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法然教学の研究 /第二篇/第七章 法然聖人における一念多念の問題

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法然教学の研究 /第二篇/第七章 法然聖人における一念多念の問題

第七章 法然聖人における一念多念の問題

第一節 一念多念の諍い

 法然の晩年から滅後にかけて、最大の教学論諍となったものに一念多念論がある。『古今著聞集』一に「後鳥羽院、聖覚法印参上したりけるに、近来専修のともがら、一念多念とて、わけてあらそふなるは、いづれか正とすべきと御たづねありければ、行をば多念にとり、信をば一念にとるべきなりとぞ申侍りける」[1]と記されているように、後鳥羽上皇が関心をもつにいたったほどであったという。また信瑞の『明義進行集』(法然伝全・一〇〇八頁)には、空阿が一念多念の座を分けたことを伝えている。また法然の十三回忌にあたる貞応三年に叡山から朝廷に専修念仏の停止を奏上した『廷暦寺奏状』のなかにも、一念多念の諍いのあることをのべているし[2]、凝然の『浄土源流章』にも、一念義の主唱者として幸西を、多念義の主唱者として隆寛をそれぞれあげている。

 隆寛は、少くともその『一念多念分別事』や『後世物語聞書』などをみるかぎりでは、多念義とはいえない。特に『一念多念分別事』には、

念仏の行につきて、一念多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これはきはめたる大事なり。よくくつつしむべし。一念をたてゝ多念をきらひ、多念をたてゝ一念をそしる、ともに本願のむねにそむき、善導のをしへをわすれたり・・・・・・かへすがへすも、多念すなはち一念なり、一念すなはち多念なりといふことわりをみだるまじきなり。[3]

といい、一念多念の両派をきびしく批判されている。隆寛は一念を、一声の称名のこととみているから、行の一念であった。もっとも『散善義問答』に、

念仏行一発心後、至往生期、不可退転勧進也。以何故者、正乗本願事最後一念也。正乗 蓮台事臨終一念、以尋常一念、有乗本願、善導懐感等人是也。其余行人、以尋常念仏力、成就最後正念乗本願也。「隠/顕」「隠/顕」念仏の行は一発心の後、往生の期に至るまで退転すべからずと勧進なり。何を以ての故にとは、正しく本願に乗ずることは最後の一念なり。正しく蓮台に乗ずることは臨終の一念なり。尋常の一念を以て本願に乗ずることあり、善導、懐感等の人これなり。その余の行人は、尋常念仏の力を以て、最後の正念を成就して本願に乗ずるなり。

といわれたものなどによると、多念を勧め、臨終業成を主張されるもので、まさに多念義の典型のようにもみられる。『浄土源流章』に隆寛の思想を紹介して、長楽寺隆寛律師立多念義、・・・・・・行者修習念仏妙行、其業成就心在臨終、平生之間、雖相続修往生業因、未能成就、是故一形至 最後念、相続勤修、臨終業成、即見仏等。

といったのは、隆寛の思想の一面をたしかにあらわしている。しかし上述の『一念多念分別事』の思想とあわせ考えるならば、石田充之氏もいわれるように、平生業成説に即する臨終業成説とでもいうべきものであろう。

 聖覚は承久三年(一二二二)にあらわした『唯信鈔』のなかで一念多念の諍いにふれ

つぎに念仏を信ずる人のいはく、往生浄土のみちは、信心をさきとす、信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず、経にすでに乃至一念ととけり、このゆへに一念にてたれりとす、遍数をかさねむとするは、かへりて仏の願を信ぜざるなり、念仏を信ぜざる人とて、おほきにあざけり、ふかくそしると。

というような信一念をたてて多念相続をそしる一念義のあったことを伝えている。そして聖覚は、「この説ともに得失あり、往生の業一念にたれりといふは、その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりといふ、すこぶるそのことばすぎたり」と批判し、法然以来の伝統の正義として「一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなくまふすべきなり」と断定している。

 親鸞が、関東の門弟たちのなかに、一念多念の諍いが発生したとき、隆寛や聖覚の書をすすめて教導し、みずからも『一念多念文意』をあらわされたことは周知の如くである。そこには「一念をひがごとゝおもふまじき事」といって、信一念に往生が定まるということも、行一念が無上功徳をもつ業因であることも、経釈の実義であるといい、また「多念をひがごとゝおもふまじき事」といって、一念にかぎらず「乃至十念」と誓われた仏意にしたがって生涯念仏相続すべきことをすすめ、

これにて一念多念のあらそひあるまじきことはおしはからせたまふべし。浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり、またく一念往生、多念往生とまふすことなし。

と誡めておられる。

 弁長の『浄土宗名目問答』下の初に

問、同雖 浄土宗一門者、一念之流、数遍之流、水火相分、一念之人、咲 数遍之輩難行苦行、数遍之人謗一念之輩無行無修、互成<偏執、何悪何善、誠以其是非難 知、何将弁 是善悪、付 一方 固 其心、止 迷惑念、一向調 往生之行願、今度往生浄土、出離生死。

という問いを出している。これによって一念義と多念義が水火の如く分れて論諍していたことがわかるが、弁長は、そのどちらが善であるかを決択して、その一方について心を固め、往生の行願を調えるように勧めている。そして答釈においては、『大経』の「精明求願積累善本、雖一世勤苦須臾之間、後生無量寿仏国、快楽無極」の文をはじめ、善導の『観念法門』の「大須精進、或得三万六万十万者、皆是上品上生人」等の文を多く引いて多念義を以て正義とし、一念義を邪義と定めている。すなわち一念義は、三心、四修、五念の法義に背くものとして専修の行者ではないというのである。そして多念相続の行儀としては四修の法により、また尋常行儀、別時行儀、臨終行儀を用うべきであるとすすめている。特に臨終行儀を重視し、臨終正念を祈り、臨終来迎を期するのが浄土教の伝統であるとして、平生に往生が定まると語り、臨終はたとえ悪相であっても往生すというような一念義は邪義であるといっている。

 弁長は『念仏名義集』中にも、一念義とは「三万六万返ノ念仏ヲハ捨ヨ、其ハ念仏ノ義ヲモ不知者コソ左様ニ数多ク申ス也、其ハ迷ヘル人也、実シクハ念仏ヲハ申サネトモ一念往生スル也、深義アリ是ヲ学ベ」と教えるものであるといい、これによって、

是ヲ聞侭ニ皆人人三万六万ノ念仏ヲ捨テ 口(いたずら)ニ成ヌ、手空クシテ徒者ニ成ヌ、怖々、サテ罪ヲ恐ルル人モ任其法<罪ヲ造リ、六斎十斎ノ斎戒ノ人モ其日ヨリ狩漁ヲシ、尼法師ハ乍<懸<袈娑<食<魚鳥<、人ノ見聞ヲ不<憚、 世人男女人目ヲツツム事<テコソ候ヘ、今ハ人目ヲツツムヲ虚仮ノ行ナントト云テ、可<耻仏ニハ不<耻、人見 ヲ耻ルヲ虚仮ノ念仏者也ト笑テ、本願念仏ノ深サハ人目ヲツツム事更<無トテ、黒衣ト女ト二人ツレアルキ、
或ハ尼ト法師ト二人不<憚墨染ノ肩ノ上ニ持<魚、尼ノ黒衣ノ袖ノ上ニ<ラキヲツ、ム、此事可<怖可<怖。

とその行状をきびしく非難している。その他肥後国に行われているという相続開会の一念義という邪教なども紹介している。弁長の批判には誇張もあったと思うが、一念義系の造悪無碍者の言動には目をおおわしむるものもあったにちがいない。

 一念義の主唱者は、法本房行空と、成覚房幸西であったということは、『法水分流記』にも見られるが、当時の記録の諸所にでている。行空については『三長記』元久三年二月十四日条に、安楽房遵西とともに、この日院の庁へ召出され、罪科を行われることになったといい、「安楽房者勧進諸人、法々房者立一念往生義、仍可被配流此両人之由、山階寺衆徒重訴申之、仍及此沙汰歟」と記している。これによって法本房行空は一念義を立てたことを理由に、興福寺から流罪にせよという重訴があったことがわかる。興福寺の衆徒が、法然一門を罪科に処し、専修念仏を停止せよと奏上したのは元久二年十月(一二〇五)のことであったが、その後も幾度も重訴しており、元久三年二月廿一日にも、興福寺の五師三綱が藤原良経(兼実の二男で当時摂政であった)に強訴し、「源空仏法怨敵也、子細度々言上了、其身并弟子安楽、成覚此弟子未知名字、住蓮、法本等、可被行科・・・・・・」といったといわれる。このなかで住蓮と安楽は諸人勧化が問題だったし、法本と成覚房幸西とは一念義が問題視されたわけである。結局行空と安楽房遵西とは、元久三年二月三十日に、「偏執、傍輩に過ぐ、」というので罪科に処せられることになったが、行空は、殊に不当であるというので、「源空、一弟を放ち了ぬ」といい、破門に処せられたことがわかる。たしかに行空が一念義を唱えたことは事実であろうが、『三長記』所引の宣旨に「沙門行空忽立一念往生之義、故勧十戒毀化之業、恣謗余仏、願進其念仏行」とあることが、そんなに悪行であったかどうかは問題である。尚この翌年建永二年(承元元年)二月に行われた承元(建永)の法難に際して、住蓮、安楽等四人が死罪になり、行空は佐渡へ流刑、その後は不明である。 幸西は流罪となったが、無動寺の善題大僧正(前大僧正-慈鎮?)が申しあずかったといわれている。尚、幸西は嘉禄の法難(一二二七)には壱岐へ流罪ときまったが、讃岐あたりを経廻していたようである。宝治元年(一二四七)八十五歳で入寂したといわれている。

 行空の一念義がどのようなものであったかはわからない。ただ弁長の『浄土宗要集』に「法本房云、念者思ヨム、サレバ非<称名<云云」といい、行空は念仏の念を思念(心念)とみて口称としなかったといっているから、心念を重視したようであるが、それがはたして称名を否定していたかどうかは不明である。また弁長の『末代念仏授手印』に「或人云、寂光土往生尤是殊勝也、称名往生是初心之人往生也、其寂光土往生尤深也」というある人の説をあげているのを、良心の『授手印決答巻下受決鈔』には「美濃国法報房云人立<此義<」といって、常寂光土義を行空の説としているが、何を根拠にそういっているのかわからないから、にわかに信用できない。

 幸西の一念義は、現存する『玄義分抄』と凝然の『浄土源流章』所引の幸西の著書の諸文によって、ほぼ窺うことができる。

 『玄義分抄』別時門に、

然るに聖道を捨てて浄土を行ぜしむる事は、正しく華厳経の意に依る。上品下生の釈の文、説偈の発願等に合す。定善を捨てて散善を行ぜしめ、諸行を捨てて称仏を行ぜしめ、多称を捨てて一称を行ぜしめ、諸仏を捨てて弥陀を行ぜしむる事は、法華経、観経等に依る。四の捨行の中に終りの一は唯観経也。口称を捨てゝ心念を行ぜしむる事は大経に依る。此事を真実として余門余行を別時とする事は、正しく阿弥陀経に依る也。

といわれたように、聖道を捨てて浄土に入り、定善を捨てて散善を、諸行を捨てて称仏を、多称を捨てて一称を、諸仏を捨てて弥陀を、口称を捨てて心念を行ぜしめるといわれているように、徹底した廃立義を立て、廃立の究極においては、『大経』による心念を重視していたことがわかる。その心念の一念について

 『浄土源流章』には、

   幸西大徳立<一念義<、言<一念<者仏智一念、正指<仏心<為<念心<、凡夫信心冥<会仏智<、仏智一念是弥陀本願、行者信念与<仏心<相応、心契<仏智願力一念<、能所無二、信智唯一、念念相続決定往生・・・・・・願心所成即是仏智、智上具有<諸宿願力<、是故智体願力所成、是故弥陀所有種智名為<智願<、是名<仏智一念心<、行者信心、契<此智<故、念念即与<仏智<相応。

と解説されている。これによれば幸西のいう一念とは、仏智の一念であり、仏智の一念とは、願力所成の弥陀の一切種智をいうから、智願海ともいわれるものである。凡夫が念仏往生の本願を信ずるということは、この仏智願力と相応し、能信と所信が相応し一体となり、信智唯一となることであり、この信智唯一なる信心が念々相続して決定往生をとげるというのである。凡夫の信心の一念が往生の因となるというのも、このような仏智一念と一体であるような信心だからである。このように仏心と信心が一つになっている状態を本願に乗託するというのであり、それを開けば三心ともなるという。すなわち『浄土源流章』所引の『一渧記』によれば、

如来能度是心、心者智、能度<物真実唯一念心也。衆生所<度是亦心、心者智、智所<度、正門無<外、是即心、一乗不<他是即心、捨<邪心也、帰<正心也、捨<小心也、採<大心也、捨<漸心也、採<頓心也、
捨<聖心也、採<凡心也、二河亦心也、白道亦心也、是亦唯一念心也、是名<真実心<、是名<深心<、是名<願心<、
故云具<此三心<必得<生也已上、約<義有<三心<、尅<体唯一念、信<願託<願契<智之心、与<仏智<冥体无二故。

といわれている。すなわち能救能度の真実なる仏心と、所救所度の衆生の心とが一体となった状態を、衆生の方でいえば信心であり信智である。このような信心の智が、幸西のいわゆる凡頓一乗すなわち弘願一乗の体なのであって、この心によって捨<邪帰<正、捨<小採<大、捨<漸採<頓、捨<聖採<凡するのであり、この心が三心であるから『観経』には「具此三心必得生」といわれるというのである。

 このように幸西は、仏智と冥合した信の一念を強調しているが、決して称名を否定しているわけではない。『源流章』に、

問法蔵弥陀以<何専為<報仏浄土生因本願<、答四十八中第十八願、称名念仏為<生因願<、略料簡云、報仏報土而 指<方、本誓重願唯名号、十念念数、不<指<時、別意弘願全異<余已上、既言<唯名号<、故生因願唯称<仏名<、 非<身意業<、凡夫至心称<仏名号<、頓超<娑婆<入<初地位<、良以<如来不可思議宿願増上強縁力<故。

というように、幸西は第十八願を称名往生の願とみ、称名を生因法と誓われていることは当然認めているわけである。彼にとって信一念は、むしろ称名往生成立の根拠だったのであろう。『源流章』に彼の所立を一念義という所以を釈して、

念仏往生、具周成立、必由<信心与<彼仏智一念之心<、相応契会、此事成立、任運往生、不<由<時節久近早晩、 念修多少、事業浅深<、略料簡云、仏心相応時業成、無<問<時節之早晩<已上、彼所立義名<一念義<、専由<如< 是所成旨帰<。

といっている。すなわち称名往生成立の根源は、本願にあるが、その選択の願心を信知し、弥陀の智願海と相応契会する信心がなければ、真実に念仏往生と信受することはできない。逆にいえば、念仏往生と信知する信心は、仏智一念と冥合し、能所一体となっていて信体即仏智であるような信心であって、このような信が、法然のいわゆる「念仏行者必可具足三心」の三心であり、「涅槃之城以<信為<能入<」の信心であるというのであろう。

 なお幸西が「仏心相応時業成」といっていることは、念仏往生と本願を信じ、仏心と相応した一念に業事成弁し、不退の位につくとみていたことは明らかである。このことは『玄義分抄』別時門に、

唯乃至一念のみ真実の生因なる事を又隠に知らしむ、然れば則現身得不退の益、捨身他世の往生、唯此の一念の大乗に乗じて無二無三也。当知乗願は不退、往生は安楽、証彼無為之法楽は初地、既生彼国更無所畏長時起行は万行円備、果極菩提は仏果也・・・・・・入正定聚といは一念を指す也。

といい、信の一念に正定聚に入り、現生に不退の益を得、往生と同時に初地に入り、彼土において万行円修して仏果を究竟すると考えられていたことがかわる。

 このようにみてくると、幸西の一念義は、念仏往生の信心の体徳について深い考察を行い、そこに本願の仏智との冥合、仏心と凡心との一体の相を釈顕したものであって、念仏往生を否定するものでもなく、一念以外の称名を不要として捨て去るものでもなく、まして造悪無碍を許すようなものではなかったことを知るのである。幸西の説を曲解した弟子が、異義を唱えたことが法然の「光明房に答うる書」にでてくるが、それは必ずしも幸西の失ではなかろう。『行状絵図』二九によれば、法然は幸西の一念義を邪義とみなして「わが弟子にあらずとて擯出せられにけり」と伝えているが、幸西は明らかに『選択集』の付属をうけており、源智は幸西所持の『選択集』を書写したといわれており、法然滅後も京中で大きな勢力をもっていたことなどからみて、『行状絵図』の記事は信用できない。
  1. 『古今著聞集』(新訂国史大系一九・五〇頁)
  2. 『延暦寺奏状』(『鎌倉遺文』・五・二七一頁)
  3. 『一念多念分別事』(真聖全二・七六六頁)