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親鸞聖人の教え・問答集

提供: 本願力

 一如(いちにょ)とか、無分別智(むふんべつち)というような、全く聞き慣れない言葉が使われていますが、それはどういう意味を表しているのですか。

A 一如とは、「さとり」の智慧を完成された方が、自分も含めて一切万物が、それぞれ今あるそのままの姿で、絶対の尊厳さをもって光輝いていることを確認された様子を表す言葉で、真如(しんにょ)とも実相(じっそう)とも法性(ほっしょう)とも呼ばれています。それは生と死を完全に矛盾するものとして捉え、自分と他人とを画然と区別して見ていく、私どもの思考回路(知識)では、決して捉えることも理解することもできない。不思議な領域です。しかし釈尊のようにさとりの智慧(般若(はんにゃ)・無分別智)を開かれた方は常にそういう豊かな境地に住んでおられるわけです。

五、般若・無分別智の意味

 いよいよ分からなくなってきましたが、その無分別智とか般若という智慧は私どもの知識とどう違うのですか。

A たとえば生死一如と呼ばれるように、生と死というような決して両立することのできないと考えられている事柄が、そこでは何の矛盾も無く、同じようにありがたいこととして受け容れられるような、あえていえば生と死が一つに溶け合っているような領域を確認する智慧を無分別智というのです。
 それに引き替え、私どもはあらゆる事柄を、生と死、我と汝、是と非、苦と楽というように言葉を使って明確に区別し、分類して認識しています。それを「分別知(ふんべつち)」とも、「知識」とも呼んでいます。それは私どもに生まれつき具わっている心の識別作用(あらゆる事柄を、その特徴にしたがって区分けして知るはたらき)によるのです。しかし私どもは、物事を自分の都合を中心に「分別して知る」くせがありますから、あらゆる事柄を自分の都合を中心に区別し、分け隔てをしていきます。その結果、自分に都合の悪いものは受け容れられず怒り憎み、都合の良いものは愛着し、際限もなくほしがるようになり、その結果さまざまな摩擦が生じ、争いが生まれ、苦悩が起こってまいります。そのような苦悩を起こす根元になっているのが分別知ですから、それを仏陀は「虚妄分別(こもうふんべつ)」と呼ばれたのでした。
 そのような自分本位の虚妄分別を離れて、生と死、自と他を、そのあるがままの姿で受け容れ、生きることもありがたいことであり、死ぬこともありがたいことであると言い得る境地が開かれたとき、生と死は決して矛盾対立するものではなくなります。また自分と他人の隔てを超えて、人びとの苦しみを共に痛み、人びとの幸せを自分のことのように願っていく心が開かれている人にとって、敵も味方もなくなって、怨親平等(おんしんびょうどう)の心(誰かを恨み憎むこともなく、溺愛するすることもなく、すべてのものをかけがえのない一人子のように大切なものと見ていく心)が確立していきます。その境地を無分別智によって確認された涅槃(ねはん)(ニルバーナ・安らかなさとりの境地)と呼んでいます。
 そのように私どもが虚妄分別の壁を打ち破ることができるならば、一切の矛盾対立は超えられ、あらゆることをありがたく、尊いことと受け容れる心境が開かれていきます。そのように虚妄分別を破る智慧を「般若(プラジュニャ)」と呼んでいます。こうして般若の智慧によって、虚妄分別が、すべてのものをズタズタに切り裂いていた世界を、本来の真実の相に帰らせ、万物は一つに溶け合って、同じ尊厳さに輝く豊かな「いのち」の世界を開いてくれます。その領域を一如というのです。またその般若と呼ばれる智慧を「無分別智(むふんべつち)」とも、真実を悟る「実智(じっち)」とも呼んでいるのです。
 しかしこうした一如の世界は、物事を区別して表す機能しか持たない言葉では表現することはできませんし、一切の限定・区分を超えていますから形で示すこともできません。それを仮に「一如」とも「真如(本当にあるがままの領域)」とも、「実相(人間の煩悩の手垢のつかない真実の姿)」とも、「無上涅槃(ねはん)(煩悩の消えた最高の安らかな境地)」とも、また法性法身(ほっしょうほっしん)(仏陀の本体である生死を超え、自他を超えた普遍平等の真理そのもの)とも呼ばれています。

六、迷妄を喚び覚ますもの

 それでは、そのようなさとりの領域は、虚妄分別しか持ち合わせのない私どもには、わかりようもなく、手のつけようもない世界になってしまいますね。

A 確かに分別知しか持たない私どもにわかるのは、虚妄分別によって虚構された世界、つまり迷いの世界しかわかりません。しかしその安らかなさとりの境地を、虚妄分別に閉ざされて迷っている人びとに知らせて導き救うために、一如の世界から救いの手が伸ばされているのです。
 それが『大経』に説き顕わされた法蔵菩薩の大悲本願の因果だったのです。すなわち、形を超えた一如の領域を形で顕わし、言葉を超えた真実の世界を絶妙の言葉をもって表現し、迷い苦しむ者を喚び覚まし、導いてくださっているのです。そのような言葉を超えた領域を表わす言葉を(つむ)ぎ出していく智慧を「無分別後得智(ごとくち)とも「権智(ごんち)」とも呼ばれています。法蔵菩薩はまさに形を超えた「一如」、すなわち法性法身が、大悲本願の み言葉となって私どもを喚び覚まし、さとりの世界へと導いていく後得智(権智)の姿だったのです。一言でいえば、法蔵菩薩とは、私どもの迷いを覚ます言葉となり、形となった「一如」の姿だったのです。それを親鸞聖人は、曇鸞大師の教えに順って、法性法身が方便法身となって私どもに救いの手を差し伸べていてくださると味わわれたのでした。なお法性法身・方便法身については別の機会に詳しく述べることにします。

七、浄土建立の誓願

{中略}

 法蔵菩薩は、どのような本願を立てられたのですか。

A その大きな特徴は浄土を建立して、そこへ人びとを生まれさせて、さとりを完成させようという誓願を立てられたということです。

 なぜ浄土を建立しようとされたのですか。

A 煩悩に汚れたこの娑婆(しゃば)では、人びとにさとりを開かせることは極めて困難であるとお考えになったからです。

 それをもう少し詳しく説明してください。

A 仏陀は、人びとが苦しむのは、自己中心の想念(愚痴(ぐち))に惑わされて、自分に都合のいいものばかりを求め(貪欲(とんよく))、自分に都合の悪いものを排除しようとする心(瞋恚(しんに))に振り回されながら生きているからであると仰せられました。そのような汚れた心のはたらきを煩悩(ぼんのう)(心身を煩わせ、悩ますもの)と呼んでいます。したがって煩悩さえ無くすれば、安らかなさとりの境地(涅槃)に至ることができると教えられていました。いわれてみれば確かにその通りです。事実、釈尊はその通りに煩悩を完全に制御して、さとりの境地に到達された方でした。
 もちろん貪欲・瞋恚・愚痴の三種は代表的な煩悩をあげただけで、実際には状況に応じて驕慢(きょうまん)とか、疑惑とか、悪見(あくけん)など無数にあります。貪欲だけでも財産欲、名誉欲、食欲、色欲(性欲)、睡眠欲(なまけ心)という五欲があげられ、また何時までも生きていたいという自己保存欲と、自分の勢力圏を少しでも広げたいという自己拡張欲に分類することもできましょう。いずれにせよこうしたさまざまな欲望の充足を求めて生きているのが人間ですから、人間というのは、欲望が形を採っているようなものです。その我欲を妨げるものに対して起こすのが怒りであり憎しみですから、我欲に限りがないように瞋憎にも際限はありません。
 いいかえれば煩悩は単に心の問題というよりも、むしろ身体の問題であるというべきでしょう。自己保存の欲求と、自己拡散の欲望は、細胞のひとかけらにも備わっている機能なのです。我欲(がよく)を無くすことは自分の存在それ自体を否定することに連なっていますから、無くすることはもちろん、完全にコントロールすることも至難の業であるといわねばなりません。そのような煩悩を断ち切ることができずに、むしろ煩悩を増長するような生活をしている者を煩悩具足(ぼんのうぐそく)凡夫(ぼんぶ)と呼んでいます。それはもう自分の力ではさとりを開く手がかりさえもない者でした。法蔵菩薩はそのような私どもを救うために浄土の建立を誓願されたのでした。

 自分の力では煩悩を断ち切ることのできない者のために、浄土を建立されたといわれるのですか。

A そうです。この娑婆(しゃば)世界で成仏しようとすれば、釈尊がそうされたように、出家し、無欲の生活を持続し、心身を浄化していかねばなりません。しかし、この世界は、自分の内にも、私をとり巻く環境にも、あまりにも悪縁が多く、修行を妨げる邪魔が多すぎます。せっかく必死の修行によって良いところまで進んでいても、ふとした悪縁に惑わされて転落し、元の凡夫に返ってしまう修行者がほとんどでした。
 法蔵菩薩は、そのような自分も環境も浄化するどころか、いつの間にか自分もまた人びとの悪縁に成り下がって、自他ともに迷いを重ねていく愚かな煩悩具足の凡夫をご覧になって、このような者を救うためには、全く悪縁のない、清浄無垢(しょうじょうむく)な世界に迎え入れるしかないと見通されたのでした。
 愛欲や憎悪を起こすような悪縁が全くないならば愛憎の煩悩も起こらないはずです。また如来の清浄無垢な智慧と慈悲の領域である浄土に至れば、自ずから大智大悲の徳に同化し、無明煩悩(むみょうぼんのう)は消滅し、さとりが完成していきます。
 そのことを曇鸞大師(どんらんだいし)は、行動するときには必ず曲がるのが蛇の性質ですが、真っ直ぐな筒に入れるならば、真っ直ぐになるようなものだと仰せられていました。また清らかな川の水も、濁った河の水も、ひとたび大海に流れ込めば、みな浄化されて、同じ一つの塩味に転換されます。そのように、如来の智慧を慈悲の徳を本体としている広大無辺な浄土に往生すれば、善人であれ、悪人であれ、知者であれ愚者であれ、分け隔てなく大智大悲の徳に転換されていくとも仰せられていました。
 こうして煩悩具足の凡夫を救うためには、悪縁が全くなく、往生した者の無明煩悩を浄化することのできるような智慧と慈悲を本体とした、広大無辺な清浄仏国を建立(こんりゅう)しようと法蔵菩薩は決心されたのでした。これを「浄仏国土(じょうぶっこくど)成就衆生(じょうじゅしゅじょう)」の誓願と呼んでいます。仏国土を浄化して(自利)、衆生の往生成仏を成就させよう(利他)とする願いだからです。
 こうして自分と他人との隔てを超えて、自他を一如と見きわめられた法蔵菩薩は、煩悩具足の凡夫の愚かしい心情や行動を他人事としてではなく、菩薩ご自身の痛みと感受し、ご自身の責任と感じて、「浄土建立」という壮大な誓願を発し、衆生救済に立ち上がられたのでした。

【三】他力ということ

一、自力・他力の誤解

 プロ野球の、終盤戦が近づいた頃、テレビの実況放送を聞いていますと、解説者が「今日の試合に負けたら、このチームの自力優勝はなくなる。あとはライバルのチームが負けてくれるのを待つしかありません」と言いますと、放送記者が「他力をたのむばかりですね」などと相づちを打っているのを聞くことがあります。そんなとき、なにか違和感をおぼえ、自力・他力という言葉はこんな使い方をしていいのかな、と思うことがあります。とくにライバルのチームが負けたために自分のチームが有利になることを他力に救われたというのは、どう考えてもおかしいと思いますが、いかがでしょうか。

A 確かにその通りですね。しかし同じような例が幾らもあります。会社の経営がうまくいかなかったり、地方自治体の赤字財政が問題になったときなどにも、「他力をたのまずに何よりも自力更生を計らねばならない」というような論評を聞くことがありますが、やはり違和感がありますね。中には「他力本願では駄目だ、何事も自力で立ち上がる努力をしなければならない」などと、「他力本願」という大切な仏教用語をこんな形で使われると、違和感を通り越して腹立ちを感じます。

 もともと自力・他力という言葉は仏教から出た言葉でしょうが、どういう意味を表していたのですか。

A それが実は仏教の中でもさまざまな使い方がされていまして、一概に言い切れない内容を持っているわけなんです。
 親鸞聖人などは自力・他力という言葉を厳しく限定し、定義して、その定義に従ってキッチリと使っていかれますから、たとえば「あなたのような自力・他力の使い方は親鸞聖人の教えではありません」と言い切ることはできます。しかしそれは親鸞聖人の教えに関してはいえますが、同じ仏教徒の中でもさまざまな使い方がされていますから、一概には言い切れません。
 たとえば聖道門の方が使う自力・他力と、浄土門の方が使われる自力・他力とは違いますし、同じ浄土門の方であっても、後に詳しく述べるように法然聖人の弟子の聖光房弁阿上人やその弟子の良忠上人が使われる自力・他力と、親鸞聖人の自力・他力とは大きな違いがありました。ですから私は誰それのような使い方をしているのだといわれれば、「そうですか」といわざるを得ないところもあります。

 こういうわけで世間の常識としての自力・他力の使い方が一概に悪いと言い切ってしまうことができないところに難しさがあるわけです。

 自力・他力というような言葉は、スッキリとわかりやすい言葉かと思っていましたが、ずいぶん難しいんですね。

A そうです。むしろわかりやすい言葉というのは、どうにでも解釈ができるからで、実は誤解されやすいということもあるわけです。その意味で蓮如上人が「心得たと思うは心得ぬなり、心得ぬと思うは心得たるなり」と言われたように、とくに仏法を聞くときには早とちりをしないように気をつけねばなりません。
 自力と他力を同じ次元で並べて、自力とは自分の力ではげむことであるが、他力とは他人の力をあてにして、自分は何もしないことであると理解したとすれば、それは理解したのではなくて誤解をしたことになります。とくに浄土教で救いを表わすために使っている他力という言葉は、生と死の惑いを断ち切って、人びとに安らぎと充実感を与えていく法義を顕わす言葉ですから、もともと常識を超えた領域を指し示していました。

 わかっていると思っていたことがわからなくなってきて、頭の中が混乱してきました。少しずつ整理していきたいと思います。とにかく自力・他力という言葉には常識的な部分と常識を超えた部分とがあるようですね。

A その通りです。たとえば自力・他力を「自分の力」と「他人の力」というような対句とみるのは常識的な見方です。そして自力とは、自分の力をたのみにして修行し、さとりに向かって向上することを勧める教えであるというのは正しいわけです。これは常識的な教えですからね。
しかしその反対に「他力とは他人の力」ということで、他人のカをあてにして、自分は何もしないことであると他力を常識的に理解するのは間違いです。

 それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛欲や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる、そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始まるのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。

 そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。

二、他力不思議

 それでは親鸞聖人の場合、自力と他力というのは、単純な対句ではなかったのですね。

A その通りです。通俗的には自分の力と他人の力という同一の次元での対句だったわけです。しかし人間の知性と実践で解決のできる思議(思いはからい)の領域を表している自力に対して、人間の思慮分別を超えた本願のはたらきが、人間を導いていく如来の不可思議な大悲智慧のはたらきを表す言葉が他力であるといったときには、人間の思議の領域と仏陀の不思議な智慧の領域を表していました。そういう意味で人間中心の考え方と仏中心の考え方の違いをあらわす対句とみることもできます。少なくとも親鸞聖人は後者のような意味で自力・他力という言葉を使われていたのです。

 すると親鸞聖人は、自力と他力とを、人間の知識のはたらきと、阿弥陀仏の智恵のはたらきとに分けられたということですか。

A そうです。ですから親鸞聖人は、自力の教えは人間に理解可能な常識的な領域を知らせる教えですが、他力は常識を超えた不可思議な阿弥陀如来の本願力のはたらきを示す言葉であると見られていたのです。

 聖人が『教行証文類』の「行文類」や『愚禿鈔』の中で自力の諸行と他力の行(念仏)を比較される中に、「思不思議対」という対目(ついもく)をあげられていました[1]。 自力の修行は人間の努力の延長線上の出来事ですから思議の領域であり、他力は人間の思いはからいを超えた不思議な仏智のはからいを表しているといわれるのがそれです。『正像末和讃』にも、

聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして
他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり

といわれているのも同じ心を讃詠されたものです。なおこの和讃は「顕智本」では、「聖道門のひとはみな 自力の心をむねとせり」となっています。いずれにせよ自力を思議とし、他力を不思議と見られていたことがわかります。

 自力とは人間の思議をはたらかせる教えであり、他力とは、人間の思議をさしおいて、阿弥陀仏の智慧に導かれていく教えということになるわけですか。

A それを自力を捨てて他力に帰すというのです。自力の教えというのは、私どもは平等に仏になれる素質をもっていて、教えの通りに修行をすれば必ず成仏できると信じ、全力をあげて布施(ほどこし)・自戒(戒律を守る)・忍辱(苦難に堪える)・精進(努力)・禅定(精神統一)・智慧といったさまざまな行を実践して身心を浄化し、自利と利他を完成していく仏道でした。

 それに引き替え他力の教えは、厳しい修行によって自身の煩悩を浄化する力もなく、そればかりか罪業を造り続ける愚悪な凡夫の悲しみを、ご自身の痛みとして共感し、自らのこととして救い取ろうと誓願された阿弥陀仏の大悲智慧のはたらきを他力(利他力)と呼ばれているのです。
 阿弥陀仏の本願力は、本願の目当てであった私どもに届いて常にはたらき続け、本願を信じる能力のない私を育てて、本願を疑いなく受け容れる者にしあげ、念仏する気もなかった私を、細々ではあるが念仏を申す行者に育ててくださいました。そしてこの世の名利しか求めていなかった私に、浄土こそ「まこと」の世界であると知らせて、涅槃の浄土へ導いてくださることを本願他力の救いと呼ばれたのでした。
 いいかえれば、他力は、私が本願を信じ、念仏しているところに顕現している如来のはたらきなのです。私どもは如来の他力に包まれ導かれながら浄土の旅を続けているのです。

 しかし、教えを聞くことも、信じることも、念仏を称え続けていることも、実際は私が聞いているのであり、私が信じているのであり、私が称えているのではないですか。

A 確かに自分が努力して聞法し念仏しているのですから私の行いであって、自力の営みであると思われるのはもっともなことです。しかし、そのように常識的に理解することを自力というのです。
 念仏は私の行いであると言うときに、その人に見えているのは、「私は念仏した」という自分の功績だけでしょう。幾ら念仏していても、自分に逢うだけで如来さまには決して遇(あ)えません。
実は如来さまに遇えないのではなくて、如来さまの前に自分が立ちはだかって隠してしまっているのです。もしそんな状態で如来が見えたとすれば、それは自分の心の影であって、まことの如来ではありません。念仏させてくださっている如来さまの大悲願力を覆い隠すものこそ自己をたのむ自力心だったのです。
 教えを聞く気のなかった私が、教えを聞いて喜ぶようになっているのは、私が偉かったのではなくて、どうぞ一声でも真実のみ教えに遇ってくれよと願われた阿弥陀仏の本願力のはたらきの賜物であったと気づいたとき、その場で私を聞法させてくださっている本願の如来さまに遇わせていただくことができます。
 ただ自力をたのむ心が幅をきかせている限り、本願他力に遇うことはできません。ただ一声でも念仏が口をついて出たとき、これが「本願をまことと受け容れ、お念仏の申せる人生を生きてくれよ」と願われた本願力が、いま私の上にとどいて躍動している姿であると気づいたことを「他力不思議」と信知するといわれたのです。

 ずいぶん難しい話になりましたが、しかし何か如来さまを身近に感じるような気がいたします。

A それが一番大切なことです。他力とか、本願力といっても、私どもの生活の場を離れてどこかで空転しているようなものではないからです。


  1. 「行文類」p.199