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華厳教の五教十宗判

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華厳教の五教十宗判  竹村牧男著『華厳とは何か』より


華厳教の五教十宗判

 こうして中国においては種々の教相判釈が説かれ、智顎はそれらをさらに整理、再組織したのでしたが、その智顎の教判をも視野に入れてもう一度、新たな一切の仏教の把握を試みたのが、華厳宗第三祖の賢首大師法蔵でした。

 その主著の一つ『五教章』は『華厳経』を中心・最高とした新たな教相判釈、華厳の五教十宗判からみた仏教はどのようなものか、詳しく解説したものです。法蔵はそれまでのあらゆる教相判釈を研究して自らの教相判釈を編んだのであり、その教判は、教判の教判という性格をも有するものです。以下、この華厳の五教十宗判についてやや詳しくみていくことにしましょう。

 まず、五教判の名称・順序は次のようです。

小乗教・大乗始教・終教・頓教・円教

一方、十宗判のほうは、我法倶有宗・法有我無宗・法無去来宗・現通仮実宗・俗妄真実宗・諸法但名宗・一切皆空宗・真徳不空宗・相想倶絶宗・円明具徳宗で、上述の五教と十宗とを対応させると、次のようになります。

小乗教
① 我法倶有宗
② 法有我無宗
③ 法無去来宗
④ 現通仮実宗
⑤ 俗妄真実宗
⑥ 諸法但名宗
⑦ 大乗始教───切皆空宗
⑧ 終教─────真徳不空宗
⑨ 頓教─────相想倶絶宗
⑩ 円教─────円明具徳宗

 ここにはまだ密教は現れていませんが、少なくとも法蔵が見わたせた仏教のほぼ一切を網羅していることが知られるでしょう。以下、五教判に沿いつつその内容をみていきます

小乗教の立場

 はじめに小乗教です。前にもふれたように、小乗という言葉は大乗仏教徒の側がいっているもので、いわれた側がそのことを認めているわけではありません。むしろ自分たちは、釈尊以来の正系を脈々と保持している正統の者であると自任していることと思います。しかし、大乗仏教運動を始めた者たちは、従来の仏教の一定の部分に不十分なものを認め、その徒を小乗と称したのでした。

 五教判の小乗教は、十宗判との対応によって知られるように部派仏教の教えが中心となります。中でも、これを代表するのは、説一切有部の教え、十宗判の第二、法有我無宗でしょう。
説一切有部の教えは、世親の『倶舎論』にたいへん要領よくまとめられていて、仏教のアビダルマ(法の分析、世界の分析)の基本となるものとなっています。そこでは、五位七十五法という、七十五のダルマの分析が説かれます。

 大乗仏教の唯識・法相宗は、五位百法のダルマを説いて、大乗のアビダルマを展開しますが、その理解のためにも、説一切有部の五位七十五法を理解することは、とても重要なことです。
よく「唯識三年、倶舎八年」といわれるのですが、この句は、『倶舎論』を八年かけて勉強しておけば、唯識は三年ですむということを意味しているといいます。

 説一切有部は、色・心王(しんのう)・心所(しんじょ)・心不相応・無為の五つのグループの、合わせて七十五の法を説くのでした。この場合の法とは、「任持自性、軌生物解」と定義されるもので、千変万化していく世界にあって自分の特質を維持し続けるもののことです。ですから法とは、世界を構成している基本的な単位となるものです。物質現象・精神現象など、すべての現象界の中で、変わらずに自分自身の特性を維持し続けるものが法で、その内容は次ページの表のようです。

 これらの法は縁起によって組み合わさり、一定期間、存続したりします。諸法の縁起による集合・離散によって世界や自己としての現象があるのみというのです。その場合、説一切有部では、法そのものは三世に実有であり、法体恒有であるともいわれ、いわばダルマが実体的存在として考えられているのです。

 そして世界にはこれらの法が存在するだけであり、決して常住で単一でしかも主体的存在である(常・一・主・宰)ような我(アートマン)は存在しないのだと説きます。この立場を「法有我無」ないし「我空法有」とまとめることができます。「我空法有」というこの語句に、

(説一切有部の五位七十五法)

心王
意・識
心所
大地法
受・想・思・触・作意・欲・慧・念・勝解・三摩地
大善地法
信・勤・慚・傀・無貪・無瞋・不害・軽安・不放逸
大煩悩地法
無明・放逸・解怠・不信・惛沈・掉挙
大不善地法
無慚・無傀
小煩悩地法
忿・覆・慳・嫉・悩・害・恨・諂・誑・憍
不定地法
悪作・睡眠・尋・伺・貪・瞋・慢・疑
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・色境・声境・香境・味境・触境・無表色
心不相応
得・非得・同分・無想果・無想定・滅尽定・命根・生・住・異・滅・名身・句身・文身
無為
択滅無為・非択滅無為・虚空無為

小乗教の代表的な考え方をみることができるでしょう。

 このように、小乗仏教は我の空を説きます。これは、私たちがありもしない常住の自我の存在を認めてこれにしがみつき、執著しているところに諸々の苦しみの原因があるとみたからです。この苦悩から救済するために、執著している対象の自我が実は虚妄なものにすぎないことをこのようなかたちで提示して、我執に基づく苦しみから解放させようとするわけです。しかし法(ダルマ)は有と見なされており、そこがまだ不十分な点であると大乗仏教は見るのでした。

小乗各宗の諸相

小乗教の代表的な立場は以上のようですが、実際には部派によってさまざまな思想が語られ、大乗の一切法空を説く立場に近いものもあったようです。十宗判のうちでは、第一から第六までが小乗であり、それらについてざっと見てみましょう。

 第一は「我・法ともに有る」と説く立場です。仏教は無我が旗印で、我も有ると説くというのはどうにも腑に落ちないでしょうが、生死輪廻するものは何かという問題に対するひとつの解答として、特殊な我は有るとする部派もありました。
犢子部では、「非即非離薀の我(個体の構成要素としての五薀と同じでもないが異なるのでもない何らかの我(フドガラ))」を説き、あるいは有為法でも無為法でもない、不可説の存在としての我を説いたともいいます。もちろん、通常私たちが執著している自我については、否定したわけです。

 次に、第二の「法有我無宗」は、さきほどすでに述べた説一切有部の説のことです。我執を断つと、生死輪廻を脱して涅槃の世界に入ります。しかし一切法空を知らないので、生死輪廻の世界にまた戻ってきてその世界にとらわれず、自由に活動するということができません。ただ涅槃に安らって自己満足で終わってしまいます。この点が大乗仏教から批判される最大の点です。

 次の「法無去来宗」は、大衆部などの説だといいます。説一切有部では、法を三世に実有とみました。過去の法も未来の法も現に存在していると主張し、その立場で世界を説明したのです。しかし、過去や未来が、現在に存在しているとはふつう考えられません。この立場では、有為法は現在の法のみ有るのであり、過去や未来の法は体・用ともにないとみました。おのずから、法空の意義をいくらかは含むものとなります。

 次の「現通仮実宗」では、現在の法の中にも実質的なものと仮に立てられているのみのものと双方あるとして、実法と仮法とを見究めていこうとするものです。世界を構成している実質が何であるのかを、より狭めて特定しているとみてよいでしょう。これは、説仮部の他、『成実論』の立場ともいいます。

次の「俗妄真実宗」は、現在の法であれ、世間を構成しているものはすべて仮法で虚妄であり、ただ覚りの世界のみが真実であると主張するもので、説出世部の説といいます。覚りの世界というのは出世の法とされているもののことで、その出世の法とはもう少し詳しくいうと、出世間の因果、すなわち諸々の修行とその成果としての涅槃、換言すれば四諦の中の道諦と滅諦とが含まれます。

最後の「諸法但名宗」は、世間であれ出世間であれ(有漏であれ無漏であれ)一切の術語で語られているものは、ただ言葉のみがあって対応する本体はないとみるものです。これは一切法空を説くのとかなり近いものです。ただしここでは、理論的に空を説くのみであって、その空のあり方を体得しつつ説いているわけではないとされます。あるいは、ある物を分析・分解して空と説くもので、そのものそのままに空と説く立場ではないとされます。これは一説部の説といいます。一切の法をただ仮名と説くので、一説部というのだそうです。

 以上、小乗教の教判内容を十宗判に基づいてみてきましが、仏教の世界観の基本はアビダルマにあり、その法と我というものが絶えず意識されつつ教理が構成されていることが知られたことでしよう。

大乗始教の立場①ー唯識

 次に、五教判の第二は大乗始教です。これには、「相始教」と「空始教]の二つがあります。 簡単にいえば、相始教は唯識、空始教は般若中観で、いずれも我だけでなく法(ダルマ)も空と説くものです。一切法空を説くことこそ大乗の旗印ですが、その空ということを否定的に、消極的に示すだけですと、実はそこにある肯定的な側面、積極的な方面を見落としてしまうことになります。そこでその限り、この教えもまだ始教として位置づけられているのです。

 まずはじめに、「相始教」の唯識について簡単に説明しましょう。所依の経典は、『解深密経』です。また、『聴伽師地論』や『摂大乗論』『唯識三十頌』といった論書があります。法相宗の根本聖典は、『唯識三十頌』に対する詳しい注釈書の『成唯識論』です。

 唯識は、八つの識を説きます。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識、それに末那識と阿頼耶識です。はじめの六つは、五感すなわち五つの感覚と、意識とであり、わかりやすいでしょう。末那識は恒常的な我執の識で、しかも意識が起きていなくてもこの識ははたらいているといいます。阿頼耶識は蔵の識であり、過去一切の経験を貯蔵しており、また、他の七つの識(七転識)が生まれるもととなっています。

 実は唯識では、私たちが見たり聞いたりしているもの、各識の対象はその識自身の中にあるといいます。色は眼識の中に、声(音)は耳識の中に、一切の知の対象は意識の中にあるというのです。こうして八識の中に色・音・匂いなどがあることになります。八識はすべて刹那刹那に生じては滅し、生じては滅ししながら相続していくとも語られます。阿頼耶識と七転識が刹那滅の中に縁起の関係を結びつつ流れていくというわけです。その八識の世界において数々の物や自我が想定される、しかし、実体(常住不変)としてのもの(法)も、常・一・主・宰の我もそこには一切存在しないのだと論じるわけです。つまり、八識を語りつつ我・法の空を説くわけで、ここに一切法空の立場が強調されます。

 前にもいいましたが、唯識は大乗のアビダルマの性格を持ち、五位百法を説きます。五位とは、心王・心所・色・心不想心・無為というもので、この中、ふつう識というのは心王のことです。しかし五位を説くのですから、ダルマ(法)として識以外(心王以外)のものもけっこう説くわけです。

 では、このことと唯識ということとは、どのような関係になるのでしょうか。まず、無為法は六つありますが、これは真如を別々に呼んでいるだけで、実は真如一つとなり、それは法性ともいわれるもののことです。この真如・法性は有為法の本質・本性のことですから、有為法に帰させるごとができます。次に不相応法は、色法と心王・心所の上に仮に立てられたもので、実質のあるものではありません。さらに色法は、心王・心所の中の対象面に見出されるべきもので、心王・心所と別のものではありません。
こうして、心王・心所が残るのですが、唯識は、実は唯だ心王(識)のみ有るという説ではなく、心王とともにはたらく心所は有るという説なのです。ですから唯識とは実は唯心王・心所ということなのです。そういうさまざまな心王・心所の組み合わせが、そのつどそのつど変化しつつ相続していく、その各々の心王・心所に色・音・匂いなどが現れており、その流があるだけであって、そこに実体としての我も法も存在しないというのが唯識の説です。

前にもいいましたが、心王・心所は刹那滅といって、すべて刹那刹那、生じては滅し、生じては滅し、しているものなのです。ですから唯識というその識(心王・心所)それ自体、自性を持たない、空なるものなのです。しかしその識を立てて世界のありようを説明していくので「相始教」と呼ばれます。

大乗始教の立場②ー般若中観

一方、「空始教」は『般若経』、そして龍樹の中観派の教えが相当します。『般若経』は『八千頌般若経』『二万五千頌般若経』『金剛般若経』などを総称していうもので、有名な『般若心経』もその中の一つといってよいでしょう。

 総じて『般若経』は、とにかく一切法は空であると示し、したがって一切に執著するなと説きます。空とはある事象にその本体のないこと、それが実体ではないことを意味します。なぜ空なのかという説明は、とりわけ初期においては必ずしも詳しくは説かれませんが、一つの説明は、縁起のゆえに無自性、無自性のゆえに空というものでしょう。すべては他との関係の中にあってはじめて成立しているがゆえに、自体を持たない、本体を持たない、ゆえに実体的存在ではないというのです。

 一方、龍樹は『中論』において、言語(特に命題)の分析を通じて言語と不可分の実体観を解体していきます。私たちは言葉を用いて、何かを主語として立ててこれに述語しますが、このとき主語に対応するものが対象化され、また一つのものとして固定化されます。松は青いというと、そこに松という一つのあるものの実体視が含まれてしまうわけです。しかし、もし、実際にはそのときそのときの事の世界しかないのだとしたら、そこに実体を捉えてしまうことは事実の世界を離れてしまうことになります。龍樹はそのことを問題としていくわけです。

 ほんの一例をあげますが、「新幹線が走る」ということは正しいでしょうか。まず、止まっている新幹線は、あくまでも止まっていますから、走るとはいえません。走っている新幹線はすでに走っているのですから、それがさらに走るということはありません。このように、実は「新幹線が走る」という命題は矛盾をはらむしかないのです。

 もう一つあげましょう。「私は見る」といいます。この場合の「私」は、見るなどの作用を持たないもの、基体として考えられたものにならざるをえません。では、あらゆる作用を持たない「私」は、どこにあるのでしょうか。一方、私に「見る」作用が本来ないとしたら、「見る」作用のみがどこかになければ、私が見ることは成立しません。はたしてそんなことはあるのでしょうか。ですから私と見る作用とは異なるとは言いえず、さりとて一つとも言いえません。なぜなら一つとすると、見る作用がないときは私もなくなってしまうからです。

 このことは、走る・走らない、同じ・異なるなどという、対立する二元的価値だけでは世界の真実は記述しえないということです。しかし言語は、有る・無い、同じ・異なるなど、あらゆる二元対立の論理に貫かれています。そして同一律・矛盾律・排中律などの論理の中で世界は認識されます。

 しかし、事実そのものはそのような二元的価値を超えたところにあります。早い話が、私たちが見たり聞いたりしている色・音などは、有る(無くならない)ともいえませんし、無いともいえません。そこで、龍樹は、二元対立の論理に貫かれた言語世界を徹底して解体していきます。これを象徴するのが、『中論』、の冒頭に掲げられている八不の説、「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出」です。こうして、戯論寂滅した世界、かえって真実の生成している世界にひとたびは出会わせようとするのが、『中論』の立場です。

 このように、中観派の教えは八不中道に代表され、その内容は決して消極的でもないのですが、どうしてもその教説は否定的な表現に傾きがちです。そこで、この立場にとどまるものを華厳宗では始教として、大乗仏教の初歩に位置づけるのです。

 なお、十宗判においては、「一切皆空宗」として、

謂く大乗始教に、一切諸法は皆悉く真空なりと説く。然るに情外(じょうげ)に出て分別無きが故に。般若等の如し。

とあります。無分別のところに空を体得している世界を説くものという意味です。ここでは、相始教は省いて空始教のみを掲げています。もっとも、唯識の教理も実に無分別智へと進ませることにその意味があるのでした。

終教の立場

次に「終教」です。終教は、覚りの世界において証される真実の世界の肯定的な側面を積極的に説くものです。空ということを通じて、私たちの真実の生命の世界を証することができますが、その世界は、さまざまなすばらし性質を有し、優れた性能を発揮します。 しかもその世界は、自己に忽然として現れるものでなく、もとよりあったと知られます。それらはただ煩悩に覆われていただけだと知られるのです。

 そのように、終教は人の生命の中に本来備わっていたすばらしい性質を積極的に指摘しようとする立場であり、この思想は一般に「如来蔵思想」といわれます、如来蔵とは、人が如来の胎児を蔵しているという説です。 本来、人は仏の子だというのです。このよう教えは『勝鬘経』『涅槃経』『楞伽経』などにおいて説かれていますが、実はその淵源は、前にも申しましたように、他ならぬ『華厳経』に求められます。すなわち、『華厳経』「宝王如来性起品」には、次のようにあります。

仏子よ、如来の智慧、無相の智慧、無礙の智慧は、まどかに衆生の身のうちに在るけれども、ただ愚癡の衆生は顛倒のおもいに覆われて、それを知らず、見ず、信心を生じないのみである。そのとき如来は無礙のきよらかな天眼をもって、一切衆生を観察したまい、観察しおわって次のよううに仰せられる。---「奇なるかな、奇なるかな、衆生はなにゆえに、その身のうちに如来のまどかな智慧を抱いておって、しかもそれを知見せぬのであろう?
自分はよろしく彼等衆生におしえて聖道をさとらしめ、永(とこしな)えにあらゆる妄想顛倒の垢縛をはなれしめ、如来の智慧のまどかにその身のうちに在って、ほとけと相違しないことを自覚せしめよう」と。
そこで如来は即座に彼等衆生におしえて、八聖道を修めしめ、虚妄顛倒を棄てしめたもう。衆生がすでに顛倒を離れてしまえば、如来の智慧をそなえて如来と等しく衆生を利益する。[1]

 ここに如来が衆生を観察すると、不思議にも(奇なるかな、奇なるかな)、その衆生は如来の智慧をそっくり備えていることが知られたとあります。覚りの眼から見ると、実は人々は仏の智慧を有しているというのです。それは決して空ということと矛盾することではなく、空というあり方の中にある尽きせぬはたらきの内容なのでしょう。

 この『華厳経』の一節がもととなり、『如来蔵経』や『不増不減経』などの如来蔵経典がつくられ、のちには『宝性論』という論書もつくられたのでした。華厳宗ではこの如来蔵を説く思想のほうが、単に空を説く思想よりさらに深いとみたのです。それは、一切法空を通過したあとのものなのでした。

十宗判では、この終教を「真徳不空宗」と呼び、

謂く、終教なり。諸経に一切の法は唯だ是真如なりと説く、如来蔵の実徳なるが故に、自体有るが故に、性徳を具するが故に。

とあります。如来蔵とは、煩悩にまみれた真如・法性(在纏の法身)のこと、それを無と見ず、しかもそこに無量のすばらしい性質・性能があるとみていくわけです。

頓教の立場

さて、華厳宗の五教判および十宗判では、決して如来蔵を説く立場が究極なのではありません。その次に「頓教」の立場があります。五教を「頓」と「漸」(始教・終教)とに分けることがありますが、そこで「頓」については、

言説頓に絶し、理性頓に顕れ、解行頓に成じて、一念不生なる即ちこれ仏等なり。

と説明しています。漸々の修行を経ず、即今の一念に仏を証すというもので、それは不生ということに真に契ったとき起きることといいます。

始教も終教も、たとえ八不をいい、如来蔵を説くとしてもそれは説明の世界で、その理論自体は対照的に理解されるものとなっています。しかしこの頓教に至っては、「今・ここ」で、不生ということの中で真実の主体を証するところに、より深い真実があるとするものです。
一念不生というのは、むしろ生・不生を超えた絶対の生の世界のことでしょう。それは、真に対象的判断を超えたとき証されるはずです。

この立場は、『維摩経』の維摩の一黙、『大乗起信論』の離言真如などに求められています。

一切の法は本来自正にして言説を待たず、観智を待たざるを以てなり。浄名(維摩)の黙を以て不二を顕わす等の如し。……

とあります。十宗判では、「相想倶絶宗」ですが、

頓教の中の絶言の教、絶言の理を顕す等の如し。浄名の黙理等の如し。之に準ぜよ。

とあります。内容は今述べたことと変わりありませんが、その宗名、相想倶絶というところに、主ー客の分裂を超えたところの自覚を指示していることが注目されます。

この頓教は事実上、禅宗の立場と近いものです。禅はインドから菩提達磨が中国に伝えたといわれていますが、中国人自身の国民性の中で育くまれた要素が多分にあります。禅宗の代表的な書物に『無門関』があり、その第一則は「趙州無字」の公案です。

趙州和尚、因みに僧間う、「狗子に還って仏性有りや」。州云く、「無」。

この「無」は有る・無いを超えた無だといいますが、この無字こそ、一念不生のところでしょう。日本の盤珪禅師は、激烈な修行の果てに、一切は不生で調う」と覚ります。以後はひたすら不生の仏心を直指してやみませんでした。

実は不生ということは、仏教思想史を貫いて、きわめて重要であると思います。大乗仏教の八宗の祖師ともいわれる龍樹の『中論』冒頭の「帰敬偈」は、前に見たように八不で示されるのでしたが、それも最初の不生に究まることでしょう。

浄土教でも曇鸞は、「往生は無生の生」だといっています。また密教では古来、「阿字本不生」といって、世界の根本を象徴する阿字の本質を本来不生のところにみるのでした。教相を否定することの多い禅宗はそこを端的に証しようとするもので、華厳宗の教判でいうと頓教に比定されるのでした。

円教──華厳の立場

さて、最後に「円教」です。円教とは、円満な教え、完全な教えのことでしょう。これはもう『華厳経』の教え以外にないのですが、いったい『華厳経』のどのような教えが完全な教えなのでしょうか。 十宗判によれば、「円明具徳宗」であり、

謂く、別教一乗の主伴具足無尽自在所顕法門の如き是れなり。

とあります。主伴具足・無尽自在ということが円教の世界のようです。要は、一念不生から一転して、現実世界の無限の関係性を説くものが円教だというのです。その無限の関係性、すなわち重重無尽の縁起のことについては、相即相入とか、主伴具足とか、順逆自在とか、重重無尽とか、さまざまに表現されてきます。時間的にも空間的にも、多彩な関係性がそこに分析されてきます。

その内容は、たいへん興味が持たれますが、本書においては今後そのいくつかの側面を何回かに分けて詳しくお話ししていくわけですので、今、その内容はそれらにゆずることにしましょう。

以上、華厳宗の教相判釈、五教十宗判をみてきました。仏教には実にさまざまな教えがありましたが、華厳宗ではこのようなかたちで一切の仏教を見わたしているのです。

私がいちばん大事なことと思うのは、空思想も如来蔵思想も、いったん「一念不生即是仏」の頓教において否定されることです。そこでは、あらゆる対象的な判断を超えて主体そのものを証するのであり、このプロセスを経て、華厳の世界が出てくることを忘れることはできません。

禅宗では、「大死一番・絶後蘇息」といいます。「無一物中無尽蔵、花有り、月有り、楼台有り」といいます。否定を主体の底に証するとともに、どこまでも展開していく現実世界に入ってくる。ここに華厳仏教の大きな意味があります。そこを華やかにも、重重無尽の関係として説いていくのが華厳の思想なのでした。