西方指南抄/下本
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或人念仏之不審聖人に奉問次第
或人念仏之不審聖人に奉問次第
『禅勝房との十一箇条問答』
問。八宗・九宗のほかに、浄土宗の名をたつることは、自由(じゆ)にまかせてたつること、余宗の人の申候おは、いかか申候へき。
答。宗の名をたつることは、仏説にはあらす、みつからこころさすところの経教につきて、存したる義を学しきわめて、宗義を判ずる事也。諸宗のならひみなかくのことし。いま浄土宗の名をたつる事は、浄土の依正経につきて、往生極楽の義をさとりきわめたまへる先達の、宗の名をたてたまへるなり。宗のおこりをしらさるものの、さやうの事おは申也。
問。法華・真言おは雑行にいるへからすと、ある人申候おは。いかむ。
答。恵心の先徳、一代の聖教の要文をあつめて『往生要集』をつくりたまへる中に、十門をたてて、第九に往生の諸行の門に、法華・真言等の諸大乗をいれたまへり。諸行と雑行と、ことばはことに、こころはおなし。いまの難者は。恵心の先徳にまさるへからさるなり。 云云
問。余仏・余経につきて、善根を修せむ人に、結縁助成し候ことは、雑行にてや候へき。
答。我こころ弥陀仏の本願に乗し、決定往生の信をとるうえには、他の善根に結縁し助成せむ事、またく雑行となるへからす。わか往生の助業となるへき也。他の善根を随喜讃嘆せよ[1]と、釈したまへるをもて。こころうへきなり。
問。極楽に九品の差別の候事は、阿弥陀仏のかまへたまへる事にて候やらむ。
答。||DotUL|極楽の九品は、弥陀の本願にあらす、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。}}善人悪人一処にむまるといはは、悪業のものとも慢心をおこすへきかゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくたるなりと、ときたまふなり。いそきまいりてみるへし。 云云
問。持戒の行者の念仏の数返のすくなく候はむと、破戒の行人の念仏の数返のおほく候はむと、往生ののちの浅深。いつれかすすみ候へき。
答。ゐておはしますたたみをささえてのたまはく、このたたみのあるにとりてこそ、やふれたるかやふれさるかといふことはあれ。つやつやとなからむたたみおは。なにとかは論すへき。末法の中には。持戒もなく、破戒もなし、無戒もなし、たた名字の比丘はかりありと、伝教大師の『末法灯明記』にかきたまへるうへは、なにと持戒破戒のさたはすへきそ。かかるひら凡夫のために、おこしたまへる本願なれはとて、いそきいそき名号を称すへしと。 云云
問。念仏の行者等、日別の所作[2]において、こゑをたてて申人も候。こころに念してかずをとる人も候、いつれおかよく候へき。
答。それは口にも名号をとなへ、こころにも名号を念することなれは、いつれも往生の業にはなるへし。たたし仏の本願の称名の願なるかゆへに、こゑをあらわすへきなり。かるかゆへに、『経』には「こゑをたえす十念せよ」{観経意}ととき。釈には「称我名号下至十声」{礼讃}と釈したまへり。わかみみにきこゆるほとおは、高声念仏にとるなり。されはとて、譏嫌をしらす[3]、高声なるへきにはあらす、地体はこゑをいたさむとおもふへきなり。
問。日別の念仏の数返は、相続にいるほとは、いかかはからひ候へき。
答。善導の釈によらは、一万已上は相続にてあるへし。たたし一万返をいそき申て、さてその日をすこさむ事はあるへからす、一万返なりとも、一日一夜の所作とすへし。総しては、一食のあひたに、三度はかりとなえむは、よき相続にてあるへし。それは衆生の根性不同なれは、一准なるへからす[4]、こころざしたにもふかけれは、自然に相続はせらるる事なり。
問、『礼讃』の深心の中には、「十声・一声必得往生。乃至一念無有疑心」[5]と釈し、また『疏』の中の深心には、「念念不捨者。是名正定之業」[6]と釈したまへり。いつれがわが分にはおもひさだめ候べき。
答、十声・一声の釈は、念仏を信するやうなり。かるがゆへに、信おば一念に生るととり、行おば一形をはげむべしと、すすめたまへる釈也。また大意は一発心已後の釈[7]を本とすべし。
問。本願の一念は、尋常の機・臨終の機に通すへく候歟。
答。一念の願は。二念におよはさらむ機のためなり。尋常の機に通すへくば、上尽一形の釈あるへからす。この釈をもてこころうへし。かならす一念を仏の本願といふへからす。「念念不捨者。是名正定之業。順彼仏願故」{散善義}の釈は、数返つもらむおも本願とはきこえたるは、たた本願にあふ機の遅速不同なれは、上尽一形下至一念と、おこしたまへる本願なりと、こころうへきなり。かるかゆへに念仏往生の願とこそ、善導は釈したまへと」
問。自力・他力の事は。いかかこころうへく候らむ。
答らくは、源空は殿上へまいるへききりやうにてはなけれとも、上[8]よりめせは、二度まいりたりき。これわかまいるべきしきにてはなけれとも、上の御ちからなり。まして阿弥陀仏の仏力にて、称名の願にこたえて、来迎せさせたまはむ事おは、なむの不審かあるへき。
自身の罪のおもく、無智なれは、仏もいかにしてすくひましまさむとおもはむものは、つやつや仏の願をもしらさるものなり。かかる罪人ともを、やすやすとたすけすくはむれうに、おこしたまへる本願の名号をとなえなから、ちりはかりも疑心あるましきなり。十方衆生のうちに願、有智・無智・有罪・無罪・善人・悪人・持戒・破戒・男子・女人、三宝滅尽ののち。百歳まての衆生、みなこもれるなり。
かの三宝滅尽の時の念仏者、当時のわ御坊たちとくらふれは、わ御房たちは仏のことし。かの時は人寿十歳の時なり、戒・定・慧の三学、なをだにもきかす、いふはかりなきもの[9]ともの来迎にあつかるへき道理をしりなから、わかみのすてられまいらすへきやうおは、いかにしてかあむしいたすへき。たたし極楽のねかはしくもなく、念仏のまうされざらむ事こそ。往生のさわりにてはあるへけれ。
かるかゆへに。他力の本願ともいひ、超世の悲願ともいふなり。 云云
問。至誠等の三心を具し候へきやうおは、いかかおもひさため候へき。
答。三心を具する事は、たた別のやうなし、阿弥陀仏の本願に、わか名号を称念せよ、かならす来迎せむと、おほせられたれは、決定して引接せられまいらせむずると、ふかく信して、心念口称にものうからす、すてに往生したるここちして、たゆまさるものは、自然に三心具足するなり。また在家のものどもは、かほどにおもはざれとも、念仏を申ものは極楽にうまるなれはとて、念仏をたにも申せは、三心は具足するなり。されはこそいふにかひなきやからともの中にも、神妙なる往生はする事にてあれと。 云云