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利用者:林遊 |
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さいもんげんわ
実際の聞法の現場では、念仏(なんまんだぶ)を称えながら聴聞し、聴聞しながら念仏し、法座のあとで聴衆とともにほがらかに念仏し、やがて念仏の声が毛穴から染み込むようにして、御本願のご信心に頷けるようになるのが現実の聞法の実践の場であった。「信心正因 称名報恩」説は本願寺派のご常教であるが、ある意味では口業という躍動する「身体性」を失った、観念の信心遊戯になっているのかもと思っていたりする。これは「浄土真宗」というご法義の死でもあるのだが、この事に思いを致す真宗僧侶の少ないことは宗門の危機でもあると思ふ。
先人は、私がなんまんだぶを称えていることの驚きが信心です、と言われていた。樹の枝は風がふくから揺れるのであって、枝が揺れるから風がふくのではない。念仏(なんまんだぶ)の声は、大悲の風として「名声十方に超えん(名声超十方)」と常にふいているのであった。
ともあれ、「信因称報説」が絶対の教権である江戸封建時代にあって、一定の限界はあるものの「法相の表裡」として、凡夫の口に称えられる、なんまんだぶに焦点を当てられた石泉僧叡師の「法相の表裡」説は優れた考察であったといえよう。浄土真宗の門徒であるならば、なんまんだぶしなさいよ、私に意味がわからなくとも、阿弥陀如来の方に意義や意図があるのであった。
ありがたいこっちゃ、なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ……称名相続
- 原文のカタカナはひらがなに、漢文読下しやリンク、脚注は林遊に於いて付した。
『柴門玄話 』
長月[1]のすゑ日もくれかゝり、ものさびしくて長夜曼々何時且邦无道則可巻而懐之[2]なとうちずんじ[3]、こゝろしりなる友もかなと、ひとりごちてありしおりふし笈を員(かず)て柴の戸を
さて座さだまりて、そのものがたりするをきくに道心なき人とはおもはれぬ。よきはなしかたきよと、こゝろおくこともなくかたらひ、某の講師はまさしくたれり、某の学士はとしにしぶし。
こゝの国は正法熾然なり、かしこの境は異説暴行すなど
はやくよりきく高座行信の説は
今も委曲の説をきゝてその当否を研覈[5]したるまでにはあらず。人の怪も己が疑もたゞ名言のみを認てのことなり。まこと仏祖宗門の法義ならんには疑怪するもそらおそろし。
それをすてゝ顧ず、さてやみなんは、いとくちおしきことならずや。おのれいふそこ、道心みへて衷曲を
今の物議を一犬虚を吠れば万犬実を伝るにたぐへたまふ。
当今の世は恭敬供養を貪て正法をも
悪狗の鼻を杖をもて
されば
然に行信の法門は真宗の枢要にして大谷(親鸞)一代の製作もその本意はこれを甄明し給ふにあり。
『文類』六巻のごとき出格の善字、その詮ずるところ豊富にして絢爛 目を奪わる。さるから(然るから)先輩その行信を説く模稜の手して人を両端に猶予せしむるものあり。
思に先輩おのおの一時の俊秀、おのれをにくらべては、はるかに等を異すれども祖師に望ては一班の末弟なり。
されば祖師を置て、それにつき聖典に順せざることに雷同すべきにあらず。『文類』よみがたけれど必ず一定の聖意あるべしとおもひて、月に日に手巻を釈ず、韋編三絶 やゝ聖意をしられてこれを諸文にこゝろみるにおもひ
これは懇求のいたすものからおもへば仏祖の加祐なからましかば、いかでかこの地位を知んとよろころばしくて、すゝろに涙に
さてこそ仏祖の法味にして一切有縁の受用たれば一人独楽(どく-らく)すべきにあらず。
これよりさきに諍論の分かれたる。信心正因は一往にして如来の本願はまことに口称を体とすといひ、あるいは称名往生は七祖未熟の時機に被(かぶ)る言にして真宗の実践にあらずといひ、あるは信心称名具足せしめて方生す、行と信と一缺(欠)とも不可なりといふ。
すべて聖意を大観せず、行信の法門に迷たるなり。それを諍論亡息のところにいたり法味に迷しめんとおもへども悪心を生じて餐子はせんすべなし。
今、ねもころ〔懇ろ〕に請求したまふ。
おろおろその義趣をときいでゝ来問にむくひん。さらに
略して真宗行信の法門を述するに先六巻の『文類』に就てその意義を弁じ、後に古今教導の風致を釈せむ。
初に『文類』に就て意義を弁ずとは、それ我大谷の製作多し中にして六巻の『文類』を宗義の根本とす。『文類』の所明ひろしといへどもその至要とするところのもの行信の二法なり。
これ阿弥陀如来の「往相回向」の真因にして濁悪の凡夫これによりて径(ただちに)に報土に入ことをうればなり。
源「選択本願」より出て釈迦文仏これを三経に敷演し南天(龍樹)[8]已来の伝灯の宗師
大谷それを受て、もて従前の経釈に
故に大首の「総序」にはまづ願力の一法を歎じてこれを『大経』の所説にあて、次に『観経』にとける王宮の事縁を叙してかの願力極悪最下の劣機を救ふことを明し、その願力を行信の二法となして「円融至徳の嘉号」等と歎ず。
次に「捨穢欣浄(穢を捨て浄を欣ひ)」乃至「聞思莫遅慮(聞思して遅慮することなかれ)」(*) といふて上の行信を
もし大尾の文にまづ黒谷遭難(承元の法難) の事を語てその興宗を示し、次に愚禿釈親鸞等といふて自の帰入得法を明す。
その得法とはすなはちこの「選択本願」の行信なり。後には「慶哉樹心弘誓之仏地(慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に
みよ首尾一貫して所顕臆によらず。たゞ祖訓これ伝ふといふことを示し給ふことを。いはゆる
- 三国の祖師おのおのこの一宗を興行す。愚禿すゝむるところ
全 私なし。(御伝鈔 P.1057)
又、
- われ二菩薩の引導に順じて如来の本願をひろむるにあり、真宗これによりて興し「念仏」これによりてさかりなり。これしかしながら聖者の教誨によりてさらに愚昧の今案をかまへず。(御伝鈔 P.1045)
と、いへる趣向なり。
さて正く釈顕するに至て真宗 「教」乃至「化身土」を明す。
すなはち六法なれども克論するにまた真実の行信を顕んためなり。故に第二巻云、
凡就誓願有真実行信 亦有方便行信 其真実行願者諸仏称名願 其真実信願者 至心信楽願 斯乃選択本願之行信也
其機者則一切善悪大小凡愚也 往生者則難思議往生也 仏土者則報仏報土也。乃至云云
斯乃誓願不可思議一実真如海 大無量寿経之宗致他力真宗之正意也
- おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
- その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。(行巻 P.202)
これ弘願真実の行信をあらはすにつゐて余は
かゝる行信となる法を詮するを大経真実教としこれをその宗致とす。文勢みるべし。
即(ち)行信を顕す中間ありて行信を宗要とすることを示し重て美麗の言辞をもてこれを讃じ偈頌となして有縁に授て持し
これは六巻の中、前五巻の宗要なることを示す。
これに準じていふに第六巻は題して「化身土」といへど、そのこゝろは、いはふる方便の行信をあらはすにあり。
文に云く、
案方便之願亦有行有信 願者即是臨終現前之願也
行者即是修諸功徳之善也
信者即是至心発願欲生之心也
依此願之行信 顕開浄土之要門方便権化等
- 方便の願(第十九願)を案ずるに、{仮あり真あり、}また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。(化巻P.392)
又云く、
就方便真門誓願有行有信 願者即植諸徳本之願是也
行者此有二種一者善本二者徳本也
信者即至心回向欲生之心是也 等
- 方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。[二十願なり](化巻P.397)
表顕の外に遮顕をもちふるものは行者たゞ表顕のみをきゝてその不得意のもの、なほ誤りて自力に
このゆへに真実の行信を明せるうえに
これを喩に人のために真金を示さんに偽宝をならべてその別を指説するときいよいよ真金の真金たることを知て、また姦人拐児に、誑惑せられざるが如し。遮顕をもちふるそのこゝろ甚深切なり。
行者こゝにおゐて邪径をふまず、直に本願の白道に乗して一心正念の人となる。
このゆへに一部六巻(『教行証文類』) の宗要はたゞ「選択本願」「往相回向」の行信を光昭(照)にするにありむべこそ始末の総題に『顕浄土真実教行証文類』といふこと、この意を得てよく伝はるは中興上人 (蓮如) [12] の五帖の消息(蓮如さんのお文。『御文章』) にて化身土を所廃として雑行 雑修 自力をすてよと誡め、前五巻をば一心一向に弥陀をたのめと、つゞめて勧め給ふ。これを八十篇の通旨とす。
そのほか
さなきだに報土の信者はまれなるに、それらの談をきゝては、ますます小成に安ずるやふになりもてゆかむ。
さてはまたく『本典』の祖意に違背して浄土真宗の流行にはあらず。
却説す、六巻の体製上の如くなれば行信といふことは一大緊要の法門なり。
この宗を学ぶもの、たとひ聖教老練の人に従てその指授をうくとも退(ひい)てさらに自己心中に工夫し百思千忖[13]するにあらずは云何(いかん)ぞ聖意に詣造することをえむ。
まして、なまものしりの未了有余の説をきゝて、さらに聖教に参訂するまでもなく仏祖とは墻(へい:塀)に面して立つふぜひなるを、此言決定 此義究竟 我己知之我尽宗意(この言決定なり、この義究竟なり、我すでにこれを知り、我が宗意を尽くせり)と、ほこりがにいひまはる、かの道聴塗説といへるにたぐひて道の廃れなんこそかなしけれ。
それほど易々たることならんには大黌(学)に入て講習することを
世の哲人、いやかさねに著述鈔解あることは宗義深遠広大にしてまことに尽すべからざればなり。
愚者はいよいよ愚に、惑者はますます惑ひ、悪俗弊に乗り、驕奢淫佚まさりもてゆき多許の聖教も故紙堆の看をなし、法寇外より来れども防禦に衛なく邪徒内に起れどもこれを糾すことあたはず。仏祖の正意は烏有となり去り、勝義の真宗また見へからざるに至ん。悲ひかな。
然に『文類』の中一部の正意として顕さるゝ真実の行信といふは、この二法はともに衆生の上にてと(説)ける法門なり。
初の真実教と云は諸仏上にありて、しかも、そが中の釈迦を主とす。これ娑婆世界の教なるがゆへに、その真実教といふは即 霊山所説の『大経』にして『大経』の所詮は願力なり。
文に云く、
説如来本願為経宗致 即以仏名号為経体
- 如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。(教巻 P.135)
と本願名号は次の如く願力なり。因願果力更互に成就し不離一体にしてよく衆生を摂す。これを他力と云。「不虚作住持」の註に云云するがごとし。
その願力を能被の法として衆生に
古(いにしえ)は彼をつねの称呼としたるにや。『改邪鈔』『真要鈔』『見聞集』等に『教行証』とよび給へることみへたり。[15]
これは五巻の所顕、開合のあることにて第五巻の真仏土は証より開きたるものにてかれを合すれば四法となり。
さて、信は行より開きて、それを合すれば「三法」なり。これは従前の諸老も釈しをきたることなり。されば三法は極めて合したる法相なり。これは「浄土真宗」の常不変三時通入を彰す建立なり。
第六巻に云く、
信知聖道諸教為在世 正法而全非像末法滅之時機 已失時乗機也 浄土真宗者 在世正法像末法滅濁悪群萌 斉非引也。
- まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。(化巻 P.413)
と。
異流よりは『教行証』は三時に選ざるゝ聖道門の上にてもちふる名にて浄土門にていふことにあらずといふげにや。
慈恩の『法華玄賛』の第五『法苑義林』の三宝章『仁王の良賁疏』等、ちかくは第六異巻所引の『末法灯明記』等にみへたれども聖道門に局(かぎ)ることにはあらず。
故に宗家(存覚) は
籍教行之縁因 乗願往生 証彼無為之法楽
- 教行の縁因に籍(よ)りて、願に乗じて往生して彼の無為の法楽を証せしむ (『六葉』)
とのたまへり。されば体義は異なれども名は一同にして彼此に通ずるものなり。
その一同の名に就て切に彼此の別異を示して二門を抑揚せんと欲す。
謂(いわく) 彼は変易無常の法 (聖道の)教・行・証、三時を逐て衰損す、此れはしからず常住不変 在世法滅、三法増減なし。
衰損あるものは自力の法は衆生自心の建立にして法 時機に随ふ。
像末の世にして証をそのなかに求るは湿る薪を
その増減することは、他力の法は阿弥陀如来の清浄願心より建立して時機のために
喩(たとえ)ば虚空の染汚を受けざるが如く、時降り人劣なるも如来清浄の願心は虚空の如くなれば、それを染汚することあたわず。こをもて三時の衆生無碍に通入することをう。これ「三法」をもちふるこゝろなり。こゝにおゐて信の一法
かくて聖道門に
後に第四巻に至て総じて因と云文に云く、
若因若果無有一事非阿弥陀如来 清浄願心所回向成就
- もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。(証巻 P.312)
と。
既に開て二法とす。
これを序するに或は行信といひ、或は信行といふ。これ義二途ありて次序あひ反すること乃(すなわ)ち爾り。
二途の義とは《
『末灯鈔』には、
- 行とまふすは、本願の名号をひとこえとなへて往生すとまふすことをきゝて、ひとこえをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをきゝ、うたがふこゝろのすこしもなきを信一念とまふすなり (御消息 P.749)
といへり。
すなはち法相別ありて表裡を相成す。
しかも表より裡(うち)に
「禀受の前後」とは衆生諸仏知識の真実教を受心に聞信するを最初とす。いまだ
此二途はその
初に「法相の表裡」をもていふに、これはさきに弁ずる建立のこゝろより来る。
さて行とは所在に従て分つ中の口業の称名なり。故に釈して、
大行者則称無碍光如来名
- 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(行巻 P.141)
と。『末灯鈔』は
『二門偈』、
云何讃歎 口業賛 随順名義称仏名
- いかんが讃嘆する、口業に讃じたまひき。名義に随順して仏名を称せしめ (二門 P.546)
等、といへるも大行なり。
然(しかる) に口業の称名は『止観』の四種三昧等よりして要門にも真門にも通じてあり。それを「往相回向」の「大行」とすることは云何といふに、まづこの大行といふは第十八願の「乃至十念」といへる称名なり。
故に標して選択本願之行といひ、また偈には本願名号正定業といへり。これ実に超過の法なれども相似濫偽のものありてその義顕しがたし。故にこれを第十七願に寄す。標挙および引文の如し。
第十七願は、諸仏称名にして実の如く法体を顕すものなり。衆生の称名を彼(第十七願) に
謂く「離自力之心(自力の心を離る)」(化巻 P.395) とある称名は不回向の行にして、すなはちこれ如来回向の法体なり。これはもと諸仏の咨嗟を聞て得たり。得ところ諸仏咨嗟のまゝにして自力まじはることなし。
されば称念すといへども称念の功を認てそれを往生浄土の業因とは、をもはず、たゞこれ聞得たるところの法体のあらはれたるなり。故に、
非凡顕(聖)自力之行故名不回向之行
- 凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。 (行巻 P.186)
といへり。
これなほ第二十の願真門の念仏に異なり。況(いわん)や第十九願の定散諸善と隊(くみ:組)をなすをや、而を況や止観等の念仏をや。これすなはち「極速円満真如一実功徳宝海」と嘆じたる法にして諸仏法の表に出過せる超世無上の大行なり。
この義を
能行の法、彼此なきが故に この彼此なきものを初祖(龍樹)は「阿弥陀仏本願如是」 (十住毘婆沙論 P.15) 等といひ、北天(天親)等は如実修行(浄土論 P.33) といひ、終南(善導)は正定業といひ、横川(源信)は「別発一願の念仏」(*) とし、黒谷(法然)は「選択本願」の念仏といひ、我大谷(親鸞)は「智恵の念仏」とも、また「真宗念仏」とものたまへり。
これを諸仏称名之願とのみ標挙しては不得意のもの誤りて大行とは諸仏の称名にして、いまだ衆生の手に入らざるものと
或はこの大行を所行の法体にして衆生上の能行の法に非ずといふ、蓋(けだし)標挙のこゝろを解せざるなり。
『末灯鈔』には「信心歓喜者 与諸如来等 (信心歓喜する者はもろもろの如来と等し)」の文を会して本願の信心をえたる人として則我善友と文に合し、さらに第十七の願およびその成就を引て同等を証す。(消息 P.759)
人なほ同ずることをう、その法なんぞ彼此を
『和讃』に云く、真実信心の称名は(*)等と、あに能行即法体なるにあらずや。
また『論註』には破闇満願を名号の徳とす。それを顕行(顕浄土真実行文類) には称名能破といふ。『論註』の称彼如来名と云を鸞師名号とす。
されば『註』の名号は即『論』の称名にして法体を全ふずる能行なればなり。
法体を
称名則是{最勝真妙}正業 正業則是念仏 念仏則是 南無阿弥陀仏 [19]
- 称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。(行巻 P.146)
といへり。
またこれを諸仏上にあるものとして「衆生法」に非ずといはゞ、真実教と何の別ぞ、「教行」同く諸仏上の法ならば、その真実教は何の義利かある。
既に所詮を別にす。真実とは云へど、たゞこれ「汎爾」の名句文にして諸経に異なることなし。何ぞ
又『教行証』といふが如き、行を衆生に約せずは、その証は何によりて得るや。
『六要』に所信所行といへるは衆生禀受の上にて能所を分別したるものにて機教のこゝろをもて釈せらるゝか。
次に信といふは、かの願力の回入して衆生の内心に在るものなり。願力こゝろに受られて自力はなれたるを信と云。
これすなわち「二種深信」のすがたにて信機の故に自力をはなれ信法の故に願力をうく。三信を釈する中に広く示すが如し。
かの釈は「二種深信」を宗骨とす。深信は信楽なり、信楽もとより機法の二義を具す。信楽分れて初後の二心となる。「信楽」本具の故に「至心」も「欲生」もこの二義を出でず。一より二を開し二を合に即一信楽心、自力浄尽して、たゞ願力これ存す。これを「往相回向」の「大信」とす。
願力の一因、所在に従て分て二とする。法相ほゞかくの如し。
これを知り已(おわり)てさらに開て二法とする。深く所顕あることを知べし。
曰く、行や信やたゞ一願力といへども、その願力なること知がたし。行と信とあひ
謹按往相回向 有大行有大信
- つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。(行巻 P.141)
と。「往相回向」とは願力の謂なり。願力の故に大と称す。その「大行」とは称名なり。称名
憶念本願 離自力之心
- 本願を憶念して自力の心を離る。(化巻 P.395)
と願力なることは自力をすてゝ他力に帰すればなり。
その自力を捨てゝ他力に帰すとは内心信受の相なり。この信をもて顕せばその口業の念仏はたゞこれ願力の露現したるなり。願力とは名号のことなり。「六字釈」を解したる文の中の如し。
終南(善導)は具(つぶさ)に名願とのたまふ。何か故ぞ願力なる。
帰命斯行信者 摂取不捨 故名阿弥陀仏 是曰他力
と、云が如なるが故に、願力露現とすれば称名といへる言辞は名をもて称を奪ふ。
称念功なく、破闇満願たゞこれ無礙光如来の徳義なり。『論註』の称彼如来名は能行をもていへるを註家その称の言をさしおひて「無碍光如来名号能破衆生一切無明 (無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し)」 等と云て所行の徳を語る。
これ『論註』の如彼光明智相(かの如来の光明智相のごとく) といへるこゝろなるが故に、かゝる徳行いはふる善男子善女人の手に入て即衆生の行となる。これを「讃歎門」の称名とす。天上の月を望むが如きことには非ず。
大谷そのこゝろえをえて「称名」の破闇満願としたまふ。終南(善導) の正定業といへるもその意またく同じ。
是故「論主 建言我一心 (論主、我一心と建言す)」(論註 P.104) とありて『論註』の「如実修行」も「建章」に一心に由て成じ、終南(善導)の正定業も深心をもて決す故に「一心専念」といへり。今の大行も大信によりて大行といはる。乃ち第三巻には「一心是名如実修行相応 (一心これを如実修行相応と名づく)」(信巻 P.253) といへり。この称名これを行者の用心にていへば、たゞこれ報恩行なり。それたゞ「報恩行」なり、これもて正定業といはる。
又、唯称念仏名と云が如き正定の義なれば称念は仏名に
必得往生は仏名の自爾にし称念の功を
罔極を欽仰し「四修」墜ことなく相続念報するが故に、祖師およひ覚信の事跡(御消息 P.767)、中興(蓮如)主の自ら四儀無間[20]とのたまひ、そのこゝろの群下の主計(一代記 P.1252) が行状等思てみつべし。
終南(善導)の伝(新修往生伝)に、「一心念仏 非力竭不休 寒冷亦須流汗 (一心に念仏す。力竭(つ)きるに非ざれば休まず。寒冷にも亦た須(すべから)くして汗を流すべし)」といふもまた唯こころ此にあることなり。
次に大信とは、これは正しき機受の法にて正定聚之機ともいひ「金剛(信)心絶対不二の機」(行巻 P.199) ともいへり。これいかなれば願力なる。
曰く、
三信釈に、
至心則是 至徳尊号 為其体
- 至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。 (信巻 P.232)
と、云が如し。かれ初心を釈して後の二心を彰す。三心即一心なれば至心の体、尊号なるときは信楽・欲生もその体 別なくたゞ一尊号なり。いはふる「至心為体 信楽為体」はこのこゝろなり。その尊号とは「大行」なり。大行露現の名願力をもて信心の体を顕す。第二巻に、
念仏則是南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 即是正念
と、あるはこのこゝろなり、思てみつべし。
それ信心といふは心中に快く名号を受けられたるなり。名号の外はすべて雑行 雑修 自力の心を捨離して、
以斯義故 必得往生
- この義をもつての故に必ず往生を得。(行巻 P.169)
とある、名号の信知せられたるを快く受けたりとす。されは信心といふはたゞこれ名号を内心に獲得したるなり。
中興上人(蓮如)ちかく『宝章』(御文章) にのたまはわく、
- 信心といふはいかやうなることぞといへばたゞ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六字のこゝろを委(くわし)く知りたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(3-2)
又云く、
- 南無阿弥陀仏といふはすなはち念仏行者の安心の体なり。(4-6)
又云、
- 当流の安心決定すといふ体は即ち南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとこゝろうべきなり。(4-8)
又云、
- 一流安心の体と云こと南無阿弥陀仏の六字のすがたなりと知べし。(4-4)
又云、
- 当流安心の一義といふはたゝ南無阿弥陀仏の六字のこゝろなり (5-9)
とも又、
- 他力の信心をうるといふもこれ併南無阿弥陀仏の六字のこゝろなり (5-10)
とも又、
- 安心といふも信心といふもこの名号の六字のこゝろをよくヽこゝろうるものを他力の大信心をえたる人とは名たり (5-13)
とも又、
- されは南無阿弥陀
金魚
掬 いの救いと磁石のはたらき梯實圓和上の『御消息』第二条の講演録から一部を抜粋。善人・悪人を問わない全分他力の救いを説く浄土真宗では、ともすれば煩悩のままに生きればよいのだと誤解されやすい。他力の救いという言葉を他者依存であると取り違えて、自らは何も変化しないことだと領解して、あまつさえどのような悪業も阿弥陀仏の救済には関わらないのだと悪領解(造悪無碍)する輩もいるのだが、そのような輩に対する教戒が『御消息』第二条であった。→親鸞聖人御消息 第二条 →親鸞聖人の教え・問答集
──{前略}──はじめて仏様・阿弥陀仏の本願の教えを聞いて、そして浄土を願う心をおこした人が、しかし自分の心の愚かな事、また自分の身の罪業にまつらわれている浅ましい姿を見るにつけ、思うにつけて、こんな愚かな身で、こんな煩悩具足の浅ましい身で、どうして往生する事ができようか。こんな身では仏様のお心に契わないだろう。何とか美しい心にならなければ往生できないのではないかと言って心配しているような人々に対しては「我が心の善悪をば沙汰せず」 (御消息 P.740) 自分の心の善し悪しを問題にしなさんな。煩悩具足の凡夫である事を見抜いた上で、そのままを救うとおっしゃる仏様がいらっしゃるのだから如来様におまかせをして、自分の心の善し悪しを心配して「こんな事では救われまい」と思うような要らない心配をしないで良いのだ。こういう風に教えてあげる事が大事だ。それが大切な事だ。しかしどんな煩悩具足の凡夫であっても、どんな罪業深重の者であっても、そのままをきっとこの親が救うぞと仏様はおっしゃって下さいますけれども、しかし「どんな悪い事をしても良い」とは一言も言われてはおりません。「どんな悪をしてもいい、どんな振る舞いをしても良い」とは一言もおっしゃってはおられません。そんな事は強要されていない。
寧ろこの前言いましたように、悪を造るという事は自分で自分の首締める事です。自分で自分の首を締め、自分で自分を苦しい羽目に追い詰めていくのが悪を造る相でございます。そして自分で自分を苦しい状況に追い詰めていく、そんな姿を憐れんで、そしてそういう悪にまつらわれる事のない人間に育て上げよう。そういう人間を立派な仏に仕上げようというのが仏様の救いであって、如来様が救うというのは金魚
掬 いと違うのです。金魚掬いだったら。こちらの汚い泥水の金魚鉢でアップ・アップしている金魚を掬って綺麗な水の金魚鉢に入れ換えてやる。これでも一応は救ったように見えますけれども、これは金魚掬いです。金魚は金魚です。少しも変わってはいません。やはり転換がなされねばなりません。根源的に人間の、そのあり方、その心の方向というものに転換が行われていく。金魚が金魚でなくなる世界が一つある。なるほど金魚は形は金魚であっても金魚でなくなる所が一つなけれはならない。その意味で親鸞聖人はよく仏様の救いを磁石で喩えておられます。磁石が鉄を吸いつけるようなものだと言われています。磁石が鉄を吸いつけた時に、磁石の磁場に入った時に鉄は磁石の方に向かって動いていきます。普通の鉄では絶対に動かないのです。普通の釘が勝手に動いたらややこしいでしょう。大工さんが仕事しよう思って屋根へ上がって釘を出したら「お前とつきあいするのは嫌だ」と言って釘が余所へ行ったら、釘が勝手に動いたら仕事になりません。釘は自分で動かないものなのです。ところが動かない筈の釘が自分で自発的に動く時があるのです。自発的に、というよりも必然的に動いていく事がある。これは磁石に近づいた時です。磁石を近づけた時に、釘はその磁石の方に向かって動いていきます。これは磁場の中に入るからです。あれは外面はただの鉄釘だけども、その鉄は変貌してます。あれは鉄でなくなっているのです。単なる鉄ではなくなっているのです。あれは実は磁石になっているのです。磁場の中に入りますと鉄釘が磁石に変わるのです。同じ鉄でも磁気を帯びた鉄と磁気を帯びない鉄とでは鉄の原子は違わないけれども原子の配列が違っているのだそうです。
あの磁石の喩えは元々は経典(華厳経)に出てくるのです。親鸞聖人もそれを如来様の本願の救いの模様を顕わすのに使っていらっしゃるのです。阿弥陀仏の本願力というのは磁石のようなものだ。「よく本願の因を吸うが故に」(行巻 P.201) 本願の因を吸いつけ如来が救おうとされた救いの対象を自らに吸いつけていくのだ。それが仏様の救いのはたらきだという。その磁石に吸いついた鉄は磁石になっているのです。ですからプラスとマイナスがピタッと一致するように引っついていく訳なのです。ですから磁石に引っついてる釘の所へ他の釘を引っ付けますと、その釘がまたその釘に引っ付いていきます。という事は釘が既に磁石になってる証拠です。今申しましたように電子顕微鏡で見ますと磁気を帯びますと原子の配列が瞬間にスウーと変わるのです。そうなりますと単なる鉄ではなくて磁石になっているのです。
そうしますと本願を聞いた。そして本願を信じたという事は、その意味で外見は煩悩具足の凡夫のままの姿だけれども。しかし内的に変革を受けてる、大きな変革を受けてる。どんな形で変革を受けるかと言ったら仏様と同質のものになっていく。そして仏様と同質のものになるから、仏様の方に向かって親近性をもつ。そして仏様に向かっていくような人間になる。第一に教えを聞く事を段々と楽しむようになっていく。私達は元々は教えを聞くなどという事は嫌な事です。仏教の話を聞く気はありはしない。またそんなものを聞こうとも思いはしない。それが段々と教えを聞く事が楽しくなっていく。それだけ教えに対して親近性が出てきます。そして仏の名を称え、浄土を思う人間になっていく。仏を思う人間になっていく。これは質的に変革を受けてる証拠です。鉄が磁石に変わっていくように外見は少しも変わらないけども内的には大きな変わりが出来てきている。外的には錆びた折れ釘であっても磁気を帯びた折れ釘は他の釘を吸いつける能力を持つ。丁度そのように仏様の教えを聞いて、そして仏様に向かった存在に変わってくる。そしてまた縁のある人達を仏様の方に向け変えていくような、そんなはたらきをする人間に変わっていく。そのあたりに実は大きな変革が行われていくのです。
だから救われるという事は、やはり質的に変わっていく事なのです。外面的には余り変わりはないようだけれども質的に変わっていく。質的に変わればもちろん外面にもいくつかの変化はある。当然変化はある。その一つは今申しましたように教えを聞いて喜ぶ人間になる。そして人々に「共にこの教えを聞いて共に仏様の子である事に目覚めていきましょう」という呼びかけも出てくるようになる。その辺からやはり仏様の教えに従って、言ったらダメだぞと言われた言葉はやはり言わないように、してはいけないと言われた事はしないように慎んでいこうという
嗜 みというものがおこってくる。こういう所に変革を受けている姿がある。そこで「かくききてのち」 (御消息 P.740) こういう風に煩悩具足の愚かな者を、そのままで救おうと思し召す仏様の教えに触れた時に、その時に私達は大きな変革を受ける。そうですね磁石が釘を引きつける時に「お前錆びてるからダメ」とは言いません。「お前は錆びてるから引きつけてやらん」そんな事を言いはしません。鉄である限り錆びていようがどうしようが、ボロボロになっていても磁石はその鉄を引きつけます。曲がった釘だから引きつけてやらないなんて事は言いません。錆びた釘だろうが曲がった釘だろうが、鉄ならば引きつけるのです。阿弥陀仏の本願もその通りだ。賢かろうと愚かであろうと罪業深き者であろうと、その人が、いのちある者であるが故に如来は無条件に引きつけて下さる。そして如来と同質のものに仕上げて下さる。そういうはたらきが仏様の救いのはたらきです。だからこのように聞いて後「仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには」 (御消息 P.740) 仏様の本願を聞いて、そして教えをいよいよ喜ぶ人間になる。教えを聞く事を楽しむ人間になってきたという事です。そして仏様に親しみ深くなってくる。この「信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには」 (御消息 P.740) というのは信ずる心が深くなるという事は、仏様に段々と親しみ深くなるという事です。今まで疎遠であったものが段々、仏様に親しみ深くなる。今までお仏壇にお礼をするのも、そんな気が起こらなかったものが段々と仏様にお礼を申すようになり。お念仏するのが気恥ずかしかった。お念仏しようなどという心おきなかったものが、それが段々とお念仏を申すようになってくる。その姿が段々と仏様に馴染んできている姿です。仏様に対する馴染みが深くなってくる。それを「信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには」 (御消息 P.740) 仏様の教えを楽しんで聞くような心が段々と深くなってくると「まことにこの身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏を好みまうしなんどするひとは」 (御消息 P.740) 自分の煩悩の浅ましさに気がつく。腹の立つ事の浅ましさ、人を妬んだり呪うたりする事の浅ましさ、その事の愚かしさ浅ましさというのが段々と分かってくる。しかし人を妬む心はなくならないし、人に嫌な事を言われた時に腹立つ心もなくならないけれども、しかし全くなくならないというのではない。十あったものが九や八になったらだいぶ違います。腹立ちというものがそうです。
我々はやはり嫌な事を言われたら腹が立つのです。皆さんそうでしょう。何を言われても腹は立たない、そんな所まで中々行きません。仏様ではないのですから。教えを聞いたって地金は地金ですので、悪口を言われて「言うのは向こうの勝手だ、怒るか怒らないかは俺の勝手だ」というのでスーッと済ましてるという訳にはいきません。中々そういう風にはいきません。だけど少しは違ってくるのです。腹立ちも質が少しずつ違ってくる。憎たらしい相手に、死んでしまえと思うくらいに腹立つ。思うと余計に腹が立ってくる。あれは自分の心で憎しみを増幅するのです。或いは「あいつだけは、この恨みは死んでも忘れんぞ」と思った途端に腹立ちが倍加していくのです。だけどその時に「あいつは腹立つ奴だ、死んでも忘れんぞ」という所が出てきた時に「いや死んだら忘れるぞ」と思ったら良いのです。「死んでまではこんな思いは持っていかないぞ」と思う。これはあります。「死んでまでこんな汚い思いは持っていかないぞ」という事が出てくる。そうしたら「死んだら忘れるぞ」と言ったらどこか知りませんがスコンと抜ける所があるのです。
「あいつは腹立つ奴だ、死んでしまえ」と腹立てた時に、「いや死ななくてもよい、俺にとったら憎い奴だけど、しかし彼が存在する事は素晴らしい事なのだ。仏様は大切なものだとおっしゃっておられるのだから、彼もまた如来様の子として大切なのだ。私にとっては憎い奴だけど、しかし彼は彼として存在する事に意義があるのだ」と思いますと。そうですね三分くらいは腹立ちは静まります。三分静まったらだいぶ違うのです。プラスアルファとマイナスアルファでは差引しますとだいぶ違います。人間の心というのは腹立ってる時には火に油を注ぐようにガンガンやるのです。そんな事があるでしょう。何か嫌な事を言われてカーッと腹立つ。昼は忙しいし、仕事にかまけて忘れている。しかし晩になって寝て何もする事がなくなったら思い出す。思い出してきたらまた腹が立ってくる。そして腹を立ててどうするのかというと、そういえば三年前にもあんな事を言った、と忘れていた事まで思い出すのです。そしたら何の事はない。治りかけてる傷を、瘡蓋をはがすようなものです。心の瘡蓋をはがして傷口を大きくしているのです。忘れている事は無理に思い出さなくてもよいのです、人間というのは嫌な事は忘れるように出来ているのです。それで生きていけるように出来ているのです。そんなものを全部覚えていたら生きていけません。適当に忘れるように出来ているのです。忘れる事は良い事なのです。忘れるから生きていけるのです。だから私はこの頃は忘れるという事は素晴らしい事だと思っているのです。
そんな風に瘡蓋が出来て治りかけている所を又ペーッとはがして。そう言えばあいつは三年前にもあんな事を言った、という事を思い出して腹が立つ。そこへもってきて。そう言えばあいつだけではない、こいつもこんな事を言ったあいつもあんな事を言ったと思い出す。忘れている事を全部思い出して。そしてそれに火をつける。火に油注ぐ。そして夜寝られなくなってしまうのです。バカな話です。それと同じ事で自分で自分の心にたぶらかされてる訳です。そういう点でブレーキがかかるのです。お浄土まで持っていかないぞ。この憎しみの心は浄土まで持っていかないぞ。死んだら忘れるでと言うと、何かどこかでスコンと抜けるのです。「お前のような奴は死んでしまえ」というのを「死なんでも良いぞ」と言ってみなさい。言わなくても良いですから心の中で密かに思う。密かに思うとどこか腹立ちの心にスーッと水かけたような。全部は鎮火はしないですけれども少なくとも三分か四分くらいはシュッと腹立ちが静まっていくのです。それなのです。「この身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏を好みまうしなんどするひとは、もとこそ」 (御消息 P.740) この「もとこそ」というのは以前はという事です。「こころのままにてあしきことをもおもひ」心のままに自分の思いにまかせて、我が心の妄念のままに、煩悩のままに「あしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ」 (御消息 P.740) そういう愚かな心を捨てたいものだ、こんな嫌な心を捨てたいものだと。これはなくなっているのではないのです。あるから言うのです。
煩悩がなくなったらこんな事は思いません。あるから言うのです。腹が立つから「ああこんな心捨てたいものだな。人を妬んだり憎んだりする心があるから、こんな心を捨てたいものだな」と思う。こういう事が大事な事なのです。人の幸せ妬むというのは人間にとって最低です。最低だというのはどういう事かと言いますと。結局一番辛い事です。幸せな人が居たら全部腹が立つのですから。これは腹立ちの材料、不幸の材料が一杯あるようなものです。これは人間にとって一番不幸な事なのです。そういう人の幸せを妬み嫉むような心がおきた時に、こんな心を捨てたいものだなと思う。そういう心がおきるだけでもね、ブレーキがかかる。心にブレーキがかかるという事は大事な事です。そのブレーキをかけて下さるのが阿弥陀様なのだ。「あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ」 (御消息 P.740) 捨てたいものだなぁと思う人こそ「世をいとふしるしにても候はめ」この「世をいとふしるし」とはこの煩悩の世を厭うしるし。「また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば」 (御消息 P.740) この往生の信心というのは、お釈迦様のお勧め、阿弥陀様のご本願のお勧めによってこの信心はおこったのだとお経の中に説かれておりますから、「さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにては候ふべき」 (御消息 P.740) 阿弥陀様のお育てにより、お釈迦様のみ教えによって、本願を信じ、念仏を申す人間になったお方ならば、そんな尊いご縁を頂いた人ならば、どうして昔のままの煩悩を無条件に肯定するような、そんな昔のままの心であって良い事がありましょうか、とおっしゃっているのです。
──{後略}──
脚 註: