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浄土という関係性

提供: 本願力

浄土という問題系 
原テキストは、魂の遊歩道より

末木 文美士 すえき・ふみひこ 2014年1月25日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
死者とともにある文化へ
大きな世界への広がり [上]

 昨年7月、『浄土思想論』(春秋社)を上梓じょうしした。一般向けの講演集とはいえ、特殊なテーマの地味な本であるが、予想外に大きな反響があり、新聞などにも取り上げていただき、それをめぐっての講演を求められたりした。
 死後の浄土の問題など、数年前であれば見向きもされなかったテーマである。僕は十数年前から、死者という問題を取り上げ、さまざまな形で論じてきたが、はじめの頃は、そんな話題を出しただけで、その場の雰囲気が冷たくなり、いやな顔をされるばかりであった。それが、「千の風になって」の歌や、映画『おくりびと』の流行で、少し雰囲気が変わってきた。社会の急速な高齢化により、否応なく死の問題と向き合わなければならなくなったのである。
 決定的に大きく変わったのは、やはり2011年の東日本大震災以後である。震災関連死や行方不明者を含むと、その死者の数は2万人にも及ぶという。大量の不慮の死者の遺体の捜索、身元確認、埋葬から始まって、これまで経験のない死者との関わりが、否応なく対処しなければならない現実問題となったのである。死者の供養など、従来公共の場に持ち出されることのなかった問題が、社会全体の問題として問われることになった。
 それだけではない。生き残った者の苦しみにしても、かつては精神医学で解決できると思われていた問題が、今ではその枠では収まりきらないことが明白になり、宗教者の出番が多くなった。震災時の首都圏の混乱は、今度首都圏を巨大地震が襲ったらという不安に人々を陥れ、それは時代の通奏低音のように響き続けている。

 アベノミクスで威勢のよい掛け声はあるものの、日本社会が再びかつての高度成長期やバブル期のようにはならないことは、誰の目にも明らかだ。右肩上がりの成長ではなく、逆に下り坂の中でどのような生を築き、社会を作っていったらよいのかが、これからの課題である。それは、日本だけではない。世界全体が直面している問題である。
 化石エネルギーが大気を汚染し、温暖化を招くとともに、やがて枯渇することが予想される中で、クリーンで、無尽蔵に近く、リサイクルも可能といううたい文句で切り札として出てきたのが原子力であった。原子力に夢を託した人たちを非難できない。僕自身だって、危ぶみながらも、もしかしたらこれでよいのかもしれないという思いがないわけではなかった。だから、福島の事故は、単に事故を起こしたから原発反対で済む問題ではなく、もっと根本的に僕たちの生のあり方そのものが問われ、その転換が求められているのだ。
 それなのに、またぞろ原発再開を言い、オリンピック招致に浮かれて、リニア新幹線などというとんでもない計画に、はかない夢を託そうとしている。それは、現実に直面することを恐れ、薬物中毒やギャンブル依存症のように、過去の栄光にしがみついているだけではないのか。

 経済的頂点を過ぎた文化は、だからといって決してつまらない、投げやりなものになるわけではない。個人の老年期が、ただ死を待つだけの意味のないものではなく、むしろそこにこそ人生の凝縮した円熟が開かれるように、文化もまた、単に経済的価値を追い求めるだけでなくなったときに、初めて本当に豊かな円熟が始まるのではないか。
 そう考えるとき、今日の死や死者への関心は、わずかではあるが、今後への希望を持たせてくれる。哲学者の田辺元は、1954年のビキニ環礁水爆実験を受けて、いち早く、これからの時代は生の哲学ではなく、死の哲学こそ必要だと主張した。あまりに時代に先んじたその説は、長い間ほとんど顧みられることがなかったが、ようやく今日、現実味を帯びて呼び起こされるようになってきた。死や死者とともにある文化は、決して暗い文化ではない。物質だけにとらわれていた世界から、目に見えないものたちを含めたもっと大きな世界へと広がっていくことができるのだから。
死後と死者を考える
抽象論より事実の重み [中]

 かつて浄土が死者を受け入れる場であったが、今では多くの日本人が死んだら天国に往いくと言う。そこには死生観の大きな断絶があると思われるが、いつ、どうしてそのような転換が起こったのだろうか。そんな問題に関心を持つ研究者や知識人はほとんどいない。死を論ずる人はいても、死後や死者の問題は公的な場ではタブーとなってきた。そんなことを語るのは無知で迷信的な庶民であり、近代的な欧米の学問を身につけた知識人にとっては恥ずかしいこととされた。
 いつの頃からか、「永眠」というきわめて冷たい言葉で死者を突き放すのが、当たり前になった。死者はただ眠っていればいい、というのである。広島の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という有名な言葉が刻まれている。その決意は深いものの、やはりそれでいいのだろうかと思わないわけにはいかない。実際、それ以後も随分と「過ち」を繰り返してきているのだから、死者はとても「安らかに眠って」はいられないであろう。

 もっとも、近代が死後や死者の問題を追放したのは、理由がないわけではない。近代の合理的、科学的な思考では、死後のことなど解明できない。科学的に実証できないことは、ないものとして論じないのが、近代の流儀だ。哲学者のカントは、死後の霊魂が存在するか否かは、純粋理性では決定できないことを明らかにした。こうして、死後や死者の問題は、哲学的な議論から見捨てられた。
 このような動向に、仏教界も敏感に反応した。著名な仏教学者が、「本来、仏教は死者のためのものではなく、この生をよりよく生きるための知恵だ」などと説き、それが正しいかのように世間に流布した。そこから、僧侶たちまでもが、「葬式仏教は、日本の民俗に妥協した方便であり、仏教の正しいあり方ではない」などと言うようになった。「葬式は死者のためにするのではなく、それを機会に関係者が集まり、信仰を深める場だ」と公言してはばからない僧侶もいる。そんな僧侶に葬式をされるのでは、死者はあまりに気の毒だ。
 実際には、仏教はもっとも古い段階から死者と関わりを持ち、その伝統が長く受け継がれ、仏教の展開の基盤をなしてきた。阿弥陀仏の極楽浄土を説く浄土教は、そのような死者の仏教を代表するものだ。近世末に神道が自立した宗教として確立しようと志したとき、最大の問題は葬式儀礼の欠如ということであった。そこで、仏教をまねて、神葬祭という神道式の葬式を作り出した。このように、葬式は宗教の中核をなす儀礼である。
 講演でこんな話をすると、「それではあなたは死後の霊魂の存在を認めるのか」と、しばしば質問される。「仏教は無我を説くのだから、死後の存続を認めるのはおかしい」という説を展開する人もいる。だが、これは明らかに無我説の誤解である。確かに無我説では霊魂という実体的な存在を否定する。キリスト教などでは、霊魂は永遠に個体性を保って存在すると説くが、仏教はそれを認めない。しかし、だからと言って、死後何もなくなってしまうと考えるのは、逆の極論であり、断見(否定的なニヒリズム)として、仏教では否定する。

 それでは、どう考えたらよいのであろうか。仏教ではそれに関する哲学的な議論が展開してきたが、そのような議論以前にまず、僕たちは実際に死者と関係しないわけにはいかないという事実から出発すべきだ。バブル期には、「死んだらゴミ」などと勇ましく言う人もいたが、身内の愛しい人が亡くなった時、その遺骸がゴミで、廃棄してしまえば終わり、などと本当に思っている人がいるだろうか。死者はこの世界からはいなくなっても、死者との関係はそれで終わるわけではない。死者はある時には生者を責め、ある時には力づけてくれる。それは事実であり、その事実を認めることから出発すべきである。それを、「霊魂が存在するか否か」というような抽象的な議論に話をもっていってしまうから、おかしくなってしまうのだ。
 このことを、僕は「関係は存在に先立つ」と定式化している。西洋の哲学では、「存在するか否か」という存在論が優先される。しかし、そのような抽象論ではなく、実際に死者と関係しているという事実の重みこそ重要なのだ。
死者と生者の協同
現世浄める原動力に [下]

 死者との関係を重視しなければならないという僕の説は、それでは現世における倫理的な行為を軽視することにならないかという批判を招いた。檀家だんか制度の崩壊で、次第に葬式仏教が成り立たなくなってきた中で、社会参加仏教と呼ばれる形態が注目を集めるようになった。東日本大震災の際も、宗教者のボランティア活動が高く評価されている。
 しかし、そのような活動が現世の枠内だけのことであれば、宗教者でなくてもよいことになる。葬儀や供養をはじめとして、死者との関わりは宗教者でなければ扱えない。それにまた、決して現世の問題を軽視することにならない。
 哲学者の田辺元は、晩年「死の哲学」を説いたが、それは具体的には死者とどう関わるかという問題であった。その例として、田辺は禅の古典である『碧巌録へきがんろく』の第五十五則をしばしば引いている。これは、師匠の道吾どうごと弟子の漸源ぜんげんの話である。漸源は生死の問題に悩み、道吾から教えを受けたが、それを理解できなかった。道吾の死後、修行を重ねてようやく覚りを得たが、その時になってはじめて、師匠が死後もずっと自分を指導し続けてきたと気づいた、というのである。

 田辺はここに、死者と生者の「実存協同」が成り立っているという。死後にまで続く死者の生者に対する愛が、生者の死者に対する愛を媒介として働きかけ、そこに相互的な愛が同時に働き、死復活が実現するというのである。それは、死者と生者が取り結ぶ関係によって実現するのであり、まさしく、「関係は存在に先立つ」ことを証する。
 そのような死復活は、キリスト教であれば、イエス・キリストという神=人においてのみ可能であるが、、仏教の場合は異なっている。菩薩とは、まさしく生死を超えて人々のみならず、あらゆるものたちを救おうというのであり、死後もその働きをやめることがない。晩年、キリスト教徒仏教の間を揺れ動いた田辺が、最終的に仏教の立場を取ったのは、このように誰でもが菩薩として死後も活動を続けうるという思想に魅力を感じたからであった。このような田辺の哲学は、今日でも十分に通用するものであり、というよりも、今日こそその思想を深めていくことが必要となっている。
 こう見れば、死者との関係を深めることは、生者の世界を離れることではなく、むしろ死者とともにこの世界をよくしていこうという菩薩の活動であることが知られる。歴史家の上原専禄は、死者こそが生者の不生を裁く権利を持っているという。医療過誤で妻を亡くした上原は、亡き妻との共闘により、その不正を暴いていく。さらに戦争の犠牲者たちを含めて、死者たちと力を合わせて、この世界を作り替えていこうというのである。それは、死者を眠らせてしまうのとは、正反対の思想である。死者の責めを負い、死者とともに闘うことで、はじめて本当の意味での社会参加が成り立つのである。

 このように考えるとき、死者の行き場としての浄土はどうなるのであろうか。今日、誰でも浄土で蓮の花の上に坐って、歌舞音曲を楽しむことを、来世の希望などとはしないであろう。その点で注目されるのは、親鸞の浄土観である。親鸞によれば、浄土とは悟りそのものに他ならない。そこへ向かうのを往相廻向おうそうえこうという。廻向というのは、仏の力によって人は浄土へ往くことができる。しかし、悟りの世界で安穏としているわけではない。死者はそこからこの世界に戻って、人々を救わなければならない。これもまた、仏の力と一体化することではじめて実現する。それを還相廻向げんそうえこうと呼ぶ。
 それならば、死んで浄土に行かなければ還相廻向は始まらないのであろうか。近代の真宗教学はそう考え、生者はひたすら阿弥陀仏の他力にすがるだけだと説き、社会的活動を否定した。しかし、他力を受けることは、死者の還相廻向の力を受けることであり、それによって生者の社会活動も成り立つと考えられる。「浄土」は、「土(世界)を浄きよめる」という積極的な意味を持つ。生者も死者も一体となり、仏の力を受けながら、菩薩としてこの世界を浄める働きに参加すること、それが本当の浄土ではないだろうか。

すえき ふみひこ すえき・ふみひこ 1949年、山梨県生まれ。東京大大学院人文科学研究科博士課程単位取得。国際日本文化研究センター教授、東京大名誉教授。専門は仏教学・日本思想史。著書は『日本宗教史』(岩波新書)『哲学の現場 日本で考えるということ』(トランスビュー)など多数。

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