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「称えるままに本願を聞く」の版間の差分

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   七五。禅僧弘海との問答(その一)
 
   七五。禅僧弘海との問答(その一)
  
 禅僧弘海曰く。予かって師に問う、私、浄土真宗の教に帰し、御講師に随い聴聞致せども、未だ心に聞こえ申さず、如何致すべく候やと。<br>
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 禅僧弘海曰く。予かって師に問う、私、浄土真宗の教に帰し、御講師に随い聴聞致せども、未だ心に聞こえ申さず、<kana>如何(いかが)</kana>致すべく候やと。<br>
師の仰せに、汝まづ聖教を熟覧せよと。<br>
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師の仰せに、汝まづ<kana>聖教(しょうぎょう)</kana>を熟覧せよと。<br>
即ち命の如く拝見候いしが、分義はわかれども、我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。再び如何せんと問いまいらす。<br>
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即ち<kana>命(めい)</kana>の如く拝見候いしが、分義はわかれども、我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。再び如何せんと問いまいらす。<br>
 
師曰く。よく聞くべしと。<br>
 
師曰く。よく聞くべしと。<br>
予問て云わく、よく聞くとは如何聞くべきや。<br>
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予問て云わく、よく聞くとは<kana>如何(いかが)</kana>聞くべきや。<br>
 
師曰く。骨折って聞くべし。<br>
 
師曰く。骨折って聞くべし。<br>
 
予云わく、骨折るとは、遠路を厭はず聞き歩くことに候や、衣食も思わず聞くことに候や。<br>
 
予云わく、骨折るとは、遠路を厭はず聞き歩くことに候や、衣食も思わず聞くことに候や。<br>
師曰く、然り。<br>
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師曰く、<kana>然(しか)</kana>り。<br>
 
予また問うて云わく、然らば、<kana>夫程(それほど)</kana>に苦行せねば聞こえぬならば、今迄の禅家の求法と何の別ありや。<br />
 
予また問うて云わく、然らば、<kana>夫程(それほど)</kana>に苦行せねば聞こえぬならば、今迄の禅家の求法と何の別ありや。<br />
 師呵して曰く、汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、よく思え、今度仏果をうる一大事なり。然るに切に求法の志なき者は、是れを聞き得ることを得んや、ああうつけもの哉と。<br>
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 師<kana>呵(か)</kana>して曰く、汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、よく思え、今度仏果をうる一大事なり。然るに切に求法の志なき者は、是れを聞き得ることを得んや、ああうつけもの<kana>哉(かな)</kana>と。<br>
予云わく、然らば身命を顧みぬ志にて、聞くことなりや。<br>
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予云わく、然らば身命を<kana>顧(かえり)</kana>みぬ志にて、聞くことなりや。<br>
 
師曰く、最も然り、切に求むる志なくして、何ぞ大事を聞き得んや。又曰く、常に間断なく聞くべしと。<br>
 
師曰く、最も然り、切に求むる志なくして、何ぞ大事を聞き得んや。又曰く、常に間断なく聞くべしと。<br>
予問いまいらするよう、夫はその志にて聴聞仕れども、法縁の常になきを如何致すべきやと。<br />
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予問いまいらするよう、<kana>夫(それ)</kana>はその志にて聴聞<kana>仕(つかまつ)</kana>れども、法縁の常になきを如何致すべきやと。<br />
 師その時に、何ぞ愚鈍なる事を云うぞ。法話なき時は、聞きたる事を常に思うべし。聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。又曰く。汝眼あり、常に聖教を拝見すべし、これまた法を聞くなり。若しまた世事にかかり合い、聞見常に縁なき時は、口に常に名号を称すべし、是れまた法を聞くなり。汝信を得ざるは業障の故なりさればいよいよ志を励まし、斯の如く常に心を砕き、よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に<kana>局(きわま)</kana>るなり、と。
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 師その時に、何ぞ愚鈍なる事を云うぞ。法話なき時は、聞きたる事を常に思うべし。聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。又曰く。汝<kana>眼(まなこ)</kana>あり、常に聖教を拝見すべし、これまた法を聞くなり。<kana>若(も)</kana>しまた世事にかかり合い、聞見常に縁なき時は、口に常に名号を称すべし、是れまた法を聞くなり。汝信を得ざるは<kana>業障(ごっ-しょう)</kana>の故なり さればいよいよ志を励まし、<kana>斯(かく)</kana>の如く常に心を砕き、よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に<kana>局(きわま)</kana>るなり、と。
  
 
   七六。禅僧弘海との問答(その二)
 
   七六。禅僧弘海との問答(その二)
  
 予(禅僧弘海)問うて云はく、法話を聞くことと、自ら聖教を読んで我が耳に聞くと云うこととは、有難く承わりぬ。但、念仏するを聞くと申すは、我れ称えて我が声を聞く事に候や。<br />
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 予(禅僧弘海)問うて云はく、法話を聞くことと、自ら聖教を読んで我が耳に聞くと云うこととは、有難く<kana>承(たま)</kana>わりぬ。<kana>但(ただ)</kana>、念仏するを聞くと申すは、我れ称えて我が声を聞く事に候や。<br />
 
 師大喝して曰く、汝何事をか云う。我が称える念仏と云うもの何処にありや。称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることを得ん。称えさせる人ありて称えさせ給う念仏なれば、<kana>抑(そもそ)</kana>もこの念仏は、何のために成就して、何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。<br />
 
 師大喝して曰く、汝何事をか云う。我が称える念仏と云うもの何処にありや。称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることを得ん。称えさせる人ありて称えさせ給う念仏なれば、<kana>抑(そもそ)</kana>もこの念仏は、何のために成就して、何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。<br />
 予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。心に思うよう。「我至成仏道、名声超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚」<ref>われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。  究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。『無量寿経』重誓偈の文。</ref>。また第十七の願に、我名を諸仏にほめられんとの誓いは、名号を信ぜさせんとの御意也。且つまた、常に聞くと申すことは、ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。<br>
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 予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。心に思うよう。「<kana>我至成仏道(がしじょうぶつどう)</kana>、<kana>名声超十方(みょうしょうちょうじっぽう)</kana>、<kana>究竟靡所聞(くきょうみしょもん)</kana>、<kana>誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)</kana>」<ref>われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。  究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。『無量寿経』重誓偈の文。</ref>。また第十七の願に、我名を諸仏にほめられんとの誓いは、名号を信ぜさせんとの<kana>御意(おん-こころ)</kana>也。<kana>且(か)</kana>つまた、常に聞くと申すことは、ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。<br>
あわれ、志の薄かりしことよと恥じ入り、今まで禅門に於いて、知識より、汝今をも知れぬ命なれば、晝夜十二時思惟して、この公案を拈底せよ、暫らくも忘るることを勿れ、と云われしことを思い浮べ、「聞思して遅慮するなかれ」との祖訓を、『見聞集』に盡し給いしことを感悟し、それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、朝夕は『三経』、『正信偈』、『和讃』、『御文』を拝読し、また常恒に念仏を拝聴し奉るに、我れ今称うる念仏には、御主人ありて称えさせ給う也。然れば唯称えさせるを詮としたまはず。称えさせ給うは、助け給はん為めに、一声をも称えさせて下さるることよと思えば、それより称えることに就いて、尊く称えさせて下さるる身となりしなり。このこと今に耳にありて、忘るる能わずと申されけり。
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あわれ、志の薄かりしことよと恥じ入り、今まで禅門に於いて、知識より、汝今をも知れぬ命なれば、<kana>晝夜(ちゅう-や)</kana>十二時思惟して、この公案を<kana>拈底(ねん-てい)</kana>せよ、暫らくも忘るることを<kana>勿(なか)</kana>れ、と云われしことを思い浮べ、「聞思して遅慮するなかれ」との祖訓を、『見聞集』に盡し給いしことを感悟し、それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、朝夕は『三経』、『正信偈』、『和讃』、『御文』を拝読し、また<kana>常恒(つね)</kana>に念仏を拝聴し奉るに、我れ今称うる念仏には、御主人ありて称えさせ給う也。然れば<kana>唯(ただ)</kana>称えさせるを詮としたまはず。称えさせ給うは、助け給はん為めに、一声をも称えさせて下さるることよと思えば、それより称えることに就いて、尊く称えさせて下さるる身となりしなり。このこと今に耳にありて、忘るる<kana>能(あた)</kana>わずと申されけり。
  
 
『香樹院語録』
 
『香樹院語録』
 
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2016年1月21日 (木) 15:07時点における版

   七五。禅僧弘海との問答(その一)

 禅僧弘海曰く。予かって師に問う、私、浄土真宗の教に帰し、御講師に随い聴聞致せども、未だ心に聞こえ申さず、如何(いかが)致すべく候やと。
師の仰せに、汝まづ聖教(しょうぎょう)を熟覧せよと。
即ち(めい)の如く拝見候いしが、分義はわかれども、我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。再び如何せんと問いまいらす。
師曰く。よく聞くべしと。
予問て云わく、よく聞くとは如何(いかが)聞くべきや。
師曰く。骨折って聞くべし。
予云わく、骨折るとは、遠路を厭はず聞き歩くことに候や、衣食も思わず聞くことに候や。
師曰く、(しか)り。
予また問うて云わく、然らば、夫程(それほど)に苦行せねば聞こえぬならば、今迄の禅家の求法と何の別ありや。
 師()して曰く、汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、よく思え、今度仏果をうる一大事なり。然るに切に求法の志なき者は、是れを聞き得ることを得んや、ああうつけもの(かな)と。
予云わく、然らば身命を(かえり)みぬ志にて、聞くことなりや。
師曰く、最も然り、切に求むる志なくして、何ぞ大事を聞き得んや。又曰く、常に間断なく聞くべしと。
予問いまいらするよう、(それ)はその志にて聴聞(つかまつ)れども、法縁の常になきを如何致すべきやと。
 師その時に、何ぞ愚鈍なる事を云うぞ。法話なき時は、聞きたる事を常に思うべし。聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。又曰く。汝(まなこ)あり、常に聖教を拝見すべし、これまた法を聞くなり。()しまた世事にかかり合い、聞見常に縁なき時は、口に常に名号を称すべし、是れまた法を聞くなり。汝信を得ざるは業障(ごっ-しょう)の故なり さればいよいよ志を励まし、(かく)の如く常に心を砕き、よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に(きわま)るなり、と。

   七六。禅僧弘海との問答(その二)

 予(禅僧弘海)問うて云はく、法話を聞くことと、自ら聖教を読んで我が耳に聞くと云うこととは、有難く(たま)わりぬ。(ただ)、念仏するを聞くと申すは、我れ称えて我が声を聞く事に候や。
 師大喝して曰く、汝何事をか云う。我が称える念仏と云うもの何処にありや。称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることを得ん。称えさせる人ありて称えさせ給う念仏なれば、(そもそ)もこの念仏は、何のために成就して、何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。
 予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。心に思うよう。「我至成仏道(がしじょうぶつどう)名声超十方(みょうしょうちょうじっぽう)究竟靡所聞(くきょうみしょもん)誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)[1]。また第十七の願に、我名を諸仏にほめられんとの誓いは、名号を信ぜさせんとの御意(おん-こころ)也。()つまた、常に聞くと申すことは、ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。
あわれ、志の薄かりしことよと恥じ入り、今まで禅門に於いて、知識より、汝今をも知れぬ命なれば、晝夜(ちゅう-や)十二時思惟して、この公案を拈底(ねん-てい)せよ、暫らくも忘るることを(なか)れ、と云われしことを思い浮べ、「聞思して遅慮するなかれ」との祖訓を、『見聞集』に盡し給いしことを感悟し、それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、朝夕は『三経』、『正信偈』、『和讃』、『御文』を拝読し、また常恒(つね)に念仏を拝聴し奉るに、我れ今称うる念仏には、御主人ありて称えさせ給う也。然れば(ただ)称えさせるを詮としたまはず。称えさせ給うは、助け給はん為めに、一声をも称えさせて下さるることよと思えば、それより称えることに就いて、尊く称えさせて下さるる身となりしなり。このこと今に耳にありて、忘るる(あた)わずと申されけり。

『香樹院語録』


  1. われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。 究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。『無量寿経』重誓偈の文。