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浄土の機縁

提供: 本願力

 親鸞聖人の七百回忌を記念して、鈴木大拙師、曾我量深師、金子大榮師の鼎談を西谷啓治師が司会された『親鸞の世界』(東本願寺出版部)より金子大榮師の記念講演「浄土の機縁」から引用。 生活意識と行動意識という視点で、浄土教という教えはどのような場で、どのような人にはたらくものであるかということを考えさせる講話である。  また、金子師は別の著書で「人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死のするところを浄土におくことによって、それが生のるところとなって、浄土を憶う心があると、その心から光がでてきて、私達に不安の只中にありながら、そこに安住の地を与えられるのであります。」と、本願を信じ念仏申さば仏になるという浄土真宗に於ける帰依ということも教えて下ってある。


浄土の機縁

 真宗の教えは、本願を信じ念仏申さば仏になるということであります。

 本願を信ずるということは、「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず」とありますから、本願というは、平等に人間を大悲してのこころでありましょう。経験をたのむ老人と、新世界を作ろうとする若者とが、たがいに是非しあい善悪を論じているのでありますが、本願にはそういうもののえらびがない。ということは、人間が老少善悪の差別によってわずらわされ、争いなやんでいる、その人間の姿を大悲して、差別動乱のうちにある一切の衆生をして、平等無為の境地にあらしめたいという、それが、本願であります。

 その意味において、人間は願いをかけられた存在であるといえましょう。子供は親の願いのかかっている存在であるというように、一切の生きとし生けるものは、弥陀の願いのかかっている存在であると考えてよいのでしょう。差別動乱のうちにおるところの一切衆生をして、一如無為の境地にあらしめたいというのが大悲のいわれでありまして、その意味で、本願はまことの道理をあらわすものといってよいのであります。本願はまことのいわれであり、そのいわれにうなづくことが信心ということであります。

 また、このいわれを聞き、身につけていくのが念仏であります。念仏によって、私たちは自分を見出し、そうして、自分を見出さしめた無限の光り、すなわち阿弥陀を感じていくのであります。その念仏のこころ、本願のいわれをきいて、はじめて本願のまことが、私たちの身についてくるのであります。

 そうすることによって、仏になるということは、仏と同じさとりを開くことですが、真宗においては、仏になるとは、即ち浄土のさとりであるといってあります。

 そこで、浄土ということがでてくるのですが、その浄土は、本願の世界であり、念仏によって感じられる境地であるというふうにいただきますなら、なんのむりもなく、なんの問題もないことであります。

 しかしながら、浄土の経典に説いてある浄土は、ただそれだけではすまぬものがある。浄土の教えでは、この世は浄土でない。したがって、この世にいるかぎりは、さとりを開くことができない、さとりは来生であるということであります。このことを受け容れねば、浄土教が成り立たず、おそらく本願ということも念仏ということも意義を失なうでありましょう。浄土のさとりが未来であればこそ、本願を信ずるということもあり、念仏申すということの他に道がないことになるのであります。

 では、この世にない浄土、来生でなければさとられないという意味は、どう受けとるべきなのか。浄土の経典に説いてある浄土は、この世と場所つづきではない。西方に十万億土をすぎて世界ありと説かれておりますが、たとえ、文化がすすんで宇宙旅行ができるようになっても、ついでに極楽へよって、八功徳水で沐浴でもしてこようというわけにもいかない。したがってまた時間つづきのものでもない。今日はこの世で、明日はお浄土でということでもなさそうであります。それで往生といいましても、無生の生といってあるのであります。それは、そのように実体的に考えるべきものではなくて、精神的に了解すべきものであるといわれるかもしれない。それは否定することのできないことでありますけれども、しかしながら、その精神的ということだけで、往生浄土ということが明らかになるわけではありません。いいかえれば、浄土というものは、人間の考えておる理想の世界ではない。如来の本願というものと、人間の理想というものとは、どこか異なるようであります。人間の理想ならば、精神的の地つづきでありましょう。時間的未来ともいえるのでありましょう。だからこの世を浄土にしなければならない、というようなことも成り立つのであります。

 しかし真宗の教えには、そういうような意味におきまして、理想主義にたいする断念がある。とてもわれわれの力、このような状態では、この世を浄土にするということはできないということであります。したがって、この世と浄土というものの間には、一つの断絶がありまして、そこへ生まれるといいましても、「超絶し去る」(『大経』下巻)というような言葉が用いられてあります。そういうような意味におきまして、人間の理想というものと、如来の本願というものには、あきらかに区別がある。しかし、人間の理想というものに断念するという、そういうことを介して感じられるところの本願の世界は、さらにふかい意味においての理想の世界であるというようなことがいわれるかもしれない。しかしその世界は、実現を断念したものであるから、そこに、如来の本願を信じて往生を期する他ないものでありましょう。ともあれ浄土教に説かれてあるところの浄土というものは、この世ではなく、そして来生であるというように説かれてあるのであります。

 しからば、そういうことは、どういうことによって本当にわれわれのものになるのであろうか。このことを明らかにしてみたいというのが、「浄土の機縁」という題目の意味なのであります。

 これについて思われることは、親鸞聖人が、その生涯をつらぬいて、時代悪のうちにおける人間の悩みというものを感じられたということであります。あるいは社会悪のうちにおける個人の悩みといいあらわしてもいい。それで一度は、こういう題目で話してみたいとも思うたのでした。今日はそういうことを十分にお話しすることができませんが、一つの場合を考えますと、聖人は越後へ流されて東国を遍歴せられました。その間に、ことに感じられたことなのでありましょうか、「一切の苦悩の群生海」(「信巻」欲生釈)という言葉がある。その苦悩の群生海という言葉は、おそらく庶民に親しんで、庶民の悩みというものに同情、同感しての言葉でありましょう。 その頃の聖人の思想には、時の支配者、権力階級にたいするレジスタンスの意味もあるのだといわれています。そういうことは、私にはよくわからない。レジスタンスというようなことであれば、農民を煽動して、なにか社会運動でもおこされそうなのでありますが、そうではなしに、どうにもならない時代、どうにもできないで、悩める農民に同情しつつ、その悩みをどうしたならば解決することができるかという、そこに聖人の生涯の求道があったのでしょう。『教行信証』に説かれてあることも、そのほかではないようであります。すなわち、聖人はふかく時代悪に悩む庶民の心になって、浄土の教意を明らかにせられたのであります。それが浄土の機縁でありました。

 ここで、浄土の機縁という言葉を用いられた聖人の心を思いますと、『教行信証』に「然れば則ち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり」とあります。これは聖人が自分の時代をうつす鏡として、釈尊の昔における王舎城の悲劇を述べておいでになるのであります。これを、ただ、王舎城におこったところの一つの悲劇であるといえば、浄土教というものは、韋提希夫人という女性の一つの個人的のことのようであります。しかし阿閣世といえば時の王者であり、提婆といえば教団を荷負おうとまで考えた、その提婆・阿閣世というものの逆悪というものは、すなわち一つの時代悪である。こう考えることができるであろう。そうすれば、その時代悪のなかに悩んでどうすることもできない韋提希夫人の立場こそ、一切の衆生の苦悩を代表しているものでありましょう。その時代の悪が縁となって、そこに悩む韋提希夫人が代表者となって、本願を信じ念仏を申すほかないという道が開けてきたのであります。

 かように、提婆・阿閣世の逆悪というものが、章提希夫人をして本願念仏の道につかしめたのである。ということは、時代の悪にたいしてどうすることもできないというのでありますが、そのどうすることもできないという立場にある韋提希夫人が、また、その時代の悪を荷負わなければならないというようなことになっておったのであります。こういうことをいろいろ考えてみますと、浄土の機縁については、いろいろといただいてみなければならぬものがあるようであります。

 しかし問題は現代であります。王舎城の悲劇や、親鸞聖人の場合は、語ればつきないことでありますけれど、今日は、お集まりの皆さんがたいていおわかりのこととして、しからば、現代というものが、浄土の機縁というものの熟している時代であるといえるかどうか。現代にもたしかに時代悪というものがある。しかし、その時代悪というものは、どうしても、浄業の機、本願を信じ念仏を申すほかないという、そういうふうな悩みの縁となるものであろうか、どうであろうか。時代にも悩みがある、その悩みというものがどうしても浄土を求めずにおれん、そういうふうな悩みであるであろうか。もしそうでないとすれば、浄土の教えというものはご用済みになったような形になっていて、なんと申しても、これで浄土教の役割はすんだのであるといわなければならんようであります。しかし、私は、よくよく考えてみれば、今日こそ浄土の機縁の熟しているときであると、こう申してみたいのであります。

 そこで、話をすすめるために、一つ、私の思いつきとでも申しましょうか、こういうふうなことがいえないものであろうかと思うのであります。人間の業というものを、生活というものと行動というものに、いちおう分けてみることはできないであろうか。業とは人間の生活であり、人間の行動であると、こういう場合には、生活というも、行動というも同じことですけれど、しかし私は、いま、この二つを分けて考えてみたいのであります。

生活というのは日常的なものであり、その身についたものであります。たとえば、一家の主婦にいたしますと、朝起きて、お掃除をして、炊事をして、子を育ててというふうなこと、これが生活である。もっと一般的に申しますと、それぞれの職業、大工をし、百姓をし、商いをするという、こういうふうなものを生活という言葉で表わすことができる。それにたいして行動というのは、臨時のものであります。日常的なものでなくて、臨時のものである。そして、自分の身についたものというよりは、他との関係において、どちらかというと、他を動かしていこうというような場合、これを行動というのであります。ですからして、女性の人にすれば、家におって、いろいろ家のことをするのが生活であり、婦人会を組織して、その幹部になるというようなことは、一つの行動であるといってよいのでありましょう。今日、組合をつくり、組織をつくってストライキをやるのは、これは、はっきりした行動なのでありましょう。と申しましても、生活を離れて行動はなく、行動を離れて生活はないということでありましょうからして、そういうような形の上において、区別しようとは思うておらないのであります。ただ意識において、その行動が生活意識によって行なわれますときには、行動も生活に属しているわけであります。生活もまた、行動という意識において行なわるれば、行動といってよいのであります。いちおう、理解していただくのに、その仕事のやり方で分けましたけれど、実は意識の問題でありまして、生活意識によって、すべては行なわれておるのであろうか、行動意識によって行なわれておるのであろうか。

 はっきりするために、もう少し例をだしますが、たとえば学生生活ですが、学生生活といえば、おそらく学校におって教授を受けて勉強をするということであろうと思うのであります。安保問題がでてきたからして、どこかへいって旗を振ろうということは、これは学生生活でないと私は思うのであります。これは行動であります。と申しましても、学生にあるまじき行動と、そういうつもりはないのであります。あれが学生らしい行動であるかもしれません。らしい行動であるか、らしからぬ行動であるかは別にしまして、少なくとも、生活ではないということだけは、いえるのでありましょう。

 しかし、現代はその行動というものも、また生活意識によって行なうということになっているのでありましょうか。それとも生活というものまでも行動化してきたのではないであろうか。こういうふうに考えますときに、浄土の教え、真宗の教えというものは、生活に潤いをあたえ、生活の智慧となるものであって、行動の原理となるものでないと、私はそういうふうに思うのであります。

 ですからして、今日浄土の教えというのは、生活に即しないということがいわれますが、どうしてそういうことをいわれるかという気分は、もちろんわかっております。しかし、私たちの会得しております浄土の教えというものは、これほど生活に即したものはないのである。行動の原理とはならぬが、生活に即するという点においては、おそらく仏教のうちにおいて、親鸞の真宗の教えよりほかにないのではないかと、こういいたいのであります。

 しからば、生活意識の場合と行動意識の場合と、どういうふうにちがうであろうかということを、今日とくに時間の許すかぎり、いろいろ述べてみたいのであります。

まず第一に、善悪という感覚がちがう。生活意識における善悪というものと、行動意識における善悪というものとは、異なるようであります。生活意識における善悪というものは、善悪という言葉を使うておりますけれど、良・不良という、あのよしあしの方が、あるいは近いのではないであろうか。

 真宗の教えにおいて罪悪ということを申しますが、その罪悪というは、煩悩の生活ということであります。私たちは浄土真宗の罪悪観ということを申しますが、聖教の上には、罪悪観などという思想的なものはないようであります。ただ罪悪の感じ、つまり罪のふかい生活をしておるということであります。その生活は非道徳的であるとか、法律に背いているということではない。なにかしらんが、おはずかしい生活をしておりますということなんであります。したがって生活に即していこうという、この真宗人のこころでは、善といっても悪といっても、すべて煩悩であり、罪のふかい生活であると感じておるのであります。

 しかし、行動意識における善悪はそうでない。行動意識における善悪は、いつでも"我は善なり、汝は悪なり"ということで成っているようであります。

 私は、『歎異抄』の十三章を読むたびに思うのでありますが、そこに宿業の例としてでてくるのは、野山に猪を狩る猟師と、海河に綱をひく漁夫、商いをする商人と、百姓の四つがあげられています。これは唯円房がはじめてあげた例ではなくして、親鸞聖人のお書きになったもののなかにも、「具縛の凡愚、屠沽の下類」(「信巻」)という、この「屠沽」という解釈に、漁夫や商人があげられてあります。なぜにそれをもっと拡張して、報道人となり人の内幕をあばくもの、政治家となってたえず反対党の落度を見出すこともみな同じことである、あさましい生活であると書いてないのであろうか。そういうことを一度いうてみたいような感じもするんでありますが、いよいよとなるとなにか気狂いじみているように思うのであります。とすれば、そういうことができないわけがあるのであろうと、ということも、いろいろに考えられます。あるいはそういうふうな人々の行動も、生活にはちがいないが、しかし生活意識よりも行動意識が主となるからでありましょうか。

 行動意識によって行なわれているかぎりは、どんなことでも、よいと思わなければできないものだということであります。行動することでも、また人を批判するということと同じく、結局、自分が善であると思わなければできないことであります。だからして、行動意識において行なわれるときこそ、悪とは不道徳なものであり、法律に背くものであるということが考えられるようであります。

 しかしほんとうに庶民の心をもって政治をするということになれば、また別な思想があらわれるのでしょう。聖徳太子では「共にこれ凡夫のみ」(十七条憲法)という立場において、「彼の人は瞋るといえども、かえって我が失(あやま)ちをおそれよ。我独り得るといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え」とおおせられる、そういう道もあるんであろうと思います。

 しからば、僧侶はどうか。これも一つの問題ですが、ここにお集まりになった三千人の皆さんに、私の心境をのべることは、さしひかえることにしましょう。しかし、僧侶はいつの世でも、たいていわるくいわれているのであります。教えの方からも、たとえば『観無量寿経』には、僧侶の罪をあげてありますから、なにかそこらに、いろいろと考えることができるようであります。

 ともあれ、善悪ということを、行動意識で考えられた善悪をもって真宗の悪人正機ということを考え、その悪人が救われるということを思うことは、見当ちがいでないかと思うのであります。ただ、愛と憎しみということを離れない。わずらいや悩みを離れない。それが庶民の生活であります。考えようによっては、ほんとうに百姓や商人こそ、世のためになっているといいたいところなのですけれども、その生活に即する感情において、煩悩具足のわれらといわずにおれない、それが庶民の感情であります。それは行動意識においては、善をなそうとして悪をなすことになっても、欲も怒りも必要なものとせられているものと、まったく異なるものであります。そういうような意味におきまして、商人や百姓が例にあげられたのをみましても、本願の教えは日常生活に即するものといわねばならぬのでありましょう。

 それで、いろいろの理由もあるのでありましょうが、今日といえども、念仏の教えは、関東の方はよく知りませんが、関西の方から申しますれば、商人の間に行なわれております。また、漁村、農民の仏教であるといわれているほど、農民や漁村の上に行なわれております。結局、そういう人々がほんとうにその生活を顧みて、その上に、どうにもならない自分であるということを知る浄土の機になったにちがいないのであります。

 さて、その生活と行動というものに伴なう感情を申しますと、生活における感情は、悲しみと喜びというものであります。行動者には喜びとか悲しみということがあるのであろうか。親鸞が日本人に教えたものは、なにを悲しむべきか、なにを喜ぶべきかということであるといっている人がおります。いかにもそのとおりでしょう。私も人と生まれた悲しみを知らないものは、人と生まれた喜びを知らないものだと語ってみたこともありました。このような時代に生まれて、人間の生活は、いろいろのことに悩まされ、わずらわされておる。そして、それにたいしてどうすることもできないというところに、人生生活の悲しみというものがある。その人生生活の悲しみにおいて、それを介してはじめて大悲の本願をいただくことができる。そこにふかい喜びがある。このような意味において、ほんとうに悲しむべきこととほんとうに喜ぶべきこととは、生活に即するところの宗教だけが与えているのであるといってよいのでしょう。

 それが行動ということになりますと、どうでしょうか。それは、悲しみとか喜びとかいう言葉を使うとか使わないとかいうことではありません。善悪ということで動いている行動なのでありますから、その行動が成しとげられたときと、成しとげられなかったときには喜ばしい悲しいというよりも、快・不快というようなことではなかろうか。あのときは痛快だった。また負けたときは千載のうらみというようなことをいう。このような行動の世界では、"我は善なり、汝は悪なり"というようなことで争うことよりほかにないのであります。こうして、行動の意欲は"戦い勝ちとるために"ということになっているのであります。

 あの安保事件のとき、私はつくづく感じたのであります。日本に政党というものがあって、いずれもみな"国民のために"というております。ところがその国民のためということによって争い、ときには血を流さんばかりの闘いもでてくるのであります。私たち国民の方からは、一度も争闘をお願いしたおぼえがないのでありますが、その人たちは、みな国民のためだというておられるのでありますから、まちがいのないことなんでしょうか。そうすれば、結局、国民の方が争闘の責任を受けなければならない。ここに、悩める国民が争いの責任を負わなければならないという事実があり、それは韋提希夫人の立場と同じようであります。しかもそれは、どうすることもできないものであります。ただかかる世に生まれ合わせた罪の深さを感ずるより他ないのでありましょう。そこに浄土教というものの意味がある。ここに浄土の光りに照らしだされたこの世の人間の姿があるようであります。

 来生というは、照らし出されたこの世において、照らし出せる光明を望んでの感覚でありましょう。"次の世のために"という言葉がありますが、この言葉は、人間生活の懺悔を感じさせるようです。私には浄土を説く『阿弥陀経』は、人間生活のふかい懺悔を意味するものでないかとかつて若い頃に言って、若い人たちから大いに同感してもらったことがあります。

 そのように、浄土の教えは、どうにもならない人間の世界を明らかにすることによって、それは悲しむべきことでありますが、その悲しみが本願念仏の教えによって、転じて喜びとなるということを思い知らしめようとするものであります。 もう一つ言いましょうか。

 『歎異抄』に説かれてある「よき心のおこるも、宿善のもよおすゆえなり、悪事のおもわれせらるるも悪業のはからうゆえなり」(一三章)という、あの宿業観は自由ということに背くものだということがいわれています。それに対して私たちは、そうではなく、あの宿業論は自由ということに背くものではないということを思うておりました。が、行動と生活ということを考えてみると、そういうことをいう必要もなかったのではなかろうか。自由は行動の上にあることであって、生活の上にいう必要のないことである。自由・不自由は行動の上にあることであって、人間生活をしていこうというところには、自由だの不自由だのなどということはない。ただ宿業のままに生活をしていこうというものがあるのみであります。

 行動の世界は自由があるから不自由がある。そしてその自由のよさは、さわりがあるということでしょう。さわりのないところに自由はない。じゃまをするものがあるから、それを打破していくところに、そこに自由の世界がある。行動の方向に障害物があって、その障害物を打破していこうというところに自由という感覚があるのでありましょう。しかし生活に即して念仏するものには、「念仏者は無碍の一道なり」でさわりがない、その無碍の一道には自由も不自由もないのであります。「念仏は無碍の一道なり」(『歎異抄』七章)で、念仏ということによって、どうにもならない煩悩の生活が、そのまま菩提の道となる。闇より闇への道であるかのように感じられているものが、光りより光りへの道となるというところに、無碍の一道というものがある。

 無碍の一道とは、さわりのない境地でありまして、ここには自由もなければ不自由もない。自由だの不自由だのといわないところに無碍の道がある。

 しかし、そうは申しますものの、あらゆる行動を生活意識のなかに摂めていくことができるならば、またそれだけの機根があるならば、その人はすべての行動を生活に即するものとして、浄土の教えを、ありがたくお受けになることができるであろう。今日の時代は、あらゆるものが行動的になって、それが人間に自由を与えるということになっておりますが、それはますます生活を見失なわしめているのではないでしょうか。それがどうすることもできないものとすれば、現代の要求する宗教は行動の原理となるものであり、真宗もそのようにならねばならぬと、考える人があるかもしれません。しかし七百年のあいだ、私たちの親たちも教えられ、その伝統を受けて育てられたものにとりましては、浄土教は、生活に即するものなるがゆえに、行動の原理となれという要求には応ずることができないように思われます。とすれば、これからの真宗は。ということを考えるよりも、今日までの真宗の伝統を喜んで、ご遠忌に遇うたことを親たちの分まで身に受けて、ありとうございましたと感謝する、それよりほかに道はないと思うのであります。

 要するところ、「浄土の機縁」と題しまして、私の申したかったことは、時代を縁として、それに悩むものが機となるということでありました。浄土を願うことは、この機縁によるものであり、本願を信ずることも、念仏を申すことも、この機縁によることであります。そのことは、これからお二人の先生がお話しくださるのでありますから、皆さんとつつしんで聞かせていただきましょう。これをもって、私の話を終わります。