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略論安楽浄土義

提供: 本願力

浄土真宗の第三祖曇鸞大師(476-542)が撰述されたものといわれるが、文章のスタイルの違いから定説はみていない。曇鸞大師を敬慕した道綽禅師は曇鸞大師の著述として引用されており、たとえ曇鸞大師の自著でなくても、内容から曇鸞大師の講義を筆受した弟子の記録としてみてもよいと思ふ。親鸞聖人の著述には曇鸞大師作の『浄土論』、『讃阿弥陀仏偈』などを多く引文されるのだが、この『略論安楽浄土義』からの引文はない。なお、法然聖人(1133-1212)は、この書を曇鸞大師のものと見ておられたことは、親鸞聖人撰述の『西方指南抄』の引用の例などから判る。また、存覚上人は、『六要鈔』や『真要鈔』などで曇鸞大師のものとして引用されている。
浄土に関しては『論註』の三厳二十九種を、依正二報としてあらわされ『讃弥陀偈』に言及されている。『大経』の三輩と『観経』の九品を輩品開合(はいほんかいごう:『観経』の九品段は『大経』三輩段を説き開いたものであり、『大経』の三輩段は『観経』の九品を合わせ説いたということ)などが記述されており『大経』と『観経』の関係を見るうえで参考になる。また、親鸞聖人が問題とされた仏智疑惑による「胎化段」については、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智についてそれぞれ論じられているのも興味深いものがある。なお、ノート(サブページ)には原文の漢文と読み下し文をUPしてある。


略論安楽浄土義

釈曇鸞撰

安楽国(浄土)について

安楽国の所摂

問て曰く。安楽国三界の中に於て何れの界の所摂ぞや。
答て曰く。『釈論』(智度論巻三八)に言く。「斯の如きの浄土は三界の所摂に非ず。何を以ての故に、欲無きが故に欲界に非ず、地居なるが故に色界に非ず、形・色有るが故に無色界に非ざるなり」と。
『経』(大経巻上意)に曰く。「阿弥陀仏、本(もと)菩薩の道を行じたまひし時、比丘と作り名を法蔵と曰ふ。世自在王仏の所に於て、諸仏浄土の行を請問す。時に仏、為に二百一十億の諸仏の刹土、天人の善悪、国土の精麁[1]を説き、悉く現じて之を与へたまふ。時に法蔵菩薩、即ち仏前に於て、弘誓の大願を発し、諸仏の土を取りて、無量阿僧祇劫に於て所発の願の如く諸の波羅蜜を行じ、万善円満して無上道を成ず」と。別業の所得なれば三界に非ざるなり。

安楽国の荘厳

問て曰く。安楽国に幾種の荘厳有りてか、名けて浄土と為すや。
答て曰く。若し経に依り義に拠らば、法蔵菩薩の四十八願は即ち是れ其の事なり。『讃』(讃弥陀偈)を尋ねて知るべし、復た重ねて序(の)べず。若し『無量寿論』(浄土論)に依らば二種の清浄を以て、二十九種の荘厳成就を摂す。二種の清浄とは、一には器世間清浄、二には是れ衆生世間清浄なり。

器世間清浄

一には、国土の相、三界の道に勝過せり。
二には、其の国広大にして量虚空の如く斉限有ること無し。
三には、菩薩の正道大慈悲出世の善根従り起る所なり。
四には、清浄の光明円満し荘厳す。
五には、備に第一珍宝性を具へて奇妙の宝物を出す。
六には、潔浄の光明常に世間を照す。
七には、其の国の宝物は柔軟にして触る者は適悦して勝楽を生ず。
八には、千万の宝華池沼を荘厳し、宝殿・宝楼閣、種種の宝樹、雑色の光明、世界を影納して、無量の宝網虚空に覆い、四面に鈴を懸けて常に法音を吐く。
九には、虚空の中に於て自然に常に天華・天衣・天香を雨らして荘厳し普く熏ず。
十には、仏慧の光明照して痴闇を除く。
十一には、梵声開悟して遠く十方に聞ゆ。
十二には、阿弥陀仏無上法王の善力もて住持す。
十三には、如来の浄華従り化生する所なり。
十四には、仏法味を愛楽し禅三昧を食と為す。
十五には、永く身心の諸苦を離れて。楽を受くること間(ひま)無し。
十六には、乃至二乗と女人と根欠との名をだも聞かず。
十七には、衆生の所有(あらゆる)欲楽、心に随ひ意に称ひて満足せずといふこと無し。是の如き等の十七種、是を器世間清浄と名く。

衆生世間清浄

衆生世間清浄に十二種の荘厳成就有り。
一には、無量の大珍宝王微妙の華台を以て仏座と為す。
二には、無量の相好無量の光明仏身を荘厳す。
三には、仏の無量の弁才機に応じて法を説き、清白を具足して人をして聞くことを楽はしめ、聞く者必ず悟解す、言虚説ならず。
四には、仏の真如智恵は猶し虚空の如し、諸法の総相・別相を照了して心に分別無し。
五には、天人不動の衆は広大にして荘厳す、譬へば須弥山の四大海に映顕するが如く、法王の相具足したまへり。
六には、無上の果を成就し、尚能く及ぶもの無し、況や復過ぐる者あらんや。
七には、天人丈夫調御師と為りて大衆に恭敬囲遶せらるること師子王の師子に囲遶せらるるが如し。
八には、仏の本願力もて諸の功徳を荘厳し住持す、遇ふ者は空しく過ぐること無し、能く速に一切の功徳海を満足せしむ、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を証することを得、浄心の菩薩と上地の菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得。
九には、安楽国の諸の菩薩衆、身は動揺せずして而も遍く十方に至りて、種種に応化し、実の如く修行して常に仏事を作す。
十には、是の如きの菩薩応化身、一切の時に前ならず後ならず、一心一念に大光明を放ち、悉く能く遍く十方世界に至りて衆生を教化す。種種に方便し修行する所を成じ、一切衆生の苦悩を滅除す。
十一には、是等の菩薩一切の世界に於て、諸仏の大会を照らすに余無く、広大無量に供養し余無く、恭敬して諸仏如来の功徳を讃歎す。
十二には、是の諸の菩薩、十方一切の世界の三宝無き処に於て、仏法僧宝の功徳大海を住持し荘厳して、遍く示して解せしめ、実の如く修行せしむ。
是の如き等の法王八種の荘厳功徳成就す。[2]
是の如き菩薩の四種の荘厳功徳成就、是を衆生世間清浄と名く。安楽国土には是の如き等の二十九種の荘厳功徳成就を具す、故に浄土と名く。

輩品開合(三輩を開く)

無量寿経と無量寿観経

問て曰く。安楽土に生ずる者、凡そ幾品の輩有りや、幾くの因縁有りや。
答て曰く。『無量寿経』の中には唯三輩有り、上中下なり。『無量寿観経』[3]の中には、一品を又分ちて上中下と為す。三三にして九なり、合して九品と為す。 今『無量寿経』に傍(そ)へて依て讃を為す。且く此の経に拠て三品を作し之を論ぜん。

上輩の因縁

上輩生には、五の因縁有り。一には家を捨て欲を離れて沙門と作る。二には無上菩提の心を発す。三には一向に専ら無量寿仏を念ず。四には諸の功徳を修す。五には安楽国に生まれんと願ず。此の因縁を具すれば命終の時に臨みて、無量寿仏、諸の大衆と其の人の前に現ぜん。即便ち仏に随ひて安楽に往生し、七宝の華の中に自然に化生し、不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。

中輩の因縁

中輩生には、七の因縁有り。一には無上菩提の心を発す。二には一向に専ら無量寿仏を念ず。三には多小の善を修し斎戒を奉持す。四には塔像を起立す。五には沙門に飯食せしむ。六には繒を懸け灯を燃し華を散じ香を焼く。七には此を以て迴向して安楽に生まれんと願ず。命終の時に臨みて無量寿仏其の身を化現して、光明相好具に真仏の如くして、諸の大衆と与に其の人の前に現ぜん、即ち化仏に随ひて安楽に往生し不退転に住せん、功徳智慧次で上輩のごとくならん。

下輩の因縁

下輩生には、三の因縁有り。一には仮使ひ諸の功徳を作すこと能はざれども、当に無上菩提の心を発すべし。二には一向に意を専にして乃至無量寿仏を十念す。三には至誠心を以て安楽に生まれんと願ず。命終の時に臨みて、夢のごとくに無量寿仏を見たてまつり、亦往生を得ん、功徳智恵、次で中輩の如し。

不入三輩

又一種、安楽に往生するも、三輩の中に入らざる有り。謂く疑惑心を以て諸の功徳を修して安楽に生まれんと願はん。
仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。
然に猶お罪福を信じ善本[4]を修習して、安楽に生れんとす。安楽国の七宝の宮殿に生れて或は百由旬或は五百由旬なり。各々其の中に於て諸の快楽を受くること、忉利天の如くにして亦皆自然なり。五百歳の中に於いて常に仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩声聞の聖衆を見ず。安楽国土には之を辺地と謂ひ亦胎生と曰ふ。辺地とは言ふは其の五百歳の中に三宝を見聞せず、義辺地の難に同じ。或は亦た安楽国土に於て最も其の辺に在り[5]。胎生とは、譬へば胎生の人初生の時、人法未だ成ぜずが如し。辺は其の難を言ひ、胎は其の闇を言ふ。此の二名は皆此を借りて彼を況(いわん)のみ。是れ八難の中の辺地[6]に非ず、亦た胞胎の中の胎生にも非ず。何を以てか之を知る、安楽国土は一向に化生なるが故に、故に実の胎生に非ざることを知る。五百年の後に還て三宝を見聞したてまつることを得るが故に、故に知ぬ八難の中の辺地にも非ざることを。

胎生の悔責

問て曰く。彼の胎生の者は、七宝の宮殿の中に処して快楽を受くるや否や、復た何の憶念をする所ぞや。
答て曰く。『経』(大経巻下意)に喩へて云く。「譬へば転輪王の子罪を王に得んに、後宮に内(い)れて繋ぐに金鎖を以てせんが如し。一切の供具乏少する所無し、猶し王の如し。王子、時に妙好種種の自娯楽の具有りと雖も、心に楽を愛けず、但だ諸の方便を設けて免るることを求め出づることを悕ふことを念ず。彼の胎生の者も亦復是の如し、七宝の宮殿に処して妙色・声・香・味・触有りと雖も、以て楽と為さず、但だ三宝を見たてまつらざる、供養して諸の善本を修することを得ず、之を以て苦と為す。其の本の罪を識りて、深く自ら悔責して彼の処を離れんと求めば、即ち意の如きを得て還りて三輩生の者に同じ」と。当に是れ五百年の末に方(まさ)に罪を識りて悔いるのみ。[7]

仏智疑惑

不了仏智

問て曰く。疑惑心を以て安楽に往生するものを名けて胎生と曰ふは、云何が疑を起すや。
答て曰く。『経』の中に但だ「疑惑不信」と云ひて疑ふ所以の意を出さず、不了の五句を尋ねて、敢て対治を以て之を言はん。「不了仏智」とは、謂く仏の一切種智を信了すること能はざるなり。「不了の故に故に疑を起す」、此の一句は総じて所疑を弁ず。下の四句は一一に所疑を対治す。疑に四意有り。

不思義智

一には疑はく、但だ阿弥陀仏を憶念せんは必ずしも安楽に往生することを得ざらん。何を以ての故に、『経』(業道経)に言く。「業道は秤の如し、重き者先ず牽く」と。云何ぞ一生、或は百年、或は十年、或は一月、悪造らざること無きも、但だ十念相続するを以て便ち往生することを得て、即ち正定聚に入りて畢竟して退せず。三途の諸苦、永く隔てんや。若し爾らば先牽の義、何を以てか信ずる所あらん。又曠劫より已来備(つぶさ)に諸行を造る有漏の法は、三界に繋属せり、云何ぞ三界の結惑を断ぜずして、直だちに少時に阿弥陀仏を念ずるを以て便ち三界を出でんや。繋業の義、復云何がせんと欲すと。[8]

此の疑を対治するが故に「不思義智」と言えり。不思義智とは、謂く仏の智力は能く少を以て多と作し多を以て少と作し、近を以て遠と為し遠を以て近と為し、軽を以て重と為し重を以て軽と為し、長を以て短と為し短を以て長と為す。是の如き等の仏智、無量無辺不可思義なり。
譬へば百夫、百年薪を聚(あつ)め積みて高さ千仞ならんを、豆許(ばか)りの火を焚くに半日にして便ち尽くるが如し。豈に百年の薪積は半日に尽きずと言ふを得べけんや。[9]
又躃者の、他の船に寄載すれば風帆の勢に因て、一日に千里せんが如し。豈に躃者云何ぞ一日にして千里に至らんと言ふを得べけんや。
又下賤の貧人一の瑞物を獲て以て主に貢すに、主得る所を慶びて諸の重賞を加へ、斯須の頃に富貴盈溢するが如し。豈に数十年仕へて備に辛懃を尽せるも、上下尚お達せずして帰る者有るべきを以って、彼の富貴を言ひて此の事無しと言ふを得べけんや。
又劣夫の己身の力を以て驢に擲ち上らざれども、転輪王の行に従へば便ち虚空に乗じて飛驣自然なるが如し。復た擲驢の劣必ず空に乗ずること能はずと言ふことを得べけんや。
又十囲の索は千夫も制せざれども、童子剣を揮へば瞬頃に両分するが如し、豈一の小児の力、索を断ずことあたわずと言ふことを得べけんや。
又鴆鳥水に入れば魚蜯斯に斃す、犀角泥に触るれば死せる者咸ほ起つが如し、豈に性命一たび断ぜば生くべきこと無しと得べけんや。
又黄鵠子安を呼ぶに子安還活るが如し、豈墳下千歳の齢ひ決して甦るべきこと無しと言ふを得べけんや。
一切の万法は皆自力・他力、自摂・他摂有りて、千開万閇無量無辺なり、安ぞ有礙の識を以て彼の無礙の法を疑ふことを得んや。又五の不思義の中に、仏法最も不可思義なり、而るに百年の悪を以て重と為し、十念の念仏を疑ひて軽と為して、安楽に往生して正定聚に入ることを得ずとは、是の事然らず。

不可称智

二には疑はく、仏智は人に於て玄絶と為さず。[10]何を以ての故に、夫れ一切の名字は相待[11]従り生じ、覚智は不覚従り生ず。是の迷方は記方従り生ずるが如し。若し便ち迷絶して迷ずんば迷卒(つい)に解せじ。迷若し解すべくんば必ず迷へる者の解なり、亦解者の迷解と云うべし、迷と解と解と迷と手を反覆するが猶をのみ。乃ち明昧を異と為すべし、亦安ぞ超然を得ん哉と。此の疑を起すが故に、仏の智慧に於て疑を生じて信ぜず。

此の疑を対治するが故に「不可称智」と言ふ。不可称智とは、言(いふこころ)は仏智は称謂を絶す[12]、相形待するに非ず。何を以てか之を言ふとならば、法若し是れ有ならば必ず有を知るの智有るべし、法若し是無ならば亦た無を知るの智有るべし。諸法は有無を離る。故に仏、諸法に冥ふときは則ち智、相待を絶す、汝解迷を引きて喩と為すも、猶を是一迷のみ、迷解を成ぜず、亦夢中にして他の与に夢を解くが如し、夢を解くと云ふと雖も是夢ならざるに非ず。知を以て仏を取るも仏を知ると曰はず、不知を以て仏を取るも仏を知るに非ず。非知非不知を以て仏を取るも仏を知るに非ず、非非知、非非不知を以て仏を取るも亦た仏を知るに非ず。[13]
仏智は此の四句を離れたり。之を縁ずる者は心行滅し、之を指ふる者は言語断ず、是の義を以ての故に『釈論』(智度論巻一八)に言く。「若し人般若を見る、是則ち縛せ被(ら)れたりと為す。若し般若を見ざるも、是れ亦縛せ被れたりと為す。若し人般若を見る、是則ち解脱と為し、若し般若を見ざるも、是れ亦た解脱と為す」と。此の偈の中に説かく。「四句を離れざる者を縛と為し、四句を離るる者を解と為すといへり」と。汝、仏智は人と玄絶ならずと疑はば、是の事然らず。

大乗広智

三には疑はく、仏は実に一切衆生を度したまふこと能はず、何を以ての故に、過去世に無量阿僧祇恒沙の諸仏有り、現在十方世界にも亦た無量無辺阿僧祇恒沙の諸仏有り。若し仏をして実に能く一切衆生を度せしむるならば、則ち応に久しく復た三界無かるべし。第二の仏は則ち応に復衆生の為に菩提心を発し、具に浄土を修して衆生を摂受したまふべからず。而るに実には第二の仏有まして衆生を摂受したまふ、乃至実には三世十方無量の諸仏有りて衆生を摂受したまふ。故に知る、仏は実に一切衆生を度したまふこと能はずと。此の疑を起すが故に、阿弥陀仏に於て有量の想を作すと。[14]

此の疑を対治するが故に「大乗広智」と言ふ。大乗広智[15]とは、言ふこころは仏は法として知りたまはずといふこと無く、煩悩として断じたまはずといふこと無く、善として備えたまはずということ無く、衆生として度したまはずといふこと無し。
三世十方の仏有ます所以は、五義有り。

一には若し第二の仏無く乃至阿僧祇恒沙の諸仏無からしめば、仏便ち一切衆生を度したまふこと能はず。実に能く一切衆を度したまふを以ての故に則ち十方に無量の諸仏有(まし)ます、無量の諸仏は即ち是れ前仏の度したまふ所の衆生なればなり。
二には若し一仏一切衆生を度し尽くせば、復亦、後に仏有しますべからず。何を以ての故に、覚他の義無きが故に。復た何の義に依てか三世の仏有ますと説かんや。覚他の義に依るが故に、仏仏、皆一切衆生を度したまふと説くなり。
三には後仏能く度したまふは、猶お是れ前仏の能なり、何を以ての故に、前仏に由て後仏有るが故に。譬へば帝王の甲(冑)相紹襲することを得るは、後王、即ち是れ前王の能なるが如きの故に。
四には仏力能く衆生を度したまふと雖も、要ず須く因縁有るべし。若し衆生前仏と因縁無くば、復た後仏を須(ま)つべし。是の如く無縁の衆生の動もすれば百千万仏を逕るも、聞かず見ざるは、仏力劣なるには非ざるなり。
譬へば日月の四天下に周くして諸の闇冥を破すれども而も盲者は見ず、日の明ならざるには非ざるなり、雷(声)耳に震裂すれども而も聾者は聞かず、声の励しからざるには非ざるが如し。諸の縁理を覚するを之を号けて仏と曰ふ。若し情強ひて縁理に違せば正覚に非ざるなり。是の故に衆生無量なれば仏も亦た無量なり。仏は有縁・無縁を問ふこと莫く何ぞ尽く一切衆生を度したまはざるやと微するは、理言に非ざるなり。
五には衆生若し尽きなば世間即ち有辺に堕す、是の義を以ての故に則ち無量の仏有しまして一切衆生を度したまふ。

問て曰く。若し衆生尽くすべからざれば世間復須らく無辺に堕すべし。無辺の故に仏則ち実に一切衆生を度したまふこと能はざるや。

答て曰く。世間は有辺に非ず無辺に非ず、亦四句を絶す。仏は衆生をして此の四句を離れしめたまふ、之を名けて度と為す、其の実は度に非ず不度に非ず、尽に非ず不尽に非ず。譬へば夢に大海を渡るに濤波の諸難に値ひ、其の人畏怖して叫び声外に徹す、外の人喚び覚すに坦然として憂無きが如し、但だ渡夢に為して、渡河を為さざるなり。

問て曰く。渡と不渡と皆辺見に堕すと言はば、何を以てか但一切衆生を度するを大乗広智と為すと説きて、衆生を渡せざるも大乗広智と為すと説かざるや。

答て曰く。衆生は苦を厭い楽を求め縛を畏れ解を求めずといふこと莫し。渡を聞けば則ち帰向し、不渡を聞けば不渡の所以を知らずして、便ち仏は大慈悲に非ずと謂ひて、則ち帰向せず。帰向せざるが故に長く久夢に寝て息むべきに由無し。是の人の為の故に多く渡を説きて不渡を説かず。復た次に『無行経』(諸法無行経巻下)に亦言く。「仏は仏道を得たまはず、亦衆生を度したまはざるも、凡夫強ひて仏と作り衆生を度したまふと分別す」と。衆生を度すと言ふは是対治悉檀[16]なり。衆生を度せずと言ふは是第一義悉檀なり。二言各々所以有りて相違背せず。

問て曰く。夢の息むを得るが如きは、豈是度にあらずや。若し一切衆生の所夢皆息めば、世間豈尽きざらんや。

答て曰く。夢を説きて世間と為すも、若し夢息むときは則ち夢者無し、若し夢者無くば亦渡者をも説かず、是の如く世間は即ち出世間と知らば、無量の衆生を度すと雖も則ち顛倒に堕せず。

無等・無倫・最上勝智

四には疑はく、仏は一切種智を得たまはず、何を以ての故に、若し遍く諸法を知りたまはば、諸法有辺に堕するが故に、若し遍く知ること能はざれば則ち一切種智に非ざるが故にと。

此の疑を対治するが故に「無等無倫最上勝智」と言ふ。無等・無倫・最上勝智とは、凡夫の智は虚妄なり、仏の智は如実なり、虚と実と玄かに殊なり、理等しきことを得ること無し、故に無等と言ふ。声聞辟支仏は知る所有らんと欲すれば入定して方に知る、出定しては知らず。又知るも限り有り。仏は如実三昧を得、常に深定に在まして、而して遍く万法の二と無二とを知り照らしたまふ、深法にして倫に非ず、故に無倫と言ふ。八地已上の菩薩は報生三昧を得て用て出入無しと雖も、而も習気[17]微熏して三昧極めて明浄ならず。仏智に待(まちうけ)れば形(すがた)、猶お有上と為す。仏は智断具足して法の如くにして照したまふ、法無量なるが故に照も亦無量なり。譬へば函大なれば盖亦大なるが如し。此の三句亦展転して相成ずべし。仏智は与に等しき者無きを以ての故に、所以に無倫なり。無倫なるを以ての故に最上勝なり、亦最上勝なるが故に無等なり、無等なるが故に無倫なりと云ふ。但無等と言ふに便ち足る。復た何を以てか下二句を須ふるとならば、須陀洹の智の如きは阿羅漢と等しからざれども、而も是れ其の類なり。初地より十地に至るも亦た是の如し。智は等しからずと雖も其れ倫ならざるに非ず。何を以ての故に、最上に非ざるが故に。汝、知の有辺と無辺とを以て難と為して、仏は一切智に非ずと疑はば、是の事然らず。

下輩の十念相続

問て曰く。下輩生の中に十念相続して便ち往生を得と云へり、云何なるをか名けて十念相続と為すや。

答て曰く。譬へば人有りて空曠の逈(はるか)なる処にして怨賊に値遇するに[18]、刃を抜き勇を奮ひて直に来りて殺さんと欲す。其人、勁(つよ)く走りて一河を渡るべきを視る、若し河を渡ることを得ば、首領全かるべし。爾の時但だ河を渡る方便を念ず、我、河岸に至れば、衣を着して渡るとや為ん、衣を脱して渡るとや為ん。若し衣納を着せば、恐らくは過ぐることを得ざらん、若し衣納を脱がんには恐らくは暇を得ること無けんと。但だ此の念のみ有りて更に他縁無し、一(もっぱ)ら何にして当に河を渡るべしと念はん、即ち是れ一念なり。是の如く心を雑へざるを名けて十念相続と為すが如し。
行者も亦爾なり、阿弥陀仏を念ずるに、彼の渡を念ずるが如くにして十念を逕ふべし。若しは仏の名字を念じ、若しは仏の相好を念じ、若しは仏の光明を念じ、若しは仏の神力を念じ、若しは仏の功徳を念じ、若しは仏の智恵を念じ、若しは仏の本願を念じて他心間雑すること無く、心心相次ぎ乃至十念するを名けて十念相続と為す。

一往十念相続と言へば難からざるに似若たり、然れども凡夫の心は野馬の猶く、識は猿猴よりも劇しく、六塵に駛騁して、暫も停息せず、信心を至して預しめ自ら剋念し、便ち積習して性を成し善根堅固ならしむ宣(べ)くとなり。仏、頻婆娑羅王に告げたまふが如し、人善行を積めば死するに悪念無し、樹の西に傾かんに必ず倒るるは曲れるに随ふが如し。若し刀風一たび至らしめば百苦身に湊(あつ)まる、若し習、前に在らざんは懐念何ぞ弁ずべけん。又よろしく同志五三共に言要を結びて命終に垂れんとする時、迭(いれかわり)に相(たがい)に開暁[19]して、為に阿弥陀仏の名号を称して安楽に生まれんと願じ、声声相次いで十念を成ぜしむべし。譬へば蝋印もて泥に印するに、印壊して文成ずるが如し。此に命断する時は即ち是れ安楽国に生ずる時なり。一たび正定聚に入れば更に何の憂ふる所あらんとなり。


略論安楽浄土義 畢


参考:

  1. 精麁(せいそ)。精は詳しくで、麁は粗くという意であらゆる事を解き明かしたという意味。
  2. 八種荘厳とは一~八の仏の荘厳をいい、九以下の四種は菩薩の荘厳をいう。『浄土論』の分類に依る。
  3. 我々の現在拝読するのは観無量寿経となっているが、善導大師も仏説無量寿観経とされておられることから無量寿観経とする経典が当時は流通していたのかもしれない。ただ曇鸞大師は『論註」で、王舎城および舎衛国で説かれたのは無量寿仏の荘厳功徳であり、名号をもつて経の体とするとされる。ここから窺えば、無量寿仏を説く観経とされ、あえて無量寿観経と仏名を先に出されたものとみることもできよう。おそらく御開山が観経の経名を無量寿仏観経とされたのも、そのような意であろうと思ふ。
  4. 善本(ぜんぽん)。善本の当面の意味では善の根本の意(六波羅蜜)で善行のことである。同じく徳本も当面では善を修して得る功徳の根本ということである。しかし御開山は仏道における善とは名号を称えることであって善本も徳本も、なんまんだぶを称えることとされた。しかして、本願力回向によって、なんまんだぶを称える行業は、選択本願念仏によって阿弥陀如来から回向される行であるとされたのであった。なんまんだぶを称える行業を、自らの善を積むこととしか領解できない者に、「誡疑讃」で、「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。」と、いわれた由縁である。
  5. 其の辺に在り。阿弥陀如来の法を説く会座の中心ではなく安楽浄土の端にあるということ。要するに阿弥陀仏の近くで親しく真実の法を聞くことが出来ないという意味を辺地とする。
  6. 八難の中の辺地。仏や仏法にあい難く困難なことを八難という。この中の、地獄・餓鬼・畜生・長寿天・辺地・盲聾瘂・世智弁聡・仏前仏後の中の辺地のことで辺地・胎生はそれらと違うという意。。
  7. 胎生の浄土は仏智を疑った罪を懺悔する所であり、報土の中にあるやや特殊な場所である。要するに利他の還相回向の出来ない劣った者の往生する所というのである。
  8. 同趣旨の議論が『論註』の八番問答の六、「十念念仏による業道の超越」でされている。
  9. 以下『安楽集』の「広施問答」で同趣旨のことが述べられている。
  10. 玄絶(げん-ぜつ)。「玄」は黒いということで、ここでは深淵の意をいい、奥深い玄妙な仏教の理をいう。「絶」は絶(た)つで、関係性を絶つという意で、仏教の教えは単なる相対的な比較に過ぎないから仏智といっても世間の知識と断絶したものとはいえないと疑いを出す。
  11. 相待(そうだい)。二つのものが互いに相対関連して存在すること。相対と同じだが、相待は相互に相手を待って成立するということで、対立の意味の強い相対とは意味が違うので注意。
  12. 称謂は名称、よびなの意で言葉によって表現できないということか。
  13. いわゆる四句分別をおこない、仏智ははかれるものではないとする。
  14. ここでは一切衆生を度すというならば、全ての衆生は救われてしまっているのではないか、また三世十方無量の諸仏がおられるということは全ての衆生を度すと言えないのではないかと疑問を呈している。
  15. 大乗広智(だいじょう-こうち)。万人を平等に包んで悟りの世界へ運ぶ大きな乗り物を大乗といい、その源泉となる仏陀の広大な智慧を広智という。御開山の先輩であり、ことに御開山の信心観に影響を与えたとされる幸西大徳(1163~1247)は、この大乗広智を本願の体とされた。一念とは仏智の一念であり、凡夫の一念の信心が仏智に冥会するから相応して決定往生であるとされた。(淨土法門源流章などを参照されたし)
  16. 悉檀は (梵) siddhnta の音訳で、教説の立て方の意。仏が人々を教え導く四種の方法。世界悉檀(人々の心に合わせて説く)、各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)、対治悉檀(煩悩(ぼんのう)を打ち砕く)、第一義悉檀(真理に直接導こうとする)の四つ。「大辞林」より。
  17. 習気(じっけ)。煩悩が心に残す影響。煩悩がなくなっても、残り香のように残っているもののこと。
  18. 道綽禅師は『安楽集』 第二大門の「広施問答」でこの譬えを取意されておられる。後の善導大師の「二河白道」の譬喩に通じるようである。
  19. 開暁(かいぎょう)。暁はあきらかにで、開は説きひらくの意で、教えさとすことをいう。