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(第二段 師の徳を讃える)
(第二段 師の徳を讃える)
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:一 仰せに、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰せには、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。(『浄土真宗聖教全書』p.672)
 
:一 仰せに、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰せには、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。(『浄土真宗聖教全書』p.672)
  
と、あるように、わが宗主の師の徳を讃えよ、とされることはなかった。
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と、あるように、わが宗主の徳を讃えよ、とされることはなかった。
  
 
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領解文 (浄土真宗のみ教え)

第一段 お念仏のこころ

  南無阿弥陀仏
  「われにまかせよ そのまま 救う」の  弥陀のよび声
  私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ
  「そのまま 救う」が 弥陀のよび声
  ありがとう といただいて
  この 愚身をまかす このままで
  救い取られる  自然の 浄土
  仏恩報謝の お念仏


体言止め[1]多用の表現のため非常に判りにくい文章である。元に詩的な文章があって、それを適宜抜き出して張り合わせたような文である。句読点がないなど日本語が不自由な人の文かもである。

 南無阿弥陀仏
 「われにまかせよ そのまま 救う」の  弥陀のよび声

といふ表現は、

 南無阿弥陀仏と称えることは「われにまかせよ そのまま 救う」の阿弥陀如来の()び声をくことです。

という意であろう (聞即信)。 これを御開山は「本願招喚の勅命」と仰せであった。「そのまま 救う」の表現は約仏なので「このまま」と私に持ち替えてはならない。先人は、そのままを、このまま きままと たわけるな、と云われていた(*)。 なお弥陀といふ表現は略語であり一般的には通じない言葉であろう。若い人に判るようにといふ新作領解文の欺瞞である。

 私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ
 「そのまま 救う」が 弥陀のよび声

この一段は、大乗仏教においては煩悩菩提(さとり)もであり、本来は不二で相即しているから煩悩即菩提といふ、と云いたいのであろう。
御開山にも
(32)

本願円頓一乗は
 逆悪摂すと信知して
 煩悩・菩提体無二
 すみやかにとくさとらしむ

煩悩菩提体無二や、煩悩即菩提生死即涅槃といふ表現はあるが、それは本願一乗(誓願一仏乗)の法の円頓の徳を讃嘆する言葉であった。
しかし、

 私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ

といふ表現は「私の煩悩」とあるところから、自ら煩悩即菩提自覚せよといふのであろう。これは聖道門の論理であって受戒も修行もしない煩悩具足凡夫の教えではない。「本来一つゆえ」の本来とは、もともと、初めからといふ意であり、「煩悩に覆われて迷っている状態(不覚)にもかかわらず、本性として本来的にさとりの性質をもっているということ。」(浄土真宗辞典 本覚) の本覚といふことである。
これが浄土教を破壊すると批判を受けている「不二絶対」の天台本覚門の教えであった。
『WEB版新纂浄土宗大辞典』によれば、

本覚思想の特色としては以下の諸点があげられよう。①本来的に覚っているので、迷いと覚りを峻別せず、むしろ一体視する。具体的には、本来対立する概念であるはずの二者を「即(イコール)」で結ぶ。例えば「生死即涅槃」「煩悩即菩提」「娑婆即浄土」「我即弥陀」など。②両者を峻別しないので、「草木国土悉皆成仏」などと示されるように、汎神論的傾向を持つ。③「不二絶対」の一元論的立場に立つ。④自身が覚っているということに気付きさえすれば覚れるということとなり(「一念成仏」)、修行軽視の方向へ進む傾向を持つ。⑤迷いの世界がそのまま覚りの世界であるため、現実肯定的となる。⑥その教えは「口伝」として伝授される場合が多い。以上のような特色のいくつかは、密教(真言宗)や禅宗の教えの中にも見られ、さらには浄土系や日蓮系の教えの中にも指摘される場合があり、日本仏教全般にわたり、その影響が認められる。➡(浄土宗大辞典/本覚思想

とあるように、娑婆と浄土の「相対的二元論」に立つ浄土教とは相いれない関係である。それが、

 私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ

といふ「絶対的一元論」の言葉であった。この文の作者は、生半可な空思想の理解から煩悩も菩提もであり相即していると云いたいのであろうが、これこそ煩悩に呻吟している我ら門徒の現実を無視し愚弄する言葉であった。
梯實圓和上は『法然教学の研究』で、

煩悩具足の凡夫が、我即真如なり、我即仏なりとおもえば真如であり、仏であるという本覚法門は、深い罪障にまつわられ、煩悩に狂わされて愛と憎しみのはざまを迷いながら生きるしか生きようのない凡夫の現実が全く無視されているといわねばならない。娑婆即寂光と理論的に理解したとしても、現実には娑婆の苦悩から解放されるわけではない。煩悩即菩提、生死即涅槃と思っても煩悩、生死の現実は少しもかわらないし、我即仏と信じても、浅ましい凡夫でありつづけるとすれば本覚法門とは、娑婆に生きる凡夫の現実を捨象した空論であり、抽象論に過ぎないときびしく批判していったのが法然の浄土教学であった。➡本覚法門と浄土教

と述べておられた。浄土真宗は煩悩具足の凡夫のための、浄土を真実とするご法義であるが、「私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ」と妄想する煩悩なき本山の偉い人はこれが解らんのだろう。
天台本覚思想の「絶対的一元論」と浄土教の「相対的二元論」については本覚思想の大家であった田村芳朗氏の考察が役に立つだろう。➡(仏教の思想5#天台思想と鎌倉新仏教――法然

第二段 師の徳を讃える

  これもひとえに
  宗祖聖人と
  法灯を伝承された 歴代宗主
  尊いお導きに よるものです


令和三年・二〇二一年の立教開宗記念法要での「浄土真宗のみ教え」に、この文を師の徳を讃える文として追記し新作領解文として発布したのである。そして現在の宗主である自己を宗祖聖人と同一化して我の徳を讃えよといふのであった。あり得ないことであるが、これでは知識帰命異安心である。
正統の『領解文』では、

この御ことわり 聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。➡領解文

と、次第相承善知識とあり必ずしも歴代宗主を指すのではなかった。『真要鈔』p.960には、「たとひまた源空・親鸞世に出でたまふとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心をつたへがたし」とある[2]。『華厳経』「入法界品」にあるように外道や道端で遊んでいる子供も法を説く善知識であった。
なお、蓮如上人の行状を記した『空善聞書』には、

一 仰せに、おれは門徒にもたれたりと、ひとへに門徒にやしなはるゝなり。聖人の仰せには、弟子一人ももたずと、たゞともの同行なりと仰候きとなり。(『浄土真宗聖教全書』p.672)

と、あるように、わが宗主の徳を讃えよ、とされることはなかった。

第三段 念仏者の生活

  み教えを依りどころに 生きる者 となり
  少しずつ 執われの 心を離れます
  生かされていることに  感謝して
  むさぼり いかりに  流されず
  穏やかな顔と 優しい言葉
  喜びも 悲しみも 分かち合い
  日々 精一杯 つとめます


浄土真宗は生き方を問わない。何故なら煩悩具足の門徒の生き方を問題とするならば誰一人として清浄の報土へ往生出来ないからである。 そこで、煩悩具足の衆生の為に五劫思惟の末に「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と、根本の願である念仏往生の願第十八願)を建立されたのであった。これを「仏願の生起本末」といふ。
梯實圓和上は、浄土真宗は大人の宗教だと仰っていた。

 それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛欲や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる、そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始まるのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
 そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。➡「親鸞聖人の教え・問答集」

と、仰っておられた。
御開山は『一念多念証文』で凡夫の現実を、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。➡「『一念多念証文』p.693」

とされておられた。
御開山の、この『一念多念証文』の意(こころ)によれば、あたらしい領解文とやらの「念仏者の生活」とは、凡夫の生きる現実を無視した空論であり暴論であろう。

令和五年
二〇二三年
 一月十六日
  龍谷門主 釋 専如

  1. 文の末尾を「体言(名詞、代名詞など)」で結ぶ書き方。
  2. 『持名鈔』p.1016にも、「源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。」とある。