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往生要集略料簡

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SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
浄土宗全書

下に読み下し文あり。ノート:往生要集略料簡を読んで、法然聖人の意図と趣旨を把握してから読めば良。

往生要集略料簡第八

今略料簡此集。且有廣・略・要三。

今、略して此の集を料簡するに、(しばら)く、広・略・要の三あり。

広例

初孰廣料簡者。此一部中有序正流通厭離等十門。十門者。一厭離穢土。二欣求淨土。三極樂證據。四正修念佛。五助念方法。六別時念佛。七念佛利益。八念佛證據。九往生諸業。十問答料簡也。

初に()いて料簡せば、此の一部の中に、序・正・流通・厭離等の十門あり。十門とは、一には厭離穢土、二には欣求浄土、三には極楽証拠、四には正修念仏、五には助念方法、六には別時念仏、七には念仏利益、八には念仏証拠、九には往生諸業、十には問答料簡なり。

第一厭離門中有七。一地獄。二餓鬼。三畜生。四阿修羅。五人。六天。七總結也。
凡三界無安。猶如火宅。衆苦充滿。甚可怖畏。此乃可厭之處也。

第一、厭離門の中に七あり。一に地獄、二に餓鬼、三に畜生、四に阿修羅、五に人、六に天、七に総結なり。
(おおよ)そ三界は安きこと無し。()を火宅の如し。衆苦充満す、甚だ怖畏すべし。此れ(すなわ)ち可厭の処なり。

第二欣求門中有十。一聖衆來迎樂。二蓮華初開樂。三身相神通樂。四五妙境界樂。五快樂無退樂。六引接結縁樂。七聖衆倶會樂。八見佛聞法樂。九隨心供佛樂。十増進佛道樂也。
彼國是永無有三塗苦難之名。但受殊勝微妙之樂。此乃可欣之處也。

第二、欣求門の中に十あり。一には聖衆来迎楽、二には蓮華初開楽、三には身相神通楽、四には五妙境界楽、五には快楽無退楽。六には引接結縁楽、七には聖衆倶会楽、八には見仏聞法楽、九には随心供仏楽、十には増進仏道楽なり。
彼の国は是れ永く三塗苦難の名あること無し。ただ殊勝微妙の楽のみを受く。此れ乃ち可欣の処なり。

第三極樂證據門中有二。一對十方。二對都率。此乃相對餘方論其優劣。廣引經論決歸西方也。

第三、極楽証拠門の中に二あり。一には対十方、二には対都率、此れ乃ち余方に相対して其の優劣を論じ、広く経論を引きて西方に決帰すとなり。

第四正修念佛門中有五。一禮拜門。二讃歎門。三作願門。四觀察門。五迥向門也。
此中就作願門有二。一縁事四弘誓願 二縁理四弘誓願。又就觀察門有三。一別相觀。二總相觀。三雜略觀。雜略觀中又有極略。衆生根性自有利鈍。故觀亦明廣略。又文中具觀稱二念。然集主雖廣勸觀念 意在稱名也。

第四、正修念仏門の中に五あり。一には礼拝門、二には讃歎門、三には作願門、四には観察門、五には迥向門なり。
此の中、作願門に就いて二あり。一には縁事の四弘誓願、二には縁理の四弘誓願なり。又、観察門に就いて三あり。一には別相観、二には総相観、三には雑略観なり、雑略観の中に又、極略あり。衆生の根性に自ら利鈍あり。故に観に亦た広略を明す。又、文中に観称の二念を具す。然るに集主、広く観念を勧むといえども、意、称名に在るとなり。[1]

第五助念方法門中有七。一方所供具。二修行相貎。三對治懈怠。四止惡修善。五懺悔衆罪。六對治魔事。七總結要行也。
此中修行相貎乃有四修三心。四修者。一長時修。二慇重修。三無間修。四無餘修。
三心者。一至誠心。二者深心。三迴向發願心。
又就上(止)惡修善有六。一持戒不犯。二不起邪見。三不生憍慢。四不恚不嫉。五勇猛精進。六讀誦大乘。

第五、助念方法門の中に七あり。一には方所供具、二には修行相貎、三には対治懈怠、四には止悪修善、五には懺悔衆罪、六には対治魔事、七には総結要行也。
此の中、修行の相貎に乃ち四修三心あり。四修とは、一には長時修、二には慇重修、三には無間修、四には無余修なり。
三心とは、一には至誠心、二には深心。三には迴向発願心なり。
又、止悪修善に就いて六あり。一には持戒不犯、二には不起邪見、三には不生憍慢、四には不恚不嫉、五には勇猛精進、六には読誦大乗なり。

第六別時念佛門中有二。一尋常行儀。二臨終行儀。

第六、別時念仏門の中に二あり。一には尋常の行儀、二には臨終の行儀なり。

第七念佛利益門中有七。一滅罪生善。二冥得護持。三現身見佛。四當來勝利。五彌陀別益。六引例勸信。七惡趣利益。

第七、念仏利益門の中に七あり。一には滅罪生善、二には冥得護持、三には現身見仏、四には当来勝利、五には弥陀別益、六には引例勧信、七には悪趣利益なり。

第八念佛證據門中有三童(重)問答。

第八、念仏証拠門の中に三重の問答あり。

第九往生諸行門也。

第九、往生諸行門なり。

第十問答料簡門中有十。一極樂依正。二往生階位。三往生多少。四尋常念相。五臨終念相。六麁心妙果。七諸行勝劣。八信毀因縁。九助道資縁。十助道人法。此爲廣義也。

第十、問答料簡門の中に十あり。一には極楽依正、二には往生階位、三には往生の多少、四には尋常の念相、五には臨終の念相、六には麁心妙果、七には諸行の勝劣、八には信毀の因縁、九には助道の資縁、十には助道の人法なり。此れを広の義と為すなり。

略例

次就略料簡者。第五助念方法門中 總結要行七法是也。文云。

次に略に就いて料簡せば、第五助念方法門の中の総結要行の七法是れなり。文云。

「問。上諸門中所陳既多。未知何業爲往生要。

「問。上の諸門の中に陳ぶる所既に多し。未だ知らず何れの業が往生の要と為す。

答。大菩提心護三業深信至誠常念佛。隨願決定生極樂。況復具餘諸妙行。

答。大菩提心と三業を護ると深信至誠に常に念仏すること、願に随いて決定して極楽に生ず。況んや復た余の諸の妙行を具せるをや。

問。何故此等爲往生要。

問。何が故ぞ此れ等を往生の要と為するや。

答。菩提心義如前具釋。三業重惡能障正道。故須護之。往生之業念佛爲本。其念佛心 必須如理 故具深信至誠常念三事。

答。菩提心の義は前に具に釈するがごとし。三業の重悪、能く正道を障ふ。故に須くこれを護るべし。往生の業には念仏を本と為す。其の念仏の心、必ず須(すべから)く理のごとくすべし。故に深信・至誠・常念の三事を具す。

常念有三益。如迦才云。一者諸惡覺觀畢竟不生。亦得消於業障。二者善根増長。亦得種見佛因縁。三老(者)熏習熟利臨命終時正念現前 已上

常念に三益あり。迦才の云ふがごとし。《一には諸の悪の覚観、畢竟じて生ぜず。亦た業障を消ずることを得。二には善根増長す。亦た見仏の因縁を種(う)うることを得。三には熏習熟利して命終の時に臨みて正念現前す》と 已上

業由願轉。故云隨願往生。總而言之。護三業是止善。稱念佛是行善。菩提心及願 扶助此二善。此等法爲往生要。其旨出經論。不能具之。」

業は願に由て転ず。故に随願往生と云ふ。総じてこれを言わば、三業を護るは、是れ止善なり。念仏を称するは是れ行善なり。菩提心及び願は此の二善を扶助す。此れ等の法を往生の要と為す。其の旨、経論に出たり。これを具にすることあたわず。」
[1]

此總結要行者 是即此集肝心決定往生要法。學者更思擇之。識其要否。

此の総結要行は、是れ即ち此の集の肝心、決定往生の要法なり。学者更にこれを思択して、其の要否を識るべし。

文乃有二問答。且初問中上諸門者。上有五門。一厭離穢土。二欣求淨土。三極樂證據。四正修念佛。五助念方法。即指此等云上諸門也。

文に乃ち二の問答あり。且く初の問の中に「上の諸門」とは、上に五門あり。一に厭離穢土、二に欣求浄土、三に極楽証拠、四に正修念仏、五に助念方法なり。即ち此等を指して上の諸門と云ふなり。

所陳既多者。厭離門有七章。欣求門有十章。證據門有二章。正修門有五章。助念門有六章。此等諸章所明既多。故云所陳既多也。

「陳ぶる所、既に多し」とは、厭離門に七章あり。欣求門に十章あり。証拠門に二章あり。正修門に五章あり。助念門に六章あり。此等の諸章に明す所、既に多し。故に「所陳既多」と云ふなり。

未知何業爲往生要者。於上諸門所述之行既有數條。於要否法學者叵識。爲決要法故云未知等也。

「未だ知らず、何れの業が往生の要と為す」とは、上の諸門に於いて述ぶる所の行、既に数条あり。要否の法に於いて学者識り叵(がた)し。要法を決せんが為の故に「未知等」と云ふなり。

次初答中解之有二。一粗述答意。二正釋文。
初述答意者。問。既出上諸門衆行。問其要否故。答亦於上諸門中簡示其要行也。

次に初の答の中これを解するに二あり。一には粗、答の意を述べ、二には正しく文を釈す。
初に答の意を述ぶとは、問、既に上の諸門の衆行を出して、其の要否を問ふ故に、答も亦た上の諸門の中に於いて(えらび)て其の要行を示すとなり。

次正釋文者。又分爲二。一總約五門簡之。二別約二門簡之。初總約五門簡者。上厭離等三門。是非往生要故 簡而不取。
第四第五二門。正是往生要行。故簡而取之。大菩提心常念佛者。是即第四正修念佛門也。護三業深信至誠者。是即第五助念方法門也。

次に正く文を釈すとは、又分けて二と為す。一には総じて五門に約してこれを簡ぶ。二には別して二門に約してこれを簡ぶ。初に総じて五門に約して簡ぶとは、上の厭離等の三門は、是れ往生の要に非ずが故に簡びて取らず。
第四第五の二門、正く是れ往生の要行なり。故に簡びてこれを取る。「大菩提心」と「常念仏」とは、是れ即ち第四正修念仏門也。「護三業」と「深信至誠」とは、是れ即ち第五助念方法門なり。

次別約三門簡者。此亦有二。一約第四門簡之。二約第五門簡之。初約第四門簡者。此中有五念門。於中乃以作願觀察二門 爲往生要。自餘三門望彼尚是非往生要。是故今云菩提心及念佛。更不云禮讃等。又就菩提心有事有理。今文之中雖未簡之。若例念佛以事爲要。

次に別して三門に約して簡ぶとは、此れに亦た二あり。一には第四門に約してこれを簡ぶ。二には第五門に約してこれを簡ぶ。初に第四門に約して簡ぶとは、此の中に五念門あり。中に於いて乃ち作願・観察の二門を以て往生の要と為す。自余の三門は彼に望に尚を是れ往生の要に非ず。是の故に今、「菩提心」及び「念仏」と云ふ。更に礼讃等と云わず。又、菩提心に就いて事あり理あり。今文の中、未だこれを簡ばずと雖も、若し念仏に例せば事を以て要と為す。

又言念佛者。是觀察門之異名也。然於念佛 有觀有稱。於二行中稱名爲要。故次答中云。

又、念仏と言ふは、是れ観察門の異名也。然るに念仏に於いて観あり称あり。二行の中に於いて称名を要と為す。故に次の答中に云く。

稱念佛是行善。以此思之。此集本意 以稱念佛 爲往生至要也。

「称念仏は是れ行善」なりと。此を以てこれを思ふに、此の集の本意は称念仏を以て、往生の至要と為すなり。

次約第五門簡者。此中有方處供具等六法。於中乃以修行相貎 止惡修善二法爲往生要。自餘四法非往生要。是故且捨而不敢(取)也。

次に第五門に約して簡ぶとは、此の中に方処供具等の六法あり。中に於いて乃ち修行の相貎と止悪修善の二法を以て往生の要と為す。自余の四法は往生の要に非ず。是の故に且く捨て取らざるなり。

又就修行相貎 乃有四修三心。於四修中無間爲要。餘三望彼尚是非要。故文引『要決』云。三者無間修。謂常念佛作往生想。但於三心全取不棄。皆是往生要也。故文云。深信至誠常念佛隨願決定生極樂。

又、修行の相貎に就いて乃し四修三心あり。四修の中に於いては無間を要と為す。余の三は(かしこ)に望むに、尚(な)を是れ要に非ず。故に文に『要決』を引きて云く。「三には無間修。謂く常に念仏して往生の想を作す」と。但だ三心に於いては全く取りて棄てず。皆な是れ往生の要也。故に文に云。「深信至誠に常に念仏すれば願に随いて決定して極楽に生ず」と。

深信至誠者。即初二心也。

深信・至誠とは、即ち初の二心なり。

隨願者。即迴向發願心也。又就止惡修善有六 一持戒不犯。二不起邪見。三不生憍慢。四不恚不嫉。五勇猛精進。六讀誦大乘。此六法中唯取第一爲往生要。文云護三業是也。

随願とは、即ち迴向発願心也。又、止悪修善に就いて六あり。一には持戒不犯、二には不起邪見、三には不生憍慢、四には不恚不嫉、五には勇猛精進、六には読誦大乗なり。此の六法の中に唯だ第一を取りて往生の要と為す。文に「護三業」と云ふ是れなり。

餘五望彼尚是非要。是故且棄而不取也。

余の五は彼に望むれば、尚お是れ要に非ず。是の故に且く棄てて取らずとなり。

所謂戒者是菩薩戒。非聲聞戒。其旨見文。但菩薩戒又有輕重。今則捨輕取重。是故文云。三業重惡案此問答之意。
凡依此集欲往生者 應當先發縁事大菩提心。次持十重木叉。具足三心常稱彌陀名號也。

所謂(いわゆ)る戒とは是れ菩薩戒なり、声聞戒に非ず。其の旨、文に見たり。但だし菩薩戒に又軽重あり。今、則ち軽を捨て重を取る。是の故に文に云く。「三業重悪」と。此の問答の意を案ずるに、凡そ此の集に依て往生せんと欲せば、当に先ず縁事の大菩提心を発し、次に十重の木叉[2]を持ち、三心を具足して常に弥陀の名号を称すべしと也。

次之問答此明以菩提心等七法 爲往生要之由也。其文易解。云(恐)繁不釋。上來於厭離等五門。簡其要否既已如此。下別時等五門。望彼亦非至要自可知耳。
又於念佛有二。一但念佛。此即前正修門意也。二助念佛。此即今助念門意也。

次の問答は、此れ菩提心等の七法を以て往生の要と為るの由を明す也。其の文解し易し。(しげき)を恐れて釈せず。上来、厭離等の五門に於いて、其の要否を簡ぶこと既已に此のごとし。下の別時等の五門も、彼に望むれば至要に非ざること自ら知るべしのみ。
又、念仏に於いて二あり。一には但念仏、此れ即ち前の正修門の意也。二には助念仏、此れ即ち今の助念門の意なり。

此集之意 以助念佛爲決定業歟。但善導和尚意不爾 云云

此の集の意、助念仏を以て決定業と為る()。但だ善導和尚の意は爾らずと 云云

上來所述此爲略義也。

上来述ぶる所、此れを略の義と為す也。

要例

後就要料簡者。唯約念佛一行勸進文是也。第四正修念佛門中觀察門云

後に要に就いて料簡すとは、唯だ念仏の一行に約して勧進する文、是れ也。

初心觀行不堪深奧{乃至}是故可修色相觀。此分爲三。一別相觀。二總相觀。三雜略觀。應隨意樂用之 乃至

「初心観行は深奥に堪えず{乃至}是の故に色相観を修すべし。此れを分ちて三と為す。一には別相観、二には総相観、三には雑略観、意楽に随いてこれを用うべし。乃至

若有不堪觀念相好。或依歸命想。或依引接想。或依往生想。應一心稱念{意樂不同故 明種種觀}行住坐臥語默作作 常以此念在於胸中。如飢念食如渇追水。或低頭擧手。或擧聲稱名。外儀雖異心念常存。念念相續寤寐莫忘。

若し相好を観念するに堪えざる有り。或は帰命想に依り、或は引接想に依り、或は往生想に依り、一心に称念すべし。{意楽不同なるが故に種種の観を明す}行住坐臥 語黙作作、常に此の念を以て胸中に在ること、飢て食を念ずるがごとく、渇えて水を追うがごとく、或は低頭挙手、或は声を挙げて称名せん。外儀は異ると雖ども心念は常に存して、念念に相続して寤寐にも忘るること莫れ」と。

[2]

又第八念佛證據門問曰。

又、第八念仏証拠門に問て曰く。

一切善業各有利益。各得往生。何故唯勸念佛一門。

「一切の善業各々利益ありて、各々往生を得。何が故ぞ唯だ念仏の一門を勧むるや。

答。今勸念佛非最(是)遮餘種種妙行。只是男女貴賤不簡行住坐臥。不論時處諸縁。修之不難。乃至臨終願求往生得其便宜。不如念佛。

答。今、念仏を勧むること是れ余の種種の妙行を遮せんとには非ず。只だ是れ、男女貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求する其の便宜を得ること、念仏にしかず。

故木槵經云。難陀國波瑠璃王遣使白佛言。唯願世尊特垂慈愍賜我要法。使我日夜易得修行。未來世中遠離衆苦。

故に『木槵経』に云く。難陀国の波瑠璃王、使を遣して仏に白して言さく。唯だ願くは世尊、特に慈愍を垂れて我に要法を賜ひ、我をして日夜修行すること得易く、未来世の中、衆苦を遠離せしめたまへ。

佛告大土(王)。若欲滅煩惱障報障者。當貫木槵子一百八以常自隨。若行若住若坐若臥恒當至心無分散意。稱佛陀達磨僧伽名。乃過一木槵子。如是若十若二十乃至百千萬億。若能滿二十萬遍身心不亂。無諸諂曲者捨命得生第三炎魔天。衣食自然常受安樂。若復能滿一百萬遍者。當得除斷百八結業。背生死流趣涅槃道獲無上果。{略鈔 感禪師意同之}

仏大土(王)に告げたまわく。若し煩悩障・報障を滅せんと欲せば、当に木槵子一百八を貫きて以て常に自らを随ふべし。若は行、若は住、若は坐、若は臥、恒に当に至心にして分散の意無く、仏陀・達磨・僧伽の名を称して乃ち一の木槵子を過すべし。是くのごとく、若は十若は二十乃至百千万億せよ、若し能く二十万遍を満ちて身心乱れず、諸の諂曲無きは、命を捨てて第三炎魔天に生することを得て、衣食自然にして常に安楽を受けん。若し復た能く一百万遍を満てば、当に百八の結業を除断することを得。生死の流れに背き、涅槃の道に趣き、無上の果を獲べし。」{略鈔 感禅師の意これに同じ}

況復諸聖教中 多以念佛爲往生業。其文甚多。略出十文。

「況や復た諸の聖教の中に多く念仏を以て往生の業と為す。其の文、甚だ多し。略して十文を出さん。

一占察經下卷云。若人欲生他方現在淨國者。應當隨彼世界佛之名字專意誦念。一心不亂。如上觀察者決定得生彼佛淨國。善根増長速成不退。

一には『占察経』の下巻に云く。若し人、他方現在の浄国者に生ぜんと欲せば。当に彼世界の仏の名字に随いて意を専らにして誦念し、一心にして乱れざるべし。上のごとく観察せば、決定して彼の仏の浄国に生れることを得。善根増長して速かに不退を成ぜん。

{如上觀察者 觀於地藏菩薩法身及諸佛法身與己自身。平等無二不生不滅常樂我淨功徳圓滿又觀己身無常如幻可厭等也}

{「上のごとく観察」とは、地蔵菩薩の法身と及び諸仏の法身と己が自身とは、平等無二不生不滅 常楽我浄功徳円満すと観ず。又己身無常幻のごとし厭うべきことを観ずる等也}

二雙卷經三輩之業雖有淺深。然通皆云一向專念無量壽佛。

二には『双巻経』三輩の業、浅深あると雖ども、然も通じて皆な一向専念無量寿仏と云えり。

三四十八願中於念佛門別發一願云。乃至十念若不生者不取正覺。

三には四十八願の中念仏門に於いて別して一願を発して云わく、乃至十念せんに若し生ぜずば正覚を取らずと。

四觀經極重惡人 云云

四には『観経』に極重悪人と 云云

五同經云。若欲至心 云云

五に同経に云く。若欲至心と 云云

六同經云。光明遍照 云云

六に同経に云く。光明遍照と 云云

七阿彌陀經云。不可以少善根 云云

七に『阿弥陀経』に云く。不可以少善根と 云云

八般舟經云。阿彌陀佛言欲來生我國者 云云

八に『般舟経』に云く。阿弥陀仏言欲来生我国者と 云云

九鼓音聲經曰。若有四衆 云云

九に『鼓音声経』に曰く。若有四衆と 云云

十往生論云。觀念彼佛依正功徳爲往生業 已上

十に『往生論』に云く。彼の仏の依正の功徳を観念して、往生の業と為す 已上

此中觀經下下品・阿彌陀經・鼓音聲經。但以念佛名號爲往生業。何況觀念相好功徳耶。

此の中『観経』下下品・『阿弥陀経』・『鼓音声経』、但だ仏の名号を念ずるを以て往生の業と為す。何に況んや相好功徳を観念せんをや。

問。餘行寧無勸進文耶。

問。余行寧ろ勧進の文の無けんや。

答。其餘行法因明彼法種種功徳。其中自説往生之事。不如直辨往生之要多云念佛。<bt> 何況佛自言當念我名乎。亦不云佛光明攝取餘行人。此等文分明。何重生疑乎。

答。其の余の行法は、因(ちな)みに彼の法の種種の功徳を明す。其の中、自ら往生の事を説く。直に往生の要を弁ずること、多く念仏なりと云ふにはしかず。
何に況んや、仏自ら「我が名を念ずべし」と言まふおや。亦た仏の光明余行の人を摂取すと云まわず。此れ等の文分明なり、何ぞ重ねて疑いを生ぜんや。

問。諸經所税 隨經萬品。何以管見執一文耶。

問。諸経の所税、経(機)に随て万品なり。何ぞ管見を以て一文を執するや。

答。馬鳴菩薩大乘起信論云。復次衆生初學此法。其心怯弱懼畏信心難可成就。意欲退者當知如來有勝方便攝護信心。隨心專意念佛因縁隨願得往生他方淨土。如修多羅説。若人專念西方阿彌陀佛。所作善根迴向願求生彼世界。即得往生。

答。馬鳴菩薩の『大乗起信論』に云く。復た次に衆生初めて此の法を学ぶに、其の心怯弱にして信心成就し難きことを懼畏し、意に退せんと欲せば、まさに知るべし、如来に勝方便有(ましま)して信心を摂護したまふ。心に随いて意専らにして念仏する因縁をもて願に随いて他方の浄土に往生することを得。修多羅に説くがごとし。
若し人、専ら西方の阿弥陀仏を念じて、所作の善根迴向して彼の世界に生ぜんと願求すれば、即ち往生を得と。

明知。契經多以念佛爲往生要。若不爾者。四依菩薩即非理盡。

明に知んぬ。契経多く念仏を以て往生の要と為すことを。若し爾らずば、四依の菩薩即ち理尽に非ず」と。[3]

私曰。此中有三番問答。初問意自可知。於中唯勸者。正指上觀察門行住坐臥等文也。何者。凡尋一部始末。慇懃勸進只在觀察一門。且答文中約易行辨之。可以見也耳。

私に曰く、此の中に三番の問答あり。初問の意は自ら知るべし。中に於いて唯だ勧むとは、正しく上の観察門の行住坐臥等の文を指す也。何なれば、凡そ一部の始末を尋るに、慇懃勧進すること只だ観察の一門に在り。且く答の文の中、易行に約してこれを弁ず。以て見るべき也のみ。

答中有二義。一難行易行。謂諸行難修。念佛易修。二者少分多分。謂諸行勸進文甚少。念佛諸經多勸進之。

答の中に二義あり。一には難行易行。謂く諸行は修し難く、念仏は修し易し。二には少分多分。謂く諸行は勧進の文甚だ少く、念仏は諸経に多くこれを勧進す。

次問答中問意可知。

次の問答の中、問の意知るべし。

答中有三義。一者因明直辨。謂諸行非專爲往生説之。念佛專爲往生選説之。

答に中に三義あり。一に因明と直弁となり。謂く諸行は専ら往生の為にこれを説くに非ず。念仏は専ら往生の為に選んでこれを説く。

二者自説不自説。謂諸行非阿彌陀如來自説。念佛阿彌陀佛自説當念我名。

二には自説と不自説となり。謂く諸行は阿弥陀如来、自ら説くに非ず。念仏は阿弥陀仏、自ら我が名を念ずべしと説きたまふ。

三攝取不攝取。謂諸行佛光不攝取之。念佛佛光即攝取之。後問答中問意可知。

三には摂取と不摂取となり。謂く諸行は仏光これを摂取したまわず。念仏は仏光即ちこれを摂取したまふ。後の問答の中、問の意を知るべし。

答中有一義。如來隨機四依理盡。謂諸行釋迦如來隨衆生機説之。念佛四依菩薩盡理勸之。是即此集本意也。應委思之。

答に中に一義あり。如来の随機と四依の理尽となり。謂く諸行は釈迦如来、衆生の機に随てこれを説きたまえり。念仏は四依の菩薩、理を尽してこれを勧む。是れ即ち此の集の本意也。応に委(Iくわし)しくこれを思ふべし。

又往生階位云。

又、往生の階位に云く。

問。若凡下輩亦得往生。云何近代於彼國土求者千萬。得無一二。

「問、若し凡下の輩亦た往生を得るは云何ぞ、近代、彼の国土に於いて求むる者は千万なれども、得るものは一二も無きや。

答。綽和尚云。信心不深。若存若亡故。信心不一。不決定故。信心不相續。餘念間故。此三不相應者不能往生。若具三心不往生者。無有是處。

答。綽和尚の云く。信心深からず。存するが若く亡するが若くが故に。信心一ならず、決定せずが故に、信心相続せず、余念間るが故に。此の三つ相応せずば、往生することあたわず。若し三心を具して往生せずとは、是の処(ことわ)りあること無し。

善導和尚云。若能如上念念相續。畢命爲期者。十即十生。百即百生。若欲捨專修雜業者。百時希得一二。千時希得三五 言如上者。指禮拜等五門。至誠等三心。長時等四修也

善導和尚の云く。若し能く上のごとく念念相続し、畢命を期と為す者は、十は即十生し、百は即百生す。若し専を捨て雑業を修せんと欲する者は、百の時に希れに一二を得、千の時に希に三五を得。{如上と言ふは、礼拝等五門、至誠等の三心、長時等の四修を指す也}」[4]

私云。惠心已定往生得否。以善導道綽而爲指南也。又處處多引用綽導二師之釋。然則隨順惠心之輩必當歸依道綽善導。披『安樂集』明了聖淨二門之意。閲『觀經疏』領會安心起行之旨。以爲出離解脱準則也。

私に云く。恵心(すで)に往生の得否を定むるに、善導・道綽を以て指南と為す也。又、処処に多く綽・導二師の釈を引用す。然れば則ち恵心に随順するの輩は必ず当に道綽・善導に帰依すべし。『安楽集』を披きて聖浄二門の意を明了にして、『観経疏』を閲して安心起行の旨を領会して、以て出離解脱の準則と為すべしとなり。



読下し



今、略して此の集を料簡するに、且(しばら)く、広・略・要の三あり。

初にに孰(つ)いて料簡せば、此の一部の中に、序・正・流通・厭離等の十門あり。十門とは、一には厭離穢土、二には欣求浄土、三には極楽証拠、四には正修念仏、五には助念方法、六には別時念仏、七には念仏利益、八には念仏証拠、九には往生諸業、十には問答料簡也。

第一、厭離門の中に七あり。一に地獄、二に餓鬼、三に畜生、四に阿修羅、五に人、六に天、七に総結也。
凡そ三界は安きこと無し。猶を火宅の如し。衆苦充満す、甚だ怖畏すべし。此れ乃ち可厭の処也。

第二、欣求門の中に十あり。一には聖衆来迎楽、二には蓮華初開楽、三には身相神通楽、四には五妙境界楽、五には快楽無退楽。六には引接結縁楽、七には聖衆倶会楽、八には見仏聞法楽、九には随心供仏楽、十には増進仏道楽也。
彼の国は是れ永く三塗苦難の名あること無し。ただ殊勝微妙の楽のみを受く。此れ乃ち可欣の処也。

第三、極楽証拠門の中に二あり。一には対十方、二には対都率、此れ乃ち余方に相対して其の優劣を論じ、広く経論を引きて西方に決帰すと也。

第四、正修念仏門の中に五あり。一には礼拝門、二には讃歎門、三には作願門、四には観察門、五には迥向門也。
此の中、作願門に就いて二あり。一には縁事の四弘誓願、二には縁理の四弘誓願なり。又、観察門に就いて三あり。一には別相観、二には総相観、三には雑略観なり、雑略観の中に又、極略あり。衆生の根性に自ら利鈍あり。故に観に亦た広略を明す。又、文中に観称の二念を具す。然るに集主、広く観念を勧むといえども、意、称名に在ると也。 [3]

第五、助念方法門の中に七あり。一には方所供具、二には修行相貎、三には対治懈怠、四には止悪修善、五には懺悔衆罪、六には対治魔事、七には総結要行也。
此の中、修行の相貎に乃ち四修三心あり。四修とは、一には長時修、二には慇重修、三には無間修、四には無余修なり。
三心とは、一には至誠心、二には深心。三には迴向発願心なり。
又、止悪修善に就いて六あり。一には持戒不犯、二には不起邪見、三には不生憍慢、四には不恚不嫉、五には勇猛精進、六には読誦大乗なり。

第六、別時念仏門の中に二あり。一には尋常の行儀、二には臨終の行儀なり。

第七、念仏利益門の中に七あり。一には滅罪生善、二には冥得護持、三には現身見仏、四には当来勝利、五には弥陀別益、六には引例勧信、七には悪趣利益なり。

第八、念仏証拠門の中に三重の問答あり。

第九、往生諸行門也。

第十、問答料簡門の中に十あり。一には極楽依正、二には往生階位、三には往生の多少、四には尋常の念相、五には臨終の念相、六には麁心妙果、七には諸行の勝劣、八には信毀の因縁、九には助道の資縁、十には助道の人法なり。此れを広の義と為す也。

次に略に就いて料簡せば、第五助念方法門の中の総結要行の七法是れ也。文云。

「問。上の諸門の中に陳ぶる所既に多し。未だ知らず何れの業が往生の要と為す。
答。大菩提心と三業を護ると深信至誠に常に念仏すること、願に随いて決定して極楽に生ず。況んや復た余の諸の妙行を具せるをや。
問。何が故ぞ此れ等を往生の要と為するや。
答。菩提心の義は前に具に釈するがごとし。三業の重悪、能く正道を障ふ。故に須くこれを護るべし。往生の業には念仏を本と為す。其の念仏の心、必ず須く理のごとくすべし。故に深信・至誠・常念の三事を具す。
常念に三益あり。迦才の云ふがごとし。《一には諸の悪の覚観、畢竟じて生ぜず。亦た業障を消ずることを得。二には善根増長す。亦た見仏の因縁を種(う)うることを得。三には熏習熟利して命終の時に臨みて正念現前す》と 已上
業は願に由て転ず。故に随願往生と云ふ。総じてこれを言わば、三業を護るは、是れ止善なり。念仏を称するは是れ行善なり。菩提心及び願は此の二善を扶助す。此れ等の法を往生の要と為す。其の旨、経論に出たり。これを具にすることあたわず。」[5]

此の総結要行は、是れ即ち此の集の肝心、決定往生の要法なり。学者更にこれを思択して、其の要否を識るべし。
文に乃ち二の問答あり。且く初の問の中に「上の諸門」とは、上に五門あり。一に厭離穢土、二に欣求浄土、三に極楽証拠、四に正修念仏、五に助念方法なり。即ち此等を指して上の諸門と云ふ也。
「陳ぶる所、既に多し」とは、厭離門に七章あり。欣求門に十章あり。証拠門に二章あり。正修門に五章あり。助念門に六章あり。此等の諸章に明す所、既に多し。故に「所陳既に多」と云ふ也。

「未だ知らず、何れの業が往生の要と為す」とは、上の諸門に於いて述ぶる所の行、既に数条あり。要否の法に於いて学者識り叵し。要法を決せんが為の故に「未知等」と云ふ也。

次に初の答の中これを解するに二あり。一には粗、答の意を述べ。二には正しく文を釈す。
初に答の意を述ぶとは、問い、既に上の諸門の衆行を出して、其の要否を問ふ故に、答も亦た上の諸門の中に於いて簡て其の要行を示すと也。

次に正く文を釈すとは、又分けて二と為す。一には総じて五門に約してこれを簡ぶ。二には別して二門に約してこれを簡ぶ。初に総じて五門に約して簡ぶとは、上の厭離等の三門は、是れ往生の要に非ずが故に簡びて取らず。
第四第五の二門、正く是れ往生の要行なり。故に簡びてこれを取る。「大菩提心」と「常念仏」とは、是れ即ち第四正修念仏門也。
「護三業」と「深信至誠」とは、是れ即ち第五助念方法門也。次に別して二門に約して簡ぶとは、此れに亦た二あり。一には第四門に約してこれを簡ぶ。二には第五門に約してこれを簡ぶ。初に第四門に約して簡ぶとは、此の中に五念門あり。中に於いて乃ち作願・観察の二門を以て往生の要と為す。自余の三門は彼に望に尚を是れ往生の要に非ず。是の故に今、「菩提心」及び「念仏」と云ふ。更に礼讃等と云わず。

又、菩提心に就いて事あり理あり。今文の中、未だこれを簡ばずと雖も、若し念仏に例せば事を以て要と為す。
又、念仏と言ふは、是れ観察門の異名也。然るに念仏に於いて観あり称あり。二行の中に於いて称名を要と為す。故に次の答中に云く。
「称念仏は是れ行善」なりと。此を以てこれを思ふに、此の集の本意は称念仏を以て、往生の至要と為す也。
次に第五門に約して簡ぶとは、此の中に方処供具等の六法あり。中に於いて乃ち修行の相貎と止悪修善の二法を以て往生の要と為す。自余の四法は往生の要に非ず。是の故に且く捨て取らざる也。
又、修行の相貎に就いて乃し四修三心あり。四修の中に於いては無間を要と為す。余の三は彼(かしこ)に望むに、尚を是れ要に非ず。故に文に『要決』を引きて云く。「三には無間修。謂く常に念仏して往生の想を作す」と。但だ三心に於いては全く取りて棄てず。皆な是れ往生の要也。故に文に云。「深信至誠に常に念仏すれば願に随いて決定して極楽に生ず」と。
深信・至誠とは、即ち初の二心也。
随願とは、即ち迴向発願心也。又、止悪修善に就いて六あり。一には持戒不犯、二には不起邪見、三には不生憍慢、四には不恚不嫉、五には勇猛精進、六には読誦大乗なり。此の六法の中に唯だ第一を取りて往生の要と為す。文に「護三業」と云ふ是れ也。
余の五は彼に望むれば、尚お是れ要に非ず。是の故に且く棄てて取らずと也。
所謂る戒とは是れ菩薩戒なり、声聞戒に非ず。其の旨、文に見たり。但だし菩薩戒に又軽重あり。今、則ち軽を捨て重を取る。是の故に文に云く。「三業重悪」と。此の問答の意を案ずるに、凡そ此の集に依て往生せんと欲せば、当に先ず縁事の大菩提心を発し、次に十重の木叉[4]を持ち、三心を具足して常に弥陀の名号を称すべしと也。

次の問答は、此れ菩提心等の七法を以て往生の要と為るの由を明す也。其の文解し易し。繁(しげき)を恐れて釈せず。上来、厭離等の五門に於いて、其の要否を簡ぶこと既已に此のごとし。下の別時等の五門も、彼れに望むれば至要に非ざること自ら知るべし耳。又、念仏に於いて二あり。一には但念仏、此れ即ち前の正修門の意也。二には助念仏、此れ即ち今の助念門の意也。
此の集の意、助念仏を以て決定業と為る歟。但だ善導和尚の意は爾らずと 云云
上来述ぶる所、此れを略の義と為す也。

後に要に就いて料簡すとは、唯だ念仏の一行に約して勧進する文、是れ也。
第四、正修念仏門の中、観察門に云く。

「初心観行は深奥に堪えず{乃至}是の故に色相観を修すべし。此れを分ちて三と為す。一には別相観、二には総相観、三には雑略観、意楽に随いてこれを用うべし。乃至
若し相好を観念するに堪えざる有り。或は帰命想に依り、或は引接想に依り、或は往生想に依り、一心に称念すべし。{意楽不同なるが故に種種の観を明す}行住坐臥語黙作作、常に此の念を以て胸中に在ること、飢て食を念ずるがごとく、渇えて水を追うがごとく、或は低頭挙手、或は声を挙げて称名せん。外儀は異ると雖ども心念は常に存して、念念に相続して寤寐にも忘るること莫れ」と。[6]

又、第八念仏証拠門に問て曰く。

「一切の善業各々利益ありて、各々往生を得。何が故ぞ唯だ念仏の一門を勧むるや。
答。今、念仏を勧むること是れ余の種種の妙行を遮せんとには非ず。只だ是れ、男女貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求する其の便宜を得ること、念仏にしかず。
故に『木槵経』に云く。難陀国の波瑠璃王、使を遣して仏に白して言さく。唯だ願くは世尊、特に慈愍を垂れて我に要法を賜ひ、我をして日夜修行すること得易く、未来世の中、衆苦を遠離せしめたまへ。
仏大土(王)に告げたまわく。若し煩悩障・報障を滅せんと欲せば、当に木槵子一百八を貫きて以て常に自らを随ふべし。若は行、若は住、若は坐、若は臥、恒に当に至心にして分散の意無く、仏陀・達磨・僧伽の名を称して乃ち一の木槵子を過すべし。是くのごとく、若は十若は二十乃至百千万億せよ、若し能く二十万遍を満ちて身心乱れず、諸の諂曲無きは、命を捨てて第三炎魔天に生することを得て、衣食自然にして常に安楽を受けん。若し復た能く一百万遍を満てば、当に百八の結業を除断することを得。生死の流れに背き、涅槃の道に趣き、無上の果を獲べし。」{略鈔 感禅師の意これに同じ}
「況や復た諸の聖教の中に多く念仏を以て往生の業と為す。其の文、甚だ多し。略して十文を出さん。
一には『占察経』の下巻に云く。若し人、他方現在の浄国者に生ぜんと欲せば。当に彼世界の仏の名字に随いて意を専らにして誦念し、一心にして乱れざるべし。上のごとく観察せば、決定して彼の仏の浄国に生れることを得。
善根増長して速かに不退を成ぜん{「上のごとく観察」とは、地蔵菩薩の法身と及び諸仏の法身と己が自身とは、平等無二不生不滅 常楽我浄功徳円満すと観ず。又己身無常幻のごとし厭うべきことを観ずる等也}
二には『双巻経』三輩の業、浅深あると雖ども、然も通じて皆な一向専念無量寿仏と云えり。
三には四十八願の中念仏門に於いて別して一願を発して云わく、乃至十念せんに若し生ぜずば正覚を取らずと。
四には『観経』に極重悪人と 云云
五に同経に云く。若欲至心と 云云
六に同経に云く。光明遍照と 云云
七に『阿弥陀経』に云く。不可以少善根と 云云
八に『般舟経』に云く。阿弥陀仏言欲来生我国者と 云云
九に『鼓音声経』に曰く。若有四衆と 云云
十に『往生論』に云く。彼の仏の依正の功徳を観念して、往生の業と為す 已上
此の中『観経』下下品・『阿弥陀経』・『鼓音声経』、但だ仏の名号を念ずるを以て往生の業と為す。何に況んや相好功徳を観念せんをや。
問。余行寧ろ勧進の文の無けんや。
答。其の余の行法は、因(ちな)みに彼の法の種種の功徳を明す。其の中、自ら往生の事を説く。直に往生の要を弁ずること、多く念仏なりと云ふにはしかず。 何に況んや、仏自ら「我が名を念ずべし」と言まふおや。亦た仏の光明余行の人を摂取すと云まわず。此れ等の文分明なり、何ぞ重ねて疑いを生ぜんや。
問。諸経の所税、経(機)に随て万品なり。何ぞ管見を以て一文を執するや。
答。馬鳴菩薩の『大乗起信論』に云く。復た次に衆生初めて此の法を学ぶに、其の心怯弱にして信心成就し難きことを懼畏し、意に退せんと欲せば、まさに知るべし、如来に勝方便有(ましま)して信心を摂護したまふ。心に随いて意専らにして念仏する因縁をもて願に随いて他方の浄土に往生することを得。修多羅に説くがごとし。
若し人、専ら西方の阿弥陀仏を念じて、所作の善根迴向して彼の世界に生ぜんと願求すれば、即ち往生を得と。
明に知んぬ。契経多く念仏を以て往生の要と為すことを。若し爾らずば、四依の菩薩即ち理尽に非ず」と。[7]

私に曰く、此の中に三番の問答あり。初問の意は自ら知るべし。中に於いて唯だ勧むとは、正しく上の観察門の行住坐臥等の文を指す也。何なれば、凡そ一部の始末を尋るに、慇懃勧進すること只だ観察の一門に在り。且く答の文の中、易行に約してこれを弁ず。以て見るべき也のみ。
答の中に二義あり。一には難行易行。謂く諸行は修し難く、念仏は修し易し。二には少分多分。謂く諸行は勧進の文甚だ少く、念仏は諸経に多くこれを勧進す。
次の問答の中、問の意知るべし。
答に中に三義あり。一者因明と直弁となり。謂く諸行は専ら往生の為にこれを説くに非ず。念仏は専ら往生の為に選んでこれを説く。
二には自説と不自説となり。謂く諸行は阿弥陀如来、自ら説くに非ず。念仏は阿弥陀仏、自ら我が名を念ずべしと説きたまふ。
三には摂取と不摂取となり。謂く諸行は仏光これを摂取したまわず。念仏は仏光即ちこれを摂取したまふ。後の問答の中、問の意を知るべし。
答に中に一義あり。如来の随機と四依の理尽となり。謂く諸行は釈迦如来、衆生の機に随てこれを説きたまえり。念仏は四依の菩薩、理を尽してこれを勧む。是れ即ち此の集の本意也。応に委しくこれを思ふべし。
又、往生の階位に云く。

「問、若し凡下の輩亦た往生を得るは云何ぞ、近代、彼の国土に於いて求むる者は千万なれども、得るものは一二も無きや。
答。綽和尚の云く。信心深からず。存するが若く亡するが若くが故に。信心一ならず、決定せずが故に、信心相続せず、余念間るが故に。此の三つ相応せずば、往生することあたわず。若し三心を具して往生せずとは、是の処(ことわ)りあること無し。
善導和尚の云く。若し能く上のごとく念念相続し、畢命を期と為す者は、十は即十生し、百は即百生す。若し専を捨て雑業を修せんと欲する者は、百の時に希れに一二を得、千の時に希に三五を得。{如上と言ふは、礼拝等五門、至誠等の三心、長時等の四修を指す也}」[8]

私に云く。恵心已に往生の得否を定むるに、善導・道綽を以て指南と為す也。又、処処に多く綽・導二師の釈を引用す。然れば則ち恵心に随順するの輩は必ず当に道綽・善導に帰依すべし。『安楽集』を披きて聖浄二門の意を明了にして、『観経疏』を閲して安心起行の旨を領会して、以て出離解脱の準則と為すべしと也。



  1. 「雑略観」の文。「もし相好を観念するに堪へざることあらば、あるいは帰命の想により、あるいは引摂の想により、あるいは往生の想によりて、一心に称念すべし。」に依って称名を出す。
    また親鸞聖人は、「雑略観」の「念仏衆生摂取不捨」以下の文を、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。」と、正信念仏偈で引文されておられる。
  2. 波羅提木叉の略語。prātimokṣa(プラーティモークサ)。ここでは、十重禁戒のこと。
  3. 「雑略観」の文。「もし相好を観念するに堪へざることあらば、あるいは帰命の想により、あるいは引摂の想により、あるいは往生の想によりて、一心に称念すべし。」に依って称名を出す。
    また親鸞聖人は、「雑略観」の「念仏衆生摂取不捨」以下の文を、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。」と、正信念仏偈で引文されておられる。
  4. 波羅提木叉の略語。prātimokṣa(プラーティモークサ)。ここでは、十重禁戒のこと。