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今昔物語集 巻第十九 第十四

提供: 本願力

今昔物語集 巻第十九 第十四

讃岐國多度郡五位、聞法(ほふをききて)即ち出家せる語 第十四

今は昔、讃岐(さぬきの)多度(たど)の郡、※※の(さと)に、名は不知(しら)ず、源大夫(ぐヱんだいふ)と云ふ者(あり)けり、心(きはめ)て猛くして、※生(せつしやう)(もて) 業とす。日夜朝暮(にちやてうぼ)に、山野(せんや)(ゆき)鹿鳥(しかとり)を狩り、河海(かかい)(のぞみ)て魚を捕る。亦、人の頚を切り足手を不折(をら)ぬ日は少くぞ(あり)ける。亦因果を不知(しらず)して、三寶を不信(しんぜ)ず。何况や(いかにいはむ)法師と云はむ者をば(ことさら)(にくみ)て當りにも不寄(よせざり)けり。如此(かくのごと)くして(あしく)奇異(あさまし)悪人(あくにん)にて(あり)ければ、國の人に皆(おそれ)てぞ(あり)ける。

(しか)る間、此の人、郎等(らうどう)四五人(ばかり)()ひ具して鹿(ども)多く(とら)せて、山より返る道に、堂の(あり)ける、人多く集りたるを見、「()は何事()る所ぞ」と(とひ)ければ、郎等(らうどう)、「此れは堂也。講を(おこなふ)にこそ(はべる)めれ。講を行ふと(いふ)は佛経を養供(やうく)する事也。(あはれ)に貴く侍る事也」と云ひければ、五位、「()()ざ為する者(あり)とは(ほのか)時※(きき)けれども、()目近(まぢか)くは不見()ざりつ。『(いか)なる事を云ふぞ』と去来(いざ)(ゆき)て聞かむ。暫く(とどま)れ」と(いひ)て、馬より(おり)ぬ。然れば郎等共(らうどうども)も皆(おり)て、「()(いか)なる事せむずるにか有らむ。講師(かうじ)なむ(れう)ぜむずるにや。不便(ふびん)(わざ)かな」と思ふ程に、五位只(あゆ)びし(あゆ)(より)て、堂に入るを、(この)講の(には)に有る者()も、(かか)悪人(あくにん)入来(いりきた)れば、「(いか)なる事せむずるにか(あら)む」と(おもひ)()ぢ騒ぐ、(おぢ)(いで)ぬる者も有り。五位並居(なみヰ)たる人を押分(おしわけ)て入れば、風に靡く草の(やう)(なびき)たる中を分け(ゆき)て、高座(かうざ)の傍に()講師(かうじ)に目を見合(みあはせ)(いは)く、「講師(かうじ)(いか)なる事を云ひ()たるぞ。我が心に()にと(おぼ)(ばかり)の事を云ひ(きか)せよ。不然(さら)ずは便(びん)无かりなむ者ぞ」と(いひ)て、前に(さし)たる刀を押迴(おしめぐら)して()たり。

 講師(かうじ)(きはめ)不祥(ふしやう)にも(あひ)ぬるかな」と(おそろし)くて、云ひつる事の始終(しじゆう)不思(おぼえ)で、(ひき)被落(おとさ)れぬと(おもひ)けるに、智恵(あり)ける者にて、「(ほと)け助け給へ」と念じて、荅へて(いは)く、「(ここ)より西に(おほく)の世界を(すぎ)(ほと)(まし)ます、阿弥陀佛と申す。其の佛、心廣くして、年来(としごろ)罪を造り(つみ)たる人なれども思ひ返して一度『阿弥陀佛』と申しつれば、必ず其の人を(むかへ)て、(たのし)微妙(めでた)き國に、思ひと思ふ事叶ふ身と生れて、遂には佛となむ成る」と。五位、此を(きき)(いは)く、「其の佛は人を哀び(たまふ)にては、我をも(にく)不給(たまは)じなむ」。講師(かうじ)(いは)く、「(さら)也」と。五位の(いは)く、「然らば我れ其の佛の名を呼び奉らむに荅へ給ひてむや」と。講師(かうじ)(いは)く、「其れも(まこと)の心を(いたし)て呼び奉らば、()どか荅へ不給(たまは)ざらむ」と。五位の(いはく)「其の佛は(いか)なる人を(よし)とは(のたま)ふぞ」と。講師(かうじ)(いは)く、「人の、他人よりは子を哀れと思ふ如くに、佛も(たれ)をも(にく)しと不思(おぼ)さねども、()弟子に(なり)たるをば今少し思ひ給ふ也」と。
五位の(いは)く、「(いか)なるを弟子とは云ふぞ」と。講師(かうじ)(いは)く、「今日の講師(かうじ)(やう)(かしら)(そり)たる者は、皆佛の御弟子也。男も女も御弟子なれども、(なほ)(かしら)を剃れば増る事也」と。

五位、此を聞て「(さら)ば我が此の(かしら)剃れ」と云ふ。講師「哀れに貴き事には有れども、只今俄に(いか)でか其の御頭をば剃らむ。(まこと)(おぼ)す事ならば、家に(かへり)、妻子眷属(くヱんぞく)などに云ひ合せて、(よろづ)(したため)て剃り(たまふ)べき」と。五位の(いは)く、「汝ぢ『佛の御弟子』と名乗(なのり)て、『佛は虚言(そらこと)无き』と(いひ)て、『御弟子に(なり)たる人をば(あはれ)(おぼ)す』と(いひ)て、(いか)に忽に舌を(かへし)て『(のち)に剃れ』とは云うぞ。(いと)(あたら)ぬ事也」と(いひ)て、刀を(ぬき)(みづか)(もとどり)根際(ねぎは)より(きり)つ。

(かか)る悪人の、俄に()(もとどり)(きり)つれば、(いか)なる事出来(いでき)ぬらむとて、講師も(あわて)て物も不云(いは)ず、其の(には)()たる者(ども)(ののし)(あひ)たり。亦、郎等共(らうどうども)此れを(きき)て、「我が君は(いか)なる事の(おは)するぞ」とて、大刀(たち)を抜き箭を(つがひ)て、走り入来(いりき)たり。(あるじ)、此れを見て大きに(こヱ)(あげ)郎等共(らうどうども)を静めて(いは)く、「汝等我が吉き身と成らむと()るをば、(いか)(おもひ)て妨げむとは()るぞ。今朝までは汝等が有る上にも『(なほ)人をもがな』と思ひつれども、此より(のち)は速に、(おのおの)行かむと思はむ(かた)に行き、被仕(つかはれ)むと思はむ人に被仕(つかはれ)て、一人も我れには不可副(そふべから)ず」と。郎等等共(らうどうども)(いは)く、「(いか)に、(かか)(わざ)をば俄に(せし)め給へるぞ。(うるはし)き心にては(かか)る事不有(あえあ)じ、物の()き給ひにけるをこそ(あり)けれ」と(いひ)て、皆()(まろ)び泣く事无限(かぎりな)し。 (あるじ)此れを、(とど)めて、髻を(もとどり)(きり)ては佛に(たてまつり)て、忽に湯を(わか)して紐を(とき)押去(おしのけ)て、(みづか)(かしら)(あらひ)て、講師(かうじ)(むかひ)て、「此れ剃れ。不剃(そら)ずは(あし)かりなむ」と云へば、「(まこと)此許(かくばかり)思ひ(とり)たらむ事を、不剃(そら)ずは(あし)くも(あり)なむ。亦出家を妨げば、其の罪(あり)なむ」。(かたかた)に恐れ(おもひ)て、講師、高座(かうざ)より(おり)て、(かしら)(そり)て戒を授けつ。朗等共(らうどうども)、涙を流して悲む事无限(かぎりな)し。

 其の(のち)、入道、着たりける水干袴(すいかんのはかま)布衣(ほい)袈裟(けさ)など(かへ)つ、()たる弓・胡録(やなぐひ)[1]などに金鼓(こんぐ)を替へて、衣・袈裟(けさ) (うるはし)く着て、金鼓(こんぐ)を頚に(かけ)(いは)く、「我れは(ここ)より西に(むかひ)て阿弥陀佛を(よば)ひ奉て金を(たたき)て、荅へ給はむ所まで行かむとす。荅へ不給(たまは)ざらむ(かぎり)は、野山にまれ海河にまれ、更に不返(かへる)まじ。只(むき)たらむ(かた)可行(ゆくべ)き也」と(いひ)て、(こヱ)を高く(あげ)て、「阿弥陀佛よや、をいをい」と叩ひ(ある)くを、郎等(らうどう)共に行かむと()れば、「己等(おのれら)は我が道妨げむと()るにこそ(あり)けれ」と(いひ)て打たむと()れば、皆(とどま)りぬ。

 ()く西に(むかひ)て阿弥陀佛を(よば)ひ奉て(たたき)つヽ行くに、(まこと)(いひ)つる(やう)に、深き(かは)とても浅き所を不求(もとめ)ず、高き峯とても(めぐり)たる道を不尋(たづね)ずして、倒れ(まろ)ひて(むき)たるまに行くに、日暮れて寺の有るに行き(つき)ぬ。(その)寺に有る住持(ぢうぢ)の僧に(むかひ)(いは)く、「我れ、此の思ひを(おこ)して西に(むかひ)て行くに、喬平(そばひら)[2]不見()ず。(いはむ)(うしろ)不見返(みかへらず)して、此より西に高き峯を(こえ)行かむとす。今七日(なぬか) (あり)て我が有らむ所を(かならず) (たづね)て来れ。 草を(むすび)つ、ぞ行かむと()、其れを見て(しるし)として可来(きたるべ)し。(もし) 可食(くらふべ)き物や有る、夢計(ゆめばかり) 令得(えしめ)よ」と(いひ)ければ、干飯(ほしいひ)取出(とりいで)て与へたれば、「(おほ)か」と(いひ)て、只少しを紙に(つつみ)(こし)(はさみ)て、其の堂を出でヽ(ゆき)ぬ。住持(ぢうぢ)、「既に夜に(いり)ぬ。今夜許(こよひばかり)(とど)まれ」と(いひ)(とど)むと云へども、不聞入(ききいれ)ずして(ゆき)ぬ。

 其の(のち)住持(ぢうぢ)()の教の如く七日(なぬか)(いふ)(たづね)て行くに、(まこと)に草を結びたる、其を(たづね)て高き峯を(こえ)て見るに、()(そこ)よりも高く(さがし)き峯有り。其の峯に(のぼり)て見れば、西に海(あらは)に見ゆる所有り。其の所に二胯(ふたまた)なる木有り。其の(また)に入道登り()て、金を(たたき)て、「阿弥陀佛よや、をいをい」と叩ひ()たり。住持(ぢうぢ)を見て(よろこび)(いは)く、「我れ(なほ)(ここ)より西にも(ゆき)て、海にも(いり)なむと思ひしかども、(ここ)にて阿弥陀佛の荅へ給へば、其れを(よば)ひ奉り()たる也」と。住持(ぢうぢ)、此れを(きき)奇異(あさま)しと思ひて、「(いか)に荅へ(たまふ)ぞ」と問へば、「(さら)(よば)ひ奉らむ。聞け」と(いひ)て、「阿弥陀佛よや、をいをい。(いど)こに(おはし)ます」と(よば)へば、海の中に微妙(みめう)の御(こヱ) (あり)て、「(ここ)(あり)」と荅へ給ひければ、入道、「此れは(きく)や」と云ふに、住持(ぢうぢ)、此の御(こヱ)(きき)て、悲しく貴くて、臥し(まろ)び泣く事无限(かぎりな)し。入道も涙を流して(いは)く、「汝ぢ速に可返(かへるべ)し、今七日(なぬか) (あり)(きたり)て、我が有雷を見(つけ)ぬ」。「物や(ほし)きと(おもひ)て、干飯(ほしいひ)(とり)()たり」きと云へば、「更に物(ほし)き事无くして、未だ有り」と。住持(ぢうぢ)見れば、(まこと)(あり)し如くにて(こし)(はさ)て有り。()くて(のち)の世の事を契り(おき)て、住持(ぢうぢ)(かへり)ぬ。

 其後(そののち)七日有(なぬかなぬなかあり)(ゆき)て見れば、(さき)の如く木の(また)に西に(むかひ)て、此の度は(しに)()たり。見れば、口より微妙(めでた)鮮な(あざやか)蓮花(れんぐヱ)(えふ) (おひ)たり。住持(ぢうぢ)、此れを見て、泣き悲び貴びて、口に(おひ)たる蓮花(れんぐえ)をば折り(とり)つ。「(ひき)もや隠さまし」と思ひけれども、(かか)る人をば只()くて(おき)て、「『鳥獣にも被※(くはれ)む』と思ひけむ」と(おもひ)て、不動(はたら)かさずして泣々(なくな)(かへり)にけり。其の(のち) (いか)にか(なり)にけむ、不知(しら)ざりけり、必ず極楽に往生(わうじやう)したる人にこそ(ある)めれ。

 住持(ぢうぢ)(まさし)く阿弥陀佛の御(こヱ)を聞き奉り、口より生出(おひいで)たる蓮花(れんぐヱ)(とり)てけるは、定めて罪人には非ずと(おぼ)ゆ。其の蓮花(れんぐヱ)(いか)にか(なり)にけむ、不知(しら)ず。

 此の事(いと)昔の事には非ず※※の(ころほひ)の事なるべし。世の末なるとも、(まこと)の心を(おこ)せば()く貴き事も有る(なり)けりとなむ語り傳へたるとや。



  1. やなぐひ。矢を入れて携行する道具。右腰につける。
  2. そばひら。側面。かたわら。周囲。