幸西大徳の一念義
提供: 本願力
第二講 序題門
(四)教法の開示
- [本文]
一、従「不謂群迷」下至「皆蒙解脆」已來ハ、十聖ヲ除テ五乗ノ教ヲ説ク。
「雖無一實之機等有五乘之用」トイハ、眞如ノ機ナシト云トモ弘願ノ機アリト也。五乘不測其邊故ニ眞如ノ機ニアラス。託佛願五乘齊入ス、故ニ弘願ノ機也。但シ三界ノ極位ニ居シテ十聖ノ初地ニ隣ナルモノ、眞如ノ機ニ當レリト云トモ、修福念佛ヲ以テ無生ノ國ニ入ル事ハ佛法不思議ノ力也。敢テ其機ニアラス。故ニ佛ノ願力ノ外ニ都テ眞如ヲ證スル門ナキ也。
「門餘八萬四千」トイハ一乘ヲ加テ餘トス。法華經ノ賓塔品、此ノ經ノ下品上生等ノ文ニ依ルナルヘシ。
「皆蒙解脫」トイハ淺深アルヘシ。
- [意訳]
一、「不謂群迷」より下の「皆蒙解脱」(*)に至るまでは、十聖を除いて、五乗に対して教えを説くことを明している。
「雖無一質之機等有五乗之用(一実の機なしといえども、等しく五乗の用あり)」というのは、真智を発して真如をさとる機はいないけれども、弘願の機はあるというのである。さきに「五乗も其の辺を測らず」といわれているから、五乗は真如の機ではない。しかし後に「仏願に託して五乗斉しく入る」といわれているから、五乗は弘願の機である。ただし三界内では最高位にあって、十聖の最初の位である初地に隣接している第十廻向の満位にあるものは、真如をさとるべき機であるとされているが、そのものが福徳の因縁である念仏を修することによって、生死を超えた無生の国(報土)に入ることができるのは仏法不思議の力によるのである。あえてその機の力によって成就することではない。それゆえ仏の願力のほかに真如をさとる法門はないのである。
「門餘八萬四千(門八万四千に余れり)」というのは、八万四千の法門に一乗を加えて余とするのである。 『法華経』の宝塔品や、この『観経』の下品上生等の文のこころに依るものであろう。
「皆蒙解脱(皆解脱を蒙る)」といわれているが、その解脱には浅深の差があるだろう。
- [講述]
「一、従不謂群迷 下至 皆蒙解脱已來ハ、十聖ヲ除テ五乗ノ教ヲ説ク」とは、「群迷の性の隔たり、楽欲の不同を謂はず」から、 「縁に随ふ者、則ち皆解脱を蒙る」(三三八頁)までは、 この娑婆には十聖の機(聖者)はいないから、それを除いた凡夫のために五乗の教えを説いて弘願に誘引していかれることを明かしたというのである。そのことを次のように述べている。「雖無一賓之機等有五乗之用トイハ、眞如ノ機ナシト云トモ弘願ノ機アリト也、五乗不測其邊故眞如ノ機ニアラス、託佛願五乗齊入ス、故ニ弘願ノ機也」。「一実の機」とは「真如の機」ということで、一実真如をさとった初地以上の聖者をいう。此の娑婆世界には、権仮の人を除いて地上の聖者はいない。
しかし弘願念仏の機はいるというのである。序題門のはじめに「五乗も其の辺を測らず」(三三七頁)といい、五乗は真如をさとることができないといわれているから、この五乗は地上の菩薩を含まない三賢位以下の凡夫であるというのである。人・天・声聞・縁覚・地前の菩薩の五乗の機を教化する五乗の法門は、未熟の機を調育して弘願に誘引する方便の教法である。この聖道門五乗の教法によって調熟せしめられた機が、弘願一乗の法を聞き、仏願力に乗ずるならば「仏願に託して五乗斉しく入る」といわれるように報土に往生せしめられる。これが弘願の機である。
「但シ三界ノ極位ニ居シテ十聖ノ初地ニ隣ナルモノ、眞如ノ機ニ當レリト云トモ、修福念佛ヲ以テ無生ノ國ニ入ル事ハ佛法不思議ノ力也、敢テ其機ニアラス、故ニ佛ノ願力ノ外ニ都テ眞如ヲ證スル門ナキ也」というのは、聖道自力の法門は、凡夫が生死を超えることのできる道ではないという一種の聖道無得道説をのべたものである。三賢の最高位である十回向の満位の菩薩は、初地の聖位に隣接しているようであるが、持前の有漏智をもって無明を破して真如を証得するということは決してできない。有漏智と無漏智とは質的に違っていて、有漏智から無漏智に到るということは決してあり得ないというのが幸西の説である。従って十回向の満位の菩薩といわれているような人であっても、無漏無生の領域に入るためには仏法不思議の力、すなわち本願力による以外にないのであって、決してその機の持前の智力によるのではない。そのような人が福徳の因縁である念仏を修して往生すということは、本願の不思議力によって往生すということをあらわしているのである。このような幸西の論義の中には、念仏別時意説の論拠となった『摂大乗論』や、その釈論の著者である無着や天親が、十回向の満位であるというような説を意識しておられたのかもしれない。こうして幸西は「佛ノ願力ノ外ニ都テ眞如ヲ證スル門ナキ也」と断定されるのであった。阿弥陀仏の本願力による救いを説く凡頓一乗のほかに真の成仏道はないという、極めて尖鋭な浄土教学がこうして成立していくのである。
「門余八萬四千トイハ一乗ヲ加テ餘トス」というのは、門余と八万四千とを分け、八万四千を聖道門とし、余を凡頓一乗とするのである。これは『法華経』見宝塔品第十一(大正蔵九・三四頁)に、
- 「若し八万四千の法蔵、十二部経を持ちて人の為に演説し、諸の聴者をして六神通を得しめん。よくかくの如くすと雖もまた難と為さず。我が滅後に於て此の経を聴受し、その義趣を問はば即ちこれを難とす」(*)
というものをさすのであろう。ここで八万四千の法蔵、十二部経の法門と、『法華経』を対照し、前者よりも後者の方が難であるということをもって、爾前三乗の法門に対して、法華一乗の法門の尊高を顕わしているからである。
また『観経』下品上生の文というのは、下上品の機がはじめに大乗十二部経の首題名字を聞いたが、千劫の罪しか除くことができなかったのを、善知識が教えを転じて阿弥陀仏の名を称せしめたとき、五十億劫の生死の罪を除いて往生を得ることが出来た。そして来迎の化仏は聞経の事を讃ぜず、ただ称仏の功のみを讃歎されたことをさしていた。このように聞経の善と本願の行である称名とを対比して、称名の超勝性を釈顕されている。この下上品の経意を「見宝塔品」と対照すれば、十二部経とは八万四千の法門のことであり、称名とは凡頓一乗の法門ということになる。
こうして幸西は、諸経に説かれた八万四千の法門は調機誘引の方便の法門であり、その行体は定散であるとし、『大経』に説かれた別意弘願の法門だけが究竟の真門であって、それを門余の一乗とよび、凡頓一乗とするというのである。それにしてもこの門余の釈が、親鸞の「化身土文類」要門釈(三九四頁)に「門余といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり」 (*)といわれた門余の釈と全く同じであったことがわかる。
「皆蒙解脫トイハ淺深アルヘシ」というのは、聖道八万四千の隨縁の法門によって得るという解脱は浅い仮益であり、凡頓一乗によって得る解脱のみが甚遠な真実の利益という意味であろう。
第三講 釈名門
釈名門の概要
釈名とは「仏説無量寿観経一巻」という経の題名を釈することをいう。古来、「題は一部の総標」といわれるように、経の内容がすべて標示されているから経題を釈すれぼ『観経』の法義の概要を示すことが出来る。それゆえ序題門につづいて釈名門がおかれるのである。はじめに経題をあげて仏、説、無量寿、観、経一巻のそれぞれについて詳説される。特に「無量寿と言ふは、乃ち是此の地の漢音なり。南無阿弥陀仏と言ふは、又是西国の正音なり」(三四〇頁)といい、さらに梵漢対訳していかれるが、後世この六字全体を名号とみる釈が注目されていく。 善導はその南無阿弥陀仏(帰命無量寿覚)という名号を人法に分け、所観の境である依正二報を詳説し、ついで「観」を釈して能観の心を明していく。そして「経」の意味を釈して、「観経』の法義を結んでいかれるのである。
ところで善導がここで釈名される経題は、今日一般に拝読しているものが「仏説観無量寿経一巻」となっているのと異なっている。あるいは善導の所覧本がそうなっていたのであろうか。しかし幸西は、この題号によって特異な釈を施していかれる。
無量寿観の意義
- [本文]
一、「無量壽観経一眷」トイハ題目ニ二ノ法アリ。「無量壽」ト云ハ念佛、彼ノ佛ノ名ヲ念ス。故ニ南無阿彌陀佛ト釋シ御セリ。此ノ義三部ノ題二通ス。「觀」ト云ハ觀無量壽、彼ノ佛ノ色相ヲ観ス。題ノ初二還テ此ノ異ヲ知ラシメムカ為二無量壽ノ下ニ觀ノ字ヲ置ケリ。然ルニ経ハ定散ノ次第ヲミタラス無量壽ノ上二觀ノ字ヲ置ク。若細ク経名ヲ題セハ觀無量壽無量壽経ト云ヘシ。此ノ義ノ為ノ故二無量壽観経ト引ケリ。
一、従「言無量壽者」下至「故名阿彌陀」已來ハ念佛ヲ釋ス。
一、従「又言人法者」下至「正明依正二報」已來ハ觀佛三昧ヲ釋ス。「又言人法是所觀之境」トイハ正ク眞身ヲ指ス。「即有其二」已下ハ依正二報通別眞假等、皆眞身觀之方便ナル事ヲ釋セリ。
一、従「言觀者照也」下至「照彼彌陀正依等事」已來ハ觀相ヲ結ス。
- 「意訳」
一、「無量寿観経一巻」というのは経の題目である。この題目に二種の法がある。
「無量寿」というのは念仏をあらわしている。それは彼の仏のみ名を念ずることである。ゆえに下に梵漢相対して釈されるとき「無量寿」を南無阿弥陀仏と釈されている。この義は浄土三部経の題のすべてに通ずることである。
「観」というのは、観無量寿ということで、かの仏の色相(すがた、かたち)を観ずることである。経題を釈するにあたって、無量寿という念仏と、観無量寿という観仏とが、この経に説かれているということのちがいを知らせるために、善導は「無量寿観経」と、観の字の下に置いて示されたのである。しかるに、経には「観無量寿経」となっている。これは、はじめに定善(観仏)を説き、つぎには散善を説いて最後に念仏を説くという順序になっているから、その順序を乱さないように無量寿の上に観の字を置かれたわけである。もし詳細に経名をかかげるということになれば「観無量寿無量寿経」というべきである。こういう道理があるので「無量寿観経」という題目をかかげられたのである。
一、「言無量寿者」より下の「故名阿弥陀」に至るまでは、念仏三昧に約して釈するものである。
一、「又言人法者(又人法と言ふは)」より下の「正明依正二報(正しく依正二報を明かす)」に至るまでは、観仏三昧を釈されたものである。
「又言人法是所観之境(又人法と言ふは是所観の境なり)」というのは、正しく真身をさしている。「即有其二(即ち其の二有り)」以下は、依報、正報について、通と別とがあり、また真と仮との別があることなどを明かすわけであるが、いずれも真身観を成就するための方便の観法であるということを釈したものである。
一、「言観者照也(観と言ふは照なり)」より下の「照彼弥陀正依等事(彼の弥陀の正依等の事を照らす)」に至るまでは、観の意味と、浄土の依正二報を観ずるという観の相とをあげて観の釈を結んだものである。
- [講述]
「一、無量壽観経一巻トイハ題目二ニノ法アリ」とは、この題目に二つの意味が含まれているというのである。
第一は「無量壽」というのは阿弥陀仏の名号を念ずる称名念仏のことで、梵漢対訳して「無量寿と言ふは、乃ち是此の地の漢音なり。南無阿弥陀仏と言ふは、又是西国の正音なり」(三四〇頁)といわれているのと対照すると、「無量壽」という題目には念仏三昧為宗の立場が表されているというのである。第二は「観」で、これは「観無量壽」を略したもので、阿弥陀仏の色相を観ずることである。すなわちこの経の観仏三昧為宗の立場が表示されているとみるのである。こうして『観経』には念仏三昧と観仏三昧の二種の法門が説かれていることを知らせるために、無量寿の下に観の字を置いたというのである。
ところで我々が拝読している『観経』は、「観無量寿経」となっている。それは初めに定善(観仏)を説き、後に散善(称名)を説いていくという定散の次第を乱さないように初に観の字を置くもので、もし詳細に題名をあげるならば「観無量壽無量壽経」というべきである。これでは冗長にすぎるから、善導は「無量壽観経」という経題を掲げられたのであるといっている。
「一、従言無量寿者下至故名阿彌陀已來ハ念佛ヲ釋ス」というのは、「無量寿と言ふは、乃ち是此の地の漢音なり」(三四〇頁)から「人法並べ彰す、故に阿弥陀仏と名づく」(三四一頁)といわれた一段は、念仏(称名)の法体を釈したものであるというのである。ここには漢音で無量寿というのを、西国(インド)では南無阿弥陀仏というと六字の名号をあげ、さらにそれを梵漢対訳して、帰命無量寿覚という漢音六字をあげ、また無量寿(法)覚(人)を人法に分釈して阿弥陀仏の義意をあらわされている。これはすべて称名における所称の法体たる名号の義意を明かすものとして、全体を念仏を明かす釈としたものである。このように無量寿を南無阿弥陀仏すなわち帰命無量寿覚という名号の略称とした釈に、幸西は深い意味を読みとっていかれる。すなわち南無までも阿弥陀仏の名号とすることの意義は、のちに別時門の六字釈のところで明かされていく。
「一、従又言人法者下至正明依正二報已來ハ觀佛三昧テ釋ス」とは、「又人法と言ふは是所観の境なり。即ち其の二有り。一には依報、二には正報なり」(三四一頁)から「向より
なお「玄義分」には、所観の境としての依正二法について通別、真仮を分けて詳細な釈がなされているが、幸西は何も釈していない。おそらく読めぱわかることであったのと、観は方便でしかなかったからであろう。
「一、従言觀者照也下至照彼彌陀正依等事已來ハ觀相ヲ結ス」というのは、観とは浄信心を起こし、智慧の眼をもって弥陀の依正二報を照知することを観というと、観察するありさまを釈したものであるというのである。さきに述べたように幸西は所観についても詳しい釈を施していないように、能観についても特別の釈はされていない。理由は所観についてと同じことであろう。
第十一講 別時門(和会門の五)
六字釈
- [本文]
一、従「今此親経」下至「必得往生」已來ハ、願行本ヨリ具足セリ、具不具ヲ努クスヘカラスト也。斯乃上二餘願餘行ヲキラハムカ為二、但行但願ノ無所至ナル事ヲ論ス。重々ノ問答ヒトヘニ願行ノ具不、相績ノ有無ヲ取捨スルニ似タリ。故二今願ノ眞實ノ相ヲ結シテ行者ノ安心ヲ定ム。當知南無阿彌陀佛ト念スル外二歸命モ入ルヘカラス、發願モ入ルヘカラス、廻向モ入ルヘカラス、唯佛智ヲ了スル一心二皆具足スト也。
- [意訳]
一、「今此観経」より、下の「必得往生(必ず往生を得)」に至るまでは、(南無阿弥陀仏には)願行が本来具足している。いまさら具しているか具していないかを考えて心をつかれさせるべきではないというのである。すなわちこれは上に、余他の願、余他の行をきらい捨てるために、行のみでも、願のみでも至る所がない(果が得られない)と論じてきた。上来のかさねがさねの問答は、行者のはからいによる願と行の具と不具、相続の有無を取捨するものであるようにみえた。それゆえ今は願の真実のありさまをあらわしてしめくくり、行者の安心のありようを定めたのである。それは、南無阿弥陀仏と称念する外に、帰命も(外部から)入れてはならない、発願も入れてはならない、廻向も入れてはならない。ただ仏智(南無阿弥陀仏)を領解する一心にみな具足しているということを知るべきであるというのである。
- [講述]
「一、従今此観経下至必得往生已來ハ、願行本ヨリ具足セリ、具不具ヲ努クスヘカラスト也」とは第四間答のなかの六字釈についての幸西独白の見解をのべたものである。「玄義分」の文は次の如くである。
今此の観経の中の十声の称仏は、即ち十願・十行有りて具足す。云何が具足する。南無と言ふは即ち是帰命なり、亦是発願廻向の義なり。阿弥陀仏と言ふは即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得。(三六六頁)
幸西はこの六字釈によって「願行本ヨリ具足セリ」という。「本ヨリ」とは本来ということで、行者のはからいを超えていることをあらわすから、南無阿弥陀仏に本来願行を具足しているのであって、行者のはからいによって具足するものではないというのである。それゆえ「具不具ヲ努クスヘカラス」というのである。念仏して願行を具足していくのではなく、念仏していることは本来六字の名号に具足している願行を領受しているありさまに外ならないというのである。
上来の問答において願のみでも行のみでも往生は出来ないといって願行具足すべきことを論じて来た。それはまるで行者のはからいによって具したり具さなかったり、あるいは行者の努力の有無によって相続したりしなかったりするかのような明し方であった。そこでここに来って第四間答の「願の意云何ぞ」という問いに答えて願の真実のすがたをあらわして行者の信心のありようを確定して問答を結ぶのがこの六字釈である。すなわち「南無阿彌陀佛ト念スル外二歸命モ入ルヘカラス、發願モ入ルヘカラス、廻向モ入ルヘカラス、唯佛智ヲ了スル一心二皆具足スト也」と知らせようとして六字釈が施されたというのである。
この「南無阿彌陀佛ト念スル」とは、「十声の称仏」のことであるから、南無阿弥陀仏と称えることである。しかしあえて「念スル」といって「称スル」といわないのは、それがそのまま「佛智ヲ了スル一心」すなわち信心でもあることをしらせようとしたものではなかろうか。ともあれ「南無阿弥陀仏」と仏智を領受して称えるところに、帰命も、発願も、廻向も具足しているのであるから、行者の方から別して帰命したり、発願したり、廻向したりしてつけ加える必要はないというのである。それを幸西は、すべて「佛智ヲ了スル一心二皆具足」しているからであるといわれる。仏智とは弘願であり、南無阿弥陀仏の異名であることはしばしば述べたところである。仏智を了するとは本願を信受することであり、南無阿弥陀仏を領受する信心のことであるから一心」というのである。
なおここには行について特別の釈は施されていないが、南無阿弥陀仏が往生行として選択された行体であることは法然門下の人々にとっては自明のことがらであったからである。また上来しばしば乃至一念を行とするということがいわれていたが、幸西は一念が往生行であるのは、称えて行にするというよりも、行である名号を称えてあらわすというような意味さえもたせていたといえよう。
こうして幸西は、南無阿弥陀仏とは、本来衆生往生のための願行を具足していて、往生の真因たるべく成就されている法であるとみられていたことがわかる。いいかえれば阿弥陀仏だけが名号なのではなくて、南無までも名号であり、衆生の帰命と発願廻向を法としてすでに成就されていることをそこにあらわしているとみられていたことがわかる。釈名門に「無量壽ト云ハ念佛、彼ノ佛ノ名ヲ念ス、故二南無阿彌陀佛ト釋シ御セリ」といい、その所念の法をさして「當知南無阿彌陀佛トイハ決定成佛之因也ト云事ヲ」といわれていたが、六字名号が決定成仏の因であることを、今は願行具足の法として釈顕されたのである。この願行具足の名号を選択した願心が大乗広智とよばれる仏智であり、その願心を表明したのが弘願であり、その願心を領解し仏智と相応しているのが信心(一心)であった。その信心は一声の称名にあらわれている南無阿弥陀仏が願行具足した往生の生因であると了知する心であるから、「信をば一念に生るととる」といわれるというのが幸西の一念の義であった。