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浄土真宗に対する100の質問

提供: 本願力

このページのQ&Aは、21世紀の浄土真宗を考える会 および、ここのSNSのメンバーのみなさんの協力で作成しています。

この項目、「浄土真宗に対する100の質問」は書きかけです。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。

目次

Q.第十八願の若不生者の「生」は「平生に信楽に生まれる」ことなのですか?

A.このような発想は本願文の破壊です。

浄土真宗の根本経典である『無量寿経』は、阿弥陀如来の救済の願いとそれを釈尊が説いてくださる教説から成り立っています。おたずねの「若不生者」というのは、この阿弥陀如来の根本の願いである第十八番目の願、

設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法

(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。 )
現代語訳:わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で(至心)信じ喜び(信楽)、わたしの国に生れると思って(欲生)、たとえば十声念仏して(乃至十念)、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」

にある、若不生者 不取正覚の御文です。
浄土真宗とは、あらゆる仏教がそうであるように目覚めた仏陀に成ることを目的とする教えです。仏教の目的は目覚めた仏陀になることなのです。

往生浄土門の浄土真宗では阿弥陀如来のご本願を受け容れて、浄土へ往生して仏陀に成るという教法です。ですからこの「若不生者 不取正覚」は、もし我が浄土へ生まれさせることが出来ないならば、我(阿弥陀如来)は正覚を取らないという意味です。

阿弥陀如来が、十方の衆生を悟りの世界である我が国(浄土)に必ず生まれさせるという誓いであって、「若不生者」に衆生を信楽(信心)にさせるという意味はありません。
本願文は、設我得仏からみれば如来の願いであり、若不生者からみれば誓いです。

さて、ご質問のような発想は、本願成就文の「即得往生 住不退転」と本願文を安易に関連させ、信心の利益である正定聚と信心を混乱していることから生じます。

第十八願が成就したという本願成就文は以下のとおりです。

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆誹謗正法。

(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く)
現代語訳:すべての人々は、その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき(信心歓喜乃至一念)、その信は阿弥陀仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、浄土へ生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。

本願文は阿弥陀如来の誓願であるから、「若不生者 不取正覚」と衆生の往生と自らの正覚を生仏一如に誓われているのです。
第十八願成就文は、釈尊が阿弥陀如来の本願が成就したことを告げられる一段です。
ですから、釈尊は、阿弥陀如来の本願が成就したことを示すために「願生彼国 即得往生」と浄土を彼の国と示されいるのです。 阿弥陀如来の本願と釈尊の教説を混乱するからこのようなおかしな解釈になるのですね。


もっと詳しく知りたい方は(別ページの詳細解説へリンク)

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【親鸞会の主張】

(株)チューリップ企画と田中一憲氏の論戦(親鸞会の公式サイトである『親鸞会.NET』で「「若不生者不取正覚」の〝生まれる〟の真意」と題して、こちらを参照するようにリンクが貼られている) http://shinjin.info/2008/10/211714155.html 『【第17回】若不生者は、死後か平生か』


元来、『口伝鈔』の体失・不体失の往生の事]の諍論といわれるものは、一念義と多念義の諍論であり、体失往生とは、臨終に来迎を得て業事成弁し浄土へ往生するとする多念義と、平生の信の一念に業事成弁して往生が決定するという両者の議論です。

Q.一切衆生 必堕無間という言葉は経典にあるのですか?

ありません。 そもそも大乗仏教のスローガンは、「一切衆生 悉有仏性」です。一切の衆生に仏性が等しく存在するこということです。 日蓮上人の『撰時抄』には、「今日本國ノ一切衆生無間地獄ニ墮チン事疑ヘシヤ。」[1]という言葉がありますが、この言葉から連想したものでしょう。

Q.阿弥陀仏の本願をわかりやすく現代の言葉で言うと、「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に」になるのですか?
Q.一切衆生 必堕無間は仏語なのですか?
Q.三願転入しないと助からないのですか?
Q.宿善を厚くしなければならないのですか?
Q.宿善の正しい意味を教えてください。
Q.親鸞聖人の教えに善の勧めはあるのでしょうか?

A.浄土へ往生するためのこちら側のなす「善の勧め」は、親鸞聖人には全くありません。我々には往生即成仏するほどの価値のある真実の善が出来ないからです。

問いを整理してみましょう。

親鸞聖人の教えは、「往生浄土の真実の教え」という意味の浄土真宗という教えです。 浄土真宗は、阿弥陀如来の浄土へ往生すると、即時に仏の覚りを得さしめられる教えです。 ご質問は、この浄土へ往生するには、私達の善という行為が必要なのかという意味の問いだと思われます。 ご質問をを言いかえれば、親鸞聖人の教えに(浄土へ往生するために役立つ)善の勧めはあるのか、ということになります。この意味では、浄土へ往生するためのこちら側のなす「善の勧め」は、親鸞聖人には全くありません。我々には往生即成仏するほどの価値のある真実の善が出来ないからです。

浄土は真実清浄なる阿弥陀如来の願心で出きています。 その浄土へ往生するためには、阿弥陀如来が成仏するために積まれたと同じような善行を積まなければなりません。しかし、私たちのなす善はすべて煩悩の雑わった虚偽ですから、往生浄土へのための善行にはなりえないのです。

御文章の信心獲得章には、令諸衆生功徳成就(ももろもろの衆生をして功徳成就せしむ)、とありますが、阿弥陀如来の成就して下さった行(南無阿弥陀仏)と信(信心)を恵まれて往生成仏の道を歩んでいくのが、お念仏の行者ということです。

親鸞聖人が真実と仰る根拠の一つといわれるものに『浄土論註』の「真実功徳釈」があります。

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。

これに依れば、凡夫や天人の行いは因も果もすべて顛倒・虚偽であり不実であるといわれます。ただ法蔵菩薩の智慧清浄の業より起こされた行業こそが真実功徳であるといわれますから、浄土真宗では衆生の側の往生の資助としての善は論じません。

Q.浄土真宗でいう善とは何でしょうか。
Q.善知識は日本に一人しかないのでしょうか?富山に行かないと聞けないのでしょうか。
Q.浄土真宗でいわれる「善知識」とはどういう方なのでしょうか?
Q.浄土真宗の信心とは?
Q.自業自得の救済論VS大悲の必然としての救済論
Q.雑行とは何でしょうか?雑行を捨てよとは、善をする心掛けが悪いのだからその心を捨てよということだと、聞いたことがありますが本当でしょうか?
Q.教行信証の意味について以下のように聞いた記憶(曖昧です)があります。

 真宗に於ける教行信証の意味として適切な説明でしょうか。  教=目的地、行=その目的地に向かって進む行い。(行者とは教の通りに実践する人)  信=真実の信心、証=浄土往生し仏の悟りをひらく


Q.念仏は救われたお礼で称えるものでしょうか
Q.地獄一定の我が身が知らされることが機の深信でしょうか
Q.本願成就文とは、釈尊が弥陀の本願の願意を解説されたものなのでしょうか。

(本願だけではわからないことを解説されたもの?)

Q.「善をしなければ信仰が進みませんよ」と聞きましたが、どういうことですか?
Q.『「善をしなければ信仰は進まない」とは、従仮入真、三願転入の弥陀の願心から言われることです』と聞きました。
Q.従仮入真」とは「仮よりしか真に入れない」という意味なんですか?
「三願転入の弥陀の願心」から「善をしなければ信仰は進みませんよ」と言われるのですか?
Q.信仰のバロメーターという考え方は浄土真宗にあるのでしょうか。
Q.「不得外現 賢善精進之相 内懐虚仮」のお言葉についての疑問です。
Q.三定死についてです。
Q.善知識に無条件服従することが救われるのに必要なのですか?
Q.善知識の言葉(仏説)に無条件に「ハイ」従ったときが阿弥陀仏に救われるとき?
Q.「真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)のお言葉の、「真」とは「人生の目的」のことであり、「仮」とは生きがいや趣味、目標などの「生きる手段」のことなのでしょうか。
Q.信心決定したかどうかは二種深信がたったかどうかで判別されるのであり、その二種深信とは「矛盾した二つのことが同時に疑いなく知らされること」なのですか?
Q.親鸞会では法謗罪ということをよく言われます。法を説く人について何か言ったり思ったりすることや、会について批判的な意見を抱くこと、会を脱退することは、地獄行きの法謗罪なのでしょうか。
Q.「仏教を深信するということは三世因果を深信するということ」といい、因果の道理によって仏教は善を勧められていると聞きました。阿弥陀仏の救いに遭うためにも、まず善をして因果の道理を深く信じる身になることが必要なのでしょうか。
Q.因果の道理と阿弥陀仏の救いの関係はどのようなものなのでしょうか。
Q.善因善果だから、善をしなければ善果は得らるはずがない。だから善に励みましょうと言いますが、この道理によって、自分の修めた善による善い結果で得られるのが絶対の幸福なのでしょうか。
Q.「真剣に聞法求信することを悪いなどという者は、他力と無力を混同している信仰の幼稚園児なのです。」と言いますが、そうなのでしょうか。
Q.「他力」の他とは阿弥陀仏

<html> <img src="http://labo.wikidharma.org/images/7/7d/Tariki.jpg" align="left"> </html> 他力とは、阿弥陀如来の本願力(利他力)のことをいいます。利他力とは他を利益する力のことです。つまり、阿弥陀如来が救済対象を他とみた如来の側からの表現を他力といいます。
他力の他はと如来の救済対象のいうのです。

私達の側から阿弥陀如来の本願力を表現する場合には、親鸞聖人は「義なきを義とす」と、はからいをまじえないことであると仰っています。


Q.生まれ難い人間に生まれ、今こうして聞き難い仏法を聞かせていただく御縁に遇えたのに、「20年や30年で獲られる信心なら、「億劫にも獲がたし」と言われるはずがない。」のなら、一体いつ助かるのでしょうか。これから何十年と費やさないと助からないのでしょうか。
Q.