向、慇懃弘宣他利々他深義」「隠/顕」宗師は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。[11] といい、「正信偈」の曇鸞章に「往還回向由他力」といい、「高僧和讃」の曇鸞讃にも、往還二回向説が『論註』によって立てられたと言明されている如くである。たしかに『論註』下「起観生信章」に回向門を釈して「回向有二種相、一者往相、二者還相」「隠/顕」回向に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。[12] 等と往還二回向の名目は出されている。しかしこの場合往相回向とは、願生行者の利他回向のことであり、還相とは、浄土に往生した願生行者が大悲を起こして還来穢国し、利他教化することであって、往還の回向を行う主体はどこまでも行者であった。それに対して親鸞が釈顕される往還二種の回向は、本願力回向であって、回向の主体は阿弥陀仏であり、往還する行者は回向せられる者だったのである。親鸞は往還回向という言葉をうけつぎながら、その内容を衆生から如来へ百八十度転換されたわけである。そのような転換の機縁となったのは、「証文類」にのべられたように、『論註』の最後に釈された覈求其本釈における「他利々他」の深義であった。今はそれについて詳説するいとまはないが、この他利々他の釈と、それにつづく第十八、第十一、第二十二願の三願的証によって、親鸞は衆生が往相することも、還相することも、すべて阿弥陀如来の本願力を増上縁として、あらしめられているということを読み取られたのであった[13]

 このような曇鸞教学と同時に、親鸞の本願力回向説を内面から支えていたのは、上述のような法然の選択本願念仏の教説、特に第十七願に注目されたそれであったといえよう。念仏はただ選択されただけではなく、第十七願に誓われたように諸仏の教説をとおして衆生に教示し、施与されるのである。これによって衆生のうえにとどくのであるとすれば、念仏はまさに選択回向の行法であるといわねばならない。このような諸仏による行法回施のありさまを詳説されたのが「行文類」であり、そこに示される仏祖の引文であった。「行文類」の顕真実行の引文は『選択集』で結ばれる。そこには『選択集』の題号と撰号と標宗の十四文字と、それに三選の文八十一字が引かれたあと、上来所引の七高僧をはじめ、各宗の祖師たちの顕真実行の全文を結ぶ意味をこめて、

明知是非凡聖自力之行、故名不回向之行也。大小聖人重軽悪人、皆同斉応帰選択大宝海念仏成仏。[14] 「隠/顕」
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

といわれている。凡聖逆謗のすべてを平等に救うて成仏せしめる選択本願念仏は、自力回向の行ではないから、衆生のがわからいえば、不回向の行である。称名していることは、行者が、みずからのはからいを捨てて、万人を平等に往生成仏せしめようとはからいたまう如来の選択の願海に帰入し、如来の御はからいに随順している相にほかならない。それゆえ衆生からいえば法然がいわれるように不回向の行であるが、そのことを如来のがわからいえば、本願力回向の行であるといわれたのが親鸞であった。すなわち本願力回向ということは、法然が念仏は不回向行であるといわれたものをうけて展開されたものであるといえる。『浄土文類聚鈔』に「聖言論説特用知、非凡夫回向行、是大悲回向行故、名不回向」「隠/顕」聖言・論説ことに用ゐて知んぬ。凡夫回向の行にあらず、これ大悲回向の行なるがゆゑに不回向と名づく。といい[15]、「正像末和讃」に「真実信心の称名は弥陀回向の法なれば不回向となづけてぞ自力の称念きらはるゝ」[16] と讃述された如くである。

 『選択集』「二行章」の不回向回向対には『玄義分』の六字釈を引証して念仏は「縦令別不用回向、自然成往生業」「隠/顕」たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。[17] といわれていた。すなわち名号には南無帰命の義釈として発願回向の義がそなわっているからである。ところで法然によれば、念仏が自然に往生業となるのは、如来が往生業として選定された選択本願の道理によってである。そうすると念仏(名号)に自然に具わっている発願回向の義とは、根源的には、念仏を選択して一切衆生を往生せしめようと誓願された如来の選択の願心の上に見なければならないことになる。その意趣を見ぬかれたから親鸞は「行文類」の六字釈で「発願回向」の義を釈して、「如来已発願、回施衆生行之心也」「隠/顕」如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。といわれたのである[18]。もちろん法然が直ちに本願力回向の行信を語られたわけではないが、そのように展開する傾向性を選択本願論のなかに充分みることができるのである。

 また念仏について「利益章」に、諸行を小利有上とし、念仏を大利無上功徳と判じ、「既以一念為一無上、当知以十念為十無上……」「隠/顕」すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし……といい、一声々々が無上功徳であると、念仏の無上功徳性を強調されている[19]。それによって、たとえば「念仏往生要義抄」には「問ていはく、一声の念仏と、十声の念仏と、功徳の勝劣いかむ。答ていはく、たゞおなじ事也」といわれるのである[20]。このように一声一声が絶対無上であるような念仏は、本願の名号が信者の上に全体露現しているからであって、如来の全体が名号となり、念仏となって衆生の上に与えられているといわねばならない。実際法然は如来から衆生に向かって行徳が回向せられるという言葉を用いられることがある。『三部経大意』の次のような文がそれである。

弥陀如来は因位のとき、もはら我が名をとなえむ衆生をむかへむとちかひたまひて、兆載永劫の修行を衆生に回向したまふ。濁世の我等が依怙、生死の出離これにあらずばなにおか期せむ、これによりてかの仏は、われよにこえたる願をたつとなのりたまへり[21]

 ここには衆生の帰依処となるような、如来の行の回向がいわれている。文脈からいって、法蔵所修の行徳が名号中に摂せられて、称名の体徳として回向されているという意味とみられるから、萠芽的ではあるが、本願力回向への展開契機がうかがわれる[22]

 なお親鸞が、信心を語られるとき、その信は「如来選択の願心より発起」せるものであるといい、「選択回向之直心」といわれるように、法然の選択思想をうけて、信心の根源を如来の願心に見出し、念仏を選んで、一切衆生を救わんと思しめす如来の願心が、わが心に徹到したものが信心であると領解されていた。すでに別稿で詳述したように信心を以て涅槃の真因であるといい、信疑を以て迷と悟を分判される信疑決判も法然を伝承されたものであることはいうまでもない[23]。さらに醍醐本『法然上人伝記』所収の「三心料簡事」によれば、

由阿弥陀仏因中真実心中作行 悪不雑之善故云真実也。其義以何得知、次釈凡所施為趣求、亦皆真実文、此以真実施者、施何者云、深心二種釈、第一罪悪生死凡夫云施此衆生也、造悪之凡夫即可由此真実之機也。[24]「隠/顕」
阿弥陀仏因中の真実心の中に作なすに由(よ)る行こそ、悪雑(まじ)はらざる善なるが故に真実と云ふなり。その義なにを以て知ることを得ん。次の釈に「おほよそ施為(せい)・趣求(しゅぐ)するところ、またみな真実なり」の文。この真実を以て施すとは何者に施すと云はば、深心の二種の釈の第一、「罪悪生死の凡夫」と云へる、この衆生に施すなり。造悪の凡夫、すなわちこの真実に由(よる)べきの機なり。

といい、如来が、真実心をもって成就された行のみが真実といわれるが、その「所選取之真実者、本願功徳、即正行念仏」「隠/顕」選取するところの真実とは、本願の功徳すなわち正行の念仏なり。である。この真実なる念仏を、罪悪生死の凡夫に施されるから、衆生は、これによって、浄土を趣求[25]していくことを善導は「所施為趣求亦皆真実」[*]といわれたというのである。また以下に二河譬の白道を論じて、雑行中の願生心と、専修正行の願往生心を分判し、後者は、願往生心が即願力であるような信であるといわれている。これらはいずれも本願力回向の行信という言葉こそ用いられていないが、内容的には殆ど同じことがらがあらわされていたといえよう。こうして親鸞の本願力回向の教義体系は、たしかに『論註』の強い教学的影響下に形成されたものにちがいないが、信仰的には、そしてより根源的には法然の選択本願論を展開したものであったといえよう。すなわち正確には選択本願念仏の信仰を、『論註』教学をとおして教義体系化したものが、『教行証文類』の教義体系であったというべきであろう。

 なおここで注意すべきことは、親鸞の大行論は『選択集』の「二行章」をうけられたものにちがいないが、「二行章」の標章には「善導和尚立正雑二行、捨雑行帰正行之文」「隠/顕」善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する文。といって正雑二行対で説かれている。従ってその内容をみると安心門(廃立門)では、雑行は勿論、助業も捨てて、称名正定業の一行が独立せしめられているが、起行門(相続門)で法義をあらわすときには助正二業が勧められている。それが「本願章」では、(ただ)称名一行を所選の行として明かし、最後の三選の文では「称名必得生、依仏本願故」「隠/顕」名を称えれば必ず生ずる、仏の本願によるがゆえに。と安心門に立って一行専修が主張されている。親鸞は、この三選の文意によって「行文類」では大行を一行として顕わされるのである。また「三心章」の標章には「念仏行者、必可具足三心」「隠/顕」念仏行者、必ず三心を具足すべし。といい『観経』の三心をもって信心が釈されている。しかし私釈にいたって、迷悟の決判をするときには、深心の一つにおさめて「当知生死之家、以疑為所止、涅槃之城、以信為能入」「隠/顕」まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。 といい、信と疑をもって対決されている。親鸞は、この信を本願の信楽とおさえ、三心即一の信楽一心をもって「信文類」の大信を顕わされるのである。すなわち五行三心[26]という立場に対して、一行一心を、法然教学の究竟の立場として伝承されたのが『教行証文類』における行信だったといえよう。「行文類」の行一念釈において、『大経』付属の一念の当釈である一念の遍数釈のほかに、あえて行相釈を出し「一行、形无二行」「隠/顕」一行なり、二行なきことを形(あらわ)すなり。といい、また「信文類」には、信一念の当釈である時剋釈(*)のほかに、信相釈をあげて「言一念者、信心无二心故曰一念、是名一心、一心則清浄報土真因也」「隠/顕」一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。といい、一行一心の義を強調される所以である[27]。『唯信抄文意』に「教念弥陀専復専」「隠/顕」教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへりを釈して、

選択本願の名号を一向専修なれとおしえたまふ御ことなり。専復専といふは、はじめの専は一行を修すべしとなり、復はまたといふ、かさぬといふ。しかればまた専といふは一心なれとなり。一行一心をもはらなれとなり。……この一行一心なるひとを摂取してすてたまはざれば阿弥陀となづけたてまつると光明寺の和尚はのたまへり[28]

といわれている。選択本願の行信とは、一心をもってはからいなく一行を修するほかにはなかったのである。


:脚註

  1. 「行文類」正信念仏偈(真聖全二・四六頁)、『浄土文類聚鈔』念仏正信偈(真聖全二・四五〇頁)「高僧和讃」源空讃(真聖全二・五一三頁)
  2. 『末灯鈔』第一条(真聖全二・六五八頁)
  3. 『教行証文類』後序(同右・二〇三頁)
  4. 「行文類」偈前文(同右・四二頁)
  5. 「行文類」標願細註(同右・五頁)
  6. 「行文類」(同右・三三頁)に、『選択集』の題号と標宗と三選の文とが引用されているが、その意義については第一篇第二章・第七章等に詳述した。
  7. 『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七八四頁)。なお『同』金沢文庫本(真宗学報一七・一七頁 ̄二〇頁)には第十七・第十八願文が略引されており『和語灯録』一所収の「三部経釈」(真聖全四・五五三頁)には、第十八、第十七願の次第であげられているが、いずれも文意は同じである。
  8. 「行文類」光号因縁釈(真聖全二・三三頁)
  9. 「登山状」(『拾遺語灯』中・真聖全四・七二一頁)、『唯信鈔』(真聖全二・七四二頁)拾遺語灯録中#17gan
  10. 「教文類」(真聖全二・二頁)
  11. 「証文類」(真聖全二・一一九頁)
  12. 『論註』下(真聖全一・三一六頁)
  13. 『論註』下・「利行満足章」(真聖全一・三四七頁)、尚この文意については、第二篇第四章第一節(三四一頁)參照。
  14. 「行文類」(真聖全二・三三頁)
  15. 『浄土文類聚鈔』(真聖全二・四四四頁)
  16. 「正像末和讃」(真聖全二・五二〇頁)
  17. 『選択集』「二行章」(真聖全一・九三七頁)、尚、回向不回向対については、第一篇第四章第四節(八一頁)參照。
  18. 「行文類」六字釈(真聖全二・二二頁)
  19. 『選択集』「利益章」(真聖全一・九五三頁)
  20. 「念仏往生要義抄」(『和語灯』二・真聖全四・五九五頁)
  21. 『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七八二頁)、『同』金沢文庫本(真宗学報一七・八頁)、「三部経釈」(『和語灯』一・真聖全四・五五一頁)
  22. 石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』上(一三六頁)
  23. 信疑決判については、『本論』第二篇第三章第三節二項(二九七頁)參照。
  24. 醍醐本『法然上人伝記』三心料簡事(法然伝全・七八二頁)、これについては第二篇第三章第二節五項(二八三頁)參照。
  25. ◇:趣求(しゅぐ)。趣(おもむ)き求めること。
  26. ◇:五行三心。五正行の読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五正行と、至誠心、深心、回向発願心の三心。
  27. 「行文類」行一念釈(真聖全二・三五頁)、「信文類」信一念釈(真聖全二・七二頁)
  28. 『唯信抄文意』専修寺本(真聖全二・六四九頁)