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真宗教団における異端の思想

特に善知識帰命について(二)
山田行雄

 蓮如上人以後、本願寺教団は、時代の波を大きくかぶり、戦国時代に生存する教団として、戦乱の火中にあってその活路を求めるに急であった。
 教義においては、蓮如教学を墨守することに汲々たる有様[1]で、むしろ、教団の威厳を誇り、対外的位置づけの確保のため、外構と荘厳に勢力を傾注し、朝廷と進んで関係を持つことに努力を尽していた[2]ように思われる。このような状態の中では、信仰は形式的惰性に沈帯していくばかりであった。
 政権が徳川に移り、幕藩体制確立の方途として文冶政策が強力に推進されてくる。これによる学問興隆の気運は、仏教界に強い刺激となって、各宗本山に学問道場の開設となってあらわれてきた。本願寺においては、良如(一六一二―一六六一)の時代に学寮か創設(一六三八)され、能化職をおくようになる。初代能化西吟(一六四七)から第七能化知洞(一八〇六)まで約百五十年間を能化時代と呼ぶ。この間教義安心について、いわゆる三大法論(承応の法論・明和の法論・三業惑乱)がおこり、異義を主張する者が続出するのである。
 しかし、いま私は、能化時代の異義のなか、直接に三大法論を問題にしようとするのではない。それは前稿[3]において論攷した知識帰命の思想的推移とその形態を歴史的順を追って考察せんとするものである。前稿においては、宗祖時代より蓮如時代までを考察したのであるが、この小論にては、能化時代とそれに終焉をつげた三業惑乱以降を問題とせんとする。

Ⅳ 能化時代の知識帰命

(一)

 初代能化西吟(一六〇五―一六六三)・二代知空(一六三四―一七一八)時代には、本派教学の黎明期てあり、能化それ自身にまつわる異義論諍が惹起し、しかもそれか浄土教認識の基本問題としての聖浄末分論[4]であったことに注意される。学者間の論諍の火中にあって、真宗門徒のなかにも異義を提唱するものがあらわれてきた。寛文四年(一六六四)紀州黒江の作太郎の十劫秘事[5]、または一般信者間に流布していた貞享三年(一六八六)著者不明の『一往再論』にみられる法体づのりの邪義[6]等がある。それ等当時の異義を批判せる著書として、俊諦(一六六四―一七二一)が元禄五年(一六九二)に著した『北窓偶談』を挙げることができる。彼は同著において、当時の邪義を悲歎して

みだりに真宗の法義をあつかひ一分の邪気をつのりて、道俗の領解をさまたぐ。あるひは法体の徳をつのらんとして信楽の一念をわすれ、あるひは機情の辺にしづんで、他力の大行をあざむく妄談緇素をしのぎ、僻案都鄙にみてり、その弊おほひにその害さかんなり。その棟梁と号せるものは、一文不通の入道のたぐひ、または東西不弁の看坊ほかには信楽のよそほひをたくみにしつらひて、在家の耳目をまどはしめ、うちには利養のよこしまをあつくたくはへて、門徒の懇志をむさぼらんがためなり。これ師子身中のむしなり。これ真宗障碍の魔民なり。ああかなしきかなや、邪風しきりにおふぎ徳香しばしばおとろへなんとす。(北窓偶談・一丁)

と述べている。法に胡座をかくもの、機に執ずるもの、所謂異義異安心が僻案都鄙にあふれていたことを指摘するのであるが、具体的にいかなる主張、論説がなされていたのかについて、俊諦は次の五を数えている。

1、雑行正行の名目をおぼえずんば往生不定と執ずる事。
2、ひとたびたのみまふせし行者、なをおぼつかなしとして、いくたびもいくたびもたのみなをすこと、いわれなき事。并にたのましむると号して法事をとりおこなふまじき事。
3、如来は機よりたのむか、法よりたのましむるかの異論の事。
4、機法一体の領解になりたる身は、すなはち阿弥陀仏なりといひて、在家止住の身なから知識をからしめ同行をあざむくこと勿体なき事。
5、衆生の本有力といふことをつのりて、但他力はゆるすべからずといふ誤謬の事。

このなか、直接に知識帰命の異義に関係するものは4である。これについて俊諦は、

いま執ずる邪義のごときは、不浄臭穢の身たりながら、勿体なくもわが身すなはち仏なりとののしり、薄地底下のこころながら、おそれなく如来なりとつのること、これ仏祖の金言にや矛盾し自欺自暴の愚人なり。(北窓偶談・一八丁)

と厳しく批判している。すでに考察してきたごとく[7]、善知識が阿弥陀仏に擬され、よた、知識即阿弥陀仏の論理構造は、覚如存覚時代に構築され、異義は異義なりの論理をもっていた。しかし、その論理は、『他力信心聞書』にみられるごとく[8]、善知識の三身(心・言・身)三諦(空・中・仮)即弥陀という単なる聖道門的理念の導入、符会ではなく、ここに注意すべきは、蓮如教学に対する無理解、または誤謬から生じた新たな知識帰命の論理が発生したことである。それは俊諦の示述のごとく、蓮如教学の随一として挙げられる機法一体論である。

(二)

 機法一体論は『安心決定鈔』に盛んに論ずるところであるが、覚如の『願々鈔[9]』、存覚の『存覚法語[10]』を経て、『御文章』において大成され、一般真宗信者へ法義の構格として浸透していったのであろう。蓮如上人と『安心決定少』とのかかわりあいは、『御一代記聞書』に、

前々住上人仰られ候。『安心決定鈔』のこと、四十余年が間御覧候へども、御覧じあかぬと仰られ候。又金をほり出す様なる聖教なりと仰られ侯。(真聖全・三の五九五)

と述べ、更にはこの書が真宗信仰の肝要を諭じたものであるとして、

大阪殿にて各へ対せられ仰られ候、此間申ししことは『安心決定鈔』のかたはしを仰られ侯由に候。然は当流の義は安心決定鈔の義いよいよ肝要なりと仰られ候と云々。(真聖全・三の五九五)

とあるところよりも、いかに深いものであったかか推考できる。その『安心決定鈔』の中心思想は、機法一体論であり、少冊の同著の中には機法一体の語を二十一ヶ処も数えることができる。そこで本願文に基盤を置き展開される『安心決定鈔』の機法一体論を考察せねばならぬが、いまは試みに、稲葉秀賢氏の労作を借りることにする。氏は同問題を次のごとく図示されている。

一、生仏不二を示す機法一体
   設我得仏……仏
   十方衆生……衆生
二、願行具足を示す機法一体
   三言(信)……願
   十念(行)……行
三、正覚即往生を示す機法一体
   若不生者  往生
   不取正覚  正覚

そして、この三類の機法一体論の関係について氏は、『最も根本的意味を持つものは、第三の正覚即往生の機法一体であって、それが西山の根本的立場である。この第三から第一の生仏不ニ機法一体が生まれ、その方法論的意味として第二の願行具足の機法一体論が生まれてくるのである[11]。」と述べてある。  いま、このなか、知識帰命と深い関係をもち、俊諦によって指嫡されたは機法一体の誤謬は、第一の生仏不二の機法一体論であると思考される。『安心決定鈔』は、この問題について、

弥陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたるゆへに、機法一体にしてし南無阿弥陀仏なり。われらが、迷倒のこころのそこには、法界身の仏の功徳みちみちたまへるゆへに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり[12]

と述べるのである。このような論述が、信者をして誤解され、「わが身すなはち仏なり」と生身の仏の出現となり、それが善知識の性格内容の重要な点となる。更にいえば、善知識が生身の仏であるとの論理は、知識帰命の強力な武器となり、善知識の確固たる位置づけをするものである。  この機法一体を武器とする善知識のすすめる獲信の方法論もまた機法一体論であったかに推測される。そのことは『北窓偶談』に挙げた五種の邪義のなか、3の「如来は機よりたのむか法よりたのましむるかの異論の事」の条下に俊諦は次のごとき解説をしている。

かの執者のいはく、もし法よりたのましめ法よりたすけたまはば、機法一体とはいひがたし、法法一体なり。たのむまでは機にして、たすけたまふは法なり。(北窓偶談・十二丁右)

と述べている。この邪義の主張は、機法一体といいながらも機法別体であり、一体のあり模様は合体である。されば機の側にあってはたのまねばならぬ、「たのむまでは機にして」とある。そのたのみ方を問題にしたのが、『北窓偶談』に挙げた2の異義である。その条下における俊諦の解説は、

たのましむると号して、他宗の掲磨の儀式のごとく鐘鼓をひびかせ法事をとりおこなふこと、(北窓偶談 九丁)

とあるごとく、善知識が導師となって信心獲得の法事がとりおこなわれていた様子を知ることができる。
 西山義的なものが真宗の安心に混入し、異義の種子を培養したことは認めねばならぬ。しからばそれは年代的にどれ程までさかのぼれるのであろうか。軽々に論することはできぬが、少なくとも知識帰命関係の文献においては覚如の名のもとに署された『他力信心聞書』に早くもその片麟を見ることができる。この著書の内容等については、すでに論攷したところである[13]から再論をせぬが、その著書のなかに、

       「仏  「知識「本門本覚「一如空寂       「帰命還源
南無阿弥陀と云は阿弥陀仏の 昔の   本願なるがゆへに、これをとなふる衆生等はみな往生をうることその疑なし。
(真宗大系異義集・一九七)

と述べている。このなか、「となふる」の文字の註に「帰命還源」とある。この帰命還源説は、西山の顕意(一二三八―一三〇四)の『玄義分楷定記』に詳細に論ずるところであるが、そのなか称名をもって帰命還源を釈して次のごとく述べている。

自ら還源の想を作さずと雖も、但だ能く六字の名を称念すれば、流に返って、源に帰えるの人に非るはなし。(玄義分楷定記一の一三丁)

とある。いま『他力信心聞書』はこの称名の帰命還源説を承けていることは明確である。この辺からも、ながく知識帰命論者の依憑となった篇名不詳の『他力信心聞書』の思想背景等を再考せねばならぬと考えられる。

(三)

 法霖(一六九三―一七四一)義教(一六九四―一七六八)時代に至るや、、蓮如の『御文章』は一般信者のなかに強く広く浸透し、真宗門徒の理解し易い聖教として定着してきた。しかし一方、その理解が独断であったり誤解であったり、またわ言図的曲解をなすものがあらはれ、『御文章』を出拠とする異義異安心が少なからず露呈されてくる。龍谷大学図書館に蔵されている宝暦五年(一九五五)の泰厳(一七一一―一七六三)の自筆本『鼓攻篇』の序に、

年来京都に流布せる邪義の趣近頃露顕せるところ全く本宗に談ぜざるめづらしき名目をつかひ、ことに蓮師より在家へ相承せる法義なりといひて愚癡の男女をいつはり、たぶろかすこと凡そ真宗の門を窺はん人は、其邪義たること惑ふべきにあらざれば、これを辨斥するにたらざといへども愚癡きはまりなきやから真宗の法義の趣を努々意得さらん輩はこれに誑惑せらるるもの少なからず(鼓攻篇・一丁)

と述べる点よりも窺い知ることができる。『鼓攻篇』が異義として挙げたものは次の十種である。

1邪自力他力の分別
2邪求善知識の事
3邪授一念の事
4邪宿善を願ふ事
5邪御座を立ると云事
6邪頼上げと云事・取り上げ云事
7邪正覚日の事
8邪御飾の事
9邪御礼参の事
10御文の五重の義に口授相伝あり

右のなか、知識帰命に探い関係をもつものとして指摘てきるのは、1・2・7・10であろう。よって順次この異義の主張と立論を考察してみる。
 まず1の邪自力他力の分別について泰厳の調査報告は、

善知識とは阿弥陀如来に帰命せよといへる使者也と仰せられたり。仏の使に逢てたしかに決定する信心に非んば往生すべからず。知識の相伝もなく一応聴聞の分際より領解するは自力の信心なり。知識より授るを他力の信心といふ。(鼓攻篇・一丁)

とある。善知識の相伝の有無により信心の自力他力を分別せんとすることの論理は、その背後には他力の信心の獲信には善知識を絶対条件にするものである。しかもその善知識は泰厳によると「蓮師より在家へ相伝したまふ法義をつかさどる善知識といふものを別に立てて、これに値遇して伝授せざれば他力の信心に非ずといへり」(鼓攻篇・二丁)と述べるごとく、在家のものが善知識の位に座していたことが判明する。それではなぜ在家者が善知識となり得るのか、またその善知識にいかにして値遇すべきかを論したのが2の「邪求善知識の事」の条下であるが、そこに泰厳は次のごとく述べている。

蓮師より相伝したまふ他力の極意をしれる人を知識と云、蓮師末代の機を鑒給ひて在家に相伝したまふ其所以如何ぞなれば、坊主に相伝したまふときは施物などを取り却て無上の法を汚さんことを恐れ給ふゆえに堅く秘して在家に伝へたまふ。一帖目并八箇条等の御文を以て知るべし。 人有て彼党に入れんと思ふときは、手引の人教て処々の同行に往て問はしむ。同行の人みだりにかたらず。此を以て手引の人に従て懇求するとき其機を察して、始て知識に見へしむ処々の同行に尋求することは、祖師聖人中堂及び六角堂の懇求に擬すると也。(鼓攻篇・六丁)

とある。在家にあって一党を結成するは、坊主と絶縁することか先次条件である。そして在家にのみ信心の正統相承のあることを主張せねばならず、そのことを蓮如の言葉でもって証明することにおいて自己の主張の信憑性を確保するのである。そしてその在家の善知識に値遇する方法として、「手引の人」を立て、同党同類の者に面接を強請するのである。「祖師聖人中堂及び六角堂の懇求に擬する」とあるも、その実質は秘密結社的知識帰命の一団としては穿った方途であるといわざるを得ない。
 更に後世知識帰命の特色として、知識伝授の信心獲得の年月日の明記を要請するのが、7であろう。泰厳は「正覚日の事」の条下に

衆生往生せずんば正覚ならじと誓ひたまひしことなれば、往生不定の人今日真の知識の教により如来を頼み奉り往生の時、則ち如来の正覚成就の日と思ふべし。此の日は一生の間精進潔斎すべし。(鼓攻篇・三三丁)

と述べている。この文の当面は、十劫秘事の異安心の主張とまったく反対の立場に立ち、むしろ後世の空華学派にみられる数々成仏の思想の先駆的発言のごとくにみられる。
 空華学派における数々成仏説とは、例えば善譲の『宗要論題決択編』に、 一衆生に一願行、一衆生に一十劫成道、無量の衆生なれば無量の発願成道、(真叢・二の六九〇) と示すごとく、個々の衆生に個々の願行、個々の成道という。一々願行、一々成道であって、柔遠は「数々発願、数々成道[14]」と述べている。空華学派が数々成仏説を主張する理由について普賢大円氏は、「空華学派の学風の特色は、真宗教義を主体の立場に於いて叙述せんとするところにある。換言すれば如来に救済されつつある自己自らの信仰内容を、直下の状態、進行の状態に於いて捉えようとするところにある[15]」と評価されているが、いまの「正覚日の事」の条下の叙述のなか、「往生の時、則ち如来の正覚成就の日と思ふべし」と断章すれは数々成仏説と変るところはない。しかし、問題は「此の日は一生の間精進潔斉すべし」とは明碓に獲信の年月日の確認である。この主張を逆論すれば、年月日の確認なきものは真実信心の行者ではないということである。それ故に認可者が必要であり、獲信年月日の入った認定書または誓約書が後世出廻るようになってくるのである。

(四)

 さて蓮如以後知識帰命論の武器の最たるものは、『御文章』二帖目一一通のいわゆる「五重義相」論である。『御文章』二帖目一一通は、十劫秘事と知識帰命の異義を挙げ、この邪計を破しつつ、獲信の相状を詳かにして、信心正因を述べるものである。そのなか獲信の相状に、宿善、善知識、光明を挙げ、信心の体相として、信心、名号(称名)を諭じ、結ぶに「この五重の義成就せずば往生はかなふべからずとみえたり」(真宗全・三の四四二)と述べるのである。ここに獲信の相状に善知識を出す。これが蓮如以降の知識帰命の強力な武器となり悪用されていることは識者の認めるところである。蓮如の五重の義相論が知識帰命の邪義の徒達によってどの様なあつかい方をされていたのか、その資料を提供したのが『鼓攻篇』に述べる「邪御文の五重の義に口授相伝あり」の条下である。それによると、

其説に曰く、助け給へと唱る行をつとむるうちに宿善ひらけたり。正しく真の知識の引導によって、一念慶喜するとき光明に摂取寸られたり。信心すでに冶定するうへは、報謝の名号を唱ふべし。この万不の義成就せすは報土往生かなふべからずとの玉へり。(鼓攻篇・四二丁)

と述べている。この論述は一見ただ五重の義の解説のごとくにみえるが、その実、種々の問題を内含している。例せば、(一)宿善開発を「助け給えと唱る行」をもってすることである。口称の行をもって宿善開発する証文はない。『大経』には、持戒・値仏を挙げ[16]、『安楽集』は多仏供養[17]を加え、『玄義分』には、聞法[18]を挙げてあるが、宿善とは、総じては値仏聞法をいい、別しては弥陀法に値遇したことをその内容とするのである[19]。(二)「知識の引導によりて一念慶喜する」とは、信心は知識の引導によることを意味し、知識認可の信でなければ一念慶喜の真実信でないとするのである。事実、泰厳は当時の模様を次のごとく述べている。

善知識をたてて、これに値遇し、室に入座を搆るの軌則を執行する(鼓攻篇・四二丁)

と、秘事の形態をとることを指摘している。この秘事が具体的にいかなるものか。泰厳は、スパイとして秘事のグループに潜入陳索した石州の貞吟尼の報告を綴っている。それによると、

石州の尼貞吟が間者としていつはりて彼の邪党に入て往生冶定の時、貞吟は光明を見ることなしといへども、彼の邪党は光明も格別に明かに拝るると賞美せしなん甚だ以ていぶかしく怪しきことなり。(中略)彼の邪党は此の五重の義を必ず現前に事にあらはして歴別に次第して具することをの給ふやうにおもふゆへに口授相伝ありといひて軌則をたて、御文を解釈する(鼓攻篇・四四~四六)

と述べている。蓮如の五重の義相のねらいは、先に一言したごとくこの知識帰命の異義なることを明確にし、否定したにもかかわらず、皮肉にも奪った刀で敵を切る的に逆利用されるのである。この五重の義相の釈は以後も知識帰命の邪党に盛んに利用される事実は後に述べるところである。  『鼓攻篇』はその序に記すごとく、京都周辺の異義を調査批判したものであるが、時をほとんど同じくする明和年中(一七六四―一七七一)、関東を中心とする異義を調査したものに、立松懐之の『庫裏法門記』がある。彼は先の貞吟尼と同じく、実際に秘事のグループに潜入し、その実態を調査し克明に記録している。いまそのなか、知識帰命に関する一端を紹介しておく。

仏態にまかすべしと画をよくかくものを招きて阿弥陀仏の像を画かせけるに、三度まで画がきけれども、今の知識善兵衛殿の容貌に少しもたがはず。此上は仏勅も同然なれば互に偏執の思あるべからずとて終に善兵衛に付属し、彼画く所の本の尊をもて、行者済度の本尊と定めたるよしをかけり。仏像元より金色にて俗形は善兵衛が容貌に似たる。(中略)善兵衛即本尊、本尊即善兵衛と崇めて善兵衛が代にはこの本尊をかけて済度し、(中略)我々が同行に某といひし人奥州にて此法を弘め繁昌せしに、名称寺と云ふ一向寺の奥方、深く帰依し或る時、住持にかたりて、誠の浄土真宗と云ふは、京都本願寺にて授けたまふ法にてはなし、爰に高徳の人ありて傷心決定の秘を伝へたまふ。一たび此の化導にあひぬれば誠に即得往生住不退転の領解すはりて、其の尊きこと言語に絶えたるといひて斯方の法に勧め入らんとしたり。(真宗大系秘事法門集上・三九~四〇)

と述べている。しかしこれ等の秘事が発覚したときはいかなる処置が取られたのであろうか。『庫裡法門記』は寺社役人によって、「一類ことごとく召捕られ、其の時の知識は城下を引きわたして磔刑にかかられたり」(同右・四〇)と記している。ゆえに秘事法門の徒は親子の情をも犠牲にし、ひたすら隠し続けるのであった。その辺の事情を立松は次のごとく記録している。

我等も当年五年になる子あり。父子の恩愛ほどせつなるものなけれども今日まで膝にあげて抱きしことなきは何故なれば、都て思の種なりと思ひて、わざとつれなくあたり候と語りき。(真宗大系秘事法門上・四〇)

と、肉身の情に信仰が優先する程までに知識帰命の秘事か熱烈さを極め狂信させたことの魅力と恐しさを思わずにはいられぬのである。勿論、宗教心理の上からは、仰信といわれる信仰形態の特色であり、ヨーロッパにおける宗教戦争、わが国における一向一揆等の精神的エネルギーも同類だと推測されるが、この問題は別稿にて考察論攷してみたい。

(五)

 功存(一七二〇―一七九六)・知洞(―一八〇六)時代になるや、教団内における空前の安心大論諍が表面化してくる。いわゆる三業惑乱がそれである。三業帰命説の思想的淵源は遠く学林創設期にさかのほり、しかも代々能化を中心とする学寮に深く根をおろして定説化[20]したものであり、功存の『願生帰命弁』において鮮明に露詮されたものである。三業惑乱は、帰命の信相が欲生であるか信楽であるかの論諍であるが、先の承応・明和の法論とその内容を異にし、自己の安心、全生命の問題であるだけに、学者・同行全体の問題として真宗門徒の全てに波及し社会問題にまでに沸騰したのである。安心が惑乱状態にあるとき、異義異安心が続出したことはいうまでもない。例えば天明年中(一七八一―一七八八)、犀角入道なるものが『摧邪五十五条』を著し、五十五条の異義を列記し[21]、寛政六年(一七九四)には、文如を中心に二十二種の異義を数えている。二十二種の異議については後に詳らかにするが、『摧邪五十五条』の中に挙げる異義のなか、知識帰命に密接な関係をもつものは、第二十九条「三身並三身釈」である。その条下に

三身とは、仏像を法身とし、知識を報身とし、行者を応身とする。

と記すのである。此の三身説は、従来考察[22]してきた知識帰命論の中にいまだ発見せざる珍説である。知識について三身を立てるのは、『他力信心聞書』に端的に表われ、また知識をもって報身とするのは、この異義の一般的なものであり、先の『庫裡法門記』においても、知識善兵衛をして、「善兵衛即本尊、本尊即善兵衛」と礼拝の対象とするのである。しかしいま、行者をして応身とするがごとき、仏身観の範疇に信者の位置を設ける三身説は異色といわざるを得ない。
 次に天明四年(一七八四)、大麟(―一七八四)は三業惑乱のさなか『真宗安心正偽編』を著述するのであるが、その論述の構想も「たのまざる部」と「たのむ部」に分判してあることは時代的色彩を濃厚に表わしている。その分類に従えば、

たのまざる部……十劫業成、一唱具行、意念偏個
たのむ部………妄想感得、妄依知識、三業各帰

となる。その中、「妄依知識」の条下に、行者が知識帰命に転落していく失を挙げて次の四項をもって注意を喚起せしめている。

1、聖浄二門を混ずるの失
2、自他二力の誤りの失
3、信具の行を知らざるの失
4、法徳機行を艦ずるの失

とある。いづれも上来考察してきた知識帰命の総括的把握として妥当であると認められるものである。大麟もさることながら、三業惑乱の火中において、文如は学林の諸学者を一堂に集め、宗義安心の是正に意欲的活動をするのである。その経緯を佐々本恵雲編『古徳法語集』第三巻には、

維時寛政六甲寅の歳中夏、本願寺の文如上人、学林の諸長老を招えて聖教の明文に照し、二十二種の邪義を発見せしめ之を国内の門末に示して相師相承の安心を堅固ならしめたまふ。(古徳法語集・三の二一)

と述べている。そこに指摘、告発され糾弾された二十二種の異義とは、

1、十劫邪義
2、一念邪義
3、多念邪義
4、代帰命義
5、歎機邪義
6、半他力半自力義
7、称名願体義
8、諸行本願義
9、称名正囚義
10、自然発得義
11、真如邪義
12、彼尊委任義(あなたまかせ)
13、三業各立邪義
14、意業帰命邪義
15、口業帰命邪義
16、現生来迎義
17、改悔帰命義
18、起行安心義
19、功徳帰命義
20、日時帰命義
21、理相沙汰義
22、知識帰命義

である。右のなか、二十二条の「知識帰命義」について、

是れは越後高田浄興寺唯道房より出たり。此の邪義の意は仏法僧の三宝を混雑して、一二の仏と法とを傍らにして三の僧を要とし弥陀をたのむことを知らず唯だ僧の教を聞くばかりで往生の一段は成就するやうに思ひ、帰する所の弥陀を捨てて、知識ばかりを本とするなり。(古徳法語集・三の三二)

と述べている。この弁駁は通仏教の立場より知識帰命の邪なることを論断するのであり、その意味で注意されるが、さらに異義の出処を「越後高田浄興寺唯道房より出たり」と明確に記している。唯道がいかなる人物であったか不詳[23]なるは残念である。
 二十条の「日時帰命義」については、

高田の顕智流より出たり。此の邪義の意は弥陀をたのむ其の時を刻みて、其の日を能く覚へねば実の帰命ではないと云ふて、仏をたのむ日柄を定め其の日を往生の当日と云ふて仏事を勤め、僧衆に供なふ伝記に建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰すとあれば、其の年月日を覚へざるは正意にあらずと教へて弥陀をたのむ日時を要とす。(古徳法語集・三の三十)

と記述している。この日時覚知論は、先の『鼓攻篇』七条の「邪正覚日の事」を問題として述べたごとく、知識帰命の特色である。しかし日時覚知論は、知識帰命の異義と密接不離の関係をたもちつつ、一念覚知の異義として新しく異義異安心史に登場するのである。その問題は別途に論考せねはならぬが、すでに諸先輩の労作[24]がありそれに譲りたい。

(六)

 本願寺派では三業惑乱の嵐の中、学林の諸学者達が『二十二種の邪義問答』を作製のころ、大谷派において、非常に明確な知識帰命論か露見した。すなわち寛政八年(一七九六)の項、下総の国柳沢村に高沢求馬(孫右衛門)なる者が出現して、「十箇条の心得」を主張した。その十箇条の大綱を挙げれば次のごとくである。

1、善知識の心得
  仏というも無色無形にして唯大悲に外ならぬ。この大悲の阿弥陀仏は善知識の胸中にのみ在す。然れば善知識のみが活仏である。
2、一益法門の心得
  善知識を通じて得る信心の行者は、此の身が法身である。
3、念仏の心得
  念仏するとは口に称えるものでない。自己の胸中に得た大悲の仏を念ずることである。口に称える者は自力の行者である。
4、報恩の心得
  信心の人は互に心も合うて交際すべきであるが、自力の人とは交際すべからず。自力の人は善知識の活仏を拝むことができぬが、信心の人は活仏善知識の御用を勤むる。これが報恩の行である。
5、信心の心得
  善知識の胸を通した大悲の御心を受領する一念が信心である。弥陀より直ちに得るのではなく、善知識を必らず通すのである。恰も酒樽の酒は樽口に口づけて呑むのでなく、銚子に入れ、盃に入れて飲むがごとく、大悲の酒は善知識の銚子に依り、御教化の盃に依って与えられるのである。
6、往生の心得
  弥陀同証の大悲法身を得れば、此の身が即法身であって、往生というも死後にあらず。前念命終後念即生であって真実の浄土はわが胸中にあり。
7、仏身の心得
  善知識の心が法身、教化が報身、相が応身である。
8、機法一体の心得
  大悲の御思召と凡夫受領の信心とは天上の月と水中の月影のごとく一体である。剋実すれば、水と月と一体である。天に湿気有るは、水と月と一体の印である。善知識の胸中の大悲をいただいたのが信心であり、善知識の思召が法、それを私(機)がいただくのであるから機法一体。
9、西方浄土の心得
  真実の浄土はわが胸中にあり、西方浄土を信ずるは空見門である。
10、信後造悪の心得
  善を勧め悪を慎む者は自力の輩であり、後世者ぶる者であって、信心を得れば無量寿仏である故になに憚ることもない。

と述べている[25]。知識帰命の典型を見る思いがするが、要は(一)仏身観の問題、(二)獲信の問題、(三)信後相続の問題に大別できる。先ず(一)の仏身観については、弥陀は大悲であって、大悲は善知識の胸中にある。よって善知識が活仏である。その活仏の三身とは、善知識の心が法身、教化が報身、相が応身であるとする。この三身説は先の『他力信心聞書』と同類である。されば活仏の胸中に浄土が在り、唯心の弥陀己心の浄土観が成立するのである。活仏よりたまわった信心であれば、活仏同証となり獲信者もまた活仏と同然である。(二)の獲信の問題は、知識伝授の信でなくてはならず、善知識の心を受領するをもって一念の信とする。そこに善知識の思召である法と受領の私が一体になるからこれが機法一体である。(三)の信後相続の問題において、念仏とはロ称ではなく、自己の胸中の大悲を念ずることであり、自からか法身仏たる上は、世問行について何の憚りがいるものか、思いのままの行動に躊躇する者こそ、自力執心の輩であるというのである。人間の欲望を全面的に肯定することにおいて、自己の地位を確立する知識帰命も、ここに至るや何をかいわんであろう。しかし大谷派は、この高沢求馬なる善知識に苦慮し、彼を本山に召喚して糾弾する一方、大含を下総まで使僧として差向けている[26]

V 三業惑乱以降の知識帰命

(一)

 真宗教団の思想史研究のなか、三業惑乱は大きな区切であると見てよい。文化元年(一八〇四)江戸寺社奉行の判決があり、文化三年(一八〇六)本如の裁断の消息か出された。に爾来安心の問題は一層精密を期すようになる。能化職は廃せられ、文政七年(一八二四)には勧学職を設置し、教権を本山に統一して、学階制度を新設し、その学階に昇進せんとするものは殿試と称する安心審査を受けねばならなくなった。一方宗学の権限を一手に握っていた能化職の廃止は、多くの学匠の台頭を生み、地方においても、それ等の学匠を中心に教学の刷新かなされてくるのである。この気運の中にあって、僧侶における異義は影をひそめるが、在家同行に異義異安心が深役し、秘事的傾向を一層強くして、発覚の容易ならざるものとなる。
 そのなかにあって、文化時代(一八〇四―一八一七)に著述された『法要章』なるものがある。この書は爾来ながく、秘事法門の手鏡となったようである。同著において知識帰命を論ずる主張を考察するに、『法要章』には、

ただ弥陀一仏を念し外の仏をも頼まぬことのみ一心一向となりと思ひて怠りなく念仏申し疑はざるを安心決定なり、(中略)と斯く思ひ込みたる人はい(一)一応の聴聞なり。誠の信心決定にてはなきなり。
まことの安心決定は、(二)善知識に遇ふて、(三)五重の義成就して、(四)時刻をさして斯様斯様に一念帰命のたちどころで屈伸臂項即生西方と下げた頭をあげぬ項に御助あるが平生往生の御門徒と申すものなり。然るに前の如き名ばかりの御門徒は容易合点せず、その上また此の広大な御本願に何ぞ左様な事があるべきぞや、それは秘事法門といふものなりなど、我も誹り人にも謗らせる人おり。是等の人をよくよく分別して誹らず真受にして、さてさてかやうなことを今迄信ぜざりしはあさましやと、我身をみさげあやまりはてて、聞きそうな人を能く見わけて此法を与ふべし。(真宗大系・秘事法門集・一〇五~一〇六)

と述べている。いま私は右の文章に番号を付したが、それは知識帰命論の重点であると思考するからである。よってこの重点につき『法要章』はいかなる論述をするのかを考察せねばならぬ。なお『法要章』は秘事を承知の対策書であることをも注意しておかねばならぬ。悪質極まりなしと思うが、一方秘事者を廻心懺悔させることの困難さを痛感するのである。
 さて、右の文章のなか、第一の問題である「一応の聴聞」とはいかなることをいうのか。『法要章』には、

御坊寺の朝暮の御教化は表向一通の御法談なり。(中略)寺の法談は宿善も宗旨の何たるも御吟味はなければ、世間通途の御勧化なり。御文の中にも宿善無宿善のふたつを分別せずはいたずらごとなるべしと仰せられたり。御門徒といへども無宿善の人もあるべし。故に従令安心決定した御坊方にても内心に深く蓄へて、正味の本来は卒爾には申さるまじ。若し、さなくして正味を打ちあけて申さるれば、其人は御開山の御同行にてはなきなり。(中略)然るときは寺の法談はただ通余の御勧化なり、よくよく思案あるべし。(同右・九八)

と述べ、寺院での布教は真実を語らず、たとえ僧侶布教師が信心を得ていても、宿善無宿善の分別もされない同行の前ではやはり真実をかたらず、もし真実を語れば、その布教師は、もはや聖人の弟子同行にはあらずと、どちらからでも、寺院での布教には真実信心がなく、一応の聴聞に過ぎぬというのである。しからば寺院で聴聞している同行をどのように見るのであろうか。『法要章』は、

真実信心領解の人も、また未領解の人も、未安心の人の目には精だして御坊御寺へ参り念仏申す心ばえさへよき人なれば信心者のやうに見ゆるなり。斯様な人は信心名にてはなきなり。しかし悪きことではなく福徳の因縁にはなるなり。(同右・九八)

と、聴聞に熱心な同行をして信心獲得の者ではなしときめつけている。結局は寺院での法座においては、説くもの聴くもの全てが真実信心の行人ではなく、寺院には信心なしと論断するのである。しかし寺院への聴聞を否定するのではなく、これを「福徳の因縁」として認め、これを一応の聴聞と名づけるのである。
 第二の「善知識」とは『法要章』に、

坊主や学者に御尋ねなされば自障障他になるべし。学者坊主に問ず同行善知識の御勧めを如来の勅使御開山様の御代官と思ひ謹みて御聞なさるべく。また斯く云へばとて坊主や学者を誹するにあらず、坊主や学者は多くのい書物を読みても自分に知らぬことを問はるるによりて、左様な事はないと人を障へて聞かせぬやうにしまた自分は猶聞く気なし。聞く気がなきゆへに信心決定はせぬものなり。(同右・一一三)

と述べている。これは善知識がいかなる者かを論じている。学者僧侶は善知識になれずして、善知識の資格は在家同行にのみあることを示している。先の「一応の聴聞」においても直接寺院の存在を否定せず、いまもまた僧侶学者を「誹するにあらず」と攻撃の対象としない。この事は知識帰命論者が、現教団の体制のなかで、教団を利用しつつ自己の信者を獲得せんとすることを意味している。彼等は角を矯めて牛を殺す的な愚を知っている。さればこそ教団にとって獅子身中の虫である。
 第三の「五重の義成就」については『法要章』に

宿善といふは今生の善にはあらず。世々生々の間の如来の御憐みによりてこのたび開くるを宿善の開発と申なり。すなはち極楽の東門ひらくる瑞相なり。宿善開発すれば善知識に遇はるるなり。善知識に遇ふによりて法蔵囚位の本誓をきき、祖師聖人一流御相伝の御勧化を聴聞すれば、立処に日ごろの自力迷心すたれて疑の心なく、今生の善悪は前世の宿業とあきらめ、今晩の命もはかり難しと思ひ、夜の眼もあらぬ程に思はるるが光明の催なり。此光明の縁に遇ふによりて信心発るなり。信心発りぬれば如来は其機をしろしめして御助けあるゆへに名号をとなふるなり。爰に謂あれども相伝なれば記さず。(同右・九五)

と解説するのである。この釈義は勿論種々の問題があるところである。例えば光明の解釈なぞはその最たるものである。しかし更に問題なのは、いま右に記するごとく五重の義を領解したとしても、それで彼等のいう信心の行者にはなり得ぬ。「爰に謂あれども相伝なれば記さず」とある。問題の中心を「相伝」に伏してしまっていることである。その相伝について『法要章』は次のごとく述べている。

経釈ともに隠顕あり、此隠顕の沙汰も学者はなされても一つ知れぬ事あり。此一つは耳にききて心に持て口より授けることなればこれを口訣とも口伝とも云なり。この口伝を聞かざる間は自力を他力と思ひ居らるるなり。(同右・一〇八)

ここに相伝とはロ訣・口伝であることを明かにし、これによってのみ信心の行者となり得ることを示すのである。更にそのロ伝が信決定の決定的要素であることを強張するに讐喩をもって語っている。

世問に一子相伝の丸薬ありて自分の子五人七人ありとも其中の心を見立て一人へ相伝をなす。其相伝は十味を合する薬なれば、九味は五人七人ながら知らざれば能書通の薬にならず、自分のはからひて一味を加ふるときは却て大なる害をなすべし。(同右・一〇〇)

と述べるのかそれである。口伝を一味に諭え、その一味よく九味を生かす。一応の聴聞、形のごとき五重の義をも生かすか殺すかは懸ってこの一味の口伝にあることを示唆している。

(二)

 第四の「時刻をさして一念帰命」の即題は、『鼓攻篇』の「邪正覚日の事」または『古徳法語集』第三巻所集の「二十二種の邪義問答」のなか「日時帰命義」を論考した折にも一言したごとく、知識帰命と不離一体となって信者を毒する一念覚知の異義であるが、ここに至ってその全容を露呈してくる。『法要章』には、

ひしとたのみたる覚えもなく、何月何日何の刻に御たすけあづかりたる覚えなくして頼み奉りだの、御助け一定だの我往生は冶定だのと云ひ、また真の善知識に遇はずして斯様の御ことはりまぎれもなう聴聞申分けたと口には云ふとも所詮なき悲しきことなり。(同右・一〇二)

と述べている。「何月何日何刻」に信心決定したかを覚知なきものは未信のものである。これを逆論すれば、信心決定には必らずその覚知がある。または信心決定には何月何日何刻の覚知が必須条件であるとするのである。
 なぜ信一念に時刻の覚知が必要なのであろうか。これについて『法要章』には、同行は知識に種々不審の所を質問することを勧めているが、そのなかに、「一念帰命とはどうすることか」「時刻をさしてとあるは如何」(同右・一〇一二)等を例示している。これは信の一念を時刻と理解している証拠である。そう理解するからこそ、同月何目何刻が問題となっているのである。信の一念を実時の時刻の一念と誤解されるのは、宗祖の「信一念釈」に起因するのであろう。『教行信証』に信巻に宗祖は信の一念を釈して、

信楽に一念あり。一念とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(真聖全二の七一)

と述べてある。ここに一念を時尅で解釈するのであり、この時尅が応々にして誤解されるのである。一念とは一とは初一、極促をいうのである。念とは本来は心に就いての言葉であるが、しかしこの心の起るのは極めて迅速であるため、念は意念より転じて時尅の念となったのである。だから信一念とは信楽開発の初一念であり時尅の極促というのである。極促の促とは、延に対する促であるから意業運想の前である。意業運想以前の時尅をどうして覚知できようか。されば覚知できぬような一念をなぜ信にについて語るのかといえば、それはその信の初一念に広大難思の法徳を得ることを示すのであり、信益同時を語るためである。もし念を意念の意味にとるならば、信巻に、

一念といふは、信心二心なきがゆへに一念といふ。これを一心と名づく。則ち清浄報土の真因なり。(真聖全・二の七二)

とあるのがそれである。このときの一念の解釈は、一とは無二の意味であり、念とは心念意念の意味であって一念とはニ心を離れた無疑の一心ということを示すのである。いま何月何日何刻を覚知しなけれはならぬという知識帰命論者は、宗祖のこの一念釈における時尅の解釈と心相の解釈についての混乱をきたしているのである。そればかりか異義の徒達は、覚知を論ぜぬ同行に対して悲歎すらするのである。『法要章』には、

何時貰ふたと覚もなくして、たた寺道場へまゐり、世間通途の御勧化を聴聞し、信心獲得のことを仰せらるるを、獲得せぬ己のことと思ひ、御恩も忘れず念仏も申すによりて、これが信心決定と思ひ御開山の御門徒と思ふは悲しきことなり。(同右・一一五)

と述べている。
 しかし、その当時のこれら知識帰命の邪党たちは、寺院へ近づかなかったのかといえば、決してそうでもなく、彼等たちのいう一応の聴聞はしていたのである。ただその折、彼等たちだけの別の規則を持っていた。そのことについて『法要章』には、

御坊寺同行等の報恩講の折には別けて改悔をのべ御礼あるべし。この改悔文のこころは一念帰命の時信心を下されたる御礼申すことになるなり。(同右・一〇一)

と述べている。「別けて改悔をのべ」るとは具体的に何を意味するのかといえば、彼等は彼等の領解文を持ってていて、それを誦することを意味するのである。いわゆる「領解文」と「知識帰命論者の領解文」とを比較してその相異を一目瞭然としておこう。

<領 解 文>

もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて一心に阿弥陀如来我等か今度の一大事の後生御助け候へとたのみ申して侯。
たのむ一念のとき往生一定御助け冶定と存じ、この上の称名は御恩報謝と存じよろこび申し侯。
この御ことはり聴聞申しわけ候こと御開山聖入御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩とありかたく存じ侯。
この上は、定めおかせらるる御おきて一期をかぎりまもりまふすべく候。

<知識帰命論者の領解文>

もろもろの難行雑修自力の心をふりすてて一心に弥陀如来我等か今度の一大事の後生御助け侯へと如来をひしとたのみ申して候。
たのむ一念のとき往生一定御助けは冶定と存じ、仏恩謝徳の称名念仏申し候。
かようの御ことはりまぎれもなう聴聞申し奉ること偏へに祖師聖人この土へ御化導の御恩、次第相承のただ今の真の善知識のあさからざる御勧化の御慈悲いよいよありがたう存じ候。
なほ、この上には仰せ出させらるる御定めの趣き、違背申さぬよう命を限りに相たしなみ申すべく存じあげ候。

右の両者の領解文の比較において種々な相異を指摘できるが、そのなか「善知識のあさからざる御勧化の御恩」を「ただ今の真の善知識のあさからざる御勧化の御慈悲」と特におき変えていることに彼等の主張が濃厚に露見している。更に穿っていえば、初めの一行が同じであること。彼等は一般同行と同じく寺院等でも誦唱するのであるから、その初唱を同じくして、一般同行をうまく欺くべく偽装されていることである。

(三)

 三業惑乱以後、『法要章』においては、まだ寺院僧侶をして「一応の聴聞」の場をあたえているが、文政を経て天保時代(一八三〇―八四三)以降になると、その秘事的傾向をより強くして、発覚の容易ならざるものとなる。そのなかにあって、金屋佐兵衛という者が大行寺にて秘事の懺悔を記した記録がある。それに依ると、信心決定とは、

知識より口伝に預る事なり。御和讃に帥主知識の恩徳は骨を砕いても謝すべしとあるにて知るべし。骨を砕きてもとは知識の恩が身にこたへる事なくしては夫程迄は思へぬ事に非ずや。又知識と云者を改悔文にでは次第御相承の善知識の浅からざる御勧化の御恩と云を、本山代々の御門主の事と思う人もあれども、御門主の浅からざる御勧化と云者聞たる事なし。聞かねば遇ひたる訳にも非ず。然る時は宿善開発して善知識に逢はずば徒ら事なりとあるは如何なる善知識に逢ふ事ぞや。(中略)蓮如上人常々の仰には(中略)仏法は知りそもなきものが知るぞと仰られ候。とあれば知りそふなる僧は知らずして、知りそうもなき俗が知るぞとの御事なり。(中略)存命の内に信心決定あれかしと仰せあるは、書くにも書かれぬ事故に相伝して与えたきとの御述懐の御慈悲なり。(真宗大系・秘事法門集・P八六~八七)

と述べている。かくして、知識帰命論者は、領解文の「次第相承の善知識」より歴代の門主を抜き去り、信仰の世界から僧侶を排斥して、ただ在俗のみの信仰結社を形成し、強力な団結を要請するのである。その方途として彼等は結社加入の誓約書を収りつけるようになる。ここに明冶八年(一八ヒ五)に三河加茂郡より発見された誓約書を紹介しておく。

今般私儀宿善目出度真の善知識に逢奉り、祖師聖人より御相伝に相成候在家直伝の他力易行の法を聴聞仕り、信心堅固に相成候上は、たとひ親子兄弟大婦の間柄と雖も一味同行の外決して口外へ語り申間敷候、万一心得違致他言仕候はば仏祖の御憐にはずれ、神々の御罰を蒙り、此世未来共永く沈み可申。依て誓状如件。
  年号 月 ~
                                何 某 印
 真善知識 何右衛門様

というものである[27]。先の『庫裡法聞記』における彼等の日常生活は、わが子すら膝に抱き上げぬ徹底した所行である。その理由は「今にも露顕に及ぶ時は、いかなる咎を受くべきにもあらず、都て思の種なりと思ひてわざとつれなくあたり候[28]」であったこと、彼此相望して思慮するとき、もし邪義が発覚露見のときは、寺社奉行の手により処罰されること[29]もさることながら、邪党同類によって、肉親縁者までにも類を及ぼす強迫恐喝かなされたであろうことが推測される。
 しかも当時の知識がいかなる相伝をしていたのか、その一端として三度往生義をあげておく。三度往生義とは、

一類の知識の云者有り。往生三度になりぬると云事ありて、一度は今のたすけたすけの一度往生。次は日輪の光なく鼓の如く朝の日の出の拝める伝授あり。夫を日想観の成就という。是れが二度の往生。次は往く先が見える伝法あり。初手の一度計りにては往けると信ずるばかりにて往く先は見えぬれども、三度目の処にてはまことに落著く事故に。(真宗大系・秘事法門集・八九)

とあるのを指す。この他、夜空の星の中に阿弥陀仏を拝ます方法[30]を提唱する知識すら出現するのである。これ等の善知識は、従来考察してきた菩知識のタイプと異る面を持ち、この時代の特色でもある。それは、信心の伝授のみでなく、奇跡をおこしうる神がかり的要素を持ちはじめてくることである。一般的に信仰がともすると観念的になり易いことへの不安は、信者をして信の現実的感覚的実証的なものへの要請となる傾向をもつ。善知識が説くこの摩訶不思議な奇跡は、信者獲得の具として大いなる威力であったにちがいない。
 以上、蓮如宗法以後、江戸時代の真宗教団における知識帰命の思想とその実体を考察してきたのであるが、本派教団においては、特に三業惑乱を期として、教学の精粋に意が注がれ、幾多学匠が各地に輩出し、教学の研鑽と刷新がなされてくる。殊更に安心の相伝においては心血がそそがれたそのなかにあって、知識帰命論者達が自からの結社組織をいかにして死守し、また手段を選ばぬ狂乱じみた方法で信者の勧誘につとめたかが明瞭となったと思考する。
 勿論、私はこれによって知識帰命の全ての問題が解決したとは思はない。宗祖時代[31]から現代までの知識帰命を追求考察したことにおいて更に問題が広大し深刻にならざるをえぬ。邪義を知りつつ勧誘する善知識、疑問を持ちながらも魅惑されていく信者の宗教心理の問題が、綿密精粋なるがゆえに曲解、誤謬を生じる教義上の問題等がそれである。これ等の諸問題は後日に譲り、再度大方識者の御叱正を仰ぐつもりでいる。

  1. 大原性実著「真宗教学史研究」三巻P二四八参照。
  2. 龍谷大学編「真宗史」P四三
  3. 拙稿「真宗教団における異端の思想」(「伝道院紀要」第一五号)参照。
  4. 承応の広論の中心問題は、西吟の著『正信偈要解』が自性唯心的傾向が強く、聖道門的であることを指摘した月感が『破邪明証』を著し論諍となる。
  5. 大原性実著「真宗教学研究」第一巻P一〇五
  6. 大原性実著「真宗教学研究」第三巻P二五一
  7. 拙稿「真宗教団における異端の思想」(伝道院紀要第一五号)
  8. 真宗大系異義集P二一〇
  9. 『願々鈔』には「おほよすこの十二・十三の願成就せずば、たとひ念仏往生の本願成就して生因たるべしといふとも、念仏衆生の往生ののぞみを達しがたし。そのゆへは、光明無量の願にこたへて信心歓喜乃至一念の機を摂益したまふ。その機はまた辺照の光明にはぐくまれて信心歓喜すれば、機法一体になりて能照所照ふたつなるににたれともまたく不二なるべし。」(真聖全・三の四五~六)
  10. 『存覚法語』には「仏の正覚は衆生の往生によりて成じ、衆生の往生は仏の正覚によりて成ずるがゆえに、機法一体にして能所不ニなるいはれあれば」(真聖全・三の三六六)
  11. 稲葉秀賢著『蓮如上人の教学』P一二一~一二二
  12. 奥村玄祐著『安心決定鈔』―浄土への道―P九
  13. 拙稿「真宗教団における異端の思想」(伝道院紀要第一五号P三三~三四)
  14. 柔遠著『易行品螢明録』(真全・九の一三八)
  15. 普賢大円著『真宗教学の発達』P一〇四
  16. 『大経』「若し人善木無けれは此の経を聞くことを得ず。清浄に戒を有てる者、乃し正法を聞くことを獲ん。むかしかつて世尊を見しもの則ち能く此の事を信ず。(中略)宿世に諸仏を見たてまつりしもの、楽みて是の如きの教を聴かん」(真聖全・一の二七)
  17. 『安楽集』「今日座下ににして経を聞く者は、むかしすべに発心して多仏を供養せることを彰さんがためなり」(真聖全・一の三八〇)
  18. 『玄義分』「此の人は過去にすでにかつて此の法を修習し、今重ねて聞くことを得て即ち歓喜を生じ」(真聖全・一の五〇七)
  19. 大江淳誠著『安心論題講述』P一七三参照。
  20. 大原性実著『真宗教学史研究』第一巻P一〇二
  21. 大原性実著『秘事法門の研究』(P五五~六二)に五十五条が要約されてある。参照。
  22. 拙稿「真宗教団における異端の思想」(伝道院紀要第一五号)P三五
  23. 大谷派に趣後浄興寺と願生寺の異義論評がある。この問題に論攷したものに水谷寿著『異安心史の研究』(P三)があるが、唯道の名なし。多分『古徳法語集』に出る越後浄興寺と同じだと推測されるが、未だ確証を得ていない。
  24. 多くの異安心史研究書のなか、特に一念覚知の歴史を考察したものに、大原性実著『真宗教学史研究』(第三巻P三八四)には、その起源と立義か論攷されている。参照。
  25. 「十箇条の心得」の主張については、鳳嶺著『五重義御文』(第四席)、傑励著『夏御文』(上一三丁)、水谷寿著『異安心史の研究』(P三三)、中島覚亮著「異安心史」(P八七)に述べるところであるが、今は『異安心史の研究』に依った。
  26. 水谷寿著『異安心史の研究』P三三
  27. 『真宗大系・秘事法門集』P九一
  28. 『同右』P四〇
  29. 『庫裡法門記』に寺社役所へ訴へ出でけるにより、誤って邪法なりとして一類ことごとく召捕られ、其時の知識は城下を引わたして磔罪にかかられたり。其外追放になりし人もあり」(真宗大系・秘事法門集・四〇)
  30. 『真宗大系秘事法門集』P八九
  31. 拙稿[現代における異義の研究](伝道院紀要十四号)参照。