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拾遺語灯録下

提供: 本願力

底本は、ネット上の「大藏經テキストデータベース」の黒谷上人語燈録を利用し、浄土宗の「浄土宗全書」検索システムを参考にした。また適宜『真宗聖教全書』を参照し、頁Noはそれに依った。貴重な資料をネットで公開されたことに、資料に接することの困難な在家の一門徒として感謝したい。なお、読む利便を考えカタカナをひらがなに、旧字体を新字体に変換した。また、適宜改行を付した。文中に挿入されている末註は、学習用に私において付したものであり、浄土門各宗派の見解ではないことに注意されたい。
なお、いかなる場合においても、本データベースの利用、及び掲載文章等を原因とすることによって生じたトラブルについて、当サイトは一切その責を負いません。

拾遺黒谷語灯録巻下

上漢語 中・下和語

厭欣沙門了恵集録

念仏往生義 第一
東大寺十問答 第二
御消息 第三 四通
往生用心 第四

念仏往生義

念仏が往生の正定の業である義意を示し、様々な状況にあっても念仏することを懇切に勧められる。『往生要集』等にある猛利心についても一方に偏することを戒められている。続いて『観経』の至誠心。深信。回向発願心の三心について述べられる、なお、念仏によって往生することに不足することがないことをもって、積極的に悪をなすべきではないとを父母の慈悲に喩えて示しておられる。

念仏往生と申事は、弥陀の本願に、「わか名号をとなへんもの、わか国にむまれすといはば、正覚をとらじ」と誓て、すでに正覚をなり給へるかゆへに、此名号をとなふる者は、かならす往生する事を得。このちかひをふかく信じて、乃至一念もうたかはざる者は、十人は十人なからむまれ、百人は百人なからむまる。念仏を修すといへとも、うたかふ心あるものはむまれさるなり。世間の人の疑に、種種のゆへを出せり。或はわが身罪をもけれはたとひ念仏すとも往生すへからとうたかひ、或は念仏すとも、世間のいとなみひまなけれは、往生すへからすとうたかひ、或は念仏すれとも、心猛利ならされは往生すへからすとうたかふなり。これらは念仏の功能をしらずして、これらのうたかひををこせり。
罪障のをもけれはこそ、罪障を滅せんがために、念仏をはつとむれ、罪障をもけれは、念仏すとも往生すべからすとはうたかふへからす。たとへは病をもけれは、薬をもちゆるかことし、やまひ重けれはとて、くすりをもちひすは、その病いつかいへん。十悪・五逆をつくる者も、知識のをしへによりて、一念・十念するに往生すととけり。善導は、「一声称念するに、すなはち多劫のつみをのぞく」{定善義}との給へり。しかれは罪障のをもきは、念仏すとも往生すへからすとは、うたかふへからす。
又善根なけれは、この念仏を修して無上の功徳をえんとす、余の善根おほくは、たとひ念仏せずともたのむかたもあるへし。しかれは善導は、わか身をは善根薄少なりと信じて、本願をたのみ念仏せよとすすめ給へり。『経』{大経下巻}に、「一たひ名号をとなふるに、大利を得とす、又すなはち無上の功徳を得」ととけり。いかにいはんや念念相続せんをや。しかれは善根なけれはとて、念仏往生をうたかふへからす。
又念仏すれとも、心の猛利[1]ならさる事は、末世の凡夫のなれるくせ也。その心の中に、又弥陀をたのむ心のなきにしもあらす。たとへは主君の恩ををもくする心はあれとも、みやつかひする時、いささかものうき事のあるがことし。ものうしといへとも、恩をしる心のなきにはあらさるがことし。 念仏にだにも猛利ならすは、いつれの行にか猛利ならん。いつれも猛利ならされはとて、一生むなしくすぎは、そのをはりをいかん。たとひ猛利ならざるに似たれとも、これを修せんとおもふ心あるは、こころさしのしるしなるへし。このめばおのつから発心すといふ事あり。功をつみ徳をかさぬれは[2]、時時猛利の心もいでくる也。はしめよりその心なけれはとてむなしくすぎは、生涯いたつらにくれなん事、後悔さきにたつへからす。
なかんつく善導の御義には、散動の機をえらはざる也。しかれは猛利の心なけれはとて往生をうたかふへからす。又世間のいとなみひまなけれはこそ、念仏の行をは修すべけれ。そのゆへは「男女貴賤、行住坐臥をえらはす、時処諸縁を論せす、是を修するにかたしとせす。乃至臨終にも、その便宜をえたる事念仏にはしかす」{往生要集巻下本}といへり。余の行は、まことに世間怱怱[3]の中にしては修しかたし。念仏の行にかきりては在家出家をえらはす、有智・無智をいはす、称念するにたよりあり、世間の事にさへられて、念仏往生をとげざるへからす。

ただし詮ずるところ、無道心のいたすところ也。されはとて世間をすてざるものゆへ、世間にはばかりて念仏せずは、わか身にたのむところなく、心のうちにつのるところなし。うけかたき人身をうけ、あひかたき仏法にあへり。無常念念にいたり、老少きはめて不定なり。やまひきたらん事かねてしらす、生死のちかづく事たれかおほえん。もともいそくへし、はけむへし。念仏に三心を具すといへるも、これらのことはりをはいです。三心といは、一には至誠心、二には深心三には迴向発願心なり。

至誠心といは、真実の心也、往生をねかひ念仏を修せんにも、心のそこより思ひたちて行するを、至誠心といふ。心におもはざる事を外相ばかりにあらはすを、虚仮不実といふ也。心のうちに又ふたたび生死の三界に返らじとおもひ、心のうちに浄土にむまれむと思ひて念仏すれは、往生すへし。此ゆへに外にはその相も見えざるか往生する事あり、外にその相みゆれとも往生せざるもあり。ただ心につらつら有為無常のありさまをおもひしりてこの身をいとひ、念仏を修すれは、自然に至誠心をは具する也。

深心と云は、信心也。わか身は罪悪生死の凡夫也と信じ、弥陀如来は本願をもて、かならす衆生を引接し給ふと信して、うたがはす、念仏せんものむまれすは、正覚をとらじとちかひて、すでに正覚をなり給へは、称念するものはかならす往生すと信すれは、自然に深心をば具する也。

迴向発願心といふは、修するところの善根を極楽に迴向して、かしこに生せんとねがふ心也。別の義あるへからす、三心といへる名は、各別なるに似たれとも、詮するところは、たた一向専念といへる事あり、一すちに弥陀をたのみ念仏を修して、余の事をまじへさる他。
そのゆへは、寿命の長短といひ、果報の深浅といひ、みな宿業にこたへたる事をしらすして、いたづらに仏神にいのらんよりも、一すちに弥陀をたのみてふた心なけれは、不定業をは転し決定業をは、来迎し給ふへし。無益のこの世をいのらんとて大事の後世をわするる事は、さらに本意にあらす。後世のために念仏を正定の業とすれは、是をさしをきて余の行を修すべきにあらされは、一向専念なれとはすすむる也。
ただし念仏して往生するに不足なしといひて、悪業をもはばからす、行すへき慈悲をも行ぜす、念仏をもはげまさざらん事は、仏教のをきてに相違する也。たとへは父母の慈悲は、よき子をもあしき子をもはぐくめども、よき子をはよろこび、あしき子をはなげくがことし。仏は一切衆生をあはれみて、よきをもあしきをもわたし給へとも、善人をみてはよろこび、悪人を見てはかなしみ給へる也。よき地によき種をまかんがことし。かまへて善人にしてしかも念仏を修すへし、是を真実に仏教にしたかふものといふ也。詮するところ、つねに念仏して往生に心をかけて、仏の引接を期して、やまひにふし、死にをよふへからんに、おとろく心なく往生をのそむへきなり。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

東大寺十問答

源平の争乱で焼失した東大寺の復興をなす、東大寺大勧進職であった俊乗房重源の問いに答える。八問、九問の答えは即身成仏や真如観の否定であり、当時このような考えがあった事を示す。
東大寺十問答 俊乗房問

一。問。釈迦一代の聖教を、みな浄土宗におさめ候か、又三部経にかきり候か。

答。八宗九宗、みないつれをもわか宗の中に一代をおさめて、聖道・浄土の二門とはわかつ也。聖道門に大小あり権実あり、浄土門に十方あり西方あり、西方門に雑行あり正行あり、正行に助行あり正定業あり、かくして聖道はかたし、浄土はやすしと釈しいるゝ也[4]。宗をたつるおもむきもしらぬものゝ、三部経にかきるとはいふなり。

二。問。正雑二行ともに本願にて候か。

答。念仏は本願也。十方三世の仏菩薩にすてられたるゑせ物をたすけんとて、五劫まで思惟し六道の苦にゆづり、これをたよりにてすくはんと支度し給へる本願の名号也[5]。ゆめゆめ雑行本願といふ物は、仏の五智をうたがひて辺地にとゞまる也[6]。見仏聞法[7]の利益にしばしばもるゝ物也。これは誑惑のものの道心もなきが、山寺法師[8]なんどにほめられんとて、仏意をばかへりみづいひいだせる事なり。

三。問。三心具足の念仏は、決定往生歟。

答。決定往生する也。三心に智具の三心あり。行具の三心あり。智具の三心といふは、諸宗修学の人、本宗の智をもて信をとりかたきを、経論の明文を出し、解釈のおもむきを談して、念仏の信をとらしめんとてとき給へる也。行具の三心といふは、一向に帰すれは至誠心也、疑心なきは深心也、往生せんとおもふは廻向心也。かるかゆへに一向念仏して、うたかふおもひなく往生せんとおもふは行具の三心也。五念[9]・四修も一向に信する物には自然に具する也。

四。問。念仏はかならす念珠をもたすとも、くるしかるましく候か。

答。かならす念珠をもつへき也。世間のうたをうたひ舞をまふすら、その栢子にしたかふ也。念珠をはかせ[10]にて、舌と手とをうこかす也。たゞし無明を断せさらんものは妄念おこるへし。世間の客と主とのことし、念珠を手にとる時は、妄念のかすをとらんとは約束せす、念仏のかすとらんとて、念仏のあるじをすゑつるうゑは、念仏は主、妄念は客人也[11]。されはとて心の妄念をゆるされたるは、過分の恩也、それにあまさへ、口に様々の雑言をして、念珠をくりこしなんとする事、ゆゝしきひか事なり。

五。問。この大仏かくあふきまいらせて候は、この大仏の御はからひにて、浄土にもおくりつけさせ給ふへく候か。

答。この事沙汰のほかの事也。三宝をたつるに三あり。一に一躰三宝といふは、法身の理のうゑに三宝の名をたつる也。万法みな法身より出生するゆへ也。二に別相三宝といふは、十方の諸仏は仏宝也。その智慧およひ所説の経教は法宝也。三乗の弟子は僧宝也。もし大仏むかへ給はゝ三宝の次第もみだるへし。そのゆへは、画像木像は住持の仏宝也、かきつけたる経巻は法宝也。画像木像の三乗は僧宝也。住持と別相と、もとも分別せらるへし。なかんつくに本尊は娑婆にとゝまりて、行者は西方にさらん事、存のほかの事[12]也。たゞし浄土の仏のゆかしさに、そのかたちをつくりて、真仏の思をなすは、功徳をうる事也。

六。問。有智の人のよのつねならんと、無智の人のほかに道心ありと見へ候はんと、いつれにてか候へき。

答。小智のものゝ道心なからんは、無智の人の道心あらんには、千重万重のおとり也。かるかゆへに無智の人の念仏は本願なれは往生すへし、小智のものの道心なからんは、あるいは不浄説法、あるいは虚説人師にあり、決定地獄におつべし。たゞし無智の人の道心は、ひが事をま事とおもひておそるまじき事をばおそれ、おそるへき事をはおそれぬなり。大智の人の道心ならんは、道をしりてやすくゆく人也。盲目の人を明眼の人にたとへん事あさましき事也。道心おなし事ならは、小智のものはなを無智の人に万億倍すぐべき也。無智の人の道心はわびてがてら[13]の事也。

七。問。念仏申人はかならす摂取の益にあつかり候か。

答。しかなり。

八。問。摂取の光明は、一度てらしては、いつも不退なると申人の候は、一定にて候か。

答。この事おほきなるひが事也。念仏のゆへにこそてらすひかりの、念仏退転してのちは、なにものをたよりにてゝらすべきぞ。さやうにてあるならば、念仏一遍申さぬものやはある、されども往生するものはすくなく、せざるものはおほき事、現証たれかうたがはん。

九。問。本願には十念、成就には一念と候は、平生にて候か、臨終にて候か。

答。去年申候き[14]。聖道にはさやうに一行を平生にしつれは、罪即時に滅して、のちに又相続せされとも、成仏すといふ事あり。それはなを縁をむすはしめんとて、仏の方便してとき給へる事也、順次の義にはあらす。華厳・禅門・真言・止観なんとの、至極甚深の法門こそ、さる事はあれ。これは衆生もとより懈怠のものなれは、疑惑のもの一度申しをきてのち申さすとも、往生するおもひに住して、数遍を退転せん事は、くちおしかるへし。十念は上尽一形に対する時の事也。おそく念仏にあひたらん人はいのちつゞまりて、百念にもおよはぬ十念、十念にもおよはぬ一念也。この源空かころもをやきすてゝこそ、麻のゆかりを滅したるにてはあらめ、これかあらんかきりは、麻の滅したるのてはなき事也。過去無始よりこのかた、罪業をもて成せる身ももとのことし、心ももとの心ならは、なにをか業成し罪滅するしるしとすへき。[15]罪滅する物は無生をう、無生をうる物は金色のはたへとなる。弥陀の願に金色となさんとちかはせ給へとも、念仏申人、たれか臨終以前に金色となる。たゞものさかしからて、「一発心已後無有退転」[16]の釈をあふひて、臨終をまつへき也。

十。問。臨終来迎は、報仏にておはしまし候か。

答。念仏往生の人は、報仏の迎にあつかる。雑行の人々の往生するは、かならす化仏の来迎にて候也。念仏もあるいは余行をましへ、あるいは疑心をいさゝかもましふる物は、化仏の来迎を見て、仏をかくしたてまつるもの也。

 了恵云 建久二年三月十三日 東大寺聖人奉問源空上人御答也

源空上人御答也

御消息 四通

御消息

文章の内容からみて、当時の仏教的素養を持った知識階級にあった人にあてた消息だと思われる。了恵師の補足の文にもあるように、前便があると思われるのだが、その返事に対していたく賛意を示しておられる。『観経』の三心の意、特に中心である深信の意を細かに述べられて、「口に南無阿弥陀仏ととなへて、声につきて決定往生のおもひをなすへし」と、信ずる心とは、名号を称えた者を救うという本願の義意をあかされておられる。後年の『歎異抄』でいわれる「本願を信じ念仏を申せば仏に成る」の淵源である。なんまんだぶ……

御文こまかにうけ給はり候ぬ。かやうに申候事の、一分の御さとりをもそへ、往生の御心さしもつよくなり候ぬへからんには、をそれをもはばかりをも、かへり見るへきにて候はす、いくたびも申たくこそ候へ。まことにわか身のいやしく、わか心のつたなきをはかへり見候はす、たれたれもみな人の、弥陀のちかひをたのみて、決定往生のみちに、をもむけかしとこそおもひ候へとも、人の心さまさまにして、たた一すぢにゆめまほろしのうき世ばかりのたのしみさかへをもとめて、すべてのちの世をもしらぬ人も候。又後世ををそるべきことはりをおもひしりて、つとめをこなふ人につきても、かれ此に心をうごかして、一すぢに一行をたのまぬ人も候。
又いづれの行にても、もとよりしはじめ、おもひそめつる事をば、いかなることはりをきけとも、もとの執心をあらためぬ人も候。又けふはいみじく信ををこして、一すぢにおもむきぬとみゆる程に、うちすつる人も候。かくのみ候て、まことしく浄土の一門にいりて、念仏の一行をもはらにする人の、ありがたく候事は、わが身ひとつのなげきとこそは、人しれす思ひ候へとも、法によりて、人によらぬことはり[17]をうしなはぬ程の人も、ありがたき世に候。
おのつからすすめこころみ候にも、われからのあなづらはしさに[18]、申いづることはりもすてらるるにこそなんど、おもひしらるる事にてのみ候が、心うくかなしく候て、是ゆへにいまひときは、とくとく浄土にむまれて、さとりをひらきてのち、いそき此世界に返りきたりて、神通方便をもて、結縁の人をも、無縁のものをも、ほむるをも、そしるをも、みなことことく、念仏にすすめいれて、浄土へむかへとらんとちかひをおこしてのみこそ、当時の心をもなぐさむる事にて候に、此おほせにそ、わか心さしもしるしあるここちして、あまりにうれしく候へ。
その儀にて候はは、おなしくは、まめやかにげにげに[19]しく御沙汰候ひて、ゆくすゑもあやうからす、往生もたのもしき程に、おほしめしさためさせおはしますへく候。詮しては、人のはからひ申すへき事にても候はす、よくよく案して御らん候へ。此事にすきたる御大事何事かは候へき。此世の名聞利養は、中中に申ならふるも、いまいましく候。やがてきのふ今日、まなこにさへぎり、みみにみちたるはかなさにて候めれは、事あたらしく申たつるにをよはす、たた返返も御心をしづめて、おほしめしはからふへく候。さきには聖道・浄土の二門を心えわけて。浄土の一門に、いらせおはしますへきよしを申候き。いまは浄土門につきてをこなふへき様を申候へし。

浄土に往生せんとおもはん人は、安心起行と申て、心と行と相応すへき也。その心といふは、『観無量寿経』に説ていはく、「もし衆生ありて、かの国にむまれんとねかはん者は、三種の心ををこして、即往生すへし。なにをか三つとする、一には至誠心、二には深心、三には迴向発願心也。三心を具せるものは、かならすかの国にむまる」といへり。

善導和尚此三心を釈していはく、「一に至誠心と云は、至といは真也、誠といは実也。一切衆生の身口意業に、修せむところの解行、かならす真実心の中になすへき事を、あかさんとおもふ。外には賢善精進の相を現し、内には虚仮をいたくことをえされ。内外明闇をえらはす、かならず真実をもちひよ、かるかゆへに至誠心となづく」といへり。
此釈の意は、至誠心といふは、真実心也、その真実といふは、身にふるまひ、口にいひ、心におもはん事、みなまことの心を具すへき也。即内はむなしくして、外をかさる心のなきをいふなり。此心はうき世をそむきて、まことのみちにおもむくとおほしき人人の中に、よくよく用意すへき心ばへにて候也。

われも人も、いふはかりなきゆめの世を執ずる心のふかかりしなごりにて、ほどほどにつけて名聞利養を、わづかにふりすてたるばかりを、ありかたくいみじき事にして、やがてそれを、返りて又名聞にしなして、此世さまにも心のたけのうるせき[20]に、とりなしてさとりあさき世間の人の、心の中をばしらず、貴がりいみじかるを、是こそは本意なれ、しえたる心ちして、みやこのほとりをかきはなれて、かすかなるすみかをたずぬるまでも、心のしづまらんためをばつぎにして、本尊・道場の荘厳や、まがきのうちには、木立なんどの心ぼそくも、あはれならんことがらを、人にみえきかれん事をのみ執する程に、露はかりの事も、人のそしりにならん事あらじと、いとなむ心より外におもひさす事も、なきやうなる心のみして、仏のちかひをたのみ、往生をねがはんなどいふ事をは思ひいれす、沙汰もせぬことの、やがて至誠心かけて、往生もえせぬ心ばへにて候也。[21]

又かく申候へは、一途に此世の人目をばいかにもありなんとて、人のそしりをかへりみぬがよきぞと申べきにては候はす。ただし時にのそみたる譏嫌のために、世間の人目をかへりみる事は候へとも、それをのみおもひいれて、往生のさはりになるかたをば、かへりみぬ様にひきなされ候はん事の、返返もおろかにくちおしく候へは、御身にあたりても、御心えさせまいりせ候はんために申候也。

此心につきて四句の不同[22]あるへし。一には外相は貴けにて、内心は貴からぬ人あり。二には外相も内心も、ともに貴からぬ人あり三には外相は貴けもなくて内心は貴き人あり。四には外相も内心もともに貴き人あり。四人が中にさきの二人は、いまきらうところの、至誠心かけたる人也。これを虚仮の人となづくへし。のちの二人は至誠心具したる人也、これを真実の行者となづくへし。されは詮ずるところは、ただ内心にまことの心ををこして、外相はよくもあれ、あしくもあれ、とてもかくてもあるへきにやと、おぼへ候也。おほかた此世をいとはん事も、極楽もねがはん事も、人目はかりをおもはで、まことの心ををこすへきにて候也。これを至誠心と申候也。

二に深心といふは、善導釈していはく、「是に二種あり。一には決定してふかくわか身は是、煩悩を具せる罪悪生死の凡夫也、善根すくなくして、曠劫よりこのかた、つねに三界に流転して出離の縁なしと信ずへし。二には、かの阿弥陀仏四十八願をもて、衆生を摂取し給ふ。即ち名号を称する事、下十声・一声にいたるまて、かの願力に乗じて、さためて往生する事をうと信して、乃至一念もうたがふ心なきゆへに、深心となずく。又深信といふは、決定して心をたてて、仏教にしたがひて修行して、ながくうたがひをのぞき、一切の別解・別行、異学・異見・異執のために、退失傾動せられさる也」といへり。
此釈の意は、はしめにはわか身の程を信じ、のちには仏の願を信する也。ただし後の信を決定せんかために、はしめの信心をはあぐる也。そのゆへは、もしはしめの信心をあげすして、のちの信心を出したらましかは、もろもろの往生をねがはん人、たとひ本願の名号をばとなふとも、みつから心に貪欲・瞋恚等の煩悩をもおこし、身に十悪・破戒等の罪悪をもつくりたる事あらは、みだりにみつから身をひがめて、かへりて本願をうたがひ候ひなまし。
いま此本願に十声・一声まても往生すといふは、おぼろけの人にはあらじ。妄念もをこさず、罪もつくらず、めでたき人にてぞあるらん。わがごときのともからの、一念十念にてはよもあらじとぞおぼえまし。しかるを善導和尚、未来の衆生の、このうたがひをのこさん事をかがみて、此二種の信心をあげて、われらがごときいまた煩悩をも断せす、罪業をもつくる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願を信じて、念仏すれは、一声にいたるまて決定して、往生するむねを釈し給へり。此釈の、ことに心にそみて、いみしくおほへ候也。まことにかくだにも釈し給はざらましかは、われらか往生は不定にぞおほえましと、あやうくおほえ候也。
されは此義を心えわかぬ人やらん、わか心のわろけれは往生はかなはじなとこそは、申あひて候めれ。そのうたかひの、やがて往生せぬ心にて候けるものを、たた心のよきわろきをも返りみず、罪のかろきをもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへて、声につきて決定往生のおもひをなすへし。その決定の心によりて、即往生の業はさだまる也。かく心うればうたがひなし。往生は不定とおもへは、やかて不定也、一定とおもへは、一定する事にて候也。

されは詮しては、ふかく信ずる心と申候は、南無阿弥陀仏と申せは、その仏のちかひにていかなる身をもえらはす、いかなるとがをもきらはず、一定むかへ給ふぞと、ふかくたのみて、うたがふ心のすこしもなきを申候なり。又別解・別行にやぶられざれと申候は、さとり(解)ことに、行ことならん人の、いはん事につゐて、念仏をもすて往生をもうたがふ事なかれと申候也。
さとりことなる人と申すは、天台・法相等の、八宗の学生是也。行ことなる人と申すは、真言・止観等の、一切の行者是なり。これらはみな聖道門の解行なり、浄土門の解行にことなるがゆへに、別解・別行となづくるなり。あらぬさとりの人に、いひやふらるましきことはりをは、善導こまかに釈し給ひて候へとも、その文ひろくしてつぶさにひくにをよはず。心をとりて申さは、たとひ仏きたりてひかりをはなち、したをいだして煩悩罪悪の凡夫の、念仏して一定往生すといふ事は、ひが事そ信すへからすとの給とも、それによりて、一念もうたがふ心あるへからす。そのゆへは、一切の仏はみなおなし心に、衆生をはみちひき給ふ也。即まづ阿弥陀如来願ををこしていはく、「もしわれ仏になりたらんに、十方の衆生、わか国にむまれんとねがひて、我名号をとなふる事、下十声・一声にいたらんに、わか願力に乗して、もしむまれずは、正覚をとらし」{礼讃所引十八願意}とちかひ給て、その願成就して、すでに仏になり給へり。しかるを釈迦ほとけ此世界にいてて衆生のために、かの仏の本願をとき給へり。又六方にをのをの恒河沙数の諸仏ましまして、一一に舌をのへて、三千世界におほふて、無虚妄の相を現して、釈迦仏の弥陀の本願をほめて、一切衆生をすすめて、かの仏の名号をとなふれは、さためて往生すととき給へるは、決定してうたかひなき事也。一切衆生みなこの事を信ずへしと、証誠し給へり。
かくのこときの一切の諸仏、一仏ものこらす、同心に一切の凡夫、念仏して決定して往生すへきむねを、あるひは願をたて、あるひはその願をとき、あるひはその説を証して、すすめ給へるうへには、いかなる仏の又きたりて、往生すへからすとはの給へきそといふことはりの候ぞかし。このゆへに仏きたりて、の給ともおとろくへからすとは申候也。仏なをしかり、いはんや声聞・縁覚をや。いかにいはんや、凡夫をやと意えつれは、一たびも此念仏往生の法門をききひらきて、信ををこしてんのちは、いかなる人とかく申とも、ながくうたがふ心あるへからすとこそをほえ候へ。これを深心と申候也。

三に迴向発願心といふは善導釈していはく、「過去及今生の身口意業に、修するところの世出世の善根、をよひ他の一切の凡聖の、身口意業に修せんところの、世出世の善根を随喜して、此自他所修の善根をもて、ことことくみな真実深信の心の中に迴向して、かの国にむまれんとねがふ也。又迴向発願心といふは、かならす決定真実の心の中に迴向して、むまるる事をうるおもひをなせ。この心ふかく信じて、なをし金剛のことくにして、一切の異見異学別解別行の人のために、動乱破壊せられされ」といへり。
此釈の意はまずわか身につきて、さきの世をおよひこの世に、身にも口にも意にもつくりたらん功徳をみなことことく極楽に迴向して、往生をねがふ也。次に我身の功徳のみならす、こと人のなしたらん功徳をも、仏菩薩のつくらせ給ひたらん功徳をも、随喜すれは、みな我功徳となるをもて、ことことく極楽に迴向して、往生をねがふ也。すべてわか身の事にても、此世の果報をもいのり、をなしくのちの世の事なりとも、極楽ならぬ余の浄土にむまれんとも、もしは都率にむまれんとも、もしは人中天上にむまれんとも、たとひかくのことく、かれにてもこれにても、こと(異)事に迴向する事なくして、一向に極楽に往生せんと迴向すへき也。もしこのことはりをも、をもひさだめつらんさきに、この世の事をもいのり、あらぬかたへも迴向したらん功徳をも、みなとり返して、往生の業になさんと迴向すへき也。
一切の善根をみな極楽に迴向すへしと申せはとて、念仏に帰して、一向に念仏申さん人の、ことさらに余の功徳をつくりあつめて、迴向せよとには候はす。過ぬるかたにつくりをきたらん功徳をも、もし又こののちなりとも、をのつから便宜にしたがひて、念仏のほかの善を修する事のあらんをも、しかしなから往生の業に迴向すへしと、申す事にて候也。此心金剛のことくにして、別解・別行の人にやぶられされと申候は、さきにも申候つる様に、こと(異)さとりの人にをしへられて、かれこれに迴向する事なかれと申候也。金剛はやぶれぬものにて候なれは、たとへにとりて、この心のやぶれぬ事も、金剛のことくなれと申候にやとおほへ候。是を迴向発願心とは申候也。

三心のありさま、おろおろ申ひらき候ぬ。「此三心を具しぬれは、かならす往生するなり。一心もかけぬれは、むまるる事をえす」{礼讃}と、善導は釈し給ひたれは、往生をねかはん人は、最も此三心を具すへき也。しかるにかやうに申したるには別別にて、事事しきやうなれとも、心えとくには、さすかにやすく具しぬへき心にて候也。
詮してはただまことの心ありて、ふかく仏のちかひをたのみて、往生をねがはんするにて候ぞかし。されはあさきふかきのかはりめこそ候へとも、さほとの心は、なにかおこさざらんとこそはおぼえ候へ。かやうの事は、うとくをもふおりには、大事におほえ候。とりよりて沙汰すれは、さすかにやすき事にて候也。よくよく心えとかせおはしますへく候。

ただしこの三心は、その名をだにもしらぬ人も、そらに具して往生し、又こまかにならひ沙汰する人も、返りて闕る事も候也。是につきても、四句の不同候へし。さは候へとも、又是を意えて、わか心には三心具したりとおほえは、心づよくもおほえ、又具せずとおほえは心をもはけまして、かまへて具せんとおもひしり候はんは、よくそ候ひぬへけれは、心のをよふ程は申に候。このうへさのみはつくしかたく候へは、ととめ候ぬ。又この中におぼつかなく、おぼしめす事候はんをは、をのつから見参にいり候はん時、申ひらくへく候。是そ往生すべき心はへの沙汰にて候、これを安心とはなずけて候也。

私云、浄土門に入へき御消息ありけりと見えたり、いまだたずねえず。

ある人のもとへつかはす御消息

念仏往生は、いかにもしてさはりをいだし、難ぜんとすれとも往生すまじき道理はをほかた候ぬ也。善根すくなしといはんとすれは、一念・十念もるる事なし。罪障をもしといはんとすれは、十悪五逆も往生をとぐ。人をきらはんといはんとすれは、常没流転の凡夫を、まさしきうつはものとせり。時くだれりといはんとすれは、末法万年のすゑ、法滅已後さかりなるへし、此法はいかにきらはんとすれとももるる事なし。
ただちからをよはさる事は、悪人をも時をもえらはす、摂取し給ふ仏なりと、ふかくたのみて、わが身をかへりみず、ひとすちに仏の大願業力によりて、善悪の凡夫往生をうと信ぜずして、本願をうたがふばかりこそ、往生にはおほきなるさはりにて候へ。

一。いかさまにも候へ、末代の衆生は、今生のいのりにもなり、まして後生の往生は、念仏の外にはかなふましく候。源空かわたくしに申事にてはあらす、聖教のおもてに、かかみをかけたる事にて候へは、御らんあるへく候也。

熊谷の入道へつかはす御返事

{法然聖人の真筆}

御文よろこひてうけ給はり候ぬ。まことにそのゝちは、おぼつかなく候つるに、うれしくおほせ〔ら〕れて候。たんねんぶつ(但念仏)[23]の文かきてまいらせ候、ごらん候へし。
念仏の行は、かの仏の本願の行にて候。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は、彼の仏の本願にあらぬ をこなひにて候へは、極らく(楽)をねかはむ人は、まずかならす本願の念仏の行をつとめてのうへに、もしおこなひをも〔念仏に〕し、くはへ[24]候はんとおもひ候はゞ、さもつかまつり候。又ただ本願の念仏はかりにても候べし、
念仏をつかまつり候はで、たゞことおこなひ[25]はかりをして、極楽をねがひ候人は、極楽へもえむまれ候はぬ[26]事にて候よし、善導和尚のおほせられて候へは、たん念仏が、決定往生の業にては候也。善導和尚は、弥陀の化身にておはしまし候へは、それこそは一定にて候へと申候に候。
又女犯と候は不婬戒の事にこそ候なれ。又御きうだち[27]どものかんだう[28]と候は不瞋戒のことにこそ候なれ。されは持戒の行は、仏の本願にあらぬ行なれは、たへたらんに[29]したかひて、たもち候へく候。 けうやう(孝養)の行も仏の本願にあらす。た(堪)へんにしたがひて、つとめさせおはしますへく候。
又あかがねの阿字のこと[30]も、おなしことに候。又さくちやう[31]のことも、仏の本願にあらぬつとめにて候、とてもかくても候なん。 又かうせう(迎接)のまんだら(曼陀羅)[32]はたいせちにおはしまし候、それもつぎの事に候[33]。ただ念仏を三万、もしは五万、もしは六万、一心にもう(申)させおはしまし候はむそ、決定往生のをこなひにては候。
こと善根は、念仏のいとまあらばのことに候。六万へんをだに申せたまはゞ、そのほかには、なにことおかは、せさせおはしますへき。まめやかに、一心に三万・五万、念仏をつとめさせたまはゞ、せうせう(少少)戒行やぶれさせおはしまし候とも、往生はそれにはより候ましきことに候。
たゞしこのなかに、けうやう(孝養)の行は、仏の本願の行にては候はねとも、八十九[34]にておはしまし候なり。あひかまへて、ことしなんどをは、まちまいらせさせ、おはしませかしとおほえ候。あなかしこあなかしこ

  五月二日 源空 御自筆也

ある時の御返事

をよそこの条こそ、とかく申にをよひ候はす、めでだく候へ。往生をせさせ給ひたらんには、すぐれておほえ候。死期しりて往生する人人は、入道とのにかきらす、おほく候。かやうに耳目をおどろかす事は、末代にはよも候はじ。むかしも道綽禅師ばかりこそ、おはしまし候へ、返返申はかりなく候。
ただしなに事につけても、仏道には魔事と申す事の、ゆゆしき大事にて候なり、よくよく御用心候へきなり。かやうに不思議をしめすにつけても、たよりをうかがふ事も候ひぬへきなり。めてたく候にしたがひて、いたはしくおほえさせ候て、かやうに申候なり。よくよく御つつし見候て、ほとけにもいのりまいらせさせ給ふへく候。
いつか御のほり候へき、かまへてかまへて、のほらせおはしませかし。京の人人おほやうはみな信して、念仏をもいますこし、いさみあひて候。是につけても、いよいよすすませ給ふへく候。あしさまにおほしめすへからす候、なをなをめてたく候。あなかしこあなかしこ

  四月三日 源空

熊谷入道殿へ

私云、これは熊谷入道念仏して、さまさまの現瑞を感したりけるを、上人へ申あけたりける時の御返事なり。

往生浄土用心

一。毎日御所作、六万遍めでたく候、うたがひの心たにも候はねば、十念・一念も往生はし候へとも、おほく申候へは、上品にむまれ候。『釈』にも「上品花台見慈主、到者皆因念仏多」[35]と候へは、

一。宿善によりて、往生すべしと人の申候らん、ひが事にては候はず。かりそめの此世の果報だにも、さきの世の罪、功徳によりて、よくもあしくもむまるる事にて候へば、まして往生程の大事、かならす宿善によるへしと、聖教にも候やらん。
ただし念仏往生は、宿善のなきにもより候はぬやらん[36]。父母をころし、仏身よりちをあやし[37]たるほとの罪人も、臨終に十念申て往生すと、観経にも見えて候。しかるに宿善あつき善人は、をしへ候はねども、悪にをそれ仏道に心すすむ事にて候へは、五逆なんどは、いかにもいかにもつくるまじき事にて候也。それに五逆の罪人、念仏十念にて往生をとげ候時に、宿善のなきにもより候ましく候。

されは『経』に、「若人造多罪、得聞六字名、火車自然去、花台即来迎極重悪人 無他方便、唯称弥陀得生極楽、若有重業障、無生浄土因、乗弥陀願力、必生安楽国」[38]{観経下品下生意}。この文の意は若五逆をつくれりとも、弥陀の六字の名をきかは、火の車自然にさりて、蓮台きたりてむかふへし。又きはめてをもき罪人の、他の方便なからんも、弥陀をとなへたてまつらは、極楽にむまるへし。又もし、おもきさはりありて、浄土にむまるへき因なくとも、弥陀の願力に乗しなは、安楽国にむまるへしと候へは、たのもしく候。
又善導の釈には、曠劫より此かた六道に輪迴して、出離の縁なからん、常没の衆生をむかへんがために、「阿弥陀ほとけは仏になり給へり」と候。その常没の衆生と申候は、恒河のそこにしづみたるいきものの、身おほきにながくして、その河にはばかりて[39]、えはたらかず[40]、つねにしづみたるに、悪世の凡夫をたとへられて候。
又凡夫と申、二の文字をは、「狂酔のごとし」と、弘法大師釈し給へり。げにも凡夫の心は、物くるひ、さけにゑいたるかことくして、善悪につけて、おもひさためたる事なく、一時に煩悩百たびまじはりて、善悪みだれやすけれは、いつれの行なりとも、わかちからにては行しかたし。しかるに生死をはなれ、仏道にいるには、菩提心ををこし、煩悩をつくして[41]、三祇百劫、難行苦行してこそ、仏にはなるへきにて候に、五濁の凡夫、わかちからにては願行そなはる事かなひかたくて、六道・四生にめくり候也。弥陀如来この事をかなしみおほしめして、法蔵菩薩と申ししいにしへ、我等か行しかたき僧祇の苦行を、兆載永劫かあひた功をつみ、徳をかさねて、阿弥陀ほとけになり給へり。

一。仏にそなへたまへる、四智・三身、十力・無畏等の、一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の、外用の功徳、さまさまなるを、三字の名号の中におさめいれて、「この名号を十声一声まてもとなへん者を、かならすむかへん、もしむかへすは、われ仏にならしとちかひ給へるに、かの仏いま現に世にましまして、仏になり給へり。名号をとなへん衆生往生うたかふへからす」{礼讃意}と、善導もおほせられて候也。
この様をふかく信して、念仏をこたらす申て、往生うたかはぬ人を、他力を信じたるとは申候也。世間の事にも他力は候そかし、あしなえこしゐたる者の[42]、とをきみちをあゆまんとおもはんにかなはねは、船・車にのりてやすくゆく事、これわがちからにあらす、乗物のちからなれは他力也。あさましき悪世の凡夫の、諂曲の心にて、かまへつくりたるのり物にだに、かかる他力あり。まして五劫のあひたおほしめしさだめたる、本願他力のふねいかだに乗なば、生死の海をわたらん事うたかひおほしめすへからす。
しかのみならす、やまひをいやす草木、くろかねをとる磁石、不思議の用力也。又麝香はかうはしき用あり、犀の角は水をよせぬ力あり。これみな情なき草木、誓ををこさぬ獣なれとも、もとより不思議の用力はかくのみ[43]こそ候へ。まして仏法不思議の用力ましまささらんや。されは念仏は、一声に八十億劫のつみを滅する用あり。弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号となふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候。すべて破戒も持戒も、貧窮も福人も、上下の人をきらはずただわが名号をだに念せば、いしかはらを変して、金となさんがごとく来迎せんと御約束候也。法照禅師の『五会法事讃』にも

彼仏因中立弘誓 聞名念我総来迎
不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
但使迴心多念仏 能令瓦礫変成金[44]

たた御ずずをくらせおはしまして、御舌をだにもはたらかされず候はんは、けたいにて候へし。たたし善導の三縁の中の、親縁を釈し給ふにも、衆生ほとけを礼すれは、仏これをみ給ふ。衆生仏をとなふれは、仏これをきき給ふ。衆生仏を念すれは、仏も衆生を念し給ふ。かるかゆへに阿弥陀仏の三業と、行者の三業と、かれこれひとつになりて、仏も衆生もおや子のことくなるゆへに、親縁となつくと候めれは、御手にずずをもたせ給ひて候はは、仏これを御らん候へし。御心に念仏申すそかしとおほしめし候はは、仏も衆生を念し候ふへし。されは仏にみえまいらせて、念せられまいらする御身にてわたらせ給はんする也。されはつねに御したのはたらくへきにて候也、三業相応のためにて候へし。
三業とは、身と口と意とを申候也。しかも仏の本願の称名なるかゆへに、声を本体とはおほしめすへきにて候。さてわかみみにきこゆる程に申候は、高声念仏のうちにて候なり。高声は大仏をおかみ、念ずるは仏のかずへ[45]もなど申げに候。いつれも往生の業にて候へく候。

一。御無言めてたく候。たたし無言ならて申念仏は、功徳すくなしとおほしめされんはあしく候。念仏をは金にたとへたる事にて候。金は火にやくにもいろまさり、みづにいるるにも損せす候。かやうに念仏は妄念のをこる時申候へともけがれす、物を申しまするにもまぎれ候はす。
そのよしを御意え候なから御念仏の程は異ことをまぜずして、いますこしも念仏のかすをそへんとおほしめさんはさにて候。もしおほしめしわすれて、ふと物なとをおほせ候て、あなあさまし、いまはこの念仏むなしくなりぬと、おほしめす御事は、ゆめゆめ候ましく候。いかやうにて申候とも、往生の業にて候へく候。

一。百万遍の事、仏の願にては候はねとも、『小阿弥陀経』に、「若一日、若二日、乃至七日念仏申人、極楽に生する」ととかれて候へは、七日念仏申へきにて候。その七日の程のかすは、百万遍にあたり候よし、人師釈して候へは、百万遍は七日申へきにて候へとも、堪え候はさらん人は、八日・九日なとにも申され候へかし。されはとて百万遍申ささらん人のむまるましきにては候はす、一念・十念にてもむまれ候也。一念・十念にてもむまれ候ほとの念仏とおもひ候うれしさに、百万遍の功徳をかさぬるにて候なり。

一。七分全得の事[46]、仰のままに申けに候。さてこそ逆修[47]はする事にて候へ。さ候へはのちの世をとふらひぬへき人候はん人も、それをたのますして、われとはけみて念仏申して、いそき極楽へまいりて、五通・三明をさとりて、六道・四生の衆生を利益し、父母師長の生所をたつねて、心のままにむかへとらんとおもふへきにて候也。
又当時日ごとの御念仏をも、かつがつ迴向しまいらせらぬ候へし。なき人のために念仏を迴向し候へは、阿弥陀ほとけひかりをはなちて、地獄・餓鬼・畜生をてらし給ひ候へは、此三悪道にしつみて苦をうくる者、そのくるしみやすまりて、いのちをはりてのち、解脱すへきにて候。『大経』にいはく、「若在三塗勤苦之処 見此光明皆得休息 無復苦悩 寿終之後 皆蒙解脱」[48]といへり。

一、本願のうたかはしき事もなし、極楽のねかはしからぬにてはなけれとも、往生一定とおもひやられで、とくまいりたき心のあさゆふは、しみじみともおほえすとおほせ候事、まことによからぬ御事にて候。浄土の法門を、きけともきかざるがごとくなるは、このたひ三悪道よりいてて、つみいまたつきさるもの也と、経にもとかれて候。
又この世をいとふ御心うすくわたらせ給ふにて候。そのゆへは、西国へくだらんともおもはぬ人に、船をとらせて候はんに、ふねの水にうかぶ事なしとはうたがひ候はねとも、当時さしているまじければ、いたくうれしくも候まじきぞかし。さてかたきの城なとにこめられて候はんが、からくしてにけてまかり候はんみちに、おほきなる河海なとの候て、わたるへきやうもなからんおり、おやのもとよりふねをまうけてむかへにたびたらんは、さしあたりていかはかりかうれしく候へき。
これがやうに、貪瞋煩悩のかたきにしばられて、三界の樊籠[49]にこめられたるわれらを、弥陀悲母の御心ざしふかくして、名号の利剣をもちて生死のきつなをきり、本願の要船を苦海のなみにうかへて、かのきしにつけ給ふへしとおもひ候はんうれしさは、歓喜のなみだたもとをしほり、渇仰のおもひきもにそむへきにて候。せめては身の毛いよたつほとにおもふへきにて候を、のさ[50]におほしめし候はんは、ほい[51]なく候へとも、それもことはりにて候。
つみつくる事こそをしへ候はねとも、心にもそみておほえ候へ。そのゆへは、無始より此かた六趣にめくりし時も、かたちはかはれとも心はかはらすして、いろいろさまさまつくりならひて候へは、いまもうゐうゐしからず、やすくはつくられ候へ。念仏申て往生せはやとおもふ事は、此たひはしめてわつかにききえたる事にて候へは、きとは[52]信せられ候はぬ也。そのうへ人の心は頓機・漸機とて二しなに候也。
頓機は、ききてやかてさとる心にて候、漸機は、やうやうさとる心にて候也。ものまうでなとをし候に、あしはやき人は一時にまいりつくところへ、あしをそきものは日ぐらし[53]にもかなはぬ様には候へとも、まいる心たにも候へは、つゐにはとげ候やうに、ねかふ御心たにわたらせ給ひ候はは、とし月をかさねても、御信心もふかくならせおはしますへきにて候。

一、日ころ念仏申せとも、臨終に善知識にあはすは、往生しかたし。又やまひ大事にて心みだれは、往生しがたしと申候はんは、さもいはれて候へとも、善導の御意にては極楽へまいらんと心さして、おほくもすくなくも念仏申さん人の、いのちつきん時は、阿弥陀ほとけ聖衆とともにきたりてむかへ給ふへしと候へは、日ころたにも御念仏候はは、御臨終に善知識候はすとも、ほとけはむかへさせ給ふへきにて候。
又善知識のちからにて往生すと申候事は、『観経』の下三品の事にて候。下品下生の人なんどこそ、ひごろ念仏も申候はす、往生の心も候はぬ逆罪の人の、臨終にはしめて善知識にあひて、十念具足して往生するにてこそ候へ。日ころより他力の願力をたのみ、思惟の名号[54]をとなへて、極楽へまいらんとおもひ候はん人は、善知識のちから候はすとも、仏は来迎したまふへきにて候。
又かろきやまひをせんといのり候はん事も、心かしこくは候へとも、やまひもせて死候人も、うるはしくをはる時には、断末摩のくるしみとて、八万の塵労門[55]より、無量のやまひ身をせめ候事、百千のほこつるきにて、身をきりさくかことし。されはまなこなきかことくにして、みんとおもふ物をもみす、舌のねすくみて、いはんとおもふ事もいはれす候也。是は人間の八苦のうちの、死苦にて候へは本願を信して往生をねかひ候はん行者も、此苦はのかれすして、悶絶し候とも、息のたえん時は、阿弥陀ほとけのちからにて、正念になりて往生をし候へし。
臨終はかみすぢきる[56]がほどの事にて候へは、よそにて凡夫さためかたく候。たた仏と行者との心にてしるへく候也。そのうへ三種の愛心をこり候ひぬれは、魔縁たよりをえて、正念をうしなひ候也。この愛心をは善知識のちからはかりにては、のそきかたく候、阿弥陀ほとけの御ちからにてのそかせ給ひ候へく候。「諸邪業繋無能礙者」[57]{定善義}。たのもしくおほしめすへく候。又後世者とおほしき人の申けに候は、まつ正念に住して、念仏申さん時に、仏来迎し給ふへしと申けに候へとも、『小阿弥陀経』には、「与諸聖衆現在其前、是人終時心不顛倒、即得往生阿弥陀仏極楽国土」[58]と候へは、人のいのちをはらんとする時、阿弥陀ほとけ聖衆とともに、目のまへにきたり給ひたらんを、まつみまいらせてのちに、心は顛倒せすして、極楽にむまるへしとこそ心えて候へ。
されはかろきやまひをせはや、善知識にあはばやといのらせ給はんいとまにて、いま一返もやまひなき時、念仏を申して、臨終には阿弥陀ほとけの来迎にあつかりて、三種の愛心をのそき、正念になされまいらせて、極楽にむまれんとおほしめすへく候。されはとていたつらに候ぬべからん善知識にもむかはてをはらんとおほしめすへきにては候はす。先徳達のをしへにも、臨終の時に、阿弥陀仏を西のかべに安置しまいらせて、病者そのまへに西むきにふして、善知識に念仏をすすめられよとこそ候へは、それこそあらまほしき[59]事にて候へ。たたし人の死の縁は、かねておもふにもかなひ候はす、俄におほぢみち[60]にてをはる事も候。
又大小便利のところにてしぬる人も候。前業のかれがたくして、太刀かたなにていのちをうしなひ、火にやけ、水におぼれて、いのちをほろぼすたぐひおほく候へは、さやうにて死候とも、日ころに念仏申て極楽へまいる心たにも候人ならは、息のたえん時に、阿弥陀・観音・勢至、きたりむかへ給へしと信しおほしめすへきにて候也。『往生要集』にも、「時所諸縁を論せす、臨終に往生をもとめねかふに、その便宜をえたる事、念仏にはしかす」{巻下本}と候へは、たのもしく候。

このよしをよみ申させ候ふへく候、八つの事しるしてまいらせ候。これはのちに御たつね候し御返しにて候。

一。所作おほくあてかひてかかんよりは、すくなく申さん、一念もむまるなれはとおほせの候事、まことにさも候ひぬへし。たたし『礼讃』の中には、「十声一声定得往生、乃至一念無有疑心」[61]と釈せられて候へとも、『疏』の文には、「念念不捨者、是名正定之業」[62]と候へは、十声・一声にむまると信して、念念にわするる事なく、となふへきにて候。又「弥陀名号相続念」[63]{法事讃巻下}とも釈せられて候。されはあひついて念すへきにて候。一食のあひたに、三度はかりおもひいてんはよき相続にて候。つねにたにおほしめしいてさせ給ひ候はは、十万・六万申させ給ひ候はすとも、相続にて候ぬへけれとも、人の心は、当時みる事きく事にうつる物にて候へは、なにとなく御まぎれの中には、おほしめしいてん事かたく候ぬへく候。御所作おほくあてて、つねにずずをもたせ給ひ候はは、おほしめしいて候ぬとおほえ候。たとひ事のさわりありて、かかせおはしまして候とも、あさましやかきつる事よとおほしめし候はは、御心にかけられ候はんするそかし。とてもかくても御わすれ候はすは、相続にて候へし。
又かけて候はん御所作を、つぎの日申いれられ候はん事さも候なん。それもあす申いれ候はんすれはとて、御ゆだん候はんはあしく候。せめての事にてこそ候へ、御意えあるへく候。

一。魚鳥に七箇日のいみの候なる事、さもや候らん。見およばず候。地体はいきとしいける物は、過去のちちははにて候なれは、くふへき事にては候はす。又臨終には、酒・魚。鳥。韭。蒜なとはいまれたる事にて候へは、やまひなとかきりになりては、くふへき物にては候はねとも、当時きとしぬはかりは候はぬやまひの、月日つもり苦痛もしのびがたく候はんには、ゆるされ候なんとおほえ候。御身たたしくて念仏申さんとおほしめして御療治候へし。いのちをおしむは往生のさはりにて候。やまひはかりをは療治は、ゆるされ候なんとおほえ候。

 二の事の御たつね、しるしてまいらせ候。よくよくよみ申させ給ふへく候。

給遺黒谷語灯録巻下

愚見のをよふところ集編かくのことし。

しかるに世中に黒谷の御作といふ文おほし。いはゆる『決定往生行業抄』、『本願相応抄』、『安心起行作業抄』、『九条の北の政所へ進する御返事』、{かの御返事に二通ありこれは三心をのせたる本なり}この文ともは、余の和語の書に、文章も似す、義勢もたかへりおほきにうたかひあるうへに、古人偽書と申つたへたり。しかれはこれをいれす。又『二十二問答』とて、二十六七張の文あり。又『臨終行儀』とて、五六張の文あり、真偽しりかたし。
いささかおほつかなきによりてこれをのそけり。又『念仏得失義』といふ文あり。上人の御作といへり。しかれともこれはまさしくあらぬ人のつくれる文也。
このほかにまことしからぬ文二三本あり、中中いふにたらぬ物とも也。をよそ二十余年のあひた、あまねく花夷をたつね、くはしく真偽をあきらめて、これを取捨すといへとも、なをあやまる事おほからん。後賢かならすたたすへし。又おつるところの真書あらは、この拾遺に続へし。心さすところは、衆生をして浄土の正路におもむかしめんかためなり。あなかしこあなかしこ。

 望西楼沙門了恵謹書

語灯録瑞夢事

嵯峨に貴女おはしき。後世をねかふ御心ふかくして、往生院の善導堂に御参籠ありて、往生をいのり申されけるに、御ゆめに、善導和尚一巻のまき物をもちてこれはこと葉のともしひといふふみ也。これをみて念仏申さは、決定往生すへしとて、さつけさせ給へは、世にうれしくおほえて、うけとらせ給へは、ゆめさめぬ。ありかたくおほしめして、かかる文やあると諸方を御たつねあるに、すへてなし、さては妄想にてやありつらんとて、かさねて御参籠ありて祈請申されける時、二尊院往生院兼参する本心房といふ僧、善導堂へまいりたりけるに、この事を御たつねありけれは、本心房申ていはく、ことはのともしひと申文は、語灯録の事にてそ候らん。法然上人の御書をあつめたる文にて候とて、かしまいらせたりけれは、よろこひてこれを御らんするに、往生うたかひなくおほえさせ給けれは、やかてうつさんとおほしめしたちける夜の御ゆめに、束帯なる上臈の、二人両方にたたせ給たりけるを、いつくよりいらせ給ひて候そと申されけれは、われは、この『こと葉のともしひ』の守護のために、北野平野の辺よりまいりて候也とおほせられけるに、又そはに貴けなる僧の、あの上臈は、北野天神、平野大明神にておはします也。
一切衆生の信をまさんする聖教なるあひた、三十神の番番にまはりて、守護せさせ給そと、おほせらるるとおもひて、うちおとろかせ給ぬ。ことに貴くおほしめして、これをうつして、つねにみまいらすれは、往生の事は、いまは手にとりたるやうにおほえ候そと、まさしく御物かたり候きと、本心房つたへ申候き。さてそののち、一心に御念仏ありて、正和元年 壬子 八月に、三日さきたちて時日をしろしめして、われはこの月の四日の卯のときに往生すへしとおほせられけるか、日も時もたかはす、八月四日卯のはしめに、高声念仏百三十遍となへて、御こゑとともに、御いきととまらせ給ひき。御とし二十九とうけ給はりき、くはしくは語録験記のことし。 云云
善導の御さつけ、神明の御守護、かたかたたのもしくおほえて、ははかりなからこれをしるすところ也。をよそこの録をみて、安心をとりて往生をとけたる人おほし、くはしくしるすにをよはす。 云云

元亨元年辛酉のとし、ひとへに上人の恩徳を報したてまつらんかため、又もろもろの衆生を往生の正路にをもむかしめむかために、此和語の印板をひらく。

 一向専修沙門南無阿弥陀仏円智謹書

沙門了恵感歎にたえす随喜のあまり七十九歳の老眼をのこひ書之。

  元亨元年 辛酉 七月八日

法橋幸厳謹

書巻頭

和字語灯録全部七巻了慧上人所撰集刊行也。予以建武五年仲春与去冬 自所校正漢字語灯草本 同蔵武州金沢称名寺文庫者也。

  下総州鏑木光明寺良求

刻語灯録跋

知門大王康存之日。予嘗自携此録呈之左右曰。是僕曽拠善本所校正也。伏請。一歴高眸幸甚。大王欣然言曰。有是哉。已聞之。是実高揚宗灯。語灯之名宜也。宜繍梓附蔵以公于世也。子其知之予謹奉命去。因乃使欹劂氏掌印行之事。刻成蔵之宝庫。嗚乎鶴賀既往。鳳吹今何在也。空掩老涙途倣懸剣之志云

  王徳元辛卯年臘月十八日沙門義山書于

華頂茅舎

正徳五 乙未 稔正月吉日


末註

  1. 『往生要集』下巻「臨終念相」に「臨終に猛利の心に仏を念ずる」等とあるように誠心誠意の意。当時、『観経』の至誠心を、熾盛心であると取り違え猛利心だとした者があったそうだが、その用語を借用して一心一行の専一なることを表現されたのであろう。
  2. 自力を励むという意ではなく、称えたお念仏に育てられるということ。法然聖人の有名な言葉に「いけらば念佛の功つもり、しなば淨土へまいりなん。とてもかくても。此身には思ひわづらふ事ぞなきと思ぬれば、死生共にわづらひなし。」とあるのも同意でお念仏によるお育てを感佩されたものである。
  3. 世間怱怱(せけんそうそう)。あわただしいさま。忙しい様子。『無量寿経』にある語。『大阿弥陀経』や『無量清浄平等覚経』にもある。
  4. 『安楽集』の聖浄二門判釈。
  5. 五劫という長い時間をかけて名号を成就したのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の者を、浄土へ迎える為であるということ。
  6. 善因楽果・悪因苦果の因果の道理に囚われて、因果を超越した本願を疑うことを戒められておられる。親鸞聖人は、この心を信罪福心として『無量寿経』の胎化段によって論証され、本願を疑う心であるとされた。
  7. 目のあたりに仏の姿を見、耳に仏の教えを聞くこと。◇観仏と聞教の意か。親鸞聖人は『浄土論』の「観仏本願力」の観とは、「願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり。」(『一念多念証文』)であるとされた。
  8. 比叡山の学僧のことであろう。あらゆる行を捨て、専ら、なんまんだぶの一行を修するということが如何に理解しがたいものであったかが窺える。
  9. 『往生礼讃』の起行としての、身業礼拝門、口業讃歎門、意業憶念観察門、作願門、回向門の五念門。
  10. 節博士(はかせ:墨譜)のこと。声明などの節回しをあらわす記譜をいう。ここでは、珠数を繰ることを墨譜にたとえ念仏することをいう。
  11. 『蓮如上人御一代記聞書』に、「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」とある。また、御文章二帖五通に珠数について論及されておられる。
  12. 存は存知で、思いのほかの意。
  13. 詫びて+がてら。ここでの詫びは、煩うこと。煩悩に煩いながらも道を求めるという意か。
  14. 法然聖人は、文治六年(1190)に、重源の特請をうけて東大寺で浄土三部経を講じたといわれる。ここで、去年申候き、というのはそれを指していうか。
  15. ご自分の着している麻の衣を例にあげて、衣を焼き捨てて初めて衣と縁が切れるように、煩悩によって形成されている有漏の身体がある限り、煩悩とは縁が切れないと言われ、凡夫は悟りをかたるものではないとされている。
  16. 一発心已後無有退転(ひとたび発心して以後退転あること無し)。◇「散善義」の一発心已後誓畢此生無有退転から取意の文。
  17. 法四依に、「法に依りて人に依らざるべし」とあり親鸞聖人は「化身土文類」で、『大智度論』の法四依を引文されている。
  18. あなづらわし。あな-侮らはし。あなは喜怒哀楽につける語。軽蔑して、軽々しいということ。
  19. げにげに。げにを繰り返して意味を強調する。実に実に。本当に、まったくの意。
  20. うるせき。すぐれている。巧みである。
  21. ◇至誠心について同意の文が、『往生大要抄』にもある。文章の内容からみて、厭世感から浄土教に関心を持った知識階級の人への消息であろう。
  22. 「散善義」の、「 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」の至誠心釈を四句分別によって説明しておられる。(外・真&内・虚)、(外・虚&内・虚)、(外・虚&内・真)、(外・真&内・真)の四種類。
  23. 但念仏(たんねんぶつ)。助念仏に対する語。『往生要集釈』には「念仏において三あり。一には但念仏なり。さきの正修門の意なり。二には助念仏なり、今の助念仏の意なり」とある。挙声称名(声を挙げて名を称える)
  24. しくわへ。為加へ。し添える、つけくわえる。
  25. ことおこなひ、異行い。異なる行いで、念仏以外に、ただ別の修行の意。
  26. え。下に打消の語や反語表現を伴って、とても…でき(ない)という意。
  27. きうだち。異本にはきんだちとあるので公達のことで子息のことか?
  28. かんだう。勘当のことであろう。◇勘当とは親子の縁を切ること、また、主従関係、師弟関係を断つことも勘当という。
  29. たえたらん。堪えたらん。◇自分の能力の及ぶ範囲内でということ。
  30. あかがねの阿字の事。銅製の阿字を用いて修する真言の阿字観。「阿」という梵字は、梵語の第一字母として、万物の不生不滅の原理の意味であることを観じて、この意を感得する観法。
  31. さくちやう。錫杖か。◇刀剣を手にし源平の戦で命のやり取りをしてきた関東武士として、僧侶・修験者の持つ錫杖、および錫杖にまつわる行儀に関心を持ったのであろうか。少しく法然聖人が困惑されておられる様子が窺える。
  32. 迎接の曼陀羅。阿弥陀仏の来迎引接(らいごう-いんじょう)の相を描いた画像。
  33. 迎接曼陀羅も大切ではあるが、念仏に比べれば二の次であるとされる。
  34. 熊谷直実の母親が89歳になっているので、第十八願には孝養父母とは無いが、今年こそは死ぬものであろうと思いとって、母親に心遣いをするようにとの意であろう。
  35. 「上品花台見慈主、到者皆因念仏多」(上品の花台に慈主をみるは、みな念仏多きの因にて到れる者なればなり)は、『淨土五會念佛略法事儀讃』の「上品華臺見慈主 到者皆因念佛多」の文に依る。
  36. ただし、念仏を称えて往生することは、宿善の無いなどの比較の差をいうのではないだろう。何故なら第十八願には宿善の有無を論じていないからである。◇この場合の「より」は比較の基準の意に読んだ。
  37. あやし。生(あ)やし。血や涙や汗を流すこと。生じる、したたらせる、にじみだすなどという意。◇ここでは、五逆罪中の出仏身血をいう。
  38. ◇『観経』下品下生の取意の文。意訳。◇ もし人、多くの罪を造りても、六字のみ名を聞くことを得れば、火の車自然に去り、(浄土から)花台たちまちに来たって、この極重の悪人を迎える。他の方便さらに無く、ただ弥陀を称するに極楽に生まれることを得る。もし業障が重いこと有れば、浄土に生まれる因は無いのだが、弥陀の願力に乗ずれば必ず安楽国に生まれるのである。
  39. はばかりて。じゃまになって。◇常没の説明にガンジス河の川底に沈んで浮かぶことのできない衆生に喩えている。
  40. えはたらかず。得+働かずで、動くことが不可能の意。
  41. つくして。滅尽して。
  42. あしなえこしゐたる。足が萎えた人と腰が屈まった人。
  43. かくのみ。斯のみ。これほど。こればかりも。
  44. かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へ来らしめん。貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金(こがね)と成さんがごとくせしむ。
  45. かずへ。数へ。数えること? 度合い?◇『大方等大集經』に「更莫他縁念其餘事。或一日夜或七日夜。不作餘業至心念佛。乃至見佛小念見小大念見大。乃至無量念者見佛色身無量無邊。」とあり、高声は大仏をおかみから云々から、「数へ」は程度の意味かもしれない。
  46. 死後の追善仏事では七分の一の功徳しか死後の当人には及ばないが、生前の逆修では功徳を全部得ることができるという当時盛行さあれた数種の『十王経』に説かれる意。◇初七日・二七日・三七日・四七日・五七日・六七日・七七日の7回の法事から七分といい、その七分を説く『十王経』の説をふまえてであろうと思われる。ここでは一応相手の主張を受け容れて、自ら念仏することをすすめておられる。
  47. 逆修。逆は、あらかじめの意。自らの為に生前に仏事を営むこと。
  48. もし三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし。寿終りてののちに、みな解脱を蒙る。
  49. 樊籠(はんろう)。鳥かごのこと。ここでは自分の身を束縛する煩悩に喩えている。
  50. のさ。のんびりしているさま。のんき、平気。
  51. ほい。本意(ほんい)の撥音「ん」の省略形。本来の志。
  52. きとは。生(き)とは。純粋にとは。◇この場合の生(き)とは、純粋とか混じりけのないという意。生娘。生糸。生真面目。生蕎麦。。
  53. 日ぐらし。日暮。朝から晩までかかってという意。
  54. 思惟の名号。法蔵菩薩が、五劫という長い時間をかけて思惟され仕上げられた名号のこと。なんまんだぶ。
  55. 八万の塵労門。◇八万四千の煩悩を生み出す門を塵労門といい、この感覚器官の門から断末魔の苦しみがおこるという。塵労は心を疲れさせるものの意。 煩悩の異名。
  56. かみすぢきる。髪筋切る。極めて微小なたとえで、ここでは死は瞬間という意。
  57. 諸の邪の業繋もよく礙ふるものなし。
  58. もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。
  59. あらまほしき。理想的、望ましいの意。
  60. おほぢみち。大路道。死の縁無量なので道端で死ぬかもしれないということ。
  61. 十声一声に、さだめて往生を得、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。◇『礼讃』の原文では、「十声一声<等> 定得往生 乃至一念無有疑心」となっている。為念。
  62. 念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく。
  63. 弥陀の名号相続して念ず。