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往生要集略料簡

提供: 本願力

『往生要集』における広略要の三例について。『法然教学の研究』(梯實圓和上)p.48より引用。

  • ()内の漢文の読下しは林遊が付加した。

 「往生要集釈」に明かされる広略要の三例とは、『要集』を三つの観点から解釈して、その幽意を探ろうとするものである。先ず広例とは、『要集』十大文の全体を、広く文脈にしたがって理解する立場である。このときは十大文の中心は、「第四正修念仏」におさまり、「正修念仏」に明かされる五念門は、第四観察門を中心としているから、『要集』は観察を明かす書ということになる。この観点に立てば観勝称劣という筆格で往生行が説かれた如くにみられるのである。

次に略例とは、前に述べたように「第五助念方法」の第七総結要行の釈意に立脚して『要集』の行業観をみる立場である。このときは「称念仏」といわれる称名を往生業の本とし、余行を助業とみるべきであるから『要集』は、称名を中心とした助念仏を明かす書ということになる。

要例とは、観察門を仔細にみると、観念不堪の機に対して、最後に三想(帰命想、引摂想、往生想)によって一心に称念せよと教えられている。これは頑魯なる下機に対するときは、観察門は、称名一行に結帰することを示している。また「大文第八念仏証拠」において、難易対、少分多分対、因明直弁対、自説不自説対、摂取不摂取対、随宜理尽対の六対をもって諸行に簡んで念仏を勧進されたものや、さらに「大文第十問答料簡」第二往生階位において、道綽、善導の釈意をうけて、懈慢界の業因たる雑修に対して、報土に百即百生する専修念仏を明かされたものなどが、要例の念仏とみるべきであるとされている。

法然はこの三例をもって『要集』を解釈したうえで、その略例について「此要集意、以助念仏、為決定業歟、但善導和尚御意不爾(この要集の意、助念仏をもって決定業となすか。ただ善導和尚の御意はしからず)」といい、『要集』の当分は略例助念仏の立場とみるのが親しいのであろうかといわれる。しかし要例を明かしたあとで「是則此集本意也」とか「私云恵心尽<理定往生得否、以善導道綽而為指南……然則用恵心之輩、必可帰道綽善導也(わたくしにいわく、恵心理を尽くして往生の得否を定む。善導・道綽をもって指南となす……しかれば則ち恵心を用いるの輩、必ず道綽・善導のに帰すべし。)」といい、『要集』の本意は善導の如き専修念仏、すなわち要例の念仏にあると結論づけていかれるのである。法然はこうした『往生要集』解釈をふまえたうえで、本来略例をあらわす語であった「往生之業、念仏為本」を転用して、要例の専修念仏、特に「念仏証拠」における難易対等の六対で示されるような廃立念仏をあらわす用語として、標宗に用いられたのである。