法然教学の研究 /第二篇/第一章 法然聖人における回心の構造/第七節 三学無分の自覚
提供: 本願力
なお脚注の読下文は私において付し、本文註:がある説明は同書のものである。
第一章 法然聖人における回心の構造
第七節 三学無分の自覚
聖光房弁長は『徹選択集』上(浄全七・九五頁)(*)に、法然からその回心の模様を次のように聞いたと記している。
出離之志至深之間、信諸教法修諸行業。凡仏教雖多所詮不過戒定慧之三学。所謂小乗之戒定慧、大乗之戒定慧、顕教之戒定慧、密教之戒定慧也。然我此身於戒行不持一戒、於禅定一不得之、於智慧不得断惑証果之正智。……悲哉悲哉、為何為何、爰如予者已非戒定慧三学之器、此三学外有相応我心之法門耶、有堪能此身之修行耶、求万人之智者、訪一切之学者、無教之人無示之倫。然間歎歎入経蔵、悲悲向聖教、手自披之見之、善導和尚観経疏云一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故。文見得之後、如我等無智之身、偏仰此文専憑此理、修念念不捨之称名、備決定往生之業因、非啻信善導之遺教、亦厚順弥陀之弘願、順彼仏願之文染神留心耳
[1]。
「隠/顕」
出離の志、至りて深きの間、諸の教法を信じて諸の行業を修す。おおよそ仏教多しといえども所詮は戒定慧の三学に過ぎず。いわゆる小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧なり。しかるに我がこの身には戒行において一戒をもたもたず。禅定において一つもこれを得ず、智慧において断惑証果の正智を得ず。……悲きかな悲しきかな、いかがせん、いかにせん。ここに予がごとき者、すでに戒定慧三学の器に非ず、この三学の外に我が心に相応する法門ありや、よくこの身に堪えるの修行ありや、万人の智者に求め一切の学者を訪へども、これを教ゆる人無くこれを示す倫(ともがら)無し。
この聖光の所伝と、さきにあげた醍醐本『法然上人伝記』(*)等の記録とを照応すると、法然は『往生要集』を先達として『観経疏』に行きつかれたわけだが、そのときすでに問題は「三学の
それにしても円頓戒の正統をついだ戒師として、その持戒堅固な清僧ぶりが、多くの人に評価されていた法然が「戒行においては一戒をもたもたず」といい、「智慧第一の法然房」とたたえられていながら「愚痴の法然房」と自称されたのは何故であろうか。それは現実に破戒されたからではなかっただろう。むしろ厳格な戒律によって自己を律していこうとすればするほど、肉体の底から湧きおこる反戒律的な愛欲と憎悪の煩悩のはげしい衝動を実感されたからであろう。戒律は煩悩を制御するためのわくであるが、煩悩の野性は、常に戒律のわくを破って奔放しようとする強烈な力をもって突出してくる。それは懴悔法によって浄化できるような生やさしい存在ではなくて、まさに煩悩具足の野性そのものであり、無戒の自己であった。だから形式的に戒を持(たも)っていることは、常に破戒の危機にさらされていることであり、厳密な意味では「一戒もたもちえず」といわざるを得なかったのである。また一切経を読破して、各宗の教理や実践法を理解し、多くの仏教についての知識をもっていたとしても、それが「生死解脱の正智」でないかぎり、自身の生死については何事も知らないに等しい。「黒白もわきまえぬ」「一文不知」のしらじらとした一箇の凡愚が息づいているに過ぎない自身に気づいたとき、まさに愚痴の身としかいいえなかったのである。こうして自己の存在の底に、ずっしりと居すわる手のつけようのない無戒、無智の自身にかえるとき、三学の器にあらざる、その意味で行証のかけた末法的存在とは、何よりも自己自身であることを思い知るのである。末法とは自己をとりまく歴史的、環境的な状況であるに止まらず、自己自身の三学無分という存在状況を意味しているとすれば、末法を救う教法は、正確にはかかる自己を根源的に救う教法でなければならない。
ところで法然は「仏教多しと雖も所詮は戒定慧の三学に過ぎず」といわれているが、仏教を最も基本的な実践徳目である三学として把握していかれたところに、法然の関心が常に実践に向けられていたことと、さきにのべた『末法灯明記』(*)の影響をみることができよう。三学とは、煩悩を制御し、生活を浄化するために戒律を遵守することと、禅定の実践によって身心の安定と統一をおこなうことと、教理にしたがって真実を体解する智慧を開いて、生死を解脱することをいうが、それは八正道、六波羅蜜、円頓止観、三密加持等、すべての仏道修行に通じていた。小乗、大乗、顕教、密教と複雑に展開していった仏教教学も、その実践の基本構造は戒定慧に帰するとすれば、三学とは仏道そのものであった。従って三学の器にあらざるものとは、仏道によって救われないものということになり、彼に対しては仏教はもはや教法としての意味を失ってしまう。すなわち三学無分の機にとっては、末法というよりもむしろ法滅というべきであろう。法滅百歳の機[2]とは、遠い未来の人をさすのではなくて、無戒、愚痴の自身がそれなのである。後に成立する法然教学が、選択、廃立という厳しい選びの宗教であるのも、こうした無戒、愚痴の凡夫性をふまえて立っているからである。すなわち一切の自力を捨てるのは、一切の自力の教行に見捨てられている自己の確認であり、かかる身を見捨てたまうことなく摂取し、安住の処を得しめたまう本願への帰入をあらわしているのが廃立の宗義だったのである。
すでにのべたように、三学が仏教であるならば、三学無分の機が救われる教法は、常識的な意味での仏教ではないことになる。最澄(七六六(七)-八二二)は『顕戒論』(伝教全一・一九七頁)のなかで、円頓戒を独立するのは「円頓の戒定慧」、すなわち「円宗の三学」を本朝に永く伝持せんがためであるといわれている。従って三学は無効であるとして、三学外の仏教を求めることは、明らかに天台宗の伝統に背く異端児となっていくことであった。
にもかかわらず法然が公然とそれを問題とし得たのは、さきにのべた最澄作と伝えられる『末法灯明記』が強い精神的支柱となっていたからであろう。宮井義雄氏も法然の浄土教の独立は『末法灯明記』を媒介として前進したものであるといわれている。[3]
第八節 善導教学との邂逅
こうして自身を三学の器にあらずとみきわめたとき、法然は自力の三学による成仏を説く既成の聖道仏教はもちろん、三学成仏の方便法として浄土教を位置づけてきた従来の寓宗的浄土教にも絶望せざるを得なかった。しかし既成の仏教に絶望しても、仏教そのものに絶望されたわけではなかった。それは一つには大乗仏教の根底に「一切衆生、悉有仏性」という、一切皆成の思想が流れているかぎり、そして如来の大悲が無縁平等と説かれているかぎり、どこかに一切衆生を、善悪、賢愚のへだてなく成仏得脱せしめる教行を説き遺されている筈であるという信念があったからである。
そしてもう一つは、末法の時機に相応した教法を追求してきた浄土教の伝統があるかぎり、誰かが道を教示されている筈であるという期待をもって、たゆみなき求道をつづけられたのであった。しかし道綽教学はもちろん、善導教学といえどもすぐには三学無分の機の救いを知らせてはくれなかった。醍醐本『法然上人伝記』(法然伝全・七七四頁)に「善導に於て二反これを見るに往生難と思い、第三反度び、乱想の凡夫、称名の行に依って往生す可きの道理を得」(*)といわれた如くである。
持戒堅固な清僧であり、三昧発得の現証を得たといわれる善導は、その行状を見るかぎり三学の実践者であった。にもかかわらず自身を語られるときは「我等愚痴身」とか「煩悩を具足せる凡夫」といわれていた。それを信心の内容として表明されたのが『散善義』(真聖全一・五三四頁)深心釈下の機法二種深信であった。(*)
二者深心、言深心者、即是深信之心也。亦有二種、一者決定深信自身現是罪悪生死凡夫、曠劫已来、常没 常流転、無有出離之縁。二者決定深信彼阿弥陀仏四十八願、摂受衆生、無疑無慮、乗彼願力、定得往生。「隠/顕」二には深心と。深心といふはすなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願をもつて衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗りてさだめて往生を得と信ず。 [4]
その第一深信は機の深信とよばれ、第二深信は法の深信とよばれるが、機の深信は、自身は罪悪生死の凡夫であって、出離の縁すらないものであると信ずるのであるから、字義通り受けとれば「三学の器にあらざる」自力無功の機と信知することである。かかる機が阿弥陀仏の本願によって往生せしめられると信知するのが法の深信であるから、その所信は三学の外なる教法でなければならない。『玄義分』(同・四五九頁)の是報非化の釈下に、報法高妙の浄土へ垢障の凡夫が如何にして往生できるのかと問い、答えて、「若し衆生の垢障を論ずれば実に欣趣し難し、正しく仏願に託するに由って以て強縁と作りて、五乗をして斉しく入らしむることを致す」(*)といわれているが、垢障の凡夫から聖者まで、五乗を斉入せしめるような仏願力を説く教法は、自力成仏の法門とは全くちがった法門構造をもっているといわねばならない。後に法然が聖道門の外に浄土宗を独立しなければならないと主張された所以である。(*)(*)
ところで、法の深信における所信の法について『往生礼讃』前序(同・六四九頁)の二種深信釈には、
今信知弥陀本弘誓願、及称名号下至十声一声等、定得往生、乃至一念無有疑心。「隠/顕」いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。 [5](*)
といわれている。すなわち本願を信ずるとは、本願に誓われている称名を往生の行法と信ずることである。それは 『礼讃』後序(同・六八三頁)に第十八願を取意して、
若我成仏、十方衆生、称我名号、下至十声、若不生者、不取正覚。彼仏今現在成仏、当知、本誓重願不虚、衆生称念必得往生。「隠/顕」もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。◇ここでは世を除いた親鸞聖人の文による。 [6](*)
といわれたものと対応している。第十八願は、称名を往生の行法と定められているばかりで三学の実践は要請されていない。それゆえ三学無分の機も称名すれば本願にかない、願力によって往生せしめられるというのである。
『散善義』の深信釈では、そのことを詳しく知らしめるために、法の深信の釈下に就行立信釈(同・五三七頁)を設けて、経論に説かれているすべての往生行を簡択していかれたのである。
次就行立信者、然行有二種、一者正行、二者雑行、言正行者、専依往生経行行者、是名正行。……又就此正中、復有二種。一者一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故。若依礼誦等、即名為助業。除此正助二業、已外自余諸善、悉名雑行。若修前正助二行、心常親近、憶念不断、名為無間也。若行後雑行、即心常間断。雖可回向得生、衆名疎雑之行也。「隠/顕」次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。……またこの正のなかにつきてまた二種あり。一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに親近して憶念断えず、名づけて無間となす。 もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。 [7]
ここではまずすべての往生行を正行と雑行に分判される。元来此土入聖の行であったものを往生行に転用した諸行は、雑行とよんで所信の行から簡去し、阿弥陀仏とその浄土に対する行を正当な往生行、すなわち正行とし、それを読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養の五種にまとめられる。この五正行をさらに前三後一の四行を助業、第四の称名を正定業と分判されたのである。正定業とは、その一行によって正しく往生が決定する行業ということであり、助業とは、正定業を扶助し、資助する行業という意味にとる説と、正定業に任運に随伴する行業という意味にとる説とがあるが、いずれにせよ往生行としては第二義的な意義しか与えられていないことは明らかである。
かくて第二深信における所信の行法は、正定業たる称名一行にしぼられてくるわけで、『往生礼讃』の第二深信はそれを簡潔に示されたわけである。
善導がこのように往生の行業を称名一行に簡び定められたのは、所釈の経である『観経』の付属持名(真聖全一・六六頁)の意に依っている。すなわち経の終わりに一経所説の要法を阿難に付属するにあたって「汝好持是語、持是語者、即是持無量寿仏名「隠/顕」なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。[8]」といわれているのを『散善義』(同・五五八頁)に、
正明付属弥陀名号、流通於遐代。上来雖説定散両門之益、望仏本願意、在衆生一向専称弥陀仏名。「隠/顕」まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むる意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。 [9]
と釈されている。すなわち上来経の正宗分において説かれた定散諸行をさしおいて、未来世の煩悩具足の凡夫のために、称名念仏だけを付属されたのは、阿弥陀仏の本願に望めて、その願意を窺えば、衆生をして一向専称せしむる以外にないことを釈尊が見ぬかれたからであるといわれるのである。
すなわち阿弥陀仏は煩悩具足の凡夫を見すえて称名往生の本願を立て、釈尊はその願意をうけて定散諸行を簡び捨てて称名一行を付属された。それゆえ善導は二尊の教旨によって正雑、助正の分判をおこなって称名を正定業と選定し、無有出縁の機の為の行法を明示されたのである。こうした文脈をたどって善導教学の根本構造を徹底的に学び、自身が今行じている念仏が「本より仏のさだめおきて、わが名号をとなふるものは、乃至十声一声までむまれしむ」(*)と誓われた本願の行であることに気づかれたとき、法然のうえに決定的な回心がおこったのである。念仏が決定往生の行であるのは、「われらがさかしくいまはじめてはからふべきことにあらず、みな(如来が)さだめおけること」[10]なのである。如来の定めおかれた行を実践しているのならば、称名は決して凡夫が私のはからいによって行ずる凡夫行ではなく、むしろわがはからいを捨てて如来の本願に随順し、如来の定められた真の成仏道を歩んでいることになるのである。法然にとって回心とは、このようにわがはからいを捨てて、如来の定められた本願の大道に随順し、帰入していかれたことをいうのである。「順彼仏願の文、神(たましい)に染み、心に留むる」と述懐された所以である。
こうして如来の本願に信順して、如来の定められた念仏を行ずるものは真の仏弟子といわねばならない。『散善義』深心釈(同・五三四頁)に、
又深信者、仰願一切行者等、一心唯信仏語不顧身命、決定依行、仏遺捨者即捨、仏遺行者即行、仏遺去処即去、是名随順仏教、随順仏意、是名随順仏願、是名真仏弟子。「隠/顕」また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。 これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。 これを真の仏弟子と名づく。 [11]
といわれている。雑行を捨てて本願の念仏を行じ、穢土を去って浄土を願生する念仏者は、そうあらしめようと願われた弥陀の本願に随順し、釈尊の教説に随順し、諸仏の証誠の意趣に随順しているものとして、真の仏弟子といわれるのである。こうして戒定慧の三学の器にあらずとして既成の仏教から疎外されていた罪障の身が、三学外の仏道たる本願念仏によって真仏弟子としてよみがえり、仏法に包摂されていったのである。そしてこの本願念仏の仏道こそ万人を救う真の仏道として、末法の時機を照していくことになるのである。
第九節 回心の構造
すでにのべたように「法然聖人御説法事」には、本願の念仏について「しかるに往生の行は、われらがさかしく、いまはじめて、はからふべきことにあらず。みなさだめおけることなり。」(*)といわれている。この領解は、法然の回心の原点をいいあらわしているとみてよかろう。わがために如来はすでに称名行を往生行と定め置かれたということを的確にあらわすのが「選択本願念仏」ということばである。もちろん法然がこの用語を使われるのは相当後のことで、長い思索を通して洗練された教義学的用語にちがいない。しかしこの用語によって法然が到達されている宗教的領域が明示されているとするならば、四十三歳のときの回心の根本構造はやはり「選択本願念仏」という言葉が一ばん的確にいいあてているといわねばならない。それゆえ法然は『選択本願念仏集』の後序(真聖全一・九九三頁)に二十余年前をふりかえって、
於是貧道、昔披閲茲典、粗識素意、立舎余行、云帰念仏。自其已来至于今日、自行化他唯縡念仏。「隠/顕」ここに貧道、昔この典を披閲して、ほぼ素意を識(し)る。立ちどころに余行を舎(とど)めてここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡(こと)とす。 [12]
といわれたのである。すなわち四十三歳のとき、ほぼ識り得た仏祖の真意を明確に教義化したのが選択本願念仏の教義体系だったのである。『選択集』の三選の文(同・九九〇頁)には、次のようにその法義を要約されている。
計也、夫速欲離生死、二種勝法中、旦閣聖道門、選入浄土門、欲入浄土門、正雑二行中、且抛諸雑行、選応帰正行。欲修於正行、正助二業中、猶傍於助業、選応専正定。正定之業者、即是称仏名。称名必得生、依仏本願故。「隠/顕」はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。 [13]
そこには聖道門を
しかし、その選びがわがはからいによってなされた「私の選び」に止まるかぎり不安とためらいが残る。法然が『往生要集』や『往生拾因』等によって早くから専修称名の立場を選びとりながらも、不安と疑惑を拭い去ることができず、決定の信が得られなかったのも、念仏を選び取る主体があくまでも自身であったからである。選びの主体が自身であるとき、自己の愚痴は致命傷になる。
しかし念仏がかねて如来によって選び定めおかれているものであるとすれば、選びの真の主体は如来であり、私が念仏を選びとることは如来の選択に随順することにほかにない。すなわち念仏においては、私は選ぶものではなく、如来の選びにはからいなく随順すべきものなのである。逆にいえば如来の選択に随順するとは、余行を捨てて念仏一行をわが道として選びとり実践することである。このように念仏を専修することが、本願へのはからいなき信順のありさまであることを「義なきを義とす」[14]といわれたのである。こうして正定業たる念仏の選択と実践の主体が、私から如来へと転換した宗教経験を回心というのである。
三選の文の「称名必得生、依仏本願故」「隠/顕」称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。 の二句は、その辺の消息を簡潔に表わしている。すなわち「称名必得生」という専修念仏の宗義は、称名が如来によって選択された行法であることによって成立しているということを、「依仏本願故」と示したのである。選択本願は、実践の依って立つ教義的根拠であると同時に、念仏往生の信を成立せしめる源でもあった。法然教学はこの「称名必得生、依仏本願故」の二句に収約していくのであるが、それが善導の「是名正定之業、順彼仏願故」「隠/顕」これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。 という教説に依っていることは明らかである。それゆえ法然は常に「偏依善導一師」といわれたのであり、この道理を体得したことを「粗祖意を識る」といわれたのである。
こうして如来の本願に信順して、専修念仏する念仏往生の法門が成立していくわけであるが、それは単に法然個人の問題の解決に止まらず、末法に生きるすべての無戒の衆生を救う「普遍の教法」の確立を意味していた。
やがて専修念仏の教説は、既成仏教から疎外されていた庶民大衆にうけ入れられ、万人に救いの門戸を開くものとして、仏教界に一大改革をもたらしたのもその故であった。ここに法然の回心の宗教的、歴史的、社会的な意義が窺われる。
- ↑ 出離の志、至りて深きの間、諸の敎法を信じて諸の行業を修す。おおよそ佛敎多しといえども所詮は戒定慧の三學に過ぎず。いわゆる小乘の戒定慧、大乘の戒定慧、顯敎の戒定慧、密敎の戒定慧なり。しかるに我がこの身には戒行において一戒をもたもたず。禪定において一つもこれを得ず、智慧において斷惑證果の正智を得ず。……悲きかな悲しきかな、いかがせん、いかにせん。ここに予がごとき者、すでに戒定慧三學の器に非ず、この三學の外に我が心に相應する法門ありや、よくこの身に堪えるの修行ありや、萬人の智者に求め一切の學者を訪へども、これを敎ゆる人無くこれを示す倫(とも)がら無し。 しかる間、歎き歎き經藏に入り、悲しみ悲しみて聖敎に向かいて、手ずからこれを披きてこれを見るに、善導和尚の觀經の疏に、「一心專念彌陀名號 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼佛願故(一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに)」といえる文を見得ての後、我等ごときの無智の身はひとえにこの文を仰ぎ、もっぱらこの理を憑み、念念不捨の稱名を修して決定往生の業因に備ふれば、ただ善導の遺敎を信ずるのみに非ず、また厚く彌陀の弘願に順ず、順彼佛願故の文、たましいに染み心に留むるのみ。
- ↑ 『無量寿経』の流通分に「当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。」とあり、たとえ仏法が滅しても、この 『無量寿経』の教えは百歳(永遠の意)に、この世にとどめよう、とあるによる。
- ↑ 本文註:宮井義雄『神祇信仰の展開と日本浄土教の基調』(二二二頁)
- ↑ 二には深心と。深心といふはすなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願をもつて衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗りてさだめて往生を得と信ず。
- ↑ いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。
- ↑ もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。◇ここでは世を除いた親鸞聖人の文による。
- ↑ 次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。……またこの正のなかにつきてまた二種あり。一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに親近して憶念断えず、名づけて無間となす。 もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。
- ↑ なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり、
- ↑ まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むる意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
- ↑ 本文註:法然聖人御説法事」(『指南抄』上末・真聖全四・一一一頁)
- ↑ また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。 これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。 これを真の仏弟子と名づく。
- ↑ ここに貧道、昔この典を披閲して、ほぼ素意を識(し)る。立ちどころに余行を舎(とど)めてここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡(こと)とす。
- ↑ はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。
- ↑ 本文註:法然が本願念仏のこころをあらわすのに「義なきを義とす」といわれたことは、親鸞が『末灯鈔』第二条(真聖全二・六五八頁)その他に、しばしば述べられているところである。