操作

至誠心釈について

提供: 本願力

善導大師と親鸞聖人の至誠心釈の訓点の違い。

太字の部分は、御開山が訓点の違いによって意味を変えておられる所。真実は自分には無いということを真実とされた御開山は、当然このように読まなければならない必然性があったのである。


善導大師の読み

経云、一者至誠心。至者真、誠者実。

『経』にのたまはく、「一には至誠心(しじょうしん)」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生身口意業所修解行、必(すべからく)真実心中作

一切衆生の身口意業所修の解行かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。[1]

外現賢善精進之相、内懐虚仮。貪瞋・邪偽・奸詐百端、悪性難侵、事同蛇蝎、雖三業名為雑毒之善、亦名虚仮之行。不真実業也。

外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ[2]貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性()めがたく、事、蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善[3]となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。

若作此安心・起行者、縦使苦励身心、日夜十二時急走急作、如頭燃者、衆名雑毒之善

もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を(はら)がごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。

此雑毒之行、求レ一彼仏浄土者、此必不可也。

この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。[4]

何以故、正由彼阿弥陀仏因中行菩薩行時、乃至一念一刹那、三業所修皆是真実心中作、凡所施為・趣求、亦皆真実。

なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり[5]



親鸞聖人の読み

経云、一者至誠心。至者真、誠者実。

『経』にのたまはく、〈一者至誠心〉。〈至〉とは真なり、〈誠〉とは実なり。

下下一切衆生身口意業所修解行、必(もちゐんこと)真実心中作

一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。[6]

外現賢善精進之相、内懐虚仮、貪瞋・邪偽・奸詐百端、悪性難、事同蛇蝎。雖三業名為雑毒之善、亦名虚仮之行、不真実業也。

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて[7]、貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。

若作安心・起行者、縦使苦励身心、日夜十二時急走急作、如頭燃者、衆名雑毒之善

もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に(もと)め急になして頭燃を(はら)ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。[8]

此雑毒之行、求生彼仏浄土者、此必不可也。

この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。[9]

何以故、正由[由字]{以周反 経也行也従也用也}彼阿弥陀仏、因中行菩薩行時、乃至一念一刹那、三業所修皆是真実心中作

なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)[10]つてなり。

凡所 為趣求、亦皆真実。

おほよそ(ほどこ)したまふところ趣求(しゅぐ)をなす、またみな真実なり。[11]



  1. 善導大師の当面の意では、至誠心とは衆生の真実心のことをいう。
  2. 善導大師の意では、外相と内心が調って賢善精進であるべきという意。
  3. 雑毒の善。三毒の煩悩を雑(まじ)えている善のこと。『正像末和讃」(96)に「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる」とあり、凡夫の善根修行は真実ではないという。
  4. 善導大師がここで往生不可とされるのは、五正行、中でも正定業である称名以外の行は、造毒の行であるという意もあるのかもしれない。
  5. 善導大師の当面の文では、真実とは阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに修した施為(利他)と趣求(自利)の大乗菩薩の二利行であるから、法蔵菩薩と同じような自利・利他の真実の三業でなければ浄土へ往生することはできないという。法然聖人が、『醍醐本法然上人伝記』(3)(*)で「善導において二へんこれを見るに往生難しと思えり。 第三反度に、乱想の凡夫、称名の行に依って、往生すべしの道理を得たり。」 といわれた所以である。
  6. 御開山の意では、阿弥陀如来の真実心においてなされた心をもちいる(須)ことが真実(至誠心)であるとする。須(すべから)く~べし、の須をもちいると読まれておられる。なお「信巻」で、『観経』の至誠心と対応する『大経』の至心釈では「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」p.232と、至心の体は名号であるとされる。
  7. 内が虚仮であるのに、外へ賢善精進の相をあらわしてはならないとする。
  8. 御開山のおこころでは大行である、なんまんだぶ以外のこのような安心・起行は雑毒の行である雑行であるとされる。凡夫がどれだけ真剣になって諸善万行を修しても、それは阿弥陀如来の「諸仏称名の願」に誓われた、浄土真実の行、選択本願の行(行文類の標挙)ではないからである。
  9. 御開山の意では、「一心専念弥陀名号 行住座臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに)」の、なんまんだぶ以外の行は、すべて雑毒の行であるから往生不可である。『論註』「真実功徳釈」には「一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。 」p.56とあり、凡夫の行業はすべて顛倒であり虚仮であるという。
  10. 由の字の説明。如来をて、如来のを行じて、如来によりがって、如来のまことをいて、ということが「由の字」に含まれている意味だとする。
  11. 阿弥陀如来が《施》したまう真実を《趣求》するということ。ようするに阿弥陀如来の施される回向したまう真実の行信をもちいて趣求(願生)するということ。