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真宗教団における異端の思想 特に善知識帰命について(一)

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真宗教団における異端の思想

特に善知識帰命について(一)
山田行雄

 真宗において、信心・あるいは安心といわれる世界は、常に法の批判のもとにおかれなくてはならぬ。その法とは具体的には真実の体験者の言葉となって表われる。この法の体験(信体験)の論理的確立者こそ宗祖である。よってわれわれの信体験は最も具体的直接的には宗祖の批判の傘下に位置づけられねばならぬ。にもかゝわらず、真宗教団の歴史の中にあっては、この批判から逃避もしくは曲解誤解の輩が後をたたぬ。それらの主張を異義異安心と名づける。その異義異安心、特に異安心の思想の研究は、宗義安心の研究の反側面、もしくは裏面として今日までに幾多の論考がなされている[1]。そのなか現代の異義思想[2]と最も関連をもち、その思想の中核を形成している「善知識だのみ」の思想の歴史と、発生理由を次のごとき順序で考察し、もって一味の信心を根底とする真宗教団の抑止的面より教団を問題にせんとするものてある。

一、知識帰命の思想史的問題
 1、宗祖時代の知識帰命
 2、覚如・存覚時代の知識帰命
 3、蓮如時代の知識帰命
 4、江戸時代の知識帰命
 5、現代の知識帰命
二、知識帰命発生理由の問題
 ―、一般的問題
  イ、信仰心理の問題(応答性の問題)
  口、社会経済の問題(収奪の論理)
  ハ、自我性の問題(宗教理解の問題)
 二、教義上の問題
  イ、五重の義相の解明
  口、信一念義の解明
  ハ、二種深信の解明
  ニ、信後還相説の批判

然しこの小論においては蓮如時代知識帰命の考察までとする。

Ⅰ 宗祖時代の知識帰命

(一)

 宗祖時代の知識帰命の最たるものは善鸞である[3]。善鸞がどのように「法門の義理をあらため[4]」たのかについて知る資料としては、宗祖自身の告発としての義絶状がある。

慈信房のほふもんのやう、みやうもくをだにもきかず、しらぬことを慈信一人に、よる親鸞がおしえたるなりと、人に慈信房まふされてさふらうとて、これにも常陸・下野の人人はみなしむらんが、そらごとをまふしたるよしをまふしあはれてさふらえば、今は父子のぎはあるべからずさふらう。(中略)往生極楽の大事をいひまどわして、ひだち・しもつけの念仏者をまどわし、親にそらごとをいひつけたること、こころうきなり。第十八の本願をば、しぼめたるはなにたとえて、人ごとに、みなすてまいらせたりときこゆること、まことにほうぼうのとが、又五逆のつみをこのみて、人をそむじまどわさること、かなしかことなり。(真聖全・ニの七二七~八)

とある。この義絶状によると、義絶の直接の要因は(一)「慈信一人に、よる親鸞がおしえたるなり」とある夜中の法門といわれる秘事を主張したこと。(二)「第十八の本願をしぼめるはなにたとえて、人ごとに、みなすてまいらせたり」とある弥陀の本願の曲解によるものであった。弥陀の本願を否定するにおいては、もはや真宗の埓外ではあるが、それを宗祖の名を借りて語られるところに問題がある。善鸞の説く弥陀の本願を否定した法門とはいかなるものであろうか。『御消息集』第六通には

いなかのひとびと、みな、としごろ念仏せしはいたづらごとにてありけりとて、かたかたひとびとやうやうにまふすなることこそ、かへすがへす不便のことにきこえさふらへ。やうやうのふみともをかきてもてるをいかにみなしてさふらふやらん、かへすがへすおぼつかなくさふらふ。慈信房のくだりて、わがききたる法文こそまことにてはあれ、ひごろの念仏は、みな、いたづらごとなりとさふらへばとて、おほぶの中太郎のかたのひとは九十なん人とかや、みな慈信房のかたへとて中太郎入道をすてたるとかや、ききさふらふ。いかなるやうにてさやうにはさふらふぞ、詮ずるところに信心のさだまらざりけるとききさふらふ。いかやうなることにて、さほどにおほくのひとぼとのたぢろきさふらふらん。不便のやうとききさふらふ。(真聖全・二の七〇五~六)

とある。この文のなか「わがききたる法文こそまことにてはあれ」とは、義絶状にある夜中の法門、もしくはそれに類似した秘事を指すのであろう[5]。そしてそこで語られる善鸞の主張は、人々の「念仏せしはいたづらごと」であり、念仏の否定であったと思考される。
 しかるに『御消息集』第七通によると

慈信坊がまふしさふらふことをたのみおぼしめして、これよりは余の人を強縁として念仏ひろめよとまふすこと、ゆめゆめまふしたることさふらはず、きはまれるひがごとにてさふらふ。(真聖全・二の七〇八)

とある。この真浄坊宛の御消息によると、善鸞が「余の人を強縁として念仏ひろめよ」と主張している様子である。先の第六通には善鸞は念仏否定者であり、いま第七通は「念仏ひろめよとまふす」とある。この相異をいかに理解したらよいのであろうか。「やうやうに慈信坊がまふすこと[6]」を様々として支離滅裂として、善鸞がある時は念仏を否定し、或る時は念仏を勧めるがごときのみの理解で解決できる問題であろうか。

(二)

 善鸞の念仏否定の主張は関東を遠く離れた京都隠栖の宗祖が知るところであり、また大部の平太郎を中心にして集まっていた同行九十余人が一挙に平太郎を捨てて善鸞の傘下に馳たことは関東の念仏教団にとってセンセーショナルな事件であり重大ニュースであったに相異ない。しかも善鸞義絶状には

まことにかかるそらことどもをいひて、六波羅のへむ、かまくらなどに、ひろうせられたること、こころうきことなり、(真宗全・二の七二八)

とか、また

しむらんがおしえにて、ひだちの念仏まふす人々を、そむぜよと慈信房に教えたるとか、かまくらにてきこえむこと、あさましあさまし。(真聖全・二の七二九)

と見えるごとく、領家・地頭・名主等による念仏禁止は、すでに善鸞が関東に下る以前のことであった[7]にせよ、善鸞自身の手によって念仏者を鎌倉幕府に誣告している。そのことは関東の念仏者にも知られ、彼の誣告によって鎌倉の法廷に立って陳情した念仏者達によっても実証されている[8]。その念仏否定の同一人・善鸞の「余の人を強縁として念仏をひろめよ」との主張が、関東念仏教団の中で通用したと考えることができるだろうか。否と答えざるをえない。だとすると、余の人を強縁としてひろめる念仏とは、同じく念仏といってもそこに質的相違を認めざるを得なくなる。
 「余の人を強縁とする」念仏とはいかなる内容なのかを問わねばならぬ。この問題について、先ず余の人を強縁とするとは、どのような意味なのか。これについて中井玄道氏は
 この語は念仏が地方の官憲に迫害せられた時、他の権勢家に頼りて対抗的に念仏を弘めよといったのである[9]と述べ、森竜吉氏は「余の人、すなわち在地の権力者や有力者[10]」であるとし、石田瑞麿氏も同じく「ほかの力のある人[11]」といっている。これら諸氏[12]はいづれも余の人とは権力者であることにおいて一致している。ゆえにそこにおいては、本願の念仏と、本願をしぼめる花に喩え、本願の念仏を「念仏せしはいたづらごと」と否定した上で、更に勧める念仏との相違を認めることはできない。
 中井氏をはじめとするこれ等の主張と立場を異にするのは大原性実勧学である。即ち大原勧学は、

余の人を強縁として念仏を弘めるとの主唱は所謂善知識だのみてあると考えられる。(中略)慈信房は余の人即ち善知識を強縁とすべしと説いたのである。これ正しく善知識だのみであって、秘事法門の形式としては必ずここに出るのである[13]

と述べてある。この論考は「余の人」とは善知識てあるとの主張である。私もこの立場に立つ。なぜなら、私の問題意識は、先にも述べたごとく、念仏の質的内容的問題にあるからである。本願の念仏と異質的念仏、それは本願所誓の念仏ではなく、善知識認可の念仏である。宗祖の勧導された本願の念仏者達を鎌倉に訴訟し、善鸞自身の認可の念仏者を作らんとする策謀に他ならぬ。換言すれは、関東教団の主導権の奪取の野望である。私は善鸞の隠謀がどこにあったかの問題よりも、思想的に善鸞をして、真宗教団における知識帰命の鼻祖と断定したいのである。
 善知識認可の念仏は、勿論善知識認可の信心である。では善鸞が、その信心、もしくは念仏をどのような形態 で認可し授訣していたのか。それを知る直接の資料を持たぬが、乗専の『最須敬重絵詞』には、

慈信大徳と申人おはしけり、如信上人には厳考、本願寺聖人の御弟子なり、初めは聖人の御使として坂東へ下向し、浄土の教法をひろめて、辺鄙の知識にそなはり給けるが、後には法文の義理をあらため、あまつさへ坐女の輩に交て、仏法修行の儀にはずれ、外道尼乾子の様にておはしけれは、聖人も御余塵の一列におぼしめさず、(真聖全・二の八三九―四〇)

とある。これによると、善鸞は法文の義理をあらためて、外道尼乾子的なことをしていたとあり、さらに具体的には、

われ等をもてよろづの災難を冶す、或は邪気、或は病悩、乃至呪詛、怨家等をしりぞくるにいたるまで、効験いまだ地におちず、今の病相は温病とみえたり、これを服せられば即時に平癒すべしとて、すなはち符を書て與らる。(真聖全・三の八四〇)

と述べている。かくのごとき善鸞の行状からして、信心も念仏もいかにして伝授していたか大略の想像はできそうである。

Ⅱ 覚如・存覚時代の知識帰命

(一)

 宗祖滅後の真宗教団は、大谷廟堂を中心にその基礎的諸条件を満し、覚如・存覚時代には教学的にも宗祖の著述の研讃に力を尽くすようになる。真宗興隆の中核をなすものは、宗義安心にあることは言を待たぬ。両師の意としたところもこゝにあり、多くの著述[14]をもって宗義安心の昂揚につとめたのである。しかし一方では善鸞のまきおこした悪塵いまだ静まらず、更に教団が拡張するにつけ、種々の異義異安心が惹起跋扈して来たのも事実である。その種類の大半は覚如の『改邪鈔』と存覚の『破邪顕正鈔』により知られるところである。いま、この時代の異義異安心の大略を知るため、両師の破邪の対象となった異義異安心の主張を列挙してみる。
 先ず覚如の『改邪鈔』には、

1、今案の自義をもて名帳と称して、祖師の一流をみだる事。
2、絵系図と号して、むなしく自義をたつる条謂なき事。
3、遁世のかたちをこととし、異形をこのみ、裳無衣を著し、黒袈裟をもちいる、しかるべきからざる事。
4、弟子と称して、同行等侶を自専のあまり、放言悪口すること、いはれなき事。
5、同行を勘発のとき、あるいは寒天に冷水をくみかけ、あるいは災早に艾灸をくはふるらのいはれなき事。
6、談議かくるとなづけて、同行知識に鉾楯のとき、あがむるところの本尊聖教をうばひとりたてまつるいはれなき事。
7、本尊ならびに聖教の外題のしたに、領主の名字をさしおきて、知識と号するやからの名字をのせおく、しかるべからざる事。
8、わが同行ひとの同行と簡別して、これを相論する、いはれなき事。
9、念仏する同行知識にあひしたがはずんば、その罪をかうぶるべきよしの起請文をかかしめて、数箇条の篇目をたてて、連署と号する、いはれなき事。
10、優婆塞・優婆夷の形体たりながら、出家のごとくしいて法名をもちいる、いわれなき事。
11、ニ季の彼岸をもて念仏修行の時節とさだむる、いはれなき事。
12、道場と号して簷をならべ牆をへだてたるところにて、各別各別に会場をしむる事。
13、祖師聖人の御門弟と号するともがらのなかに、世出世の二法について得分せよといふ名目を行住坐臥につかふ、こころえがたき事。
14、なまらざる音声をもてわざと片国のなまれるこえをまなんで念仏する、いはれなき事。
15、一向専修の名言をさきとして、仏智の不思議をもて、報土往生をとぐるいはれをば、その沙汰におよばざる、いはれなき事。
16、当流の門人と号するともがら、祖師先徳報恩謝徳の集会のみぎりにありて、往生浄土の信心においては、その沙汰におよばず、没後葬礼をもてほんとすべきやうに、衆議評定するいはれなき事。
17、おなじく祖師の御門流と号するやから、因果撥無といふことを持言とすること、いはれなき事。
18、本願寺の聖人(親鸞)の御門弟と号するひとびとのなかに、知識をあがむるをもつて弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもつて別願真実の報土とすといふ、いはれなき事。
19、凡夫自力の心行をおさへて、仏智証得の行体といふ、いはれなき事。
20、至極末弟の建立の草堂を称して本所とし、諸国こぞりて、崇敬の聖人の御本廟本願寺をば参詣すべからずと、諸人に障碍せしむる、冥加なきくはだての事。

以上、二十箇条にのぼる。このうち知識帰命に関係をもつものは1より9までと18より20までの十二箇条にのぼるのである[15]

 次に存覚の『破邪顕正鈔』の論破の対象を挙げると次の如くである。

1、一向専修念仏といふは仏法にあらず、外道の法なるによりてこれを停止せらるべき事。
2、法華・真言等の大乗をもて雑行と称する条、しかるべからざるよしの事。
3、念仏は天台・法相等の八宗のうちにあらず、浄土宗と号して宗の名をたつること自由たるよしの事。
4、念仏は小乗の法なるがゆへに真実出離の行にあらざるよしの事。
5、念仏は世間のため不吉の法なるによりて停止せらるべきよしの事。
6、戒行をたもつは仏法の修行にあらずといひて、これを停止すべきむね勧化せしむるよしの事。
7、『阿弥陀経』ならびに『礼讃』をもて外道の教となずけ地獄の業と称し、わが流にもちいる『和讃』をば往生の業なりと号するよしの事。
8、神明をかろしめたてまつるよしの事。
9、触穢をはばからず日の吉凶等をえらばさる条、不法の至極たるよしの事。
10、仏法を破滅し王法を忽諸するよしの事。
11、念仏の行者はひとの死後にみちをおしえざる条、邪見のきはまりなるよしの事。
12、仏前において山野江河のもろもろの畜類の不浄の肉味をそなふるよしの事。
13、魚鳥に別名をつけて、念仏勤行の時中に道場にしてこれを受用せしむるよしの事。
14、念仏勤行のついでに、仏前にして親子の儀を存せず、自他の妻をいはす、たがひにこれをゆるしもちいるよしの事。
15、一向専修の行者、灯明となづけて銭貨を師範に沙汰する条、邪法のいたすところなるよしの事。
16、念仏もし往生の業ならは、みづからこれをとなへんに往生をうべし。あながちに知識をあふいて師資相承をたつべからざるよしの事。
17、念仏を修せは自行のためにこれをつとめて往生をねがふべし、無智の身をもてひとを教化せしむる条、しかるべからざるよしの事。

 以上、十七箇条に及ぶ。しかし覚如の『改邪鈔』には、教団内の邪義に対する論破であるのに対し、存覚の『破邪顕邪鈔』は、特に教団内の問題は、7と12~14のわずか四条にすきず、その他はむしろ教団外から真宗教団への批判に対する弁明である。しかし、これ等教団外からの批判の中には、存覚が教団護持の立場から善意的に弁明された様子が管見できるものもある。その最たるものは15・16のニ条であろう。この二条は共に知識帰命に無関係ではない。先の覚如の『改邪鈔』には一言したごとく、知識帰命に関する条は二十箇条のうち大半を占めるのである。このような邪義が、短期間に除去されるはずもなく、存覚時代においても、教団内は勿論のこと、教団外よりも目に余る批判としてなされたことを証明するものでなかろうか。

(二)

 覚如・存覚、就中・覚如によって内部から告発された知識帰命の実態と内容を、更に検索せねばならぬ。これについて覚如が特に知識帰命の主張として挙げる『改邪鈔』の中の第十八条に

本願寺聖人の御門弟と号するひとびとのなかに、知識をあがむるをもて弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもて別願真実の報土とすといふ、いはれなき事。

と示す条を吟味し、その破訴の内容となった具体的な邪義の主張を考察せねばならぬ。
 先ず第十八条は、次のニ点が破邪の骨旨としていることに気づくのである。
(ア)知識をあがむるをもて弥陀如来に擬すこと。
(イ)知識所居の当体をもて別願真実の報土とす。
である。この二点について覚如は、次のごとく解説している。
 先ず(イ)については

善知識ににおいて本尊のおもひをなすべき条渇仰のいたりにおいてはその理しかあるべしといへども、それは仏智を次第相承しまします願力の信心、仏智よりもよほされて仏智に帰属するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ、仏身仏智を本体とおかずして、ただちに凡形の知識をおさへて如来の色相と眼見せよとすすむらんこと、聖教の施設をはなれ祖師の口伝にそむけり。本尊をはなれていづくのほとより知識は出現せるぞや。荒涼なり髣髴なり。(真聖全・三の八六)

と述べるのである、覚如は善智識とは「実語をつたへて口授し、仏智をあらはして決得せしむる[16]」もので「如来の代官[17]」であって、善知識をそのまま如来の色相と見なすことの愚を論断している。
 次に(ロ)の所談に対しては

廃立の一途をすてて比土他土をわけず浄穢を分別せず、比土をもて浄土と称し凡形の知識をもてかたじけなく三十二相の仏体とさだむらんこと、浄土の一門においてはかかる所談あるべしともおぼへず。(真聖全・三の八五)

といい、「己身の弥陀唯心の浄土と談ずる聖道の宗義[18]」と一体どこが異るのかと論破し、聖浄の分際さえ明確に立たぬ邪義であると論定している。そして覚如は更にこのような知識帰命の邪義の思想背景を暗示して、

ほのかにきく、かくのごとき所談の言語をまじふるを夜中の法門と号すと(真聖全・三の八五)

と述べている。即ち善鸞の邪義の流を汲むものと洞察していることを指摘しておきたい。

(三)

 次に覚如・存覚当時の知識帰命の具体的主張を考察せねばならぬ。そもそも異義異安心の集団の中には権威に名をかりた偽撰聖教が多くあるのか特微である。いまそれ等偽撰聖教のなか、特に覚如・存覚の名を借りて知識帰命を勧進する邪義の主張を考究してみる。
 先ず覚如の名のもとに出されたものに『他力信心聞書[19]』なる偽撰聖教かある。これにより、知識帰命を述べる箇処を指摘し列挙してみる。
              「仏  「知識                   「帰命還源   「正定聚仏果
1、南無阿弥陀と云は「阿弥陀仏の昔の本願なるがゆへに、これをとなふる衆生等はみな往生をうることその疑なし。
                               「阿弥陀    「仏
2、また阿弥陀仏と云は願なり、仏といふは力なり、願と云は法なり、力と云は世世の先徳なり、願より力をたもち、力は願をたのみて願力ともにあひたすけて成就するを阿弥陀仏と云ふなり。

3、力願相応したまへる教化地の諸大菩薩の御心をさして、本願の体とすと、この諸大菩薩と云は世世の先徳の御事なり。
 「先徳法身「空諦
 この   御心にかみにのぶるところはみなこもりたまへり。本願と云も釈迦の誠言も六方の証誠心もただ善知識の御心にありけり。

    「弥陀「知識
4、ただ願力の信心を専らにするを善導は念念不捨者是名正定業と釈したまへり。
 「憶念知識          「正定聚仏果              「願(弥陀)力(知識)
 念念不捨者と云は信心の名なり。正定業と云はうるところの果の名なり。これ弥陀の他力をしれる名なり。

5、南と云はほかと訓す、無と云はなしと訓ず。されば南無阿弥陀仏とは、ほかに阿弥陀仏ましまさすと訓ず。
  「三身三諦即弥陀
6、知識と中すは他力のあらはるる使者の名なり。

  「正見知識法身心空「知識応身の形言                    「知識の心来室
7、正に対面のまえには使者のことばをもちいるべからずとのたまへり。これすなはち本師をまもれとなり。
(真宗大系異義集・一九七~二一〇)
等とある。これらの主張を考察し、分析すると左の図のごとくであろう。
    阿弥陀仏……仏………他………願
   (                       )成就=阿弥陀仏
    仏……………知識……力………力

   <三諦>      <三身>  <知識>
    空-真諦        法身    心
    中-中道第一義諦  報身    言
    仮―俗諦        応身    身

かくして、善知識が阿弥陀仏であり、6のごとく善知識以外に阿弥陀仏は存在せずというのである。だから信心とは4、に示すごとく善知識を憶念することであるとするのである。そして善知識を憶念する信者は此土にて仏果を得証すると所謂一益法門の主張するのである。
 次に存覚の名に擬したものに『五念門』がある。これによると、
1、善知識の形を世尊とみたてまつるを礼拝門といふなり。
2、彼形より知慧を現じたまふ弥陀如来とみたてまつるを讃嘆門といふなり。
3、かの知慧をもって一切衆生を仏になしたまふが故に作願門といふなり。
4、かの知慧をもて衆生を仏になしたまひとりおさめたまふゆへに浄土とみたてまつるを観察門といふなり。
5、いま現に一切衆生を仏になしたまひて、本願力の不思議にましますことを、ときあらはしたまふかゆへに廻向門といふなり。(真宗大系・異義集二三三)
とある。これは天親の『浄土論』に説く五念門に自己の主張を附会したのであるが、この著者はこの様な五念門をよくよくこころえたる者をもって信心の行者である[20]と教示している。
 更に存覚に関連する偽撰書には善知識を分類定義していろものがある。『三信三心同一事中善知識事』においては

知識といふは、総別二種あるべし。総の知識といふは、諸仏菩薩なり。別といふはわれらに信心をとらしめたまふ当座の教をまふすなり。何れも此は大慈大悲の御心とこころふべし。悪知識といふは、仏法につき障碍をなすをいふなり。(真宗体系異義集・二三二)

とある。これは善知識を総別に分ち、総の知識を諸仏菩薩とし、別の知識を教諭の人師とするのであるが、共に仏位であることにおいて変わるところでないとする。更に直接教説を述べずとも善知識とみなす説がある。それはやはり存覚著とされている『持信記』がそれである。そこには

行者のためにくすりとなる人をもて善知識と名づくとみえたり。さればおほかたは無智なりといふも、その真実信心の一途を自からいひきかせんは中に及ばず、たとひ我と述ぶること叶はずして、人をやとひてこれをときのぶるともすすめんとおもふ志まことなれは、行者の依怙となることはかの本人なるべし、さればかれをもて、善知識と名づくべきなり。(真宗大系 異義集・二三〇)

と述べている。
 当時更に無法なものになると、宗祖の名まで借り知識帰命を勧めるものかが出て来た。それは『八万帖之抜言阿字観之本味』である。巻末には

南無阿弥陀仏  愚禿親鸞作

とある。そしてその説くところは密教の混入[21]であるが、その中、善知識について

                       「是身コトニヨリテ
本願他力の体と云は善知識の御心を指して云なり、本尊に因てながく生死の門を出で無為の報土に到るなり。(真宗大系 異義集・二一四)

と述べる。しかも「本尊」を註して「是身コト」としている。思うに「身コト」は「ミコト」であって、本尊の尊の字訓であろう。然しわざとミコトを「身コト」としてあるところに意味があろう。即ちこの本尊とは生身の善知戚を指すのである。換言すれは、生身の善知識を本尊として、礼拝の対象とすべく勧めるのであろう。
 この『八万帖之抜書阿字観之本味』は別名『心血脈鈔』ともいわれるもので、先の『他力信心聞書』と共に、大町の如道の作でなかろうかとの推測[22]もなされているが未だ確証がない。しかし、如道がこの時代に異義異安心の一翼を担っていたことは確実である。即ち顕誓の著『反古裏書』によれば、

越前川大剛の如道といふ者あり、田嶋の興宗寺行如、和田の信性、あひともに覚如上入御在国の中御勧化を受けられし法徒なり。然に御上洛の後法流において如道新義を立、秘事法門といふ事を骨張せしかば、御門徒の面々かたく糺明をなし、自今己後出言あるべからざるむね起請文をかかしめ改悔ありしかとも、猶やまずして諸人迷乱ありしかば、申あげられ御門徒をはなされ畢ぬ。然ども邪義をつのる。(真聖全・三の九八四)

と述べている。これによると、大町の如道は覚如より法義を承けなからも、異義を唱導し門徒衆を迷乱しているのである。しかし如道流の邪義は蓮如の時代に三河にも広がり、特に蓮如の心痛するところとなるため、後に論考せんとする。
 以上、覚如・存覚時代の知識帰命を考察したが、善鸞を祖とするこれ等の主張は、獅子身中の虫として、ようやく教団としての形を整えた若き真宗教団を早くもむしばまんとするのであった。

Ⅲ 蓮如時代の知識帰命

(一)

 存覚滅後蓮如に至る約百年は真宗教団において異義異安心の温床時代であったと見ることができよう。もっとも、これについては異説[23]もあるところではあるが、少なくとも教義安心の面においては何等の発展性と活達性、即ち躍動はなく、むしろ覚如・存覚時代よりも後退し、衰退の一途をたどった如くである。
 この考証を立証するのが『御一代記聞書』または『反古裏書』に述べる記述である。『反古裏書』には、綽如について、

綽如上人、越中国井波といふ所に一宇御建立、瑞泉寺と号す。(中略)諸家より学匠文者のむね崇敬申せしかば、勤行威儀をむねとし給ひしなり。(真聖全・三の九六一)

とあり、他宗の儀礼儀式に染りつつ、勤行儀式を本旨としたことを伝えている。更にこの瑞泉寺建立の件についても、『本願寺史』か『賢心記』の説として伝えるところによれば、「奇特の瑞相のあったこの地に当寺を建立[24]」したのであるとする。それでは、いかなる瑞相があったのか。綽如自身の署名のある当寺建立の『勧進状[25]』には、

此の地において霊水あり、故に瑞泉寺と称す。

と一宇建立の理由を述べるのである。一寺創建の大事業か、所謂縁起をかついでなされるにまで至った。これは、まさしく当時の真宗教団全体に教義が順廃していたことを物語る事実として注意してよいのではなかろうか。 また『御一代記聞書』には、

善如上人・綽如上人両御代の事、前住上人仰られ候こと。両御代は威儀を本に御沙汰候し由仰られし。然ば今に御影に御入侯由仰られ侯、黄袈裟、黄衣にて候。然ば前々住上人の御時、あまた御流にそむき候本尊以下、御風呂のたびにやかせられ候、(頁聖全・三の五八七)

と述べる。即ち本山ですら、当流に違背した本像昼像等を安置し礼拝の対象としていたこと、しかもそれが風呂のたびにやかねばならぬほど相当数あったとしている。もはや信仰の対象すら不明確になった教団において、教団の統制と教学の研鑽、なかんずく純粋信仰としての安心の問題か論ぜられようもなくなった状態ではなかったのだろうか。
 このような教団の麻痺的現状のなかに蓮如の出現をみるのである。そして蓮如を中興の上人と尊称する理由は、教団の拡張もさることながら、最も根本的には『御一代記聞書』に、

雑行をすてて後生たすけたまへと、一心に弥陀をたのめと、あきらかにしらせ侯、しかれは御再興の上人にてましますものなり。(真聖全・三の九六六)

と指摘されているごとく、真宗安心の宣布にあったと思考されるのである。

(二)

 前述のごとき真宗教団の萎微額廃の温床の中でいかなる異義異安心の毒草が育ったか。次にこの問題についてその実状を考祭するに、蓮如は『御文章』の中に左のごとく述べている。

1、諸国に於て当流上人定給ふ所の法義之外にめづらしき法門を讃嘆し、同く一流に沙汰なきおもしろき名目をつかふ人これ多し。或は又祖師、先徳の作り給ふ外にめづらしき聖教これ多し。努力努力此等を依用すべからず。(真聖全・五の四一一)
2、近代当流門下と号する族の中に於て、聖人の一洗をけがし、あまつさえ自義を骨張し、当流になき秘事がましき曲名言をつかひ、人の難破をいひてこれを沙汰し、我訿謬をばかくすたぐい在々所々これ多し。(真聖全・五の三九七~八)
3、形のごとく坊主分をもちたらん人の身のうへにおいて、いささかも相承せざるしらぬ法門をときて、人にかたり、我ものしりとおもはれんとて、えせ法門をもて人に勧化すること近代以外在々所々に繁昌す。(真聖全・五の四〇八)

とある。更にその教義の乱脈ぶりは、

仏法について、まず聖教をもよみて人を勧化するに、五人あれば五人ながらそのことばあいかはれりと。これしかしながら法流をただちに相承なきいはれなり。(中略)これ言語道断あさましき次第なり。(真聖全・五の三四八)

と、蓮如をしてかくのごとく悲痛悲歎せしめている状態であった。
 蓮如が「めずらしき法門」「一洗に沙次なきめづらしき名目」「秘事がまさしき曲名言」「いささかも相承せざるしらぬ法門」「えせ法門」と、あらん限りの言葉を用いて告発した邪義とはいかなるものか。これについてはすでに諸学者の研究された業績が多くある[26]。それ等の中、最も詳細な分類を試みられてあるのは石田充之勧学の論文「蓮如上人時代の異義思想とその批判[27]」である。それによると、次のごとき分類がなされている。
1、浄土異流に対簡し、又それに関連するもの
(イ)直接浄土異流名を示し簡別せらるるもの
(ロ)自力念仏、臨終来迎・無信単称に対するもの
(ハ)施物たのみを主とする無信単称説に対するもの
(ニ)十劫安心に関連するもの
2、時宗一向宗に関係すらものと思惟されるもの
(イ)直接時宗一向宗を指示し対簡せられるもの
(ロ)時宗の遁世的風儀の影響に対応せられたかと思惟せられるもの
3、仏光寺了源系統の思想に対すると思惟されるもの、又それに関連すると考えられるもの。
4、一益法門、不拝秘事、知識帰命等所謂越前三門徒系統の秘事法門一派に対せられたと思惟されるもの。
(イ)一益法門に関するもの
(ロ)不拝秘事に関するもの
(ハ)知識帰命に関するもの
蓮如時代、いかに多くの邪義が教団内を跋扈していたかが知られ、また驚かれるところである。いま私は、これ等蓮如時代の異義異安心の総てを問題にせんとするものではない。これ等のなか、特に知識帰命の主張を更に明確に検索したい。

(三)

 先に引用した蓮如の『帖外御文章』の中に、「めづらしき聖教これ多し[28]」と指摘したが、その蓮如の名を借りた偽撰もしくは偽書写の聖教に知識帰命を勧めるものが多く見える。例えば『勧化大旨[29]』は、無念無相の念仏をすすめて、次に

ふかくたのむべきは弥陀の本願、のぞむべきところは西方の浄上、ふかくたもつべきは善知識、うきよのなのかともしびなり。(真宗大系 異義集・二四一)

とか、また、

善知識にあひ仏法をたもてるものは闇にともしびをえ平地に車にのれるがごとし。(真宗大系 異義集・二四〇)

という。また『念仏往生義[30]』には

阿弥陀如来は不思議の覚体にましますぞと善知識の教るを聞き一念も疑なく、深く信じて、南無阿弥陀仏ととなふる最初の一念に、則諸の生死をはなれ往生をえて、この不可思議の如来と一味一体の身にて更に隔なきゆえに。(真宗大系 異義集二六)

と述べるのである。この他に存覚著、蓮如の書写に擬した『浄土見聞集[31]』(同名異本)にも善知識をたのぶべく、くりかえし勧めている。
 『勧化大旨』と『念仏往生義』は共に蓮如の撰述とする偽撰聖教であるか、その邪義の系流を異にするように考えられる。
 先ず『勧化大旨』は了祥が注意しているごとく『浄典目録』に誓海の著作であるとされてある[32]。この考察が正しければ、これは仏光寺了原の邪義系[33]に属する者の偽作である。
 次の『念仏往生義』は、口称の一念にて現生即仏を主張するのであるが、これは思想的にみて、如道の著『本願帰帰命十箇条』に類似している。いまその一端を挙げるならは、同著に

南無と称へるときの一念この本覚の弥陀といふことばにてあれ。(真宗大系 秘事法門集・一三五)
南無帰命といふは一心のさとりなり、これを久遠実成の古仏といふなり。本来のさとりといふはこの仏をさとることなり、されは南無とうくるときにこのさとりあらはれたることなり。(同右 一三五~六)

と主張している。よって私は『念仏往生義』の昔者は如道系に関連せる邪義の徒の著述ではなかろうかと思考する。この如道系の異義は、先に一言したごとく蓮如時代の邪義のなか、最も盛力をもった一つであった。

(四)

 如道系の邪義については、蓮如が『帖外御文章』に三河の秘事として挙げる一類である。即ち蓮如は

南無阿弥陀仏の体をよくこころへたるを信心決定の念仏行者と名づけたり(中略)然則此土には知識帰命なんど云事更以あるべからず。ちかごろ三河国より手作云出したる事なり。相構々々これらの俄信用すべからざるものなり。(真聖全・五の三八〇~三八一)

と述べ、また

抑三何田に於て(中略)当流にその沙汰なき秘事法門ということを手作にして諸人をまよはしむる条、言語道断の次第なり。この秘事をひとにさづけたる仁体においては、ながく悪道にしづむべきものなり。(真聖全・五の三八九~三九〇)

と教団内に注意を喚起し論難しているものである。しかも先の三の「参加より手作云出したる事」の文は文明十一年十一月のものであり、後の「秘事法門ということを手作りして」のものは文明十二年六月に出している。即ち僅か半年余りの間に二回に亘り警告しているのであり、三河の秘事がいかに執拗でしかも教団にとって困惑的存在であったか想像に難くない。私は思う、先に真宗教団とは宗祖と一味の信心に住し、またそれを求めるものの集団であるといった。換言すれは教団人とは宗祖の弟子であろう。さすれば能化位にある者は、宗祖より所化たる門徒を預っているにすぎぬ。門徒とは宗祖の門徒でなければならぬ。それをわが弟子、わが門徒とこころえることは、すでに宗祖によって否定されたところである。能化位にある者が信において人を迷乱させることは蓮如の言葉を借るまでもなく言語道断であるが、惑乱している門徒を知りつつ、傍観もしくは手を拱いていることが許されるのだろうか。特に信の教団であるとされる真宗教団にあって、いつの時代においても行事儀式事業も時代的要請にともない、それに対応せねはならぬが、何よりも先す最優先させねはならぬ問題は、信の確認でなけねはならぬ。信か常に確認される実践が不断であるところに真に教団か生きているといわれるのてでろう。もしもこの活動を疎略にし、教団内の異義異安心を傍観し、大法要を幾度勤修しても、それは教団自身の葬儀てしかないのではなかろうか。この意味において蓮如が常に「信心をもって本」とし、邪義に対して極めて敏感であったことは能化位にある者の等しく誠めとせねはならぬことである。

(四)

 三河の「手作出したる秘事法門」と蓮如によって指摘告発された邪義は、先にも一言したごとく、越前大町の如道系のものである。越前と三河をつなぐ関係は顕誓によって明らかにされている。即ち『反古裏書』によると、

専修寺住持はこの国侍大町名字としてこの寺を執務相続せしが、俄に還俗す。大町助四郎是なり。寺住持の事は本寺へ申すべきむね、三河の勝鬘寺へ申すのあいだ、当住持高珍をよびこし申されけるに、やがて吉崎へ参詣ありしかば、をのづから当流に門弟までも帰伏せしめぬ。すなわちかの息女永存の三男蓮慶所縁として専修寺住持なり。其嫡男三河勝鬘寺了顕、その次男顕誓、大町住持をつぐ。是も伯中将資氏の婿たりき。是によりていよ当国にをいて、御一流恢弘せり。(中略)然といえどもなを三門徒の衆かの秘事法門執心のやからあり(真宗全・三の九八四~五)

と述べている。如道の住した大町の専修寺とその本寺である勝鬘寺を媒介として三河との濃密な交疏を物詰りつつ、如道系の秘事法門の存することを明記している。
 如道の法脈は『反古裏書』によると、
真仏(常陸国・真壁)―専海(遠江国・鶴見)―円善(常陸国・和田)―如道となっている[34]。ここに円善とあるのは、もと三河安城の城主安藤権守のことであり、出家して宗祖の門に入り、円善と号した人である。住田智見氏の『異義史之研究』に紹介する[35]先啓の『大谷遺蹟録』の中、如道関係の系図を挙げると左のごとくである。

・中野専照寺 福井の木田
 高祖――真仏――円善 三河和田――如道 大町、助四即と還俗す、専修寺

・山本山証誠寺
  円善
   ―信証 円善の子
   ―如道 円善の弟子
   ―信寂 信証の子

・高田山法雲 大味
  高祖
   ―真仏
     ―円善―如道 大町車屋道場也・能坂の専修寺をここへ写し専修寺と号す
            兵火のため風尾に移り退転し今の大味に再興す
     ―専信―道性
     ―顕智―法智

 これ等によって知れることは、如道は円善の弟子であること。大町専修寺の開基であること。しかしその専修寺は、専空の教化した能坂にあったものを移築したこと。如道は俄に還俗し大町助四郎と名のったことである。俄に還俗しなければならなかった理由は詳らかでないが、推測が許されるならば、秘事の知識になるためではなかろうか。秘事の知識の多くは在俗の者であることは異義史の示すところである。

(五)

 では如道はいかなる邪義を主張したのであろうか。
 先ず如道の著述の検索からはじめねばならぬが、秘事の多くの場合、唯授一人口訣を主義とするから著書が少なく、また先師等に擬した偽撰となり、著書名の信憑性を欠くのである。大原勧学著『異安心の研究』には如道作として伝えられているものとして、左の六種を数えられている。

1、愚暗記返礼   二巻
2、信問真答鈔   一巻
3、本願成就聞書  一巻
4、他力信心聞書  二巻
5、本願帰命十箇条 一巻
6、心血脈鈔    一巻

 しかし、この六部が全て如道の撰述によるものであると断定するのは困難である。
 先に注意しておいたごとく[36]『他力信心聞書』は、仏光寺了源系に属する阿佐布の了海説もある。『心血脈鈔」とは、先に紹介引用した『八万帖之抜書阿字観之本味』の具名である。本書も如道の撰述であると決定する客観的資料はない[37]。『本願成就聞書』は著名を親鸞に擬して、法然の諸文を引用するものであるがこれも如道作と決定することは困難である[38]。『愚暗記返札』は、長泉寺別当法印孤山隠士著『愚暗記』に対すら弁騒書て如道の作とされている。孤山隠士が聖浄二門について二十の疑難を出し、これについて答えたものをその内容としているが[39]、対外的なものであり、安心の内容に直接触れる性質のものてでい。『信問真答鈔』と『本願帰命十箇条』には如道の名を見ることかできる。
 そこで、次にこの二著の主張を中心に、蓮如時代の三河の邪義の源流となっている如道一派の思想を特に知識帰命の関連ににおいて考案せんとする。

(六)

 如道の邪義については、すでに一つの見解か出ている。即ち玄智は『本願寺通記』に

如道は善鸞相承の法門を伝え、如覚・道性と共にこれを弘む。入親鸞位唯授一人口訣と称し、重に同行の首座を推して親鸞位となす。かって存覚について文類を伝授せし顕彰隠密の名目について自ら秘事法門と称す。一念に仏に帰して止定聚に入れは則ち自己これ仏なりとして、別に仏像を拝することをもちいざることを執す。(真宗全書 P一五二)

と述べている。右の解説によると、如道は、(イ)唯授一人口訣、(ロ)一益法門、(ハ)不拝秘事、を提唱しているとする。この他、大原勧学は円解の『改邪鈔随筆』により(イ)一念義、(ロ)立川流、(ハ)造悪無碍等を挙げられる[40]。これ等如道の邪義の告発を見るに、如道は邪義の権化の感を呈する。しかし私は、これ等の一々を綿密に追求考察しようとするものではない。
 如道の著である『信問真答鈔』には

抑南無阿弥陀仏と云は衆生往生の一心なり体なりと決定すべし。それ一心といふは虚空常住の体、衆生の往生する極りの明なるすがたを虚空常住の心といふなり。この一心の正体を久遠実成の古仏とも十劫正覚の阿弥陀仏ともいふなり。(中略)かくのごとくなればとりもなほさざこの身このままの往生はただこれ自然天然なることなり自然の浄土なり。(真宗大系秘事法門・一三三)

と述べ、『本願帰命十箇条』においても

一、南無帰命といふは我等が往生は南無に御成就にてあるとみへたり。さればとて南無のニ字をながめては其功徳あるべからず。南無と称えるときの一念これ本覚の弥陀といふことばにてあれ。是を南無帰命とおしへたることなり。真言には是を己心の弥陀といふ。当流にはただなにもなくあらとふとや南無仏と唱ふるときの一念があみだ仏にて候べし。(真宗大系秘事法門・一三五)
一、南無帰命といふは一心のさとりなり。これを久遠実成の古仏といふなり。本来のさとりといふはこの仏をさとるとなり。されば南無とうくるときにこのさとりあらはれたることなり。(真宗大系・秘事法門・一三五~六)

とある。この両著の主張するところは
(一)唯心の弥陀己身の浄土を説くこと
(二)行の一念にて往生を説くこと
の二点に要約されよう。(一)は「この一心の正体を久遠実成の古仏とも十劫正覚の阿弥陀仏ともいふなり」「この身このままの往生(中略)自然の浄土なり」(以上は信問真答鈔)とか「一心のさとりなり。これを久遠実成の古仏といふなり」「真言には是を己心の弥陀といふ」「南無とうくるときさとりあらはれたり」(以上木本願帰命十箇条)と述べるところを指す。これ等の主張について私は、いま一つ想起する文かある。その文とは、すでに知識帰命を勧めるものとして紹介し考察した『八万帖之抜書阿宇観之本味』(心血脈沙)に次のごとく述べたものである。

帰命と云は本覚の弥陀に始覚の命を帰すなり、本覚の阿弥陀と云は真如法身の理仏、久遠実成の古仏なり。また心をもって覚は心仏なり。始覚の弥陀また他に非す。今我等悟知也。己身真如の弥陀是なり。更に他に非ず。今我等始て覚る阿弥陀是なり。(中略)無我の身即ち南無なり。南無帰命即ら唯身浄土なり。(真宗大系 異義集 二一三)

とある[41]。彼此相望するとき、その説相表言において類似するところか多いのに気づくのである。
(二)は「南無と称えるときの一念これ本覚の弥陀といふことなり」「南無と唱ふるときの一念があみだ仏にて侯べし」(以上本願帰命十箇条)との主張を指す。この思想も、知識帰命を勧進する書として考察した『念仏往生義』の引用文の中に

南無阿弥陀仏ととなふる最初の一念の中に、則諸の生死をはなれて往生をえて、この不可思議の如来と一味一体の身にて云々

とある主張と軌を同じくする思想である。
 以上、如道の著述と伝えられるもののなか、最も信憑性の高い『信問真答鈔』『本願帰命十箇条』の説相と思想を考察することにおいて、特に注意せられるのは次の三点である。
(イ)完全な知識帰命であること
(ロ)行の一念往生をとくこと
(ハ)一益法門(唯身の弥陀己心の浄土)を説くこと
 かくして蓮如が、しばしば指摘し教諭してきた三河を中心とする秘事法門とは、この如道一派の異義異安心であったと論断したい。しかもその邪義は、強烈強固な知識帰命を基盤として展開されたのである。蓮如が

知識帰命なんど更以あるべからず。ちかごろ参河国より手作云出したる事なり。(真聖全・五の三八一)

と述べたことは、明確にその思想内容を把握した上での論破であったと高く評価するところである。(未完)

  1. 大原性実著『真宗教学史研究」第三巻P三一・異義異安心研究の資料とその時代的区分 参照
  2. 拙稿「現代における異義の研究」伝道院紀要十四号参照
  3. 中島覚亮漸「異安心史」P四一参照
  4. 「最須敬重絵詞」真聖全三の八四〇
  5. 「血脈文集」には「よるひるも慈信一人にひとにかくして法門をしへたることも候はす」(真聖全・二の七一八)とあり、唯授一人秘事をも含む
  6. 「御消息集」第七通(真聖全・二の七〇八)
  7. 松野純孝著「親鸞」P四四七
  8. 「御消息集」第二通 第七通参照
  9. 中井玄道著「異安心の種々相」P三五
  10. 森竜吉著「親鸞」P一五七
  11. 石田瑞麿著「親鸞とその妻の手紙」P一五九
  12. 福永勝美著「親鸞教団弾圧史」のなかにも余の人々を為政者や降力者であるとしている。
  13. 大原性実「真宗教学史研究」第三巻 P一一三
  14. 覚如の著述としては「口伝抄」「執持鈔」「願願鈔」「最要砂」「本願鈔」「教行信証大意」「出世元意」「改邪鈔」「本願寺聖人親鸞伝絵」「報恩講式」「拾遺占徳伝絵詞」等がある。 如覚の著述としては「六要鈔」「持名鈔」「女人往生聞書」「浄土真要鈔」「破邪顕正鈔」「決智鈔」「歩船鈔」「報恩記」「法華問答」「顕名鈔」「存覚法語」「浄土見聞集」「歎徳文」「選択註解鈔」「弁述名体鈔」「纔解記」「至道鈔」等がある
  15. 大原性実「真宗教学史研究」第三巻 P二三六には更に高細な分類がなされている。参照
  16. 「改邪鈔」(真聖全・三の八六)
  17. 右同
  18. 「改邪鈔」(真聖全・三の八五)
  19. 本書は衡門隠倫釈覚如とあるが「先啓目録」によれは阿佐布了海作とある。また円解著「改邪鈔随筆」には如道の著書とある
  20. 「真宗大系異義集」・P二二二
  21. 円解著「改邪鈔随筆」には真言立川流の影響のあることを指摘している。
  22. 大原性実著「秘事法門の研究」P二六~七には如道の著と伝えられるものの中に「心血脈鈔」も「他力信心聞書」も共に挙げてある。
  23. 中島覚寿著「異安心史」P五六には、「異義者の出づるは法義繁昌の間に於て、義解若くは安心に心を留むる余り起るのが普通で、当時の如きは異解者の出づるほど生命がなかったため」と述べている。
  24. 「本願寺史」第一巻 P二五四
  25. 「本願寺史」第一巻 P二五三に記載す
  26. 慧林著「御文興要」には四種とする
    (イ)十劫秘事 (ロ)不拝秘事 (ハ)高声念仏秘事 (ニ)善知識恃秘事 厳蔵著「五帖一部示珠指」には五種とす
    (イ)おがまず秘事 (ロ)善知識だのみ (ハ)但口称 (ニ)十劫邪義 (ホ)唯授一人秘事 中島覚寿著「異安心史」P五八~六四には四種とす
    (イ)十劫秘事 (ロ)不拝秘事 (ハ)知識帰命 (ニ)無信称名 住田智見著「異安心之研究」P二四一~二には七種を挙げてある
    (イ)十劫秘事 (ロ)不拝秘事 (ハ)知識帰命 (ニ)無信称名 (ホ)施物たのみ (へ)一益法門 (ト)踊り念仏 大原性実著「真宗教学史研究」第三巻 P二四二には諸説をふまえ更に大きく二つに分類されている
    (イ)観念系の異義 (ロ)律法系の異義
  27. 竜谷大学篇「蓮如上入研究」P一六〇
  28. 「帖外御文章」六五通(真聖全・三の四一一)
  29. 蓮如選とある。了祥は「浄興目録」に覚如上人と云を非し、「誓海の作とす」の註をつけている。(真宗大系 異義集P二三九)
  30. 末尾に「蓮如書之」とある(真宗大系 異義集 P二六)
  31. 奥書に、右此書名存覚上人山由門徒之所望御取也、干時文明九丁酉暮冬仲旬之項於燈火下炉辺拭老眼為末代流通書写之畢已上。春秋六十三歳。 弥陀ノ名フキヽウルコトノアルナラバ 南無阿弥陀仏トタノメミナヒト 蓮如とある(真宗大系 異義集 P六八)
  32. 真宗大系 異義集 P二三九「勧化大旨」の註参照
  33. 住田智見著「異義史の研究」P二一一参照
  34. 真聖全・三の九八四
  35. 住田智見著「異義史之研究」P二二二~二二五参照 笠原一男著「蓮如」P七〇参照
  36. 註の⑲参照
  37. 住田智見著「異義史の研究」P九九には如道系に属するものと見ている。大原性実著「秘事法門の研究」P三〇には「ただ本書の一写本の奥書に「大町邑専修寺開山如道印」とあるところより如道作として大切に伝承したものであると推せられる」とあるが一写本とはどれを指すか不明である。了祥の異義集所載のもの(真宗人系・異義集P二一三)には、如道の名は存せず。
  38. 大原性実著「秘事法門の研究」P二九
  39. 同右P二九
  40. 同右P三五
  41. 「心血脈鈔」には「己身の弥陀・唯身の浄土、己心の弥陀・唯心の浄土」といういい方をする。