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一念覚知説の研究 紅楳英顕 伝道院紀要19号

提供: 本願力

2013年2月27日 (水) 23:50時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (二、一念覚知の意義と高森氏の主張の問題点)

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紅楳師の許可を得て論文を掲載します。
ここに述べられている紅楳師の考えは伝道院紀要19号(昭和52年3月)発行時のものであることを考慮の上お読み下さい。
もちろん、基本的な考えは変わっていないとのことです。
なお、誤字などがありましても当方の写し間違いですので、その際にはお手数ですがご連絡下さい。

一念覚知説の研究 ―高森親鸞会の主張とその問題点― 紅楳英顕

はじめに

 高森顕徹氏を会長とする浄土真宗親鸞会は、昭和二十七年春、徹信会として発足され昭和三十三年九月、浄土真宗親鸞会と改名されて、宗教法人に登録され、昭和四十年十二月には青年部が結成されて今日に至っている。尚高森氏は、昭和二十二年三月、本派本願寺で得度したが、昭和四十五年六月二十七日に僧籍をはなれている。高森親鸞会がどのようなものであるかについては、既に研究が始められているのであるが[1]、親鸞会発行の『顕正新聞』に

 幾百年の伝統を誇る真宗教団は低迷久しく、体制変革の掛け声も空しく未だ封建時代の遺物として時代にとり残されている感が深い。それもその筈、東西両本願寺の中で「宗門の近代化」「教義の現代化」と叫ぶ声はあっても余命いくばくもない老人の声ばかり。身を捨て命を捨ててでもそれと取り組もうとする青年の声も聞かれないのである。故に真実の仏法を知らされて歓喜する青年の声もきかれない。しかし我が親鸞会は違う、親鸞会が発足して以来十数年、高森会長先生の血のお叫びに、陸続として真実を求める青年が親鸞会の旗の本に結集した。そして勢いなおさかんなりで、真実の仏法を知らされたものは数年を経ず、真実を伝える三界の大導師と変身し、破邪顕正の戦線に雄飛している。親鸞会こそ浄土真宗の生命線である。とりわけ青年部の使命は重大であるが、各地に活躍する青年部の活動が、やがて真宗を変革する一大潮流となる日もそう遠くはないであろう。(顕正新聞第一四二号、昭和四十九年三月二十日)

とあることから、おおよそ会の性格が窺える。
 彼等は、東西両本願寺をはじめとした既成真宗教団は低迷久しくて、ほとんど生命のないものであり、ただ親鸞会のみが浄土真宗の生命線であって、近い将来には真宗を変革するものであると自負しているのである。そして破邪顕正の名のもとに各地で現在の本願寺教団を非難攻撃し、現在では全国的に会員をもち[2]、近くブラジルにも講師を派遣するとのことである[3]
 親鸞会について、毎日新聞(昭和五十年十一月十二目)は“宗教を現代に問う”で取り挙げ「本願寺がどんなに呼びかけても振り向いてくれない若者を親鸞会はつかまえているのだ」と親鸞会に若い会員が多いことを評価し、又和歌山県の紀州新聞(昭和五十一年三月二十七日)は、当地で起こった本願寺と親鸞会の問題について「親鸞会が本願寺派の旧来のあり方にあきたらぬものを感じてこれを改革しようというのなら、本願寺に挑むのは当然である(改革派が戦闘的で旧守派が守勢に立つのが常道だから)したがって親鸞会が本願寺派の寺院や僧侶を攻撃し、法座で布教使に教義の質問したりするのは革新派の常とう手段であり、本願寺派としては親鸞会のそうした態度を愚痴るのではなく、法論を展開して親鸞会を撃破すればよいのではないか」、「これまで門徒衆に対して法義の説教が行われなかったから親鸞会の台頭となったのではないか」と記して、本願寺の方こそが責めらるべきであるように報じている。勿論これらをそのまま容認する必要はないと思われるが、親鸞会問題は、「親鸞に帰れ」の掛け声は叫ばれながらもなかなか実の伴わない我々の現代の教団に何かと反省の資料を提供するものと思われる。
 親鸞会は種々の点から本願寺教団を非難しているが、要は、彼等の配布した“あなたは浄土真宗親鸞会と浄土真宗本願寺との相違点をご存知ですか”のビラに「本願寺は親鸞会を異安心だと非難しています。親鸞会は本願寺を無安心の集団だと申しています」とあることに約される。即ち本願寺教団は無安心の集団である、親鸞聖人のすすめられる真実信心を体得している人がいない、と非難するのである。高森氏の主張の教義上の問題については既に指摘されているように、一念覚如・歓喜正因・善知識だのみ・地獄秘事・本尊論等があるが[4]、私はここで安心・信心問題に最も直接的に関わりを持つ一念覚知の問題を取り挙げ、検討したいと思う。

一、高森氏の破邪顕正の姿勢

 高森氏は親鸞会発足直後の初期の著作である『顕正』(昭和三十三年十二月刊)に

 現今の浄土真宗の道俗の中には、此の世で凡夫の我々、が救われた、助けられた、大満足出来た、大安心に晴れた、ツユチリ程も疑いない日本晴の境地になった、獲信した、往生一定になった、信心決定した、というようなことにはなれるものではないし、又言うべきものではない、信を獲ておるか、いないか吾々凡夫に判るものではない、というような全くアキレタことを思い込み、他人にまで教えて共に迷わせている人が多いので、仏果は浄土に至らねば得られないが、信仰が徹底したがしないか自分にハッキリせんでどうするか、助かったか、助からんか我が身に判らんような信仰かあるか、と強調せずにはおれないのだ。(顕正、七二頁)

と述べている。即ち高森氏は、疑いはれたとか、獲信したとか、信心決定したとか、往生一定になったとかいうことは、自分にはっきりするものであるにもかかわらず、現今の道俗の中には、疑い晴れたとか往生一定になったとか信心決定した、というようなことにはなれるものでもないし、判るものでもない、というような間違った考えを持っている人が多いので黙ってはおれない、というのである。
 このように高森氏は信心決定・往定一定ということは自分にはっきり自覚出来るものだと主張するのであるが、この点を明瞭にするためには、先ず宗祖の著述の上にいかに説かれてあるかを知らねばならない。宗祖の上ではこの点はどのように窺うべきであろうか。『教行信証』総序には

 爰に愚禿釈の親鸞、慶ばしい哉、西蕃月支の聖典、東夏目域の師釈に遇い難くして今遇うことを得たり聞き難くして已に聞くことを得たり。(真聖全・二の一)

とあるように、遇い難くして聞き難い超世希有の正法(浄土真宗)に、今已に遇うことが出来、聞くことが出来たよろこびを語っておられるのである。ここでいう「遇う」とは『一念多念文意』に

 遇はまうあふといふ、まうあふとまふすは、本願力を信ずるなり。(真聖全・二の六一六)

とあるように信を意味する遇である。又「聞く」ということも、単に聞くのではなく、「信巻」に

 然るに経に聞と言ふは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心有ることなし、是を聞と曰ふ也。(真聖全・二の七ニ)

とあり、又『一念多念文意』には

 きくといふは、本願をきゝて、うたがふこゝろなきを聞といふなり。また聞くといふは信心をあらはす御のりなり。(真聖全・二の六〇四)

とあり、又、『唯信鈔文意』には

 聞はきくといふ、信心をあらはすみのりなり(真聖全・二の六二六)

とあり、『尊号真像銘文』には

 聞といふは如来のちかひの御名を信ずとまふす也(真聖全・二の五七八)

とあるように、聞とは、ただおうように聞くことではなく、そのまま信を意味するものである。従って宗祖が「遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」と述べていることは、自分は已に信心決定の身となった、という信心の告白に他ならないのである。このことは「行巻」に

 爾れば大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず(真聖全・二の三五)

とあるように、大悲の願船に已に乗じた安らかな境地を述べ、又「化巻」三願転入の文には

 爰に久しく願海に入りて深く仏恩を知れり、至徳を報謝の為に真宗の簡要を摭ふて恒に不可思議の徳海を称念す(真聖全・二の一六六)

とあるように、久しく十八願に帰入して、仏恩の深きことを知りえたことを述べ、「後序」には

 慶ばしい哉、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す、深く如来の衿哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ(真聖全・二の二〇三)

とあるように、弥陀の願海に帰した慶びを述べていることからも明らかであろう。しかも「慶」について『唯信鈔文意』に

 慶はうべきことをえてのちによろこぶこゝろなり。信心をえてのちによろこぶなり(真聖全・二の六三三)

とあるように「慶」とは「信心をえてのちによろこぶこころ」と述べている。従って「慶ばしい哉」とは、すでに信心を得たのちのよろこび、即ち、信心決定の自覚の上でのよろこびとして述べているのである。  又、この信心(信楽)についてよ『教行信証』「信巻」字訓釈には

 真に知んぬ、疑蓋間雑無きが故に、是を信楽と名づく。信楽即ち是れ一心なり、一心即ち是れ真実信心なり。(真聖全・二の五九)

とあり、「信巻」法義釈には

 信楽と言うは、則ち是れ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。是の故に疑蓋間雑有ること无し(真聖全・二の六二)

とあるように信楽(信心)とは疑蓋間雑なき心(本願にうたがいのない心)であると述べており、又『尊号真像銘文』には

 信楽といふは如来の本願真実にましますをふたごころなくふかく信じてうたがはざれば信楽とまふすなり(真聖全・二の五七七)

とあり、『一念多念文意』には

 「信心歓喜乃至一念」といふは、信心は如来の御ちかひをききて、うたがうこころなきなり(真聖全・二の六〇五)

等とあるように、信心とは本願に対する疑いの晴れた心であることが述べられている。

 以上のことから窺えるように、宗祖においては、本願に疑いの晴れた信心決定の自覚や、往生一定の自覚がはっきりしていたことが明らかである。
 今、私は「宗祖においては本願に疑いの晴れた信心決定の自覚や、往生一定の自覚がはっきりしていたことが明らかである」と述べたが、或いは次のように反論されるかも知れない。“宗祖において、本願に疑いの晴れた信心決定の自覚や、往生一定の自覚があったなどとはとんでもない。もしそうであるなら、宗祖の著述の随所にみられる己れの「自力の執心」や「真実心なし」のなげきはどう考えればよいのか。例えば『教行信証』「信巻」にみる「悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざる」の文、また『一念多念文意』の「凡夫といふは、無明煩悩われらが身に人ちみちて……臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」等の文、さらには『歎異抄』第九条の、唯円の問いに対する親鸞の浄土にまいりたき心の起こらぬことこそ、人間のいつわらざる心だとする応答などどうみればよいのか。このように宗祖においては生涯をとおして、真実心なしの悲嘆はつづいたのであり、本順に疑い晴れた信心決定の自覚や、往生一定の確信などあったはずはないではないか”と。
 宗祖の信心は最後まで疑いを含むものであったとする主張が、林田茂男氏や丹羽文雄氏によってなされていることは、別の機会に紹介し、その批判を述べたが[5]、「本願に対する疑いは晴れるものではない」とか「往生一定の自覚などあるはずはない」という主張は従来「疑心往生の異義」として排斥されたものである[6]。自己の虚仮不実・無有真実を生涯いたみ、悲歎した宗祖ではあるが、それがそのまま本願に対する疑惑であると考えるのは凡夫の自性たる痴無明と本願を疑う疑無明との混同によって生ずるものである。即ち先に挙げた「信巻」の「悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して……恥ずべし傷むべし」の文や『一念多念文意』の「凡夫といふは無明煩悩われらがみにみちみちて……臨終の一念にいたるまで、とゞまらずきえずたえず」とある文は、宗祖の煩悩熾盛・無有真実の我が身であるとの悲歎ではあるが、これはあくまでも痴無明についてのものであって、本願に対する疑惑についてのものではないのである。又この悲歎は慶歎ともいわれるように、本願に対する疑い晴れたよろこびの中での自己内省の言葉であり、本願に対する疑いの心とは全く異質のものである。又『歎異抄』第九条においても、そこには

 なごりおしくおもへども娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまひるべきなり、いそぎまひりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり、これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ(真聖全・二の七七八)

とあるように、宗祖は唯円に「いそいで浄土へまいりたいこころのないような煩悩の盛んなものを、とくにあわれんでくださるのが弥陀の大悲なのだからいよいよ往生まちがいないではないか」と論じているのである。即ち「いそぎ浄土にまいりたき心がない」ということは本願に対する疑いや、往生一定の確信のないことを意味しているのではないのであって、現実に執着してやまぬ自己(性得本来の機)の姿を悲歎しているのであり、二種深信における機の深信の相を赤裸々に述べているのである。しかしそこには「乗彼願力乗得往生」という本願に乗ずる信、即ち法の深信に関する一点の疑いもない宗祖の心境が示されているのである。
 このように宗祖の著述の諸処にみられる煩悩熾盛・無有真実なる自己に対する悲歎の文によって、宗祖は「本願に対する疑いが晴れなかった」とか「往生一定の確信はなかった」等と理解するようなことは全くの誤謬であることが明らかであろう。『尊号真像銘文』には

 「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人おば、无碍光仏の心光つねにてらし、まもりたまふゆへに、无明のやみはれ、生死のながきよすでにあかつきになりぬとしるべしと也、「已能雖破无明闇」といふはこのこゝろなり、信心をうればあかつきになるがごとしとしるべし。「貪愛瞋憎之雲霧常覆真実信心天」といふは、われらが貪愛瞋憎をくも・きりにたとえて、つねに信心の天におほえるなりとしるべし。「譬如日光覆雲霧雲霧之下明无闇」といふは、日月の、くも、きりにおほはるれども、やみはれてくも・きりのしたあきらかなるがごとく、貪愛瞋憎のくも・きりに信心はおほはるれども、往生にさわりあるべからずとしるべしと也(真聖全・二の六〇一)

とある。ここに「貪愛瞋憎のくも、きりに信心はおほはるれども、往生にさわりあるべからずとしるべしと也」とあるように、本願を信ずる身になったあとも、貪愛瞋憎の煩悩は起こってくるのではあるが、すでに信心をえておれば煩悩具足の自己(性得の機)をなげき乍らも、往生一定の確信ははっきりしていたことは、このことからも明らかである。又、『高僧和讃』に「不如実修行といへること、鸞師釈してのたまはく、一者信心あつからず、若存若亡するゆへに」とある「若存若亡するゆへに」の左訓に

 アルトキハサモトオモフ アルトキハカナフマジトオモフナリ(真聖全・二の五〇六)

とあるように、ある時は助かるように思い、ある時は助からないと思う心、即ち助かるか助からないかわからない、往生一定の確信のない心は、信心あつからず(不淳心)であり、真実信心ではないと述べているのである。このように宗祖の信は、本願にうたがいのはれた、救われることを確信した、往生一定の心なのである。
 以上のように宗祖においては信心決定・往生一定の自覚がはっきりしていたことは明らかである。従って本願に疑いの晴れた信心決定・往生一定の確信がはっきりあるのが当然だとする高森氏の主張は、この点においては正当なものといえるのであり、高森氏の非難する「本願に対する疑いは晴れるものではない」とか「信心決定とか往生一定の自覚など凡夫にあるはずはない」というような主張が、もし本願寺教団内でなされているとするならば、大いに反省しなければならないであろう。

二、一念覚知の異義と高森氏の主張の問題点

 入信の時の記憶をもって信の証拠とする一念覚知の異義が何時頃から始まったのであるかについては、大原性実氏の所論によると三業惑乱の頃までさかのぼり、三業帰命説の転計といわれている。功存の『願正帰命弁』とほぼ同じ頃に作られたと考えられる秘事書たる『法要章』に「然ルニヒシトタノミタル覚エモナク、何年何月何日何ノ刻ニ、御タスケ二アヅカリタル覚エモナクシテ、頼ミ奉リタノ御助ケ一定ダノ、我往生ハ治定ダノト云ヒ、マタ真ノ善知識二遇ハズシテ、斯様ノ御コトハリ、マギレモナフ聴間申分ケタノトロ二ハ云トモ所詮ナキカナシキコトナリ」(真宗大系・三六の三四八)とあるよりみて、三業惑乱の前期即ち宝暦の頃よりこの異義が唱え出されたと考えられる。三業派と反対の古義派に属する人々の記録、『自謙日誌』等によると、第七代能化知洞もこのことを主張したことが窺われ、同行はその獲信の時刻を記憶して忘失しないために簡礼にその時刻を書き記して、仏檀の傍にけって廃忘に備えたといわれている[7]
 周知のように三業惑乱は、文化三年(一八〇六)十一月、第十九世本如宗主の『御裁断の御書』の公布によって終結するのである、が、そこには

 しかるに近頃は当流に沙汰せざる三業の規則を穿鑿し、又はこの三業につきて、自然の名をたて、年月日時の覚不覚を論じ、或は帰命の一念に妄心をはこび、また三業をいめるまゝ、たのむことばをきらひ、この余にもまとへるものこれあるよし、まことにもて、なげかしき次第なり。(真聖全・五の七六七)

とある。なげかわしき次第として「年月日時の覚不覚を論じ」とあるように、帰命の一念(信の一念)の年月日時の覚不を論ずることは異義であると裁断されたのである。従って、信一念の年月日時の覚えがなくてはならないと執ずるのも異義であるし、又覚えがあってはならないと執ずるのも異義ということになろう。
 本派の先哲中、三業惑乱終結に尽瘁せられた大瀛師・道隠師の所論には信一念は非意業(離三業)であるとの主張がみられ、以後は大体これに倣って、信一念は非意業で不覚であるとの説がなされているが、義山師や鮮妙師の主張には信一念の非意業は主張するが覚の場合もあることが述べられている[8]。義山師や鮮妙師も勿論、信一念の日時の記憶をもって信の証拠とし、必ず覚知がなければならぬとするのは異義とするのであるが、すべて必ず不覚であるとはいわないのである。鮮妙師の『意業非意業之論』に

 年月を知るも障とせず、知らざるも亦功とせず、覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす、故に前々住上人も年月日時の覚不覚を論ずべからず、御相承多く年月を記し給はず、高祖之を記し給ふ。その義云何と云へば親の懐で育ったものは年月を認めて親と知りたることなし。何時の間にやら親を知る。生来真宗の教示に育せられたるもの如此。又生まれてより他人に育てられて生長の後、家にかへる者は親を知る年月を知る(中略)覚えたが好と計するもよからず。不覚が正義なりと認むるも悪し。乃ち覚不覚を論ずべからずと御裁断されたものなり。(宗学院論集 一念覚不論集所収、九五頁)

とあるように、信一念を覚にも執じず、不覚にも執じない「覚もよし、覚えぬもよし、共に仏智に信順するを以て、当流安心の正義とす」と主張するのであるが、この立場が最も当を得たものと思われる。  高森氏は、獲信の一念にはっきり自覚があることを著作や新聞の諸処に力説している。 『顕正』には

 真実の信仰には一念がある。一念とは疑い晴れて大満足の境地に開発したいとおもいをいい(中略)いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ亘った一念、言説や思惟のおよぶところではない。驚天動地の一刹那をいうのである。しかし思慮分別を超えるといっても疑蓋無雑の信楽の開発する初起の信であるから、無念無想である筈は毛頭ないから、やはり明らかな自覚の初刹那を一念ととかれたのだ(九八頁)

とあり『こんなことが知りたい』①には

 この暗い心は信心獲得するとツユチリ程もなくなります。救われていない人には思ってみょうとしても出て来ない心です。しかもこの心はアッという一念で晴れ亘るのです。その時を信の一念とかタノムー念とか帰命の一念とかいうのです。(五一頁)

又『法戦』には

 あっという間もない時剋の極促に我々の苦悩を抜きとり、無上の幸福を与えて下さいます。これを抜苦与楽といわれます。阿弥陀仏の救いはこのように極めてはっきりしていますから、「これで助かったのだろうか」とか「これで他力の信心を得たのだろうか」と自分で思案したり、他人にたずねだりする必要のないものです。火にさわったようにはっきりするものです(一四九頁)

等とあるように、信一念の自覚がはっきりあることを強調するのである。上述のように本派の先哲の中で義山師・鮮妙師等においては、信一念について「覚もよし、覚えぬもよし」の立場をとるのであり、高森氏の主張も単に氏自身の信仰体験として信一念の自覚を語るのみであるのなら、一概に異義として退けることも出来ないであろう。しかし『顕正』には

 一念が浄土真宗の至極であるから、この一念の妙味がなければ信楽開発した人とはいえないのである(一一四頁)

とあり、『白道燃ゆ』には

 阿弥陀仏の救いは断じて何時とはなしではない「今こそ明らかに知られたり」と驚き立つ一念の体験なのである。(二六一頁)

とあり『顕正新聞』には

 阿弥陀仏の救いは断じて何時とはなしではない。「今こそ明らかに知られたり」と驚き立つ一念の救いなのである。他力になるまで聞きぬこう。(六一号、昭和四十二年六月十五日)

とあり、又

 本願疑感心は米俵の米のようにじょろじょろと少しづつなくなっていくように、いつしかなくなるのではない、信心の人には疑心が一念に打ち破られた体験があるはず。(取意)(一五八号、昭和五十年七月二十日)

等とあるように「何時とはなしに信を得た」とか「すこしづつ疑いがなくなった」とかいうようなことは絶対にないのであり、必ず信一念の自覚がはっきりなければならないことを主張するのである。
 このように高森氏の主張は、信一念の自覚は必ずあるものと強調し、それのないものは信なきものとするのであるから、まさに信一念の「覚不覚を論ずるもの」であり、異義の断を下さねばならないものである。

三、高森氏の弁明

 高森氏は自分の主張は一念覚知の異義ではないということを『顕正』(七六頁以下)、『顕正新聞』一〇七号(昭和四十六年四月十五目)『こんなことが知りたい』②(一九八頁以下)等に弁明しているが、『こんなことを知りたい』②におけるものが最も詳細であるのでその要旨を述べると

①一念覚知の異義とは、信心決定した年月日時の記憶の有無をやかましく強調するものをいう。仏教では時を語るのに、実時、仮時ということがいわれる。実時とは午前八時三十分とか、午後三時十分とか言うような分秒をいい、それに対して蜂にさされを時とか、夢の醒めた時とかいう時を仮時という[9]。信心決定の実時など判るはずもなければ、記憶出来る道理心ないから、私は獲信の一念を何月何日何時何分の実時では語っていない。

②現今の本願寺は一念の不覚知説をもって正しい信心として、救われた信一念の体験を語る者までを一念覚知の異義と非難し、その根拠として『御裁断の御書』に「覚・不覚を論ぜず」とあるのを持ちだして、覚を排して不覚に執じて一念不覚知説をもって正意安心とし、一念を説くものを異義と攻撃するが、「覚・不覚を論ぜず」というのであれば、一念の覚を主張するも、不覚を主張するも共に宗意に反することになるのであり、不覚知説を主張する現本願寺こそ異安心の集団である。

③親鸞聖人は、はっきり信一念の釈を示されているのに、本願寺の学者は何時とはなしに救われるのであり、弥陀に救われた時は必ずあるが、私達には助かったやら、助からぬやら判らぬものであるという。信一念の妙味は大安心太満足の心が生ずることであるから、これが判らないという馬鹿なことは断じてないはずである。助かった味ははっきりするのでありヽこれを一念覚知の異義というものは無安心の親玉である。

④本願寺の人達は、阿弥陀仏に救われた一念の妙味は判るものではないという。その理由として「これが判るといえば意業を信心の上で語り、自力に濫ずるおそれあり」といい、正意の安心は非意業の意業だという。しかし意業が自力なら、非意業の意業といっても自力となるではないか。ともかく安心はあくまで私達の心である。親鸞聖人は救われた体験を諸処で述べているのに、この救われた味が判らないものだと放言する連中は、救われた体験のないことを自ら告白しているのである。

とある。このように高森氏は自分の主張は一念覚知の異義に該当しないものであり(①)、自分の主張を非難する本願寺の方こそ正安心がわかっていない(②③④)というのである。
 ①において高森氏は、自分は獲信の一念の自覚を実時で語ってはいないというのであるが、そこの文を引用すると、

 では、その私に、どうして一念覚知の異安心というような的はずれの非難が生じたのかと考えてみますと、(中略)実時にこそ用事はないが、阿弥陀仏に絶対の幸福に救いとられた一念の妙味がなければ未だ大心海に入っていないのだと強調するからでしょう。(こんなことを知りたい②、二〇一頁)

とあるように、「実時にこそ用事はないが、阿弥陀仏に救いとられた一念の妙味がなければ未だ大心海に入っていない」と、実時に用事はないとことわりながら、信一念の自覚は必ずなければならないことを、ここでも強調している。又『顕正新聞』には

 一体本願寺は正定聚の身になったとは、どんな素晴しい体験なのか、分かっているのでしょうか。いつどんな時に正定聚の身にならせていただいたのか。月日や時間に用事はありませんが、まさか生まれた時から正定聚の身であった筈はありませんから、正定聚でなかった時と、正定聚の身にならせていただいた後との鮮やかな体験がなければなりません。(一七二号、昭和五十一年九月二十日)

とある。ここに「いつどんな時に正定聚にならせていただいたのか。月日や時間に用事はありませんが……」とあるように、月日や時間が分らねばならないというような実時には用事はないのだと、一念覚知の異義を意識しながらも、いつどんな時に正定聚になったのであるか、即ちいつどんな時に信をえたのかが分らなければならないと主張しているのであり、信一念の自覚が必ずなければならないとするものであることに変わりはない。  三業惑乱当時のことを記した古義派の自謙による『自謙日記』に、三業派の主張について

 タノミシ年月日時ヲ覚ヘタルヤ。又ハ年月は不覚トモ。タノミタルコトヲ覚タルヤ否ヤ、若シイツタノミタルト云コト不覚ハ。往生不定ナリ。急度覚ヘルヨウ二タノムヘシト相勧候ヨリ。ミナミナ驚動仕り惑乱イタシ候故。此者ヲ破斥イタサレ候。(真宗全書・七二の三七七)

とあり、また次下に

 ソノ帰命願セシハ。何ノ年月日時ナリヤト。検問シ記憶不記憶ヲ論ジテ。無智ノ輩ヲ惑乱セリ。此説一時都鄙ニカマビスシカリシガ。防難頻リニ起ルニ恐レテ。ソレヲ転計シテ。年月日時ヲオボヘ子バナラヌト云ニハ非ズ。タトヒ年月日時ハオボヘズトモ。後生ノー大事ヲタノミシコトヲオボヘヌト云コトアルペカラズ。(中略)然ルニ執着は。他難ヲ憚リテ。転計云々スレドモ彼力本意ハ。明了二時処年月日等ヲ記憶セヨト云フニアリ。(真宗全書・七二の四〇二)

等とあることから明らかなように三業派において、仏をたのんだ(信じた)年月日時示問題にされて、たとえ年月日時は不覚であっても、たのんだ(信じた)ことは覚えているはずであり、若しいつたのんだ(信じた)かを覚えていないようなら往生は出来ない、という主張がなされているのであり、高森氏が「年月日時に用事はないが、阿弥陀仏に救いとられたのがいつであるかが、分らなくては駄目である」ということと同様の主張がこの時にもなされていたことが窺われる。そして「妨難を恐れて年月日時をおぼえる必要はない、といってはいるが本意は明了に時処年月を記憶せよと云ふにあり」とあるが、高森氏が師事したといわれる伊藤康善氏の著作でおる『仏敵』や高森氏の編による『獲信の記録』に述べられている入信体験や、『顕正新聞』その他にみられる会員の体験告白には、ほとんど入信の年月日が述べられているのであり[10]、高森氏も妨難を恐れて年月日時に用事がないとはいいながら、本意は日時の記憶をせよというところにあるかと推測され、又、いつ救いとられたかがはっきり分らねばならぬというのであれば、当然年月日時の実時が問題になるはずであり、実時に用事はないといいながら、実は実時を問題にしているのである。
 このように惑乱当時の三業派の主張に高森氏と極めて類似したものがみられるのである。高森氏は獲信の年月日時の実時に用事がないとはいうものの、いつ獲信したかは必ずわからねばならぬと主張するのであるから、一念の実時にこだわり、覚に執する異義者であると評せざるをえないのである。
 ②③④では、高森氏の主張を異義だと非難する本願寺の方こそが、異義者の集団であり、無安心者の集団であると逆に非難しているのであるが、これらのことについては本稿において既にふれる機会があったように、義山師や鮮妙師等において「覚もよし、覚えぬもよし」と述べられているのであり、決して不覚に執じているのではなく(②)、信一念の覚に執じないのであって、弥陀に救われた喜びは無論語るのであり、助かったやら助からぬやら我々には判らぬものであるなどというようなことは決していってはいない(③)。又、浄土真宗の信心は他力回向の信心であるので、凡夫の三業を離れたものであるということから非意業[11]といわれるのであるが、これはあくまでも他力によるところであるということから信一念の覚に固執しないのであって、救われた喜びが我々には判るものではないという意味のことをいっているのでは決してない(④)のである。
 高森氏は「親鸞聖人には、はっきり信一念の釈がある」というのであるが、宗祖の信一念釈は「信楽に一念有り、一念は其れ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰はす也」(真聖全二の七一)とある時間に関する釈と一念と言うは、信心二心无きが故に一念と曰う」(真聖全二の七二)とある心相に関する釈とがある。高森氏は信一念の妙味は必ず自覚できることを主張しているところで、

 信の一念の妙味は、あらゆる聖人の著書に記されていますが、中でも有名なのは『教行信証』信巻の御文でありましょう。「それ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促か顕し、広大難思の慶心をあらわすなり」とズバリー念の信を明記されているからです。この文章の意味は真実の他力信心には必ず一念があります。一念というは、疑い晴れて大満足の境地に開発したひとおもいを言い(中略)言葉や思惟の及ぶところでない驚天動地の一刹那を一念というのである、と聖人は喝破なされています。(こんなことが知りたい③、二〇六頁)

と述べているのであるが、一念を時間の釈のみで説明して心相にはふれていない。このように時間の釈を重視するが故に宗祖や蓮師にみられる「一念」の語をことごとく時間の意に解し、そのために一念の時に執ずることにもなるのであろうが、『自謙日誌』に、三業派の主張を批判して

 ソノタノミシ時処年月マテモ。オホヘテ居ルホトニセ子ハ。タシカナラストオモヒテ記憶セシヤ否ヤヲ吟味シテ。若シ記憶不分明ナレバ。タノミナヲセト云テ。更二制心立願シ。身口発動セシメテ。コレデ往生ガ済ンダト印可スルナリ。コレマコトニ。真宗聖教ノ中ニ。道理モ文証モナキ妄情ナリ。(真宗全書・七二の四〇三)

と述べているように、信一念の記憶がなければ信ではない、ということは「真宗聖教ノ中二道理モ文証モナキ妄情ナリ」とあるように、宗祖の御教示にないものである。  ウィリアム・ジェイムス(Wiliam James)『宗教的経験の諸相』[12](THE VARIETIES OF REIGIOUS EXPERIENCE)によると回心(入信)の型に突然的回心と漸次的回心の二つがあることが述べられている。突然的回心をした人として、パウロやオーガスチンが挙げられ、漸次的回心をした人としてはトルストイが代表的な人とされる[13]が、真宗の妙好人においても、この二つの型があるようである。突然的回心の型として挙げられるのが因幡の源佐であるが、彼の言行録に

 どがぞして聞かして貰らはあと思って、御本山に上ったいな。御本山で有難い和上さんに御縁にあはしてむらったけど、どっかしても親心が知らしてもらへず、仕方がなあって戻ったいな、おらあ、ように困ってやあ。ところが或年の夏でやあ、城谷に牛を追うて朝草刈に行って、いつものやあに六把刈って、牛の背の右と左とに一把づつ附けて三把目を負はせうとしたら、ふいと分らしてもらったいな牛や、われが負ってごせっだけ、これがお他力だわいやあ、あゝお親さんの御縁はこゝかいなあ、おらあその時にや、うれしいてやあ、(妙好人囚幡の源佐、柳宗悦・衣笠一省編、三頁)

とあるように「三把目を負はせうとしたら、ふいと分らしてもらったいな」とあり、彼においては入信の時が自覚されている。又、漸次的回心の型として挙げられるのが、大和の清九郎であるが、彼は

 後生大事と思いそめしは、三十二・三の頃かと思はる。爾来心を留めて聴聞し来りしに今は疑うべくもなき大悲願力を信じ、往生一定の念慮いささかも動くことなし。何年何月何日より此の思念に住したるやはしらず。(鈴本法珠氏『真宗学史所収、宗学院論集五、二九頁』

と述べている。「何年何月何日」より此の思念に住したるやはしらず」とあるように、彼の場合は入信の時がいつであったかは自覚されてはいないのである。このように宗教心理学の立場からみても入信に二つの型があり、真宗の妙好人にもこの二つの型が事実あるのであるから、必ずいつ信にはいったかが分らねばならぬと主張することは、この点からも無理といわねばならないであろう。

む す び

 上述のように高森氏は、親鸞会発足直後の著作である『顕正』に、現今の浄土真宗の道俗の中には「此の世で凡夫の我々が救われた、助けられた、大満足出来た、大安心に晴れた、ツユチリ程も疑いがなくなった、獲信した、往生一定になった、というようなことにはなれるものではないし、又、言うべきものではない、信を獲ておるか、いないかは我々凡夫に判るものではない」というような全くアキレタことを思い込み、他人にまで教えて共に迷わせている人が多いので、信仰が徹底したがしないか自分にハッキリせんでどうするか、助かったか助からないか、我身に分らないような信仰があるかと強調せずにはおれない、と、自己の姿勢を述べているのであるが、宗祖の上でも、信心とは本願にうたがいのはれた心であると述べられており、又、自分自身が本願にあうことの出来たよろこびや、願海に入った感激が明確に語られているのであるから、高森氏が浄土真宗の救いは、はっきり自己に自覚できるものだと主張することは、この点に限れば間違いではなかろう。
 しかし上来論じて来たように、高森氏の主張するところは、信一念の自覚は必ずあるのであり、獲信した時がいつであるかが分らないようなものは信ではないとするのであるから、信一念の実時に用事がないといいながらそれにこだわり、一念の覚に執ずるものである。従って、三業惑乱時に一念覚知の異義と裁断されたものと同類の異義として退けられるべきものである。
 だが気をつけねばならないことは、大原性実氏も「覚知説の取り扱いに際して特に注意を喚起したい点を記しておきたい。それは信の覚知を否定することと、信一念の事実を否定することとは同じではないということである。信一念の事実たる心相は、信文類に示すか如く、無疑無慮ということである。この一念の心相の事実を否定すれば、恐らくは信前と信後の区別は弁明せられないあでろう[14]」と指摘しているように、信一念の覚えがなくてはならないという一念の覚知と、本願にうたがいはれた無疑無慮の心相とは全く別であり、覚知を否定することは決して本願にうたがいはれた信心決定・往生一定の確信やよろこびをも否定するものではないことは十分わきまえ、且、注意しなければならないことであろう。

脚注

  1. 山田行雄氏「現代における異義の研究」(伝道院紀要14) 三木照国氏「高森親鸞会の分析」(伝道院紀要14)
  2. 顕正新聞第一五〇号(昭和四十九年十一月二十日)
  3. 顕正新聞第一七二号(昭和五十一年九月二十日)
  4. 山田行雄氏前掲論文
  5. 拙稿「真の仏弟子について」(伝道院紀要15)
  6. 大原性実氏『真宗異義異安心の研究』第三篇第一章第六節、疑心往生の異義、三五二頁以下
  7. 『真宗異義異安心の研究』第三篇第二章第二節、一念覚知の異義、三八四頁以下
  8. 大原性実氏『真宗異義異安心の研究』四〇三頁以下 普賢大円氏『真宗教学の諸問題』第三、非意業の研究、二六七頁以下 宗学院同人編纂「一念覚不論集」(宗学院論集五、二七頁以下)
  9. 実時・仮時について、平川彰氏の『講座仏教思想』I、所収「原始仏教・アビダルマにおける時間論」、佐々木現順氏の『仏教における時問論』によると、仏教で時間を示すのにカーラとサマヤが用いられ、「爾時仏告」とか「一時仏在」というときの、爾時・一時の時はサマヤであるが一般に時問を意味するときはカーラが用いられる、智度論において、カーラを実時、サマヤを仮時と称している、等とある。真宗先哲では善譲師の『敬信記』には「凡ソ此ノ時卜云ニ、二有リ。一ニハ実時、此レハ日夜十二時卜云フ如キ是レナリ。此ノ実時ハ法ニヨラズシテ時が独立ス。二ニ仮時、此ノ仮時トハ法二約ス。然二時二別体ハナキモノナレバ。法ニヨラザレバ時ハ独立セヌ、経デ申セバ爾時世尊ト云フガ仮時ナリ。其外今日事相ノ上二常二用ヰルコトユヘ食ヲ喰フ時、泗ヲ呑ム時卜云フ如キ皆仮時ナリ」(真宗全書・三一の二一)とある。又、鈴水法琛師は「此の時尅に就きて、古来仮時実時の論あり、仮時とは実際法の経過の延促を諭ぜず、唯事物の成立するを呼びて甲の時乙の持といふ、之を信一念に擬すれば、一念は事究竟の一念なり。極促とはいへども一瞬一弾指刹那の時にはあらず、唯事究竟の速なるを時尅の極促とのたまふなり。又、実時とは時尅の極促とは実際に信心の治定するのは時尅分秒を以ていふべからざる程の短促中の至極なりという(『真宗学史』)と述べている。
  10. 山田行雄氏前掲論文(伝道院紀要14)
  11. 大原性実氏(『真宗異義異安心の研究』第三篇第二章第一節五、非意業説についての疑問、三七五頁以下)や、神子上恵龍氏「信一念の構造」(仏教学研究14・15、五二頁)は、他力回向の信を非意業ということに考慮すべき点があると述べている。
  12. 『宗教的経験の諸相』上(岩波文庫、桝田啓三郎訳)第九講、回心、二八七頁以下
  13. 石田慶和氏『信楽の論理』第二章、宗教的経験の理解、二一四頁 棚瀬襄爾氏『宗教と人間』第六、心の平安、七四頁
  14. 「一念覚知の異義について」(真宗研究一・八九頁)