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西方指南抄/中末

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真宗高田派で伝時されてきた、親鸞聖人筆(国宝)の法語集。親鸞聖人が師匠である法然聖人の法語・消息・行状記などを、収集した書物。奥書より康元元(1256)年~康元二(1257)年頃(84~85歳)書写されたものと思われる。テキストは、ネット上の「大藏經テキストデータベース」を利用し、『真宗聖教全書』に依ってページ番号を付した。これによってページ単位でもリンクも可能である。
読む利便を考えカタカナをひらがなに、旧字体を新字体に変換した。また、適宜改行を付した。各サブタイトルは『昭和新修 法然聖人全集』などを参考に適宜、私に於いて付した。
なお、いかなる場合においても、本データベースの利用、及び掲載文章等を原因とすることによって生じたトラブルについて、当サイトは一切その責を負いません。

西方指南抄 中末

七箇條起請文

元久元年(1204)比叡山延暦寺の専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)の訴えに対して、法然聖人以下門弟が言行を正すことを誓って連署し、比叡山に送った七箇条からなる書状。親鸞聖人は当時名乗っておられた綽空の名で署名されておられるが、西方指南鈔では改名後の善信とされている。WikiArcに、読み下し及び現代語訳あり。

一。普告于予門人念仏上人等可停止未窺一句文。奉破真言止観。謗余仏菩薩事
右至立破道者。学生之所経也。非愚人之境界。加之誹謗正法免除弥陀願。其報当堕那落。豈非痴闇之至哉

一。可停止以無智身対有智人。遇別行輩好致諍論事
右論義者。是智者之有也。更非愚人之分。又諍論之処。諸煩悩起。智者遠離之百由句也。況於一向念仏行之人乎

一。可停止対別解別行人。以愚痴偏執心。傋当棄置本業強嫌喧之事
右修道之習。只各勤敢不遮余行。西方要決云。別解別行者。総起敬心。若生軽慢。得罪無窮 云云 何背此制哉

一。可停止於念仏門号無戒行。専勧婬酒食肉。適守律儀者名雑行。憑弥陀者本願者説勿恐造悪事
右戒是仏法大地也。衆行雖区同専之。是以善導和尚挙目不見女人。此行状之趣過本律制。浄業之類不順之者。総失如来之遺教。別背祖師之旧跡。旁無拠者歟

一。可停止未弁是非痴人。離聖教非師説。恐述私義妄企諍論。被咲智者迷乱愚人事
右無智大天。此朝に再08誕。猥述邪義。既同九十五種異道。尤可悲之

一。可停止以痴鈍身殊好唱導。不知正法説種種邪法。教化無智道俗事
右無解作師。是梵網之制戒也。黒闇之類欲顕己才。以浄土教爲芸能。貪名利望檀越。恐成自由之妄説狂惑世間人。誑法之過殊重。是輩非国賊乎

一。可停止自説非仏教邪法爲正法。偽号師範説事
右各雖一人。説所積爲予一身衆悪。汚弥陀教文。揚師匠之悪名。不善之甚無過之者也
以前七箇条甄録如斯。一分学教文弟子等者。頗知旨趣。年来之間雖修念仏。随順聖教。敢不逆人心。無驚世聴。因茲于今三十箇年。無爲渉日月。而至近王。
此十箇年以後無智不善輩。時時到来。非啻失弥陀浄業。又汚穢釈迦遺法。何不加[火+向]誡乎。
此七箇条之内。不当之間。巨細事等多。具難註述。総如此等之無方。慎不可犯。
此上猶背制法輩者。是非予門人。魔眷属也。更不可来草菴。自今以後。各随聞及。必可被触之。余人勿相伴。若不然者。是同意人也。
彼過如作者。不能瞋同法恨師匠。自業自得之理。只在己心而已。是故今日催四方行人。集一室告命。僅雖有風聞。慥不知誰人失。拠于沙汰愁歎遂年序。非可黙止。
先随力及所迴禁遏之計也。仍録其趣示門葉等之状如件

  元久元年十一月七日 沙門源空
信空 感聖 尊西 証空 源智 行西 聖蓮 見仏 道豆 導西 寂西 宗慶 西縁 親蓮 幸西 住蓮 西意 仏心 源蓮 蓮生 善信 行空 已上
  已上二百余人連署了

起請没後二箇条事

表題のごとく法然聖人滅後に、門弟へ宛てた遺誡。法然聖人は『西方指南抄』下末の要義問答で、「まことにこの身には、道心のなき事と、やまひとばかりや」と、云われておられるが65~66歳の頃大病をなされた。これが縁で藤原兼実の請によって『選択本願念仏集』をあらわされたといわれる。またその時にあらわされたのが、この『起請没後二箇条事』(没後遺誡ともいう)であるとされる。一には、群会すれば互いに諍論を起こし忿怨しあい、それが浄土門を破壊することにもつながるので集会してはならないと説く。二には、追善、布施を否定し、念仏を勧進し念仏に生きる者であるならば、ひたすら念仏すべきことを示される。

起請 没後二箇条事

一。葬家追善の事

右葬家之次第。頗有其採旨。有籠居之志遺弟同法等。全不可群会一所者也。其故何者。雖復似和合。集則起闘諍。此言誠哉。甚可謹慎。
若然者。我同法等。於我没後。各住各居。不如不会。闘諍基由。集会之故也。

右、葬家の次第、すこぶるその採る旨あり。籠居の志ある遺弟・同法等は、全く一所に群会すべからざるものなり。そのゆえはいかんとなれば、また和合するに似たりといえども、集れば則ち闘諍を起こすという、この言誠なるかな。はなはだ謹み慎むべし。
もししからば、我が同法等、我が没後において、おのおの各居に住して会わざるにはしかず。闘諍の基(もとい)は集会によるがゆえなり。[1]

羨我弟子同法等。各閑住本在之草菴。苦可祈我新生之蓮台。努努群居一所。莫致諍論起忿怨。有知恩志之人。毫末不可違者也。

ねがわくは、我が弟子・同法等、おのおの本在の草菴に閑住して、苦(ねんごろ)に、我が新生の蓮台を祈るべし。ゆめゆめ一所に群居して諍論をいたし忿怨を起こすことなかれ。知恩の志あらん人、毫末も違するベからざるものなり。

兼又追善之次第。亦深有存旨。図仏写経等善。浴室檀施等行。一向不可修之。若有追善報恩之志人。唯一向可修念仏之行。平生之時。既付自行化他。唯局念仏之一行。歿没之後。豈爲報恩追修寧雑自余之衆善哉。
但於念仏行。尚可有用心。或眼閉之後。一昼夜自即時始之。標誠至心各可念仏。中陰之間。不断念仏。動生懈惓。各還闕勇進之行。凡没後之次第。皆用真実心可棄虚仮行。有志之倫。勿乖遺言而已

かねてまた、追善の次第、また深く存ずる旨あり。図仏・写経等の善、浴室・檀施等の行、一向にこれを修すべからず。もし追善報恩の志あらん人、ただ一向に念仏の行を修すべし。平生の時、すでに自行化他について、ただ念仏の一行にかぎる。歿没の後、あに報恩追修のために、むしろ自余の衆善を雑えんや。
ただ、念仏の行においてなお用心あるべし。あるいは眼閉じてのち、一昼夜即時よりこれを始め、誠を標して心を至しておのおの念仏すべし。中陰の間、念仏を断たざれ。ややもすれば懈惓を生じ、おのおの還りて勇進の行をかく。おおよそ、没後の次第、みな真実心を用いて虚仮の行を棄つべし。志あらんのともがら、遺言に乖くことなからんとのみ。[2]

「隠/顕」

沒後遺誡文一此有二條
一普告予遺弟等 予之沒後各宐別住不須共居
一所共居雖似和合而又恐起鬪諍 不如閒居靜處獨行念佛也
又爲予修追福亦莫聚居一所 致諍論起忿怒也
且莫修圖佛寫經檀施等善唯應一向修念佛之行
平生之時自行化他
既唯念佛一行沒後寧雜自餘修善哉
又氣絶之後即時興行念佛 或一晝夜或一七日至誠勤修不要中陰之間不斷念佛恐生懈惓還妨勇進也
有志之輩勿敢乖遺語矣

一予見聞古今人之沒後 在家出家 多有喧諍皆由諍遣塵也
或兄弟忽忘連枝之昵或 同法俄變一器之志毎 見聞此事不敢勝安忍

普告予門人於予沒後就坊舍資具等 莫起諍論 白衣尚可愧 況於緇服乎
門徒雖多 信空實是多年給仕弟子 因爲表懇志 聊有遣屬謂黑谷本坊寢殿 雜舍白川本坊寢殿 雜舍坂下園一所 洛中領地一所 此尊三尺彌陀立像定朝 聖敎摺寫六十卷等付屬之者也
其書在中坊舊在西山廣谷高畠領地一所付屬之感西也
又吉水東新坊本故六條尼公之所持 而圓親爲其假子故今付屬之圓親其書在別紙
又吉水西舊坊長尊其本主也
今還遣之佛堂一宇舊在大谷西坊尼公以西尊成乘乞之因付與之此外雜舍一兩皆附西坊付屬之長尊也
感西長尊 是亦年來常隨弟子故 付與之者也
凡五衆亡後資財皆入僧生存之間物屬於己 予今分與乃以此也
沒後二條豫示遺誡如 斯若夫不忘累劫之縁荷負半偈之恩服膺遺語以擬報恩同法遺弟
共如水乳互策勵心行同入和合海是予所願也
建久九年四月八日 釋 源 空

源空聖人私日記

現存する法然聖人伝記の中で最も古い時代に編纂されたとされる『源空聖人私日記』の一。同意のものに、勢観房源智上人が書き記されたとされる醍醐本『法然上人伝記』がある。なお読み下し文は追記した。

源空聖人私日記

夫以。俗姓者。美作国庁官。漆間時国之息。同国久米南条稲岡庄。誕生之地也。

それおもんみれば俗姓は、美作の国の庁官、漆間時国の息なり。同じ国の久米の南条稲岡庄は誕生の地なり。

長承二年{癸丑}聖人始出胎内之時。両幡自天而降。奇異之瑞相也。権化之再誕也。見者合掌。聞者驚耳。 云云

長承二年{癸丑}聖人、始めて胎内を出でし時、ふたつの幡、天より降る。奇異の瑞相也。権化の再誕也。見る者掌(たなごころ)を合わせ、聞く者、耳を驚かすと云々。

保延七年{辛酉}春比。慈父爲夜打被殺害畢。聖人生年九歳。以破矯小箭射凶歒之目間。以件疵知其敵。即其庄預所。明石源内武者也。因茲迯隠畢。

保延七年{辛酉}春のころ、慈父、夜打の為に殺害され畢りぬ。聖人の生年九歳、破矯の小箭を以って、凶歒の目の間を射る。件の疵を以って其の敵(かたき)を知る、即ち其の庄の預所、明石の源内武者也。これによって逃げ隠れ畢りぬ。

其時聖人。同国内菩提寺院主観覚得業之弟子と成給。

その時聖人、同じき国の内の菩提寺の院主、観覚得業の弟子と成給ふ。

天養二年{乙丑}初登山之時。得業観覚状云。進上大聖文殊像一体。源覚西塔北谷持法房禅下。得業消息を見給奇給。小児来。聖人十三歳也。

天養二年{乙丑}初登山の時、得業観覚の状に云く、大聖文殊像一体を進上すと。源覚西塔の北谷に持法房禅下、得業の消息を見給たもうてあやしみ給ふに小児来れり、聖人十三の歳也。

然後十七歳。天台六十巻読始之。

然して後ち十七歳にて天台六十巻をこれを読始じむ。

久安六年{庚午}十八歳。始師匠乞請暇遁世。

久安六年{庚午}十八歳にて、始めて師匠に請して暇を乞、遁世せむとす。

法華修行之時。普賢菩薩眼前奉拝。華厳披覧之時。虵出来。信空上人見之怖驚給。

法華修行の時、普賢菩薩を眼前に拝し奉る、『華厳』披覧の時、虵(じゃ)出で来る。信空上人これを見て怖れ驚き給。

其夜夢。我者此。聖人夜経論を見。雖無灯明。室内有光如昼。信空、法蓮房也聖人同法、同見其光。修真言教入道場。観五相成身之観。行顕之。

其夜の夢にみらく。我は此れ聖人夜経論を見たまふに、灯明無しといえども、室の内に光有りて昼のごとし。信空{法蓮房也、聖人の同法}同じき其の光を見らる、真言教を修せむとて道場に入りて五相成身の観を観ず、行これを顕す。

於上西門院説戒七箇日之間。小虵来聴聞。当第七日。於唐垣上其虵死畢。于時有人人見様。其頭破。中より或見天人登。或見蝶出。説戒聴聞之故。離虵道之報。直生天上歟。

上西門院にして説戒七箇日の間、小虵来りて聴聞す。第七日に当りて、唐垣の上にして其の虵死し畢りぬ。時に人人有りて見る様、その頭(かしら)破(わ)れて中より、或いは天人の登るを見る、或いは蝶出づを見る。説戒聴聞の故に、虵道の報を離れて直ちに天上に生ずる歟。

高倉天皇御宇得戒。其戒之相承自南岳大師所伝。于今不絶。世間流布之戒是也。

高倉天皇の御宇に戒を得たまひき。其の戒の相承、南岳大師より伝ふる所、今だ絶えず、世間流布の戒是れ也。

聖人所学之宗宗師匠四人。還成弟子畢。

聖人所学の宗宗、師匠四人、還りて弟子に成り畢んぬ。

誠雖大巻書。三反披見之時。於文者明明不暗。義又分明也。雖然以二十余之功不能知一宗之大綱然後窺諸宗之教相。悟顕密之奥旨。八宗之外明仏心達磨等宗之玄旨。

誠に大巻の書なりといえども。三反これを披見する時、文において明明にして暗からず、義また分明也。然りといえども二十余の功を以って一宗の大綱を知ることあたわじ。然して後、諸宗の教相を窺うて顕密の奥旨を悟る。八宗の外に仏心・達磨等の宗の玄旨に明らかなり。

爰醍醐寺三論宗之先達。聖人往于其所述意趣。先達総不言起座。入内取出文凾十余合云。於我法門者。無余念永令付嘱于汝 云云 此上称美讃嘆不遑羅縷。

ここに醍醐寺の三論宗の先達、聖人其の所に往いて意趣を述す、先達総じてもの言わずして座を起て内に入り文凾十余合を取出して云く。我が法門においては、余の念(おも)いなく、永く汝に付嘱せしむと。 云云 此の上、称美讃嘆するに羅縷いとまあらず。

又値蔵俊僧都而談法相法門之時。蔵俊云。汝方非直人。権者化現也。智慧深遠。形相炳焉也。我一期之間。可致供養之旨契約仍毎年贈供養物致懇志。已遂本意了。宗之長者。教之先達。無不随喜信伏。

また、蔵俊の僧都に値いて法相の法門を談ずるの時、蔵俊云く。汝まさに直人(ただびと)に非ず、権者の化現也。智慧深遠なること、形相炳焉也。我一期の間、供養致すべきの旨契約せりき。よって毎年に供養物を贈る懇志を致す。已に本意を遂げ了(お)わる、宗の長者、教の先達、随喜信伏せざるは無し。

総本朝所渡之聖教乃至伝記・目録。皆被加一見了。雖然煩出離之道身心不安。抑始自曇鸞・道綽・善導・懐感御作。至于楞厳先徳往生要集。雖窺奥旨。二反拝見之時者。往生猶不易。第三反之時。乱想之凡夫不如称名之一行。是則濁世我等依怙。末代衆生之出離。令開悟訖。況於自身得脱乎。然則爲世爲人雖欲令弘通此行。時機難量。感応難知。

すべて本朝に渡る所の聖教乃至伝記・目録、皆な一見を加えられ了ぬ。然りといえども出離の道に煩いて身心安からず、そもそも始め曇鸞・道綽・善導・懐感御作より、楞厳先徳『往生要集』に至まで奥旨を窺うこと二反すといえども、拝見の時、往生猶お易(やす)からず、第三反の時、乱想の凡夫は称名の一行にしかず、是れ則ち濁世の我等が依怙なり、末代の衆生の出離開悟せしめおわぬ。いわんや自身の得脱においておや。然らば則ち世の為人の為、此の行を弘通せしめんと欲うといえども、時機量り難し、感応知り難し。

倩思此事。暫伏寝之処示夢想。紫雲広大聳覆日本国。自雲中出無量光。自光中百宝色鳥飛散充満虚空。于時登高山忽拝生身之善導。自御腰下者金色也。自御腰上者如常。高僧云。汝雖爲不肖之身。念仏興行満于一天。称名専修及于衆生之故。我来于此。善導即我也 云云 因茲弘此法。年年次第繁昌。無不流布之所。

つらつら此の事を思い、暫く伏して寝(い)ぬるの処、夢想を示す。紫雲広く大いに聳えて日本国に覆えり。雲中より無量の光を出だす。光中より百宝の色鳥飛散して虚空に充満せり。時に高山に登りて、たちまちに生身の善導を拝めり。御腰より下は金色也。御腰より上は常のごとし。高僧云く。汝、不肖の身なりといえども、念仏興行一天に満てり。称名専修 衆生に及ぼさんが故に、我ここに来たれり、善導すなわち我也。 云云 これに因て此法を弘む。年年次第繁昌せしむ、流布せざるの所無し。[3]

聖人云。我師肥後阿闍梨云。人智慧深遠也。然倩計自身分際。此度不可出離生死。若度度替生隔生。即妄妄故定妄仏法歟。 不如受長命之報欲奉値慈尊之出世。依之我将受大虵身。但住大海者可有中夭。如此思定。遠江国笠原庄内桜池と云所を。取領家之放文。住ひむと此池誓願了。其後至于死期時。乞水入掌中死了。而彼池。風不るに吹浪俄立。池中塵悉払上。諸人見之。即注此由触申領家。期其日時。彼阿闍梨当逝去日。所以有智慧故。知難出生死。有道心之故。値はむと仏之出世所願也。

聖人の云く、我師、肥後阿闍梨の云く、人の智慧深遠也。然るにつらつら自身の分際を計るに、此のたび生死を出離すべからず。もし、たびたび生を替え生を隔つ、即ち妄妄たるが故に定めて仏法を妄ぜる歟。長命の報を受けむにしかずば、慈尊(弥勒)の出世に値い奉まつらんと欲ふ。これに依って我まさに大虵(だいじゃ)の身を受けんと。ただし大海に住せば中夭有るべし。かくの如く思い定めて、遠江国笠原の庄内に桜池と云所を、領家の放ち文を取りて、この池に住ひむと誓願し了ぬ。其後、死期の時に至って、水を乞ふて掌の中に入れて死に了ぬ。しかるに彼池、風吹かざるに浪にわかに立ち、池の中の塵悉く払ひ上がり、諸人これを見て、即ちこの由を注(しる)して領家に触れ申す。その日時を期す、彼の阿闍梨逝去の日に当れり。このゆえに智慧あるが故に、生死を出で難きことを知る。道心有るが故に、仏の出世に値はむと願ずる所也。

雖然未知浄土法門之故。如此発悪願。我其時。若此法尋得。不顧信不信。此法門申さまら。而於聖道法者。有道心者期遠生之縁。無道心者併住名利。以自力輒可厭生死之者。是不得帰依之証也 云云

然りといえども浄土の法門を知らざるの故に、此の如きの悪願を発す。我れその時、もし此の法を尋ね得たらば、信・不信を顧りみず、此の法門申さまし。しかるに聖道法においては、道心有らば遠生の縁を期し、道心無くばしかしながら名利に住せむ。自力を以って輒(たや)すく生死を厭うべきの者は、是れ帰依の証を得ざる也。 云云

又聖人年来開経論之時。釈迦如来。罪悪生死凡夫依弥陀称名之行可しと往生極楽弘説給之勘得教文。今修念仏三昧立浄土宗。其時南都北嶺碩学達共。誹謗嘲哢無極。

また聖人年来経論を開く時、釈迦如来、罪悪生死の凡夫、弥陀称名の行に依って極楽に往生すべしと、弘くこれを説給、教文を勘がへ得て、今念仏三昧を修し浄土宗を立つ。其の時、南都・北嶺の碩学達、共に誹謗嘲哢すること極り無し。

然間文治二年之比。天台座主中納言法印顕真。厭娑婆忻極楽。籠居大原山入念仏門。其時弟子相模公申云。法然聖人立浄土宗義。可尋聞食顕真云。尤可然 云云 但我一人不可聴聞。処処智者請集定了。而彼大原竜禅寺に集会。以後法然聖人請之。 無左右来臨了。顕真喜悦無極。集会之人人

然る間、文治二年のころ、天台座主中納言法印顕真、娑婆を厭ひ極楽を忻ふて、大原山に籠居して念仏門に入れり。其の時の弟子、相模の公と申すが云く。法然聖人浄土の宗義を立す。尋ね聞こしめすべしと。顕真云、もとも然なりと。 云云
ただ我れ一人のみ聴聞すべからず。処処の智者請じて集め定め了りて、彼の大原竜禅寺に集会して以つて後、法然聖人これを請ず。左右なく来臨了(おわ)ぬ。顕真喜悦極まり無し。

集会の人人

光明山僧都明遍  東大寺三輪宗長者也。
笠置寺解脱上人  侍従已講貞慶。法相宗人也。
大原山本成坊  此人人問者也。
東大寺勧進修乗坊  重源。
嵯峨往生院念仏坊 改名。今は南無阿弥陀仏と号。天台宗人也。
大原来迎院明定坊  蓮慶、天台宗人。
菩提山長尾蓮光坊  東大寺人。
法印大僧都智海  天台山東塔西谷 林泉坊。
法印権大僧都証真  天台山東塔東谷 宝地坊。
  聴衆凡三百余人也。

其時聖人。浄土宗義。念仏功徳。弥陀本願之旨。明明説之。其時云口被定。本成坊黙然而信伏了。集会人人悉流歓喜之涙偏帰伏。 自其時彼聖人念仏宗興盛也。自法蔵比丘之昔至弥陀如来之今。本願之趣。往生之子細。不昧説給之時。三百余人。一人無疑。聖道・浄土教文玄旨説之時。人人始向虚空無出言語之人。集会人人云。見形者源空聖人。実者弥陀如来応跡歟と定了。 仍集会之験とて。於件寺三昼夜不断念仏勤行了。結願之朝。顕真付法華経之文字員数。一人別に阿弥陀仏名を付よと彼教訓。大仏上人自其時。南無隬陀仏之名付給了。

その時聖人、浄土の宗義、念仏の功徳。弥陀本願の旨、明明にこれを説きたまふ。其の時、云口に定められる本成坊、黙然として信伏し了ぬ。集会の人人悉く歓喜の涙を流し偏に帰伏す、この時より彼の聖人念仏宗興盛也。法蔵比丘の昔より弥陀如来の今に至るまで、本願の趣、往生の子細、昧からずこれを説き給ふ時、三百余人、一人として疑ふこと無し、聖道・浄土教文の玄旨これを説く時、人人始めて虚空に向かうて言語を出だすの人無し。集会の人人云ふ、形を見れば源空聖人、実は弥陀如来の応跡歟と定め了ぬ。よって集会の験(しるし)として、件の寺にして三昼夜不断念仏勤行了ぬ。結願の朝、顕真『法華経』の文字の員数に付いて、一人別に阿弥陀仏の名を付よと彼の大仏の上人(嵯峨往生院念仏坊)を教訓す。其の時より、南無隬陀仏の名付給ひ了ぬ。

高倉院御宇。安元元年{乙未}聖人齢自四十三。始入浄土門。閑観浄土給。初夜宝樹現。次夜示瑠璃地。後夜者宮殿拝之。阿弥陀三尊常来至也。 又霊山寺ゆたて三七日不断念仏之間。無やに灯明有光明。第五夜勢至菩薩行道。同烈立給。或人如夢奉拝之。聖人曰。猿事侍覧。余人更不能拝見。

高倉院の御宇、安元元年{乙未}聖人の齢、四十三より始めて浄土門に入りて、閑(しずか)に浄土を観じ給ふに、初夜に宝樹現じ、次の夜に瑠璃地を示す、後夜には宮殿これを拝す、阿弥陀の三尊常に来至したまう也。
また霊山寺にして三七日不断念仏の間、灯明無きやに光明有り。第五夜に勢至菩薩行道し、同烈して立ち給ふ。ある人夢のごとくにこれを拝し奉る。聖人の曰く、さる事はべるらんと。余の人さらに拝見にあたわず。

月輪禅定殿下兼実 御法名円照 帰依甚深也。或日聖人参上月輪殿。退出之時。自地上高踏蓮華而歩。頭光赫奕。凡者勢至菩薩化身也。如此善因令然。業果惟新之処。南北之碩徳。顕密之法灯。或号謗我宗。或称嫉聖道。寄事於左右。求咎於縦横。 動驚天聴諷諫門徒之間。不慮之外忽蒙勅勘。被行流刑了。雖然無程帰洛了。権中納言藤原朝臣光親。爲奉行被下勅免宣旨。 去建暦元年十一月二十日帰洛。居卜東山大谷之別業。鎮待西方浄土之迎接。

月輪の禅定殿下兼実{御法名円照}帰依甚深也。ある日、聖人月輪殿に参上、退出の時、地より上(かみ)高く蓮華を踏みて歩みたまふ。頭光赫奕たり。
おおよそは、勢至菩薩の化身也。此の如き善因然らしむに、業果これ新たなるの処に、南北の碩徳、顕密の法灯、あるいは我宗を謗ずと号し、あるいは聖道を嫉むと称す。事の左右に寄せて、咎を縦横に求む。
ややもすれば天聴を驚かして門徒に諷諫するの間、不慮の外に忽に勅勘を蒙り、流刑に行われ了ぬ。然りといえども程なく帰洛了ぬ。権中納言藤原の朝臣光親、奉行として勅免の宣旨を下さる。
去る建暦元年十一月二十日帰洛。居東山大谷の別業卜す。しずかに西方浄土の迎接を待つ。

同三年正月三日。老病空らに期蒙昧之臻。所待所憑寔悦哉。高声念仏不退也。 或時聖人相語弟子云。我昔有天竺。交声聞僧常行頭陀。本者是在極楽世界。今来于日本国。学天台宗。又勧念仏。身心無苦痛。蒙昧忽分明。

同三年正月三日、老病空(そ)らに蒙昧の臻(いたる)を期せり。待つ所憑む所、寔(まこと)に悦哉。高声念仏不退也。
ある時聖人弟子と相い語りて云く。我れ昔天竺に有り。声聞僧に交わりて常に頭陀を行ず。本は是れ極楽世界に在り、今、日本国に来り天台宗を学し、また念仏を勧む。身心苦痛無く蒙昧は忽(たちまち)に分明なり。


十一日辰時。端座合掌念仏不絶。即告弟子云。高声念仏各可唱。観音勢至菩薩聖衆現在此前。如阿弥陀経所説。随喜雨涙渇仰融肝。尽虚空界之荘厳遮眼。転妙法輪之音声満耳。

十一日辰の時、端座合掌し念仏絶えず。即ち弟子に告げて云く、高声念仏おのおの唱ふべし、観音・勢至菩薩聖衆 現に此の前に在します。『阿弥陀経』所説の如し。随喜涙を雨ふらし渇仰肝に融(とお)る。尽虚空界の荘厳、眼を遮し、転妙法輪の音声耳に満つ。

至于同二十日。紫雲聳上方。円円雲鮮其中。如図絵仏像。道俗貴賤遠近緇素。見者流感涙。聞者成奇異。 同日未時。挙目合掌。自東方見西方事五六度。弟子奇而問云。仏来迎歟。聖人答云。然也。二十三四日。紫雲不罷。弥広大聳。西山の売炭老翁。荷薪樵夫。大小老若見之。

同二十日に至り、紫雲上方に聳(そび)え、円円の雲其の中に鮮かなり、図絵の仏像の如し。道俗貴賤遠近の緇素、見る者感涙を流し、聞く者は奇異を成ず。
同日未の時、目を挙げ合掌、東方より西方を見る事五六度。弟子あやしみて問うて云く、仏の来迎歟。聖人答て云く、然りと也。


二十三四日。紫雲不罷。弥広大聳。西山の売炭老翁。荷薪樵夫。大小老若見之。

二十三四日、紫雲罷(や)まず。いよいよ広く大きににたなびく。西山の炭売の老翁、薪を荷う樵夫、大小老若これを見る。

二十五日午時許。行儀不違。念仏之声漸弱。見仏之眼如眠。紫雲聳空。遠近人人来集。異香薫室。見聞之諸人仰信。臨終已到。慈覚大師之九条袈裟懸之。向西方唱云。一一光明遍照十方世界。念仏衆生摂取不捨 云云 停午之正中也。三春何節哉。釈尊唱滅聖人唱滅。彼者二月中句五日也。此者正月下旬五日也。八旬何歳哉。釈尊唱滅聖人唱滅。彼八旬也。此八旬也。

二十五日、午の時ばかりに、行儀たがわず、念仏の声漸く弱し、見仏の眼、眠るがごとし、紫雲空にたなびく、遠近の人人来り集まる、異香室に薫ず。見聞の諸人仰いで信ず。臨終已に到りて、慈覚大師の九条の袈裟これを懸けて、西方に向ふて唱えて云く。「一一光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」{観経} 云云
停午の正中也。三春何れの節ぞ哉。釈尊滅を唱えたまふ。聖人滅を唱まふ。彼は二月中句五日也、此れは正月下旬五日也。八旬何れの歳ぞ哉。釈尊滅を唱まふ。聖人滅を唱まふ。彼八旬也、此も八旬也。

園城寺長吏法務大僧正公胤。爲法事唱導之時。其夜告夢云。

園城寺の長吏法務大僧正公胤、法事の爲にこれを唱導する時、其の夜夢に告げて云く。

源空爲教益 公胤能説法 感即不可尽 臨終先迎摂。
源空本地身 大勢至菩薩 衆生教化故 来此界度度。

源空教益の為に 公胤能く法を説く 感即ち尽すべからず 臨終に先づ迎摂せむと。
源空本地身 大勢至菩薩 衆生教化の故に 此の界に来たること度度(たびたび)。

此故勢至来見名大師聖人。所以讃勢至言無辺光。以智慧光普照一切故。嘆聖人称智慧第一。以碩徳之用潤七道故也。 弥陀動勢至。爲済度之使。善導遣聖人。整順縁之機。定知。十方三世無央数界有情無情。遇和尚興世初悟五乗済入之道。三界虚空四禅八定天王天衆。依聖人誕生忝抜五衰退没之苦。何況末代悪世之衆生。依弥陀。称名之一行悉遂往生素懐。源空聖人伝説興行故也。 仍爲来之弘通勧之

此の故に勢至来見を大師聖人と名づく。このゆえに勢至を讃めて無辺光と言ふ。智慧光を以って普く一切を照らす故に、聖人を嘆じて智慧第一と称す、碩徳の用を以って七道を潤ほすが故也。
弥陀は勢至を動かして、済度の使となしたまへり、善導は聖人を遣わして、順縁の機を整のへ下へり。定めて知ぬ、十方三世無央数界有情・無情、和尚に遇(あ)ふて世に興ず。初めて五乗済入の道を悟る、三界・虚空・四禅・八定・天王・天衆、聖人の誕生に依て忝(かたじけな)く五衰退没の苦を抜く、いわんや末代悪世の衆生、弥陀称名の一行に依て、悉(ことごと)く往生の素懐を遂げむ、源空聖人伝説興行の故也。
よって、ここに来れることはこれを弘通し勧めんが為なり。

南無釈迦牟尼仏 南無阿弥陀如来
南無観世音菩薩 南無大勢至菩薩
南無三部一乗妙典 法界衆生平等利益

源空聖人私日記

三機分別

浄土願生者を、「信心決定した」者と「信行を兼ねた」者、「行相だけの」者の三種に区分して、その信心決定への様相を説く。信心をまことに決定した者は、仏恩報謝の念仏をはげみ、信心決定しても、なおその信心のさしゆるぐものは、いよいよ信心を決定するための念仏をすべきを勧める。そして、信心弱くして決定を獲ない者には、ひとえに信心を獲るための念仏を勧めている。このように信を強調するのは、在家での仏教は、仏教の教理の理解や絶え間ない念仏修行を主とすべきではなく、信心の上に築き上げるべきものだと思われていたからであろう。親鸞聖人は、後にこれを発展展開なさるのである。なお、この法語は、信を強調し信後の念仏を御恩報謝とするので、一念を強調された幸西大徳かその門下の法語ともいわれるが、相手の機根に応じての対機説法を得意とする法然聖人であったから聖人のものと見てもよいと思ふ。なお、幸西大徳は仏智と冥会する一念の信を強調されたがいわゆる一念義ではないとされる。

和尚[4]の御釈によるに、決定往生の行相に、三の機のすぢわかれたるべし。第一に信心決定せる、第二に信行ともにかねたる、第三にただ行相ばかりなるべし[5]

第一に信心決定せる機といふは、これにつきて又二機あり。
一にはまづ精進の機といふ者(は)、又これにつきて二機あり。
一には弥陀の本願を縁ずる[6]に、一声に決定しぬと、こころのそこより真実に、うらうらと[7]、一念も疑心なくして、決定心をえてのうへに、一声に不足なしとおもへども、仏恩を報ぜむとおもひて[8]、精進に念仏のせらるるなり。また信心えての上には、はげまざるに念仏はまふさるべき也。
この行者の中には、信心えたりとおもふて、その上によろこぶ念仏とおもへども、いまだ信心決定せぬ人もあるべし。それおばわがこころに勘(かむがへ)しられぬべき事也[9]。たとひ信心はとづかず[10]とも、念仏ひまなきかたより往生はすべし[11]

二には上にいふがごとく、決定心をえての上に、本願によて往生すべき道理おばあおいでのち、わがかたより、わが信心をさしゆるがして、かく信心をえたりとおもひしらず、われ凡夫なり、仏の知見のまへには、とづかずもあるらむと、[12]こころかしこくおもふて、なほ信心を決定せむがために、念仏をはげむなり。決定心をえふせての上に、わがこころをうたがふは、またく疑心とはなるべからざる也[13]。精進の二類の機、かくのごとし。これおば第二の信行ならべる行相の機としるべし。

次に懈怠の機といふは、決定心をえての上に、よろこびて仏恩を報ぜむがために、常に念仏せむとおもへども、あるいは世業衆務にもさえられ、また地体懈怠のものなるがゆへに、おほかた念仏のせられぬ也。この行者は一向信心をはげむべき也。
はげむ機につきて、また精進懈怠のものあるべし。精進といふは、常に本願の縁ぜらるべき也。縁ずればまた自然に、いさぎよき念仏も申さるべし。この念仏は最上の念仏也。これをあしくこころえて、この念仏の最上におぼゆれば、この念仏ぞ往生おもし、また願にも乗ずらむと、おもはむはわるし。そのゆへは、仏の御約束[14]、一声もわが名をとなえむものをむかえむといふ御ちかひにてあれば、最初の一念[15]こそ、願には乗ずることにてあるべけれ。
また常に本願の縁ぜらるれば、たのもしきこころ[16]もいでくべき也。その時このこころのよく相続のせらるればとて、それをもて往生すべしとおもふべからず。かくのごとくおもはば、疑惑になるべきなり。こころのゆるからむときは、往生の不定におぼゆべきがゆへに、ただおもふべきやうは、我かたより一分の功徳もなく、本願の御約束にそなえしところの念仏の功徳も、瞋恚のほむらにやけぬれども、かの願力の不取正覚の本誓の、あやまりなきかたよりすくわれまいらせて、往生はすべしと、返返もおもふべき也[17]

懈怠のものといふは、衆務にさまたげられもせよ、本願を縁ずる事のまれにあるべきなり。まれにはありといふとも、いささかも一念にとるところの信心のゆるがずして、その時は又決定心のおこるべきなり。信心決定の中の二類の機、かくのごとし。これは第一の信心決定せる機としるべし。

今上にあぐるところの四人、真実に決定をだにもえたらば、精進にてもあれ、懈怠の機にてもあれ、本願を縁ずるこころねは、たとへば、黒雲のひま[18]より、まれにてもつねにても、いでむところの満月の光を、みむがごとくなるべし。信心の得・不得をば、おのおのわが心にてしりぬべし。事にふれて、一念にとるところの信心ゆるがずば、仮令(およそ)よき信心としるべし。これもことわりばかりにて信心あり、こころゆるぐべからずと、まじなひつけむ事は、要あるべからず。散心につけても、いささかにてもゆるぐこころあらば、信心よはしとしるべし。信心よはしとおぼえば、懈怠の機はなほ信をはげむで本願を縁ずべき也。それになほかなはずば、かまへて行相におもむきてはげむべきなり。精進の機は、一向恒所造の行相におもむきて、はげむべきなり。行相は正・助二行を、一向正行にても、また助業をならべむとも、おのおの意楽にまかすべき也。

第三に行相をはげむ機といふは、上にあぐるところの信精進懈怠の機の、我信心決定せるやうを、こころによくよくあむじほどく時、我信心決定せず、ややもすれば行業のおこるにつけ、信心の間断するにつけて、往生の不定におぼゆるまではなけれども、また決定往生すべしともおぼえぬは、信心の決定せざるなりと(かむが)えて、一向行におもむきてはげむをいふなり。
この機は、懈怠のいでき、念仏のものうからむ時は、おどろきて行をはげむべきなり。信心もよはく、念仏もおろそかならば、往生不定のものなり。この人またあしくこころえて行をはげむは、この行業をもて往生すべしとおもはば、疑惑になるべきなり。
今念仏の行をはげむこころは、つねに念仏あざやかに申せば、念仏よりして信心のひかれていでくる也。信心いできぬれば、本願を縁ずる也。本願を縁ずれは、たのもしきこころのいでくる也。このこころいできぬれば、信心の守護せられて、決定往生をとくべしとこころうべし。

これにつきて、人うたがひていはく、念仏をはげみて、信心を守護して往生をとぐべきならば、はげむところの念仏は、自力往生とこそなるべけれ、いかが他力往生といふべきや。今自力といふは、聖道自力にすべからず、いささかあたえて[19]いえるなるべし。

(こたえて)いはく、念仏を相続して、相続より往生をするは、またく自力往生にはあらず。そのゆへは、もとより三心は本願にあらず[20]、これ自力なり。三心は自力なりといふは、本願のつなにおびかれて[21]、信心の手をのべて、とりつく分をさすなりとこころうべし。今念仏を相続して、信心を守護せむとするに、三心の中の深心をはげむ行者也。相続の念仏の功徳をもちて、迴向して往生を期せば、まことに自力往生をのぞむものといはるべきなり。[22]
また念仏はすれども、常に信心もおこらず、願を縁ずる事の、つねにもなければとて、往生を不定におもふべからず。そのこころなけれども、ただ自力を存せず、すべて疑惑のこころなくして、常に念仏すれば、我こころにはおぼえねども、信心のいろのしたひかりて、相続するあひだ、決定往生をうるなりとしるべし。そのこころは、たとへば、月のひかりのうすくもにおほはれて、満月の体はまさしくみえずといゑども、月のひかりによるがゆへに、世間くらからざるがごとし。[23]

行相の三機のやう、かくのごとし。詮ずるところ、信心よはしとおもはば、念仏をはげむべし。決定心えたりとおもふての上に、なほこころかしこからむ人は、よくよく念仏すべし。また信心いさぎよくえたりとおもひて、のちの念仏おば別進奉公[24]とおもはむにつけても、別進奉公はよくすべき道理あれば、念仏をはげむべし。[25]地体は我こころをよくよく按じほどいて、行にても信にても、機にしたがひて、たえむにまかせてはげむべき也。かくのごとくこころをえてはげまば、往生は決定はづるべからざる也。

鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事

鎌倉の二位とは、源頼朝の妻である北条政子のこと。念仏はあらゆる人の為の教えであり、愚かな人だけに説いたものではないとして念仏を勧める。また、『法事讃』を引用して末法には念仏が盛んになるが、それを謗る人が出てくるといわれ、念仏を謗る人が出てきた事を窺わせる内容になっている。
かまくらの二品比丘尼[26]。聖人の御もとへ。念仏の功徳をたつね申されたりけるに、御返事。

御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。念仏の功徳は、仏もときつくしかたしとのたまへり。また智慧第一の舎利弗、多聞第一の阿難も、念仏の功徳はしりかたしとのたまひし。広大の善根にて候へは、まして源空なとは、申つくすへくも候はす。

源空この朝にわたり候仏教を、随分にひらきみ候へとも、浄土の教文、震旦よりとりわたして候、聖教のこころをたにも、一年二年なとにては、申つくすへくもおほえ候はす。さりなから、おほせたまはりたることなれは、申のへ候へし。

まつ念仏を信せさる人人の申候なる事、くまかへの入道、つのとの三郎の、無智のものなれはこそ、余行をせさせす、念仏はかりおは、法然房はすすめたれと申候なる事、きわめたるひかことにて候也。そのゆへは、念仏の行は、もとより有智・無智をえらばず、弥陀のむかしとちかひたまひし大願は、あまねく一切衆生のため也。無智のためには念仏を願とし、有智のためには余行を願としたまふ事なし。十方世界の衆生のためなり。有智・無智・善人・悪人・持戒・破戒・貴賤・男女もへたてす、もとは仏の在世の衆生、もしは仏の滅後の衆生、もしは釈迦末法万年ののちに、三宝みなうせての後の衆生まて、たた念仏はかりこそ、現当の祈祷とはなり候へ。善導和尚は弥陀の化身にて、ことに一切の聖教をかかみて、専修の念仏をすすめたまへるも、ひろく一切衆生のため也。方便時節末法にあたりたるいまの教これなり。されは無智の人の身にかきらず、ひろく弥陀の本願をたのみて、あまねく善導の御こころにしたかひて、念仏の一門をすすめ候はむに、いかに無智の人のみにかきりて、有智の人おはへたてて、往生せさせしとはし候はむや。
しからすは、大願にもそむき、善導の御こころにもかなふへからす。しかれはすなわち、この辺にまうできて[27]、往生の道をとひたつね候にも、有智無智を論せす、ひとへに専修念仏をすすめ候也。かまえてさやうに専修の念仏を、申ととめむとつかまつる人は、さきの世に、念仏三昧の得道の法門をきかすして、後世にまた、さためて三悪におつへきものの、しかるへくしてさやうに申候也。そのゆへは、聖教にひろくみへて候。しかれはすなわち、修行することあるをみては、毒心をおこし、方便してきおふて怨をなす。かくのことくの生盲闡提のともから、頓教を毀滅して、なかく沈淪す、大地微塵劫を超過すとも、いまた三途の身をはなるることをえすと、ときたまへり。

見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨
如此生盲闡提輩 毀滅頓教永沈淪
超過大地微塵劫 未可得離三途身
大衆同心皆懺悔 所有破法罪因縁[28]

この文の心は、浄土をねかひ、念仏を行する人をみては、毒心をおこし、ひかことをたくみめくらして、やうやうの方便をなして、専修の念仏の行をやふりあたをなして、申ととむるに候也。かくのことくの人は、むまれてより仏性のまなこ[29]しひて、善のたねをうしなへる、闡提人のともからなり。
この弥陀の名号をとなえて、なかき生死をはなれて、常住の極楽に往生すへけれとも、この教法をそしりほろほして、この罪によりて、なかく三悪道にしつむとき、かくのこときの人は、大地微塵劫をすくれとも、なかく三途の身をはなれむこと、あるへからすといふ也。
しかれはすなわち、さやうにひかこと申候らむ人おは、かへりてあはれみたまふへきもの也。[30]さほとの罪人の申によりて、専修念仏に懈怠をなし、念仏往生にうたかひをなし、不審をおこさむ人は、いふかひなきことにてこそ候はめ。

凡そ縁あさく、往生の時いたらぬものは、きけとも信せす、念仏のものをみれは、はらたち、声を聞て、いかりをなし、悪事なれども、経論にもみえぬことを申也。御こころえさせたまひて、いかに申とも、御こころかはりは候へからす。あなかちに信せさらむ人おは、御すすすめ候へからす。かかる不信の衆生をおもへは、過去の父母・兄弟・親類也とおもひ候にも、慈悲をおこして、念仏かかで[31]申て、極楽の上品上生にまいりて、さとりをひらき。生死にかへりて、誹謗不信の人おもむかへむと、善根を修しては、おほしめすへき事にて候也。このよしを御こころえあるへきなり。

一。異解の人人の余の功徳を修するには、財宝あひ助成しておほしめすへきやうは、我はこの一向専修にて、決定して往生すへき身なり。他人のとおき道を、わかちかき道に結縁せさせむと、おほしめすへき也。その上に専修をさまたけ候はねは、結番せむにも、とがなし。[32]

一。人人の堂をつくり、仏をつくり、経をかき、僧を供養せむ事は、こころみたれすして、慈悲をおこして、かくのこときの雑善根おは、修せさせたまへと、御すすめ候へし。

一。このよのいのりに、念仏のこころをしらすして、仏神にも申し、経おもかき、堂おもつくらむと、これもさきのことく、せめてはまた後世のために、つかまつらはこそ候はめ。その用事なしとおほせ候へからす、専修をさえぬ行にてもあらざりけりとも、おほしめし候へし。

一。念仏申事、やうやの義は候へとも、六字をとなふるに、一切をおさめて候也。心には願をたのみ、口には名号をとなえて、かずをとるはかりなり。常に心にかくるか、きわめたる決定の業にて候也。念仏の行は、もとより行住座臥時処諸縁をえらはす、身口の不浄おもきらはぬ行にて候へは、楽行往生とは申つたへて候也。たたしこころをきよくして申おは、第一の行と申候なり。浄土をこころにかくれは、心浄の行法にて候也。さやうに御すすめ候へし。つねに申たまひ候はむをは、とかく申へきやうも候はす、我身なからも、しかるへくて、このたひ往生すへしと、おほしめして、ゆめゆめこのこころつよくならせたまふへし。

一。念仏の行を信せぬ人にあひて論し、あらぬ行の異計の人人にむかひて執論候へからす。あなかちに異解・異学の人をみては、あなつりそしること候まし。いよいよ重罪の人になし候はむこと、不便に候。同心に極楽をねかひ、念仏を申人おは、卑賤の人なりとも、父母の慈悲におとらすおほしめし候へし。今生の財宝のともしからむにも、力をくわへたまふへし。

さりなからも、すこしも念仏にこころをかけ候はむおは、すすめたまふへし。これ弥陀如来の御みやつかへと、おほしめすへく候也。如来滅後よりこのかた、小智小行にまかりなりて[33]候也。われもわれもと、智慧ありがほに申人は、さとり候べし[34]。せめては録[35]の経教おもききみず、いかにいはむや録のほかのみさる人の、智慧ありかほに申は、井のそこの蛙ににたり。
随分に震旦・日本の聖教をとりあつめて、このあひた勘へて候也。念仏信せぬ人は、前世に重罪をつくりて、地獄にひさしくありて、また地獄にはやくかへるへき人なり。たとひ千仏世にいてて、念仏よりほかに、また往生の業ありと、おしへたまふとも、信すへからす。これは釈迦弥陀よりはしめて、恒沙の仏の証誠せしめたまへることなれはと、おほしめして、御こころさし金剛よりもかたくして、一向専修の御変改あるへからす。もし論し申さむ人おは、これへつかはして、たて申さむやうを[36]きけと候へし。やうやうの証文かきしるして、まいらすへく候へとも、たたこころこれにすき候へからす。また娑婆世界の人は、よの浄土をねかはむことは、弓なくして空の鳥をとり、足なくしてたかきこすゑの華をとらむかことし。かならす専修の念仏は、現当のいのりとなり候也。これ略してかくのことし。これも経の説にて候。御中の人人には、九品の業を、人のねかひにしたかひて、はしめおはりたえぬへきほとに、御すすめ候へきなり。あなかしこあなかしこ。

四箇条問答

阿弥陀如来の慈悲と名号が諸仏に優れていること、そして本願の体と用について問答形式で表されている。覚師の『執持鈔』で「されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」とある。

或人云、阿弥陀仏の慈悲・名号、余仏に勝れ、并に本願の体用の事。

「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」[37]云云 十方衆生と云は、諸仏教化にもれたる常没の衆生也。この衆生をあわれみおぼしめすかたに、諸仏の御慈悲も、阿弥陀仏の御慈悲におなじかるべし。これは総願[38]に約す。別願[39]に約する時は、阿弥陀仏の御慈悲は、余仏の慈悲にすぐれたまへり。そのゆへは、この常没の衆生を、十声・一声の称名の功力を以て、無漏の報土へ生ぜしめむと云御願によて也。阿弥陀仏の名号の、余仏の名号にすぐれたまへると云も、因位の本願にたてたまへる名号なるがゆへに、勝れたまへり[40]。しからずは、報土の生因となるべからす、余仏の名号に同ずべし。

(そもそも)、阿弥陀仏の本願と云は、いかなる事ぞと云に、本願と云は、総別の願に通すといゑとも、言総意別[41]にて、別願をもて本願にはなづくる也。本願と云ことは、もとのねがひと訓ずる也。もとのねがひと云は、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を、一声の称名のちからをもて、称してむ衆生を、我国に生ぜしめむと云こと也。かるがゆへに本願といふなり。

問。本願について、体用[42]あるべし、その差別いかんぞ。

答。本願と云は、因位に、われ仏になりたらむときの名を、となへむ衆生を、極楽に生ぜしめむと、ねがひたまへるゆへに、法蔵菩薩の御こころをもて、本願の体とし、名号をもては、本願の用とす。これは十劫正覚のさき、兆載永劫の修行をはじめ、願をおこしたまへる時の、法蔵菩薩に約して、体用を論する也。今は法蔵菩薩は、因位の願成就して、果位の阿弥陀仏となりたまへるがゆへに、法蔵菩薩おはしまさざれば、法蔵菩薩に約して、本願の体用を論すべきにあらず。ただし、あたえて云へば、本願の体用あるべし。
体と云について、二のこころあるべし。 一には行者をもて本願の体とし、二には名号をもて本願の体とす。まづ行者をもて本願の体とすと云は、法蔵菩薩の本願に、成仏したらむ時の名[43]、一声も称してむ衆生を、極楽に生ぜしめむと、願じたまへるがゆへに、今信じて一声も称してむ衆生は、かならず往生ずべし。この能称の行者の往生するところをさして、行者をもて本願の体とすとは、こころうべきなり。

問。我仏に成たらむ時の名を、称ぜむものを生ぜしめむと、本願には立たまへるがゆへに、名号を称する者を、やがて本願の体ともこころうへしや。

答。これについて、与奪の義あるべし。与て云へば、行者の正蓮台にうつりて往生するところをもて、本願の体とし、奪て云へば、往生すべき行者なるがゆへに、当体能称の者をさして、本願の体とすべし。行者について本願の体と云時は、別に用の義なし。蓮台に詫(たく)して、往生已後の増進仏道をもて用とす。これは極楽にての事也。

次に名号をもて本願の体とすと云は、これも成仏の時の名を称せむ衆生を、生ぜしめむと願じたまへるがゆへに、信じて名を唱(となえ)てむ衆生は、かならず生ずべければ、名号をもて本願の体と云也。名号を唱つる衆生の往生するは、名号の用也。今名号をもて本願の体とすと云は、法蔵菩薩の御こころのそこをもて、本願の体とすといひつる時は、用といはれつる名号也。しかるを、今はまさしく名号をもては本願の体と云也。
体用の義は、事によりてかはるなり。

喩ば、ともしびのひかりをもてこころうべし。ともしびのあかくもえあがりたるは、火の体なり。灯によりて闇はれて、明なるところの光は、火の用なり。この光の明なるをもて体とする時は、その明の中に、黒白等の一切の色形のみゆるは、明の用なり。かくのごとく用をもて体とも云事、常の事なり、しるへし。
行者の往生するをもて、本願の体と云ことは、実には名号を称せずして往生すべき道理なし、名号によて往生すべし。しかりといゑども、かくのごときの事は、約束によりて云時は、行者の往生をもて本願の体ともいはるべし。名号を本願の体と云時は、称ずる行者の往生するは、名号の用なり。しかれは行者は、あるいは本願の体、あるいは名号の用にも決定すべきなり。この道理によて、本願の体に約してこころうれは、本願や行者、行者や本願、本願や名号、名号や本願[44]と、ただ一に混乱するなり。用に約してこころへつれば、名号や行者、行者や名号といはるべし。詮ずるところは、体なくは用あるべからず、用は体によるがゆへに、本願と行者、ただ一(ひとつ)ものにて、一としてはなれざるなり。

問。法蔵菩薩の本願の約束は、十声・一声なり。一称ののちは、法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけて、名号おば称すべからざるにや。

答。無沙汰なる人は、かくのごとくおもひて、因位の願を縁じて念仏おも申せは、これをしえたるここちして、願を縁ぜざる時の念仏[45]おば、ものならずおもふて、念仏に善悪をあらす[46]るなり。これは無按内[47]のことなり。法蔵菩薩の五劫の思惟は、衆生の意念を本とせば、識揚神飛[48]のゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名号を本願と立たまへり。この名号はいかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に、心をかけむとせざれとも、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。しかれば、別に因位の本願を縁ぜむと、おもふべきにあらず。

問。本願と本誓と、その差別いかんぞ。

答。我成仏の時の名を称せむ衆生を、生ぜしめむと云は、本願也。もしむまるまじまくは、仏にならじと云は、本誓也。総じて四十八願は、法蔵菩薩のむかしの本願也。この願にこたへたまへる仏果円満の今は、第十九の来迎の願にかぎりて[49]、化度衆生の御方便はおはしますべきなりと云なり。阿弥陀仏の名号は、余仏の名号に勝れたまへり、本願なるがゆへなり。本願に立たまはずば、名号を称すとも、無明を破せざれば、報土の生因となるべからず。諸仏の名号におなじかるべし。
しかるを阿弥陀仏は、「乃至十念 若不生者 不取不覚」[50]とちかひて、この願成就せしめむがために、兆載永劫の修行をおくりて、今已に成仏したまへり。この大願業力のそひたるがゆへに、諸仏の名号にもすぐれ、となふれば、かの願力によりて、決定往生おもするなり。かるがゆへに、如来の本誓をきくに、うたがひなく往生すべき道理に住して、南無阿弥陀仏と唱てむ上には、決定往生とおもひをなすべきなり。
たとへば、たきもの[51]のにほひの薫ぜる衣を身にきつれば、みなもとはたきもののにほひにてこそありと云とも、衣のにほひ身に薫ずるがゆへに、その人のかうばしかりつると云がごとく、本願薫力のたきものの匂は、名号の衣に薫し、またこの名号の衣を、一度南無阿弥陀仏とひききてむものは、名号の衣の匂、身に薫するかゆへに、決定往生すべき人なり。
大願業力の匂と云は、往生の匂なり。大願業力の往生の匂、名号の衣よりつたわりて行者の身に薫ずと云道理によりて、『観経』には、「若念仏者 当知此人 是人中分陀利華」[52]と説(とける)なり。念仏の行者を蓮華に喩ふことは、蓮華は不染の義、本願の清浄の名号を称すれば、十悪五逆の濁(にごり)にもそまらざるかたを、喩たるなり。
また「観世音菩薩 大勢至菩薩 爲其勝友」[53]と云へり。文のこころは、これも往生の匂身に薫ぜる行者は、かならず往生すべし。これによて善導和尚も、三心具足の者おば、極楽の聖衆に接したまへり。極楽の聖衆と云は、因中説果の義[54]なり。聖衆となる道理あれば、当時よりして、二菩薩も肩をならべ膝をまじえて、勝友となりたまふと、いふこころなり。命終の已後は、往生して仏果菩提を証得すべきによて、「当座道場 生諸仏家」[55]と、ときたまへり。かるがゆへに、一念に無上の信心をえてむ人は、往生の匂の薫ぜる名号の衣を、いくえともなくかさねきむとおもふて、歓喜のこころに住して、いよいよ念仏すべしと云へり。


  康元元年 丙辰 十月十四日
  愚禿親鸞 八十四歳 書写之



末註

  1. 凝然(1240~1321)の『淨土法門源流章』には法然聖人滅後に「源空大徳門人非一。各揚淨教。互恣弘通。倶立門葉。横竪傳燈」(源空大徳の門人は一に非ず。おのおの浄教を揚かげ、互に弘通を恣にし、倶に門葉を立て、横竪に灯を伝う)とあるように、当時から一念・多念の争いなど、浄土宗の領解に違いがあったのであろう。特に一念義と多念義は水火の如く諍っていたので、このような諍論/闘諍を制止する為に全不可群会一所者とされたと思われる。また、親鸞聖人が京都へお帰りにならなかったのも、このような法然聖人の意に従ったのであろう。『歎異抄』で、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」とあるのも群会することを嫌われたのであろう。
  2. 御開山の御消息、第四十三通(本願寺派注釈聖典p.808)に「聖人(源空)の二十五日の御念仏も」云々とある。まさに法然聖人の御命日には、なんまんだぶを明らかにして下さった「真宗の教証、片州に興す。選択本願悪世に弘む」の、法然聖人の遺徳を偲ぶとともに、自らの往生の正定の行業として、なんまんだぶを称える集会を営んだことは、この「起請没後二箇条事」に随順ずることであったといえるであろう。
  3. 「法然聖人御夢想記」にこの夢告についての詳述あり。当時は内心に持つ決断を促すために、夢というレム睡眠によって表象される現象を重視したのであろう。
  4. 善導大師を指すのであろう。
  5. ①信心決定した機、②信行を兼ねた機、③行相のみの機、の三分類の仕方は、少しく複雑である。①の信心決定せる機を「精進」と「懈怠」に分け、その二種の中の精進の機をさらに二種に分けている。
    そして、①の精進の機の中に「精進の二類の機、かくのごとし。これおば第二の信行ならべる行相の機としるべし」とあり、②の、信行ともにかねたる機を収めていのであろう。本願の教説を受け容れる者は、たとえば「信心決定した」者と「信行を兼ねた」者の満月の光に照らされる者も、「行相ばかり」で、月のひかりのうすくも(薄雲)におほはれる者も、阿弥陀仏の摂取不捨の光明を受けている者であった。
  6. 縁ずる。◇心とその働きが弥陀の本願に向かって働き常にその姿をとること。縁ずる
  7. うらうら。◇心ののどかなさま。うららかに。のどかに。ほがらかに。はからいなく。
  8. 一声の行の一念を決定往生の一念とし、二声以降を報恩の称名とする一念業因、多念報恩説があったことが判る。この説を誤解すると最初の一念(一声)に固執して、多念の称名を否定する悪しき一念義に陥る。選択本願の称名は一声一声が無上の功徳であり、法然聖人は「信をば一念にむまるととりて、行をは一形にはげむべし。」(『和語灯録』禅勝房にしめす御詞 )と、されていた。いわゆる、信心正因、称名報恩説も、このような一念義の思想の傾向を受けた説であろう。
  9. 信心を得たか得ないかは自分の心に求めても判らないものである。信心は自分の心にうちに詮索するものではないからである。
  10. とづかず=◇途着かずで、信心が至りとどいていないという意味。「届く」の未然形である「届か」に、打消の助動詞「ぬ」の連用形が付いた形で届かずの意か。心の底にまで信が徹透していないという意になる。または、図付かずで、このばあい図は企図で、信心に、もとづかないの意になる。
  11. 念仏は本願に誓われてある行であるから、それを受け容れて念仏している者は、信心の有る無しを論ずることなく往生するのである。
  12. 仏智深きが故に我が領解を浅しとする立場。蓮如上人に「細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せ」(御文章2-1)とあるのもその意であろう。
  13. 法然聖人には、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」(徒然草所収)という法語があるが、念仏往生の願によって〔なんまんだぶ〕を称える者は、すでに本願を受け容れた行者である。自らの心が拵えた疑いという枠を越えた世界から、届けられ行じられる行業であるから、念仏〔なんまんだぶ〕すれば、自然に往生の業因は決定するのであった。
  14. この約束は仏と仏との約束(本願)であって、衆生との約束ではないからこちら側の思いは雑じえない。
  15. この最初の一念の解釈が一念義とされるか。親鸞聖人の信一念釈における初発の義に近い。
  16. たのみになる。心強い。あてにできる。
  17. 第十八願の「若不生者 不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」という衆生の往生と仏の正覚を一体に誓われている文によって、全分他力の意をあらわす。正当な一念義とは、また全分他力説でもあったことが判る。
  18. ひま。物と物との間で、ここでは黒雲の間からという意。
  19. あたえて。自らの感じとか気持などを持たせて、という意。
  20. この三心とは『観経』の至誠心、深心、回向発願心の三心を指す。『観経』の三心は『無量寿経』に誓われた第十八願の、至心、信楽、欲生の三信ではないから本願にあらず、とし自力とする。
  21. 誘(おび)かてれ。◇誘引されて。引き寄せられて。自力念仏の信心ではあるが、本願に誘引されて、たのもしきこころのいでくるが故に疑いが破れて、決定往生の他力の信心である深心が成就していくというのであろう。ここでは、『観経』の三心を深心一心におさめて本願の信心とされておられる。
  22. 念仏は本願の行であるから、自然に往生の業となるので不回向である。親鸞聖人はこれを発展させて本願力回向であるから不回向とされた。
  23. この譬えは御開山の「正信念仏偈」の譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇(たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。)に通じている。
  24. 通常以上に特別に本願に心を向け随順すること。
  25. 御開山の御消息(25)の、「往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よくよく御案候ふべし。このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。」と符合している。
  26. 源頼朝の妻である従二位の政子。建保六年(1218)十月に従二位に叙せられたのでこの消息の表題は後で付けられたものか。頼朝の死(1199)をきっかけとして出家したという。
  27. 詣できて。お出でになって。
  28. 修行することあるを見ては瞋毒を起し、方便破壊して競ひて怨を生ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず。大衆同心にみな、あらゆる破法罪の因縁を懺悔せよ。『法事讃』
  29. 仏性を見る眼。
  30. ◇親鸞聖人の御消息(27)。「念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとは申され候ひしか。」の、「ふるきひと」とは、この法然上人の法語を指すのであろう。
  31. かかで。欠かさないで。
  32. 差し支えありません。
  33. まかりなりて。◇ここでは、釈尊入滅後、智慧も行も劣ってきているという意味。罷(まか)る+成る。
  34. 覚ったのであろうか。
  35. 大蔵経の目録。
  36. ◇わたしが浄土宗を立てた理由を
  37. 第十八願文。たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。
  38. 総願。別願に対する語で大乗菩薩が発す総括的な願。四弘誓願がこれにあたる。
  39. 別願。仏・菩薩が独自に建てる特別な誓願。別意の願ともいう。善導大師は「玄義分」で「しかるに娑婆の化主(釈尊)、その請によるがゆゑに、すなはち広く浄土の要門を開く。安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰す。」と、『観経』は釈尊の教説と阿弥陀仏の別意の弘願をとく経であるとされた。なお、源信僧都は「第十八の願は別願のなかの別願」とされた。
  40. 阿弥陀仏の本願に、我が名である、なんまんだぶを称えた者を、我が浄土へ生まれさせしむとあるから余仏の名号に簡異して勝れている。
  41. 言総意別(言は総じて意は別なり)。願という言葉によってまとめて説かれているが、その意味はそれぞれ別だということ。別願という固有名詞で表現することを本願と普通名詞であらわすという意。
  42. 体用(たい-ゆう)。仏教で使われる概念で本体とその作用のこと。現象(事)とその内奥の本体(理)のこと。用ははたらきの意。たとえば、水と水面に起こる波を考察すれば、水は「体」であり波はその「用」であるというようなもの。
  43. 成仏したらむ時の名。なんまんだぶのこと。
  44. 覚如上人の『執持鈔』に「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」とあるのは、これを引用されたのであろうか。
  45. 心にしっかり本願を思い浮かべないで称える念仏の意。縁ずるとは、対象を認識するという意味。
  46. あると思って。(生(あ)らす、生ずるの意か)。
  47. 物事の意味や事情などを心得ないこと。
  48. 識揚がり神飛ぶ。心のはたらきがうわつき、精神がつねに動揺すること。『礼讃』の文。
  49. 臨終に来迎に依って正念に住せしめる願は、阿弥陀如来の願のみにあり諸仏にはないという意か。「かぎりて」を極限、限界の意とすれば臨終の意になるか。
  50. すなわち十念に至るまでせん。もし生れずは、正覚を取らじ。
  51. 薫物(たきもの)。衣に薫ずるために焚く香のこと。
  52. もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。『観経』流通分の文。
  53. 観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。『観経』流通分の文。
  54. 因の中に果を説くこと。果として得べき事を因において表現すること。ここでは、観世音菩薩・大勢至菩薩を勝友とするのは因において果を説く因中説果ということ。
  55. まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし。→前記の文の次下の文。