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白木の念仏

提供: 本願力

白木の念仏

『四十八巻伝』四七にある浄土宗西山派の善慧房証空の示す念仏の修相で、「このひじり(証空)の意巧にて人の心得やすからむために、自力根性の人にむかひては、白木の念佛といふ事をつねに申されけり。」とある。念仏(なんまんだぶ)に自力とか他力とか計らうのは自力の迷いである。それは本願に対する「信」が無いから本願力回向の「大行」を、自力とか他力と計度するのであった。その習い覚えた自力とか他力という言葉の概念に迷わされることなく、なんまんだぶせぇよというのが「乃至十念」という真如から「垂名示形」する言(ことば)であった。なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたいこっちゃ。

法然上人行状畫圖 第四十七 法然上人伝全集 303P

西山の善惠房證空は、入道加賀權守親季朝臣[法名證玄]の子なり。久我の内府[通親公]の猶子として、生年十四歳の時、元服せしめむとせられけるに、童子さらにうへなはす[1]。父母あやしみて、一條堀川の橋占をとひけるに、一人の僧、眞觀淸淨觀、廣大智惠觀、悲觀及慈觀、常願常瞻仰ととなへて、東より西へゆくありけり。宿善のうちにもよをすなりけりとて、出家をゆるさんとするとき、師範の沙汰のありけるをききて、童子のいはく、法然上人の弟子とならむと、これによりて、建久元年上人の室に入、やがて出家せさせられて、解脱房と號す。ただし笠置の解脱上人と同名なるによりて、これをあらためて善惠房とつけられき。その性俊逸にして、一遍見聞するに、通達せずといふ事なし。上人にしたがひたてまつりて、淨土の法門を稟承する事、首尾廿三年[自十四歳至卅六歳]なり。稽古に心をいれて、善導の觀經の疏を、あけくれ見られける程に、三部まで見やぶられたりけるとぞ、申傳侍る

第一圖

このひじりの意巧にて人の心得やすからむために、自力根性の人にむかひては、白木の念佛といふ事をつねに申されけり。その言にいはく、自力の人は、念佛をいろどるなり[2]。或は大乘のさとりをもて色どり、或はふかき領解をもていうどり、或は戒をもていろどり、或は身心をととのふをもて色どらんと思なり。定散のいろどりある念佛をば、しおほせたり、往じやううたがひなしとよろこび、いろどりなき念佛をば、往生はえせぬとなげくなり。なげくも、よろこぶも、自力の迷なり。大經の法滅百歳の念佛、觀經の下三品の念佛はなにのいろどりもなき、白木の念佛也。

本願の文の中の至心信樂を、稱我名號と釋給へるも[3]、白木になりかへる心也。所謂觀經の下品下生の機は佛法世俗の二種の善根なき無善の凡夫なるゆへに、なにの色どり一もなし。況や死苦にせめられて忙然となる上は、三業ともに正體なき機なり。一期は惡人なる故に、平生の行の、さりともとたのむべきもなし。臨終には死苦にせめらるる故に、止惡修善の心も、大小權實のさとりも、かつて心にをかず、起立塔像の善も、この位にはかなふべからず。捨家棄欲の心も、このときはおこりがたし。まことに極重惡人なり。更に他の方便ある事なし。もし他力の領解もやある、名號の不思議をもや、念じつべきと、をしふれども、苦にせめられて、次第に失念するあひだ轉敎口稱[4]して、汝若不能念者、應稱無量壽佛[5]といふとき、意業は忙然となりながら、十聲佛を稱すれば、聲聲に八十億劫の罪を滅して、見金蓮花、猶如日輪の益にあづかる也。

この位には機の道心もなく、定散の色どり一もなし。ただ知識のをしへにしたがふばかりにて、別のさかしき心もなくて、白木にとなへて往生する也。たとへば、をさなきものの手をとりて、物をかかせんがごとし。あに小兒の高名ならんや。下下品の念佛も、又かくのごとし。ただ知識と彌陀との御心にて、わづかに口にとなへて往生をとぐるなり。彌陀の本願は、わきて五逆深重の人のために、難行苦行せし願行なる故に、失念の位の白木の念佛に、佛の五劫兆載の願行つづまりいりて、無窮の生死を一念につづめて、僧祗の苦行を一聲に成ずる也。

又大經の、三寳滅盡の時の念佛も、白木の念佛なり。その故は、大小乘の經律論、みな龍宮におさまり、三寳ことごとく滅しなむ、閻浮提には、冥冥たる衆生の、惡の外には善といふ名だにも、更にあるべからず。戒行ををしへたる律も滅しなば、いづれの敎によりてか、止惡修善の心もあるべき。菩提心をとける經もしさきだちて滅せば、いづれの經によりてか、菩提心をもおこすべき。このことはりを、しれる人も世になければ、ならひて知べき道もなし。故に定散の色どりは、みなうせはてたる、白木の念佛、六字の名號ばかり、世には住すべきなり。
そのとき聞て一念せん者、みなまさに往生すべしととけり。この機の一念十念して往生するは、佛法のほかなる人の、ただ白木の名號の力にて、往生すべきなり。しかるに、當時は大小經論もさかりなれば、かの時の衆生には、事の外にまされる機なりと、いふ人もあれども、下根の我等は、三寶滅盡の時の人にかはる事なく、世は猶佛法流布の世なれども、身はひとり、三學無分の機なり。大小の經論あれども、つとめ學せむと思ふ心ざしもなし。かかる無道心の機は、佛法にあへる甲斐もなき身なり。三寳滅盡の世ならば、力およばぬかたもあるべし。佛法流布の世に生ながら、戒をもたもたず、定惠(慧)をも修行せざるにこそ機のつたなく、道心なき程もあらはれぬれ。

かかるをろかなる身ながら、南無阿彌陀佛と唱ところに、佛の願力ことごとく圓滿する故に、ここが白木の念佛のかたじけなきにてはあるなり。機においては、安心も起行も、まことすくなく、前念も、後念も、みなをろかなり。妄想顚倒の迷は、日ををうてふかく、ねてもさめても、惡業煩惱にのみ、ほだされ居たる身の中よりいづる念佛は、いと煩惱にかはるべしともおぼえぬうへ、定散の色どり、一もなき稱名なれども、前念の名號に、諸佛の滿足を攝する故に、心水泥濁にそまず、無上功德を生ずるなり。

中中に心をそへず、申せば生と信じて、ほれぼれと南無阿彌陀佛ととなふるが、本願の念佛にてはあるなり。これを白木の念佛とは、いふなりとぞの給ける。[已上見于門弟記錄]
念佛の行は、機の淨穢をいはず、罪の輕重によらず、貴もいやしきも、智者も愚者も、申せば皆往生する行なるを、自力根性の人は、定散の色どりを指南として、採色なき念佛をば、往生せぬいたづらものぞと思へる事しかるべからず。自力根性をすてて、他力門にむかへとなり。さればとて、大乘のさとりある人、ふかき領解のある人、戒をたもてる人などの申念佛は、わろしとにはあらず、よくよくこの分別をわきまふべきものなり


脚註:

  1. うへなはす。肯はず。出家を願い元服を承服しないこと。
  2. いろどる。彩る。さまざまのこころに浮かぶ思念を用いて念仏(なんまんだぶ)を称える行為を飾り修飾し意味づけること。そもそも念仏を称えたから往生する本願ではなく、念仏を称えた者を往生させるといふのが第十八願なのであった。衆生の称え心を用いないから念仏往生の願といふのである。
  3. 善導大師は、第十八願の「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ(至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚)」を『往生礼讃』で、「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚)」とされておられた。
  4. 轉敎口稱(てんきょう-くしょう)。教えを轉じて口称のなんまんだぶを勧めること。
  5. なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし。