摩訶止観の常行三昧
提供: 本願力
堂内に安置された阿弥陀仏像の周りを、七日または九十日を一期として口にひたすら阿弥陀仏の名号を称え、心に阿弥陀仏を念じながら昼夜休みなく歩き続け、仏が現前に現れることを求める『般舟三昧経』に説かれる行法である。昼夜休みなく行うので常行という。 堂内の阿弥陀仏像の周りには太い竹でできた手すりがあり、疲れた時にはこれを頼りに歩き、休む時は天井から下げられた紐につかまって休み、座ったり横になることはない。
比叡山の常行堂を見学したことがあったのだが、阿弥陀仏像の周りを囲む太い竹の節が、修行僧の寄り掛かった衣で擦り切れてつるつるになっていたことに比叡山時代の御開山を追憶したものであった。以下『摩訶止観』から常行三昧の部分を抜き書きした。『往生要集』中巻 でも依用されているので参照されたし。二常行三昧者。先方法。次勸修。方法者。身開遮。口説默。意止觀。此法出般舟三昧經 翻爲佛立。佛立三義。一佛威力。二三昧力。三行者本功徳力。
- 二に常行三昧とは、先に方法、次に勧修なり。方法とは。身の開遮、口の説黙、意の止観なり。この法は『般舟三昧経』に出づ、翻じて仏立となす。仏立に三義あり、一には仏の威力、二には三昧の力、三には行者の本功徳力なり。
能於定中 見十方現在佛在其前立。如明眼人清夜觀星。見十方佛亦如是多。故名佛立三昧。
- よく定中において、十方現在の仏その前に在(いま)して立ちたまふを見たてまつること、明眼の人の清夜に星を観るがごとし。十方の仏を見たてまつること、またかくのごとく多し、故に仏立三昧と名づく。
十住婆沙偈云。是三昧住處。少中多差別。如是種種相。亦應須論議。
住處者。或於初禪二三四中間。發是勢力 能生三昧故名住處。初禪少二禪中三四多。或少時住名少。或見世界少。或見佛少故名少。中多亦如是。
- 「十住婆沙」の偈に云はく、この三昧の住処に、少、中、多の差別あり。かくのごとき種種の相もまたまさに須(すべから)く論議すべし。
- 住処とは、あるいは初禅、二、三、四、中間においてこれ勢力を発し、よく三昧を生ず、故に住処と名づく。初禅は少、二禅は中、三、四は多なり。あるいは少時住するを少と名づく、あるいは世界を見ること少、あるいは仏を見ること少なり、故に少と名づく。多、中もまたかくのごとし。
身開常行。行此法時避惡知識及癡人親屬郷里。常獨處止不得希望他人有所求索。常乞食不受別請。嚴飾道場備諸供具香餚甘果。盥沐其身。左右出入改換衣服。唯專行旋。九十日爲一期。
- 身に常行を開す。この法を行ずる時は、悪知識及び痴人、親属、郷里を避け、常に独り処止して他人に希望して求索する所あることを得ざれ。常に乞食して別請を受けざれ。道場を厳飾して諸の供具、香餚、甘果を備へ、その身を盥沐し、左右出入に衣服を改換す。ただ専ら行旋して九十日を一期となす。
須明師善内外律能開除妨障。於所聞三昧處如視世尊。不嫌不恚不見短長。 當割肌肉供養師。況復餘耶。承事師如僕奉大家。若於師生惡。求是三昧終難得。須外護如母養子。須同行如共渉險。須要期誓願使我筋骨枯朽。學是三昧不得終不休息。
- 明師の内外の律を善(よ)くしてよく妨障を開除することを須(もち)ゆ。三昧を聞くところの処(もと)においては世尊を視たてまつるごとくし、嫌はず、恚(いか)らず、短長を見ざれ。
- まさに肌肉を割(さ)きて師に供養すべし。いわんやまた余をや。師に承事すること僕の大家に奉ずるがごとくす。もし師において悪(にく)みを生ぜば、この三昧を求むるもついに得ること難からん。外護の母の子を養ふがごとくなるを須(もち)ひ、同行の共に険を渉(わた)るごとくなるを須(もち)ゆ。須(すべから)く要期誓願して、我れ筋骨をして枯朽せしむとも、この三昧を学んで得ざれば、ついに休息せざるべし。
起大信無能壞者。起大精進無能及者。所入智無能逮者。常與善師從事。終竟三月不得念世間想欲如彈指頃。三月終竟不得臥出如彈指頃。終竟三月行不得休息。 除坐食左右。爲人説經不得希望衣食。
- 大信を起こさばよく壊する者無く、大精進を起こさばよく及ぶ者無し。所入の智は能く逮(およ)ぶ者無し。
- 常に善師とともに事に従ひ、三月を終竟(おは)るまで世間の想欲を念ずること、弾指のあいだのごときをも得ざれ。三月を終竟るまで臥出すること弾指のあいだのごときをも得ざれ。三月を終竟(おは)るまで行休息することを得ざれ、坐食左右を除く。人の為に経を説くも衣食を希望することを得ざれ。
婆沙偈云。親近善知識。精進無懈怠。智慧甚堅牢。信力無妄動。
- 「婆沙」の偈に云はく、「善知識に親近し、精進して懈怠無し。智慧甚だ堅牢にして、信力妄(みだり)に動ずること無し」と。
口説默者。九十日身常行無休息。九十日口常唱阿彌陀佛名無休息。九十日心常念阿彌陀佛無休息。或唱念倶運。或先念後唱。或先唱後念。唱念相繼無休息時。若唱彌陀即是唱十方佛功徳等。但專以彌陀爲法門主。擧要言之。歩歩聲聲念念唯在阿彌陀佛。
- 口の説黙とは、九十日、身常に行じて休息することなく。九十日、口に常に阿弥陀仏の名(みな)を唱へて休息すること無く、九十日、心に常に阿弥陀仏を念じて休息あること無し。あるひは唱念ともに運び、あるひは先に念じ後に唱へ、あるひは先に唱へ後に念じ、唱念相継して休息する時無し。もし弥陀を唱ふるは即ちこれ十方の仏を唱ふると功徳等し、ただ専ら弥陀をもって法門の主となす。要をあげてこれを言はば、歩歩、声声、念念、ただ阿弥陀仏に在り。
意論止觀者。念西方阿彌陀佛。去此十萬億佛刹。 在寶地寶池寶樹寶堂。衆菩薩中央坐説經。三月常念佛。云何念。念三十二相。從足下千輻輪相。一一逆縁念諸相乃至無見頂。亦應從頂相順縁。乃至千輻輪。令我亦逮是相。
- 意に止観を論ぜば、西方阿弥陀仏はここを去ること十万億仏刹にして、宝地、宝池、宝樹、宝堂、衆菩薩の中央に在(いま)して、坐して経を説きたまへるを念ず。三月 常に仏を念ず。なにをか念ずと云う、三十二相を念ずるなり。足下千輻輪の相より一一逆に縁じて諸相乃至無見頂を念ず。またまさに頂相より順に縁じて、すなわち千輻輪に至るべし。我をしてまたこの相に逮(およ)ばしめたまへと。
又念我當從心得佛從身得佛。佛不用心得不用身得。不用心得佛色。不用色得佛心。何以故。心者佛無心。色者佛無色。故不用色心得三菩提。佛色已盡乃至識已盡。
- また念ず。我れまさに心に従つて仏を得べきや、身に従つて仏を得べきや。仏は心を用ひて得ず、身を用ひて得ず。心を用(もち)ふれば仏の色を得ず、色を用ふれば仏心を得ず。何を以つての故に、心ならば仏に心無し、色ならば仏に色無し。故に色心を用ひて三菩提を得ず。仏は色すでに尽くし、乃至識もすでに尽す。
佛所説盡者癡人不知智者曉了。不用身口得佛。不用智慧得佛。何以故。智慧索不可得。自索我了不可得。亦無所見。一切法本無所有。壞本絶本
- 仏の尽(じん)を説きたまふ所は痴人知らず、智者のみ暁了す。身口を用ひて仏を得ず。智慧を用ひて仏を得ず。何を以つての故に。智慧は索(もと)むるに得べからず。自から我を索(もと)むるに了(あきらか)に得べからず、また所見無し。一切の法は本(もと)所有無く、本を壊し本を絶す。
其一 如夢見七寶親屬歡樂。覺已追念不知在何處。如是念佛。 又如舍衞有女名須門。聞之心喜。夜夢從事。覺已念之。彼不來我不往。而樂事宛然。當如是念佛。
- その一、夢に七宝親属を見て歓楽するも、覚めおわりて追念するに何の処にか在ることを知らざるごとく、このごとくに仏を念ずべし。
- また舎衛に女あり須門と名づく。これを聞きて心喜び夜ごとに従ふと夢みるも、覚めおわりてこれを念ずるに、彼来たらず我れ往かずしてしかも楽事宛然たるがごとし。まさにかくのごとく仏を念ずべし
如人行大澤飢渇夢得美食覺已腹空。自念一切所有法皆如夢。 當如是念佛。數數念莫得休息。用是念當生阿彌陀佛國。是名如相念。
- 人の大沢を行くに飢渇して、夢に美食を得るも、覚めおわりて腹空なるがごとし。自ら一切の所有の法を念ずるにみな夢のごとし。まさにかくのごとく仏を念ずべし。数数(さくさく)念じて休息することを得ることなかれ、この念を用ひて、まさに阿弥陀仏国に生ずべし。これを如相念と名づく。
如人以寶倚瑠璃上影現其中。亦如比丘觀骨骨起種種光。此無持來者。亦無有是骨。是意作耳。如鏡中像不外來不中生。以鏡淨故自見其形。行人色清淨所有者清淨。欲見佛即 見佛。見即問問即報。聞經大歡喜
- 人の宝を以つて瑠璃の上に倚(よ)るに、影その中に現するがごとく、また比丘、骨を観ずるに、骨種種の光を起こすがごとし。これを持ち来たる者無く、またこの骨 有ること無し。これ意作なるのみ。鏡中の像の外より来たらず、中より生ぜず。鏡浄なるを以ての故に、自らその形を見るがごとし。行人の色〔情〕 清浄なれば、所有の者も清浄なり、仏を見んと欲すれば即ち仏を見る。見れば即ち問ひ、問へば即ち報じ、経を聞きて大いに歓喜す。
其二 自念佛從何所來。我亦無所至。我所念即見。心作佛心自見心見佛心。是佛心是我心見佛。心不自知心心不自見心。心有想爲癡心無想是泥洹。是法無可示者皆念所爲。設有念亦了無所有空耳
- その二、自ら念ず。仏、何れの所よりか来(きた)る、我もまた至る所無しと。我れ念ずる所 即ち見る、心 仏となり、心 自ら心を見、仏の心を見る。これ仏の心はこれ我が心なれば仏を見る。心 自ら心を知らず、心 自ら心を見ず。心に想あることを痴となす、心に想無きは、これ泥洹なり。この法 示すべき者無し、みな念のなす所なり。たとひ念あるもまた無所有空を了ずるのみ。
其三 偈云。心者不知心。有心不見心。心起想即癡無想即泥洹。諸佛從心得解脱。心者無垢名清淨。五道鮮潔不受色。有解此者成大道。是名佛印。無所貪無所著。無所求無所想。所有盡所欲盡。無所從生無所可滅。無所壞敗。道要道本。是印二乘不能壞。何況魔邪 云云。
- その三。偈に云く、「心は心を知らず。心あつて心を見ず。心に想を起こすは即ち痴、想無きは即ち泥洹なり。諸仏 心に随って解脱を得、心無垢なれば清浄と名づく。」 五道鮮潔にして色を受けず、これを解することある者は大道を成ず。これを仏印と名づく。貪する所無く著する所無く、求むる所なく、想ふ所無し。所有尽き、所欲尽く。従つて生ずる所無く、滅すべき所も無く、壊敗する所も無し。道の要、道の本なり。この印は二乗も壊すること能(あた)わず、いかにいわんや魔をや 云云。
婆沙明新發意菩薩。先念佛色相相體相業相果相用得下勢力。次念佛四十不共法心得中勢力。次念實佛得佛上勢力。而不著色法二身。偈云。不貪著色身。法身亦不著。善知一切法永寂如虚空。
- 「婆沙」に明(あか)す。新発意の菩薩は、先に仏の色相、相体、相業、相果、相用を念じて下の勢力を得、次に仏の四十不共法を念じて心に中の勢力を得、次に実〔相〕の仏を念じて上の勢力を得て、しかも色と法の二身に著ぜず。
勸修者。若人欲得智慧如大海。令無能爲我作師者。於此坐不運神通。悉見諸佛。悉聞所説。悉能受持者。常行三昧。於諸功徳最爲第一。此三昧是諸佛母。佛眼佛父無生大悲母。一切諸如來從是二法生。碎大千地及草木爲塵。一塵爲一佛刹。滿爾世界中寶用布施其福甚多。不如聞此三昧不驚不畏。 況信受持讀誦爲人説。況定心修習如搆牛乳頃。況能成是三昧。故無量無量。
- 勧修とは、もし人、智慧大海のごとくにして、能く我が為に師となる者、無からしめ、この坐において神通を運ぜずして、悉く諸仏を見、悉く所説を聞きて、悉く能く受持ことを得んと欲せば、常に三昧を行ずべし。諸の功徳において最も第一となす。この三昧はこれ諸仏の母、仏眼、仏父、無生大悲の母なり。一切の諸の如来はこの二法より生ず。大千地及び草木を砕(くだ)きて塵となし、一塵を一仏刹となす。その世界の中に満てらん宝を用(も)つて布施するに、その福甚だ多(おほ)からんも、この三昧を聞きて、驚かず、畏れざらんにはしかじ。いわんや信じて受持し読誦し、人の為に説かんをや。いわんや定心に修習すること、牛の乳の構(かま)ふるあいだのごときをや。いわんや能くこの三昧を成ぜんをや。故に無量無辺なり。
婆沙云。劫火官賊怨毒龍獸衆病侵是人者無有是處。此人常爲天龍八部諸佛皆共護念稱讃。皆共欲見共來其所。若聞此三昧如上四番功徳皆隨喜。三世諸佛菩薩皆隨喜。復勝上四番功徳。若不修如是法失無量重寶。人天爲之憂悲。如齆人把栴檀而不嗅。如田家子以摩尼珠博一頭牛 云云 。
- 「婆沙」に云く、劫火、官賊、怨毒、竜獣、衆病、この人を侵さば是の処(ことわり)あること無し。この人は常に天竜八部、諸仏の為に、みな共に護念称讃せらる。みな共に見んと欲して、共にその所に来たる。もしこの三昧の上のごとき四番の功徳を聞きて、みな随喜し、三世の諸仏菩薩もみな随喜せんに、また上の四番の功徳に勝(まさ)る。もしかくのごとき法を修せずんば、無量の重宝を失ひ、人天これが為に憂悲す。齆(あふ)人の栴檀を把(と)りてしかも嗅がざるがごとく、田家の子の摩尼珠を以て一頭の牛に博(か)ゆるがごとし 云云。