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利用者:林遊 |
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御開山の著述を拝読するには、御開山がおられた時代の思想や、御開山の持っておられた問題意識に留意して読めば、領解できることが多い、と浄土真宗の和上様方はお示しであった。例えば念仏弾圧のきっかけとなった『興福寺奏状』の論難という補助線を入れることによって、御開山の問題意識を探り、御開山の著述を拝読するときの助(資助)けになるのであろう。
ここでは、梯實圓和上の『法然教学の研究』──『興福寺奏状』と『教行証文類』──から一部を抜粋し、法然教学と興福寺奏状、それの御開山の著述への影響を考える資料としてUPした。御開山の著述を拝読するときの資助になれば幸いである。
なお、『聖教全書』への参照ページは、適宜当サイトの該当する聖典にリンクした。また脚注の◇以下の文は林遊による付加であり、文字の強調なども同じである。抜粋した『法然教学の研究』には訓点を付した漢文だけなので各漢文の読み下しも適宜行った。「隠/顕」をクリックすれば読み下し文が読める。ただし読み下し文には自信がないので諸兄の校正や訂正を乞う。
第一節『興福寺奏状』と『教行証文類』
一、専修念仏弾圧事件
親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類』をあらわして、浄土真宗の教義体系を確立せられたとき、それは何よりも自分に念仏往生の道を教え、『選択集』を伝授せられた法然聖人の師恩に応答するという意味をもっていた。ところで、法然とその主著の『選択集』は、在世滅後を通じて聖道諸宗の人々からはげしい非難と迫害をうけたし、またそれに連坐して親鸞も苛酷な弾圧をうけた人であることを忘れてはならない。すなわち親鸞が師教を顕彰し、その真実を開顕していくことは、聖道諸宗と厳しい思想的対決をおこなうことを意味していた。だから『教行証文類』述作の意趣をのべた後序(真聖全二・二〇一頁)は、次のようなはげしい対決のことばではじまっている。
- 竊以、聖道諸教行証久廃、浄土真宗証道今盛。然諸寺釈門、昏教兮不知真仮門戸、洛都儒林、迷行兮 無弁邪正道路。斯以興福寺学徒、奏達太上天皇号後鳥羽院諱尊成今上号土御門院諱為仁聖暦承元丁卯歳仲春上旬之候。主上、臣下、背法違義、成忿結怨。因茲、真宗興隆大祖源空法師、并門徒数輩、不考罪科、猥坐死罪、或改僧儀、賜姓名処遠流。予其一也。爾者已非僧非俗、是故以禿字為姓。「隠/顕」ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。
ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽院と号す、諱尊成]今上[土御門院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。
親鸞にとって「浄土真宗」をあらわすということは、行証久しく廃れた聖道門に対して、いよいよ証道いま盛んなる真実の教法を顕揚することであるから、当然それは、南都、北嶺の諸寺の釈門を仏法の真実義に昏きものとして批判することであったし、また諸寺の釈門にしたがって念仏を弾圧するような、邪正の道路をわきまえない洛都の儒林、すなわち権力者たちに真実の何たるかを知らせるという意味をもっていたにちがいない。
この書は『顕浄土真実教行証文類』と名づけられているが、このように教、行、証の三法を以て立題された理由の一つとして、正像末の三時において興廃のある聖道門の教、行、証に対して、三時に興廃なく、むしろ末法を救う唯一の教えである浄土の教行証を顕わすために述作されたと、先哲は一様に指摘されている。たしかにそうにちがいないが、それを主張したとき、法然、親鸞をふくめて八名が遠流(但し幸西と証空は、慈円が身柄を預るという)に処せられ、安楽、住蓮たち四名が死罪に処せられるという法難をうけねばならなかった状況が問題にされねばならない[1]。承元の法難(浄土宗では建永の法難)とよばれるこの弾圧事件を引きおこした張本は元久二年(一二〇五)十月に南都の興福寺から朝廷に提出された『興福寺奏状』とよばれる弾劾状であった。それが奏達されたのは、親鸞によれば承元元年(建永二年・一二〇七)仲春上旬(二月上旬)であったというが、そのころ親鸞も逮捕されたのであろう[2]。この法難について親鸞は、はっきりと法然一門の無実を主張される。それが、
- 主上臣下、背法違義、成忿結怨、因茲真宗興隆大祖源空法師、并門徒数輩、不考罪科、猥坐死罪、或改僧儀、賜姓名、処遠流、予其一也。(点は筆者)「隠/顕」主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。
ということばであった。ところで法然一門が無実であるということは、この弾圧を強行した主上臣下が、背法違義という仏教に対する逆罪を行じたことになる。しかしそのことを証明するためには、念仏弾圧を思想的に支えていた『興福寺奏状』の非法性が論証せられねばならない。『教行証文類』は確実にそれをなしとげることによって、恩師に対する遺弟の思想責任をはたした書であったといえよう。
承元の法難に先きだって、元久元年(一二〇四)十月には、延暦寺衆徒から専修念仏者の言動を非難して、念仏の停止を天台座主真性に訴え出た。そこで法然は同年十一月七日「七ケ条の制誡」を書いて、門弟二百余人の連署をそえて座主に提出し、一往ことなきを得ている。(但しこれは上足の門弟、信空が書いたともいわれている)[3]。
法然入滅の年(建暦二年)の九月ごろに『選択集』が開版されると[4]、いちはやく栂尾の明恵は同年十一月に『摧邪輪』三巻を、翌建暦三年六月には『同荘厳記』一巻をつくって『選択集』を批判した[5]。その思想の根源は『興福寺奏状』と全く同じであるが、論難は『選択集』の菩提心廃捨と、聖道門を群賊に譬えたことの二点にしぼって、より具体的な教義的批判をおこなっており、これもまた法然門下にとって、どうしても応答しなければならない課題を提供していた。親鸞が『教行証文類』の「信文類」(真聖全二・六八頁)において、菩提心について二双四重の判釈をおこない、自力の菩提心に対して他力の菩提心のあることを明らかにされたのは、明恵の論難に応答する意味もあったと推定される。すなわち法然が廃捨すべきものとされたのは竪出、竪超、横出の自力の菩提心であり、それに対して願力回向の信心は、願作仏心、度衆生心という徳があり、他力横超の菩提心とよばれるべきものであるとして、明恵の菩提心正因説に対応しながら信心正因説を確立していかれたのであった[6]。
法難はさらにつづく。法然滅後五年目の建保五年(一二一七)には、山門の衆徒が専修念仏者を襲撃するという風聞が流れ[7]、同年七月には、洛西嵯峨方面の念仏者に対して念仏停止の院宣が宣下せられたと伝えられている[8]。さらに法然滅後十三回忌にあたる貞応三年(元仁元年、一二二四)には、延暦寺三千の大衆法師等によって「天裁を蒙って、一向専修の濫行を停止せられんことを請ふ子細の状」が上奏され、八月五日には専修念仏停止が宣下されている[9]。この『延暦寺奏状』については後に詳述する。また嘉禄三年(一二二七)には『選択集』の印版を、叡山の大講堂の前で焼却するということもあったと伝えられている[10]。さらに並榎の竪者定照なるものが『選択集』を非難して『弾選択』をあらわしたのに対して、隆寛が『顕選択』を書いて反駁し「汝が僻破のあたらざる事、たとへば暗天の飛礫のごとし」といったことが山門の衆徒の激昂をかい、嘉禄の法難がおこったと伝えられている[11]。すなわち六月には、東山大谷の法然の墓堂が破壊され[12]、七月には山門の強訴によって専修念仏の停止が命ぜられ、隆寛(陸奥)、空阿(薩摩)、幸西(壱岐)の三名が専修の張本として流罪に処せられたのであった[13]。さらに八月には、念仏者の余党四十四名の追放が要求されているが、それはいずれも証空、幸西、隆寛、遵西らの門弟たちとみなされる人たちであった[14]。
建長七、八年ごろ、親鸞によって育てられた関東の門弟教団が、「諸仏菩薩や神祇冥道をあなどり、悪は思ふさまにふるまうべし」と主張しているという口実のもとに、領家、地頭、名主といった在地権力者から弾圧を受けている。この建長の法難も、承元の法難と共通する思想に根ざしていたことは、親鸞みずから、
- このうたへのやうは、御身ひとりのことにはあらずさふらふ。すべて浄土の念仏者のことなり。このようは、故聖人の御とき、この身どものやうやうにまふされさふらひしことなり、こともあたらしきうたへにてもさふらはず。(『御消息集』・真聖全ニ・六九六頁)
といわれた如くである。
こうして『興福寺奏状』や『延暦寺奏状』に示された専修念仏弾圧の思想は、親鸞の生涯につきまとうていたのである。親鸞がこれらの奏状や、それをさらに教義的に精密化した明恵の『摧邪輪』等と、生涯をかけて対決せざるを得なかった所以である。
二、貞慶の信仰と実践
『興福寺奏状』は、法相宗の学僧で、学徳兼備の名僧として多くの人々から尊敬されていた、解脱上人貞慶(一一五五-一二一三)が元久二年十月に草したものといわれている。
貞慶は、少納言右中弁藤原貞憲の子であるから、祖父は保元の乱で活躍し、博学で知られていた藤原通憲(信西入道)であり、法然と親交のあった、遊蓮房円照、高野の明遍、安居院の澄憲らは、いずれも叔父にあたり、『唯信抄』の著者の安居院の聖覚は従弟にあたっている[15]。十一歳で興福寺の学僧だった叔父の覚憲を師として得度し、法相宗を学んでいる[16]。
「源空私日記」(法然伝全・七七一頁)によれば、文治二年におこなわれた大原談義に貞慶も出席していたことになっているが、醍醐本『法然上人伝記』(法然伝全・七七五頁)には名が出ていないし、真偽のほどは不明である。
しかし富貴原章信氏によれば、法然が建久元年(文治六年)二月に重源の請によって東大寺で浄土三部経を講じられたことが、貞慶に大きな衝撃をあたえたと考えられるといわれている[17]。もっとも貞慶が、この講会に列席したという証拠はない。ただその翌々年の建久三年に同法の人々と共に興福寺を去って、弥勒信仰で有名な笠置山に篭り、厳しい修行にはげむようになるが、その動機の一つに法然の浄土教ヘの対抗意識があったのではないかといわれているのである。
貞慶は『戒律興行願書』(岩波日本思想大系十五・所収)にみられるように、戒律の再興に力をそそいでいたから、法然のような無戒を標榜する立場をどうしても証認することができなかったのである。彼はまた『唐招提寺釈迦念仏願文』(日仏全四九・七七頁)にみられるように、釈尊を追慕する心深く、釈迦念仏を唱えるほど釈尊絶対主義に近い信仰をもっていたようである。この点で明恵や日蓮と共通するものがあり、阿弥陀仏を絶対化して、釈尊を軽視するかにみえる法然教学に反発したのは当然である。また釈尊の後継者とみなされ、法相宗に最も有縁の菩薩である弥勒に対しても深い信仰をささげており、『弥勒講式』(大正蔵八四・所収)はその信仰を表明したものである。そのほか『春日大明神発願文』(日大蔵・一六頁)にみられるように敬神の心も厚く、本地垂迹は彼の信仰でもあった。
それだけに、専修念仏者が神明を軽んずることに我慢がならなかったのであろう。また、海住山寺で観音の引接を求める『観音講式』(大正蔵八四・所収)を書いているから観音信仰ももっていたと考えられる。そして『観心為清浄円明事』(日大蔵・二四頁)には、「予深信西方」といい臨終には阿弥陀仏の来迎にあずかって、往生の業因を成就し、西方に往生したいと阿弥陀信仰を表明しているから、貞慶の信仰は生涯動揺しつづけていたとも考えられるが、むしろこうした雑多な信仰こそ貞慶や当時の仏教者に共通した信仰形態であったともいえよう。
貞慶は、その『愚迷発心集』(岩波日本思想大系十五・所収)に述べているように、名利をすてて生死解脱を求めて発菩提心を真剣に追求していった厳しい求道の人であった。入滅する約一ケ月前の「建暦三年正月十七日」に記された門弟憲縁の聞書の『観心為清浄円明事』(日大蔵本・二三頁)によれば、菩提心とは「冒地者菩提也、質多者縁慮心也、縁慮之心、其性本浄、即是菩提大覚之体也」「隠/顕」冐地は菩提也。質多は縁慮心也。縁慮の心は其の性、本より浄なり。即ち是れ菩提大覚の体也。といい、かかる本来清浄なる心性でもあり、大覚の体でもあるような如実の大菩提心が発起されれば不退転位を得るといわれている。
しかし自身の現実を反省して「但如予愚人、不堪観念、只以心繋心想、我心清浄、猶如満月、分別漸少、散乱聊止、心清身涼為滅罪之源歟、又可誦真言、功力広大故也」「隠/顕」ただ予の如き愚人は観念に堪えず。只心を以て心を繋がむと想ふ。我が心清浄にして猶(なお)し満月の如ければ、分別は漸少し散乱は聊止せむ。心清く身凉きは滅罪の源と為るか。又真言を誦すべし。功力広大の故也。といわれている。これは『心地観経』に「凡夫所観菩提心相、猶如清浄円満月輪、於胸臆上、明朗而住」「隠/顕」凡夫の観ずる所の菩提心の相は、なほ清浄円満の月輪の如し。胸憶の上に於いて明朗にして住す。といわれたものに応じたもので、すみやかに不退転を得ようと思えば、端身正念にして如来金剛縛印を結んで、胸中の月輪を観ずべきであるが、予は愚人であって、そのような月輪観を如実には成就しえない。ただしかし真言を誦して心を繋けて自心は本来清浄であって、月輪の如くであると想いつづけていると、虚妄分別も少なくなり、散乱心もいささか止まり、身心ともに清涼になってきたが、これは滅罪の源であろうかといっている。
しかしながらまだ『心地観経』にいわれるような「塵翳無染、妄想不生、能令衆生身心清浄、大菩提心堅固不退」「隠/顕」塵翳に染まること無く妄想を生ぜず。能く衆生をして身心清浄せしむ。大菩提心は堅固不退なり。の境地には至れなかったと告白して次のようにいわれている。
- 非不聞其法、只不発其心也。是則機与教乖、望与分違之故歟、欲入心広大之門者、我性不堪、欲修微少之業者、自心難頼、毎遇賢老、雖聞不答。「隠/顕」其の法を聞かざるに非ず、ただ其の心〔菩提心〕の発(おこ)らざるなり。是れ則ち機の教と乖(そむ)き、望みと分と之に違(たが)ふの故か。心広大の門に入らんと欲すれば、我が性堪えず、微少の業を修せむと欲すれば、自心頼み難し、賢老に遇ふ毎に問ふと雖も答へず。
ここで発菩提心の法門を聞いても、その心を発すことができないのは、機と教とが乖き、望みと、分とが相応しないからではなかろうかと、機教の乖隔を問題としていることは注目すべきである。そして菩提心という心広大の門に入ろうとしても、わが性分はそれに堪えられず、微少の善業でもそれをなそうとすれば、わが心は名利にとらわれてたのみにならない。どうすればよいのかと賢老にあうたびにたずねても、誰も答えてくれなかったというのである。これによって五十九年の生涯をかけて、厳しい三学の道を修行しつづけた貞慶が最後に到達したのは、発菩提心によって不退転位に入ることができなかったという自覚であったことが知られる。 親鸞が『正像末和讃』(真聖全二・五一八頁)に「自力聖道の菩提心、こゝろもことばもおよばれず、常没流転の凡愚は、いかでか発起せしむべき」と述懐されたのと、まさに符を合するものといわねばならない。こうして最後に貞慶は「予は深く西方を信ず」といい、臨終の聖衆来迎に望みを託して、
- 西方往生、機劣土勝、因軽果重、然現有往生事、挙世不疑、是只弥陀本願之威力也。・・・・・・但真実浄土業成就、多在彼聖衆摂取暫時之間歟、不爾争最下凡夫、以麁浅之縁、忽生微妙之浄土、永得不退転利乎、是則不思議中之不思議也。「隠/顕」西方往生は機劣にして土勝る。因軽くして果重し。現に往生の事あり。世を挙げて疑わず。これ只弥陀本願の威力なり。・・・・・・但し真実浄土の業成就は、多く彼の聖衆摂取せる暫時の間に在りや。爾らざれば、浄(いかで)か最下の凡夫、麁浅の縁を以て忽ちに微妙の浄土に生まれ、永く不退転の利を得むや。是れ則ち不思議中の不思議也。
といっている。凡夫が不退の浄土に往生することをうるのは、機劣土勝、因軽果重で、因果の理にあわないようだが、それをあらしめるのは弥陀の本願力の不思議であろうといい、それも臨終来迎によって業成せしめるのであろうという。すなわち称念等の麁浅の業によって往生が決定するのではなく、それは来迎を感ずる縁であって、真実の正因正業は来迎の瑞相を見て、希有心を発し、大乗心すなわち真実の菩提心に住することが正因となるのであるといわれている。貞慶の願生思想も、結局は発菩提心を正因とするというところに帰するようである。
三、『興福寺奏状』の概要
『興福寺奏状』は、はじめに法然の専修念仏について九箇条の失をあげ、次いでその一一について所論を展開し、最後に副進奏状一通を加えている[18]。
「副進」の部分を見ると、この奏状を上進せねばならなかった理由は、法然が専修念仏の一門に偏執して八宗を滅亡させようとしているからである。その停止を天奏に及ぼうとしたところ、いちはやく法然は怠状(詫び状)を提出し、心配するに及ばないという院宣を賜わったというので、興福寺の衆徒はかえって反感をもつにいたったという。法然が怠状(一本では急状)を提出し、安堵の院宣を得たという記録はここだけにしかみられない。
ところでさきに、叡山からの推問に答えて法然は『七箇条の制誡』を山門に送ったが、それについて門人たちは「上人之詞皆有二表裏一、不レ知二中心一、勿レ拘二外聞一(聖人の詞にみな表裏あり、中心を知らず、外聞にこだわるなかれ)」といい、その後も邪見を改めていない。だから法然の申し開きは全く信用できないといい、最後に、
- 望請恩慈、早経奏聞、仰七道諸国、被停止一向専修条々過失、兼又行罪科於源空并弟子等者、永止破法之邪執、還知念仏之真道矣、仍言上如件。
- 元久二年十月日 「隠/顕」望み請ふらくは、恩慈、早く奉聞を経て、七道諸国に仰せて、一向専修条条の過失を停止せらるべく、兼ねてまた罪過を源空ならびに弟子等に行われれば、永く破法の邪執を止めば、還って念仏の真道を知らん。仍(よ)って言上件のごとし。
元久二年十月 日
といって、専修念仏の停止と、法然及びその門弟への罪科を強硬に要請しているのである。
さて、『興福寺奏状』の前文をみると、
- 右、謹考案内[19]、有一沙門、世号法然、立念仏之宗、勧専修之行、其詞雖似古師、其心多乖本説、粗勘其過、略有九箇条。「隠/顕」右、謹んで案内を考うるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞、古師に似たりと雖も、その心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九箇条あり。
といって、第一新宗を立つる失、第二新像を図する失、第三釈尊を軽んずる失、第四万善を妨ぐる失、第五霊神に背く失、第六浄土に暗き失(浄土を暗くする失)、第七念仏を誤る失、第八釈衆を損ずる失、第九国土を乱る失、の九箇条の失をあげている。この九箇条は、専修念仏の社会的影響を問題にした第一、第二、第五、第八、第九の五失と、教義を問題にした第三、第四、第六、第七失とに分類することができよう。その論難は要するに、法然の説く専修念仏の教説は、その詞は、道綽、善導という古師のそれに似ているが、その心は本説に乖いた邪説であり、仏法のみならず、国家、社会の秩序を乱す造悪者の集団であるときめつけているのである。
ところでこの『興福寺奏状』をみるかぎり、貞慶は『選択集』は読んではいなかったようである。しかしすでにのべたように、『三経釈』は見ていたと考えられるから、法然の主張の根幹を把握することはできたと思う。従って法然の専修念仏説が、古師の本説に随順するのみならず、これこそ弥陀、釈迦、諸仏の真意にかなった法門であることを証明しなければ『興福寺奏状』の背法違義性は明らかにならない。親鸞が『教行証文類』を「文類」の形式であらわされたのは、ただ『楽邦文類』などの様式をまねたということだけではなくて、むしろ文類形式をとることによって、専修念仏の教説が仏陀や祖師の真意にかなう「浄土真実の宗旨」であることを、仏祖をして語らしめる為であったと考えられる。
特に専修念仏が真実行であり、大行であることを証明する「行文類」には、釈尊の教説と真宗伝灯の七高僧を一人のこらず引証されるばかりか、法照、憬興、宗暁、慶文、元照、遵式、戒度、用欽、嘉祥、飛錫といった、各宗の祖師の文を引釈されたのもそのためであったと考えられる。
四、浄土宗独立への批判と反論
第一、新宗を立つる失
我が国には、すでに八宗があって、中古以来、宗を開くものがいなかったのは、これで機感が足りているからであろう。然るに今、法然は面授口決の師もなく、はっきりとした相承もなくして一宗を開くことは、自身が伝灯の太祖だというのか。また開宗には「須下奏二公家一以待中勅許上、私号二一宗一甚以不当」 「隠/顕」すべからく公家に奏して以て勅許を待つべし。私に一宗と号すること、甚だ以て不当なり。と非難している。
法然がみずから、相承血脈の法なく、面授の師なしと公言されたのは、文治六年に東大寺で講ぜられた「小経釈」(真聖全四・三八二頁)のときで、恐らく貞慶はこれによって法然を批判していたと考えられる[20]。『選択集』はまだ読んでいなかったと推察されるが、『選択集』「二門章」(真聖全一・九三四頁)には、一往浄土宗の相承を明かして『安楽集』による六師と、『唐・宋両伝』による六師とをあげてある。また「浄土五祖伝」(『漢語灯』九・真聖全四・四七七頁以下)には、曇鸞、道綽、善導、懐感、少康の五祖相承を示されたが、法然の基本的な立場は「偏依善導一師」であったことは『選択集』(真聖全一・九九〇頁)その他に言明された通りである。従っていわゆる師資相承は必ずしも明確ではなかったといえよう。そこで親鸞は、法然の意をうけてさらに展開し、「正信偈」や『高僧和讃』に、いわゆる七祖相承を明示して、師資相承なしという批判に応答していかれたのである[21]。
ところで開宗には「必ず勅許を待つべし」という批判は、律令体制下にあっては当然の主張であった。律令体制にかぎらず、国家が宗教をその支配体制のなかに完全に組み入れようとするときは、当然このような立場をとるし、体制内宗教は、いつでも新宗教に対して貞慶の如き主張をするわけである。ただ法然がめざしていた宗教的世界は、一人一人の悩める凡夫が、如来の大悲を聞き、念仏して大悲に包摂せられ、そこに絶対の安住の場を得しめられていくという宗教的領域であった。念仏者は、社会的な階層を超えて、平等に、一人一人が如来の教法のなかで、往生人としてめざめていくという個人の救いをめざす宗教が法然の浄土宗であった。それゆえにまた全人類的な視野をもつ世界宗教として成立していったのである。そのような宗教的世界においては、人はみな如来の前にあって平等に一子の如く憐念されているものとして見出されていった。このような宗教的世界観を支えるものは、ただ如来の教法の権威のみであり、本願の教法に無私に信順するものだけが、その世界に入りうるのであった。
選択本願を宗旨とする浄土宗は、根源的には如来の本願によって立つものであって、世俗の権力によって許可されなければ成立しえないというものではなかった。浄土宗が、この自立性を失って、世俗の権力に迎合することを法然はきびしく拒絶したのであった。承元(建永)の法難によって四国へ配流される直前に、次のような法語を法然は残されている。
- 当初依弟子過、有被流讃岐国云事、其時対一人弟子、述一向専念義。西阿弥陀仏云弟子推参云、如此御義、努(力カ)々々不可有事候、各不可令申御返事給云々、上人云、汝不見経釈文哉、西阿弥陀仏云、経釈文雖然、存世間譏嫌許也。上人云、我雖被截頚、不可不云此事云々、御気色尤至 誠也、奉見人々流涙随喜云々[22]。「隠/顕」当初(そのかみ)、弟子の過(とが)に依って讃岐国に流されるということあり。その時、一人の弟子に対して一向専念の義を述ぶ。西阿弥陀仏という弟子、推参して云く。このごとき御義は努努(ゆめゆめ)有るべからざる事にて候ふ、おのおの御返事を申さしめ給うべからずと、云々。上人云く。汝は経釈の文を見ざるや。西阿弥陀仏の云く。経釈の文しかりといえども世間の譏嫌を存する許(ばか)りなり。上人云く。我、頸(くび)を截(き)らるといえども、この事を云わざるべからずと、云々。御気色もっとも至誠なり。見たてまつる人々、涙を流して随喜せりと、云々。
法然は決して、世俗の権力を否定したのではなかった。たゞ仏法が世俗の権力に迎合して、みずからが依って立つ本願の仏意をゆがめるようなことは決して許さなかったわけである。法然にとって絶対的な権威は経釈の文意であった。これだけは、世俗の権力に抗してでも護り伝え、頚(くび)を截られてもいはねばならないといい切られたところに、法然の浄土宗が、国家権力とは全くちがった次元、すなわち選択本願に依って立ち、仏祖の経釈の権威と、それを信奉する念仏者によって成立し、護持されていたことがわかる。『行状絵図』三七(法然伝全・二四ニ頁)によれば信空が法然の
- あとを一廟にしむれば、遺法あまねからず、予が遺跡は諸州に遍満すべし、ゆヘいかむとなれば、念仏の興行は愚老一期の勧化也。されば念仏を修せんところは、貴賎を論ぜず海人漁人がとまや(苫屋)までも、みなこれ予が遺跡なるべし。
と答えられたという。この語が法然のものかどうかたしかめるすべはないが、少くとも門弟たちは、法然の信仰をこのように領解していたということは明らかである。すなわち法然が、一廟一寺に自己の遺跡を定めようとせず、念仏する人の心奥に遺跡を確立しようとされていたということは、さらにいえば浄土宗は念仏者一人一人の中で信と行によって確立されるべきであるとみられていたと考えてよかろう。ここに宗の建立は「公家に奏して以て勅許をまつべし」という貞慶の思想との根本的なちがいがあった。のちに親鸞が「余の人を強縁として念仏ひろめよとまふすこと、ゆめゆめまふしたることさふらはず、きはまれるひがごとにてさふらふ*」[23]といい、念仏者以外の権力者の手をかりて仏法を弘めることを、きびしく誡められた。本願によってのみ自立すべき仏法を、俗権にゆだねていくことの危険性をよく知っておられたからである。法然や親鸞が浄土宗(浄土真宗)の開宗に、あえて勅許を求めようとしなかった所以もそこにあったのではなかろうか。
「十一箇条問答」(『指南抄』下本・真聖全四・二一三頁)によれば、法然は浄土宗の開宗について、余宗から論難をうけたのに対して次のように応答されている。
- 問、八宗九宗のほかに、浄土宗の名をたつることは、自由にまかせたつること、余宗の人の申候おばいかゞ申候べき。答、宗の名をたつることは仏説にはあらず、みづからこゝろざすところの経教につきて、存じたる義を学しきわめて、宗義を判ずる事也。諸宗のならひ、みなかくのごとし。いま浄土宗の名をたつる事は、浄土の依正経(正依経)につきて、往生極楽の義をさとりきわめたまヘる先達の宗の名をたてたまヘるなり。宗のおこりをしらざるものゝ、さようの事をば申なり。
もともと宗の名は釈尊が立てられたものではなくて、各宗の祖師といわれる人々が、みずからに有縁の経教を学び、義理をきわめて宗義を確立し、宗名を立てていかれたのである。いま浄土宗を立てるのも、浄土三部経の奥義をさとりきわめて、そこに凡夫入報の仏意を釈顕された善導の釈義により、元暁等の先例にしたがって「浄土宗」の名を立てるのであって、決して「自由にまかせたつること」ではないといわれるのである。このように立教開宗の正当性を主張されたのが『選択集』「二門章」であった。貞慶は『選択集』は読んでいなかったにせよ、たとえば「大経釈」をみていたならば、このような法然の主張を知ることができたはずである。にもかかわらず、浄土宗を立つることを不当と非難するところに、律令体制下の既成仏教と、法然教学とは本質的なちがいがあったといわねばならない。すなわち律令によって規定された通り、国家公認のもとに、国家(実際は天皇と公家)の安穏を祈る鎮護国家のつとめを仏法の第一の使命とみている既成仏教と、彼等が関心の外に追いやっていた庶民のなかにあって、生死にまどい、愛憎に苦しむ庶民大衆に、真実の救いの道を開くことを仏法の第一義とみなして開宗した法然の浄土宗とは、その発想の根底から異っていた。両者は所詮違った道を行くしかなかったのである。
ところで『奏状』には、立宗の法則について次のようにのべている。
- 凡立宗之法、先分義道之浅深、能弁教門之権実、引浅兮通深、会権兮帰実。大小前後、文理雖繁、不出其一法、不超其一門。探彼至極以為自宗。「隠/顕」およそ宗を立つるの法、先づ義道の浅深を分ち、能く教門の権実を弁へ、浅を引いて深に通じ、権を会して実に帰す。大小前後、文理繁しと雖も、その一法に出でず。その一門に超えず、かの至極を探って、以て自宗とす。
法然が浄土宗を立てたとき、聖道の諸宗と根本的に立宗の目的を異にしていた。聖道門の諸宗は、教理の浅深を問題として教相判釈をおこなって立宗したのに対して、法然は、教理の浅深よりも、時機相応の教法を選択するというところから出発していた。教理が如何に深遠であっても、戒定慧の三学に堪えられない愚鈍のものにとっては、「 「http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php?title=メインページ&oldid=2387」から取得