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『極楽浄土九品往生義』からの抜き書き。
 
『極楽浄土九品往生義』からの抜き書き。
 
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{{Comment|御開山は、第二十願を、植諸徳本の願、係念定生の願、不果遂者の願、至心回向などの願名で呼ばれている。この第二十願について『西方指南抄」の十七条御法語で、
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御開山は、第二十願を、植諸徳本の願、係念定生の願、不果遂者の願、至心回向などの願名で呼ばれている。この第二十願について『西方指南抄」の十七条御法語で、
  
 
 或人念仏之不審を、故聖人に奉問曰、第二十の願は、大綱の願なり。係念といふは、三生の内にかならず果遂すべし。仮令通計するに、百年の内に往生すべき也。 云云<br>
 
 或人念仏之不審を、故聖人に奉問曰、第二十の願は、大綱の願なり。係念といふは、三生の内にかならず果遂すべし。仮令通計するに、百年の内に往生すべき也。 云云<br>
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と、ある。この「三生の内にかならず果遂すべし」の三生について、源信僧都の師である慈恵(慧)大師良源(1月3日に亡くなったので元三大師ともいう)の『極楽浄土九品往生義』から該当する部分を読み下してみた。なお慈恵大師は、三願の中では第十九願を「第十九の願は、かれ菩提心を発しもろもろの功徳を修するが故に、大衆のともに囲繞せられその人の前に現じてこれを摂す。〔第十八願と第十九願の〕二願の差別となすなり」と、菩提心と来迎の文があるから第十九願を最上の願とみられていた。聖道門の発想ではこのようにならざるを得ないのであった。御開山は源信僧都が、師の良源の教えでなく『往生要集』冒頭で「予がごとき頑魯のもの」と言われ、『往生要集』下巻([[chu:往生要集下巻 (七祖)#P--1098|要集 P.1098]]) で第十八願を引いて「三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)」とされ、さらに『観経』を引いて「四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」(行巻と化巻で引文)とされたていたことの着目された。そして御開山は、この源信僧都の意を洞察し、また法然聖人が『選択集』冒頭で示された「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本(南無阿弥陀仏 往生の業には、念仏を先となす)」の文の出拠である「往生之業 念仏為本」(『往生要集』([[chu:往生要集中巻 (七祖)#P--1030|要集 P.1030]]) とされた源信僧都の釈功によって浄土真宗の七祖の一人とされたのであろう。 <br>
 
と、ある。この「三生の内にかならず果遂すべし」の三生について、源信僧都の師である慈恵(慧)大師良源(1月3日に亡くなったので元三大師ともいう)の『極楽浄土九品往生義』から該当する部分を読み下してみた。なお慈恵大師は、三願の中では第十九願を「第十九の願は、かれ菩提心を発しもろもろの功徳を修するが故に、大衆のともに囲繞せられその人の前に現じてこれを摂す。〔第十八願と第十九願の〕二願の差別となすなり」と、菩提心と来迎の文があるから第十九願を最上の願とみられていた。聖道門の発想ではこのようにならざるを得ないのであった。御開山は源信僧都が、師の良源の教えでなく『往生要集』冒頭で「予がごとき頑魯のもの」と言われ、『往生要集』下巻([[chu:往生要集下巻 (七祖)#P--1098|要集 P.1098]]) で第十八願を引いて「三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)」とされ、さらに『観経』を引いて「四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」(行巻と化巻で引文)とされたていたことの着目された。そして御開山は、この源信僧都の意を洞察し、また法然聖人が『選択集』冒頭で示された「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本(南無阿弥陀仏 往生の業には、念仏を先となす)」の文の出拠である「往生之業 念仏為本」(『往生要集』([[chu:往生要集中巻 (七祖)#P--1030|要集 P.1030]]) とされた源信僧都の釈功によって浄土真宗の七祖の一人とされたのであろう。 <br>
法然聖人は『徒然草』の三十九段で、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」と言われたそうだが、たとえ本願力回向のご信心が解らなくても、可聞可称の〔なんまんだぶ〕を申さば、三生のうちには、果遂の願の故に往生す、であった。「これもまた尊し」である。}}
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法然聖人は『徒然草』の三十九段で、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」と言われたそうだが、たとえ本願力回向のご信心が解らなくても、可聞可称の〔なんまんだぶ〕を申さば、三生のうちには、果遂の願の故に往生す、であった。「これもまた尊し」である。
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『極楽浄土九品往生義』(慈慧大師良源(912~985))の抜き書き。「浄土宗全書」第15巻p.17[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/detail/volume/15/page/17 ]
 
『極楽浄土九品往生義』(慈慧大師良源(912~985))の抜き書き。「浄土宗全書」第15巻p.17[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/detail/volume/15/page/17 ]

2019年12月2日 (月) 18:11時点における版

『極楽浄土九品往生義』からの抜き書き。

御開山は、第二十願を、植諸徳本の願、係念定生の願、不果遂者の願、至心回向などの願名で呼ばれている。この第二十願について『西方指南抄」の十七条御法語で、

 或人念仏之不審を、故聖人に奉問曰、第二十の願は、大綱の願なり。係念といふは、三生の内にかならず果遂すべし。仮令通計するに、百年の内に往生すべき也。 云云
〔答ふ〕これ九品往生の義意釈なり。極大遅者をもて、三生に出(いで)ざるこころ、かくのごとく釈せり。又『阿弥陀経』の已発願等は、これ三生之証也と。「十七条御法語」[1]

と、ある。この「三生の内にかならず果遂すべし」の三生について、源信僧都の師である慈恵(慧)大師良源(1月3日に亡くなったので元三大師ともいう)の『極楽浄土九品往生義』から該当する部分を読み下してみた。なお慈恵大師は、三願の中では第十九願を「第十九の願は、かれ菩提心を発しもろもろの功徳を修するが故に、大衆のともに囲繞せられその人の前に現じてこれを摂す。〔第十八願と第十九願の〕二願の差別となすなり」と、菩提心と来迎の文があるから第十九願を最上の願とみられていた。聖道門の発想ではこのようにならざるを得ないのであった。御開山は源信僧都が、師の良源の教えでなく『往生要集』冒頭で「予がごとき頑魯のもの」と言われ、『往生要集』下巻(要集 P.1098) で第十八願を引いて「三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)」とされ、さらに『観経』を引いて「四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」(行巻と化巻で引文)とされたていたことの着目された。そして御開山は、この源信僧都の意を洞察し、また法然聖人が『選択集』冒頭で示された「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本(南無阿弥陀仏 往生の業には、念仏を先となす)」の文の出拠である「往生之業 念仏為本」(『往生要集』(要集 P.1030) とされた源信僧都の釈功によって浄土真宗の七祖の一人とされたのであろう。
法然聖人は『徒然草』の三十九段で、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」と言われたそうだが、たとえ本願力回向のご信心が解らなくても、可聞可称の〔なんまんだぶ〕を申さば、三生のうちには、果遂の願の故に往生す、であった。「これもまた尊し」である。

『極楽浄土九品往生義』(慈慧大師良源(912~985))の抜き書き。「浄土宗全書」第15巻p.17[2]

第十八願

第十八「聞名信樂十念定生願」[1]

經云

経にいわく、

設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆 誹謗正法

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

寳積云

寳積(『大宝積経巻第十七』「無量寿如来会」)に云く

若我證得無上正覺時 餘刹中諸有情類 聞我名 已所有善根心心迴向 願生我國 乃至十念若不生者不取菩提 唯除造無間業 誹謗正法及諸聖人

もし我、無上覚を証得せん時、余の〔仏〕刹の中の諸の有情の類、我が名を聞き、已が所有の善根、心心に廻向せしむ。我が国に生まれんと願じて、乃至十念せん。もし生まれずば、菩提を取らじ。唯、無間悪業を造り、正法及び諸の聖人を誹謗せんを除く。

問曰 云何十念

問うていわく、いかんが十念。

答曰 若准下品下生文者 經十念頃 專稱名爲十念也

答えていわく、もし下品下生の文に准ずれば、十念を経るあいだ専ら名を称するを十念となすなり。[2]

稱南無阿彌陀佛 經此六字頃 名爲一念也

南無阿弥陀仏と称する。この六字を経るあいだを名づけて一念となすなり。

寂法師疏問曰

寂法師[3]の疏に問ひていわく、

若爾何故彌勒問經云

もししからば何が故ぞ『弥勒問経』にいわく、[4]

如佛所説 念阿彌陀佛功德利益 若能十念相續不斷念佛者 即得往生 當云何念佛 言非凡夫念 非不善念 非離結使念 具如是念 即得往生安養國土

仏の所説のごとし、阿弥陀仏の功徳利益を念じて、もしよく十念相続して仏を念ずるを断ぜざれば、すなわち往生することを得。まさにいかんが仏を念ずる。いわく凡夫の念に非ず不善の念に非ず、結使[5]を離るる念に非ず。かくの如きの念を具してすなわち安養の国土に往生することを得。

凡有十念 何等爲十

おほよそ十念あり、何らかを十とす。

一者 於諸衆生 常生慈心 不毀其行 若毀其行終不往生

一には、諸の衆生において常に慈心を生じその行を毀(こぼ)たず、もしその行を毀(こぼ)てばついに往生せず。

二者 於諸衆生 深起悲心除殘害意

二には、諸の衆生において深く悲心を起こし残害[6]の意を除く。

三者 發護法心 不惜身命 於一切法不生誹謗

三には、護法心を発して身命を惜しまず、一切の法において誹謗を生ぜず。

四者 於忍辱中 生決定心

四には、忍辱の中において、決定の心を生ず。

五者 深心淸淨不染利養

五には、深心清浄にして利養に染せず。

六者 發一切智心 日日常念無有廢忘

六には、一切智心を発して日日に常に念じて、廃忘あることなし。

七者 於諸衆生 起〔尊〕重心 除我所意 謙下言説

七には、もろもろの衆生において、尊重の心を起こして我所の意を除き謙下言説す。

八者 於世談話 不生味著

八には、世の談話において味著を生ぜず。

九者 近於覺意 深起種種善根因縁 遠離憒閙散亂之心

九には、覚意に近づきて深く種々善根の因縁を起こし、憒閙散乱の心を遠離す。

十者 正念觀佛 除去諸想

十には、正念に仏を観じて諸想を除去す。

如此十念 其事甚難 云何苦逼不遑念佛 而能具起如此十念

この如き十念、そのこと甚だ難し。いかんが苦にせめられて念仏にいとまあらず、しかるによくつぶさにこの如き十念を起こさんや。

答曰 此説專心稱佛名時 自然具足如是十念 非必一一別 縁慈等 亦非數彼慈等爲十

答えていわく、これは專心に仏名を称する時、自然にかくの如き十念を具足することを説く。必ずしも一一に別して慈等を縁ずるには非ず。またかの慈等を数えて十となすに非ず。

云何不別縁而能具足十

いかんが別に縁ぜざらしめてしかもよく十を具足す。

如欲受戒 稱三歸時雖不別縁 離殺等事 而能具得離殺等戒

戒を受けんと欲するが如きは三帰を称する時、別して縁ぜずといえども殺等の事を離れて、しかもよくつぶさに離殺等の戒を得るなり。

當知 此中道理亦爾

まさに知るべし、この中道の理もまたしかなり。

又可具足十念稱南無佛者 謂能具足慈等十念

また十念を具足して南無仏と称すべしとは、いわくよく慈等の十念を具足す。

稱南無佛 若能如是隨所稱念 若少稱 若多稱 皆得往生

南無仏と称して、もしよくかくの如き称念するところに随いて、もしは少称もしは多称みな往生を得。

又此十念 雖凡所起 非凡夫事 故云非凡夫事 故云非凡夫念

またこの十念、凡の所起なりといへども凡夫の事に非ず。故に凡夫の事に非ずといへり。故に凡夫の念に非ずといへり。

專心稱佛非餘念間

専心に仏を称するに余の念のまじわるには非ず。

故非不善不雜結使念

故に不善に非ず、結使にまじわる念ならざる。

如是相續 經十念頃 一一念中自然具足慈等十念

かくの如く相続して十念を経るあいだに、一一の念の中に自然に慈等の十念を具足す。

當知 此念竪論其時 經於十念 橫論其事則具慈等 不可以凡夫念 言高推上地

まさに知るべし。この念は竪にその時を論ずれば十念を経るなり。横にその事を論ずればすなわち慈等を具す。凡夫の念の言をもって高く上地を推しはかるべからず。

於自免脱 令修因者生懸岸想 割注已上割注

自ら免脱せるに、因を修せしむる者は懸岸の想を生ず。

第十九願

第十九「行者命終現前導生願」[7]
經云

経にいわく、

設我得佛 十方衆生 發菩提心 修諸功德 至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與 大衆圍遶 現其人前者 不取正覺

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。

第二十願

第二十「聞我係念修善定生願」[8]
經云

経にいわく、

設我得佛 十方衆生 聞我名號 係念我國 殖諸德本 至心迴向 欲生我國 不果遂者 不取正覺

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。

三願の差別

此上三願有何差別

この上の三願に何の差別かあらん。

釋曰 除造五逆誹謗正法者 自餘凡夫若有願者必令得生是第十八

釈していわく、五逆を造り正法を誹謗する者を除き、自余の凡夫のもし願ある者は必ず生まれることを得さしめるはこれ第十八なり。

彼人善根非深妙故不説現前與衆迎攝

かの人の善根は、深妙に非ざるが故に現前与衆迎摂を説かず。

第十九願者 彼發菩提心修 諸功德故 與大衆圍遶現其人前 攝是 爲二願之差別也

第十九の願は、かれ菩提心を発しもろもろの功徳を修するが故に、大衆のともに囲繞せられその人の前に現じてこれを摂す。二願の差別となすなり。

三生果遂

若於娑婆有決定業者 雖念彼國 如何忽往生 

もし娑婆において決定業[9]ある者は、かの国を念ずといへども、いかんぞたちまちに往生せんや。

爲釋此疑故 有第二十願 由此故 云欲生我國不果遂者不取正覺

この疑いを釈せんが為の故に第二十の願あり。これによるが故に、「我国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ」、 といへり。

此意顯云

この意を顕していわく、

若於此界 有決定業不可轉者 雖無順次生我國土 而令順後業 定得生矣

もしこの界において決定業の転ずべからざる者あらば、順次に我が国土に生まるること無し[10]といえども、順後業[11]をして定めて生まるることを得しめん。

  1. 名号を聞いて信楽し、十念するものは定めて往生せしめる。
  2. 観経の下品下生の「なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし。と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」の文に準じて考察すれば、十念とは十声の称名であるということ。
  3. 義寂(ぎじゃく)。中国、五代~宋の天台宗の僧。
  4. 『弥勒問経』に、以下の文は無い。なお、この以下の十念についての文は往生要集p.1103で、ほぼ同文が引用されている。
  5. 結使(けっし)。迷いの世界に結びつけるもの。煩悩の異名。 
  6. 残害(ざんがい)。傷つけ、損なうこと。また、傷つけ、殺すこと。
  7. 行者が命終するとき眼前にあらわれて浄土へ導き往生させるの願。慈慧大師はこの願が菩提心と来迎を説くので最勝の願であるとみておられた。
  8. 我が名を聞き、浄土に念をかけて善を修めたものは、三生のうちには定めて往生せしめるの願。
  9. 決定業。決定の悪業を持っている者のこと。すでに悪業によって悪道に生まれることが決まっている者。
  10. すでに犯した悪業を転じることなく、悪道に堕することが決まっている(決定業を持っている)ものは、この次の生(順次生)で浄土に生まれることは出来ないという意。
  11. 次の生で浄土へ生まれることが出来なくても、阿弥陀仏の果遂(果たし遂げる)の願があるから、順次生で罪の償いをしたあと、その次の生(順後生)には浄土に往生させるという。今生を入れて三生目(現在の生と次の生とその次の三回目の生で、浄土に生まれる(往生)ことが出来るという意。第二十願の係念我国と不果遂者の文を解釈された先人のお手柄ではある。