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正如房へつかわす御文

提供: 本願力

正如房へつかわす御文 現代語意訳

   面影人は法然『式子内親王伝』石丸晶子著より引用。

 正如房、あなたの御事を伺い、ただただ驚いております。その後は心ならずも疎遠なことになっておりまして、お念仏の御信心もどのようであろうかと、知りたく思っておりましたが、特に新しくお伝えせねばならぬこともなく、また御手紙をさしあげるつてもないような状態で、いつも気になりながらも、何となく御無沙汰に打ち過ぎ、心もとない気持でおりました。

 そんなところへ、今、御病気ただならぬ御様子を伺い、それは大変なことになったなどと思っておりますにつけても、もう一度お目にかかりたくも存じます。最後まで、無事お念仏しおおせることができるかと、心もとなくお思いでいらっしゃいましょうに、ご自分のことよりも、まずわたくしのことをつね日頃御心にかけてくださり、いつもお尋ねくださるのこそ、まことにしみじみ勿体なく、また心苦しくも存じております。

 お招き頂きましたとおりに、気軽に参上してお会いし申したくも思いますし、しばらく他出せずに別時の念仏をおこないたいと決心したばかりですが、それも事情によることですね。

 決心したのを延期してでも、あなたのところに参上すべきであるのですが。

 しかし正如房、よくよく考えてみれば、究極のところ、この世での対面はどうでもよいことです。なまじお目にかかりますと、亡骸に執着する心の迷いにもなることでしょう。

 誰にしても、いつまでもこの世に生き続けることはできません。わたくしも人も、ただ後れるか先立つかの違いがあるだけです。

 生死のあいだを考えましても、いつまで生き続けられるのか、誰にも分りません。たとえ久しい歳月だと申しても、過ぎてみれば夢幻にひとしく、幾程もないみじかい一生でしょう。

 それゆえ、ただきっときっと、同じ仏の国に御一緒に参って、蓮の上で、この世の鬱とうしさを晴らし、ともに過去の因縁をも語り合い、互いに未来の教化を助け合うことこそ、かえすがえすも大事なことですと、お会いした初めから申し上げておりましたが、どうかこのことをもう一度、しっかり思い出してくださいますように。

 かえすがえすも、仏の本願を深くお信じになって、一瞬も疑う心をお持ちにならず、一声でも南無阿弥陀仏と申せば、たとえどんなに罪深い身の人であれ、仏の本願によって、確実に往生するのだと思し召され、よくよくただ一すじにお念仏なさってください。

 わたくしたちの往生は、決して、わたくしたち自身の善い悪いによってするのではありません。 ひとえに仏の御力によるばかりなのです。自分の力だけでは、どんなに立派で貴い人といいましても、末法の世の今、すぐに浄土に生まれるようなことは、なかなかあり難いことでしょう。それに第一、浄土に生まれるのは仏のお力によるのですから、どんなに罪ふかく愚かな身であっても、浄土に往生するのはそれには関係いたしますまい。ただただ、仏の願力を信じる、信じない、のいずれかにこそよることでしょう。

 ですから、観無量寿経にもこう説かれております。生まれてよりこのかた、念仏を一度も称えず、目ぼしい善根もなく、朝夕ものを殺したり、盗みをしたり、そんな罪ばかりをつくって歳月を暮らし、しかも全く懺悔の心を起こさず明け暮れを送っていた者が、息を引きとるときに、念仏の尊さを教える善知識に出会い、ただ一声、南無阿弥陀仏と申したことによって、以後死者の世界で五十億劫の長い間輪廻する罪をゆるされ、化仏菩薩三尊の来迎にあずかり、浄土に迎えられた、と。そして観無量寿経によれば、そのとき菩薩は「仏の名を称えたたゆえに汝の罪はゆるされた。わたしが来てお前を浄土に迎えるのだ」、と仰せられたそうです。いや、お賞めになったと申します。

 また五逆罪という、父を殺し、母を殺し、邪な心を抱いて仏身をそこない、諸宗を罵倒する、そんな重い罪をつくり、しかも一念も懺悔の心がないところから、その罪によって無間地獄に堕ち、当然、多くの劫を輪廻して苦しみをうけるはずの者が、臨終のときにやはり念仏を勧める善知識に逢って、南無阿弥陀仏と十声となえた。ところが一声のうちに八十億劫の長い間を輪廻する罪を滅して往生する功徳のあるところから、この者も十声一声の念で往生いたしました。

 正如房よ、まことに仏の本願の御力によらずして、どうしてこんなことがありえましょう。仏の本願は空しくはなかったのだ、わたくしたち人間一切を救うお力があったのだ、ということは、これだけでも信じられる、とわたくしは思います。

 これはまさしく仏の説く教えです。わたくしが勝手にいい出しているのではないのです。そして仏のお言葉は一ことも誤りがないと申しますから、正如房、ただ仰いで信ずべきものでありましょう。

 もしこのことを疑うならば、仏は嘘をついていると思うことと同じことです。仏を嘘つきだと思う、人がもしそう思うならば、その罪というものもあるのではないかと、わたくしは思います。

 正如房よ、ただただ、深くお信じください。この一事が大切です。

 ところで、お手紙を拝見して、あなたが往生しがたいようにいう人々がまわりにいることが、いくえにも、かえすがえす、残念なことで、あきれております。

 そんなことを、たとえいかなる智者、身分高き人々が仰言ろうとも、どうかそれに心を動かされたりなさらないでください。おのおのの道には一流の、位高き人であろうとも、悟りを異にし、行を異にする人のいうことは、浄土往生のためには、むしろゆゆしき退縁とも、悪知識ともなるものであります。ただわたくしの申すことをお聞き入れになってください。わたくしが申し上げることをお聞き入れにならずして、どうなさいますか。ただ一すじに、仏の御力をおたのみになってください。

 悟りを異にする人々の言にまどわされ、往生を一念でもお疑いになってはなりません。  このことは、善導和尚もよくよく細かに仰せ置かれたことです。たとえ多くの仏が空に満ち満ち、光を放ちつつ、「悪を尽した凡夫であっても一念によって必ず救われるということは嘘であるぞ、信じてはならぬ」、と仰せられようと、それによって少しでも疑う心を起こしてはならぬ、と。

 そのわけは、阿弥陀仏がまだ仏におなりにならなかった昔のことです。阿弥陀が初めて道心を起こされたときのこと。「わたしが仏になったとき、わたしの名を一声でも称えた者に対して、わたしはわたしの国に彼を生まれさせずにはおかない。そうでなければ、わたしは仏にはならない」、とお誓いになられました。そのお誓いはむなしくならず、阿弥陀は仏になられたのです。

 また釈迦仏も、この娑婆世界にいらっして、一切衆生のためにその本願を説かれ、念仏往生をお勧めになりました。

 そして六方恒沙の(広犬無辺の大宇宙の)もろもろの仏たちも、「念仏をとなえれば必ず往生するという釈迦仏がお説きになったこの教えは真理である。もろもろの衆生は少しでも疑う心をおこしてはならぬ」、と仰言っておいでです。

 阿弥陀仏が本願とされ、釈迦仏が本願としたこの教えは、このように諸仏みな、ことごとくが、その正しさを証していることです。証誠しておられます。

 この上は、これらの仏とはちがう一体なんという仏のいうことばに耳をかし、これらの仏たちの本願から身を退けて、凡夫は往生しないなどと仰せられますか。そんな仏が現れて、そんな僻ごとをいおうとも、それにびっくりして信心をやぶり、疑う心をお起こしになってはなりません。

 ましてや仏ではなく、仏の下の位にある菩薩のいうことなどに、また僻支仏のいうことなどに、耳をかしてはならないと、善導和尚は説いておられます。

 ましてや今の世の、凡夫にすぎぬ人々のいうことに、どうしてわたくしたちが心をさわがせねばならぬいわれがありましょうか。そんな人のいうことに惑わされ、往生を疑う心など、決して決して、起こされてはなりません。

 いかに立派な人といえども、正如房よ、善導和尚にまさって往生の道を知る人はおりますまい。善導は凡夫ではなく、阿弥陀仏の化身であったのです。阿弥陀仏がその本願を世に広め、一切衆生を往生させんとして、仮に人と生まれて、善導和尚になったのです。ですからその教えは人間が考えたものではなく、いってみれば仏説に他ならない。あなかしこあなかしこ。

 疑心を起こされてはなりません。またお目にかかった初めから、仏の本願に信心をお起こしになられた、そのお心を今まで拝して参りましたのに、なぜまた、今になって往生をお疑いにはなりますか。経に書いてあるようなことは、まだ往生の道もよく知らぬ人のためのものです。しかしあなたは、今までよくよく往生についての教えをうけて来られ、わたくしも申し上げて参りました。そして日ごろ御念仏を称えて、その功徳がすでに積もっているではありませんか。たとえ臨終の善知識が枕辺におりませんでも、往生は疑いなく、必ずなさることであります。


 あれこれ心を惑わせることを言う人がいるのは残念なことです。  ただ、どんな人であれ、たとえ尼女房のような身分低い人でも、いつもあなたのかたわらにいる人に、念仏をおさせになって、それをお聞きになり、どうかお心一つを強くお持ちになってください。

 そしてどうか、誰かが枕辺につき添い、善知識になってほしいと願う心をお捨てになり、仏だけを善知識にたのみ参らせてください。

 もとより仏の来迎は、臨終正念のためであります。そうでありますのに、とかく人は、自分が臨終に正念をたもって念仏を称えたために仏が迎えに来てくださったと考えがちですが、それは仏の願を信ぜず、経の文を信ぜぬ僻ごとです。『称讃浄土経』には、仏は慈悲の心から人間を助け、往生の一点に向けて、その人間の心を乱させない、と説かれております。

 ですからこれは、平生元気なときによくよく称えておいた念仏によって、仏が来迎されるとき、正念に住するのだと申すべきでしょう。

人はとかく、仏をたのむ心うすく、人間世界のつまらぬ凡夫を善知識にたのもうとし、日ごろ称えておいた念仏の功徳などつまらないものに思いなして、そんなことなど忘れてしまい、ただ臨終正念を凡夫の善知識によって得ようとしますが、それはまことにゆゆしき我執にすぎません。

正如房、これをよくよくお心にとめてください。つねに御目をふたぎ、掌を合わせ、御心をしずめて、祈ってください。願わくば阿弥陀仏の本願あやまたず、臨終のとき必ずわが前にお姿を現し、慈悲を加え助けて、われを正念に住せしめ給えと、お心でも願い、また口に出しても称えてください。

 これに勝ることはありません。ゆめゆめ、決して心弱く思し召されますな。  わたくしも、このように引き籠もって別時の念仏を称えようと心に決めましたとはいえ、この念仏がわが身一つのためとは、初めから思っておりませんでした。そしてちょうどそんなときに、御病篤いことを承ったのです。

 この上は、今よりのち一念も残さず、ことごとくみな、あなたの往生の助けとなそうと発願し、そのように廻向させて頂きたく、必ず必ず、何としても思召しのままに、あなたが願われるとおりの往生を遂げさせ申さずにはおかないと、深く深く念じております。

 わたくしのこの志がもしもまことであるならば、どうしてこの一念が、あなたの往生の助けとならぬわけがありましょう。たのみとされてしかるべきと存じます。

 わたくしがかねて申しあげて参りました肝要の一語を、御心にとめておられるということも、あなたとの御縁がこの世だけのものではなかったのだろう、前世からの御縁であったにちがいないと、前の世のことも知りたく、御縁のふかさがしみじみと胸に迫ることでございます。そんなあなたとの関わりを思えば、この度、ほんとうにあなたが先立たれますにしても、また無常の世のことですから、わたくしのほうが思いがけずに先立つことになりましても、遂には同じ阿弥陀の浄土に参って、そこでふたたびお会いいたしますのは疑いのないことです。

 夢まぼろしのこの世で、もう一度お会いしたい、などとわたくしも思いましたのは、本当はどうでもよいことだったのでしょう。

 そんなことは、あなたもどうかきっぱりと思召し捨てて、ただどうか、いよいよ深く往生を願う心を深めていき、お念仏にもいっそう励まれて、淨土で待とうとお考えになってください。

 かえすがえすも、正如房よ、往生を疑ってはなりません。

 五逆十悪の重い罪をつくった悪人でさえ、なお、十声一声の念仏によって往生をいたしますのに、ましてあなたが、罪をつくるような何ごとをなさったというのでしょう。たとえ罪をつくったとしても、何ほどのことでありましょう。この経に説かれている罪人とは較ぶべくもありますまい。

 それにまず、あなたは発心して出家を遂げられ、有り難い仏法にも縁を結び、時にしたがい、日にしたがって、善根のみを積んでいらっしたではありませんか。

 さらにその上ふかく決定往生の法文を信じ、一向専修の念仏を修して、一すじに弥陀の本願を頼みとしてすでに久しい年月を経ておいでです。一体なにごとにおいて、たとえ一つでも往生を疑うことがありましょうか。

 百人は百人とも、十人は十人とも、全員往生するのだと、善導和尚は仰言っておられます。このお言葉によっても、どうしてあなた一人が、その往生の数に洩れるというようなことがありましよう。

 善導和尚をたのみとし、仏の本願にひたすらお縋りになってください。決して決して、心弱くお考えになってはなりません。あなかしこ、あなかしこ。


 お招き頂きましたのに参上しないことの申し開きをいたしたく思いますままに、つい余りにも長いお手紙になってしまいました。

 御病重い折柄、不調法だとは思いましたが、もしも思いの外に軽快になられることがありましても、それをわたくしは知ることができませんので、この機会に申し上げなければ、いつの機会を待てばよいのでしょうか。

 もしもあなたが落ち着いてお聞きになられて、一度でも多くお念仏を称えようというお心になられる、その助けになることもあるかも知れないと思い、筆を止めることが出来ず、こんなに詳しく認めることになりました。

 御気分がいかがか分りませんので、加減が分らず、淋しく、わびしい思いです。  もし、余程弱っておられるといたしましたら、このお手紙は余りに長すぎます。そのときはどうかお使いの方が要点をかいつまんでお伝え申し上げてください。

 あなたのお気持を承り、何となくあなたがしみじみと愛しく思われ、重ねてまたこのような追伸をしるしました。