操作

「和語灯録」の版間の差分

提供: 本願力

1行目: 1行目:
 +
===黑谷上人語燈錄第十一===
 
<span style="font-size:X-large;font-weight:bold;">黑谷上人語燈錄第十一</span>{并}<span style="font-size:X-large;font-weight:bold;">序</span><br />
 
<span style="font-size:X-large;font-weight:bold;">黑谷上人語燈錄第十一</span>{并}<span style="font-size:X-large;font-weight:bold;">序</span><br />
 
厭欣沙門了惠集錄
 
厭欣沙門了惠集錄
24行目: 25行目:
 
往生大要抄 第三
 
往生大要抄 第三
  
===三部經釋===
+
====三部經釋====
 
{{Comment|異本に、真宗高田派に秘蔵されていた『三部経大意』(聖全四)があり、至誠心を総の自力の至誠心と別の他力の至誠心に分けて釈されている。この『三部經釋』にはそれがない。注意すべきである。なお、『三部経大意』のテキストは[http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E9%83%A8%E7%B5%8C%E5%A4%A7%E6%84%8F WikiArc]にある。}}
 
{{Comment|異本に、真宗高田派に秘蔵されていた『三部経大意』(聖全四)があり、至誠心を総の自力の至誠心と別の他力の至誠心に分けて釈されている。この『三部經釋』にはそれがない。注意すべきである。なお、『三部経大意』のテキストは[http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E9%83%A8%E7%B5%8C%E5%A4%A7%E6%84%8F WikiArc]にある。}}
 
三部經釋 第一
 
三部經釋 第一
89行目: 90行目:
  
 
<br />
 
<br />
===御誓言の書(一枚起請文)===
+
====御誓言の書(一枚起請文)====
  
 
御誓言の書
 
御誓言の書
98行目: 99行目:
 
これは御自筆の書なり、勢觀聖人にさづけられき
 
これは御自筆の書なり、勢觀聖人にさづけられき
  
===往生大要抄===
+
====往生大要抄====
  
 
往生大要抄
 
往生大要抄
178行目: 179行目:
  
 
<span style="font-size:X-large;font-weight:bold;">黑谷上人語燈錄卷第十一</span>
 
<span style="font-size:X-large;font-weight:bold;">黑谷上人語燈錄卷第十一</span>
 +
 +
===黑谷上人語燈錄第十二===
  
 
<span style="font-size:X-large;font-weight:bold;">黑谷上人語燈錄卷第十二</span>
 
<span style="font-size:X-large;font-weight:bold;">黑谷上人語燈錄卷第十二</span>
190行目: 193行目:
 
淨土宗畧抄第八<br />
 
淨土宗畧抄第八<br />
  
===念佛往生要義抄===
+
====念佛往生要義抄====
 
念佛往生要義抄
 
念佛往生要義抄
  
255行目: 258行目:
  
 
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛
 
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛
 +
 +
 +
===黑谷上人語燈錄第十三===
 +
厭欣沙門{了惠}集錄
 +
 +
和語第二之三{當卷有四章}
 +
 +
九條殿下の北政所へ進する御返事 第九<br />
 +
鎌倉の二位の禪尼へ進する御返事 第十<br />
 +
要義問答 第十一<br />
 +
大胡太郞へつかはす御返事第 十二<br />
 +
 +
 +
===黑谷上人語燈錄卷第十四===
 +
厭欣沙門{了惠}集錄
 +
 +
和語第二之四{當卷有九章}
 +
 +
大胡太郞の妻室へつかはす御返事 第十三<br />
 +
熊谷の入道へつかはす御返事 第十四<br />
 +
津戸三郞へつかはす御返事 第十五<br />
 +
黑田の聖へつかはす御返事 第十六<br />
 +
越中の光明房へつかはす御返事 第十七<br />
 +
正如房へつかはす御文 第十八<br />
 +
禪勝房にしめす御詞 第十九
 +
 +
 +
 +
 +
===黑谷上人語燈錄卷第十五===
 +
厭欣沙門{了惠}集錄
 +
 +
和語第二之五{當卷有三章}
 +
 +
一百四十五箇條問答 第二十二<br />
 +
上人と明遍との問答 第二十三<br />
 +
諸人傳説の詞 第二十四{御歌附}

2012年3月19日 (月) 14:54時点における版

黑谷上人語燈錄第十一

黑谷上人語燈錄第十一{并}
厭欣沙門了惠集錄

しつかにおもむみれば、良醫のくすりはやまひのしなによてあらはれ、如來の御のりは機の熟するにまかせてさかりなり。日本一州淨機純熟して朝野遠近みな淨土に歸し、緇素貴賤ことことく往生を期す。その濫觴をたつぬれは、天國排開廣庭天皇{欽明}の御世に、百濟國より釋迦彌陀の靈像はしめてこの國にわたり給へり。
釋迦は撥遣の敎主、彌陀は來迎の本尊なれは、二尊心をおなしくして、往生のみちをひろめむがためなるへし。しかれは小墾田天皇{推古}の御時、聖德太子二佛の御意にしたかはせ給ひて、七日彌陀の名號を稱して、祖王{欽明}の恩を報じ、御文を善光寺の如來へたてまつり給ひしかは、如來みつから御返事ありき。太子の御消息にいはく

名號穪揚七日已 此是爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
如來の御返事にいはく
一念穪揚恩無留 何况七日大功德
我待衆生心無間 汝能濟度豈不護

太子つゐに往生の瑞相をあらはして、利益を四海にしめし給ひき。そののち大炊の天皇の御時、彌陀觀音化し來りて、極樂の曼陀羅ををりあらはして、往生の本尊とさためをき給ふ。ここに六字の功德粗あらはれて、二尊の本意やうやくひろまりしかは、慈覺・慈惠等の聖人、みな極樂をねがひてさり給ひき。
惠心僧都は楞嚴の月の前に往生の要文をあつめ、永觀律師は禪林の花の下に念佛の十因を詠して、をのをの淨土の敎行をひろめ給ひしかとも、往生の化道いまたさかりならさりしに、中比黑谷の上人勢至菩薩の化身として、はじめて彌陁の願意をあきらめ、もはら稱名の行をすすめ給ひしかは、勸化一天にあまねく、利生万人にをよふ。淨土宗といふ事は、この時よりひろまりけるなり。
しかれは往生の解行をまなふ人みな上人をもて祖師とす。ここにかのながれをくむ人おほき中に、をのをの義をとることまちまちなり。いはゆる餘行は本願か本願にあらざるか、往生するやせすや、三心のありさま二修のすがた、一念多念のあらそひなり。まことに金鍮しりがたく、邪正いかてかわきまふへきなれは、きくものをほく源をわすれて流にしたがひ、新を貴てふるきをしらず。
『尚書』にいへることあり、人貴舊器貴新、予この文におどろきて、薄(いささか)上人のふるきあとをたつねて、寢(やや)近代のあたらしきみちをすてんとおもふ。よて或はかの書狀をあつめ、或は書籍にのするところの詞を拾ふ。やまとことははその文見やすく、その意さとりやすし。
ねかはくはもろもろの往生をもとめん人これをもて燈として、淨土のみちをてらせと也。もしおつるところの書あらは、後賢かならすこれに續け。
時に文永十二年正月廿五日、上人遷化の日、報恩の心ざしをもていふことしか也。

和語 第二之一{當卷有三章}

三部經釋 第一
御誓言書 第二
往生大要抄 第三

三部經釋

異本に、真宗高田派に秘蔵されていた『三部経大意』(聖全四)があり、至誠心を総の自力の至誠心と別の他力の至誠心に分けて釈されている。この『三部經釋』にはそれがない。注意すべきである。なお、『三部経大意』のテキストはWikiArcにある。

三部經釋 第一

『雙卷經』、『觀經』、『阿彌陀經』、これを淨土三部經といふ。『雙卷經』には、まづあみたほとけの四十八願をとく。のちに願成就をあかせり。その四十八願といふは、法藏比丘、世自在王佛の御まへにして、菩提心ををこして、淨佛國土・成就衆生の願をたて給ふ。およそその四十八願に、あるひは無三惡趣ともたて、あるひは不更惡趣ともとき、あるひは悉皆金色ともいふはみな、第十八の願のためなり。
その第十八願といは、「設我得佛、十方衆生、至心信樂欲生我國、乃至十念、若不生者不取正覺」といへるは、四十八願の中に、この願ことに勝たりとす。そのゆへは、かの國にもしむまるる衆生なくは、悉皆金色無有好醜等の願も、なにによてか成就せん。往生する衆生のあるにつきてこそ、身のいろも金色に好醜ある事もなく、五通をも具し、宿命をもさとるべけれ。
これによて善導釋しての給はく、「法藏比丘四十八願をたて給ひて、願々にみな、若我得佛十方衆生 穪我名號願生我國 下至十念 若不生者不取正覺。四十八願に一一にみなこの意あり」{玄義分}と釋し給へり。をよそ諸佛の願といふは、上求菩提下化衆生の心なり。大乘經にいはく、「菩薩願有二種、一上求菩提、二下化衆生也。其上求菩提、本意爲易濟度衆生」{云云}
しかれはたた本意は下化衆生の願にあり。いま彌陀如來の國土を成就し給ふも、衆生を引接せんがためなり。總していつれのほとけも成佛已後は内證・外用の功德、濟度利生の誓願いづれもいづれもみなふかくして、勝劣ある事なけれども、菩薩の道を行し給ひし時の、善巧方便のちかひはこれまちまちなる事也。その中に彌陀如來は、因位の時、もはらわが名號を念せんものをむかへんとちかひ給ひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向し給ふ。濁世のわれらが依怙、末代の衆生の出離、これにあらずはなにをか期せんや。
これによてかのほとけも、みつから「我建超世願」となのり給へり。三世の諸佛も、いまたかくのこときの願をはをこし給はす。十方の薩埵もいまたこれらの願はましまさす。
「斯願若尅果 大千應感動 虚空諸天人 當雨珍妙花」とちかひしかば、大地六種に震動し、天より花ふりて、なんぢまさに正覺なり給ふへしとつけたりき。法藏比丘いまた成佛し給はすとも、この願うたがふへからす。いかにいはんや成佛已後十劫になり給へり。信ぜすはあるへからす。
「彼佛今現在世成佛 當知本誓重願不虚 衆生稱念必得往生」{礼讃}と釋したまへるはこれなり。
「諸有衆生 聞其名號 信心歡喜 乃至一念 至心廻向 願生彼國 即得往生 住不退轉 唯除五逆誹謗正法」{文} これは第十八の願成就の文なり。
願には乃至十念ととくといへとも、まさしく願成就の中には、一念にありとあかせり。又次に三輩往生の文あり。これは第十九の臨終現前の願成就の文なり。發菩提心等の業をもて三輩をわかつといへとも、往生の業は通してみな一向專念無量壽佛といへり。これすなはちかのほとけの本願なるかゆへ也。
また「其佛本願力 聞名欲往生 皆悉到彼國 自致不退轉」といふ文あり。漢朝に玄通律師といふものありき。小戒をたもてるものなり。遠行して野寺に宿したりけるに、隣房に人ありてこの文を誦す。玄通これをききて一兩遍誦してのち、をもひいだす事もなくてわすれにけり。そののちこの玄通律師戒をやふれり。そのつみによて閻魔の廳にいたる時、閻魔法王の給はく、なんぢ佛法流布のところにむまれたりき、所學の法あらばすみやかにとくへしとて、高座にのぼせ給ひき。その時玄通高座にのぼりておもひめくらすに、すへて心におほゆる事なし。野寺に宿してききし文あり。これを誦せんとおもひいでて、「其佛本願力」といふ文を誦したりしかは、閻魔法王たまのかふりをかたふけて、これはこれ西方極樂の彌陀如來の功德をとく文なりといひて、禮拜し給ひき。願力不思議なる事この文に見へたり。

「佛語彌勒 其有得聞 彼佛名號 信心歡喜 乃至一念 當知此人 爲得大利 即是具足 無上功德」{文}
彌勒菩薩にこの經を付屬し給ふには、乃至一念するをもて、大利無上の功德との給へり。經の大意これらの文にあきらかなるものなり。

次に『觀經』には。定善・散善をときて念佛をもて阿難に付屬し給ふ。「汝好持是語」といへるはこれなり。
第九の眞身觀に、「光明徧照十方世界 念佛衆生攝取不捨」といふ文あり。濟度衆生の願は平等にして差別ある事なけれとも、無縁の衆生は利益をかうふる事あたはず。
このゆへは彌陀善逝平等の慈悲にもよほされて、光明あまねく十方世界をてらして、一切衆生にことことく縁をむすはしめんがために、光明無量の願をたて給へり。第十二の願これなり。又名號をもて因として衆生を引接し給ふ事を、一切衆生にあまねくきかしめむがために、第十七の願に、「十方世界の無量の諸佛、ことことく咨嗟してわか名を稱せすといはは正覺をとらし」と誓給ひて、次に第十八の願に、「乃至十念若不生者不取正覺」とたて給へり。これによて釋迦如來この土にしてとき給ふがことく、十方にも。をのをの恒河沙のほとけましましておなしくこれをしめし給へるなり。しかれは光明の縁はあまねく十方世界をてらしてもらすことなく。又十方世界の無量の諸佛。みな名號を稱讃し給へは、きこえすといふところなし。
「我至成佛道 名聲超十方 究竟靡所聞 誓不成正覺」とちかひ給ひしはこのゆへなり。しかれは光明の縁と、名號の因と和合せは、攝取不捨の益をかうふらんことうたがふへからず。このゆへに『往生禮讃』の序にいはく、
「諸佛所證平等是一 若以願行來收 非無因縁然 彌陀世尊 本發深重誓願 以光明名號 攝化十方」といへり。
又この願ひさしく衆生を濟度せんがために、壽命無量の願をたて給へり。第十三の願これなり。惣しては光明無量の願は、橫に一切衆生をひろく攝取せんがためなり。壽命無量の願は、竪に十方世界をひさしく利益せんがためなり。かくのこときの因縁和合すれば、攝取の光明の中に又化佛菩薩ましまして、この人を常に攝護して、百重千重に圍繞し給ふに、信心いよいよ增長し、衆苦ことことく消滅す。又臨終の時ほとけみつから來迎し給ふに、もろもろの邪業繫よくさふるものなし。これは衆生いのちをはる時にのぞみて、百苦きたりせめて、身心やすき事なく、惡縁ほかにひき、妄念うちにもよほして、境界自躰當生の三種の愛心きをひをこる。第六天の魔王この時にあたりて、威勢ををこしてもてさまたげをなす。
かくのこときの種種のさはりをのぞかんかために、かならす臨終の時にはみつから菩薩聖衆に圍繞せられて、その人のまへに現ぜんとちかひ給へり。第十九の願これ也。

これによて臨終の時いたれば、ほとけ來迎し給ふ。行者これを見たてまつりて、心に歡喜をなして、禪定にいるがことくして、たちまちに觀音の蓮臺に乘して、安養の寳ちにいたる也
これらの益あるがゆへに、「念佛衆生攝取不捨」といふなり。又この經に「具三心者必生彼國」ととけり。三心といは、一には至誠心、二にに深心、三には廻向發願心なり。
三心はまちまちにわかれたりといへとも、要をとり詮をえらんてこれをいへは、深心におさめたり。
善導和尚釋しての給はく、「至といは眞なり、誠といは實なり。一切衆生の身口意業に、修するところの解行、かならす眞實心の中になすへき事をあかさんとす、ほかに賢善精進の相を現して、うちに虚假をいだく事をえざれ」といへり。
その解行といは、罪惡生死の凡夫、彌陀の本願によて、十聲・一聲决定してむまると眞實に解て行するこれなり。ほかには本願を信する相を現し、うちには疑心をいたく。これは不眞實の心なり。

「深心はふかく信する心也。决定してふかく自身は現にこれ罪惡生死の凡夫なり。曠劫よりこのかたつねに流轉して出離の縁なしと信じ、决定してふかくこの阿彌陀如來、四十八願をもて衆生を攝取し給ふ事、うたかひなくおもんばかりなけれは、かの願力に乘してさためて往生する事をうと信すへし」といへり。
はしめにまづ罪惡生死の凡夫、曠劫よりこのかた出離の縁ある事なしと信せよといへるは、これすなはち斷善闡提のことくなるもの也。かかる衆生の一念十念すれは、無始よりこのかたいまだいでさる生死の輪廻をいでて、かの極樂世界の不退の國土にむまるといふによりて信心はおこるべきなり。をよそほとけの別願の不思議はこれ凡心のはかるところにあらす。唯佛と佛とのみよくしり給へり。阿彌陀佛の名號をとなふるによて、五逆十惡ことことくむまるといふ別願の不思議のちからまします、たれかこれをうたがふべき。
善導の疏にいはく、「あるひは人ありて、なんち衆生曠劫よりこのかた、をよひ今生の身口意業に、一切の凡聖の身のうへにをいて、つぶさに十惡・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等のつみをつくりて、いまたのぞきつくす事あたはす。しかもこれらのつみは三界惡道に繫屬す。いかんそ一生の修福念佛をもて、すなはちかの無漏無生の國にいりて、ながく不退のくらゐを證悟する事をえんやといはば、いふべし。諸佛の敎行はかす塵沙にこえたり、禀識の機縁隨情ひとつにあらず。たとへは世間の人のまなこに見つへく信しつへきがこときは、明よく暗を破し、空よく有をふくむ。地よく載養し、水よく生潤し、火よく成壞するがことし。 かくのごときらの事ことことく待對の法となづく。すなはちみつから見るべし千差萬別なり。いかにいはんや佛法不思議のちから、あに種種の益なからんや」といへり。 極樂世界に水鳥樹林の微妙の法をさへつるは不思議なれとも、これらはほとけの願力なれはと信して、なんそたた第十八の乃至十念といふ願をのみうたがふべきや。
惣して佛説を信せは、此も佛説なり。かの『花嚴』の三無差別、『般若』の盡淨虚融、『法花』の諸法實相、『涅槃』の悉有佛性、たれか信せさらんや。かれも佛説なり、これも佛説也、いづれをか信じ、いつれをか信ぜさらんや。それ三字の名號はすくなしといへとも、如來所有の内證外用の功德、万億恒沙の甚深の法門をこのうちにおさめたり、たれかこれをはかるへきや。

『疏』の玄義分にこの名號を釋していはく、「阿彌陀佛といは、これ天竺の正音、ここには翻して無量壽覺といふ。無量壽といは、これ法、覺といは、これ人、人法ならへてあらはす。かるがゆへに阿彌陀佛といふ。人法といは所觀の境也、これにつゐて依報あり正報あり」といへり。しかれははしめ彌陀如來、万德無漏の所證の法門より、觀音・勢至・普賢・文殊・地藏・龍樹、乃至かの土の菩薩・聲聞等にいたるまて、そなへ給へるところの事理の觀行、定惠の功力、内證の智惠外用の功德、みなことことく三字の中におさまれり。されば極樂界にいづれの法門か、もれたるところあらん。
しかるにこの三字の名號をは、諸宗をのをのわか宗に釋しいれたり。眞言には阿字本不生の義、四十二字を出生せり。一切の法は阿字をはなれる事なきかゆへに功德甚深の名號といへり。天台宗には空假中の三諦、正了縁の三義、法報應の三身、如來所有の功德、これをいでざるがゆへに功德莫大なりといへり。

かくのことく諸宗をのをのわか存するところの法につゐて、阿彌陀の三字を釋せり。いまこの宗の意は、眞言の阿字本不生の義も、天台の三諦一理の法も、三論の八不中道の旨も法相の五重唯識の意も、惣して森羅の万法ひろくこれを攝すとならふ。
極樂世界にもれたる法門なきかゆへに、たたしいま彌陀本願の意は、かくのことくさとれとにはあらす。ただふかく信心をいたしてとなふるものをむかへんとなり。耆婆・扁鵲か万病をいやすくすりは、もろもろの木、よろづの草をもて合藥せりといへとも、病者これをさとりて、その藥木何分、その藥草何兩和合せりとしらす。しかれとも是を服するに万病ことことくいゆるかことし。たたうらむらくはこのくすりを信ぜすして、わかやまひはきはめてをもし、いかかこの藥にてはいゆる事あらんとうたかひて服せすんは、耆婆か醫術も、扁鵲か秘方も、むなしくしてその益あるべからざるがことく、彌陀の名號もかくのことし。それ煩惱惡業のやまひきはめてをもし、いかかこの名號をとなへてむまるることあらんと、うたかひてこれを信ぜすは、彌陀の誓願、釋尊の所説むなしくして、そのしるしあるべからず。たたあふきて信ずべし。良藥をえて服さすして死することなかれ。崑崙の山にゆきて、玉をとらずしてかへり、栴檀のはやしにいりて枝をよぢすしていでなは後悔いかかせん。
みつからよく思量すべし。そもそもわれら曠劫よりこのかた佛の出世にもあひけん。菩薩の化道にもあひけん。過去の諸佛も現在の如來もみなこれ宿世の父母也。多生の朋友なり。

しかるにかれはすてに菩提を證し給へるに、われはなにによて生死にはととまれるそと、はつべしはつべし、かなしむべしかなしむべし。本師釋迦如來の衆生大罪のやまにいり、邪見のはやしにかくれて、三業放逸に、六情縱蕩ならん者を、わか國土にとりをきて、敎化度脱せしめむとちかひ給ひたりしは、そもそもいかにしてかかる衆生をは、度脱せしめむとちかひたもふぞとたづぬれは、阿彌陀如來の因位無諍念王と申せし時菩提心ををこし、衆生をして生死を過度せしめんとちかひ給ひて、すなはち國をもくらゐをもすてて、攝取衆生の願ををこし給ひしに、釋迦如來は其時寳海梵志と申て、無諍念王の臣下なりしが、同じく菩提心ををこして、われかならす穢土にして正覺をなりて、惡業の衆生を引導せんとちかひ給ひてこの願ををこし給へる也。曠劫よりこのかた諸佛出世して、縁にしたかひ機をはかりて、をのをの衆生を化度し給ふ事、かづ塵沙にすきたり。あるひは大乘をとき、小乘をとき、あるひは實敎をひろめ、權敎をひろむ。有縁の機はみなことことくその益をう。ここに釋尊八相成道を五濁惡世にとなへて、放逸邪見の衆生の出離その期なきをあはれみて、これより西に極樂世界あり、佛まします阿彌陀となづけたてまつる。この佛は乃至十念若不生者不取正覺とちかひ給ひて、佛になり給へり。

すみやかに念せよ。出離生死のみちをほしといへとも、惡業煩惱の衆生の、とく生死をはなるる事、この門にすぎたるはなしとをしへて、ゆめゆめうたかふ事なかれ。六方恒沙の諸佛も證誠し給ふなりと。
ねんころにをしへ給ひて、われもしひさしく穢土にあらは、邪見放逸の衆生、われをそしりわれをそむきて、かへりて惡道におちなん。濁世にいでたる事は、本意たたこの事を衆生にきかしめんかためなりとて、阿難尊者に、なんちよくこの事を遐代に流通せよとねんころに約束しをきて、跋提河のほとり、沙羅林のもとにして、八十の春の天、二月十五の夜半に、頭北面西にして滅度に入給ひき。その時に日月ひかりをうしなひ、草木いろを變し、龍神八部・禽獸・鳥類にいたるまて、天にあふきてなき、地にふしてさけふ。阿難・目連等のもろもろの大弟子等、悲泣のなみたををさへてあひ議していはく、釋尊の恩になれたてまつりて、そこはくの春秋ををくりき、化縁ここにつきて、黄金のはだへたちまちにへたたり給ひぬ。あるひはわれら世尊に問たてまつるに答へ給へる事もあり、あるひは釋尊みつから告給ふ事もありき、濟度利生の方便、いまはたれにむかひてか問たてまつるべき。すべからく如來の御ことはをしるしをきて未來にもつたへ、御かた見ともせんといひて、多羅葉をひろひて、ことことく是をしるしをきしを、三藏たちこれを譯して唐土にひろめ、本朝へつたへたまふ。諸宗に學するところの一代聖敎これ也。しかるに阿彌陀如來、善導和尚となのりて、唐土にいてて、
「如來出現於五濁 隨宜方便化群萠 或説多聞而得度 或説小解證三明 或敎福惠雙除障 或敎禪念坐思量 種種法門皆解脱 無過念佛往西方 上盡一形至十念 三念五念佛來 迎直爲彌陀弘誓重 致使凡夫念即生」{法事讃}との給へり。
釋尊出世の本懷、たたこの事にありといふべし。「自信敎人信 難中轉更難 大悲傳普化 眞成報佛恩」といへは釋尊の恩を報するも、また唯この念佛にありといふべし。
もしこのたひむなしくすきなは、出離いつれの時をか期せんとする、すみやかに信心ををこして生死を過度すべし。

次に廻向發願心といは、人ことに具しつべき事なり。國土の快樂をききてたれかねかはさらんや。そもそもかの國土に九品の差別あり、われらいつれの品をか期すへき。善導和尚の御意は極樂は是報土、彌陀は是報佛なり。されは未斷惑の凡夫は、すべてむまるへからすといへとも、彌陀別願の不思議にて、罪惡生死の凡夫、一念十念してすなはちむまると釋し給へり。しかるを上古よりこのかた、おほく下品といふとも足ぬべしといひて上品をねがはす。これは惡業のをもきををそれて心を上品にかけさる也。
もしそれ惡業によらは惣て往生すへからず、願力によてむまれなはなんそ上品にすすまん事をかたしとせん。それ彌陀淨土をまうけ給事は、願力の成就するゆへなり。しかれはこれ念佛の衆生のむまるべきくになり、乃至十念若不生者不取正覺とたて給ひて、此願によて感得し給ふところなるかゆへなり。
今此觀經の九品の業をいはは、下品は五逆十惡の罪人、臨終の時はしめて善知識のすすめによて、あるひは十聲、あるひは一聲、稱念してむまるる事をえたり。しかるにわれら罪業をもしといへとも五逆をはつくらす、行業をろそかなりといへとも一聲・十聲にすぎたり。臨終よりさきに彌陀の誓願を聞得て、隨分に信心をいたす。されは下品まてはくだるべからず、中品は小乘の持戒の行者、及世間の孝養父母・仁・義・禮・智・信等の行人なり。この品には中なかにむまれかたし、小乘の行人にもあらず、またたもちたる戒もなけれはわれらか分にあらず。上品は大乘の凡夫、菩提心等の行なり。菩提心は諸宗をのをの其意へ同じからず。
淨土宗の意は、淨土にむまれんとねかふを菩提心といふ。又念佛はすなはちこれ大乘の行なり、無上功德なり。しかれば上品往生は手をひくべからず。又本願に乃至十念とたて給ひて、臨終現前の願に大衆に圍繞せられてその人のまへに現せんとたて給へり。中品は聲聞衆の來迎、下品は化佛の三尊、あるひは金蓮花等の來迎なり。
しかるを大衆に圍繞せられて現せんとたて給へる本願の意趣は、上品の來迎をまうけ給へり、なんぞあなかちにあひすまはんや。又善導和尚、「三萬已上は上品上生の業」との給へり。數遍によて上品にむまるへし。又三心につゐて九品あるへし、信心によて上品にむまるへしと見えたり。上品をねかふ事は、わか身のためにはあらず、かのくににむまれをはりて、かへりてとく衆生を化せんかためなり。これあにほとけの御意にかなはさらんや。

次に『阿彌陀經』は、まつ極樂の依正の功德をとく。これ衆生の願樂の心をすすめんかためなり。のちに往生の行をあかすに、少善根をもては、むまるる事をうべからず。阿彌陀佛の名號を執持して一日七日すれは、往生する事をうとあかせり。衆生これを信せさらん事ををそれて、六方にをのをの恒河沙の諸佛ましまして、大千に舌相をのへて證誠し給へり。善導釋していはく、「この證によてむまるる事をえすは、六方如來ののへ給へる舌、ひとたひ口よりいてをわりて、ながくくちに還りいらすして、自然に壞爛せん」との給へり。しかれは是をうたかはんものは、彌陀の本願をうたかのふみにあらす、釋尊の所説をうたかふなり。釋尊の所説をうたかふは、六方恒沙の諸佛の所説をうたかふなり。すなはち是大千にのへ給へる舌相を壞爛する也。もし又是を信せは、たた彌陀の本願を信するのみにあらす釋尊の所説を信するなり。釋尊の所説を信するは、六方恒沙の諸佛の所説を信する也。一切の諸佛を信するは、一切の法を信するになる。一切の法を信するは、一切の菩薩を信するになる。これすなはち一切の三寳を信するなり、この信ひろくして廣大の信心なり。
善導和尚のいわく、
爲斷凡夫疑見執 皆舒舌相覆三千 共證七日稱名號 又表釋迦言説眞六方 如來舒舌證專稱名號 至西方到彼 花開聞妙法 十地願行自然彰 心心念佛莫生疑 六方如來證不虚 三業專心無雜亂 百寳蓮花應時見{法事讃}


御誓言の書(一枚起請文)

御誓言の書

もろこしわか朝に、もろもろの智者たちの沙汰し申さるる、觀念の念にもあらす、又學問をして念の心をさとりて申す念佛にもあらす。
たた往生極樂のためには、南無阿彌陀佛と申して、うたかひなく往生するそとおもひとりて、申すほかには別の子細候はす。たたし三心四種なと申す事の候は、みな决定して、南無阿彌陀佛にて往生するそと思うちにこもり候なり。
このほかにおくふかき事を存せは、二尊の御あはれみにはつれ、本願にもれ候へし。念佛を信せん人は、たとひ一代の御のりをよくよく學すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともからにおなしくして、智者のふるまひをせすしてたた一向に念佛すへし
これは御自筆の書なり、勢觀聖人にさづけられき

往生大要抄

往生大要抄

いまわか淨土宗には、二門をたてて釋迦一代の説敎をおさむるなり。いはゆる聖道門、淨土門なり。はしめ『花嚴」『阿含」より、をはり『法花』『涅槃』にいたるまで、大小乘の一切の諸經にとくところの、この娑婆世界にありなから、斷迷開悟のみちを、聖道門とは申すなり。是につきて大乘の聖道あり、小乘の聖道あり。大乘に二あり、即佛乘と、菩薩乘と也。小乘に二あり、即聲聞と、縁覺との二乘なり。これをすへて四乘となつく。佛乘とは即身成佛の敎なり。眞言・達磨・天台・花嚴等の四宗にあかすところなり。すなはち眞言宗には、父母所生身速證大覺位{菩提心論}と申して、この身なから、大日如來のくらいにのほるとならふ也。
佛心宗には、前佛後佛以心傳心とならひて、たたちに人の心をさしてほとけと申なり。かるがゆへに即心是佛の法となつけて、成佛とは申さぬなり。この法は釋尊入滅の時『涅槃經』をときをはりてのち、たた一偈をもちて迦葉尊者に付囑し給へる法なり。
天台宗には、「煩惱即菩提、生死即涅槃」と觀して、觀心にてほとけになるとならふ也。八歳の龍女か南方無垢世界にして、すみやかに正覺をなりしその證なり。
花嚴宗には、「初發心時便成正覺」とて、また即身成佛とならふなり。これらの宗にはみな即身頓證のむねをのぶれは、佛乘となつくる也。つきに菩薩乘といは、歷劫修行成佛の敎なり、三論・法相の二宗にならふところなり。すなはち三論宗には、八不中道の無相の觀に住して、しかも心には四弘誓願ををこし、身には六波羅蜜を行して、三阿僧祇に菩薩の行を修してのち、ほとけになると申す也。
法相宗には、五重唯識の觀に住して、しかも四弘ををこし、六度を行して三祇劫をへて、佛になると申す也。これらを菩薩乘となつく。つきに縁覺乘といは、飛花落葉を見て、ひとり諸法の無常をさとり、あるひは十二因縁を觀して、ときは四生、をそきは百劫にさとりをひらくなり。
つきに聲聞乘といは、はしめ不淨・數息を觀するより、をはり四諦の觀にいたるまて、ときは三生、をそきは六十劫に、四向三果のくらゐをへて、大阿羅漢の極位にいたる也。此二乘の道は、成實・倶舍の兩宗にならふところ也。又聲聞につきて戒行をそなふべし。比丘は二百五十戒を受持し、比丘尼は五百戒を受持するなり。これを五篇七聚の戒となつくる也。又沙彌・沙彌尼の十戒式、式沙摩尼の六法、優婆塞・優婆夷の五戒みなこれ律宗の中にあかすところ也。
をよそこの四乘の聖道は大小乘をえらはず、われらか身にたへ、時にかなひたる事にてはなき也。もし聲聞のみちにをもむかは、二百五十戒たもちかたく、苦・集・滅・道の觀成しかたし。もし縁覺の觀をもとむとも、飛花落葉のさとり、十二因縁の觀、ともに心もをよばぬ事也。又菩薩の行にをゐては、三聚・十重の戒發得しかたく、四弘・六度の願行成就しかたし。されは身子は六十劫まて修行して、乞眼の惡縁にあひて、たちまちに菩薩の廣大の心をひるかへしき、いはんや末法のこのころをや、下根のわれらをや。たとひ即身頓證の理を觀すとも、眞言の入我我入、阿字本不生の觀、天台の三觀・六即・中道。實相の觀、花嚴宗の法界唯心の觀、佛心宗の即心是佛の觀。理はふかく、解はあさし。
かるかゆへに末代の行者その證をうることきはめてかたし。このゆへに道綽禪師は「聖道の一種は今の時は證しかたし」とのたまへり。すなはち『大集月藏經』をひきて、そのありさまをあかせり。こまかにのふるにをよはず。

つきに淨土門は、まづこの娑婆世界をいとひすてて、いそぎてかの極樂淨土にむまれて、かのくににして佛道を行する也。しかれはかつかつ淨土にいたるまての願行をたてて、往生をとぐへき也。
かの國にむまるる事は、すべて機の善惡をえらはす、たたほとけのちかひを信し、信せさるによる。五逆・十惡をつくれるものも、たた一念十念に往生するは、すなはちこのことはり也。このゆへに道綽は、「たた淨土の一門のみありて、通入すべきみちなり」と釋し給へり。
通しているべしといふにつきて、わたくしに意うるに二つの心あるべし。一にはひろく通し、二にはとをく通す。ひろく通ずといは、五逆の罪人をあけてなを往生の機におさむ、いはんや餘の輕罪をや、いかにいはんや善人をやと意えつれは、往生のうつはものにきらはるるものなし。かるかゆへにひろく通すといふ也。とをく通すとい☆、末法萬年ののち法滅百歳まて、この敎ととまりて、その時ききて、一念するみな往生すといへり、いはんや末法のなかをや、いかにいはんや正法・像法をやと意えつれは、往生の時にもるる世なし。かるがゆへにとをく通すといふなり。
しかれはこのころ生死をはなれんとおもはんものは、難證の聖道をすてて、易往の淨土をねかふへき也。又この聖道淨土をは、難行道・易行道となつけたり。たとへをとりてこれをいふに、難行道とは、さかしきみちをかちよりゆかんかことし。易行道とは、海路をふねよりゆくかことしといへり。しかるに目しゐ足なえたらんものは、陸地にはむかふへがらず、たたふねにのりてのみ、むかひのきしにはつくへきなり。しかるにこのころのわれらは、智惠のまなこしゐ、行法のあしなえたるともから也。
聖道難行のさかしきみちには、すへてのそみをたつべし。たた彌陀本願のふねにのりてのみ、生死のうみをわたりて、極樂のきしにはつくべきなり。いまこのふねといは、すなはち彌陀の本願にたとふる也。其本願といは、四十八願也。そのなかに、第十八の願をもて、衆生の行とさためたるなり。二門の大旨略してかくのことし。聖道の一門をさしをきて、淨土の一門にいらんとおもわん人は、道綽善導の釋をもて、所依の三部經を習ふへきなり。
さきには聖道淨土の二門を分別して、淨土門にいるべきむねを申ひらきつ。いまは淨土の一門につきて、修行すへきやうを申すへし。

淨土に往生せんとおもはは、心と行とのふたつ相應すへきなり。かるかゆへに善導の釋に、「たたしその行のみあるは、行すなはちひとりにして、またいたるところなし。たたその願のみあるは、願すなはちむなしくして、またいたるところなし。かならす願と行とあひたすけて、なすところみな剋すといへり。をよそ往生のみにかきらず、聖道門の得道をもとめんにも心と行とを具すへし」といへり。發心修行となづくるこれなり。
今此淨土宗に善導のこときは、安心起行となつけたり。まづその安心といは、『觀無量壽經』にといていはく、若衆生ありてかのくににむまれむとねかはんものは、三種の心ををこして即往生すへし。なにをか三とする、一には至誠心、二には深心、三には迥向發願心也。三心を具するものはかならすかのくににむまるといへり。善導和尚の『觀經の疏』、ならひに『往生禮讃』の序に、此三心を釋し給へり。

一に至誠心といは、まづ『往生禮讃』の文をいださは、一には至誠心。いはゆる身業にかのほとけを禮拜せんにも、口業にかのほとけを讃嘆稱揚せんにも、意業にかの佛を專念觀察せんにも、をよそ三業ををこすには、かならず眞實をもちゐよ。かるがゆへに至誠心となつくといへり。
つぎに『觀經の疏』の文をいたさは、一に至誠心といは、至といは、眞也。誠といは、實なり。一切衆生の身口意業の所作の解行、かならず眞實心の中になすべき事をあかさんとおもふ。外には賢善精進の相を現して、内には虚假をいだく事なかれ。善の三業ををこすはかならず眞實心の中になすべし。内外明闇をえらはず、みな眞實をもちひよといへり。
此二つの釋を、わたくしに料簡するに、至誠心といは、眞實の心なり。その眞實といは、内外相應の心也。身にふるまひ、口にいひ、意におもはん事、みな人めをかざる事なく、まことをあらはす也。しかるを人つねに、この至誠心を、熾盛心と意得て、勇猛強盛の心ををこすを、至誠心と申すは、此釋の心にはたかふ也。文字もかはり、意もかはりたるものを、されはとてその猛利の心は、すへて至誠心をそむくと申にはあらず。それは至誠心のうへの、熾盛心にてこそあれ。眞實の至誠心を地にして、熾盛なるはすぐれ、熾盛ならぬはおとるにてある也。是につきて九品の差別まてもこころうべき也。
されは善導の『觀經の疏』に九品の文を釋する下に、一一の品ことに、「辨定三心以爲正因」とさためて、「此三心は九品に通すべし」と釋し給へり。惠心も是をひきて、「禪師の釋のこときは、理九品に通すへし」とこそはしるされたれ。此三心の中の至誠心なれは、至誠心すなはち九品に通すへき也。又至誠心は、深心と廻向發願心とを體とす。この二をはなれては、なにによりてか、至誠心をあらはすへき。ひろくほかをたつぬへきにあらす。深心も廻向發願心もまことなるを至誠心とはなつくる也。
三心すてに九品に通すへしと意えてのうへには、その差別のあるやうをこころうるに、三心の淺深強弱によるへき也。かるかゆへに上品上生には、『經』{観経}に、「精進勇猛なかるかゆへに」ととき、『釋』{玄義分}には「日數すくなしといへとも、作業はげしきかゆへに」といへり。又上品中生をは、「行業ややよはくして」と釋し、上品下生をは、「行業こわからす」なと釋せられたれは、三心につきて、こわきもよはきもあるへしとこそこころえられたれ。よはき三心具足したん人は、くらゐこそさからんすれ、なを往生はうたかふべからさる也。
それに強盛の心ををこさすは、至誠心かけて、ながく往生すへからすと意えて、みだりに身をもくだし、あまさへ人をもかろしむる人ひとの不便におぼゆる也。
さらなり強盛の心のをこらんはめてたき事なり。『善導の十德』{漢語灯録巻九}の中に、はしめの至誠念佛の德をいだすにも、「一心に念佛してちからのつくるにあらさればやまず、乃至寒冷にもまたあせをなかす、この相狀をもて至誠をあらはす」なとあるなれは、たれたれもさこそははけむへけれ。たたしこの定なるをのみ至誠心と意えて、是にたがわんをは至誠心かけたりといはんには、善導のことく至誠心至極して、勇猛ならん人はかりぞ往生はとぐへき。われらかこときの尫弱の心にては、いかか往生すべきと臆せられぬへき也。 かれは別して善導一人の德をほむるにてこそあれ、これは通して一切衆生の往生を决するにてあれは、たくらふべくもなき事也。所詮はたたわれらかこときの凡夫、をのをの分につけて、強弱の眞實の心ををこすを至誠心となづけたるとこそ、善導の釋の意は見えたれ。

文につきてこまかに意うれは、外には賢善精進の相を現し、内には虚假をいたくことなかれといふは内には愚にして、外には賢相を現し、内には惡をのみつくりて、外には善人の相を現し、うちには懈怠にして、ほかには精進の相を現するを、虚假とは申す也。
外相の善惡をはかへりみず、世間の謗譽をはわきまへず、内心に穢土をもいとひ淨土をもねかひ、惡をもととめ、善をも修して、まめやかに佛の意にかなはん事をおもふを、眞實とは申也。
眞實は虚假に對することは也。眞と假と對し、虚と實と對するゆへなり。この眞實虚假につきてくはしく分別するに、四句の差別あるべし。
一には外をかさりて内にはむなしき人。二には外をもかさらす内もむなしき人。三には外はむなしく見えて内はまことある人。四には外にもまことをあらはし内にもまことある人。かくのこときの四人の中には、前の二人をはともに虚假の行者といふへし。
後の二人をはともに眞實の行者といふべし。しかれはたた外相の賢愚・善惡をはえらはす、内心の邪正・迷悟によるへき也。をよそこの眞實の心は、人ことに具しかたく、事にふれてかけやすき心ばへなり。をろかにはかなしといましめられたるやうもあることはり也。無始よりこのかた今身にいたるまて、おもひならはして、さしもひさしく心をはなれぬ名利の煩惱なれは、たたんとするにやすらかに離かたきなりけりと、おもひゆるさるかたもあれとも、又ゆるしはんへるへき事ならねは、わか心をかへりみて、誡なをすへき事なり。しかるにわか心の程もおもひしられ、人のうへをも見るに、この人目をかさる心はへの、いかにもいかにもおもひはなれぬこそ、返かえす心うくかなしくおぼゆれ。この世はかりをふかく執する人は、たたまなこのまへのほまれ、むなしき名をもあげんとおもはんをは、いふにたらぬ事にてをきつ、うき世をそむきて、まことのみちにをもむきたる人ひとの中にも、かへりてはかなくよしなき事かなとおほゆる事もある也。
むかしこの世を執する心のふかかりしなこりにて、ほどほどにつけたる名利をふりすてたるばかりを、ありかたくいみじき事におもひて、やかてそれを、この世さまにも心のいろのうるさきにとりなしてさとりあさき世間の人の、心のそこをはしらす、うへにあらはるるすがた事がらばかりを、たとかりいみしかるをのみ本意におもひて、ふかき山路をたつね、幽なるすみかをしむるまても、ひとすぢに心のしづまらんためとしもおもはで、をのつからたづねきたらん人、もしはつたへきかん人のおもはん事をのみさきだてて、まがきのうち庭のこだち、菴室のしつらひ、道塲の莊嚴なと、たとくめてたく、心ぼそく物あはれならむ事がらをのみ、ひきかまへんと執するほとに、罪の事も、ほとけのおほしめさん事をもかへりみす。人のそしりにならぬ樣をのみおもひいとなむ事よりほかにはおもひまじふる事もなくて、まことしく往生をねがふへきかたをは思もいれぬ事なとのあるが、やかて至誠心かけて、往生せぬ心ばへにてある也。 又世をそむきたる人こそ、中なかひじり名聞もありてさやうにもあれ。世にありながら往生をねかはん人は、此心は何ゆへにかあるへきと申す人のあるは、なをこまやかに心えざる也。世のほまれをおもひ、人めをかざる心はなに事にもわたる事なれは、ゆめまほろしの榮花重職をおもふのみにはかきらぬ事にてある也。
中なか在家の男女の身にて後世をおもひたるをは、心ある事のいみしくありかたきとこそは人も申す事なれは、それにつけて、外をかざりて人にいみじがられんとおもふ人のあらんもかたかるへくもなし。まして世をすてたる人なとにむかひては、さなからん心をも、あはれをしりかほにあひしらはんために、後世のおそろしさ、此世のいとはしさなんとは申すへきぞかし。

又か樣に申せは、ひとへにこの世の人めはいかにもありなんとて、人のそしりをもかへりみす、ほかをかさらねはとて、心のままにふるまふがよきと申すにてはなきなり。菩薩の譏嫌戒とて、人のそしりになりぬへき事をはなせそとこそいましめられたれ、さればはうにまかせてふるまへは、放逸とてわろき事にてあるなり。それに時にのぞみたる譏嫌戒のためはかりに、いささか人めをつつむかたは、わさともさこそあるへき事を、人目をのみ執してまことのかたをもかへり見す、往生のさはりになるまでに、ひきなさるる事の返かえすもくちおしき也。譏嫌戒となづけて、やかて虚假になる事もありぬへし。眞實といひなして、あまり放逸なる事もありぬべし。これをかまへてかまへて、よくよく意えとくへし、詞なをたらぬ心ちする也。

又此眞實につきて、自利の眞實利他の眞實あり。又三界六道の自他の依正をいとひすてて、かろしめいやしめんにも、阿彌陀佛の依正二報を、禮拜・讃嘆・憶念せんにも、をよそ厭離穢土・欣求淨土の三業にわたりて、みな眞實なるへきむね、疏の文につぶさ也。その文しげくして、ことことく出すことあたはず、至誠心のありさま略してかくのことし

二に深心といは、まづ『禮讃』の文にいはく、「二者深心、すなはち眞實の信心なり。自身は是煩惱を具足せる凡夫なり。善根薄少にして、三界に流轉して、火宅をいてすと信知して、いま彌陀の本弘誓願の名號を穪する事。しも十聲・一聲にいたるまて、さためて往生する事をうと信知して、乃至一念もうたかふ心ある事なかれ。かるかゆへに深心となつく」といへり。
次に『觀經の疏』の文にいはく、「二に深心といは、すなはちこれ深信の心なり。又二種あり。一には决定して、ふかく自身は現に是罪惡生死の凡夫也、曠劫より此かた常沒常流轉して、出離の縁ある事なしと信せよ。
二には决定してふかく彼阿彌陀佛の四十八願をもて、衆生を攝受し給ふ事うたかひなくおもんはかりなけれは、かの願力に乘して、さためて往生する事をうと信し。又决定してふかく釋迦佛、この觀經の三福・九品・定散二善をときて、かのほとけの依正二報を證讃して、人をして欣慕せしめ給ふ事を信し、又决定してふかく彌陀經の中に、十方恒沙の諸佛の、一切の凡夫决定してむまるる事をうと證勸し給へり。ねかはくは一切の行者、一心にたた佛語を信して身命をかへりみす、决定して依行じて、佛の捨しめ給はん事をは即すて、ほとけの行せしめ給はん事をは即行し、ほとけの去しめ給はんところをは即され。これを佛敎に隨順し、佛意に隨順すとなづけ、これを眞の佛弟子となつく。又深心を深信といは、决定して自心を建立して、敎に順して修行して、なかく疑錯をのぞきて、一切の別解別行、異學異見異執のために、退失し傾動せられされ」といへり。

わたくしに此二つの釋を見るに、文に廣略あり、言に同異ありといへともまづ二種の信心をたつる事は、そのおもむきこれひとつなり。すなはち二の信心といは、はしめにわか身は煩惱罪惡の凡夫也、火宅をいです、出離の縁なしと信せよといひ。つきには决定往生すへき身なりと信して一念もうたかふへからす、人にもいひさまたけらるへからずなといへる。前後のこと葉相違して、意得がたきに似たれとも、心をととめて是を案するにはしめにはわが身のほとを信じ、のちにはほとけの願を信する也。
たたしのちの信心を决定せしめんかために、はしめの信心をばあくる也。そのゆへは、もし初のわか身を信する樣をあげすして、たたちに後のほとけのちかひばかりを信すへきむねをいだしたらましかは、もろもろの往生をねかはん人、雜行を修して本願をたのまざらんをはしはらくをく。
まさしく彌陀の本願の念佛を修しなからも、なを心にもし貪欲・瞋恚の煩惱をもをこし、身にをのつから十惡・破戒等の罪業をもをかす事あらは、みたりに自身を怯弱して、返りて本願を疑惑しなまし。まことに此彌陀の本願に、十聲・一聲にいたるまて往生すといふ事は、おほろけの人にてはあらじ。妄念をもをこさす、つみをもつくらぬ人の、甚深のさとりををこし、強盛の心をもちて申したる念佛にてぞあるらん。われらごときのえせものともの、一念十念にてはよもあらじとこそおほえんもにくからぬ事也。
是は善導和尚は、未來の衆生このうたかひををこさん事をかへりみて、此二種の信心をあげて、われらがごとき煩惱をも斷ぜす、罪惡をもつくれる凡夫なりとも、ふかく彌陀の本願を信して念佛すれは、十聲一聲にいたるまて决定して往生するむねをは釋し給へる也、
かくだに釋し給はさらましかは、われらが往生は不定にそおほえまし、あやうくおほゆるにつけても、此釋の、ことに心にそみておほえはんへる也。
されは此義を心えわかぬ人にこそあるめれ。ほとけの本願をはうたかはねとも、わか心のわろけれは往生はかなはしと申あひたるが、やがて本願をうたがふにて侍るなり。さやうに申したちなは、いかほとまでか佛の本願にかなはず、さほとの心こそ本願にはかなひたれとはしり侍るへき。それをわきまへさらんにとりては、煩惱を斷ぜさらんほとは、心のわろさはつきせぬ事にてこそあらんずれば、いまは往生してんとおもひたつ世はあるまし、又煩惱を斷してそ、往生はすべきと申すになりなば、凡夫の往生といふ事はみなやふれなん。すでに彌陀の本願力といふとも、煩惱罪惡の凡夫をは、いかてかたすけ給ふべき。えむかへ給はじ物をなんと申すになるぞかし。佛の御ちからをばいかほどどしるぞ。それにすぎてほとけの願をうたがふ事はいかかあるべき。
又ほとけにたちあひまいらするとかありなんと申すへき事にてこそあれ。すべてわか心の善惡をはからひて佛の願にかなひかなはざるを意得あはせん事は、佛智ならてはかなふまじき事也。されは善導は『觀經の疏』の一のまき{玄義分}に、弘願を釋するに、「一切善惡の凡夫むまるることをうる事は、阿彌陀佛の大願業力に乘して增上縁とせずといふ事なし」といひをきて、「ほとけの密意弘深にして敎門さとりかたし、三賢十聖もはかりてうかがふところにあらず。いはんやわれ信外の輕毛なり、あへて旨趣を知んや」とこそは釋し給ひたれば、善導だにも十信にだにもいたらぬ身にて、いかてかほとけの御意をしるべきとこそは、おほせられたれば、ましてわれらが解にて、ほとけの本願をはからひしる事は、ゆめゆめおもひよるましき事也。

たた心の善惡をもかへりみす、罪の輕重をもわきまへす、意に往生せんとをもひて口に南無阿彌陀佛ととなへは、こえについて决定往生のをもひをなすへし。その决定によりて、すなはち往生の業はさたまる也。かく意えつれはやすき也。往生は不定にをもへはやかて不定なり、一定とをもへはやかて一定する事なり。
所詮は深信といは、かの佛の本願は、いかなる罪人をもすてす、たた名號をとなふる事一聲まてに、决定して往生すと、ふかくたのみて、すこしのうたがひもなきを申す也。
『觀經』の下品下生を見るに、十惡・五逆の罪人も、一念・十念に往生すととかれたり。「十惡・五逆等貪瞋、四重・偸僧・謗正法、未曾慚愧悔前」{礼讃}といへるは、在生の時の惡業をあかす。「忽遇往生善知識急勸專稱彼佛名化佛菩薩尋聲到一念傾心入寳蓮」{礼讃}といへるは、臨終の時の行相をあかす也。 又『雙卷經』のおくに、「三寶滅盡の後の衆生、乃至一念に往生す」ととかれたり。善導釋していはく、「万年三寶滅、此經住百年、爾時聞一念、皆當得生彼」といへり。
此二つの意をもて、彌陀の本願のひろく攝し、とをくをよふほとをはしるへき也。重をあげて輕をおさめ、惡人をあけて善人をおさめ、遠きをあけて近きをおさめ、後をあけて前をおさむるなるへし。まことに大悲誓願の深廣なる事たやすく言をもてのふへからす、心をととめておもふへき也。抑此ころ末法にいれりといへとも、いまた百年にみたず。われら罪業をもしといへとも、いまた五逆をつくらす。しかれははるかに百年法滅ののちをすくひ給へり。いはんや此ころをや。ひろく五逆極重のつみをすて給はす。いはんや十惡のわれらをや。たた三心を具して、もはら名號を稱すへし。たとひ一念といふともみだりに本願をうたかふ事なかれ。たたしかやうのことはりを申つれはつみをもすて給はねは、心にまかせてつみをつくらんもくるしかるまし、又一念にも一定往生すなれは、念佛はおほく申さずともありなんと、あしく意うる人のいできてつみをはゆるし、念佛をは制するやうに申しなすが、返返もあさましく候也。
惡をすすめ善をととむる佛法はいかかあるへき。されは善導は、「貪瞋煩惱をきたしましへざれ」といましめ、又「念念相續していのちのをはらんを期とせよ」とをしへ、又「日所作は五万六万乃至十万」なととこそすすめ給ひたれ。
たたこれは大悲本願の一切を攝するなを十惡・五逆をももらさす、稱名念佛の餘行にすぐれたる、すてに一念十念にあらはれたるむねを信せよと申すにてこそあれ。かやうの事はあしく意うれは、いつかたもひが事になる也つよく信ずるかたをすすむれは邪見ををこし、邪見ををこさせしとこしらふれは、信心つよからすなるが術なき事にて侍る也。かやうの分別は、此ついてには事ながければ起行の下にてこまかに申ひらくべし。

又ひくところの『疏』の文を見るに、後の信心につゐて二つの心あり。即佛につゐてふかく信し、經につゐてふかく信すべきむねを釋し給へるにやと意得らるる也。まづほとけにつゐて信すといは、一には彌陀の本願を信し、二には釋迦の所説を信し、三には十方恒沙の證勸を信すへき也。經につゐて信すといは、一には『無量壽經』を信し、二には『觀經』を信し、三には『阿彌陀經』を信するなり。すなはちはしめに「决定してふかく阿彌陀佛の四十八願」といへる文は、彌陀を信し、又『無量壽經』を信する也。つきに「又决定してふかく釋迦佛の觀經」といへる文は、釋迦を信し、『觀經』を信するなり。つきに「决定してふかく彌陀經の中」といへる文は、十方諸佛を信し、又『阿彌陀經』を信する也。又つきの文に、「佛の捨しめ給はんをはすてよ」といふは、雜修雜行なり。「ほとけの行せしめ給はん事をは行せよ」といふは、專修正行也。「ほとけの去しめたまはん事をはされ」といふは、異學・異解・雜縁亂動の處なり。
善導の、「みつからもさへ他の往生の正行をもさふ」と釋し給へる事、まことにをそるべき物なり。又「佛敎に隨順す」といは、釋迦の御をしへにしたかひ、「佛願に隨順す」といは、彌陀の願にしたかふ也。「佛意に隨順」すといは、二尊の御意にかなふなり。いまの文の意はさきの文に、「三部經を信すべし」といへるにたかはす、詮してはたた雜修をすてて、專修を行するが、ほとけの御意にかなふとこそはきこえたれ。
又つきの文に、「別解別行のためにやぶられされ」といふは、解異に行異ならん人の、難じやふらんにつゐて、念佛をもすて、往生をもうたかふ事なかれと申す也。さとりことなる人と申すは、天台・法相等の諸宗の學生これなり。行ことなる人と申すは、眞言止觀等の一切の行者是なり。これらはみな聖道門の解行也。淨土門の解行にことなるかゆへに、別解・別行とはなつけたり。かくのこときの人に、いひやぶらるましきことはりは、此文のつぎにこまかに釋し給へり。
すなはち人につきて信をたて、行につきて信をたつといふ二の信をあげたり。はしめの人につきて信をたつといへるこれなり。その文廣博にしてつふさに出すことあたはす。しかれともその義至要にしてまたすてがたきによりて、ことはを畧し意をとりてそのをもむきをあかさは、「解行不同の人ありて、經論の證據ををひきて、一切の凡夫往生することをえすといはは、すなはちこたえていへ。なんぢかひくところの經論を信せさるにはあらす。みなことことくあふひて信すといへとも、さらになんぢか破をはうけず。そのゆへは、なんぢかひくところの經論と、わか信するところの經論と、すてに各別の法門なり。ほとけこの觀經・彌陀經等をとき給ふ事、時も別にところも別に對機も別に利益も別なり。佛の説敎は、機にしたかひ、時にしたかひて不同なり。かれは通して人天・菩薩の解行をとき、是は別して往生淨土の解行をとく。即佛の滅後の、五濁極增の一切の凡夫、决定して往生する事をうととき給へり。われいま一心に此佛敎によりて、决定して奉行す。たとひなんぢ百千万億ありてむまれずといふとも、たたわか往生の信心を增長し成就せんとこたへよ」といへり。「又行者さらに難破の人にむかひてときていへ。なんちよくきけ、われいまなんちかために、さらに决定の信相をとかん」といひて、はしめは地前菩薩及羅漢・辟支佛等より、をはり化佛・報佛までたてあけて、たとひ化佛報佛十方にみちみちて、をのをのひかりをかがやかし、したをいだして十方におほひて、一切の凡夫念佛して一定往生すといふ事は、ひが事なり信すへからすとの給はんに、われこれらの諸佛の所説をきくとも、一念も疑退の心ををこして、かの國にむまるる事をえさらん事ををそれじ。なにをもてのゆへにとならは、一佛は一切佛也、大悲等同にしてすこしの差別なし。同體の大悲のゆへに。一佛の所説はすなはち是一切佛の化なり。ここをもてまづ彌陀如來、稱我名號下至十聲若不生者不取正覺と願して、その願成就してすてに佛になり給へり。又釋迦如來は、この五濁惡世にして、惡衆生・惡見・惡煩惱・惡邪・無信さかりなる時、彌陀の名號をほめ、衆生を勸勵して稱念すれはかならず往生する事をうととき給へり。又十方の諸佛は、衆生の釋迦一佛の所説を信せさらん事ををそれて、すなはちともに同心同時にをのをの舌相を出して、あまねく三千世界におほひて、誠實のことはをとき給ふ。なんだち衆生、みな釋迦の所説・所讃・所證を信すべし。一切の凡夫罪福の多少時節の久近をとはす、たたよく上は百年をつくし、下は一日七日十聲一聲にいたるまで、心をひとつにしてもはら彌陀の名號を念すれは、さためて往生する事をうといふ事を信すへし。かならすうたかふことなかれと證誠し給へり。かるがゆへに人につゐて信をたつ」といへり。かくのこときの、一切諸佛の、一佛ものこらず同心に、あるひは願ををこし、あるひはその願をとき、あるひはその説を證して、一切の凡夫念佛して决定往生すへきむねをすすめ給へるうへには、いかなるほとけの又きたりて往生すへらすとはの給ふべきぞといふことはりをもて、ほとけきたりての給ふともおとろくへからすとは信する也。
ほとけなをしかり、いはんや地前・地上の菩薩をや、いはんや小乘の羅漢をやと意えつれは、まして凡夫のとかく申さんによりて、一念もうたかひおとろく心あるへからすとは申なり。

おほかた此信心の樣を、人の意えわかぬとおほゆる也。心のぞみぞみと身のけもいよだち、なみたもおつるをのみ信のおこると申すはひが事にてある也。それは歡喜・隨喜・悲喜とぞ申へき。信といはうたかひに對する意にて、うたかひをのぞくを信とは申すへき也。みる事につけても、きく事につけても、その事一定さぞとおもひとりつる事は、人いかに申せとも、不定におもひなす事はなきぞかし。これをこそ物を信するとは申せ。
その信のうへに歡喜・隨喜なともをこらんは、すぐれたるにてこそあるへけれ。たとへはとしころ心のほとをもみとりて、そら事せぬたしかならん人そとたのみたらん人の、さまさまにおそろしき誓言をたて、なをさりならすねんころにちきりをきたる事のあらんを、ふかくたのみてわすれすたもちて、心のそこにふかくたくはへたらんに、いと心の程もしらざらん人のそれなたのみそ、そら事をするそとさまさまにいひさまたげんにつきて、すこしもかはる心はあまるしきぞかし。
それがやうに彌陀の本願をもふかく信して、いひやふらるへからす。いはんや一代の敎主も付囑し給へるをや。いはんや十方の諸佛も證誠し給へるをやと意うへきにや。まことにことはりをききひらかざらんほとこそあらめ。
ひとたひも是をききて信ををこしてんのちは、いかなる人とかくいふとも、なにかはみたるる心あるへきとこそはおほえ候へ。

つきに行につゐて信をたつといふは、即行に二つあり。一には正行、二には雜行なりといへり。此二行につゐて、あるひは行相、あるひは得失、文ひろく義おほしといへとも、しはらく略を存す。つふさには下の起行の中にあかすへし。深心の大要をとるに是にあり。


この文に下卷あるへしとみゆるが、いつくにかくれて侍るにか、いまたたつねえず、もしたつねうる人あらはこれにつけ。

黑谷上人語燈錄卷第十一

黑谷上人語燈錄第十二

黑谷上人語燈錄卷第十二 厭欣沙門{了惠}集錄

和語第二之二{當卷有五章}

念佛往生要義抄第四
三心義第五
七箇條起請文第六
念佛大意第七
淨土宗畧抄第八

念佛往生要義抄

念佛往生要義抄

それ念佛往生は、十惡五逆をえらはす、迎接するに十聲一聲をもてす、聖道諸宗の成佛は、上根上智をもととするゆへに、聲聞・菩薩を機とす。しかるに世すてに末法になり、人みな惡人なり。はやく修しかたき敎を學せんよりは、行じやすき彌陀の名號をとなへて、このたび生死の家をいつへき也。ただしいづれの經論も、釋尊のときをき給へる經敎なり。しかれば法華涅槃等の大乘經を修行して、ほとけになるになにのかたき事かあらん。それにとりてことに『法華經』は三世の諸佛もこの經によりてほとけになり。十方の如來もこの經によりて正覺をなり給ふ。
しかるに『法華經』なとをよみたてまつらんに、なにの不足かあらん。かやうに申す日はまことにさるへき事なれとも、われらか器量はこの敎にをよばさるなり。そのゆへは、法華には菩薩・聲聞を機とするゆへに、われら凡夫はかなふへからすとおもふへき也。
しかるに阿彌陀ほとけの本願は、末代のわれらかためにをこし給へる願なれは、利益いまの時に决定往生すへき也。わか身は女人なれはとおもふ事なく、わか身は煩惱惡業の身なれはといふ事なかれ。もとより阿彌陀佛は罪惡深重の衆生の、三世の諸佛も十方の如來もすてさせ給ひたるわれらをむかへんと、ちかひ給ひける願にあひたてまつれり。往生うたかひなし
とふかくをもひいれて、南無阿彌陀佛・南無阿彌陀佛と申せは善人も惡人も、男子も女人も、十人は十人なから百人は百人なから、みな往生をとくる也

問ていはく、稱名念佛申す人はみな往生すへしや

答ていはく、凡念佛に他力の念佛あり、自力の念佛あり。他力の念佛は往生すへし、自力の念佛は本より往生の志しにて申念佛にあらされば、またく往生すべからず。

問ていはく、その他力の樣いかむ

答ていはく、ただひとすぢに佛の本願を信し、わが身の善惡をかへり見ず、决定往生せんとをもひて申すを、他力の念佛といふ。たとへは騏麟の尾につきたる蠅の、ひとはねに千里をかけり、輪王の御ゆきにあひぬる卑夫の、一日に四天下をめくるがごとし。これを他力と申す也。
又巨なる石をふねにいれつれは、時のほとにむかひのきしにとづくがごとし。これはまたく石のちからにあらず、ふねのちからなり。それがやうにわれらがちからにてはなし、阿彌陀ほとけの御ちから也。これすなはち他力なり

問ていはく、自力といふはいかん

答ていはく、煩惱具足してわろき身をもて、煩惱を斷し、さとりをあらはして、成佛すと意えて、晝夜にはけめとも、無始より貪瞋具足の身なるがゆへに、ながく煩惱を斷する事かたきなり。かく斷しがたき無明煩惱を、三毒具足の心にて斷せんとする事、たとへは須彌を針にてくだき、大海を芥子のひさくにてくみつくさんがことし。たとひはりにて須彌をくだき、芥子のひさくにて大海をくみつくすとも、われらが惡業煩惱の心にては、曠劫多生をふるとも、ほとけにならん事かたし。そのゆへは、念念步步にをもひと思ふ事は、三途八難の業、ねてもさめても案じと案する事は、六趣四生のきづな也。かかる身にては、いかてか修行學道をして成佛はすべきや。このを自力とは申す也

問ていはく、聖人の申す念佛と、在家のものの申す念佛と勝劣いかむ

答ていわく、聖人の念佛と世間者の念佛と、功德ひとしくして、またくかはりめあるへからす

疑ていはく、この條なを不審也。そのゆへは、女人にもちかづかす、不淨の食もせずして、申さん念佛はたとかるへし。朝夕に女境にむつれ、酒をのみ不淨食をして申さん念佛は、さためておとるへし功德いかてかひとしかるへきや

答ていはく、功德ひとしくして勝劣あるへからず。そのゆへは、阿彌陀佛の本願のゆへをしらさるものの、かかるおかしきうたがひをはするなり。しかるゆへは、むかし阿彌陀佛、二百一十億の諸佛の淨土の、莊嚴寶樂等の誓願利益にいたるまて、世自在王佛の御まへにしてこれを見給ふに、われらごときの妄想顚倒の凡夫の淨土にむまるへき法のなき也。されは善導和尚釋していはく、「一切佛土皆嚴淨 凡夫亂想恐難生」{法事讃}といへり。この文の心は一切の佛土はたへなれとも亂想の凡夫はむまるる事なしと釋し給ふ也。をのをのの御身をはからひて御らんずべきなり。そのゆへは、口には經をよみ、身には佛を禮拜すれとも、心には思はし事のみおもはれて、一時もととまる事なし。しかれは我らか身をもて、いかてか生死をはなるべき。かかりけるほどに曠劫よりこのかた三途八難をすみかとして、烔燃猛火に身をこがしていづる期なかりける也。かなしきかなや、善心はとしとしにしたかひてうすくなり、惡心は日日にしたかひていよいよまさる。
されば古人のいへる事あり、「煩惱は身にそへる影、さらむとすれともさらす、菩提は水にうかへる月、とらむとすれともとられす」と。このゆへに阿彌佛ほとけ、五劫に思惟してたて給ひし、深重の本願と申すは、善惡をへたてず、持戒・破戒をきらはず、在家・出家をもえらはす、有智・無智をも論せず、平等の大悲ををこしてほとけになり給ひたれは、ただふかく本願を信して念佛申さは、一念須臾のあたひに、阿彌陀ほとけの來迎にあづかるへき也。
むまれてよりこのかた女人を目に見ず、酒肉五辛ながく斷して、五戒・十戒等かたくたもちてやむ事なき聖人も、念佛に不足のをもひなして、餘行をましえ申さんにをきては、佛の來迎にあづからん事、千人が中に一人、萬人が中に五三人なとや候はんすらん。それも善導和尚は「千中無一」とをほせられて候へば、いかがあるべく候らんとをほえ候。
をよそ阿彌陀佛の本願と申す事はやうもなく、わか心をすませとにもあらず、不淨の身をきよめよとにもあらず、ただねてもさめても、ひとすぢに御名をとなふる人をは、臨終にはかならずきたりてむかへ給ふなるものをといふ心に住して申せは、一期のをはりには、佛の來迎にあづからん事うたがひあるべからず。わか身は女人なれは、又在家のものなればといふ事なく往生は一定とおほしめすべき也。

問ていはく、心のすむ時の念佛と、妄心の中の念佛と、その勝劣いかむ

答ていはく、その功德ひとしくして、あへて差別なし。

疑ていはく、この條なほ不審なり、そのゆへは、心のすむ時の念佛は、餘念もなく一向極樂世界の事のみ、おもはれ、彌陀の本願のみ案せらるるがゆへに、ましふるものなければ、淸淨の念佛なり。心の散亂する時は、三業不調にして、口には名號をとなへ、手には念珠をまはすばかりにてはこれ不淨の念佛也。いかてかひとしるべき。

答ていはく、このうたかひをなすは、いまた本願のゆへをしらざるなり。阿彌陀佛は惡業の衆生をすくはんために、生死の大海に弘誓のふねをうかへ給へる也。たとへはおもき石、かろきあさからをひとつふねにいれて、むかひのきしにとづくがことし。本願の殊勝なることは、いかなる衆生も、ただ名號をとなふるほかは、別の事なき也

問ていはく、一聲の念佛と、十聲の念佛と、功德の勝劣いかむ

答ていはく、ただおなし事也

疑ていはく、この事又不審なり。そのゆへは、一聲・十聲すてにかずの多少あり、いかてかひとしかるべきや

答一聲・十聲と申す事は最後の時の事なり。死する時一聲申すものも往生す、十聲申すものも往生すといふ事なり。往生だにもひとしくは、功德なんそ劣ならん。本願の文に、「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺」 この文の意は、法藏比丘、われほとけになりたらん時、十方の衆生極樂にむまれんとおもひて、南無阿彌陀佛と、もしは十聲、もしは一聲申さん衆生をむかへずは、ほとけにならじとちかひ給ふ。かるかゆへにかずの多少を論せず、往生の得分はをなじき也。本願の文顯然なり、なんぞうたがはんや

問ていはく、最後の念佛と、平生の念佛といつれかすぐれたるや

答ていはく、たたをなじ事也。そのゆへは、平生の念佛、臨終の念佛とてなんのかはりめかあらん。平生の念佛の死ぬれは、臨終の念佛となり、臨終の念佛ののぶれは、平生の念佛となる也

難していはく、最後の一念は百年の業にすくれたりと見えたり、いかむ

答ていはく、このうたがひは、この文をしらさる難なり。いきのとどまる時の一念は、惡業こはくして善業にすぐれたり、善業こはくして惡業にすくれたりといふ事也。ただしこの申す人は念佛者にてはなし、もとより惡人の沙汰をいふ事也。平生より念佛申て往生をねがふ人の事をは、ともかくもさらに沙汰にをよはぬ事也

問ていはく、攝取の益をかうふる事は、平生か臨終か、いかむ

答ていはく、平生の時なり。そのゆへは、往生の心まことにて、わか身をうたがふ事なくて、來迎をまつ人は、この三心具足の念佛申す人なり。この三心具足しぬれば、かならず極樂にうまるといふ事は、『觀經』の説なり。かかる心さしある人を、阿彌陀佛は八萬四千の光明をはなちててらし給ふ也。平生の時てらしはじめて、最後まて捨給はぬなり。かるかゆへに不捨の誓約と申す也

問ていはく智者の念佛と、愚者の念佛と、いづれも差別なしや

答ていはく、ほとけの本願にとづかは、すこしの差別もなし。そのゆへは阿彌陀佛ほとけになり給はざりしむかし、十方の衆生わか名をとなへは、乃至十聲まてもむかへんと、ちかひをたて給ひけるは、智者をえらひ、愚者をすてんとにはあらす。されは『五會法事讃』にいはく、「不簡多聞持淨戒 不簡破戒罪根深 但使廻心多念佛 能令瓦礫變成金」。この文の意は、智者も愚者も、持戒も破戒も、たた念佛申さは、みな往生すといふ事也。此心に住して、わか身の善惡をかへりみず、ほとけの本願をたのみて念佛申すへき也。此たび輪廻のきづなをはなるる事、念佛にすぎたる事はあるへからず。このかきをきたるものを見て、そしり謗せんともがらも、かならず九品のうてなに縁をむすび、たがひに順逆の縁むなしからずして、一佛淨土のともたらむ。抑機をいへは、五逆重罪をえらはず、女人闡提をもすてす、行をいへは、一念十念をもてす、これによて五障三從をうらむへからず。この願をたのみ、この行をはげむへき也。念佛のちからにあらすは、善人なをむまれかたし、いはんや惡人をや。五念に五障を消し、三念に三從を滅して、一念に臨終の來迎をかうふらんと、行住坐臥に名號をとなふべし、時處諸縁に此願をたのむべし。あなかしこあなかしこ

南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛


黑谷上人語燈錄第十三

厭欣沙門{了惠}集錄

和語第二之三{當卷有四章}

九條殿下の北政所へ進する御返事 第九
鎌倉の二位の禪尼へ進する御返事 第十
要義問答 第十一
大胡太郞へつかはす御返事第 十二


黑谷上人語燈錄卷第十四

厭欣沙門{了惠}集錄

和語第二之四{當卷有九章}

大胡太郞の妻室へつかはす御返事 第十三
熊谷の入道へつかはす御返事 第十四
津戸三郞へつかはす御返事 第十五
黑田の聖へつかはす御返事 第十六
越中の光明房へつかはす御返事 第十七
正如房へつかはす御文 第十八
禪勝房にしめす御詞 第十九



黑谷上人語燈錄卷第十五

厭欣沙門{了惠}集錄

和語第二之五{當卷有三章}

一百四十五箇條問答 第二十二
上人と明遍との問答 第二十三
諸人傳説の詞 第二十四{御歌附}