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親鸞における信心の智慧について

提供: 本願力

親鸞における信心の智慧について

相愛学園 紅楳英顕
(日本仏教学会年報第73、2008年6月)

はじめに

 今年度の本学会の共同研究テーマは「仏教と智慧」である。周知のように智慧は原始仏教以来重視された仏教の本質というべきものである。仏道の基本行である八正道・三学・六波羅蜜の中におかれているものであり、涅槃(悟り)を完成させるための最も重要なものである。
 親鸞は『末灯鈔』に

故法然聖人は「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候しことをたしかにうけたまはり候(真聖全二の六六五)

と述べている。これは『西方指南抄』巻下本、二一、浄土宗大意に

聖道門の修行は智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は愚癡にかへりて極楽にむまると(真聖全四の二一九)

とあるものを承けたものと思われる。  法然は『和語灯録』巻一、三、往生大要鈔には

われらは知恵(慧)のまなこしゐて、行法のあしおれたるともがら也。聖道難行のさかしきみちには、すべてのぞみをたつべし。(同上五六九)

と述べ、また『和語灯録』巻五、二四、諸人伝説の詞には

仏教おほしといへども、詮ずるところ戒・定・慧の三学をばすぎず、(中略)こゝにわがごときはすでに三学のうつわ物にあらず、(同上六七九)

等と述べている。この法然の意を忠実に継承し、自力で智慧をみがく道を棄てた親鸞であるが、『正像末和讃』に

釈迦・彌陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ
智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか 涅槃をさとらまし(真聖全二の五二〇)

と智慧の重要性を述べているのである。
 以下親鸞における智慧、特に信心の智慧について考察することにする。

一、雑行を棄てて本願に帰すということ

 周知のように親鸞は『教行信証』「化土巻」に

然るに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。(真聖全二の二〇二)

と述べているように、二十九歳の時、法然の弟子となり、聖道門の自力諸行の道を棄てて浄土門の他力本願念仏の道に帰したのである。即ち自力によって智慧を極めて涅槃をえる仏道を棄て、愚者になりて本願他力によりて往生する仏道を歩んだのである。親鸞が「愚者になりて往生する」ということは、いうまでもなく、その目的とするところは『教行信証』「証巻」、「真仏土巻」に示されているように、光明無量・寿命無量の彌陀同体の無上涅槃をえることなのである。前掲『正像末和讃』に「信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし」とあるように自力によって智慧を極めて涅槃をえるのではないが、決して仏道の根本である智慧を排除しているのではない。本願力回向(他力回向)の信心の智慧によって涅槃を得る仏道を述べているのである。
 『唯信鈔文意』に

大小の聖人善悪の凡夫みなともに自力のの智慧をもては大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは智慧のひかりにてましますゆへに、この仏の智願海にすすめいれたまふなり。(真聖全二の六四〇)

とあるように、本願(海)を智願(海)ともいい、また『唯信鈔文意』には

選択不思議の本願・無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心というなり。金剛心ともなづく。(真聖全二の六四二)。
愚縛の凡夫、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の誓願広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(真聖全二の六四六)。

等とあるように、名号を「無上智慧の尊号」、「広大智慧の名号」と名号を智慧とし、これを信ずることが信心であり、無上大涅槃にいたる道であるとしているのである。
 また信心とは『教行信証』「信巻」三一問答に

問う。如来の本願已に至心信楽欲生の誓を発したまへり、何を以の故に論主一心と言う也。愚鈍の衆生解了易ら令めむが為に彌陀如来三心を発したまふと雖も涅槃の真因は唯信心を以てす。この故に論主は三を合して一と為せる歟。(真聖全二の五九)

と述べて、三心が即一心であることは愚鈍の衆生の解了(『浄土文類聚鈔』では覚知[1]〈真聖全二の四五〇〉)易ら令めんがためであり、そして一心は信楽(信心)一心であり、その相は「疑蓋无雑」、「疑蓋无有間雑」(真聖全二の五九以下)と述べ、『一念多念文意』には

信心は如来の御ちかひをききてうたがふこゝのなきなり。(真聖全二の六〇五)

と述べている。
 このように信心とは機の心相からいえば「本願を信じて疑わない心」である。そして前掲のように「涅槃の真因は唯信心を以てす」(真聖全二の五九)、また「『教行信証』「行巻」には「正定之因は唯信心なり」(真聖全二の四五)、「化土巻」には「報土の真因は信楽を正とす」(真聖全二の一五四)。等とあり、『正像末和讃』には

不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまり 信心の正因うることはかたきがなかになをかたし(真聖全二の六〇六)。

とあるように、この信心(信楽)・「本願を信じて疑わない心」が涅槃の真因(報土の因)とするのである。親鸞においては仏智を信ずるということと本願を信ずることとは同義であるが、それが信心であり、その信心の体は名号であり、智慧なのである。そしてそれがまた『正像末和讃』に

彌陀智願の回向の 信楽まことにうるひとは 摂取不捨の利益ゆへ 等正覚にいたるなり(真聖全二の五一九)

とあるようにその信心が彌陀智願の回向(本願力回向、他力回向)の信心なのであり、その広大なる徳として「信巻」一念転釈(真聖全二の七二)には専心、深心、深信、堅固深信、決定心、無上上心、真心、相続心、淳心、憶念、真実一心、大慶喜心、真実信心、金剛心、願作仏心、度衆生心、大菩提心、大慈悲心等が述べられているのである。
 このように親鸞における信心とは機の心相は本願を信ずる心であるが、それが彌陀の本願力回向による智慧であり、涅槃の真因なのである。そして前掲の『唯信鈔文意』に「大小の聖人善悪の凡夫みなともに自力の智慧をもては大涅槃にいたることなければ」と述べているように、「大小の聖人」も自力に智慧では大涅槃にいたることはできないというのである。親鸞が「行巻」に「誓願一仏乗」(真聖全二の三八)と述べ、『末灯鈔』に「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(真聖全二の六五八)と述べているのはこの意味からのことであろう。

二、信心の智慧と仏恩報謝

『教行信証』「信巻」に

金剛の真心を獲得すれば横に五趣八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。(真聖全二の七二)

とあり、八番目に知恩報徳の益が述べられ、最後の十番目に総益の入正定聚の益が述べられている。「信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」とは『正像末和讃』(八十五歳~八十六歳作)[2]にあるものであり、晩年のものであるが、信心獲得することにより、仏恩報謝(知恩報徳)をする身になることは『教行信証』(七十五歳頃一応完成)にすでに述べられている。
 親鸞は『教行信証』総序には 真宗の教行信を敬信して、特に如来の恩徳深きことを知んぬ。(真聖全二の一)と述べ、「化土巻」には

爰に久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。(真聖全二の一六六)。

等と述べて、自己の獲信の感動を語る際には現生十種の益のなかでも、とくに知恩報徳(仏恩報謝)で語っているのであるが、晩年の『正像末和讃』では「信心の智慧にいりてこそ」と、今仏恩報ずる身になっているのはまさに彌陀回向の信心の智慧によるところのものであると述べているのである。「信心の智慧」の左訓に

みたのちかひはちえにてましますゆへにしんするこゝろのいてくるはちえのおこるとしるへし(親鸞聖人全2の一四五)

とあるように、信ずる心がおこるということは智慧が起こることであると述べている。彌陀の本願(智願)が智慧であり、それが回向された信心であるから、信心は智慧であるというのである。また『彌陀如来名号徳』には

念仏を信ずるは、すなはちすでに智慧をえてすでに仏になるべきみとなるは、これを愚痴をはなるゝこととしるべきなり。(真聖全二の七三五)

とある。念仏を信じる心(信心)が起こるということはすでに智慧をえて仏になるべき身になっていることであると述べているのである。
 また親鸞は信心の決定、不決定の区別を仏恩を報ずる心の有無によって語っている。『教行信証』「化土巻」真門釈下には

真に知りぬ、専修にして雑心なる者は大慶喜心を獲ず(中略)彼の仏恩を念報することなし。(真聖全二の一六五)

と述べ、『高僧和讃』には

助正ならべて修するをばすなはち雑修となずけたり 一心をえざるひとなれば仏恩報ずるこゝろなし(真聖全二の五〇九)

等と他力信心なきひとには仏恩報ずる心はないと述べている。
 このように信心決定することにより、現生正定聚の身(ほとけとなるべきみ)となり、それによって、仏恩を報ずる身になることを自分自身の救済体験の実感より述べているのである。この念は晩年に至って益々高まったのであろう。

三、信心の智慧と智慧の念仏

 前掲のように親鸞は『正像末和讃』に

智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか 涅槃をさとらまし(真聖全二の五二〇)

と述べている。親鸞が衆生(自分)の上で語る「信心の智慧」も「智慧の念仏」も晩年の親鸞の言葉であり、年齢とともに益々実感されてきたものであろう。  上述のように親鸞は法然の専修念仏の教えを忠実に継承したのであるが、法然にはなかった自力真門念仏を別開し、十八願の念仏(他力弘願念仏)と二十願の念仏(自力真門念仏)とを峻別したのである。
 親鸞が意識してこれを行ったことが明らかであることは、法然は『選択集』十三、多善根章に、襄陽の石碑に刻まれている『阿弥陀経』の「一心不乱」の文以下に、今の世に伝わる本にはない「専持名号、以称名故、諸罪消滅、即是多善根福徳因縁」の文字があることを述べ[3]、これによって念仏が他の諸行に優れていることを強調しているのであるが、親鸞はこの襄陽石碑の文を「化土巻」に引用して阿弥陀経顕説の自力真門念仏としているのである[4]
 『教行信証』(七十五歳頃一応完成)において二十願の方便真門が述べられているが、その二十願の成就文は示されていない。その二十願の成就文として『大経』の胎化得失の胎生の文がでるのは晩年の『浄土三経往生文類(広本)』(八十五歳書写)においてである。すでに『教行信証』において真門念仏について述べてはいるが、その思索が完成し、十八願弘願他力念仏と二十願真門自力念仏の違い目が最終的に整理されたのがこの時期だと考えることができよう。胎化得失に化生の「明信仏智」の機(十八願の機)と胎生の「不了仏智」の機(二十願の機)とが示されている。『正像末和讃』に

仏智不思議を信ずれば 正定聚にこそ住しけれ 化生のひとは智慧すぐれ 无上覚をぞさとりける(真聖全二の五二一)
仏智を疑惑するゆへに 胎生のものは智慧もなし 胎宮にかならずむまるるを 牢獄にいるとたとえたり(真聖全二の五二四)

とあるように化生のひと(十八願の機)は智慧すぐれ、胎生のもの(二十願の機)は智慧もなしと述べているのである。
 このように晩年の『正像末和讃』において十八願の機と二十願の機の分別を智慧の有無によってなしているのである。従って親鸞のいう「智慧の念仏」とは十八願の弘願念仏に限りていうものであり、二十願の真門念仏ではいわないのである[5]
 以前に述べたことがあるが[6]、獲信のための信前称名を策励するひとたちは、『教行信証』「化土巻」の真門釈下に

夫れ濁世の道俗速に円融至徳の真門に入りて難思往生をねがふべし。(真聖全二の一五七)

とある二十願真門に入ることを勧めているかのようにみえる文や『浄土和讃』(七十六歳作)に

果遂のちかひによりてこそ 釈迦は善本徳本を彌陀経にあらわして 一乗の機をすゝめける(真聖全二の四九三)

とある「一乗の機」の高田本左訓に「ゐちしようきとはほうとにしようせしめん」(親鸞聖人全2の四一)とあるもの、次ぎにある

定散自力の称名は果遂のちかひに帰してこそ をしへざれども自然に 真如の門に転入する(同右)

の「果遂のちかひ」の高田本左訓に「しりきのこゝにてみやうこうをとなへたるはつひにはたしとけむとちかひたまふなり」(親鸞聖人全同右)、「真如の門」の同左訓に「ほうしんのさとりをひらくみとうつりいるとまうすなり」(親鸞聖人全同右)等ある文を根拠に、獲信もしくは往生成仏のための信前念仏(二十願真門念仏)の策励を主張するのである。『教行信証』[7]、や『浄土和讃』には若刊真門念仏策励を肯定しているかのようにみえるところもがあるが、晩年の『浄土三経往生文類(広)』、『正像末和讃』では自力念仏肯定の傾向は全くなく、とくに誡疑讃では真門自力念仏を厳しく誡めているのである[8]。『正像末和讃』でいわれている「智慧の念仏」とは真門自力念仏とは完全に峻別された本願力回向の念仏なのである。『正像末和讃』に

真実信心の称名は 彌陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらわるる(真聖全二の五二〇)

とある真実信心の称名、弘願他力念仏のみが「智慧の念仏」なのである。

四、信心の智慧と罪悪

 信心決定により人はどう変わるかについては、色々と論じられている。古くは一益法門、滅罪論、信後還相、近年では現世往生の主張である。このことについてはすでに私見を述べたが[9]、親鸞に現世で浄土に往生するとか、現世で成仏するという考えがあったとすることには反対である。しかし上述のように「信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」と『正像末和讃』にはあり、また獲信による「現生十種の益」も述べられ、一念転釈には信心の徳として「大菩提心、大慈悲心」等が述べられているいるのであり、信心決定前と後には明らかな相違があるはずである。『親鸞聖人御消息』二[10]

ふかくちかひをも信じ阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにてあしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ世をいとふしるし[11]にても候はめ。また往生の信心は釈迦・彌陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば、さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにてはさふらふべき。(浄土真宗聖典 〈註釈版〉七四〇頁。)

とあるように、信心のひとは「もとこそ、こころのままにてあしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ」、「いかがむかしの御こころのまゝにてはさふらふべき。」と、信前のむかしと同様に悪をすることはなくなると述べている。ところが『一念多念文意』等には親鸞自身が自分のこととして罪悪性は臨終の一念にいたるまで止まることなく継続することを

凡夫といふは無明煩悩われらがみにみちみちて(中略)臨終の一念にいたるまでとゞまらず、きえず、たえず(真聖全二の六一八)

と述べているのである。この文等により信後といえども罪悪性は全く変わることなく継続するという考えが生ずるのである。親鸞の所論において矛盾するかのようにみえるこの点はどのように考察すべきであろうか。
 親鸞は『愚禿鈔』巻下深心釈に「散善義」二種(機法二種)の深信釈を引用して

今斯の深信は、他力至極之金剛心、一乗无上之真実信海也。(真聖全二の四六七)

と述べている。即ち機の深信と法の深信が二種一具の信心であり、しかも本願力回向の信心であることを述べているのである。従って「无有出離之縁」(機の深信)と信ずる心も、「定得往生」(法の深信)と信ずる心も共に本願力回向の信心の智慧によるところのものなのである。『歎異抄』後序に

われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよへるを、おもひしらせんがためにてさふらひけり。(真聖全二の七九二)

とある「われらが身の罪悪のふかきほど」(機の真実)と「如来の御恩のたかきこと」(法の真実)の両方を知らしめるのが「信心の智慧」なのである。従って前掲の『一念多念文意』の「臨終の一念にいたるまでとゞまらず」の文、あるいは『正像末和讃』愚禿悲歎述懐の「悪性さらにやめがたし」等(真聖全二の五二七)、さらに『歎異抄』十三の「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(真聖全二の七八四)等の文も全て信心の智慧によって信知された信後の内観(二種一具の機の深信の相)なのである。従来いわれるように信後にも信機の相は存続するのではあるが、これは信心の智慧より生じたものであり、信前の往生未決定時における罪悪感とは内容の異なるものであり、仏恩報ずる念の中のものなのである。前掲『親鸞聖人御消息集』二にあるように親鸞は信心のひとは信前の「むかしの御こころ」のままで悪をなすはずはないと述べ、また同『御消息』に

もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒をのみめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をすこしづつこのまずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。(浄土真宗聖典〈註釈版〉七三九頁。)

と述べているのも、このことが意味されていると考えることができるであろう[12]

むすび

 親鸞は智慧をきわめるのではなく、愚者になりて往生する他力浄土門を選んだのではあるが、本願力回向の信心を智慧(大菩提心、大慈悲心)とし、浄土真宗こそが「一仏乗」であり、「大乗のなかの至極」というのである。念仏においても真門自力念仏を峻別し、本願力回向の念仏のみを弘願他力念仏とし、智慧の念仏とするのである。最後の信心の智慧と罪悪の問題は、無論親鸞に現世成仏・現世往生の考えはないが、独自の釈顕により現世からの救済を強調したのである。
 この点は従来あまり留意されなかったと思われるが、臨終にいたるまでの自己の罪悪の告白は信心の智慧によって知らしめられているものであり、信前(むかし)のものとは異なるものである。「仏恩報ずる身」、「阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身」となった上でのことなのである。単純に法徳と機相の概念により信後と雖も機相は全くかわらないすることでは片づけられないように思われる。
 尚、信心の智慧による臨終の一念にいたるまでの罪悪の告白は往生不定の不淳心(若存若亡)「あるときはわうしょうしてむすとおもひあるときはわうしょうはえせしとおもふ」(親鸞聖人全2の一〇〇)とは全く異なるものである。信心の智慧により「わがみの罪悪の深きこと」(機の深信)も「如来の御恩の高きこと」(法の深信)も知らしめられ、しかもこの二つは矛盾対立することは全くなく、いささかの疑心もなく往生一定と大安堵した境地のものなのである。

  1. 本願寺派の三業惑乱時の一念覚知の問題は信の初一念についてのことであり、信そのものの覚を否定するのではない。 拙稿「信一念と信の覚不について(印度学仏教学研究五五の二、二〇〇七年三月刊)。同「親鸞浄土教における救済の理念と事実」(同五六の二、二〇〇八年三月刊)。
  2. 定本親鸞聖人全集2所収の真蹟本、顕智書写本による。
  3. この文は『西方指南抄』(真聖全四の九三)、『逆修説法』(同四五六)にも引かれている。
  4. 「化土巻」(真聖全二の一五六、同一六一)に善本徳本の方便真門としてこの襄陽石碑経文を引用している。
  5. 要門の念仏等は無論。
  6. 拙稿「親鸞における真門念仏と弘願念仏についての一試論」(相愛女子短期大学研究論集四〇、一九九三年三月)。拙著『浄土三経往生文類』(広本)講讃』(一九九五年七月刊、永田文昌堂)第三章 彌陀経往生、七八頁以下。
  7. 板東本では「夫れ濁世の道俗速に円融至徳の真門に入りて難思往生をねがふし。」とある文は初期に書かれたと考えられる八行書部分であるので、少なくとも七十五歳以前に書かれたものであろう。
  8. 真門念仏の策励の根拠とされるものに 『御消息集』二(真聖全二の六九七) 「往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生ぼしめして、御念仏さふらふし。」とある文がある。この消息には日付が「七月九日」とあるだけで年次はない。年次について諸説があるが、多くは服部之総氏(『親鸞ノート』一九六七年二月刊、福村出版、一〇八頁)〈初版は一九四八年九月〉以来の「善鸞事件」解決の前年(建長七年)の親鸞八十三歳説が多い。しかし、これもはっきりした根拠はない。私は年次については河田光夫氏の主張する(『親鸞からの手紙を読み解く』一九九六年七月刊、明石書店、二〇〇頁)「善鸞事件」解決後の八十五歳(正嘉元年七月九日)が妥当であろうと考える。この頃は『浄土三経往生文類』広本(康元二年三月二日書写)より後であり、『正像末和讃』(康元二歳二月九日とある)も既に一部は作成されていた時期でもあり、真門念仏策励的傾向は全く否定されている時期である。従って 「往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生ぼしめして、御念仏さふらふべし。」とある文は真門念仏策励の意ではなく、興隆師(一七五九ー一八四二)の『御消息集録』(真宗全書四七の四二二)に「自力念仏を許すに非ず。例えば正讃に 云云するが如し。【信心の人におとらじと。乃至称名念仏はげむべし】」とあるように、信心決定して報恩の念仏にはげむべしという意味と理解すべきであろう。
  9. 拙稿「親鸞における往生の問題についての私見」(中西智海先生還暦記念論文集『親鸞の仏教』、一九九四年十二月刊、永田文昌堂)所収。
  10. この御消息には諸本があるが、この部分について意は『浄土真宗聖典〈註釈版〉』所収が一番明確であるので用いた。
  11. 「世をいとふしるし」を反体制的行動とする意見があるが、そうは考えられない。拙稿「親鸞と蓮如ー現生正定聚についてー(印度学仏教学研究四十六の二、一九九八年三月刊)。
  12. 『帖外和讃』(『聖典・浄土真宗』に超世の悲願きゝしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こゝろは浄土にあそぶなり」(『聖典・浄土真宗』一七七頁)とある。この和讃が親鸞自身のものかについては疑問がもたれてはいるが「われらは生死の凡夫かは」と反語で述べているように、信心決定したならば造悪なる「有漏の穢身は」かわらないが、信前のときと全くかわらない、ただの「生死の凡夫」ではないと述べているのである。同じ「有漏の穢身」でも信前と信後では相違があるとする意が窺える。このことは「如来とひとし」「彌勒におなじ」の主張においてもいえることだと思う。