法然教学の研究 /第二篇/第一章 法然聖人における回心の構造/第七節 三学無分の自覚
提供: 本願力
(法然教学の研究から転送)なお文字の強調やリンク、脚注の読下文等は私において付した。
目次
第一章 法然聖人における回心の構造
第一節 回心の時期と機縁
法然聖人(一一三三-一二一二)の決定的な回心が承安五年、四十三歳のときであったということは、最も古層に属する伝記の『源空私日記』(法然上人伝全集・七七一頁)をはじめ『本朝祖師伝記絵詞』(法然伝全・四七三頁)、『行状絵図』(法然伝全・二四頁)などの伝記類から、良忠の『伝弘決疑鈔』二(浄全七・三二頁)等にいたるまで、殆どが一致して伝えているところである。もっとも覚如の『拾遺古徳伝』(法然伝全・五九八頁)は承安五年、四十二歳としており、『元亨釈書』(法然伝全・九八七頁)の「法然伝」は承安四年四十二歳としているが、これらとても承安五年四十三歳説をくつがえすほどのものではない。また愚勧住信の『私聚百因縁集』(法然伝全・九八五頁)には三十三歳回心説がでていて、これに注目する人もあるが、私はやはり承安五年四十三歳説に従っておく[1]。
もちろん法然の長い念仏聖としての求道的な生涯の間には、宗教経験の深まりによる展望の開けや、教学的、思想的な深化と展開は、回心以前にもあっただろうし、以後もありつづけられたことであろう。ことに「選択」という法然教学の中核になる用語を導入して、選択本願念仏という独自の教学体系が確立するのは、少くとも五十歳を過ぎておられたと考えられるが、それについての考察は今は省略する[2]。
ところで法然の決定的な回心を成立させたのは、直接的な師弟の面授によるものではなかった。『阿弥陀経釈』(古本『漢語灯』三・古典叢書本・二六頁)に、
- 爰於善導和尚往生浄土宗者、雖有経論、无人於習学、雖有疏釈、无倫讃仰。然則无有相承血脈法、非面授口決儀。唯浅探仏意、疎窺聖訓 「隠/顕」ここに善導和尚の往生浄土宗においては、経論ありといへども、習学する人なし、疏釈ありといへども、讃仰するに倫(ともがら)なし。しかればすなわち相承血脈の法あることなし、面授口決の儀に非ず。ただ浅く仏意を探り、疎(まばら)に聖訓を窺ふ。
といわれている通りである。それゆえ決定的な智解は生じ難く、仏祖の遺訓の真意を了解することができず、苦心の求道を余儀なくされたといわれている。それだけにまた最終的には善導に依りながらも、善導教学を超えて、極めて独創的な教学体系をうちたて、深遠な宗教的領域を開示されるに至ったのである。毘沙門堂の明禅が『述懐抄』(『行状絵図』四十一・法然伝全・二六〇頁)のなかに、『選択本願念仏集』を評して「むかしも今もこの義を立つる人なければ、失たるべくば人にすぐれたる失たるべし、徳たるべくば人にすぐれたる徳たるべし、ゆめく普通の義に准ずべからず」といって、そのすぐれた独創性を讃嘆しているが、そのような法然教学を支えているものは、いうまでもなく法然の甚深なる宗教体験であった。
法然の回心に決定的な影響を与えた書物について、前掲の『阿弥陀経釈』や『選択集』後序(真聖全一・九九三頁)には、善導の『観経疏』であったといわれている。すなわち『選択集』に、
- 於是貧道、昔披閲茲典粗識素意、立舎余行云帰念仏。自其已来至于今日、自行化他唯縡念仏。 「隠/顕」ここに貧道(源空)、昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を識る。立ちどころに余行を舎(とど)めてここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡(こと)とす。
いわれているが、「茲典」とは『観経疏』をさしていた。
ところが諸種の伝記によると、次のような五説に分類できるほど異説がみられるのである。第一は、天台の荊溪湛然の『止観輔行』の「諸経所讃多在弥陀」という常行三昧の釈下の文であったとするもので、『本朝祖師伝記絵詞』(法然伝全・四七三頁)、増上寺本『法然上人伝』(法然伝全・五八七頁)の説である。第二は、源信の『往生要集』であったとするもので、『元亨釈書』法然伝(法然伝全・九八七頁)がそれである。第三は、広く中国の曇鸞、道綽、善導、懐感、我が国の源信によるとするもので、『源空私日記』(法然伝全・七七〇頁)の説である。第四は、『往生要集』を先達として、道綽、善導の釈義にいたり、ついに善導の釈によって回心されたとする、『醍醐本法然上人伝記』(法然伝全・七七三頁)、『知恩講私記』(法然伝全・一〇三六頁)、『拾遺古徳伝』(法然伝全・五九六頁)、『法然上人伝(十巻伝)』(法然伝全・六六一頁)等がそれである。第五は、直ちに善導の『観経疏』によるとするもので、『黒谷源空上人伝(十六門記)』(法然伝全・七九六頁)、『徹選択集』(浄全七・九五頁)等がそれである。
すでにみたように、法然自身が『観経疏』に依ったといわれているのだから、そうみるべきだが、しかしそこに至るまでには『往生要集』が先達の役割をはたしたことは充分考えられるから、正確には第四説のように見るべきであろう[3]。
第二節 黒谷隠遁と叡山浄土教
法然は、十五歳のとき皇円阿闍梨(-一一六九)を戒師として出家得度し、師について天台三大部の研鑽をおこなったが、十八歳で叡山西塔の別所、黒谷へ隠遁し、慈眼房叡空(-一一七九?)の門にはいられたといわれている。その頃、黒谷別所の指導者だった叡空は、藤原伊通の子で、大原の良忍の弟子といわれ、大乗円頓戒を伝承する戒師として貴族間に信望があり、右大臣源雅定や、権大納言藤原邦綱らに授戒をしていることが、『台記』久寿元年五月の条や、『玉葉』養和元年閏二月の条に見える[4]。尚貴族とのつながりについて、伊藤唯信氏によれば、叡空、法然、信空などのいた頃の黒谷別所は、葉室流藤原氏と特に関係が深く、後に形成される法然教団にも、藤原通憲一族と重層しつつ、この関連がつづいていくといわれている[5]。また叡空は真言にも通達していたといわれるが、中心はやはり良忍系の『往生要集』を指南として浄土の業を修する持戒堅固な念仏聖だった[6]。法然と『往生要集』、及び円頓戒との深い縁は、叡空を通して結ばれたものである。
井上光貞氏によれば、院政期には顕密の大寺院の所領内に別所が発達し、そこに世俗化した本寺を離れて真剣に求道する僧、特に聖上人らが集住するようになり、別所の数も大小あわせて六十四ケ所に及んだという[7]。叡山には神蔵寺、帝釈寺、黒谷、霊山、安楽院の五ケ所に隠遁地があり、その外に善峰別所、大原別所、備中新山などが天台系の別所として有名である。また四天王寺の西門の外にあった四天王寺別所の念仏三昧院、東大寺別所の山城の光明山寺、興福寺別所の山城の小田原などはよく知られた別所である。別所に隠棲した人々は徳行清浄の人としてあがめられ、京や畿内周辺に布教して、法華信仰や念仏を鼓吹したが、各地の願生者や遊行聖たちは、好んで別所を訪れて結縁したから、民間宗教家や庶民との接触も深くなり、それぞれに特異な信仰集団が別所を中心として形成されるようになってきた。大原別所では良忍(一〇七二-一一三二)が来迎院を建てて融通念仏をすすめ、光明山寺には永観(一〇三二-一一一一)が住して浄土教を鼓吹し、小田原別所には教懐(一〇〇一-一〇九三)が出て真言念仏をすすめ、高野山の別所からは覚鑁(一〇九五-一一四三)が出て新義真言宗をおこすと同時に、独自の真言浄土教を樹立していった。こうして別所を中心として、浄土教の独創的な思想と伝統が形成されていくので、井上光貞も指摘されているように、別所の発達こそ、平安朝的なものから、鎌倉的なるものへの過渡期の現象として注目すべきものなのである[8]。
ところで黒谷別所については、『今昔物語集』一三(岩波日本古典文学大系二四・二四五頁)に、正暦の頃、叡山の僧明秀が「年四十に成る時に道心発し、西塔の北谷の下に黒谷といふ別所あり、その所に篭居して静に法華経を読誦し、三時の行法不断して勤め行ふ」といわれたように、隠遁した聖たちの篭居する所であった。また法然が隠遁された頃のこととして、異本『保元物語』巻之二(国民文庫・五二頁)には、二十五三昧会を修するところとして記されている。
二十五三昧会は寛和二年(九八六)五月に、横川の首楞厳院の住僧を中心として結成された別時念仏を行う念仏結社で、覚超をはじめ二十五人の根本結衆によって始行され、その年の九月には慶滋保胤(寂心)が『八ケ条起請』を、さらに永延二年(九八八)には源信が十二ケ条の『首楞厳院二十五三昧起請』(恵心全一・三三九頁)を草して、規約を厳格にしている[9]。それによれば、結衆は毎月十五日の午后に集会して、先ず『法華経』の講讃を行い、夕方から翌朝まで不断念仏を行じ、その間に十二箇軸の経文を読み、二千余遍の念仏を唱えるのである。しかも月一回の講経念仏にとどまらず、結衆は永く父母兄弟の想いをなし、もし病者が出れば二人づつ交替で看病し、重病人は往生院へ移して臨終まで看病すると同時に、正念往生をとげさせるようにつとめる。死後は花台廟(安養廟)と名づける墓所に葬り、追善をするが、特に光明真言を唱えて土砂加持をおこなうべきことを規定している。
また往生人は必ず結衆に、往生をとげた旨を夢告することを誓いあっている。このようにみてくると、法華信仰と密教とが融合した、いかにも天台的な浄土信仰による念仏結社であったことがわかる。
法然が二十五三昧の結衆であったという証拠はないが、黒谷別所で二十数年間も過された念仏聖であったのだから少くとも二十五三昧会に結縁し、天台浄土教を実践されたことはいうまでもなかろう。
叡空の師、大原の良忍は、もと叡山の常行三昧堂の堂衆(僧)であったが、大原に隠遁し、『法華経』一部の読誦と、念仏六万遍を日課とする法華念仏の兼修者であった。特に引声阿弥陀経や懴法など、浄土教音楽に通達しており、天台声明を綜合統一して大原声明に一時代を劃している。浄土教の行業としては、日課念仏のほかに白毫観を実修し、極楽の依正二報を観じたといわれ、ことに「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行……」という理念にもとづいて、結縁衆相互の念仏の功徳の融通を説く、融通念仏の元祖として仰がれている[10]。また円頓戒の戒脉を禅仁と観勢から承けた戒師としても知られ、その系統は、薬忍(大原系)、叡空(黒谷、浄土宗系)、厳賢(平野大念仏寺系)の三者に承けつがれて発展していった[11]。
法然は、叡空を通して、このような良忍教学を学ばれたのだから、当然円頓戒をたもち、『法華経』読誦と密教を兼修する天台系の念仏聖となっていったわけである。従ってその浄土教学の中心は『往生要集』であった。凝然は『浄土法門源流章』(浄全一五・五九一頁)に「黒谷の叡空大徳は、此集(往生要集)を伝持して浄業を成弁す、源空は叡空に随って此集を学び旨を得」(原漢文)と伝えている。その良忍、叡空系の『往生要集』観は、後に述べるようにあくまでも観仏中心の念仏行を説くものとし、称名は観念成就のための方便加行であるか、往生行としても観念不堪の劣機に逗じた方便の劣行とみなしていたのであった。後年、ある門弟から『観経』の説のように色相観をなすべきではないかと問われたとき、法然は「源空もはじめはさるいたづら事をしたりき、いまはしからず、但信の称名也」(『和語灯』五・真聖全四・六七三頁)といわれているが、観仏三昧を修行されたのは、黒谷時代のことにちがいない。
源信(九四二-一〇一七)の『往生要集』は、伝智顗撰の『十疑論』や道綽の『安楽集』、善導の『往生礼讃』『観念法門』、懐感の『群疑論』等の中国浄土教と、わが国の智光(七〇九頃-七七〇頃)以来の浄土教、特に師の良源(九一三-九八五)の『九品往生義』や、空也(九〇三-九七二)、千観(九一八-九八三)等の影響をうけ、さらに同時代の禅瑜(九一三-九九〇)、慶滋保胤(-一〇〇二)、増賀(九一七-一〇〇三)、覚運(九五三-一〇〇七)等と相互に影響しあいながら成立した我が国では初めての本格的な浄土教の信仰的、実践的な教義書であった。そこには『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』等の浄土教典をはじめ多くの経典と、竜樹の『十住毘婆沙論』や『大智度論』、天親の『浄土論』などの論書、それに中国の多くの浄土教家の釈が引用されており、石田充之氏が指摘されたように「奈良朝までに伝来書写された浄土教諸経論釈の、日本における最初の綜合的実質的運用をなすもの」であった[12]。
『往生要集』の成立については、その奥書(真聖全一・九二五)に「永観二年甲申冬十一月、於天台山延暦寺首楞厳院、撰集斯文、明年夏四月畢于其功矣」とあるところから、一般には永観三年(寛和元年・九八五・四十四歳)のときに完成したとみられている。しかし永観二年頃から、永延元年(九八七・四十六歳)頃にかけての撰述ではないかともいわれる。ともあれこの書は成立して間もなく、同時代の浄土教家であった静照(-一〇〇三)の『極楽遊意』や、覚超(九六〇-一〇三四)の『住生極楽問答』に引用されたのをはじめ、平安時代を通じて叡山の学僧は勿論、南都の学僧たちや貴族の間にもひろく流行しており、ことに念仏聖たちは、これを指南の書と仰いでいったことが各種の往生伝によって知ることができる。すでにのべた二十五三昧会をはじめ、源信の指導ではじまったという迎接会、迎講とよばれる庶民的な講会も『要集』の影響下に成立し発展していったものである。迎講については、源隆国編と伝えられている『今昔物語』一五(岩波日本古典文学大系本・三七五頁)の「始丹後国迎講聖人往生語」に、丹後の聖人が、迎講の最中に息絶え往生したという説話をあげている。又『続本朝往生伝』の大江挙周伝(続浄全一七・三〇頁)や、『後拾遺往生伝』中の安部俊清伝(同上・一一五頁)、『三外往生記』の沙門信敬伝(同上・一四五頁)等に迎講を修したことが伝えられていて、これが民衆教化に大きな役割をはたしていたことが窺われる。又平安時代の中期から院政期にかけて盛んに造られてきた阿弥陀堂を中心とする浄土教芸術も、『要集』を抜きにしては考えられないほどである。
『往生要集』の教学についてくわしくのべるいとまはないが、法然が良忍、叡空の教系の『往生要集』観を どのように超え、またいかにして善導教学に接近していかれたかは窺っておかねばならない。醍醐本『法然上人伝記』一期物語(法然伝全・七七三頁)に、
- 惣我期(朝カ)所来到聖教、乃至伝記目録、無不一見、爰煩出離道、身心不安。抑恵心先徳、造往生要集、勧濁世末代道俗、就之欲尋出離之趣、……但於百即百生行相者、已譲道綽善導釈委不述之、是故往生要集為先達而入浄土門、此宗奥旨、於善導(釈カ)二反見之思往生難、第三反度、得乱想凡夫、依称名行、可往生之道理、但於自身出離、已思定畢。 「隠/顕」すべて我期(朝カ)来到するところの聖教、ないし伝記目録、一見せざることなし、ここに出離の道に煩いて、身心安からず。そもそも恵心の先徳、往生要集を造りて、濁世末代の道俗を勧む、これに就いて出離の趣を尋ねんと欲す、……ただ百即百生の行相においては、すでに道綽・善導の釈に譲りて、くわしくこれを述べす、この故に『往生要集』を先達となし浄土門に入るなり、この宗の奥旨を窺(うかが)ふに、善導(釈カ)において二へんこれを見るに往生難しと思へり、第三べん度び、乱想の凡夫、称名行に依つて、往生すべきの道理、ただ自身出離において、すでに思い定めおわんぬ。
といわれている。ここに「百即百生の行相」すなわち決定往生の行を求めて、『往生要集』から善導教学へと移行したといわれているが、同じ趣旨のことが、法然の「往生要集釈」(古本『漢語灯』六・古典叢書本・一四頁)にものべられている。
- 私云。恵心尽理定往生得否、以善導・道綽而為指南也。又処々多引綽・導、用於彼師釈可見之。然則用恵心之輩、必可帰道綽・善導也。依之先披綽師安楽集、覧之分聖道浄土二門仏教釈見之、次善導観経疏見之矣。 「隠/顕」私に云く。恵心 理を尽して往生の得否を定むるには、善導・道綽をもつて指南となすなり。また処々に多く綽・導とを引きて、彼の師の釈を用ふ これを見るべし。しかればすなわち恵心を用いるの輩は、必ず道綽・善導に帰すべし。これに依つてまず綽師の安楽集を披(ひら)きて、これを覧(み)て聖道浄土の二門の仏教を分かつの釈これを見よ、次に善導『観経疏』これを見るべし。
これは『往生要集』下末、往生階位釈(真聖全一・八九七頁)に「凡下の輩も亦往生することを得ば、云何ぞ近代彼の国土に於て求むるもの千万なるも、得るものは一二も無きや」と問い、それに答えて『安楽集』(真聖全一・四〇五頁)の三不三信釈と『往生礼讃』前序(真聖全一・六五二頁)の専雑得失の文を引用し、三不信の雑修の者は往生を得ず、三信の専修の者は往生を得ると釈されたものをさしている。但しここでは専修とは『礼讃』にあらわされた、五念、三心、四修を指すとわずかに註記するだけで詳細な釈はなされていないから、直接善導について学ぶべきであるといわれているのである。しかしさらにいえば『要集』に詳説されていないからというだけではなくて、むしろ『要集』を超えて、直ちに善導教学に移行せよといわれているのであろう。たとえば『礼讃』の三心釈と四修釈は、『要集』の「大文第五助念方法」の第二修行相貌釈(真聖全一・八一六頁)に、また『観経』の三心は「大文第九往生諸行」(真聖全一・八八六頁)に引用されているし、五念門は「大文第四正修念仏」(真聖全一・七八〇頁)に詳しく釈されているが、『礼讃』に安心、起行、作業として体系化されていた三心、五念、四修とは、そのあつかい方がちがっていた。それゆえ専修といっても、必ずしも善導のいわれるような意味での行業ではなかったとみるべきである。それは源信が善導の『観経疏』、特に『散善義』を読んでおられなかったためでもあった [13]。ともかく決定往生の信心を確立しようとされていた法然は、「百即百生」の専修の行の真相を見きわめるためには善導教学に移行しなければならなかったのである。
第三節 源信の『往生要集』
何時のことか不明であるが、叡空が師の良忍の説に随って『要集』を観念中心の書として講ぜられたとき、法然は称名中心説を主張して師弟が鋭く対立したということが、『拾遺古徳伝』三(法然伝全・五九七頁)に伝えられている。「経論章疏をみるに一部を序題にかえして料簡する是故実なり」といって、『要集』は序題の文意にすわってみれば、称名を中心として明かした書と領解すべきだと法然は主張されたというのである。それは法然の「往生要集料簡」(古本『漢語灯』六・古典叢書本・二一頁)に、
- 夫序者預略述於一部奥旨、以示部内元意者也。然序中既云依念仏一門。明知、此集意、以諸行不為往生要、以念仏為要也。「隠/顕」それ序とは預略して一部の奥旨を述ぶ、もつて部内の元意を示すなり。しかるに序の中に既に念仏一門に依ると云へり。明に知んぬ、この集の意、諸行をもつて往生の要となさず、念仏をもつて要となすなり。といわれたものと同意で、法然の『要集』観の据りであった。
ところで『要集』の序題(真聖全一・七二九頁)には、
- 夫往生極楽之教行濁世末代之目足也。道俗貴賎誰不帰者。但顕密教法其文非一、事理業因其行惟多。利智精進之人未為難、如予頑魯之者豈敢矣。是故依念仏一門、聊集経論要文。披之修之、易覚易行。 「隠/顕」それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。 道俗貴賤、たれか帰せざるものあらん。 ただし顕密の教法、その文、一にあらず。 事理の業因、その行これ多し。 利智精進の人は、いまだ難しとなさず。 予がごとき頑魯のもの、あにあへてせんや。 このゆゑに、念仏の一門によりて、いささか経論の要文を集む。 これを披きこれを修するに、覚りやすく行じやすし。
といわれている。すなわち浄土の教法を「濁世末代の目足」として規定し、それに救いを求める自己を顕密の教法によって解脱することのできない頑魯の者、すなわち鈍根無智なる下機として位置づけられている。
浄土教をもって末法を救う教法とみられたのは、中国浄土教家、特に道綽の『安楽集』の影響であったと考えられるが、源信自身は、自己のおかれている現実を末法としてではなく、像法の末とみられていたようである。『横川首楞厳院二十五三昧起請』(恵心全一・三五七頁)に「方今は像法の寿、喉に至る、人の世の事は夢の如し、穢土を捨てて浄土に生ずるは、此の時に非ずして又何の時ぞや」(原漢文)といわれているからである。しかし迫り来る末法を目前にして、ふるえるような危機意識をもっておられたことはよくわかる。源信が現時点を像末とみられたのは、後に詳述するように当時の天台宗で支配的であった、正法像法各千年説に依っておられたからである。そしてまだ末法ではないが、末法に準ずる像法の季(すえ)に生きる下機として自身を位置づけ、かかる時機を救う教法として往生極楽の教行を見定めようとされている発想を、法然は学んでいかれたのであろう。
ところで源信は、自身を「頑魯の者」といわれているが、それは『要集』下末、「大文第十問答料簡」(真聖全一・八九六頁)に『観経』の九品の地位を論じて「下品の三生は別の階位なし、但これ具縛造悪の人なり」とし、この「下品の三生は豈我等に非ざらんや」といって、自身を下三品の悪機に同ぜられているものと対応しているといえよう。従ってそれは「大文第四正修念仏」の観察門(真聖全一・八〇九頁)において、「相好を観念するに堪えざるもの」といわれた観念不堪の劣機にあたり、「大文第八念仏証拠」(同・八八二頁)に「極重の悪人は他の方便なし、唯仏を称念して極楽に生ずることを得」といわれたような下々品の無他方便の機にきわまる筈である。もっとも『往生要集』やその他の著作、及びその行業などをみるかぎり、源信自身が下品下生にまで自己を追いつめ、無他方便というのっぴきならない境位において、浄土教学を樹立されているとは言い切れないものがある[14]。むしろそれはやがて出現される法然、親鸞によって開示される課題だったというべきであろう。
しかし少なくとも、法然は末法における頑魯の下機を救う時機相応の教法としての浄土教は、序題に据してみたときの『要集』のような文脈において把握されねばならないと考えられたにちがいない。だからこそ、あえて伝統的な観仏中心の師説に異議を唱え、称名中心の書として『要集』を再解釈すべきであると主張されたのであろう。
こうした立場を明確に出されたのが、広、略、要の三例をもうけて要集釈を行うことであった[15]。すでに下三品の機、ことに無他方便の下々の悪機に説き与える行法ならば、『観経』に説かれているように称名の一行でなければならない。専修念仏は、本来下品往生の境位において成立する行法だったのである[16]。しかし『要集』における悪人往生は、むしろ特殊例であって、それを浄土教の本質として普遍化し、教学の前面におし出すまでには至っていないところに、源信の浄土教学の限界があった。従ってたとえ専修といわれていても、それが万人の道としての普遍性と、浄土教の本質として絶対的な意味をもつ、いわゆる決定往生の行業として確立されていたわけではなかったのである。法然が専修念仏の決定的意味を求めて、善導教学へ移行しなければならなかった所以である。
『要集』において、悪人往生が普遍性を与えられていないということは、その戒律観、とくに破戒の扱い方をみればよくわかる。「大文第五助念方法」の止悪作善(真聖全一・八三七頁)に、念仏三昧を行ぜんとするものは浄戒をたもつべきであるとし、「若し堅く十重四十八軽戒を持たば、理必ず念仏三昧を助成し、亦応に任運に余行をも持得すべし」といって、浄土教においても持戒が修行の基礎であるとされている。すなわち浄心をもって仏を念ずる念仏三昧の境地にいたれば、自ずから罪を滅するから必ずしも持戒をあげつらう必要がないが、濁乱心しかない我等は必ず浄戒を持つべきであるというのである。但し、もし破戒せるものは、「破戒し已りて後に前の罪を滅せんがために一心に念仏す、此が為に薬と名づく、もし常に毀犯せば三昧成じ難し」(真聖全一・八四一頁)といい、破戒すれば念仏して懴悔し、また戒をたもつようつとめるべきであるというのである。そして「総結要行」には、往生の要行として七法をあげ、「護三業是止善、称念仏是行善」といって持戒念仏を勧めているのである[17]。
ところで「大文第十問答料簡」助道資縁(同・九一九頁)に、凡夫は破戒し易いが、その場合は如何にすべきかと問い「答、如是問難、是則懈怠、无道心者之所致也、若誠求菩提、誠欣浄土者、寧捨身命、豈破禁戒、応以一世勤労、期永劫妙果也」「隠/顕」答ふ。かくのごとき問難は、これすなはち懈怠にして道心なきものの致すところなり。 もしまことに菩提を求め、浄土を欣ふものは、むしろ身命をば捨つとも、あに禁戒を破らんや。 一世の勤労をもつて、永劫の妙果を期すべし。といって、厳しく持戒を勧められる。しかしまた、「たとひ戒を破すと雖も其の分なきに非ざるなり」といい、『大集経』に仏が、
- 若有衆生、為我出家、剃除鬢髪、被服袈娑、設不持戒、彼等悉已為涅槃印之所印也。若復出家不持戒者、有以非法而作悩乱、罵辱毀・、以手刀杖、打縛斫截、若奪衣鉢及奪種々資生具者、是人則壊三世諸仏真実報身、則挑一切天人眼目、……「隠/顕」
等といわれるように破戒者も全く仏道の分を失ってしまうわけではないとされる。すなわち破戒者も一たび印せられた涅槃印は消えないで、成仏の因となっていくから、経には諸天等は、破戒者をもまた、師長の想いをなして護持養育すると説かれているという。これは明らかに一得永不失の円頓戒の戒体説によって戒徳をたたえたものであって、最後には「破戒すら尚爾り、況んや大心を発して誠に仏を念ぜんをや」と結ばれている。
そして更に破戒の者に対する態度として「如理の苦治は仏教に順ずるも、非理の悩乱は還って聖旨に違す」といい、破戒を誡めながらも、彼等を呵嘖悩乱してはならないと深い配慮を示されている。 しかし後にのべるように『末法灯明記』が、同じ『大集経』等の文を引きながら、末法には破戒、無戒の名字比丘のみであるから、それを末法の僧宝として尊重すべきであると立論しているのとは大きな隔りがあった。
『末法灯明記』を通して自身を三学の器にあらざる無戒の凡夫と見きわめたうえで、かかる身の救いを浄土教に問うていかれた法然は、このように持戒念仏をたてまえとする『要集』にあきたらないものを感じられたのは当然であったといわねばならない。
こうして法然は、『要集』の指南をうけて、善導の『観経疏』を熟読されるようになるのだが、行観の『選択集秘鈔』一(浄全八・三四〇頁)によれば、法然は、宇治の法蔵において、『観経疏』をはじめて見られたと伝えている。すなわち「宇治の法蔵より、観経四帖の疏を尋ね出して、一向専修に入りたまふ也」というのである。しかしそれがいつごろのことであったかはのべていないし、はたしてこれが事実であったかどうか、さだかではない。けれども宇治の法蔵において『観経疏』にであわれたということは興味深い伝承である。というのは、それより約百年前の延久二年(一〇七〇)から、翌三年ごろにかけて、宇治の平等院の南泉房において、宇治大納言源隆国(一〇〇四-一〇七七)が中心になって、叡山の阿闍梨数人とともに『安養集』十巻を編集しているからである。『安養集』は、現在、坂本西教寺に明暦二年(一六五六)の写本が一本伝わるのみであるが、法然がこの書を見られていたことは、『長西録』に「安養抄十巻、宇県亜{宇治大納言隆国}」とあることによって推察できる[18]。尚『安養抄』とあるのは『安養集』の誤りであることは、巻数と、宇治大納言隆国とあることから明らかである。この『安養集』は、九十五項の論題を掲げて、それぞれの項目について経論釈の要文が、延べ七百七十三文引用されるが、わずかな註記はあっても、私釈は全く施されていないという特異な文集である。このなかに『往生要集』には全く見られなかった曇鸞の『往生論註』や『讃阿弥陀仏偈』(『安養集』は羅什のものとみている)、それに善導の「序分義」「定善義」「散善義」等が引用されている。ことに『観経疏』は四帖にわたって二十七回も引かれており、叡山系の浄土教典籍に、『観経疏』が重要な地位をしめて登場する最初であったといえよう。もっとも『安養集』では積極的に善導教学によって法義を展開するということはなかった。
第四節 南都系の浄土教
法然が『観経疏』を積極的に用いた浄土教学にであわれたのは、永観(一〇三二-一一一一)の『往生拾因』や、珍海(一〇九一一-一一五二)の『決定往生集』等であったと考えられる。『拾遺古徳伝』二(法然伝全・五九五頁)や『行状絵図』四(伝全・一二頁)等によれば、聖人は久寿三年(一一五六、保元元年)二十四歳のとき、一時叡山を降りて南都に遊学されている。そして法相宗の蔵俊や、三論宗の寛雅、華厳宗の慶雅をたずねたが、さして得るところはなかったようである。しかしこれが東大寺三論宗系の南都浄土教を学ぶ機縁になったにはちがいない。永観、珍海の浄土教学には、『要集』が依用されていなかった『散善義』の称名正定業説が紹介されており、形のうえでは殆ど専修念仏に近い思想がのべられていた。こうした叡山浄土教とはちがった浄土教学にあうことによって、聖人はより善導教学に接近されていったと考えられる[19]。
そのことは「大経釈」(『漢語灯』一・真聖全四・二九二頁)に、善導の専修念仏の義を補助するものとして智栄、信仲、懐感、覚親、源信とならんで禅林(永観)、越州(珍海)をあげ、
- 六禅林者、即当寺権律師永観也。即依善導、道綽意、作往生拾因、永廃諸行、於念仏一門、開十因、豈 非但念仏行哉、七越洲者、亦同当寺三論碩徳、越洲珍海也。是亦同作決定往生集一巻、立十門明往生 法、其中亦依善導前文、傍雖述諸行、正用念仏往生、爰知於往生之行業、論専雑二修、捨雑行、専修 正行事、天竺、震旦、日域其伝来尚矣。「隠/顕」六禅林者、即ち当寺の権律師永観也。即ち善導、道綽の意に依つて、『往生拾因』を作り、永く諸行を廃し、念仏一門において、十因を開く、あに但だ念仏の行に非ずや、七越洲者、また同く当寺の三論の碩徳、越洲珍海也。是れまた同く『決定往生集』一巻を作り、十門を立て往生法を明す、其の中また善導の前文に依り、傍(かたはら)に諸行を述ぶといへども、正しく念仏往生を用いる、ここに知んぬ往生の行業において、専雑二修を論じ、雑行を捨て、専ぱら正行を修す事、天竺、震旦、日域其の伝来を尚(たっとぶ)矣。
といわれたものによっても窺われる。
永観の『往生拾因』は、念仏の一行が往生の業因である所以を、十箇の理由(因)をあげて証明するものである。その第八因(浄全一五・三八四頁)に「依斯行者、廃余一切諸願諸行、唯願唯行念仏一行、散慢之者千不一生、専修之人万不一失」「隠/顕」この行に依るとは、余の一切の諸願諸行を廃し、念仏の一行を唯願唯行すべし、散慢の者は千に一(ひとり)も生ぜず、専修の人は万に一(ひとり)も失することなしといい、決定往生の業として念仏一行の専修をすすめている。さらに第十因(同・三九一頁)には「第十、一心称念阿弥陀仏、随順本願故、必得往生、故本願云」「隠/顕」第十、一心に阿弥陀仏を称念すれば、本願に随順するが故に、必ず往生を得、故に本願と云ふなり。といって第十八願を引き、さらに、
- 又善導和尚云、行有二種、一一心専念弥陀名号、是名正定業、順彼仏本願故、若依礼誦等、即名助業、除此二行、自余諸善、悉名雑行已上、是故行者、係念悲願、至心称念、除不至心者、不順本願故。「隠/顕」また善導和尚の云く、行に二種有り、一には一心に弥陀の名号を専念す、これを正定の業と名づく、彼の仏の本願に順ずるが故に、もし礼誦等に依らば、即ち助業と名づく、この二行を除きて、自余の諸善を、悉く雑行と名づく 已上、この故に行者、悲願に念を係(かけ)て、心を至して称念すべし、不至心の者を除くことは、本願に順ぜざるが故なり。
といって、善導の就行立信釈を引いて正雑二行、正助二業の分別をおこない、「行業疎(おろそか)なりと雖も、弥陀の願に乗じて十念すれば往くことを得るなり」と釈顕されている。こうして我が国において、はじめて専修念仏を第十八願によって意味づける善導の称名正定業説が紹介されたわけであるが、永観は、このような専修念仏の立場を「念仏宗」(同・三九四頁)と名づけているのである。
しかし『拾因』のいう専修とは散慢に対する定心念仏であり、称念とは定心をめざす称名であった。すなわち高声に専称しておれば、正念、専念、一心とよばれる等持定[20]が現前し、罪障消滅すれば口称三昧を得、心眼が開けて浄土を観ずるに至る。この定心が成就するとき往生の業因が成弁するので、「たとひ一念なりと雖も専念もし発さば引業即ち成じて必ず往生を得」(同・三八四頁)といわれている。従って永観のいわれる専修とは、後に親鸞が「定専修」といわれたものにあたるといえよう[21]。
珍海の『決定往生集』上(浄全一五・四七四頁)によれば、浄土教の行は「称念弥陀の行」であって、それは「智愚ともに従う」ことのできる「時機相応」の法門であるとしている。そして決定往生の果と因と縁について詳釈されるが、その第五修因決定の釈下(同・四九〇頁)に往生の因について業主と随縁の行業を分別し、菩提心を業主とし、その上で修する随縁所起の行業のなかでは、一心に弥陀の名号を専念する称名が正定業であるとして、善導の『観経疏』の就行立信釈が引用されている。しかしここに称名が正定業である理由としてあげられた「順彼仏願故」の仏願とは、第二十願であるとみなし「順本願者、四十八願中云、聞我名号、係念我国云云、今云、称名実是正中之正也」「隠/顕」本願に順ずるとは、四十八願の中に云く、聞我名号、係念我国と云云、今云く、称名は実に是れ正中の正也。といわれている。ところが珍海はまた、第八弘誓決定の釈下(同・四九九頁)には、第十八願をあげて「下劣凡愚、三障雖重、若乗願力、速渡生死、此則以信、称念仏名号、為乗也」「隠/顕」下劣の凡愚、三障重しといへども、もし願力に乗ずれば、速に生死を渡す、これ則ち信をもつて、念仏名号を称して、乗ずる也といい、このように第十八願の「願力に由り諸の衆生をして浄土に生ぜしむるが故に(弘誓)決定と名づく」といわれている。
すなわち珍海は、阿弥陀仏が決定往生せしめると誓われた正定業とは、第二十願の称名(聞我名号 植諸徳本)のことであり、第十八願の乃至十念とは、その称名の相続相をあらわしているとみられていたようである。すなわち第五修因決定の「第六別明一念義」(同・四九四頁)において、一念は因ではあるが未定業であるといい、十念を具せば定業を成ずといい、しかもその十念は、
- 此是十称之間、念々相続不念余事、得名成就、……雖一分位連声、称名具足十声、若於此間余縁散乱、其心不重者、業道即不成、非真十念、但是相似之十念耳。「隠/顕」これこの十称の間に、念々に相続して余事を念ぜざれば、成就の名を得ん、……一分の位の連声といへども、名を称して十声を具足す、もしこの間において余縁散乱し、その心重からざれば、業道即ち成ぜず、真の十念に非ず、但これ相似の十念なるのみ。
といい、余縁散乱しない定心相続の十念でなければ定業とはなりえないとしている。そして本願力とは、かかる定心相続の十念のものを往生せしめる助縁としてあるとみなされていた。弘誓決定釈に、
- 良以四十八大願、運載衆生故、現為車乗、令渡生死故、亦為船舫也。願力大故、能接一念十念及狐疑者、永出流転還不退処、若唯自力何能如此、応以信心乗本願船、易渡生死苦海、速到菩提之宝所。(同・四九九頁)「隠/顕」まことに四十八の大願をもつて、衆生を運載するが故に、現に車乗となす、生死を渡らしめんが故に、また船舫となす也。願力大なるが故に、能く一念十念に及べば狐疑者を接し、永く流転を出でて不退処に還る、もしただ自力なるは何ぞ能く此の如くせん。まさに信心をもつて本願の船に乗じて、易く生死の苦海を渡し、速かに菩提の宝所に到るべし。(同・四九九頁)
といわれる如くである。定心称名によって本願他力に乗じて往生するという思想は『菩提心集』(浄全一五・五〇二-五〇五頁)にも見られるもので、永観と共通する南都浄土教の特色であった。
ところで永観にせよ、珍海にせよ、いずれも深刻な末法意識をもち、浄土教を、末法の時機に相応する教法として把握されている点で、『往生要集』をうけつつ、その時機観をさらに深めておられることがわかる。それは後にのべるように『安楽集』の正五 像千説をうけて現在は末法の只中にあると考えられていたことと、すでに永承七年(一〇五二)を経過して、仏教界全般に末法思想が広がっていたことにもよると考えられる。すなわち永観は『往生拾因』序(同・三七一頁)に「夫出離正道、其行非一、西方之要路、末代有縁」「隠/顕」それ出離の正道、その行一に非ず、西方の要路は、末代に縁あり。といい、また第三宿縁深厚の釈(同・三七九頁)には、「夫如来説教、潤益有時、釈迦末世、弥陀施化、幸生此時、知機縁熟、念仏往生何有疑乎」「隠/顕」それ如来の説教、潤益に時あり、釈迦末世に、弥陀の化を施す、幸に此の時に生まれて、機を知り縁熟して、念仏往生 何ぞ疑いあらんや。といわれている。また珍海も『決定往生集』の七事縁決定(同・四九八頁)に『安楽集』と同じ正法五百年、像法千年、末法万年説をあげ「良以西方教門、運数当時、如今世人、深可悲喜」「隠/顕」まことにもつて西方の教門、運数時に当たれり、今の世人の如し、深く悲喜すべし。 といわれている。かくて永観も珍海も、すでに末法に生きるものとして、時機相応の法である浄土教にあえたことを深く慶喜されていたことがわかるのである。
第五節 往生伝について
法然が、自身の求道の歴程をふりかえって「惣(すべて)吾朝に来到する所の聖教乃至伝記目録一見せざるはなし」といわれたことはすでにのべたが、ここに伝記といわれたものは、高僧伝や往生伝の類をさしていた。『選択集』「二門章」(真聖全一・九三四頁)には、唐の『高僧伝』や宋の『高僧伝』によって、浄土宗の相承血脈を示されており、また「浄土五祖伝」(『漢語灯録』九・真聖全四・四七七頁以下)には、唐の『高僧伝』『瑞応伝』『新修往生伝』『念仏鏡』『龍舒浄土文』『大宋高僧伝』等によって、いわゆる浄土五祖の伝記を編集されたように、高僧の伝記には深い関心を払われていたことがわかる。従って我が国で成立した諸種の往生伝等にも注意されていたことはいうまでもなかろう。
平安時代には『日本往生極楽記』をはじめ多くの往生伝が成立するが、それだけ浄土願生の信仰が盛んであったことの証拠である。源信の『往生要集』撰述とほぼ同じ寛和年中(九八五頃)に成立したとおもわれる慶滋保胤(-一〇〇二)の『日本往生極楽記』一巻(続浄全一七・一以下)には聖徳太子にはじまって、一婦女にいたる僧俗四十五名の伝記があげられている。この『日本往生極楽記』をうけて大江匡房(一〇四一-一一一一)が康和年中(一〇九九-一一〇四)に、やはり僧俗男女四十二名の伝記をしるした『続本朝往生伝』一巻(続浄全一七・一七頁以下)をあらわしている。さらに三善為康(一〇四九-一一三九)の『拾遺往生伝』三巻(続浄全一七・三四頁以下)には九十五名の往生人をあげ、同じく為康の『後拾遺往生伝』三巻(続浄全一七・九三頁以下)には延べ七十五名(重複を除けば七十三名)の往生伝が記されている。こうした各種の往生伝にもれた伝記を補うことを目的として沙弥蓮禅が、保延五年(一一三九)ごろに『三外往生記』一巻(続浄全一七・一三五頁以下)を著わし、五十三名(本伝五十二名、付一名)の道俗男女の往生のもようを記述している。さらに少しおくれて朝散大夫藤原宗友が仁平元年(一一五一)に『本朝新修往生伝』一巻(続浄全一七・一五三頁)を編纂して、道俗四十一名の事蹟をあげている。
以上の六種の往生伝は、主として北嶺を中心としたものであるが、これらに対して高野山を中心にした真言系の往生者の列伝『高野山往生伝』(続浄全一七・一六九頁)がある。日野法界寺の沙門如寂の編といわれているがさだかでない。また成立年時も不明であるが、文治三年(一一八七)をあまりへだてないころのものであろう。そこには寛治七年(一〇九三)に往生した教懐から、文治三年(一一八七)に往生をとげた証印にいたる三十八名の往生譚が記されている。そのほか『本朝法華験記』や『今昔物語』巻一五にも多くの往生譚が記されており、平安時代の中期から末期にかけて、いかに極楽願生の信仰が盛んであったかを窺うことができる。
これらの往生伝を通して、みられることは、『法華経』を読誦し、弥陀念仏を行ずる(称名と観仏を含めて)ものが圧倒的に多く、それに密教信仰を兼ね、大仏頂真言や尊勝陀羅尼を唱えるといった兼学兼修が多くみられる。 なかには賀古の教信沙弥のような専修念仏者もいるが、殆どは雑行雑修的な行業をもって極楽を願い、臨終には正念に住して、あるいは聖衆来迎を感得し、あるいはさまざまな奇瑞をあらわし、あるいは死後に有縁の人の夢の中にあらわれて往生したことを告げるといった説話になっている。
その具体的な行業は、各人各様であるが、出家主義、苦行主義的な実践を行う脱俗的な人々と、在家主義的な愚悪者の往生説話とに分類することができよう[22]。前者のなかには、最澄、円仁、増命、昌延、千観、空也、相応、良源、源信、覚運、覚超等の高僧や、増賀、仁賀のような奇行をもって知られた僧や、穀物や塩などを断った石蔵聖蓮待や延救のような苦行者もいた。また焼身往生や海中投身往生といった異常な願生行者が幾人もあげられているのは注目すべきことである。『拾遺往生伝』に四例、『三外往生記』には三(四)例があげられている。例えば『三外往生記』(続浄全一七・一四一頁)によれば土佐国金剛定寺の一上人は、「往生の念、老いていよく切なり、残年の長きことを厭う」といって薪を浄処に積み、その中に身をおいて合掌し高声念仏し、衆人環視の中で焼身往生を遂げた。その翌日、一人の児童がそれにならって、たわむれに同じく高声念仏しながら焼身した。それから間もなくある人が夢の中で大小二羽の鶴が西方を指して飛んでいくのを見たが、これは焼身上人と小児が極楽へ往った証拠であるというのを聞いて諸人が驚嘆したと伝えている。
また『後拾遺往生伝』下(続浄全一七・一二四頁)には台山の住僧行範が、有為を厭うて、天王寺に詣り、七日断食し、一心に念仏し、海中に投身したが、その時空中に音楽がひびき、行範は正念に住して沈没したという。後日同行僧の夢にあらわれて「われは極楽を願うといえども都率内院に生まれた」と語ったと伝えている。あるいは『同』中(同・一一四頁)に掲載されている如法経聖の永暹は「凡修大仏事六箇度、毎度切足一指、燃灯供養」したといわれている。また『同』下(同・一二四頁)には大原の良忍の行状を伝えて、
- 沙門良仁(忍イ)者、叡山住侶也、早入堂僧(衆イ)、久勤寺役已及頽募年、隠居大原山、永断世営、偏願往生、日別誦妙経一部、念仏六万遍、三時行法、多年不怠、或書写如法経六部、廻向自他、或切燃手足指、九年供養仏経、偏断睡眠、常事経行、已及命終、安住正念、音楽撃雲、見聞盈門。「隠/顕」沙門良仁(忍イ)は、叡山の住侶也、早く堂僧(衆イ)に入りて、久しく寺役を勤めおえて頽募年に及ぶ、大原山に隠居し、永く世営を断じ、偏に往生を願ひ、日別に妙経一部を誦し、念仏六万遍、三時の行法、多年に怠らず、或は如法経六部を書写して、自他に廻向す、或は手足の指を切燃し、九年 仏経を供養す、偏に睡眠を断じ、常に経行を事とし、已に命終に及んで、正念に安住す、音楽雲を撃ち、見聞の門に盈(み)ちん。
といっている。これによれば良忍は『法華経』を誦し、六万遍の日課念仏を行い、如法経を書写して願生するという、典型的な叡山浄土教を実修したうえに、手足の指を切って燃し、仏経(法華経)供養を行い、さらに断眠の苦行まで行っていたことがわかる。こうした焼身往生、投身往生、焼指供養といった苦行は、『法華経』信仰と弥陀信仰との融合のなかで生まれた特異な信仰形態であったといえよう[23]。すなわち『法華経』薬王品(大正蔵九・五三頁)には、薬王菩薩の本地たる一切衆生憙見菩薩が、自からの臂を焼いて日月浄明徳仏の舎利を供養したことがのべられており、そこにはまたこの薬王菩薩本事品を受持し、如説に修行するものは、如来滅後後五百歳中の女人であっても、安楽世界の阿弥陀仏処に往生することを得と説かれているからである。
往生伝にでてくる在俗の往生者の典型的なものは、『往生極楽記』(続浄全一七・一一頁)の勝如伝にでてくる賀古の教信沙弥である。彼は「一生之間、称弥陀号、昼夜不休、以為己業、隣里雇用之人、呼為阿弥陀丸」「隠/顕」一生の間、弥陀の号(みな)を称して、昼夜に休まず以つて己が業となす。これを雇ひ用うる隣里の人、呼びて阿弥陀丸となす。 といわれるように、妻子とともに在俗の生活を送りながら、称名相続の生涯を送ったといわれている。ところで『往生極楽記』では、勝如伝の中の挿話に過ぎなかった教信の伝記が、永観の『往生拾因』(浄全一五・三七七頁)では、「雖在家沙弥前無言上人是依弥陀名号不可思議也、教信是誰、何不励乎」「隠/顕」在家の沙弥といえども、無言上人に前(さきだ)つこと、是れ弥陀の名号の不可思議に依つてなり。教信、これ誰ぞ、何んぞ励まざらんや。といいむしろ教信を中心とした話になり、その専修念仏が次第に高く評価されていくありさまがわかる。それは同時に浄土教が脱俗主義から、在俗主義へ、雑行主義から専修主義へと向かっていくことの一つの証拠ではなかろうか。
また『往生極楽記』には見られなかった悪人往生の説話が、『続往生伝』以後にあらわれてくるのも注目すべきことである。国東文暦氏は、悪人往生話として次のような十六例をあげられている[24]。『続往生伝』の①源頼義、『拾遺往生伝』の②浄尊法師、③沙門道乗、④沙門薬延、⑤散位清原正国、⑥藤井久任、⑦鹿菅太、⑧下道重成、⑨橘守輔、『後拾遺往生伝』の⑩藤原忠宗、⑪源親元、⑫散位源伝、⑬綿延行、⑭東獄隣僧、『三外往生記』の⑮甲斐国一俗人、『本朝新修往生伝』の⑯沙門暹覚等がそれである。これによれば三善為康の『拾遺往生伝』と『後拾遺往生伝』に十三例まででていて、為康が悪人往生に深い関心をもっていたことがわかる。例えば『拾遺往生伝』中(浄全一七・六一頁)に掲戴されている沙弥薬延の如きは、「其体似僧、其行如俗、頭髪二寸、見者驚矣、身著俗衣、手殺魚鹿、食肉吸血、況於余事」「隠/顕」その体僧に似るも、その行俗のごとし、頭髪二寸、見る者驚くなり、身に俗衣を著し、手に魚鹿を殺し、肉を食い血を吸ふ、いわんや余事においておや。という放逸無慚なありさまであったが、夜中に起きると「沐浴著清浄衣、入一別堂、初悔衆罪、而行懴法、後発四弘、而誦法華、次念仏観行、不動不傾」「隠/顕」沐浴し清浄の衣を著し、一の別堂に入りて、初めに衆罪を悔じ、また懴法を行ず、後に四弘を発し、また法華を誦す、次に念仏観行、動ぜず傾かず。法華読誦と念仏を双行していたが、往生を遂げたと記されている。あるいは『後拾遺往生伝』上(続浄全一七・一〇〇頁)にあげられた藤原忠宗は「一生之間、全無一善之心神、邪見之上、弥吐邪悪之言」「隠/顕」一生の間、全く一善の心神無し、邪見の上、いよいよ邪悪の言を吐く。という悪人で、老年になっても仏法を聞けば罵詈をはき、僧侶を見れば讎敵にあう如くであったが、智行具足の僧の教化をうけ、邪心をひるがえして正念を催し、落涙、悔過し、一心に念仏するようになった。それから数剋ののちになくなったが、往生をとげたといわれている。
また源隆国が編纂したといわれる『今昔物語』第十五(岩波古典文学大系本・三八三頁)に出ている「鎮西餌取法師」浄尊の往生説話は、深い罪業の自覚をもった願生者の姿がえがかれている。浄尊は、法師の姿をしているが、妻をもち、頭髪は三四寸ばかりも延び、おそろしくきたない服装をし、牛馬の肉を食べていた。しかし真夜中になると起き出して湯浴をし、浄衣を着て、後ろの持仏堂に入って、法華懴法を行い、弥陀念仏を唱えつづけた。浄尊は、そうした自分の生活について旅僧に次のように語ったという。「私は愚痴にして悟る所もなく、法師になったが破戒して、教えの通りに修行もできず、まさに悪道に堕すべき身である。せめて衣食による罪を少くしようとして、人のほしがらぬ牛や馬の肉をたべて命をついでいる。しかし法華、念仏の功徳によって某年某月某日には極楽に往生するであろう」。これを聞いて旅僧は「賎しき乞匃の様なる者と思つるに、実に貴き聖人也」と思い深く後世を契つた。その後浄尊は、予言した年月日に、持仏堂において奇瑞をあらわしながら妻の尼とともに往生を遂げたといわれている。
こうしたさまざまな往生人の説話は、勧進聖や、遊行聖などの布教活動を通じて民衆のなかに伝播していき、浄土願生思想の普及に大きな貢献をしたのであった。ことに悪人往生の説話は、罪業を犯さずには生きていけない庶民の心に力強い救いのあかしを与えていったのである。慶滋保胤が『往生極楽記』の序(続浄全一七・一頁)に、自分は『瑞応伝』に掲載されている屠牛販雞の者が、善知識に逢うて十念往生したという記事を見るごとに往生の志を堅固にしたといっているが、往生伝を熟読された法然もまたそのような思いがあったことであろう。ただ法然は、後述するように行業においては法華信仰や密教信仰と袂別し、いわゆる専修念仏という純一なる決定往生の行業を確立していかれた。また往生の予告や臨終の奇瑞や夢告によって、往生の得否を判定しようとした往生伝的信仰を大きく転換して、本願を信じ念仏するという信行の絶対性を強調されたところに大きな特色があったのである。
第六節 末法思想について
末法思想がわが国の思想界にあらわれはじめるのは『末法灯明記』はしばらくおいて、『往生要集』あたりからである。源信の末法思想についてはすでにのべたが、『要集』が撰述されたと同じ永観二年(九八四)にあらわされた『三宝絵詞』序(古典保存会刊・二丁)にも「釈迦牟尼仏隠給いて後一千九百三十三年に成にけり、像法の世に有む事遺年不幾」といって、迫りくる末法の深刻なおびえを記録している。
『往生要集』には、道綽の『安楽集』を十五回も引用されているが、道綽教学の中心課題であった末法思想については全く触れられていなかった。ところがそれから約百年ばかりおくれて、延久二年(一〇七〇)ごろに成立したとみられる『安養集』巻十「経教興廃」(西教寺本・一〇丁以下)の項には、『大経』の「特留此経止住百歳」の文意について十二文をひき、末法思想に論及されている。そこには『安楽集』上巻「教興所由」(真聖全一・三七八頁)の文を引いて『大集経』の五箇五百年説があげられており、さらに下巻の「弁経住滅」(同・四二七頁)の文を引いて、正法五百年、像法千年、末法一万年説が出されている。恐らく入末法の危機感を反影していたと考えられる。この末法思想は、永観、珍海などを通して浄土教信仰と密着していくが、このような流れは『新修往生伝』(続浄全一七・一六一頁)の、醍醐寺の住侶沙門運覚伝にも見られる。すなわち運覚は「如来滅後二千余年なり、正像の時は過ぐ、遺教滅せんと欲す、此の時に当りて、よろしく仏法を弘むべし」といって一切経を書くこと二千巻にのぼったが、康治二年(一一四三)二月、端座して弥陀を称念しつつ入滅したといわれている。すでにのべたように『新修往生伝』は、藤原宗友が仁平元年(一一五一)に編纂したものであって、このころになれば、末法思想が時代思潮として一般化していたことの一つの証左にもなるであろう。
もともと正像末の三時思想は、『大集経』の「法滅尽品」の教説などに見られるように、戒律の乱れによる修行者の堕落と、悪王による弾圧などによって、仏教が衰滅していくことを予見し誡める悲観的な仏教史観であった。
しかし何時からともなく、仏教内部にとどまらず、道理が失われて無道が支配する乱世の有様を歎く社会的な用語として、末法、末代、末世が用いられるようになり、また国家体制の崩壊を予想する政治的な衰滅史観をあらわす用語にまで拡大して用いられていた。たとえば『小右記』の長徳三年(九九七)四月の条に「近日、強盗貴処を憚らず、末代と謂ふべし」といって、無道のはびこる世相を末代といい、また治安三年(一〇二三)十月の条にも「御所の辺に於て非常の事あり……末代の事、歎きても無益なるのみ」といい、同十二月廿三日の条には、「子刻許、丹波守資業中門(御カ)門宅焼亡、騎兵十余人来放火、宅人相挑而群盗力強、所為云云……抑洛中不異坂東、朝憲誰人馮之哉、仏(仁カ)王経所説、毫釐無相違歟」といって、治安の乱れを末代とよび、洛中が坂東の如く群盗が横行するさまを、『仁王経』に説く末世の相と重ねてみていたことがわかる[25]。
さらに仏教界の混乱を歎いて末代とよんでいるものに『春記』の長暦二年(一〇三八)十月の条の記録がある。これは叡山の衆徒の諍乱について述べたものであって「然而末代之故、依此事、一山仏法可亡滅、……只仏法之滅相也、又国家災、深可発之時也云云」といっている。さらに入末法の年とみなされていた永承七年八月廿八日の条には、その前年、すなわち永承六年六月に長谷寺が焼亡したことをのべ「霊験所第一也、末法之最年、右此事可恐之」と記している。
さらに末法にはいってからの記録としては、『中右記』の長治元年(一一〇四)の条に、叡山の東西両塔の衆徒が合戦し、房舎を焼き、殺害をおこなったことを記して「修学の砌、かえって合戦の庭となる。仏法破滅、すでにこの時に当るか」と悲しんでいる[26]。さらに降って、藤原兼実の『玉葉』の安元三年(一一七七)四月十四日の条に、「仏法王法滅尽期至歟、五濁之世、天魔得其力、是世之理運也」といい、文治元年(一一八五)十一月七日の条にも「五濁悪世、闘諍堅固之世、如此之乱逆、継踵而不絶歟、可悲々々」と述べている[27]。こうして末法思想は、既成仏教の混乱と、律令国家の崩壊とをからみあわせながら、わが国の思想界を根底からゆり動かし、仏教そのものに変革を迫ってきた危機思想であった。
そうした時流に拍車をかけたのが、伝教大師作と称する『末法灯明記』であった[28]。そこには末法とは時運の自爾として来るさけることのできない正法毀滅の時代で、三学は廃絶し、わずかに無戒の名字比丘が「末法の教」を支えていくといわれている。この書は建久五年におこなわれたという「法然聖人御説法事」(『西方指南抄』巻上本・真聖全四・六六頁)に紹介されて以来、栄西(一一四一-一二一五)が建久九年(一一九八)に著わした『興禅護国論』上(大正蔵八〇・六頁)や、親鸞(一一七三-一二六二)の『教行証文類』(真聖全二・一六八頁)などにとりあげられ、鎌倉仏教の成立に大きな影響を及ぼしたのであった。
『灯明記』は慈恩の『金剛般若論会釈』(大正蔵四〇・七三六頁)の意によって、三時の区分を正法五百年、像法千年、末法万年とし、仏滅年代については、法上大統の用いた『周書異記』の周穆王五十三年壬申(B・C九四九)説と、費長房の用いた「魯春秋」の周匡王班四年壬子(B・C六〇九)説とをあげ、後説によって延暦二十年辛已を仏滅一千四百十年とし、故知、今時是像法最末時也。彼時行事既同末法、然則於末法中、但有言教而無行証、若有戒法可有破戒、既無戒法由破何戒而有破戒、破戒尚無何況持戒。(伝教全一・四一七頁)「隠/顕」ゆゑに知んぬ、今の時は、これ像法最末の時なり。かの時の行事すでに末法に同ぜり。しかればすなはち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破せんによりてか破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。といわれている。これは慈恩の『大乗法苑義林章』六(大正蔵四五・三四四頁)等に教行証の三法の具欠によって正像末の三時を特徴づけているものに準じて、末法を「教のみあって行証なき」時代と規定したのである。行がないということは戒定慧の三学が欠けることであるから「千五百年の後には戒定慧あることなし」と断定している。すなわち末法とは法爾として三学の廃絶する時代で、末法に持戒の比丘がいるというのは、市中に虎がいるというほどありうべからざることであるといっている。もっとも『灯明記』は、このような末法の仏教を支えるものは無戒の名字比丘であるから、彼等を真宝として尊崇すべきで、無戒の故をもって弾圧してはならないと主張しているのである。しかし法然は『灯明記』を通して行証なき三学無分の時機を法爾のこととしてうけとったうえで、かかる時機を救う「末法の教法」を主体的に追求していかれるのだから、『灯明記』とは問題意識を異にしていたといわねばならない。ところで三学無分という状況が法爾であり、普遍の現象であるとすれば、それを救う教法も単に個人的なものではなく、万人を包むような普遍性をもたねばならない。法然教学のもつ普遍性の根拠の一つはここにあったともいえよう。
法然が個人的に末法思想にひかれていった理由の一つは、九歳にして父親が殺害されるという無残な人生の出発点をもたれたことであろう。末法とは正法が毀滅して、闘諍堅固なる時代であるとすれば、無道な闘争によって父を失ったことは、恐るべき末法のありさまを、その人格形成の最初期に思い知らされたことになるのである。やがて叡山に登り修学にいそしむ中で見聞されたものは、延暦寺をはじめ、諸大寺の僧風の堕落であり、また保元、平治の乱につぐ源氏と平家の惨憺たる権力闘争のありさまであった。あるいは毎年のように襲ってくるさまざまな天変地異によって、無残に死んでゆく無数の大衆のよるべなき姿の上に、白法隠没、闘諍堅固と説かれた末法のしるしを見せつけられたのであった。
それともう一つ、得度の師、皇円がいだいていた末法思想に強い影響をうけられたと考えられる[29]。皇円が深刻な末法意識をもっていたことは、その著『扶桑略記』の随所にみることができる。永承七年(一〇五二)は、当時の人々が末法に入った年と考えていたが、同年正月廿六日の条(新訂国大・一二・二九二頁)に、
- 正月廿六日癸酉、屈請千僧於大極殿、令転読観音経、自去年冬疾疫流行、改年已後、弥以熾盛、仍為除也。今年始入末法。「隠/顕」正月廿六日癸酉、千僧を大極殿に屈請し、観音経を転読せしむ、去年冬より疾疫流行す、改年已後、いよいよ以つて熾盛なり、よつて除せんとなす也。今年始めて末法に入る。
といい、これを末法の現証とみている。ここに「仏法の陵遅」とともに「王法の澆薄」を悲歎しているところに、末法が単に仏法の衰滅のみならず、王法の衰退をも意味せしめられていたことがわかる。ところで皇円は、仏滅を周の第五主穆王五十三年壬申とし、三時の区分を正像各千年とみなしていた。だから永承七年が末法の初年にあたったわけである。ところで法然も「法然聖人御説法事」(『西方指南抄』上末、真聖全四・一一四頁)には「釈尊の遺法に三時の差別あり、正法像法末法也、その正法一千年のあひだは教行証三ともに具足せり、……像法一千年のあひだは、教行はあれども証なし、……末法万年のあひだは、教のみあて行証なし」といわれているから、少くとも三時の時代区分は『安楽集』や『灯明記』によらず、皇円の説に依っておられたことがわかる。
しかし末法の歎きが外的な詠歎に止まっているかぎり、真の宗教的自覚は生まれて来ない。行証のかけた末法の相を自身の内に見出し、戒も定も慧もない無道の自己に気づいたときから末法は内面化され、主体化されていく。そのときはじめて末法思想が自己自身を超越してゆく、きびしい求道の原動力となって、自己の存在を根底からゆさぶっていくのである。
第七節 三学無分の自覚
聖光房弁長は『徹選択集』上(浄全七・九五頁)(*)に、法然からその回心の模様を次のように聞いたと記している。
出離之志至深之間、信諸教法修諸行業。凡仏教雖多所詮不過戒定慧之三学。所謂小乗之戒定慧、大乗之戒定慧、顕教之戒定慧、密教之戒定慧也。然我此身於戒行不持一戒、於禅定一不得之、於智慧不得断惑証果之正智。……悲哉悲哉、為何為何、爰如予者已非戒定慧三学之器、此三学外有相応我心之法門耶、有堪能此身之修行耶、求万人之智者、訪一切之学者、無教之人無示之倫。然間歎歎入経蔵、悲悲向聖教、手自披之見之、善導和尚観経疏云一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故。文見得之後、如我等無智之身、偏仰此文専憑此理、修念念不捨之称名、備決定往生之業因、非啻信善導之遺教、亦厚順弥陀之弘願、順彼仏願之文染神留心耳[31]。「隠/顕」しかる間、歎き歎き経蔵に入り、悲しみ悲しみて聖教に向かいて、手ずからこれを披きてこれを見るに、善導和尚の観経の疏に、「
この聖光の所伝と、さきにあげた醍醐本『法然上人伝記』(*)等の記録とを照応すると、法然は『往生要集』を先達として『観経疏』に行きつかれたわけだが、そのときすでに問題は「三学の
それにしても円頓戒の正統をついだ戒師として、その持戒堅固な清僧ぶりが、多くの人に評価されていた法然が「戒行においては一戒をもたもたず」といい、「智慧第一の法然房」とたたえられていながら「愚痴の法然房」と自称されたのは何故であろうか。それは現実に破戒されたからではなかっただろう。むしろ厳格な戒律によって自己を律していこうとすればするほど、肉体の底から湧きおこる反戒律的な愛欲と憎悪の煩悩のはげしい衝動を実感されたからであろう。戒律は煩悩を制御するためのわくであるが、煩悩の野性は、常に戒律のわくを破って奔放しようとする強烈な力をもって突出してくる。それは懴悔法によって浄化できるような生やさしい存在ではなくて、まさに煩悩具足の野性そのものであり、無戒の自己であった。だから形式的に戒を持(たも)っていることは、常に破戒の危機にさらされていることであり、厳密な意味では「一戒もたもちえず」といわざるを得なかったのである。また一切経を読破して、各宗の教理や実践法を理解し、多くの仏教についての知識をもっていたとしても、それが「生死解脱の正智」でないかぎり、自身の生死については何事も知らないに等しい。「黒白もわきまえぬ」「一文不知」のしらじらとした一箇の凡愚が息づいているに過ぎない自身に気づいたとき、まさに愚痴の身としかいいえなかったのである。こうして自己の存在の底に、ずっしりと居すわる手のつけようのない無戒、無智の自身にかえるとき、三学の器にあらざる、その意味で行証のかけた末法的存在とは、何よりも自己自身であることを思い知るのである。末法とは自己をとりまく歴史的、環境的な状況であるに止まらず、自己自身の三学無分という存在状況を意味しているとすれば、末法を救う教法は、正確にはかかる自己を根源的に救う教法でなければならない。
ところで法然は「仏教多しと雖も所詮は戒定慧の三学に過ぎず」といわれているが、仏教を最も基本的な実践徳目である三学として把握していかれたところに、法然の関心が常に実践に向けられていたことと、さきにのべた『末法灯明記』(*)の影響をみることができよう。三学とは、煩悩を制御し、生活を浄化するために戒律を遵守することと、禅定の実践によって身心の安定と統一をおこなうことと、教理にしたがって真実を体解する智慧を開いて、生死を解脱することをいうが、それは八正道、六波羅蜜、円頓止観、三密加持等、すべての仏道修行に通じていた。小乗、大乗、顕教、密教と複雑に展開していった仏教教学も、その実践の基本構造は戒定慧に帰するとすれば、三学とは仏道そのものであった。従って三学の器にあらざるものとは、仏道によって救われないものということになり、彼に対しては仏教はもはや教法としての意味を失ってしまう。すなわち三学無分の機にとっては、末法というよりもむしろ法滅というべきであろう。法滅百歳の機[32]とは、遠い未来の人をさすのではなくて、無戒、愚痴の自身がそれなのである。後に成立する法然教学が、選択、廃立という厳しい選びの宗教であるのも、こうした無戒、愚痴の凡夫性をふまえて立っているからである。すなわち一切の自力を捨てるのは、一切の自力の教行に見捨てられている自己の確認であり、かかる身を見捨てたまうことなく摂取し、安住の処を得しめたまう本願への帰入をあらわしているのが廃立の宗義だったのである。
すでにのべたように、三学が仏教であるならば、三学無分の機が救われる教法は、常識的な意味での仏教ではないことになる。最澄(七六六(七)-八二二)は『顕戒論』(伝教全一・一九七頁)のなかで、円頓戒を独立するのは「円頓の戒定慧」、すなわち「円宗の三学」を本朝に永く伝持せんがためであるといわれている。従って三学は無効であるとして、三学外の仏教を求めることは、明らかに天台宗の伝統に背く異端児となっていくことであった。
にもかかわらず法然が公然とそれを問題とし得たのは、さきにのべた最澄作と伝えられる『末法灯明記』が強い精神的支柱となっていたからであろう。宮井義雄氏も法然の浄土教の独立は『末法灯明記』を媒介として前進したものであるといわれている。[33]
第八節 善導教学との邂逅
こうして自身を三学の器にあらずとみきわめたとき、法然は自力の三学による成仏を説く既成の聖道仏教はもちろん、三学成仏の方便法として浄土教を位置づけてきた従来の寓宗的浄土教にも絶望せざるを得なかった。しかし既成の仏教に絶望しても、仏教そのものに絶望されたわけではなかった。それは一つには大乗仏教の根底に「一切衆生、悉有仏性」という、一切皆成の思想が流れているかぎり、そして如来の大悲が無縁平等と説かれているかぎり、どこかに一切衆生を、善悪、賢愚のへだてなく成仏得脱せしめる教行を説き遺されている筈であるという信念があったからである。
そしてもう一つは、末法の時機に相応した教法を追求してきた浄土教の伝統があるかぎり、誰かが道を教示されている筈であるという期待をもって、たゆみなき求道をつづけられたのであった。しかし道綽教学はもちろん、善導教学といえどもすぐには三学無分の機の救いを知らせてはくれなかった。醍醐本『法然上人伝記』(法然伝全・七七四頁)に「善導に於て二反これを見るに往生難と思い、第三反度び、乱想の凡夫、称名の行に依って往生す可きの道理を得」(*)といわれた如くである。
持戒堅固な清僧であり、三昧発得の現証を得たといわれる善導は、その行状を見るかぎり三学の実践者であった。にもかかわらず自身を語られるときは「我等愚痴身」とか「煩悩を具足せる凡夫」といわれていた。それを信心の内容として表明されたのが『散善義』(真聖全一・五三四頁)深心釈下の機法二種深信であった。(*)
二者深心、言深心者、即是深信之心也。亦有二種、一者決定深信自身現是罪悪生死凡夫、曠劫已来、常没 常流転、無有出離之縁。二者決定深信彼阿弥陀仏四十八願、摂受衆生、無疑無慮、乗彼願力、定得往生。「隠/顕」二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願をもつて衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗りてさだめて往生を得と信ず。
その第一深信は機の深信とよばれ、第二深信は法の深信とよばれるが、機の深信は、自身は罪悪生死の凡夫であって、出離の縁すらないものであると信ずるのであるから、字義通り受けとれば「三学の器にあらざる」自力無功の機と信知することである。かかる機が阿弥陀仏の本願によって往生せしめられると信知するのが法の深信であるから、その所信は三学の外なる教法でなければならない。『玄義分』(同・四五九頁)の是報非化の釈下に、報法高妙の浄土へ垢障の凡夫が如何にして往生できるのかと問い、答えて、「若し衆生の垢障を論ずれば実に欣趣し難し、正しく仏願に託するに由って以て強縁と作りて、五乗をして斉しく入らしむることを致す」(*)といわれているが、垢障の凡夫から聖者まで、五乗を斉入せしめるような仏願力を説く教法は、自力成仏の法門とは全くちがった法門構造をもっているといわねばならない。後に法然が聖道門の外に浄土宗を独立しなければならないと主張された所以である。(*)(*)
ところで、法の深信における所信の法について『往生礼讃』前序(同・六四九頁)の二種深信釈には、
今信知弥陀本弘誓願、及称名号下至十声一声等、定得往生、乃至一念無有疑心。[35](*) 「隠/顕」といわれている。すなわち本願を信ずるとは、本願に誓われている称名を往生の行法と信ずることである。それは 『礼讃』後序(同・六八三頁)に第十八願を取意して、
若我成仏、十方衆生、称我名号、下至十声、若不生者、不取正覚。彼仏今現在成仏、当知、本誓重願不虚、衆生称念必得往生。[36](*)「隠/顕」といわれたものと対応している。第十八願は、称名を往生の行法と定められているばかりで三学の実践は要請されていない。それゆえ三学無分の機も称名すれば本願にかない、願力によって往生せしめられるというのである。
『散善義』の深信釈では、そのことを詳しく知らしめるために、法の深信の釈下に就行立信釈(同・五三七頁)を設けて、経論に説かれているすべての往生行を簡択していかれたのである。
次就行立信者、然行有二種、一者正行、二者雑行、言正行者、専依往生経行行者、是名正行。……又就此正中、復有二種。一者一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故。若依礼誦等、即名為助業。除此正助二業、已外自余諸善、悉名雑行。若修前正助二行、心常親近、憶念不断、名為無間也。若行後雑行、即心常間断。雖可回向得生、衆名疎雑之行也。[37]「隠/顕」 ここではまずすべての往生行を正行と雑行に分判される。元来此土入聖の行であったものを往生行に転用した諸行は、雑行とよんで所信の行から簡去し、阿弥陀仏とその浄土に対する行を正当な往生行、すなわち正行とし、それを読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五種にまとめられる。この五正行をさらに前三後一の四行を助業、第四の称名を正定業と分判されたのである。正定業とは、その一行によって正しく往生が決定する行業ということであり、助業とは、正定業を扶助し、資助する行業という意味にとる説と、正定業に任運に随伴する行業という意味にとる説とがあるが、いずれにせよ往生行としては第二義的な意義しか与えられていないことは明らかである。
かくて第二深信における所信の行法は、正定業たる称名一行にしぼられてくるわけで、『往生礼讃』の第二深信はそれを簡潔に示されたわけである。
善導がこのように往生の行業を称名一行に簡び定められたのは、所釈の経である『観経』の付属持名(真聖全一・六六頁)の意に依っている。すなわち経の終わりに一経所説の要法を阿難に付属するにあたって「汝好持是語、持是語者、即是持無量寿仏名「隠/顕」なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。[38]」といわれているのを『散善義』(同・五五八頁)に、
正明付属弥陀名号、流通於遐代。上来雖説定散両門之益、望仏本願意、在衆生一向専称弥陀仏名。「隠/顕」まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むる意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。 [39]
と釈されている。すなわち上来経の正宗分において説かれた定散諸行をさしおいて、未来世の煩悩具足の凡夫のために、称名念仏だけを付属されたのは、阿弥陀仏の本願に望めて、その願意を窺えば、衆生をして一向専称せしむる以外にないことを釈尊が見ぬかれたからであるといわれるのである。
すなわち阿弥陀仏は煩悩具足の凡夫を見すえて称名往生の本願を立て、釈尊はその願意をうけて定散諸行を簡び捨てて称名一行を付属された。それゆえ善導は二尊の教旨によって正雑、助正の分判をおこなって称名を正定業と選定し、無有出縁の機の為の行法を明示されたのである。こうした文脈をたどって善導教学の根本構造を徹底的に学び、自身が今行じている念仏が「本より仏のさだめおきて、わが名号をとなふるものは、乃至十声一声までむまれしむ」(*)と誓われた本願の行であることに気づかれたとき、法然のうえに決定的な回心がおこったのである。念仏が決定往生の行であるのは、「われらがさかしくいまはじめてはからふべきことにあらず、みな(如来が)さだめおけること」[40]なのである。如来の定めおかれた行を実践しているのならば、称名は決して凡夫が私のはからいによって行ずる凡夫行ではなく、むしろわがはからいを捨てて如来の本願に随順し、如来の定められた真の成仏道を歩んでいることになるのである。法然にとって回心とは、このようにわがはからいを捨てて、如来の定められた本願の大道に随順し、帰入していかれたことをいうのである。「順彼仏願の文、神(たましい)に染み、心に留むる」と述懐された所以である。
こうして如来の本願に信順して、如来の定められた念仏を行ずるものは真の仏弟子といわねばならない。『散善義』深心釈(同・五三四頁)に、
又深信者、仰願一切行者等、一心唯信仏語不顧身命、決定依行、仏遺捨者即捨、仏遺行者即行、仏遺去処即去、是名随順仏教、随順仏意、是名随順仏願、是名真仏弟子。「隠/顕」といわれている。雑行を捨てて本願の念仏を行じ、穢土を去って浄土を願生する念仏者は、そうあらしめようと願われた弥陀の本願に随順し、釈尊の教説に随順し、諸仏の証誠の意趣に随順しているものとして、真の仏弟子といわれるのである。こうして戒定慧の三学の器にあらずとして既成の仏教から疎外されていた罪障の身が、三学外の仏道たる本願念仏によって真仏弟子としてよみがえり、仏法に包摂されていったのである。そしてこの本願念仏の仏道こそ万人を救う真の仏道として、末法の時機を照していくことになるのである。
第九節 回心の構造
すでにのべたように「法然聖人御説法事」には、本願の念仏について「しかるに往生の行は、われらがさかしく、いまはじめて、はからふべきことにあらず。みなさだめおけることなり。」(*)といわれている。この領解は、法然の回心の原点をいいあらわしているとみてよかろう。わがために如来はすでに称名行を往生行と定め置かれたということを的確にあらわすのが「選択本願念仏」ということばである。もちろん法然がこの用語を使われるのは相当後のことで、長い思索を通して洗練された教義学的用語にちがいない。しかしこの用語によって法然が到達されている宗教的領域が明示されているとするならば、四十三歳のときの回心の根本構造はやはり「選択本願念仏」という言葉が一ばん的確にいいあてているといわねばならない。それゆえ法然は『選択本願念仏集』の後序(真聖全一・九九三頁)に二十余年前をふりかえって、
於是貧道、昔披閲茲典、粗識素意、立舎余行、云帰念仏。自其已来至于今日、自行化他唯縡念仏。[42]「隠/顕」といわれたのである。すなわち四十三歳のとき、ほぼ識り得た仏祖の真意を明確に教義化したのが選択本願念仏の教義体系だったのである。『選択集』の三選の文(同・九九〇頁)には、次のようにその法義を要約されている。
計也、夫速欲離生死、二種勝法中、旦閣聖道門、選入浄土門、欲入浄土門、正雑二行中、且抛諸雑行、選応帰正行。欲修於正行、正助二業中、猶傍於助業、選応専正定。正定之業者、即是称仏名。称名必得生、依仏本願故。「隠/顕」 そこには聖道門を
しかし、その選びがわがはからいによってなされた「私の選び」に止まるかぎり不安とためらいが残る。法然が『往生要集』や『往生拾因』等によって早くから専修称名の立場を選びとりながらも、不安と疑惑を拭い去ることができず、決定の信が得られなかったのも、念仏を選び取る主体があくまでも自身であったからである。選びの主体が自身であるとき、自己の愚痴は致命傷になる。
しかし念仏がかねて如来によって選び定めおかれているものであるとすれば、選びの真の主体は如来であり、私が念仏を選びとることは如来の選択に随順することにほかにない。すなわち念仏においては、私は選ぶものではなく、如来の選びにはからいなく随順すべきものなのである。逆にいえば如来の選択に随順するとは、余行を捨てて念仏一行をわが道として選びとり実践することである。このように念仏を専修することが、本願へのはからいなき信順のありさまであることを「義なきを義とす」[44]といわれたのである。こうして正定業たる念仏の選択と実践の主体が、私から如来へと転換した宗教経験を回心というのである。
三選の文の「称名必得生、依仏本願故」「隠/顕」称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。 の二句は、その辺の消息を簡潔に表わしている。すなわち「称名必得生」という専修念仏の宗義は、称名が如来によって選択された行法であることによって成立しているということを、「依仏本願故」と示したのである。選択本願は、実践の依って立つ教義的根拠であると同時に、念仏往生の信を成立せしめる源でもあった。法然教学はこの「称名必得生、依仏本願故」の二句に収約していくのであるが、それが善導の「是名正定之業、順彼仏願故」「隠/顕」これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。 という教説に依っていることは明らかである。それゆえ法然は常に「偏依善導一師」といわれたのであり、この道理を体得したことを「粗祖意を識る」といわれたのである。
こうして如来の本願に信順して、専修念仏する念仏往生の法門が成立していくわけであるが、それは単に法然個人の問題の解決に止まらず、末法に生きるすべての無戒の衆生を救う「普遍の教法」の確立を意味していた。
やがて専修念仏の教説は、既成仏教から疎外されていた庶民大衆にうけ入れられ、万人に救いの門戸を開くものとして、仏教界に一大改革をもたらしたのもその故であった。ここに法然の回心の宗教的、歴史的、社会的な意義が窺われる。
- ↑ 梶村昇『法然』(八七頁)
- ↑ 石井教道編『法然上人全集』序(七頁)、大橋俊雄岩波日本思想大系十五・法然・一遍解説(四〇六頁)參照。
- ↑ 田村円澄は『法然上人伝の研究』(九四~一〇三頁)に、法然の念仏門帰入という個人的な精神的変革の上に教団組織上の意図を反映し、浄土宗の独立開宗を主としてみるものは、回心の機縁を『観経疏』とし、天台と妥協的な法然像を描いて弾圧に対応しようとした人々は『往生要集』を先達としたとみているといわれている。
- ↑ 『台記』巻十一(補増史料大成・台記二・一二二頁)久寿元年五月廿七日条「右大臣雅定出家云云、年六十一、無病遁世、人称羨之、戒師黒谷聖人叡空、唄師同、大臣法名法如、随身預腰差分散云云」。又『玉葉』巻三十六(国書刊行会本・四九〇頁)養和元年閏二月廿三日条に「人告邦綱入道、已入没畢……臨終殊神妙、悦思不少、以黒谷聖人為善知識云云」という黒谷聖人は叡空をさしていたと推定される。
- ↑ 伊藤唯信『浄土宗の成立と展開』(六六頁)
- ↑ 叡空と良忍との関係については、『拾遺古徳伝』(法然伝全・五九四頁)に、また法然が叡空から『往生要集』を学んだことは『拾遺古徳伝』(法然伝全・五九七頁)『浄土法門源流章』(浄全一五・五九一頁)、『行状絵図』六(法然伝全・二四頁)等にのべられている。
- ↑ 井上光貞『日本古代の国家と仏教』(二四五頁)
- ↑ 井上光貞・前掲書。
- ↑ 二十五三昧会については『言楞厳院二十五三昧根本結衆二十五人連署発願文』(恵心全一・三六〇頁)、『横川言楞楞厳院二十五三昧起請』(八箇条起請)(恵心全一・三四九頁)、『二十五三昧起請』(十二箇条起請)(恵心全一・三三九頁)參照。
- ↑ 良忍については、良忍滅後間もなく書かれた三善為康(一〇四九-一一三九)の『後拾遺往生伝』巻中(続浄全一七・一一八頁)や沙弥蓮禅の『三外往生記』(続浄全一七・一四四頁)等に伝記が見られる。『後拾遺往生伝』には、良忍の死後、隣房の常陸律師の夢中にあらわれて「我倍本意生上品上生、是融通念仏力也」と告げたといわれており、良忍が生前融通念仏を行じていたことがわかる。尚良忍伝については佐藤哲英、横田兼章共稿「良忍上人伝の研究」(『良忍上人の研究』三六頁~五八頁)參照。
- ↑ 佐藤哲英「叡山浄土教における良忍上人の地位」(『良忍上人の研究』一四頁)
- ↑ 石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』上(二四頁)
- ↑ 『往生要集』には『礼讃』や『観念法門』の引文はあるが『観経疏』は、わずか、往生階位(真聖全一・八九七頁)に「又観経善導禅師玄義、以大小乗方便以前凡夫、判九品位、不許諸師所判深高」と言われるのみである。従って「玄義分」は見られていたかとも考えられるが、弥陀身土論や別時意会通等についても全く「玄義分」が引用されていないのは、あるいは上記の文は、直接の引用ではなく孫引ではなかったかとも推察される。
- ↑ 『首楞厳院廿五三昧結縁過去帖』(恵心全一・六七八頁)に、源信の長和二年(一〇一三)正月一日、七十二歳の時の願文をあげているが、それによれば「生前所修行法、今略録之、念仏二十倶胝遍、奉読大乗経五万五千五百巻、 法華経八千巻、阿弥陀経一万巻、般若経三千余巻等也奉念大咒百万反千手咒七十万反尊勝咒三十万反并弥陀、不動、光明、仏眼等咒少々也云云、其後所作、亦有別記、此外亦有一巻十余紙書記、一生所作善根、其中或造仏像、或書経巻、或行布施、或助他善、如此大小事理、種々功徳、不能具記」といわれている。『往生要集』には、密教的な色彩が殆ど見られないが、上記の文によれば、法華、般若等の読誦のほかに、千手咒、尊勝咒等の密咒の行が盛んに行われていたことがわかる。従って法然、親鸞のような意味での専修念仏者ではなかったようである。もっとも法然は「十八条法語」(『指南抄』中本・真聖全四・一三六頁)に『往生要集』を評して「又云、余宗の人浄土門にその志しあらむには、先づ往生要集をもてこれをおしふべし、そのゆへは、この書は、ものにこゝろえて、難なきやうにその面をみえて、初心の人のためによき也。雖然真実底本意は、称名念仏をもて、専修専念を勧進したまへり、善導と一同也」といわれている。このような法門の顕わしかたを真宗の学僧たちは準通立別の化風とよんでいる。
- ↑ 法然が広例、略例、要例という三例をもって『往生要集』を解釈し、『要集』の本意は善導と同じ但念仏往生を明かすにあったといわれたのは「往生要集釈」(古本『漢語灯録』六・古典叢書本・四頁)である。これについては、『本論』第一篇第二章第三節(四八頁)を參照。
- ↑ 『日本往生極楽記』(続浄全一七・一一頁)や『往生拾因』(浄全一五・三七六頁)に、専修念仏者としてあげられた教信沙弥にせよ、『三外往生記』(続浄全一七・一三八頁)の愚者、相応大徳、『中右記』元永三年(保安元年一一二 〇)二月の条(補増史料大成・二〇四頁)に記載されている破戒妻帯僧静暹など、すべて下品としかいえない願生者であるが、いずれも専修念仏によって往生を遂げたと信じられていた。あるいは『梁塵秘抄』(岩波文庫本・一七頁、四八頁)にも「弥陀の誓ぞたのもしき、十悪五逆の人なれど、一たび御名を称ふれば、来迎引接疑はず」と詠われ、下品下機は専修称名によって往生をうると一般に信じられていたことがわかる。しかしそれが普遍性をもった浄土教学になるためには法然の出現をまたねばならなかったのである。
- ↑ 『往生要集』大文第五「助念方法」第七総結要行(真聖全一・八四七頁)の七法とは、大菩提心、護三業(戒)、深信、至誠、常、念仏、随願をいゝ、これらは「往生之業、念仏為本」といわれるように、念仏を中心に、他の六法がこれを助成するという、いわゆる助念仏の法相であらわされている。その念仏は以下に「称念仏是行善」といわれているので、法然は称名のこととされたが、『要集』の当分は称名と観念とを合せて「称念」といわれたものであろう。すなわち菩提心を発して、戒を持ち、常に称念仏を行ずるところには、自ずから深信、至誠心、願心が具しているので、これを七法具足の如理の念仏とするのである。『本論』第一篇第二章第三節(四五頁)參照
- ↑ 『長西録』上(真全七四・四七七頁)、尚『安養集』の研究論文としては、次のようなものがある。
- ①戸松憲千代「宇治大納言源隆国の安養集に就いて」(大谷学報一九の三)
- ②恵谷隆戒「源隆国の安養集の研究」(『浄土教の新研究』)
- ③大谷旭雄「安養集の成立に関する諸問題」(『浄土教の思想と文化』所収)
- ④佐藤哲英『叡山浄土教の研究』(二四一頁)
- ⑤石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』上(二九頁)
- ⑥梯信暁「源隆国編『安養集』について-『往生要集』との関係を中心として-」(南都仏教第五六号)
- ↑ (21)田村円澄『法然上人伝の研究』(九三頁)、大橋俊雄『法然-その行動と思想-』(二七頁)參照。
- ↑ ◇ 等持定(とうじ-じょう)。等持とは三昧の意。称名行によって三昧の定に入ること。
- ↑ 『教行証文類』化身土文類(真聖全二・一五五頁)、『愚禿鈔』(同・四七一頁)
- ↑ 石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』上(六九頁)
- ↑ 石田充之・前掲書、參照。
- ↑ 国東文麿「悪人往生話」(『往生伝の研究』所収・三三頁)
- ↑ 『小右記』長徳三年四月条(補増史料大成一・一三二頁)、『同上』治安三年十月条(同・二・四〇二頁)、『同上』治安三年十二月条(同・二・四〇八頁)
- ↑ 『春記』長暦二年十月条(補増史料大成・七~八頁)、『同上』永承七年八月条(同上・三五〇頁)
- ↑ 『玉葉』安元三年四月十四日条(国書刊行会本二・三一頁)、『同上』文治元年十一月七日条(同上・三・一一二頁)
- ↑ 『末法灯明記』について、法然、栄西、親鸞、日蓮等は、いずれも最澄の真撰として引用されている。しかし江戸時代から今日まで、真偽両論があって、論争がくりかえされている。真撰説をとなえるのは、妙音院了祥をはじめ、境野黄洋、稲葉円成、家永三郎、松原祐善の諸氏であり、偽撰説をとるのは、遠くは雲照律師にはじまり、寺崎修一、井上光貞、大野達之助、石田瑞麿、宮井義雄の諸氏である。私は偽撰説をとるが詳細は別稿にゆずる。
- ↑ 宮井義雄『日本浄土教の成立』(二四頁)
- ↑ <(氵+戻)か。落涙。
- ↑ 出離の志、至りて深きの間、諸の敎法を信じて諸の行業を修す。おおよそ佛敎多しといえども所詮は戒定慧の三學に過ぎず。いわゆる小乘の戒定慧、大乘の戒定慧、顯敎の戒定慧、密敎の戒定慧なり。しかるに我がこの身には戒行において一戒をもたもたず。禪定において一つもこれを得ず、智慧において斷惑證果の正智を得ず。……悲きかな悲しきかな、いかがせん、いかにせん。ここに予がごとき者、すでに戒定慧三學の器に非ず、この三學の外に我が心に相應する法門ありや、よくこの身に堪えるの修行ありや、萬人の智者に求め一切の學者を訪へども、これを敎ゆる人無くこれを示す倫(とも)がら無し。しかる間、歎き歎き經藏に入り、悲しみ悲しみて聖敎に向かいて、手ずからこれを披きてこれを見るに、善導和尚の觀經の疏に、「一心專念彌陀名號 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼佛願故(一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに)」といえる文を見得ての後、我等ごときの無智の身はひとえにこの文を仰ぎ、もっぱらこの理を憑み、念念不捨の稱名を修して決定往生の業因に備ふれば、ただ善導の遺敎を信ずるのみに非ず、また厚く彌陀の弘願に順ず、順彼佛願故の文、たましいに染み心に留むるのみ。
- ↑ 『無量寿経』の流通分に「当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。」とあり、たとえ仏法が滅しても、この 『無量寿経』の教えは百歳(永遠の意)に、この世にとどめよう、とあるによる。
- ↑ 宮井義雄『神祇信仰の展開と日本浄土教の基調』(二二二頁)
- ↑ 二には深心と。深心といふはすなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願をもつて衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗りてさだめて往生を得と信ず。
- ↑ いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。
- ↑ もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。◇ここでは世を除いた親鸞聖人の文による。
- ↑ 次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。……またこの正のなかにつきてまた二種あり。一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに親近して憶念断えず、名づけて無間となす。 もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。
- ↑ なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり、
- ↑ まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むる意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
- ↑ 法然聖人御説法事」(『指南抄』上末・真聖全四・一一一頁)
- ↑ また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。 これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。 これを真の仏弟子と名づく。
- ↑ ここに貧道、昔この典を披閲して、ほぼ素意を識(し)る。立ちどころに余行を舎(とど)めてここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡(こと)とす。
- ↑ はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。
- ↑ 法然が本願念仏のこころをあらわすのに「義なきを義とす」といわれたことは、親鸞が『末灯鈔』第二条(真聖全二・六五八頁)その他に、しばしば述べられているところである。