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新領解文/新しい領解文を考える

提供: 本願力

2023年3月16日 (木) 17:41時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

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領解文 (浄土真宗のみ教え)

第一段 お念仏のこころ

  南無阿弥陀仏
  「われにまかせよ そのまま 救う」の  弥陀のよび声
  私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ
  「そのまま 救う」が 弥陀のよび声
  ありがとう といただいて
  この 愚身をまかす このままで
  救い取られる  自然の 浄土
  仏恩報謝の お念仏


体言止め[1]多用の表現のため非常に判りにくい文章である。日本語が不自由な人の構文かもである。

 南無阿弥陀仏
 「われにまかせよ そのまま 救う」の  弥陀のよび声

といふ表現は、

 南無阿弥陀仏と称えることは「われにまかせよ そのまま 救う」の阿弥陀如来の()び声をくことです。

という意であろう (聞即信)。 これを御開山は「本願招喚の勅命」と仰せであった。「そのまま 救う」の表現は約仏なので「このまま」と持ち替えてはならない。先人は、そのままを、このまま きままと たわけるな、と云われていた(*)。 なお弥陀といふ表現は略語であり一般的には通じない言葉であろう。若い人に判るようにといふ新作領解文の破綻である。

 私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ
 「そのまま 救う」が 弥陀のよび声

この一段は、煩悩即菩提といふ、大乗仏教においては煩悩菩提(さとり)も空であり、本来は不二で相即していると云いたいのであろう。
御開山にも
(32)

本願円頓一乗は
 逆悪摂すと信知して
 煩悩・菩提体無二
 すみやかにとくさとらしむ

煩悩菩提体無二といふ表現はあるが、それは本願一乗(誓願一仏乗)の法の円頓の徳を讃嘆する言葉であった。
しかし、

 私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ

といふ表現は「私の煩悩」とあるところから、自ら煩悩即菩提自覚せよといふのであろう。これは聖道門の論理であって受戒も修行もしない煩悩具足凡夫の教えではない。 これが浄土教を破壊すると批判を受けている「不二絶対」の天台本覚門の教えであった。
『WEB版新纂浄土宗大辞典』によれば、

本覚思想の特色としては以下の諸点があげられよう。①本来的に覚っているので、迷いと覚りを峻別せず、むしろ一体視する。具体的には、本来対立する概念であるはずの二者を「即(イコール)」で結ぶ。例えば「生死即涅槃」「煩悩即菩提」「娑婆即浄土」「我即弥陀」など。②両者を峻別しないので、「草木国土悉皆成仏」などと示されるように、汎神論的傾向を持つ。③「不二絶対」の一元論的立場に立つ。④自身が覚っているということに気付きさえすれば覚れるということとなり(「一念成仏」)、修行軽視の方向へ進む傾向を持つ。⑤迷いの世界がそのまま覚りの世界であるため、現実肯定的となる。⑥その教えは「口伝」として伝授される場合が多い。以上のような特色のいくつかは、密教(真言宗)や禅宗の教えの中にも見られ、さらには浄土系や日蓮系の教えの中にも指摘される場合があり、日本仏教全般にわたり、その影響が認められる。➡(浄土宗大辞典/本覚思想

とあるように、娑婆と浄土の「相対的二元論」に立つ浄土教とは相いれない関係である。それが、

 私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ

といふ「絶対的一元論」の言葉であった。この文の作者は、生半可な空思想の理解から煩悩も菩提も空で相即していると云いたいのであろうが、これこそ煩悩に呻吟している我ら門徒を愚弄する思想であった。
梯實圓和上は『法然教学の研究』で、

煩悩具足の凡夫が、我即真如なり、我即仏なりとおもえば真如であり、仏であるという本覚法門は、深い罪障にまつわられ、煩悩に狂わされて愛と憎しみのはざまを迷いながら生きるしか生きようのない凡夫の現実が全く無視されているといわねばならない。娑婆即寂光と理論的に理解したとしても、現実には娑婆の苦悩から解放されるわけではない。煩悩即菩提、生死即涅槃と思っても煩悩、生死の現実は少しもかわらないし、我即仏と信じても、浅ましい凡夫でありつづけるとすれば本覚法門とは、娑婆に生きる凡夫の現実を捨象した空論であり、抽象論に過ぎないときびしく批判していったのが法然の浄土教学であった。

と述べておられた。浄土真宗は煩悩具足の凡夫のための、浄土を真実とするご法義であるが、「私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ」と妄想する本山の偉い人はこれが解らんのだろう。
天台本覚思想の「絶対的一元論」と浄土教の「相対的二元論」については本覚思想の大家であった田村芳朗氏の考察が役に立つだろう。➡(仏教の思想5#天台思想と鎌倉新仏教――法然

第二段 師の徳を讃える

  これもひとえに
  宗祖聖人と
  法灯を伝承された 歴代宗主の
  尊いお導きに よるものです

令和三年・二〇二一年の立教開宗記念法要での「浄土真宗のみ教え」に、この文を師の徳を讃える文として追記し新作領解文として発布したのである。そして現在の宗主である自己を宗祖聖人と同一化して我の徳を讃えよといふのであった。あり得ないことであるが、この新作領解文は門主の作られたものではないのかもしれない。
正統の『領解文』では、

この御ことわり 聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

と、次第相承善知識とあり必ずしも歴代宗主を指すのではなかった。『華厳経』「入法界品」にあるように外道や道端で遊んでいる子供も法を説く善知識であった。

第三段 念仏者の生活

  み教えを依りどころに 生きる者 となり
  少しずつ 執われの 心を離れます
  生かされていることに  感謝して
  むさぼり いかりに  流されず
  穏やかな顔と 優しい言葉
  喜びも 悲しみも 分かち合い
  日々 精一杯 つとめます


令和五年
二〇二三年
 一月十六日
  龍谷門主 釋 専如
  1. 文の末尾を「体言(名詞、代名詞など)」で結ぶ書き方。