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法然教学の研究 /第二篇/第一章 法然聖人における回心の構造/第七節 三学無分の自覚

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聖光房弁長『徹選択集』上(浄全七・九五頁)抜粋 浄土宗全書より

小僧某甲 自上人御手 未傳此選擇以前 上人向予具以告言。

小僧(しょうそう)、某甲[1]、上人の御手より未だこの選擇[2]を傳えざる以前、上人予に向かいて(つぶさ)に以て告げて言く。

世人皆有因縁發道心也。所謂別父母兄弟離妻子朋友等也。

世人、みな因縁ありて道心[3]を發すなり。所謂(いわゆる)、父母兄弟に別れ妻子朋友に離るる等也。

然源空 無指因縁 法爾法然發道心故 師匠授名而號法然。

しかるに源空は、指せる因縁なく、法爾法然に道心を發す故に師匠名を授けて法然と號す。

出離之志至深之間 信諸敎法修諸行業。

出離の志、至りて深きの間、諸々の敎法を信じて諸々の行業を修す。

凡佛敎雖多 所詮不過戒定慧之三學。

おおよそ佛敎多しといえども所詮は戒定慧の三學に過ぎず。

所謂小乘之戒定慧・大乘之戒定慧・顯敎之戒定慧・密敎之戒定慧也。

いわゆる小乘の戒定慧、大乘の戒定慧、顯敎の戒定慧、密敎の戒定慧なり。

然我此身於戒行不持一戒 於禪定一不得之 於智慧不得斷惑證果之正智。

しかるに我がこの身には戒行において一戒をもたもたず。禪定において一つもこれを得ず、智慧において斷惑證果の正智を得ず。

然戒行之人師釋云 尸羅不淸淨三昧不現前。

しかれば戒行の人師、釋して云く、尸羅[4]淸淨ならずんば三昧現前せずと、云云。

又凡夫心 隨物易移 譬如猿猴 實以散亂易動 一心難靜 無漏之正智何因得發。

また凡夫の心は、物に隨いて移り易し、たとえば猿猴のごとし、まことにもって散亂動じやすく一心靜まり難し、無漏の正智、何に因ってか發すことを得ん。

若夫無無漏之智劒者 如何方斷惡業煩惱繩乎

もしそれ無漏の智劒なくんば、いかんがまさに惡業煩惱の繩を斷ぜんや。

不斷惡業煩惱繩者 何得解脱生死繫縛之身乎。

惡業煩惱の繩を斷ぜざれば、何ぞ生死繫縛の身を解脱することを得んや。

悲哉悲哉爲何爲何。爰如予者 已非戒定慧三學之器 此三學外有相應我心之法門耶。有堪能此身之修行耶。

悲きかな悲しきかな、いかがせん、いかにせん。ここに予がごとき者、すでに戒定慧三學の(うつわ)に非ず、この三學の外に我が心に相應する法門ありや、よくこの身に堪えるの修行ありや。

求萬人之智者 訪一切之學者 無敎之人無 示之倫。

萬人の智者に求め一切の學者を訪へども、これを敎ゆる人無くこれを示す(とも)がら無し。

然間 歎歎入經藏 悲悲向聖敎 手自披之見之。

しかる間、歎き歎き經藏に入り、悲しみ悲しみ聖敎に向かいて、手ずからこれを(ひら)きてこれを見る。

善導和尚觀經疏云一心專念彌陀名號・行住坐臥・不問時節久近・念念不捨者・是名正定之業・順彼佛願故文 見得之後。

善導和尚の觀經の疏に、「一心專念彌陀名號 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼佛願故」[5] といえる文を見得ての後、

如我等無智之身 偏仰此文 專憑此理。

我等ごときの無智の身はひとえにこの文を仰ぎ、もっぱらこの理を(たの)み、

修念念不捨之稱名 備決定往生之業因 非啻信善導之遺敎亦厚順彌陀之弘願 順彼佛願故之文染神留心耳

念念不捨の稱名を修して決定往生の業因に(そな)ふれば、ただ善導の遺敎を信ずるのみに非ず、また厚く彌陀の弘願に順ず、順彼佛願故の文、たましいに染み心に留むるのみ。


其後又披慧心先德往生要集文 云往生之業念佛爲本。

その後、また慧心の先德の『往生要集』の文を披くに、往生の業には念佛を本となすと云へり。

又見慧心妙行業記之文 云往生之業念佛爲先。

また、慧心の『妙行業記』の文を見るに、往生の業には念佛を先となすと云へり。



  1. 某甲(むこう)。聖光自身をいう。それがしという意。
  2. 法然聖人の主著である『選択本願念仏集』のこと。
  3. 道とは悟りの意で悟りを求める心で菩提心のこと。ここでは仏道を修して仏果を求めようとする心の意。
  4. 尸羅(しら)、梵語 Śīlaの音写、戒のこと。清浄に戒律をまもらなければ、生死を超える真理を見る智慧の眼は開けないという意。
  5. 「一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。」