「親鸞聖人の教え・問答集」の版間の差分
提供: 本願力
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− | + | 【三】他力ということ | |
− | + | 一、自力・他力の誤解 | |
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+ | '''Q''' プロ野球の、終盤戦が近づいた頃、テレビの実況放送を聞いていますと、解説者が「今日の試合に負けたら、このチームの自力優勝はなくなる。あとはライバルのチームが負けてくれるのを待つしかありません」と言いますと、放送記者が「他力をたのむばかりですね」などと相づちを打っているのを聞くことがあります。そんなとき、なにか違和感をおぼえ、自力・他力という言葉はこんな使い方をしていいのかな、と思うことがあります。とくにライバルのチームが負けたために自分のチームが有利になることを他力に救われたというのは、どう考えてもおかしいと思いますが、いかがでしょうか。 | ||
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+ | A 確かにその通りですね。しかし同じような例が幾らもあります。会社の経営がうまくいかなかったり、地方自治体の赤字財政が問題になったときなどにも、「他力をたのまずに何よりも自力更生を計らねばならない」というような論評を聞くことがありますが、やはり違和感がありますね。中には「他力本願では駄目だ、何事も自力で立ち上がる努力をしなければならない」などと、「他力本願」という大切な仏教用語をこんな形で使われると、違和感を通り越して腹立ちを感じます。 | ||
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+ | '''Q''' もともと自力・他力という言葉は仏教から出た言葉でしょうが、どういう意味を表していたのですか。 | ||
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+ | A それが実は仏教の中でもさまざまな使い方がされていまして、一概に言い切れない内容を持っているわけなんです。<br /> | ||
+ | 親鸞聖人などは自力・他力という言葉を厳しく限定し、定義して、その定義に従ってキッチリと使っていかれますから、たとえば「あなたのような自力・他力の使い方は親鸞聖人の教えではありません」と言い切ることはできます。しかしそれは親鸞聖人の教えに関してはいえますが、同じ仏教徒の中でもさまざまな使い方がされていますから、一概には言い切れません。<br /> | ||
+ | たとえば聖道門の方が使う自力・他力と、浄土門の方が使われる自力・他力とは違いますし、同じ浄土門の方であっても、後に詳しく述べるように法然聖人の弟子の聖光房弁阿上人やその弟子の良忠上人が使われる自力・他力と、親鸞聖人の自力・他力とは大きな違いがありました。ですから私は誰それのような使い方をしているのだといわれれば、「そうですか」といわざるを得ないところもあります。 | ||
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+ | こういうわけで世間の常識としての自力・他力の使い方が一概に悪いと言い切ってしまうことができないところに難しさがあるわけです。 | ||
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+ | '''Q''' 自力・他力というような言葉は、スッキリとわかりやすい言葉かと思っていましたが、ずいぶん難しいんですね。 | ||
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+ | A そうです。むしろわかりやすい言葉というのは、どうにでも解釈ができるからで、実は誤解されやすいということもあるわけです。その意味で蓮如上人が「心得たと思うは心得ぬなり、心得ぬと思うは心得たるなり」と言われたように、とくに仏法を聞くときには早とちりをしないように気をつけねばなりません。<br /> | ||
+ | 自力と他力を同じ次元で並べて、自力とは自分の力ではげむことであるが、他力とは他人の力をあてにして、自分は何もしないことであると理解したとすれば、それは理解したのではなくて誤解をしたことになります。とくに浄土教で救いを表わすために使っている他力という言葉は、生と死の惑いを断ち切って、人びとに安らぎと充実感を与えていく法義を顕わす言葉ですから、もともと常識を超えた領域を指し示していました。 | ||
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+ | '''Q''' わかっていると思っていたことがわからなくなってきて、頭の中が混乱してきました。少しずつ整理していきたいと思います。とにかく自力・他力という言葉には常識的な部分と常識を超えた部分とがあるようですね。 | ||
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+ | A その通りです。たとえば自力・他力を「自分の力」と「他人の力」というような対句とみるのは常識的な見方です。そして自力とは、自分の力をたのみにして修行し、さとりに向かって向上することを勧める教えであるというのは正しいわけです。これは常識的な教えですからね。<br /> | ||
+ | しかしその反対に「他力とは他人の力」ということで、他人のカをあてにして、自分は何もしないことであると他力を常識的に理解するのは間違いです。 | ||
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+ | それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛欲や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる、そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始まるのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。 | ||
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+ | そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。 | ||
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+ | 二、他力不思議 | ||
'''Q''' それでは親鸞聖人の場合、自力と他力というのは、単純な対句ではなかったのですね。 | '''Q''' それでは親鸞聖人の場合、自力と他力というのは、単純な対句ではなかったのですね。 | ||
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といわれているのも同じ心を讃詠されたものです。なおこの和讃は「顕智本」では、「聖道門のひとはみな 自力の心をむねとせり」となっています。いずれにせよ自力を思議とし、他力を不思議と見られていたことがわかります。 | といわれているのも同じ心を讃詠されたものです。なおこの和讃は「顕智本」では、「聖道門のひとはみな 自力の心をむねとせり」となっています。いずれにせよ自力を思議とし、他力を不思議と見られていたことがわかります。 | ||
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2019年6月27日 (木) 12:39時点における版
Q
A 一如とは、「さとり」の智慧を完成された方が、自分も含めて一切万物が、それぞれ今あるそのままの姿で、絶対の尊厳さをもって光輝いていることを確認された様子を表す言葉で、
五、般若・無分別智の意味
Q いよいよ分からなくなってきましたが、その無分別智とか般若という智慧は私どもの知識とどう違うのですか。
A たとえば生死一如と呼ばれるように、生と死というような決して両立することのできないと考えられている事柄が、そこでは何の矛盾も無く、同じようにありがたいこととして受け容れられるような、あえていえば生と死が一つに溶け合っているような領域を確認する智慧を無分別智というのです。
それに引き替え、私どもはあらゆる事柄を、生と死、我と汝、是と非、苦と楽というように言葉を使って明確に区別し、分類して認識しています。それを「
そのような自分本位の虚妄分別を離れて、生と死、自と他を、そのあるがままの姿で受け容れ、生きることもありがたいことであり、死ぬこともありがたいことであると言い得る境地が開かれたとき、生と死は決して矛盾対立するものではなくなります。また自分と他人の隔てを超えて、人びとの苦しみを共に痛み、人びとの幸せを自分のことのように願っていく心が開かれている人にとって、敵も味方もなくなって、
そのように私どもが虚妄分別の壁を打ち破ることができるならば、一切の矛盾対立は超えられ、あらゆることをありがたく、尊いことと受け容れる心境が開かれていきます。そのように虚妄分別を破る智慧を「般若(プラジュニャ)」と呼んでいます。こうして般若の智慧によって、虚妄分別が、すべてのものをズタズタに切り裂いていた世界を、本来の真実の相に帰らせ、万物は一つに溶け合って、同じ尊厳さに輝く豊かな「いのち」の世界を開いてくれます。その領域を一如というのです。またその般若と呼ばれる智慧を「
しかしこうした一如の世界は、物事を区別して表す機能しか持たない言葉では表現することはできませんし、一切の限定・区分を超えていますから形で示すこともできません。それを仮に「一如」とも「真如(本当にあるがままの領域)」とも、「実相(人間の煩悩の手垢のつかない真実の姿)」とも、「無上
六、迷妄を喚び覚ますもの
Q それでは、そのようなさとりの領域は、虚妄分別しか持ち合わせのない私どもには、わかりようもなく、手のつけようもない世界になってしまいますね。
A 確かに分別知しか持たない私どもにわかるのは、虚妄分別によって虚構された世界、つまり迷いの世界しかわかりません。しかしその安らかなさとりの境地を、虚妄分別に閉ざされて迷っている人びとに知らせて導き救うために、一如の世界から救いの手が伸ばされているのです。
それが『大経』に説き顕わされた法蔵菩薩の大悲本願の因果だったのです。すなわち、形を超えた一如の領域を形で顕わし、言葉を超えた真実の世界を絶妙の言葉をもって表現し、迷い苦しむ者を喚び覚まし、導いてくださっているのです。そのような言葉を超えた領域を表わす言葉を
七、浄土建立の誓願
{中略}
Q 法蔵菩薩は、どのような本願を立てられたのですか。
A その大きな特徴は浄土を建立して、そこへ人びとを生まれさせて、さとりを完成させようという誓願を立てられたということです。
Q なぜ浄土を建立しようとされたのですか。
A 煩悩に汚れたこの
Q それをもう少し詳しく説明してください。
A 仏陀は、人びとが苦しむのは、自己中心の想念(
もちろん貪欲・瞋恚・愚痴の三種は代表的な煩悩をあげただけで、実際には状況に応じて
いいかえれば煩悩は単に心の問題というよりも、むしろ身体の問題であるというべきでしょう。自己保存の欲求と、自己拡散の欲望は、細胞のひとかけらにも備わっている機能なのです。
Q 自分の力では煩悩を断ち切ることのできない者のために、浄土を建立されたといわれるのですか。
A そうです。この
法蔵菩薩は、そのような自分も環境も浄化するどころか、いつの間にか自分もまた人びとの悪縁に成り下がって、自他ともに迷いを重ねていく愚かな煩悩具足の凡夫をご覧になって、このような者を救うためには、全く悪縁のない、
愛欲や憎悪を起こすような悪縁が全くないならば愛憎の煩悩も起こらないはずです。また如来の清浄無垢な智慧と慈悲の領域である浄土に至れば、自ずから大智大悲の徳に同化し、
そのことを
こうして煩悩具足の凡夫を救うためには、悪縁が全くなく、往生した者の無明煩悩を浄化することのできるような智慧と慈悲を本体とした、広大無辺な清浄仏国を
こうして自分と他人との隔てを超えて、自他を一如と見きわめられた法蔵菩薩は、煩悩具足の凡夫の愚かしい心情や行動を他人事としてではなく、菩薩ご自身の痛みと感受し、ご自身の責任と感じて、「浄土建立」という壮大な誓願を発し、衆生救済に立ち上がられたのでした。
【三】他力ということ
一、自力・他力の誤解
Q プロ野球の、終盤戦が近づいた頃、テレビの実況放送を聞いていますと、解説者が「今日の試合に負けたら、このチームの自力優勝はなくなる。あとはライバルのチームが負けてくれるのを待つしかありません」と言いますと、放送記者が「他力をたのむばかりですね」などと相づちを打っているのを聞くことがあります。そんなとき、なにか違和感をおぼえ、自力・他力という言葉はこんな使い方をしていいのかな、と思うことがあります。とくにライバルのチームが負けたために自分のチームが有利になることを他力に救われたというのは、どう考えてもおかしいと思いますが、いかがでしょうか。
A 確かにその通りですね。しかし同じような例が幾らもあります。会社の経営がうまくいかなかったり、地方自治体の赤字財政が問題になったときなどにも、「他力をたのまずに何よりも自力更生を計らねばならない」というような論評を聞くことがありますが、やはり違和感がありますね。中には「他力本願では駄目だ、何事も自力で立ち上がる努力をしなければならない」などと、「他力本願」という大切な仏教用語をこんな形で使われると、違和感を通り越して腹立ちを感じます。
Q もともと自力・他力という言葉は仏教から出た言葉でしょうが、どういう意味を表していたのですか。
A それが実は仏教の中でもさまざまな使い方がされていまして、一概に言い切れない内容を持っているわけなんです。
親鸞聖人などは自力・他力という言葉を厳しく限定し、定義して、その定義に従ってキッチリと使っていかれますから、たとえば「あなたのような自力・他力の使い方は親鸞聖人の教えではありません」と言い切ることはできます。しかしそれは親鸞聖人の教えに関してはいえますが、同じ仏教徒の中でもさまざまな使い方がされていますから、一概には言い切れません。
たとえば聖道門の方が使う自力・他力と、浄土門の方が使われる自力・他力とは違いますし、同じ浄土門の方であっても、後に詳しく述べるように法然聖人の弟子の聖光房弁阿上人やその弟子の良忠上人が使われる自力・他力と、親鸞聖人の自力・他力とは大きな違いがありました。ですから私は誰それのような使い方をしているのだといわれれば、「そうですか」といわざるを得ないところもあります。
こういうわけで世間の常識としての自力・他力の使い方が一概に悪いと言い切ってしまうことができないところに難しさがあるわけです。
Q 自力・他力というような言葉は、スッキリとわかりやすい言葉かと思っていましたが、ずいぶん難しいんですね。
A そうです。むしろわかりやすい言葉というのは、どうにでも解釈ができるからで、実は誤解されやすいということもあるわけです。その意味で蓮如上人が「心得たと思うは心得ぬなり、心得ぬと思うは心得たるなり」と言われたように、とくに仏法を聞くときには早とちりをしないように気をつけねばなりません。
自力と他力を同じ次元で並べて、自力とは自分の力ではげむことであるが、他力とは他人の力をあてにして、自分は何もしないことであると理解したとすれば、それは理解したのではなくて誤解をしたことになります。とくに浄土教で救いを表わすために使っている他力という言葉は、生と死の惑いを断ち切って、人びとに安らぎと充実感を与えていく法義を顕わす言葉ですから、もともと常識を超えた領域を指し示していました。
Q わかっていると思っていたことがわからなくなってきて、頭の中が混乱してきました。少しずつ整理していきたいと思います。とにかく自力・他力という言葉には常識的な部分と常識を超えた部分とがあるようですね。
A その通りです。たとえば自力・他力を「自分の力」と「他人の力」というような対句とみるのは常識的な見方です。そして自力とは、自分の力をたのみにして修行し、さとりに向かって向上することを勧める教えであるというのは正しいわけです。これは常識的な教えですからね。
しかしその反対に「他力とは他人の力」ということで、他人のカをあてにして、自分は何もしないことであると他力を常識的に理解するのは間違いです。
それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛欲や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる、そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始まるのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。
二、他力不思議
Q それでは親鸞聖人の場合、自力と他力というのは、単純な対句ではなかったのですね。
A その通りです。通俗的には自分の力と他人の力という同一の次元での対句だったわけです。しかし人間の知性と実践で解決のできる思議(思いはからい)の領域を表している自力に対して、人間の思慮分別を超えた本願のはたらきが、人間を導いていく如来の不可思議な大悲智慧のはたらきを表す言葉が他力であるといったときには、人間の思議の領域と仏陀の不思議な智慧の領域を表していました。そういう意味で人間中心の考え方と仏中心の考え方の違いをあらわす対句とみることもできます。少なくとも親鸞聖人は後者のような意味で自力・他力という言葉を使われていたのです。
Q すると親鸞聖人は、自力と他力とを、人間の知識のはたらきと、阿弥陀仏の智恵のはたらきとに分けられたということですか。
A そうです。ですから親鸞聖人は、自力の教えは人間に理解可能な常識的な領域を知らせる教えですが、他力は常識を超えた不可思議な阿弥陀如来の本願力のはたらきを示す言葉であると見られていたのです。
聖人が『教行証文類』の「行文類」や『愚禿鈔』の中で自力の諸行と他力の行(念仏)を比較される中に、「思不思議対」という対目(ついもく)をあげられていました[1]。 自力の修行は人間の努力の延長線上の出来事ですから思議の領域であり、他力は人間の思いはからいを超えた不思議な仏智のはからいを表しているといわれるのがそれです。『正像末和讃』にも、
- 聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして
- 他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり
といわれているのも同じ心を讃詠されたものです。なおこの和讃は「顕智本」では、「聖道門のひとはみな 自力の心をむねとせり」となっています。いずれにせよ自力を思議とし、他力を不思議と見られていたことがわかります。