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真宗高田派で伝時されてきた、親鸞聖人筆(国宝)の法語集。親鸞聖人が師匠である法然聖人の法語・消息・行状記などを、収集した書物。奥書より康元元(1256)年~康元二(1257)年頃(84~85歳)書写されたものと思われる。テキストは、ネット上の「大藏經テキストデータベース」を利用し、『真宗聖教全書』に依ってページ番号を付した。これによってページ単位でもリンクも可能である。
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西方指南抄 下本

大胡の太郎實秀が妻のもとへつかわす御返事

{上野ノオホコノ女房御返事}

御ふみこまかにうけたまはり候ぬ。はるかなるほどに、念仏の事きこしめさむがために、わざとつかひをあけさせたまひて候、御念仏の御こころざしのほど、返返もあはれに候。

さてはたづねおほせられて候念仏の事は、往生極楽のためには、いづれの行といふとも、念仏にすぎたる事は候はぬ也。そのゆへは、念仏はこれ弥陀の本願の行なるがゆへなり。本願といふは、あみだ仏のいまだほとけにならせたまはざりしむかし、法蔵菩薩と申しいにしへ、仏の国土をきよめ、衆生を成就せむがために、世自在王如来と申仏の御まへにして、四十八の大願をおこしたまひしその中に、一切衆生の往生のために、一の願をおこしたまへり。これを念仏往生の本願と申也。

すなわち『無量寿経』の上巻にいはく、「設我得仏、十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念、若不生者 不取正覚」[1]と云。
善導和尚この願を釈して云、「若我成仏、十方衆生 称我名号 下至十声、若不生者 不取正覚、彼仏今現在成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念 必得往生。」[2]{礼讃}{已上} 念仏といふは、仏の法身を憶念するにもあらず、仏の相好を観念するにもあらず、ただこころをひとつにして、もはら阿弥陀仏の名号を称念する、これを念仏とは申也。かるがゆへに称我名号といふなり。念仏はほかの一切の行は、これ弥陀の本願にあらざるかゆへに、たとひめでたき行なりといふとも、念仏にはおよばす。おほかたそのくににむまれむとおもはむものは、その仏のちかひにしたがふへきなり。されば弥陀の浄土にむまれむとおもはむものは、弥陀の誓願にしたがふべきなり。本願の念仏と、本願にあらざる余行と、さらにたくらぶべからす。かるがゆへに往生極楽のためには、念仏の行にすぎたるは候はずと申なり。往生にあらざるみちには、余行またつかさどるかたあり。
しかるに衆生の生死をはなるるみち、仏のをしへやうやうにおほく候へとも、このごろ人の生死をはなれ、三界をいづるみちは、ただ極楽に往生し候ばかりなり。このむね、聖教のおほきなることわりなり。

つぎに極楽に往生するに、その行やうやうにおほく候へとも、われらが往生せむこと、念仏にあらずばかなひがたく候なり。そのゆへは、仏の本願なるかゆへに、願力にすがりて往生することはやすし。さればせむずるところは、極楽にあらずば生死をはなるべからず、念仏にあらずば極楽へむまるべからざるものなり。ふかくこのむねを信ぜさせたまひて、ひとすぢに極楽をねがひ、ひとすぢに念仏をして、このたびかならす生死をはなれむとおぼすべきなり。また一一の願のおはりに、もししからずは正覚をとらじとちかひたまへり。しかるに阿弥陀仏ほとけになりたまひてよりこのかた、すてに十劫をへたまへり。まさにしるべし、誓願むなしからず、しかれば衆生の称念するもの、一人もむなしからず、往生する事をう。もししからずば、たれか仏になりたまへることを信すへき。三宝滅尽の時なりといゑとも、一念すれはなほ往生す、五逆深重の人なりといゑとも、十念すれは往生す。いかにいはむや、三宝の世にむまれて、五逆をつくらざるわれら、弥陀の名号をとなえむに、往生うたがふべからず。いまこの願にあえることは、まことにこれおぼろけの縁にあらず。よくよくよろこびおぼしめすべし。

たとひまたあふといゑとも、もし信ぜされは、あはさるかことし。いまふかくこの願を信せさせたまへり、往生うたかひおほしめすへからす。かならすかならすふたこころなく、よくよく御念仏候て、このたひ生死をはなれ、極楽にむまれさせたまふへし。また『観無量寿経』に云、「一一光明 遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」[3]已上 これは光明たた念仏の衆生をてらして、よの一切の行おはてらさすといふなり。ただし、よの行をしても極楽をねかはは、ひかりてらして摂取したまふへし、いかがただ念仏のものばかりをえらひて、てらしたまへるや[4]。善導和尚釈してのたまはく、「弥陀真色如金山、相好光明照十方、唯有念仏蒙光摂、当知本願最爲強」[5]{礼讃}已上。 念仏はこれ弥陀の本願の行なるかゆへに、成仏の光明つよく本地の誓願をてらしたまふなり。余行これ本願にあらざるかゆへに、弥陀の光明きらいててらしたまはさるなり。いま極楽をもとめむ人は、本願の念仏を行して、摂取のひかりにてらされむとおほしめすへし。これにつけても、念仏大切に候、よくよく申させたまふへし。また釈迦如来この経の中に、定散のもろもろの行をときおはりてのちに、まさしく阿難に付属したまふときには、かみにとくところの、散善の三福業、定善の十三観をは付属せすして、たた念仏の一行を付属したまへり。『経』に云く、「仏告阿難、汝好持是語、持是語者、即是持無量寿仏名」[6]已上 善導和尚この文を釈してのたまはく、「従仏告阿難 汝好持是語已下、正明付属弥陀名号 流通於遐代、上来雖説定散両門之益、望仏本願、意在衆生一向専称弥陀仏名」[7]{散善義}已上。

この定散のもろもろの行は、弥陀の本願にあらす。かるかゆへに、釈迦如来往生の行を付嘱したまふに、余の定善・散善おは付嘱せすして、念仏はこれ弥陀の本願なるかゆへに、まさしくえらひて、本願の行を付属したまへるなり。いま釈迦のおしえにしたかひて、往生をもとむるもの、付属の念仏を修して、釈迦の御こころにかなふへし。これにつけても、またよくよく御念仏候て、仏の付属にかなはせたまふへし。また六方恒沙の諸仏、御したをのへて、三千世界におほいて、もはらたた弥陀の名号をとなへ往生すといふは、これ真実也と証誠したまふなり。これまた念仏は弥陀の本願なるかゆへに、六方恒沙に諸仏、これを証誠したまふ。余の行は本願にあらさるかゆへに、六方恒沙の諸仏証誠したまはす。これにつけても、よくよく御念仏候へし。弥陀の本願、釈迦の付属、六方の諸仏の証誠護念を、ふかくかうぶらせたまふへし。弥陀の本願、釈尊の付属、六方の諸仏の護念、一一にむなしからす。このゆへに念仏の行は、諸行にすくれたるなり。

また善導和尚は弥陀の化身なり、浄土の祖師おほしといへとも、たたひとへに善導による。往生の行おほしといゑとも、おほきにわかちて二としたまへり。一には専修、いはゆる念仏なり。二には雑修なり、いはゆる一切のもろもろの行なり。上にいふところの定散等これなり。『往生礼讃』に云く、「若能如上念念相続、畢命爲期者、十即十生、百即百生」[8]と云へり、専修と雑行との得失なり。得といふは、往生する事をうるといふ。いはく、念仏するものは、すなわち十は十人なから往生し、百はすなわち百人なから往生すといふこれなり。

失といふは、いはく、往生の益をうしなえるなり。雑修のものは、百人が中に、まれに一二人往生する事をえて、そのほかは生せす。千人か中に、まれに三五人むまれて、その余はむまれす。専修のものはみなむまるることをうるは、なにのゆへそと、阿弥陀仏の本願に相応せるかゆへなり、釈迦如来のおしえに随順せるかゆへなり。雑業のものはむまるることのすくなきは、なむのゆへぞと、弥陀の本願にたがへるかゆへなり。念仏して浄土をもとむるものは、二尊の御こころにふかくかなへり。雑修をして浄土をもとむるものは、二仏の御こころにそむけり。善導和尚二行の得失を判せること、これのみにあらす、『観経の疏』と申すふみの中に、おほく得失をあげたり。しげきかゆへにいださす、これをもてしるへし。おほよそこの念仏は、そしれるものは地獄におちて、五劫苦をうくることきわまりなし。信するものは浄土にむまれて、永劫たのしみをうくることきわまりなし。なほなほいよいよ信心をふかくして、ふたこころなく念仏せさせたまふへし。くはしき事御ふみにつくしかたく候。

大胡の太郎實秀へつかわす御返事

このつかひ御申候へし上野のくにの住人、おほこの太郎と申もの、京へまかりのほりたるついてに、法然聖人にあひたてまつりて、念仏のしさいとひたてまつりて、本国へくたりて念仏をつとむるに、ある人申ていはく、いかなる罪をつくれとも、念仏を申せは往生す、一向専修なるへしといふとも、ときときは『法華経』おもよみたてまつり、また念仏申さむも、なにかはくるしからむと申けれは、まことにさるかたもありとて、法然聖人の御もとへ、消息にてこのよしを、いかかと申たりける御返事かくのことし。件の太郎は、このすすめによりて、めおとことも往生してけり。

聖人の御返事

さきの便にさしあふ事候て、御ふみをだにみとき候さりしかば[9]、御返事こまかに申さず、さだめておぼつかなくおぼしめし候覧と、おそれおもひ給候。さてはたづねおほせられて候ことともは、御ふみなとにて、たやすく申ひらくへきことにても候はず、あはれまことに、京にひさしく御とうりう候し時、よし水の坊にて、こまかに御さたありせば、よく候なまし、おほかたは、念仏して往生すと申ことばかりおば、わづかにうけたまはりて、わがこころひとつに、ふかく信じたるばかりにてそ候へども、人までつはびらか[10]に申きかせなどするほどの身にては候はねば、ましていりたちたる[11]ことども不審など、御ふみに申ひらくべしともおぼえ候はねども、わづかにうけたまはりおよびて候はむほどの事を、はばかりまいらせて、すべてともかくも御返事を申さざらむことのくちおしく候へは、こころのおよび候はむほどのことは、かたのごとく申さむとおもひ候也。

まづ三心具足して往生すと申事は、まことにその名目ばかりをうちきくおりは、いかなるこころを申やらむと、ことごとしく[12]おほえ候ぬべけれとも、善導の御こころにて、こころやすき事にて候なり、もしならひさたせざらむ無智の人、さとりなからむ女人などは、え具せぬほどのこころえにては候はぬなり、まめやかに往生せむとおもひて念仏申さむ人は、自然に具足しぬへきこころにて候ものを。
そのゆへは、三心と申は、『観無量寿経』にとかれて候やうは、「もし衆生あて、かのくににむまれむとねがはむものは、三種の心をおこして、すなはち往生すべし。なにおか三とする、一には至誠心、二には深心、三には迴向発願心なり。三心を具せるもの、かならずかのくににむまる」ととかれたり。しかるに善導和尚の御こころによらば、はじめの至誠心といふは真実心なり。真実といふは、うちにはむなしくして、外にはかざるこころなきを申也。すなわち『観無量寿経』を釈してのたまはく、「外に賢善精進の相を現して、内には虚仮をいだく事なかれ」と。この釈のこころは、内にはおろかにして、外にはかしこき人とおもはれむとふるまひ、内には悪をつくりて、外には善人のよしをしめし、内には懈怠にして、外には精進の相を現ずるを、実ならぬこころとは申也。
内にも外にも、ただあるままにて、かざるこころなきを、至誠心とはなづけたるにこそ候めれ。

二には深心とは、すなわちふかく信ずるこころなり。なに事をふかく信ずるぞといふに、もろもろの煩悩を具足して、おほくのつみをつくりて、余の善根なからむ凡夫、阿弥陀仏の大悲の願をあふぎて、そのほとけの名号をとなえて、もしは百年にても、もしは四・五十年にても、もしは十・二十年乃至一・二年、すべておもひはじめたらむより、臨終の時にいたるまて、退せざらむ、もしは七日・一日、十声・一声にても、おほくもすくなくも、称名念仏の人は決定して往生すと信じて、乃至一念もうたがふ事なきを、深心と也。しかるに、もろもろの往生をねがふ人も、本願の名号おばたもちながら、なほ内に妄念のおこるにもおそれ、外に余善のすくなきによりて、ひとへにわがみをかろめて、往生を不定におもふは、すでに仏の本願をうたがふなり。
されば善導は、はるかに未来の行者の、このうたがひをのこさむ事をかがみて、うたがひをのぞきて、決定心をすすめむがために、煩悩を具してつみをつくりて、善根すくなくさとりなからむ凡夫、一声まての念仏、決定して往生すべきことわりを、こまかに釈してのたまへるなり。たとひおほくの仏、そらの中にみちみちて、ひかりをはなち、御したをのべて、つみをつくれる凡夫、念仏して往生すといふ事は、ひがことなり、信ずへからずとのたまふとも、それによりて一念も、おどろきうたがふこころあるべからず。

そのゆへは、阿弥陀仏いまだ仏になりたまはざりしむかし、もしわれ仏になりたらむに、わか名号をとなふる事、十声・一声までせむもの、わがくににむまれずは、われ仏にならじと、ちかひたまひたりし。その願むなしからずして、すでに仏になりたまへり。しるべし、その名号をとなえむ人は、かならず往生すべしといふことを。また釈迦仏この娑婆世界にいでて、一切衆生のために、かの阿弥陀仏の本願をとき、念仏往生をすすめたまへり。また六方の諸仏はその説を証誠したまへり。このほかにいづれの仏の、またこれらの諸仏にたがひて、凡夫往生せずとはのたまふべきぞといふことわりをもて、仏現じてのたまふとも、それにおどろきて、信心をやぶり、うたがひをいたす事あるべからす。いはむや仏(菩薩)たちののたまはむおや、いはむや辟支仏等をやと、こまこまと釈したまひて候也。
いかにいはむや、このころの凡夫のいひさまたげむおや。いかにめでたき人と申とも、善導和尚にまさりて、往生のみちをしりたらむ事もかたく候。善導またただの凡夫にあらず、すなわち阿弥陀仏の化身なり。かの仏わが本願をひろめて、ひろく衆生に往生せさせむれうに、かりに人とむまれて、善導とは申なり。そのおしえ申せば、仏説にてこそ候へ。いかにいはむや垂跡のかたにても、現身に三昧をえて、まのあたり浄土の荘厳おもみ、仏にむかひたてまつりて、ただちに仏のおしへをうけたまはりて、のたまへることばどもなり。
本地をおもふにも、垂跡をたつぬるにも、かたかたあふきて信すへきおしえなり。しかればたれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみす、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。詮ずるところは、ただとにもかくにも、念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなつけて候なり。

三には迴向発願心と申は、これ別のこころにては候はず、わが所修の行を一向に迴向して、往生をねがふこころなり、「かくのごとく三心を具足して、かならず往生す、このこころひとへにかけぬれは往生せず」と、善導は釈したまへるなり。たとひまことのこころありて、うへをかざらすとも、仏の本願をうたがはば、深心かけたるこころなり。たとひうたがふこころなくとも、うへをかざりて、うちにまことにおもふこころなくば、至誠心かけたるこころなるべし。たとひまたこのふたつのこころを具して、かざりごころもなく、うたがふこころもなくとも、極楽に往生せむとねがふこころなくば、迴向発願心すくなかるべし。また三心とわかつおりは、かくのごとく別別になるやうなれども、詮するところは、真実のこころをおこして、ふかく本願を信じて、往生をねがはむこころを、三心具足のこころとは申へき也。まことにこれほどのこころをだにも具せすしては、いかか往生ほどの大事おばとけ候へき。このこころを申せは、またやすきことにて候ぞかし。
これをかやうにこころえしらねばとて、三心具せぬにては候はぬなり。 そのなをだにもしらぬものも、このこころおばそなえつべく、またよくよくしりたらむ人の中にも、そのままに具せぬも候ぬべきこころにて候なり。さればこそ、いふかひなき人のなかよりも、ただひとへに念仏申ばかりにて、往生したりとふことは、むかしより申つたえたることにて候へ。それはみなしらねとも、三心を具したる人にてありけりと、こころうる事にて候なり。
またとしごろ念仏申たる人の臨終わるき事の候は、さきに申つるやうに、うへばかりをかざりて、たうとき念仏者なと、人にいはれむとのみおもひて、したにはふかく本願おも信せず、まめやかに往生おもねがわぬ人にてこそは候らめとこそは、こころえられ候へ。
さればこの三心を具せぬゆへに、臨終もわるく、往生もえせぬとは申候也。かく申候へば、さては往生は大事にこそあむなれ[13]とおぼしめす事、ゆめゆめ候まじ。一定往生すべきぞとおもひとらぬこころを、やがて深心かけて往生せぬこころとは申候へば、いよいよ一定とこそおぼしめすべき事にて候へ。
まめやかに往生のこころさしありて、弥陀の本願うたがはすして、念仏申さむ人は、臨終わるきことは、おほかた候まじきなり。
そのゆへは、仏の来迎したまふ事は、もとより行者の臨終正念のためにて候なり。それをこころえぬ人は、みなわが臨終正念にて念仏申たらむおりに、仏はむかへたまふべきとのみこころえて候は、仏の願おも信ぜず、経の文おもこころえぬにて候なり。
『称讃浄土経』には、「慈悲をもてくわえたすけて、こころをしてみだらしめたまはず」と、とかれて候也。ただの時に、よくよく申おきたる念仏によりて、臨終にかならず仏来迎したまふ。仏のきたり現じたまへるをみたてまつりて、正念には住すと申しつたえて候なり。
しかるに、さきの念仏おはむなしくおもひなして、よしなき臨終正念おのみいのる人などの候は、ゆゆしきひがゐむにいりたることにて候なり。されば仏の願を信ぜむ人は、かねて臨終うたがふこころあるべからすとこそはおぼへ候へ。ただたうじより申さむ念仏おぞ、いよいよもこころをいたして申候べき。いつかは仏の願にも、臨終の時念仏申たらむ人おのみむかへむとは、たてたまひて候。臨終の念仏にて往生をすと申ことは、往生おもねがはす、念仏おも申さずして、ひとへにつみをのみつくりたる悪人の、すでにしなむとする時に、はじめて善知識のすすめにあひて、念仏して往生すとこそ、『観経』にもとかれて候へ。もとよりの行者、臨終のさたは、あなかちにすべきやうも候はぬなり。仏の来迎一定ならば、臨終正念はまた一定とおぼしめすべきなり。この御こころをえて、よくよく御こころをととめて、こころえさせたまふべきことにて候なり。

またつみをつくりたる人だにも、念仏して往生す、まして『法華経』などよみて、また念仏申さむは、などかはあしかるべきと、人人の申候らむことは、京へむにも、さやうに申候人人おほく候へば、まことにさそ候らむ。これは余の宗のこころにてこそは候はめ。よしあしをさため申候べきことに候はず。ひがことと申候はば、おそれあるかたもおほく候。
ただし浄土宗のこころ、善導の御釈には、往生の行を、おほきにわかち二とす。一には正行、二には雑行也。はじめの正行といふは、それにまたあまたの行あり。はじめに読誦の正行、これは『大無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』等の三部経をよむなり。
つぎに観察正行、これは極楽の依正二報のありさまを観ずるなり。つぎに礼拝正行、これも阿弥陀仏を礼拝するなり。
つぎに称名正行、これは南無阿弥陀仏ととなふるなり。つぎに讃嘆供養正行、これは阿弥陀仏を讃嘆供養したてまつるなり。これをさして五種の正行となづく。讃嘆と供養とを二にわかつには、六種の正行とも申なり。また「この正行につきて、ふさねて二種とす。一には一心にもはら弥陀の名号をとなえて、たちゐ・おきふし・よるひる、わするることなく、念念にすてざるを、正定の業となづく。かの仏の願によるがゆへに」と申て、念仏をもて、まさしきさだめたる往生の業にたてて、「礼誦等によるおば。なづけて助業とす」と申て、念仏のほかの礼拝や読誦や観察や讃嘆供養なとおば、かの念仏者をたすくる業と申候なり。

さてこの正定の業と助業とをのぞきて、そのほかの諸行おば、布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行も、法華経おもよみ、真言おもおこなひ、かくのごとくの諸行おば、みなことごとく雑行となづく。さきの正行を修するおば、専修の行者といふ、のちの雑行を修するを、雑修の行者と申也。この二行の得失を判するに、「さきの正行を修するには、こころつねにかのくにに親近して、憶念ひまなし。のち雑行を行するには、こころつねに間断す、迴向してむまるることをうべしといゑとも、疎雑の行となづく」といひて、極楽にはうとき行とたてたり。また「専修のものは、十人は十人ながらむまれ、百人は百人ながらむまる。なにをもてのゆへに、外の雑縁なし、正念をうるがゆへに、弥陀の本願と相応するかゆへに、釈迦のおしえにしたがふがゆへに、恒沙の諸仏のみことにしたかふかゆへに。 雑修のものは、百人に一二人、千人に四五人むまる。なにをもてのゆへに、雑縁乱動す、正念をうしなふかゆへに、弥陀の本願に相応せざるかゆへに、釈迦のおしへにしたがはざるかゆへに、諸仏のみことにたしがはざるかゆへに、繋念相続せさるかゆへに、憶想間断するかゆへに、名利と相応するかゆへに、自障障他するかゆへに、このみて雑縁にちかつきて、往生の正行をさふるかゆへに」と、釈せられて候めれは、善導和尚をふかく信じて、浄土宗にいらむ人は、一向に正行を修すべしと身事にてこそ候へ。
そのうへに、善導のおしえをそむきて、よの行を修せむとおもはむ人は、おのおのならひたるやうどもこそ候らめ。それをよしあしとはいかが申候べき。善導の御こころにてすすめたまへる行どもをおきながら、すすめたまはざる行を、すこしにてもくはふべきやうなしと申ことにて候なり。すすめたまひつる正行ばかりをだにも、なほものうきみに、いまだすすめたまはぬ雑行をくはへん事は、まことしからぬかたも候ぞかし。

またつみをつくりたる人だにも往生すれば、まして善なれば、なにかくるしからむと申候らむこそ、むげにけきたなくおぼえ候へ。往生おもたすけ候はばこそは、いみじくも候はめ。さまたげになりならぬばかりを、いみじき事にてくはえおこなはむこと、なにかせむにて候べき。
悪をば、されば仏の御こころに、このつみつくれとやはすすめさせたまふ、かまえてとどめよとこそは、いましめたまへとも、凡夫のならひ、当時のまどひにひかれて悪をつくる、ちからおよばぬ事にてこそ候へ。まことに悪をつくる人のやうに、しかるべくて、経をよみたく、余の行おもくはへたからむは、ちからおよはず候。
ただし『法華経』などよまむことを、一言も悪をつくらむことにいひくらべて、それもくるしからねば、ましてこれもなど申候はむこそ、不便のことにて候へ。ふかきみのりも、あしくこころうる人にあひぬれは、かへりてものならずきこえ候こそ、あさましく候へ。
これをかやうに申候おば、余行の人人はらたつことにて候に、御こころひとつにこころえて、ひろくちらさせたまふましく候。あらぬさとりの人人の、ともかくも申候はむ事おば、ききいれさせたまはで、ただひとすぢに、善導の御すすめにしたがひて、いますこしも、一定往生する念仏のかずを、申あはむとおぼしめすべく候。
たとひ往生のさわりとこそならずとも、不定往生とはきこえて候めれば、一定往生の行を修べきいとまをいれて、不定往生の業をくわえむ事は、損にて候はずや、よくよくこころうべき事にて候なり。ただし、かく申候へば、雑行をくわえむ人、ながく往生すまじと申にては候はず。いかさまにも余の行人なりとも、すべて人をくだし、人をそしる事は、ゆゆしきとが、おもきことにて候なり。よくよく御つつしみ候て、雑行の人なればとて、あなづる御こころ候まじ。よかれあしかれ、人のうえの善悪をおもひいれぬが、よきことにて候也。またもとよりこころざしこの門にありて、すすむべからむ人おば、こしらへすすめたまふべく候。
さとりたがひあらぬさまならむ人などに、論じあふ事は、ゆめゆめあるまじき事にて候なり。よくよくならひしりたまひたるひじりだにも、さやうの事おば、つつしみておはしましあひて候。ましてとのばらなどの御身にては、一定ひが事にて候はむずるに候。ただ御身ひとつに、まづよくよく往生をもねがひ、念仏おもはげませたまひて、くらゐたかく往生して、いそぎ かへりきたりて、人おもみちびかむとおぼしめすべく候。かやうにこまかにかきつつけて申候へとも、返返はばかりおもひて候なり。あなかしこあなかしこ。

御ひろうあるましく候。御らむじこころえさせたまひてのちには、とくとくひきやらせたまふへく候。あなかしこあなかしこ。

  三月十四日 源空

正如房へつかわす御文

この手紙の相手の正如房とは、後白河天皇の第三皇女である式子内親王の出家名が承如法であることから、式子内親王であろうとも言われている。「玉の緒よ絶えなば絶えね 長らへば忍ぶることの弱りもぞする」の句で、有名な式子内親王である。臨終の善知識になって欲しいと願う正如房に、「おなじ仏のくににまいりあひて、はちすのうえにて、このよのいふせさおもはるけ、ともに過去の因縁おもかたり、たがひに未来の化道おもたすけむことこそ、返返も詮にて候べきと、はじめより申おき候しか」と、また会える世界のあることを懇切に語っておられる。法然聖人の情愛がこもった、熱い息づかいが立ち上るような手紙である。 現代語は『正如房へつかわす御文』にある。


 しやう如ばうの御事こそ、返返あさましく[14]候へ。そののちは、こころならずうときやうになりまいらせ候て、念仏の御信もいかがと、ゆかしくはおもひまいらせ候つれども、さしたる事候はず。
また申べきたよりも候はぬやうにて、おもひながら、なにとなくて、むなしくまかりすぎ候つるに、ただれいならぬ御事、大事になどばかりうけたまはり候はむ。
いま一どは、みまいらせたく、おはりまでの御念仏の事へ、おぼつかなくこそおもひまいらせ御候べきに、まして御こころにかけて、つねに御たづね候らむこそ、まことにあはれにも、こころくるしくも、おもひまいらせ候へ。

さうなくうけたまはり候ままに、まかり候て、みまいらせたく候へども、おもひきりて、しばしいでありき候はで、念仏申候ばやと、おもひはじめたる事の候を、やうにこそよる事にて候へ。
これおば退してもまいるべきにて候に、またおもひ候へば、せむじては、このよの見参は、とてもかくても候なむ、かばねをしよ(執)するまどひにもなり候ぬべし。
たれとても、とまりはつべきみちも候はず、われも人も、ただおくれさきだつかはりめばかりにてこそ候へ。
そのたえまをおもひ候も、またいつまでかとさだめなきうえに、たとひひさしと申とも、ゆめまぼろし、いくほどかは候べきなれば、ただかまへて、おなじ仏のくににまいりあひて、はちすのうえにて、このよのいぶせさおもはるけ、ともに過去の因縁おもかたり、たがひに未来の化道おもたすけむことこそ、返返も詮にて候べきと、はじめより申おき候しか、返返も本願をとりつめまいらせて、一念もうたがふ御こころなく、こゑも南無阿弥陀仏と申せば、わがみはたとひ、いかにつみふかくとも、仏の願力によりて、一定往生するぞとおぼしめして、よくよくひとすぢに、御念仏の候べきなり。

われらが往生は、ゆめゆめわがみのよきあしきにはより候まじ。ひとへに仏の御ちからばかりにて候べきなり。わがちからばかりにては、いかにめでたくたうとき人と申とも、末法のこのごろ、ただちに浄土にむまるほどの事は、ありがたくじ候べき。
また仏の御ちからにて候はむに、いかにつみふかく、おろかにつたなきみなりとも、それにはより候まじ、ただ仏の願力を信じ信ぜぬにぞより候べき、

されは『観無量寿経』にとかれて候。むまれてよりこのかた、念仏一遍も申さず、それならぬ善根もつやつやとなくて、あさゆふ、ものをころし、ぬすみし、かくのごときのもろもろのつみをのみつくりて、とし月をゆけども、一念も懺悔のこころもなくて、あかしくらしたるもののおはりの時に、善知識のすすむるにあひて、ただひとこゑ南無阿弥陀仏と申たるによりて、五十億劫のあひだ生死にめぐるべきつみを滅して、化仏菩薩三尊の来迎にあづかりて、汝仏のみなをとなふるかゆへに、つみ滅せり、われきたりて、なむぢをむかふと、ほめられまいらせて、すなわちかのくにに往生すと候。

また五逆罪と申候て、現身にちちをころし、ははをころし、悪心をもて仏をころしめ、諸僧を破し、かくのごとくおもきつみをつくり、一念懺悔のこころもなからむ、そのつみによりて、無間地獄におちて、おほくの劫をおくりて、苦をうくべからむもののおわりの時に、善知識のすすめによりて、南無阿弥陀仏と、十声となふるに、一こゑごとに、おのおの八十億劫のあひだ生死にめぐるべきつみを滅して、往生すととかれて候ぬれ。
さほどの罪人だにも、十声一声の念仏にて、往生のし候へば、まことに仏の本願のちからならでは、いかでかさること候べきとおぼへ候て、本願むなしからずといふことは、これにても信じつべくこそ候へ。これまさしき仏説にて候、仏ののたまふみことはば、一言もあやまたずと申候へは、ただあふぎて信ずべきにて候。これをうたがはば、仏の御そらごとと申にもなりぬべく、かへりてはまた、そのつみに候ぬべしとこそおぼえ候へ。ふかく信ぜさせたまふべく候。

さて往生はせさせおはしますまじきやうにのみ、申きかせまいらする人人の候らむこそ、返返あさましく、こころぐるしく候へ。
いかなる智者めでたき人とおほせらるとも、それになほをどろかされ、おはしまし候ぞ。おのおののみちには、めでたくたうとき人なりとも、さとりあらず行ことなる人の申候ことは、往生浄土のためは、中中ゆゆしき退縁・悪知識とも申候ぬべきことともにて候。ただ凡夫のはからひおばききいれさせおはしまさで、ひとすぢに仏の御ちかひをたのみまいらせさせたまふべく候。

さとりことなる人の、往生いひさまたげむによりて、一念もうたがふこころあるべからずといふことわりは、善導和尚のよくよくこまかにおほせられおきたることにて候也。
たとひおほくの仏、そらの中にみちみちて、ひかりをはなち、御したをのべて、悪をつくりたる凡夫なりとも、一念してかならず往生すといふことは、ひが事ぞ、信ずべからずとのたまふとも、それによりて、一念もうたがふこころあるべからず。

其のゆへは、阿弥陀仏のいまだ仏になりたまはざりしむかし、はじめて道心をおこしたまひし時、われ仏になりたらむに、わが名号をとなふること、十声一声までせむもの、わがくににむまれずは、われ仏にならじと、ちかひたまひたりし、その願むなしからず、すでに仏になりたまへり、また釈迦仏この娑婆世界にいでて、一切衆生のために、かの本願をとき、念仏往生をすすめたまへり。

また六方恒沙の諸仏、この念仏して一定往生すと、釈迦仏のときたまへるは決定なり。もろもろの衆生、一念もうたがふべからず、ことごとく一仏ものこらず、あらゆる諸仏、みなことごとく証誠したまへり。すでに阿弥陀仏は願にたて、釈迦仏その願をとき、六方の諸仏その説を証誠したまへるうえに、このほかには、なに仏の、またこれらの諸仏にたがひて、凡夫往生せずとは、のたまふべきぞといふことわりをもて、仏現じてのたまふとも、それにおどろきて、信心をやぶり、うたがふこころあるべからず。
いはむや菩薩達ののたまはむおや、上辟支仏おやと。こまごまと善導釈したまひて候也。

ましてこのごろの凡夫の、いかにも申候はむによりて、げにいかがあらむずらむなと、不定におぼしめす御こころ、ゆめゆめあるまじく候。よにめでたき人と申とも、善導和尚にまさりて、往生のみちをしりたらむこともかたく候、善導また凡夫にはあらず、阿弥陀仏の化身なり。阿弥陀仏の、わか本願ひろく衆生に往生せさせむれうに、かりに人にむまれて、善導とは申候なり。
そのおしへ申せば、仏説にてこそ候へ、あなかしこあなかしこ。

うたがひおぼしめすまじく候。またはじめより、仏の本願に信をおこさせおはしまして候し御こころのほど、みまいらせ候しに、なにしにかは、往生はうたがひおぼしめし候べき、経にとかれて候ごとく、いまだ往生のみちもしらぬ人にとりてのことに候。

もとよりよくよくきこしめししたためて、そのうへ御念仏功つもりたることにて候はむには、かならずまた臨終の善知識にあはせおはしまさずとも、往生は一定せさせおはしますべきことにてこそ候へ。中中あらぬすぢなる人は、あしく候なむ。ただいかならむ人にても、あま女房なりとも、つねに御まへ候はむ人に、念仏まうさせて、きかせおはしまして、御こころひとつをつよくおぼしめして、ただ中中一向に凡夫の善知識をおぼしめしすてて、仏を善知識にたのみまいらせさせたまふべく候。
もとより仏の来迎は、臨終正念のためにて候也。それを人のみな、わが臨終正念にして念仏申たるに、仏はむかへたまふとのみ、こころえて候は、仏の願を信ぜず、経の文をぜぬにて候也。
『称讃浄土経』の文を信ぜぬにて候也。『称讃浄土経』には、慈悲をもてくわへたすけて、こころをしてみだらしめたまはずと、とかれて候也。ただのときによくよく申おきたる念仏によりて、仏は来迎したまふときに、正念には住すと申べきにて候也。
たれも仏をたのむこころははすくなくして、よしなき凡夫の善知識をたのみて、さきの念仏おばむなしくおもひなして、臨終正念をのみ、いのることどもにてのみ候が、ゆゆしきひがゐむのことにて候なり。 これをよくよく御こころえて、つねに御めをふさぎ、たなごころをあはせて、御こころをしづめて、おぼしめすべく候。ねがわくは、阿弥陀仏の本願あやまたず、臨終の時かならず、わがまへに現じて、慈悲をくわえたすけて、正念に住せしめたまへと、御こころにもおぼしめして、くちにも念仏申させたまふべく候。これにすぎたる事候まじ。

こころよわくおぼしめすことの、ゆめゆめ候まじきなり。かやうに念仏をかきこもりて申候はむなとおもひ候も、ひとへにわがみ一のためとのみは、もとよりおもひ候はず。おりしもこの御ことを、かくうけたまはり候ぬれば、いまよりは一念ものこさず、ことごとくその往生の御たすけになさむと、迴向しまいらせ候はむずれば、かまへてかまへて、おぼしめすさまに、とげさせまいらせ候はばやとこそは、ふかく念じまいらせ候へ。
もしこのこころざしまことならば、いかでか御たすけにもならで候べき。たのみおぼしめさるべきにて候。
おほかたは、申いで候しひとことばに、御こころをとめさせおはしますことも、このよひとつのことにては候はじと、さきのよもゆかしくあはれにこそ、おもひしらるることにて候へば、うけたまはり候ごとく、このたびまことに、さきだたせおはしますにても、またおもはずにさきだちまいらせ候事になる、さだめなさにて候とも、ついに一仏浄土にまいりあひまいらせ候はむことは、うたがひなくおぼえ候。

ゆめまぼろしのこのよにて、いま一度などおもひ申候事は、とてもかくても候なむ。これおば、ひとすぢにおぼしめしすてていよいよもふかくねがふ御こころおもまし、御念仏おもはげませおはしまして、かしこにてまたむとおぼしめすべく候。返返もなほなほ往生をうたがふ御こころ候まじきなり。五逆十悪のおもきつみつくりたる悪人、なを十声一声の念仏によりて、往生をし候はむに、ましてつみつくらせおはします御事は、なにごとにかは候べき。たとひ候べきにても、いくほどのことかは候べき。
この経にとかれて候罪人には、いひくらぶべくやは候、それにまづこころをおこし、出家をとげさせおはしまして、めでたきみのりにも縁をむすび、ときにしたがひ日にそえて善根のみこそは、つもらせおはします事にて候はめ。そのうへ、ふかく決定往生の法文を信じて、一向専修の念仏にいりて、ひとすぢに弥陀の本願をたのみて、ひさしくならせおはしまして候。なに事にかは、ひとことも往生をうたがひおぼしめし候べき。

専修の人は、百人は百人ながら、十人十人ながら往生すと、善導のたまひて候へば、ひとりそのかずにもれさせおはしますべきかはとこそは、おぼえ候へ。善導おもかこち、仏の本願おもせめまいらせさせたまふべく候。こころよはくは、ゆめゆめおぼしめすまじく候、あなかしこあなかしこ。

ことわりをや申ひらき候とおもひ候ほどに、よくおほくなり候ぬる。さやうのおりふし、こちなくやとおぼえ候へども、もしさすがのびたる御ことにてもまた候らむ。えしり候はねば、このたひ申候はでは、いつおかはまち候べき。もしのどかにきかせおはしまして、一念も御こころをすすむるたよりにやなり候と、おもひ候ばかりに、とどめえ候はで、これほどもこまかになり候ぬ。機嫌をしり候はぬは、はからひがたくて、わびしくこそ候へ。もしむげによはくならせおはしましたる御事にて候はば、これはことながく候べきなり。要をとりてうたえまいらせさせおはしますべく候。うけたまはり候ままに、なにとなくあはれにおぼえ候て、おしかへしまた申候なり。

越中国光明房へつかはす御返事

又故聖人の御坊の御消息

一念往生の義、京中にも粗流布するところなり、おほよそ言語道断のことなり。まことにほとお(ほ)と[15]御問におよぶべらさるなり。詮ずるところ、双巻経の下に、乃至一念信心歓喜といひ、また善導和尚は、上尽一形下至十声一声等定得往生、乃至一念無有疑心といえる、これらの文を、あしくみたるともがら、大邪見に住して申候ところなり。乃至といひ下至といえる、みな上尽一形をかねたることばなり。

しかるをちかごろ、愚痴無智のともがら、おほくひとへに十念一念なりと執して、上尽一形を廃する条、無慚無愧のことなり。まことに十念一念までも、仏の大悲本願なほかならず、引接したまふ無上の功徳なりと信じて、一期不退に行すべき也。
文証おほしといゑとも、これをいだすにおよばす、いふにたらさる事なり。ここにかの邪見の人、この難をかぶりて、こたえていはく、わがいふところも、信を一念にとりて念すへきなり。しかりとて、また念ずべからすとはいはずといふ、これまたことばは尋常なるににたりといゑども、こころは邪見をはなれず。
しかるゆへに、決定の信心をもて一念してのちは、また念ぜすといふとも、十悪五逆なほさわりをなさず、いはむや余の少罪おやと信ずべきなりといふ。このおもひに住せむものは、たとひおほく念ずといはむ、阿弥陀仏の御こころにかなはむや。いつれの経論・人師の説ぞや。これひとへに懈怠・無道心・不当不善のたぐひの、ほしいままに悪をつくらむとおもひて、また念ぜずば、その悪かの勝因をさえて、むしろ三途におちざらむや。かの一生造悪のものの、臨終に十念して往生するは、これ懺悔念仏のちからなり。この悪の義には混ずべからず。かれは懺悔の人なり[16]、これは邪見の人なり。なほ不可説不可説の事也。

もし精進のものありといふとも、この義をきかば、すなわち懈怠になりなむ。まれに戒をたもつ人ありといふとも、この説を信ぜは、すなわち無慚なり。おほよそかくのごときの人は、附仏法の外道なり、師子のみの中の虫なり。またうたがふらくは、天魔・波旬のために、精進の気をうばわるるともがらの、もろもろの往生の人をさまたげむとするなり。あやしむべし、ふかくおそるべきもの也。毎事筆端につくしがたし、謹言。

これ越中国に光明房と申ししひじり、成覚房か弟子等、一念の義をたてて、念仏の数返をとどめむと申て、消息をもてわざと申候、御返事をとりて、国の人人にみせむとて申候あひだ、かたのごとくの御返事候き。

基親取信信本願之様

基親取信信本願之様

『双巻』上云。「設我得仏。十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念。若不生者不取正覚」[17]
同下云。「聞其名号信心歓喜乃至一念。至心迴向願生彼国。即得往生住不退転」[18]
『往生礼讃』云。「今信知。弥陀本弘誓願。及称名号下至十声一声等。定得往生。乃至一念 無有疑心」[19]
『観経疏』云。「一者決定 深信自身現是罪悪生死凡夫。曠劫已来常没常流転 無有出離之縁。二者決定 深信彼阿弥陀仏四十八願摂受衆生。無疑無慮。乗彼願力定得往生」[20]

これらの文を按じ候て、基親罪悪生死の凡夫なりといゑども、一向に本願を信じて名号をとなえ候、毎日に五万返なり。決定仏の本願に乗じて、上品に往生すべきよし、ふかく存知し候也。このほか別の料間なく候。
しかるに或人、本願を信ずる人は一念なり、しかれば五万返無益也、本願を信ぜざるなりと申す。基親こたえていはく、念仏一声のほかより、百返乃至万返は、本願を信ぜずといふ文候やと申す。

難者云く、自力にて往生はかなひがたし、ただ一念信をなしてのちは、念仏のかず無益なりと申す。基親また申ていはく、自力往生とは、他の雑行等をもて願ずと申さばこそは自力とは候はめ。したがひて善導の『疏』にいはく、「上尽百年下至一日七日、一心専念弥陀名号、定得往生必無疑」[21]と候めるは、百年念仏すべしとこそは候へ。
また聖人の御房七万返をとなえしめまします、基親弟子の一分たり、よてかすおほくとなえむと存し候なり。仏の恩を報ずる也と申す。すなわち『礼讃』に、「不相続念報彼仏恩故、心生軽慢、雖作業行、常与名利相応故、人我自覆不親近同行善知識故、楽近雑縁自障障他往生正行故」[22]云云 基親いはく、仏恩を報ずとも、念仏の数返おほく候はむ。

兵部卿三位のもとより、聖人の御房へまいらせらるる御文の按。基親はただひらに本願を信じ候て、念仏を申候なり、料間も候はざるゆへなり。

そののち何事候乎。 抑、念仏の数遍、ならびに本願を信ずるやう、基親が愚按かのごとく候、しかるに難者候て、いわれなくおぼえ候。このおりかみに、御存知のむね、御自筆をもてかきたまはるべく候、難者にやぶらるべからさるゆへなり。別解別行の人にて候はば、みみにもききいるべからず候に、御弟子等の説に候へば、不審をなし候也。又念仏者女犯はばかるべからずと申あひて候。在家は勿論なり、出家はこはく本願を信ずとて、出家の人の女にちかづき候条、いはれなく候。善導は、目をあけて女人をみるべからずとこそ候ぬれ。このことあらあらおほせをかぶるべく候。恐恐謹言
             基親

聖人の御房之御返事の案

おほせのむね、つつしむてうけたまはり候ぬ。御信心とらしめたまふやう、おりがみつぶさにみ候に、一分も愚意に存じ候ところにたがわず候。
ふかく随喜したてまつり候ところなり。しかるに近来、一念のほかの数返無益なりと申義、いできたり候よし、ほぼつたへうけたまはり候。勿論不足言の事か、文義をはなれて申人、すでに証をえ候か、いかむ。もとも不審に候。またふかく本願を信ずるもの、破戒もかへりみるべからざるよしの事、これまたとはせたまふにも、およぶべからさる事か、附仏法の外道、ほかにもとむべからず候。おほよそは、ちかごろ念仏の天魔きおいきたりて、かくのごときの狂言いできたり候か、なほなほさらにあたはず候あたはず候。

恐恐謹言 八月十七日

或人念仏之不審聖人に奉問次第

禅勝房との十一箇条問答

或人念仏之不審聖人に奉問次第
『禅勝房との十一箇条問答』

問。八宗・九宗のほかに、浄土宗の名をたつることは、自由(じゆ)にまかせてたつること、余宗の人の申候おは、いかか申候へき。

答。宗の名をたつることは、仏説にはあらす、みつからこころさすところの経教につきて、存したる義を学しきわめて、宗義を判ずる事也。諸宗のならひみなかくのことし。いま浄土宗の名をたつる事は、浄土の依正経につきて、往生極楽の義をさとりきわめたまへる先達の、宗の名をたてたまへるなり。宗のおこりをしらさるものの、さやうの事おは申也。

問。法華・真言おは雑行にいるへからすと、ある人申候おは。いかむ。

答。恵心の先徳、一代の聖教の要文をあつめて『往生要集』をつくりたまへる中に、十門をたてて、第九に往生の諸行の門に、法華・真言等の諸大乗をいれたまへり。諸行と雑行と、ことばはことに、こころはおなし。いまの難者は。恵心の先徳にまさるへからさるなり。 云云

問。余仏・余経につきて、善根を修せむ人に、結縁助成し候ことは、雑行にてや候へき。

答。我こころ弥陀仏の本願に乗し、決定往生の信をとるうえには、他の善根に結縁し助成せむ事、またく雑行となるへからす。わか往生の助業となるへき也。他の善根を随喜讃嘆せよ[23]と、釈したまへるをもて。こころうへきなり。

問。極楽に九品の差別の候事は、阿弥陀仏のかまへたまへる事にて候やらむ。

答。極楽の九品は、弥陀の本願にあらす、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人悪人一処にむまるといはは、悪業のものとも慢心をおこすへきかゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくたるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし。[24] 云云

問。持戒の行者の念仏の数返のすくなく候はむと、破戒の行人の念仏の数返のおほく候はむと、往生ののちの浅深。いつれかすすみ候へき。

答。ゐておはしますたたみをささえてのたまはく、このたたみのあるにとりてこそ、やふれたるかやふれさるかといふことはあれ。つやつやとなからむたたみおは。なにとかは論すへき。末法の中には。持戒もなく、破戒もなし、無戒もなし、たた名字の比丘はかりありと、伝教大師の『末法灯明記』にかきたまへるうへは、なにと持戒破戒のさたはすへきそ。かかるひら凡夫のために、おこしたまへる本願なれはとて、いそきいそき名号を称すへしと。[25] 云云

問。念仏の行者等、日別の所作[26]において、こゑをたてて申人も候。こころに念してかずをとる人も候、いつれおかよく候へき。

答。それは口にも名号をとなへ、こころにも名号を念することなれは、いつれも往生の業にはなるへし。たたし仏の本願の称名の願なるかゆへに、こゑをあらわすへきなり。かるかゆへに、『経』には「こゑをたえす十念せよ」{観経意}ととき。釈には「称我名号下至十声」{礼讃}と釈したまへり。わかみみにきこゆるほとおは、高声念仏にとるなり。されはとて、譏嫌をしらず[27]、高声なるへきにはあらす、地体はこゑをいたさむとおもふへきなり。

問。日別の念仏の数返は、相続にいるほとは、いかかはからひ候へき。

答。善導の釈によらは、一万已上は相続にてあるへし。たたし一万返をいそき申て、さてその日をすこさむ事はあるへからす、一万返なりとも、一日一夜の所作とすへし。総しては、一食のあひたに、三度はかりとなえむは、よき相続にてあるへし。それは衆生の根性不同なれは、一准なるへからす[28]、こころざしたにもふかけれは、自然に相続はせらるる事なり。

問、『礼讃』の深心の中には、「十声・一声必得往生。乃至一念無有疑心」[29]と釈し、また『疏』の中の深心には、「念念不捨者。是名正定之業」[30]と釈したまへり。いつれがわが分にはおもひさだめ候べき。

答、十声・一声の釈は、念仏を信するやうなり。かるがゆへに、信おば一念に生るととり、行おば一形をはげむべしと、すすめたまへる釈也。また大意は一発心已後の釈[31]を本とすべし。

問。本願の一念は、尋常の機・臨終の機に通すへく候歟。

答。一念の願は。二念におよはさらむ機のためなり。尋常の機に通すへくば、上尽一形の釈あるへからす。この釈をもてこころうへし。かならす一念を仏の本願といふへからす。「念念不捨者。是名正定之業。順彼仏願故」{散善義}の釈は、数返つもらむおも本願とはきこえたるは、たた本願にあふ機の遅速不同なれは、上尽一形下至一念と、おこしたまへる本願なりと、こころうへきなり。かるかゆへに念仏往生の願とこそ、善導は釈したまへと」

問。自力・他力の事は。いかかこころうへく候らむ。

答らくは、源空は殿上へまいるへききりやうにてはなけれとも、上[32]よりめせは、二度まいりたりき。これわかまいるべきしきにてはなけれとも、上の御ちからなり。まして阿弥陀仏の仏力にて、称名の願にこたえて、来迎せさせたまはむ事おは、なむの不審かあるへき。
自身の罪のおもく、無智なれは、仏もいかにしてすくひましまさむとおもはむものは、つやつや仏の願をもしらさるものなり。かかる罪人ともを、やすやすとたすけすくはむれうに、おこしたまへる本願の名号をとなえなから、ちりはかりも疑心あるましきなり。十方衆生のうちに願、有智・無智・有罪・無罪・善人・悪人・持戒・破戒・男子・女人、三宝滅尽ののち。百歳まての衆生、みなこもれるなり。
かの三宝滅尽の時の念仏者、当時のわ御坊たちとくらふれは、わ御房たちは仏のことし。かの時は人寿十歳の時なり、戒・定・慧の三学、なをだにもきかす、いふばかりなきもの[33]どもの来迎にあずかるべき道理をしりなから、わかみのすてられまいらすへきやうおは、いかにしてかあむしいたすへき。たたし極楽のねかはしくもなく、念仏のまうされざらむ事こそ。往生のさわりにてはあるへけれ。
かるかゆへに。他力の本願ともいひ、超世の悲願ともいふなり。 云云

問。至誠等の三心を具し候へきやうおは、いかかおもひさため候へき。

答。三心を具する事は、たた別のやうなし、阿弥陀仏の本願に、わか名号を称念せよ、かならす来迎せむと、おほせられたれは、決定して引接せられまいらせむずると、ふかく信して、心念口称にものうからす、すてに往生したるここちして、たゆまさるものは、自然に三心具足するなり。また在家のものどもは、かほどにおもはざれとも、念仏を申ものは極楽にうまるなれはとて、念仏をたにも申せは、三心は具足するなり。されはこそいふにかひなきやからともの中にも、神妙なる往生はする事にてあれと。 云云

浄土宗大意

浄土門と聖道門の綱格の違いを示し、浄土宗における各項目について定義をされている。親鸞聖人が85歳の時に著された『御消息』(10)によってその解説を知ることが出来る。また『御消息』(16)において「故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生すと候」とあるのも、本文の「聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる」を継承されたものであろう。

また浄土宗の大意とて、おしえさせたまひしやうは、三宝滅尽の時なりといふとも、十念すればまた往生す、いかにいはむや、三宝流行のよにむまれて、五逆おもつくらざるわれら、弥陀の名号を称念せむに、往生うたがふべからず。
またいはく、浄土宗のこころは、聖道浄土の二門をたてて、一代の諸教をおさむ。聖道門といふは、娑婆の得道なり、自力断惑出離生死の教なるがゆへに、凡夫のために、修しがたし、行じがたし。浄土門といふは、極楽の得道なり、他力断惑往生浄土門なるがゆへに、凡夫のためには、修しやすく行じやすし。その行といふは、ひとへに凡夫のために、おしえたまふところの願行なるがゆへなり。

総じてこれをいへば、五説の中には仏説也、四土の中には報土也、三身の中には二身也、三宝の中には仏宝也、四乗の中には仏乗なり、二教の中には頓教也、二歳の中には菩薩蔵也、二行の中には正行なり、二超の中には横超也。二縁の中には有縁の行なり、二住の中には止住也、思不思の中には不思議なり。[34]

またいはく、聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまると 云云


康元元丙辰十月三十日書之
愚禿親鸞 八十四歳


末註

  1. たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。
  2. 「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。◇親鸞聖人は、『礼讃』の「彼仏今現在[世]成仏」の世の字を略されるのが特徴であり、覚師は『口伝鈔』でその意味を考察されている。
  3. 一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。
  4. 「一一光明 遍照十方世界」であるなら、諸行の者も照らすであろうに、どうして念仏者だけを照らすというのであろうかという自問。
  5. 弥陀の身色金山のごとし。相好の光明十方を照らす。ただ念仏するもののみありて光摂を蒙る。まさに知るべし、本願もつとも強しとなす。
  6. なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。
  7. 仏告阿難汝好持是語」より已下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。 上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
  8. もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期となすものは、十はすなはち十ながら生じ、百はすなはち百ながら生ず。
  9. みとき。見解き。見て解すること。
  10. つはびらかに。委細に、詳しく。仔細に。
  11. いりたちたる。入り組んで深く立ち入ったということ。
  12. 事事しく。仰々しい。ものものしい。
  13. あむなれ。あり+なり、あんなれ。大へん難しいものであると。
  14. あさましく。意外なことでおどろくという意味。驚いていますということ。
  15. ほとほと。困り果てた様子をいう。
  16. 一念義とは、一念または一声で往生が決定するという説。これは正しいのだが、往生が決定したのだから悪も障りにはならないと造悪無碍に陥ったり、一念を主張するあまり多念仏をする人を自力念仏であると非難するところから邪義になる。現在でも信心を強調し称名を軽視する輩がいるが同類であろう。ここで法然聖人は懺悔という言葉をお使いになるが、二種深信の無い一念義は自らを懺悔することがないということである。古来から「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」という語があるが、ご信心を恵まれた上からは、日々起こる煩悩を慙愧し懺悔していくのが浄土教である。もちろん称名は滅罪の法ではなく、自ら念仏を称えながら、ようこそようこそ、このような者を浄土へ迎えとって下さるとはと、仏名を聞いて罪悪機中に慈悲を味わうご法義である。名号を称えつつ仏のお名前をを聞き、この声に就いて往生決定の思いを新たにするのである。
  17. たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずといはば、正覚を取らじ。「第十八願の文」。
  18. その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。(ここでは『選択集』の訓点を採用した)「第十八願成就文」。
  19. いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。
  20. 一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
  21. 上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心にもつぱら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なし。「散善義」
  22. 相続してかの仏恩を念報せざるがゆゑに、心に軽慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるがゆゑに、楽ひて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆゑなり。
  23. 『礼讃』起行門の意か。
  24. 法然聖人の、このような『観経』の九品に対する見方が、親鸞聖人の「大願清浄の報土には品位階次をいはず。」(信巻末)という見解につながっていく。◇それにしても、「いそぎまいりてみるべし」とは面白い発想であり、浄土は有・無を論ずるものではなく、往くか往かないかが問題なのだということであろう。
  25. 法然聖人が座っておられた畳を戒律にたとえ、畳があるから壊れるという問題があり、畳がないのであれば畳について論ずる必要がない、同じようにすでに戒律が無いところで持戒を論じても無意味であるとされた。当時、戒律はすでにすたれていた事は、興福寺奏状の起草者であった、解脱上人貞慶などの戒律復興運動などによっても知ることができる。
  26. 日別の所作。毎日する行い、勤め。
  27. 譏は「そしる」、嫌は「きらう」という意、周囲の人たちの意向を無視し嫌がるようなことはするなという意。『大般涅槃経』聖行品第七之一に「息世譏嫌戒(世の機嫌をやめる戒)」がある。
  28. 一准なるへからす。一様に確定することは出来ないということ。
  29. 「十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得。……乃至一念に至るまで疑心あることなし。」
  30. 念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく。
  31. 「上一形を尽し、下一日・一時・一念等に至る。 あるいは一念・十念より一時・一日・一形に至る。 大意は、一たび発心して以後、誓ひてこの生を畢るまで退転あることなし。」「散善義」の釈。
  32. 上。ここでは天皇。
  33. いふばかりなきもの。言葉に出していうことも出来ないほどの。
  34. この名目の分類は、御開山が法然聖人からお聞きした法義内容を、後にご自身で整理して纏められたものであろうと思われる。この中の「二超の中には横超也」という横超という語は、二双四重の教相判釈の淵源となったのであろう。御開山が、択瑛法師の『楽邦文類』の示唆によって全仏教を《竪》(聖道門)と《横》(浄土門)に分け、それぞれに《出》(権教)と《超》(実教)を組み合わせ体系化される為のキーワード概念が横超という語であるからである。なお横超という語は「玄義分」の偈文に「共発金剛志 横超断四流」とある。善導大師においては四流の流れを横切るという意味の横であったが、この横超断四流の横超の文によって「各発無上心」という自力の菩提心と、本願力によって回向され正受される他力の「共発金剛志」である菩提心(信心であるような欲生の菩提心)を顕わす文であると感得されたのであろう。ゆえに、自力の菩提心(無上心)を、「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せども」と衆生には発し難い心であるから「発せども」と訓じられた。このことは「信巻」の欲生釈で本来離れたところにある偈文を合わせて一文として引文されておられることからも判る。浄土へ往生しようとする欲生心を浄土の菩提心である願作仏心(仏になろうと願う心)であるとみられたのであろう。
    (18)
    願作仏の心はこれ
     度衆生のこころなり
     度衆生の心はこれ
     利他真実の信心なり
    と、讃詠されるゆえんである。 なお、『無量寿経』には「横截五悪趣 悪趣自然閉」とあることからも《横》という字に聖道門仏教とは異なる仏道体系である他力(本願力)によって五悪趣を横截せしめられる浄土門仏教を見られたのである。