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『西方指南抄』

提供: 本願力

『浄土真宗聖典全書』聖教データベースから転載
http://j-soken.jp/category/ask/ask_12


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Ⅲ-0863西方指南抄上[本]


(一)
法然聖人御說法事
經證の中に、佛の功德をとけるに无量の身あり。あるいは總じて一身をとき、あるいは二身をとき、あるいは半三身をとき、乃至『華嚴經』には十身功德とけり。いま且眞身・化身の二身をもて、彌陀如來の功德を讚嘆したてまつらむ。この眞化二身をわかつこと、『雙卷經』の三輩の文の中にみえたり。まづ眞身といふは、眞實の身なり。彌陀如來の因位のとき、世自在王佛のみもとにして四十八願をおこしてのち、兆載永劫のあひだ、布施・持戒・忍辱・精進等の六度萬行を修して、あらはしえたまへるところは、修因感果の身なり。『觀經』(意)にときていはく、「その身量、六十萬億那由他恆河沙由旬なり。眉間の白毫、右にめぐりて五須彌山のごとしと。その一須彌山のたかさ、出海・入海おのおの八萬四千那由他なり。また靑蓮慈悲の御まなこは、四大海水のごとくして淸白分Ⅲ-0864明なり。身のもろもろの毛孔より光明をはなちたまふこと、須彌山のごとし。うなじにめぐれる圓光は、百億の三千大千世界のごとし。かくのごとくして八萬四千の相まします。一一の相におのおの八萬四千の好あり、一一の好にまた八萬四千の光明まします。その一一の光明、あまねく十方世界の念佛の衆生を攝取してすてたまはず。御身のいろは、夜摩天の閻浮檀金のいろのごとし」といへり。これ彌陀一佛にかぎらず、一切諸佛はみな黃金のいろなり。もろもろのいろの中には白色をもて本とすとまふせば、佛の御いろも白色なるべしといゑども、そのいろなほ損ずるいろなり。たゞ黃金のみあて不變のいろなり。このゆへに、十方三世の一切の諸佛、みな常住不變の相をあらわさむがために、黃金のいろを現じたまへるなり。これ『觀佛三昧經』のこゝろなり。たゞし眞言宗の中に五種の法あり。その本尊の身色、法にしたがふて各別なり。しかれども暫時方便の化身なり、佛の本色にはあらず。このゆへに、佛像をつくるにも、白檀の綵色なれども功德をえざるにあらずといへども、金色につくりつれば、すなわち決定往生の業因なり。卽生の功德、略を存ずるにかくのごとし。「卽生乃至三生に必得往生」といへり。これ彌陀如來の眞身の功德、略を存ずるにかくのごⅢ-0865とし。
次に化身といふは、无而欻有を化といふ。すなわち機にしたがふときに應じて身量を現ずること、大小不同なり。『經』(觀經)に、「あるいは大身を現じて虛空にみつ、あるいは小身を現じて丈六、八尺」といへり。化身につきて多種あり。まづ圓光の化佛。『經』(觀經)にいはく、「圓光のなかにおいて、百萬億那由他恆河沙の化佛まします。一一の化佛に衆多无數の化菩薩をもて、侍者とせり」といへり。つぎに攝取不捨の化佛。「光明徧照、十方世界、念佛衆生、攝取不捨」(觀經)といふは、この眞佛の攝取なり。このほかに化佛の攝取あり。卅六萬億の化佛、おのおの眞佛とともに十方世界の念佛衆生を攝取したまふといへり。次に來迎引接の化佛。九品の來迎におのおの化佛まします、品にしたがふて多少あり。上品上生の來迎には、眞佛のほかに无數の化佛まします。上品中生には、千の化佛まします。上品下生には、五百の化佛まします。乃至かくのごとく次第におとりて、下品上生には、眞佛は來迎したまはず、たゞ化佛と化觀音・勢至とをつかはす。その化佛の身量、あるいは丈六、あるいは八尺なり。化菩薩の身量もそれにしたがふて、下品中生は、「天華の上に化佛・菩薩ましまして、來迎したまⅢ-0866ふ」(觀經意)といへり。下品下生は、「命終してのち、金蓮華をみる。猶如日輪住其人前」(觀經)といへり。文のごとくは、化佛の來迎もなきやうにみえたれども、善導の御心は、『觀經の疏』(散善義)の十一門の義によらば、第九門に「命終のとき、聖衆の迎接したまふ不同、去時の遲疾をあかす」といへり。また「いまこの十一門の義は、九品の文に約對せり。一一の品のなかに、みなこの十一あり」といへり。しかれば、下品下生にも來迎あるべきなり。しかるを五逆の罪人、そのつみおもきによりて、まさしく化佛・菩薩をみることあたはず、たゞわが座すべきところの金蓮華ばかりをみるなり。あるいはまた文に隱顯あるなり。次にまた十方の行者の本尊のために、小身を現じたまへる化佛あり。天竺の鷄頭摩寺の五通の菩薩、神足通をして極樂世界にまうでて、佛にまふしてまうさく、娑婆世界の衆生、往生の行を修せむとするに、その本尊なし。佛、ねがわくは、ために身相を現じたまへと。佛、すなわち菩薩の請におもむきて、樹の上に化佛五十體を現じたまへり。菩薩、すなわちこれをうつして、よにひろめたり。鷄頭摩寺の五通の菩薩の曼陀羅といへる、すなわちこれなり。また智光の曼陀羅とて、世間に流布したる本尊あり。その因縁は人つねにしりたることなり、つぶさにまふすⅢ-0867べからず。『日本往生傳』をみるべし。また新生の菩薩を敎化し、說法せむがために、化して小身を現じたまへることまします。これはこれ、彌陀如來の化身の功德、また略してかくのごとし。
いまこの造立せられたまへる佛は、祇園精舍の風をつたへて三尺の立像をうつし、最後終焉のゆふべを期して來迎引接につくれり。おほよそ佛像を造畫するに種種の相あり。あるいは說法講堂の像あり、あるいは池水沐浴の像あり、あるいは菩提樹下成等正覺の像あり、あるいは光明遍照攝取不捨の像あり。かくのごときの形像を、もしはつくり、もしは畫したてまつる。みな往生の業なれども、來迎引接の形像は、なほその便宜をえたるなり。かの盡虛空界の莊嚴をみ、轉妙法輪の音聲をきゝ、七寶講堂のみぎりにのぞみ、八功德池のはまにあそび、おほよそかくのごとく種種微妙の依正二報をまのあたり視聽せむことは、まづ終焉のゆふべに聖衆の來迎にあづかりて、決定してかのくにに往生してのうえのことに候。しかれば、ふかく往生極樂のこゝろざしあらむ人は、來迎引接の形像をつくりたてまつりて、すなわち來迎引接の誓願をあおぐべきものなり。その來迎引接の願といふは、すなわちこの四十八願の中の第十九の願なり。人師こⅢ-0868れを釋するに、おほくの義あり。まづ臨終正念のために來迎したまへり。おもはく、病苦みをせめて、まさしく死せむとするときには、かならず境界・自體・當生の三種の愛心をおこすなり。しかるに阿彌陀如來、大光明をはなちて行者のまへに現じたまふとき、未曾有の事なるがゆへに、歸敬の心のほかに他念なくして、三種の愛心をほろぼして、さらにおこることなし。かつはまた佛、行者にちかづきたまひて、加持護念したまふがゆへなり。『稱讚淨土經』(意)に「慈悲加祐して、こゝろをしてみだらざらしむ。すでに命をすておはりて、すなわち往生をえ、不退轉に住す」といへり。『阿彌陀經』に「阿彌陀佛、もろもろの聖衆とそのまへに現ぜむ。この人おわらむとき、心顚倒せずして、すなわち阿彌陀佛國土に往生をえむ」ととけり。「令心不亂」と「心不顚倒」とは、すなわち正念に住せしむる義なり。しかれば、臨終正念なるがゆへに來迎したまふにはあらず、來迎したまふがゆへに臨終正念なりといふ義、あきらかなり。在生のあひだ往生の行成就せむひとは、臨終にかならず聖衆來迎をうべし。來迎をうるとき、たちまちに正念に住すべしといふこゝろなり。しかるにいまのときの行者、おほくこのむねをわきまえずして、ひとへに尋常の行においては怯弱生じて、Ⅲ-0869はるかに臨終のときを期して正念をいのる、もとも僻韻なり。しかれば、よくよくこのむねをこゝろえて、尋常の行業において怯弱のこゝろをおこさずして、臨終正念において決定のおもひをなすべきなり。これはこれ、至要の義なり。きかむ人、こゝろをとゞむべし。この臨終正念のために來迎すといふ義は、靜慮院の靜照法橋の釋なり。
次に道の先達のために來迎したまふといへり。あるいは『往生傳』(往生淨土*傳卷中)に、沙門志法が遺書にいはく、
「我在生死海 幸値聖船筏 我所顯眞聖 來迎卑穢質
若忻求淨土 必造畫形像 臨終現其前 示道路攝心
念念罪漸盡 隨業生九品 其所顯聖衆 先讚新生輩
佛道樂增進」W云云R
これすなわち、この界にして造畫するところの形像、先達となりて淨土におくりたまふ證據なり。また『藥師經』(玄奘譯)をみるに、淨土をねがふともがら、行業いまださだまらずして、往生のみちにまどふことあり。すなわち文にいはく、「よく受持八分齋戒あらむ。あるいは一年をへ、あるいはまた三月受持せⅢ-0870む。まなぶところ、この善根をもて西方極樂世界无量壽佛のみもとにむまれむと願じて、正法を聽聞すれども、いまださだまらざるもの、もし世尊藥師瑠璃光如來の名號をきかむ。命終のときにのぞみて、八菩薩あて神通に乘じてきたりて、その道路をしめさむ。すなわちかの界にして、種種の雜色衆寶華の中に自然に化生す」といへり。もしかの八菩薩その道路をしめさずは、ひとり往生することえがたきにや。これをもておもふにも、彌陀如來もろもろの聖衆とともに行者のまへに現じてきたりて迎接したまふも、みちびきて道路をしめしたまはむがためなりといふ義、まことにいはれたることなり。娑婆世界のならひも、みちをゆくにはかならず先達といふものを具する事なり。これによて御廟の僧正は、この來迎の願おば現前導生の願となづけたまへり。
次に對治魔事のために來迎すといふ義あり。道さかりなれば、魔さかりなりとまふして、佛道修行するには、かならず魔の障難のあひそふなり。眞言宗の中には、「誓心決定すれば、魔宮振動す」(發菩提*心論)といへり。天台『止觀』(卷八*下意)の中には、「四種三昧を修行するに、十種の境界おこる中に魔事境來」といへり。また菩薩、三祇百劫の行すでになりて正覺をとなふるときも、第六天の魔王きたりて種種Ⅲ-0871に障㝵せり。いかにいはむや、凡夫具縛の行者、たとひ往生の行業を修すといふとも、魔の障難を對治せずは、往生の素懷をとげむことかたし。しかるに阿彌陀如來、无數の化佛・菩薩聖衆に圍繞せられて、光明赫奕として行者のまへに現じたまふときには、魔王もこゝにちかづき、これを障㝵することあたはず。しかればすなわち、來迎引接は魔障を對治せむがためなり。來迎の義、略を存ずるにかくのごとし。これらの義につきておもひ候にも、おなじく佛像をつくらむには、來迎の像をつくるべきとおぼえ候なり。佛の功德、大概かくのごとし。
次に三部經は、いま三部經となづくることは、はじめてまふすにあらず、その證これおほし。いはく大日三部經は、『大日の經』・『金剛頂經』・『蘇悉地經』等これなり。彌勒の三部經、『上生經』・『下生經』・『成佛經』等これなり。鎭護國家の三部經は、『法華經』・『仁王經』・『金光明經』等これなり。法華の三部經、『无量義經』・『法華經』・『普賢經』等これなり。これすなわち、三部經となづくる證據なり。いまこの彌陀の三部經は、ある人師のいはく、「淨土の敎に三部あり。いはく『雙卷无量壽經』・『觀无量壽經』・『阿彌陀經』等これなり」。Ⅲ-0872これによて、いま淨土の三部經となづくるなり。あるいはまた彌陀の三部經ともなづく。またある師のいはく、「かの三部經に『鼓音聲經』をくわえて四部となづく」(慈恩小*經疏意)といへり。おほよそ諸經の中に、あるいは往生淨土の法をとくあり、あるいはとかぬ經あり。『華嚴經』にはこれをとけり、すなわち『四十華嚴』の中の普賢の十願これなり。『大般若經』の中にすべてこれをとかず。『法華經』(卷六)の中にこれをとけり、すなわち「藥王品」の「卽往安樂世界」の文これなり。『涅槃經』にはこれをとかず。また眞言宗の中には、『大日經』・『金剛頂經』に蓮華部にこれとくといゑども、大日の分身なり、別てとけるにはあらず。もろもろの小乘經にはすべて淨土をとかず。しかるに往生淨土をとくことは、この三部經にはしかず。かるがゆへに淨土の一宗には、この三部經をもてその所縁とせり。
またこの淨土の法門において宗の名をたつること、はじめてまふすにあらず、その證據これおほし。少々これをいださば、元曉の『遊心安樂道』に、「淨土宗意、本爲凡夫、兼爲聖人也」といへる、その證なり。かの元曉は華嚴宗の祖師なり。慈恩の『西方要決』に、「依此一宗」といえるなり、またその證なり。かの慈恩は法相宗の祖師なり。迦才の『淨土論』(序)には、「此一宗竊要路たり」といⅢ-0873へる、またその證なり。善導『觀經の疏』(散善義)に、「眞宗叵遇」といへる、またその證なり。かの迦才・善導は、ともにこの淨土一宗をもはらに信ずる人なり。自宗・他宗の釋すでにかくのごとし。しかのみならず、宗の名をたつることは、天台・法相等の諸宗、みな師資相承による。しかるに淨土宗に師資相承血脈次第あり。いはく菩提流支三藏・惠寵法師・道場法師・曇鸞法師・法上法師・道綽禪師・善導禪師・懷感禪師・小康法師等なり。菩提流支より法上にいたるまでは、道綽の『安樂集』にいだせり。自他宗の人師、すでに淨土一宗となづけたり。淨土宗の祖師、また次第に相承せり。これによて、いま相傳して淨土宗となづくるものなり。しかるを、このむねをしらざるともがらは、むかしよりいまだ八宗のほかに淨土宗といふことをきかずと難破することも候へば、いさゝかまふしひらき候なり。おほよそ諸宗の法門、淺深あり、廣狹あり。すなわち眞言・天台等の諸大乘宗は、ひろくしてふかし。倶舍・成實等の小乘宗は、ひろくしてあさし。この淨土宗は、せばくしてあさし。しかれば、かの諸宗は、いまのときにおいて機と敎と相應せず。敎はふかし機はあさし。敎はひろくして機はせばきがゆへなり。たとへば韻たかくしては、和することすくなきがごとし。まⅢ-0874たちゐさき器に大なるものをいるゝがごとし。たゞこの淨土の一宗のみ、機と敎と相應せる法門なり。かるがゆへにこれを修せば、かならず成就すべきなり。しかればすなわち、かの不相應の敎においては、いたはしく身心をついやすことなかれ。たゞこの相應の法に歸して、すみやかに生死をいづべきなり。
今日講讚せられたまへるところは、この三部の中の『雙卷无量壽經』と『阿彌陀經』となり。 まづ『无量壽經』には、はじめに彌陀如來の因位の本願をとく、次にはかの佛の果位の二報莊嚴をとけり。しかれば、この『經』には阿彌陀佛の修因感果の功德をとくなり。W乃至R一一の本誓悲願、一一の願成就の文にあきらかなり。つぶさに釋するにいとまあらず。その中に衆生往生の因果をとくといふは、すなわち念佛往生の願成就の「諸有衆生聞其名號」(大經*卷下)の文、および三輩の文これなり。もし善導の御こゝろによらば、この三輩の業因について正雜の二行をたてたまへり。正行についてまた二あり、正定・助業なり。三輩ともに「一向專念」(大經*卷下)といへる、すなわち正定業なり、かの佛の本願に順ずるがゆへに。またそのほかに助業あり、雜行あり。W乃至Rおほよそこの三輩の中におのおの菩提心等の餘善をとくといゑども、上の本願をのぞむには、もはら彌陀の名號を稱Ⅲ-0875念せしむるにあり。かるがゆへに「一向專念」といへり。上の本願といふは、四十八願の中の第十八の念佛往生の願をさすなり。一向のことば、二、三向に對する義なり。もし念佛のほかにならべて餘善を修せば、一向の義にそむくべきなり。往生をもとめむ人は、もはらこの『經』によて、かならずこのむねをこゝろうべきなり。
次に『阿彌陀經』は、はじめには極樂世界の依正二報をとく、次には一日七日の念佛を修して往生することをとけり、のちには六方の諸佛念佛の一行において證誠護念したまふむねをとけり。すなわちこの『經』には餘行をとかずして、えらびて念佛の一行をとけり。W乃至Rおほよそ念佛往生は、これ彌陀如來の本願の行なり、敎主釋尊選要の法なり、六方諸佛證誠の說なり。餘行はしからず。そのむね、『經』の文および諸師の釋つぶさなり。W乃至R
また經を釋するに、佛の功德もあらはれ、佛を讚ずれば、經の功德もあらわるゝなり。また疏は經のこゝろを釋したるものなれば、疏を釋せむに、經のこゝろあらはるべし。みなこれおなじものなり、まちまちに釋するにあたはず。W乃至R
いまこの『觀无量壽經』に二のこゝろあり。はじめには定散二善を修して往生Ⅲ-0876することをあかし、つぎには名號を稱して往生することをあかす。W乃至R『淸淨覺經』(卷四意)の信不信の因縁の文をひけり。この文のこゝろは、「淨土の法門をとくをきゝて、信向してみのけいよだつものは、過去にもこの法門をきゝて、いまかさねてきく人なり。いま信ずるがゆへに、決定して淨土に往生すべし。またきけどもきかざるがごとくにて、すべて信ぜぬものは、はじめて三惡道よりきたりて、罪障いまだつきずして、こゝろに信向なきなり。いま信ぜぬがゆへに、また生死をいづることあるべからず」といへるなり。詮ずるところは、往生人のこの法おば信じ候なり。W乃至R
天台等のこゝろは、十三觀の上に九品の三輩觀をくわへて、十六想觀となづく。この定散二善をわかちて、十三觀を定善となづけ、三福九品を散善となづくることは、善導一師の御こゝろなり。W乃至R
抑近來の僧尼を、破戒の僧、破戒尼といふべからず。持戒の人、破戒を制することは正法・像法のときなり。末法には無戒名字の比丘なり。傳敎大師『末法燈明記』云、「末法の中に持戒の者ありといはば、これ怪異なり、市に虎あらむがごとし。たれかこれを信ずべき」といへり。またいはく、「末法の中には、たゞ言Ⅲ-0877敎のみあて行證なし。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒おか破せむによて破戒あらむ。破戒なほなし、いかにいはむや持戒おや」といへり。まことに受戒の作法は、中國には持戒の僧十人を請じて戒師とす。邊地には五人を請じて戒師として、戒おばうくるなり。しかるにこのごろは、持戒の僧一人もとめいださむに、えがたきなり。しかれば、うけての上にこそ破戒とことばもあれば、末代の近來は破戒なほなし、たゞ无戒の比丘なりとまふすなり。この『經』に破戒をとくことは、正像に約してときたまへるなり。W乃至R
次に名號を稱して往生することをあかすといふは、「佛、阿難につげたまはく、なんぢよくこの語をたもて。この語たもてといふは、すなわちこれ无量壽佛のみなをたもてとなり」(觀經)とのたまへり。善導これを釋していはく、「佛告阿難汝好持是語といふより已下は、まさしく彌陀の名號を付屬して、遐代に流通することをあかす。かみよりこのかた、定散兩門の益とくといゑども、佛の本願をのぞむには、こゝろ、衆生をして一向にもはら彌陀佛のみなを稱するにあり」(散善義)とのたまへり。おほよそこの『經』の中には、定散の諸行をとくといゑども、その定散をもては付屬したまはず、たゞ念佛の一行をもて阿難に付屬して、未Ⅲ-0878來に流通するなり。「遐代に流通す」といふは、はるかに法滅の百歲までをさす。すなわち末法萬年ののち、佛法みな滅して三寶の名字もきかざらむとき、たゞこの念佛の一行のみとゞまりて百歲ましますべしとなり。しかれば、聖道門の法文もみな滅し、十方淨土の往生もまた滅し、上生都率もまたうせ、諸行往生もみなうせたらむとき、たゞこの念佛往生の一門のみとゞまりて、そのときも一念にかならず往生すべしといへり。かるがゆへにこれをさして、とおき世とはいふなり。これすなわち遠をあげて、近を攝するなり。「佛の本願をのぞむ」といふは、彌陀如來の四十八願の中の第十八の願をおしふるなり。いま敎主釋尊、定散二善の諸行をすてゝ念佛の一行を付屬したまふことも、彌陀の本願の行なるがゆへなり。「一向專念」といふは、『雙卷經』にとくところの三輩のもんの中の一向專念をおしふるなり。一向のことば、餘をすつることばなり。この『經』には、はじめにひろく定散をとくといゑども、のちには一向に念佛をえらびて付屬し流通したまへるなり。しかれば、とおくは彌陀の本願にしたがひ、ちかくは釋尊の付屬をうけむとおもはゞ、一向に念佛の一行を修して往生をもとむべきなり。
Ⅲ-0879おほよそ念佛往生は諸行往生にすぐれたること、おほくの義あり。一には、因位の本願なり。いはく彌陀如來の因位、法藏菩薩のとき、四十八の誓願をおこして、淨土をまふけて佛にならむと願じたまひしとき、衆生往生の行をたてゝえらびさだめたまひしに、餘行おばえらびすてゝ、たゞ念佛の一行を選定して往生の行にたてたまへり。これを選擇の願といふことは、『大阿彌陀經』の說なり。二には、光明攝取なり。これは阿彌陀佛因位の本願を稱念して、相好の光明をもて念佛の衆生を攝取してすてたまはずして、往生せさせたまふなり。餘の行者おば攝取したまはず。三には、彌陀みづからのたまはく、「これはこれ跋陀和菩薩極樂世界にまうでゝ、いづれの行を修してかこのくにゝ往生し候べきと、阿彌陀佛にとひたてまつりしかば、佛こたえてのたまはく、わがくにに生ぜむとおもはゞ、わが名を念じて休息することなかれ、すなわち往生することをえてむ」(一卷本般舟*經問事品意)とのたまへり。餘行おばすゝめたまはず。四には、釋迦の付屬にいはく、いまこの『經』に念佛を付屬流通したまへり。餘行おば付屬せず。五には、諸佛證誠。これは『阿彌陀經』にときたまへるところなり。釋迦佛えらびて念佛往生のむねをときたまへば、六方の諸佛おのおのおなじくほめ、おなじくすゝめⅢ-0880て、廣長のみしたをのべて、あまねく三千大千世界におほふて證誠したまへり。これすなわち一切衆生をして、念佛して往生することは決定してうたがふべからずと信ぜしめむ料なり。餘行おばかくのごとく證誠したまはず。六には、法滅の往生。いはく、「萬年三寶滅、斯經住百年。爾時聞一念、皆當得生彼」(禮讚)といふて、末法萬年ののち、たゞ念佛の一行のみとゞまりて、往生すべしといへることなり。餘行はしからず。しかのみならず、下品下生の十惡の罪人、臨終のとき聞經と稱佛と、二善をならべたりといゑども、化佛來迎してほめたまふに、「汝稱佛名故諸罪消滅。我來迎汝」(觀經)とほめて、いまだ聞經の事おばほめたまはず。また『雙卷經』に三輩往生の業をとく中に、菩提心および起立塔像等の餘の行おもとくといゑども、流通のところにいたりて、「其有得聞彼佛名號、歡喜踊躍乃至一念。當知此人爲得大利。則是具足无上功德」(大經*卷下)とほめて、餘行をさして无上功德とはほめたまはず。念佛往生の旨要をとるに、これにありと。
又云、佛の功德は百千萬劫のあひだ、晝夜にとくともきわめつくすべからず。これによて、敎主釋尊、かの阿彌陀佛の功德を稱揚したまふにも、要の中の要をⅢ-0881とりて、略してこの三部妙典をときたまへり。佛すでに略したまへり、當座の愚僧いかゞくはしくするにたえむ。たゞ善根成就のために、かたのごとく讚嘆したてまつるべし。阿彌陀如來の内證外用の功德无量なりといゑども、要をとるに、名號の功德にはしかず。このゆへにかの阿彌陀佛も、ことにわが名號をして衆生を濟度し、また釋迦大師も、おほくかのほとけの名號をほめて未來に流通したまへり。
しかれば、いまその名號について讚嘆したてまつらば、阿彌陀といふは、これ天竺の梵語なり。こゝには翻譯して无量壽佛といふ。また无量光といへり。または无邊光佛・无㝵光佛・无對光佛・炎王光佛・淸淨光佛・歡喜光佛・智慧光佛・不斷光佛・難思光佛・无稱光佛・超日月光佛といへり。こゝにしりぬ、名號の中に光明と壽命との二の義をそなえたりといふことを。かの佛の功德の中には、壽命を本とし、光明をすぐれたりとするゆへなり。しかれば、また光明・壽命の二の功德をほめたてまつるべし。
まづ光明の功德をあかさば、はじめに无量光は、『經』(觀經)にのたまはく、「无量壽佛に八萬四千の相あり。一一の相におのおの八萬四千の隨形好あり。一一Ⅲ-0882の好にまた八萬四千の光明あり。一一の光明あまねく十方世界をてらす。念佛の衆生を攝取して、すてたまはず」といへり。惠心、これをかむがへていはく、「一一の相の中におのおの七百五倶胝六百萬の光明を具せり、熾然赫奕たり」(要集*卷中意)といへり。一相よりいづるところの光明かくのごとし、いはむや八萬四千の相おや。まことに算數のおよぶところにあらず。かるがゆへに无量光といふ。 つぎに无邊光といふは、かの佛の光明、そのかずかくのごとし。无量のみにあらず、てらすところもまた邊際あることなきがゆへに无邊光といふ。 つぎに无㝵光は、この界の日月燈燭等のごときは、ひとへなりといゑども、ものをへだてつれば、そのひかりとほることなし。もしかの佛の光明、ものにさえらるれば、この界の衆生、たとひ念佛すといふとも、その光攝をかぶることをうべからず。そのゆへは、かの極樂世界とこの娑婆世界とのあひだ、十萬億の三千大千世界をへだてたり。その一一の三千大千世界におのおの四重の鐵圍山あり。いはゆるまづ一四天下をめぐれる鐵圍山あり、たかさ須彌山とひとし。つぎに少千界をめぐれる鐵圍山あり、たかさ第六天にいたる。つぎに中千界をめぐれる鐵圍山あり、たかさ色界の初禪にいたる。次に大千界をめぐれる鐵圍山あり、たかⅢ-0883さ第二禪にいたれり。しかればすなわち、もし无㝵光にあたらずは一世界をすらなほとほるべからず。いかにいはむや、十萬億の世界おや。しかるにかの佛の光明、かれこれそこばくの大小諸山をとほりてらして、この界の念佛衆生を攝取したまふに障㝵あることなし。餘の十方世界を照攝したまふことも、またかくのごとし。かるがゆへに无㝵光といふ。 次に淸淨光は、人師釋していはく、「无貪の善根より生ずるところのひかりなり」(述文贊*卷中意)。貪に二あり、婬貪・財貪なり。淸淨といふは、たゞ汚穢不淨を除却するにはあらず、その二の貪を斷除するなり。貪を不淨となづくるゆへなり。もし戒に約せば、不婬戒と不慳貪戒とにあたれり。しかれば法藏比丘、むかし不婬・不慳貪所生の光といふ。この光にふるゝものは、かならず貪欲のつみを滅す。もし人あて、貪欲さかりにして不婬・不慳貪の戒をたもつことえざれども、こゝろをいたしてもはらこの阿彌陀佛の名號を稱念すれば、すなわちかの佛、无貪淸淨の光をはなちて照觸攝取したまふゆへに、婬貪・財貪の不淨のぞこる。无戒・破戒の罪𠍴滅して、无貪善根の身となりて、持戒淸淨の人とひとしきなり。 次に歡喜光は、これはこれ无瞋善根所生の光。ひさしく不瞋恚戒をたもちて、この光をえたまへり。かるがⅢ-0884ゆへに无瞋所生の光といふ。この光にふるゝものは、瞋恚のつみを滅す。しかれば、憎盛の人なりといふとも、もはら念佛を修すれば、かの歡喜光をもて攝取したまふゆへに、瞋恚のつみ滅して、忍辱のひととおなじ。これまたさきの淸淨光の貪欲のつみ滅するがごとし。 次に智慧光は、これはこれ无癡の善根所生の光なり。ひさしく一切智慧をまなうで、愚癡の煩惱をたちつくして、この光をえたまへるがゆへに、无癡所生の光といふ。この光はまた愚癡のつみを滅す。しかれば、无智の念佛者なりといふとも、かの智慧の光をしててらし攝たまふがゆへに、すなわち愚癡の𠍴を滅して、智慧は勝劣あることなし。またこの光のごとくしりぬべし。かくのごとくして十二光の名ましますといふとも、要をとるにこれにあり。
凡かの佛の光明功德の中には、かくのごときの義をそなえたり。くはしくあかさば多種あるべし。おほきにわかちて二あり。一には常光、二には神通光なり。 はじめに常光といふは、諸佛の常光、おのおの意樂にしたがふて、遠近・長短あり。あるいは常光おもて、おのおの一尋相といへり。釋迦佛の常光のごとき、これなり。あるいは七尺をてらし、あるいは一里をてらし、あるいは一由Ⅲ-0885旬をてらし、あるいは二・三・四・五、乃至百千由旬をてらし、あるいは一四天下をてらし、あるいは一佛世界をてらし、あるいは二佛・三佛、乃至百千佛の世界をてらせり。この阿彌陀佛の常光は、八方上下无央數の諸佛の國土において、てらさずといふところなし。八方上下は、極樂について方角をおしふるなり。この常光について異說あり。すなわち『平等覺經』には、別して頭光をおしえたり。『觀經』にはすべて身光といへり。かくのごとき異說あり、『往生要集』に勘がへたり、みるべし。常光といふは、長時不斷にてらす光なり。 次に神通光といふは、ことに別時にてらす光なり。釋迦如來の『法華經』をとかむとしたまひしとき、東方萬八千の土をてらしたまふしがごときは、すなわち神通光なり。阿彌陀佛の神通光は、攝取不捨の光明なり。念佛衆生あるときはてらし、念佛の衆生なきときはてらすことなきがゆへなり。善導和尙『觀經の疏』(定善義)にこの攝取の光明を釋したまへるしたに、「光照の遠近をあかす」といへり。この念佛衆生の居所の遠近について、攝取の光明も遠近あるべしといふ義なり。たとひ一ついゑのうちに住したりとも、東によりてゐたらむ人の念佛まふさむには、攝取の光明とおくてらし、西によりてゐたらむ人の念佛まふさむには、光Ⅲ-0886明ちかくてらすべし。これをもてこゝろうれば、一つ城のうち、一國のうち、一閻浮提のうち、三千世界の内、乃至他方各別の世界まで、かくのごとしとしるべし。しかれば、念佛衆生について光照の遠近ありと釋したまへる、まことにいわれたることとこそおぼえ候へ。これすなわち阿彌陀佛の神通光なり。諸佛の功德はいづれの功德もみな法界に遍すといゑども、餘の功德はその相あらわるゝことなし。たゞ光明のみ、まさしく法界に遍する相をあらわせる功德なり。かるがゆへに、もろもろの功德の中には光明をもて最勝なりと釋したるなり。また諸佛の光明の中には彌陀如來の光明なほまたすぐれたまへり。このゆへに敎主釋尊ほめてのたまはく、「无量壽佛威神光明、最尊第一、諸佛光明所不能及」(大經*卷上)とのたまへり。またいはく、「我說无量壽佛光明威神巍巍殊妙、晝夜一劫、尙未能盡」(大經*卷上)とのたまへり。これはこれ、かの佛の光明と餘の佛の光明とを相對してその勝劣を校量せむに、彌陀佛におよばざる佛をかずえむに、よる・ひる一劫すとも、そのかずをしりつくすべからずとのたまへるなり。かくのごとく殊勝の光をえたまふことは、すなわち願行にこたへたり。いはく、かの佛、法藏比丘のむかし、世自在王佛のみもとにして、二百一十Ⅲ-0887億の諸佛の光明をみたてまつりて、選擇思惟して願じていはく、「設我得佛、光明有能限量、下至不照百千億那由他諸佛國者、不取正覺」(大經*卷上)とのたまへり。この願をおこしてのち、兆載永劫のあひだ積功累德して、願行ともにあらわして、この光をえたまへり。佛の在世に燈指比丘といふ人ありき。生しとき、指より光をはなちて十里をてらすことありき。のちに佛の御弟子となりて、出家して羅漢果をえたり。指より光をはなつ因縁によりて、なづけて燈指比丘といへり。過去九十一劫のむかし、毗婆尸佛のときに、ふるき佛像の指の損じたまひたるを修理したてまつりたりし功德によりて、すなわち指より光をはなつ報をうけたるなり。また梵摩比丘といふ人ありき。身より光をはなちて一由旬をてらせり。これ過去に佛に燈明をたてまつりたりしがゆへなり。また佛の御弟子阿那律は、佛の說法の座に睡眠したることありき。佛、これを種種に彈呵したまふ。阿那律、すなわち懺悔のこゝろをおこして睡眠斷ず。七日をへてのち、その目開ながら、そのまなこみずなりぬ。これを醫師にとうに、醫師こたえていはく、人は食をもて命とす、眼はねぶりをもて食とす。もし人七日食せざらむに、命あにつきざらむや。しかればすなわち、醫療のおよぶところにあらず。命つきⅢ-0888ぬる人に醫療よしなきがごとしといへり。そのとき佛、これをあわれみて天眼の法をおしえたまふ。すなわちこれを修して、かへりて天眼通をえたり。すなわち天眼第一阿那律といへるこれなり。過去に佛のものをぬすまむとおもふて塔の中にいたるに、燈明すでにきえなむとするをみて、弓のはずをもてこれをかきあぐ。そのときに、忽然として改悔のこゝろをおこして、あまさへ无上道心をおこしたりき。それよりこのかた、生生世世に无量の福をえたり。いま釋迦出世のとき、ついに得脫して、またかくのごとく天眼通をえたり。これすなわち、かの燈明をかゝげたりし功德によてなり。W乃至R
次に壽命の功德といふは、諸佛壽命、意樂にしたがふて長短あり。これによて惠心僧都、四句をつくれり。「あるいは能化の佛は命ながく、所化の衆生は命みじかきあり。華光如來のごとし。佛の命は十二小劫、衆生の命は八小劫なり。あるいは能化の佛は命みじかく、所化の衆生は命ながきあり。月面如來のごとし。佛の命一日一夜、衆生の命は五十歲なり。あるいは能化・所化ともに命みじかきあり。釋迦如來のごとし。佛も衆生もともに八十歲なり。あるいは能化・所化ともに命ながきあり。阿彌陀如來のごとし。佛も衆生もともに无量歲なり」Ⅲ-0889(小經略*記意)。かるがゆへに『經』(大經*卷上)にのたまはく、「佛告阿難、无量壽佛壽命長久不可勝計。汝寧知乎、假使十方世界无量衆生皆得人身、悉令成就聲聞・縁覺、都共推算計禪思一心竭其智力於百千萬劫、悉共推算計其壽命長遠之數、不能窮盡知其限極。聲聞・菩薩・天人之衆壽命長短亦復如是。非算數譬喩所能知也」とのたまへり。たゞもし神通の大菩薩等のかずへたまはむには、一大恆沙劫なりと、『大論』のこゝろをもて、惠心勘たり。この數、二乘凡夫のかずへてしるべきかずにあらず。かるがゆへに无量とはいへるなり。すべて佛の功德を論ずるに、能持・所持の二の義あり。壽命をもて能持といひ、自餘のもろもろの功德おばことごとく所持といふなり。壽命はよくもろもろの功德をたもつ。一切の萬德、みなことごとく壽命にたもたるゝがゆへなり。これは當座の導師がわたくしの義なり。すなわちかの佛の相好・光明・說法・利生等の一切功德、および國土の一切莊嚴等のもろもろの快樂のことら、たゞかの佛の命のながくましますがゆへの事なり。もし命なくは、かれらの功德・莊嚴等なにゝよりてかとゞまるべき。しかれば、四十八願の中にも、壽命无量の願に自餘の諸願おばおさめたるなり。たとひ第十Ⅲ-0890八の念佛往生の願、ひろく諸機を攝して濟度するににたりといゑども、佛の御命もしみじかくは、その願なほひろまらじ。そのゆへは、もし百歲千歲、もしは一劫二劫にてもましまさましかば、いまのときの衆生はことごとくその願にもれなまし。かの佛成佛してのち、十劫をすぎたるがゆへなり。これをもてこれをおもへば、濟度利生の方便は壽命の長遠なるにすぎたるはなく、大慈大悲の誓願も壽命の无量なるにあらわるゝものなり。これ娑婆世界の人も、命をもて第一のたからとす。七珍萬寶をくらの内にみてたれども、綾羅錦繡をはこのそこにたくわえたるも、命のいきたるほどぞわが寶にてもある、まなこ閉ぬるのちはみな人のものなり。しかれば、W乃至R彌陀如來の壽命无量の願をおこしたまひけむも、御身のため長壽の果報をもとめたまふにはあらず。濟度利生のひさしかるべきために、また衆生をして忻求のこゝろをおこさしめむがためなり。一切衆生はみな命ながゝらむことをねがふがゆへなり。凡かの佛の功德の中には、壽命无量の德をそなへたまふにすぎたることは候はぬなり。このゆへに『雙卷經』の題にも「无量壽經」といへども、无量光經とはいはず。隋朝よりさきの舊譯には、みな經の中に宗とあることをえらびて、詮をぬき略を存じてその題目とⅢ-0891するなり。すなわちこの『經』の詮には、阿彌陀如來の功德をとけるなり。その功德の中には、光明无量・壽命无量の二の義をそなへたり。その中にはまた壽命なを最勝なるゆへに、「无量壽經」となづくるなり。また釋迦如來の功德の中にも、久遠實成の宗をあらわせるをもて殊勝甚深のこととせり。すなわち『法華經』に「壽量品」とてとかれたり。廿八品の中には、この品をもてすぐれたりとす。まさにしるべし、諸佛の功德にも壽命をもて第一の功德とし、衆生のたからにも命をもて第一のたからとすといふことを。その命ながき果報をうることは、衆生に飮食をあたへ、またものゝ命をころさゞるを業因とするなり。因と果と相應することなれば、食はすなわち命をつぐがゆへに、食をあたふるはすなわち命をあたふるなり。不殺生戒をたもつもまた衆生の命をたすくるなり。かるがゆへに、飮食をもて衆生に施與し、慈悲に住して不殺生戒をたもてば、かならず長命の果報をえたり。しかるにかの阿彌陀如來は、すなわち願行あひたすけて、この壽命无量の德おば成就したまへるなり。願といふは、四十八願の中の第十三の願にいはく、「設我得佛、壽命有能限量、下至百千億那由他劫者、不取正覺」(大經*卷上)とのたまへり。行といふは、かの願をたてたまふてのⅢ-0892ち无央數劫のあひだ、また不殺生戒をたもてり。また一切の凡聖において、飮食・醫藥を供養し施與したまへるなり。これは阿彌陀如來の壽命の功德なり。W乃至R
かの佛、かくのごとく壽命无量なりといゑども、また涅槃隱沒の期まします。これについて、あわれなることこそ候へ。道綽禪師、念佛の衆生において始終兩益ありと釋したまへる。その終益をあかすに、すなわち『觀音授記經』(意)をひきていはく、「阿彌陀佛、住世の命、兆載永劫のゝち滅度したまひて、たゞ觀音・勢至、衆生を接引したまふことあるべし。そのときに、一向にもはら念佛して往生したる衆生のみ、つねに佛をみたてまつる、滅したまはぬがごとし。餘行往生の衆生は、みたてまつることあらず」といへり。往生をえてむ上に、そのときまでのことはあまりごとぞ、とてもかくてもありなむとおぼえぬべく候へども、そのときにのぞみては、かなしかるべきことにてこそ候へ。かの釋迦入滅のありさまにても、おしはかられ候なり。證果の羅漢、深位の大士も、非滅・現滅のことはりをしりながら、當時別離のかなしみにたえず、天にあおぎ地にふし、哀哭し悲泣しき。いはむや未證の衆生おや、淺識の凡愚おや、乃至龍神八部も五十二類も、凡涅槃の一會悲歎のなみだをながさずといふことなし。しかⅢ-0893のみならず、娑羅林のこずゑ、拔提河の水、すべて山川・溪谷・草木・樹林も、みな哀傷のいろをあらはしき。しかれば、過去をきゝて未來をおもひ、穢土になずらへて淨土をしるに、かの阿彌陀佛の衆寶莊嚴の國土をかくし、涅槃寂滅の道場にいりたまひてのち、八萬四千の相好ふたゝび現ずることなく、无量无邊の光明はながくてらすことなくは、かの會の聖衆人天等、悲哀のおもひ、戀慕のこゝろざし、いかばかりかは候べき。七寶自然のはやしなりとも、八功如意の水なりとも、名華・輭草のいろも、鳧鴈・鴛鴦のこゑも、いかゞそのときをしらざらむや。淨穢は土ことなりといゑども、世尊の滅度すでにことなることなし。迷悟はこゝろかわるといゑども、所化の悲戀なんぞかわることあらむや。この娑婆世界の凡夫、具縛の人の心事、相應せず。意樂各別にて、つねに違背し、たがひに厭惡をするだにも、あるいは夫妻のちぎりおもむすび、あるいは朋友のことばおもなして、しばらくもなづさひ、また馴ぬれば、遠近のさかひをへだて、前後の生をあらため、かくのごとく生おも死おもわかれをつぐるときには、なごりをおしむこゝろたちまちにもよおし、かなしみにたえず、なみだおさへがたきことにてこそは候へ。いかにいはむや、かの佛、内には慈悲哀愍のⅢ-0894こゝろをのみたくはへてましませば、なれたてまつるにしたがふて、いよいよむつまじく、外には見者无厭の德をそなへてましませば、みまいらするごとに、いやめづらなるおや。まことに无量永劫があひだ、あさゆふに萬德圓滿のみかほをおがみたてまつり、晝夜に四辯无窮の御音になれたてまつりて、恭敬瞻仰し、隨逐給仕して、すぎたらむここちに、ながくみたてまつらざらむことになりたらむばかり、かなしかるべきことや候べき。无有衆苦のさかひ、離諸妄想のところなりといふとも、このこと一事は、さこそおぼへ候らめとぞおぼえ候。それにもとのごとくみたてまつりて、あらたまることなからむことは、まことにあはれにありがたきこととこそおぼへ候へ。これすなわち、念佛一行、かの佛の本願なるがゆへなり。おなじく往生をねがはむ人は、專修念佛の一門よりいるべきなり。

康元元丁巳正月二日書之
愚禿親鸞W八十五歲R


Ⅲ-0895西方指南抄上[末]


次に『雙卷无量壽經』。「淨土三部經」の中には、この『經』を根本とするなり。其故は、一切の諸善は願を根本とす。而に此『經』には彌陀如來の因位の願をときていはく、乃往過去久遠无量无央數劫に佛ましましき、世自在王佛とまふしき。そのとき一人の國王ありき。佛の說法をきゝて、无上道心をおこして、國をすて王をすてゝ、家をいでゝ沙門となれり。なづけて法藏比丘といふ。すなわち世自在王佛の所詣て、右にめぐること三帀して、頂跪合掌して佛をほめたてまつりてまふしてまふさく、われ淨土をまうけて衆生を度せむとおもふ。ねがわくは、わがために經法をときたまへと。そのとき世自在王佛、法藏比丘のために二百一十億の諸佛の淨土の人天の善惡、國土の麤妙をとき、また現じてこれをあたへたまふ。法藏比丘、佛の所說をきゝ、また嚴淨の國土をことごとくみおはりてのち、五劫のあひだ思惟し取捨して、二百一十億の浄土の中よりえらびとりて、四十八の誓願をまふけたり。この二百一十億の諸佛のくにの中より、善惡の中にⅢ-0896は惡をすてゝ善をとり、麤妙の中には麤をすてゝ妙をとる。かくのごとく取捨し選擇して、この四十八願をおこせるがゆへに、この『經』の同本譯の『大阿彌陀經』には、この願を選擇の願ととかれたり。その選擇のやう、おろおろまふしひらき候はむ。
まづはじめの无三惡趣の願は、かの諸佛の國土の中に、三惡道あるおばえらびすてゝ、三惡道なきおばえらびとりてわが願とせり。次に不更惡趣の願は、かの諸佛のくにの中に、たとひ三惡道なしといゑども、かのくにの衆生、また他方の三惡道におつることあるくにおばえらびすてゝ、すべて三惡道にかへらざるくにをえらびとりてわが願とせるなり。次に悉皆金色の願、次に无有好醜の願、一一の願みなかくのごとしとしるべし。第十八の念佛往生の願は、かの二百一十億の諸佛の國土の中に、あるいは布施をもて往生の行とするくにあり、あるいは持戒および禪定・智慧等、乃至發菩提心、持經・持呪等、孝養父母・奉事師長等、かくのごときの種種の行をもて、おのおの往生の行とするくにあり、あるいはまた、もはらそのくにの敎主の名號を稱念するをもて、往生の行とするくにもあり。しかるにかの法藏比丘、餘行をもて往生の行とする國おばえらびすてゝ、Ⅲ-0897たゞ名號を稱念して往生の行とする國をえらびとりて、わが國土の往生の行も、かくのごとくならむとたてたまへるなり。次に來迎引接の願、次に係念定生の願、みなかくのごとくえらびとりて願じたまへり。凡はじめ无三惡趣の願より、おはり得三法忍の願にいたるまで思惟し選擇するあひだ、五劫おばおくりたるなり。かくのごとく選擇し攝取してのちに、佛のみもとに詣して、一一にこれをとく。その四十八願ときおはりてのち、また偈をもてまふさく、「我建超世願、必至无上道。斯願不滿足、誓不成正覺。W乃至R斯願若剋果、大千應感動。虛空諸天人、當雨珍妙華」(大經*卷上)と。かの比丘、この偈をときおはるに、ときに應じてあまねく地、六種に震動し、天より妙華そのうえに散じて、自然の音樂、空の中にきこへ、また空の中にほめていはく、「決定してかならず无上正覺なるべし」(大經*卷上)と。しかれば、かの法藏比丘の四十八願は、一一に成就して決定して佛になるべしといふことは、そのはじめ發願のとき、世自在王佛の御まへにして、諸魔・龍神八部、一切大衆の中にして、かねてあらわれたることなり。しかれば、かの世自在王佛の法の中には、法藏菩薩の四十八願經とて受持・讀誦しき。いま釋迦の法の中なりといふとも、かの佛の願力をあおぎて、Ⅲ-0898かのくにゝむまれむとねがふは、この法藏菩薩四十八願の法門にいるなり。すなわち道綽禪師・善導和尙等も、この法藏菩薩の四十八願法門にいりたまへるなり。かの華嚴宗の人は『華嚴經』をたもち、あるいは三論宗の人は『般若經』等をたもち、あるいは法相宗の人は『瑜伽』・『唯識』をたもち、あるいは天台宗の人は『法華』をたもち、あるいは善无畏は『大日經』をたもち、金剛智は『金剛頂經』をたもつ。かくのごとく、おのおの宗にしたがふて、依經・依論をたもつなり。いま淨土宗を宗とせむ人は、この『經』によて四十八願法門をたもつべきなり。この『經』をたもつといふは、すなわち彌陀の本願をたもつなり。彌陀の本願といふは、法藏菩薩の四十八願法門なり。その四十八願の中に、第十八の念佛往生の願を本體とするなり。かるがゆへに善導のたまはく、「弘誓多門四十八。偏標念佛最爲親」(法事讚*卷上)といへり。念佛往生といふことは、みなもとこの本願よりおこれり。しかれば、『觀經』・『彌陀經』にとくところの念佛往生のむねも、乃至餘の經の中にとくところも、みなこの『經』にとけるところの本願を根本とするなり。なにをもてかこれをしるとならば、『觀經』にとけるところの光明攝取を、善導釋したまふに、「唯有念佛蒙光攝、當知本願最爲強」(禮讚)とⅢ-0899いへり。この釋のこゝろ、本願なるがゆへに光明も攝取すときこえたり。またおなじ『經』に、下品上生に聞經と稱佛とをならべてとくといゑども、化佛きたりてほめたまふには、たゞ称佛の功をのみほめて、聞經おばほめたまはずといへり。善導釋していはく、「望佛本願意者、唯勸正念稱名。往生義疾不同雜散之業」(散善義)といへり。これまた本願なるがゆへに、稱佛おばほめたまふときこへたり。またおなじ『經』の付屬の文を釋したまふにも、「望佛本願意、在衆生一向專稱彌陀佛名」(散善義)といへり。これまた彌陀の本願なるがゆへに、釋尊も付屬し、流通せしめたまふときこへたり。また『阿彌陀經』にとけるところの一日七日の念佛を善導ほめたまふに、「直爲彌陀弘誓重、致使凡夫念卽生」(法事讚*卷下)といへり。これまた一日七日の念佛も、彌陀の本願なるがゆへに往生すときこえたり。乃至『雙卷經』の中にも、三輩已下の諸文はみなかみの本願によるなり。凡この「三部經」にかぎらず、一切諸經の中にあかすところの念佛往生は、みなこの『經』の本願をのぞまむとてとけるなりと、しるべし。
抑法藏菩薩、いかなれば餘行をすてて、たゞ稱名念佛の一行をもて本願にたⅢ-0900てたまへるぞといふに、これに二の義あり。一には念佛は殊勝の功德なるがゆへに、二は念佛は行じやすきによて諸機にあまねきがゆへに。はじめに殊勝の功德なるがゆへにといふは、かの佛の因果、總別の一切の萬德、みなことごとく名號にあらわるゝがゆへに、一たびも南无阿彌陀佛ととなふるに、大善根をうるなり。こゝをもて『西方要決』にいはく、「諸佛願行成此果名、但能念號具包衆德、故成大善不廢往生」といへり。またこの『經』(大經*卷下)に、すなわち一念をさして「无上功德」とほめたり。しかれば、殊勝の大善根なるがゆへに、えらびて本願としたまへるなり。二には修しやすきがゆへにといふは、南无阿彌陀佛とまふすことは、いかなる愚癡のものも、おさなきも、老たるも、やすくまふさるゝがゆへに、平等の慈悲の御こゝろをもて、その行をたてたまへり。もし布施をもて願とせば、貧窮困乏のともがら、さだめて往生ののぞみをたゝむ。もし持戒をもて本願とせば、破戒・無戒のたぐひ、また往生ののぞみをたつべし。もし禪定をもて本願とせば、散亂麤動のともがら、往生すべからず。もし智慧をもて本願とせば、愚鈍下智のもの、往生すべからず。自餘の諸行もこれになずらへてしるべし。しかるに布施・持戒等の諸行にたえたるものⅢ-0901はきわめてすくなく、貧窮・破戒・散亂・愚癡のともがらははなはだおほし。しかれば、かみの諸行をもて本願としたまひたらましかば、往生をうるものはすくなく、往生せぬものはおほからまし。これによて法藏菩薩、平等の慈悲にもよおされて、あまねく一切を攝せむがために、かの諸行をもては往生の本願とせず、たゞ稱名念佛の一行をもてその本願としたまへるなり。かるがゆへに法照禪師のいはく、
「於未來世惡衆生 稱念西方彌陀號
依佛本願出生死 以直心故生極樂」と[云]。
又(五會法事*讚卷本)云、
「彼佛因中立弘誓 聞名念我總迎來
不簡貧窮將富貴 不簡下智與高才
不簡多聞持淨戒 不簡破戒罪根深
但使廻心多念佛 能令瓦礫變成」と。
かくのごとく誓願をたてたりとも、その願成就せずは、まさにたのむべきにあⅢ-0902らず。しかるにかの法藏菩薩の願は、一一に成就してすでに佛になりたまへり。その中に、この念佛往生の願成就の文にいはく、「諸有衆生、聞其名號、信心歡喜、乃至一念。至心廻向。願生彼國、卽得往生、住不退轉」(大經*卷下)と[云]。次に三輩の往生はみな、「一向專念无量壽佛」(大經*卷下)といへり。この中に菩提心等の諸善ありといゑども、かみの本願をのぞむには、一向にもはらかの佛の名號を念ずるなり。例せばかの『觀經の疏』(散善義)に釋せるがごとし。「かみよりこのかた、定散兩門の益をとくといゑども、佛の本願をのぞむには、こゝろ衆生をして一向にもはら彌陀佛のみなを稱するにあり」といへり。「望佛本願」といふは、この三輩の中の「一向專念」をさすなり。 次に流通にいたて、「其有得聞彼佛名號、歡喜踊躍乃至一念。當知此人爲得大利。卽是具足无上功德」(大經*卷下)といへり。善導の御こゝろは、「上盡一形下至一念」(禮讚意)、无上功德なりと。餘師のこゝろによらば、たゞ少をあげて多をあらはすなりといへり。次に「當來之世經道滅盡、我以慈悲哀愍、特留此經止住百歲。其有衆生値此經者、隨意所願皆可得度」(大經*卷下)といへり。この末法萬年ののち、三寶滅盡のときの往生をおもふに、一向專念の往生の義をあかすなり。そのゆへは、菩提Ⅲ-0903心をときたる諸經みな滅しなば、なにゝよてか菩提心の行相おもしらむ。大小の戒經みなうせなば、なにゝよてか二百五十戒おも、五十八戒おもたもたむ。佛像あるまじければ、造像起塔の善根もあるべからず。乃至、持經・持呪等もまたかくのごとし。そのときに、なほ一念するに往生すといへり。すなわち善導いはく、「爾時聞一念、皆當得生彼」(禮讚)といへり。かれをもていまをおもふに、念佛の行者はさらに餘の善根において一塵も具せずとも、決定して往生すべきなり。しかれば、菩提心をおこさずはいかでか往生すべき、戒をたもたずしてはいかゞ往生すべき、智慧なくてはいかゞ往生すべき、忘念をしづめずしてはいかゞ往生すべきなむど、かくのごとくまふす人々候は、この『經』をこゝろえぬにて候なり。懷感禪師この文を釋せるに、「說戒・受戒もみな成ずべからず、甚深の大乘もしるべからず。さきだちて隱沒しぬれば、たゞ念佛のみさとりやすくして、淺識の凡愚なほよく修習して利益をうべし」(群疑論*卷三意)といへり。まことに戒法滅しなば、持戒あるべからず。大乘みな滅しなば、發菩提心・讀誦大乘もあるべからずといふことあきらかなり。淺識の凡愚といへり。しるべし、智慧にあらずといふことを。かくのごときのともがらの、たゞ稱名念佛の一行を修して、一聲まで往生Ⅲ-0904すべしといへるなり。これすなわち彌陀の本願なるがゆへなり。すなわち、かの大悲本願のとおく一切を攝する義なり。
次に『阿彌陀經』は、「不可以少善根福德因縁得生彼國。舍利弗、若有善男子・善女人、聞說阿彌陀佛、執持名號、若一日、乃至七日」といへり。善導和尙釋にいはく、「隨縁雜善恐難生。故使如來選要法」(法事讚*卷下)といへり。こゝにしりぬ、雜善をもては少善根となづけ、念佛をもて多善根といふことを。この『經』はすなわち、少善根なる雜善をすてゝ、もはら多善根の念佛をとけるなり。ちかごろ唐よりわたりたる『龍舒淨土文』とまふす文候。それに『阿彌陀經』の脫文とまふして、廿一字ある文をいだせり。「一心不亂」の下に、「專持名號、以稱名故諸罪消滅、卽是多善根福德因縁」(龍舒淨土*文卷一)といへり。すなわちかの文にこの文をいだしていはく、「いまのよにつたわるところの本に、この廿一字を脫せり」(龍舒淨土*文卷一)といへり。この脫文なしといふとも、たゞ義をもておもふに、多少の義ありといゑども、まさしく念佛をさして多善根といへる文、まことに大切なり。 次に六方如來の證誠をとけり。かの六方諸佛の證誠、たゞこの『經』をのみかぎりて證誠したまふににたれども、實をもて論ずれば、この『經』のみにⅢ-0905かぎらず。すべて念佛往生を證誠するなり。しかれども、もし『雙卷經』について證誠せば、かの經に念佛往生の本願をとくといゑども、三輩の中に菩提心等の行あるがゆへに、念佛の一行證誠するむねあらわるべからず。もし『觀經』を證せば、かの經にえらむで念佛を付屬すといゑども、まづは定散の諸行をとくがゆへに、また念佛の一行にかぎるとみゆべからず。こゝをもて、たゞ一向にもはら念佛をときたるこの『經』を證誠したまふなり。たゞ證誠のみことば、この『經』にありといへども、證誠の義はかの『雙卷』・『觀經』にも通ずべし。『雙卷』・『觀經』のみにあらず、もし念佛往生のむねをとかむ經おば、ことごとく六方如來の證誠あるべしとこゝろうべきなり。かるがゆへに天台の『十疑論』にいはく、「『阿彌陀經』・『大无量壽經』・『鼓音聲陀羅尼經』等にいはく、釋迦佛、經をときたまふときに、有十方世界各河沙諸佛、舒其舌相、遍覆三千世界、證誠一切衆生、念阿彌陀佛本願大悲願力故、決定得生極樂世界」といへり。W乃至R
次に往生淨土の祖師の五の影像を圖繪したまふに、おほくこゝろあり。まづ恩德を報ぜむがため、次には賢をみてはひとしからむことをおもふゆへなり。天台Ⅲ-0906宗を學せむ人は、南岳・天台を見たてまつりて、ひとしからばやとおもひ、眞言をならはむ人は、不空・善无畏をみては、ひとしからむとおもひ、華嚴宗の人は、香像・惠遠のごとくならむとおもひ、法相宗の人は、玄奘・慈恩のごとくならむとおもひ、三論の學者は、淨影大師をもうらやみ、持律の行者は、道宣律師おもとおからずおもふべきなり。しかれば、いま淨土をねがはむ人、その宗の祖師をまなぶべきなり。しかるに淨土宗の師資相承に二の說あり。『安樂集』のごときは、菩提流支・惠寵法師・道場法師・曇鸞法師・齊朝法上法師等の六祖をいだせり。今また五祖といふは、曇鸞法師・道綽禪師・善導禪師・懷感禪師・小康法師等なり。
曇鸞法師は、梁・魏兩國の无雙の學生也。はじめは壽長して佛道を行ぜむがため、陶隱居にあふて仙經をならふて、その仙方によて修行せむとしき。のちに菩提流支三藏にあひたてまつりて、佛法の中に長生不死の法の、この土の仙經にすぐれたるや候ととひたてまつりたまひければ、三藏唾を吐てこたえたまふやう、とえることばをもていひならふべきにあらず。この土いづれのところにか長生の方あらむ。命ながくしてしばらくしなぬやうなれども、ついにかへⅢ-0907て三有に輪廻す。たゞこの經によて修行すべし。すなわち長生不死の所にいたるべしといふて、『觀經』を授たまへり。そのときたちまちに改悔のこゝろをおこして、仙經を燒て、自行化他、一向に往生淨土の法をもはらにしき。『往生論の註』、また『略論安樂土義』等の文造也。幷州の玄忠寺に三百餘人門徒あり。臨終のとき、その門徒三百餘人あつまりて、自は香呂をとりて西に向て、弟子ともに聲を等して、高聲念佛して命終しぬ。そのとき道俗、おほく空中に音樂を聞といへり。
道綽禪師は、本は涅槃の學生なり。幷州の玄忠寺にして曇鸞の碑文をみて、發心して云、「かの曇鸞法師、智德高遠なり。なほ講說をすてて淨土の業を修して、すでに往生せり。いはむやわが所解、所知おほしとするにたらむや」(迦才淨土*論卷下意)と云て、すなわち涅槃の講說をすてゝ、一向にもはら念佛を修して相續してひまなし。つねに『觀経』を講じて、人を勸たり。幷州の晉陽・大原・汶水の三縣道俗、七歲已上は悉念佛をさとり往生をとげたり。又人を勸て、㖒唾便利西方に向はず、行住座臥西方を背ず。又『安樂集』二卷これを造。凡往生淨土の敎弘通、道綽の御力也。往生傳等を見にも、多道綽の勸を受て往生をとげたり。Ⅲ-0908善導もこの道綽の弟子也。しかれば、修南山の道宣の傳に云、「西方道敎の弘ことは、これより起」(續高僧傳*卷二〇意)と云り。又曇鸞法師、七寶の船に乘て空中に來をみる。又化佛・菩薩空に住する事七日、そのとき天華雨て、來集人々袖にこれをうく。かくのごとく不可思議の靈瑞多し。終のとき、白雲西方より來て、三道の白光と成て房中を照す。五色の光、空中に現ず。又墓の上に紫雲三度現ずる事あり。
善導和尙、いまだ『觀經』をえざるさきに、三昧をえたまひたりけると覺候。そのゆへは、道綽禪師にあふて『觀經』をえてのち、この經の所說、わが所見におなじとのたまへり。導和尙の念佛したまふには、口より佛出たまふ。曇省讚に云、「善導念佛佛從口出」といへり。同念佛をまふすとも、かまえて善導のごとく口より佛出たまふばかりまふすべきなり。「欲如善導妙在純熟」とまふして、誰なりとも念佛をだにもまことに申て、その功熟しなば、口より佛は出たまふべき也。道綽禪師は師なれども、いまだ三昧を發得せず。善導は弟子なれども、三昧をえたまひたりしかば、道綽、わが往生は一定か不定かと佛にとひたてまつりたまへとたまひければ、善導禪師命をうけてすなわち定に入て阿彌陀佛にⅢ-0909とひたてまつりしに、佛言、道綽に三の罪あり、すみやかに懺悔すべし。その罪懺悔して、定て往生すべし。一には、佛像・經卷おばひさしに安て、わが身は房中に居す。二には、出家の人をつかふ。三には、造作のあひだ蟲の命を殺す。十方の佛前にして、第一の罪を懺悔すべし。諸僧の前にして、第二の罪を懺悔すべし。一切衆生の前にして、第三の罪を懺悔すべしと。善導すなわち定より出て、このむねを道綽につげたまふに、道綽云、しづかにむかしのとがをおもふに、これみな空からずと云て、こゝろを至て懺悔すと云。しかれば、師に勝たるなり。善導は、ことに火急の小聲念佛を勸て、數をさだめたまへり。一萬・二萬・三萬・五萬、乃至十萬と云り。
懷感禪師は、法相宗の學生也。廣經典をさとりて、念佛おば信ぜず、善導に問云、念佛して佛を見たてまつりてむやと。導和尙答て云、佛の誠言なむぞうたがはむや。懷感この事について忽に解をひらき、信を起て道場に入て、高聲に念佛して見たてまつらむと願ずるに、三七日までにその靈瑞をみず。そのとき感禪師、自罪障の深して佛をみたてまつらざるとを恨て、食を斷じて死せむとす。善導、制してゆるさず。のちに『群疑論』七卷を造と[云々]。感師はことに高Ⅲ-0910聲念佛を勸たまへり。
小康法師は、本は持經者也。年十五歲にして『法華』・『華嚴』等の經五部を讀覺たり。これによて、『高僧傳』には讀誦篇に入れたれども、たゞ持經のみにあらず、瑜伽唯識の學生也。のちに白馬寺に詣て堂内をみれば、光はなちたる物あり。これを採取て見ば、善導の西方化導の文也。小康これをみて、こゝろ忽に歡喜して、願を發て云、われもし淨土に縁あらば、この文再光を放と。かくのごとく誓了て見ば、重て光を放。その光の中に、化佛・菩薩まします。歡喜やめがたくして、ついに又長安の善導和尙の影堂に詣して善導の眞像を見ば、化して佛身となりて小康にのたまはく、汝わが敎によて衆生を利益し、同淨土に生ずべしと。これを聞て、小康、所證あるがごとし。後に人を勸とするに、人その敎化にしたがはず。しかるあひだ、錢をまうけて、まづ小童等を勸て、念佛一返に錢一文をあたふ。のちに十遍に一文、かくのごとくするあひだ、小康の行に小童等ついておのおの念佛す。又小童のみにあらず、老小男女をきらはず、みなことごとく念佛す。かくのごとくしてのち、淨土堂を造て、晝夜に行道して念佛す。所化にしたがふて道場に來集輩、三千餘人也。又小康、高聲に念Ⅲ-0911佛するを見ば、口より佛出たまふこと、善導のごとし。このゆへに、時の人、後善導となづけたり。淨土堂とは唐のならひ、阿彌陀佛をすえたてまつりたる堂おば、みな淨土堂となづけたる也。
五祖の御德、要をとるにかくのごとしと。
又『无量壽經』は、如來の敎をまうけたまふこと、みな濟度衆生のためなり。かるがゆへに、衆生の機根まちまちなるがゆへに、佛の經敎も又无量なり。しかるに今の『經』は、往生淨土のために衆生往生の法を說たまふ也。阿彌陀佛、修因感果の次第、極樂淨土の二報莊嚴のありやうをくはしく說たまへるも、衆生の信心を勸て忻求のこゝろをおこさせむがため也。しかるにこの『經』の詮にては、われら衆生の往生すべきむねを說たまへる也。たゞしこの『經』を釋するに、諸師のこゝろ不同也。今しばらく善導和尙の御こゝろをもてこゝろえ候に、この『經』はひとへに專修念佛のむねを說を衆生往生の業としたまへるなり。なにをもてこれをしるといふに、まづかの佛の因位の本願を說中に、「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念。若不生者、不取正覺」(大經*卷上)と云。かの佛の因位、法藏比丘のむかし、世自在王佛のみもとにして、二一十億の諸佛Ⅲ-0912妙土の中よりえらびて四十八の誓願を起て、淨土をまふけて佛になりて、衆生をしてわがくにに生さすべき行業をえらびて願じたまひしに、またく行おばたてずして、たゞ念佛の一行をたてたまへる也。かるがゆへに『大阿彌陀經』には、すべてかの佛の願おば、選擇してたてたまふゆへなり。『大阿彌陀經』、この經は同本異譯の經也。しかるに往生の行は、われらがさかしくいまはじめてはからふべきことにあらず、みなさだめおけることなり。法藏比丘、もし惡をえらびてたてたまはゞ、世自在王佛、なほさでおはしますべきかは。かの願どもとかせてのち、決定无上正覺なるべしと授記したまはむ。法藏菩薩、かの願たてたまひて、兆載永劫のあひだ難行・苦行積功累德して、すでに佛になりたまひたれば、むかしの誓願一一にうたがふべからず。しかるに善導和尙、この本願の文を引てのたまはく、「若我成佛、十方衆生、稱我名下至十聲、若不生者、不取正覺。彼佛今現在成佛。當知本誓重願不虛、衆生稱念必得往生」(禮讚)と云。まことにわれら衆生、自力ばかりにて往生をもとむるにとりてこそ、この行業は佛の御こゝろにかなひやすらむ。またなにとも不審にもおぼへ、往生も不定には候べき。念佛を申して往生を願はむ人は、自力Ⅲ-0913にて往生すべきにはあらず、たゞ他力の往生也。本より佛のさだめおきて、わが名號をとなふるものは、乃至十聲・一聲までもむまれしめたまひたれば、十聲・一聲念佛にて一定往生すべければこそ、その願成就して成佛したまふと云道理の候へば、唯一向に佛の願力をあおぎて往生おば決定すべきなり。わが自力の強弱をさだめて不定におもふべからず。かの願成就の文、この『經』(大經)の下卷にあり。その文云、「諸有衆生、聞其名號、信心歡喜、乃至一念、至心廻向、願生彼國、卽得往生、住不退轉」と云。凡四十八願、淨土を莊嚴せり。華・池・寶閣、願力にあらずと云ことなし。その中にひとり、念佛往生の願のみうたがふべからず。極樂淨土もし淨土ならば、念佛往生も決定往生也。
次に往生の業因は念佛の一行定と云とも、行者の根性にしたがふて上・中・下あり。かるがゆへに三輩の往を說。すなわち上輩の文云く、「其上輩者、捨家棄欲而作沙門、發菩提心、一向專念无量壽佛」(大經*卷下)と云り。中輩の文云く、「雖不能行作沙門大修功德、當發无上菩提心、一向專意、乃至十念念无量壽佛」(大經*卷下意)と云へり。當座の導師、私に一の釋をつくり候。この三輩の文の中に、菩提心等の餘行あぐといゑども、上の佛の本願を望には、こゝⅢ-0914ろ衆生をして、もはら无量壽佛を念ぜしむるにあり。かるがゆへに「一向」と云。又『觀念法門』に善導釋して云、「又此『經』下卷初云、佛說一切衆生根性不同、有上・中・下。隨其根性、皆勸專念无量壽佛名。其人命欲終時、佛與聖衆自來迎接、盡得往生」と云り。この釋のこゝろ、三輩ともに念佛往生也。まことに一向の言は餘をすつる言なり。例せば、かの五天竺の三の寺のごとし。一には一向大乘寺、二には一向小乘寺、三には大小兼行寺。かの一向大乘寺の中には、小乘を學することなし。一向小乘寺には、大乘を學するものなし。大小兼行寺の中には、大乘・小乘ともに兼學する也。大小の兩寺はともに一向の言をおく、二を兼たる寺には一向の言をおかず。これをもてこゝろえ候に、今の『經』の中に一向の言もまたしかなり。もし念佛の外餘行をならぶれば、すなわち一向にあらず。かの寺になずらへば、兼行と云べし。すでに一向と云り。しるべし、餘行をすつといふ事を。たゞこの三輩の文の中に餘行を說について、三の意あり。一には、諸行をすてゝ念佛に歸せしめむがためにならべて行を說て、念佛において一向の言をおく。二には、念佛の人をたすけむがために諸善を說。三には、念佛と諸行とをならべて、ともに三品の差別Ⅲ-0915をしめさむがために諸行を說。この三の義の中には、たゞはじめの義を正とす。のちの二は傍義也。
次にこの『經』(大經*卷下)の流通分の中に說て云く、「佛語彌勒、其有得聞彼佛名號、歡喜踊躍乃至一念。當知此人爲得大利。則是具足无上功德」と云り。上の三輩の文の中に、念佛のほかにもろもろの功德を說といゑども、餘善おばほめず。たゞ念佛の一善をあげて、无上の功德と讚嘆して未來に流通せり。念佛の功德は、餘の功德に勝たることあきらかなり。「大利」と云は、小利に對する言なり。「无上」と云は、この功德の上する功德なしと云義也。すでに一念を指て大利と云、又无上と云。いはむや、二念・三念、乃至十念おや。いかにいはむや、百念・千念、乃至萬念おや。これ則、少を上て多を決する也。この文をもて餘行と念佛と相對してこゝろうるに、念佛すなわち大利也、餘善はすなわち小利也。念佛は无上也、餘行は又有上也。すべては往生を願ぜむ人、なんぞ无上大利の念佛をすてて、有上小利の餘善を執せむや。
次にこの『經』(大經)の下卷の奧に云、「當來之世經道滅盡、我以慈悲哀愍、特留此經止住百歲。其有衆生値此經者、隨意所願皆可得度」と云。善導此文を釋しⅢ-0916て云く、「萬年三寶滅、此經住百年、爾時聞一念、皆當得生彼」(禮讚)といへり。釋尊の遺法に三時の差別あり、正法・像法・末法也。その正法一千年のあひだ、敎行證の三ともに具足せり、敎のごとく行ずるにしたがふて證えたり。像法一千年のあひだは、敎行はあれども證なし。敎にしたがふて行ずといゑども、悉地をうることなし。末法萬年のあひだは、敎のみあて行證なし。わづかに敎門はのこりたれども、敎のごとく行ずるものなし、行ずれどもまた證をうるものなし。その末法萬年のみちなむのちは、如來の遺敎みなうせて、住持の三寶ことごとく滅して、おほよそ佛像・經典もなく、頭を剃、衣を染僧もなし。佛法と云こと、名字をだにもきくべからず。しかるに、そのときまでたゞこの『雙卷无量壽經』一部二卷ばかりのこりとゞまりて、百年まで住して衆生を濟度したまふこと、まことにあはれにおぼえ候。『華嚴經』も『般若經』も『法華經』も『涅槃經』も、おほよそ大小權實の一切諸經、乃至『大日』・『金剛頂』等眞言祕密の諸經も、みなことごとく滅したらむとき、たゞこの『經』ばかりとゞまりたまふことは、なに事にかとおぼえ候。釋尊の慈悲をもて、とゞめたまふことさだめてふかきこゝろ候らむ。佛智まことにはかりがたし。たゞし阿彌陀佛の機縁、この界Ⅲ-0917の衆生にふかくましますゆへに、釋迦大師もかの佛の本願をとゞめたまふなるべし。
この文について按じ候に、四のこゝろあり。一には、聖道門の得脫は機縁あさく、淨土門の往生のみ機縁ふかし。かるがゆへに三乘・一乘の得脫をとける諸經はさきだちて滅して、たゞ一念・十念の往生をとけるこの『經』ばかりひとりとゞまるべし。二には、往生につきて十方淨土は機縁あさく、西方淨土は機縁ふかし。かるがゆへに、十方淨土を勸たる諸經はことごとく滅して、たゞ西方の往生勸たるこの『經』ひとりとゞまるべし。三には、兜率の上生は機縁あさく、極樂の往生は機縁ふかきゆへに、『上生』・『心地』等の兜率を勸たる諸經はみな滅して、極樂を勸たるこの『經』ひとりとゞまるべし。四には、諸行の往生は機縁あさく、念佛の往生は機縁ふかきゆへに、諸行を說諸經はみな滅して、念佛を說るこの『經』のみひとりとゞまりたまふべし。この四の義の中に、眞實には第四の念佛往生のみとゞまるべしと云義の正義にて候也。「特留此經止住百歲」(大經*卷下)ととかれたれば、この二軸の經典、ひとりのこるべきかときこえ候へども、まことには經卷はうせたまひたれども、たゞ念佛の一門ばかりとゞまりて、百Ⅲ-0918年あるべきにやとおぼえ候。かの秦始皇が、書を燒、儒を埋しとき、『毛詩』と申す文ばかりはのこりたりと申すこと候。それも文はやかれたれども、詩はとゞまりて口にありと申して、詩おば人々そらにおぼへたりけるゆへに、『毛詩』ばかりはのこりたりと申すこと候をもてこゝろえ候に、この『經』とゞまりて百年あるべしとも、經卷はみな隱滅したりとも、南无阿彌陀佛とまふすことは、人の口にとゞまりて百年までもきゝつたへむずる事とおぼへ候。經といふは、また說ところの法を申すことなれば、この『經』はひとへに念佛の一法を說り。されば、「爾時聞一念、皆當得生彼」(禮讚)とは善導も釋たまへる也。これ祕藏の義也、たやすく申べからず。
すべてこの『雙卷无量壽經』に、念佛往生の文七所あり。一には本願の文、二は願成就の文、三には上輩の中に一向專念の文、四には中輩の中の一向專念の文、五には下輩の中の一向專意の文、六には无上功德の文、七には特留此經の文也。この七所の文をまた合して三とす。一には本願、これに二つを攝す。はじめの發願、願成就也。二には三輩、これに三を攝す。上輩・中輩・下輩なり。この下輩について二類あり。三には流通、これに二を攝す。无上功德、特留此經なり。Ⅲ-0919本願は彌陀にあり。三輩已下は釋迦の自說也、それも彌陀の本願にしたがふて說たまへる也。三輩の文の中に、おのおの一向專念と勸たまへるも、流通の中に无上功德と讚嘆したまへるも、特留此經ととゞめたまへるも、みなもと彌陀の本願に隨順したまへるゆへなり。しかれば、念佛往生とまふすことは、本願を根本とする也。詮ずるところ、この『經』ははじめよりおはりまで、彌陀の本願を說とこゝろうべき也。『雙卷經』の大意、略してかくのごとし。
次に『觀无量壽經』は、この大意をこゝろえむとおもはゞ、かならず敎相を知べき事也。敎相を沙汰せねば、法門の淺深差別あきらかならざる也。しかるに諸宗にみな立敎開示あり。法相宗には三時敎をたてゝ一代の諸敎を攝す。三論宗には二藏敎をたてゝ大小の諸敎を攝。華嚴宗には五敎をたて、天台宗には四敎をたつ。いまわが淨土宗には、道綽禪師『安樂集』に聖道・淨土の二敎をたてたり。一代聖敎五千餘軸、この二門おばいでず。はじめに聖道門は、三乘・一乘の得道也。すなわちこの娑婆世界にして、斷惑開悟する道なり。すべて分ば二あり。謂、大乘の聖道、小乘の聖道也。別して論ずれば、四乘の聖道あり。謂、聲聞乘・縁覺乘・菩薩乘・佛乘也。淨土者、まづこの娑婆穢惡のさかひをいでゝ、Ⅲ-0920かの安樂不退のくににむまれて、自然に增進して佛道を證得せむともとむる道也。この二門をたつる事は、道綽一師のみにあらず。曇鸞法師も龍樹菩薩の『十住毗婆沙論』を引て、行・易行の二道をたてたまへり。「難行道は陸路より步行するがごとし、易行道は水路を船に乘ずるがごとし」(論註*卷上意)とたとへたり。この二道を立事、曇鸞一師にかぎらず。天台の『十疑論』にもおなじく引て釋したまへり。また迦才の『淨土論』にもおなじく引。かの難行道者すなわち聖道門也、易行道者すなわち淨土門也。しかのみならず、また慈恩大師云、「親逢聖化、道悟三乘。福薄因疎、勸歸淨土」(西方*要決)と云り。この中に三乘者すなわち聖道門也、淨土者すなわち淨土門也。難行・易行、三乘・淨土、聖道・淨土、その言ことなりといゑども、そのこゝろみなおなじ。凡一代の諸敎この二門をいでず。經論のみこの二門に攝するにあらず、乃至諸宗の章疏みなこの二門おばいでざる也。天台宗には、正は佛乘の聖道をあかす、傍には往生淨土をあかす。「卽往安樂」(法華經卷*六藥王品)といへり。華嚴宗にもまた天台宗のごとし。聖道を修してえがたくは、淨土に生ずべしと云へり。「願我臨欲命終時盡除一切諸障㝵、面見彼佛阿彌陀卽得往生安樂國」(般若譯華嚴經*卷四〇行願品)Ⅲ-0921と云り。しかるに今、この『經』は往生淨土の敎也。卽身頓悟のむねおもあかさず、歷劫迂廻の行おもとかず。娑婆のほかに極樂あり、わが身のほかに阿彌陀佛ましますと說て、この界をいとひてかのくにに生て、无生忍おもえむと願ずべきむねを明也。善導釋に云く、「定散等廻向、速證无生身」(玄義分)といへり。
凡この『經』には、あまねく往生の行業を說り。すなわちはじめには定散の二善を說て、總じて一切の諸機にあたへ、次には念佛の一行を選、別して未來の群生に流通せり。かるがゆへに『經』(觀經)云く、「佛告阿難、汝好持是語」と等云。善導これを釋云く、「從佛告阿難汝好持是語已下、正明付屬彌陀名號、流通於遐代」(散善義)等云り。しかれば、この『經』のこゝろによりて、今聖道をすてゝ淨土の一門に入也。その往生淨土につきて、又その行これおほし。これによて、善導和尙專雜二修を立、諸行の勝劣得失を判じたまへり。すなわちこの經の『疏』(散善義)に云く、「行につきて立信者、就行有二種。一正行、二雜行」と云り。もはらかの正行を修するを專修の行者と云、正行おば修せずして雜行を修するを雜修の者と申也。その專雜二種の得失について、今Ⅲ-0922私に料簡するに、五の義あり。一には親疎對、二には近遠對、三には有間無間對、四には廻向不廻向對、五には純雜對也。はじめに親疎對者、正行を修するは阿彌陀佛に親、雜行を修すればかの佛に疎なり。すなわち『疏』(定善義)に云く、「衆生起行、口常稱佛、佛卽聞之。身常禮敬佛、佛卽見之。心常念佛、佛卽知之。衆生憶念佛者、佛亦憶念衆生。彼此三業不相捨離。故名親縁」と云。その雜行者は、口に佛を稱せざれば、佛すなわち聞たまはず。身に佛を禮せざれば、佛すなわち見たまはず。心にを念ぜざれば、佛しろしめさず。佛を憶念せざれば、佛又憶念したまはず。彼此三業常捨離す、かるがゆへに疎となづくる也。次に近遠對者、正行はかの佛に近、雜行はかの佛に遠なり。『疏』(定善義)又云く、「衆生欲見佛、佛卽應念現在目前。故名近縁」と云り。雜行者、佛を見たてまつらむとねがはざれば、佛すなわち念に応じたまはず、目の前にも現じたまはず。かるがゆへに遠となづくる也。たゞ常の義には親近と申つれば、一事のやうにこそは聞れども、善導和尙は、親と近とのごとしと、別しては釋したまへり。これによて、今又親近を分て二とするなり。次に有間無間對者、无間者、正行を修するには、かの佛おⅢ-0923いて憶念无間なるがゆへに、文「憶念不斷名爲无間」(散善義)と云る、これ也。有間者、雜行のものは、阿彌陀佛にこゝろをかくる事間おほし。かるがゆへに文に「心常間斷」(散善義)と云、これ也。次に廻向不廻向對者、正行は廻向をもちゐざれども、自然に往生の業となる。すなわち『疏』第一(玄義分)に云く、「今『觀經』中十聲稱佛、卽有十願・十行具足。云何具足。言南无者卽是歸命、亦是發願廻向之義也。言阿彌陀佛者卽是其行。以斯義故必得往生」。不廻向といふ。雜行は、かならず廻向をもちゐるとき、往生の業となる。もし廻向せざれば、往生の業とならず。かるがゆへに文に「雖可廻向得生」(散善義)と云、これ也。次に純雜對者、正行は純に極樂の行也。餘の人天および三乘等の業に通ぜず、又十方淨土の業因ともならず。かるがゆへに純となづく。雑行は純に極樂の行にはあらず。人天の業因にも通じ、三乘の得果にも通じ、又十方淨土の往生の業因ともなるがゆへに雜と云也。しかれば、この五の相對をもて二行を判ずるに、西方の往生をねがはむ人は、雜行をすてゝ正行を修すべき也。又善導和尙『往生禮讚』(意)の序に、この專雜の得失を判じたまへり。「專修の者は十卽十生、百卽百生。雜修の者は百に一二、千に五三」と云へり。「なにをもてのゆⅢ-0924へに。專修の者は雜縁なし、正念をえたるがゆへに、又彌陀の本願に相應するがゆへに、又釋迦の敎にたがはざるがゆへに、佛語に隨順せるがゆへに」と云へり。「雜修の者は雜縁亂動す。正念を失するがゆへに、又佛の本願と相應せざるがゆへに、また佛語にしたがはざるがゆへに、釋迦の敎に違するがゆへに、又係念相續せざるがゆへに、廻願慇重眞實ならざるがゆへに、乃至、名利と相應するがゆへに、又自の往生を障のみにあらず、他の往生の正行を障がゆへに」と云へり。しかのみならず、やがてその文のつゞきに、「余、このごろ諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして專雜異あり。しかるに專修の者は十は十ながら生じ、雜修の者は千が中に一もなし」とのたまへり。さきの義をもて判じ候に、千が中に五三とゆるしたまへりといゑども、今正見には一もなしとのたまへる也。そのときの行者だにも、雑行にて往生する者なかりけるにこそ候なれ。まして、いよいよ時も機もくだりたる當世の行者、雜行往生と云事はおもひすつべき事也。たとひまた往生すべきにても、百が中に一二、千が中に五三の内にてこそ候はむずれ。きわめて不定の事也。百人に九十九人は往生して、今一人すまじときかむだにも、もしその一人にあたる身にてもやあるらむと、不審に不定におぼえⅢ-0925ぬべし。いかにいはむや、百が一二の内に一定入べしとおもはむ事、かたくぞ候はむずる。しかれば、百卽百生の專修をすてゝ、千中无一の雜行を執すべからず。唯一向に念佛を修して、雜行をすつべきなり。これすなわち、この『經』の大意也。「望佛本願、意在衆生、一向專稱、彌陀佛名」(散善義)と云り。返も本願をあおぎて、念佛をすべき也と。

(二)
建保四年四月廿六日、園城寺長吏、公胤僧正之夢に、空中に告云、 源空本地身大勢至菩薩、衆生敎化故來此界度度と。
[かの僧正の弟子大進公 實名をしらず 記之。]

康元元年W丙辰R十月十三日
愚禿親鸞W八十四歲R書之
康元二歲正月一日校之


Ⅲ-0926西方指南抄中[本]

(三)
聖人御在生之時記註之 A外見におよばざれ、B祕藏すべしとC。
御生年六十有六W丑年也R。
建久九年正月一日記。
一日、櫻梅の法橋敎慶のもとよりかへりたまひてのち、未申の時ばかり、恆例正月七日念佛始行せしめたまふ。一日、明相少これを現じたまふ、自然にあきらかなりと[云云]。二日、水想觀自然にこれを成就したまふ[云云]。總じて念佛七箇日の内に、地想觀の中に琉璃の相少分これをみたまふと。
二月四日の朝、瑠璃地分明に現じたまふと[云]。六日、後夜に琉璃の宮殿の相これを現ずと[云]。七日、朝にまたかさねてこれを現ず。すなわちこの宮殿をもて、その相影現したまふ。總じて水想・地想・寶樹・寶池・寶殿の五の觀、始正月一日より二月七日にいたるまで、三十七箇日のあひだ每日七萬念佛、不退にこれをⅢ-0927つとめたまふ。これによて、これらの相を現ずとのたまへり。
始二月廿五日より、あかきところにして目をひらく。眼根より赤袋琉璃の壺出生す、これをみる。そのまへにして、目を閉てこれをみる。目を開すなわち失と云り。
二月廿八日、病によて念佛これを退す。一萬返あるいは二萬、右眼にそのゝち光明あり、はなだなり。また光あり、はしあかし。また眼に琉璃あり、その形琉璃の壺のごとし。琉璃に赤花あり、寶形のごとし。また日入てのちいでゝみれば、四方みな方ごとに赤靑寶樹あり。その高さだまりなし、高下こゝろにしたがふて、あるいは四五丈、あるいは二三十丈と[云]。
八月一日、本のごとく、六萬返これをはじむ。九月廿二日の朝に、地想分明に現ず、周圍七八段ばかり。そのゝち廿三日の後夜ならびに朝にまた分明にこれを現[云々]。
正治二年二月のころ、地想等の五の觀、行住座臥こゝろにしたがふて、任運にこれを現ずと[云々]。
建仁元年二月八日の後夜に、鳥のこゑをきく、またことのおとをきく、ふえのⅢ-0928おとらをきく。そのゝち、日にしたがふて自在にこれをきく、しやうのおとらこれをきく。さまざまのおと。正月五日、三度勢至菩薩の御うしろに、丈六ばかりの勢至の御面像現ぜり。これをもてこれを推する、西の持佛堂にて勢至菩薩の形像より丈六の面を出現せり。これすなわちこれを推するに、この菩薩すでにもて、念佛法門の所證のためのゆへに、いま念佛者のためにそのかたちを示現したまへり、これをうたがふべからず。同六日、はじめて座處より四方一段ばかり、靑琉璃の地なりと[云々]。今においては、經釋によて往生うたがひなしと。地觀の文にこゝろうるに、うたがひなしといへるがゆへにといへり。これをおもふべし。
建仁二年十二月廿八日、高畠小將きたれり。持佛堂にしてこれに謁す。そのあひだ例のごとく念佛を修したまふ。阿彌陀佛をみまいらせてのち、障子よりすきとほりて佛の面像を現じたまふ、大丈六のごとし。佛面すなわちまた隱たまひ了。廿八日午時の事也。
元久三年正月四日、念佛のあひだ三尊大身を現じたまふ。また五日、三尊大身を現じたまふ。
Ⅲ-0929聖人のみづからの御記文なり。

(四)
法然聖人御夢想記[善導御事]
或夜夢にみらく、一の大山あり、その峯きわめて高、南北ながくとおし、西方にむかへり。山の根に大河あり、傍の山より出たり、北に流たり。南の河原眇眇としてその邊際をしらず、林樹滋滋としてそのかぎりをしらず。こゝに源空、たちまちに山腹に登てはるかに西方をみれば、地より已上五十尺ばかり上に昇て、空中にひとむらの紫雲あり。以爲、何所に往生人のあるぞ哉。こゝに紫雲とびきたりて、わがところにいたる。希有のおもひをなすところに、すなわち紫雲の中より孔雀・鸚鵡等の衆鳥とびいでゝ、河原に遊戲す、沙をほり濱に戲。これらの鳥をみれば、凡鳥にあらず、身より光をはなちて、照曜きわまりなし。そののちとび昇て、本のごとく紫雲の中に入了。こゝにこの紫雲、このところに住せず、このところをすぎて北にむかふて、山河にかくれ了。また以爲、山の東に往生人のあるに哉。かくのごとく思惟するあひだ、須臾にかへりきたりてわがまⅢ-0930へに住す。この紫雲の中より、くろくそめたる衣著僧一人とびくだりて、わがたちたるところの下に住立す。われすなわち恭敬のためにあゆみおりて、僧の足のしもにたちたり。この僧を瞻仰すれば、身上半は肉身、すなわち僧形也。身よりしも半は金色なり、佛身のごとく也。こゝに源空、合掌低頭して問てまふさく、これ誰人の來たまふぞ哉と。答曰、われはこれ善導也と。また問てまふさく、なにのゆへに來たまふぞ哉。また答曰、余不肖なりといゑども、よく專修念佛のことを言。はなはだもて貴とす。ためのゆへにもて來也。また問言、專修念佛の人、みなもて爲往生哉。いまだその答をうけたまはらざるあひだに、忽然として夢覺了。

(五)
或人念佛之不審を、故聖人奉問曰、第二十願は大網の願なり。「係念」(大經*卷上)といふは、三生の内にかならず果遂すべし。假令通計するに、百年の内に往生すべき也[云云]。これ九品往生の義、意釋なり。極大遲者をもて三生に出ざるこゝろ、かくのごとく釋せり。
Ⅲ-0931又『阿彌陀經』の「已發願」等は、これ三生之證也と。
又云、『阿彌陀經』等は淨土門の出世の本懷なり、『法華經』者聖道門の出世の本懷なり[云々]。望ところはことなり、疑に足ざる者也。
又云、我安置するところの一切經律論は、これ『觀經』所攝の法也。
又云、地藏等の諸の菩薩を蔑如すべからず。往生以後、伴侶たるべきがゆへなりと。
又云、近代の行人、觀法をもちゐるにあたはず。もし佛像等を觀ぜむは、運慶・康慶が所造にすぎじ。もし寶樹等を觀ぜば、櫻梅・桃李之花菓等にすぎじ。しかるに「彼佛今現在成佛」(禮讚)等の釋を信じて、一向に名號を稱すべき也と云り。たゞ名號をとなふる、三心おのづから具足する也と云り。
又云、念佛はやうなきをもてなり。名號をとなふるほか、一切やうなき事也と云り。
又云、諸經の中にとくところの極樂の莊嚴等は、みなこれ四十八願成就の文也。念佛を勸進するところは、第十八の願成就文なり。『觀經』の「三心」、『小經』「一心不亂」、『大經』(卷下)の願成就の文の「信心歡喜」と、同流通のⅢ-0932「歡喜踊躍」と、みなこれ至心信樂之心也と云り。これらの心をもて、念佛の三心を釋したまへる也と[云々]。
又云、「玄義」(玄義*分意)に云く、「釋迦要門定散二善。定者息慮凝心なり、散者廢惡修善なりと。弘願者如『大經』說。一切善惡凡夫得生」といへり。予ごときはさきの要門にたえず、よてひとへに弘願を馮也と云り。
又云、導和尙、深心を釋せむがために餘の二心を釋したまふ也。『經』の文の三心をみるに、一切行なし。深心の釋にいたりて、はじめて念佛の行をあかすところ也。
又云、往生の業成就、臨終・平生にわたるべし。本願の文に別にえらばざるがゆへにと云り。惠心のこゝろ、平生の見にわたる也と云へり。
又云、往生の業成は、念をもて本とす。名號を稱するは、念を成ぜむがため也。もし聲はなるゝとき、念すなわち懈怠するがゆへに、常恆に稱唱すればすなわち念相續す。心念の業、生をひくがゆへ也。
又云、稱名の行者、常途念佛のとき不淨をはゞかるべからず、相續を要とするがゆへに。如意輪の法は、不淨をはゞからず、彌陀・觀音一體不二也。これをおⅢ-0933もふに、善導の別時の行には、淸淨潔齋をもちゐる、尋常の行、これにことなるべき歟。惠心の「不論時處諸縁」(要集*卷下)之釋、永觀の「不論身淨不淨」(往生*拾因)之釋、さだめて存ずるところある歟と[云]。
又云、善導は第十八の願、一向に佛號を稱念して往生すと云り。惠心のこゝろ、觀念・稱念等みなこれを攝すと云り。もし『要集』のこゝろによらば、行者においては、この名をあやまてらむ歟と。
又云、第十九の願は、諸行之人を引入して、念佛之願に歸せしめむと也。
又云、眞實心いふは、行者願往生之心なり。矯飾なく、表裏なき相應の心也。雜毒虛假等は、名聞利養の心也。『大品經』(卷一*序品)云、「捨利養名聞。」[文]『大論』に述此文之下云、「當業捨雜毒者、一聲一念猶具之、无實心之相也。翻内矯外者、假令外相不法、内心眞實願往生者、可遂往生也。」W云云R深心といふは、疑慮なき心也。利他眞實者、得生之後利他門之相也。よてくはしく釋せずと。『觀无量壽經』、「若有衆生願生彼國者、發三種心卽便往生す。何等爲三。一者至誠心、二者深心、三者廻向發願心なり。具三心者必生彼國」いへり。『往生禮Ⅲ-0994讚』釋三心畢云、「具此三心必得往生也。若少一心、卽不得生。」然則尤可具三心也。一至誠心者、眞實心也。身行禮拜、口唱名號、意想相好、皆用實心。總而言之、厭離穢土、忻求淨土、修諸行業、皆以眞實心可勤修之。外現賢善精進之相、内懷愚惡懈怠之心。所修行業、日夜十二時无間行之、不得往生。外顯愚惡懈怠之形、内住賢善精進之念、修行之者、雖一時一念、其行不虛、必得往生。是名至誠心。二深心者、深信之心也。付之有二。一者信我是罪惡不善之身、无始已來輪廻六道、无往生縁。二信雖罪人、以佛願力爲強縁、得往生。无疑无慮。付此亦有二。一就人立信、二就行立信。就人立信者、出離生死道雖多、大分有二。一聖道門、二淨土門。聖道門者、於此娑婆世界、斷煩惱證菩提道也。淨土門者、厭此娑婆世界、忻極樂修善根門也。雖有二門、閣聖道門歸淨土門。然若有人多引經論、罪惡凡夫不得往生、雖聞此語、不生退心、彌增信心。所以者何、罪障凡夫往生淨土釋尊誠言なり、非Ⅲ-0935凡夫の妄說。我已信佛言、深忻求淨土。設諸佛・菩薩來、罪障凡夫言不生淨土、不可信之。何以故。菩薩佛弟子。若實是菩薩者、不可乖佛說。然已違佛說、言不得往生。知非眞菩薩。是故不可信。また佛是同體大悲。實是佛者、不可違釋迦說。然則『阿彌陀經』(意)說、「一日七日念阿彌陀佛名號、必得往生」者、六方恆沙諸佛、同釋迦佛不虛證誠之。然今背釋迦說、云不得往生。故知非眞佛。是天魔變化。以是義故、不可依信。佛・菩薩說、尙以不可信、何況餘說哉。汝等所執、雖大小異同期佛果。穢土修行聖道意なり。我等所修正雜不同、共忻極樂。往生行業、淨土門意。聖道者是汝有縁行なり、淨土門者我有縁行なり。不可以此難彼、不可以彼難此。如是信ずる、是名就人立信。次就行立信者、往生極樂の行、雖區不出二種。一者正行、二者雜行なり。正行者於阿彌陀佛之親行也、雜行者於阿彌陀佛之疎行也。先正行者、付之有五。一謂讀誦、謂讀「三部經」也。二謂觀極樂依正也。三禮拜、謂禮彌陀佛Ⅲ-0936也。四稱名、謂稱彌陀名號也。五讚嘆供養、謂讚嘆供養阿彌陀佛也。以此五合爲二。一者一心專念彌陀名號、行住座臥不問時節久近念念不捨者、是名正定之業、順彼佛願故。二者先五中、除稱名已外禮拜・讀誦等、皆名助業。次雜行者、除先五種正助二行已外諸讀誦大乘・發菩提心・持戒・勸進行等一切行也。付此正雜二行、有五種得失。一親疎對、謂正行親阿彌陀佛、雜行疎阿彌陀佛。二近遠對、謂正行近阿彌陀佛、雜行遠阿彌陀佛。三有間無_間對、謂正行係念无間、雜行係念間斷。四廻向不廻向對、謂正行不用廻向自爲往生業、雜行不廻向時不爲往生業。五純雜對、謂正行純往生極樂業也、雜行不爾、通十方淨土乃至人天業也。如此信者、名就行立信、是名深心。三廻向發願心者、過去及今生身口意業所修一切善根、以眞實心廻向極樂、忻求往生也。
又云、善導與惠心相違義事。善導色相等觀法觀佛三昧と云へり、稱名念佛おば念佛三昧云へり。惠心は稱名・觀法合して念佛三昧と云へり。
Ⅲ-0937又云、餘宗の人、淨土門にその志あらむには、先『往生要集』をもてこれをおしふべし。そのゆへは、この書はものにこゝろえて、難なきやうにその面をみえて、初心の人のためによき也。雖然眞實の底の本意は、稱名念佛をもて專修專念の勸進したまへり。善導と一同也。
又云、餘宗の人、淨土宗にそのこゝろざしあらむものは、かならず本宗の意を棄べき也。そのゆへは、聖道・淨土の宗義各別なるゆへ也とのたまへり。

(六)
法然聖人臨終行儀
建曆元年十一月十七日、藤中納言光親卿の奉にて、 院宣によりて、十一月廿日戌時に聖人宮へかへり入たまひて、東山大谷といふところにすみ侍、同二年正月二日より、老病の上にひごろの不食、おほかたこの二三年のほどおいぼれて、よろづものわすれなどせられけるほどに、ことしよりは耳もきゝこゝろもあきらかにして、としごろならひおきたまひけるところの法文を、時時おもひいだして、弟子どもにむかひて談義したまひけり。またこの十餘年は、耳おぼⅢ-0938ろにして、さゝやき事おばきゝたまはず侍けるも、ことしよりは昔のやうにきゝたまひて、例の人のごとし。世間の事はわすれたまひけれども、つねは往生の事をかたりて念佛をしたまふ。またあるいは高聲にとなふること一時、あるいはまた夜のほど、おのづからねぶりたまひけるにも、舌・口はうごきて佛の御名をとなえたまふこと、小聲聞侍けり。ある時は舌・口ばかりうごきてその聲はきこえぬ事も、つねに侍けり。されば口ばかりうごきたまひけることおば、よの人みなしりて、念佛を耳にきゝける人、ことごとくきどくのおもひをなし侍けり。
また同正月三日戌の時ばかりに、聖人看病の弟子どもにつげてのたまはく、われはもと天竺にありて聲聞僧にまじわりて頭陀を行ぜしみの、この日本にきたりて天台宗に入て、またこの念佛の法門にあえりとのたまひけり。その時看病の人の中にひとりの僧ありて、とひたてまつりて申すやう、極樂へは往生したまふべしやと申ければ、答のたまはく、われはもと極樂にありしみなれば、さこそはあらむずらめとのたまひけり。
又同正月十一日辰時ばかりに、聖人おきゐて合掌して、高聲念佛したまひⅢ-0939けるを、聞人みななみだをながして、これは臨終の時かとあやしみけるに、聖人看病の人につげてのたまはく、高聲に念佛すべしと侍ければ、人々同音に高聲念佛しけるに、そのあひだ聖人ひとり唱てのたまはく、阿彌陀佛を恭敬供養したてまつり、名號をとなえむもの、ひとりもむなしき事なしとのたまひて、さまざまに阿彌陀佛の功德をほめたてまつりたまひけるを、人々高聲をとゞめてきゝ侍けるに、なほその中に一人たかくとなへければ、聖人いましめてのたまふやう、しばらく高聲をとゞむべし、かやうのことは、時おりにしたがふべきなりとのたまひて、うるわしくゐて合掌して、阿彌陀佛のおはしますぞ、この佛を供養したてまつれ、たゞいまはおぼえず、供養の文やある、えさせよと、たびたびのたまひけり。またある時、弟子どもにかたりてのたまはく、觀音・勢至菩薩、聖衆まへに現じたまふおば、なむだち、おがみたてまつるやとのたまふに、弟子等えみたてまつらずと申けり。またそのゝち臨終のれうにて、三尺の彌陀の像をすゑたてまつりて、弟子等申やう、この御佛をおがみまいらせたまふべしと申侍ければ、聖人のたまはく、この佛のほかにまた佛おはしますかとて、ゆびをもてむなしきところをさしたまひけり。按内をしらぬ人は、この事をⅢ-0940こゝろえず侍。しかるあひだ、いさゝか由緖をしるし侍なり。
凡この十餘年より、念佛の功つもりて極樂のありさまをみたてまつり、佛・菩薩の御すがたを、つねにみまいらせたまひけり。しかりといゑども、御意ばかりにしりて、人にかたりたまはず侍あひだ、いきたまへるほどは、よの人ゆめゆめしり侍ず。おほかた眞身の佛をみたてまつりたまひけること、つねにぞ侍ける。また御弟子ども、臨終のれうの佛の御手に五色のいとをかけて、このよしを申侍ければ、聖人これはおほやうのことのいはれぞ、かならずしもさるべからずとぞのたまひける。
又同廿日巳時に、大谷の房の上にあたりて、あやしき雲、西東へなおくたなびきて侍中に、ながさ五六丈ばかりして、その中にまろなるかたちありけり。そのいろ五色にして、まことにいろあざやかにして、光ありけり。たとへば、繪像の佛の圓光のごとくに侍けり。みちをすぎゆく人々、あまたところにて、みあやしみておがみ侍けり。
又同日午時ばかりに、ある御弟子申ていふやう、この上に紫雲たなびけり、聖人の往生の時ちかづかせたまひて侍かと申ければ、聖人のたまはく、あはれなる事かなと、たびたびのたまひて、これは一切衆生のためになどしめして、すなわち誦してのたまはく、「光明徧照、十方世界、念佛衆生、攝取不捨」(觀經)と、三返となへたまひけり。またそのひつじの時ばかりに、聖人ことに眼をひらきて、しばらくそらをみあげて、すこしもめをまじろがず、西方へみおくりたまふこと五六度したまひけり。ものをみおくるにぞにたりける。人みなあやしみて、たゞ事にはあらず、これ證相の現じて、聖衆のきたりたまふかとあやしみけれども、よの人はなにともこゝろえず侍けり。おほよそ聖人は、老病日かさなりて、ものをくはずしてひさしうなりたまひけるあひだ、いろかたちもおとろえて、よはくなりたまふがゆへに、めをほそめてひろくみたまわぬに、たゞいまやゝひさしくあおぎて、あながちにひらきみたまふことこそ、あやしきことなりといひてのちほどなく、かほのいろもにわかに變じて死相たちまちに現じたまふ時、御弟子ども、これは臨終かとうたがひて、おどろきさわぐほどに、れいのごとくなりたまひぬ。あやしくも、けふ紫雲の瑞相ありつる上に、かたがたかやうの事どもあるよと、御弟子たち申侍けり。
又同廿三日にも紫雲たなびきて侍よし、ほのかにきこえけるに、同廿五日むまⅢ-0941の時に、また紫雲おほきにたなびきて、西の山の水の尾のみねにみえわたりけるを、樵夫ども十餘人ばかりみたりけるが、その中に一人まいりて、このよしくわしく申ければ、かのまさしき臨終の午の時にぞあたりける。またうづまさにまいりて下向しけるあまも、この紫雲おばおがみて、いそぎまいりてつげ申侍ける。すべて聖人念佛のつとめおこたらずおはしける上に、正月廿三日より廿五日にいたるまで三箇日のあひだ、ことにつねよりもつよく高聲の念佛を申たまひける事、或は一時、或は半時ばかりなどしたまひけるあひだ、人みなおどろきさわぎ侍。かやうにて、二三度になりけり。
またおなじき廿四日の酉時より、廿五日の巳時まで、聖人高聲の念佛をひまなく申たまひければ、弟子ども番番にかわりて、一時に五六人ばかりこゑをたすけ申けり。すでに午時にいたりて、念佛したまひけるこゑ、すこしひきくなりにけり。さりながら、時時また高聲の念佛まじわりてきこえ侍けり。これをきゝて、房のにわのまへにあつまりきたりける結縁のともがら、かずをしらず。聖人ひごろつたへもちたまひたりける慈覺大師の九條の御袈裟をかけて、まくらをきたにし、おもてを西して、ふしながら佛號をとなへて、ねぶるがごとくして、正Ⅲ-0943月廿五日午時のなからばかりに往生したまひけり。そのゝち、よろづの人々きおいあつまりて、おがみ申ことかぎりなし。

(七)
一 聖人御事、あまた人々夢にみたてまつりける事。
中宮大進兼高と申人、ゆめにみたてまつるやう、或人もてのほかにおほきなるさうしをみるを、いかなるふみぞとたちよりてみれば、よろづの人の臨終をしるせる文なり。聖人の事やあるとみるに、おくに入て、「光明徧照、十方世界、念佛衆生、攝取不捨」(觀經)とかきて、この聖人は、この文を誦して往生すべきなりとしるせりとみて、ゆめさめぬ。この事、聖人も御弟子どももしらずしてすぐすところに、この聖人さまざまの不思議を現じたまふとき、やまひにしづみて、よろづ前後もしらずといゑども、聖人この文を三返誦したまひけり。かの人のむかしのゆめにおもひあわするに、これ不思議といふべし。かの人ふみをもちて、かのゆめの事をつげ申たりけるを、御弟子ども、のちにひらきみ侍けり。件の文、ことながきゆへに、これにはかきいれず。
Ⅲ-0944一 四條京極にすみ侍ける薄師、字太郎まさいゑと申すもの、ことしの正月十五日の夜、ゆめにみるやう、東山大谷の聖人の御房の御堂の上より、むらさき雲たちのぼりて侍。ある人のいふやう、あのくもおがみたまへ、これは往生の人のくもなりといふに、よろづの人々あつまりておがむとおもひて、ゆめさめぬ。あくる日、そらはれて、みのときばかりにかの堂の上にあたりて、そらの中に五色のくもあり。よろづの人々、ところどころにしてこれをみけり。
一 三條小川に、陪從信賢が後家の尼のもとに、おさなき女子あり。まことに信心ありて、念佛をまふし侍けり。同廿四日の夜、ことにこゝろをすまして高聲に念佛しけるに、乘願房と申ひじり、あからさまにたちやどりてこれをきゝけり。夜あけてかの小女、この乘願房にかたりていはく、法然聖人は、けふ廿五日にかならず往生したまふべきなりと申ければ、この人申さく、なに事にてかやうにはしりたまへるぞとたづぬるに、この小女申やう、こよひのゆめに、聖人の御もとにまいりて侍つれば、聖人のおほせられつるやう、われはあす往生すべきなり、もしこよひなむぢきたらざらましかば、われおばみざらまし、よくきたれりとのたまひつるなりと申けり。しかるにわがみにとりては、いさゝかいたみおⅢ-0945もふ事侍り。そのゆへは、われいかにしてか往生し侍べきと、とひたてまつりしかば、聖人おしへたまふ事ありき。わがみにとりてたえがたく、かないがたき事どもありき。そのゆへは、まづ出家して、ながく世間の事をすてゝ、しづかなるところにて、一向に後世のつとめをいたすべきよしなりと侍き。しかるにけふのむまの時に聖人往生したまふべき事、このゆめにすでにかなへりと申し侍けり。
一 白河に准后の宮の御邊に侍ける三河と申す女房のゆめにみるやう、同廿四日の夜、聖人の御もとにまいりておがみければ、四壁に錦帳をひけり。色さまざまにあざやかにして、ひかりある上にけぶりたちみてり。よくよくこれをみれば、けぶりにはあらず。紫雲といふなるものはこれをいふか、いまだみざるものをみつるかなどおもひて、不思議のおもひをなすところに、聖人往生したまへるかとおぼえて、ゆめさめぬ。夜あけてあしたに、僧順西といふものにこの事どもをかたりてのち、けふのむまの時に聖人往生したまひぬときゝけり。
一 かまくらのものにて、來阿彌陀佛と申あまの、信心ことにふかくて、仁和寺にすみける。同廿四日の夜、ゆめにみるやう、よにたうときひじりきたれり。そのかたち、ゑざうの善導の御すがたににたりけり。それを善導かとおもふほどⅢ-0946に、つげてのたまふやう、法然聖人はあす往生したまふべし、はやくゆきておがみたてまつれとのたまふとみて、ゆめさめぬ。かのあま、やがておきゐで、あか月くゐものなどいとなみて、わりごといふものもたせて、いそぎいそぎいでたちて、聖人の御もとへまいるところに、下人どもおのおの申やう、けふはさしたる大事侍、これをうちすてゝいづかたへありきたまふぞ。はやくけふはとまりたまふべしといひけれども、かゝるゆめをみつれば、かの聖人の往生をおがみにまいらむとて、よろづをふりすてゝいそぐなり。さらにとゞまるべからずといひて、仁和寺よりほのぼのにいでゝ、東山大谷の房にまいりてみたてまつれば、げにもその日のむまの時に往生したまへり。このゆめは、聖人いまだ往生のさきにきゝおよべる人々、あまた侍けり。さらにうたがひなきことなり。返がへすこの事ふしぎの事なり。おほよそ廿五日に、聖人の往生をおがみたてまつらむとてまいりあつまりたる人、さかりなる市のごとく侍けり。その中にある人のいふやう、廿三日の夜のゆめにみるやう、聖人きたりて、われは廿五日のむまの時に往生すべきなりとのたまふとおもひて、ゆめさめぬ。このことのまことをあきらめむとて、まいりたるよし申けり。これならず、あるいはきのふの夜、このつげⅢ-0947ありといふものもあり。あつまりたる人々の中に、かやうのことどもいふ人おほく侍。くわしくしるし申侍らず。
一 東山の一切經の谷に、大進と申僧の弟子に、歲十六なる兒のW袈裟Rといふゆめに、同廿五日の夜みるやう、西東へすぐにとおりたるおほぢあり、いさごをちらして、むしろをみちの中にしけり。左右にものみる人とおぼしくて、おほくあつまれり。ゆゝしきことのあらむずるぞとおぼえて、それもともにみ侍らむとて、みちのかたわらにたちよりて侍ほどに、天童二人たまのはたをさして西へゆきたまへり。そのうしろにまた法服きたる僧ども千萬人あつまりゆきて、左の手に香呂をもち、右のてにはけさのはしをとりて、おなじく西へゆくを、ゆめの中にとふやう、これはいかなる人のおはしますぞといふに、ある人こたへていふやう、これは往生の聖人のおはしますなりといふを、またとふやう、聖人とはたれ人ぞととへば、これはおほたにの聖人なりとみて、ゆめさめぬ。この兒そのあか月、師の僧にかたり侍けり。この兒、聖人の事おもしらず、また往生のよしおもきゝおよばざりけるに、そらにこのつげありけり。
一 建曆二年二月十三日の夜、故惟方の別當入道の孫、ゆめにみるやう、聖人Ⅲ-0948を葬送したてまつるをおがみければ、聖人淸水のたうの中にいれたてまつるとみて、のちまた二日ばかりすぎて、ゆめにみるやう、となりの房の人きたりていふやう、聖人の葬送にまいりあはぬことのゐこむに候へども、おなじことなり、はかどころへまいりたまへと申に、よろこびてかのはかどころへあひ共してまいりぬとおもふほどに、八幡の宮とおぼしき社の、みとあくるところをみれば、御聖體おはします。その時はかどころへまいるに、八幡の御聖體とはなにおか申すべきといふに、かのとなりの人いふやう、この聖人の御房こそは御聖體よといふあひだ、身の毛いよだちて、あせたりて、ゆめさめぬ。
一 同正月廿五日辰時に、念阿彌陀佛と申すあまの、ゆめうつゝともなくてみるやう、はるかにうしとらのかたをみやれば、聖人すみぞめのころもをきて、そらにゐたまへり。そのかたはらにすこしさがりてしらさうぞくして、唐人のごとくなる人ゐたり。おほたににあたりて、聖人と俗人と、南にむかひてゐたまへるほどに、俗のいふやう、この聖人は通事にておはすといふとおもふほどに、ゆめさめぬ。
一 同廿三日卯時に、念阿彌陀佛、またゆめに、そらはれて西のかたをみれば、Ⅲ-0949しろき光あり。あふぎのごとくして、すゑひろくもとせばくして、やうやくおほきになりて虛空にみてり。光の中に、わらだばかりなる紫雲あり。光ある雲とおなじく東山の大谷のかたにあたりて、參たる人々あまたこれをおがみけり。いかなる光ぞととふに、ある人のいふやう、法然聖人の往生したまふよと申によりて、おがみたてまつれば、人々の中に、よにかうばしきかなといふ人もありとおもふて、これを信仰しておがむとおもへば、ゆめさめぬ。
一 聖人往生したまへる大谷の坊の東の岸の上に、たいらかなるところあり。その地を、建曆二年十二月のころ、かの地主、聖人にまいらせたりければ、その地を墓所とさだめて葬送したてまつり侍けり。その地のきたに、また人の坊あり。それにやどりゐたるあまの、先年のころゆめにみるやう、かのはかどころの地を、天童ありて行道したまふとみ侍けり。また同房主、去年十一月十五日の夜のゆめにみるやう、この南の地のはかどころに、靑蓮華おいて開敷せり。そのはなかぜにふかれて、すこしづゝこの房へちりかゝるとみて、ゆめさめぬ。またおなじ房に女の侍けるも、去年の十二月のころみるやう、南の地にいろいろさまざまの蓮華さきひらけてありとみおはりてのち、ことしの正月十日、かの地をⅢ-0950墓所とさだめて、穴をほりまうくるとき、この房主はじめておどろきていふやう、ひごろのゆめどもの三度までありしが、たゞいまおもひあはするに、あひたるよといひて、ふしぎがりけり。
一 建曆元年のころ、聖人つのくにの勝尾といふところにおはしける時、祇陀林寺の一和尙にて侍ける西成房といふ僧の、ゆめにみるやう、祇陀林寺の東の山にあたりて金色の光をさしたりけるを、あまた人これをみて、あやしみとひたづねければ、そばなる人のいふやう、これこそ法然聖人の往生したまふよといふとおもふほどに、ゆめさめぬ。そのゝち聖人、勝尾より大谷にうつりゐたまふて往生したまひぬときゝて、この僧、人々にかゝりしゆめをこそみたりしかと申けり。
一 華山院の前右大臣の家の侍に、江内といふものゝしたしき女房、三日があひだ、うちつゞき三度までゆめにみるやう、まづ正月廿三日の夜のゆめに、西山より東山にいたるまで、五色の雲の一町ばかりになおくたなびきて侍けり。大谷の聖人の御房にまいりておがみたてまつりければ、すみぞめのころも・けさをきたまへるが、袈裟のおほはむすびたれて、如法經のけさのおのやうにて、Ⅲ-0951請用かとおぼえて、聖人いでたちたまふとみて、ゆめさめぬ。また同廿四日の夜みるやう、昨日の夜、五色の雲すこしもちらずして、おほいかだのやうにおほまわりにまわりて、東がしらなるくも、西がしらになりて、なほくたなびけり。聖人もさきのごとくしておはしますとみて、ゆめさめぬ。又同廿五日にみるやう、件の雲、西へおもむきて、聖人七條の袈裟をかけて、臨終の作法のやうにてかのくもにのりて、とぶがごとくして西へゆきたまひぬとみて、ゆめさめぬ。むねさわぎておどろきたるに、わがくちも、ころもゝ、あたりまでも、よにかうばしく侍ける。よのつねの香にもにず、よにめでたくぞ侍ける。
一 ある人、二月二日の夜のゆめにみるやう、聖人往生したまひてのち、七日にあたりける夜のゆめに、ある僧きたりていふやう、聖人の御房は、往生の傳記に入せたまひたるおば、しるやいなやととひ侍ければ、この人いふやう、たれ人のいかなる傳に入たまへるにかと申侍ければ、ゆびをもちて、まへなるふみをさして、このふみに入せたまふなりとみて、ゆめさめぬ。そのゆびにてさしつる文をみれば、善導の『觀經の疏』なりけり。これは長樂寺の律師W隆寛R、一晝夜の念佛申ける時のゆめなり。
Ⅲ-0952一 先年のころ、直聖房といふ人、熊野まいり侍けるに、聖人いさゝかの事によりて、さぬきへくだりたまふときゝて下向せむとするほどに、ことにふれて、はゞかりのみありて、やまひがちに侍ければ、この事權現にいのり申侍けるに、直聖房がゆめにみるやう、なむぢいづべからず、臨終のときすでにちかしと侍ければ、かの僧申すやう、聖人の事のきわめておぼつかなく候なり。はやく下向し候て、子細をうけたまはり候ばやとおもひたまふと申ければ、權現のしめしたまふやう、かの聖人は勢至菩薩の化現なり、なむぢ不審すべからずと。みおわりてのち、いくほどをへずしてかの僧往生し侍ける事、めをおどろかさずといふ事なし。このありさま、よの人々みなしれり。
一 天王寺の松殿法印御坊W靜尊R、高雄寺にこもりゐて、ひごろ法然聖人といふ人ありとばかりしりて、いまだ對面におよばず。しかるに正月廿五日午時ばかりに、ある貴所より『阿彌陀經』をあつらえて、かゝせらるゝ事ありて、出文机にて書寫のあひだに、しばらく脇息によりかゝりて休息するほどに、ゆめにみるやう、世間もてのほかに、諸人のゝしるおとのするにおどろきて、えむのはしにたちいでゝそらをみあげたれば、普通ののりぐるまのわほどなる八輻輪の八方のさⅢ-0953きごとに雜色の幡をかけたるが、東より西へとびゆくに、金色の光ありて四方をてらすに、すべて餘のものみえずして、金色の光のみ天地にみちみちて、日光弊覆せられたり。これをあやしみて、人にこれをとふとおぼしきに、かたわらの人つげていはく、法然聖人往生の相なりといふ。歸命渴仰のおもひをなすほどに、ゆめさめぬ。そのゝち、しらかわの御めのとのもとより、同廿七日に御ふみをおくらるゝついでに、おととひ廿五日のむまの時にこそ、法然聖人往生せられて候へと申されたる時、夢想すでに府合して、いよいよ隨喜のおもひをなしおはりぬと云り。
一 丹後國しらふの庄に、別所の一和尙僧ありけり。昔天台山の學徙、遁世之後、聖人に歸したてまつりて弟子になりけるほどに、丹後よりのぼりて、京に五條の坊門、富小路なる所に住しけり。或日ひるねしたるゆめに、空に紫雲そびきたる中に、尼一人ありて、うちゑみて云く、法然聖人の御おしえによりて極樂に往生し候ぬるを、仁和寺に候つると告ける。そのゝち夢さめて、聖人の九條におはしましけるに、やがてまいりて、妄想にてや候つらむ、かゝるゆめをみて候と申ければ、聖人うちあむじて、さる人もあるらむとて、人を仁和寺へつかはさⅢ-0954むとしけるが、日もくれければ、次の朝にかの所へつかはして、便宜になに事か候とたづぬべきよし、使におほせられけるに、件の尼公は、昨日の午時に往生せられ候ぬと申たりけるを、聖人まふされていはく、かの尼公は『法華經』千部自讀せむと願をおこして候が、七百部ばかりはよみて候が、のこりをいかにしてはたしとぐべしともおぼへ候はぬと申候しを、としよりたる御身に、めでたくよませたまひて候へども、のこりおば一向念佛にならせたまへかしとて、名號の功德をときゝかせられけるより、『經』おばおきて一向專稱して、とし月をへて往生極樂の素懷をとげけるにやとぞ、おほせありけると。

康元元丁巳正月二日
愚禿親鸞W八十五歲R校了


Ⅲ-0955西方指南抄中[末]


(八)
一 普告于予門人念佛上人等。
可停止未窺一句文奉破眞言・止觀、謗餘佛・菩薩事。
右至立破道者、學生之所經也、非愚人之境界。加之、誹謗正法免除彌陀願。其報當墮那落。豈非癡闇之至哉。
一 可停止以无智身對有智人、遇別行輩好致諍論事。
右論義者、是智者之有也、更非愚人之分。又諍論之處諸煩惱起。智者遠離之百由旬也。況於一向念佛之行人乎。
一 可停止對別解・別行人、以愚癡偏執心傋當棄置本業、強嫌喧之事。
右修道之習、各勤敢不遮餘行。『西方要決』(意)云、「別解・別行者總起敬心。若生輕慢、得罪无窮。」W云云R何背此制哉。
Ⅲ-0956一 可停止於念佛門、號无戒行專勸婬酒食肉、適守律儀者名雜行、馮彌陀本願者、說勿恐造惡事。
右戒是佛法大地也、衆行雖區同專之。是以善導和尙、擧目不見女人。此行狀之趣、過本律制淨業之類。不順之者、總失如來之遺敎、別背祖師之舊跡。旁无據者歟。
一 可停止未辨是非癡人、離聖敎非師說、恐述私義妄企諍論、被笑智者迷亂愚人事。
右无智大天、此朝再誕猥述邪義。旣同九十五種異道、尤可悲之。
一 可停止以癡鈍身殊好唱導、不知正法說種種邪法、敎化无智道俗事。
右無解作師、是『梵網』之制戒也。黑闇之類欲顯己才、以淨土敎爲藝能、貪名利望檀越。恐成自由之妄說、狂惑世間人。誑法之過殊重。是輩非國賊乎。
一 可停止自說非佛敎邪法爲正法、僞號師範說事。
Ⅲ-0957右各雖一人、說所積爲予一身。衆惡汚彌陀敎文、揚師匠之惡名、不善之甚无過之者也。
以前七箇條甄錄如斯。一分學敎文弟子等者、頗知旨趣年來之間雖修念佛、隨順聖敎敢不逆人心、无驚世聽。因茲于今三十箇年无爲。渉日月而至近王此十箇年以後、无智不善輩時時到來。非啻失彌陀淨業、又汚穢釋迦遺法。何不加炯誡乎。此七箇條之内、不當之間巨細事等多。具難註述。總如此等之無方、愼不可犯。此上猶背制法輩者、是非予門人、魔眷屬也。更不可來草庵。自今以後、各隨聞及、必可被觸之。餘人勿相伴。若不然者、是同意人也。彼過如作者、不能瞋同法恨師匠、自業自得之理、只在己身而已。是故今日催四方行人、集一室告命、僅雖有風聞慥不知誰人失、據于沙汰愁歎。遂年序、非可默止。先隨力及、所廻禁遏之計也。仍錄其趣示門葉等之狀、如件。
元久元年十一月七日 沙門源空
信空 感聖 尊西 證空 源智 行西 聖蓮 見佛 導亘 導西 寂西 宗慶Ⅲ-0958 西縁 親蓮 幸西 住蓮 西意 佛心 源蓮 蓮生 善信 行空 [已上]
已上二百餘人、連署了。

(九)
起請 沒後二箇條事。
一 葬家追善事。
右葬家之次第、頗有其採旨。有籠居之志遺弟・同法等、全不可群會一所者也。其故何者、雖復似和合、集則起鬪諍。此言誠哉、甚可謹愼。若然者我同法等、於我沒後各住各居不如不會。鬪諍之基由、集會之故也。羨我弟子・同法等、各閑住本在之草庵、苦可祈我新生之蓮臺。努々群居一所、莫致諍論起忿怨。有知恩志之人、毫末不可違者也。兼又追善之次第、亦深有存旨。圖佛・寫經等善、浴室・檀施等行、一向不可修之。若有追善報恩之志人は、唯一向可修念佛之行。平生之時、旣付自行化他、唯局念佛之一行。歿沒之後、豈爲報恩追修、寧雜自餘之衆善哉。但於念佛行Ⅲ-0959尙可有用心。或眼閉之後、一晝夜自卽時始之。標誠至心各可念佛。中陰之間、不斷念佛。動生懈惓、各還闕勇進之行。凡沒後之次第、皆用眞實心可棄虛假行。有志之倫、勿乖遺言而已。

(一〇)
源空聖人私日記
夫以、俗姓者美作國廳官漆間時國之息。同國の久米南條稻岡庄誕生之地也。長承二年W癸丑R聖人始出胎内之時、兩幡自天而降。奇異之瑞相也。權化之再誕也。見者合掌、聞者驚耳W云云R。
保延七年W辛酉R春比、慈父爲夜打被殺害畢。聖人生年九歲、以破矯小箭射凶敵之目間。以件疵知其敵、卽其庄預所明石源内武者也。因茲逃隱畢。其時聖人、同國内菩提寺院主觀覺得業之弟子成給。
天養二年W乙丑R初登山之時、得業觀覺狀云、進上大聖文殊像一體。源覺西塔北谷持法房禪下、得業の消息見給奇給小兒來、聖人十三歲也。然後十七歲天台六十卷讀始之。
Ⅲ-0960久安六年W庚午R十八歲始師匠乞請暇遁世。法華修行之時普賢菩薩眼前奉拜、『華嚴』披覽之時蛇出來。信空上人見之怖驚給。其夜夢、我者此聖人夜經論見、雖無燈明室内有光如晝。信空W法蓮房也、聖人之同法R同見其光。修眞言敎入道場觀五相成身之觀、行顯之。於 上西門院說戒七箇日之間、小蛇來聽聞。當第七日於唐垣上其蛇死畢。于時有人人見樣、其頭破中或見天人登、或見蝶出。說戒聽聞之故、離蛇道之報直生天上歟。
高倉天皇御宇得戒。其戒之相承、自南岳大師所傳于今不絶、世間流布之戒是也。聖人所學之宗宗師匠四人、還成弟子畢。誠雖大卷書三反披見之時、於文者明明不暗、義又分明也。雖然以廿餘之功、不能知一宗之大綱。然後窺諸宗之敎相、悟顯密之奧旨。八宗之外明佛心・達磨等宗之玄旨。爰醍醐寺三論宗之先達、聖人往于其所述意趣。先達總不言起座、入内取出文函十餘合云、於我法門者無餘念、永令付屬于汝W云云R。此上稱美讚嘆不遑羅縷。又値藏俊僧都而談法相法門之時、藏俊云く、汝方非直人、權者之化現也。智Ⅲ-0961慧深遠形相炳焉也。我一期之間可致供養之旨契約。仍每年贈供養物、致懇志。已遂本意了。宗之長者、敎之先達、無不隨喜信伏。
總本朝所渡之聖敎乃至傳記・目錄、皆被加一見了。雖然煩出離之道身心不安。抑始自曇鸞・道綽・善導・懷感御作至于楞嚴先德『往生要集』、雖窺奧旨二反、拜見之時者往生猶不易。第三反之時、亂想之凡夫不如稱名之一行、是則濁世我等依怙。末代衆生之出離令開悟訖。況於自身得脫乎。然則爲世爲人雖欲令弘通此行、時機難量、感應難知。倩思此事、暫伏寢之處示夢想。紫雲廣大聳覆日本國。自雲中出无量光、自光中百寶色鳥飛散、充滿虛空。于時登高山忽拜生身之善導、自御腰下者金色也、自御腰上者如常。高僧云、汝雖爲不肖之身、念佛興行滿于一天。稱名專修及于衆生之故、我來于此。善導卽我也W云云R。因茲弘此法。年年次第繁昌、無不流布之所。
聖人云、我師肥後阿闍梨云、人智慧深遠也。然倩計自身分際、此度不可出離生死。若度度替生隔生、卽妄妄故定妄佛法歟。不Ⅲ-0962如受長命之報、欲奉値慈尊之出世。依之我將受大蛇身。但住大海者、可有中夭。如此思定、遠江國笠原庄内櫻池云所、取領家之放文、住此池誓願了。其後至于死期時、乞水入掌中死了。而彼池、風不吹浪俄立、池中塵悉拂上。諸人見之、卽注此由觸申領家。期其日時、彼阿闍梨當逝去日。所以有智慧故知難出生死、有道心之故値佛之出世所願也。雖然未知淨土法門之故、如此發惡願。我其時、若此法尋得、不顧信不信此法門申。而於聖道法者、有道心者期遠生之縁、無道心者倂住名利。以自力輒可厭生死之者、是不得歸依之證也W云云R。
又聖人年來開經論之時、釋迦如來、罪惡生死凡夫依彌陀稱名之行可往生極樂弘說給之。勘得敎文、今修念佛三昧立淨土宗。其時南都・北嶺碩學達、共誹謗嘲哢無極。然間文治二年之比、天台座主中納言法印顯眞、厭娑婆忻極樂、籠居大原山入念佛門。其時弟子相模公申云、法然聖人立淨土宗義、可尋聞食。顯眞云、尤可然W云云R。但我一人不可聽聞、處處智者請集定了而彼大原龍禪寺集會以後、Ⅲ-0963法然聖人請之。無左右來臨了。顯眞喜悅無極。集會之人々、
光明山僧都明徧    W東大寺三論宗長者也R
笠置寺解脫上人    W侍從已講貞慶、法相宗人也R
大原山本成坊     [此人人問者也]
東大寺勸進上人修乘坊 [重源]
嵯峨往生院念佛坊   [天台宗人也]
大原來迎院明定坊蓮慶 [天台宗人]
菩提山長尾蓮光坊   [東大寺人]
法印大僧都智海    W天台山東塔西谷林泉坊R
法印權大僧都證眞   W天台山東塔東谷寶地坊R
聽衆凡三百餘人也。
其時聖人淨土宗義、念佛功德、彌陀本願之旨、明明說之。其時云、口被定本成房、默然而信伏了。集會人人悉流歡喜之淚、偏歸伏。自其時彼聖人念佛宗興盛也。自法藏比丘之昔至彌陀如來之今、本願之趣、往生之子細不昧。說給之時、三百餘人、一人無疑聖道・淨土敎文。Ⅲ-0964玄旨說之時、人人始向虛空無出言語之人。集會人人云、見形者源空聖人、實者彌陀如來應迹歟定了。仍集會之驗、於件寺三晝夜不斷念佛勤行了。結願之朝、顯眞付『法華經』之文字員數一人別阿彌陀佛名付、彼敎訓大佛上人。自其時南无阿彌陀佛之名付給了。
高倉院御宇安元元年W乙未R聖人齡自四十三始入淨土門閑觀淨土給、初夜寶樹現、次夜示瑠璃地、後夜者宮殿拜之。阿彌陀三尊常來至也。又靈山寺三七日不斷念佛之間、無燈明有光明。第五夜勢至菩薩行道同烈立給。或人如夢奉拜之。聖人曰、猿事侍覽。餘人更不能拜見。 月輪禪定殿下[兼實]W御法名圓照R、歸依甚深也。或日聖人參上月輪殿。退出之時、自地上高踏蓮華而步。頭光赫奕、凡者勢至菩薩化身也。如此善因令然業果惟新之處、南北之碩德、顯密之法燈、或號謗我宗、或稱嫉聖道。寄事於左右、求咎於縱橫。動驚天聽諷諫門徒之間、不慮之外忽蒙敕勘被行流刑了。雖然無程歸洛了。權中納言藤原朝臣光親、爲奉行被下敕免之宣旨。去建曆元年十一月廿日、歸洛居卜東山大谷之別業、鎭待西方淨土之迎接。同三年Ⅲ-0965正月三日、老病空期蒙昧之臻。所待所馮寔悅哉、高聲念佛不退也。或時聖人相語弟子云、我昔有天竺、交聲聞僧常行頭陀。本者是有極樂世界、今來于日本國學天台宗、又勸念佛。身心無苦痛、蒙昧忽分明。十一日辰時、端座合掌念佛不絶。卽告弟子云、高聲念佛各可唱。觀音・勢至菩薩・聖衆、現在此前、如『阿彌陀經』所說。隨喜雨淚、渴仰融肝。盡虛空界之莊嚴遮眼、轉妙法輪之音聲滿耳。至于同廿日、紫雲聳上方、圓圓雲鮮其中、如圖繪佛像。道俗貴賤、遠近緇素、見者流感淚、聞者成奇異。同日未時、擧目合掌、自東方見西方事五六度、弟子奇而問云、佛來迎たまふ歟。聖人答云、然也。廿三、四日紫雲不罷、彌廣大聳。西山賣炭老翁、荷薪樵夫、大小老若見之。廿五日午時許、行儀不違、念佛之聲漸弱、見佛之眼如眠。紫雲聳空、遠近の人人來集、異香薰室。見聞之諸人仰信。臨終已到、慈覺大師之九條袈裟懸之向西方唱云、「一一光明徧照十方世界、念佛衆生攝取不捨」(觀經)W云云R。停午之正中也。三春何節哉、釋尊唱滅、聖人唱滅。彼者二月中旬五日也、此者正月下旬五日也。八旬何歲哉、釋尊Ⅲ-0966唱滅、聖人唱滅。彼八旬也、此八旬也。
園城寺長吏法務大僧正公胤、爲法事唱導之時、其夜告夢云、
源空爲敎益 公胤能說法 感卽不可盡 臨終先迎攝
源空本地身 大勢至菩薩 衆生敎化故 來此界度度
と。此故勢至來見名大師聖人。所以讚勢至言、无邊光、以智慧光普照一切故。嘆聖人稱智慧第一、以碩德之用潤七道故也。彌陀動勢至爲濟度之使、善導遣聖人整順縁之機。定知十方三世无央數界有情・無情、遇和尙興世、初悟五乘濟入之道。三界・虛空・四禪・八定・天王・天衆、依聖人誕生、忝拔五衰退沒之苦。何況末代惡世之衆生、依彌陀稱名之一行悉遂往生素懷、源空聖人傳說興行故也。仍爲來之弘通勸之。
南无釋迦牟尼佛 南无阿彌陀如來
南无觀世音菩薩 南无大勢至菩薩
南无三部一乘妙典法界衆生平等利益せむと。

Ⅲ-0967(一一)
和尙の御釋によるに、決定往生の行相に、三機のすぢわかれたるべし。第一に信心決定せる、第二に信行ともにかねたる、第三にたゞ行相ばかりなるべし。
第一に信心決定せる機といふは、これにつきて又二機あり。一にはまづ精進の機といふ者、又これについて二機あり。一には彌陀の本願を縁ずるに、一聲に決定しぬと、こゝろのそこより眞實に、うらうらと一念も疑心なくして、決定心をえてのうへに一聲に不足なしとおもへども、佛恩を報ぜむとおもひて、精進に念佛のせらるゝなり。また信えての上には、はげまざるに念佛はまふさるべき也。この行者の中には、信心えたりとおもふて、その上によろこぶ念佛とおもへども、いまだ信心決定せぬ人もあるべし。それおばわがこゝろに勘しられぬべき事也。たとひ信心はとづかずとも、念佛ひまなきかたより往生はすべし。二には上にいふがごとく、決定心をえての上に本願によて往生すべき道理おばあおいでのち、わがかたよりわが信心をさしゆるがして、かく信心をえたりとおもひしらず、われ凡夫なり、佛の知見のまへにはとづかずもあるらむと、こゝろかしこくおもふて、なほ信心を決定せむがために念佛をはげむなり。決Ⅲ-0968定心をえふせての上にわがこゝろをうたがふは、またく疑心とはなるべからざる也。精進の二類の機、かくのごとし。これおば第二の信行ならべる行相の機としるべし。
次に懈怠の機といふは、決定心をえての上によろこびて、佛恩を報ぜむがために常念佛せむとおもへども、あるいは世業衆務にもさえられ、また地體懈怠のものなるがゆへに、おほかた念佛のせられぬ也。この行者は一向信心をはげむべき也。はげむ機につきて、また精進・懈怠のものあるべし。精進といふは、常本願の縁ぜらるべき也。縁ずれば、また自然にいさぎよき念佛も申さるべし。この念佛は最上の念佛也。これをあしくこゝろえて、この念佛の最上におぼゆれば、この念佛ぞ往生おもし、また願にも乘ずらむとおもはむはわるし。そのゆへは、佛の御約束、一聲もわが名をとなえむものをむかえむといふ御ちかひにてあれば、最初の一念こそ願には乘ずることにてあるべけれ。また常に本願の縁ぜらるれば、たのもしきこゝろもいでくべき也。その時このこゝろのよく相續のせらるればとて、それをもて往生すべしとおもふべからず。かくのごとくおもはゞ、疑惑になるべきなり。こゝろのゆがむときは、往生の不定におぼゆべきがゆへⅢ-0969に、たゞおもふべきやうは、我かたより一分の功德もなく、本願の御約束にそなえしところの念佛の功德も瞋恚のほむらにやけぬれども、かの願力の不取正覺の本誓の、あやまりなきかたよりすくわれまいらせて往生はすべしと、返々もおもふべき也。懈怠のものといふは、衆務にさまたげられもせよ、本願を縁ずる事のまれにあるべきなり。まれにはありといふとも、いさゝかも一念にとるところの信心のゆるがずして、その時は又決定心のおこるべきなり。信心決定の中の二類の機、かくのごとし。これは第一の信心決定せる機としるべし。
今上にあぐるところの四人、眞實に決定心をだにもえたらば、精進にてもあれ懈怠の機にてもあれ、本願を縁ずるこゝろねは、たとへば黑雲のひまより、まれにてもつねにても、いでむところの滿月の光をみむがごとくなるべし。信心の得不得おば、おのおのわがこゝろにてしりぬべし。事にふれて一念にとるところの信心ゆるがずは、假令よき信心としるべし。これもことわりばかりにて信心あり、こゝろゆるぐべからずと、まじなひつけむ事は要あるべからず。散心につけても、いさゝかにてもゆるぐこゝろあらば、信心よはしとしるべし。信心よはしとおぼえば、懈怠の機はなほ信をはげむで本願を縁ずべき也。それになほかなⅢ-0970はずは、かまへて行相におもむきてはげむべきなり。精進の機は、一向恆所造の行相におもむきてはげむべきなり。行相は正助二行を、一向正行にてもまた助業をならべむとも、おのおの意樂にまかすべきなり。
第三に行相をはげむ機といふは、上にあぐるところの信精進懈怠の機の、我信心決定せるやうを、こゝろによくよくあむじほどく時、我信心決定せず。やゝもすれば行業のおこるにつけ、信心の間斷するにつけて、往生の不定におぼゆるまではなけれども、また決定往生すべしともおぼえぬは、信心の決定せざるなりと勘えて、一向行におもむきてはげむをいふなり。この機は懈怠のいでき、念佛のものうからむ時は、おどろきて行をはげむべきなり。信心もよはく念佛もおろそかならば、往生不定のものなり。この人またあしくこゝろえて行をはげむは、この行業をもて往生すべしとおもはゞ疑惑になるべきなり。今念佛の行をはげむこゝろは、つねに念佛あざやかに申せば、念佛よりして信心のひかれていでくる也。信心いできぬれば、本願を縁ずる也。本願を縁ずれば、たのもしきこゝろのいでくる也。このこゝろいできぬれば、信心の守護せられて決定往生をとぐべしとこゝろうべし。
Ⅲ-0971これにつきて、人うたがひていはく、念佛をはげみて信心を守護して往生をとぐべきならば、はげむところの念佛は自力往生とこそなるべけれ。いかゞ他力往生といふべきや。今自力といふは、聖道自力にすべからず、いさゝかあたえていえるなるべし。答いはく、念佛を相續して、相續より往生をするは、またく自力往生にはあらず。そのゆへは、もとより三心は本願にあらず、これ自力なり。三心は自力なりといふは、本願のつなにおびかれて、信心の手をのべてとりつぐ分をさすなりとこゝろうべし。今念佛を相續して信心を守護せむとするに、三心の中の深心をはげむ行者也。相續の念佛の功德をもちて、廻向して往生を期せば、まことに自力往生をのぞむものといはるべきなり。また念佛はすれども、常に信心もおこらず、願を縁ずる事のつねにもなければとて、往生を不定におもふべからず。そのこゝろなけれども、たゞ自力を存ぜず、すべて疑惑のこゝろなくして常に念佛すれば、我こゝろにはおぼえねども、信心のいろのしたひかりて相續するあひだ、決定往生をうるなり。しるべし、そのこゝろは、たとへば月のひかりのうすぐもにおほはれて、滿月の體はまさしくみえずといゑども、月のひかりによるがゆへに、世間くらからざるがごとし。
Ⅲ-0972行相の三機のやう、かくのごとし。詮ずるところ、信心よはしとおもはゞ、念佛をはげむべし。決定心えたりとおもふての上になほこゝろかしこからむ人は、よくよく念佛すべし。また信心いさぎよくえたりとおもひてのちの念佛おば、別進奉公とおもはむにつけても、別進奉公はよくすべき道理あれば、念佛をはげむべし。地體は我こゝろをよくよく按じほどいて、行にても信にても、機にしたがひてたえむにまかせてはげむべき也。かくのごとくこゝろをえてはげまば、往生は決定はづるべからざる也。

(一二)
かまくらの二品比丘尼、聖人の御もとへ念佛の功德をたづね申されたりけるに御返事。
御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。念佛の功德は佛もときつくしがたしとのたまへり。また智慧第一の舍利弗、多聞第一の阿難も、念佛の功德はしりがたしとのたまひし廣大の善根にて候へば、まして源空などは申つくすべくも候はず。源空、この朝にわたりて候佛敎を隨分にひらきみ候へども、淨土の敎文、晨旦よりとりⅢ-0973わたして候聖敎のこゝろをだにも、一年二年などにては申つくすべくもおぼえ候はず。さりながら、おほせたまはりたることなれば、申のべ候べし。まづ念佛を信ぜざる人々の申候なる事、くまがへの入道・つのとの三郎は無智のものなればこそ餘行をせさせず、念佛ばかりおば法然房はすゝめたれと申候なる事、きわめたるひがごとにて候也。そのゆへは、念佛の行は、もとより有智・無智をえらばず。彌陀のむかしのちかひたまひし大願は、あまねく一切衆生のため也。無智のためには念佛を願とし、有智のためには餘行を願としたまふ事なし。十方世界の衆生のためなり、有智・無智・善人・惡人・持戒・破戒・貴賤・男女もへだてず。もとは佛の在世の衆生、もしは佛の滅後の衆生、もしは釋迦末法萬年ののちに三寶みなうせてのゝちの衆生まで、たゞ念佛ばかりこそ現當の祈禱とはなり候へ。善導和尙は彌陀の化身にて、ことに一切の聖敎をかゞみて專修の念佛をすゝめたまへるも、ひろく一切衆生のため也。方便時節末法にあたりたるいまの敎これなり。されば無智の人の身にかぎらず、ひろく彌陀の本願をたのみて、あまねく善導の御こゝろにしたがひて、念佛の一門をすゝめ候はむに、いかに无智の人のみにかぎりて、有智の人おばへだてて往生せさせじとはし候はむや。しⅢ-0974からずは、大願にもそむき、善導の御こゝろにもかなふべからず。しかればすなわち、この邊にまうできて往生の道をとひたづね候にも、有智・無智を論ぜず、ひとへに專修念佛をすゝめ候也。かまえてさやうに專修の念佛を申とゞめむとつかまつる人は、さきの世に念佛三昧の得道の法門をきかずして、後世にまたさだめて三惡におつべきものゝ、しかるべくしてさやうに申候也。そのゆへは、聖敎にひろくみえて候。しかればすなわち、「修行することあるをみては毒心をおこし、方便してきおふて怨なす。かくのごとくの生盲闡提のともがら、頓敎を毀滅ながく沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身をはなるゝことをえず」(法事讚*卷下)とときたまへり。
「見有修行起瞋毒 方便破壞競生怨
如此生盲闡提輩 毀滅頓敎永沈淪
超過大地微塵劫 未可得離三途身
大衆同心皆懺悔 所有破法罪因縁」(法事讚*卷下)[文]
この文の心は、淨土をねがひ念佛を行ずる人をみては、毒心をおこし、ひがごとをたくみめぐらして、やうやうの方便をなして專修の念佛の行をやぶり、あだおⅢ-0975なして申とゞむるに候也。かくのごとくの人は、むまれてより佛性のまなこしひて、善のたねをうしなへる闡提人のともがらなり。この彌陀の名號をとなえて、ながき生死をはなれて常住の極樂に往生すべけれども、この敎法をそしりほろぼして、この罪によりてながく三惡道にしづむとき、かくのごときの人は、大地微塵劫をすぐれども、ながく三途の身をはなれむことあるべからずといふ也。しかればすなわち、さやうにひがごと申候らむ人おば、かへりてあはれみたまふべきもの也。さほどの罪人の申によりて、專修念佛に懈怠をなし、念佛往生にうたがひをなし不審をおこさむ人は、いふかひなきことにてこそ候はめ。凡縁あさく往生の時いたらぬものは、きけども信ぜず、念佛のものをみればはらだち、聲を聞ていかりをなし、惡事なれども經論にもみえぬことを申也。御こゝろえさせたまひて、いかに申とも御こゝろがはりは候べからず。あながちに信ぜざらむ人おば御すゝめ候べからず。かゝる不信の衆生をおもへば、過去の父母・兄弟・親類也とおもひ候にも、慈悲をおこして、念佛かゝで申て極樂の上品上生にまいりてさとりをひらき、生死にかへりて誹謗不信の人おもむかへむと、善根を修してはおぼしめすべき事にて候也。このよしを御こゝろえあるべきなり。
Ⅲ-0976一 異解の人々の餘の功德を修するには、財寶あひ助成しておぼしめすべきやうは、我はこの一向專修にて決定して往生すべき身なり、他人のとおき道をわがちかき道に結縁せさせむとおぼしめすべき也。その上に專修をさまたげ候はねば、結番せむにもとがなし。
一 人々の堂をつくり、佛をつくり、經をかき、僧を供養せむ事は、こゝろみだれずして慈悲をおこして、かくのごときの雜善根おば修せさせたまへと御すゝめ候べし。
一 このよのいのりに、念佛のこゝろをしらずして佛神にも申し、經おもかき、堂おもつくらむと。これもさきのごとく、せめてはまた後世のためにつかまつらばこそ候はめ。その用事なしとおほせ候べからず。專修をさえぬ行にてもあらざりけりとも、おぼしめし候べし。
一 念佛申事、やうやうの義は候へども、六字をとなふるに一切をおさめて候也。心には願をたのみ、口には名號をとなえて、かずをとるばかりなり。常に心にかくるが、きわめたる決定の業にて候也。念佛の行は、もとより行住座臥・時處諸縁をえらばず、身口の不淨おもきらはぬ行にて候へば、樂行往生とは申つⅢ-0977たえて候也。たゞしこゝろをきよくして申おば、第一の行と申候也。淨土をこゝろにかくれば、心淨の行法にて候也。さやうに御すゝめ候べし。つねに申たまひ候はむおば、とかく申べきやうも候はず。我身ながらもしかるべくて、このたび往生すべしとおぼしめして、ゆめゆめこのこゝろつよくならせたまふべし。
一 念佛の行を信ぜぬ人にあひて論じ、あらぬ行の異計の人々にむかひて執論候べからず。あながちに異解・異學の人をみては、あなづりそしること候まじ。いよいよ重罪の人になし候はむこと不便に候。同心に極樂をねがひ念佛を申人おば、卑賤の人なりとも父母の慈悲におとらずおぼしめし候べし。今生の財寶のともしからむにも、力をくわへたまふべし。さりながらも、すこしも念佛にこゝろをかけ候はむおば、すゝめたまふべし。これ彌陀如來の御みやづかへとおぼしめすべく候也。如來滅後よりこのかた、小智小行にまかりなりて候也。われもわれもと智慧ありがほに申人は、さとり候べし。せめては錄の經敎おもきゝみず、いかにいはむや、錄のほかのみざる人の智慧ありがほに申は、井のそこの蛙ににたり。隨分に震旦・日本の聖敎をとりあつめて、このあひだ勘て候也。念佛信ぜぬ人は、前世に重罪をつくりて地獄にひさしくありて、また地獄にはやくかへるⅢ-0978べき人なり。たとひ千佛世にいでゝ、念佛よりほかにまた往生の業ありとおしえたまふとも信ずべからず。これは釋迦・彌陀よりはじめて、恆沙の佛の證誠せしめたまへることなればとおぼしめして、御こゝろざし金剛よりもかたくして、一向專修の御變改あるべからず。もし論じ申さむ人おば、これへつかはして、たて申さむやうをきけと候べし。やうやうの證文かきしるしてまいらすべく候へども、たゞこゝろこれにすぎ候べからず。また娑婆世界の人は、よの淨土をねがはむことは、弓なくして空の鳥をとり、足なくしてたかきこずゑの華をとらむがごとし。かならず專修の念佛は現當のいのりとなり候也。これ略してかくのごとし、これも經の說にて候。御中の人々には九品の業を、人のねがひにしたがひて、はじめおはりたえぬべきほどに御すゝめ候べきなり。あなかしこ、あなかしこ。

(一三)
或人云、阿彌陀佛の慈悲・名號餘佛に勝、幷本願の體用の事。
「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺。」(大經*卷上)W云云R。「十方衆生」と云は、諸佛敎化にもれたる常沒の衆生也。この衆生をあⅢ-0979われみおぼしめすかたに、諸佛の御慈悲も阿彌陀佛の御慈悲におなじかるべし。これは總願に約す。別願に約する時は、阿彌陀佛の御慈悲は餘佛の慈悲にすぐれたまへり。そのゆへは、この常沒の衆生を十聲・一聲の稱名の功力を以、无漏の報土へ生ぜしめむと云御願によて也。阿彌陀佛の名號の餘佛の名號にすぐれたまへると云も、因位の本願にたてたまへる名號なるがゆへに勝たまへり。しからずは、報土の生因となるべからず、餘佛の名號に同ずべし。
抑阿彌陀佛の本願と云はいかなる事ぞと云に、本願と云は總別の願に通ずといゑども、言總意別にて、別願をもて本願とはなづくる也。本願と云ことは、もとのねがひと訓ずる也。もとのねがひと云は、法藏菩薩の昔、常沒の衆生を、一聲の稱名のちからをもて稱してむ衆生を我國に生ぜしめむと云こと也。かるがゆへに本願といふなり。
問。本願について體用あるべし、その差別いかんぞ。答。本願と云は、因位に、われ佛になりたらむときの名をとなへむ衆生を、極樂に生ぜしめむとねがひたまへるゆへに、法藏菩薩の御こゝろをもて本願の體とし、名號をもては本願の用とす。これは十劫正覺のさき、兆載永劫の修行をはじめ、願をおこしたまⅢ-0980へる時の法藏菩薩に約して體用を論ずる也。今は法藏菩薩は因位の願成就して、果位の阿彌陀佛となりたまへるがゆへに、法藏菩薩おはしまさゞれば、法藏菩薩に約して本願の體用を論ずべきにあらず。たゞしあたえて云へば、本願の體用あるべし。體と云について、二のこゝろあるべし。一には行者をもて本願の體とし、二には名號をもて本願の體とす。まづ行者をもて本願の體とすと云は、法藏菩薩の本願に、成佛したらむ時の名、一聲も稱してむ衆生を極樂に生ぜしめむと願じたまへるがゆへに、今信じて一聲も稱してむ衆生はかならず往生すべし。この能稱の行者の往生するところをさして、行者をもて本願の體とすとはこゝろうべきなり。
問。我佛に成たらむ時の名を稱せむものを生ぜしめむと本願には立たまへるがゆへに、名號を稱する者をやがて本願の體ともこゝろうべしや。答。これについて與奪の義あるべし。與て云へば、行者の正蓮臺にうつりて往生するところをもて本願の體とし、奪云へば、往生すべき行者なるがゆへに、當體能稱の者をさして本願の體とすべし。行者について本願の體と云時は、別に用の義なし。蓮臺に託して、往生已後の增進佛道をもて用とす。これは極樂にての事なり。次Ⅲ-0981に名號をもて本願の體とすと云は、これも成佛の時の名を稱せむ衆生を生ぜしめむと願じたまへるがゆへに、信じて名を唱てむ衆生はかならず生ずべければ、名號をもて本願の體と云也。名號を唱つる衆生の往生するは、名號の用也。今名號をもて本願の體とすと云は、法藏菩薩の御こゝろのそこをもて本願の體とすといひつる時は、用といはれつる名號也。しかるを、今はまさしく名號をもては本願の體と云也。
體用の義は事によりてかはるなり。喩ともしびのひかりをもてこゝろうべし。ともしびのあかくもえあがりたるは火の體なり。燈によりて闇はれて、明なるところの光は火の用なり。この光の明なるをもて體とする時は、その明の中に黑白等の一切の色形のみゆるは明の用なり。かくのごとく用をもて體とも云事、常の事なり、しるべし。行者の往生するをもて本願の體と云ことは、實には名號を稱せずして往生すべき道理なし、名號によて往生すべし。しかりといゑども、かくのごときの事は、約束によりて云時は、行者の往生をもて本願の體ともいはるべし。名號を本願の體と云時は、稱する行者の往生するは名號の用なり。しかれば行者は、あるいは本願の體、あるいは名號の用にも決定すべきなり。この道Ⅲ-0982理によて、本願の體に約してこゝろうれば、本願や行者、行者や本願、本願や名號、名號や本願と、たゞ一に混亂するなり。用に約してこゝろえつれば、名號や行者、行者や名號といはるべし。詮ずるところは、體なくは用あるべからず、用は體によるがゆへに。本願と行者、たゞ一ものにて、一としてはなれざるなり。
問。法藏菩薩の本願の約束は、十聲・一聲なり。一稱のゝちは、法藏菩薩の因位の本誓に心をかけて、名號おば稱すべからざるにや。答。無沙汰なる人はかくのごとくおもひて、因位の願を縁じて念佛おも申せば、これをしえたるこゝちして、願を縁ぜざる時の念佛おば、ものならずおもふて念佛に善惡をあらするなり。これは無按内のことなり。法藏菩薩の五劫の思惟は、衆生の意念を本とせば、識揚神飛のゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名號を本願と立たまへり。この名號は、いかなる亂想の中にも稱すべし。稱すれば、法藏菩薩の昔の願に心をかけむとせざれども、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名號なり。しかれば、別に因位の本願を縁ぜむとおもふべきにあらず。
問。本願と本誓と、その差別いかんぞ。答。我成佛の時の名を稱せむ衆生を生ぜしめむと云は、本願也。もしむまるまじくは佛にならじと云は、本誓也。Ⅲ-0983總じて四十八願は法藏菩薩のむかしの本願也。この願にこたへたまへる佛果圓滿の今は、第十九の來迎の願にかぎりて化度衆生の御方便はおはしますべきなりと云なり。阿彌陀佛の名號は餘佛の名號に勝たまへり、本願なるがゆへなり。本願に立たまはずは、名號を稱すとも无明を破せざれば、報土の生因となるべからず、諸佛の名號におなじかるべし。しかるを阿彌陀佛は「乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)とちかひて、この願成就せしめむがために兆載永劫の修行をおくりて、今已成佛したまへり。この大願業力のそひたるがゆへに諸佛の名號にもすぐれ、となふればかの願力によりて決定往生おもするなり。かるがゆへに如來の本誓をきくに、うたがひなく往生すべき道理に住して、南无阿彌陀佛と唱てむ上には、決定往生とおもひをなすべきなり。たとへば、たきものゝにほひの薰ぜる衣を身にきつれば、みなもとはたきものゝにほひにてこそありと云とも、衣のにほひ身に薰ずるがゆへに、その人のかうばしかりつると云がごとく、本願薰力のたきものゝ匂は、名號の衣に薰じ、またこの名號の衣を一度南无阿彌陀佛とひきゝてむものは、名號の衣の匂身に薰ずるがゆへに、決定往生すべき人なり。大願業力の匂と云は、往生の匂なり。大願業力の往生の匂、Ⅲ-0984名號の衣よりつたわりて行者の身に薰ずと云道理によりて、『觀經』には「若念佛者、當知、此人是人中分陀利華」と說なり。念佛の行者を蓮華に喩ことは、蓮華は不染の義、本願の淸淨の名號を稱すれば、十惡・五逆の濁にもそまらざるかたを喩たるなり。また「觀世音菩薩・大勢至菩薩、爲其勝友」(觀經)と云へり。文のこゝろは、これも往生の匂身に薰ぜる行者は、かならず往生すべし。これによて善導和尙も、三心具足の者おば極樂の聖衆に接したまへり。極樂の聖衆と云は、因中說果の義なり。聖衆となる道理あれば、當時よりして二菩薩も肩をならべ、膝をまじえて勝友となりたまふといふこゝろなり。命終の已後は、往生して佛果菩提を證得すべきによて、「當座道場生諸佛家」(觀經)とときたまへり。かるがゆへに、一念に无上の信心をえてむ人は、往生の匂の薰ぜる名號の衣をいくえともなくかさねきむとおもふて、歡喜のこゝろに住して、いよいよ念佛すべしと云へり。
Ⅲ-0985西方指南抄中

康元元年W丙辰R十月十四日
愚禿親鸞W八十四歲R書寫之


Ⅲ-0986西方指南抄下[本]


(一四)
御ふみこまかにうけたまはり候ぬ。はるかなるほどに、念佛の事きこしめさむがために、わざとつかひをあげさせたまひて候、御念佛の御こゝろざしのほど、返々もあはれに候。
さてはたづねおほせられて候念佛の事は、往生極樂のためには、いづれの行といふとも、念佛にすぎたる事は候はぬ也。そのゆへは、念佛はこれ彌陀の本願の行なるがゆへなり。本願といふは、あみだ佛のいまだほとけにならせたまはざりしむかし、法藏菩薩と申しいにしへ、佛の國土をきよめ、衆生を成就せむがために、世自在王如來と申佛の御まへにして、四十八の大願をおこしたまひしその中に、一切衆生の往生のために、一の願をおこしたまへり。これを念佛往生の本願と申也。すなわち『无量壽經』の上卷にいはく、「設我得佛、十方衆生、至心信樂欲生我國、乃至十念。若不生者、不取正覺」と[云云]。Ⅲ-0987善導和尙この願を釋して云、「若我成佛、十方衆生、稱我名號下至十聲、若不生者不取正覺。彼佛今現在成佛。當知、本誓重願不虛、衆生稱念必得往生。」(禮讚)W已上R念佛といふは、佛の法身を憶念するにもあらず、佛の相好を觀念するにもあらず、たゞこゝろをひとつにして、もはら阿彌陀佛の名號を稱念する、これを念佛とは申也。かるがゆへに「稱我名號」といふなり。念佛のほかの一切の行は、これ彌陀の本願にあらざるがゆへに、たとひめでたき行なりといふとも、念佛にはおよばず。おほかたそのくににむまれむとおもはむものは、その佛のちかひにしたがふべきなり。されば彌陀の淨土にむまれむとおもはむものは、彌陀の誓願にしたがふべきなり。本願の念佛と、本願にあらざる餘行と、さらにたくらぶべからず。かるがゆへに往生極樂のためには、念佛の行にすぎたるは候はずと申なり。往生にあらざるみちには、餘行またつかさどるかたあり。しかるに衆生の生死をはなるゝみち、佛のおしえやうやうにおほく候へども、このごろ人の生死をはなれ三界をいづるみちは、たゞ極樂に往生し候ばかりなり。このむね聖敎のおほきなることわりなり。
つぎに極樂に往生するに、その行やうやうにおほく候へども、われらが往生せむⅢ-0988こと、念佛にあらずはかなひがたく候なり。そのゆへは、佛の本願なるがゆへに、願力にすがりて往生することはやすし。さればせむずるところは、極樂にあらずは生死をはなるべからず、念佛にあらずは極樂へむまるべからざるものなり。ふかくこのむねを信ぜさせたまひて、ひとすぢに極樂をねがひ、ひとすぢに念佛をして、このたびかならず生死をはなれむとおぼすべきなり。また一一の願のおはりに、「もししからずは正覺をとらじ」とちかひたまへり。しかるに阿彌陀佛、ほとけになりたまひてよりこのかた、すでに十劫をへたまへり。まさにしるべし、誓願むなしからず。しかれば、衆生の稱念するもの、一人もむなしからず往生する事をう。もししからずは、たれか佛になりたまへることを信ずべき。三寶滅盡の時なりといゑども、一念すればなほ往生す。五逆深重の人なりといゑども、十念すれば往生す。いかにいはむや、三寶の世にむまれて五逆をつくらざるわれら、彌陀の名號をとなえむに、往生うたがふべからず。いまこの願にあえることは、まことにこれおぼろげの縁にあらず。よくよくよろこびおぼしめすべし。たとひまたあふといゑども、もし信ぜざればあはざるがごとし。いまふかくこの願を信ぜさせたまへり、往生うたがひおぼしめすべからず。かならずかならずふⅢ-0989たごゝろなく、よくよく御念佛候て、このたび生死をはなれ極樂にむまれさせたまふべし。また『觀无量壽經』に云く、「一一光明徧照十方世界、念佛衆生攝取不捨」と。W已上Rこれは光明たゞ念佛の衆生をてらして、よの一切の行おばてらさずといふなり。たゞし、よの行をしても極樂をねがはゞ、佛のひかりてらして攝取したまふべし。いかゞたゞ念佛のものばかりをえらびて、てらしたまへるや。善導和尙釋してのたまはく、「彌陀身色如金山。相好光明照十方。唯有念佛蒙光攝。當知、本願最爲強。」(禮讚)W已上R念佛はこれ彌陀の本願の行なるがゆへに、成佛の光明つよく本地の誓願をてらしたまふなり。餘行これ本願にあらざるがゆへに、彌陀の光明きらいててらしたまはざるなり。いま極樂をもとめむ人は、本願の念佛を行じて、攝取のひかりにてらされむとおぼしめすべし。これにつけても念佛大切に候、よくよく申させたまふべし。また釋迦如來、この『經』の中に定散のもろもろの行をときおはりてのちに、まさしく阿難に付屬したまふときには、かみにとくところの散善の三福業、定善の十三觀おば付屬せずして、たゞ念佛の一行を付屬したまへり。『經』(觀經)に云く、「佛告阿難、汝好持是語。持是語者、卽是持无量壽佛名。」W已上R善導和尙Ⅲ-0990この文を釋してのたまはく、「從佛告阿難汝好持是語已下、正明付屬彌陀名號、流通於遐代。上來雖說定散兩門之益、望佛本願、意在衆生一向專稱彌陀佛名。」(散善義)W已上Rこの定散のもろもろの行は、彌陀の本願にあらず。かるがゆへに釋迦如來、往生の行を付囑したまふに、餘の定善・散善おば付囑せずして、念佛はこれ彌陀の本願なるがゆへに、まさしくえらびて本願の行を付屬したまへるなり。いま釋迦のおしえにしたがひて往生をもとむるもの、付屬の念佛を修して、釋迦の御こゝろにかなふべし。これにつけてもまたよくよく御念佛候て、佛の付屬にかなはせたまふべし。また六方恆沙の諸佛、御したをのべて、三千世界におほいて、もはらたゞ彌陀の名號をとなへて往生すといふは、これ眞實也と證誠したまふなり。これまた念佛は彌陀の本願なるがゆへに、六方恆沙の諸佛、これを證誠したまふ。餘の行は本願にあらざるがゆへに、六方恆沙の諸佛證誠したまはず。これにつけてもよくよく御念佛候べし。彌陀の本願、釋迦の付屬、六方の諸佛の證誠護念を、ふかくかうぶらせたまふべし。彌陀の本願、釋尊の付屬、六方の諸佛の護念、一一にむなしからず。このゆへに、念佛の行は諸行にすぐれたるなり。また善導和尙は彌陀の化身なり。Ⅲ-0991淨土の祖師おほしといへども、たゞひとへに善導による。往生の行おほしといゑども、おほきにわかちて二としたまへり。一には專修、いはゆる念佛なり。二には雜修なり、いはゆる一切のもろもろの行なり。上にいふところの定散等これなり。『往生禮讚』云、「若能如上念念相續、畢命爲期者、十卽十生、百卽百生」と云り。專修と雜行との得失なり。得といふは、往生する事をうるといふ。いはく念佛するものは、すなわち十は十人ながら往生し、百はすなわち百人ながら往生すといふ、これなり。失といふは、いはく往生の益をうしなえるなり。雜修のものは、百人が中にまれに一二人往生する事をえてそのほかは生ぜず、千人が中にまれに三五人むまれてその餘はむまれず。專修のものはみなむまるゝことをうるは、なにのゆへぞと。阿彌陀佛の本願に相應せるがゆへなり、釋迦如來のおしえに隨順せるがゆへなり。雜業のものはむまるゝことのすくなきは、なむのゆへぞと。彌陀の本願にたがへるがゆへなり。念佛して淨土をもとむるものは、二尊の御こゝろにふかくかなへり。雜修をして淨土をもとむるものは、二佛の御こゝろにそむけり。善導和尙、二行の得失を判ぜること、これのみにあらず。『觀經の疏』と申すふみの中に、おほく得失をあげたり。しげきⅢ-0992がゆへにいださず。これをもてしるべし。
おほよそこの念佛は、そしれるものは地獄におちて五劫苦をうくることきわまりなし、信ずるものは淨土にむまれて永劫たのしみをうくることきわまりなし。なほなほいよいよ信心をふかくして、ふたごゝろなく念佛せさせたまふべし。くはしき事、御ふみにつくしがたく候。この御つかひ申候べし。

(一五)
上野のくにの住人おほごの太郎と申もの、京へまかりのぼりたるついでに、法然聖人にあひたてまつりて、念佛のしさいとひたてまつりて、本國へくだりて念佛をつとむるに、ある人申ていはく、いかなる罪をつくれども、念佛を申せば往生す、一向專修なるべしといふとも、ときどきは『法華經』おもよみたてまつり、また念佛申さむもなにかはくるしからむと申ければ、まことにさるかたもありとて、法然聖人の御もとへ、消息にてこのよしをいかゞと申たりける御返事、かくのごとし。件の太郎は、このすゝめによりて、めおとこ、ともに往生してけり。
Ⅲ-0993聖人の御返事。
さきの便にさしあふ事候て、御ふみをだにみとき候ざりしかば、御返事こまかに申さず、さだめておぼつかなくおぼしめし候覽と、おそれおもふたまへ候。さてはたづねおほせられて候ことゞもは、御ふみなどにて、たやすく申ひらくべきことにても候はず。あはれまことに京にひさしく御とうりう候し時、よし水の坊にて、こまかに御さたありせばよく候なまし。おほかたは念佛して往生すと申ことばかりおば、わづかにうけたまはりて、わがこゝろひとつにふかく信じたるばかりにてこそ候へども、人までつばひらかに申きかせなどするほどの身にては候はねば、ましていりたちたることゞも、不審など、御ふみに申ひらくべしともおぼえ候はねども、わづかにうけたまはりおよびて候はむほどの事を、はゞかりまいらせて、すべてともかくも御返事を申さざらむことのくちおしく候へば、こゝろのおよび候はむほどのことは、かたのごとく申さむとおもひ候也。
まづ三心具足して往生すと申事は、まことにその名目ばかりをうちきくおりは、いかなるこゝろを申やらむと、ことごとしくおぼえ候ぬべけれども、善導の御こゝろにては、こゝろえやすきことにて候なり。もしならひさたせざらむ無智のⅢ-0994人、さとりなからむ女人などは、え具せぬほどのこゝろばえにては候はぬなり。まめやかに往生せむとおもひて念佛申さむ人は、自然に具足しぬべきこゝろにて候ものを。そのゆへは、三心と申は、『觀无量壽經』にとかれて候やうは、「もし衆生あて、かのくにゝむまれむとねがはむものは、三種の心をおこしてすなはち往生すべし。なにおか三とする。一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心なり。三心を具せるもの、かならずかのくににむまる」ととかれたり。しかるに善導和尙の御こゝろによらば、はじめの至誠心といふは眞實心なり。眞實といふは、うちにはむなしくして、外にはかざるこゝろなきを申也。すなわち、『觀无量壽經』を釋してのたまはく、「外に賢善精進の相を現じて、内には虛假をいだく事なかれ」(散善義)と。この釋のこゝろは、内にはおろかにして、外にはかしこき人とおもはれむとふるまひ、内には惡をつくりて、外には善人のよしをしめし、内には懈怠にして、外には精進の相を現ずるを、實ならぬこゝろとは申也。内にも外にもたゞあるまゝにてかざるこゝろなきを、至誠心とはなづけたるにこそ候めれ。二には深心とは、すなわちふかく信ずるこゝろなり。なに事をふかく信ずるぞといふに、もろもろの煩惱を具足して、おほくのつみをつくりて、餘のⅢ-0995善根なからむ凡夫、阿彌陀佛の大悲の願をあふぎて、そのほとけの名號をとなえて、もしは百年にても、もしは四、五十年にても、もしは十、廿年乃至一、二年、すべておもひはじめたらむより臨終の時にいたるまで退せざらむ。もしは七日・一日、十聲・一聲にても、おほくもすくなくも、稱名念佛の人は決定して往生すと信じて、乃至一念もうたがふ事なきを、深心と也。しかるにもろもろの往生をねがふ人も、本願の名號おばたもちながら、なほ内に妄念のおこるにもおそれ、外に餘善のすくなきによりて、ひとへにわがみをかろめて往生を不定におもふは、すでに佛の本願をうたがふなり。されば善導は、はるかに未來の行者のこのうたがひをのこさむ事をかゞみて、うたがひをのぞきて決定心をすゝめむがために、煩惱を具してつみをつくりて、善根すくなくさとりなからむ凡夫、一聲までの念佛、決定して往生すべきことわりを、こまかに釋してのたまへるなり。「たとひおほくの佛、そらの中にみちみちて、ひかりをはなち御したをのべて、つみをつくれる凡夫、念佛して往生すといふ事はひがごとなり、信ずべからずとのたまふとも、それによりて一念もおどろきうたがふこゝろあるべからず。そのゆへは、阿彌陀佛いまだ佛になりたまはざりしむかし、もしわれ佛になりたⅢ-0996らむに、わが名號をとなふる事、十聲・一聲までせむもの、わがくににむまれずは、われ佛にならじとちかひたまひたりしその願むなしからずして、すでに佛になりたまへり。しるべし、その名號をとなえむ人は、かならず往生すべしといふことを。また釋迦佛、この娑婆世界にいでゝ、一切衆生のために、かの阿彌陀佛の本願をとき、念佛往生をすゝめたまへり。また六方の諸佛は、その說を證誠したまへり。このほかにいづれの佛の、またこれらの諸佛にたがひて、凡夫往生せずとはのたまふべきぞといふことわりをもて、佛現じてのたまふとも、それにおどろきて信心をやぶりうたがひをいたす事あるべからず。いはむや、佛たちのゝたまはむおや。いはむおや、辟支佛等おや」と、こまごまと釋したまひて候也。いかにいはむや、このごろの凡夫のいひさまたげむおや。いかにめでたき人と申とも、善導和尙にまさりて往生のみちをしりたらむ事もかたく候。善導またたゞの凡夫にあらず、すなわち阿彌陀佛の化身なり。かの佛わが本願をひろめて、ひろく衆生に往生せさせむれうに、かりに人とむまれて善導とは申なり。そのおしえ申せば佛說にてこそ候へ。いかにいはむや、垂迹のかたにても現身に三昧をえて、まのあたり淨土の莊嚴おもみ、佛にむかひたてまつりて、たゞちにⅢ-0997佛のおしへをうけたまはりてのたまへることばどもなり。本地をおもふにも垂迹をたづぬるにも、かたがたあふぎて信ずべきおしえなり。しかれば、たれだれも煩惱のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、たゞくちにて南无阿彌陀佛ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし。決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。詮ずるところは、たゞとにもかくにも、念佛して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなづけて候なり。三には廻向發願心と申は、これ別のこゝろにては候はず、わが所修の行を、一向に廻向して往生をねがふこゝろなり。「かくのごとく三心を具足してかならず往生す。このこゝろひとへにかけぬれば往生せず」(禮讚意)と、善導は釋したまへるなり。たとひまことのこゝろありて、うへをかざらずとも、佛の本願をうたがはゞ、深心かけたるこゝろなり。たとひうたがふこゝろなくとも、うへをかざりて、うちにまことにおもふこゝろなくは、至誠心かけたるこゝろなるべし。たとひまたこのふたつのこゝろを具して、かざりごゝろもなく、うたがふこゝろもなくとも、極樂に往生せむとねがふこゝろなくは、廻向發願心すくなかるべし。また三心とわかつおりは、かくのごとく別別になⅢ-0998るやうなれども、詮ずるところは、眞實のこゝろをおこして、ふかく本願を信じて往生をねがはむこゝろを、三心具足のこゝろとは申べき也。まことにこれほどのこゝろをだにも具せずしては、いかゞ往生ほどの大事おばとげ候べき。このこゝろを申せば、またやすきことにて候ぞかし。これをかやうにこゝろえしらねばとて、三心具せぬにては候はぬなり。そのなをだにもしらぬものも、このこゝろおばそなえつべく、またよくよくしりたらむ人の中にも、そのまゝに具せぬも候ぬべきこゝろにて候なり。さればこそいふかひなき人のなかよりも、たゞひとへに念佛申ばかりにては往生したりといふことは、むかしより申つたえたることにて候へ。それはみなしらねども、三心を具したる人にてありけりと、こゝろうる事にて候なり。
またとしごろ念佛申たる人の、臨終わるきことの候は、さきに申つるやうに、うへばかりをかざりて、たうとき念佛者など人にいはれむとのみおもひて、したにはふかく本願おも信ぜず、まめやかに往生おもねがわぬ人にてこそは候らめとこそは、こゝろえられ候へ。さればこの三心を具せぬゆへに、臨終もわるく、往生もえせぬとは申候也。かく申候へば、さては往生は大事にこそあむなれと、おⅢ-0999ぼしめす事ゆめゆめ候まじ。一定往生すべきぞとおもひとらぬこゝろを、やがて深心かけて往生せぬこゝろとは申候へば、いよいよ一定とこそおぼしめすべき事にて候へ。まめやかに往生のこゝろざしありて、彌陀の本願うたがはずして、念佛申さむ人は、臨終わるきことはおほかた候まじきなり。そのゆへは、佛の來迎したまふ事は、もとより行者の臨終正念のためにて候なり。それをこゝろえぬ人は、みなわが臨終正念にて念佛申たらむおりに、佛はむかへたまふべきとのみこゝろえて候ば、佛の願おも信ぜず、經の文おもこゝろえぬにて候なり。『稱讚淨土經』には、「慈悲をもてくわえたすけて、こゝろをしてみだらしめたまはず」ととかれて候也。たゞの時によくよく申おきたる念佛によりて、臨終にかならず佛來迎したまふ。佛のきたり現じたまへるをみたてまつりて、正念には住すと申しつたえて候なり。しかるにさきの念佛おば、むなしくおもひなして、よしなき臨終正念おのみいのる人などの候は、ゆゝしきひがゐむにいりたることにて候なり。されば佛の願を信ぜむ人は、かねて臨終うたがふこゝろあるべからずとこそはおぼえ候へ。たゞたうじより申さむ念佛おぞ、いよいよもこゝろをいたして申候べき。いつかは佛の願にも、臨終の時念佛申たらむ人おのみむかへむとⅢ-1000はたてたまひて候。臨終の念佛にて往生をすと申ことは、往生おもねがはず、念佛おも申さずして、ひとへにつみをのみつくりたる惡人の、すでにしなむとする時に、はじめて善知識のすゝめにあひて、念佛して往生すとこそ、『觀經』にもとかれて候へ。もとよりの行者、臨終のさたはあながちにすべきやうも候はぬなり。佛の來迎一定ならば、臨終正念はまた一定とおぼしめすべきなり。この御こゝろをえて、よくよく御こゝろをとゞめて、こゝろえさせたまふべきことにて候なり。
またつみをつくりたる人だにも念佛して往生す、まして『法華經』などよみて、また念佛申さむは、などかはあしかるべきと人々の申候らむことは、京へむにもさやうに申候人々おほく候へば、まことにさぞ候らむ。これは餘の宗のこゝろにてこそは候はめ。よしあしをさだめ申候べきことに候はず、ひがごとゝ申候はゞ、おそれあるかたもおほく候。たゞし淨土宗のこゝろ、善導の御釋には、往生の行をおほきにわかちて二とす。一には正行、二には雜行也。はじめの正行といふは、それにまたあまたの行あり。はじめに讀誦の正行、これは『大无量壽經』・『觀无量壽經』・『阿彌陀經』等の「三部經」をよむなり。つぎに觀察正行、Ⅲ-1001これは極樂の依正二報のありさまを觀ずるなり。つぎに禮拜正行、これも阿彌陀佛を禮拜するなり。つぎに稱名正行、これは南无阿彌陀佛ととなふるなり。つぎに讚嘆供養正行、これは阿彌陀佛を讚嘆供養したてまつるなり。これをさして五種の正行となづく。讚嘆と供養とを二にわかつには、六種の正行とも申なり。また「この正行につきてふさねて二種とす。一には一心にもはら彌陀の名號をとなえて、たちゐ・おきふし、よるひる、わするゝことなく、念念にすてざるを、正定の業となづく、かの佛の願によるがゆへに」(散善*義意)と申て、念佛をもてまさしきさだめたる往生の業にたてて、「もし禮誦等によるおばなづけて助業とす」(散善義)と申て、念佛のほかの禮拜や讀誦や觀察や讚嘆供養などおば、かの念佛者をたすくる業と申候なり。さてこの正定の業と助業とをのぞきて、そのほかの諸行おば、布施・持戒・忍辱・精進等の六度萬行も、『法華經』おもよみ、眞言おもおこなひ、かくのごとくの諸行おば、みなことごとく雜行となづく。さきの正行を修するおば、專修の行者といふ。のちの雜行を修するを、雜修の行者と申也。この二行の得失を判ずるに、「さきの正行を修するには、こゝろつねにかのくにに親近して憶念ひまなし。のちの雜行を行ずるには、こゝろⅢ-1002つねに間斷す、廻向してむまるゝことをうべしといゑども、疎雜の行となづく」(散善*義意)といひて、極樂にはうとき行とたてたり。また「專修のものは、十人は十人ながらむまれ、百人は百人ながらむまる。なにをもてのゆへに。外の雜縁なし、正念をうるがゆへに、彌陀の本願と相應するがゆへに、釋迦のおしえにしたがふがゆへに、恆沙の諸佛のみことにしたがふがゆへに。雜修のものは、百人に一二人、千人に四五人むまる。なにをもてのゆへに。雜縁亂動す、正念をうしなふがゆへに、彌陀の本願に相應せざるがゆへに、釋迦のおしへにしたがはざるがゆへに、諸佛のみことにしたがはざるがゆへに、繫念相續せざるがゆへに、憶想間斷するがゆへに、名利と相應するがゆへに、自障障他するがゆへに、このみて雜縁にちかづきて往生の正行をさふるがゆへに」(禮讚意)と釋せられて候めれば、善導和尙をふかく信じて、淨土宗にいらむ人は、一向に正行を修すべしと申事にてこそ候へ。そのうへに善導のおしえをそむきて、よの行を修せむとおもはむ人は、おのおのならひたるやうどもこそ候らめ。それをよしあしとはいかゞ申候べき。善導の御こゝろにて、すゝめたまへる行どもをおきながら、すゝめたまはざる行をすこしにてもくはふべきやうなしと申ことにて候なり。すゝめたまひつⅢ-1003る正行ばかりをだにもなほものうきみに、いまだすゝめたまはぬ雜行をくはへむ事は、まことしからぬかたも候ぞかし。
またつみをつくりたる人だにも往生すれば、まして善なれば、なにかくるしからむと申候らむこそ、むげにけきたなくおぼえ候へ。往生おもたすけ候はゞこそは、いみじくも候はめ。さまたげになりならぬばかりを、いみじき事にてくはえおこなはむこと、なにかせむにて候べき。惡をば、されば佛の御こゝろに、このつみつくれとやはすゝめさせたまふ。かまえてとゞめよとこそはいましめたまへども、凡夫のならひ、當時のまどひにひかれて、惡をつくるちからおよばぬ事にてこそ候へ。まことに惡をつくる人のやうに、しかるべくて經をよみたく、餘の行おもくはへたからむは、ちからおよばず候。たゞし『法華經』などよまむことを、一言も惡をつくらむことにいひくらべて、それもくるしからねば、ましてこれもなど申候はむこそ、不便のことにて候へ。ふかきみのりもあしくこゝろうる人にあひぬれば、かへりてものならずきこえ候こそ、あさましく候へ。これをかやうに申候おば、餘行の人々はらたつことにて候に、御こゝろひとつにこゝろえて、ひろくちらさせたまふまじく候。あらぬさとりの人々のともかくも申候はむ事おば、Ⅲ-1004きゝいれさせたまはで、たゞひとすぢに善導の御すゝめにしたがひて、いますこしも一定往生する念佛のかずを申あはむとおぼしめすべく候。たとひ往生のさわりとこそならずとも、不定往生とはきこえて候めれば、一定往生の行を修すべし。いとまをいれて、不定往生の業をくわえむ事は、損にて候はずや。よくよくこゝろうべきことにて候なり。たゞし、かく申候へば、難行をくわえむ人、ながく往生すまじと申にては候はず。いかさまにも餘の行人なりとも、すべて人をくだし人をそしる事は、ゆゝしきとがおもきことにて候なり。よくよく御つゝしみ候て、雜行の人なればとて、あなづる御こゝろ候まじ。よかれあしかれ、人のうえの善惡をおもひいれぬがよきことにて候也。またもとよりこゝろざしこの門にありて、すゝむべからむ人おば、こしらへ、すゝめたまふべく候。さとりたがひ、あらぬさまならむ人などに論じあふ事は、ゆめゆめあるまじき事にて候なり。よくよくならひしりたまひたるひじりだにも、さやうの事おばつゝしみておはしましあひて候ぞ。ましてとのばらなどの御身にては、一定ひが事にて候はむずるに候。たゞ御身ひとつに、まづよくよく往生をもねがひ、念佛おもはげませたまひて、くらゐたかく往生して、いそぎかへりきたりて、人おもみちびⅢ-1005かむとおぼしめすべく候。かやうにこまかにかきつづけて申候へども、返々はゞかりおもひて候なり。あなかしこ、あなかしこ。
御ひろうあるまじく候。御らむじこゝろえさせたまひてのちには、とくとくひきやらせたまふべく候。あなかしこ、あなかしこ。
三月十四日 源空

(一六)
しやう如ばうの御事こそ、返々あさましく候へ。そのゝちは、こゝろならずうときやうになりまいらせ候て、念佛の御信もいかゞと、ゆかしくはおもひまいらせ候つれども、さしたる事候はず。また申べきたよりも候はぬやうにて、おもひながら、なにとなくて、むなしくまかりすぎ候つるに、たゞれいならぬ御事大事になどばかりうけたまはり候はむ。いま一どはみまいらせたく、おはりまでの御念佛の事も、おぼつかなくこそおもひまいらせ候べきに、まして御こゝろにかけて、つねに御たづね候らむこそ、まことにあはれにもこゝろぐるしくも、おもひまいらせ候へ。さうなくうけたまはり候まゝに、まいり候てみまいらせたく候へども、Ⅲ-1006おもひきりてしばしいでありき候はで、念佛申候ばやとおもひはじめたる事の候を、やうにこそよる事にて候へ。これおば退してもまいるべきにて候にまたおもひ候へば、せむじては、このよの見參はとてもかくても候なむ。かばねをしよするまどひにもなり候ぬべし。たれとてもとまりはつべきみちも候はず、われも人もたゞおくれさきだつかはりめばかりにてこそ候へ。そのたえまをおもひ候も、またいつまでかとさだめなきうえに、たとひひさしと申とも、ゆめまぼろしいくほどかは候べきなれば、たゞかまへておなじ佛のくににまいりあひて、はちすのうえにてこのよのいぶせさおもはるけ、ともに過去の因縁おもかたり、たがひに未來の化道おもたすけむことこそ、返々も詮にて候べきと、はじめより申おき候しが、返々も本願をとりつめまいらせて、一念もうたがふ御こゝろなく、一こゑも南无阿彌陀佛と申せば、わがみはたとひいかにつみふかくとも、佛の願力によりて一定往生するぞとおぼしめして、よくよくひとすぢに御念佛の候べきなり。われらが往生はゆめゆめわがみのよきあしきにはより候まじ。ひとへに佛の御ちからばかりにて候べきなり。わがちからばかりにてはいかにめでたくたうとき人と申とも、末法のこのごろ、たゞちに淨土にむまるゝほどの事はありがたくぞⅢ-1007候べき。また佛の御ちからにて候はむに、いかにつみふかくおろかにつたなきみなりとも、それにはより候まじ。たゞ佛の願力を、信じ信ぜぬにぞより候べき。されば『觀无量壽經』にとかれて候。むまれてよりこのかた、念佛一遍も申さず、それならぬ善根もつやつやとなくて、あさゆふものをころしぬすみし、かくのごときのもろもろのつみをのみつくりて、とし月をゆけども、一念も懺悔のこゝろもなくて、あかしくらしたるものゝ、おはりの時に善知識のすゝむるにあひて、たゞひとこゑ南无阿彌陀佛と申たるによりて、五十億劫のあひだ生死にめぐるべきつみを滅して、化佛・菩薩三尊の來迎にあづかりて、汝佛のみなをとなふるがゆへにつみ滅せり、われきたりてなむぢをむかふとほめられまいらせて、すなわちかのくにに往生すと候。また五逆罪と申候て、現身にちゝをころし、はゝをころし、惡心をもて佛をころしめ、諸僧を破し、かくのごとくおもきつみをつくり、一念懺悔のこゝろもなからむ、そのつみによりて无間地獄におちて、おほくの劫をおくりて苦をうくべからむものゝ、おわりの時に、善知識のすゝめによりて、南无阿彌陀佛と十聲となふるに、一こゑごとにおのおの八十億劫のあひだ生死にめぐるべきつみを滅して、往生すととかれて候めれ。さほどの罪人だにⅢ-1008も十聲・一聲の念佛にて往生はし候へば、まことに佛の本願のちからならでは、いかでかさること候べきとおぼへ候て、本願むなしからずといふことは、これにても信じつべくこそ候へ。これまさしき佛說にて候。佛ののたまふみことばは、一言もあやまたずと申候へば、たゞあふぎて信ずべきにて候。これをうたがはゞ、佛の御そらごとゝ申にもなりぬべく、かへりてはまたそのつみ候ぬべしとこそおぼえ候へ。ふかく信ぜさせたまふべく候。さて往生はせさせおはしますまじきやうにのみ申きかせまいらする人々の候らむこそ、返々あさましくこゝろぐるしく候へ。いかなる智者めでたき人とおほせらるとも、それになほおどろかされおはしまし候ぞ。おのおののみちにはめでたくたうとき人なりとも、さとりあらず行ことなるひとの申候ことは、往生淨土のためは、中々ゆゝしき退縁・惡知識とも申候ぬべき事どもにて候。たゞ凡夫のはからひおばきゝいれさせおはしまさで、ひとすぢに佛の御ちかひをたのみまいらせさせたまふべく候。
さとりことなる人の往生いひさまたげむによりて、一念もうたがふこゝろあるべからずといふことわりは、善導和尙のよくよくこまかにおほせられおきたることにて候也。「たとひおほくの佛、そらの中にみちみちて、ひかりをはなち御しⅢ-1009たをのべて、惡をつくりたる凡夫なりとも、一念してかならず往生すといふことはひが事ぞ、信ずべからずとのたまふとも、それによりて一念もうたがふこゝろあるべからず。そのゆへは、阿彌陀佛のいまだ佛になりたまはざりしむかし、はじめて道心をおこしたまひし時、われ佛になりたらむに、わが名號をとなふること十聲・一聲までせむもの、わがくにゝむまれずは、われ佛にならじとちかひたまひたりしその願むなしからず、すでに佛になりたまへり。また釋迦佛、この娑婆世界にいでゝ、一切衆生のために、かの本願をとき、念佛往生をすゝめたまへり。また六方恆沙の諸佛、この念佛して一定往生すと釋迦佛のときたまへるは決定なり、もろもろの衆生一念もうたがふべからず。ことごとく一佛ものこらず、あらゆる諸佛みなことごとく證誠したまへり。すでに阿彌陀佛は願にたて、釋迦佛その願をとき、六方の諸佛その說を證誠したまへるうえに、このほかにはなに佛の、またこれらの諸佛にたがひて、凡夫往生せずとはのたまふべきぞといふことわりをもて、佛現じてのたまふとも、それにおどろきて信心をやぶりうたがふこゝろあるべからず。いはむや、菩薩達ののたまはむおや、上辟支佛おや」と、こまごまと善導釋したまひて候也。ましてこのごろの凡夫のいかにⅢ-1010も申候はむによりて、げにいかゞあらむずらむなど、不定におぼしめす御こゝろ、ゆめゆめあるまじく候。よにめでたき人と申とも、善導和尙にまさりて往生のみちをしりたらむこともかたく候。善導また凡夫にはあらず、阿彌陀佛の化身なり。阿彌陀佛のわが本願ひろく衆生に往生せさせむれうに、かりに人にむまれて善導とは申候なり。そのおしへ申せば佛說にてこそ候へ。あなかしこ、あなかしこ。うたがひおぼしめすまじく候。またはじめより佛の本願に信をおこさせおはしまして候し御こゝろのほど、みまいらせ候しに、なにしにかは往生はうたがひおぼしめし候べき。經にとかれて候ごとく、いまだ往生のみちもしらぬ人にとりてのことに候。もとよりよくよくきこしめししたゝめて、そのうへ御念佛功つもりたることにて候はむには、かならずまた臨終の善知識にあはせおはしまさずとも、往生は一定せさせおはしますべきことにてこそ候へ。中々あらぬすぢなる人は、あしく候なむ。たゞいかならむ人にても、あま女房なりとも、つねに御まへに候はむ人に、念佛まうさせて、きかせおはしまして、御こゝろひとつをつよくおぼしめして、たゞ中々一向に、凡夫の善知識をおぼしめしすてゝ、佛を善知識にたのみまいらせさせたまふべく候。もとより佛の來迎は、臨終正念のためにⅢ-1011て候也。それを人の、みなわが臨終正念にして念佛申たるに、佛はむかへたまふとのみこゝろえて候は、佛の願を信ぜず、經の文を信ぜぬにて候也。『稱讚淨土經』の文を信ぜぬにて候也。『稱讚淨土經』には「慈悲をもてくわへたすけて、こゝろをしてみだらしめたまはず」ととかれて候也。たゞのときによくよく申おきたる念佛によりて、佛は來迎したまふときに、正念には住すと申べきにて候也。たれも佛をたのむこゝろはすくなくして、よしなき凡夫の善知識をたのみて、さきの念佛おばむなしくおもひなして、臨終正念をのみいのることどもにてのみ候が、ゆゝしきひがゐむのことにて候也。これをよくよく御こゝろえて、つねに御めをふさぎ、たなごゝろをあはせて、御こゝろをしづめておぼしめすべく候。ねがわくは阿彌陀佛の本願あやまたず、臨終の時かならずわがまへに現じて、慈悲をくわえたすけて、正念に住せしめたまへと、御こゝろにもおぼしめして、くちにも念佛申させたまふべく候。これにすぎたる事候まじ。こゝろよわくおぼしめすことの、ゆめゆめ候まじきなり。かやうに念佛をかきこもりて申候はむなどおもひ候も、ひとへにわがみ一のためとのみは、もとよりおもひ候はず。おりしもこの御ことをかくうけたまはり候ぬれば、いまよりは一念ものこさず、ことごⅢ-1012とくその往生の御たすけになさむと廻向しまいらせ候はむずれば、かまへてかまへておぼしめすさまにとげさせまいらせ候はゞやとこそは、ふかく念じまいらせ候へ。もしこのこゝろざしまことならば、いかでか御たすけにもならで候べき、たのみおぼしめさるべきにて候。おほかたは申いで候しひとことばに御こゝろをとゞめさせおはしますことも、このよひとつのことにては候はじと、さきのよもゆかしくあはれにこそおもひしらるゝことにて候へば、うけたまはり候ごとく、このたびまことにさきだゝせおはしますにても、またおもはずにさきだちまいらせ候事になるさだめなさにて候とも、ついに一佛淨土にまいりあひまいらせ候はむことは、うたがひなくおぼえ候。ゆめまぼろしのこのよにて、いま一どなどおもひ申候事は、とてもかくても候なむ。これおばひとすぢにおぼしめしすてて、いよいよもふかくねがふ御こゝろおもまし、御念佛おもはげませおはしまして、かしこにてまたむとおぼしめすべく候。返々もなほなほ往生をうたがふ御こゝろ候まじきなり。五逆・十惡のおもきつみつくりたる惡人、なを十聲・一聲の念佛によりて、往生をし候はむに、ましてつみつくらせおはします御事は、なにごとにかは候べき。たとひ候べきにても、いくほどのことかは候べき。このⅢ-1013經にとかれて候罪人には、いひくらぶべくやは候。それにまづこゝろをおこし、出家をとげさせおはしまして、めでたきみのりにも縁をむすび、ときにしたがひ日にそえて、善根のみこそはつもらせおはしますことにて候はめ。そのうへふかく決定往生の法文を信じて、一向專修の念佛にいりて、ひとすぢに彌陀の本願をたのみて、ひさしくならせおはしまして候。なに事にかは、ひとことも往生をうたがひおぼしめし候べき。「專修の人は百人は百人ながら、十人は十人ながら往生す」(禮讚)と善導のたまひて候へば、ひとりそのかずにもれさせおはしますべきかはとこそはおぼえ候へ。善導おもかこち、佛の本願おもせめまいらせさせたまふべく候。こゝろよはくは、ゆめゆめおぼしめすまじく候。あなかしこ、あなかしこ。
ことわりをや申ひらき候とおもひ候ほどに、よくおほくなり候ぬる。さやうのおりふし、こちなくやとおぼえ候へども、もしさすがのびたる御ことにてもまた候らむ。えしり候はねば、このたび申候はでは、いつおかはまち候べき。もしのどかにきかせおはしまして、一念も御こゝろをすゝむるたよりにやなり候と、おもひ候ばかりにとゞめえ候はで、これほどもこまかになり候ぬ。機嫌をしり候Ⅲ-1014はぬは、はからひがたくてわびしくこそ候へ。もしむげによはくならせおはしましたる御事にて候はゞ、これはことながく候べきなり。要をとりてつたえまいらせさせおはしますべく候。うけたまはり候ままに、なにとなくあはれにおぼえ候て、おしかへしまた申候也。

(一七)
又故聖人の御坊の御消息。
一念往生の義、京中にも粗流布するところなり。おほよそ言語道斷のことなり、まことにほとおど御問におよぶべからざるなり。詮ずるところ、『雙卷經』(大經)の下に「乃至一念信心歡喜」といひ、また善導和尙は「上盡一形下至十聲一聲等、定得往生、乃至一念無有疑心」(禮讚)といえる。これらの文をあしくぞみたるともがら、大邪見に住して申候ところなり。乃至といひ下至といえる、みな上盡一形をかねたることばなり。しかるをちかごろ愚癡・無智のともがらおほく、ひとへに十念・一念なりと執して上盡一形を廢する條、无慚・无愧のことなり。まことに十念・一念までも佛の大悲本願、なほかならず引接したまふⅢ-1015无上の功德なりと信じて、一期不退に行ずべき也。文證おほしといゑども、これをいだすにおよばず、いふにたらざる事なり。こゝにかの邪見の人、この難をかぶりて、こたえていはく、わがいふところも、信を一念にとりて念ずべきなり。しかりとて、また念ずべからずとはいはずといふ。これまたことばゝ尋常なるににたりといゑども、こゝろは邪見をはなれず。しかるゆへは、決定の信心をもて一念してのちは、また念ぜずといふとも、十惡・五逆なほさわりをなさず、いはむや、餘の少罪おやと信ずべきなりといふ。このおもひに住せむものは、たとひおほく念ずといはむ。阿彌陀佛の御こゝろにかなはむや、いづれの經論・人師の說ぞや。これひとへに懈怠・無道心、不當・不善のたぐひの、ほしいまゝに惡をつくらむとおもひてまた念ぜずは、その惡かの勝因をさえて、むしろ三途におちざらむや。かの一生造惡のものゝ臨終に十念して往生する、これ懺悔念佛のちからなり、この惡の義には混ずべからず。かれは懺悔の人なり、これは邪見の人なり。なほ不可說不可說の事也。もし精進のものありといふとも、この義をきかばすなわち懈怠になりなむ。まれに戒をたもつ人ありといふとも、この說を信ぜばすなわち無慚なり。おほよそかくのごときの人は、附佛法の外道なり、Ⅲ-1016師子のみの中の蟲なり。またうたがふらくは、天魔波旬のために、精進の氣をうばわるゝともがらの、もろもろの往生の人をさまたげむとするなり。あやしむべし、ふかくおそるべきもの也。每事筆端につくしがたし。謹言。
これは越中國に光明房と申しひじり、成覺房が弟子等、一念の義をたてゝ念佛の數返をとゞめむと申て、消息をもてわざと申候。御返事をとりて、國の人々にみせむとて申候あひだ、かくのごとくの御返事候き。

(一八)
基親取信信本願之樣。
『雙卷』(大經)上云、「設我得佛、十方衆生、至心信樂欲生我國、乃至十念。若不生者、不取正覺。」
同(大經)下云、「聞其名號信心歡喜、乃至一念。至心廻向、願生彼國。卽得往生、住不退轉。」
『往生禮讚』云、「今信知、彌陀本弘誓願、及稱名號下至十聲一聲等、Ⅲ-1017定得往生、乃至一念無有疑心。」
『觀經疏』(散善義)云、「一者決定深信自身現是罪惡生死凡夫、曠劫已來常沒常流轉、無有出離之縁。二者決定深信彼阿彌陀佛四十八願攝受衆生、無疑無慮乘彼願力、定得往生。」
これらの文を按じ候て、基親罪惡生死の凡夫なりといゑども、一向に本願を信じて、名號をとなえ候、每日に五萬返なり。決定佛の本願に乘じて上品に往生すべきよし、ふかく存知し候也。このほか別の料簡なく候。しかるに或人、本願を信ずる人は一念なり、しかれば、五萬返無益也、本願を信ぜざるなりと申す。基親こたえていはく、念佛一聲のほかより、百返乃至萬返は、本願を信ぜずといふ文候やと申す。難者云く、自力にて往生はかなひがたし、たゞ一念信をなしてのちは、念佛のかず無益なりと申す。基親また申ていはく、自力往生とは、他の雜行等をもて願ずと申さばこそは、自力とは申候はめ。したがひて善導の『疏』(散善義)にいはく、「上盡百年下至一日七日、一心專念彌陀名號、定得往生。必無疑」と候めるは、百年念佛すべしとこそは候へ。また聖人御房七萬返Ⅲ-1018をとなえしめまします。基親御弟子の一分たり、よてかずおほくとなえむと存じ候なり、佛の恩を報ずる也と申す。すなわち『禮讚』に「不相續念報彼佛恩故、心生輕慢。雖作業行、常與名利相應故、人我自覆不親近同行善知識故、樂近雜縁、自障障他往生正行故。」W云云R基親いはく、佛恩を報ずとも、念佛の數返おほく候はむ。

(一九)
兵部卿三位のもとより、聖人の御房へまいらせらるゝ御文の按。基親はたゞひらに本願を信じ候て、念佛を申候なり。料簡も候はざるゆへなり。
そのゝち何事候乎。抑念佛の數遍ならびに本願を信ずるやう、基親が愚按かくのごとく候。しかるに難者候て、いわれなくおぼえ候。このおりがみに、御存知のむね、御自筆をもてかきたまはるべく候、難者にやぶらるべからざるゆへなり。別解・別行の人にて候はゞ、みみにもきゝいるべからず候に、御弟子等の說に候へば、不審をなし候也。又念佛者、女犯はゞかるべからずと申あひて候、在家は勿論なり。出家はこはく本願を信ずとて、出家の人の女にちかづき候條、いはれⅢ-1019なく候。善導は「目をあげて女人をみるべからず」(龍舒淨土*文卷五)とこそ候めれ。このことあらあらおほせをかぶるべく候。恐々謹言。 基親
聖人御房之御返事の案
おほせのむね、つゝしむでうけたまはり候ぬ。御信心とらしめたまふやう、おりがみつぶさにみ候に、一分も愚意に存じ候ところにたがはず候。ふかく隨喜したてまつり候ところなり。しかるに近來一念のほかの數返無益なりと申義いできたり候よし、ほぼつたへうけたまはり候。勿論不足言の事か、文義をはなれて申人すでに證をえ候か、いかむ。もとも不審に候。またふかく本願を信ずるもの、破戒もかへりみるべからざるよしの事、これまたとはせたまふにもおよぶべからざる事か。附佛法の外道、ほかにもとむべからず候。おほよそは、ちかごろ念佛の天魔きおいきたりて、かくのごときの狂言いできたり候か。なほなほさらにあたはず候、あたはず候。恐々謹言。
八月十七日

Ⅲ-1020(二〇)
或人念佛之不審聖人に奉問次第。
⊂一⊃問。八宗・九宗のほかに淨土宗の名をたつることは、自由にまかせてたつること、餘宗の人の申候おばいかゞ申候べき。答。宗の名をたつることは佛說にはあらず、みづからこゝろざすところの經敎につきて存じたる義を學しきわめて、宗義を判ずる事也。諸宗のならひみなかくのごとし。いま淨土宗の名をたつる事は、淨土の依正經につきて、往生極樂の義をさとりきわめたまへる先達の、宗の名をたてたまへるなり。宗のおこりをしらざるものゝ、さやうのことおば申也。
⊂二⊃問。法華・眞言おば雜行にいるべからずと、ある人申候おばいかむ。答。惠心の先德、一代の聖敎の要文をあつめて『往生要集』をつくりたまへる中に十門をたてゝ、第九に往生の諸行の門に、法華・眞言等の諸大乘をいれたまへり。諸行と雜行と、ことばはことに、こゝろはおなじ。いまの難者は惠心の先德にまさるべからざるなり[云云]。
⊂三⊃問。餘佛・餘經につきて善根を修せむ人に、結縁助成し候ことは雜行にてⅢ-1021や候べき。答。我こゝろ、彌陀佛の本願に乘じ、決定往生の信をとるうえには、他の善根に結縁し助成せむ事、またく雜行となるべからず、わが往生の助業となるべき也。他の善根を隨喜讚嘆せよと釋したまへるをもて、こゝろうべきなり。
⊂四⊃問。極樂に九品の差別の候事は、阿彌陀佛のかまへたまへることにて候やらむ。答。極樂の九品は彌陀の本願にあらず、四十八願の中になし。これは釋尊の巧言なり。善人・惡人一處にむまるといはゞ、惡業のものども慢心をおこすべきがゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすゝみ、惡人は下品にくだるなど、ときたまふなり。いそぎまかりてみるべし[云云]。
⊂五⊃問。持戒の行者の念佛の數返のすくなく候はむと、破戒の行人の念佛の數返のおほく候はむと、往生ののちの淺深いづれかすゝみ候べき。答。ゐておはしますたゝみをさゝえてのたまはく、このたゝみのあるにとりてこそ、やぶれたるかやぶれざるかといふことはあれ。つやつやとなからむたゝみおば、なにとかは論ずべき。「末法の中には持戒もなく、破戒もなし、無戒もなし。たゞ名字の比丘ばかりあり」と、傳敎大師の『末法燈明記』にかきたまへるうへは、なにと持Ⅲ-1022戒・破戒のさたはすべきぞ。かゝるひら凡夫のためにおこしたまへる本願なればとて、いそぎいそぎ名號を稱すべしと[云云]。
⊂六⊃問。念佛の行者等、日別の所作において、こゑをたてゝ申人も候、こゝろに念じてかずをとる人も候、いづれおかよく候べき。答。それは口にも名號をとなへ、こゝろにも名號を念ずることなれば、いづれも往生の業にはなるべし。たゞし佛の本願の稱名の願なるがゆへに、こゑをあらわすべきなり。かるがゆへに『經』(觀經意)には「こゑをたえず、十念せよ」ととき、釋には「稱我名號下至十聲」(禮讚)と釋したまへり。わがみみにきこゆるほどおば、高聲念佛にとるなり。さればとて、譏嫌をしらず、高聲なるべきにはあらず、地體はこゑをいださむとおもふべきなり。
⊂七⊃問。日別の念佛の數返は、相續にいるほどはいかゞはからひ候べき。答。善導の釋によらば、一萬已上は相續にてあるべし。たゞし一萬返をいそぎ申て、さてその日をすごさむ事はあるべからず。一萬返なりとも、一日一夜の所作とすべし。總じては一食のあひだに三度ばかりとなえむは、よき相續にてあるべし。それは衆生の根性不同なれば、一准なるべからず。こゝろざしだにもふかければ、Ⅲ-1023自然に相續はせらるゝ事なり。
⊂八⊃問。『禮讚』の深心の中には「十聲一聲必得往生、乃至一念無有疑心」と釋し、また『疏』(散善義)の中の深心には「念念不捨者、是名正定之業」と釋したまへり。いづれかわが分にはおもひさだめ候べき。答。十聲・一聲の釋は、念佛を信ずるやうなり。かるがゆへに、信おば一念に生るととり、行おば一形をはげむべしとすゝめたまへる釋也。また大意は、一發心已後の釋を本とすべし。
⊂九⊃問。本願の一念は、尋常の機、臨終の機に通ずべく候歟。答。一念の願は、二念におよばざらむ機のためなり。尋常の機に通ずべくは、上盡一形の釋あるべからず。この釋をもてこゝろうべし。かならず一念を佛の本願といふべからず。「念念不捨者、是名正定之業、順彼佛願故」(散善義)の釋は、數返つもらむおも本願とはきこえたるは、たゞ本願にあふ機の遲速不同なれば、上盡一形下至一念とおこしたまへる本願なりとこゝろうべきなり。かるがゆへに念佛往生の願とこそ、善導は釋したまへと。
⊂十⊃問。自力・他力の事は、いかゞこゝろうべく候らむ。答、源空は殿上へまいるべききりやうにてはなけれども、上よりめせば二度まいりたりき。これわがⅢ-1024まいるべきしきにてはなけれども、上の御ちからなり。まして阿彌陀佛の佛力にて、稱名の願にこたえて來迎せさせたまはむ事おば、なむの不審かあるべき。自身の罪のおもく无智なれば、佛もいかにしてすくひましまさむとおもはむものは、つやつや佛の願おもしらざるものなり。かゝる罪人どもを、やすやすとたすけすくはむれうに、おこしたまへる本願の名號をとなえながら、ちりばかりも疑心あるまじきなり。十方衆生の願のうちに、有智・無智、有罪・無罪、善人・惡人、持戒・破戒、男子・女人、三寶滅盡ののち百歲までの衆生、みなこもれるなり。かの三寶滅盡の時の念佛者、當時のわ御坊たちとくらぶれば、わ御房たちは佛のごとし。かの時は人壽十歲の時なり。戒定慧の三學、なをだにもきかず、いふばかりなきものどもの來迎にあづかるべき道理をしりながら、わがみのすてられまいらすべきやうおば、いかにしてかあむじいたすべき。たゞし極樂のねがはしくもなく、念佛のまうされざらむ事こそ、往生のさわりにてはあるべけれ。かるがゆへに他力の本願ともいひ、超世の悲願ともいふなり[云々]。
⊂十一⊃問。至誠等の三心を具し候べきやうおば、いかゞおもひさだめ候べき。答。三心を具する事は、たゞ別のやうなし。阿彌陀佛の本願に、わが名號を稱念せⅢ-1025よ、かならず來迎せむとおほせられたれば、決定して引接せられまいらせむずるとふかく信じて、心念口稱にものうからず、すでに往生したるこゝちしてたゆまざるものは、自然に三心具足するなり。また在家のものどもはかほどにおもはざれども、念佛を申ものは極樂にうまるなればとて、念佛をだにも申せば、三心は具足するなり。さればこそ、いふにかひなきやからどもの中にも、神妙なる往生はする事にてあれと[云々]。

(二一)
また淨土宗の大意とて、おしえさせたまひしやうは、三寶滅盡の時なりといふとも、十念すればまた往生す。いかにいはむや、三寶流行のよにむまれて、五逆おもつくらざるわれら、彌陀の名號を稱念せむに、往生うたがふべからず。またいはく、淨土宗のこゝろは、聖道・淨土の二門をたてゝ、一代の諸敎をおさむ。聖道門といふは、娑婆の得道なり。自力斷惑出離生死の敎なるがゆへに、凡夫のために修しがたし、行じがたし。淨土門といふは、極樂の得道なり。他力斷惑往生淨土門なるがゆへに、凡夫のためには修しやすく、行じやすし。その行とⅢ-1026いふは、ひとへに凡夫のためにおしえたまふところの願行なるがゆへなり。總じてこれをいへば、五說の中には佛說也、四土の中には報土也、三身の中には二身也、三寶の中には佛寶也、四乘の中には佛乘なり、二敎の中には頓敎也、二藏の中には菩薩藏也、二行の中には正行なり、二超の中には橫超也、二縁の中には有縁の行なり、二住の中には止住也、思不思の中には不思議なり。またいはく、聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、淨土門の修行は、愚癡にかへりて極樂にむまると[云々]。
康元元丙辰十月卅日書之
愚禿親鸞W八十四歲R


Ⅲ-1027西方指南抄下[末]


(二二)
四種往生事。
一 正念念佛往生 『阿彌陀經』說
二 狂亂念佛往生 『觀无量壽經』說
三 無記心往生 『群疑論』說[懷感作]
四 意念往生『法鼓經』說
『法鼓經』言、「若人命終之時不能作念、但知彼方有佛作往生意、亦得往生。」W云々R

(二三)
末代の衆生を往生極樂の機にあてゝみるに、行すくなしとてうたがふべからず、一念・十念たりぬべし。罪人なりとてうたがふべからず、罪根ふかきおもきらわⅢ-1028ずといへり。時くだれりとてうたがふべからず、法滅已後の衆生なほ往生すべし、いはむや近來おや。わが身わるしとてうたがふべからず、自身はこれ煩惱を具足せる凡夫なりといへり。十方に淨土おほけれども、西方をねがふ十惡・五逆の衆生むまるゝがゆへなり。諸佛の中に彌陀に歸したてまつるは、三念・五念にいたるまで、みづからきたりてむかへたまふがゆへに。諸佛の中に念佛をもちゐるは、かの佛の本願なるがゆへに。いま彌陀の本願に乘じて往生しなむには、願として成ぜずといふ事あるべからず。本願に乘ずる事は、たゞ信心のふかきによるべし。うけがたき人身をうけて、あひがたき本願にまうあひ、おこしがたき道心をおこして、はなれがたき輪廻の里をはなれ、むまれがたき淨土に往生せむことは、よろこびの中のよろこびなり。罪は十惡・五逆のものむまると信じて、少罪おもおかさじとおもふべし。罪人なほむまる、いはむや善人おや。行は一念・十念むなしからずと信じて、无間に修すべし。一念なほむまる、いかにいはむや多念おや。阿彌陀佛は、不取正覺の御ことば成就して現にかのくににましませば、さだめて命終には來迎したまはむずらむ。釋尊は、よきかなや、わがおしえにしたがひて、生死をはなれむと知見したまはむ。六方の諸佛は、よろこばしきかな、Ⅲ-1029われらが證誠を信じて、不退の淨土に生ぜむとよろこびたまふらむ。天をあふぎ地にふしてよろこぶべし。このたび彌陀の本願にまうあえる事を、行住座臥にも報ずべし。かの佛の恩德を、たのみてもなほたのむべきは乃至十念の御言、信じてもなほ信ずべきは必得往生の文なり。 黑谷聖人源空

(二四)
末代惡世の衆生の往生のこゝろざしをいたさむにおきては、また他のつとめあるべからず、たゞ善導の釋につきて一向專修の念佛門にいるべきなり。しかるを一向の信をいたして、その門にいる人きわめてありがたし。そのゆへは、或は他の行にこゝろをそめ、或は念佛の功能をおもくせざるなるべし。つらつらこれをおもふに、まことしく往生淨土のねがひふかきこゝろをもはらにする人、ありがたきゆへか。まづこの道理をよくよくこゝろうべきなり。すべて天台・法相の經論・聖敎も、そのつとめをいたさむに、ひとつとしてあだなるべきにはあらず。たゞし佛道修行は、よくよく身をはかり、時をはかるべきなり。佛の滅後第四の五百年にだに、智慧をみがきて煩惱を斷ずる事かたく、こゝろをすまして禪Ⅲ-1030定をえむ事かたきゆへに、人おほく念佛門にいりけり。すなわち道綽・善導等の淨土宗の聖人、この時の人なり。いはむや、このごろは第五の五百年、鬪諍堅固の時なり、他の行法さらに成就せむ事かたし。しかのみならず、念佛におきては、末法ののちなほ利益あるべし。いはむや、いまのよは末法萬年のはじめなり、一念彌陀を念ぜむに、なむぞ往生をとげざらむや。たとひわれら、そのうつわものにあらずといふとも、末法のすゑの衆生には、さらににるべからず。かつはまた釋尊在世の時すら、卽身成佛におきては、龍女のほか、いとありがたし。たとひまた卽身成佛までにあらずとも、この聖道門をおこなひあひたまひけむ菩薩・聲聞達、そのほかの權者・ひじり達、そのゝちの比丘・比丘尼等いまにいたるまでの經論の學者、『法華經』の持者、いくそばくぞや。こゝにわれら、なまじゐに聖道をまなぶといふとも、かの人々にはさらにおよぶべからず。かくのごときの末代の衆生を、阿彌陀佛かねてさとりたまひて、五劫があひだ思惟して四十八願をおこしたまへり。その中の第十八の願にいはく、「十方の衆生、こゝろをいたして信樂して、わがくににむまれむとねがひて、乃至十念せむに、もしむまれずといはゞ、正覺をとらじ」(大經*卷上)とちかひたまひて、すでに正覺なⅢ-1031りたまへり。これをまた釋尊ときたまへる經、すなわち『觀無量壽』等の「三部經」なり。かの經はたゞ念佛門なり。たとひ惡業の衆生等、彌陀のちかひばかりに、なほ信をいたすといふとも、釋迦これを一一にときたまへる「三部經」、あに一言もむなしからむや。そのうへまた、六方・十方の諸佛の證誠、この『經』等にみえたり。他の行におきては、かくのごときの證誠みえざるか。しかれば、ときもすぎ、身にもこたふまじからむ禪定・智慧を修せむよりは、利益現在にして、しかもそこそばくの佛たちの證誠したまへる彌陀の名號を稱念すべき也。
そもそも後世者の中に、極樂はあさく彌陀はくだれり、期するところ密嚴・華藏等の世界也とこゝろをかくる人もはべるにや、それはなはだおほけなし。かの土は、斷无明の菩薩のほかはいることなし。また一向專修の念佛門にいるなかにも、日別に三萬返、もしは五萬乃至十萬返といふとも、これをつとめおはりなむのち、年來受持讀誦こうつもりたる諸經おもよみたてまつらむ事、つみになるべきかと不審をなして、あざむくともがらもまじわれり。それ罪になるべきにては、いかでかははべるべき。末代の衆生、その行成就しがたきによりて、まづ彌陀の願力にのりて、念佛の往生をとげてのち、淨土にて阿彌陀如來・觀音・勢至にあⅢ-1032ひたてまつりて、もろもろの聖敎おも學し、さとりおもひらくべきなり。また末代の衆生、念佛をもはらにすべき事、その釋おほかる中に、かつは十方恆沙の佛證誠したまふ。また『觀經疏』の第三(定善義)に善導云、「自餘衆行雖名是善、若比念佛者全非比校也。是故諸經中處處廣讚念佛功能。如『无量壽經』四十八願中、唯明專念彌陀名號得生。又如『彌陀經』中、一日七日專念彌陀名號得生。又十方恆沙諸佛證誠不虛也。又此『經』中定散文中、唯標專念名號得生。此例非一也。廣顯念佛三昧竟」とあり。また善導の『往生禮讚』(意)ならびに專修淨業の文等にも、「雜修のものは往生をとぐる事、萬が中に一二なほかたし。專修のものは、百に百ながらむまる」といへり。これらすなわち、なに事もその門にいりなむには、一向にもはら他のこゝろあるべからざるゆへなり。たとえば今生にも主君につかへ、人をあひたのむみち、他人にこゝろざしをわくると、一向にあひたのむと、ひとしからざる事也。たゞし家ゆたかにして、のりもの、僮僕もかなひ、面面にこゝろざしをいたすちからもたえたるともがらは、かたがたにこゝろざしをわくといゑども、その功むなしからず。かくのごときのちからにたえざるものは、所所をかぬるあひだ、身はつかⅢ-1033るといゑども、そのしるしをえがたし。一向に人一人をたのめば、まづしきものも、かならずそのあわれみをうるなり。すなわち末代惡世の無智の衆生は、かのまづしきものゝごときなり。むかしの權者は、いゑゆたかなる衆生のごときなり。しかれば、無智のみをもちて智者の行をまなばむにおきては、貧者の德人をまなばむがごときなり。またなほたとひをとらば、たかき山の、人かよふべくもなからむがむせきを、ちからたえざらむものゝ、石のかど木のねにとりすがりてのぼらむとはげまむは、雜行を修して往生をねがわむがごとき也。かの山のみねより、つよきつなをおろしたらむにすがりてのぼらむは、彌陀の願力をふかく信じて、一向に念佛をつとめて、往生せむがごときなるべし。
また一向專修には、ことに三心を具足すべき也。三心といふは、一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心也。至誠心といふは、餘佛を禮せず彌陀を禮し、餘行を修せず彌陀を念じて、もはらにしてもはらならしむる也。深心といふは、彌陀の本願をふかく信じて、わがみは无始よりこのかた罪惡生死の凡夫、一度として生死をまぬかるべきみちなきを、彌陀の本願不可思議なるによりて、かの名號を一向に稱念して、うたがひをなすこゝろなければ、一念のあひだに八十Ⅲ-1034億劫の生死のつみを滅して、最後臨終の時、かならず彌陀の來迎にあづかる也。廻向發願心といふは、自他の行を眞實心の中に廻向發願する也。この三心ひとつもかけぬれば、往生をとげがたし。しかれば、他の行をまじえむによりてつみにはなるべからずといふとも、なほ念佛往生を不定に存じていさゝかのうたがひをのこして、他事をくわふるにて侍べき也。たゞしこの三心の中に、至誠心をやうやうにこゝろえて、ことにまことをいたすことを、かたく申しなすともがらも侍にや。しからば、彌陀の本願の本意にもたがひて、信心はかけぬるにてあるべきなり。いかに信力をいたすといふとも、かゝる造惡の凡夫のみの信力にて、ねがひを成就せむほどの信力は、いかでか侍べき。たゞ一向に往生を決定せむずればこそ、本願の不思議にては侍べけれ。さやうに信力もふかく、よからむ人のためには、かゝるあながちに不思議の本願おこしたまふべきにあらず、この道理おば存じながら、まことしく專修念佛の一行にいる人いみじくありがたきなり。しかるを道綽禪師は決定往生の先達也、智慧ふかくして講說を修したまひき。曇鸞法師の三世已下の弟子也。「かの鸞師は智慧高遠なりといゑども、四論の講說をすてゝ、念佛門にいりたまはむや、わがしるところさわるところ、なむぞおⅢ-1035ほしとするにたらむや」(迦才淨土*論卷下)とおもひとりて、涅槃の講說をすてゝ、ひとへに往生の業を修して、一向にもはら彌陀を念じて、相續无間にして、現に往生したまへり。かくのごとき道綽は、講說をやめて念佛を修し、善導は雜修をきらいて專修をつとめたまひき。また道綽禪師のすゝめによりて、幷州の三縣の人、七歲以後一向に念佛を修すといへり。しかれば、わが朝の末法の衆生、なむぞあながちに雜修をこのまむや。たゞすみやかに彌陀如來の願、釋迦如來の說、道綽・善導の釋をまもるに、雜行を修して極樂の果を不定に存ぜむよりは、專修の業を行じて、往生ののぞみを決定すべき也。またかの道綽・善導等の釋は、念佛門の人々の事なれば、左右におよぶべからず。法相宗におきては、專修念佛門、ことに信向せざるかと存ずるところに、慈恩大師の『西方要決』に云く、「末法萬年餘經悉滅。彌陀一敎利物偏增」と釋したまへり。また同『書』(西方要*決意)にいはく、「三空九斷之文、十地・五修之訓、生期分役死終非運、不如暫息多聞之廣學、專念佛之單修」といへり。しかのみならず、また『大聖竹林寺の記』にいはく、「五臺山竹林寺の大講堂の中にして、普賢・文殊東西に對座して、もろもろの衆生のために妙法をときたまふとき、法照禪師ひざまⅢ-1036づきて、文殊にとひたてまつりき。未來惡世の凡夫、いづれの法をおこないてか、ながく三界をいでゝ淨土にむまるゝことをうべきと。文殊こたえてのたまはく、往生淨土のはかり事、彌陀の名號にすぎたるはなく、頓證菩提の道、たゞ稱念の一門にあり。これによりて、釋迦一代の聖敎にほむるところみな彌陀にあり。いかにいはむや、未來惡世の凡夫おやとこたへたまへり」。かくのごときの要文等、智者たちのおしへをみても、なほ信心なくして、ありがたき人界をうけて、ゆきやすき淨土にいらざらむ事、後悔なにごとかこれにしかむや。かつはまた、かくのごときの專修念佛のともがらを、當世にもはら難をくはへて、あざけりをなすともがらおほくきこゆ。これまたむかしの權者達、かねてみなさとりしりたまへること也。
善導『法事讚』(卷下)云、
「世尊說法時將了 慇懃付囑彌陀名
五濁增時多疑謗 道俗相嫌不用聞
見有修行起瞋毒 方便破壞競生怨
如此生盲闡提輩 毀滅頓敎永沈淪
Ⅲ-1037超過大地微塵劫 未可得離三途身
大衆同心皆懺悔 所有破法罪因縁」
また『平等覺經』(卷四意)にいはく、「若善男子・善女人ありて、かくのごときらの淨土の法文をとくをきゝて、悲喜をなして身の毛よだつことをなしてぬきいだすがごとくするは、しるべし、この人過去にすでに佛道をなしてきたれる也。もしまたこれをきくといふとも、すべて信樂せざらむにおきては、しるべし、この人はじめて三惡道のなかよりきたれるなり」。しかれば、かくのごときの謗難のともがらは、さうなき罪人のよしをしりて、論談にあたふべからざる事也。また十善かたくたもたずして、忉利・都率をねがはむ事、きわめてかなひがたし。極樂は五逆のもの念佛によりてむまる。いはむや、十惡におきてはさわりとなるべからず。また慈尊の出世を期せむにも、五十六億七千萬歲、いとまちどおなり、いまだしらず。他方の淨土そのところどころにはかくのごときの本願なし、極樂はもはら彌陀の願力はなはだふかし、なむぞほかをもとむべき。またこのたび佛法に縁をむすびて、三生・四生に得脫せむとのぞみをかくるともがらあり、このねがひきわめて不定なり。大通結縁の人、信樂慚愧のころものうらに、一乘无Ⅲ-1038價の玉をかけて、隔生卽亡して、三千の塵點があひだ六趣に輪廻せしにあらずや。たとひまた、三生・四生に縁をむすびて、必定得脫すべきにても、それをまちつけむ輪轉のあひだのくるしみ、いとたえがたかるべし、いとまちどおなるべし。またかの聖道門においては、三乘・五乘の得道なり、この行は多百千劫なり。こゝにわれら、このたびはじめて人界の生をうけたるにてもあらず、世世生生をへて、如來の敎化にも、菩薩の弘經にも、いくそばくかあひたてまつりたりけむ。たゞ不信にして敎化にもれきたるなるべし。三世の諸佛、十方の菩薩、おもへばみなこれむかしのともなり。釋迦も五百塵點のさき、彌陀も十劫のさきは、かたじけなく父母・師弟ともたがひになりたまひけむ。佛は前佛の敎をうけ、善知識のおしえを信じて、はやく發心修行したまひて、成佛してひさしくなりたまひにけり。われらは信心おろかなるがゆへに、いまに生死にとまれるなるべし。過去の輪轉をおもへば、未來もまたかくのごとし。たとひ二乘の心おばおこすといふとも、菩提心おばおこしがたし。如來は勝方便にしておこないたまへり。濁世の衆生、自力をはげまむには、百千億劫難行苦行をいたすといふとも、そのつとめおよぶところにあらず。またかの聖道門は、よく淸淨にして、そのうⅢ-1039つわものにたれらむ人のつとむべき行なり。懈怠不信にしては、中々行ぜしめむよりも、罪業の因となるかたもありぬべし。念佛門におきては、行住座臥ねてもさめても持念するに、そのたよりとがなくして、そのうつわものをきらはず、ことごとく往生の因となる事うたがひなし。
「彼佛因中立弘誓  聞名念我總迎來
不簡貧窮將富貴  不簡下智與高才
不簡多聞持淨戒  不簡破戒罪根深
但使廻心多念佛  能令瓦礫變成金」(五會法事*讚卷本)
といへり。またいみじき經論・聖敎の智者といゑども、最後臨終の時、その文を暗誦するにあたはず。念佛におきては、いのちをきわむるにいたるまで、稱念するにそのわづらひなし。また佛の誓願のためしをひらかむにも、藥師の十二の誓願には不取正覺の願なく、千手の願、また不取正覺とちかひたまへるも、いまだ正覺なりたまはず。彌陀は不取正覺の願をおこして、しかも正覺なりて、すでに十劫をへたまへり。かくのごときの彌陀のちかひに信をいたさざらむ人は、また他の法文おも信仰するにおよばず。しかれば、返々も一向專修の念佛に信をⅢ-1040いたして、他のこゝろなく、日夜朝暮、行住座臥に、おこたる事なく稱念すべき也。專修念佛をいたすともがら、當世にも往生をとぐるきこえ、そのかずおほし。雜修の人におきて、そのきこえきわめてありがたき也。そもそもこれをみても、なほよこさまのひがゐむにいりて、もの難ぜむとおもはむともがらは、さだめていよいよいきどほりをなして、しからば、むかしより佛のときおきたまへる經論・聖敎、みなもて無益のいたづらものにて、うせなむとするにこそなど、あざけり申さむずらむ。それは天台・法相の本寺・本山に修學をいとなみて、名利おも存じ、おほやけにもつかへ、官位おものぞまむとおもはむ人におきては、左右におよぶべからず。また上根利智の人は、そのかぎりにあらず。このこゝろをえてよく了見する人は、あやまりて聖道門をことにおもくするゆへと存ずべき也。しかるを、なほ念佛にあひかねてつとめをいたさむ事は、聖道門をすでに念佛の助行にもちゐるべきか。その條こそ、かへりて聖道門をうしなふにては侍けれ。たゞこの念佛門は、返々もまた他心なく後世をおもはむともがらの、よしなきひがゐむにおもむきて、時おも身おもはからず、雜行を修して、このたびたまたまありがたき人界にむまれて、さばかりまうあひがたかるべき彌陀のⅢ-1041ちかひをすてゝ、また三途の舊里にかへりて、生死に輪轉して、多百千劫をへむかなしさをおもひしらむ人の身のためを申すなり。さらば、諸宗のいきどほりにはおよぶべからざる事也。

(二五)
九條殿北政所御返事。
かしこまりて申上候。さては御念佛申させおはしまし候なるこそ、よにうれしく候へ。まことに往生の行は、念佛がめでたきことにて候也。そのゆへは、念佛は彌陀の本願の行なればなり。餘の行は、それ眞言・止觀のたかき行法なりといゑども、彌陀の本願にあらず。また念佛は、釋迦の付屬の行なり。餘行は、まことに定散兩門のめでたき行なりといゑども、釋尊これを付囑したまはず。また念佛は、六方の諸佛の證誠の行也。餘の行は、たとひ顯密事理のやむごとなき行也と申せども、諸佛これを證誠したまはず。このゆへに、やうやうの行おほく候へども、往生のみちにはひとえに念佛すぐれたることにて候也。しかるに往生のみちにうとき人の申やうは、餘の眞言・止觀の行にたえざる人の、やすきまⅢ-1042まのつとめにてこそ念佛はあれと申は、きわめたるひがごとに候。そのゆへは、彌陀の本願にあらざる餘行をきらひすてゝ、また釋尊の付屬にあらざる行おばえらびとどめ、また諸佛の證誠にあらざる行おばやめおさめて、いまはたゞ彌陀の本願にまかせ、釋尊の付囑により、諸佛の證誠にしたがひて、おろかなるわたくしのはからひをやめて、これらのゆへ、つよき念佛の行をつとめて、往生おばいのるべしと申にて候也。これは惠心の僧都の『往生要集』(卷中)に、「往生の業、念佛を本とす」と申たる、このこゝろ也。いまはたゞ餘行をとゞめて、一向に念佛にならせたまふべし。念佛にとりても、一向專修の念佛也。そのむね三昧發得の善導の『觀經の疏』にみえたり。また『雙卷經』(大經*卷下)に、「一向專念无量壽佛」といへり。一向の言は、二向・三向に對して、ひとへに餘の行をえらびて、きらひのぞくこゝろなり。御いのりのれうにも、念佛がめでたく候。『往生要集』にも、餘行の中に念佛すぐれたるよしみえたり。また傳敎大師の七難消滅の法にも、「念佛をつとむべし」(七難消滅*護國頌)とみえて候。おほよそ十方の諸佛、三界の天衆、妄語したまはぬ行にて候へば、現世・後生の御つとめ、なに事かこれにすぎ候べきや。いまたゞ一向專修の但念佛者にならせおはしますべく候。
Ⅲ-1043(二六)
御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。かやうにまめやかに、大事におぼしめし候。返々ありがたく候。まことにこのたび、かまへて往生しなむと、おぼしめしきるべく候。うけがたき人身すでにうけたり、あひがたき念佛往生の法門にあひたり。娑婆をいとふこゝろあり、極樂をねがふこゝろおこりたり。彌陀の本願ふかし、往生はたゞ御こゝろにあるたびなり。ゆめゆめ御念佛おこたらず、決定往生のよしを存ぜさせたまふべく候。なに事もとゞめ候ぬ。
九月十六日 源空

(二七)
まことにこの身には、道心のなき事と、やまひとばかりや、なげきにて候らむ。世をいとなむ事なければ、四方に馳騁せず、衣食ともにかけたりといゑども、身命をおしむこゝろ切ならぬは、あながちにうれへとするにおよばぬ。こゝろをやすくせむためにも、すて候べきよにこそ候めれ。いはむや、无常のかなしみはめのまへにみてり、いづれの月日おかおはりのときと期せむ。さかへあるものもⅢ-1044ひさしからず、いのちあるものもまたうれえあり。すべていとふべきは六道生死のさかひ、ねがふべきは淨土菩提なり。天上にむまれてたのしみにほこるといゑども、五衰退沒のくるしみあり。人間にむまれて國王の身をうけて、一四天下おばしたがふといゑども、生老病死・愛別離苦・怨憎會苦の一事もまぬかるゝ事なし。たとひこれらの苦なからむすら、三惡道にかへるおそれあり。こゝろあらむ人は、いかゞいとはざるべき。うけがたき人界の生をうけて、あひがたき佛敎にあひ、このたび出離をもとめさせたまへ。
⊂一⊃問。おほかたは、さこそはおもふことにて候へども、かやうにおほせらるゝことばにつきて、さうなく出家をしたりとも、こゝろに名利をはなれたる事もなし。持戒淸淨なる事なく、无道心にて人に謗をなされむ事、いかゞとおぼえ候。それも在家にありておほくの輪廻の業をまさむよりは、よき事にてや候べき。答。たわぶれに尼のころもをき、さけにゑいて出家をしたる人、みな佛道の因となりにきと、ふるきものにもかきつたえられて候。『往生の十因』(意)と申ふみには、「勝如聖人の父母ともに出家せし時、男はとし四十一、妻は卅三なり。修行の僧をもちて師としき。師ほめていはく、衰老にもいたらず、病患にものぞまず、Ⅲ-1045いま出家をもとむ、これ最上の善根なり」とこそはいひけれ。釋迦如來、當來導師彌勒慈尊に付屬したまふにも、「破戒・重惡のともがらなりといふとも、頭をそり、衣をそめ、袈裟をかけたらむものは、みな汝につく」とこそはおほせられて候へ。されば破戒なりといゑども、三會得脫なほたのみあり。ある經の文には、「在家の持戒には、出家の破戒はすぐれたり」とこそは申候へ。まことに佛法流布の世にむまれて、出離の道をえて、解脫幢相のころもを肩にかけ、釋子につらなりて、佛法修行せざらむ。まことに寶の山にいりて、手をむなしくしてかへるためしなり。
⊂二⊃問。まことに出家などしては、さすがに生死をはなれ、菩提にいたらむ事をこそは、いとなみにて候べけれ。いかやうにかつとめ、いかやうにかねがひ候べき。『安樂集』(卷上意)に云く、「大乘の聖敎によるに、二種の勝法あり。一には聖道、二には往生淨土也」。穢土の中にして、やがて佛果をもとむるは、みな聖道門なり。諸法の實相を觀じて證をえむと、法華三昧を行じて六根淸淨をもとめ、三密の行法をこらして卽身に成佛せむとおもふ。あるいは四道の果をもとめ、また三明六通をねがふ、これみな難行道なり。往生淨土門といふは、まづ淨土Ⅲ-1046にむまれて、かしこにてさとりおもひらき、佛にもならむとおもふなり、これは易行道といふ。生死をはなるゝみちみちおほし、いづれよりもいらせたまへ。
⊂三⊃問。さればわれらがごときのおろかなるものは、淨土をねがひ候べきか、いかに。答。『安樂集』(卷上意)に云く、「聖道の一種は、いまの時には證しがたし。一には大聖をされる事はるかにとおきによる。二には理はふかくして、さとりはすくなきによる。このゆへに『大集月藏經』にいはく、わが末法のときの中の億億の衆生、行をおこし道を修するに、一人もうるものはあらず。まことにいま末法五濁惡世なり。たゞ淨土の一門のみありて通入すべきなり。こゝをもて諸佛の大悲、淨土に歸せよとすゝめたまふ。一形惡をつくれども、たゞよくこゝろをかけて、まことをもはらにして、つねによく念佛せよ。一切のもろもろのさはり、自然にのぞこりて、さだめて往生をう。なむぞおもひはからずして、さるこゝろなきや」といふ。永觀ののたまはく、「眞言・止觀は、理ふかくしてさとりがたく、三論・法相は、みちかすかにしてまどひやすし」(往生*拾因)なむど候。まことに觀念もたえず、行法にもいたらざらむ人は、淨土の往生をとげて、一切の法門おもやすくさとらせたまはむは、よく候なむとおぼえ候。
Ⅲ-1047⊂四⊃問。十方に淨土おほし、いづれおかねがひ候べき。兜率の上生をねがふ人もおほく候、いかゞおもひさだめ候べき。答。天台大師ののたまはく、「諸敎所讚多在彌陀故、以西方而爲一順」(輔行*卷二)と。また顯密の敎法の中に、もはら極樂をすゝむる事は、稱計すべからず。惠心の『往生要集』に、十方に對して西方をすゝめ、兜率に對しておほくの勝劣をたて、難易相違の證據をひけり、たづね御覽ぜさせたまへ。極樂この土に縁ふかし、彌陀は有縁の敎主なり、宿因のゆへ、本願のゆへ。たゞ西方をねがはせたまふべきとこそおぼえ候へ。
⊂五⊃問。まことにさては、ひとすぢに極樂をねがふべきにこそ候なれ、極樂をねがはむには、いづれの行かすぐれて候べき。答。善導釋してのたまはく、「行に二種あり。一には正行、二には雜行なり。正の中に五種の正行あり。一には禮拜の正行、二には讚嘆供養の正行、三には讀誦正行、四には觀察正行、五には稱名の正行なり。一に禮拜の正行といふは、禮せむには、すなわちかの佛を禮して餘禮をまじえざれ。二に讚嘆供養の正行といふは、讚嘆供養して餘の讚嘆供養をまじえざれ。三に讀誦の正行といふは、讀誦せむには、『彌陀經』等の三部經を讀誦して餘の讀誦をまじえざれ。四に觀察の正行といふは、憶念觀察せむには、Ⅲ-1048かの土の二報莊嚴等を觀察して餘の觀察をまじえざれ。五に稱名の正行といふは、稱せむには、すなわちかの佛を稱して餘の稱名をまじえざれ。この五種を往生の正行とす。この正行の中にまた二あり。一には正、二には助。稱名をもては正とし、禮誦等をもちては助業となづく。この正助二行をのぞきて、自餘の衆善はみな雜行となづく」(散善*義意)。また釋していはく、「自餘の衆善は、善となづくといゑども、念佛にくらぶれば、またく比校にあらず」(定善義)とのたまへり。淨土をねがはせたまはゞ、一向に念佛をこそはまふさせたまはめ。
⊂六⊃問。餘行を修して往生せむことは、かなひ候まじや。されども『法華經』(卷六*藥王品)には「卽往安樂世界阿彌陀佛」といひ、密敎の中にも、決定往生の眞言、滅罪の眞言あり。諸敎の中に、淨土に往生すべき功力をとけり、また穢土の中にして佛果にいたるといふ。かたき德をだに具せらむ敎を修行して、やすき往生極樂に廻向せば、佛果にかなうまでこそかたくとも、往生はやすくや候べきとこそおぼえ候へ。またおのづから聽聞などにうけたまはるにも、法華と念佛ひとつものと釋せられ候。ならべて修せむに、なにかくるしく候べき。答。『雙卷經』(大經*卷下)に三輩往生の業をときて、ともに「一向專念无量壽佛」とのたまへり。『觀无量壽Ⅲ-1049經』に、もろもろの往生の行をあつめてときたまふおはりに、阿難に付囑したまふところには、「なむぢこのことばをたもて。このことばをたもてといふは、无量壽佛のみなをたもてとなり」とときたまふ。善導『觀經』を釋してのたまふに、「定散兩門の益をとくといゑども、佛の本願をのぞむには、一向にもはら彌陀の名號を稱せしむるにあり」(散善義)といふ。同き『經』(觀經)の文に、「一一の光明、十方世界の念佛の衆生をてらして、攝取してすてたまはず」ととけり。善導釋してのたまふには、「論ぜず、餘の雜業のものをてらし攝取す」(觀念*法門)といふことおばとかず候。餘行のものふつとむまれずとはいふにはあらず、善導も「廻向してむまるべしといゑども、もろもろの疎雜の行となづく」(散善義)とこそはおほせられたれ。『往生要集』(卷上)の序にも、「顯密の敎法、その文ひとつにあらず。事理の業因、その行これおほし。利智精進の人は、いまだかたしとせず。予がごときの頑嚕のもの、たやすからむや。このゆへに、念佛の一門によりて、經論の要文をあつむ。これをひらき、これを修するに、さとりやすく行じやすし」といふ。これらの證據あきらめつべし。敎をえらぶにはあらず、機をはからふなり。わがちからにて生死をはなれむ事、はげみがたくして、ひとへに他力の彌陀の本願をⅢ-1050たのむ也。先德たちおもひはからひてこそは、道綽は聖道をすてゝ淨土の門にいり、善導は雜行をとゞめて一向に念佛して三昧をえたまひき。淨土宗の祖師、次第にあひつげり、わづかに一兩をあぐ。この朝にも惠心・永觀などいふ、自宗・他宗、ひとへに念佛の一門をすゝめたまへり。專雜二修の義、はじめて申におよばず、淨土宗のふみおほく候、こまかに御覽候べし。また卽身得道の行、往生極樂におよばざらむやと候は、まことにいわれたるやうに候へども、なかにも宗と申ことの候ぞかし。善導の『觀經の疏』(玄義*分意)にいはく、「般若經のごときは、空慧をもて宗とす、『維摩經』のごときは、不思議解脫をもちて宗とす。いまこの『觀經』は、觀佛三昧をもちて宗とし、念佛三昧をもちて宗とす」といふがごとき。『法華』は、眞如實相平等の妙理を觀じて證をとり、現身に五品・六根の位にもかなふ、これをもちて宗とす。また眞言には、卽身成佛をもちて宗とす。『法華』にもおほくの功力をあげて經をほむるついでに、「卽往安樂」(法華經卷*六藥王品)ともいひ、また「卽往兜率天上」(法華經卷*七勸發品)ともいふ。これは便宜の說なり、往生を宗とするにはあらず。眞言もまたかくのごとし。法華・念佛ひとつなりといひて、ならべて修せよといはゞ、善導和尙は『法華』・『維摩』等を讀誦しき。淨土の一Ⅲ-1051門にいりにしよりこのかた、一向に念佛して、あえて餘の行をまじふる事なかりき。しかのみならず、淨土宗の祖師あひつぎて、みな一向に名號を稱して餘業をまじへざれとすゝむ。これらを按じて專修の一行にいらせたまへとは申すなり。
⊂七⊃問。淨土の法門に、まづなになにをみてこゝろつき候なむ。答。經には『雙卷』・『觀无量壽』・『小阿彌陀經』等、これを淨土の三部經となづく。文には善導の『觀經の疏』・『六時禮讚』・『觀念法門』、道綽の『安樂集』、慈恩の『西方要決』、懷感の『群疑論』、天台の『十疑論』、わが朝の人師惠心の『往生要集』なむどこそは、つねに人のみるものにて候へ。たゞなにを御覽ずとも、よく御こゝろえて念佛申させたまはむに、往生なにかうたがひ候べき。
⊂八⊃問。こゝろおば、いかやうにかつかひ候べき。答。三心を具足せさせたまへ。その三心と申は、一には至誠心、二には深心、三には廻向發願心なり。一に至誠心といふは、眞實の心なり。善導釋してのたまはく、「至といふは眞の義、誠といふは實の義。眞實のこゝろの中に、この自他の依正二報をいとひすてゝ、三業に修するところの行業に、かならず眞實をもちゐよ。ほかに賢善精進の相を現じて、うちに虛假をいだくものは、日夜十二時につとめおこなうこと、かうべⅢ-1052の火をはらふがごとくにすれども、往生をえずといふ。たゞ内外明闇おばえらばず、眞實をもちゐるゆへに、至誠心となづく。二に深心といふは、ふかき信なり。決定してふかく信ぜよ、自身は現にこれ罪惡生死の凡夫なり。曠劫よりこのかた、つねにしづみつねに流轉して、出離の縁あることなし。また決定してふかく信ぜよ、かの阿彌陀佛の四十八願をもて、衆生をうけおさめて、うたがひなくうらもひなく、かの願力にのりてさだめて往生すと。あふぎてねがはくは、佛のみことおば信ぜよ。もし一切の智者百千萬人きたりて、經論の證をひきて、一切の凡夫念佛して往生する事をえずといはむに、一念の疑退のこゝろをおこすべからず。たゞこたえていふべし、なむぢがひくところの經論を信ぜざるにはあらず。なむぢが信ずるところの經論は、なむぢが有縁の敎、わが信ずるところは、わが有縁の敎、いまひくところの經論は、菩薩・人・天等に通じてとけり。この『觀經』等の三部は、濁惡不善の凡夫のためにときたまふ。しかれば、かの『經』をときたまふ時には、對機も別に、所も別に、利益も別なりき。いまきみがうたがひをきくに、いよいよ信心を增長す。もしは羅漢・辟支佛、初地・十地の菩薩、十方にみちみち、化佛・報佛ひかりをかゞやかし、虛空にみしたをはⅢ-1053きて、むまれずとのたまはゞ、またこたえていふべし、一佛の說は一切の佛說におなじ、釋迦如來のときたまふ敎をあらためば、制止したまふところの殺生十惡等の罪をあらためて、またおかすべからむや。さきの佛そらごとしたまはゞ、のちの佛もまたそら事したまふべし。おなじことならば、たゞ信じそめたる法おば、あらためじといひて、ながく退する事なかれ。かるがゆへに深心なり。三に廻向發願心といふは、一切の善根をことごとくみな廻向して、往生極樂のためとす。決定眞實のこゝろの中に廻向して、むまるゝおもひをなすなり。このこゝろ深信なる事、金剛のごとくにして、一切の異見・異學・別解・別行の人等に、動亂し破壞せられざれ。いまさらに行者のためにひとつのたとひをときて、外邪・異見の難をふせがむ。人ありて西にむかひて百里・千里をゆくに、忽然として中路にふたつの河あり。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり。各ひろさ百步、ふかくしてそこなし、南北にほとりなし。まさに水火の中間に一の白道あり、ひろさ四五寸ばかりなるべし。この道東の岸より西の岸にいたるに、ながさ百步、その水の波浪まじわりすぎて道をうるおす、火炎またきたりて道をやく。水火あひまじわりてつねにやむ事なし。この人すでに空曠のはるかⅢ-1054なるところにいたるに、人なくして群賊・惡獸あり。このひとひとりありくをみて、きおいきたりてころさむとす。この人死をおそれてたゞちにはしりて西にむかふ。忽然としてこの大河をみるに、すなわち念言すらく、南北にほとりなし、中間に一の白道をみる、きわめて狹少なり。ふたつの岸あいさる事ちかしといゑども、いかゞゆくべき。今日さだめて死せむ事うたがひなし。まさしくかへらむとおもへば、群賊・惡獸やうやくにきたりせむ。南北にさりはしらむとおもへば、惡獸・毒蟲きおひきたりてわれにむかふ。まさに西にむかひてみちをたづねて、しかもさらむとおもへば、おそらくはこのふたつの河におちぬべし。この時おそるゝ事いふべからず、すなわち思念すらく、かへるとも死し、またさるとも死しなむ、一種としても死をまぬかれざるものなり。われむしろこのみちをたづねて、さきにむかひてしかもさらむ。すでにこのみちあり、かならずわたるべしと。このおもひをなす時に、東の岸にたちまちに人のすゝむるこゑをきく。きみ決定してこのみちをたづねてゆけ、かならず死の難なけむ。住せば、すなわち死しなむ。西の岸の上に人ありてよばひていはく、なむぢ一心にまさしく念じて、身心いたりて、みちをたづねて直にすゝみて、疑怯退心をなさず。あるいは一分二分ゆくⅢ-1055に、群賊等よばいていはく、きみかへりきたれ、このみちはけあしくあしきみちなり、すぐる事をうべからず、死しなむことうたがひなし、われらが衆あしきこゝろなし。このひとあひむかふに、よばふこゑをきくといゑどもかへりみず。直にすゝみて道を念じてしかもゆくに、須臾にすなわち西の岸にいたりて、ながくもろもろの難をはなる。善友あひむかひてよろこびやむ事なし。これはこれたとひなり。次に喩を合すといふは、東の岸といふは、すなわちこの娑婆の火宅にたとふるなり。群賊・惡獸いつわりちかづくといふは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大なり。人なき空曠の澤といふは、すなわち惡友にしたがひて、まことの善知識にあはざるなり。水火の二河といふは、すなわち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるにたとふるなり。中間の白道四五寸といふは、衆生の貪瞋煩惱の中に、よく淸淨の願往生の心をなすなり。貪瞋こはきによるがゆへに、すなわち水火のごとしとたとふるなり。水波つねにみちをうるおすといふは、愛心つねにおこりて善心を染汚するなり。また火炎つねにみちをやくといふは、すなわち瞋嫌のこゝろよく功德の法財をやくなり。人みちをのぼるに直に西にむかふといふは、すなわちもろもろの行業をめぐらして、直に西にⅢ-1056むかふにたとふるなり。東の岸に人のこゑのすゝめやるをきゝて、みちをたづねて直に西にすゝむといふは、すなわち釋迦はすでに滅したまひてのち、人みたてまつらざれども、なほ敎法ありてすなわちたづぬべし。これをこゑのごとしとたとふるなり。あるいは一分二分するに群賊等よばひかへすといふは、別解・別行・惡見人等みだりに見解をときてあひ惑亂し、およびみづから罪をつくりて退失するなり。西の岸の上に人ありてよばふといふは、すなわち彌陀の願のこゝろにたとふるなり。須臾にすなわち西の岸にいたりて善友あひみてよろこぶといふは、すなわち衆生のひさしく生死にしづみて、曠劫より輪廻し、迷倒し、身づから迷て解脫するによしなし。あふぎて發遣して、西方にむかえしめたまふ。彌陀の悲心まねきよばひたまふに、二尊の心に信順して、水火の二河をかへりみず、念念にわするゝ事なく、かの願力に乘じて、このみちにいのちをすておはりてのち、かのくににむまるゝ事をえて、佛とあひみて、慶樂する事きわまりなからむ。行者、行住座臥の三業に修するところ、晝夜時節をとふことなく、つねにこのさとりをなし、このおもひをなすがゆへに廻向發願心といふ。また廻向といふは、かのくにゝむまれおはりて、大悲をおこして生死にかへりいりて、衆生Ⅲ-1057を敎化するを廻向となづく。三心すでに具すれば、行の成ぜざることなし。願行すでに成じて、もしむまれずといはゞ、このことわりある事なけむ」(散善*義意)と。已上善導の釋の文なり。
⊂九⊃問。『阿彌陀經』の中に、「一心不亂」と候ぞかしな。これ阿彌陀佛を申さむ時、餘事をすこしもおもひまぜ候まじきにや。一聲念佛申さむほど、ものをおもひまぜざらむ事はやすく候へば、一念往生にはもるゝ人候はじとおぼえ候。またいのちのおはるを期として、餘念なからむ事は、凡夫の往生すべき事にても候はず。この義いかゞこころえ候べき。答。善導この事を釋してのたまはく、ひとたび三心を具足してのち、みだれやぶれざる事金剛のごときにて、いのちのおはるを期とするを、なづけて一心といふと候。阿彌陀佛の本願の文に、「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念。若不生者、不取正覺」(大經*卷上)といふ。この文に「至心」といふは、『觀經』にあかすところの三心の中の至誠心にあたれり。「信樂」といふは、深心にあたれり。これをふさねて、いのちのおはるを期として、みだれぬものを一心とは申なり。このこゝろを具せらむもの、もしは一日もしは二日、乃至一聲・十聲に、かならず往生する事をうといふ。いかでかⅢ-1058凡夫のこゝろに、散亂なき事候べき。さればこそ易行道とは申ことにて候へ。『雙卷經』(大經*卷下)の文には、「橫截五惡趣、惡趣自然閉、昇道無窮極。易往而無人」ととけり。まことにゆきやすき事、これにすぎたるや候べき。劫をつみてむまるといはゞ、いのちもみじかく、みもたえざらむ人、いかゞとおもふべきに、本願に「乃至十念」(大經*卷上)といふ、願成就の文に「乃至一念もかの佛を念じて、こゝろをいたして廻向すれば、すなわちかのくににむまるゝ事をう」(大經*卷下意)といふ。造惡のものむまれずといはゞ、『觀經』の文に、五逆の罪人むまるととく。もしよもくだり、人のこゝろもおろかなる時は、信心うすくしてむまれがたしといはゞ、『雙卷經』(大經*卷下)の文に、「當來之世經道滅盡、我以慈悲哀愍、特留此經止住百歲。其有衆生値此經者、隨意所願皆可得度。」W云々Rその時の衆生は三寶の名をきく事なし、もろもろの聖敎は龍宮にかくれて一卷もとゞまることなし。たゞ惡邪无信のさかりなる衆生のみあり、みな惡道におちぬべし。彌陀の本願をもちて、釋迦の大悲ふかきゆへに、この敎をとゞめたまひつる事百年なり。いはむや、このごろはこれ末法のはじめなり。萬年のゝちの衆生におとらむや。かるがゆへに「易往」といふ。しかりといゑども、この敎にあふものはかたく、まⅢ-1059たおのづからきくといゑども、信ずる事かたきがゆへに、しかれば、「無人」といふ、まことにことわりなるべし。『阿彌陀經』(意)に、「もしは一日もしは二日、乃至七日、名號を執持して一心不亂なれば、その人命終の時に、阿彌陀佛もろもろの聖衆と現にその人のまへにまします。おはる時、心不顚倒して、阿彌陀佛の極樂國土に往生する事をう」といふ。この事をときたまふ時に、釋迦一佛の所說を信ぜざらむ事をおそれて、「六方の如來、同心同時におのおの廣長の舌相をいだして、あまねく三千大千世界におほいて、もしこの事そらごとならば、わがいだすところの廣長の舌やぶれたゞれて、くちにかへりいる事あらじ」(觀念*法門)とちかひたまひき。經の文、釋の文あらはに候、たゞよく御こゝろえ候へ。また大事を成じたまひしときは、みな證明ありき。法華をときたまひしときは、多寶一佛證明し、般若をときたまひし時は、四方四佛證明したまふ。しかりといゑども、一日七日の念佛のごときに證誠のさかりなる事はなし。佛もこの事をことに大事におぼしめしたるにこそ候めれ。
⊂十⊃問。信心のやうはうけたまはりぬ、行の次第いかゞ候べき。答。四修をこそは本とする事にて候へ。一には長時修、二には慇重修、また恭敬修となづく、Ⅲ-1060三には无間修、四には无餘修なり。一に長時修といふは、慈恩の『西方要決』(意)にいはく、「初發心よりこのかた、つねに退轉なきなり」。善導は、「いのちのおはるを期として、誓て中にとゞまらざれ」(禮讚)といふ。二に恭敬修といふは、極樂の佛法僧寶において、つねに憶念して尊重をなすなり。『往生要集』にあり。また『要決』(意)にいはく、「恭敬修、これにつきて五あり。一には有縁の聖人をうやまふ、二には有縁の像と敎とをうやまふ、三には有縁の善知識をうやまふ、四には同縁の伴をうやまふ、五には三寶をうやまふ。一に有縁の聖人をうやまふといふは、行住座臥西方をそむかず、涕唾便利西方にむかはざれといふ。二に有縁の像と敎とをうやまふといふは、彌陀の像をあまねくつくりもかきもせよ。ひろくする事あたはずは、一佛二菩薩をつくれ。また敎をうやまふといふは、『彌陀經』等を五色の袋にいれて、みづからもよみ他をおしえてもよませよ。像と經とを室のうちに安置して、六時に禮讚し、香華供養すべし。三に有縁の善知識をうやまふといふは、淨土の敎をのべむものおば、もしは千由旬よりこのかた、ならびに敬重し親近し供養すべし。別學のものおも總じてうやまふこゝろをおこすべし。もし輕慢をなさば、つみをうる事きわまりなし。すゝめても衆生のためⅢ-1061に善知識となりて、かならず西方に歸する事をもちゐよ。この火宅に住せば、退沒ありていでがたきがゆへなり。火界の修道はなはだかたきがゆへに、すゝめて西方に歸せしむ。ひとたび往生をえつれば、三學自然に勝進しぬ。萬行ならびにそなわるがゆへに、彌陀の淨國は造惡の地なし。四に同縁の伴をうやまふといふは、おなじく業を修するものなり。みづからはさとりおもくして獨業は成ぜりといゑども、かならずよきともによりて、まさに行をなす。あやうきをたすけ、あやうきをすくふ事、同伴の善縁なり、ふかくあひたのみておもくすべし。五に木のかたぶきたるが、たうるゝには、まがれるによるがごとし。ことのさわりありて、西にむかふにおよばずは、たゞ西にむかふおもひをなすにはしかず」。三に无間修といふは、『要決』(意)に云、「つねに念佛して往生のこゝろをなせ。一切の時において、こゝろにつねにおもひたくむべし。たとへばもし人他に抄掠せられて、身下賤となりて艱辛をうく。たちまちに父母をおもひて、本國にはしりかへらむとおもふて、ゆくべきはかりごと、いまだわきまへずして他郷にあり、日夜に思惟す。苦たえしのぶべからず、時としても本國をおもはずといふことなし。計をなすことえて、すでにかへりて達することをえて、父母に親近して、Ⅲ-1062ほしきまゝに歡娛するがごとし。行者またしかなり。往因の煩惱に善心を壞亂せられて、福智の珍財ならびに散失して、ひさしく生死にしづみて、六道に驅馳して、苦身心をせむ。いま善縁にあひて、彌陀の慈父をきゝて、まさに佛恩を念じて、報盡を期として、こゝろにつねにおもふべし。こゝろにあひつぎて餘業をまじえざれ」。四に无餘修といふは、『要決』にいはく、「もはら極樂をもとめて禮念するなり。諸餘の行業を雜起せざれ。所作の業は日別に念佛すべし」。善導ののたまはく、「專かの佛の名號を念じ、專禮し、もはらかの佛およびかの土の一切の聖衆等をほめて、餘業をまじえざれ。專修のものは百はすなわち百ながらむまれ、雜修のものは百が中にわづかに一二なり。雜縁にねがひつきぬれば、みづからもさえ、他の往生の正行おもさうるなり。なにをもてのゆへに。われみづから諸方をみきくに、道俗解行不同にして、專雜ことなり。たゞこゝろをもはらになさば、十はすなわち十ながらむまる。雜修のものは、一もえず」(禮讚意)といふ。また善導釋してのたまはく、「西方淨土の業を修せむとおもはむものは、四修おつる事なく、三業まじわる事なくして、一切の諸願を廢して、たゞ西方の一行と一願とを修せよ」(群疑論*卷四意)とこそ候へ。
Ⅲ-1063⊂十一⊃問。一切の善根は魔王のためにさまたげらる。これはいかゞして對治し候べき。答。魔界といふものは、衆生をたぶろかすものなり。一切の行業は、自力をたのむがゆへ也。念佛の行者は、みおば罪惡生死の凡夫とおもへば、自力をたのむ事なくして、たゞ彌陀の願力にのりて往生せむとねがふに、魔縁たよりをうる事なし。觀慧をこらす人にも、なほ空界の魔事ありといふ。彌陀の一事には、もとより魔事なし、觀人淸淨なるがゆへにといへり。佛をたぶろかす魔縁なければ、念佛のものおばさまたぐべからず、他力をたのむによるがゆへに、百丈の石をふねにおきつれば、萬里の大海をすぐといふがごとし。または念佛の行者のまへには、彌陀・觀音つねにきたりたまふ。廿五の菩薩、百重千重護念したまふに、たよりをうべからず。
⊂十二⊃問。阿彌陀佛を念ずるに、いかばかりの罪おか滅し候。答。「一念によく八十億劫の生死の罪を滅す」(觀經意)といひ、また「但聞佛名二菩薩名、除无量億劫生死之罪」(觀經)など申候ぞかし。
⊂十三⊃問。念佛と申候は、佛の色相・光明を念ずるは、觀佛三昧なり。報身を念じ同體の佛性を觀ずるは、智あさくこゝろすくなきわれらが境界にあらず。答。Ⅲ-1064善導ののたまはく、「相を觀ぜずして、たゞ名字を稱せよ。衆生障重して、觀成ずる事かたし。このゆへに大聖あはれみて、稱名をもはらにすゝめたまへり。こゝろはかすかにして、たましひ十方にとびちるがゆへなり」(禮讚意)といふ。本願の文を、善導釋してのたまはく、「若我成佛、十方衆生願生我國、稱我名號、下至十聲、乘我願力、若不生者、不取正覺。彼佛今現在成佛。當知、本誓重願不虛、衆生稱念必得往生」(禮讚)とおほせられて候。とくとく安樂の淨土に往生せさせおはしまして、彌陀・觀音を師として、法華の眞如實相平等の妙理、般若の第一義空、眞言の卽身成佛、一切の聖敎、こゝろのまゝにさとらせおはしますべし。

(二八)
御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。たづねおほせたびて候事ども、おほやうしるし申候。くまがやの入道・つのとの三郎は、無智のものなればこそ、念佛おばすゝめたれ、有智の人にはかならずしも念佛にかぎるべからずと申よしきこえて候覽、きわめたるひが事に候。そのゆへは、念佛の行は、もとより有智・無智にⅢ-1065かぎらず、彌陀のむかしちかひたまひし本願も、あまねく一切衆生のため也。無智のためには念佛を願じ、有智のためには餘のふかき行を願じたまへる事なし。十方衆生のために、ひろく有智・无智、有罪・无罪、善人・惡人、持戒・破戒、たふときもいやしきも、男も女も、もしは佛在世、もしは佛滅後の近來の衆生、もしは釋迦の末法萬年ののち三寶みなうせての時の衆生まで、みなこもりたる也。また善導和尙の、彌陀の化身として專修念佛をすゝめたまへるも、ひろく一切衆生のためにすゝめて、无智のものにかぎる事は候はず。ひろき彌陀の願をたのみ、あまねき善導のすゝめをひろめむもの、いかでか無智の人にかぎりて、有智の人をへだてむや。もししからば、彌陀の本願にもそむき、善導の御こゝろにもかなふべからず。さればこの邊にまうできて、往生のみちをとひたづね候人には、有智・無智を論ぜず、みな念佛の行ばかりを申候也。しかるにそらごとをかまへて、さやうに念佛を申とゞめむとするものは、このさきのよに、念佛三昧、淨土の法門をきかず、後世にまた三惡道にかへるべきもの、しかるべくして、さやうの事おばたくみ申候事にて候なり。そのよし聖敎にみなみえて候也。
「見有修行起瞋毒 方便破壞競生怨
Ⅲ-1066如此生盲闡提輩 毀滅頓敎永沈淪
超過大地微塵劫 未可得離三途身」(法事讚*卷下)
と申たる也。この文のこゝろは、淨土をねがひ念佛を行ずるものをみては、瞋をおこし毒心をふうみて、はかり事をめぐらし、やうやうの方便をなして、念佛の行を破て、あらそひて怨をなし、これをとゞめむとするなり。かくのごときの人は、むまれてよりこのかた、佛法のまなこしひて、佛の種をうしなへる闡提の輩なり。この彌陀の名號をとなえて、ながき生死をたちまちにきりて、常住の極樂に往生すといふ頓敎の法をそしりほろぼして、この罪によりて、ながく三惡にしづむといえるなり。かくのごときの人は、大地微塵劫をすぐとも、むなしく三惡道のみをはなるゝ事をうべからずといえるなり。さればさやうに妄語をたくみて申候覽人は、かへりてあはれむべきものなり。さほどのものゝ申さむによりて、念佛にうたがひをなし、不審をおこさむものは、いふにたらざるほどの事にてこそ候はめ。おほかた彌陀に縁あさく、往生に時いたらぬものは、きけども信ぜず、行ずるをみては腹をたて、いかりを含て、さまたげむとすることにて候也。そのこゝろをえて、いかに人申候とも、御こゝろばかりはゆるがせたまふべからⅢ-1067ず。あながちに信ぜざらむは、佛なほちからおよびたまふまじ。いかにいはむや、凡夫ちからおよぶまじき事也。かゝる不信の衆生のために、慈悲をおこして利益せむとおもふにつけても、とく極樂へまいりてさとりひらきて、生死にかへりて誹謗不信のものをわたして、一切衆生あまねく利益せむとおもふべき事にて候也。このよしを御こゝろえておはしますべし。
⊂一⊃一 一家の人々の善願に結縁助成せむこと、この條左右におよび候はず、尤しかるべく候。念佛の行をさまたぐる事をこそ、專修の行に制したる事にて候へ。人々のあるいは堂おもつくり、佛おもつくり、經おもかき、僧おも供養せむには、ちからをくわへ縁をむすばむが、念佛をさまたげ、專修をさふるほどの事は候まじ。
⊂二⊃一 この世のいのりに、佛にも神にも申さむ事は、そもくるしみ候まじ。後世の往生、念佛のほかにあらず、行をするこそ念佛をさまたぐれば、あしき事にて候へ。この世のためにする事は、往生のためにては候はねば、佛・神のいのり、さらにくるしかるまじく候也。
⊂三⊃一 念佛を申させたまはむには、こゝろをつねにかけて、口にわすれずとなⅢ-1068ふるが、めでたきことにては候なり。念佛の行は、もとより行住座臥・時處諸縁をきらわざる行にて候へば、たとひみもきたなく、口もきたなくとも、こゝろをきよくして、わすれず申させたまはむ事、返々神妙に候。ひまなくさやうに申させたまはむこそ、返々ありがたくめでたく候へ。いかならむところ、いかならむ時なりとも、わすれず申させたまはゞ、往生の業にはかならずなり候はむずる也。そのよしを御こゝろえて、おなじこゝろならむ人には、おしえさせたまふべし。いかなる時にも申さざらむをこそ、ねうじてまふさばやとおもひ候べきに、申されむをねうじて申させたまはぬ事は、いかでか候べき、ゆめゆめ候まじ。たゞいかなるおりもきらはず申させたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。
⊂四⊃一 御佛おほせにしたがひて、開眼してくだしまいらせ候。阿彌陀の三尊つくりまいらせさせたまひて候なる、返々神妙に候。いかさまにも、佛像をつくりまいらせたるは、めでたき功德にて候也。
⊂五⊃一 いま一いふべき事のあるとおほせられて候は、なに事にか候覽、なむ條はゞかりか候べき、おほせ候べし。
⊂六⊃一 念佛の行あながちに信ぜざる人に論じあひ、またあらぬ行ことさとりのⅢ-1069人にむかひて、いたくしゐておほせらるゝ事候まじ。異學・異解の人をえては、これを恭敬してかなしめ、あなづる事なかれと申たることにて候也。されば同心に極樂をねがひ、念佛を申さむ人に、たとひ塵刹のほかの人なりとも、同行のおもひをなして、一佛淨土にむまれむとおもふべきにて候なり。阿彌陀佛に縁なくて、淨土にちぎりなく候はむ人の、信もおこらず、ねがはしくもなく候はむには、ちからおよばず。たゞこゝろにまかせて、いかなる行おもして、後生たすかりて、三惡道をはなるゝ事を、人のこゝろにしたがひて、すゝめ候べきなり。またさわ候へども、ちりばかりもかなひ候ぬべからむ人には、彌陀佛をすゝめ、極樂をねがふべきにて候ぞ。いかに申候とも、このよの人の極樂にむまれぬ事は候まじき事にて候也。このあひだの事おば、人のこゝろにしたがひて、はからふべく候なり。いかさまにも人とあらそふことは、ゆめゆめ候まじ。もしはそしり、もしは信ぜざらむものをば、ひさしく地獄にありて、また地獄へかへるべきものなりとよくよくこゝろえて、こわがらで、こしらふべきにて候か。またよもとはおもひまいらせ候へども、いかなる人申候とも、念佛の御こゝろなむど、たぢろぎおぼしめす事あるまじく候。たとひ千の佛世にいでゝ、まのあたりおしえさせたまふⅢ-1070とも、これは釋迦・彌陀よりはじめて、恆沙の佛の證誠せさせたまふ事なればとおぼしめして、こゝろざしを金剛よりもかたくして、このたびかならず阿彌陀佛の御まへにまいりなむとおぼしめすべく候也。かくのごときの事、かたはし申さむに、御こゝろえて、わがため人のためにおこなはせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。
九月十八日 源空
つのとの三郎殿御返事

つのとの三郎といふは、武藏國の住人也。おほご・しのや・つのと、この三人は聖人根本の弟子なり。つのとは生年八十一にて自害して、めでたく往生をとげたりけり。故聖人往生のとしとてしたりける。もし正月廿五日などにてやありけむ、こまかにたづね記すべし。

康元元丙辰十一月八日
愚禿親鸞W八十四歲R書之