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親鸞における化土往生の現実的意味

提供: 本願力

親鸞における化土往生の現実的意味

紅楳英顕 (宗教研究三三九号、二〇〇四年三月)

 親鸞の説く化土は報中の化土であり、三身または四身中の化土(化身土)ではない。報中の化土の思想は『大経』「胎化段」、『観経』「九品段」にあり、七高僧も語るところではあった。この報中の化土が第十九願、第二十願の酬報によると位置づけたのが、親鸞の発揮である。
 親鸞は第十八願の法門(他力念仏)を真実弘願、第十九願の法門(定散諸行)を方便要門、第二十願(自力念仏)を方便真門とし、第十八願の法門が報土往生、第十九願と第二十願の法門が化土往生とされるのである。真仮を厳しく峻別し(とくに真門と弘願)、方便化土の往生を厳しく戒めたのが親鸞であったが、この化土往生ということが、現実に如何なる意味をもつものであるかを考察したいと思う。  周知のように、親鸞は「化土巻」三願転入の文から窺われるように、自分自身が要門、真門を体験して弘願に転入したのである。(転入の時期については諸説あるが、私は二十九歳の時と考える[1])。このとき親鸞は他力信心を獲得し、現世の救済(正定聚の位)が確立したのである。この世界が「化土巻」三願転入の文に続く

「爰に久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。」(真聖全二の一六六)

であり、後序の

「慶ばしい哉、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。」(真聖全二の二〇三)

であり、「信巻」には

「遇ま淨信を獲ば是の信顛倒ならず、是の信虚偽ならず。是をもって極悪深重の衆生大慶喜心を得諸々の聖尊の重愛を獲るなり」(真聖全二の四八)

等とある感謝と慶びと安堵の世界である。これを親鸞は現世で確立したのでる。この世界はまた来世の往生を些かの疑いもなく確信した世界でもあったのである。このことが『末灯鈔』一の

「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに、臨終ということは諸行往生のひとにいうべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。」(真聖全二の六五六)

とある浄土教の伝統を無視したともいえる臨終来迎否定の主張にもなっているのである。諸行往生の要門においては無論のこと、弘願に近接した自力念仏の真門においても全く知ることの出来ない境地なのである。要門、真門、そして弘願と体験した親鸞であるのでその違いを熟知していたのである。「真仏土巻」に

「真仮を知らざるに由って如来広大の恩徳を迷失す」(真聖全二の一四一)

とあり、真門を戒めて

「専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。故に宗師は彼の仏恩を念報すること無し(中略)と云へり。(真聖全二の一六五)

等とあるのもこのことに他ならない。
 『正像末和讃』の誡疑讃で、とくに真門行者に対して仏智を疑うことにより化土に往生することを戒めているのであるが、親鸞の意図は単に化土にしか生まれることができないからという死後についての問題ではなく、和讃末に

「仏智うたがふつみとがのふかきことをあらはせりこれをへんぢけまんたいしょうなんどゝいふなり」〈高田本〉(親鸞全2の二〇一)、
「仏不思議の彌陀の御ちかいをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり。〈文明本〉真聖全二の五二五)

ともあるように、仏智疑惑のゆえに、現世において方便の世界に止まり、弘願の世界に入れない者に対する戒めであると思われる。
 親鸞が化土往生を説いて仏智疑惑を、戒めているのは、弘願の救済の世界に入れない者に対して、すみやかに他力信心(真実信心)を獲得し、現生正定聚の人となり、親鸞の体得した感謝と慶びと安堵の世界を現世で体得することを願ったものであろうと思われる。

  1. 拙稿「三願転入についての考察」( 印度学 仏教学研究三八の一)。因みに親鸞には真門から弘願への転入の体験はなかったという意見があるが、これには賛成できない。