「新しい「領解文」に学ぶ 学習会用資料として」の版間の差分
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新しい「領解文」に学ぶ 学習会用資料として(3月26日)
【ご挨拶】
門信徒、僧侶の皆さま
ご一緒に、『新しい「領解文」』について学んでゆきたいと思います。
『新しい「領解文」』は、いろいろな疑問があります。まずその疑問について、考えてみましょう。
【疑問】
Ⅰ、成立過程の疑問
①どのようにして成立したのか、わかりません。
2005年から、現代版の「領解文」を制定しようという試みがありました。それに応じて制作されたのが、2009年出版の、黒い表紙の『拝読 浄土真宗のみ教え』の最初に置かれた、「浄土真宗の救いのよろこび」です。
ところが2019年に突然にこれが削除され、2021年に 「浄土真宗のみ教え」 がご親教[1]として示されました。この「浄土真宗のみ教え」の中間に師徳を入れて、2023年1月16日に急にご消息として発布されたのが、今回の『新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)』です。
2022年9月から11月にかけて、勧学さまや宗門関係の学長さまが加わった委員会が開催されました。そこではこれを「現代版の領解文」とするという具体的な内容は何も示されないまま、その制定方法についての検討が行われ、「領解文という言葉があると混乱を招くので、使わないように」という旨の答申がされていました。 しかし、わずか2ヶ月後の今年のご正忌のご満座で、突如として発布されたのでした。
この『新しい「領解文」』はどのようにして成立したのか、その経緯がまったく不透明です。
②勧学寮が、その役割を果たしていないように考えられます。
ご門主がご消息を発布する際には、勧学寮に諮問し、浄土真宗の教えに沿ったものであるのか、お尋ねになります[2]。しかし、この『新しい「領解文」』は、次に述べるように、いろいろな疑問が指摘されています。
なぜ勧学寮は、このような問題があるものを許可したのでしょうか。
③起草者が、石上総長であるように思えます。
『新しい「領解文」』に用いられている言葉の多くは、石上智康総長の『生きて死ぬ力』に見ることができます。例えば、「愚身」と書いて「み」と読ませる用例などです。(*pdf)
『新しい「領解文」』は、制定された機関や部署が不明です。諸賢の叡智を集めて、数年かけて制定されたものではありません。石上総長が個人的に作成されたように思われます。石上総長個人の見解を、ご門主の名前で出されたのではないかという疑問が起きます。
Ⅱ、内容における疑問
①教義における疑問
㈠、第一段について
(1)「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」
本来とは、「もともと」という意味です。
もともと同じであれば、わたしは仏さまです。救う必要は、ありません。
これは法然聖人や親鸞聖人がおられた当時の比叡山で流行していた、天台宗の本覚法門に似ています。
本覚法門とは、もともとわたしは仏であるから、そのように信じたらいい。浄土といっても、遠くにあるのではなく、わたしの心が浄土であるという考え方です。
これは、親鸞聖人が「信文類」の序文に「自性唯心に沈みて、浄土の真証を貶す」(『註釈版』209頁) と言われた、「自性唯心」にあたるように見えます。
「自性唯心」とは、自己の心性を弥陀といい、この心が浄土であると主張する、聖道門の考え方です。
しかし、どれほどわたしが仏である、この世が浄土であると思おうとしても、苦悩の現実は消えません。
むしろ、この生死の苦しみに真正面から向き合ってきたのが、浄土教でした。
「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」とは、浄土教の綱格を破るものです。
勧学寮から出された解説にも、この箇所は誤解されやすいから注意するようにと示されています。
なぜ大切な領解文に、誤解されやすい言葉を、わざわざ用いられているのでしょうか。疑問です。
(2)「そのまま救う」を、「このまま」と持ち替えていること。
「そのまま救う」とは、わたしの罪が深いから、そのままにしてはおれないので、阿弥陀さまが、わたしが浄土に生まれる因も果も完成して、わたしに恵み与えてくださっています。だから「そのまま」です。
これを親鸞聖人は、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」(『註釈版』251頁)) と言われます。
「仏願の生起本末」とは、「南無阿弥陀仏」の名号の意味を開いて示されたものです。
生起とは、阿弥陀さまが願いを
本とは因本、末とは果末で、因果のことです。因とは、阿弥陀さまがもと法蔵菩薩であったときに発された願いが因で、48通りの願いが
つまり第18願の救いとは、弥陀成仏の因果が、そのまま衆生往生の因果となっているような救いなのです。
阿弥陀さまはなぜ「南無阿弥陀仏」になられたのか。それはわたしひとりを救うためでした。
この「わたしひとり」は、限定された「わたしだけ」というひとりではなく、「天地にただひとり」という存在を意味しています。つまり万人に開かれた「わたしひとり」です。初めてここに救いが成立します。
「あなたを必ず救う」と
このよび声が、わたしの根源的な主体となって、わたしを導いてくださることを、他力の信心といいます。
それは如来の光明が煩悩のわが身を照らし、導いてくださる人生です。
「このまま」ではありません。
『新しい「領解文」』には、「
⑶「ありがとう といただ」くことが、他力の信心でしょうか。
「ありがとうといただく」と言えば、なにか隣の家からお土産をもらうような気がします。
信心をそのように実体があるものとしてとらえることを、自力の信心といいます。
自力の信心は、わたしが作りあげるものですから、これが信心だという確信がほしいのです。
しかし他力の信心は、「あなたを必ず救う」という南無阿弥陀仏のよび声を聞いて、わたしの救いについて自力のはからい(疑い)が破られたことをいいます。何かができあがるのではないのです。
他力の信心の最大の特色は、「これが信心だ」とつかめるような
これを本願には「信楽」と誓い、成就文には「
「あなたを必ず救う」という名号のいわれ(仏願の生起本末)を聞いて、わたしの救いについて疑いが破られたことを他力の信心というのですから、あえて信心の体をあげれば、名号です。
「南無阿弥陀仏」という阿弥陀さまのお名前が、わたしの信心となり、お念仏となってくださるのです。
親鸞聖人は、『信文類』信楽釈に「この心は、すなはち如来の大悲心なるが故に、必ず報土の正定の因となる」とおっしゃいます。(『註釈版』235頁)
如来さまの智慧と慈悲の仏心が、煩悩の身に充ち満ちて、真実の浄土に生まれて仏の覚りを開く、真実の因となってくださるのです。
⑷「自然(じねん)の浄土」は、何を意味するのか、わからないこと。
親鸞聖人が、「自然の浄土」といわれるときには、本願力によって完成された光寿二無量の報土を意味しています。(『註釈版』569、591頁)
しかしこの『新しい「領解文」』には、そのような内容はうかがえません。むしろ弥陀如来よりも「自然」の方が上であるという発想から、「弥陀の浄土」といわずに、「自然の浄土」と言われたように思えます。
確かに『自然法爾章』には、「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」(『註釈版』622頁)と述べられています。
この「料」は、「目的、理由、ため」という意味ですから、ここだけを読むと「阿弥陀仏は、あらゆる限定を超えた、色もない形もない自然の世界を知らせる手段である」ように見えます。
しかしこれは、次に続いて述べられていることが大切です。
「この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるべし。
これは仏智の不思議にてあるなり。」(『註釈版』622頁)
つまり、自然という道理がわかったら、ことさらに自然を取り上げて論じてはならないと言われます。
なぜでしょうか。
それは、自然とは一如・真如のお覚りの世界の話なので、わたし達には結局わからないからです。わからないことを論ずると、計らいのなかに堕してしまいます。
仏智の不思議とは、弥陀の願力自然のはたらきによって、一切衆生に弥陀如来と同じ無上の覚りを開かしめることをいいます。
これが法性法身・方便法身という二種法身で示された、躍動する救いのはたらきです。そのことを親鸞聖人は、『一念多念文意』や『唯信鈔文意』に述べられています。(『註釈版』690~691、709~710頁)
『新しい「領解文」』には、「弥陀の浄土」といわず、「自然の浄土」といわれるところに、不自然さが感じられます。
⑸突然に「仏恩報謝のお念仏」が出てくること。
従来の『領解文』には、「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ」(『註釈版』1227頁)と、信一念に現生正定聚の利益を得るという、信心正因の義が明かされていました。
信心が正因であるから、称名が報恩となるのです。
『新しい「領解文」』には、どこに信心正因を述べておられるのでしょうか。
㈡、第二段について
⑴師徳への感謝を、ご門主が要求される形式になっていること。
「次第相承の善知識」を、「法灯を伝承された、歴代宗主」に限定し、その「尊いお導き」のご恩に感謝せよと、ご門主自身が示すのは、とても危うく感じます。
存覚上人の『浄土真要鈔』には、「仏・菩薩のほかにも衆生のために法を聞かしめんひとをば善知識といふべしときこえたり。またまさしくみづから法を説きてきかするひとならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識となづく。」と述べられています。(『註釈版』994頁)
善知識は、あらゆる有縁の方々ではないでしょうか。今回はなぜ「歴代宗主」に限定されたのでしょうか。
㈢、第三段について
⑴自らの信心の表明である領解に、「念仏者の生き方」を述べる必要があるのでしょうか。
信心は、平等一味の信心です。わたしの浄土往生の道が、このように定まりましたという表明です。
生き方は、ひとり一人が実践する報謝のすがたです。報謝は無尽です。同一に論ずるものではありません。
⑵道徳を勧めることにより、社会的弱者を切り捨てる恐れがあること。
お法(みの)りを聞かせていただいた者が、その人個人の決意表明として、「精一杯つとめます」と言うことはあるでしょう。それを否定するものではありません。
しかしこの『新しい「領解文」』は、お寺に来た人全員に、これを唱和しなさいと強制するものです。
それは個人の決意表明とは、全く意味が異なります。
そこには、「精一杯つとめます」と言えないほど追い詰められている、いのちの悲しみが見えていません。
親鸞聖人が特に問題とされたのが、自分を善人の立場において、相手を裁く思想でした。
それは「化身土文類」に一貫して顕され、誡められています。
「
「日々に精一杯つとめます」
この言葉は、一見よい言葉のように響きます。
しかし、ぎりぎりのところで生きてこられた人を、さらにむち打つ言葉ではないでしょうか。
「わたしはこれ以上がんばれない。
ここはわたしの居場所ではない。」
せっかく最後の依りどころとしてお寺に来られた人を、絶望に追いやる言葉です。
この言葉がお寺に張ってあったら、深く傷ついて、帰りに死を選ぶ人がおられるかもしれません。
「あなた、がんばって生きてきたね。ひとりぼっちで、すべてを背負おうとしなくていいよ。あなたの周りを見てごらん。あなたを支えようとしている人が、たくさんいるよ。
重いものを、
そんな優しい言葉がかけられないのでしょうか。
この『新しい「領解文」』は、善人の驕りのように聞こえます。
悲しいことです。
②表現についての疑問
⑴『新しい「領解文」』は、「わかりやすい言葉で表現」すると言われていながら、難しい言葉が使われていること。
1、「弥陀のよび声」
初めて仏教に触れる若い方に、新しい「領解文」を読んでもらいました。
「南無阿弥陀仏」の仏さまが、「こっちにおいで」と呼んでおられるというイメージをもつとお話しくださいました。
南無阿弥陀仏の名号は、そのままが弥陀のよび声であり、その意味が「われにまかせよ そのまま救う」という内容であると受け取ることは、とても難しいように思います。
2,「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つ」
煩悩と菩提が体無二であることは、仏教の深い道理です。これが明らかになることが、覚りですが、凡夫にはわからない世界です。
わかったように表現されているところに、危うさを感じます。
3、「愚身」を「み」と読んでいること
日本語の辞書や、親鸞聖人のお言葉の中に、「愚身」を「み」と読む用例はありません。
また、若い人は「愚身」という言葉は用いません。これはよほど年配の方が用いる言葉です。
若い人に読んでもらいたいという『新しい「領解文」』に、なぜこの言葉を使われているのでしょうか。
4、「自然の浄土」
「自然」を、「しぜん」と読まずに、「じねん」と読む所からすでに難しいと思います。
「しぜん」と「じねん」の違いを、明確に説明できるのでしょうか。
5、「仏恩報謝のお念仏」
「仏恩報謝」と書いて、「ぶっとんほうしゃ」と正確に読み、その内容が理解できるのでしょうか。
6、「法灯を伝承」「歴代宗主」
「法灯」とは何か、「伝承」とは何か、「歴代宗主」とは誰か。それぞれ解説が必要です。
⑵第1段の主語は誰か、弥陀如来と衆生と交錯し、明瞭でないこと。
⑶第1段と、第2・3段の、文体が違うこと。
第1段は体言止め、第2・3段は口語調で、文体が異なります。
このような短い文章で文体が異なると、読んでいて違和感をおぼえます。
⑷文章が整っていないので、語調が悪く、読みづらく、覚えにくいこと。
Ⅲ、「唱和」についての疑問
現代においては、社歌や社訓を唱和する企業は、ブラック企業といわれることもあります。
特に若い人たちは、同じ言葉を唱和することに、嫌悪感を抱いているようです。
今回、新しい「領解文」を唱和することを強要されていることは、かえって若い人が離れていくことになりませんか。
まして領解とは、本来ひとり一人の領解です。その一番大切な信心の内容は、強制されて言わせられるものではありません。強制されればされるほど、心が本願寺から離れていってしまいます。
なぜ「唱和」をここまで強く勧められているのか、疑問です。
【まとめ】
以上のことを、まとめてみましょう。
Ⅰ、急に制作され、整備されていないので、矛盾があり、言葉も洗練されていないように思われること。
Ⅱ、内容も、従来聞いてきた真宗の法義と異なるように見えること。
㈠、第一段
- ⑴、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つ」
- もともとわたしは仏であり、この世が浄土であるという、天台の本覚法門の発想であり、親鸞聖人が「信文類」序文に「自性唯心に沈んで、浄土の真証を貶す」と言われた、「自性唯心」に当たるように見えること。
- ⑵、「ありがとう といただいて この愚身(み)をまかす」
- 他力の信心は「無疑心」であり、物柄がないことが最大の特色です。それを何かものをもらうような表現になっているように思われること。
- 他力の信心は「無疑心」であり、物柄がないことが最大の特色です。それを何かものをもらうような表現になっているように思われること。
- ⑶、「そのまま」を「このまま」と持ち替えていること。
- ⑷、「自然」の理解がわかりにくいこと。
- ⑸、報恩の念仏がでるもとである、信心正因の法義が見当たらないこと。
㈡、第二段 善知識帰命を勧めているようにみえること。
㈢、第三段 この世の道徳を勧める、善人の驕りにみえる。善悪平等の救い、悪人正機が見えないこと。
つらい想いをしてやっと生きている人を、傷つけ、死に追いやる言葉であるように感じられること。
Ⅲ、領解と唱和を、混同していること。
領解は、ひとりひとりの信心の表明です。唱和は、スローガンです。異質なものです。
【今後の行動】
いままで見てきたように、『新しい「領解文」』には、たくさんの疑問があります。
ではわたし達は、これからどうしたらよいのでしょうか。
今後の行動について、ご一緒に考えてゆきましょう。
①『新しい「領解文」』について一緒に考える仲間を見つけ、ともに学ぶ機会を設ける。
② 2月24日のシンポジウムを見たり、ほかの人に勧める。
③ 疑問に思ったことを、仲間とともに本願寺当局にお尋ねする。
600-8501 京都市下京区堀川通花屋町下ル 浄土真宗本願寺派総局御中
④『新しい「領解文」』について納得できない間は、唱和することを控える。
⑤それぞれの法座ごとに、自身の領解(ご信心)について語り合える、豊かな座談の場を開く。
どうぞあなたも、親鸞聖人が開かれた、浄土真宗の集いに参加されませんか。
ともに本願念仏の大道を歩んでゆきましょう。 称名・合掌
【参考文献】
⑴石上智康総長の領解
1、総長の想いがよくわかる対談 【未来の仏教対談 石上智康×松本紹圭】
前編 https://higan.net/hijiri/2019/01/mirai01/
後編 https://higan.net/hijiri/2019/01/mirai02/
もし霊的な道を歩んでいる間に、制度化された仏教の凝り固まった考えや硬直した戒律に出くわしたら、それからも自分を解放しなければならないということだ。
イスラエルの歴史学者 ユヴァル・ノア・ハラリ氏
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』上巻228~229頁(河出書房新社)
このような使命感をもって行動しておられると推察します。
2、著書
1、「この世」と「あの世」を結ぶことば 徳間書店 2005年7月
2、生きていく 救われていく 徳間書店 2011年8月
《この本を、小出遥子・ライター高野成光氏によって読みやすく改訂されたのが、次の本》
3。生きて死ぬ力 中央公論新社 2018年5月 2020年12月増補・改訂
《この本が、新しい「領解文」のもとになった本》
⑵在野の領解
1、「新しい領解文を考える」シンポジウム
2023年2月24日に、瓜生崇さんの「浄土真宗の法話配信」で、『新しい領解文を考える』シンポジウムが開催されました。
インターネットで、「新しい領解文を考えるー組織と教学の陥穽」と検索してくだされば、無料で見ることができます。
https://www.youtube.com/live/Jat7j8OMrIU?feature=share
2、『新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)制定の経緯』 https://www.zengyou.net/?p=10305#.ZEBsMXbP23A
(富山県黒部市宇奈月町「白雪山善巧寺」のHPで公開中)
「新しい領解文」を考える―組織と教学の陥穽
YOUTUBE.COM
「新しい領解文」を考える―組織と教学の陥穽
2023年1月16日、浄土真宗本願寺派の大谷光淳門主より、「新しい領解文」が発布されました。https://www.hongwanji.or.jp/message/m_001985.html
この「新しい領解文」は多くの反響を呼んでおり、その中には批判的な意見も少なくありません。
脚注