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帖外御文(『浄土真宗聖典全書』 五 p.247)

見玉尼の往生。

静かに(おもんみれ)ば、(それ)、人の性は名によるともうしはんべるも、まことにさぞとおもいしられたり。しかれば、今度往生せし亡者の名を見玉といえるは、玉をみるとよむなり。されば、いかなる玉ぞといえば、真如法性の妙理、如意宝珠をみるといえるこゝろなり。これによりて、かの比丘尼見玉房は、もとは禅宗の喝食(かっしき)[1]なりしが、なかころは浄華院の門徒[2]となるといえども、不思議の宿縁にひかれて、ちかごろは当流の信心のこゝろをえたり。
そのいわれは去ぬる文明第二 十二月五日に伯母にてありしもの死去せしを、ふかくなげきおもうところに、うちつゞき、またあくるおなじき文明第三 二月六日に、あねにてありしものおなじく臨終す[3]。ひとかたならぬなげきによりて、その身もやまいつきてやすからぬ体なり。ついにそのなげきのつもりにや、病となりけるが、それよりして違例[4]の気なをりえずして、当年五月十日より病の床にふして、首尾九十四日にあたりて往生す。されば、病中のあいだにおいてもうすことは、年来浄華院流の安心のかたをふりすてゝ、当流の安心を決定せしむるよしをもうしいだしてよろこぶことかぎりなし。ことに臨終より一日ばかりさきには、なをなを安心決定せしむねをもふし、また看病人の数日のほねおりなんどをねんごろにまふし、そのほか平生におもいしことどもをことごとくもうしいだして、ついに八月十四日の辰のをはりに、頭北面西にふして往生をとげにけり。
されば、看病人もまたたれやの人までも、さりともとおもひしいろのみえつるに、かぎりあるいのちなれば、ちからなく无常の風にさそわれて、加様(かよう)にむなしくなりぬれば、いまさらのようにおもいて、いかなる人までも感涙をもよほさぬひとなかりけり。まことにもてこの亡者は宿善開発の機ともいひつべし。かゝる不思議の弥陀如来の願力の強縁にあいたてまつりしゆへにや、この北国地にくだりて往生をとげしいはれによりて、数万人のとぶらひをえたるは、ただごとともおぼえはんべらざりしことなり。
それについて、こゝにある人の不思議の夢想を八月十五日の茶毘の夜あかつきがたに感ぜしことあり。その夢にいはく、所詮葬送の庭において、むなしきけぶり〔煙〕となりし白骨のなかより三本の青蓮華出生す。その花のなかより一寸ばかりの金(こがね)ほとけひかりをはなちていづとみる。 さて、いくほどもなくして蝶となりてうせけるとみるほどに、やがて夢さめおわりぬ。
これすなわち、見玉といえる名の真如法性の玉をあらわせるすがたなり。蝶となりてうせぬとみゆるは、そのたましゐ蝶となりて、法性のそら極楽世界涅槃のみやこへまひりぬるといえるこゝろなりと、不審もなくしられたり。これによりて、この当山に葬所をかの亡者往生せしによりてひらけしことも、不思議なり。ことに茶毘のまへには雨ふりつれども、そのときはそらはれて月もさやけくして、紫雲たなびき月輪にうつりて五色なりと、ひとあまねくこれをみる。まことにこの亡者にをいて往生極楽をとげし一定の瑞相をひとにしらしむるかとおぼへはんべるものなり。
しかれば、この比丘尼見玉、このたびの往生をもてみなみなまことに善知識とおもいて、一切の男女にいたるまで一念帰命の信心を決定して、仏恩報謝のためには念仏まうしたまはゞ、かならずしも一仏浄土の来縁なるべきものなり[5]。あなかしこあなかしこ。

  文明五(四?)年八月廿二日書之。


  1. 禅林で食事時 (朝昼) に修行僧へ食事などを知らせる稚児の意。
  2. 見玉尼は京都摂受庵の見秀尼の弟子であったという。
  3. 伯母とは蓮如上人の二番目の妻である蓮祐尼のこと。蓮祐尼は最初の妻である如了尼の妹で見玉尼にとっては叔母にあたる。なお、この当時は蓮如上人には死別が多く、妻に続いて、文明三年二月一日には、十二歳の五女の妙意が、二月六日には、ここに姉とある長女の如慶尼(京都常楽寺 蓮覚光信室)が二十八歳で往生する。また、明くる年の文明四年の八月一日には、六歳の八女の了忍が往生している。
  4. 病気の意。
  5. ここでの「かならずしも」とは現代の用法と違い副詞「かならず」+強調の副助詞「しも」の意で必ずということ。