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龍樹―空の論理と菩薩の道

提供: 本願力

法然聖人は『選択本願念仏集』「約対章」で、 「ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり」 と、仰っておられる。 御開山は、その意味の一分を『十住毘婆沙論』を依用して「行文類」で証明されておられるのだが、面白い(有り難い)文章を読んだのでメモ用にUP。御開山自身の称名論は、もう少しややこしいと思うのだが、「大乗菩薩道と凡夫」以下の文章は、我が意を得たりという文ではある。

引用は瓜生津隆真和上の『龍樹―空の論理と菩薩の道』P292から。

>> 「易行品」は、先述のように、経録には「易行品諸仏名経」と記されていた、という。このことからしても、「易行品」が、いわゆる「仏名経典」と密接な関係があったのではないかと推測できる。

「易行品」は、まず十方十仏の現在の仏たちの憶念称名を説いているが、これは『十住論』自体がいうように、『宝月童子所間経』によっている。また『菩薩蔵経』に出る十方十仏ともほとんど変わりがないことも指摘されている。『宝月童子所間経』は「仏名経典」に収められるものである。現存するいくつかの「仏名経典」は、その名の通り諸仏の名を列記している。このように仏名を列記しているのは、諸仏を奉請し恭敬礼拝するためであったと思われる。

「易行品」の内容を見ると、「仏名経典」と同じように、まず十方十仏を列記し、続いて現在諸仏、過去八仏、東方八仏、過去・現在・未来のすべての諸仏、さらに諸大菩薩の名を列記している。

若し人疾く不退転地に至らんと欲せば、応さに恭敬の心を以て執持して、名号を称すべし。

と、一心に名号を称えるなら、不退にすみやかに到ることができると説き勧めるのである。これを見ると、「易行品」はまさしく「仏名経典」そのものであるといえる。

「仏名経典」を見ていると、在家信者たちの仏教信仰、さらにその礼拝・恭敬の行儀がよく反映している。これは容易に推測できるが、畝部教授は前の論文で、『菩薩蔵経』のなかに、四品行を修するにあたって、灯・酥・油香・花・果実・水などを用意することが示されていること、続いて十方十仏の名があげられ、これら十方の諸仏に対して、一日一夜、六時に(すなわち六回)行道礼拝することが勧められていること、さらにその上に四品行が定型的な文の形式で表白されていることを紹介し、「この菩薩蔵経の説示の次第を見てみると、と言葉を改めて、十方十仏の名号が説かれている理由が分ってくる」と述べられている。続いてそれが、懺悔・随喜・勧請・廻向の四品行を説く「除業品」、「分別功徳品」の前に「易行品」がある理由であるとし、これは従来見られなかった「易行品」への視点であって、この視点に立つとき、不退に到る易行としての憶念称名という信方便の意味が変わってくる、と論じられている。

私もこの説を肯定するもので、仏教遺蹟などに伝わる数々の仏像や仏画(壁画)、あるいは礼拝空間を見ても、人々がいかに深い仏への帰依礼拝をささげていたか、それをうかがい知ることができる。彼らは釈迦が讃えられた仏名を称えて諸仏を奉請し、礼拝供養して、悔過の行法を修していたのであろう。

大乗菩薩道と凡夫

信方便の易行とは、深い自己内省と苦悩のなかから、大乗菩薩道の上にその信仰の意義を見出していったものである、と思われる。いうまでもなく『十住論』の主題は、大乗菩薩道ということであって、それを諸種の大乗経典の所説をまとめて説き明かしているのである。この大乗菩薩道において何よりも大切なのは、入初地(初地に入る)ということである。なぜなら菩薩が「如実の菩薩」すなわち真の菩薩となるのは、入初地ということによるからである。不退に到るとは、このことにほかならないのである。「易行品」が問題として取り上げたのは、現実に生死の苦悩のなかにある凡夫が、いかにして入初地を得ることができるか、ということであった。それは「如実の菩薩」における仏道と、離れてあるのではない。

本論の主題が菩薩道ということにある以上、諸仏の憶念称名という信方便も、それを離れて別にあるのではない。また信方便の易行と大乗菩薩道の難行とが、単に平面的・相対的に並列されているのでもない。衆生の苦悩という現実を如実に知るなら、自身こそ生死の苦悩のなかにある身にほかならない。如実の菩薩になってはじめて衆生の苦悩が如実に自己の問題となり、果てしない生死の苦悩からの解脱の道がそこから見出されてくるであろう。この点から見ると、信方便の易行とは、まさしく生死海に沈んでいる苦悩の身にとって、大乗菩薩道を具現する大道なのである。したがって諸仏への恭敬による憶念称名は、大乗仏教の真精神を表わすものであり、すべてのものの仏道を満たすものなのである。いいかえると、大乗菩薩道を完成する真の道として説かれているのである。

「易行品」は、理論的に大乗菩薩道とその実践の理想を説く立場に立っていない。苦悩の衆生の現実を問題として大乗菩薩道を論じようとしているといえる。この場合忘れてはならないのは、論自体がいかなる立場から述べられているかということである。そこで、本論の作者自体の求道心と実践的立場が間われねばならない。さらにまた、大乗菩薩道の求道においていかなる精神的苦悩があり、自身が問題となっていたか、そのことがたずねられなければならない。

すでに『十住論』を造るのは、鈍根の機(劣った素質の者)のためである、と本論の「序品」に述べられている。また「易行品」のはじめには、すみやかに不退に到る易行の道を求めるのは、心弱く劣ったもののいい分である、と誠められている。しかし実践主体的に受け取るなら、これは「生死海における苦悩の衆生」であるわが身を問題としていると見るべきであろう。苦悩の衆生とは決して対象化された衆生のことではない。まさしくわが身の姿にほかならないからである。

『十住論』は一体誰を対象として説いているのか、その「所被の機」について考えることも大切であろう。いうまでもなく、『十住論』は大乗菩薩道の行を説く実践の書である。苦悩の衆生であるわが身にとって、大乗菩薩道における実践とは何か、一切衆生とともに歩むことのできる大乗菩薩道とはどういうものか、「所被の機」について深く考えながらそれを明らかにしようとしたのが『十住論』、特に「易行品」から「除業品」、「分別功徳品」ではなかったか、と思われる。

この視点に立つとき、信方便の易行における大乗菩薩道の意義がより一層明らかになってくるであろう。 >>

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