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西方指南抄/下末

提供: 本願力

2012年3月30日 (金) 20:35時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (九条殿下の北政所へ進ずる御返事)

編集中!!
真宗高田派で伝時されてきた、親鸞聖人筆(国宝)の法語集。親鸞聖人が師匠である法然聖人の法語・消息・行状記などを、収集した書物。奥書より康元元(1256)年~康元二(1257)年頃(84~85歳)書写されたものと思われる。テキストは、ネット上の「大藏經テキストデータベース」を利用し、『真宗聖教全書』に依ってページ番号を付した。これによってページ単位でもリンクも可能である。
読む利便を考えカタカナをひらがなに、旧字体を新字体に変換した。また、適宜改行を付した。各サブタイトルは『昭和新修 法然聖人全集』などを参考に適宜、私に於いて付した。
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西方指南抄下 末

四種往生の事

四種往生の事[1]

一。正念念仏往生 阿弥陀経の説
二。狂乱念仏往生 観無量寿経の説
三。無記心往生 群疑論の説。懐感作
四。意念往生 法鼓経の説

法鼓経言。若人命終之時。不能作念。但知彼方有仏作往生意。亦得往生 云云[2]

黒田の聖人へつかはす御文

『一紙小消息』(いっしこしょうそく)ともいう、法然上人の法語。 法然が黒田の聖人に宛てた消息(手紙)であり、黒田の聖人が誰であるかは未詳であり、俊乗房重源とする説や、その門弟の行賢とする説がある。特に倫理的配慮をこめて法義をあらわしている。

末代の衆生を往生極楽の機にあててみるに。行すくなしとてうたかふへからす。一念十念たりぬへし。罪人なりとてうたかふへからす。罪根ふかきおもきらわすといへり。時くたれりとてうたかふへからす。
法滅已後の衆生なほ往生すへし。いはむや近来おや。わか身わるしとてうたかふへからす。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫なりといへり。
十方に浄土おほけれとも西方をねかふ。十悪五逆の衆生むまるるかゆへなる。諸仏の中に弥陀に帰したてまつるは。三念五念にいたるまて。みつからきたりてむかへたまふかゆへに。諸行の中に念仏をもちゐるは。かの仏の本願なるかゆへに。いま弥陀の本願に乗して往生しなむには。願として成せすといふ事あるへからす。本願に乗する事は。たた信心のふかきによるへし。うけかたき人身をうけて。あひかたき本願にまうあひ。おこしかたき道心をおこして。はなれかたき輪迴の里をはなれ。むまれかたき浄土に往生せむことは。よろこひの中のよろこひなり。罪は十悪五逆のものむまると信して。少罪おもおかさしとおもふへし。

罪人なほむまる。いはむや善人おや。行は一念十念むなしからすと信して。無間に修すへし。一念なほむまる。いかにいはむや多念おや。阿弥陀仏は。不取正覚の御ことは成就して。現にかのくににましませは。さためて命終には来迎したまはむすらむ。釈尊は。よきかなや。わかおしえにしたかひて。生死をはなれむと。知見したまはむ。六方の諸仏は。よろこはしきかな。われらか証誠を信して。不退の浄土に生せむと。よろこひたまふらむ。天をあふき地にふして。よろこふへし。このたひ弥陀の本願にまうあえる事を。行住坐臥にも報すへし。かの仏の恩徳を。たのみてもなほたのむへきは。乃至十念の御言。信してもなほ信すへきは。必得往生の文なり

黒谷聖人源空

念仏大意

末代悪世の衆生の。往生のこころさしをいたさむにおきては。また他のつとめあるへからす。たた善導の釈につきて。一向専修の念仏門にいるへきなり。しかるを。一向の信をいたしてその門にいる人。きわめてありかたし。そのゆへは。或は他の行にこころをそめ。或は念仏の功能をおもくせさるなるへし。

つらつらこれをおもふに。まことしく往生浄土のねかひ。ふかきこころをもはらにする人。ありかたきゆへか。まつこの道理をよくよくこころうへきなり。すへて天台・法相の経論聖教も。そのつとめをいたさむに。ひとつとしてあたなるへきにはあらす。たたし仏道修行は。よくよく身をはかり時をはかるへきなり。仏の滅後第四の五百年にたに。智慧をみかきて煩悩を断する事かたく。こころをすまして禅定をえむ事かたきゆへに。人おほく念仏門にいりけり。すなわち道綽・善導等の浄土宗の聖人。この時の人なり。いはむやこのころは。第五の五百年。闘諍堅固の時なり。他の行法さらに成就せむ事かたし。しかのみならす。念仏におきては。末法ののちなほ利益あるへし。いはむやいまのよは。末法万年のはしめなり。一念弥陀を念せむに。なむそ往生をとけさらむや。

たとひわれら。そのうつわものにあらすといふとも。末法のすゑの衆生には。さらににるへからす。かつはまた釈尊在世の時すら。即身成仏におきては。竜女のほか。いとありかたし。たとひまた即身成仏まてにあらすとも。この聖道門をおこなひたまひけむ菩薩声聞達。そのほかの権者ひしり達。そののち比丘比丘尼等。いまにいたるまての経論の学者。法華経の持者。いくそはくそや。ここにわれら。なましゐに聖道をまなふといふとも。かの人人には。さらにおよふへからす。かくのこときの末代の衆生を。阿弥陀仏かねてさとりたまひて。五劫かあひた思惟して。四十八願をおこしたまへり。その中の第十八の願にいはく。十方の衆生こころをいたして。信楽してわかくににむまれむとねかひて。乃至十念せむに。もしむまれすといはは。正覚をとらしとちかひたまひて。すてに正覚なりたまへり。これをまた釈尊ときたまへる経。すなわち観無量寿等の三部経なり。かの経は。くた念仏門なり。たとひ悪業の衆生等。弥陀のちかひはかりに。なほ信をいたすといふとも。釈迦これを一一にときたまへる三部経。あに一言もむなしからむや。

そのうへまた。六方十方の諸仏の証誠。この経等にみえたり。他の行におきては。かくのこときの証誠みえさるか。しかれは。ときもすき身にもこたふましからむ。禅定智慧を修せむよりは。利益現在にして。しかもそこはくの仏たちの証誠したまへる。弥陀の名号を称念すへき也。そもそも後世者の中に。極楽はあさく。弥陀はくたれり。期するところ密厳華蔵等の世界也と。こころをかくる人もはへるにや。それはなはたおほけなし。かの土は。断無明の菩薩のほかはいることなし。また一向専修の念仏門にいるなかにも。日別三万返。もしは五万乃至十万返といふとも。これをつとめおはりなむのち。年来受持読誦こうつもりたる。諸経おもよみたてまつらむ事。つみになるへきかと不審をなして。あさむくともからも。ましわれり。それ罪になるへきにては。いかてかははへるへき。末代の衆生。その行成就しかたきによりて。まつ弥陀の願力にのりて。念仏の往生をとけてのち。浄土にして。阿弥陀如来・観音・勢至にあひたでまつりて。もろもろの聖教おも学し。さとりおもひらくへきなり。また末代の衆生。念仏をもはらにすへき事。其釈おほかる中に。かつは十方恒沙の諸仏証誠したまふ。

また観経の疏の第三に善導云。自余衆行雖名是善。若比念仏者。全非比挍也。是故諸経中。処処広讃念仏功能。如無量寿経四十八願中。唯明専念弥陀名号得生。又如弥陀経中。一日七日専念弥陀名号得生。又十方恒沙諸仏証誠不虚也。又此経中定散文中。唯標専念名号得生。此例非一也。広顕念仏三昧竟とあり。また善導の往生礼讃。ならひに専修浄業の文等にも。雑修のものは往生をとくる事。万か中に一二なほかたし。専修のものは。百に百なからむまるといへり。これらすなわち。なに事もその門にいりなむには。。一向にもはら他のこころあるへからさるゆへなり。たとえは。今生にも主君につかへ。人をあひたのむみち。他人にこころさしをわくると。一向にあひたのむと。ひとしからさる事也。たたし家ゆたかにして。のりもの僮僕もかなひ。面面にこころさしをいたすちからも。たえたるともからは。かたかたにこころさしをわくといゑとも。その功むなしからす。

かくのこときのちからにたえさるものは。所所をかぬるあひた。身はつかるといゑとも。そのしるしをえかたし。一向に人一人をたのめは。まつしきものも。かならす其あわれみをうるなり。すなわち末代悪世の無智の衆生は。かのまつしきもののこときなり。むかしの権者は。いゑゆたかなる衆生のこときなり。しかれは無智のみをもちて。智者の行をまなはむにおきては。貧者の徳人をまなはむかこときなり。

またなほたとひをとらは。たかき山の。人かよふへくもなからむかむせきを。ちからたえさらむもの。石のかと木のねにとりすかりて。のほらむとはけまむは。雑行を修して往生をねかわむかことき也。かの山のみねより。つよきつなをおろしたらむに。すかりてのほらむは。弥陀の願力をふかく信して。一向に念仏をつとめて。往生せむかこときなるへし。

また一向専修には。ことに三心を具足すへき也。三心といふは。一には至誠心。二には深心。三には廻向発願心也。至誠心といふは。余仏を礼せす。弥陀を礼し。余行を修せす。弥陀を念して。もはらにしてもはらならしむる也。深心といふは。弥陀の本願をふかく信して。わかみは。無始よりこのかた罪悪生死の凡夫。一度として生死をまぬかるへきみちなきを。弥陀の本願不思議なるによりて。かの名号を一向に称念して。うたかひをなはこころなけれは。一念のあひたに。八十億劫の生死のつみを滅して。最後臨終の時。かならす弥陀の来迎にあつかる也。廻向発願心といふは。自他の行を。真実心の中に廻向発願する也。この三心ひとつもかけぬれは。往生をとけかたし。
しかれは。他の行をましえむによりて。つみにはなるへからすといふとも。なほ念仏往生を不定に存して。いささかのうたかひをのこして。他事をくわふるにて侍るへき也。たたしこの三心の中に。至誠心をやうやうにこころえて。ことにまことをいたすことを。かたく申しなすともからも侍るにや。しからは弥陀の本願の本意にもたかひて。信心はかけぬるにてあるへきなり。いかに信力をいたすといふとも。かかる造悪の凡夫のみの。信力にてねかひを成就せむほとの信力は。いかてか侍るへき。たた一向に往生を決定せむすれはこそ。本願の不思議にては侍へけれ。さやうに信力もふかく。よからむ人のためには。かかるあなかちに不思議の本願。おこしたまふへきにあらす。この道理おは存しなから。まことしく専修念仏の一行にいる人。いみしくありかたきなり。

しかるを道綽禅師は決定往生の先達也。智慧ふかくして。講説を修したまひき。曇鸞法師の三世已下の弟子也。かの鸞師は智慧高遠なりといゑとも。四論の講説をすてて。今仏門にいりたまはむや。わかしるところさわるところ。なむそおほしとするにたらむやとおもひとりて。涅槃の講説をすてて。ひとへに往生の業を修して。一向にもはら弥陀を念して。相続無間にして。現に往生したまへり。かくのことき。道綽は講説をやめて念仏を修し。善導は雑修をきらいて専修をつとめたまひき。また道綽禅師のすすめによりて。并州の三県の人。七歳以後一向に念仏を修すといへり。しかれは。わか朝の末法の衆生。なむそあなかちに雑修をこのまむや。たたすみやかに。弥陀如来の願。釈迦如来の説。道綽・善導の釈をまもるに。雑行を修して極楽の果を不定に存せむよりは。専修の業を行して往生ののそみを決定すへき也。またかの道綽・善導等の釈は。念仏門の人人の事なれは。左右におよふへからす。法相宗におきては。専修念仏門ことに信向せさるかと存するところに。慈恩大師の西方要決に云く。末法万年余経悉滅。弥陀一教利物偏増と釈したまへり。また同書にいはく。三空九断之文。十地五修之訓。生期分役死終非運。不如暫息多聞之広学。専念仏之単修といへり。
しかのみならす。また大聖竹林寺の記にいはく。五台山竹林寺の大講堂の中にして。普賢・文殊東西に対座して。もろもろの衆生のために。妙法をときたまうとき。法照禅師ひさまつきて。文殊にとひたてまつりき。未来悪世の凡夫。いつれの法をおこないてか。なかく三界をいてて。浄土にむまるることをうへきと。文殊こたえてのたまはく。往生浄土のはかり事。弥陀の名号にすきたるはなく。頓証菩提の道。たた称念の一門にあり。これによなて。釈迦一代の聖教にほむるところ。みな弥陀にあり。いかにいはむや未来悪世の凡夫おやと。こたへたり。

かくのこときの要文等。智者たちのおしへをみても なほ信心なくして。ありかたき人界をうけて。ゆきやすき浄土にいらさらむ事。後悔なにことかこれにしかむや。かつはまた。かくのこときの専修念仏のともからを。当世にもはら難をくわへて。あさけりをなすともから。おほくきこゆ。これまたむかしの権者達。かねてみなさとりしりたまへること也
善導の法事讃に云く

    世尊説法時将了 慇懃付嘱弥陀名
    五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞
    見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨
    如此生盲闡提輩 毀滅頓教永沈淪
    超過大地微塵劫 未可得離三途身
    大衆同心皆懺悔 所有破法罪因縁

また平等覚経にいはく。若善男子善女人ありて。かくのこときらの浄土の法文をとくをききて。悲喜をなして。身の毛よたつことをなして。ぬきいたすかことくするは。しるへし。この人過去にすてに。仏道をなしてきたれる也。もしまたこれをきくといふとも。すへて信楽せさらむにおきては。しるへし。この人はしめて。三悪道のなかよりきたれるなり。しかれは。かくのこときの謗難のともからは。さうなき罪人のよしをしりて。論談にあたふへからさる事也。また十善かたくたもたすして。忉利都率をねかはむ事。きわめてかなひかたし。

極楽は。五逆のもの念仏によりてむまる。いはむや十悪におきては。さわりとなるへからす。また慈尊の出世を期せむにも。五十六億七千万歳。いとまちとおなり。いまたしらす。他方の浄土。そのところところには。かくのこときの本願なし。
極楽はもはら。弥陀の願力はなはたふかし。なむそほかをもとむへき。またこのたひ仏法に縁をむすひて。三生四生に得脱せむと。のそみをかくるともからあり。このねかひきわめて不定なり。大通結縁の人。信楽慚愧のころものうらに。一乗無価の玉をかけて。隔生即亡して。三千の塵点かあひた。六趣に輪迴せしにあらすや。たとひまた。三生四生に縁をむすひて。必定得脱すへきにても。それをまちつけむ輪転のあひたのくるしみ。いとたえかたかるへし。いとまちとおなるへし。またかの聖道門においては。三乗五乗の得道なり。この行は多百千劫なり。ここにわれらこのたひ。はしめて人界の生をうけたるにてもあらす。世世生生をへて。如来の教化にも。菩薩の弘経にも。いくそはくかあひたてまつりたりけむ。たた不信にして。教化にもれきたるなるへし。

三世の諸仏・十方の菩薩。おもへはみなこれむかしのともなり。釈迦も五百塵点のさき。弥陀も十劫のさきは。かたしけなく父母師弟とも。たかひになりたまひけむ。仏は前仏の教をうけ。善知識のおしえを信して。はやく発心修行したまひて。成仏してひさしくなりたまひにけり。われらは信心おろかなるかゆへに。いまに生死にとまれるなるへし。過去の輪転をおもへは。未来もまたかくのことん(し)。たとひ二乗の心おはおこすといふとも。菩提心おはおこしかたし。如来は勝方便にしておこないたまへり。濁世の衆生。自力をはけまむには。百千億劫難行苦行をいたすといふとも。そのつとめおよふところにあらす。またかの聖道門は。よく清浄にして。そのうつわものにたれらむ人の。つとむへき行なり。懈怠不信にしては。中中行せしめむよりも。罪業の因となるかたもありぬへし。念仏門におきては。行住座臥ねてもさめても持念するに。そのたよりとかなくして。そのうつわものをきらはす。ことことく往生の因となる事。うたかひなし

    彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
    不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
    不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
    但使迴心多念仏 能令瓦礫変成金

いへり。またいみしき経論聖教の智者といゑとも。最後臨終の時。其文を暗誦するにあたはす。念仏におきては。いのちをきわむるにいたるまて称念するに。そのわつらひなし。また仏の誓願のためしをひらかむにも。薬師の十二の誓願には。不取正覚の願なく。千手の願また。不取正覚とちかひたまへるも。いまた正覚なりたまはす。弥陀は不取正覚の願をおこして。しかも正覚なりて。すてに十劫をへたまへり。かくのこときの弥陀のちかひに。信をいたささらむ人は。また他の法文おも信仰するにおよはす。しかれは返返も。一向専修の念仏に信をいたして。他のこころなく。日夜朝暮行住座臥に。おこたる事なく称念すへき也。専修念仏をいたすともから。当世にも往生をとくるきこえ。其かすおほし。雑修の人におきて。そのきこえきわめてありかたき也。

そもそもこれをみても。なほよこさまのひかゐむにいりて。もの難せむとおもはむともからは。さためていよいよ。いきとほりをなして。しからは。むかしより仏のときおきたまへる経論聖教。みなもて無益のいたつらものにて。うせなむとするにこそなと。あさけり申さむすらむ。それは天台・法相の本寺本由に修学をいとなみて。名利おも存し。おほやけにもつかへ。官位おものそまむとおもはむ人におきては。左右におよふへからす。また上根利智人は。其かきりにあらす。このこころをえて。よく了見する人は。あやまりて聖道門を。ことにおもくするゆへと存すへき也。しかるをなほ念仏にあひかねて。つとめをいたさむ事は。聖道門をすてに念仏の助行にもちゐるへきか。その条こそ。かへりて聖道門をうしなふにては侍けれ。たたこの念仏門は。返返もまた他心なく後世をおもはむともからの。よしなきひかゐむにおもむきて。時おも身おもはからす。雑行を修して。このたひたまたまありかたき人界にむまれて。さはかりまうあひかたかるへき弥陀のちかひをすてて。また三途の旧里にかへりて。生死に輪転して。多百千劫をへむかなしさを。おもひしらむ人の身のためを申すなり。さらは諸宗のいきとほりには。およふへからさる事也

九条殿下の北政所へ進ずる御返事

九条殿北政所[3]御返事

かしこまりて申上候。さては御念仏申させおはしまし候なるこそ、よにうれしく候へ。まことに往生の行は、念仏がめでたきことにて候也。そのゆへは、念仏は弥陀の本願の行なればなり。余の行は、それ真言・止観のたかき行法なりといゑども、弥陀の本願にあらず。

また念仏は釈迦の付属の行なり、余行はまことに定散両門のめてたき行なりといゑとも、釈尊これを付嘱したまはず。また念仏は六方の諸仏の証誠の行也、余の行はたとひ顕密事理のやむごとなき行也と申せども、諸仏これを証誠したまはず。このゆへに、やうやうの行おほく候へども、往生のみちには、ひとえに念仏すぐれたることにて候也。

しかるに、往生のみちにうとき人の申やうは、余の真言・止観の行にたへざる人の、やすきままのつとめにてこそ念仏はあれと申は、きわめたるひがごとに候。そのゆへは、弥陀の本願にあらざる余行をきらひすてて、また釈尊の付属にあらざる行おばえらびとどめ、また諸仏の証誠にあらざる行おばやめおさめて、いまはただ弥陀の本願にまかせ、釈尊の付属により、諸仏の証誠にしたがひて、おろかなるわたくしのはからひをやめて、これらのゆへ、つよき念仏[4]の行をつとめて、往生おばいのるべしと申にて候也。これは恵心僧都の『往生要集』に、「往生の業念仏を本とす」と申たる、このこころ也。いまはただ余行をとどめて、一向に念仏にならせたまふべし。念仏にとりても、一向専修の念仏也。そのむね、三昧発得の善導の『観経の疏』にみえたり。
また『双巻経』に、「一向専念無量寿仏」といへり。一向の言は、二向・三向に対して、ひとへに余の行をゑらびて、きらひのぞくこころなり。御いのりのれうにも、念仏がめでたく候。『往生要集』にも、余行の中に念仏すぐれたるよしみえたり。また伝教大師の七難消滅の法[5]にも、念仏をつとむべしとみえて候。おほよそ十方の諸仏、三界の天衆、妄語したまはぬ行にて候へば、現世・後生の御つとめ、なに事かこれにすき候へきや。いまただ一向専修の但念仏者に、ならせおはしますべく候。

熊谷へ遣はす書(九月十六日付)

御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。
かやうにまめやかに、大事におほしめし候。返返ありかたく候。まことにこのたひ、かまへて往生しなむと、おほしめしきるへく候。うけかたき人身、すてにうけたり、あひかたき念仏往生の法門にあひたり。娑婆をいとふこころあり、極楽をねかふこころおこりたり。弥陀の本願ふかし。往生はたた御こころにあるたひなり。ゆめゆめ御念仏おこたらす、決定往生のよしを存せさせたまふへく候。なに事もととめ候ぬ。

  九月十六日 源空

要義問答

まことにこの身には、道心のなき事と、やまひとはかりや。なけきにて候らむ、世をいとなむ事なけれは、四方に馳騁せす。衣食ともにかけたりといゑとも、身命をおしむこころ切ならぬは、あなかちにうれへとするにおよはぬ。こころをやすくせむためにも、すて候へきよにこそ候めれ。いはむや無常のかなしみは、めのまへにみてり。いつれの月日おか、おはりのときと期せむ。さかへあるものも、ひさしからす。

いのちあるものも、またうれえあり、すへていとふへきは六道生死のさかひ、ねかふへきは浄土菩提なり。天上にむまれて、たのしみにほこるといゑとも、五衰退没のくるしみあり。人間にむまれて、国王の身をうけて、一四天下おはしたかふといゑとも、生老病死・愛別離苦・怨憎会苦の、一事もまぬかるる事なし。これらの苦なからむすら、三悪道にかへるおそれあり。こころあらむ人は、いかかいとはさるへき。うけかたき人界の生をうけて、あひかたき仏教にあひ、このたひ出離をもとめさせたまへ。

問。おほかたは、さこそはおもふことにて候へとも、かやうにおほせらるることはにつきて、さうなく出家をしたりとも、こころに名利をはなれたる事もなし。持戒清浄なる事なく、無道心にて人に謗をなされむ事、いかかとおほえ候。それも在家にありて、おほくの輪迴の業をまさむよりは、よき事にてや候へき。

答。たわふれに尼のころもをき、さけにゑいて出家をしたる人、みな仏道の因となりにきと、ふるきものにもかきつたえられて候。『往生の十因』と申ふみには、勝如聖人の父母ともに出家せし時、男はとし四十一、妻は三十三なり。修行の僧をもちて師としき、師ほめていはく、衰老にもいたらす、病患にものそます、いま出家をもとむ、これ最上の善根なりとこそはいひけれ。

釈迦如来。当来道師弥勒慈尊に付属したまふにも、破戒・重悪のともからなりといふとも、頭をそり、衣をそめ、袈裟をかけたらむものは、みな汝につくとこそは、おほせられて候へ。されは破戒なりといゑとも、三会得脱なほたのみあり。ある経の文には、在家の持戒には、出家の破戒はすくれたりとこそは申候へ。まことに仏法流布の世にむまれて、出離の道をえて、解脱幢相のころもを肩にかけ、釈子につらなりて、仏法修行せさらむ。まことに宝の山にいりて、手をむなしくしてかへるためしなり。

問。まことに出家なとしては、さすかに生死をはなれ、菩提にいたらむ事をこそは、いとなみにて候へけれ。いかやうにかつとめ、いかやうにかねかひ候へき。

『安楽集』に云。「大乗の聖教によるに、二種の勝法あり。一には聖道、二には往生浄土也」。穢土の中にして、やかて仏果をもとむるは、みな聖道門なり。諸法の実相を観して証をえむと、法華三昧を行して、六根清浄をもとめ、三密の行法をこらして、即身に成仏せむとおもふ、あるいは四道の果をもとめ、また三明六通をねかふ、これみな難行道なり。往生浄土門といふは、まつ浄土にむまれて、かしこにてさとりをもひらき、仏にもならむとおもふなり。これは易行道といふ。生死をはなるるみちみちおほし、いつれよりもいらせたまへ。 問。されはわれらかこときのおろかなるものは、浄土をねかひ候へきか、いかに。

答。『安楽集』に云く、「聖道の一種は、いまの時には証しかたし、一には大聖をされる事はるかにとおきによる。二には理はふかくして、さとりはすくなきによる。このゆへに大集月蔵経にいはく、わか末法のときの中の億億の衆生、行をおこし道を修するに、一人もうるものはあらす。まことにいま末法五濁悪世なり。たた浄土の一門のみありて通入すへきなり。ここをもて諸仏の大悲、浄土に帰せよとすすめたまふ。一形悪をつくれとも、たたよくこころをかけて、まことをもはらにして、つねによく念仏せよ。一切のもろもろのさはり、自然にのそこりて、さためて往生をう。なむそおもひはからすして、さるこころなきや」といふ。永観ののたまはく、「真言止観は、理ふかくして、さとりかたく、三論法相は、みちかすかにして、まとひやすし」なむと候。まことに観念もたえす、行法にもいたらさらむ人は、浄土の往生をとけて、一切の法門おも、やすくさとらせたまはむは、よく候なむとおほえ候。

問。十方に浄土おほし、いつれおかねかひ候へき。兜率の上生をねかふ人もおほく候。いかかおもひさため候へき。

答。天台大師ののたまはく、「諸教所讃多在弥陀、故以西方而爲一順」{止観輔行巻二之一}と。また顕密の教法の中に、もはら極楽をすすむる事は、称計すへからす。恵心の『往生要集』に、十方に対して西方をすすめ、兜率に対しておほくの勝劣をたて、難易相違の証拠をひけり、たつね御覧せさせたまへ。極楽この土に縁ふかし、弥陀は有縁の教主なり、宿因のゆへ本願のゆへ、たた西方をねかはせたまふへきとこそ、おほえ候へ。

問。まことにさては、ひとすちに極楽をねかふへきにこそ候なれ。極楽をねかはむには、いつれの行かすくれて候へき。

答。善導釈してのたまはく、「行に二種あり。一には正行、二には雑行なり。正の中に五種の正行あり、一には礼拝の正行、二には讃嘆供養の正行。三には読誦正行、四には観察正行、五には称名の正行なり。一に礼拝の正行といふは、礼せむには、すなわちかの仏を礼して、余体をましえされ。二に讃嘆供養の正行といふは弥陀を讃嘆供養して、余の讃嘆供養をましえされ。三に読誦の正行といふは、読誦せむには、弥陀経等の三部経を読誦して、余の読誦をましえされ。四に観察の正行といふは、憶念観察せむには、かの土の二報荘厳等を観察して、余の観察をましえされ。五に称名の正行といふは、称せむには、すなわちかの仏を称して、余の称名をましえされ。この五種を往生の正行とす。この正行の中にまた二あり、一には正、二には助、称名をもては正とし、礼誦等をもちては助業となつく。この正助二行をのそきて、自余の衆善はみな雑行となつく」。また釈していはく、「自余の衆善は、善となつくといゑとも、念仏にくらふれは、またく比挍にあらす」とのたまへり。浄土をねかはせたまはは、一向に念仏をこそは、まふさせたまはめ。

問。余行を修して、往生せむことは、かなひ候ましや。されとも『法華経』には、「即往安楽世界阿弥陀仏」といひ、密教の中にも、決定往生の真言、滅罪の真言あり。諸教の中に、浄土に往生すへき功力をとけり。
また穢土の中にして仏果にいたるといふ。かたき徳をたに具せらむ教を修行して、やすき往生極楽に迴向せは、仏果にかなうまてこそかたくとも、往生はやすくや候へきとこそ、おほえ候へ。またおのつから聴聞なとにうけたまはるにも、法華と念仏ひとつものと釈せられ候。ならへて修せむに、なにかくるしく候へき。

答。『双巻経』に三輩往生の業をときて、ともに「一向専念無量寿仏」とのたまへり。『観無量寿経』に、もろもろの往生の行をあつめてときたまふおはりに、阿難に付嘱したまふところには、「なむちこのことはをたもて、このことはをたもてといふは、無量寿仏のみなをたもてとなり」と、ときたまふ。善導観経を釈してのたまふに、「定散両門の益をとくといえとも、仏の本願をのそむには、一向にもはら弥陀の名号を称せしむるにあり」といふ。同き経の文に、「一一の光明、十方世界の念仏の衆生をてらして、摂取してすてたまはす」ととけり。善導釈してのたまふには、「論せす余の雑業のものをてらし摂取すといふことおは」とかす候。余行のものふつとむまれすとはいふにはあらす。善導も「迴向してむまるへしといゑとも、もろもろの疎雑の行となつく」とこそは、おほせられたれ。

『往生要集』の序にも、「顕密の教法、その文ひとつにあらす。事理の業因、その行これおほし。利智精進の人は、いまたかたしとせす、予かこときの頑嚕のもの、たやすからむや。このゆへに、念仏の一門によりて、経論の要文をあつむ、これをひらき、これを修するに、さとりやすく、行しやすし」といふ。これらの証拠あきらめつへし、教をえらふにはあらす、機をはからふなり。わかちからにて生死をはなれむ事、はけみかたくして、ひとへに他力の弥陀の本願をたのむ也。先徳たちおもひはからひてこそは、道綽は聖道をすてて浄土の門にいり、善導は雑行をととめて、一向に念仏して三昧をえたまひき。浄土宗の祖師、次第にあひつけり、わつかに一両をあく。この朝にも恵心・永観なといふ自宗他宗、ひとへに念仏の一門をすすめたまへり。
専雑二修の義、はしめて申におよはす、浄土宗のふみおほく候。こまかに御覧候へし。また即身得道の行、往生極楽におよはさらむやと候は、まことにいわれたるやうに候へとも、なかにも宗と申ことの候そかし。善導の観経の疏にいはく、般若経のこときは、空慧をもて宗とす、維摩経のこときは、不思議解脱をもちて宗とす、いまこの観経は、観仏三昧をもちて宗とし、念仏三昧をもちて宗とすといふかことき。法華は真如実相平等の妙理を観して証をとり、現身に五品六根の位にもかなふ、これをもちて宗とす。また真言には、即身成仏をもちて宗とす。法華にも、おほく功力をあけて、経をほむるついてに、即往安楽ともいひ、また即往兜率天上ともいふ。これは便宜の説なり、往生を宗とするにはあらす。真言もまたかくのことし。法華念仏ひとつなりといひて、ならへて修せよといはは、善導和尚は、法華・維摩等を読誦しき。浄土の一門にいりにしよりこのかた、一向に念仏して、あえて余の行をましふる事なかりき。しかのみならす、浄土宗の禅師あひつきて、みな一向に名号を称して、余業をましへされとすすむ。これらを按して、専修の一行にいらせたまへとは申すなり。 問。浄土の法門に、まつなになにをみてこころつき候なむ。

答。経には、『双巻』・『観無量寿』・『小阿弥陀経等』、これを浄土の三部経となつく。文には、善導の『観経の疏』・『六時礼讃』・『観念法門』、道綽の『安楽集』、慈恩の『西方要決』、懐感の『群疑論』、天台の『十疑論』、わか朝の人師恵心の『往生要集』なむとこそは、つねに人のみるものにて候へ、たたなにを御覧すとも、よく御こころえて念仏申させたまはむに、往生なにかうたかひ候へき。

問。こころおは、いかやうにかつかひ候へき。

答。三心を具足せさせたまへ。其三心と申は、一には至誠心、二には深心、三には迴向発願心なり。
一に至誠心といふは、真実の心なり。善導釈してのたまはく、至といふは真の義、誠といふは実の義、真実のこころの中に、この自他の依正二報をいとひすてて、三業に修するところの行業に、かならす真実をもちゐよ。ほかに賢善精進の相を現して、うちに虚仮をいたくものは、日夜十二時につとめおこなふこと、かうへの火をはらふかことくにすれとも、往生をえすといふ。たた内外明闇おはえらはす、真実をもちゐるゆへに、至誠心となつく。

二に深心といふは、ふかき信なり。決定してふかく信せよ、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫なり、曠劫よりこのかた、つねにしつみつねに流転して、出離の縁あることなし。また決定してふかく信せよ、かの阿弥陀仏の四十八願をもて、衆生をうけおさめて、うたかひなく、うらおもひなく、かの願力にのりて、さためて往生すと。あふきてねかはくは仏のみことおは信せよ。もし一切の智者百千万人きたりて、経論の証をひきて、一切の凡夫念仏して往生する事をえすといはむに、一念の疑退のこころをおこすへからす。たたこたえていふへし、なむちかひくところの経論を、信せさるにはあらす、なむちか信するところの経論は、なむちか有縁の教、わか信するところは、わか有縁の教、いまひくところの経論は、菩薩人天等に通してとけり、この観経等の三部は、濁悪不善の凡夫のためにときたまふ。しかれはかの経をときたまふ時には、対機も別に、所も別に、利益も別なりき、いまきみかうたかひをきくに、いよいよ信心を増長す。もしは羅漢・辟支仏・初地十地の菩薩、十方にみちみち、化仏報仏ひかりをかかやかし、虚空にみしたをはきて、むまれすとのたまはは、またこたえていふへし。 仏の説は一切の仏説におなし、釈迦如来のときたまふ教をあらためは、制止したまふところの殺生十悪等の罪をあらためて、またおかすへからむや。さきの仏そらことしたまはは、のちの仏もまたそら事したまふへし。おなしことならは、たた信しそめたる法おは、あらためしといひて、なかく退する事なかれ、かるかゆへに深心なり。

三に迴向発願心といふは、一切の善根を、ことことくみな迴向して、往生極楽のためとす。決定真実のこころの中に迴向して、むまるるおもひをなすなり。このこころ深信なる事、金剛のことくにして、一切の異見異学別解別行の人等に動乱し破壊せられされ。いまさらに行者のために、ひとつのたとひをときて、外邪異見の難をふせかむ。

人ありて西にむかひて百里千里をゆくに、忽然として中路にふたつの河あり。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり、各ひろさ百歩、ふかくしてそこなし、南北にほとりなし。まさに水火の中間に、一の白道あり、ひろさ四五寸はかりなるへし。この道、東の岸より西の岸にいたるに、なかさ百歩、その水の波浪ましわりすきて、道をうるおす。火炎またきたりて道をやく、水火あひましわりて、つねにやむ事なし。
この人すてに空曠のはるかなるところにいたるに、人なくして群賊悪獣あり。このひとひとりありくをみて、きおいきたりてころさむとす。この人死をおそれて、たたちにはしりて西にむかふ。忽然としてこの大河をみるに、すなわち念言すらく、南北にほとりなし、中間に一の白道をみる、きわめて狭少なり、ふたつの岸あいさる事ちかしといゑとも、いかかゆくへき、今日さためて死せむ事うたかひなし。まさしくかへらむとおもへは、群賊悪獣やうやくにきたりせむ、南北にさりはしらむとおもへは、悪獣毒虫きおひきたりてわれにむかふ。まさに西にむかひてみちをたつねて、しかもさらむとおもへは、おそらくはこのふたつの河におちぬへし。この時おそるる事いふへからす、すなわち思念すらく、かへるとも死し、またさるとも死しなむ、一種としても死をまぬかれさるものなり。われむしろこのみちをたつねて、さきにむかひてしかもさらむ、すてにこのみちあり、かならすわたるへしと。

このおもひをなす時に、東の岸にたちまちに人のすすむるこゑをきく。きみ決定してこのみちをたつねてゆけ、かならす死の難なけむ、住せはすなわち死しなむ。西の岸の上に人ありてよはひていはく、なむち一心にまさしく念して、身心いたりてみちをたつねて直にすすみて疑怯退心をなさす。あるいは一分二分ゆくに、群賊等よはいていはく、きみかへりきたれ、このみちはけあしくあしきみちなり、すくる事をうへからす、死しなむことうたかひなし、われらか衆あしきこころなし、このたひあひむかふに、よはふこゑをきくといゑとも、かへりみす。直にすすみて、道を念してしかもゆくに、須臾にすなわち西の岸にいたりて、なかくもろもろの難をはなる。善友あひむかひて、よろこひやむ事なし。

これはこれたとひなり。次に喩を合すといふは、東の岸といふは、すなわちこの娑婆の火宅にたとふるなり。群賊悪獣いつわりちかつくといふは、すなわち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大なり。人なき空曠の沢といふは、すなわち悪友にしたかひて、まことの善知識にあはさるなり。水火の二河といふは、すなわち衆生の貪愛は水のことく、瞋憎は火のことくなるにたとふるなり。中間の白道四五寸といふは、衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄の願往生の心をなすなり。貪瞋こはきによるかゆへに、すなわち水火のことしとたとふるなり。水波つねにみちをうるおすといふは、愛心つねにおこりて、善心を染汚するなり。また火炎つねにみちをやくといふは、すなわち瞋嫌のこころ、よく功徳の法財をやくなり。人みちをのほるに直に西にむかふといふは、すなわちもろもろの行業をめくらして、直に西にむかふにたとふるなり。東の岸に人のこゑのすすめやるをききて、みちをたつねて直に西にすすむといふは、すなわち釈迦はすてに滅したまひてのち、人みたてまつらされとも、なほ教法ありて、すなわちたつぬへし、これをこゑのことしとたとふるなり。
あるいは一分二分するに群賊等よはひかへすといふは、別解別行悪見人等、みたりに見解をときてあひ惑乱し、およひみつから罪をつくりて退失するなり。西の岸の上に人ありてよはふといふは、すなわち弥陀の願のこころにたとふるなり。須臾にすなわち西の岸にいたりて善友あひみてよろこふといふは、すなわち衆生のひさしく生死にしつみて、曠劫より輪迴し迷倒し、身つから迷て解脱するによしなし。あふきて発遣して西方にむかへしめたまふ。弥陀の悲心まねきよはひたまふに、二尊の心に信順して、水火の二河をかへりみす、念念にわするる事なく、かの願力に乗して、このみちにいのちをすておはりてのち、かのくににむまるる事をえて、仏とあひみて、慶楽する事きわまりなからむ。行者行住座臥の三業に修するところ、昼夜時節をとふことなく、つねにこのさとりをなし、このおもひをなすかゆへに、迴向発願心といふ。
また迴向といふは、かのくににむまれおはりて、大悲をおこして、生死にかへりいりて、衆生を教化するを、迴向となつく。三心すてに具すれは、行の成せさることなし、願行すてに成して、もしむまれすといはは、このことわりある事なけむと。已上善導の釈の文なり。

問。阿弥陀経の中に、一心不乱と候そかしな、これ阿弥陀仏を申さむ時、余事をすこしもおもひませ候ましきにや。一声念仏を申さむほと、ものをおもひませさらむ事は、やすく候へは、一念往生にはもるる人候はしとおほえ候。またいのちのおはるを期として、余念なからむ事は、凡夫の往生すへき事にても候はす、この義いかかこころえ候へき。

答。善導この事を釈してのたまはく、ひとたひ三心を具足してのち、みたれやふれさる事、金剛のこときにて、いのちのおはるを期とするを、なつけて一心といふと候。阿弥陀仏の本願の文に、設我得仏、「十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念、若不生者 不取正覚」といふ、

この文に至心といふは、観経にあかすところの、三心の中の至誠心にあたれり。 信楽といふは、深心にあたれり。これをふさねて、いのちのおはるを期として、みたれぬものを、一心とは申なり。このこころを具せさらむもの、もしは一日もしは二日、乃至一声十声に、かならす往生する事をうといふ、いかてか凡夫のこころに、散乱なき事候へき。されはこそ、易行道とは申ことにて候へ。『双巻経』の文には「横截五悪趣、悪趣自然閉、昇道無窮極、易往而無人」ととけり。まことにゆきやすき事、これにすきたるや候へき。劫をつみてむまるといはは、いのちもみしかく、みもたえさらむ人、いかかとおもふへきに、本願に乃至十念といふ、願成就の文に、乃至一念もかの仏を念して、こころをいたして迴向すれは、すなわちかのくににむまるる事をうといふ。造悪のものむまれすといはは、『観経』の文に、五逆の罪人むまるととく。もしよもくたり、人のこころもおろかなる時は、信心うすくして、むまれかたしといはは、『双巻経』の文に、「当来之世、経道滅尽、我以慈悲哀愍、特留此経、止住百歳、其有衆生値此経者、随意所願皆可得度」 云云

その時の衆生は三宝の名をきく事なし。もろもろの聖教は竜宮にかくてれ、一巻もととまることなし。たた悪邪無信のさかりなる衆生のみあり、みな悪道におちぬへし。弥陀の本願をもちて、釈迦の大悲ふかきゆへに、この教をととめたまひつる事百年なり。いはむやこのころは、これ末法のはしめなり、万年ののちの衆生におとらむや。かるかゆへに易往といふ。しかりといゑとも、この教にあふものはかたく、またおのつからきくといゑとも、信する事かたきかゆへに、しかれは無人といふ、まことにことわりなるへし。

『阿弥陀経』に、「もしは一日もしは二日乃至七日、名号を執持して一心不乱なれは、その人命終の時に、阿弥陀仏もろもろの聖衆と、現にその人のまへにまします。おはる時心不顛倒して、阿弥陀仏の極楽国土に往生する事をう」といふ。この事をときたまふ時に、釈迦一仏の所説を信せさらむ事をおそれて、「六方の如来同心同時に、おのおの広長の舌相をいたして、あまねく三千大千世界におほいて、もしこの事そらことならは、わかいたすところの広長の舌やふれたたれて、くちにかへりいる事あらし」{観念法門}と、ちかひたまひき。経の文釈の文あらはに候。たたよく御こころえ候へ。また大事を成したまひしときは、みな証明ありき、『法華経』をときたまひしときは、多宝一仏証明し、『般若』をときたまひし時は、四方四仏証明したまふ。しかりといゑとも、一日七日の念仏のこときに、証誠のさかりなる事はなし。仏もこのことをことに大事におほしめしたるにこそ候め。

問。信心のやうはうけたまはりぬ、行の次第いかか候へき。

答。四修をこそは本とする事にて候へ。一には長時修、二には慇重修、また恭敬修となつく。三には無間修。四には無余修なり。
一に長時修といふは、慈恩の『西方要決』にいはく、初発心よりこのかた、つねに退転なきなり。善導は、いのちのおはるを期として、誓て中にととまらされといふ。

二に恭敬修といふは、極楽の仏法僧宝において、つねに憶念して尊重をなすなり。『往生要集』にあり。また『要決』にいはく、恭敬修これにつきて五あり。一には有縁の聖人をうやまふ、二には有縁の像と教とをうやまふ、三には有縁の善知識をうやまふ、四には同縁の伴をうやまふ、五には三宝をうやまふ。一に有縁の聖人をうやまふといふは、行住座臥西方をそむかす、涕唾便利西方にむかはされといふ。二に有縁の像と教とをうやまふといふは、弥陀の像を、あまねくつくりもかきもせよ、ひろくする事あたはすは、一仏二菩薩をつくれ。また教をうやまふといふは、弥陀経等を五色の袋にいれて、みつからもよみ、他をおしへてもよませよ。像と経とを室のうちに安置して、六時に礼讃し、香華供養すへし。三に有縁の善知識をうやまふといふは、浄土の教をのへむものおは、もしは千由旬よりこのかた、ならひに敬重し親近し供養すへし。別学のものおも、総してうやまふこころをおこすへし。もし軽慢をなさは、つみをうる事きわまりなし。すすめても衆生のために善知識となりて、かならす西方に帰する事をもちゐよ。この火宅に住せは、退没ありていてかたきかゆへなり。火界の修道はなはたかたきかゆへに、すすめて西方に帰せしむ。ひとたひ往生をえつれは、三学自然に勝進しぬ、万行ならひにそなわるかゆへに。弥陀の浄国は造悪の地なし。四に同縁の伴をうやまふといふは、おなしく業を修するものなり。みつからはさとりおもくして、独業は成せりといゑとも、かならすよきともによりて、まさに行をなす、あやうきをたすけ、あやうきをすくふ事、同伴の善縁なり。ふかくあひたのみておもくすへし。五に木のかたふきたるか、たうるるには、まかれるによるかことし、ことのさわりありて、西にむかふにおよはすは、たた西にむかふおもひをなすにはしかす。

三に無間修といふは、要決に云つねに念仏して往生のこころをなせ、一切の時において、こころにつねにおもひたくむへし。たとへは、もし人他に抄掠せられて、身下賤となりて、艱辛をうく、たちまちに父母をおもひて、本国にはしりかへらむとおもふて、ゆくへきはかりこと、いまたわきまへすして、他郷にあり、日夜に思惟す。苦たえしのふへからす。時としても、本国をおもはすといふことなし。計をなすことえて、すてにかへりて、達することをえて、父母に親近して、ほしきままに歓娯するかことし、行者またしかなり。往因の煩悩に善心を壊乱せられて、福智の珍財ならひに散失して、ひさしく生死にしつみて、六道に駈馳して、苦み身心をせむ。いま善縁にあひて、弥陀の慈父をききて、まさに仏恩を念して、報尽を期として、こころにつねにおもふへし。こころにあひつきて余業をましへされ。

四に無余修といふは、『要決』にいはく、もはら極楽をもとめて礼念するなり。諸余の行業を雑起せされ、所作の業は日別に念仏すへし。善導ののたまはく、専らかの仏の名号を念し専ら礼し、もはらかの仏およひ、かの土の一切の聖衆等をほめて、余業をましえされ。専修のものは、百はすなわち百なからむまれ、雑修のものは、百か中にわつかに一二なり。雑縁にねかひつきぬれは、みつからもさえ、他の往生の正行おもさうるなり。なにをもてのゆへに、われみつから、諸方をみきくに、道俗解行不同にして、専雑ことなり。たたこころをもはらになさは、十はすなわち十なからむまる、雑修のものは、一もえすといふ。また善導釈してのたまはく、西方浄土の業を修せむとおもはむものは、四修おつる事なく、三業ましわる事なくして、一切の諸願を廃して、たた西方の一行と一願とを修せよとこそ候へ。

問。一切の善根は魔王のためにさまたけらる、これはいかかして対治し候へき。

答。魔界といふものは、衆生をたふろかすものなり。一切の行業は、自力をたのむかゆへ也。念仏の行者は、みをは罪悪生死の凡夫とおもへは、自力をたのむ事なくして、たた弥陀の願力にのりて往生せむとねかふに、魔縁たよりをうる事なし。観慧をこらす人にも、なほ空界の魔事ありといふ、弥陀の一事には、もとより魔事なし、観人清浄なるかゆへにといへり。仏をたふろかす魔縁なけれは、念仏のものおはさまたくへからす、他力をたのむによるかゆへに。百丈の石をふねにおきつれは、万里の大海をすくといふかことし。または念仏の行者のまへには、弥陀観音つねにきたりたまふ、二十五の菩薩、百重千重護念したまふに、たよりをうへからす。

問。阿弥陀仏を念するに、いかはかりの罪おか滅し候。

答。一念によく八十億劫の生死の罪を滅すといひ、また但聞仏名二菩薩名除無量劫生死之罪なと申候そかし。

問。念仏と申候は、仏の色相光明を念するは、観仏三昧なり。報身を念し、同体の仏性を観するは、智あさくこころすくなき、われらか境界にあらす。

答。善導のたまはく、相を観せすして、たた名字を称せよ。衆生障重して、観成する事かたし、このゆへに大聖あはれみて、称名をもはらにすすめたまへり。こころはかすかにして、たましひ十方にとひちるかゆへなりといふ本願の文を、善導釈してのたまはく、「若我成仏、十方衆生 願生我国 称我名号 下至十声、乗我願力 若不生者 不取正覚、彼仏今現在成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生」と、おほせられて候。
とくとく安楽の浄土に往生せさせおはしまして、弥陀観音を師として、法華の真如実相平等の妙理、般若の第一義空、真言の即身成仏、一切の聖教、こころのままにさとらせおはしますへし。

津戸三郎に答ふる書

御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。たつねおほせたひて候事とも。おほやうしるし申候。
くまかやの入道。つのとの三郎は。無智のものなれはこそ。念仏おはすすめたれ。有智の人には。かならすしも。念仏にかきるへからすと申よし。きこえて候覧。きわめたるひか事に候。そのゆへは。念仏の行は。もとより有智無智にかきらす。弥陀のむかしちかひたまひし本願も。あまねく一切衆生のため也。無智のためには念仏を願し。有智のためには余のふかき行を願したまへる事なし。十方衆生のために。ひろく有智無智。有罪無罪。善人悪人。持戒破戒。たふときもいやしきも。男も女も。もしは仏在世。もしは仏滅後の近来の衆生。もしは釈迦の末法万年ののち。三宝みなうせての時の衆生まて。みなこもりたる也。
また善導和尚の。弥陀の化身として。専修念仏をすすめたまへるも。ひろく一切衆生のためにすすめて。無智のものにかきる事は候はす。ひろき弥陀の願をたのみ。あまねき善導のすすめをひろめむもの。いかてか無智の人にかきりて。有智の人をへたてむや。もししからは。弥陀の本願にもそむき。善導の御こころにもかなふへからす。されは。この辺にまうてきて。往生のみちをとひたつね候人には。有智無智を論せす。みな念仏の行はかりを申候也。しかるに。そらことをかまへて。さやうに念仏を申ととめむとするものは。このさきのよに念仏三昧浄土の法門をきかす。後世にまた三悪道にかへるへきもの。しかるへくして。さやうの事おは。たくみ申候事にて候なり。そのよし聖教にみえて候也

見有修行起瞋毒。方便破壊競生怨。如此生盲闡提輩。毀滅頓教永沈淪。超過大地微塵劫。未可得離三途身と申たる也。
この文のこころは。浄土をねかひ念仏を行するものをみては。瞋をおこし毒心をふうみて。はかり事をめくらし。やうやうの方便をなして。念仏の行を破て。あらそひて怨をなし。これをととめむとするなり。かくのこときの人は。むまれてよりこのかた。仏法のまなこしひて。仏の種をうしなへる闡提の輩なり。この弥陀の名号をとなえて。なかき生死をたちまちにきりて。常住の極楽に往生すといふ。頓教の法をそしりほろほして。この罪によりて。なかく三悪にしつむといえるなり。かくのこときの人は。大地微塵劫をすくとも。むなしく三悪道のみをはなるる事をうへからすといえるなり。されは。さやうに妄語をたくみて申候覧人は。かへりてあはれむへきものなり。さほとのものの申さむによりて。念仏にうたかひをなし。不審をおこさむものは。いふにたらさるほとの事にてこそ候はめ。おほかた弥陀に縁あさく。往生に時いたらぬものは。きけとも信せす。行するをみては。腹をたていかりを含て。さまたけむとすることにて候也。そのこころをえて。いかに人申候とも。御こころはかりはゆるかせたまふへからす。あなかちに信せさらむは。仏なほちからおよひたまふまし。いかにいはむや。凡夫ちからおよふましき事也。かかる不信の衆生のために。慈悲をおこして。利益せむとおもふにつけても。とく極楽へまいりて。さとりひらきて。生死にかへりて。誹謗不信のものをわたして。一切衆生あまねく利益せむとおもふへき事にて候也。このよしを御こころえておはしますへし

一。一家の人人の善願に結縁助成せむこと。この条左右におよひ候はす。尤しかるへく候。念仏の行をさまたくる事をこそ。専修の行に制したる事にて候へ。人人のあるいは堂おもつくり。仏おもつくり。経おもかき。僧おも供養せむには。ちからをくわへ縁をむすはむか。念仏をさまたけ。専修をさふるほとの事は候まし

一。この世のいのりに。仏にも神にも申さむ事は。そもくるしみ候まし。後世の往生。念仏のほかにあらす行をするこそ。念仏をさまたくれは。あしき事にて候へ。この世のためにする事は。往生のためにては候はねは。仏神のいのり。さらにくるしかるましく候也

一。念仏を申させたまはむには。こころをつねにかけて。口にわすれすとなふるか。めてたきことにては候なり。念仏の行は。もとより行住座臥時処諸縁をきらわさる行にて候へは。たとひみもきたなく。口もきたなくとも。こころをきよくして。わすれす申させたまはむ事。返返神妙に候。ひまなくさやうに申させたまはむこそ。返返ありかたくめてたく候へ。

いかならむところ。いかならむ時なりとも。わすれす申させたまはは。往生の業にはかならすなり候はむする也。そのよしを御こころえて。おなしこころならむ人には。おしえさせたまふへし。いかなる時にも申ささらむをこそ。ねうしてまふさはやとおもひ候へきに。申されむをねうして申させたまはぬ事は。いかてか候へき。ゆめゆめ候まし。たたいかなるおりもきらはす。申させたまふへし。あなかしこあなかしこ

一。御仏おほせにしたかひて。開眼してくたしまいらせ候。阿弥陀の三尊つくりまいらせさせたまひて候なる。返返神妙に候。いかさまにも。仏像をつくりまいらせたるは。めてたき功徳にて候也

一。いま一いふへき事のあるとおほせられて候はなに事にか候覧。なむ条ははかりか候へき。おほせ候へし
一。念仏の行あなかちに信せさる人に。論しあひ。またあらぬ行。ことさとりの人にむかひて。いたくしゐておほせらるる事候まし。異学異解の人をえては。これを恭敬してかなしめ。あなつる事なかれと。申たることにて候也。されは同心に極楽をねかひ。念仏を申さむ人に。たとひ塵刹のほかの人なりとも。同行のおもひをなして。一仏浄土にむまれむとおもふへきにて候なり。阿弥陀仏に縁なくて。浄土にちきりなく候はむ人の。信もおこらす。ねかはしくもなく候はむには。ちからおよはす。たたこころにまかせて。いかなる行おもして。後生たすかりて。三悪道をはなるる事を。人のこころにしたかひてすすめ候へきなり。またさわ候へとも。ちりはかりもかなひ候ぬへからむ人には。弥陀仏をすすめ。極楽をねかふへきにて候そ。いかに申候とも。このよの人の極楽にむまれぬ事は。候ましき事にて候也。このあひたの事おは。人のこころにしたかひて。はからふへく候なり。いかさまにも。人とあらそふことは。ゆめゆめ候まし。もしはそしり。もしは信せさらむものをは。ひさしく地獄にありて。また地獄へかへるへきものなりと。よくよくこころえて。こわからて。こしらふへきにて候か。またよもとは。おもひまいらせ候へとも。いかなる人申候とも。念仏の御こころなむと。たちろきおほしめす事。あるましく候。たとひ千の仏世にいてて。まのあたりおしえさせたまふとも。これは釈迦・弥陀よりはしめて。恒沙の仏の証誠せさせたまふ事なれはと。おほしめして。こころさしを金剛よりもかたくして。このたひかならす。阿弥陀仏の御まへにまいりてむと。おほしめすへく候也。かくのこときの事。かたはし申さむに。御こころえて。わかため人のために。おこなはせたまふへし。

あなかしこあなかしこ

  九月十八日 源空


つのとの三郎殿 御返事

つのとの三郎といふは。武蔵国の住人也。おほこ[6]・しのや[7]・つのと[8]。この三人は。聖人根本の弟子なり。つのとは生年八十一にて。自害して。めてたく往生をとけたりけり。故聖人往生のとしとて。ししたりける。もし正月二十五日なとにてやありけむ。こまかにたつね記すへし

康元元 丙辰 十一月八日
愚禿親鸞 八十四歳 書之


  1. 『安心決定鈔』に四種往生の事として詳述あり。[1]
  2. 読み下し「もし人命終の時に念をなすことあたはざれども、ただかの方に仏ましますと知りて往生の意をなせば、また往生を得」『安楽集』第五大門p263の文か?
  3. 北政所とは摂政・関白の正妻に宣下する名称で、ここでは九条兼実の妻、藤原兼子(藤原季行の娘)のこと。北政所は正治二年、法然聖人から受戒した。
  4. 念仏に易と勝の義があるので、ここでは強き念仏とされたのであろう。
  5. 伝教大師に、直接念誦の功徳を示す文はないそうだが、親鸞聖人にも「山家の伝教大師は 国土人民をあはれみて 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏をとなふべし」(現世利益和讃)の和讃があるので何らかの伝承があったのであろう。
  6. 上野国の武士、大胡太郎実秀
  7. 相模国の武士、渋谷道遍
  8. 源頼朝の武士、津戸三郎為守