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第十八願文

提供: 本願力

2017年4月7日 (金) 07:37時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

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浄土真宗において本願(ほん-がん)といえば、ひろくは親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)が「真実の教」であると示して下さった『大無量寿経(だい-むりょうじゅ-きょう)』に説かれる阿弥陀仏(あみだぶつ)となる前の法蔵菩薩(ほうぞう-ぼさつ)の四十八願を指す。しかし根本の願という意味で本願という場合は『大無量寿経』に説かれる四十八願の第十八番目の「至心信楽の願」をいう。衆生(=生きとし生けるもの)を浄土へ往生させて、さとりを得させようと誓う第十八願である。仏教の目的は釈尊と同じさとりを獲ることであり、浄土教の歴史は、この第十八願を基底とし立脚し、さとりをめざす仏教である。願という漢字は、和語では「ねがい」という、かくあれかし、こうなって欲しいという意味であるが、時代を下るにつれ、そしてまた日本人が西欧の「社会」という概念を受け容れた頃から本願という言葉の持つ意味の変質がはじまった。第十八願の、衆生をさとりの世界である浄土へ往生させようという、阿弥陀仏の願いという本願の意味が世俗的社会の言葉の中へ拡散して、自らの煩悩に基づく「欲望という願い」と混同されているのであろう。いみじくも浄土というリアリティを感じることの出来ない、現代人である真宗の坊さんが、 Society(ソサイエティ)の翻訳語である社会という言葉によって、仏教語の、変化し移り変り、無常で苦を免れない迷いの世界、という意味の「世間」という語で示される世界を「願われて生きる」という耳あたりのよい言葉で表現するようなものである。浄土教が取り組んできた、死ぬことの意義を否定して往生浄土の真実の宗のご法義を語るようなものである。

 安養浄土の荘厳は
  唯仏与仏の知見なり
  究竟せること虚空にして
  広大にして辺際なし

原文:

設我得仏(せつが-とくぶつ) 十方衆生(じっぽう-しゅじょう) 至心信楽(ししん-しんぎょう) 欲生我国(よくしょう-がこく) 乃至十念(ないし-じゅうねん)若不生者(にゃくふ-しょうじゃ) 不取正覚(ふしゅ-しょうがく)唯除五逆(ゆいじょ-ごぎゃく )誹謗正法(ひほう-しょうぼう)

訓点:

設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲我国 乃至十念。若不生者 不正覚。唯除五逆誹謗正法

読下し:

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ。 ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

現代語:

わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを(そし)るものだけは除かれます。

意 訳

たとえ私が、仏陀(真実に目覚めたもの)となりえたとしても、もし生きとし生ける全てのものが、ほんとうに(至心)疑いなく(信楽)私の国に生まれる事が出来るとおもうて(欲生我国)、たとえわずか十遍でも私の名を称えながら(乃至十念)生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら(若不生者)、私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がない(不取正覚)のだ。