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親鸞における念仏の真仮について

提供: 本願力

親鸞における念仏の真仮について

紅楳英顕 相愛大学教授(現 名誉教授)
「印度学仏教学研究58の1(平成21年12月発行)所収」

はじめに

 法然の専修念仏(念仏一行専修)を継承し、さらにその中に二十願の真門自力念仏を峻別したのが親鸞であるが、二十願成就文と名付けられて『大経』下巻の胎化段の文が明示されるのは晩年の『浄土三経往生文類』(広本)[1]においてである。周知の如く二十願の真門自力念仏の峻別は親鸞独自の釈顕であり、すでに『教行信証』に明確に示されているのではあるが、胎化段の文は二十願成就文とは示されてなく、しかも要門と真門の両方の釈下に引かれているのである。このことから念仏の自力他力(真仮)を厳しく分別した親鸞の念仏思想の完成は晩年であったと考えられるのであるが、親鸞が二十願成就文とした胎化段の文について、また親鸞独自の釈顕が見られるのである。以下この点やそれに関連する『教行信証』の見方、教学のあり方等を考察しながら、念仏の真仮(自力・他力)を厳しく峻別した親鸞の念仏思想の根底にあったものは何であったかを窺うことにする。

一、胎化段「然猶信罪福修習善本」の当面の意

 親鸞は胎化段のこの文を『浄土三経往生文類』(広本)に

此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して其の国に生んと願ぜむ、此の諸の衆生彼の宮殿に生まれて寿五百歳ならむに、常に仏を見たてまつらず(中略)之を胎生と謂ふ。(真聖全二の五五八)

と述べている。訓点は『教行信証』「化土巻本」(真聖全二の一四五、同一五八)、『浄土三経往生文類』(略本)(同五四九)と同じであるが、ここにだけ「善本」の左訓に「ミダノミヤウガウ」とある。
 抑も罪福とは岩波仏教辞典に「罪悪と福徳のこと。仏教では、五逆十悪などの悪の行為をとがめらるべき罪悪とし、五戒十善等の行為を福徳とする。そして、善因楽果・悪因苦果の因果律と業思想とによって、罪をなす者は罪業の報いによって現世および来世に苦の果報をうけ、福徳をなす者は楽の果報をうけると説く。」[2]と述べられている仏教の根本思想である。ところが親鸞は胎化段の「然猶信罪福修習善本願生其国」とある「信罪福」のところを上のように「然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して」と読み、独自の解釈をなすのである。親鸞が「信罪福心」を自力心として否定していることは既に『教行信証』「化土巻本」真門釈下に

定散之専心者、罪福を信ずる心を以て本願力を願求す、是を自力の専心と名くる也。(真聖全二の一五八)

とあるのであるが、晩年の『正像末和讃』[3]の誡疑讃において

不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり(真聖全二の五二三)。
罪福信ずる行者は仏智の不思議をうたがひて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる(真聖全同上)

等とあるように「信罪福心」を本願疑惑(仏智疑惑)の自力心であるとし、厳しく誡め否定するのである。
 『大経』下巻の胎化段は仏智を疑う不了仏智の者は浄土に胎生(化土往生)し、仏智を信ずる明信仏智の者は浄土に化生(報土往生)すると説かれているのである。『梵文和訳無量寿経・阿弥陀経』(藤田宏達訳、法蔵館、昭和五十年七月第一刊)には

極楽世界に生まれることに疑いを起こし、その心をもってもろもろの善根を植えるならば、彼らにとって、ここには〔諸蓮華の〕内奥の住処がある。しかし、疑うことなく、疑惑を断ち切って、極楽世界に生まれるためにもろもろの善根を植え、仏・世尊たちのとらわれのない智を信頼し、信じ、信解するならば、彼らは化生して……[4]

とある。仏智疑惑を誡めるのであり「信罪福」についての誡めは見られない。また『浄土宗全書』では

この諸智に於いて疑惑して信ぜず。然れども猶を罪福を信ずるをもて善本を修習して其の国に生まれんと願ず。此の諸の衆生彼の宮殿に生じて五百歳までに常に仏見たてまつらず。(中略)之を胎生と謂ふ(浄全一の三三)

となっている。ここも仏智疑惑は誡めるが、「信罪福心」については「然れども猶を罪福を信ずるをもて善本を修習して其の国に生まれんと願ず。」となっており、「信罪福修習善本」を肯定的に釈し、それよって胎生を得ると述べているのであり、「信罪福」を誡めている意はない。
 浄土の祖師の著述において胎化段に関連があると思われるものには龍樹の「易行品」(「行巻」引用)に

若し人善根を種えて疑へば則ち華開かず信心清浄なる者は 華開きて則ち仏を見たてまつる。(真聖全二の一三)

とあり、善導の「定善義」(「化土巻」、『浄土三経往生文類』引用)に

華に含んで未だ出ず、或いは辺界に生じ、或いは宮胎に堕すと。(真聖全二の五五九)

とあり、憬興の『述文讃』(「化土巻」、『浄土三経往生文類』引用)に

仏智を疑ふに由りて彼の国に生まると雖も辺地に在て聖化の事を被らず、若し胎生せば宜しく之を重く捨つべし。(真聖全二の五五九)

等があるが、いずれも「仏智疑惑」を誡めているのみであり、「信罪福心」を否定する説示はない。
 源信の『往生要集』巻下末 信毀因縁に

問ふ若し深信无くして疑念を生ずる者は終に往生せざるや。答ふ若し全く信ぜず。彼業を修せず、願求せずば理として生るべからず。若し仏智を疑と雖も爾も猶彼土を願ひ、彼の業を修するは亦往生することを得。『双巻経』に云ふが如し。若し衆生有りて(中略)此の諸智に於て、疑惑して信ぜず。然も猶罪福を信じて善本を修習して其の国に生せんと願せん。此の衆生、彼の宮殿生まれて、寿五百歳常に仏を見たてまつらず。(中略)之を胎生と謂ふと。仏の智慧を疑ふ罪は悪道に当たれり。然れども願に随いて往生するは是れ仏の悲願力なり。(真聖全一の九一八)

とある。仏を信ずる心のない者でも往生できるのであろうかという問いに対し,『大経』胎化段の文を引用し、罪福を信じ善本修習して其の国に生せんと願ずるなら浄土往生(胎生)できると述べ、これは仏の悲願力なりと述べているのである。因みに『恵心僧都全集』では真聖全(真宗読み)では「此の諸智に於て、疑惑して信ぜず。然も猶(然るに猶ほ)[5]罪福を信じて善本を修習して其の国に生せんと願せん。」とあるところが「此の諸智に於て、疑惑して信ぜず。然れども猶罪福を信じて善本を修習して其の国に生せんと願せん。」(一の二五八) となっている。即ち親鸞読みでは否定されている「信罪福心」が肯定されているのである。源信の意も「信罪福心」を肯定するものであったであろうし、「胎化段」の当面の意もそのはずである[6]。尤も善導は『観経四帖疏』「散善義」に

一切の凡夫、罪福の多少を問はず、時節の久近を問は但能く上百年を尽くし下一日・七日に至るまで一心に彌陀の名号を専念し…(真聖全一の五三七)

と「罪福の多少を問はず」と述べ、法然もこの文を『選択集』八、三心章(真聖全一の九六二)、十四証誠章’(同九八五)、『黒谷上人語灯録』往生大要鈔(真聖全四の五八五)等に引用しているが、善導と同様に罪福の多少を問うなということであり、「信罪福心」を仏智疑惑心とし否定するのではない。上掲のように『浄土三経往生文類』(広本)「善本」の左訓に「ミダノミヤウガウ」とあるのであるが、親鸞は罪福を信じ(本願を疑惑して)。自己の善根として彌陀の名号を称えることを二十願の自力念仏としたのである。勿論親鸞は仏教者であり、「善因楽果、悪因苦果」の仏教の根本思想を否定するのではないのであるが、自己の往生については全て本願力(他力)によるところであるとし、自己の往生行についての信罪福心を否定したのである。

二、「化土巻末」外教釈引用の「離於占相修習正見決定深信罪福因縁」について

 『教行信証』「化土巻末」に右の

占相を離れて正見を修習して深く罪福の因縁を信ずべし。(真聖全二の一九〇)

の文が引用されている。
 上に論じたように、親鸞は『大経』「胎化段」に独自の釈顕をなして二十願成就文とし、「信罪福心」を本願疑惑心し、誡めたのである。親鸞の著書の中で「信罪福心」を勧めている文の引用はこの文だけである。この文は親鸞真蹟本である坂東本にはなく、坂東本を書写したと考えられる西本願寺本・専修寺本にはあるのである。西本願寺本は聖人滅後の文永十二年(一二七五)以後の作成であり、高田本は門弟専信が聖人八十三歳の建長七年(一二五五)六月二十二日に書写し畢わったものと考えられている[7]。西本願寺本と専修寺本(高田本)にはあり、板東本にない引用文は上掲の「…深く罪福の因縁を信ずべし。」の文の他に「化土巻」要文釈引用の「大経に言く(中略)或いは宮胎に堕せむと」(真聖全二の一四六)があるが、これは本来あったものが、紛失したのであることは坂東本の影印本のその箇所およびそれについての解説で明らかである[8]⑧。一方「…深く罪福の因縁を信ずべし。」の文については坂東本に本来あったものが紛失した形跡はなく、解説もない。もし親鸞自身の過失で書き落としたのであるのなら、坂東本に多くなされているように、書き加えや訂正がなされるはずであるが、全くそれはない。ただ坂東本にない「…深く罪福の因縁を信ずべし。」の文の直前に「已上○ 」と小圏があることから[9]、次の文である「…深く罪福の因縁を信ずべし。」の文を誤って省略したという意の解釈がなされるが、私は坂東本における小圏の用例からみて他本の西本願寺本と専修寺本にはある「…深く罪福の因縁を信ずべし。」の文が坂東本では省かれているのは親鸞自身の意によるものとみるべきではないかと思う[10]。『正像末和讃』誡疑讃にみえるように晩年に至って自力念仏を強く否定し、往生に関してのことではあるが、「信罪福心」を本願疑惑心としてこれを厳しく誡めたのが親鸞である。「化土巻末」においてたとえ外教邪偽の異執を教誡せんがためとはいえ、信罪福を勧めている「…深く罪福の因縁を信ずべし。」の文をここに引用することに不適合さを感じ削除したと考えられる。これについては西本願寺本と専修本との関係を広く対比し、書誌的、文献的研究[11]の成果を十分ふまえて考察しなければならないことであるが、真蹟の坂東本において晩年の親鸞が(恐らく専信が書写した八十三歳以後)、上掲の文を故意に削除したということは十分考えられると思う。

三、「化土巻本」三経隠顕下の「助者 除名号已外五種是也」の文および 「横超者憶念本願離自力心是名横 超他力」の文について

 右の文は『教行信証』の親鸞真蹟の「坂東本」、それを直接書写したと考えられる西本願寺本、専修寺本のそれぞれに出ているものであり、他力念仏の深意を顕す重要な文でる。ところが本願寺本において「助者除名号已外五種是也」(真聖全二の一五五)の五の右傍註に「四與」とあり、また西本願寺蔵の宝徳三年(一四五一)版の存如・蓮如両筆本には「横超者憶念本願離自力心」(同上)と「是名横超他力」との間に「専修者唯称念仏名離自力之心」の十三字が挿入されているのである。そして真宗教団における宗学興隆期の江戸時代に本山蔵版として出された本願寺派の明歴刻本、大谷派の寛文刻本共に上述の五種が四種となり、「専修者唯称念仏名離自力之心」が挿入されているのである[12]。中井玄道編『教行信証』付録、校正標異に後者について

蓋し此十三字、展転書写の際?入したるもの乎。古来此文、此十三字の?入あるが為、甚だ解し易からずとなし、諸註錯簡あるべきを疑へり。

と述べられ、江戸時代の代表的宗学者僧鎔(一七二三ー一七八三)と僧叡(一七六二ー一八二六)のこの十三字を考慮した解釈が紹介されている[13]。因みに本願寺派においてはごく近年まで「五種」が四種となっており、十三字が挿入している蔵版(大正版)が用いられていたのである。先学の研鑽はきわめて尊いものではあるが、親鸞が「助者除名号已外五種是也」と信心の欠けた自力念仏を厳しく峻別したにもかかわらず、五種が四種になってしまったり、、又「横超者憶念本願離自力心是名横超他力」と述べて、獲信することが自力を離れる事であり、それが横超他力であると信心を強調しているところに、述べているところに親鸞は書いていなかった「唯称念仏名離自力之心」と念仏することが自力を離れることであるするかのような自力念仏(信前念仏)策励の誤解を招く傾向をもつ語が挿入し、しかもこの『教行信証』が極めて長期間用いられたのである。親鸞が信心を重視し、念仏の信前・信後、自力・他力を峻別し、獲信による現世からの救いを強調した意が弱められ、信心の利益の機相顕現を過度に否定する傾向を生じた遠因になったかと思うのである。

四、「はからひにあらず」ということ

 晩年親鸞の著述によく見えるものに 「はからひにあらず」という語がある。親鸞の結論的境地と考えて差し支えない『獲得名号自然法爾御書』にも 自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからいにあらず、しからしむといふことばなり。然といふは、しからしむといふことば、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに。法爾といふはこの如来のおむちかひなるがゆえに、しからしむるを法爾といふ。 (親鸞聖人全集、書簡篇五四頁。) 彌陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして南无阿弥陀仏とたのませたまひて行者のよからむとも、あしからむともおもはぬを[14]、自然とはまふすぞとききて候。ちかひのやうは、无上仏にならしめむとちかひたまへるなり。(同上、五五頁) 等とある。无上仏にならしめようとする阿弥陀仏のちかひ(本願)のはたらきは、すべて阿弥陀仏によってなされることであり、行者のはからい(修善、思慮等)は一切不必要であるということである。しかしここで忘れてはならないことは南无阿弥陀仏とたのませたまひて」とあることである。行者のはからひ(修善、思慮等)が一切不必要ということは本願をたのむ心(信心)も不必要といっているのではないのである。これについては同様に晩年の『末灯鈔』に

ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候。往生の業にはわたくしのはからひはあるまじく候なり。あなかしこあなかしこ。ただ如来にまかせまいらせおはしおはしますべくさふらふ。(真聖全二の六七〇)

と、「不思議と信じつるうへは」とあるように信心の上でのことである。『獲得名号自然法爾御書』の上掲の終わりに

この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということはなほ義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。(親鸞聖人全集、書簡篇五六頁。)

とあるところも、信心決定の上でのことである。要するに親鸞晩年の「行者のはからいにあらず」、「義なきを義とす」という語も往生一定の大安堵の大慶喜心の上での言葉なのである。

むすび

 周知のように親鸞は法然の念仏一行の専修念仏をさらに展開させ念仏の中で自力他力を厳しく分別し真門自力念仏を峻別したのである。真門念仏(二十願念仏)については『教行信証』にあらわれているので、『教行信証』の作成を始めた五十二歳頃以前から、念仏の中にある不真実の自力念仏を分別していたことは確かである。しかし『教行信証』には二十願成就文は示されてなく、八十五歳の時の『浄土三経往生文類』(広本)において『大経』「胎化段」の文が示される。そして同時期に『正像末和讃』誡疑讃が書かれているのである。誡疑讃はこれも『大経』「胎化段」によって仏智疑惑を厳しく誡め、仏智疑惑(本願疑惑)のものは胎生(化土往生)しかできないとしているのである。このころが親鸞の念仏思想の完成期と思うのであるが、ここにおける大きな特色は「胎化段」を独自の訓点により「信罪福心」を仏智疑惑(本願疑惑)心として誡めていることである。要するに「罪福を信じて」(信前)、善根を積む(名号を称する)ことを真門自力念仏として峻別したのである。信心の有無(信前、信後)で峻別したのである。『正像末和讃』誡疑讃の

真実信心の称名は 彌陀回向の法なれば不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(真聖全二の五二〇)

と述べているように、信後の念仏のみが彌陀回向の念仏であり、他力の念仏であり、信前の念仏はすべて自力の称念(真門念仏あるいは要門念仏)として峻別したのである。そして『教行信証』「信巻」に

遇たま浄信を獲ば、(中略)是を以て極悪深重の衆生大慶喜心を得、諸の聖尊の重愛を獲るなり。(真聖全二の四八)

と述べているように、信心獲得し他力の念仏している人が現世において「大慶喜心を得、諸の聖尊の重愛を獲る」のであり、これに対照させて『教行信証』「化土巻本」に

専修にして雑心なる者は大慶喜心を獲ず。(真聖全二の一六五)

と述べて念仏一行専修をしながら雑心(信前、自力心)の自力真門念仏者は大慶喜心に恵まれないと述べているのである。
 晩年の親鸞が一層自力真門念仏を誡めたのはこのためであったのであり、一切群生が現世から本当の救いに恵まれることを願ったからだと窺うのである。

  1. 親鸞が八十五歳の時書写したもの。親鸞が八十三歳の時書いた略本には広本と同様に『大経』胎化段の文が引かれてはいるが二十願成就文とは書かれていない。
  2. 第八刷、一九九八年三月発行三〇三頁。
  3. 親鸞八十五歳~八十六歳の作で『浄土三経往生文類』(広本)と同時期。
  4. 法蔵館(昭和五四年二月発行)、一四〇頁。
  5. 真聖全(真宗聖教全書)は真宗読みではあるが、『浄土三経往生文類』に親鸞自身が述べている「然るに猶ほ」の方が親鸞の意を正確に示すものである。
  6. 上掲の『浄土宗全書』の訓点も同意である。
  7. 『親鸞聖人真蹟国宝顕浄土真実教行証文 類影印本解説』(大谷派宗務所、昭和四六 年六月発行)四〇頁以下。
  8. ⑦の影印本、坂東本「化土巻本」影印本、 一一頁~一二頁。同解説一七頁。
  9. 「化土巻末」影印本五二頁。
  10. 中井玄道編『教行信証』付録、校正標異 にこの箇所について「然るに阪本(坂東本) 此なし。而して上文と次のとの間に小圏を 附す。阪本余所の例に徴すれば、字間の小 圏は脱落を示すものなれば、此華厳経の文、 阪本になきもの、恐らくは誤脱なるべし。」 (仏教児童博物館、大正九年六月初版発行、 昭和五七年十二月復刻版発行、二一四頁) と述べられている。 しかし坂東本(影印本)の「已上○」と 諸所にみられる小圏は字句の脱落を示すも のではなく、底本にはあった字句を削除し たことを示すものと思われる。 因みに坂東本(影印本)における「化土 巻末」影印本五二頁と同様な小圏「○」があるのは、「教行巻」五七頁、「信巻」一 一頁と一二八頁、「真仏土巻」一四頁と三八頁と五八頁、「化土巻本」三〇頁と三七頁と六四頁である。どの箇所も文を整理したことより空白等が生じたために、文が何処に繋がるかを注意するためのものと思われる。中には線で結んだり、字を書き入れ たりしている。もし脱落・省略を示すものであるなら何らかの形で小圏にそれを示したであろう。それが全くないと言うことは文が次に繋がるという意味を示しているのであり、この箇所の小圏は親鸞が「…深く 罪福の因縁を信ずし。」の文を故意に削除したことを示していると思われる。 それから、中井玄道編『教行信証』付録 の問題点は初版が大正九年六月であることである。周知のように西本願寺本、専修寺本が親鸞直筆でないことが、以前から議論 はあったが明確になったのは、昭和の戦後のことである。また逆に坂東本が親鸞直筆であることが明確になったのも戦後のことなのである。大正九年は辻善之助氏が坂東本、西本願寺本、専修寺本の三本自筆説を主張した年でもあり、この付録の西本願寺 本の紹介に「此の本は我が本願寺派本山に 蔵する所にして、古来御真筆と称し、宗祖 聖人の親ら草稿より清書したまえるものなりと伝えらる。」『教行信証』付録七頁)」とある。少々の疑問はあるとしても、三本とも親鸞真筆と考えられ、しかも坂東本だ けが真筆であることが明確ではなかった当時、完成本である西本願寺本、専修寺本にあり、未完成にみえる坂東本のみに欠落している部分は、故意に削除したのではなく、挿入する文を誤まって脱落したと考えたのはごく自然なことともいえる。 尚、星野元豊氏は『講解教行信証、化土巻末』に「坂東本にはこの部分はは欠けて いる。しかし全文の終わった已上のところに「○」印が附されて加入すべき文がはい ることが示されている(中略)坂東本では おそらく付箋して貼り付けてあったのが、紛失したのであろう。それでなければ「○」 の加入の印はないはずである。」(法蔵館、昭和五十八年九月発行、二一〇一頁)と述べ、脱落説に賛成している。 『浄土真宗聖典解説校異』(本願寺出版部、昭和六十年五月発行)の「化身土文類」にこの箇所について[1「又・・・出」二○字甲に無し 但し「○」と挿入の印あり] (二〇二)とあり、また『定本親鸞聖人全集1』には{底本、「已上○首」と加筆印あり}(法蔵館、昭和四十四年三月、三五六頁。)といずれも脱落説に賛成している。
  11. これについては重見一行氏『教行信証の研究』(法蔵館、昭和五六年七月発行)の緻密な研究がある。
  12. 中井玄道編同上、一八四頁。
  13. 同上
  14. 「南无阿弥陀仏とたのませたまひて行者のよからむとも、あしからむともおもはぬ」 のが「信罪福心」が否定された他力信心の境地である。