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拾遺古徳伝絵詞

提供: 本願力

『拾遺古徳伝絵詞』巻四

  第五段

摂津の国幣島に年来すみはんべる一人のおとこあり、世のひとなづけて耳四郎とぞいひける、天性もとよりかたましくして、またするわざもなく、ただ梟悪をのみこととして世をわたるなかだちとす。
あるとき聖人白河の房(姉小路白河にあり二階房と号す信空上人の宿房なり)にてよもすがら法談あり、くだんの耳四郎みやこにのぼりてところどころためらひありくに、便宜よかりければかの貴房にいたりぬ。縁のしたにはひかくれて、ひとのしづまるほどをまちけるほどに、聖人の御房いつものことなれば、凡夫出離の要道、浄土の一門、念仏の一行にしくはなし、その機をいへば十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪人、その行を論ずれば十声・一声いかなる嬰児もとなへつべし。
その信をいへばまた一念十念いかなる愚者もおこしつべし。もとより十方衆生のためなれば、いづれの機かもれ、たれのともがらかすてられん。十方衆生のなかには有智・無智、有罪・無罪、凡夫・聖人、持戒・破戒、若男・若女、老少、善悪のひと、乃至三宝滅尽のときの機までみなこもれり。ただこの本願にあひ南無阿弥陀仏といへる名号をききえてんもの、若不生者のちかひのゆへに弥陀如来遍照の光明をもてこれを摂取してすてたまはず、罪おもく、障ふかく、心くらく、解すくなからんにつきても、いよいよ仏の本願をあふぐべし。
そのゆへは弥陀の本誓はもと凡夫のためにして、聖人のためにあらずといへる文によりてなり、あふぐべし、信ずべしなんど、さまざま易往易行の道理、佗力引接の文証みみぢかにこころえやすくのたまふに、耳四郎さらにいづれのわざもわすられて、みみをそばだてて聴聞す。
こころにおもふやう、これほどにわがため、みみよりにたふたきことはんべらず、かかるところにおもひよりけるも、しかるべくて後生たすかるべきにて仏の御をしへにもはんべらん、ただいまはひいでて、かつはおもひきざしつる意趣をも懺じ、かつはなをもよくたふときことをもとひたてまつらんとおもひつつ夜もあけにければ、やをらむなしくはひいで庭上に蹲居す。
御弟子達あやしみて縡のよしをとふ、耳四郎しかじかとありのままにまうしければ、聖人いであひたまひて、宿縁もともありがたしとて、罪悪重障の凡夫の出離、ことに弥陀難思の願力によらずんばかなひがたしとて、手をとりて慇懃にとききかせたまふ。耳四郎いよいよよろこびをなして退出す。
そののちふたごころなく念仏す。されども生得の報なれば、ひごろのわざすつることもなし、ただたのむところは、かかる悪業はげしき身なりとも念仏せば弥陀如来の大慈大悲の因位の誓約をたがへずむかへたまふぞとききし聖人の御ことばばかりなり。かくて年月をふる。
あるときかたへの男耳四郎が悪事に長じたるをやそねみおもひけん、なをちかくむつびける朋達をかたらひえて、耳四郎を害せんとたくむ。酒をくみ盃をめぐらしてしひければ、耳四郎沈酔して、物をひきかつぎ先後をわきまへず臥にけり。そのとき敵かたなをぬきつつうへにかづきたるものをひきのけてみるに、耳四郎にはあらで、またく金色の仏体なり、しかのみならず出入のいきのこゑすなはち南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ときこゆ。ここに敵奇異のおもひに住して、まづ剣をおさめてつらつらこれを案ずるに、年来のあひだ行住坐臥・時処諸縁をきらはず念仏しつるゆへに、この相現ずるにこそと、いみじくたふとくおぼえて隨喜のおもひをきどころなきあまり、しばしばこれをおどろかす。
耳四郎こゑにつき睡眠たちまちおどろき酩酊醒悟す。そのとき敵の男いふやう、なにをかかくしきこえん、しかじかなにがしのぬしがかたらひはんべりつれば、はかなくぞうしなひたてまつらんとはかりつるに、そのすがた金色の仏像とあらはれ、そのいきの呼吸しかしながら念仏のこゑときこえつれば、耳もあやに、目もめづらかにおぼえて、かつは謝し、かつはたふとまんがために、左右なくおどろかしつるなり。われもとより汝にむかひて遺恨なし、ただをろかにかたらひをえつるばかりなり、さらにいきどをりおもふことなしとて、慙謝のあまりやがて髻をきりてみせけり。
これをきくにいよいよ信力強盛におぼえて、耳四郎ももとどりきりてけり。二人こころざしを一にしてかたはらに庵しめつつ、しづかに念仏してつゐに素懐をとげにけり。さればかへすがへすも浄土宗の正意は機の善悪に目をかけて、仏の摂・不摂をおもんばかることなかれとなり。
この耳四郎は至極の罪人、悪趣の手本といひつべし。今時の道俗たれのともがらかこれにかはるところあらんや。をよそこの身にをいてうちに三毒をたたへ、ほかに十悪を行ず。つくるに強弱ありといへども三業みなこれ造罪なり、をかすに浅深ありといへども一切ことごとくそれ妄悪なり。しかればたれのともがらか罪悪生死の名をのがれん、いづれに類か煩悩成就の体にあらざらん。つくるもつくらざるものみな罪体なり、おもふもおもはざるもことごとく妄念なり。しかるに当世のひとみなおもはく、わがみにさほどの罪業なければ本願にはすくはれなん、わがこころにさほどの妄念なければ往生の願ははたしつべしと。
このおもひしかるべからず、そのゆへは、たとひ身心ともに起悪造罪なくとも、念仏をたのまずば極楽の生じがたし、たとひ逆謗闡提なりとも、願力に乗ぜば往生うたがひなし、罪業の有無によるべからず、本願の信・不信にあるべきなり。そもそもかの耳四郎は山賊・海賊・強盗・竊盗・放火・殺害、かくのごときの悪行をもて朝夕の能とし、妻子をたすくるささへとしけり。なかんづくに殺害にをいては、いく千万といふことをしらざりけるとかや。かかるもののそのわざをしつつも、念仏を修し本願をたのみける、ことにたふとくもはんべるものかな。