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真宗の本尊について

提供: 本願力

2018年9月27日 (木) 14:43時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (五、蓮如上人の本尊について)

真宗の本尊について

山田 行雄

はじめに

 宗教において信者の礼拝の対象としての本尊は重要な意義をもつ。その本尊が偶像化するか否かは、その本尊が正当な教義に裏づけられているか否かに関わるものである。しかし、いかに純正な教義にもとづく本尊であっても、礼拝者がその教義を正しく領解しないで、自己の欲望を満たすために祈願の対象として礼拝したり、また単なる儀礼的対象とのみ見るならば、これまた偶像化への轍を歩むものである。

 真宗において、礼拝の対象となる本尊は阿弥陀仏の名号であり、形像である。
しかるに近年、高森親鸞会は、浄土真宗の本尊は名号本尊でなければならぬ。 阿弥陀仏の形像を本尊とすることは、親鸞聖人・蓮如上人の依用されないものであって、現在の浄土真宗の本山・末寺並びに門徒は形像本尊を依用している。これは外道邪教徒であって浄土真宗ではないと論断するのである。

 もちろん、このような非難は真宗教義の無理解、あるいは歴史的事実の無視からくるものであって、正当な論議ではない。

 また高森親鸞会は、本願寺派と教団を異にしているので、どのように主張されようが異義でもなければ異安心でもない。異義異安心とは、基本的には同一教団内における異端についての名目である。だが、われわれがこれを問題としなければならなくなったのは、宗祖が同じ、聖教量が同じであり、しかも本願寺に対しての強烈な非難であり、外道邪教徒とまでの罵倒である。そこでこの高森親鸞会よりの非難を機縁として、その批判という形を取りながらも、単にそれのみに止まるのではなく、真宗本尊の本義について述べてみる。

一、高森親鸞会の主張について

 いま絵像・木像というような形に表顕されている本尊を形像本尊といい、名号を本尊とするのを名号本尊という。真宗では形像本尊も名号本尊も共に礼拝の対象としていることは承知の事実である。この事実を批判して高森親鸞会は「顕正新聞」に号外を出し、更には『どちらがウソか』(高森親鸞会篇)を出版して次のごとく論難している。

もし、本願寺の言うように、親鸞聖人や蓮如上人が、名号でもよし、絵像でもよし、木像でもよし、一つに固執してはいけないと教えられたのが正しいとすれば、『改邪砂』に「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず、必ず名号を本尊とせられた」と書かれてありますが、覚如上人はウソを書かれたことになります。

また存覚上人の『弁述名体鈔』にも「親鸞聖人はいつも名号を本尊とされた」ことが書いてありますが、これもウソになります。また、慈俊の『慕帰絵詞』第四巻には、「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず名号ばかりを本尊としていられた」と記してありますが、これもウソッパチになります。
いずれも名号のみを御本尊とせられたと記録されているからです。 また、親鸞聖人がそれまで寺院などで本尊としていた弥陀三尊の絵画などを、すべて捨て去り、ただ名号を御本尊となされた、その重大な意味も全く踏みにじられてしまいます。

それだけではありません。蓮如上人の御教示にも明らかに違反することになります。
蓮如上人は『御一代記聞書』に「他流では、名号よりは絵像、絵像よりは、木像というなり。真宗においては、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」と仰言って、浄土真宗の正しい御本尊は名号であることを明示されています。
この蓮如上人のお言葉は、本願寺の主張するように、名号も絵像も木像も、どれでも同じことだと言うことでしょうか。だからどれを本尊にしてもよろしい、という意味なのでしょうか。若し、そのように解釈しているとすれば、現今の本願寺は真実信心は勿論、易しい文章の解読力まで失ってしまったといわなければなりません。

言うまでもなく、真実の仏法の判らない他流の者達の教える本尊と、親鸞聖人の勧められた御本尊との相違をハッキリさせる為に蓮如上人が比較対照して御教示になったもので、同じく阿弥陀如来を本尊としている浄土門の人でも、木像を本尊としている者は他流であり、浄土真宗は名号を本尊とすべきであることを教えられたものであることは明々白々であります。

というのである。右の文章は、浄土真宗の礼拝の対象は名号のみであって、形像本尊を礼拝の対象とすることは浄土門の異流であると論定するのである。そしてそれら形像本尊の礼拝者たちは外道邪教徒に他ならぬとする。その論証の内容を分析すれば、およそ次の三点に要約されるであろう。

(1)宗祖自身の礼拝の対象は名号本尊のみであり、形像本尊は一切否定された。
(2)(1)の問題についての証文として、『改邪鈔』・『弁述名体鈔』・『慕帰絵詞』の文を挙げていること。
(3)更に決定的には『蓮如上人御一代記聞書』の文をもってしていること。
 この三点より、宗祖以来蓮如上人に至るまで一貫して真宗の本尊は名号本尊であり、形像本尊は全てこれを依用されなかったとするのである。そこで、まずこの三点を綿密に検討せねばならぬ。


二、『改邪鈔』の文について

 まず高森親鸞会より提言された三点を考えるについて、論考の便宜上、三点の順序を(2)・(3)・(1)の順で考えてみたい。
 (2)の問題は、宗祖自身は名号本尊のみであって、形像本尊は依用されたかったとする証文を挙げるのであるが、それと並んで、その証文の著者、すなわち覚如上人・存覚上人においても、その本尊は名号本尊のみであったとする意味をも含み、後に問題とする蓮如上人の本尊論においても同様であって、宗祖より蓮如上人に至るまで、礼拝の対象は名号本尊のみであって形像はこれを本尊とせられなかったとするのである。

 高森親鸞会が証文として挙げた覚如上人の『改邪砂』の文として「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず、必ず名号を本尊とせられた」とあるというのは、『改邪砂』の次の文を指すのであろう。

本尊なをもて『観経』所説の十三定善の第八像観よりいでたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず、天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無尋光如来」をもて真宗の御本尊とあがめましましき。(『真聖全』三ー六六~六七)(*)

とある。
この『改邪砂』の文は、

一、絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事。(『真聖全』三ー六六)(*)

の条下に述ぺるものである。すなわち覚如上人時代、念仏行者のなかに絵系図と称して、道俗男女の形体を面々各々図絵して所持していたことの非を論難されたのである。[1] 具体的には仏光寺派了源による絵系図の流行を誠めた一項であるとされている。そしてこの絵系図を否定することに付して真宗の本尊に言及され、「本尊なをもて『観経』所説の十三定善の第八の像観よりいでたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず」とするのである。

 高森親鸞会は、この「あながち……にあらず」を、「全て……ではない」と完全否定として解釈し、 「宗祖は形像本尊を全て御依用にならなかった」とするのであり、逆論すれば、「宗祖は必ず名号本尊のみであった」とするのである。

 この「あながち……にあらず」の国語学的用法は、「あながち」+「ず」であって、 「あながち」自体を否定することを意味する。だから「必ずしも……でない」とか「一概には……でない」と解釈すべきであり、いわゆる部分否定である。よって『改邪鈔』の「祖師あながち御庶幾御依用にあらず」とは、「宗祖は必ずしも御庶幾御依用ではなかった」との意であり、高森親鸞会の主張のごとく「宗祖は必ず御庶幾御依用ではなかった」と完全否定の解釈はなり立たない。『改邪鈔』のこの条での完全否定は、「その余の人形」を礼拝の対象とすることである。
 更に覚如上人自身は、はたして名号本尊のみを勧められて、形像本尊の依用を禁じられたのであろうか。この問題については、同じく『改邪砂』に、

いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とするうへに、三業のなかには口業をもつて他力のむねをのぶるとき、意業の憶念帰命の一念おこれば、身業礼拝のために、渇仰のあまり、瞻仰のために絵像・木像の本尊をあるいは彫刻しあるいは画図す。
しかのみならず、仏法示誨の恩徳を恋慕し仰崇せんがために、三国伝来の祖師・先徳:の尊像を図絵し安置すること、これまたつねのことなり。(『真聖全』三ー六六)(*)

と述べられてある。すなわち他力信心を獲得したうえから、渇仰のあまり、瞻仰のために、絵像・木像の本尊を画図し彫刻し「身業礼拝の対象とすること、更に仏法示誨の恩徳を仰崇して七高祖の尊像等を図絵して安置することは常套のことであると示されているのである。三業のなか、身業礼拝の所対が形像であって悪いはずはなく、大切なことは覚如上人自身「真宗においては、もはら自力をすてて、他力に帰するをもて宗の極致とする」と明示していられることである。形像本尊を安置する意趣について大瀛師はその著『本尊義』に、

形尊の来由唯報恩身業所対となすなり。若し口業称名は行住坐臥を論ぜず、故に仏像を境とするに非ず。若し意業帰命は名号を所聞の境とし、仏智(即名義三心)を所信の境として直ちに真身を所帰の境とす。故に亦形像を仮らず。但、礼拝に至りては形像に対せざれば施し難し。是れ身業なるが故に。形像を安立する意唯此にあり。

と述べてある。一義として参考にすべき説であると思われる。

 また、覚如上人自身が形像本尊を門弟に下付されていた事実を示すものとして、顕誓師の『反故裏書』には、

覚如上人の御時乗専法師(中略)覚如上人にしたがひ奉り、絵像の本尊・『報:恩講式』・『口伝砂』・『改邪砂』・『安心決定砂』等の聖教をのぞみ申され、真俗につけてたぐひなき御門弟なり。丹波六人部に毫摂寺といふ寺をはじめ給ひ、すなはちかの御影像をすへ奉り云々(『真聖全』一一九八○)

と記録されているのである。

三、『弁述名体鈔』と『慕帰絵詞』の文について

 次に、高森親鸞会が示した『弁述名体鈔』の文について考えてみることにする。存覚上人の著『弁述名体鈔』に、「親鸞聖人はいつも名号を本尊となされた」との指摘は、

高祖親鸞聖人御在生のとき、末代の門弟等、安置のためにさだめおかるる本尊あまたあり、いわゆる六字の名号、不可思議光如来、无碍光仏等なり。梵漢ことなれども、みな弥陀一仏の尊号なり。(『真聖全』五ー二三五)[2]

の文を指すのであろうと推測される。この文も明らかに名号を本尊とされ、形像本尊を否定されたものなのであろうか。存覚上人は同じく『弁述名体鈔』に、

絵像にかき、木像につくれるは、ちいさくかけばちいさきかたち、おほきくつくればおほきなるすがたなり。ただその分をまもるがゆへに真実にあらず、不可思議光如来とも、无碍光如来ともいひて、文字にあらはせるときは、すなはち分量をささざるゆへに、これ浄土の真実の仏体をあらはせるなり。
しかれども、凡夫はまどひふかく、さとりすくなきゆへに、あさきによらずば、ふかきをしるべからず。方便をはなれては、真実をさとるべからざれば、ふかきもあさきも、みな如来の善巧、真実も方便もともに行者の依枯なり。このゆへに、あるひは形像を図し、あるひは文字をあらはして、真仮ともにしめし、梵漢ならべて存するなり。いづれも弥陀一仏の体なりとしりて、ふかく帰敬したてまつるべきなり。(『真聖全五ー二三九~二四〇)[3]

と示されてある。存覚上人は覚如上人と形像本尊の論じ方が異なってはいるが、名号も形像も共に「弥陀一仏の体なりとして、ふかく帰敬したてまつるべきなり」と帰依恭敬する旨を示されるのであって、決して名号本尊のみを礼拝の対象とすべきであるとの論述ではないのである。

 更に高森親鸞会が挙げた従覚師の『慕帰絵詞』の文について論ぜねばならぬ。
高森親鸞会がいう「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず名号ばかりを本尊としていられた」とはどのような文を指すのであろうか。高森親鸞会は『慕帰絵詞』第四巻に述べてある文であると指示している。そこでいま同巻を検読するに、

他の本尊をばもちいず、無碍光如来の名号ばかりをかけて、一心に念仏せられけるとぞ。(『真聖全』三-七八二)(*)

とある。この文を指すようである。これは、慈信房善鸞の件についての記述であって、宗祖のことではない。 「他の本尊をばもちゐず、無碍光如来の名号ばかりをかけて」とあるが、無碍光秘事でもあったといわれる善鸞にとって、無碍光如来の名号のみを礼拝の対象としていたことは理解に難くなく、「他の本尊」とは、帰命尽十方無碍光如来以外の他のすべての本尊、すなわち、形像本尊、名号本尊の中、南無阿弥陀仏、南無不可思議光仏(如来)等をも否定して、これを用いなかったと解釈できる。いずれにしても善鸞の行儀を示す文をもって、宗祖の本尊に関する証文として挙げても、これは確たる証文とはならないのである。

四、『蓮如上人御一代記聞書』の文について

 次に(3)の問題であるが、高森親鸞会が名号本尊でなければならぬとする証文のなかで、最も強力な証文とするのは『蓮如上人御一代記聞書』の文である。
その文とは、

他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり、当流には、木像よりはゑざふ、絵像よりは名号といふなり。(『真聖全』三ー五四九)(*)

とある。他流とは、浄土門のなか、浄土真宗を当流というのに対してそれ以外を指すのであり、具体的には浄土宗西山派、鎮西派等を他流、もしくは異流と呼称するのである。

 さて、それでは「他流においては名号よりは絵像、絵像よりは木像」になっているのか否か、この問題より検討する必要があろう。

 まず浄土宗の開祖法然上人は『法然上人御説法事』に、

およそ仏像を造画するに種々の相あり。あるひは説法講堂の像あり。あるひは池水沐浴の像あり。あるひは菩提樹下、成等覚の像あり。あるいは光明遍照摂取不捨の像あり。かくのごとき形像を、もしはつくり、もしは画したてまつる。みな往生の業なれど、来迎引接の形像は、なほその便宜をえたるなり。(中略)しかればふかく往生極楽のこころざしあらむ人は、来迎ものなり。をつくりたてまつりて、すなはち来迎引接の誓願をあおぐべきものなり。(*)

と、来迎引接の阿弥陀仏の形像を本尊として勧められているのである。更に法然上人自身が礼拝の対象とせられた本尊として、『没後遺戒文』に「本尊・三尺立像・弥陀定朝」と記されてあり、形像本尊であったことは事実である。わが国においてこの弥陀来迎の立像を本尊とするのは、すでに源信和尚にはで遡ることができる。『往生要集』臨終行儀の条下に、

其の堂の中に一の立像を置けり、金薄をもて之に塗り、面を西方に向けたり。其の像の右の手は挙げ、左の手の中には、一の五綵の幡の脚を垂れて地に曳けるをあおぐ。(『真聖舎一-八五四)(*)

とある。この立像とは『兵範記』に「三尺阿弥陀仏一体立像也、件御佛存日造立供養日来奉居枕上、引五色糸臨終念仏本尊也」とあり、来迎の阿弥陀仏の立像であったことは明白である。

 鎮西の聖光上人は『西宗要』(『浄土宗要集』)に「本尊本経安置すべき事」の条を設けて、住処住房ある人に付て道場を建立し、本尊を安置せよといふなり。(中略)在家の人も道場を建立し、本尊を安置すべきたり。

と述べ、本尊の必要性を強調されるのである。そしてその本尊とは、同じく『西宗要』に、

釈迦弥陀二尊を以て、浄土宗本尊とすること其の意快く覚ゆ。

と、釈迦・弥陀二尊を本尊と定められたようである。

 西山の証空上人は、『西山上人縁起』に依れば、「身づから弥陀如来の像一体をきざみ持念の本尊」とされたとも、「弥陀三尊の像を安置」されたとも伝え、更には「釈迦弥陀二尊を安置」とも記されてあり一定していない。しかし来迎の形像本尊であることには相違ない。しかも「像一体をきざみ」とか「安置」とあるからには絵像ではなく木像が主であったことは容易に想像できるところであろう。

 このように、浄土門の他流においては、形像本尊であったことは確定的であり、それも木像が主流をなしていたことは、「形像をつくりたてまつり」・「本尊を安置せよ」・「像一体をきざみ持念の本尊」等とあることからも明らかである。現在、浄土宗においても名号本尊を依用されているが、これは室町末期頃よりのことであるようである。

 次に「当流には木像よりはゑざふ、絵像よりは名号」といわれた蓮如上人の真意を窺わねばならぬ。高森親鸞会の主張は、この文をもって「浄土真宗は名号を本尊とすべきである」というのである。なるほど蓮如上人ほど多く名号を染筆された方は他に類をみない。だからといって、蓮如上人は名号のみを本尊とされたかといえば、決してそうではない。

五、蓮如上人の本尊について

 蓮如上人の本尊は、具体的には、蓮如上人が発願建立された山科本願寺の阿弥陀堂の本尊であろう。  文明十五年八月二十八日のご文に、

阿弥陀堂の仏壇(中略)いくほどなくして出来せり。則まづ本尊を六月十五日にはすえ奉りけり。(『真聖全』五-四〇六)(浄土真宗聖典全書 御文章集成p.409)

と述べられ、山科本願寺の阿弥陀堂の本尊は文明十四年六月十五日に「すえ奉」られたとある。平尾興栄氏も注意されたごとく、このすえ奉られた本尊が形像本尊であったか名号本尊であったかは、「据える」とある表現からも推察されるが、実悟師の『山科御坊之事並其時代事』に阿弥陀堂の荘厳を記するに、

本尊木像安阿作 如今。左方北太子絵像讃如常蓮如御筆・六高僧御影。右南法然聖人一尊御影讃如常蓮如御筆両方共に三具足・燈台あり。(『真聖舎五ー六二九~六三〇)(浄土真宗聖典全書 山科御坊事幷其時代事p.932)

とあり、ここに本尊木像(安阿作)とある。明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実である。  更に蓮如上人は形像本尊の下付もなされていた事実がある。その事実のなか、二、三挙げてみよう。

(一)京都府北桑田郡美山町南 福正寺蔵
            大谷本願寺 釈 蓮如(華押)
       長享三歳乙酉四月二十八日
方便法身尊形丹波国桑田群知井里南村
           願主 釈 浄頓
(二)岐阜市 茜部町 浄性寺蔵

            釈 蓮如(華押
 方便法
 ロロロ身尊形美濃□□池□慶祐門従
        願主 釈 □□

(三)岐阜 河野六坊蔵

          大谷本願寺 釈 蓮如(華押)
      文明十八年丙午九月十二日
方便法身尊形尾州葉栗群上津間庄 本庄郷河野惣道場
             願主 釈 善性

 右のごとき事実を踏まえたとき、『蓮如上人御一代記聞書』の文は、蓮如上人が名号本尊のみを勧められたものと見ることは、はたして妥当であろうか。 問題は、自ら木像の本尊を礼拝の対象とされ、また絵像の本尊をも下付されている蓮如上人が、なぜ「他流には、名号よりも絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりはゑざう、絵像よりは名号といふなり」といわれたのかを改めて問わねばならぬ。

 この問題については、既に古今の学者が種々論考されるところである。しかし、先に見てきたように、他流の本尊安置の理由は、「往生極楽のこころざしあらむ人は、来迎引接の形像をつくりたてまつる」ところにあったことは明白である。

 広く法然門下においての親鸞教学の特質は、この臨終来迎の否定であり、現生正定聚の主張であったことは周知のことである。そして宗祖の臨終来迎否定、現生正定聚論の基盤は名号大行説にある。よって『蓮如上人御一代記聞書』の文は、形像を本尊として臨終来迎を願い求めることに対する安心の立場よりの訓誠であって、起行門における礼拝の対象を論じたものではないと窺うのが適切であろう。もし起行門からいうならば、名号本尊・形像本尊は共に方便法身としての顕現態として礼拝の対象とすべきであり、両者の間に優劣可否を論ずべきではないと思われるのである。

六、宗祖の本尊について

 次に(一)の問題であった宗祖の礼拝の対象としての本尊を考えてみるのに、現在確認されている資料では名号本尊のみしか残っていないことは学者の指摘するところである。そこで、現存する宗祖の名号本尊を挙げると次の七幅である。(入力者註 讃等は省略)

1. 六字名号 本派本願寺蔵
南无阿彌陀佛(蓮台)

2. 八字名号 高田派専修寺蔵
南无不可思議光佛(蓮台)

3. 十字名号 高田派専修寺蔵
帰命尽十方无碍光如来(蓮台)

4. 十字名号 岡崎 妙源寺(高田派)蔵
帰命尽十方无碍光如来(蓮台)

5. 十字名号(籠文字) 高田派専修寺蔵
帰命尽十方无碍光如来(蓮台)

6.十字名号(籠文字) 高田派専修寺蔵
帰命尽十方无碍光如来(蓮台)

7. 十字名号 高田派専修寺蔵
南无尽十方无碍光如来(蓮台なし)


右の七幅を宮崎圓遵博士の指摘を参考にして類別してみると
(一)(1)~(4)までのものは、中央の名号も、上下の銘文も全て宗祖の真筆であること。
(二)(1)~(6)まで、すなわち(7)を除いては全ての名号の下に蓮台が描かれていること。しかも、(3)・(4)のごときは、明らかに下部の添紙をづぎ合わせた後に蓮台が描かれていることより推察すると、蓮台は添紙後に描かれたものであると 考えることができる。

 (三)(1)~(5)の全てのものには「愚禿親鸞敬信尊号」とあり、年齢または年紀が記されてあること。
 (四)(1)~(4)までのものには裏書に「方便法身尊号」と、年月日があること。なお、この裏書は最初は別紙の小形の細長い紙であり、表装の折に裏に添付されたもめであろう。
 (五)(5)(6)の籠文字のものは、籠文字そのものは宗祖の真筆ではないが、上下の銘文が宗祖の真筆であること。
(6)の一幅は、蓮台も銘文等もなく、いわゆる名号本尊としては未完成のものであろう。

 以上、種々の分類を試みたが、ここで更に重要な問題は、(イ)宗祖の名号本尊御染筆の年代が同年代に集中していて、そのほとんどが真宗高田派に蔵せられていること。同名号には、「愚禿親鸞敬信尊号」とあり、裏書は「方便法身尊号」とある二点であろう。

 (イ)の問題は、善鸞義絶の問題と、それに伴う下野高田門弟の上洛とに関係する広範囲の問題となると思う。しかし紙数の関係で、詳しく述べることができないので、問題解決の方向性を指摘するに止めておく。

七、名号本尊について

 (ロ)の御染筆の名号に蓮台があり、「愚禿親鸞敬信尊号」と筆され、裏書に「方便法身尊号」とあることは、宗祖が名号を本尊とされた実証である。
 名号をもって本尊とすることは、宗祖をもって最初とする。もっとも、仏名をもって礼拝の対象とした形態は、中国・日本にも古くから行われた。そのことは、『仏名経』が存在すること。また宮崎博士の指摘のごとく、密教の種子曼茶羅、奈良元興寺極楽坊で先年発見された笹塔婆には多く南無阿弥陀仏の名号が記されてあり、広島安国寺の善光寺型阿弥陀三尊の胎内より出た文書には、南無阿弥陀仏の名号を書き、しかもその下に蓮台が描かれたものもある。真言・天台等では早くから仏名を礼拝の対象としたことは知られ、極楽坊・安国寺等のものは、やはり鎌倉時代のものであるが、名号を礼拝の対象とはしても、本尊そのものにしたか否かは即断できないとのことである。一遍上人は『一遍聖絵』によると、「六字名号をとどめて、五濁常没の本尊とし給へり」とか、「かくところの文字の名号は行者の本尊たるなり」といい、南無阿弥陀仏の六字名号の下に蓮台が描かれている。しかし一遍上人は宗祖より六十年ほど後の人である。
 名号本尊の最初は宗祖であり、宗祖は名号を本尊とされた事実は明瞭である。

だからといって、高森親鸞会の主張するごとく、

親鸞聖人がそれまで寺院などで本尊としていた弥陀三尊の絵図などを、すべて捨て去り、ただ名号のみを本尊となされた。

との断定は、論理の飛躍と暴言であって、歴史的考察の無視である。

 義門師は『尊号真像銘文講説』に、

祖師御時代には、専ら九字・十字・六字のであったことは勿論なれども、絵像や木像は一体も無かったたとは云ふべからず。木辺の本山の縁起をみれば、祖師聖人木仏御安置あり、又京西洞院松原大善寺に踏出の弥陀と申して、片足先へ出して在す弥陀あり、これも聖人の御安置なり。

と述べているが、もちろん木辺の縁起も、大善寺のそれも、歴史的考証を欠き信憑するに足りるものではない。しかし、すでに注意されているごとく、常陸稲田の草庵の本尊は聖徳太子であったとされ、下野高田は現に一光三尊の阿弥陀仏像が安置されている如来堂である。宗祖が寄寓されていた場所に、すでに安置されていた本尊を排捨して、名号本尊をもってされたとは推考できない。
更にいえば、恩師法然上人の礼拝の対象とされていた形像本尊を宗祖は礼拝されなかったとは想像し難いことである。ただ明確にいえることは、宗祖が安置された礼拝の対象としての本尊は名号本尊であり、門弟に下附された本尊も現存の資料からでは、やはり名号本尊であったことは確かである。しかし、この名号本尊は先に資料を挙げたごとく、いずれも宗祖晩年に依用されたものであり、先にも一言したごとく歴史的背景を考慮に入れて考えねならぬ問題である。 だから、これをもって宗祖は形像本尊を否定されたと即断することはできぬ。
なぜなら名号本尊も形像本尊も共に「方便法身」の尊号であり尊像であるからである。名号が仏心の表象であれば、形像もまた仏心の顕現に他ならぬのであり両者の間に優劣・可否を論ずるものではない。


八、真宗教義と本尊について

 真宗において、礼拝の対象とする本尊は、既に名号であり、阿弥陀仏の形像である旨を述べた。その形像本尊のお姿は、『観経』に説く住立空中尊であるとする。だが浄土異流(他流)と異なって真宗における形像本尊は、観想の対象とするものでもなく、また来迎を要請するためでもない。真宗は聞名の宗教であって、観法の宗教でないことは論を待たない。また往生の因は信の一念に決定し、臨終来迎を要期せぬ宗教である。
 ここで注意せねばならぬのは、来迎を要期することと、来迎仏を礼拝の対象とすることは意味が異なることである。臨終に来迎を要請することは、自己の往生のとき、乱心をおさめて正念に住するために如来の来迎を願い求めるものである。宗祖は往生決定は信の一念にありとする本願のおぼしめしに立たれて、臨終来迎を願い求めることを否定されためであって来迎の弥陀それ自体を否定されたことではないことである。
 真宗の本尊を論ずる場合に注意すべきことは、救済論と本尊論とを混同してはならぬこと。また教義安心と無関係に本尊論を考えることはできぬことである。その理由は最初に述べておいた。かつて真宗本尊論史上、宗義安心と本尊の形相とは無関係であると述べて(大谷派宝厳)問題を起こした事がある。造形美術の面より形像仏を問題にするのならともかくとして、本尊として礼拝の対象となる形像を論ずる場合に、宗義安心と無関係に論ずることはできない。また教義安心の面のみに走れば、その論の趣くところ、いつのまにか救済論に変貌する恐れがある。
 真宗教義上、礼拝の対象となる本尊はいかなるものか。ーーそのことは、そのまま礼拝の対象である本尊が真宗教義の上から正当であるか否かの問題であるがーーを問題にするのが、いま直接の課題である。

九、仏体と名号について

『観経』に説かれる住立空中尊とは、

仏、阿難及び章提希に告げたまわく、諦かに聴け諦かに聴け。善くこれを思念せよ。仏まさに汝が為に苦悩を除くの法を分別し解説すべし。汝等憶持して、広く大衆のために、分別し解説せよ。この語を説きたもう時、無量寿仏、空中に住立したもう。観世音・大勢至、この二大士左右に侍立せり。光明熾盛にして、つぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も、比となすことをえず。(『真聖舎一-五四)とあり、ここに阿弥陀仏が、二菩薩を伴つて空中に住立したもう姿が説示されている。

 ここに真宗教学上、種々の問題がある。いま特に必要な二点について考えてみる。
 (一)真宗本尊の形像を『観経』に依ったことの問題である。宗祖は『教行信証』教巻に「夫れ真実の経を顕わさば大無量寿経これなり」(『真聖全』二ー二)と示され、浄土三部経のなか『大経』こそが真実の経であるとされた。そして『大経』には阿難及び四衆が見てたてまつった大光明を放った阿弥陀仏の姿が説かれている。それが真宗の形像本尊の依りどころであって、隠顕の両義のある『観経』を依拠とするのは、法門上許されることでないという。この『大経』説か『観経』説かで論諍を起こしたのが、真宗教学史上、三大法論の一つ「明和の法論」である。現在では『観経』説が妥当であろうとされている。明和の法論の論讃の内容に,ついては、(イ)報身応身の問題、(ロ)脇士有無の問題、(ハ)の大悲顕現の問題、(二)立像坐像の問題の四点に集約されよう。
 (イ)『観経』華座観の所説のなか、釈尊が韋提希に対して「苦悩を除く法」を説かれようとした時、突然に阿弥陀仏が住立したもうた。「苦悩を除く法」とは教法であり、阿弥陀仏は仏身である。釈尊が教法を説こうとされたとき、仏身で対応されたことは、教法対仏身という矛盾が起きないだろうかの問題である。
 これについて、善導大師は『定善義』に住立空中尊を解釈して自問自答されている。

弥陀空に在りて立したもうは、但廻心し正念にして我国に生ぜんと願ずれば、立どころに即ち生ずることを得しむることを明かすなり。
問て曰く。仏徳尊高なり、輒然として軽挙すべからず。既に能く本願を捨てずして来りて大悲に応う者、何が故ぞ端坐して機に赴かざるや。
答て曰く。此れ如来別に密意ましますことを明かす。ただ以んみれば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して八苦あい焼く、動もすれば違返を成じ詐り親みて笑みを含む、六賊常に随いて三悪の火こう臨臨として入りなんと欲す。
若し足を挙げて以って迷いを救わずんば、業繋の牢、何に由ってか免がることを得ん。斯の義の為の故に、立ちながら撮りて即ち行き、端坐して以て機に赴くに及ばざるなり。(『真聖全』一ー五一四)

と。すなわち阿弥陀仏の「立つ」姿は「来たりて大悲に応う」のであり、三悪の火こうに堕しくいく苦悩の衆生を救済して止まぬ大悲の表象である。「撮る」とは大悲の活動を示すものであり、大悲の活動とは具体的には招喚の勅命である。このように考えてくるとき、釈尊が名号法(除苦悩法)を説こうとされたと同時に、阿弥陀仏が住立したもうたのは、矛盾どころか当然といわねばならぬ。
すなわち、韋提希が仏説を聞くに臨んで、声に応じて「苦悩を除く法」とは我なりと、阿弥陀仏が現身したもうたのである。よって、名号即仏体であり、仏体即名号である。名の他に体があるのではなく、また名の他に体を求むるものではないのである。
 阿弥陀仏は自利利他が不二一体に成就したもう覚体であるから、如来の正覚を全うじて衆生往生の行となり、名号は仏体の徳を全うじて衆生に聞信せしめたもうのである。すなわち如来の徳の全体が名号の内容であり、仏体と名号は不二である。
 しかし、所信をいえば、名体不二の名号をもって真宗のすわりとするのである。その理由は、本願成就文に「聞其名号信心歓喜」とあるからである。
 だからといって、名号を信ずるのであって、阿弥陀仏(仏体)を信ずるのではないとはいわない。礼拝の対象とする本尊は名号のみであって、形像は礼拝の対象とせぬという論は成立しない。なぜなら、仏体と名号とは不二であるからである。この名体不二論をふまえずして、本尊論を語るところに、高森親鸞会のような偏見が生ずるのであり、また宗祖が名号本尊の裏書きに「方便法身尊号」と記された深意を無視する結果にもなる。この偏見の行きつくところ、たとい名号を本尊として礼拝の対象としていても、その名号を本尊とする意義すら理解できぬため、名号本尊をも偶像化する危険がありはしないだろうか。

十、方便法身について

 真宗における礼拝の対象としての名号本尊の裏書に「方便法身尊号」とあり、形像本尊の裏書には「方便法身尊形」と記され、共に方便法身とある。
 方便法身の語を最初に出すのは、曇鸞大師の『往生論註』であるが、そこにま、法性法身と方便法身の二種の法身を出し、その関係を「由生由出」と示してある。宗祖はこの二種法身を解釈されて『一念多念文意』には、

一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまひて、无碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆへに報身如来とまふすなり。これを尽十方无碍光仏となづけたてまつれるなり、この如来を南无不可思議光仏ともまふすなり。この如来を方便法身とはまふすなり。方便とまふすは、かたちをあらわし、御名をしめして、衆生にしらしめたまふをまふすなり。すなわち阿弥陀仏なり。(『真聖全』二ー六一六)

と述べられている。すなわち「かたちをあらわし、御名をしめして、衆生にしらしめたまふ」のが方便法身である。
 宗祖は名号を「方便法身の尊号」として敬信せられたのであるが、その「方便法身の尊号」と意義において変わることのない「方便法身の尊形」を本尊としても、宗義の上から何の問題もないことである。
 形像本尊は宗義に反するものと断定するようなことは、方便法身の無理解からくるものであって、それらの人々は、たとい名号本尊を礼拝の対象としていても、安置されている名号本尊の意義すら理解されていないのではなかろうか。


十一、形像本尊について

 真宗の本尊は、名号本尊のみに固執すべきものでなく形像本尊でも義において変わるところがないことを論じてきた。換言すれば、名号本尊・形像本尊の教学的背景を考え、真宗本尊の正当性を概説したのである。そしてそのなか、名号本尊については具体的に説明したのであるが、形像本尊においては、また具体的説明を残している。
 形像本尊は、先にも述べたように『観経』の住立空中尊を模したものである。
しかし、『観経』の住立空中尊は、観音・勢至の脇士があるが、真宗の形像本尊は立像の弥陀一仏である。その理由は、韋提希の見仏の意に準拠するのである。 『観経』には章提希の獲忍を述べて、

時に章提希、無量寿仏を見たてまつり已りて、接足作礼して云々。(『真聖全』一-五四)

とある。すなわち韋提希の見仏は、聞見一致の真実弘願に帰したのであるから、三尊を見るままが、弥陀一仏の帰依であるためである。

 その立像の阿弥陀仏に光明があるが、光道は四十八光道が一般的である。この光道の数の基本は如来の十二の光徳である。十二光を二周すれば二十四光道、三周すれば三十六光道、四周すれば四十八光道となり、阿弥陀仏の四十八願と数が合致するので、四十八光道にしてあるのだと思われる。

 その如来が蓮の華台に立らていられるのはなぜか。これは『観経』にも華座が説かれているが、龍樹菩薩の『智度論』には、梵天王は蓮華上に坐す。是の故に諸仏は世俗に随う。

と述べてある。すなわち如来が蓮華台上に立たれるのは、世俗の大王といわれる梵天王が蓮華台上に坐しているため、われ等に理解し易いようにするためであるとされている。

 しかし、蓮華であれば、白色か桃色であろうに、如来の蓮台は多く青蓮華になっているのはなぜであろうか。これについても同じく『智度論』に、

一切の蓮華の中、青蓮を第一となす。

とあるが、この説に依るのであろう。しかし木像には金蓮華台・白蓮華台もあり一概に論ずることはできない。

 立像の木像には、更に幾重かの高座がある。坐像であれば高座があって不思議ではたいが、立像になぜ高座があるのだろうか。この問題については、『浄土真宗本尊義記』に、

木像に高座をもちゐるととは、坐像の高座をかりて恭敬す。と述べ、更にその高座の種々を挙げ、最高は九重あると詳しく解説してある。

 また木像には船御光があるが、これは如来の光明が雲に映じている姿を表現せんとしたのであろう。しかし,実際には火焔の船御光もあり、未だ明確ではない。この問題を『真宗故実伝来鈔』に、

仏像の光明に、光り御光、船御光とて二あり。爾るに当家には、光り御光を用ひ玉ふは如何ぞ。答、光明は本体なし、日輪の影の如し、故に其の勢をしらせん為に、船の形の如く其の相を顕し、又遍照の理をしらせん為に、光の御光を示す。画像は表具一ばいに光明を画すれども、木像は限りあり。
笠の如くに作りなす。爾れば当家にひかり御光を用ること、しひて故あるには非ず、唯古来用ひ来れる故実たり。

と述べられてあるが、やはり確答はできず「唯古来用ひ来れる故実」であるとする。

 阿弥陀仏の印相については、古来より右手を挙げられているのは招喚、左手を垂れていられるのは摂取を示すもので、招喚・摂取の印といわれている。

 形像の阿弥陀仏が全て金色になっていられることについては、『漢語灯録』に、

諸色の中へ白色を本と為す、諸仏何の為ぞ白色を須いざる。謂く白は異変す、唯黄金の色のみ変ぜず。諸仏皆常住不変の相を顕んと欲す。是の故に:黄金の色を現じたまふ。(『真聖全』四-四二九)

と解説されてある。すなわち如来の常住不変を顕わすには、色のなか変色しない金色をもってしたのであるとする。更に加えていえば、阿弥陀仏は「無碍光如来」「不可思議光仏」等と光明で表現されるのであって、これを色に表わせば当然金色が最もふさわしく思われる。

 形像本尊がいつの頃から下付されたかについては「歴史的資料が乏しく明確ではないが、『浄土真宗本尊義記』には、

絵像の裏書を閲するに、大品の絵像は、実如上人已来の御免許たり。その表補の大縁は高麗綾なり。小縁は綾地の印金なり。軸は桜の木なり。百代二百代等と称するも、その時分の御礼銭の員数につゐていひならはせり。
絵表料はこの外にあり。金欄縁金軸は後代のことたり。しかれば証如上人はじめて、在家に小絵像を御免ありしことなるべし。

と述べてある。この調査によると、寺院への絵像の下付は実如上人(本願寺第九代一四五八~一五二五)時代であるとする。その実例を挙げれば、

(一)碧南市鷲塚町 願随寺蔵
       大谷本願寺 釈実如(華押)
       永正十一年甲戌十一月廿六日
方便法身尊像
      参州幡豆郡志貴庄
          願主 釈恵性

(二)碧南市鷲塚町 願随寺蔵
       大谷本願寺 釈実如(華押)
        永正十六年己卯七月廿八日
              三河国
方便法身尊像          幡頭郡 志貴庄
         鷲塚口道場物也

等とある。
 なお、現在でも、免物絵像の大きさを百代二百代等と呼称しているが、これま「卸礼銭の員数」であるとしている。この礼銭とは、絵像の身の文と等しく銭を積み上げたものと推測されている。

あとがき

 以上、高森親鸞会の真宗本尊に関する本願寺への非難が、教義的にも歴史的にも、妥当性を欠くものであることを論証し、真宗の本尊の本義を述べたのである。しかし、問題が教義的歴史的広範囲に亘り、紙数的に詳細な論考を割愛せざるをえなかったことは残念であるが、大綱は論じたつもりでいる。

 なお、光明本尊について論及しなかったことを釈明しておきたい。光明本尊に関しては、存覚上人の『弁述名体鈔』に、

天竺・震旦の高祖、あるひは吾朝血脈の先徳等、をのおの真影をあらはされたり。これによりて、面々の本尊、一々の真像等を、一鋪(幅)のうちに図絵して、これを光明本となづく。けだし、これ当流の覚者のなかに、たくみいだされたるところなり。(『真聖全』五ー二三五)

と紹介されている。これによると、光明本尊とは元来は「光明本」といわれていたもので本尊と絵系図を一つにしたようなものである。しかも「これ当流の覚者のなかに、たくみいだされる」ものであったとされている。「光明本」は「光明品」とも記されているが、「光明本尊」との呼称は近世になってからのことである。よって真宗の礼拝の対象として正当なものでなく、真宗本尊論として取り扱うべきものではないと考えたからである。