「教行信証講義/信巻 本」の版間の差分
提供: 本願力
(→第三科 十八願名) |
(→第一項 曇鸞大師の釈文) |
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せぬ聞不具足の称名である。従って名号の義を聞き開いた称名ならば、そのまま信具足の称名である。如実修行は機につき、名義相応は法につく。この二つが両々相俟って、称彼如来名の真意が開説せられるのである。試みに南条神興師の『論草』に依りて之を図示すれば左の如くである。 | せぬ聞不具足の称名である。従って名号の義を聞き開いた称名ならば、そのまま信具足の称名である。如実修行は機につき、名義相応は法につく。この二つが両々相俟って、称彼如来名の真意が開説せられるのである。試みに南条神興師の『論草』に依りて之を図示すれば左の如くである。 | ||
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┏叶名義信心称名━━如実修行━┓ ┏約信具不具<br /> | ┏叶名義信心称名━━如実修行━┓ ┏約信具不具<br /> | ||
以法判機┫ ┣三不三信┫<br /> | 以法判機┫ ┣三不三信┫<br /> | ||
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以機照法┫ ┣知不知二身┫<br /> | 以機照法┫ ┣知不知二身┫<br /> | ||
┗不信称名与名義不叶━名義不相応┛ ┗約聞具不具 | ┗不信称名与名義不叶━名義不相応┛ ┗約聞具不具 | ||
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※挿図の語句の書き下し<br /> | ※挿図の語句の書き下し<br /> | ||
以法判機(法を以て機を判ず)<br /> | 以法判機(法を以て機を判ず)<br /> |
2018年7月2日 (月) 12:03時点における版
教行信証講義 |
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序講 |
総序 |
教巻 |
行巻 |
正信念仏偈 |
序講 信別序 |
信巻 本 |
信巻 三心一心 |
信巻 重釈 |
証巻 |
真仏土巻 |
化身土巻 本 |
化身土巻 末 |
(2-049)
第三篇 真実信(信巻)
第一章 解題
第一節 題号
顕浄土真実信文類三
【講義】浄土真宗の信を顕わす文類。
【余義】行巻に於いて、浄土真宗の真実の行を説き明かし終ったから、当巻に於いて、その真実行を信ずる真実の信を説き示し給うのである。教、行、信、証の四法の次第は、第一巻(一二五頁)に於いて、詳説したことであるが、更に説明の便利上、再び図示すれば
┏能詮━━━━━━━━教┓
┃ ┏所信━━━行┫
┃ ┏因┫ ┣四法
┗所詮┫ ┗能信━━━信┫
┗果━━━━━━証┛
(2-050)
行巻に於いて所信の行体は、心ゆくばかりに説き示され、そして常に行に離れぬ信を顕わされた。初めに「謹んで往相回向を案ずるに、大行あり、大信あり」と標し、進んで私釈(『第一巻』六一八頁)には、「爾れば真実の行信をうれば、心に歓喜おおきが故に、歓喜地と名づく」乃至「何に況んや、十方の群生海、この行信に帰命すれば、摂取して捨てざるが故に、阿弥陀仏と名づく」云々とて、行信を不離一体にせられ、最後に「凡そ誓願に就いて、真実の行信あり.亦方便の行信あり。」と述べて、「正信念仏偈」を添え、飽迄〈あくまで〉も行信の不離を闡明なされた。
筒様〈かよう〉に、行巻に於いては、常に行の中に信を含んでおったけれども、行巻は飽〈あく〉までも行巻である。其の正しく明かす所は浄土真実の大行である。初めに標された「大行あり、大信あり」の大信は、正しく当巻の正所明である。薬の調合は既に了〈おわ〉った。今や正しく病者の呑む場合に臨んでいる。人は何故に薬を呑まねばならぬか。如何にして呑むか。呑んだ結果はどうなるか。当巻は是等の問いに対する完全なる解答〈こたえ〉である。誠に呑む人がなければ、折角調合せられた薬も其の甲斐はない。単に甲斐がないと云うよりは、薬その物の存在も無意義、となるのである。是と同様に薬がなければ、呑むことは出来ぬ。『末灯鈔』に
(2-051)
信の一念、行の一念、ふたつなれども、信を離れたる行もなく、行の一念をはなれたる信の一念もなし。乃至 これ皆弥陀の御ちかいと申すことをこころうべし。行と信とは、御ちかいを申すなり。云々
と行信の不離を述べられてある。然らば此の一行信不離の具体的内容は如何なるものであるか。言い換えれば、この言葉に盛られたる真の宗教的生命は如何なるものであるか。これぞ誠に大いなる問題である。我聖人は、九歳の御出家より、五十二歳の『本典』選述まで、大凡〈おおよそ〉四十有余年の深刻なる宗教経験を、蒐〈あつ〉めたる当巻に於いて、是に関する大教示を発表せられたのである。
第二節 選号
愚禿釈親鸞集
高田本には、釈の字なし。上二五頁をみよ。
(2-052)
第二章 標挙
【大意】この「信巻」上下二巻に亘りて、説き明かすべき信を標し給う。この十字御草本、御真本、高田本ともに別序の次、本文標題の前にあり。
至心信楽之願 正定聚機
【字解】正定聚機 三定聚の一。正しく仏になるべき身に定められる機類。第十八願の他力念仏の機類は、現生に正定聚の位に入る。
【文科】「信巻」一巻に説き明かす信を標挙する一段。
【講義】この巻に明かす信というのは、第十八願至心信楽の願成就のもので、私共はこの如来回向の信心を因として浄土往生の果をうるのである。以下信巻一部に亘りて広説せらるる広大円満の信心は、この本願の外はない。即ちその信心を獲〈え〉た人は、正定聚の位に入った機類である、今はここに本願の法とそれを受ける機を標し給う。真実信はこれより外はないのである。
【余義】一。第十八願名は、下に五名ある中に、特にこの「至心信楽之願」を挙げら
(2-053)
れたのは、どう云う理由であるか。
それは第一に、この願名は、願文に親しい。他の四名は、皆この願の意味を取って名づけたのであるが、この名は、第十八願の特色を闡明〈あらわ〉している願文その儘を取りて名けたものであるから、何人も拒むことは出来ない。
第二には、「至心信楽」の名は、十九、二十の二願と区別するに、最も適当である。第十九願は、「至心発願」、第二十願は「至心回向」である。自力の至心発願を以て定散の二善を修むることを誓うは、第十九願である。他力の至心たる名号を、自力で称えて、如来に回向〈さしむ〉けることを誓うは、第二十願である。然るに第十八願は、如来回向の至心(名号)を回向の信心を以て、信ずること誓わせられた絶対他力教である。故にこの「信楽」の二字は他の「発願」、「回向」に比較して、信心正因の第十八願の特色を遺憾なく発揮している。
殊に「当巻」は、信巻であるから、法然聖人の須〈もち〉いられた「念仏往生之願」という名目よりは、遥かに適応〈ふさ〉わしい。「念仏往生之願」は、行中に信を摂めた名目であるから、特に信心を詳説する「当巻」には不適当である。故にこの名を標せられた。
二。次に願名の下なる割註に「正定聚之機」と標せられてあるが、もしこれを「行巻」
(2-054)
の例に従えば、「浄土真実之行」に対して「浄土真実之信」、「選択本願之行」に対して「選択本願之信」とでもありそうなものであるが、ここには唯「正定聚之機」と標せられた。この意味合を味わわねばならぬ。
「行巻」の割註に関しては、『第一巻』に於いて、委しく説明してあるが、要するに「浄土真実之行」とは、聖道方便の行に対して、浄土真実の正定業であると決定した上、更に進んでこの正定業は我等凡夫の作ったものではなく、如来が因位に於いて、他の行を選びすて、南無阿弥陀仏の大行を選ばれたのであると標せられたのが、「選択本願之行」の意味である。されば二種の割註は、畢竟六字名号一つである。即ち第十八願の機に信ぜらるる所信の対象であることが知られる。
吾々は最初に之を心得た上で、漸次に進まねばならぬ。形式の上から云えば、「行巻」の体裁は、どうしても所信の対象を説いたものである。故に聖人は、信仰の対象を、二方面より懇切に説示せられた。一は成就〈できあが〉った行、その二はその行の根本たる親心のやるせなきことを仰せられた。この所信の真意義を、私共の会得した所が、信仰である。もう一つ云えば、所信の法が、活ける人の上に感応せられた所に、救済が実現せられる。この実感、
(2-055)
色味の外に、行もなければ、信もない。即ち信の対象が、人と一致した時に、「金剛心之行人」とか「至心信楽之行人」(此の下の『六要』)と云われる。ここで行と信とが活きて来るのである。故に「浄土真実之行」「選択本願之行」は、「信巻」にては、至心信楽の行者とならねばならぬ。もしこれを文面の一致を求めて「浄土真実之信」「選択本願之信」とするならば、徒〈いたずら〉に血のない法から法へ回転する丈で、草葉を渡る風のようなものとなって仕舞う。聖人が、「行巻」の「浄土真実之行」を受けて、「正定聚之機」とせられた所に、宗教的妙趣があるのである。そして又、筒様〈かよう〉な所は、真の宗教上の経験ある人に取りては尋常茶飯事であって、特に意を須いることを要せぬ程に顕著にして大いなる事項〈ことがら〉なのである。これを信なくして、単に外から研究することになると、際立って云為することになる。宗教上のことは、或場合には、際立って論ずる時に、却って其の真意に触れておらぬことに驚かねばならぬ。
三。筒様に行信は常に不離である。客観的に本願の御手許で不離であるばかりでなく、本願之行が 私共の上に信受せられた時に於いて不離なのである。この下、存覚師の『六要』の釈は有難い。
(2-056)
註に「正定聚之機」と言うは、是れ至心信楽の行人、即ち摂取不捨の益を蒙るが故に、現に生死と流れを分つ義を明す也。
即ち「浄土真実之行」を信じたる人が、現世に於いて摂取の光益を蒙り、不退の位に定めらるることを申されたのである。存師は機の「字」に着眼せられて、選択本願を深く信ずる人であるから「至心信楽之行人」と云われた。宗教書は、常にこの人〈にん〉の上に味うことを忘れてはならぬ。殊に『当巻』の如きは、「能信」を説かれたものであるから、常にこの「機」を「我機〈わがき〉」として味わわねばならぬことである。『和讃』に
五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり。
『御文』五条目に
一念に弥陀を頼みたてまつる行者には、無上大利の功徳を与えたまうこころを云々
と仰せられた。皆この「正定聚之機」のことである。
然らば「正定聚之機」の内容は如何なるものであるかと云う疑問が起る。
『尊号真像銘文』本丁七に曰く
(2-057)
不退と云うは、仏に必ずなるべきみとさだまる位なり。これすなわち正定聚のくらいにいたるを、むねとすとときたまえるみのりなり。
と仰せられた。即ち必ず仏になるように定められた身が「正定聚之機」である。他力の回向によりて、不退の位に入らせて頂いた機は、裏から云えば罪悪深重の機である。必堕無間の機である。この毒悪難化の機が、大悲の念力に呼び醒まされ、御与えの至心信楽の因によりて、同時に正定聚の果を獲るのである。この人を指して、「正定聚之機」というのである。
四。かように「至心信楽之願」等の標挙は、上『行巻』に対すれば、行信、随所、機法の関係あり、下『化巻』に対すれば、十九、二十の二願に対する機の差別を示すこととなる。即ち第十九願の邪定聚之機に対し、第二十願の不定聚之機に対して、正定聚之機となるのである。
(2-058)
第三章 真実信
第一節 略顛
【大意】これより正しく浄土真実の信を説き示されるのであるが、先ず初めに大略をつまんで示されるのがこの一段である。
第一項の総標には、「行巻」に「往相回向を按ずるに大行あり大信あり」と標して、大行を広く明すに対して、ここには正しく「信巻」の正所明たる大信をあげられたのである。
第二項に入って、第一科には真実信の相を出し、第二科にはその真実信が、第十八願成就であることを示し、第三科にはその十八願の願名を列ね、第四科には大信心の獲難きをのべ、第五科にはその大信の利益を示す。
第一項 総標
謹案往相回向有大信
【読方】つつしんで往相回向を案ずるに、大信あり。
(2-059)
【字解】一。往相回向 住相とは吾等凡夫の浄土へ往生する因果。是れ如来の与え給う所であるから、回向という。即ち如来より賜わりたる浄土往生の因果のこと。
【文科】他力回向の大信を総標する一段。
【講義】曩〈さき〉に「教巻」に於いて、浄土真宗には、往相回向、還相回向の二種の回向あることを説いた。その往相回向の中に教行信証の四法のあることも説いた。その次に「行巻」に於いて、手近く往相回向を頂〈いただ〉いてみると、大行、大信の二つがある訳合〈わけあい〉を示し、その大行のことは、大体「行巻」に於いて申し述べた次第であった。今この「信巻」に於いては正しく、その往相回向の中の大信を親しく味わわさして頂くのである。
第二項 正顕
第一科 大信の相
大信心者則是長生不死之神方忻浄厭穢之妙術選択回向之直心利他深広之信楽金剛不壊之真心易住無人之浄信心光摂護之一心希有最勝之大信世間難信之捷径証大涅槃之真
(2-60)
因極速円融之白道真如一実之信海也
【読方】大信心はすなわちこれ長生不死の神方、忻浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、稀有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信法なり。
【字解】一。長生不死之神方 長いきせしめて死ない不思議な方法。元は仙術に名づく。聖人これを他力信心に転用せらる。他力信心を獲れば無量寿の如来となる。故にこの信心は長生不死の神法である。
二。忻浄厭穢之妙術 浄土を忻い、穢土を厭わしむる不思議な術〈てだて〉。他力信心のこと。凡夫は眼の前の苦楽等に心迷いて、生死の厭うべきこと、浄土の忻うべきことを知らずにいる。然るにこの信徳によりて、自〈おのず〉と忻浄厭穢の妙味を味うことが出来る。これ即ち深い人生に根ざした如来の恩寵感である。
三。直心 正直心。他力信心のこと。如来回向の信心は、邪〈よこしま〉を離れ、偽りがないからである。
四。金剛不壊 金剛は七宝の一。黄金の中より出で、色は紫石英のよう、百錬了れども銷磨せず、方寸の大さでも、よく数十里を照すと称せらる。他力信心の堅固にして壊れざるに譬えるのである。
五。浄信 清浄なる信心。これ『如来会』の第十八願成就文にいづる文字で、浄の一字にて如来清浄の信心、回向の信心たることが知られる。
六。心光照護 如来が大慈悲心をもって護り給うこと。光りは智慧を表はす。悲智円満の胸に摂め取りて
(2-61)
捨て捨わぬこと。
七。大涅槃 梵語マハーパリニルワーナ(Mahaparinirvana)大減度、大円寂静等と訳す。灰身滅智の消極的涅槃にあらず、大真理、大活動の証果をいう。即ち大乗の涅槃、如来の涅槃をいう。
八。白道 白は汚れなきことを表わす。即ち善業を指す。如来の清浄真実なる善根のこと。道は本願の大道。故に白道は他力回向の信心のこと。言葉の拠〈よりどころ〉は善導大師の二河白道にいず。かしこには貪瞋の水火二河の間に五寸の白道ありといいて、吾等の煩悩の中にある信心に譬えてある。
九。真如一実 真如法性のこと。この真如は唯一真実にして、一切諸法の本体である。故に一実という。
【文科】大信心の相〈すがた〉を示したまう一段。
【講義】さて今この大信心のすがたを一口に申してみると、この大信心は、無量寿の生命〈いのち〉を与えて、決して再び死ぬということのないようにして下さる不可思議の方法である。また私共をして浄土を忻い、穢土を厭わしめて下される不思議の術の具って居るものである。阿弥陀如来の選びに択んで御与え下された信心で、邪偽〈よこしま〉は毛筋程も交って居らない正直の心である。他力より与えて下された、深くして底なく、広くしてほとりのない仏智の信心である。堅きこと金剛の如く、いかなることがあっても壊れるということのない真実心〈まことのこころ〉
(2-62)
である。この信心を頂きさえすれば、浄土に生れさして頂くことは恰も掌〈たなごころ〉を反すが如く易々〈やすやす〉としたもので、それ程の勝徳のある信心であるが、却ってそれがために、凡夫は疑いを起こし、仲々容易に頂かれない真実清浄の信心である。阿弥陀如来がその心光を以て摂取し護念して、その御力一っで、この水に画をかくように変り易い凡夫心に得させ下される金剛不壊の一心である。三千年に一度花咲くと曰われて居る優曇華のように、誠に希な、そしてこの上のない勝れた大信心である。一切世間にこれ位信じ難い御法〈みのり〉はない程、余りといえば余りに手取り早い成仏の近路である。大涅槃の証果〈さとり〉を開かして頂く真実の因〈たね〉である。ホンの一念に直ぐさま、功徳という功徳が悉く行者の身に満ち満ちて、命終れば直ぐさまに生死即涅槃、煩悩菩提体無二と、融通無碍に証らして下さる、大道である。理を極め実を尽した唯一無二の大功徳の宝海たる信心である。
【余義】一。行巻の「大行あり、大信あり」を稟〈う〉けて、「大信あり」と標し、直ちに十二句を以て「大信心」を嘆徳せられた。この嘆徳の文を、一見すれば、徒〈いたずら〉に誇大な文字を羅列して、独断的に信徳を述べられたように思われるが、吾々は、この文字の底に、聖人の深い感味を窺い、更に当巻に表われたる聖人の痛切なる告白に聞き、此等の型に嵌〈はま〉ったよう
(2-63)
な文字の中に流るる不尽の宗教的生命を掬〈きく〉することを獲〈う〉るのである。この豊麗〈ゆたか〉なる十二句を味うことによりて、吾々は一面精厳なる思想の形式を知り、更に其中に盛られた活々〈いきいき〉なる霊趣を味わうことが出来る。故に古来の碩学は、深く眼をこの文に注いで、句の配列を論じ、出拠を求め、語義を解釈するに努めている。従って様々に説は頒〈わか〉れているが、要するに、聖人の真意は、往相回向の大信心が、人生に於ける絶対的の価値を有することを力説せらるるにあると思う。吾々は唯この見解に立ちて味おうてゆけば、煩鎖な事柄に煩わさるる憂いはないのである、素〈もと〉より語例や語拠も見ねばならぬことであるが、聖人はそれらの文によりて、寄木細工のように作文せられたのではなくして、胸中の感味が泉の湧くように迸〈ほとばし〉り、常に愛読せられた経釈の文字によって発表せられたのである。この考えなしに、徒〈いたずら〉にこれらの文を解釈し、又は学習することは、全く無意味なことがある。私はこの考えの下に、出来る丈本文に親しき解釈に進みたいと思います。
三。左に大体上、大谷派の円乗院師の説に依りたる科文を掲〈あ〉ぐ。
(2-64)
┏━━━━━━━曇鸞━━━━長生不死之神方
┏論釈┫
┃ ┗━━━━━━━善導━━━━忻浄厭穢之妙術
嘆徳十二句┫
┃ ┏選択廻向之直心
┃ ┏因願╋利他深広之信楽
┃ ┏大経┫ ┗金剛不壊之真心
┃ ┏正依┫ ┗成就━易往無人之浄信
┃ ┃ ┃
┃ ┏浄土教┫ ┃ ┏法━━心光摂護之一心
┗仏経┫ ┃ ┣観経┫
┃ ┃ ┃ ┗機━━希有最勝之大信
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗小経━━━━世間難信之捷径
┃ ┃
┃ ┗異訳如来会━━━━証大涅槃之真因
┃
┃ ┏━━━━華厳経━━━極速円融之白道
┗他経┫
┗━━━━涅槃経━━━真如一実之信海
二。初の「長生不死之神方」の句は、元照律師の『観経疏』序文にある「疑いを除き、障を捨つる神方、長生不死の要術也」の文に依ると見ゆ、更に此の文を生むに至った事実を
(2-065)
求むれば、有名なる曇鸞大師の逸話である。鸞師が、仏道を修むる為に、生命〈いのち〉の短きを憂えて、陶隠居を訪いて、仙経を授かり、長安に帰りて 偶〈たまたま〉菩提流支三蔵に邂〈めぐりあ〉いて此の事を語ると、三蔵は、長生不死の法としで、此の観経を授けられた。鸞師は驚き喜びて、仙経を焼き捨て、観経を色読し、不死の信仰的生命を獲られた、聖人は最初に、これだけの背景と生命を有する一句を挙げられた。
誠に吾等の最初に自覚する所は、この生命の念である。現世の欲楽も、感味も、肉体の生命の上に咲く花に過ぎない。肉体の根が枯るれば、花は自ずと萎〈しぼ〉んでゆく。故に一般人の最初に冀〈こいねがう〉う所は、この肉体の生命である、否、吾等は死の床に於いて、最も痛切に求むる所は、亦この肉体の生命である。されど肉体の生命は、我等が如何に烈〈はげ〉しく求めても、一定の期間に限られている。吾等は更に肉体以外に、他の生命を求めねばならぬ、我が聖人は曇鸞大師とともに、この他力信念の上に不朽の生命を感得せられたのである。信仰に蘇〈い〉きた最初の叫びは、実にこの生命の感じである。吾等は、信念を獲ざる前は、肉体の死せざる中に、早や生命の死を感じた。吾等は地上の何物にも、不朽の生命を感ずることが出来ない。芸術にまれ、哲学にまれ、信仰以外のその他の一切の慾望物は皆この心の玩具にして、
(2-066)
この心其の物の生命とはならなかった。我が聖人は吉水入室の時、この不朽の生命を獲られたのである。信徳を挙ぐるに当って、第一にこの「信は不朽の生命である」と申されたことは、極めて味が深い。
第二に「欣浄厭穢之妙術」は、善導大師の『般舟讃』の「厭えば則ち、娑婆永く隔り、忻えば則ち、浄土常に居す」の文に依ると見ゆ。信は煩悩の炎熱〈ほとぼり〉を払う涼風〈かぜ〉である。吾等は沙漠の旅のような人生の行路に於いて、常にこの大信心の緑蔭〈オアシス〉に蘇生〈よみがえ〉る思いがある。又吾等が、暗黒の世に、光明を認め、濁った胸に、清浄を感ずるは、実にこの忻浄厭穢の妙術たる此の大信心の徳である。清沢先生曰く「鳴呼、他力救済の念は、能く我をして、迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟達安楽の浄土に入らしむるが如し。乃至然るに今や、濁浪滔々の闇黒世裡にあって、夙に清風掃々の光明海界中に遊ぶを得るもの、其の大恩高徳、豈区々たる感謝嘆美の及ぶ所ならんや」とは、この信徳を味わわれた尊い発現〈あらわれ〉であると思う。
第三「選択回向之直心」以下三句は、順次に第十八願の三信に依られしと見ゆ。即ち「直心」は「至心」に当る。吾等は信念の徳によりて、衷心より誠を感ずることである。他人の自己に対する悪を容れ、心の奥底より感謝の念に咽〈むせ〉ぶ。是等の心は決して吾等の心ではな
(2-067)
い。如来が選択して成就せられた回向〈おあたえ〉の至心である。即ち「正直心にして、邪偽雑わるなき」心である。
第四「利他深広の信楽」は、三信の第二の信楽である。「疑蓋、間離〈まじわ〉ることなき」の心である。即ち二心なく如来を信ずる心である。この心も亦吾等の作った心でない。如来回向の心である。海の如く深く、虚空の如く広い、利他大悲の心である。我胸に於いて、小〈ささ〉やかな信念は、かような広大な大心海に、根ざしていることに驚かねばならぬ。
第五「金剛不壊之真心」は第三の欲生心である。善導大師の三心釈の中、この欲生心の下に、「この信、深心すること猶し金剛の如し」と仰せられた。即ち往生決定の信念が、金剛のように堅く、如何なる異学、異見、別解、別行の人々が、経釈を引いて、其の信念を壊〈やぶ〉ろうとしても、決して乱さるることはないと云うのである。かような堅固の心は、どうしてえらるるかと云えば、信心の智慧によりて、生れて来るのである。真実に自己の実相〈ありさま〉を省察すれば、右へも左へも、どちらえも逃げでる道がないことに驚かねばならぬ。自力の手足を働かさず、只このまま救済し給う本願を信ずるばかりとなる。この心の源を求むれば、如来の「助けねばおかぬ」という大悲の欲生心に外ならぬ。
(2-068)
第六。「易往無人之浄信」は、『如来会』の願成就の「一念浄信」の文に依ると見ゆ。吾等の信心が、如来の心であるということは、我聖人の既に実験せらるる所であったが、是を経文の上に求むる時は、『如来会』の「浄信」の文字であると喜ばれたのである。凡夫の汚濁の心から、浄信が生れる筈がない。一念の浄信は仏心でなくてはならぬと、我聖人は、この浄信の文字を、度々引用せられた。かように、如来回向の浄信を獲れば、浄土へ往生することは、いと易いことであるが、自力に拘わりて、信心を頂く人が少いから、往生する人は罕〈まれ〉であるというのである。
『銘文』本、六丁に
易住而無人というは、易往は、ゆきやすしとなり。本願力に乗ずれば、本願の実報土に生まるること疑いなければ、ゆきやすしとなり。無人というは、人なしという。真実信心の人は、ありがたきゆえに、実報土に生る、人罕〈まれ〉なりとなり。(『御文』二条目 第七通参照)
「易往無人」は、如来回向の「浄信」の背景とでも云うべきであろう。吾等は「易往無人」の背景によりて、鮮やかなる「浄信」の相〈すがた〉を見る。
第七、「心光摂護之一心」は、円乗院師は、第六と等しく、三信即一心の成就文としてあ
(2-069)
るが、今は次の文の機に対して、『観経』の法を明かした文とした。即ち『観経』の第九真身観の文「一一の光明、遍く十方世界を照らし、念仏の衆生を、摂取して捨てたまわず、」等の一段を、善導大師は、その著『観念法門』十一丁に取意して、現生護念増上縁であると申された。我聖人は、『銘文』末五丁に、『観念法門』の此文を解して
まことの信心ある人をば、常に照らしたまうとなり。てらすというは、かの仏心光に摂〈おさ〉めとりたまうとなり。仏心光は、すなわち阿弥陀仏の御こころに、摂めとり給うとしるべし。
信心の人は、常に仏の心光に摂護せらるというのである。なお一歩進んで我聖人は、『唯信文意』十三丁に
無碍光仏の心中に、摂め取り給う故に、金剛の信心となるなり。
とも仰せられた。他力の一心帰命ということは、如来の摂取不捨ということである。ここに絶対他力の妙趣が、言外に横溢するを感ずる。
第八。「希有最勝之大信」は『観経』の流通分の「この人はこれ人中の分陀利華なり」に依ると見ゆ。他力の信仰は、最も勝れた希〈まれ〉なる御力である。この信を護る者は、実に人中の
(2-070)
分陀利華である。上の「心光摂護」は法の方より、信徳を嘆じ、今は機に寄せて、信徳を讃〈たた〉えたのである。
第九、「世間難信之捷径」は、『阿弥陀経』の「難信の法」に依ると見ゆ。『和讃』に
十方恒沙の諸仏は、 極難信の法をとき
五濁悪世のためにとて 証誡護念せしめたり。
「極難信之法」であるから、衆生をして疑いを霽〈は〉らさしめんがために、十方諸仏は証誠を立てられた。されどこの反面は、衆生の自力では信ぜられぬ法であることを示している。吾々がいつ迄も自力を固執している間は、諸仏の証誠もその甲斐はないのである。故に吾等は、難信の法であると経験するならば、我自力我慢を省みねばならぬ、『正像末和讃』に
十方無量の諸仏の 証誠護念のみことにて
自力の大菩提心の かなわぬ程は知りぬべし。
この「難信」という背景によりて、「愚鈍ゆき易き捷径(総序)が有難く頂ける。
第一〇「証大涅槃之真因」とは、他力の信心が、大涅槃を証〈さと〉る真因であるというのである。表に示すように古来よりこの句は、『如来会』に依っていると云われている。それは我祖が、
(2-071)
『如来会』の十一願成就の文を、多くの感興を以て味わわれたからである。その文に曰く
阿難よ、彼国の衆生、若し当に生るべき者は、皆悉く無上菩提を究竟し、涅槃処に到らん。何を以ての故に、若邪定聚及び不定聚は、彼の因を建立することを了知すること能わざるが故に。
とある。「彼因」の「彼」とは涅槃をいう。邪定、不定の人々は、涅槃に至る真因を了知することが出来ない。ただ正定聚の人、即ち他力回向の信心を獲た人が、その因を了知したのであるという。即ち涅槃の真因を了知するとは、信心を獲ることである。我聖人は、この異訳の経文の上に、裏より判然と、涅槃の真因を説示しであることを見て、驚喜せられたのである。
第一一。「極速円融之白道」は、信仰の内容を示したものである。信仰とは.絶対清浄の悟りのことでない、吾等凡夫の迷心の中へ、仏心の入り満ちて下さることである。善導大師の「二河喩」に「中間に白道四五寸というは、即ち衆生の貪瞋煩悩の中に、能く清浄願往生心を生ぜしむる也」とある。清浄願往生心は回向の信心である。即ち白道に喩えられたのである。この回向の仏心は、貪欲瞋恚の凡心の中へ、一念聞信の立〈たちどころ〉に、円〈まどか〉に融〈と〉け込
(2-072)
んで下さる、それが信心である。二河喩の所謂、貧瞋二河中の白道がそれである。信仰の内容は、この仏凡一体であると云うのである。『華厳経』に配したのは、同経が円融無碍の法門を談ずる一代経中の大立物であるから、それを取り込んで「極速円融」と仰せられたと見るのである。
第一二。「真如一実之信海」は、進んで信仰の絶対真実を讃美せらる。『一念多念証文』二十一丁
真実功徳ともうすは名号なり、一実真如の妙理、円満せるが故に、大宝極にたとえたり。一実真如ともうすは、無上涅槃なり。
と仰せられた。この文は、名号の徳を申されたのであるが、一念に弥陀を頼み奉る所に、この名号の無上大利の功徳は与えられる。即ち名号の功徳は、その儘信心の徳となる。否名号が人に顕われて信心となるのであるから、信心の体は名号である。故に「真如一実之信海」と仰せられたのである。これを『涅槃経』に配したのは、上の句を『華厳経』に配したように『涅槃経』をここへ取り込まれたものと見るのである。
(2-073)
第二科 大信の出拠
斯心即是出於念仏往生之願
【読方】この心すなわちこれ念仏往生の願よりいでたり。
【字解】一。念仏往生之願 第十八願のこと。この願を支那の註釈家は十念往生の願と名づくるに反して、善導大師は上尽一形下至十声一声の見解に立ちて、唯〈ただ〉念仏一つで助けるという本願であるというので念仏往生之願と名づけられた。即ち十念という文字に拘泥せず、却って十念は切りつめて云えば一念であると解し、総じて念仏往生と断ぜられたことは、善導大師の功績である。故に法然聖人はこれを承けて『選択集』に念仏往生之願と標し、我聖人またこれを相承せられたのである。即ち念仏往生之願は、第十九、諸行往生願に対するのである。善導、法然二祖は、この願をもって四十八願中の王本願とし、大悲の至極を表わす願とせられたのである。
【文科】先に示した大信の源泉を説く一段。
【講義】処で、このような広大無碍の大信心は、どこから生れたのであろうか。阿弥陀如来が、因位の時、御誓いなされた第十八願から生れたのである。
【余義】この下に第十八願の内容を論ずべきであるが、それは、次の余義第十八願名論
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を見ていただきたい。
第三科 十八願名
斯大願名選択本願 亦名本願三心之願 復名至心信楽之願 亦可名往相信心之願也
【読方】この大願を選択本願となづく。また本願三心の願となづく。また至心信楽の願となづく。また往相信心の願となづくべきなり。
【文科】信心 成就の願たる第十八願の名を列ね給う一段。
【講義】この大願は、弥陀如来が、私共のような造無一善、具諸不善の凡夫をただのただで助けたい救いたいという大悲の覚召〈おぼしめ〉しから、選びに択んで、三信十念を誓い、信ずる一つ称うる一つで、この泥凡夫を光り輝く仏にして下されるのである。それであるから、この第十八願を「選択本願」、「本願三心の願」、「至心信楽の願」、と名づける。またこの願に誓わせられた三信に依って、凡夫が浄土へ往生することが出来るのであるから、「往相信心の願」とも名づけるのである。
(2-075)
【余義】一。第十八願名に就いて、この『信巻』には、五名を挙げ、『略本』には、この中、選択本願、本願三心之願を除いて、他の三名を挙げてある。初めに願名を解釈し、次に排列の次第を調べて見よう。
(一)念仏往生之願 この名は、元祖法然聖人より相承せられたるものであるが、源は善導大師に出ている。『礼讃』前序に
但、信心をして求念せしむれば、上は一形を尽し、下、十声一声等に至るまで、仏願力を以て、往生を得易し。
元祖法然聖人は、この文を承けて、『選択集』本願章の終りに
諸師の釈には、別して十念往生の願と云う。善導独り総じて、念仏往生の願と云えり、諸師の別して十念往生の願と云えるは、その意〈こころ〉即ち周からざる也。然る所以は、上一形を捨て、下一念を捨つるが故なり。善導の総じて、念仏往生の願と言えるは、その意〈こころ〉即ち周し、然る所以は、上一形を取り、下一念を取るが故なり。
かくの如き理由によりて、元祖は善導大師の真意を探りて、念仏往生之願という名目を第十八願に冠するに至った。これは、『第一巻』(二八九頁)に詳説せる如く、元祖は一願該摂
(2-76)
の法門によりて第十八願の一願を以て、王本願として、生因の願となし、他の四十七願は欣慕の願とせられたのである。弥陀如来因位の昔、法蔵比丘たりし時、五劫の選択摂取せられた所は、実にこの念仏一行であった。故に念仏往生之願と云うのである。即ち第十八願には、三信十念を誓うてある。三信は信心にして、十念は口称の念仏である。善導元祖二師は、当時自力聖道門の教える諸善万行に対して、念仏一行の旗職〈はたじるし〉を押し立てられたことであるから、この第十八願中の十念の念仏を表面に力説して、三信は、その裏面に置かれた。『和語灯録』二十一丁には、三信を略せる理由をのべて、
衆生称念必得往生と知りぬれば、自然に三心を具足する故に、この理を顕わさんが為めに略し給える也。
と仰せられたのは、この間の消息をよく示している。
然るに親鸞聖人は、本願の真意を探り、善導元祖二師の幽意を発揮せんが為めに、五願分相の法門を立て、口称念仏を、第十七願の誓いとなし、曇鸞大師の『論註』下の讃嘆門によりて、如実不如実の義を承けて、善導元祖の勧め給う口称の念仏は、決して無信単行の念仏ではない。信心を得て称うる他力の大行であると決せられた。即ち第十七願の大行
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を所信となし、その所信が信ずる人の上に顕わるる時に、往生の業事成弁し、念仏往生の真面目が顕われると云うのである。されど、我聖人が、分相門の建立とともに、善導、元祖の該摂門をも鼓吹せられたことは、『末燈鈔』二十七丁によりて明かである。
弥陀の本願と申すは、名号をとなえんものをば、極楽へむかえんと、誓わせたまいたるを深く信じて、となうるが、めでたきことにて侯也。
即ち第十八願を、「称うるものを助ける」の本願と仰せられた、のである。是が念仏往生之願と名けらるる所である。
かくの如く、我聖人が、第一に念仏往生之願と標せられたことによりて、吾等は二つの意味を知ることが出来ると思う。第一は、上に述べたような、謙虚の念を以て、善導、法然二祖の系統的相承を示されたことである。第二は内容的に行信不離を示さんが為めであると思う。即ち信巻の正所明たる大信心が、念仏往生之願より出づると云うことは、称うる者を助くるの仰せを、信ずることが、大信心であるという意味である。即ち明かに行信不離を力説せられた御思召を観得することが出来るのである。蓮如上人は、『御一代聞書』六十九丁に「聖人の御一流には、弥陀をたのむが念仏なりと」。道破せられて、信と念仏の同
(2-078)
一味を説かれた。ここに味うべくして、云うべからざる宗教的妙趣があるのである。法然聖人が、第十八願によりて、念仏一行を押し立てられた裏には、その念仏を信ずる信心の他力回向たることを含み、我聖人が真実の五願を別開して、第十七願を所信とし、第十八願を能信とせられたことは、単なる説明の便宜上須いられたる形式ではなくして、上の法然聖人の念仏一行の真意を打ち出して、信と念仏の具体的同一を説き、真の宗教的実験味を披瀝せられたのである。吾等は、常にこのふくよかな宗教的実験味を忘れず、いかに理論的に、法門の水際の立つ所でも、単なる理智に訴えて、解決し去るようなことを致してはならぬと思う。行信交際の詳細は下一八三頁、並に三六六頁を看て頂きたい。
(二)選択本願 この願名は、広くは四十八願に通ずるけれども、この処〈ところ〉には第十八願を指す。『選択集』本願章には「選択とは、便ちこれ取捨の義也」と云いて、法蔵菩薩の因位の選択によりて四十八願の成立せることを述べ、その第十八願の下には
即ち今、前の布施持戒乃至孝養孝父母等の諸行を選び捨てて、専称仏号を選び取る、故に選択と云う也。
と云い、勝劣、難易の二義を以て、念仏一行の優秀を説き、更に独留念仏章には
(2-079)
凡そ四十八願、皆本願なりと雖も、殊に念仏を以て往生の規となす。
とて、念仏往生之願(第十八願)を以て、四十八願中の王本願と定められた。我聖人はこれらの真意を取りて、特に第十八願に、選択本願の名を冠せられた。
もと聖人にありては、選択本願の名は、第十八願のみにあらず、第十七、十一、二十二の三願にも名づけることであるが、それは、四十八願の各願の特色を発揮する分相門の場合であって、今は四十八願を、第十八の一顧に総括する該摂門の分斉であるから自ずと特殊の意味をもっているのである。なお適切に云えば、次上にあげた念仏往生之願を、この願名にて説明せんとせられたのである。即ち第十八願の「乃至十念」の念仏は、実に弥陀の因位に於いて、選択摂取せられた大行であることを示さんが為めに、その念仏往生之願は、即ち選択本願であると、折り返して仰せられたことである。丁寧な説示とは云え、云わば重複であるから、簡潔を主とする『略本』に略された。
(三)本願三心之願 以下三名は、我聖人の特別に用いられた願名である。それ故に『行巻』の例に準じて、「亦名く可し」という言葉使いをせられた。聖人の卑謙の念は、時々雲問に現わるる龍身のように、吾等の[キョウ02]傲の眼を射ることである。
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この願名の中、「三心」の言葉は、自力他力に通ずる。即ち『観経和讃』の「定散諸機各別の、自力の三心」と云うはそれである。今はその自力の三心を簡び捨てん為めに、「本願」の二字を添えられた。本願とは、弥陀の本意たる第十八願を云う。故に本願三心とは第十九、第二十の方便の三心に対して、第十八願の真実の三心という意味である。その三心を誓いたる第十八願ということを西派の道隠師はその著『略讃』に、この願名は下の三一問答を生むの本〈もと〉であると云っておられる。旨趣〈おもむき〉の深い言葉であると思う。本願の三心が、行者の上には一心帰命となる。この信仰上に味わい深い問答が下の三一問答である。あの波瀾万丈たる一段と、この本願三心之願という名目が、この絃〈いと〉とあの絃〈いと〉と共鳴するように、互いに相呼応していると云う所に、我聖人の深意も汲み取られ、不言の中に脈絡の通うている当巻の探みに接することが出来る
(四)至心信楽之願 この願名の解釈に就いて二説ある。一には至心信楽とは、真実信心の異名であると云い、二には、至心信楽之願は、具には至心信楽欲生之願であるが、その欲生は信楽に摂〈おさ〉めて、文字を略したと云う。しかし大体に於いて、意味の上には、一致している説である。しかし大握〈おおづか〉みに真実信心とするよりも、願文によりて、特に「至心信楽」と仰
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せられたことであるからも後の説が適切であると思われる。欲生は第十九、第二十の二願の三心にも通じているから、第十八願の特色としては、至心信楽の文字である。『三経往生文類』の初めに、
また真実信心あり。すなわち念仏往生の悲願にあらわれたり。信楽の悲願は、云々
と標して、第十八願文を出されてある。我聖人は、第十八願の主眼として、この信楽の二字を選ばれた。故に欲生を略して、至心信楽之願と命名せられたのである。
それならば、「至心」も「欲生」と等しく、十九二十の三心に通じているから、それを略して、簡明に信楽之願と標せられないのであるかと云えば、これにも種々〈いろいろ〉の説がある。第一には、三心の体は一浄信である。即ち信楽の一をあげても欠くる所はないが、その上に二をあげ、三をあげてもよい。今は至心信楽の二つ丈を挙げたという。第二には、至心信楽は、願力回向の体であるから、その体によりて、願名とせられたという。第三には願名の排列上から立論している。我聖人の命名せられた三名の中、第一の「本願三心之願」は、三信全体を掲げ、第二の「至心信楽之願」は、初めの二信をあげ、第三の「往相信心之願」は、三心即一の信心一つをあげたのであるという。かくの如く、三、二、一という排列の順序上、欲生
(2-082)
を信楽に摂して、「至心信楽之願」と標せられたと云うのである。
どの説も相応の理由があるから、寧ろこの三説を合糅にしたらよいと思われる。即ち第十八願の主眼は信楽であるが、さればとて、その主眼丈を挙げねばならぬ理由は毫〈すこし〉もない。今の場合の如きは、その主眼に至心の文字を添うれば、益々豊富〈ふくゆか〉に第十八願の面目は表われるのである。「如来の至心によりて成ぜられた信楽、」「如来の至心を体とする信楽」又は簡単に「真実の信楽」という意味となりて、信楽の内容が、ふくゆかに表現〈あらわ〉れる。この種の事柄は、乾燥な思弁のみに奔〈はし〉らず、宗教的情操の上から見れば、円〈まどか〉に聖人の真意を了解することが出来ると思う。
(五)往相信心之願 三信即一心の上に就いて、この願名を立てられた。往相信心は、具には往相回向之信心と云うべきである。我聖人は、往相回向の願として、三願を挙げられた。即ち第十一願は真実証、第十七願は真実行、第十八願は真実信である。真実証の第十一願は『略本』に往相証果之願と云い、真実行の第十七願は同書に「往相正業之願」と名づけた。これと同様に、真実信の第十八願は「往相信心之願」と仰せられたのである。
二。願名の排列に就いては、初めに善導元祖二師を承けて念仏往生之願と標し、他流
(2-083)
の諸師も共に許す一般的の名をあげ、次に元祖によりで、その願名の内容を説明する選択本願を出だされた。かように寛より狭に進み、本願三心之願以下は、己証の願名を出し、その中にも、三心、二心、一心と、寛より狭に及び、最後の「往相信心之願」に於いて、恰も錐の先のように、尤も鋭く第十八願そのものを、顕彰せられたのである。
第四科 大信の難得
然常没凡愚流転群生無上妙果不難成真実信楽実難獲何以故乃由如来加威力故博因大悲広慧力故
【読方】しかるに常没の凡愚、流転の群生無上妙果の成じがたきにはあらず。真実の信楽、まことにうることかたし。何をもての故に、乃〈いま〉し由来の加威力によるがゆえに、ひろく大悲広恵の力によるがゆえに。
一。凡愚 愚の凡夫ということ。
二。加威力 吾等凡夫に加被し給う如来の威神力。本願力に対して、これを果力と称す。正しく本願力が実現〈あらわ〉れて、救済の力となった所である。果上の大威神力のこと。
三。大悲広慧力 『如来会』の文による。広大なる智慧力のこと。ここには本願力の替名〈かえな〉である。上の果上の威神力に対して、これは同位の本願力である。
(2-084)
【文科】大信心の獲難〈えがた〉い由〈わけがら〉を示し給う一段。
【講義】それであるから、曠劫以来、生死の海に沈み切りて出離の縁のない凡夫や、三界六道の暗〈やみ〉を輪回して解脱の光をみることの出来ない衆生にとっては、この上ない仏果の御証〈おさとり〉を開くことが難かしいのではなくて、真実の他力回向の信心が甚だ得難いのである。他力回向の信心さえ頂けば、自然に仏果の証〈さとり〉は開かして頂くのである。それなら、何故に他力回向の信心が左程に得難いかというと、この信心は凡夫手造りの信心ではない、全く弥陀如来が衆生の上に加え給う威神力と、大悲の広大な智慧の御力とに依って得させて下されるのである。それにも拘らず、自分の小さな計〈はからい〉を募って他力の回向に依らず、仏智の不思議を疑うから他力の信心が得られないのである。
【余義】一。この一段は文字余りに簡勁であって、解し難い。然るに『略本』には、これを委しく説示されてある。今試みに、その全文を挙ぐ、
然るに、当地の凡夫、底下の群生、浄信獲難く、極果証し難し。何を以ての故に、往相の回向に由らざるが故に、疑網に纏縛せらるるに由るが故に、乃し、如来の加威力に由るが故に、博く大悲広慧の力に由るが故に、清浄真実の信心を獲れば、この心、顛倒せ
(2-085)
ず、この心、虚偽ならず、信〈まこと〉に知りぬ、無上の妙果成じ難きにはあらず、真実の浄信、実〈まこと〉に得ること難し云々
かように、信を獲ぬ理由として、如来回向に依らぬことと、自力疑心に拘わることの二因をあげ、又獲信の理由としては、この下と等しく、如来の加威力と、大悲広慧力の二因をあげ、次に、妙果は成じ難いことはない、信心が獲難いのであると結んである。すらすらと滞りなく会得せられる。
二。然るにこの下には、「真実の信楽は獲難い」と標し、その理由として、如来の加威力に由ると、大悲広慧力に依るの二因を、突如としてあげている。甚だその意を取り難い。
されど、ここは文辞が、非常に強くなっていることを頭におけば容易〈たやす〉く会得せられる。何故かと云えば「信心の獲難いのは、如来の威神力によらねばならぬから」と云う意味に過ぎないからである。即ち「如来の加威力に由る」と「大悲広慧力に因る」の二句を、獲信難の理由と見るのである。何故に他力の信心が獲難いのであるかと云えば、如来の威神力より発起せしめ給う所であるからである。即ち、自身の努力によりて獲らるる信心ならば獲難〈えがた〉いとは云われぬ。吾等は自力の三信ならば、容易に発すことが出来るからである。然
(2-086)
るに自力の計いを加えず、他力回向の信心を頂くということは、実に難中の難である。我聖人は、御自身も親しく、この難信の味を経験せられ、又御布教の際、多くの人々の難信の有様を御覧になりて、そん理由を、ここには 簡勁に「如来の御力によるが為め」と仰せられたのである。この言葉の裏を返せば、「自力疑心が捨て兼ねる為め、如来の御力に由り兼ねる為め」となる。同じことであるが『略本』は、親しく機情に立ち入りて母の如く懇篤に示し給い、この一段は、父のように、烈〈はげ〉しく凡情を払うて、他力信仰の特性を、説示〈ときしめ〉せられたのである。
因〈ちなみ〉に、これと同じ行き方の文は、『化巻』(『御自釈』五十丁)に「大信心海は、甚だ以て入り難し。仏力より発起するが故に」と云う文である。是によりて、一層明了となるように思われる。
二。更に、この一段の造語は、『心地観経』報恩品に「菩提の妙果、成し難からず、真実の知識、実に遇い難し」に依られたと云う説がある。暗合か、有意かは、判然せないけれども文の体裁としては面白い一致である。大理想は実現するに難くはないが、それを実現するように導く師に遇い難い。と云うことは、徒〈いたずら〉に終局の結果或を握〈つか〉もうとしてはならぬ。唯その結果を生む所の原因を獲ることを心掛けよ、と云う意味である。所が、吾
(2-087)
吾の実状はどうかと云えば、常に功果を獲ることが急であるから、この凡情の急所を衝いて「無上の妙果、成じ難きにあらず」それは、信を獲れば、必然的に結ぶ果実であるが、その信心が獲難いのであると、烈しく我々の自覚を促〈うなが〉し給う所である。かように頂けば、「無上の妙果成じ難きにあらず」の句も、「如来の加威力に由るが故に」等の二句も、共に「真実の信楽、実に獲ること難し」の二句を中心として、その意義を深からしめておることが知られて来る。
四。最後に、加威力等の二力に就いて、初めの「如来加威力」は釈迦如来の仏力、次の「大悲広慧力」は弥陀の仏力とし、その証拠の文は『略本』の「二尊の大悲に縁りて、一心の仏因を獲たり」であると云う説があるが、これは余りに穿ち過ぎた説と思う。今は二力共に弥陀の仏力であると云う説が正しいと思う。そして「如来加威力」は如来の光明の威神力、活動力で、次の「大悲広慧力」は如来の慈悲と智慧との御力を指すのである。古来、この二力を、光明と名号に配し、果上力と因願力等に配しているが、吾等は、分相的の説明を会得するとともに、亦これを元に戻して一つの不可思議なる仏力の両面であることを忘れてはならぬ。即ち如来の光明の活動力は、そのま、大悲広慧の力である。二にして一、一
(2-088)
にして二、この宗教的妙趣の処に円融、相即、不一等の言葉が、その役目をなすのである。
第五科 大信の利益
遇獲浄信者是心不顛倒是心不虚偽是以極悪深重衆生得大慶喜心獲諸聖尊重愛也
【読方】たまたま浄信をえば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもて極悪深重の衆生、大慶喜心をうれば、もろもろの聖尊の章愛をうるなり。
【字解】一。浄信、清浄なる信心、他力回向の信心のこと。
二。大慶喜心 信心の異名。慶喜金剛の信心のこと。信心を獲ると同時に、慶喜胸に溢る。その喜びの方面より信心を大慶喜心という。
三。聖尊 諸仏如来のこと。
【文科】信徳の広大なることを示し給う一段。
【講義】それであるから、億劫にも得難いこの信心を得れば、凡夫の心は終日終夜、妄想顛倒に襲われ通しに襲われ、露微塵の真実ということなく、虚偽〈いつわり〉ずくめではあるが、如来を信ずる信心のみは、顛倒を離れ、虚偽を離れ、いつまで経つても、真実のすがた美し、
(2-089)
く、退転せず、継続して下されるのである。こういう意味合いであるから、十悪五逆の大罪を負うた衆生が、この慶喜金剛の信心を得奉ると、諸仏如来は深く御喜び下されて、この衆生を尊び重んじ寵愛して下さるのである。
第二節 経文証
【大意】上に於いて大信の相、大信の出拠、大信成就の第十八願等を明し了ったから、これよりは進んで経釈の文を引いて、真実信を証明し、讃嘆せらるるのである。
この下は経文を引かるる所で、第一項因願文、第二項成就文、第三項獲信利益文である。
第一項 因願文
第一科 『大無量寿経』の文
至心信楽本願文大経言説我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法 已上
【読方】至心信楽の本願の文、大経にのたまわく。設いわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心を至し、信楽
(2-090)
して、我国に生れんと欲うて、乃至十念せん、もし生れずば正覚をとらじ。ただし五逆と誹謗正法とをばのぞくと。已上
【字解】一。十念 十声のこと。
二。五逆 殺父、殺母、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧の五の逆罪。委くは下『信巻』末の終りをみよ。
【文科】『大無量寿経』の第十八願文をあげらる。 【講義】至心信楽の本願、即ち『大経』の第十八願に曰く。若し我れ、仏となるであろうときに、十方世界の衆生、我が与うるところの至心信楽欲生の他力の三信を得て、念仏を称えるものが、我が真実の浄土へ往生できぬことがあるならば、正覚はとるまい。唯五逆罪のものと、正法を謗るものとは、この限りではない。
第二科 『無量寿如来会』の文
無量寿如来会言若我証得無上覚時余仏刹中諸有情類聞我名已所有善根心心回向願生我国乃至十念若不生者不取菩提唯除造無間悪業誹謗正法及詩聖人 已上
【読方】無量寿如来会にのたまわく、若しわれ無上覚を証得せんとき、余の仏刹のなかのもろもろの有情類
(2-091)
わが名をきき已りて、所有の善根、心々回向せしむ。我が国に生ぜんと願じて、乃至十念せん。もし生ぜずば菩提をとらじ。ただし無間悪業をつくり、正法およいもろもろの聖人を誹謗せんをばのぞく 已上
【字解】一。無上覚 無上菩提、この上ない証〈さとり〉。如来〈ほとけ〉の正覚〈さとり〉のこと。
二。仏刹 仏国。諸仏の国土。
三。無間悪業 無間地獄へ堕在すべき悪業。即ち五逆罪のこと。因から云えば、五逆罪。果から云えば、五無間業である。又一説には、五逆罪を作る者は、他処へ赴かず、間隔なく、必ず地獄の苦みを受ければならぬ故に、無間業と名づくとも云う。
【文科】異訳の第十八願をあげて正依の文を助顕し給う一段。
【講義】『無量寿如来会』に曰く。もし我(法処比丘即ち法蔵比丘)この上ない仏の証果〈さとり〉を開いた時に、自余の仏国のありとあらゆる衆生が、我が南無阿弥陀仏の御名の謂〈いわれ〉をきき開いて信ずれば、われはその一念の時に、あらゆる善根功徳を悉く行者に回向して仕舞うであろう。その衆生が我が国に生れたいと願うて、十声〈とこえ〉の念仏を称えるであろうに、もし我が浄土に生るることが出来ないようなことがあれば、我は菩提のさとりを開かぬであろう。ただ無間地獄に堕つる五逆罪を造るものと、正法と諸仏菩薩聖者を謗謗するものはこの限りではない。
(2-092)
第二項 成就文
第一科 『大無量寿経』の文
本願成就文経言諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国即得往生住不退転唯除五逆誹謗正法 已上
【読方】本願成就の文、経にいわく、あらゆる衆生、その名号をききて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまえり。彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生をえ、不退転に住す、ただし五逆と誹謗正法とをばのぞく。已上
【文科】『大経』成就文をあげて本願の三心が機受の一心であることを示す一段。
【講義】『大無量寿経』下巻の初めに出て居る第十八願成就の文に曰く。十方世界のありとあらゆる衆生が、この南無阿弥陀仏の名号の謂〈いわ〉れをきいて心が開け、歓喜を生じ、一念の信心をおこすならば、如来は至誠〈まこと〉の心を以て、一切の功徳善根を悉くその衆生に回向して下されるのみである。この衆生が彼の如来の安楽浄土へ往生したいと願うならば、直ちに往生することが出来るので、この娑婆に居ながら、二度と退転するようなことのない正
(2-093)
定聚の位に定まるのである。唯、五逆罪を作るものと、正法を誹謗するものとは、この中から除かれるのである。
【余義】一。第一項、第二項に亘りて、『大経』第十八願の因願と成就の文が引用されてある。そして『如来会』の文は、正依の『大無量寿経』の文を助顕せんが為めである。即ち因願の至心、信楽、欲生の三信は、行者の機に彰わるる時は、一信心であることを示さんが為に成就の文を引かれたのである。
是等の因願の文と、成就の文の委しいことは下(虻二五四・四〇〇頁以下)に述べることであるが、ここには、大体に於いて、因願の文と成就の文の配当を知る必要がある。
二。第一は、三信分相の義。
┏至心━━━聞其名号━━━━┓
因願三信╋信楽━━━信心歓喜乃至一念╋成就之文
┗欲生━━━至心回向━━━━┛
因願の「至心」が「聞其名号」に当ることは、下の至心釈に
「至心は則ち是れ、至徳の尊号を其の体となす也」とあり、如来の清浄な真心は、名号の中
(2-094)
に円〈まどか〉に現われて、親しく私共の心に臨んで下さる。
又信楽が信心歓喜に当ることは下の信楽釈に
如来、苦悩の群生海を悲憐し、無碍広大の浄信を以て、諸有海に回施し給う。是を利他真実の信心と名づく。
とあり。即ち私共が、如来回向の浄信を頂いた所が、「信心歓喜」であることは明かである。
最後に、「欲生」が「至心回向」に当たることは、下の欲生釈に
利他真実の欲生心を以て、諸有海に回施し給う。欲生は、即ち是れ回向心なり。
と判然と仰せられてある。即ち「我国へ生れんと願ぜよ」と云う如来の欲生心は、あらゆる功徳を施し給う至心回向の御心である。
第二は、三信即一の義。この時は、本願の三信を機に受ける時は、唯一信楽であると云う義である。本願三信――機受一信楽――信心歓喜、即ち「聞其名号」の「聞」は「信心」であって、至心の体たる名号の謂〈いわ〉れを聞き開いた了解である。そして歓喜は、信心の泉より迸〈ほとばし〉る悦予の念、「一念」は信心開発の時刻の極促せることを彰わし、至心回向は、今胸中に開発せられた信念は、全く如来の回向し給う所であることを示す。「願生彼国」は願往生
(2-095)
心、「即得往生住不退転」は往生決定することにして、共に信一念のところに具わる。かようにして、願成就の文は、全く因願の三信が、行者の機に彰われて、一信心となることを説示した文となるのである。故に下の信楽釈の下に三信は唯〈ただ〉一信心であることを彰わさんが為に、成就文を引いて、「本願信心願成就文」と命名し、態〈わざ〉と信楽と云わず、そして其の引文も、「乃至一念」丈に止〈とど〉めて、「至心回向」以下の文を引かず、簡明に三即一の義を引証せられてある。
第三、承上起下の義。此の説は、覚如上人の『願々鈔』六丁に出てある。
至心回向の四字は、成上起下とならうなり。成上と云うは、かみの信心歓喜を引き起すこと、法蔵因中の至心より生ず。起下というは、しもの住不退転の前途を達すること、また至心に回向したまえる如来大悲の無縁の慈悲より成ぜらるるものなり。
即ち此の義は、「ならうところなり」の語勢によりて、親鸞聖人より、如信上人に伝わり、次いで覚師に伝えられたる口伝の説であることが知られる。これを図示すれば
┏信楽━━━信心歓喜乃至一念
┣至心━━━至心回向
┗欲生━━━願生彼国等
(2-096)
此の説の根底は、如来の大悲回向を示すにある。即ち信心も往生も、皆如来の与え給う所に外ならぬ。夫を打ち出したのが此の「至心回向」の四字である。信心歓喜の回向であることを示すは、上を成ずるのである。「願生彼国」等の願往生心や、往生の定まることも回向であると示すは、下を起すのである。至心回向が中間にありて、信心と往生を.私共に与えるという説である。『一念多念証文』の初めに
至心回向というは、至心は真実ということばなり。真実は、阿弥陀如来の御こころなり。回向は、本願の名号をもて、十方の衆生に、あたえたまう御のりなり。
とあるは、此の説の根底をなしているように思われる。汝の借金は私が引受けて返してやると、親が其の子に云うたとする。此の場合、其の子が親の慈悲を喜んで、云わるる通りになったとすれば、親が子に、「大丈夫だ、私の云うことを信ずるがよい」と云うことも、「借金を返して、身の立つようにしてやる」と云うことも畢竟「親たる自身を信用させたい」「身の立つようにしてやりたい」という親の真実心の外はないと云うのである。この説を機法に分〈わか〉てば
(2-097)
┏ 信楽 ┓
法━━至心┫ ┃ 機
┗ 欲生 ┛
三。三義ともに理義明かな説である。第一の三信分相の義は、教理的に信心の生起と因果を明し、第二の三信即一の義は、実践的に、信の一念の絶対性を示し、第三の承上起下の議は、深重の大悲によりて、信心の起ることを彰わしている。
第二科 『無量寿如来会』の文
無量寿如来会言他方仏国所有有情聞無量寿如来名号能発一念浄信歓喜愛楽所有善根回向願生無量寿国者随願皆生得不退転乃至無上正等菩提除五無間謗謗正法及謗聖者 已上
【読方】無量寿如来会にのたまわく。他方の仏国の所有の有情、無韋寿如来の名号をききて、よく一念の浄信をおこして歓喜せしめ、所有の善根、回向したまえるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願にしたがいてみなうまれ、不退転乃至無上正等菩提をえん、五無間、正法を誹謗し、および聖者を
(2-098)
謗らんをげのぞく。已上
【字解】一。不退転 梵語アワイワルチカ(Avaivartika)の訳。原音は阿毘跋致、阿惟越地と音訳せられてある。仏道修行の過程において、既に獲たる功徳を決して退失することなきをいう。正定聚のこと。
二。無上正等覚 阿耨多羅三藐三菩提の訳。仏の証〈さと〉りのこと。
三。五無間 五無間業。五逆罪のこと。一々皆無間地獄へ堕在すべき業因なる故にいう。
四。正法 正しい教法。
五。聖者 仏と僧を指す。
【字解】異訳の第十八願成就の文をあげて正依の成就の文を助顕したまう一段。
【講義】『無量寿如来会』の第十八願成就の文に曰く。他方の仏国の一切〈すべて〉の衆生が、無量寿如来の御名、南無阿弥陀仏の御謂〈いわ〉れをききひらいて、一念〈ひとおもい〉の清浄真実の信心をおこし、如来の方から回向して下されたあらゆる善根功徳を歓喜〈よろこ〉び、愛好〈いつくし〉しみ、無量寿仏の国に生まれたいと願うならば、すべてみなその願〈ねがい〉の通りに直ちに往生の利益を得ることに定まるであろう。その衆生は娑婆にいながら不退転の位に入り、命終れば直ぐ様、この上ない仏の果証〈さとり〉を開かして貰うであろう。ただし五無間業を作るものと、正法と仏菩薩聖者を誹謗するものは、この中から除かれるのである。
(2-099)
【余義】一。このよ『如来会』の成就文中、我聖人の尤も重要視せられた文字は、「一念浄信」である。正依の大経の成就の文には、只「信心歓喜乃至一念」とある。是丈では、因願の「乃至十念」と等しく称名の一念と見られぬことはない。聖人は、成就の文の上に、信の一念の証文を見たいと思われたのである。然るに異訳の本経に「一念浄信」の文を見て、非常に喜ばれたのである。
正依の成就文には、一念の文字は、信心の下にあるが、ここには「一念の浄信」とあるから、信の一念であることは明白である。聖人が御自督の上に、信の一念の絶対性を感得せられたことが、今や明かに聖教の上に、而も異訳の根本経の上に証明せらるるに至ったのである。
即ち正依には「信心」とある所を、ここには「浄信」とある。是れ「清浄の信心」の意味である。この浄信は凡夫の迷妄汚濁の心から出づる筈はない。如来の清浄心であることは明かである。即ち「浄信」の「浄」の一字の上に、他力回向の意義を認めることが出来るのである。
二。次に「歓喜愛楽」の四字に就いて、高田本、坂東本には、「歓喜せしめ」として、上の一念浄信に属し、「所有の善根回向したまえるを愛楽して」と、愛楽を下につけてある。然る
(2-100)
に又『三経往生文類』には
能く一念の浄信を発して、歓喜愛楽せん。所有〈あらゆる〉善根回向せしめたまえり。
と点して、歓喜愛楽を上に属されてある。
大体の上から云えば、此の相違は、文面の相違に過ぎないと思われるが、併し箇様な際立ちて異っているに就いて、聖人の御真意を知らねばならぬ。此の点を明かにするには、此の文の意を会得することが近道である。即ち歓喜愛楽の念は、一念の浄信と同時にあるのである。信心と歓喜は時間的に別々に起るものでない。疑いの霽〈は〉れた信そのもののに、歓喜が孕まれてあり、真の歓喜愛楽には、必ず信があるのである。それでこの一段の文も、『三経往生文類』のように、「歓喜愛楽」を、一念の浄信に属する方が至当である。従ってこの時は、下の「所有〈あらゆる〉善根回向したまえり」は、其の一念の浄信とともに、名号の大善大功徳が回向せられる、と云うことになる。此の場合には、三信の中、信楽を主とした時である。故に下の信楽釈(三一五頁)には『三経往生文類』と同じく「能く一念の浄信を発して、歓喜(愛楽)せん」と点せられてある。
然るに、如来の欲生心、即ち至心回向の方面を主とする際には、「所有の善根回向したま
(2-101)
えるを歓喜愛楽して」となるのてある。即ち一念の浄信の所に、如来は大善大功徳を回施し給う、其の回向の功徳を歓喜愛楽するということになる。故に下の欲生釈の下の此の文点は、歓喜愛楽を下に属してある。是にて聖人の御思召が会得せらることである。
三。上述によりて、高田本、坂東本に、歓喜を上に属し、愛楽を下に属せられたことは此の二意を示さんが為めであることが、自ずと解せられるように思う。即ち無量寿如来の名号〈みな〉を聞いて、一念の信心を発す時の喜びは、同時に、大善大功徳を回向せられた時の喜びである。如来の三信が、吾等に彰われた一念同時に歓喜愛楽があるのである。聖人は、この根底に立ちて、其の場合に応じて、四字全体を上に属し、下に属し、又は二字ずつ分かちて、上下に配せられた。故に完全にするには、此の四字を上下に配して、二度読むことにすればよいと、先輩は申してをられる。
第三項 獲信利益の文
第一科 『大無量寿経』の文
又言聞法能不忘見敬得大慶則我善親友是故当発意 已上
(2-102)
【読方】またのたまわく。法を開きてよく忘れず、みて教い、得て大いに慶ばば、則ち我よき親友なり。是ゆえに常に意〈こころ〉をおこすべし。
【文科】『大経』下巻の偈文をあげて信徳を示す。
【講義】また前に引いた『大無量寿経』に曰く。名号の御謂れをきき開いて忘れず、願力を心の中に浮べ見て、我が身はわろき徒者〈いたずらもの〉とへり下り、法を敬い、大慶喜心を得れば、その衆生こそ、真〈まこと〉に我が(釈迦如来自らを指し給う)善き親友であるぞよ、それであるから、衆生等よ、みな速やかに無上道心を発せよ。
第二科『無量寿如来会』の文
又言相是等類大威徳者能生広大仏法異門 已上
【読方】又のたまわく。是の如き等の類は大威徳の者〈ひと〉なり。よく広大仏法の異門に生ぜん。已 上
【字解】一。広大仏法異門 極楽浄土のこと。極楽の衆生をして、直ちに無辺広大の仏法を語らしむる弥陀の浄土は、諸仏の浄土と異なれる特殊の世界であるからである。
【文科】異訳を引いて正依を助顕する中、此の文は大威徳者の文である。
【講義】また『無量寿如来会』下巻に曰く。是の如き真実信心の人々は、誠に広大なる
(2-103)
威徳を身に具えた人々である。この人々は、かの広大仏法の異門である極楽へ容易〈たやす〉く往生することが出来るのである。
又言如来功徳仏自知唯有世尊能開示天龍夜叉所不及二乗自絶於名言若諸有情当作仏行超普賢登彼岸敷演一仏之功徳時逾多劫不思議於是中間身滅度仏之勝慧莫能量是故具足於信聞及諸善友之摂受得聞如是深妙法当獲重愛諸聖尊如来勝智遍虚空所説義言唯仏悟是故博聞諸智土応信我教如実言人趣之身得甚難加来出世遇亦難信慧多時方乃獲是故修者応精進如是妙怯已聴聞常令諸仏而生喜 抄出
【読方】又のたまわく。如来の功繞は仏のみ自らしろしめせり。ただ世尊ましましてよく開示したまう。天龍夜叉の及ぼざるところなり。二乗自ら名言をたつ。もしもろもろの有情、まさに作仏して、行、普賢にこえ、彼岸にのぼりて一仏の功徳を敷演せんとき、多劫不思議を逾〈こえ〉ん。この中間において、身は滅度すとも、仏
(2-104)
の勝慧はよく量ることなけん。このゆえに信聞およびもろもろの善友の摂受を具足して、是のごときの探妙の法を聞くことを得ば、まさにもろもろの聖尊に重愛せらるることをうべし。如来の勝智は、虚空に遍し、所説の義言はただ仏のみさとりたまえり。このゆえにひろく諸智土をききて、わが教如実の言を信ずべし。人趣の身うることはなはだかたし。如来の出世に遇〈もうあ〉うことまたかたし。信慧おおきとき、方〈まさ〉に乃〈いま〉し獲ん。このゆえに修せんもの精進すべし。かくのごときの妙法、すでに聴聞せば、つねに諸仏をしてしかもよろこび生ぜしめたてまつるなり。抄出
【字解】一。天 八部衆の一。梵天、帝釈、四天王等の天部のこと。
二。龍 八部衆の一。龍神。難陀龍王、跋難陀龍王等を指す。
三。夜叉 八部衆の一。梵音ヤクシヤ(yaksa)楽叉、閲叉と音訳す。勇健、暴悪等と訳す。能く虚空を飛行する故に、捷疾鬼とも称せらる。之に三種あり、天夜叉、虚空夜叉、地夜叉なり。この中地夜叉は飛行することが出来ないと云う。
四。普賢 普賢菩薩。梵語サマンタプハドラ〔Samanta-bhadra)、三曼多跋陀羅と音訳す。普は普遍、賢は賢善、その徳法界に普きが故にこの名あり。利他大悲の行を司る。華厳三聖の一として釈尊の協士となり、六牙の白象に乗る。
五。善友 善知識のこと。
六。摂受 好意をもって迎えること。
(2-105)
七。聖尊 諸仏のこと。
八。人趣 五趣の一。人間世界。婆婆世界のこと。
九。博聞諸智土〈博く諸智土を聞く〉 諸智土とは弥陀如来の真実報土のこと。諸智は一切智をいう。「如来の諸智を疑惑して」等と、弥陀如来の智慧を讃智と称す。今は弥陀の智慧の浄土という意味にて諸智土という。因〈ちなみ〉に現在の『如来会』には「博聞諸智士〈博聞の諸智士〉」とあり、此の時は博学の智者という意味であるが、今は聖人の御引用に従う。
【文科】異訳助顕の中、この文は如来功徳の文である。
【講義】また同じき『無量寿如来会』に曰く。阿弥陀如来の功徳、語〈ことば〉を換えていえば名号の功徳は仏果の位に上り給える如来のみ知ろしめし給う所である。それであるから、この名号の功徳は大聖世尊のみ、独り善く説き述べて下されたのであって、天、龍、夜叉等の八部衆の到底心も語も及ばぬ所であり。声聞も菩薩も、名字言句を絶して、何とも乎とも思うたり言うたりすることの出来ない所である。
茲〈ここ〉に譬喩〈たとえ〉を設けて曰えば、一切の衆生が一時に仏となって、その大慈大悲の行徳は因位の普賢菩薩のそれに超え勝〈すぐ〉れ、大涅槃の彼岸に登りつめて、その仏力を以て、阿弥陀一仏の功徳を説き述べ給うに、それも一劫や二劫ではない、不可思議という数にもつもられぬ程の大数の多劫の間、説き述べても説き尽されず、遂に説き尽されずして、すべての仏が
(2-106)
涅槃の雲に隠れ給うても猶、この阿弥陀仏の殊勝の御智慧は量ることが出来ないのである。
名号の御謂れを信ずる信と、その御謂れをきく聞と、それから、善知識の哀愍〈あわれみ〉の御心からかけて下される護念と、この三者が具足して、是の如き不可思議な微妙な御法を聞いて信ずることが出来れば、諸仏世尊の敬重と寵愛とを受けることが出来るのである。
弥陀如来の殊勝〈すぐ〉れ給える智慧は広大にして、虚空とその涯〈はて〉を同じゅうしている。その弥陀如来の殊勝の智慧を説き述べ給うた『大経』の義理合〈いみあ〉いは、唯果上の仏のみ悟り給う所で、因位の人の伺い知る所ではない。それであるから、智者も愚者も善人も悪人も皆すべて押しなべて、この弥陀如来の真実報土のことをきいて、我が(釈迦如来自らを指し給う)所説の法門、義理に契うて詐偽〈うそいつわり〉のない真実の語〈ことば〉を信ぜよ。
凡そ人間界に生を受けるということは、非常に難しいことで、如来の御出世に遇い奉ることも至って難いことである。信心の智慧も、多生曠劫の中で、たまさかに今始めて得させて頂くのである。それであるから、この念仏修行の人達は精を出して聴聞いたさねばならぬ。是の如き甚深微妙の法門を聴聞すれば、諸仏如来は常にこれを自分のことの如く、
(2-107)
喜んで下されるのである。
第三節 釈文証
【大意】上に経文を引き了ったから、是より下は七祖の講釈より、他力信心の証文を引用せらる。曇鸞、善導、源信の三祖の文を選びて、余の四祖をこの中に摂在せしむる御意である。
初めに『論註』の讃嘆文の釈を挙げられた。此の文は鸞師が、称名憶念に就いて、如実、不如実の義を立て、如実の修行は、信心一つであることを明かにせられた文である。此の文を引けば、第一に籠樹菩薩の『易行品』の奥旨は、自ずから彰れ来る。即ち『同品』九丁に
もし人、善根を植え、疑えば則ち華開かず、信心清浄なる者は、華開いて則ち仏を見たてまつる。
と、信疑の得失をあげて、「称名憶念」「念我称名」の内容を明かにせられたことが、この三不三信の釈に来りて、非常に明了となっている。
次に天親菩薩の『浄土論』の真精神は、云う迄もなく、この剴切なる註釈書たる『論註』の中に含まれていることは明かであろ。論の「世尊我一心」等の一心も、『論註』に来りて、始めて本願の三信を合したる行者帰命の一心たることが知られるのである。即ち上の文に於いて、鸞師は、三不三信をあげ了りて「是故に論主、建〈はじめ〉に我一心と言えり」と云われた。『浄土論』の根底たる一心は『論註』に於いて初めて煩悩具足の我等が起
(2-108)
す所の他力の信心であることが知られて来た。
次に道綽禅師の力説せられた三不三信の釈に、鸞師の此の文に依られたことは明かであるから、上二祖と等しく、此の文中に摂在せらるることである。斯の如く、『論註』の此の文は七祖の中、上の四祖を代表する。
次に広く善導の釈文を引いて、三心の真意を述べ、深く他力信心の内容を明かにせられた。善導大師の三心釈は、源信和尚の上には、『往生要集』中本三丁に引かれ、法然上人の上には『選択集』三心章の根柢となっている有名なる釈文である。従って此の釈文は、下二祖を摂在することは、云うまでもない。但し此処に源信和尚の文を引かれたのは、上に引きたる三信即一の一心は、即ち金剛心である、菩提心であると、一方には信徳を嘆じ、一方には上の諸文を総括する意味に於いて引かれたのである。更に委しきは、各文の下の余義を見て頂きたい。
第一項 曇鸞大師の釈文
第一科 『論註』の文
論註曰称彼如来名如彼如来光明智相如彼名義欲如実修行相応故称彼如来名者謂称無碍光如来名也
如彼如来光明智相者仏光明是智慧相也此光明照十方世界無有障碍能除十方衆生無明黒闇非如日月珠光但破空穴中闇也
【読方】論註にいわく。かの如来のみなを称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく、修行し、相応せんと欲〈おも〉うがゆえに、称彼如来名というは、いわく、無碍光如来のみなを称するなり。
如彼如来光明智相というは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界をてらすに障疑あることなし。よく十方衆生の無明の黒閻をのぞく。日月珠光のただ空穴のうちの闇を破するかごときには非ざるなり。
【字解】一。『論註』 上下二巻。具には『浄土論註』。曇鸞大師の著。天親菩薩の『浄土論』を註釈したるものにて、上巻の終りには、八番の問答を出して、悪人救済の真意義を明し、下巻の終りには、他利々他の探義を釈して絶対他力教の奥旨〈おくそこ〉を闡明している。単なる註釈書ではなくして、大師の大いなる人格にあらわれた信仰書である。
【文科】『論註』の文によりて光明智相を示す一段。
(2-110)
【講義】曇鸞大師の『浄土論註』に曰わく。『浄土論』に「彼の如来の御名を称し.彼の如来の光明智相の如く、彼の名義の如く、如実に修行し相応せんと欲するが故に」とあるが、この中、彼の如来の御名を称するというは、無碍光如来の御名を称え奉ることをいうのである。
次に「彼の如来の光明智相の如く」とあるが、その光明というは智慧の相である。即ち智慧の体が外に顕われたが光明である。この如来の光明は、十方の世界を照らし給うに、少しも障り碍げとなるものはない。十方世界のすべての衆生の胸に蟠〈わだかま〉る無明煩悩の黒闇までも悉く照し破って下さるのである。世間の日輪や月輪や又は珠玉の光が僅かに、室〈へや〉とか窟〈いわや〉とかの中の闇を照し破るに比べられるものではない。
【余義】一。無碍光如来の光明名号の徳は、能く我等の一切の無明を破ると云う、然らば其の無明とは如何なるものであるか。
古来是に就いては、種々の説に分れている。存覚師は此の下の『六要』に
一切の言〈ことば〉の中に、惑障、葉障、報障、諸の不善を摂むべし。
と云われ、一切の無明とは、我等のあらゆる業煩悩のことであるとせられた。他説には、
(2-111)
総無明、別無明に分かち、総無明は、一切の悪業煩悩を指し、別無明は、不了仏智の疑惑をいうと説く。或いは根本無明、枝末無明、又は相応無明、不共無明の名目を挙げておる人もある。
是等の諸説を取捨するに先立ち、吾等は、此の破闇満願の場合を明了に会得しておく必要がある。そうでないと、徒〈いたずら〉に平坦〈ひらた〉い説明に流れて、文の真意義を逸する恐れがあるからである。其の破闇の場合は、云う迄もなく、信の一念である。吾等が如来を信ずる一念に、如来の光明と名号の徳によりて、吾等の一切の無明が破られるのである。此の場合を明了にしておけば、無明の宗教的意義は自ずと明かになるのである。
二。性相決判の上、若しくは心性研究の上から云えば、迷事、迷理の無明、根本枝末の無明、倶生命別の無明等、闇夜に道を取り違える如き、凡〈すべ〉て真智を欠いた痴闇を指して無明と名づけられるのであるが、正しく宗教的実験の上から云えば、自力迷情の疑心を指すものと云はねばならぬ。『口伝鈔』上四丁に
しかるにいま宿善ときいたりて、不断難思の日輪、貪瞋の半腹に行度するとき、無明ようやく暗はれて、信心たちまちに明かなり。云々
(2-112)
『改邪鈔』は二十二丁に
この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだ破れずと雖も、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念に破れて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、自力をすてて、他力に帰するともなづけ云々
とある。共に聞信一念の所に、自力疑心の闇の破れることを詳述せられてある。令諸衆生の仏智が、吾等の胸中に攬入する時は、心一ぱい明かるくなり、軽くなり、自力疑心、煩悩妄念の闇は消えうせる。此の信の内容は、深く広くして、不完全の人智の知る所でない。
かように、信の一念の時に、久遠劫来はりつめた我等の自力我慢が仆〈たお〉れて、如来の心光と一味になる。之が無明の破れる時である。故に此の場含、無明とは自力疑心の迷情を指すのである。法然聖人が「生死の家には疑を以て所止となす」と道破せられたのは、従来自力教の見地より説示〈と〉かれる無明の意義を棄てて、本願を疑う自力の我情を以て、生死に迷う根本無明であるとせられたことは、無明の宗教的真意義を打ち出された卓見と云わねばならぬ。
二。上に総無明は一切の悪業煩悩、別無明は不了仏智の疑惑を指すという説をあげたが、
(2-113)
この説も、上に述べたような意味に於いて、初めて生命〈いのち〉づいてくるのである。是を単に聖教の一諸文を解釈する範疇としては、何等の意味もなくなるのである。
即ち聞信の一念に、自力疑心の闇が霽〈は〉れると共に、「塵数の如く遍満する」煩悩、「無明業障のおそろしき病」の悪業が、皆仏智の不思議によりて消滅し、同時に無上大利の功徳が与えられる。之を今の文に「能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満て給う」と云われたのである。『和讃』に
無碍光如来の名号と かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみて給う。
とあるは是である。
如彼名義欲如実修行相応者彼無碍光如来名号能破衆生一切無明能満衆生一切志願然有称名憶念而無明由存而不満所願者何者由不如実修行与名義不相応故也云何為不如実修行与名義不相応謂不知如来是実相身是為物身。
(2-114)
【読方】如彼名義欲如実修行相応というは、かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願をみてたまう。しかるに称名憶念すること有れども、しかも無明なお存して、しかも所願を満てざるはいかんとなれば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるが故なり。いかんが不如実修行と、名義と相応せざるとする。いわく、如来はこれ実相の身なり、これ為物身なりとしらざるなり。
【字解】一。名義不相応 名義は、六字名号の義ということ。即ち名号の謂〈いわ〉れと相応せぬこと。名号の謂〈いわ〉れを聞き開かざること。
二。実相身、為物身『六要』に二義をあぐ。
┏━実相身━━法性法身
第一義┫
┗━為物身━━方便法身
┏━実相身━━自利の徳━┓
第二義┫ ┣方便法身
┗━為物身━━利他の徳━┛
今は第二義に従う。即ち実相身とは、方便法身の弥陀如来が、真如実相を証〈さと〉りて、自利円満の徳を具え給いしに名づく。又為物身は、如来の自利の徳その儘が利他の徳であることを示して「為物身」という。為物は「物の為め」一切有情の為めということ。
【文科】『論註』の文によりて破闇満願と実相身為物身を示す一段である。
(2-115)
【講義】「彼の名義の如く、如実に修行相応せんと欲する」というは、いかなる意味かというに、彼の無碍光如来の名号には、衆生の一切の無明、殊には仏智不思議を疑う疑無明を破り、衆生の一切の志願〈ねがい〉、殊には往生浄土の願〈ねがい〉を満して下さるる功能〈はたらき〉がある筈であるのに、口には御名を称え、心には如来を憶念〈おも〉い奉っても、猶、仏智を疑う疑無明が晴れやらず、往生いかがと案じて、往生極楽の願を満足することの出来ないのは、どういう訳かというと、一は如実に俊行せず、一は弥陀如来の名義と相応せないからである。そんなら、いかなることを不如実修行といい、名義不相応というかというに、阿弥陀如来の実相身、為物身に在〈ましま〉すことを知らないのをいうのである。即ち阿弥陀如来が、真如法性を証〈さと〉り尽し給うた自利円満の大能力の方であること(実相身)、その大能力の如来が同時に、私共を助けんがために御苦労下された、私共のための如来(為物身)で在すことが知れないから、ほっこりと疑いがとれず、往生極楽の願いが満足されないのである。これが、名号を称えながら、その謂れを疑うて助ろうか助かるまいかと案ずる不如実修行であり(信不具足)また、名号の謂れをきき開かぬ名義不相応というものである(聞不具足)。
【余義】一。称名憶念しても、無明の闇破れず、志願の濁されないのは何故であるかと
(2-116)
云えば、「不知実修行」と「与名義不相応(名義と相応せざる)」の為であると云う。然らばこの二つは、どんな相違があり、又どんな関係があるであろうか。
初めに如実修行の如は「叶う」、実は「名号の実義」、即ち名号の実義に叶う称名のことである。名号の実義に叶うとは、信心のことである。此の故に如実修行とは、信の上の称名ということである。この反対に、名号の実義に叶わぬ称名が、不如実修行である。『樹心録』には、信不具足のことであるという。即ち機に就いて、信心の具不具を闡明されたのである。そして之を詳細にしたのが、下の三不三信である。
次に名義と相応すとは、称名が、名号の実義に相応〈かな〉うことを云う。上の如実修行は、機の信相を主としたのであるが、是は法の実義に叶う方を主としたのである。之と反対なるを名義と相応せぬと云う。故に『樹心録』には、上の信不具足に対して、之を聞不具足であると云うてある。即ち名号の謂れと相応せぬと云うことは、名号の謂れを聞き開かぬことであると云う。この内容を打ち出したのが、下の実相身、為物身云々である。
二。斯の如く、「不如実修行」と「与名義不相応(名義と相応せざる)」とは、畢竟は同じことであるが、暫く機法に配して味うばかりである。即ち名号の実義に叶わぬ信不具足の称名は名号の義と相応
(2-117)
せぬ聞不具足の称名である。従って名号の義を聞き開いた称名ならば、そのまま信具足の称名である。如実修行は機につき、名義相応は法につく。この二つが両々相俟って、称彼如来名の真意が開説せられるのである。試みに南条神興師の『論草』に依りて之を図示すれば左の如くである。
┏叶名義信心称名━━如実修行━┓ ┏約信具不具
以法判機┫ ┣三不三信┫
┗不叶名義不信称名━不如実修行┛ ┗約能帰南無
┏信心称名与名義叶━━━名義相応┓ ┏約所帰四字
以機照法┫ ┣知不知二身┫
┗不信称名与名義不叶━名義不相応┛ ┗約聞具不具
※挿図の語句の書き下し
以法判機(法を以て機を判ず)
叶名義信心称名(名義に叶う信心称名)
不叶名義不信称名(名義に叶わざる信心称名)
約信具不具(信の具・不具に約す)
約能帰南無(能帰の南無に約す)
以機照法(機を以て法を照す)
信心称名与名義叶(信心称名と名義と叶う)
不信称名与名義不叶(信称名と名義と叶わず)
約所帰四字(所帰の四字に約す)
約聞具不具(聞の具・不具に約す)
法の名義に叶うか叶わぬかと云うことを以て、機の信心の具不具を判ずるのが、三不三信である。即ち南無の機を主として明かすのである。次に機の信心称名を以て、法の名義に泝〈さかのぼ〉り、法の名義の何たるかを観照するは、知不知二身である。即ち聞法の具不具を主とするのである。かように法の謂れを以て、機の信相を自覚し、機の信相より法の謂れに泝〈さかのぼ〉る。信仰の妙味は、此の間より泉のように湧き出づる。『和讃』に
不如実修行と云えること 鸞師釈してのたまわく
(2-118)
一者信心あつからず 若存若亡するゆえに。乃至
決定の信をえざるゆえ 信心不淳とのべたまう
如実修行相応は 信心一つにさだめたり。不知実修行は、三不信であるとし、如実修行は只信心一つであると決せられた。名義相応、不相応はこの裏面に含めてある。広略円融自由に説示せらる。
三。名義と相応することは、実相身、為物身の何たるかを知るにありと云う。然らばこの二身を知ることは、重要のことである。
『六要』には、二義を挙げてある。
挿図(yakk2-118.gif)
┏法性法身━━理仏━┓
実相身━┫ ┣━━━━第一義
┗方便法身━━事仏━┛
┏光明摂法身(自利)┓
為物身━┫ ┣事仏━━第二義
┗名号摂衆生(利他)┛
そして第二義が本文に親しいと評取しておられる。併し第一説と雖も、会得の出来ぬことはない。如来は一如法界より表われ給いし方便法身にていらせらるるからである。『和
(2-119)
讃』に
無明の大夜をあわれみて 法身の光輪きわもなく
無碍光仏としめしてぞ 安養界に影現する。
とあるは、法性法身より影現せられし方便法身が、無碍光如来であることを示されたものに相違ない。そしてこの法性、方便二身の名は、『論註』に説示せられあるに於いては、尚更である。是は一義として取るべき説であると思う。
されど存覚師を初め、古来多くの人々が、第二義に依る所以は、深い宗教的旨趣を有しておるのである。吾等を救済し給う如来は、空漠なる理想の仏でない。現〈まのあた〉り活きて、私共の心霊上に働いて下さる現実の如来でいらせられる。即ちこの二身は、今現に救済の御手を垂れ給う如来を、自利々他の二方面より名づけた名前である。即ち真実の功徳を成就せる自利円満の身が実相身である。そして其の自利の実相身は、其の儘、衆生化益の為であるから為物身でいらせられる。一報身如来の二徳を二身と分ちて、如来の徳用を知らして下さるのである。吾等が虚仮雑毒の自性を自覚する時に、如来の清浄真実身を拝し、幼児の母に槌〈すが〉るように、如来に帰入する時に、摂取不捨の為物身に抱かるることである。
(2-120)
因みに古来の諸説を図示すれば
挿図(yakk2-120.gif)
a実相智慧
b方便為物
実相身A a無量寿覚体
b光明方便
a内証智身
b化他悲身
a同一法性
為物身B b大悲影現
a久遠古成
b十劫正覚
※Aとaとを、Bとbとを実線で結ぶ
是等の説は、皆夫々の意義を有しておる。従って解釈の主体たる如来が、不可思議の徳用を備え給うことであるから、是等の諸説を皆包含しても尚余りあると云わねばならぬ。此の種の問題に関しては、吾等は一応の取捨の後は、静かに自覚の上に味うべきであると
(2-121)
思う。
又有三種不相応一者信心不淳(常倫反又音純也又厚─朴也朴字音卜也薬名也)若存若亡故二者信心不一無決定故三者信心不相続余念間故此三句展転相成以信心不淳故無決定無決定故念不相続亦可念不相続故不得決定信不得決定信故心不淳与此相違名如実修行相応是故論主建言我一心 已上
【読方】また三種の不相応あり。一には信心淳からず、存せるがごとく、亡せるが如の故に。二には信心一ならず、決定なきがゆえに。三には信心相続せず、余念間つるがゆえに、この三句展転してあい成ず。信心淳(常倫の反、又音純なり。又厚純。朴なり。朴の字の音は卜なり。薬名なり)からざるをもってのゆえに、決定なし。決定なきがゆえに念相続せず。また念相続せざるがゆえに決定の信をえず。決定の信をえざるがゆえに心あつからざるべし。これと相違するを如実修行相応と名づく。このゆえに論主建〈はじ〉めに我一心と言まえり。已上
【文科】『論註』によりて三不三信を示す文。
【講義】また名号を称えながら、名号の義と相応せない信心があって、これに三種の相がある。一には信心の淳厚でないこと(淳の字は常倫の反切で、音はジュン即ち純と同音で
(2-122)
ある。また厚淳と熟する字である。てあつい意味である。又朴の意味がある。即ち朴素なことをいう。この朴の字は音は卜である。そしてこの朴は薬の名である。)即ち或いは信じ或いは疑い、信ずる中に疑いの交って居ることである。二には信心が専一にならず、我を助け給うは、弥陀一仏と心の定〈き〉まらぬことである。三には信心が時々変って、弥陀一仏という思いが相続せぬことである。弥陀一仏の思いが、余行余善に心をかけ、余仏余菩薩に思いをかける他の思いに妨げられて相続せねことである。而してこの三句は互に相影響して愈々名義不相応となっているので、信心が淳厚でないから、決定の心がなく、決定の心がないから、一念の信心が相続せないのである。又一念の信心が相続せないから、決定信が得られず。決定信が得られないから、信心が淳厚にならないのである。これを三不信と名づけるが、この三不信と相反して居る淳心、一心、相続心の三信を如実修行、名義相応と名づけるのである。而してこの淳心、一心、相続心の三信は、本願の三信を一つに収めた一信楽の三面のすがたで、とりもなおさず、願成就の信心歓喜の一念である。それであるから、天親菩薩は『浄土論』を御書きになる最初に「我一心」と宣うたのである。
【余義】一。古来、本願の三信(至心、信楽、欲生)は願の体、この三心(淳心、一心、
(2-123)
相続心)は信相であると云われておる。即ち本願の三信は、成就文に於いて、一信心であることが知れ、其の信心は天親菩薩の宗教的実験の上から、一心と彰わされた。斯の如く法の上の三信は、親しく機に感応せられて一心の信心となったが、其の信心の内容を打ち出したのがこの淳、一、相続の三心であると云うのである。云わば太陽の光線が、レンズを通りて、七色を示すように、太陽の光線は三信、レンズの一点を通る所が一心の信心、七色となって出た所が、この三心であるというのである。
二。之に就いて古来二つの解釈がある。一は、上に略述したように、一信心の上に、この三相があると云うのである。本文にも、現に「一者信心不淳」等と各に「信心」の文字を冠してあり。文の終りには亦「是故に、論主建〈はじ〉めに我一心と言えり」と云うてあるにも知れる。即ち淳心は、信心の純朴なるをいう。人為の虚飾を離れた、生れたままの清醇〈きいっぽん〉の心を指す。信心の至淳なる相〈すがた〉である。次に一心は無二の心、二心なく如来に帰する心である。又専一の心である。専ら如来に心を注いで、余へ心を散らさぬ心である。第三に、相続心は、弥陀一仏を専念する心の相続するをいう。真信仰は、永続性をもっている。夫は強ち時間的に常に意識の上に自覚せらる、と云うのでない。時間の概念を超越したる純粋持続
(2-124)
である。
かように信仰の内容を打ち出した所、レンズの一点を通った光線は、自ずと各種の色彩を示すように、一信心の上に、三つの心相があるという。
第二説は、信相とすることは、第一説と同じであるが、此の三心を本願の三信に配して解釈するのである。上の喩えを取って云えば、レンズの一点を通った七色の光線は、初めレンズに来った白色の光線そのものであると云う。白色の太陽の光線に、七色あることは、レンズを通った七色の光線によりて知ると同じ理由である。この意味に於いて、今の三心は本願の三信に配当することが出来る。第一の淳心は虚飾なき真実心であるから願の至心に当り、第二の一心は、二心なく信ずる信楽、第三の相続心は、往生一定の思いが一生相続する欲生心に当る。期の如くに単に道理の上から一致すべき筈であると云うばかりでなく、一々文字を配しも符節を合せたようである。故に『安楽集』上三十丁には此の三不三信を懇切〈ねんごろ〉に解釈して、
此の三心を具して、若し生れずんば、是の処〈ことわり〉あることなし
と結ばれた。本願の「若不生者」と、『観経』散善観の初め「具三心者必生彼国(三心を具する者は必ず彼の国に生まる)」の
(2-125)
文字を取り合わせて、この三心を解釈せられることは、此の三心を本願の三信と同一に見られたことを示すものである。我聖人は、道綽禅師の此の解釈を注目せられ、『正信偈』に
三不三信を、慇懃に誨〈おし〉ゆ
と仰せられ、『二門偈』には
縦令〈たとえ〉一生に悪業を造れども、三信相応すれば、これ一心なり。一心は淳心なれば、如実と名づく。若し生れずんば、是の処〈ことわり〉あることなし。
と、明白〈あきらか〉に道綽禅師の釈を承けて、本願の三信と、此の三心を同一にしておられる。今の本文の終りに「是の故に論主、建〈はじめ〉に我一心と言えり」とあるによりても、鸞師が、三信即一の信心を一心と仰せられたように、此の三心を同じく一心と結ばれたことは明かである。この下の『六要』にも、存覚師は、本文に三心を結ぶに「我一心」の文を以てせられたことを解して、
上に三信を挙げて、其の心を開くと雖も、三信相成して、遂に別心に非ず、之を以て之をいう。ただこれ開合して、其の意(三信即一心)を顕わさんが為に、此の義を結ぶに、此の文(我一心)を引く也。
(2-126)
仍て下の私釈(三一問答)に、専ら三心一心の義を成ず。尤もこの理に叶う。殊に信受と、淳一相続の三心を三信として、判然と本願の三信と同一にしておられる。
三。上の両説は、何も取るべき説である。殊に第二説は、善美を尽しているようである。
云う迄もなく信仰は文字に制限せらるべきでない。本願の三信は、機に感応せられて、一信心となり、その信心はこの三心、此の三心は同時に本願の三信である。ここに円融無窮の活きた信念の面目を見ることが出来る。
四。「淳字」の字訓、『六要』には
常偸反、又音絶也。又厚卜朴也。朴音也
とあり。寛永本には
常倫反、又音純也。又厚卜朴字卜也。
とあり。偸が倫となり、絶が純と訂正されてあるが、『御草本』には明かに
常倫反、又音純也。又厚ー。朴也。朴字音卜也。薬名也。
とあり、『御真本』(『高田本』にはなし)にも
(2-127)
常倫反、又音純也。又厚ー。朴也。薬名也。朴字音卜也。
とありて、終りの数字の位置を変えたるのみで、全く一致している。今はこの両本の説に順う。淳の音純によりて純一なることが知れるが、又厚淳と熟するによりて、淳の意を益〈ますます〉明かならしめる。即ちーは淳を略した符号である。故に淳は軽薄でない、「手あつい」ことである。然るに又厚字の意を豊かにする為に重ねて「朴」という訓をもってせられた。朴は厚朴のこと、ほうの木、又は榛〈はしばみ〉である。ともに素朴な飾り気のない木である。この木の皮をもって薬を製する故に「薬名也」と云われたのである。故に淳心の淳は質朴な手厚いこと、計いを離れた純一の心を指すのである。
第二科 『讃阿弥陀仏偈』の文
讃阿弥陀仏偈曰(曇鸞和尚造也)諸聞阿弥陀徳号信心歓喜慶所聞乃曁一念至心者回向願生皆得往唯除五逆謗正法故我頂礼願往生 已上
【読方】讃阿弥陀仏偈にいわく、(曇鸞和尚の造なり)諸〈あらゆる〉もの阿弥陀の徳号をききて、信心歓喜して、聞く所を
(2-128)
よろこばん。いまし一念に曁〈およ〉ぶまでせんに至心の者回向したまえり。生ぜんと願ずればみな行くことを得しむ。
ただし五逆と謗正法とをばのぞく。故〈かるがゆえ〉にわれ頂礼して往生を願ず。 已上
【字解】一。『讃阿弥陀仏偈』梁の曇鸞大師の著、『大無量寿経』によりて、弥陀の浄土の依正二報、並びに主伴荘厳を讃詠す。凡て百九十五行。流麗雄渾の宗教的讃歌。
二。至心者。阿弥陀如来をいう。
【文科】『大経』成就の文を取意した『讃阿弥陀仏偈』の文である。
【講義】曇鸞大師の御造りなされた『讃阿弥陀仏偈』には左の如くいうてある。ありとあらゆる衆生が、阿弥陀如来の至徳の尊号をきき開いて、信心歓喜し、名号の御謂れを有難や尊やと慶〈よろこ〉んで、一念の信を得れば、真実の至心〈まことのこころ〉の人たる阿弥陀如来は、その時、一切の功徳善根を悉くその人に回向して下されるのである。それであるから、いかなるものでも浄土へ往生したいと願えば、皆往生を得させて下さるのである。ただし、五逆罪を造るものと正法を誹謗するものとはこの限りではない。こういう訳合〈わけあい〉であるから、私は如来を敬礼し奉って往生を得させて頂きたいと願うのである。
第二項 善導大師の釈文
(2-129)
第一科 『定喜義』の文
光明奇観経義云言如意者有二種一者如衆生意随彼心念皆応度之二如弥陀之意五眼円照六通自在観機可度者一念之中無前無後身心等赴三輪開悟各益不同也 已上
【読方】光明寺の観経義にのたまわく。如意というは二種あり。一には衆生のこころのごとし。かの心念に随いてみなこれを度すべし。二には弥陀のこころのごとし。五眼まどかにてらし、六道自在にして、機の度すべき者を観〈みそな〉わして、一念のうちに前なく後なく、身心ひとしく赴き、三輪開悟して、おのおの益すること同じからざるなりと。
【字解】一。五眼 肉眼、天眼、法眼、慧眼、仏眼。
二。六通 六神通。天眼通、天耳通、他心通 宿命道、神足通、漏尽通。
三。三輪 弥陀の身口意の三業のこと。神通輪(身)教誡輪(口)、記心輪(意)。仏は是等を以て大車輪の瓦礫を砕くように、吾等の煩悩を催破し給う故に三輪という。
【文科】『定善義』の文によりて、如来の摂化自在を示し給う一段である。
【講義】光明寺に御住いなされた善導大師の『定善義』には左の如くいうてある。『観経』
(2-130)
に神通如意という語があるが、この如意というに、二通りの意味がある。一には衆生の意〈こころ〉の如しという意味で、衆生の方に宿善あって、仏を念ずるようになれば、如来は衆生の念ずる意の如く済度なされるという意味である。二には、阿弥陀仏の御意の如しという意味であって、如来は五眼を以て、十方法界の何物をも悉く円かに照し、六神通を具えて自在無碍に在すから、済度すべき衆生があれば、悉くこれを知り給い、十方法界いかなる所でも、一念同時にすがたを顕わし、仏身も仏心も等しく赴き給うて、身口意の三業をはたらからして、衆生を導き、衆生の機類に従って、そのみ意の如く各々特殊の利益を与うのである。
第二科 『序文義』の文
又云此五濁五苦等通六道受未有無者常逼悩之若不受此苦者即非凡数摂也
【読方】またいわく。この五濁五苦等は、六道に通じて、受けて未だなき者はあらず。つねに之に逼悩す。もしこの苦を受けざる者は、すなわち凡数の摂にあらざるなり。
(2-131)
【字解】一。五濁 末世に起こる五種の悲しむべきこと。劫濁(時代の堕落)、見濁(人々の見解が汚れること)、煩悩濁(煩悩が烈しくなること〕、衆生濁(人間が悪くなること即ち人間の徳義の衰えること)、命濁(人の寿命か縮まること)。
二。五苦 生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦。又は、生老病死苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦をいう。
三。六道 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上をいう。
四。凡数 凡夫の仲間。
【文科】『序文義』によりて人生の実相を示したまう一段である。
【講義】また同じき善導大師の『序分義』には左の如くいうてある。五濁五苦等の痛ましさは、六道輪回の衆生の中、これを受けて居らないものはないのである。皆この悲惨に蓬うて苦しみ悩んでいる。もしこの苦悩を受けないものがあるならば、それは凡夫の仲間ではない。
第三科 『散善義』の文
又云従何等為三下至必生彼国已来正明弁定三心以為正因
即有其二一明世尊随機顕益意密難知非仏自問自徴無由得解二明如来還自答前三心之数
【読方】またいわく。何等為三より、しも必生彼国にいたる已来は、まさしく三心を弁定してもて正因とすることを明かす。即ちその二あり。一には世尊、機にしたがいて益をあらわすこと、意密にしてしりがたし。仏みずから問うてみずから徴したまうにあらずば、解を得るに由〈よし〉なきことを明かす、二には如来かえりて自らさきの三心の数を答えたまうことをあかす。
【文科】『散善義』を引く中、三心正因の科文をあげて三心の総標とせられるのである。
【講義】また同じき大師の『散善義』に曰く。『観経』の文の中、「何等為三」から「必生彼国」に至るまでの文字は、三心というは至誠心、深心、回向発願心なりと定めて、この三心が、浄土往生の正しき因であるということを説き給うのである。この中また科段が二つに分れて、一に「何等為三」は、仏の説法は相手の衆生の機に従うて利益を与え給うので、仏意は隠密であって到底余人の伺い知ることの出来ない所であるから、仏が自ら「何等をか三となす」と自ら問い自ら徴し給うのでなければ、余人は解ることが出来ないことを示すのである。二に「一者至誠心」以下は、如来が、自ら先の徴問〈とい〉に対して、三心とはこれ
(2-133)
これであると答え給うことを示すのである。
経云一者至誠心至者真誠者実欲明一切衆生身口意業所修解行必須真実心中作不得外現賢善精進之相内懐虚仮貪瞋邪偽奸詐百端悪性難侵事同蛇竭雖起三業名為雑毒之善亦名虚仮之行不名真実業也
若作如此安心起行者縦使苦励身心日夜十二時急走急作如灸頭燃者衆名雑毒之善欲回此雑毒之行求生彼仏浄土者此必不可也何以故正由(以周反経也行也従也用也)彼阿弥陀仏因中行菩薩行時乃至一念一刹那三業研修皆是真実心中作
【読方】経にのたまわく、一には至誠心、至というは真なり、誠というは実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心の中に作したまいしを須〈もち〉いんことを明かさんと欲〈おも〉う。ほかに賢善精進の相を現ずることをえざれ。うちに虚仮をいだけばなり。貪、瞋、邪偽、奸詐百端にして悪性やめがたく、事蛇竭におなじ。三業を起すといえども、なづけて雑毒の善とす。また虚仮の行となづく。真実の業となづけざるな
(2-134)
り。若し此の如き安心起行をなすは、たとい身心を苦励して、日夜十二時に、急にもとめ急になして、頭燃をはらうがごとくするもの、すべて雑毒の善となづく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ぜんことをもとめんと欲するは、此かならず不可なり。何を以ての故に、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行したまいしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心のうちに、作したまいしに由(以周の反。経也。行也。従也。用也)〈よ〉りてなり
【字解】一。解行 解は智慧、行は修行、証にいたる智慧と修行。
二。蝎 木喰虫。毒虫である。
三。一念 短かき時刻。六十刹那、又は九十刹那を一念とすといい、又は一刹那の訳であるという。
四。一刹那 梵語クシャナ(Ksasna)、極めて短き時刻、この一刹那の間に百一生滅ありという。
【文科】『散善義』の文を引く中、衆生心の虚仮と、如来心の真実を示し給う一段である。
【講義】経文には一には至誠心というてあるが、この至誠心の至も真〈まこと〉、誠も実〈まこと〉ということである。それで、この至誠心というは、一切の衆生が身口意の三業に修め行う所の安心起行は、凡夫手造りのものでは役に立たぬ、凡夫自力の企てを止めて、必ず、如来が、因位永劫の昔、真実至誠の心の中に作し給うたものを用いねばならぬということを示そうという御覚召しなのである。それであるから、凡夫は凡夫らしゅうして、徒〈いたずら〉に外相のみ、賢〈かしこ〉
(2-135)
ぶり、善人ぶり、精進に修行するふりを見せて、これを以て浄土に往生したいなどという非望を抱くな。何故ならばいかに外相は美しく整うても、凡夫の内心には生れつきの虚偽が満ち満ちて居って駄目だからである。貪欲、瞋恚、邪偽の煩悩は、百色千色に分れて雲の如くむらがり立ち、凡夫の奸悪の自性は到底改め難いのである。丁度毒蛇や、蝎〈さそり〉のような奴である。それであるから、こんな凡夫が、いかに立派な三業の善根を積んでもそれは皆毒の雑〈まじ〉った善と曰われる。虚仮の行と曰われる。決して真実の行業とは曰われないのである。
それであるから、このような自力の安心自力の起行をするものは、たとい、身心を苦しめ励まして、夜昼なしに勤め励んで、丁度髪の毛についた火を払うように一生懸命にやってみても、すべてこれは毒の雑った善である。斯ういう毒の雑った行業を回向して、それで弥陀如来の浄土へ往生したいと願うてみても駄目のことである。何故なれば、彼の阿弥陀如来は、因位永劫の昔、菩薩の行を修行し給うた時には、ホンの一念の間も、一刹那の間も、身口意三業の行業を悉く雑〈まじ〉り気のない真実を以てなし給うたに由〈よ〉(この由の字は以由の反切で.音ユウである。訓は経〈ふ〉る、行く、従〈より〉、用いるの四義である。もとこの由の
(2-136)
字は縁由、来由と熟する字で、「よりておこるわけ」の場合に用いる。「かようなわけによりて」等是れである。この縁由、来由の意味は上の経、行、従、用の四訓で明かに助顕せられるのである)ってである。
【余義】一。此の下に善導大師の至誠心の釈文を引かれてあるが、我聖人独特の炯眼は、僅かに此の釈文の訓点を施すことによりて、鮮やかに絶対他力教の真意を発揮せられるのである。即ち御自身の信仰経験の上から善導、法然二祖の精髄に徹入〈はい〉られたのである。
此の文の通常の解釈を云えば、初めは勧門である。即ち行者の安心起行は必ず真実心をもってせねばならぬ。次は誡門にして其の裏より述べたもので、貪瞋をやめ、虚仮を離れ、内外相応せねばならぬ。この勧誡二門の教に相応するのが真実であると云うのである。故に其の訓点は
欲明一切衆生身口意業所修解行、必須真実心中作。不得外現賢善精進之相内懐虚仮
(一切衆生の身口意業の所修の解行、必ず真実心の中に作す須きことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ず)
となるのである。
それであるから。文段から云えば、「欲明一切」より「真実心中作」までは勧門、「不得外現賢
(2-137)
善」より「所施為趣求亦皆真実」までを誡門とし、内の心も、外の身口と、共に真実でなければならぬと云ふ文意と見るのである。
二。単に文面丈を見る時は、どうしても箇様〈かよう〉に解釈せねばならぬが、是を実際上身に引き当て味わう時には、直ちに此の文面の底に流るる意義を感得せざるを得ない。我聖人は、期せずして其の真意に徹到せられた。
即ち講義に述べたように、「須」字を「用」字の意味にして「もちい」と読ませ、「真実心中に作したまえるを須いることを明さんと欲す」とせられた。通常の解釈から云えば、吾等凡夫に、真実心より解行を起せと、勧める言葉であるが、今は如来の真実心より作し給える解行を須〈もち〉いよと勧められるのである。意味はまるで転倒して来る。従って其の次の文も、「外に賢善精進の相を現ぜることを得ざれ」と云い放ち、其の因故として「内に虚仮を懐けばなり」と訓〈よ〉まれた。文字を其の儘して僅かに訓点をかえ、そして非常に深遠なる意義を発揮せらるる卓見は、只驚くの外はない。試〈こころみ〉に此の解釈を聖人の他の聖教の上に求むれば、『唯信文意』二十五丁に
不得外現賢善精進之相と云うは、浄土をねがう人は、あらわに、かしこきすがた、善人
(2-138)
のかたちをふるまわざれ、精進なるすがたを、しめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。内はうちという。こころのうちに、煩悩を具せるゆえに虚なり、仮なり。虚はむなしく、実ならず。仮はかりにして、真ならず。しかれば、いまこの世を、如来のみのりに、末法悪世とさだめたまえるゆえは、一切有情まことのこころなくして、師長を軽慢し、父母に孝せず、朋友に信なくして、悪をのみこのむゆえに、世間出世みな、心口各異言念無実とおしえたまえり。乃至、この世のひとは、無実のこころのみにして、浄土をねがうひとは、いつわり、へつらいのこころのみなりときこえたり。世をすつるも名のこころ、別のこころをさきとするゆえなり。
我聖人が、至誠心を解し給うに、毫〈すこし〉も真実心になれと勧めずして、絶対的に如来回向の至誠心を須〈もち〉いよと勧め給いし真意は、この引文の上に躍動している。是というも、教を単に教として解釈せずして、その教を実際御自身に味わわれたからである。聖人は深く自己を省察し、自己は如何なるものであるかと云うことを、痛切に考えられた。そして真に自己の真相に徹せられた時に、人生の真相を透見〈みとお〉され、真に虚仮不実の身であると感ぜられた時に、末法悪世の人生を感ぜられた。人間には些少〈いささか〉の真実もない。もしあるならば、如来
(2-139)
回向のものであらねばならぬ。この如実の人生を見られた為に「世間出世みな心口各異」とか「浄土をねがう人も、いつわり、へつらいこころのみなり」云々の恐ろしい御言葉がでるのである。
如来は現に、吾等を呼んで、五逆十悪具諸不善と仰せられ、人生を指して、悪時悪世界と仰せられた。そして善導大師も、「自身現是罪悪生死之凡夫」と叫ばれた。そして我聖人御自身の上にも、明かに其の罪悪不実たることを信知していらせられる。されば善導大師の真意は、決して不真実の者に、真実になれと仰せらるる咎はない。如来回向の真実を須〈もち〉いよと仰せられたことであると読まれたのである。眼光紙背に徹するとは、真にこのことであると云わねばならぬ。
三。次に「貪瞋邪儀」。以下は、通常の解釈に依れば、内に虚仮を懐く勿かれ等を受けて、容易に止め難き悪性を自覚して、精励刻苦せよと励められたこととなるが、我聖人は、上の誡門を広説する文字と見られた。即ち外に賢善の相を現わしても、内に虚仮不実の心を懐いておるから駄目である、と云う理由を詳述したのが此の一段であると云うのである。
此の見解によりて、「貪瞋邪偽、姦詐百端」等の毒々しい文字が、一字一字善導大師の痛
(2-140)
烈なる内省の結果より発露せる告白となるのである。若し是を通常の解釈のように、悪性を自覚して道を修めよと云う意味になれば、この詳密なる人性の暴露の文も、ほんの真実心に進む為の、方便となって仕舞うのである。
善導大師の「自身現是罪悪生死之凡夫」等と仰せられて、偏に「無疑無慮乗彼願力」と絶叫せられたのは、深く自己の本性に当面せられ、「姦詐百端、悪性難浸(姦詐百端、悪性やめがたし)」等と、人性の悪毒に驚かれた結果である。この境地に至れば、自己の上には、一の善も、一の力も認められぬ。只仏願に縋〈すが〉るの念〈おもい〉のみである。我聖人は、此の実験を御自身の上に深く味わわれて、此の解釈を試みられた。
四。「何を以ての故に、正しく彼の阿弥陀仏」云々は、通常の解釈によれば、上の誡門の釈を受けて、吾等が真実心より解行を起さねばならぬ理由は、吾等の忻い求むる浄土の阿弥陀仏が、既に因位の修行の際には、一念一刹那も、清浄真実でないことはなかった。吾等もこの御心に相応するように、真実心にならねばならぬと云うのであるが、我聖人は、之と全く反して、先に弥陀の真実心中より作し給えるを須いよとあった、あの因故とせられたのである。如何に頭燃を払うように心身を苦励するとも、払い難い悪性心を以て、善
(2-141)
を積んで回向しても駄目である。左様な愚な自力心に惑われてはならぬ。我弥陀は、既に我等に代りて、念々刹那に清浄真実の念〈おもい〉を以て、名号を成就せられた。この如来回向の名号を頂いた所が、至誠心であると云うのである。
五。我聖人が、至誠心に就いて、箇様〈かよう〉に徹底的の解釈を下されたことは、前述の通り元より御自身の信仰経験に依ることは明かであるが、自ずから亦師法然聖人に依る所があるのである。法然聖人は、『選択集』三心章に於いて、此の至誠心の釈を引用せられ、其の私釈に
外には精進の相を示し、内には即ち懈怠の心を懐く也。若し夫れ、外を翻して内に蓄えば、祗〈まさ〉に出要に備えつべし。(内賢外賢)
内は仮、外は真なり。若し夫れ、内を翻して外に播〈ほどこ〉さば、亦出要に足りぬべし。(内愚外愚)
と仰せられた。この二つを細かにすれば、所謂四句分別で、四種となる。
一、内賢外賢 二、内愚外賢 三、内賢外愚 四、内愚外愚
此の中、第二の内愚外賢は、正しく所誡の相〈すがた〉であって、他の三つの中、第一の内賢外賢は、通常の訓点に従うたもので、内外ともに真実になった相である。第三の内賢外愚は、文面
(2-142)
には表われておらないけれども、第一と第四とより自ずと生れ来るべき相である。第四の内愚外愚は、実に本願の正機たる悪凡夫の自覚である。法然聖人が、是を指して、第一と内賢外賢と等しく「亦出要に足りぬべし」と仰せられた程意義の深いものである。
我聖人は、此の第四の内愚外愚を以って、法然聖人の此の至誠心に対する見解と見られた。ここには言葉の都合上、賢愚と云う狭い言葉を須いてあるが、賢は賢善精進、愚は愚悪、貪瞋、邪偽である。法然聖人も、文字の上の解釈、即ち理想としては、内賢外賢を用いられたが、善導大師の真意義.即ち事実としては、何処までも悪性の凡夫と自覚することが、至誠心であるとせられた。法然聖人の此の幽旨を、赤裸々に打ち出されたのが、我聖人の上述の解釈である。即ち『愚禿鈔』の巻頭に、
賢者の信を聞いて 愚禿が心を顕わす。
賢者の信は 内は腎にして外は愚也。
愚禿の心は 内は愚にして、外は腎也。
と仰せられた。実に深刻〈ふか〉い信仰告白である。教えの上から云えば、真実の心になって、道を求めよ、虚仮不実であってはならぬというは、当然のことである。然るに我聖人は、真実
(2-143)
心を起そうとしては駄目である。只如来の回向を須いよと云われた。一見、奇矯のようであるが、「真実心になれ」という教えを深く味わわれた最後の声である。真実心になれという教えを聞いて、真実心になったと思うている人は、未だ真に教えを聞かぬ人である。内省の足らぬ人である。即ち真に此の教えを聞く人は、軽々しく真実心になったと自惚れずして、反対に、自己の本性の陰忍と、執拗と、悪毒に驚くのである。此の本性を自覚した所が、法然聖人の所謂、内愚外愚の自覚である。是が即ち如来の至誠心である。我聖人は、師聖人の美わしい内愚外愚の自覚の相を見て、更に御自身の悪性に驚かれ、「賢者の信は、内は腎にして、外は愚也。愚禿が心は、内は愚にして、外は賢なり」と、深く機相を刳〈えぐ〉って、懺悔せられた。
誠に第一者としての信仰の味わいは、[キョウ02]慢の我の折れた謙虚の念である。是を外より見れば、謙遜なる聖者と見えるのである。我聖人が、師法然聖人の内愚外愚の自覚を指して、賢者の信と仰せられたのはここである。而も御自身としては信と云わずして、現実の心を打ち出して内愚外賢と告白せられた処に、美わしい謙虚の信が宿っているのである。此の間の消息は、実感なき人に取りては、多言も会得せしむることを得ず、実感ある人には、一言も
(2-144)
決して少しとはせないのである。
六。「由」字の字訓は、行巻(『第一巻』四五七頁)にも出ている。彼処には「以周反、行也、経也、従也、用也」とあり、今は「経也」を前に出してある。只是故の相違に過ぎぬ。彼処は、「由称名易故」という場合であったが、今は如来が真実心をもって、回向の行を成就せられたという一段で、文勢がここで一転して、絶対他力に依らねばならぬという断案の出る所で、極めて重要である。故に再び「由」字に、字訓を施して、字眼たることを示し給う。
以周の反切で音ユウ、縁由、来由の意で、「よりておこるわけ」、又は「かようなわけによりて」等是である。之を上の四訓にて、意味を豊富にせしめ、助け顕わさしむるのである。「経」は「経る」、如来因位に於いて永劫の時を経たまいしことか。又径と通じて、径路〈みちゆき〉の義となり、往生の径路の意〈こころ〉ともいわる。「行」は「行く」又は「行い」の意、今は行いの方が如来因位の修行に通じて、意味が深いようである。「従」は「より」又は「従う」の意、「より」と云えば、如来より衆生え与え給うの意味となり、「従う」と云えば、如来の真実に従う意味となる。どちらも取るべき説であると思う。「用」は「須〈もちい〉る」こと。如来の真実心中に作し給える至心の名号を須いる意味である。
(2-145)
箇様〈かよう〉に字訓を添うれば、如来が真実心中に作し給いしに「由るから」という断案が、明瞭〈はっきり〉するとともに、又意味が豊富〈ふくよか〉になってくる。どこ迄も細かに行き届かせられた聖人の精神〈みこころ〉の尊く思わるると共に、本書の文字の一つ一つにも、聖人の血が波打っていることが偲ばれる。
凡所施為趣求亦皆真実。
【読方】凡そ施したまう所、趣求をなす、またみな真実なり。
【文科】至誠心の中機法の真実を示さるる一段。
【講義】扨て上の様な訳合〈わけあい〉であるから、弥陀如来の方よりその出来上らせられた真実を悉く衆生に回施〈あたえ〉て下される。その回向が顕われて、衆生の方にも浄土に生れたいという願生の思いがおこる。この衆生の願生の思いは如来の真実がその儘顕われて下されたのであるから、亦真実である。
【余義】一。「所施為趣求」の五文字の上にも、我聖人独特の信仰的解釈が、他の常識的解釈と、水際立ちて鮮かに現われてある。
通常の解釈には、この句は上の文と一連の文と見、「施為、趣求する所、亦皆真実な
(2-146)
り」と読み。
┏施為━━化他┓
┃ ┣━弥陀因位之行
┗趣求━━自行┛
とするのである。即ち施為は、弥陀因位の化他の行、趣求は、其の自行である。鎮西の『伝通記』によれば、施為は法蔵菩薩の下化衆生、趣求は其の上求菩提、之を因願に配当すれば十二、十三、十七、三十一、三十二の五願は、趣求の願であっで、他の四十三願は、皆施為の願である。併しかく配属しても、元四十八の一々の誓願は、自行化他に通ずる訳であるから、どの願も施為であり、趣求である、と云う。西山の『楷定記』一によれば、施為は行、趣求は願、即ち法蔵菩薩の因位の願行とする。この両説は、共に上の文を承けて、阿弥陀仏が、因中に於いて、清浄真実の心を以て、修行をせられたことを述べたから、夫を総括して、凡そ施為の化他も、趣求の自行も、共に真実であると結んだ言葉と見るのである。通常の見解としては、文に親しいように思われる。
二。併し我聖人は、此の常識的の見解に反して、此の一句を深い感興を以て味わわれた。即ち『愚禿鈔』下二丁に「凡そ施したまう所、趣求をなす、亦皆真実なり」と読み、
(2-147)
┏所施━━━弥陀の回向
┗為趣求━━衆生願生の信心
※為趣求(趣求をなす)
とせられた。かようにして、上来述べ来った至誠心の解釈を稟〈う〉けて、ここに一点晴を施したのである。即ち最初に、弥陀回向の真実心を須いよと勧め、進んで、此の理由として、衆生の悪毒なる心をあげ、一転して、如来因位に於ける清浄真実の修行を説いて、回向の真実なることを証明したから、ここに弥陀の所施が箇様に真実であると等しく、衆生の趣求の念も亦真実である。何故と云えば、此の衆生の趣求の信念は、如来回向の真実心を須いたからである、とせられたのである。存覚師は、この下の『六要』に此の点を明示〈しめ〉しておられる。
「凡所施」とは、これ如来の施、仏はこれ能施、「為趣求」とは、これ行者に約す。仏道の趣求なり。これ即ち仏に対して衆生は所施なり。これ如来施与の行を以て、即ち衆生趣求の行となす。能所異りと雖も、倶にこれ如来利他の行なるが故に、之を真実という。仏は能施〈ほどこして〉、吾等衆生は所施〈ほどこされて〉、既に能施〈おあたえ〉が真実であるから、夫を頂いた吾等の信念も亦真実である。この時「亦」字は強い意味を含んでくる。即ち能施の行が真実である如く、所施
(2-148)
の信念も亦真実であるというのである。
良〈まこと〉に実際の感味より云えば、機と法は離れたものでない。吾等の心中に湧き来った信念、それが即ち趣求の念である。能生清浄願往生心である。そして此の自覚そのままが如来の真実である。この趣求の信念を離れては、如来の能施を知ることは出来ぬ。我聖人が、単に他家のように、此の一句を、法蔵菩薩の自行化他という法の方にのみに属せずして、その半ばを吾等の信仰上の実験とせられた処に、宗教的妙趣があるのである。
又真実有二種一者自利真実二者利他真実 乃至 不善三業必須真実心中捨又若起善三業者必須真実心中作不簡内外明闇皆須真実故名至誠心
【読方】また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。乃至 不善の三業をば、かならず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心の中に作したまいしを須いて、内外明闇を簡ばず。みな真実をもちいるがゆえに至誠心となづく。
【字解】一。内外 内は出世聖者、外は世間凡夫。明闇、明は出世、闇は世間。又明は智慧の明かな
(2-149)
ること、智者。闇は智慧なき無明のこと、愚者。
【文科】至誠心の中 真実の意義を示さるる一段である。
【講義】それで、また真実というに二通りの種類がある。一つには自利の真実、即ち自力の真実である。二つには、利他の真実、即ち他力の真実である。乃至 如来は嘗て因位永劫の昔、衆生に成り替らせられて欲覚、瞋覚、害覚を生ぜず、欲想、瞋想、害想を起さず、麁言を遠離し、不善の三業を悉く捨てて下された。久遠の凡夫の私共は.いか程励んでみても、真から不善の三業を捨てることの出来ない奴であるから、自力の廃悪を止めて、仏願にすがって、如来の真実心に捨てて下された御手柄をそのまま貰い受けるより外はない。また私共は、前からいう通り、浄らかな善の三業を修めることの出来ない奴であるから、如来の因位に真実心を以て積んで下された善根功徳をそのまま頂くより外はない。それであるから、聖者でも凡夫でも、智者でも愚者でも、機の差別に拘わりはない。みな悉く如来の真実を貰い受けるのであるから、至誠心と名づけるのである。
【余義】一。此の下の我聖人の解釈は、通常の解釈と非常に相違しておる。西山、鎮西に於いては、この自利々他を自行化他と解し、善導大師は、ここに自利々他の二つの標目を
(2-150)
挙げられたけれども、只自利即ち自行丈の解釈を施して、利他即ち化他の方面を略された。夫は、自行を知れば、化他は自ずと知ることが出来るからと云うのである。試みに『伝通記』一によりて、この下に略されたる疏文を略出して、解釈すれば左の通りである。
また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。自利真実というは、また二種あり。一には、真実心の中に、自他の諸悪、及び穢国等を制捨して、行往座臥に、一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、我も亦かくの如くせんと思う(以上は、総じて、厭捨悪、欣修善に就いて真実心を明す。)二には、真実心の中に、自他凡聖等の善を勧修す。真実心の中の口業に、かく阿弥陀仏及び依正二報を讃嘆す。また真実心の中の口業に、三界六道等の自他の依正二報の苦悪の事を毀厭す等(以上は別して三業の厭欣に就いて真実心を明す)。不善の三業は必ず真実心の中に捨つべし。又若し善の三業を起さば等
(以上は、合わせて三業の遠近(始終)を結ぶ)。
是を総別結の解釈と称す。かように、此の下は自利真実(自行)の釈丈で、利他真実(化他)の釈は態〈わざ〉と略されたと解するのである。
二。然るに我聖人は、此の自利、利他を『論註』の他利々他の深義の解釈によりて、是を
(2-151)
自力他力と見、『伝通記』に所謂総別の二文を自力真実として『化巻』に引用して、ここには只標目丈をあげ、最後の結の文たる「不善の三業」等を利他真実(他力真実)の文としてここに掲げられた。即ち『愚禿鈔』下に、「利他真実に就いて、亦二種あり」と標して、上の所施趣求の文と、此の「不善の三業」等の文を挙げられてある。
我聖人のこの解釈は、上の解釈より必然的に流れ来るもので、毫も怪しむに足らぬ。疏文に、「又真実に二種あり」と標しながら、自利真実の解釈丈で、利他真実の解釈が明示されてない。然るに単に文面に拘泥して、自利々他を自行化他としては此の一段が非常に浅薄〈うすっぺら〉となって仕舞う。これ上来既に「須真実心中作」を「真実心中に作すべし」と読まずして、「真実心中に作し給えるを須いよ」とよみて、他力真実を力説せられた我聖人に取りては、不可能〈できない〉ことである。是に於いて、眼光紙背に徹する聖人は、上の「真実心中に作したまえるを須いよ」の筆格に従って、殆んど必然的に、「不善三業必須真実心中捨」等の文を「不善の三業は、必ず真実心の中に捨てたまいしを須いよ」等と読まるるに至った。かくて、至誠心の釈の下に、自力真実と、他力回向の真実の二つを、明かにし給いて、自力真実は『化巻』に引き、他力真実は、ここに引用せられた為に、善導大師の幽意は、ここ
(2-152)
に始めて、円かに表出せられたのである。
二者深心言深心者即是深信之心也亦有二種一者決定深信自身現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転無有出離之縁二者決定深信彼阿弥陀仏四十八願摂受衆生無疑無慮乗彼願力定得往生
【読方】二には探心、深心というは即ちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定してふかく、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二には決定してふかく、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂取し給う。疑いなく慮〈おもんぱか〉りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生をうと信ず。
【字解】一。曠劫 曠は遠の義、遠い昔から重ねた劫。長い長い時間のこと。
二。出離之縁 生死の世界を離れ出づる縁(手ががり)。
【文科】七深心の中、初めに二種深心をあげたまう一段である。
【講義】三心の中で、第二が深心、この深心というはいかなることかいうに、深く信ずる
(2-153)
心という義で、不了仏智の疑を雑れて、名号の御謂れを深く信ずることである。この深心が又ニ種に分れる。一には、我が身は、現在只今、朝から晩まで、悪をなし罪を作って居る生死の凡夫であって、久遠の昔からこの生死海に浮きつ沈みつして涯しなく、永劫の末かけても、自分の力では、到底、生死海を出離〈はな〉れることの出来ない奴であると、深く治定して信ずることである。二には阿弥陀如来の起して下された四十八願は、全くこの我等衆生を摂取して下さるための本願である。それであるから私共が、疑わずあやぶまず、仰せのままに、本願にすがれば、必ず往生を得させて下さるに間違ないと、治定して深く信ずることである。
【余義】一。此の深心に就いて、論ぜねばならぬこと、味わわねばならぬことは、甚だ多い。先ず始めに、七深心の綱格、関係を見ねばならぬ。
是を知るに、『愚禿鈔』の此の下を繙くが、一番近道であると思う。同鈔、初めに「二者深心」と標して、本典と同じく二種深心をあげ、終りに、
今斯の深信は、他力至極之金剛心、一乗無上之真実信海也。
と断案を下し、更に
(2-154)
文の意〈こころ〉を按ずるに、深信に就いて、七深信あり、六決定あり。七深信者(七深信とは)
第一の深信は、決定して自身を深信する、即ち是れ自利の信心なり。
第二の深信は、決定して乗彼願力を深信する、即ち是れ利他の信海なり。
第三には、決定して観経を深信す。第四には、決定して弥陀経を深信す。
第五には唯〈ただ〉仏語を信じ、決定して行による。第六には此の経に依りて深信す。
第七には又深心の深信は決定して自心を建立せよ。
この御指南〈おさしず〉によりて見るも、聖人が、七深信の中、特に機法二種深信を至要とせられたことが知られる。七深信の中、第一は機の深信、第二は法の深心、そして第三以下は、法の深信を広説したものである。即ち第三より第六までは釈迦諸仏の言葉によりで、法の深信を信ぜしむるにある。そして第七深信は、法の深信を人法の二つに分かちて深信せしめる。人は釈迦諸仏、行は正行である。釈迦諸仏の言葉を信ずるが就人立信、その人の勧めを信ずるが就行立信である。二方面より云うたものであるが、帰する所は、弥陀如来の四十八願を信ぜしむるにある。この意味に於いて、七種深信は全く機法二種深信に摂まることとなる。
(2-155)
┏第一、機深信
┃
大経━┫ ┏第三、釈迦 観経
┃ ┣第四、諸仏 小経
┗第二、法深信━╋第五、三仏 三経
┣第六、釈迦 観経
┗第七、諸仏 小経
二。上の『愚禿鈔』に、我聖人は「此の深信は他力至極之金剛心である」と仰せられ、『略本』には、『礼讃』の文を引きて「深心即是真実信心」と明瞭に仰せられた。即ち此の深信は、本願の三信の一たる信楽に当るのである。而も信楽とは、如来の本願を二心なく深く信ずることである。若し信楽と深信と同一であるとすれば、信楽にも機法の二種あることとなり、無有出離之縁の悪機を歓喜し愛楽することとならねばならぬ。
この衝突は如何にして、和会するかと云えば、是は単に言葉の相違であって、信心の体の相違ではないのである。信楽と云う時は、深く信ずるという法の深信が表になりて、機の深信は、其の裏に隠れておる。然るに此の深心は、この信楽の内容を打ち出して、本願の正
(2-156)
機を示されたのである。故に『化巻』(『御自釈』四六丁)には
大経には、信楽と言えり。如来の誓願、疑蓋雑わることなきが故に信と言うなり。観経には、深心と説けり。諸機の浅信に対する故に、深と云える也。
と仰せられて、信楽と深心の同一を示さるとともに、言葉の相違の中に、自ずと相対〈あいたい〉する所の異ることを示された。信楽は、単に疑いなく信ずるという信仰の一面を表わし、深心は、自力の浅信に対して、如来回向の深い根底ある信仰たる方面を表明せられたのである。従って意味深遠なる二種深信となったのである。更に言葉の源に就いて云えば、信楽は大経の三信の一であるから、法の方を表わし、深心は観経の三心の一であるから。機に受けた方面を打出したのである。
三、然らば一信心たる深信と、二種深信の関係はどうであるかと云えば、此の下の『六要』には
深等と言うは、能信の相を明かす。亦有等とは、所信の事を明す。是れ即ち機法二種の信心なり。
と云いて、一心は能信、ニ種深信は所信の事である。一の灯火〈ともしび〉が、一室の上下を照すよう
(2-157)
なものであると解しておられる。本願を二心なく信ずる信心が、機を照らす時は、機の深信となり、法に向かう時は、法の深信となると云うのである。
更に進んで、機の深信の内容に論及し
無有等とは、正しく有善無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力にあることを明かす。聖道の諸教は、盛んに生仏一如の理を談ずれども、今教は自力の功なきことを知るに依りて偏に仏力に帰す。之に依りて、此の信殊に最要也。
と云うてある。前の解釈とともに簡単であるが、実に要領を得ている名釈である。故に多くの先輩は、存覚帥のこの説に従いて、一心二種の問題を解釈しているのは、尤もの次第である。
上述の如く『六要』には、聖道の諸教は、盛んに生仏一如の理を談ずれども、他力の教は、自力の無功を知りて、他力に帰するのであると云うてある。即ちこの自力無功と自覚することが、甚だ重要であるから、存覚師も、此の機の深信は、殊に最要であると云うておられる。
宗教の第一歩は、実に此の自己を知ると云うことである。真に自己の何者たるかを自覚す
(2-158)
る所に、真信仰が生まれてくるのである。吾々は、稍もすれば、自己に徹底することを忘れて、如来を信じ、往生を願がわんとする。此の時は、単に平安を得たい、力を得たい、落着き場が得たいという欲心丈が先に立ちて、本願の御目的〈おんめあて〉である所の自分の本性は、心の奥に隠れておる。夫であるから、いつ迄たっても本願の謂われを知ることは出来ぬ。吾々は初めに外に向かいて、如来を求めた心を、内に向けねばならぬ。
よもすがら、仏の道を求むれば、
我心にぞ、尋ね入りぬる。
源信和尚の歌と称せらる、此の歌のように、我心に尋ね入る、即ち我心の何者たるかを自覚するのである。簇〈むら〉がり起こる心の表皮〈うわかわ〉を引き破り、引きちぎり、真実の自分の相に徹底する時に、平生には考えることすらも出来なかった自己の真相に驚くのである。善導大師は、其の真実の自己に当面されて、あの「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫」等と叫ばれたのである。併し是は、決して善導大師丈の実感ではない。何人〈なんびと〉でも、如実に自己を見る時には、ここに衝〈ぶつ〉からざるを得ない。是が機の深信である。されど真にこの機相に触れた一念同時に、如来大悲の本願を信受する。「罪悪生死の凡夫」と感知し、「無有出離之縁」と自覚する
(2-159)
同時に、存覚師の所謂「自力無功を知りて、偏に仏力に帰」するのである。
故に機の深信と云うことは、自力の行き詰まったことである。吾等の久遠劫来の本性は、此の自力我慢である。他人の心も、天地間の凡ても、皆自分の自由にしたい、思う通りにしたいと云う心である。この自己の本性に触れ、自力無功を自覚して、精神的に叩き落ちた所が、大悲の至極に触れた所である。機を信じて、その後に或る時間を隔てて法を信ずると云うような生温〈なまぬる〉いものではない。人生の凡てが当〈あて〉にならず、自力の凡てが力とならず、只本願に向かう其のせっぱ詰まった所である。そこが信仰の生れる所である。信仰其の者である。折り返して云えば、この自己の真相に触れると同時に、本願を信知する。其の処を文字に打ち出したのが、大師の機法二種深信である。暫くニつに分けたものの、実は一体の両面であって、分かつことは出来ぬ。故にどの一つを握〈つか〉んで、之より外はないと骨張してはならぬ。存覚師は、この点を注意せられて、深信は能信、二種深信は、所信の事であるとせられたのである。
機法二種深信は、一体の両面であって、決して離るべきものでないと云うことを示す為に、存覚師は、この二深信を、能信の深心に対する所信とせられたが、然らば、能信と
(2-160)
所信との関係はどうであるか。
能所の関係は、恰〈ちょう〉ど機法二種深信の関係のようなもので、実は判然と分かつことは出来ないのである。即ち能信とは、信じ手の側、所信は信ぜられるものがらである。信ずると云うことは、信ぜられる事〈ものがら〉の外はない。又信ぜられる事〈ものがら〉は、信ずると云うことを離れては、無意義である。一応分けて云えば「決定して深く信ずる」能信と、「罪悪生死の凡夫」「阿弥陀仏の四十八願」の所信の区別をつけるけれども、この二つが揮然として、一信心をなすので、決して分かつことは出来ぬ。即ち二種深信は、深心の内容である。深心其の者である。信の一念に必ず具わる二種の信相である。故に我聖人は、上述の如く、『愚禿鈔』にこの二種深信を標して、「今斯の深信は、他力至極の金剛心」等と仰せられたのである。説明の便宜上、機法とか、能所とかと云う範疇を須いるのであるが、是等は、電気に於ける電線のようなものであるから、吾等は、是によりて、活きた信力に触れるばかりである。
四。弥陀を信ずると云うことが、単に、一心帰命と発表せられた場合には、起こらなかった問題が、この機の深信の発表によりて起こった。夫は此の機の深信が、凡夫のみならず聖者にも通ずるのであるかと云う問題である。是を凡聖通局論と称す。
(2-161)
この問題は、見方によりては、甚だ有益にして、興味あるものである。即ち言葉を換えて云えば、他力宗教に於ける聖者の意義とでも云うべきである。所が一方他力教それ自身に於いても、龍樹、天親の二祖を菩薩と称して聖者の部類に入れてあり、そして二祖の著書の上にも、この機の深信が明示されてない為に、この問題は、内外の聖者に対する興味あるものとなったのである。
従って問題の起因〈おこり〉は、甚だ簡単である。即ち聖者の意義である。自力の修道によりて得たる証りは、果して真正なる証りであるかと云うことである。所謂聖者と称せらるる人々は、卓越したる能力を以って、凡人以上の高尚なる精神生活をしていても、其の中心に迷いの根の断ち切れておらぬかどうかと云うのである。聖道の教にありては、盛んに衆生も仏も同一であると談じて、道を修めておるけれども、或いは天に向かいて、バベルの塔を築いているような愚を演じておるのでなかろうか。素〈もと〉より漸次に努力すれば、凡人以上の高い立場の上に立つことが出来るけれども、上〈のぼ〉れば上るほど、衷心は益〈ますます〉絶対に対して取りつくことの出来ぬ悩みがあるのでないか。若しその悩みを感ぜずして、自己の現在の立場を楽しみ夫を自負し、夫を固執するならば、知らず知らず[キョウ02]慢の煩悩に捕えていると云わねばなら
(2-162)
ぬ。強く云えば、人間として生れた以上は、純善無漏の聖者と云わる人は一人もなく、皆中心には、迷いの根切れのしない所がありわせぬかと云うのである。龍樹、天親二祖の如きも、善導大師の如く、明瞭に機相を打ち出されてはないけれども、一心に如来に乗托せられたことに依りて見れば、或いは罪悪の根底たる自我の真相に触れて、自力無功を自覚して他力に帰せられたことかも知れぬ。聖者と凡夫の間には、境遇や思想の相違から、等しく自力無功を自覚するにも、其の感味は種々に異なることであろうが、其の自己の真相に触れる点に至っては、同一であるかも知れぬ。或いは聖者の方が、自力の高い山上から叩き落ちる点に於いて、一層明快に此の機相を自覚するかも知れぬ。我聖人の胸中には、御自身の実験上から、此の凡聖是一の思想をもっておられたことは明かであるように思われる。
我聖人は『大経』下巻に於いて、此の凡聖同一の教えを味わわれた。即ち大聖釈尊は、聖道門の代表的人物とも称すべき弥勒菩薩に対して、
汝及び十方の諸天人民、一切の四衆、永劫より以来五道に展転して、憂畏勤苦すること具に言うべからず。乃至 今世まで生死絶えず、仏と相値〈あいお〉うて経法を聴受し、又復無量寿仏を聞くことを得たり。
(2-163)
と仰せられた。ここに至りては、「無数劫より来〈このかた〉、菩薩の行を修し」たる弥勒菩薩も、我我凡夫と、全く同一に見倣されておる。「五道に輾々して生死絶えず」は、機の深信、「復無量寿仏を聞くことを得たり」は、法の深信である。我聖人は、この教えによりて、『唯信文意』十四丁に
大小の聖人、善悪の凡夫の、みずからが身のよしと思う心をすて、身をたのまず、あしき心をさかしくかえりみず、また人をよしあしと思う心をすてて、ひとすじに、具縛の凡夫、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の誓願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。
と仰せられ、『行巻』(『第一巻』六一二頁)には
大小の聖人、重軽の悪人、皆同じく斉しく、選択の大宝海に帰し、念仏成仏すべし。
と云い、『和讃』善導大師の下に「煩悩具足と信知して(機深信)、本願力に乗ずれば(法深信)」。の二種深信の次上に
願力成就の報土には 自力の心行いたらねば
大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり。
(2-164)
と、凡聖同一を示された。我聖人の此の確信は、単に教権によりて得られたのではなくして、深く自己を省察せられた結果である。人間は何処まで進んでも、煩悩の根を断つことは出来ぬ。即ち自力の心を捨てることは出来ぬ。この点を見破って、釈尊は補処の弥勒菩薩に対して、生死輪回の身と知れと、自覚を促されたのである。ここに自力を執ずる人の悲みがあるのであるが、又その悲痛を一念自覚するならば非常なる喜びが湧くのである。故に他力本願の教ゆる所は、外儀のすがたを省みることは要らぬ。凡聖善悪のそのまま、姿を改めず、只自力の心をすて、身をよしと思う心をすてて、本願に帰するのである。この自力の心をすつるは、出離の縁あることなしと信ずる機の深信である。そして亦他力回向の心である。
我聖人の凡聖同一論の前には、俗世間の称讃を博する聖者徳者、並びに各種の方面に能力を有する人々は、特に[キョウ02]倣なる我〈が〉の真相を省みて、他力本願に本づかぬばならぬ。
五。因みに上(一五四頁)に引きたる『愚禿鈔』の文中、七深信の第一に、「決定して、自身を深信する、即ち是れ自利の信心也」とあり。是に対して第二の深信を「即ち是れ利他の信海也」と云うてある。古来この自利々他の言葉を、上に述べた自利真実、利他真実の如
(2-165)
くに自力他力と解して、自利の信心を自力の信心となし、機の深信自力を主張する人もあったが、大谷派の香月院師は、我聖人の用いられた自利々他の言葉には、場合によりて、四種の異なる意義があることを闡明せられた。是は甚だ有益なる説であるから、左に之を図解する。
┏━自力
┃ ┏信機
自利々他四意義┫ ┏自信━┫
┃ ┏━往相━┫ ┗信法
┗━他力┫ ┗教人信
┗━還相
第一の場合は、上の至誠心の下に出でたる自利真実、利他真実である。この時は、自利は自力、利他は他力の異名である。第二の場合は『愚禿鈔』下十七丁に出づる解釈で、往還二回向を挙げ、第一の往相回向の傍註に自利、還相回向の傍註には利他とせられてある。この時は、図の如く他力の中で、住相は自身の極楽往生であるから自利とし、還相は衆生済度の為であるから利他とせられたのである。第三の場合は、往相の中で、又自利々他と分かれ、自信は自利、教人信は利他であると云う。『二門偈』に因の五念の中、初めの礼
(2-166)
拝、讃嘆、作願、観察の四念門は、自身の往生の行即ち自行であるから自利、第五の回向門は、教人信即ち化他であるから利他であるとせられてある。第四の場合は、自信の上に自利々他の二つと分れる。機を信ずるは自利、法を信ずるは利他、今の『禿鈔』の信機信法を自利々他とせられたのは夫である。
又決定深信釈迦仏説此観経三福九品定散二善証讃彼仏依正二報使人忻慕又決定深信弥陀経中十方恒抄諸仏証勧一切凡夫決定得生
【読方】また決定してふかく、釈迦仏、この観経の三福、九品、定散二善をときて、かの仏の依正二報を証讃して、ひとをして忻慕せしむと信ず。また決定してふかく、弥陀経のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して、決定して生ずることをうと信ずるなり。
【字解】一。三福 世福(世間の道徳。父母に孝養すること。師長に奉事すること。慈心を以て殺生せざること。十善業を修めること)。戒福(仏の定られたる戒律。仏法僧の三宝に帰依すること。衆戒を守ること。威儀を犯さぬこと。)行福(大乗の教える修行。菩提心を発し、因果の理法を信じ、大乗経典を読み、他の行者に勧めること。)
(2-167)
二。九品 浄土の散善の機類を、行の勝劣に従って九種に分類せるもの。上に三品、中に三品、下に三品を頒〈わ〉かつ。之を上の三福に配当すれば
上三品 行福
中上品
九品 中中品 戒福 三福
中下品 世福
下三品 無三福の悪人
三。定散二善 定善(慮〈おもんぱかり〉を息め、心を凝〈こら〉して観想すること(観法によりて獲る善)。散善(悪を廃めて、善を修めること。)上の三福を修めること。
四。依正二報 依報、正報のこと。依報は、有情の所依となる果報。山河、大地、衣服、飲食等を指す。正報は、依報に対す。正しく自己の業因によりて獲たろ正〈まさ〉しき果報。有情の肉体精神を指す。
五。十方 東西南北、四維、上下の十方。
六。恒沙諸仏 印度の大河恒河の沙の教程多数の仏方〈ほとけがた〉の意。一切諸仏のこと。
【文科】七深心の中、第三『観経』深心、第四『弥陀経』探心をあげ給う。
【講義】また、釈迦如来が、この『観無量寿経』に三福と九品と定善散善とを説いて、彼の阿弥陀如来の浄土の依報荘厳と正報荘厳を示し、極楽浄土はこういう浄土であると証
(2-168)
誠し、こういう結構な浄土であると讃嘆して、衆生をして浄土を忻い慕わしめ給うたことを治定して深く信ずるのである。
また、『阿弥陀経』の中に、十方世界の数限りもない多くの諸仏が、自ら証拠に立ち給うて、すべての衆生に弥陀如来を信ぜよと一様に、勧めて下されたことを、治定して深く信ずるのである。
【余義】一。この第三深信は、『化巻』の第十九願の下にも引いてある。其の理由はどうかと云えば、『観経』に隠顕両義があるから、此の文にも両義ありとて、信化両巻に引かれたのである。即ち顕の義よりこの文を見れば、観経は定散二善等を説いて、人をして浄土を忻慕せしめ、自力回向の行を励ましむることとなり、隠の義より見れば、『観経』に定散二善等を説かれたのは、人をして浄土を忻慕せしむる方便であって、遂に『大経』が真実に入らしめんが為であると信ずるを云う。
二。第四深信も亦『化巻』第二十願の下に引用せられてある。是も『観経』と等しく、隠顕の両義があるからである。顕説より云えば、十方諸仏の証誠する所は、大善大功徳の名号を称える力で往生を決定すると信ずることである。隠説より云えば、諸仏の証誠するのは、
(2-169)
自力念仏を励むことではない。只極楽信の名号の謂われを信ぜしめて、往生せしめんとすることを信ずることである。故に顕の義によりて『化巻』に引き、隠の義によりて、『信巻』に引用せられたのである。
又深信者仰願一切行者等一心唯信仏語不顧身命決定依行仏遣捨者即捨仏遣行者即行仏遣去処即去是名随順仏教随順仏意是名随順仏願是名真仏弟子
【読方】また深信する者あおぎ願わくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて、身命をかえりみず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまう者をばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまうものをばすなわち行じ、仏の去らしめたまう処をばすなわち去る。これを仏教に随順し.仏意に随順すとなづく。これを仏願に随順すとなづく。これを真の仏弟子となづく。
【文科】七深心の中、第五深心をあげ給う。
【講義】斯ういう具合に深く信ずる人達よ、すべての行者達よ、どうぞ願くは、専一の心を以て、唯、仏陀の御語のみを信仰し、自分の身も命も惜まず、押し切って、念仏の一
(2-170)
行に依り、仏の捨てよと仰せられる雑行雑修はこれを捨て、仏の行ぜよと仰せられる専修正行はこれを行じ、仏の去〈ゆ〉けよと仰せられる御浄土へ往生するがよい。これを釈迦如来の御教に随い、諸仏如来の御心に随い、阿弥陀如来の本願に随うと名づけるのである。こういう行者を真の仏弟子と名づけるのである。
又一切行者但能依此経深信行者必不誤衆生也何以故仏是満足大悲人故実語故除仏已還智行未満在其学地由有正習二障未除果願未円此等凡聖縦使測量諸仏教意未能決了雖有平章要須請仏証為定也若称仏意即印可言如是如是若不可仏意者即言汝等所説是義不如是不印者即同無記無利無益之語仏印可者即随順仏之正教若仏所有言説即是正教正義正行正解正業正智若多若少衆不問菩薩人天等定其是非也若仏所説即是了教菩薩等説尽名不了教也応知是故今時仰勧一切有縁往生人等唯可深信仏語専注奉行不可信用菩
薩等不相応教以為疑碍抱惑自迷廃失往生之大益也 乃至
【読方】また一切の行者、ただよくこの経によりてふかく行を信ずるは、かならず衆生を誤らざるなり。何を以てのゆえに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語したまうがゆえに、仏をのぞきて已還は智行いまだ満ぜず、その学地にありて正習の二障ありて、いまだ除かざるによりて果願いまだ円ならず。此等の凡聖はたとい諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたわず。平章ありと雖も、かならずすべからく仏証をこうて定とすべきなり。もし仏意にかなえば、すなわち印可して如是如是とのたまう。もし仏意にかなわざるをば、すなわち汝等が所説この義不如是とのたまう。印せざるはすなわち無記、無利、無益の語におなじ。仏の印可したまう者は、すなわち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説はすなわちこれ正教、正義、正行、正解、正業、正智なり、もしは多もしは少、すべて菩薩人天等をとわず、その是非を定む。もし仏の所説はすなわちこれ了教なり。菩薩等の説をばことごとく不了教となづくるなり。知るべし。この故に今の時、あおいで一切有縁の往生人等をすすむ。ただふかく仏語を信じて、専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教えを信用して、もて疑碍をなし、惑いを抱きて自らまどいて、往生の大益を廃失すべからず 乃至
【字解】一。学地 因位の修行時代をいう。この間は未だ学ばねばならぬ位地にある故に有学地という。今は略して学地という。之に対して真の証りに至る位を無学地という。
(2-172)
二。正習二障 煩悩と、煩悩の習気のこと。正とは正使、煩悩を正使という。凡夫は常に煩悩の為に使わるるにより煩悩を使という。其の正〈まさ〉しき体たる見惑、修惑を指して正使というのである。之に対して、其の煩悩の気分の残っているのを習気という。
三。果願 涅槃の果を求むる願のこと。
四。凡聖 凡夫と聖者。修行の階位中、初住(不退位)以上を聖者、初住以下即ち十信以下を凡夫という。
五。平章 平は正すこと、章は明かなること。ものを正し明かにすること。
六。無記 善、悪、無記の無記にあらず、記は記別の義であって、意味を分別してこうこうだと決定すること。ここには、無意味という程の意。
七。正教 正しい教。
八。正義 其の教えに含まれたる正しい義理。
九。正行 正しい仏法の修行。
一〇。正解 智慧を以て、正しく教えを了解すること。
一一。正業 業は動作、正しい威儀を具えた立居振舞。
一二。正智 正しい仏法の智慧。
【文科】七深心の中、第六深心をあげたまう。
(2-173)
【講義】また、すべての行者達よ、担、この『観無量寿経』に依って、深く念仏の一行を信仰する人は、自ら道をあやまたないのみならず、又他の衆生を誤たしむるようなことはない。何故ならば、一切の生あるものの中、仏のみ大悲を満足し給うた方であり、仏のみ、真実の語を宣〈のたま〉う方であるからである。菩薩と雖も、仏果に達し給わぬ中は、満足大悲の方とは曰われない。また誠に諸法の奥底を極め尽した方でないから、真実の語〈ことば〉を宣う方とは曰われない。仏を除いては、いかなる菩薩でも、智慧も修行も未だ充分といふう所に達せないので、因位の修行時代にあって、煩悩も煩悩の習気も未だ断じ尽くされず、仏果を求むる願がまだ満足せられないのである。これらの凡聖菩薩方は、どんなに諸仏の教意〈みこころ〉を押し測っても、はっきりとこうだとあきらかにすることは出来ないのである。また仮令〈たとえ〉自ら諸法の道理をただしあきらめられても、仏の御証明を得て始めて定量とし給うのである。もし菩薩の意見が、仏の御意〈みこころ〉に契えば、仏は如是如是と印可し給うが、御意に契わなければ、御前達のいう所の義理は不知是であると宣うのである。印可〈おゆる〉しにならない時には、無意味な、無利益な語と同じいのである。もし印可〈おゆる〉しになった時には、仏の正しい御教えに相応したのである。すべて仏の御語はいかなるものでも、その能詮〈あらわして〉の側からいえば、正し
(2-174)
い教えであり、所詮〈あらわせて〉の側からいえば、正しい義理である。又、正しい仏法の修行と、正しい仏法の解了〈さとり〉と、正しい威儀を具えた立居振舞と、正しい仏法の智慧を教えて下されるのである。菩薩でも人間でも、天上人でも、多人数にせよ、少人数にせよ.これらのものの意見は、みな仏が、その意見の是非〈よしあし〉を定め給うので、仏の説き給う所は、みな決了の教えであるが、菩薩以下の説き給う所は、すべて、未決了の教えというのである。こういう訳柄〈わけがら〉であるから、今私は、一切の御縁ある往生を願う人達に励めていいたい。どうぞ、深く仏の御語〈みことば〉を信仰して、身を入れて奉戴して頂きたい。菩薩以下の、仏の御教えと相応せない不了義の教えを信仰して、それに惑わされて、疑を抱き、惑いを起こして、自分から誤って、浄土往生の大利益を失うようなことをして頂きたくないのである。
釈迦指勧一切凡夫尽此一身専念専修捨命已後定生彼国者即十方諸仏悉皆同讃同勧同証何以故同体大悲故一仏所化即是一切仏化一切仏化即是一仏所化即弥陀経中説釈迦讃嘆極楽種種荘厳又勧一切凡夫一日七日一心専念弥陀名号
定得往生次下文云十方各有恒河沙等諸仏同讃釈迦能於五濁悪時悪世界悪衆生悪見悪煩悩悪邪無信盛時指讃弥陀名号勧励衆生称念必得往生即其証也又十方仏等恐畏衆生不信釈迦一仏所説即共同心同時各出舌相遍覆三千世界説誠実言汝等衆生皆応信是釈迦所説所讃所証一切凡夫不問罪福多少時節久近但能上尽百年下至一日七日一心専念弥陀名号定得往生必無疑也是故一仏所説即一切仏同証誠其事也此名就人立信也 乃至
【読方】釈迦一切の凡夫をおしえ、勧めてこの一身をつくして、専念専修して、命を捨ててのち、定めて彼の国に生るれば、すなわち十方諸仏ことごとくみなおなじく讃〈ほ〉め、おなじく勧め、おなじく証したまう。何を以ての故に、同体の大悲なるがゆえに、一仏の所化はすなわちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は即ちこれ一仏の所化なり。すなわち弥陀経のなかにとかく、釈迦、極楽の種々の荘厳を讃嘆したまう。また一切の凡夫をすすめて、一日七日一心にもっぱら、弥陀の名号を念ぜしめて、定めて往生をえしめたまう。次下の文にのたまわく十方のおのおの恒河沙等の諸仏ましまして、おなじく釈迦よく五濁、悪時、悪世界、悪衆生、悪見、悪煩悩、悪邪、無信のさかりなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して、衆生を勧励して、称念すればかならず
(2-176)
往生をうとほめたまう。即ちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことを恐れて、即ち共に同心同時におのおの舌相をいだして、あまねく三千世界におおうて、誠実の言をときたまわく、汝等衆生 みなこの釈迦の所説、所讃、所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近をとわず、ただよくかみ百年をつくし、しも一日七日にいたるまで、一心にもはら弥陀の名号を念ずれば、定めて往生をうること、必ず疑いなきなり。このゆえに一仏の所説をば、すなわち一切の仏、おなじくその事を証誠したまう。これを人について信を立すとなづくるなり。乃至
【字解】一。専念 専ら念仏一行を称うること。
二。専修 五専修(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆)。ここは、専ら修むる意〈こころ〉にして、念仏一行を専修すること。専念に同じ。
三。同体大悲 諸仏の慈悲をいう。三世諸仏の慈悲とは、衆生をして弥陀の浄土へ往生せしむることである。故に諸仏の慈悲は、弥陀と同体の大悲である。
【文科】七深心の中第七深心の一部たる就人立信を示したまう。
【講義】釈迦如来は、あらゆる凡夫を教え勧めて、弥陀の浄土を願生せしめ、この身体のある限り、ひたすら、念仏の一行を修せしめ、命終って後に極楽に往生させて下さるのであるが、十方に在す、あらゆる諸仏も、釈迦如来と同じいように、念仏の一行を讃嘆
(2-177)
し、信心を勧め、自ら証拠に立って下されるのである。斯くの如く、釈迦如来を始め、一切の諸仏がすべて皆、弥陀如来の名号を称えよと御勧めなされるは、何故であろうかというに、弥陀の大悲も、諸仏の大悲も目指す所は同じい所にあるからである。何故ならば、諸仏というも、もとは弥陀一仏より顕われ給うたので、諸仏の大悲は畢竟するに、一切衆生をして、弥陀の浄土に往生させたいということであるからである。こういう訳合〈わけあい〉であるから、一仏の化益し給う衆生は、同時に一切の仏の化益し給う衆生であり、一切の仏の化益し給う衆生は、同時に一仏の化益し給う衆生である。斯くの如く、諸仏如来の大悲は全く同じいものであるから、釈迦も諸仏も、同様に弥陀如来の名号を讃嘆し、念仏一行を修せよと御勧め下されるのである。『阿弥陀経』の中には、釈迦如来は語〈ことば〉を極めて、極楽浄土のいろいろの荘厳を讃嘆遊ばされ、又、すべての凡夫を勧めて、一日乃至七日の間、一心に弥陀の名号を称えしめて、往生を得させて下されてある。『阿弥陀経』の終りの方の御文には、十方の世界に、恒河の沙の数程の諸仏が在して、口を揃えて、釈迦如来が、能くもこういう五濁の悪時悪世界、悪衆生、悪見、悪煩悩、悪邪、無信仰の時代に、弥陀の名号を讃嘆し、衆生を勧め励まして、名号を称念〈とな〉うれば、必ず往生が出来ると説き給うたことぞと讃嘆
(2-178)
せられたと説いてある。これは釈迦如来と諸仏とが、同体の大悲で、同じように讃嘆勧信なされる証拠である。又、十方に在ます諸仏方は、衆生が、釈迦如来御一方〈おひとかた〉の説法を信ぜないようなことがあってはと心配して、同体の大悲心から釈迦如来の『阿弥陀経』を説かせらるると、同時に、銘々、広長の舌相を出して、三千世界を覆い、汝等衆生、この釈迦如来の説き給う所、讃嘆し給う所、証誠し給う所を信仰せよ。あらゆる凡夫、いかなるものでも、罪業、福徳の多少に拘わらず、念仏を修する時節の長い短いには依らず、但、上は生命のある限り、下は一日乃至七日の間でも、一心にひたすら、阿弥陀如来の名号を称えさえすれば、必ず往生が出来るぞ、これには微塵も疑いの余地はないぞよと、偽りのない説法をなされたのである。こういう具合に、釈迦一仏の説法を、一切の諸仏が、証明遊ばされたのである、上来説き来った所は、釈迦諸仏の能説の人に就いて信を立てるのであるから、就人立信というのである。
【余義】一。此の第七深信の初め四十余行は略され、中程からの文を当巻に引用せられた。そして初めの就人立信の文は、『化巻』第二十願の下に再出せられ、次の就行立信の文も、『化巻』第十九願の下にも引用せられてある。其の上『愚禿鈔』下九丁には、此の第七深信の傍
(2-179)
註に『自利信心』を標せられてある。是等を総合して、古来の註釈家は、此の第七深信に対して、二様の解釈を下しておる。
第一説によれば、此の深信は自力他力に通ずると云う。其の模様はどうかと云えば、既に此の第七深信の文を我祖は信化両巻に引用されたことによりて知られる。当巻に引用された文は、既に『化巻』にも引用されてあるから、此の説を確かにするは云う迄もないが、初めに略された四重破人の文も、其の意〈こころ〉は、次の回向発願心の釈に出づる「此の心深信せること、金剛の若くなるに由て、一切の異学、異見、別解、別行の人等の為に、動乱破壊せられず」と全く同じであるから、矢張り他力に通ずる。そして同時に自力の信を建立する方に解せられるから、自力に通ずることは云う迄もない。夫であるから此の第七深信全体が、自力他力に通ずると云うのである。そして『禿鈔』の自利信心の標註は、上の第五、第六の純他力に対して、此の深信の自力の方面を指されたのであると云う。
第二説に依れば、此の深信は、要門より弘願に移る次第を示したものであると云う。即ち、初め略された四重の破人の文は、自分の方で信心を固め、如何なる難破を加えられても、決して所信を翻さないと自心を建立する文であるから、明かに自力の信心である。故に『愚
(2-180)
禿鈔』に「自利信心」と標註し、「自心を建立する」と仰せられたのである。併しながら、此の自力の心はやがて、他力に転ずべきものであるから、暗に他力の信心を含めて説いてある。そして後には利他の信心に結帰してあると見るのが、我聖人の微意であると云うのである。
二。第七深信に対する我聖人の見解は、大凡そこの両説に結帰するように思われる。両説のどちらでもよいようであるが、其の特長を云えば、第一説の方は、理路が明瞭であるように思われる。文章の何処から何処までが、自力他力と分かつよりも、此の七深信全体の上に自力他力を分かつ方が判然するようである。併し自力より他力に移る相〈すがた〉を示したとする第二説の方は亦味わいが深い。自力他力と云うことは、文字の上にては、極めて截然たる区別がついているようであるが、実際の心の上では、そう判然と水際の立つものでない。是の種の味わいの方面から云えば、第二説の方が趣きが深いと云わねばならぬ。故に両説を合糅〈いっしょ〉に味わうべきであると思う。両説は決して衝突するものではなくして、相依りて聖人の意を円〈まどか〉に発表しているのである。
二。就人立信の人に就いて、此の下の『六要』には、二義を挙げてある。一は、別解、異学等の人々を指す。是等の人々の難破に依りて、却って信心を増長するから、此の人々に就
(2-181)
いて信を立てると云う。二は釈迦諸仏を指す。因位の不完全の人々の説に依らず、仏智円満の語〈ことば〉に就いて信を立てると云うのである。
我聖人は『愚禿鈔』下十二丁に、此の処の本文を引用せられ、「一仏の所説は、即ち一切仏同じく其の事を証誠したまふう。此を人に就いて信を立つと名づくる也。応に知るべし」と仰せられてあるから、第二義の釈迦諸仏に依りて立信すると云う御思召であることは明かである。第一義は、他の妨難を縁として、信力を増長せしむると云うは、自力の信心たることは明かである。今は第二義に従う。
又就此正中復有二種一者一心専念弥陀名号行住坐臥不問時節久近念念不捨者是名正定之業順彼仏願故若依礼誦等即名為助業除此正助二行已外自余諸善悉名雑行 乃至 衆名疎雑之行也改名深心
【読方】またこの正のなかについてまた二種あり。一には一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近をとわず、念々に捨てざるをば、これを正定の業となづく。かの仏の願に順ずるがゆえに。も
(2-182)
し礼誦等によるをば、即ちなづけて助業とす。この正助二行をのぞきて已外の自余の諸善をば、ことごとく難行となづく。乃至 すべて疎雑の行となづくるなり。かるがゆえに深心となづく。
【字解】一。正定業 吾等凡夫を正しく浄土往生の身に定めるはたらき。
二。雑行 浄土の正行たる五専修(読、観、礼、称、讃)を除いて、余の一切の諸善万行(例せば四諦、六液羅密等の如き)をいう。是等は、阿弥陀仏に対して疎々〈うとうと〉しい雑〈まじ〉りのある行であるから雑行という。
【文科】第七深心中の就行立信を示したまう。
【講義】扨て又、この五種の正行の中に、二通りに分れて、正業と助業というがある。一には、一心にひたすら弥陀如来の名号を称えて、行住坐臥を簡ばず、称うる時節の長い短いは曰わず、余念を雑えずに、憶念称名するを正定之業、略して正業というのである。何故称名を正業と名づけるかというに、四十八願を全くしたる第十八願には、余行余善を簡び捨て、ただ称我名字と御誓いなされて、念々不捨者の称名がこの因位の本願に契〈かな〉うからである。五種の正行の中、称名を除いた余の読誦、観察、礼拝、讃嘆をすべて助業と名づける。念仏の助けになる行業ということである。この正業助業を除いた外の善根功徳は悉く雑行と名づける、弥陀如来にうとうとしい、疎遠な、その上に人天三乗の善根のまじ
(2-183)
わる行をみな雑行と名づけるのである。以上長々と説き来ったような訳であるから、深心と名づけるのである。
【余義】一。『化巻』第十九願要門の下には、五種正行を挙げ、其の次に此の助正二行の文を引く、前者を開門五種と云い、後者を合門二種と称す。
前述の如く、既に此の文は信化両巻に引かれてある所から見れば、自力他力に通ずることは明かであるが、今は就行立信の他力の行体を示さんが為である。左に正雑二行、助正二行の関係を図示して、自力他力の分斉を明かにするであろう。
挿図(yakk2-183.gif)
┏難行
┃ ┏読誦 a A 助業━┓
┃ ┌開門五種 ┣観察 a ┣合門二種
┗五正行━━━━╋礼拝 a ┃
└専修 ┣称名━━━━正定業┛
┗讃嘆 a └専念
※(aとAとを斜線で結ぶ。順番を変えて図示すると下記のようになる。)
┏難行
┃ ┏読誦━┓
┃ ┌開門五種 ┣観察━╋━━助業━┓
┗五正行━━━━╋礼拝━┫ ┣合門二種
└専修 ┣讃嘆━┛ ┃
┗称名━━━━正定業┛
└専念
(2-184)
即ち行に就いて信を立つると云う行に雑行と正行がある。此の五正行を二つに合して第四の称名を正定業として、前三後一の四を助業とする。合門二種が夫である。法然聖人は『選択集』末、名号附属章に
夫速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中、且く聖道門を閣〈さしお〉きて、選んで浄土門に入れ、浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、且く諸の雑行を抛〈なげうち〉て、選んで正行に帰すべし。正行を修めんと欲わば、正助二行の中に、猶お助業を傍〈かたわ〉らにして、選んで正定の業を専らにすべし。正定の業と云うは、即ち是れ仏名を称す。名を称すれば、必ず生ずることを得、仏の本願に依るが故に。
と、驀直〈まっすぐ〉に雑行、助業を払い除〈よ〉けて、称名の一行に進まれた。実にこの「一心専念」等の文は、法然聖人の自力疑心を焼き尽す霊火であった。聖人は善導大師のこの文によりて、四十余年の自力宗を転じて、他力の願海に帰せられたのである。我親鸞聖人が、前の就人立信の下にも「一心専念弥陀名号」の文を二回まで引かれ、今復ここに就行立信の行体として、此の文を引用されたことは、尤もの次第と云わねばならぬ。
されど法然聖人の純一なる教えも、之を聞く人々は、自分の根底に、自力の根切れがし
(2-185)
ておらぬ為に、恰も毒蛇が清水を呑んで、毒水とするように、此の正定業の念仏を自力念仏として仕舞うたのである。正定業の念仏が自力化せらるれば、他の五正行の自力化せらるることは云う迄もない。故に我聖人は、信心なくして、単に念仏一行を専修する機類を、第二十願の真門とし、助正二業を兼行する機類を、第十九願要門として、何れも『化巻』に引用せられたのである。いつもながら聖人が、文字の表面に拘泥せられず、後人の塗った汚れを払拭〈ぬぐ〉いて、直ちに文の真意に徹せらるる眼光は、驚嘆の外はない。
二。ここに引用せられた「一心専念」等の文意は『唯信文意』十六丁に、聖人親〈みずか〉ら解釈して
おられる。
一心専念というは、一心は金剛の信心なり。専念というは、一向専修なり。一向は、余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなを、ふたごころなく、もっぱら修するなり。
と仰せられた。即ち他力の信心決定の上に、専ら御名を称うることであるとし、更に進んで、
是名立定之業、順彼仏願故というは、弘誓を信ずるを報土の業因とさだまるを、正定
(2-186)
の業と名づくと云う。仏の願にしたがうがゆえにともうす文なり。
と信心正因を強く申されてある。即ち正定業とは、報土往生の業因を指すので、その業
因の定まるのは、一心専念の一心、即ち他力本願を信ずる時であると云う意味である。此の解釈によりて、聖人が、一文の何処〈いずこ〉を眼目と見られたかと云うことが、容易〈たやす〉く見られる。『愚禿鈔』下十二丁には、此の文を「一には、一心に弥陀の名号を専念する、是を正定之業と名づく」と簡潔にして仕舞われた。是を上の解釈によりて見れば、「一心に」は、単なる副詞ではなくして、信心決定のことである。即ち金剛の信心の上から御名を称えることが正定之業であると云うのである。もう一つ際〈きわ〉どく、上の正定業の解釈によりて云えば、金剛の信心の定まる時に、報土の業因が定まると云う文意であるとも云わねばならぬ。
聖人は、何故に、箇様〈かよう〉に判然と称名の一行を専修することを示した文を、強いて信心正因のように解されたのであるか。是が甚だ重要な点である。此の「一心専念」等の文は、単に表面丈を見れば、明かに「一心に称名すれば、夫が正定業である」という意味にしかとれぬ。然るに聖人は 「一心に」を「金剛の信心」とし、正定業は、その信決定の時に成立すると、非常に深く味わわれたのである。
(2-187)
是は決して、親鸞聖人が、無理に解釈を施されたのではない。此の文を実の如く色味せられた結果である。師法然聖人と雖も、決して此の文を、単なる口称を勧めた文と見られたのでない。念仏一行が浄土往生の正定業である、之を専修するが仏願に順ずるのであると信ぜられたのである。其の法然聖人の胸中に感孚〈かんぷ〉せられた活きた信力を打ち出したのが、親鸞聖人の上述の説示である。故に聖人は、亦一方には非常に称名念仏を喜ばれた。「専念というは、一向専修なり」と云いて、二心なく御名を称うることであると仰せられた。只聖人の常に眼を注がれる点は、念仏の真意に徹底することである。師聖人の滅後、多くの浄土門の道俗は、深く自己の胸中に念仏の真意を味わうことを忘れて、只先師の外儀の賢善精進を追い、無信の称名を励んだ。そして、其の無意味の称名の保障ともなり、根拠ともなる文は、此の「一向専念」等の文である。是等の似て非なる見解を正し、自己の信仰をありのままに表白されたのが、上の解釈である。
二。上述の如く「一心専念」等の文は、信仰の奥底を示したものであるが、夫と同時に就行立信の行体を表わしてあることを忘れてはならぬ。否〈いな〉上来叙述した所は、この行は信と離れたものでなく、全く信と一つになっているものであると云うたに過ぎないのであ
(2-188)
る。従って文の当面は、信不離の行を明かす為に引用せられたものである。そして其の行と云うことも、既に『行巻』(『第一巻』二七七頁)大行釈の下にも「大行とは、無碍光如来の御名を称する也」と仰せられたように、殊に今は信巻であるから、信に根ざした称名の意義を示し給うに外ならぬ。私共は、ここに来って、新たに行信の深い関係を味わわずにはおられぬことである。
上述の如く、「一心は」他力金剛の信心、「専念弥陀名号」は信の上に、専ら弥陀の名号を称えることであるとすれば、其の下の「行住座臥」乃至「念々不捨者」等の意義が重要な問題となってくる。これに三説ある。
(一)西山の或一義にては、「念々不捨者」の「者」を「人」と解して、「念々に捨てざるものは」と読みて、念々に我等を摂取して捨て給わぬ仏体が正定業であると解釈しておる。所謂、我等を助け給う仏体が即ち行であると立てて其の行が正定業であると云うのである。此の説の如きは、徒〈いたずら〉に法の一面に奔〈はし〉りて、称名念仏が正定業であるという真意義を失うておるのである。
更に此の下の『六要』には、二義を挙げてある。
(2-189)
(二)鎮西の『伝通記』一の説にては、此の「念々不捨者」の文は、念仏行者の用心の意楽〈こころばえ〉を示したもので、速やかに衆事を抛って、只一心に称名念仏を励むべきであると云うのである。即ち念々に助け給え南無阿弥陀仏と念じ称えよと云うことである。此の説は亦余りに機に傾いて、却って自力念仏に陥いる嫌いがある。
(三)西山の『楷定記』三には、上の如く念々に称名すると云うことは、吾等凡夫の行いうる所でない。一食の間でも、無間に称えることは出来ぬ。夫がどうして、一生涯に亘りて、言葉通りに相続することが出来ようぞ。夫であるから此の文は、もう仏願に帰した上は所行の法も、能行の機も一体不二であるから、行ぜずして而も行ずる理がある。故に不捨と云う。機を奨励〈はげ〉ますのでない。法の徳を示すのであると云う。
そして存覚師は、此の説を依用しておられる。
(四)誠に上の第三説は、言葉は簡単であるが、能く称名の真意に徹底しておるように思われる。即ち念々に名号を称えよとあるから、念々に称えると云う説は.表面は教えに順じておっても、却って教えに乖いておるのである。夫は教の真意義を自覚せぬからである。今の場合が全く夫である。称名と云うことは、其の裏に深い根底となっている信心を離れて
(2-190)
は、全く自力念仏に陥って仕舞う。吾等は何よりも先に、此の称名の意義を知らねばならぬ。存覚師が、徒に無信単行の称名に奔〈はし〉る弊を認められて、此の「不行にして而も行ずる」の理を採用せられたのは、宗祖の深意を発揮していると云わねばならぬ。
我聖人の御思召しによれば、信心と云うことは、平たく本願を疑わないと云うような一本線〈いっぽんすじ〉のものではなくて、其の裏に名号を称えることを含んでいる。云わば立体的なものと見られてある。信じてから後に称えるには相違ないけれども、其の称える種は、信と一体になっていると云うのである。此の点は、聖人の深く感ぜられた点であって、亦其の感味のあり丈を、最完全の形式に於いて、表現せられたものである。既に本願の上にありては、第十八願は能選択の願心、第十七願は所選択の名号を誓われた。願心は親心、願名は親の名である。親の名を聞くことによりて、親の存在を知り、親心の尊さに触れる。そして同時に親の名を呼ぶのである。故に親の名と、親の心は離れたものでない。全く一つである。広大なる親心を打ち出したのが親の名であるから、此の名の謂われを知った所が親心に触れた時である。従って親を呼ぶ方から云えば真に親の名を呼ぶ子は、親心を信じた子でなければならぬと云うことになる。第十八願は大慈悲の仏心、第十七願は此の慈悲心を円〈まどか〉に表現〈あらわ〉した御名で
(2-191)
ある。故に此の二つは決して離れることは出来ぬ。『末灯鈔』教名坊への御返事に
誓願名号と申して、かわりたること侯わず。誓願を離れたる名号も候わず。名号を離れたる誓願も候わず侯。かく申し候うも、はからいにて候なり。ただ誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなえつるうえは、何条わがはからいをいたすべき云々。
と仰せられた。一念信ずる所が称える所であると云うのである。同じく『未灯鈔』に「信の一念、行の一念二つなれども、信を離れたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし」と、信と行との根本的の不離一体を示され、『嘆異鈔』には
誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願名号の不思議ひとつにして、さらにことなるなきなり。
と仰せられた。かく仰せらるる所以は、名号と云うても、誓願に離れたものでないから、只不思議と信ずるの外はない。其の不思議と信ずる一念の所に、行の一念が具わりておるから、よしや此の時称える暇なくて命終るとも、名号を称えたと同様であると、名号に著する心を払い給うのである。其の際〈きわ〉どい教えが、『嘆異鈔』の初めの文である。
弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと
(2-192)
おもいたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
この行信一体の妙趣に触れた以上は、我が力で称えへてまいろうの、これ程に念仏が称えられるのという機の功を募ることは、非常な自力我慢の邪路に陥っていることが知られる。即ち信も行と如来の御誓いであることが知らるれば、そこに行者の計いは露ばかりも交わる余地はない。ここに至ってこそ、信心も喜ばれ、念仏も滞りなく称えられるのである。この他力の信行相続の真意義は、決して単に口に称える念仏でない。称名を含んだ信心相続が夫であるとて、「念々不捨者」を「不行にして而も行ずる」と申されたのである。
五。上来力説した所は、称名の根本的の意義を示したのであるが、之を以て、称名を軽んずるものと早合点してはならぬ。否之によりて、他力回向の称名の偉大なると尊重すべきことを知らしめんが為である。我等の口に称うる念仏は、吾等の努力によりて、毫末も其の価値を増すものでもなければ、減ずるものでない。如来回向の信心より自ずと流れ来る他力の大行である。『嘆異鈔』八丁に
念仏は、行者のためには非行非善なり。わがはからいにて行ずるに非ざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして自力
(2-193)
をはなれたるゆえに、行者のためには、非行非善なりと云々。
実に竹を破〈わ〉るように明快な御言葉である。然らばかように吾等の為に非行非善の念仏ならば、吾等と全く関係のないものでないかと云う人もあるかも知れぬが、左様な質問を出すのが、既に念仏を自分の力でどうにかしようとする計いに陥っているのである。真に念仏が非行非善であると自覚する所に、念仏の広大なる独り働きの力を感ずることが出来るのである。『嘆異鈔』十二丁に
誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいづべしと信じて、念仏もうさるるも、如来の御はからいなりと、おもえば、すこしもみずからのはからい、まじわらざるがゆえに、本願に相応して、真実報土に往生するなり。
と徹頭徹尾計いを離れたる念仏たることを示され、更に進んで、二十九丁には
よろずにつけて、往生には、かしこき思いを具せずして、ただほれぼれと、弥陀の御恩の深重なるを、つねに思いいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうらう、こ
(2-194)
れ自然なり。わが計わざるを自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。
と、計いを離れたる念仏より、ふくゆかなる宗教的情操の溢れ出でて、乾燥〈かわ〉いた胸の奥底まで湿〈うるお〉す味わいをしめておられる。蓮如上人は『御一代聞書』六十九丁に
聖人の御一流には、弥陀をたのむが念仏なり。
と念仏の真意義を道破して、信心と念仏の一致を示され、更に「念称是一」について同書三丁に
おもいうちにあれば、いろほかにあらわるるあり。されば信をえたる体は、すなわち南無阿弥陀仏なりとこころうれば、口もこころもひとつなり。
と仰せられた。かくて、本願と名号と、信心と称名と同一味となるのである。之を『執持鈔』九丁に
本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願
と申された。この計いを離れた所、自力の迷心の壁を取り崩した所に、大悲の水は滞〈とどこお〉りなく我等の胸に通いつつ流れるのである。聖覚法印の『十六門記』の所謂「摂取不捨の光益は、念々称名の徳をさずく」とあるように、計いの離れた所に、他力大行の念仏は、如
(2-195)
来の念々の慈心によりて自ずと口に浮んで下さるのである。『御一代聞書』六十九丁に
信の上は、とうとく思いて申す念仏も、又ふと申す念仏も、仏恩に備るなり。
又七十丁には
或人云わく、前々住上人の御時、南殿とやらんにて、人、蜂を殺し候うに、思いよらず念仏申され候。その時、何と思うて念仏をば申したると、仰せられ候えば、ただかわいやと.存じ、ふと申候うと申されければ、仰せられ候うは、信の上は何ともあれ、念仏申すは、報謝の義と存ずべし。みな仏恩になると仰せられ候。
ここにも機情を離れた念仏の絶対的価値を示されてある。尊く思うて申す念仏のみが、尊いと云うのでない。かように何かの機縁に触れて、不図申す念仏にも、絶対の価〈あたい〉があると云うのである。ここに他力信仰の云うべからざる妙趣があるのである。
六。然らば信後の称名は、只自然に浮ぶ念仏を称うる丈で、機の策励は要らぬかと云えば、決してそうではない。
法然聖人は五正行の中に、念仏の正定業たることを決し、強く念仏一行を専修することを勧められた。『和語灯録』第四に
(2-196)
一念十念に往生すといえばとて、念仏を疎相〈そそう〉に申せば、信が行を妨ぐるなり。念々不捨といえばとて、一念十念を不定に思えば、行が信を妨ぐるなり。故に信をば、一念に生ると取り、行をば一行に励むべし。
更に進んで。
現世の過ぐべき様は、念仏の申されんように過ぐべし。念仏の妨げになりぬぺくは、何なりともよろずを厭い捨て、是を止〈や〉むべし。謂わく聖〈ひじり〉で申されずは、妻を儲けて申すべし。妻を儲けて申されずは、聖で申すぺし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずは、家に居て申すべし。自力の衣食にて申されずは、他人に助けられて申すべし。他人に助けられて申されずは、自力の衣食にて申すべし。一人して申されずは、同朋とともに申すべし。共行して申されずは、一人籠居て申すべし。衣食住の三つは、念仏の助業なり。
とまで、極説せられた。
親鸞聖人も亦之を承けて、既に『正信偈』には
唯能く常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし。
(2-197)
と云い、『末灯鈔』の有阿弥陀仏坊への御返事に、
弥陀の本願と申すは、名号をとなえんものをば、極楽へむかえんと誓わせたまいたるを、ふかく信じて称うるが、めでたきことにて候なり。信心ありとも、名号をとなえざらんは詮なく候。一向名号をとなうとも、信心あさくは、往生し難く候。
と信心と称名の意義を、明瞭に示し、『和讃』には
信心の人におとらじと 疑心自力の行者も
如来大悲の恩を知り 称名念仏はげむべし。
と仰せられ、『現世利益和讃』には、称名の現世〈このよ〉に於ける功徳利益をとき、殊に晩年に京都御隠栖の後、鎌倉にて、念仏停止等の事件の起こった時、当時関東に於ける弟子同行の代表者とも云うべき性信坊に宛られた『御消息集』四丁の文には
詮じそうろうところは、御身にかぎらず、念仏もうさん人々は、わが御身の料〈りょう・ため〉はおぼしめさずとも、朝家の御ため、国民のために、念仏をもうしあわせたまいそうらわば、めでたくそうろうべし。往生を不定におばしめさん人は、まずわが身の往生をおぼしめして、御念仏そうろうべし。わが御身の往生一定をおぼしめさん人は、仏の御恩をおぼ
(2-198)
しめさんに、御報恩のために、御念仏こころにいれてもうして、世のなか安隠なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべしとぞ、おばえそうろう。
と、信仰の上から、国家、国民の上に、念仏の広大なる利益の加わるべきことを表明された。他力回向の深遠なる意義と功徳を有する念仏は、ここに至って、限りなく宇内に光被するの趣きがある。
更に蓮如上人が、報謝の大行として、称名念仏を勧められたことは、『御文』『御一代聞書』に於いて有名なことである。
かような有様であるから、昔から「信心正因、称名報恩」という名目さえ出来、信決定の上は、只報謝の念仏を称えよと勧められるに至ったのは、尤もの次第と云わねばならぬ。此の称名の上に、豊〈ふくよか〉な宗教的情趣か溢れ、尽きざる信仰の妙味が流れるのである。故に先哲は、言葉を尽して称名念仏を勧められた。念仏は元より吾等の努力によりて、価値の損減を見るような相対的のものではないけれども、其の儘に放任して省みないと云うことは、又一種の機の計いに陥っているものと云わねばならぬ。真の信仰は何事も他力の御計いに任せ奉る一面を有するとともに、又如来の智慧を我智慧と戴いて、煩悩を截断
(2-199)
する一面を有するものである。此の意味に於いて、先徳は大善大功徳の御名を称えて、仏恩を報ぜよと御勧め下さるのである。称えて功徳が一身に加わると感じても、我功でない、偏に他力回向の念仏の利益である。称えて感謝の情も湧かず、有難くもなくとも、念仏を軽んずる理由はない。其の念仏は他力回向の大善大功徳であるからである。故に念仏は吾等の為に、非行非善であるから励んで称えることは要らぬと云うも自力の計いであれば、又念仏は大善大功徳であるから是非称えねばならぬ。励んで称えない者は、信仰のないものであるなぞと云うも、機の計いたるを免れね。是等の末の末たる機の計いを離れて、我一人の本願たることを感銘する時、他力回向の称名は、一身に加わりて、所謂「不行にして而も行ずる」自然法爾の「念々不捨」の称名となるのである。
七。然るに親鸞聖人の晩年に於いて、既に関東の弟子門徒の間に、一念多念、有念無念の諍いが起ったようである。『御消息集』八丁の教忍坊に宛られた聖人の御手紙の中に、此の間の消息は遺憾なく表われておる。
ただ詮ずるところは、他力のようは、行者のはからいにてはあらずそうらえば、有念にあらず、無念にあらず、ともうすことを、あしゅうききなして、有念無念なんど、もうし
(2-200)
そうらいけるとおぼえそうろう。弥陀の選択本願は、行者のはからいのそうらわねばこそ、ひとえに他力とはもうすことにてそうらえ。一念こそよけれ、多念こそよけれ、なんどもうすことも、ゆめゆめあるべからずそうろう。
なおなお一念のほかにあまるところの御念仏を、法界衆生に回向すとそうろうは、釈迦弥陀如来の御恩を報じまいらせんとて、十方衆生に回向せられそうろうらんは、さあるべくそうらえども、二念三念もうして、往生せんひとを、ひがごととはそうろうべからず。云々
実〈げ〉にや、選択本願は、有念にあらず、無念にあらず、一念にあらず、多念にあらず、唯これ不可称不可説の信心一つである。この信心の中に、称名の因種〈たね〉は自ずと宿っておる。吾等は唯計いを離れて、この願海に帰するばかりである。ここに他力回向の称名の妙味が頂かれる。礼拝、讃嘆等の五正行の中より、特に唱え易い称名の一行を選んで、信後の起行に擬して下された先哲の御心尽しも、此の謙虚の胸に於いてのみ、初めて会得することが出来るのである。念仏が報謝の大行であると云うことも、報恩の念仏ということも、我一人の為めの御回向の念仏であると云う謙虚の胸を以てでなければ、頂くことは
(2-201)
出来ぬ。誠にこの解り易いような所に、解り悪〈にく〉い宗教的妙趣が潜んでいて、人をして容易にその真境に触れしめない。我等は、常に心を潜めねばならぬ。
三者回向発願心 乃至 又回向発願生者必須決定真実心中回向願作得生想此心深信由若金剛不為一切異見異学別解別行人等之所動乱破壊唯是決定一心捉正直進不得聞彼人語即有進退心生怯弱回顧落道即失往生之大益也
問曰若有解行不同邪雑人等来相惑乱或説種種疑難導不得往生或云汝等衆生曠劫已来及以今生身口意業於一切凡聖身上具造十悪五逆四重謗法闡提破戒破見等罪未能除尽然此等之罪繋属三界悪道云何一生修福念仏即入彼無漏無生之国永得証悟不退位也答曰諸仏教行数越塵沙稟識機縁随情非一譬如世間人眼可見可信者如明能破闇空能含有地能載養水能生潤火能成壊如此等事悉名待対之法即目可見千
差万別何況仏法不思議之力豈無種種益也随出一門者即出一煩悩門也随入一門者即入一解脱智慧門也為(定也用也彼也作也是也相也)此随縁起行各求解脱汝何以乃将非有縁之要行障惑於我然我之所愛即是我有縁之行即非汝所求汝之所愛即是汝有縁之行亦非我所求是故各随所楽而修其行者必疾得解脱也行者当知若欲学解従凡至聖乃至仏果一切無碍皆得学也若欲学行者必籍有縁之法少用功労多得益也
【読方】三には回向発願心。乃至 また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまえる願をもちいて、得生の想をなせ。この心深信せること金剛のごとくなるに由りて、一切の異見、異学、別解、別行人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心にとりて、正直にすすんで、かのひとの語をきくことをえざれ。すなわち進退の心ありて、怯弱を生じて回顧すれば道におちてすなわち往生の大益を失するなり。
問うていわく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、きたりてあい惑乱して、あるいは種々の疑難をときて往生を得じといい、あるいは云わん、汝等〈なんじたち〉衆生、曠劫よりこのかた、およぴ今生の身口意業に、一切凡聖の身のうえにおいて、つぶさに十悪、五逆、四重、謗法、闡提、破戒、破見等のつみをつくりてい
(2-203)
まだ除尽することあたわず。然るに此等の罪は 三界悪道に繋属す。いかんぞ一生修福の念仏もて、即ちかの 無漏無生の国にいりて、ながく不退の位を証悟することをえんや。こたえていわく、諸仏の教行かず塵沙にこえたり。稟議の機縁、情にしたがいて一にあらず。たとえば世間の人、眼にみつべく信ずべきがごときは明〈みょう〉のよく闇〈あん〉を破し、空のよく有をふくみ、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。かくのごとき等の事、ことごとく待対の法となづく、すなわち目にみつべし、千差万別なり。いかにいわんや仏法不思議の力、あに種々の益なからんや。したがいて一門を出るは、すなわち一煩悩の門をいづるなり。したがいて一門に入るは、すなわち一解脱智慧の門に入るなり。これを為〈もっ〉て(定也。用也、彼也。作也。是也、相也)縁にしたがいて行を起こして、おのおの解脱を求めよ。汝なにを以てか、いまし有縁の要行にあらざるをもて、われを障惑する。しかるにわが所愛はすなわちこれわが有縁の行なり。すなわち汝が所求にあらず。汝が所愛は即ちこれ汝が有縁の行なり。またわが所求にあらず。このゆえにおのおの所楽に随いて、しかもその行を修すれば、かならず疾〈と〉く解脱をうるなり。行者まさにしるべし、もし解を学ばんとおもわば凡より聖にいたり、乃至仏果まで、一切障なし。みな学することをえよ。行を学ばんとおもわば、かならず有縁の法によれ。すこしき功労もちいるに、おおく益をうればなり。
【字解】一。金剛、宝石の名、上六〇頁をみよ。
二。異見、異学、浄土の法門と異っている学問と見解。聖道諸教、外道、及び其の他の学派を指す。
三。別解、別行、浄土真実の教えと別の教え、浄土の要門、真門等の自力念仏の教えをいう。
(2-204)
四。十悪、十種の悪業。殺生、偸盗、邪婬、(身三)。妄語、綺語、悪口、両音(口四)。貪欲、瞋恚、愚痴(意三)。
五。五逆、五種の逆罪。五無間業とも云う。殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血。
六。四重、四つの極重の罪。殺生、偸盗、邪婬、妄語は極めて重き罪の故に殊に此の名の下に重ねてあぐ。
七。闡提、梵語、具にイッチュハーンチカ(Iccha ntika)一闡提伽、一闡底柯、一顛迦等とも音訳す、其の原語の意味は、「何処までも求めて已〈や〉まない」。「どこ迄も満足しない」というので、信不具足、又は断善根と訳している。解脱の因断え果てて、成仏の見込みなき機類をいう。ここでは、慚愧の心のない悪凡夫をさす。
八。三界悪道、三界は欲界、色界、無色界。悪道は欲界中の地獄、餓鬼、畜生の三悪道のこと。
九。無漏無生之国、極楽浄土のこと。無漏は煩悩の穢れなきこと。無生は生死の絶え果てたること。極楽国土は是等の徳ある故に名づける。
一〇。稟識、有情のこと。一切衆生は皆識を稟〈う〉けているから此の名あり。
一一。有 質碍の意、物質のこと。
【文科】回向発願心の中、初めに其の相を示したまう。
【講義】三心の中、三には回向発願心。扨て、安楽浄土へ思いを向けて往生遂げたいと願うものは、阿弥陀如来が、真実心を以て、これも衆生のため、あれも衆生のためと善根功
(2-205)
徳を悉く衆生に回向して、浄土へ往生させたいと覚召す大悲の願心を頂いて、浄土往生
疑いないという決定心を得るがよい。この決定心の堅いことは、恰も金剛の如く、学問や見解を異にして居る外道や聖道門の人達や、信仰、修養を異にして居る人達のために信仰を乱されたり壊されたりするようなことはないのである。それであるから、押し切って一心に、願力に打ち任〈まか〉せ、傍目〈わきめ〉を振らず、正直に極楽浄土へと進んで、彼の異学異見別解別行の人達の語を耳に入れてはならぬ。もし信ずるが如く信せざるが如く、進んだり退いたりして、願力にとりすがることが出来ず、もじもじして、傍見〈わきめ〉をして正しい道から傍へ落ちるようなことがあれば、往生の大利益を失うて仕舞うのである。
問うて曰く、もし信仰も修養も違う雑行雑修の人が来て、惑〈まど〉わしをかけ、いろいろの難問を設けて、凡夫が浄土へ往生するなどいうことはあり得ないことだなぞというであろう。その疑難の中にはこういうこともいうであろう。「御前達凡夫は、過去久遠の昔から今日まで、身口意の三業に於て残らず、すべての聖者や凡夫の身の上に十悪をしかけ、五逆を造り、四重の逆罪をなし正法を謗り、善根を断滅し、正戒を破り、正見を捨てるなどの大罪を欠目なく造って来て、今では少しもその罪を除くことが出来ないで居るのである。これ
(2-206)
らの罪はどうしても三界六道の悪趣に、我身を縛りつけるものである。ほんの一生の間、福徳を積み、念仏を称えた位の力でどうして、煩悩の汚れのない、死ぬる生きるのない極楽浄土に生れて、もう二度と退転せない聖位〈くらい〉に上ることが出来ようぞ」こういう疑難があるであろうが、これに対していかに答えたら善かろうか。
答えて曰わく。こういう疑難に対しては左の如く答えるがよい。諸仏如来の教えも、その教えに示された行も数限りなく、塵沙の数よりも多いのである、衆生の機縁も亦区々〈まちまち〉であってその欲求に随って沢山に分れて居る。対手〈あいて〉の機縁が数限りなく多いから、諸仏の教行も数限りなく多いのである。今世間の人は眼に見えるものを信じ易いものであるから、至極卑近な所で譬えていうてみると、光明は闇を照し、虚空は物体〈もの〉を収め、大地はものを載せ、又草木等を養い、水は草木等を生長させ、又ものを潤おし、火はものを成熟させたりものを滅ぼしたりするものである。これらは皆、明と闇、空と有、地は物を載せる、火は物を焼くというように相手のものがあるから、待対の法と名づけるのである。こういうことは、我我が現在目に見て居ることで、実に千差万別である。すべてものの作用は相手に依って定〈き〉まるので、火がものを焼くからというて、水もものを焼くとは云われまい。すべて何事で
(2-207)
も一概に斯く斯くだということの出来るものではない。世間の事すらこの通りであるとしてみると、況んや、不思議中の不思議である仏法に於ては猶のことである。衆生の機縁に
依って種々〈いろいろ〉異なる利益のあるは当り前のことではないか。それを汝は一概に通仏教の疑難を以て、弥陀の本願の妙用を難ずるは大きな的外れといわねばならぬ。仏教には無量の教門があって、無量の教益がある。その中一つの煩悩門を出たのは、一つの煩悩門を出たので、余の煩悩門を出たのではない。一解脱門に入ったのは、一解脱門に入ったので、余の解脱門に入ったのではない。その教門教門の教益が別々にあるのである。それであるから(為〈もって〉の字に六訓ある。これに定まる、これを用いて、彼、これを作す、是、相という訓である)自分自分の御縁に随って、修行をして、銘々自分自分の解脱を得るがよい。然るに御前は何故に、私に御縁のない御法を持って来て、私を惑わそうとするのであるか、私には、私の愛楽〈この〉む所のものが、私に御縁のある大切な御法であって、それは御前が求むるものでない。又御前の愛楽〈この〉む所のものは、御前に御縁ある御法で、私の求むるものではない、それであるから、銘々の好々〈すきずき〉に随って修行をすれば、必度〈きっと〉、疾〈はや〉く解脱を得るに相違ない。」こう答えてやるがよい。一切の行者達よ、学問をしようというのならば、人、天、声聞、縁
(2-208)
覚、菩薩の五乗の学問、すべてを学ぶもよい。然しもし修行をしようというのならば、必ず御縁のある法に依って、修行せねばならぬ。有縁の法に依れば、力を労することは少くして、利益を得ることは莫大である。
【余義】一。回向発願心に就いて、善導大師は四釈を施している。第一釈は、自身の善根を往生の為に回向するので、『愚禿鈔』下の十五丁には、自利と標し、『化巻』八、要門の下に引用せられ、明かに自力の回向とせられ、此処には乃至として略された。第二釈以下の三釈を此処に引用せられた。其の中第二釈は正釈で、二河白道を含みて尤も長く、第三は往相回向、第四は還相回向である。
「回向発願して生ずる者」という通常の意味から云えば、自力の信心を以て往生を願う者ということであるが、今は左様ではない。回向発願して生ずる者は、如来の回向し給える真実の願心を須〈もち〉いて、往生治定の思いをなせというのである。如来の真実心を須いると云うことは、如来の誓願を信ずることである。即ち本願を信じて往生治定の思いをなすのが回向発願心であると云うのである。従って之をもう少し判然〈はっきり〉云えば、本願に帰命する一念の所に、自ずと具わる往生一定の心を回向発願心という。『銘文』末、初めに
(2-209)
亦是発願回向之義というは、二尊のめしにしたがいて、安楽浄土にむまれんとねがうこころなりとのたまえるなり。
と仰せられて、釈迦、弥陀二尊の仰せに帰命する所に自ずと起る浄土往生の願いが、回向発願心であるとせられた。
二。箇様に我等の心に起る回向発願心は、実に如来の至心回向の外はない、如来の回向し給う至心が、吾等の心に入りて、浄土を恋うる心となったのである。『行巻』(『第一巻』五〇二頁)
発願回向というは、如来已に発願して、衆生の行を回施し給うの心なり。
とある其の回施の心が、その儘吾等の回向発願心となったのである。そして其の如来の心が、吾等に表われた所は、深信であるから、今の文に「得生の想を作す」を受けて直ちに「此の心、深信すること、金剛の若くなるに由って」等と仰せられた。『愚禿鈔』下、十五丁には、
回向発願して生ずる者に信心あり
信心とは
得生の想を作す。此の心、深信すること由〈なお〉し金剛の若〈ごと〉しと
と極めて明瞭に、此の第三の回向発願心を、第二の深心の中に摂〈おさ〉めて解釈せられた。故に先
(2-210)
輩は、回願心の体は深心であると云われた、実に一念の信心を離れて、往生治消定の思いのあろう筈がない、故に体とか、相とかと云う言葉よりも、此の心は信心の内容であると云うた方が適当のように思われる、信仰の内容として、確乎たる往生一定の思い起こり、その確信は、如何なる異なる思想にも動乱せられず、一心正念に進むというのである。その異教者、異信者の圧迫に対して、他力信仰者の取るべき精神的態度と、そして其の接触の模様とを示したのが、二河白道喩に至るまでの文章である。
三。吾等は、善導大師が、此の回向発願心の下に於いて、金剛の信心を述べ、異教者の圧迫に対して、細やかな駁撃を加えられた所に、大師の動揺せる心を見ない訳にゆかぬ。即ち別解、別行の異教者の言論は、客観的のものではなく、大師の心の上に起こった思想であるからである。大師はこの内心の深い動乱に対して、他力信仰の深い味わいを経験せられたのである。我聖人が此の文を引用せられたのは、大師の心的経験を、一層深く内心に味わわれたからでいる。あの問答の上に、仏法の不可思議を説き、次に「此を為〈も〉って縁に随って行を起して、各解脱を求めよ、汝、何を以てか、乃〈いま〉し有縁の要行に非ざるをもって、我を障惑するや。然るに我が所愛は、即ち是れ我有縁之行なり。即ち汝が所求にあらず」等の文勢によりて
(2-211)
烈しい精神上の苦闘を、容易に看ることが出来る。そして其の波打つ精神の動揺の底に、活きた信仰があるのである。
四。「此を為〈も〉て」の「為」字に、例の如く六訓を挙げられた。上に「一門を出づるは、即ち一煩悩の門を出づるなり」等の説を承け、一転して烈しい文勢を以て、縁に随って行を起して、各解脱を求めよ」等と別解別行の人々に対して、痛切に所信を吐露せられるのであるが、ちょうど此「為」字は、上を承け下を起す契合点となっている。炯眼なる聖人は、此の字の重要なることを看取せられて、字訓を施された。
字訓の拠〈よりどころ〉は.慈恩大師の著、『法華為々章』であると称せらる。同書には、此の「為」字に十二訓を施してある、平声に、由、求、当、得、定、被、作、是、名の九訓、去声に、以、与、助の三訓である、即ち六訓中の常、作、是の三訓は、上の九訓中にある。用は、去声の以字の訓、彼は平声の被と同音、相は、「為」の去声に助の訓あり、相の去声にも亦助の訓がある。為も相も、助であるから、転じて相字を為字の訓とせられたのである。『一念多念証文』十八丁に、「直為弥陀弘誓重」の為字を釈して、
為はなす(作)という。もちいる(用)という。さだまる(定)という。かれ(彼)という。
(2-212)
これ(是)という。あう(相)というは、かたち(相)というこころなり。
と仰せられた。「作」字、「用」字の位置が変った丈で、能く此の下の註に一致している。そして此の註は、高田本にはなく、御草本と御真本には、頭註にしてある。
字訓の御思召しは、種々に解釈せられることであるが、大体に就いて云えば、「定」はさだめて、「用」はもちいる、吾等の行くべき道は、此の本願の一道丈であるから、定めて此の法を用いるの意。「彼」は別解別行の人々、彼等の道は、彼等の行くに任〈まか〉せよの意。「作」は作業他力の教によりて事業をなすこと。「是」は「彼」の別解別行に対して、他力本願を是という吾等の信じている此の道ということ。「相」は「あう」と訓〈よ〉む時は値遇又は相応の義、本願に逢い本願に相応する、即ち本願を信ずること、又かたちと訓む時は、闇を破る光明の相〈すがた〉、摂取不捨の相〈すがた〉、信ずる相〈すがた〉等の意〈こころ〉である。
聖人は二文の契合点とも云うべき「為」字に、是丈の深い意義を有することを字訓に寄せて発揮し、そして此の一段の裏に流れている深い文意を暗示せられたのである。
又白一切往生人等今更為行者説一譬喩守護信心以防外邪
異見之難何者是也譬如有人欲向西行百千之里忽然中路有二河一是火河在南二是水河在北二河各闊百歩各深無底南北無辺正水火中間有一白道可闊因五寸許此道従東岸至西岸亦長百歩其水波浪交過湿道其火焔亦来焼道水火相交常無休息此人既至空曠迥処更無人物多有祥賊悪獣見此人単独競来欲殺此人怖死直走向西忽然見此大河即自念言此河南北不見辺畔中間見一白道極是狭少二岸相去雖近何由可行今日定死不疑正欲到回群賊悪獣漸漸来逼正欲南北避走悪獣毒虫競来向我正欲向西尋道而去復恐堕此水火二河当時惶怖不復可言即自思念我今回亦死住亦死去亦死一種不免死者我寧尋此道向前而去既有此道必応可度作此念時東岸忽聞人勧声仁者但決定尋此道行必無死難昔住即死又西岸上有人喚言汝一心正念在来我能護汝衆不畏堕於水火之難此人既聞此道彼喚即自正当身心決定尋道直進不生疑怯
回心或行一分二分東岸群賊等喚言仁者回来此道嶮悪不得過必死不疑我等衆無悪心相向此人雖聞喚声亦不回顧一心直進念道而行須臾即到西岸永離諸難善友相見慶楽無已此是喩也次合喩者言東岸者即喩此娑婆之火宅也言西岸者即喩極楽宝国也言群賊悪獣詐親者即喫衆生六根六識六塵五陰四大也言無人空迥沢者即喩常随悪友不値真善知識也言水火二河者即喩衆生貪愛如水瞋憎如火也言中間白道四五寸者即喩衆生貪瞋煩悩中能生清浄願往生心也乃由貪瞋強故即喩如水火善心微故喩如白道又水波常湿道者即喩愛心常起能染汚善心也又火焔常焼道者即喩瞋嫌心能焼功徳之法財也言人行道上直向西者即喩回諸行業直向西方也言東岸聞人声勧遺尋道直西進者即喩釈迦已滅後人不見由有教法可尋即喩之如声也言或行一分二分群賊等喚回者即喩別解別行悪見人等妄説見解迭相惑乱及自造罪過失也言西
岸上有人喚者即瑜弥陀願意也言須臾到西岸善友相見喜者即喩衆生久沈生死曠劫輪回迷倒自纏無出解脱仰蒙釈迦発遣指向西方又籍弥陀悲心招喚今信順二尊之意不顧水火二河念念無遺乗彼願力之道捨命已後得生彼国与仏相見慶喜何極也又一切行者行住坐臥三業所修無問昼夜時節常作此解常作此想故名回向発願心
【読方】また一切の往生人等にもうさく.いま更に行者のために、一つの譬喩をときて、信心を守護して、もて外邪異見の難をふせがん、何者かこれや。たとえば人ありて西にむかいて行かんとするに、百千の里あらん。忽然として中路に二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ氷の河、北にあり。二河おのおのひろさ百歩、おのおの深くして底なし。南北に辺〈ほとり〉なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり。闊〈ひろ〉さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに亦ながさ百歩、その水の波浪まじわりすぎて道をうるおす。その火焔また来りて道をやく。水火あい交〈まじ〉わりて常にして休息することなけん。この人すでに空曠のはるかなるところにいたるに、さらに人物なし。おおく群賊悪獣ありて、この人の単独〈ひとり〉なるをみて、競い来りてこの人を殺さんとす。死を怖れて直ちに走りて西にむかうに、忽然としてこの大河をみて、すなわち自ら念言すらく、この河南北に辺畔をみず、中間にひとつの白道をみる、きわめてこれ狭少なり。両〈ふたつ〉の岸あい去ること
(2-216)
近しといえども、何に由りてか行くべき、今日さだめて死せんことうたがわず。まさしく到り回〈かえ〉らんとすれば、群賊悪獣、漸々にきたり逼〈せ〉む。まさしく南北に避〈さ〉りはしらんとすれば、悪獣、毒虫きそい来りて、我に向う。まさしく西にむかいて道をたずねて、しかも去〈ゆ〉かんとすれば、また恐らくはこの水火の二河に堕せん。当時〈そのとき〉に惶怖することまた言うべからず。すなわち自ら思念すらく、われ今回〈かえ〉るともまた死せん。住すともまた死せん。去〈ゆ〉くともまた死せん。一種として死を免れざれば、われ寧〈むし〉ろこの道を尋ねて、前〈さき〉に向いてしかも去〈ゆ〉かん。すでにこの道あり、かならす度すべしと。この念を作すとき、東の岸に忽ちに人の勧むる声をきく、仁者〈なんじ〉ただ決定してこの道をたずぬて行け。かならず死の難なけん。もし住せばかならず死せんと。また西の岸の上に人ありて喚〈よ〉ぼうていわく、なんじ一心正念にして直ちに来れ、われよく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれと。この人既にここに遣〈つか〉わし、かしこに喚〈よ〉ばうをききて、すなわち自らまさしく身心にあたりて決定して道を尋ねて、直ちにすすんで疑怯退心を生ぜず。あるうはゆくこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ぼうていわく、仁者〈なんじ〉かえり来れ。このみち嶮悪なり。過ることを得じ。かならず死せんこと疑わず。われらすべて悪心ありて相向うことなしと。この人よばう声を聞くといえども、また回顧〈かえりみ〉ず。一心に直ちにすすんで道を念じて而も去〈ゆ〉けば、須臾にすなわち西のきしにいたりて、ながくもろもろの難をはなれ、善友あいみて慶楽すること巳〈や〉むことなからんがごとし、此はこれ喩えなり。次にたとえを合せば、東の岸と云うは、すなわちこの娑婆の火宅にたとう、西の岸というは、すなわち極楽宝国にたとう。群賊悪獣いつわり親しむというは、すなわち衆生の六根、六識、六塵、五陰、四大にたとう。人なき空迥の沢というは、すなわちつねに悪友にしたが
(2-217)
いて、真の善知識にあわざるにたとう。水火の二河というは、すなわち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとしとたとう。中間の白道四五寸というは、すなわち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるにたとう。いまし貪瞋強〈こわ〉きによるがゆえに、すなわち水火のごとしとたとう。善心微なるがゆえに、白道のごとしとたとう。また水波つねに道をうるおすというは、すなわち愛心つねにおこりて、よく善心を染汚するにたとう。また火焔つねに道をやくというは、すなわち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くにたとう。ひと道のうえを行きて、ただちに西に向うというは、すなわちもろもろの行業を回して、ただちに西方にむかうにたとう。東の岸に人のこえの勧め遣わすをききて、道をたずぬてただちに西にすすむというは、すなわち釈迦すでに滅したもうて、後の人見たてまつらざれども、なお教法ありてたずぬべきにたとう。即ちこれを声の如しとたとうるなり。あるいはゆくこと一分二分するに、群賊等よばい回〈かえ〉すというは、すなわち別解、別行、悪見の人等みだりに見解を説きて、たがいにあい惑乱し、および自ら罪を造りて退失するにたとう。西の岸の上に人ありて喚ばうというはすなわち弥陀の願意にたとう。須臾に西の岸にいたりて、善友あいみて喜ぶというは即ち衆生ひさしく往死にしずんで、曠劫より輪回し迷倒して、自ら纏〈まと〉うて解脱するによしなし。あおいで釈迦発遣して、指〈おし〉えて西方に向わしめたまうことを蒙り、又弥陀の悲心招喚したまうによりて、いま二尊のこころに信順して水火の二河をかえりみず、念々に遺〈わす〉るることなく、かの願力の道に乗じて、命を捨ててのち、かの国に生ずることをえて、仏とあいみて慶喜すること何ぞ極まらんというに喩うるなり。また一切の行者、行住坐臥に三業の所修、昼夜時節を問うことなく、つねにこの解をなし、つねにこの想をな
(2-218)
す。かるがゆえに回向発願心となづく。
【字解】一。六根、六識の所依となりて、対境を認めしむるもの。眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根。
二。六識 色声香味触法の六境を知覚する六種の心議。限識、耳識、鼻識、舌識、身諸、意識。
三。六塵 六境のこと。色、声、香、味、触、法の六境は、心を穢し惑わす故に六塵という。
四。五陰 色、受、想、行、識の五蘊の旧訳。善法を陰蓋〈おお〉う故にこの名あり。
五。四大一切の事物を構成している四種の成分、或いは寧ろ努力。地大(竪碍を性とし、物を持〈たも〉つ用〈はたら〉きあり。すべての堅性は皆これに属す)。水大(湿潤を性とし、物を収摂する用きを有す。すべての湿性は、皆これに属す)。火大(煖熱を性とし、物を成熟する用きを有す。すべての温性はこれに属す)。風大(動転を性とし、物を長養する用きを有す。すべての活動性は、これに属す)。
六。瞋嫌之心、瞋恚〈いかり〉の心。三毒の一。
【文科】回向発願心の中なる信心守護の譬えを引きたまう。
【講義】扨て今茲に浄土往生を願うずべての人々に白〈もう〉す。私は今、念仏の行者のために、特に一の譬喩〈たとえ〉を設けて、他力の信心を守護〈まも〉り、外人〈ほかのひと〉の偏見や、異見に迷惑〈まどわ〉されないようにしようと思う。どういう譬喩かというと、譬えば、茲に一人の人があって、西の方百千里もある遠い処に旅をしたとする。其の道の半ばに、思いも設けず、二つの河があった。
(2-219)
一つは火の河であって、南の方にあり、他の一つは水の河であって、北の方にある。この二つの河は共に闊〈ひろ〉さ百歩許りであるが、深さは底の知れぬ程深く、南北に遠く連なって辺〈ほと〉りはない。この水火の二河の真中に、一つの白い闊さ四五寸許りの道があって、東の岸から西の岸へ至って居る。河の闊さと同じく長さは百足許りである。この狭い道を.北からは浪が打ち寄せて湿〈うるお〉し、南の方からは、炎が燃え上って焼いて行く。浪と焔が変る変る道を侵して、少しも休む暇はない。この旅人は、千里の曠野ともいうべき、はてしのない野原へ来た。前後左右に人の子一人居らない。淋しい恐ろしい思いに襲われて居る時、多くの強盗や、たけしい獣共が、この旅人の友も連もなく、たった一人でとぼとぼと道を辿〈たど〉って行くのを見て、旅人を殺そうとして進んで来る。旅人は恐れを抱いて急に走って、はたとこの大河に突き当り、自ら思うよう、ああこの河は、南の方を見ても、北の方を望んでも涯〈はて〉しがない。真中に一本の白道がある許り、それも極めて狭い。こちらからあちらの岸までいくらもないけれども、これでは到底行くことがならぬ。俺は間違いなく今日は死んで仕舞うであろう。道を転じて帰ろうとすれば、強盗や獣共が、だんだん近く迫って来る。南か北に逃げようとすれば、恐ろしい獣や、毒虫が向かって来る。真一文字に西に走ろうと
(2-220)
すれば、恐らくこの火の河、水の河に堕ち込むであろうと。旅人は怖れ戦〈おおの〉いて殆んど語〈ことば〉に述ぶることも出来ぬ。やがて自ら思うよう。我が運命は既に定まった。帰っても死ぬ。じっとして居っても死ぬ、進んでも死ぬ、死ぬことは一つである。こうなって見れば、一層のこと、この白道を踏んで前へ進んでみよう。狭いとはいい、既にこの道がある以上は必ず渡ることが出来るであろう。こう思い直して居る時に、東の岸に、いずこからともなく、突然人の声がし出した。「御前、心を決めて、その道を尋ねて行け、必ず死ぬことはない。もしじっとしていれば死ぬばかりである。」この声が聞え出すと共に、西の岸にも、又人の声が聞える。「御前、一心正念になって、その道を正直〈まっすぐ〉に来い。俺が御前を護ってやるから、決して水火の二河に堕ちようかと恐るるな」と、旅人は、計らずもかく、こちらの岸からは「行けよ」と勧められ、向こうの岸からは「来いよ護る」と導かれ、茲に心を決め、身心共に正直〈まっすぐ〉に西に向かい、白道を踏んで、前進して、少しも疑い恐るる思いなく、又あとへ退く心もない。やがて、一歩二歩踏み出した時、東の方の岸に居る強盗共が、呼んでいうようには、「もしもしあなた、帰って御出でなさい。そんな嶮危〈けんのん〉な道をどうして行かれましょう。堕ちて生命をなくすることは知れ切って居ります。私共は決して悪い心でこういうのでは
(2-221)
ありません」と。旅人は、この強盗其の慣れ慣れしい語をきいても、振り返ろうともせず、一心に前へ進んで行ったが、たちまち、西の岸に到りつくことが出来て、永く東岸の災難を逃れ、且つ又、計らずも、数多〈おおぜい〉の善友に遇うて、限りなく喜び楽しむことが出来たのである。
以上は喩であるが、これを今、人生上の実際に当てはめて見ると、東の岸というたのは、この三界無安の娑婆の火宅に喩えたのである。西の岸というたのは極楽浄土に喩えたのである。群賊悪獣が外面だけ慣れ慣れしそうに親しんで来るというのは、私共の身体〈からだ〉の内の六根、六識、六塵、五陰、四大に喩えていうので、私共の一番可愛がるものが、却って私共を破壊する原因〈もと〉となることをいうのである。人子一人いない淋しい沢というたのは、私共の周囲〈まわり〉には悪友計り多く集まって、真に私共の心を知って、私共を導いて下さるる善知識のないことを喩えたのである。水河の二河を挙げたのは、私共の貪り愛する心は恰も水の如く、瞋〈いか〉り腹立つ心は火の如しというたのである。この二河の間の白道四五寸というたのは、私共の貪愛瞋憎の煩悩の群がり起る間に、微〈かす〉かながらも浄土へ生れさせて頂きたいという清浄な願往生の精神の宿っていることを喩えたのである。貪欲瞋恚の煩悩は至っ
(2-222)
て強いから水火の如しと喩え、善心はあれどもなきが如く微かなものであるから、細々とした四五寸の白道と喩えたのである。水の浪が打ち寄せては白道を湿〈うるお〉すというは、貪愛の心でむらむらと起って来ると微かな善心は悉く汚がされて仕舞うことをいうのである。火焔が上って来て道を焼くというのは、瞋恚の煩悩に目が絃〈くら〉んで仕舞うと、功徳善根の法の宝が滅びて仕舞うことをいうのである。旅人が、白道を踏んで正直〈まっすぐ〉に西に進むというは、我が身の善根功徳を回向して浄土の往生を願うことをいうのである。東の岸に、行けよという人の勧める声が聞えて、其処で白道を踏んで西へ行くというのは、釈迦如来涅槃の雲に隠れましましてからは、今の人達は世尊を見奉ることは出来ないけれども、猶残して下された教法が伝わってあるから、それに依って修行することが出来るので、声が聞えると喩えたのである。一歩二歩進み出ると強盗共が、呼び返すというたのは、信仰や修養を異にし偏見を持って居る人達が妄りに自説を吐いて、人を惑わし、自ら罪を造って、正道を退失するに喩えたのである。西の岸に人あって、呼んで下されるというは、弥陀の大悲の願心に喩えたのである。たちまち、西の岸について、計らず善友打ち集うて喜ぶというたのは、私共衆生が、今まで、久しい間、生死の海に沈んで、久遠の昔から六道を輪回し、
(2-223)
迷いに迷いを重ねて、自分の煩悩で自分を縛って、解脱を開く時のなかったのが、釈迦如来は西方浄土へ行けよと御すすめ下され、阿弥陀如来は、大悲心を以て来いよと呼んで下される。その発遣招喚の声に呼び醒まされて、釈迦弥陀二尊の御思召に順い、自分の心の貪瞋の煩悩には目を呉れず、念々願往生の心を相続して願力に乗托し、命終の後に、極楽に往生して、始めて親しく如来に見〈まみ〉えて、大慶喜をするに喩えたのである。あらゆる浄土往生の行人よ、行住座臥、身には礼拝し、口には念仏を称え、意〈こころ〉には如来を憶〈おも〉い奉り、昼に依らず、夜に依らず、いつでも、願力の不思議で往生さして頂くことを喜び、必ず、往生に間違ないと決定するを回向発願心というのである。
【余義】一。二河喩又は信心守護の喩とも云わる。善導大師の信仰上の実験を披瀝せられた霊感の文字である。そして又親鸞聖人の信仰経験の告白である。吾等は思いを潜めて、色味〈あじ〉わわねばならぬ。
鎮西にては、文章の位置によりて、平淡に此の喩えを回向発願心の喩えとした。我等が浄土往生の願心を発すに就いて、是丈の心的状態があると見るのである。次に西山には、専ら一文の意義の方面を主として、三心の総喩とした、それは此の譬喩が、三心の何にも行き通うて
(2-224)
おるからである。然るに我聖人は、深く此の喩を御自身の信仰の上に味わわれて、三心を一にした第二の深信の喩えとせられた。鎮西のように第三の回向発願心のみに狭く取らず、西山のように解釈的に三心の各に通ずるという中心のない説に陥らず、此の三心の中枢たる深信の内容を打ち出したものとせられた。即ち本文には既に「一の譬喩を説いて、信心を守護し」云云とある。聖人は此に着眼せられて、『愚禿鈔』下十八丁には其の文を其の儘引用せられ、『和讃』には
善導大師証をこい 定散二心をひるがえし
貪瞋二河の譬喩をとき 弘願の信心守護せしむ。
と仰せられた、即ちこの譬喩は信心の譬喩である。信仰の径路〈みちゆき〉と、信仰の内容とを具体的に表現したのである。故に単なる譬喩でない。信仰そのものの具体化である。善導、親鸞二祖の魂である。
二。されど此の譬愉に表われた精神上の実験は、真面目に道に進む人々の常に経験する所である。この意味に於いて、経論の上に此の譬喩の拠〈よりどころ〉を求むることも、亦興味ある問題である。
(2-225)
『涅槃経』(南本第二十一)にも是に類した譬喩があるが、夫よりも『増一阿含経』第二十三には釈尊、祗園精舎に於いて、諸弟子に対して説かれた所は、一層適切である。今その梗概を記せば、人あり四大毒蛇を恐れて奔ると、更に白刃をもてる五人に追いかけられ、其の止亦六人の怨家〈かたき〉に迫られて、逃げ去ると、大水満々と堪〈たた〉えて、深く広く、到底渡ることは出来ない。此の人は遂に筏〈いかだ〉を作って、彼岸に渡った。釈尊は更にこの譬を解釈して仰せられるには、四毒蛇は四大、刃〈つるぎ〉を持てる五人は五蘊、六人の怨家〈かたき〉は眼耳等の六処、水は欲貪等の四流、筏は八正道、此岸は魔境、彼岸は如来の国である。
此の教説によりて、吾輩は釈尊の修道上の実験を知ることが出来る。釈尊は実に此の譬えの主人公であった。釈尊は四大五蘊等の肉欲の怨家を恐れ、此の魔境を逃れんと苦しませられ、遂に八正道の船に乗じて涅槃の岸に赴かれたのである。吾等は此の点に於いて。遠い釈尊と親しく内心に感応するように感ぜられる。
更に七祖の上に眼を転ずれば、道綽禅師である。禅師は、其の著『安楽集』上二十七丁に
譬えば人ありて、空曠の迥〈はる〉かなる処に於いて、怨賊刀を抜き、勇を奮いて直ちに来りて、殺さんと欲するに値遏〈あ〉い、此の人、径〈みち〉に奔〈はし〉りて視るに、一河を度せん。未だ河に到らざるに、
(2-226)
即ち此の念を作さん。我、河岸に至らば、衣を脱ぎて渡るとせんや、衣を著けて浮かんとせんや。若し衣を脱ぎて渡らんには、唯暇なきを恐る。若し衣を著けて浮かばんには、復首領全くし難きを畏る。爾の時、但一心に河を渡る方便を作すありて、余の心想、間雑することなきが如し。行者も亦爾り、阿弥陀仏を念ずる時に、亦彼の人の渡ることを念〈おも〉うて、念々相次ぎ、余の心想間雑することなきが如くせよ。
善導大師の直接の師たる禅師も、既に此の切っぱつまった精神の苦味を嘗められた一人であった。
以上の二つの場合も、初めて人生の真相に触れて、自分という者の立場を根本的に失うた人々の、深い恐怖と戦慄とを表わしているけれども、尚その時の錯雑〈こみい〉った心持ちと、そして其の動揺の極に達した所に、大悲の喚声〈よびごえ〉に蘇返〈よみがえ〉るという細〈こまや〉かな信仰の内容を打ち出してはおらぬ。然るに善導大師は、其の複雑な、切っぱつまった信仰経験を、熱のある暢達〈のび〉た筆で、円〈まど〉かに表わして下された。
三 先輩の多くは、此の喩を、大体上、自力の心を捨てて他力の信心に入ることを教えたものであるというておられる。云わば入信の径路を示したものと見るのである。この見解
(2-227)
に立って見ると、文章の各所に、際立ちて此の消息を示してあることが知られる。先ず喩えの方で云えば、その主人公が水火二河に当面した時、決死の覚悟をなし、「我寧ろ此の道を尋ねて、前に向こうて去かん」と云うまでは、自力の決心である。この自力の決心をなす時に、東西岸の勧むる声を聞き、初めて他力の本願を信ずるという具合に、自力から直〈すぐ〉他力に入っているが、之を合法の下に見る時は、あの自力の決心から、直ちに純他力に入らず、要門自力の天地を迂回している。即ち、「能生清浄願往生心」の次下「乃由貪瞋強故、即喩如火水。善心微故、喩如白道(いまし貪瞋こわきによるが故に、即ち水火のごとくに喩う。善心微なるが故に、白道のごとしと喩う)」以下は、定散自力の機を明かしたもの、「諸の行業を回して、直ちに西に向かう」という「回する」とは、自分の善根を回向して、往生の行業とすることである。かような自力の根性をもっているから、其の下に示すように群賊等の為に惑乱せらるるのである。喩えの時は、釈迦弥陀二尊は一致してあるが、此処では東岸の釈尊の教えは、弥陀の招喚と離れて、唯自力の善根を以て浄土を願えと云うようになっている。其の次に「西岸の上に人ありて喚ぶと云うは、弥陀の願意に喩うるなり」以下は、正しく二尊一致の趣きがある。この移り行きを繹〈たず〉ぬれば、明かに入信の歴程〈みちゆき〉を知ることが出来る。喩えの方では、自力の無功を自覚した人が、直ちに二尊の発遣招喚を聞いて、群賊の
(2-228)
喚び声を顧みず、念々に本願の一道をゆくことを示してあるが、合法の下には、行くこと一分二分にして、群賊悪獣に惑乱せられ、自ら罪を造って退失することを述べてある。この点をよくよく考えねばならぬ。一見煩鎖のようであるがここに信仰の径路の上に、深い味わいがあるのである。即ち自力無功を自覚した人の多くは、直ちに純他力に帰入することが出来ずに、所謂浄土の要門の機類となり、定散の小善根に執着するのである。聖人は此の点を『愚禿鈔』下二十丁に
白道四五寸と言うは
白道とは、白の言は黒に対し、道の言は路に対す。白とは是れ六度万行、定散なり。斯則ち自力小善の路なり。
と釈して、此の白道の文字の裏になっている万行諸善の小路を指摘し、更に同鈔に、群賊を解釈して
群賊とは、別解、別行、異見、異執、悪見、邪心、定散自力の心也。
と仰せられて、本願の一道に進むことを妨げる群賊は、吾等の自力の心であるとせられた。我聖人の此の解釈によりて、吾等は非常に複雑なそして執拗な心性を自覚し、同時に他力本
(2-229)
願の広大なることに驚かざるを得ないのである。
吾等の心は、どこ迄も自力我慢の心である。一度は痛切に人生の最後に衝き当りて、自力無功を感じ、本願に、帰入したというても稍もすれば夫が定散自力に陥っていることが往往あるのである。諸善万行の機とか、横出自力の機ということは、他人を規定する範疇ではなくして、夫は吾等自身の自性であることに驚かねばならぬ。人生の欲楽や、栄華を夢みているのも自力を恃〈たの〉んでいるのであるが、宗教の天地へ入っても、容易に此の自力は捨てられぬ。それが即ち定散自力の心である。そして此の自力の心が真実の本願を聞くのである。ここに横超他力の信仰が生れるのである。
五 合法段の下に「白道四五寸と言うは、即ち衆生の貪瞋煩悩の中に、能く清浄願往生心を生ぜしむるに喩うるなり」とは、意味の深い言葉である。従って又誤解し易い言葉である。願往生心は第十八願文の上には、三信の中に欲生心に当り、成就文には、願生彼国に当る。古来願生帰命を主張する人々は、この文を有力なる根拠にして、三信の中、欲生心を以て仏に向かい奉ると説いた。彼等は唯文字に拘泥して、自力の願生心を骨張したのである。然るに親鸞聖人が、本願の三信を第二の信楽に合して、唯信心一つである
(2-230)
と申されたのは、自力の行きづまった最後、計いの離れた最後に、湧いてくる信順の心を申されたのである。これが即ち他力回向の信心である。蓮如上人の「雑行を捨てて弥陀を頼め」ということも、決して単なる願生帰命を勧められたのでない。雑業雑修自力の心をふりすてて弥陀を一心に頼めと仰せられたので、夫は取りも直さず如来の仰せを二心なく信ずることである。このことは、蓮師が『御文章』の到る処に仰せられることである。親鸞聖人は『愚禿鈔』下二十丁に
能生清浄願往生心と言うは
無上信心金剛真心を発起する也。斯如来回向之信楽也。
と極めて明瞭に仰せられた、然らば何故に此の下に信楽と云わずして、願往生心と云われたかと云うに就いては、種々の説がある。
(一)には、善導大師は常に自力聖道の修行に対して、浄土往生を弘められた人であるから、此の土の証〈さと〉りに対して、彼の土の往生を説かれた。之が為に態〈わざ〉と信心を裏〈うち〉に含めて、願生心を挙げられた。即ち箇様にせなければ主張の旗幟も闡明とならず、又説くことに力が入らなかったのである。
(2-231)
(二)は此の譬喩の出る処は、窮三回向発願心の下であるから、態〈わざ〉と信心の代りに、此の願往生心を出されたと云う。
二説とも筋の通った説である。併しながら願往生心は、信仰の活躍した状態である。貪瞋煩悩の心の奥底から、自己全体を振い起して、純一なる要求丈となった所である。即ち如来回向の信念が、吾等の中心に喰ひ込んで、自ずと精神面に活躍した所である。故に信仰が燃える時には、自ずと此の文字が選ばれるのである。大師が特に願往生心をこの処に出されたのは、単に対他的の意味丈でなしに、云わば信の根から咲いた花とも云うべき此の心を感ぜられた為であると思う。されど花は時に従って開落するが、根はいつ迄も変らぬ。吾等は燃えいでた花の本に眼を注がねばならぬ、我聖人が、御自身の実験上から、大師の腸〈はらわた〉に入って、願往生心は、如来回向の信楽なりと喝破せられた所に、千鈞の重さがある。
更に聖人は『愚禿鈔』下二十丁に
白道四五寸と言うは
白道とは、白の言は悪に対す。道の言は路に対す。乃至
四五寸とは、四の言は四大の毒蛇に譬うる也。五の言は、五陰の悪獣に譬うる也。
(2-232)
と仰せられ、又下のの白道釈には、「白は選択摂取の白業、道は本願一実の大道」であると仰せられた。この釈によれば、白道は如来の本願、四五寸は四大五陰の毒蛇悪獣である。大師が貪瞋二河の煩悩の中から白道の願往生心を生ずると云われたのを、もっと適切に四五寸という白道の広さを四大五陰とせられたのである。大師の場合には、煩悩の二河の中に四五寸の白道丈光りを放っておるように見ゆるけれども、聖人は、その白道の裏に四大五蘊の毒蛇悪獣を認められた。信仰というものは、純一清浄の仏心でない。仏心が汚い凡心に入って下された心的状態を指すのである。それが所謂白道四五寸である。特に四五寸と云われたのは、吾等の猛烈なる動物的本能や感官の本である所の四大五蘊を象徴したと見られた所に、深い宗教的実験の妙味が潜んでいる。信仰は何処に起るか。貪瞋煩悩の中に起こる。もっと手近く云えば、肉体の要求に支配せられているこの現実の自分という全体の上に起こるのである。これに仏凡一体という名目を附したのであろうと思う。之に就いて、『六要』の下、自道釈下に、存覚上人は、信心はその体清浄にして、其の性は真実である。然るに白道の分量たる四五寸を四大五蘊の毒蛇悪獣に喩えたのは矛盾しているでないか、という疑問を掲げ、其の答として、信心は聖人の常に歎ぜられるように、広大無碍の徳
(2-233)
海であるが、其の信心を発す凡身は、道を妨げる四大五蘊から出来ており、その心は煩悩に覆われて小さくなっているから、箇様に仰せられたのであるまいか、と云うておられる。
六 上の観察から、此の譬えの上に自ずと別種の方面があるように思われて来る。夫は上にも問題となった合法段の下である。これまで申した所では、あの「乃し貪瞋強きに由が故に即ち水火の如しと喩う」より「迭〈たが〉いに相惑乱し、乃び自ら罪を造って退失也」までを、純他力に入るまでの一楷梯たる要門自力の分斉と見たのであるが、此の一段は亦所謂信後の状態を述べたのではないかと云うのである。是迄の所では、信の一念という所を打ち止めにして、信仰の径路を跡づけたのであるが、気が付いて見ると、此の要門自力の分斉が、其の儘信仰状態を表わしたように思われるのである。
そこに「善心」又は「功徳の法財」とあるのは、我胸中に与えられた仏心即ち信心であるとすれば、初めの一段は、『正信偈』に所謂「貪愛瞋憎之雲霧、常に真実信心の天を覆えり」を述べられたもので、吾等の信仰は、いつも晴々した法悦に咽〈むせ〉んではおらず、常に煩悩に心を覆われていることを示されたものとなる。そして「或いは行くこと一分二分するに」以
(2-234)
下の群賊に惑乱せらるる所は、この煩悩生活を、際〈きわ〉どく示されたものであるまいか。『愚禿鈔』には
或いは行くこと一分二分すと言うは
年歳時節に喩うる也。
悪見人等と言うは
[キョウ02]慢懈怠邪見疑心之人也。
と云うてある。そして前に述べたように、「白道四五寸」の四五寸は四大五陰の毒蛇悪獣であると云われたことを総合して、実際の味から考えて見ると、この要門自力の一段が、そのまま善導大師の信仰生活を語っているように思われる。特に「行くこと一分二分」を「年歳時節」とせられた所にも、信相続を暗示してあるようである。少なくとも我聖人は箇様にも味おうておられたように思われる。
或る人が、二河白道の図を携えて、師に見せると、師の僧の云われるには、「此の白道は余りはっきりしている」と云うて、直ちに筆を取りて、白道に墨を塗り、「私の信心はこの通りである」と云われたと云う話を聞いたことがある。話の細かな所は、忘れたが、大体の筋は
(2-235)
箇様であったように記憶している。此の人は真に二河白道を実際に味おうた人であると思う。
此の譬えは、入信の径路を示すとともに、又信心守護の喩えという名の示す通りに、信仰そのものの表現であらねばならぬ。吾等は一面入信の径路として味わうとともに、亦善導大師の信仰生活そのものと見ない訳にゆかぬ。この意味に於いて、二河白道の譬喩は、念々に於ける信仰の事実である。我等は常に驚き恐れて、自己の立場から叩き落ち、そして現前の事実たる水火の白道上にあることを自覚するのである。此の時常に新に如来招喚の御声を聞く。夫を信心と云うのである。若し此の説に反して、此の譬を入信までの径路丈とするならば、其の人はもう此の譬えとは遠く離れている人でなかろうか。信仰は常に現前の一念である。此の光景を開展したのが二河白道である。
七 ジョーン、バンヤンは、其の著『天路歴程』に於いて、自己の傷ましい信仰経験を小説体に披瀝し、詩聖ダンテは亦『神曲』に於いて、自身の深い信仰経験を記載してある。前者は幾度も獄に投ぜられて、日毎に十数回の信仰の動乱を感じたという真摯な熱烈な、霊界の勇者である。後者は亦終生、傷ましい漂浪の生活を送りて、身も心も冷たくなるまで人生の孤独と憂愁と、悲憤を嘗めた人であるが、唯、幼時恋人に与えられた清らな温い印象により
(2-236)
て、霊の天地に入ることを得た。かくて両人は一生を賭して獲たる唯一の信仰経験を、各自独特の能力によりて発表したのである。『天路歴程』の主人公が、やがて来るべき都市の破滅に戦〈おのの〉いて、妻子を捨てて家を出で、罪の重荷を負うて坂を登り、虚栄の市に迷い、死の谷に恐れ、疑城に鎖された心持は、ひしひしと内心に感銘する。更に『神曲』に於ける主人公が、始めに悲痛極みなき地獄を巡りて、到る処に感傷の腸〈はらわた〉を絞り、次に煉獄に上りて、苦行の困難を感じ、遂に天国に進む有様は、他事〈よそごと〉と思われぬ親しさが感ぜられる。是れ皆作者の実感の記載であるからである。
善導大師の二河白道は、簡単な点に於いて、詩趣を欠ける点に於いて、上の二つに較べることは出来ないけれども、大師の痛烈なる修道の光景、即ち心身を苦励して、念々に如来に対〈む〉かい奉らんとする精進力は、上の二つに超え勝れていると思う。初めに生死の問題に触れて、涯しない三界のただ中に、独り孑然〈げつぜん〉として立っている恐怖と寂寞を痛感し、同時に洗えども洗えども清め難い内心の欲情、限りなく動乱して、瞬時も定まらぬ心、更に此の心を懐いて暫しも離れない肉体の浅間しい執着、此の現前の自己に驚かれた深い心持ちは、群賊悪獣、水火二河等の象徴によりて、心ゆくばかりに表出せられてある。更に是等の煩悩
(2-237)
とともに、精神界の王者とも云うべき邪見我慢の念は、常に確信や正しい見解を惑乱し、強迫する有様も痛切に表われている。而もこの動乱せる心奥より、電光のように閃く霊光は、是等の煩悩を照破して、不可思議の力と喜びを感ずる。是れ即ち如来の喚び声を聞いた時である。親鸞聖人は、『愚禿鈔』下二十一丁に、あの西岸上の喚び声をかように味わわれた。
西岸上に人ありて喚んで言わくとは、阿弥陀如来の誓願也。汝の言は行者也 乃至 一心の言は真実の信心也。乃至 我の言は、尽十方無碍光如来也。不可思議光仏也。乃至 護の言は阿弥陀仏果成之正意を顕わす也。亦摂取不捨を形〈あら〉わすの貌〈かおばせ〉也。乃至 仰いで釈迦発遣して、指〈おし〉えて西方に向かわしめ給えるを蒙るとは順也。又弥陀の悲心招喫し給うに籍〈よ〉るとは信也。今二尊の意〈おんこころ〉に信順して、水火の二河を顧みず。念々に遺〈わす〉るることなく、彼の願力の道に乗ぜよとなり。
我聖人も亦、心ゆくばかり此の二河喩を味わわれた。そして御自身の実験上より、深刻な解釈を施して、大師の真意を発揚せられた。かようにして大師の此の譬喩は活きた力となって、斯道に進む人々の心より心を貫いて極まる所を知らぬであろう。
(2-238)
又言回向者生彼国已還起大悲回生死教化衆生亦名回向也三心既具無行不成願行既成若不生者無有是処也又此三心亦通摂定善之義応知 已上
【読方】また回向というは、かの国に生じおわりて、かえりて大悲をおこして、生死に回入して、衆生を教化するをまた回向となづくるなり。三心すでに具すれば行として成ぜざることなし。願行すでに成して、もし生せずは是の処〈ことわり〉あることなし。またこの三心また定善の義を通摂す。しるべし。已上。
【科文】回向発願心の中、還相回向と結文をあげたまえる一段。
【講義】上来屡々回向ということを説いたが、これまで説き来った回向は往相の回同というものである。往相の回向の外に、彼の浄土へ生れた後に大悲心を起こして、再びこの生死の薗、煩悩の林の中へ帰って来て、思うがままに衆生を教化するという回向もある。これが所謂還相の回向である。
扨て、上の如き他力の三心を具足して頂けば、名号は自ずら称〈とな〉えられる。更に進んでいえば。信心の体は南無阿弥陀仏であるから、称えぬ先に、早、大行は具わって居るのである。それでかくの如く、三心の願と、南無阿弥陀仏の大行と願行がちゃんとそろうたので
(2-239)
あるから、これで浄土へ往生出来ないという道理はないのである。
この三心は『観無量寿経』の九品段の始めに説いてあって、散善九品の機類は、みなこの三心を以て浄土に往生するのであることは申すまでもないが、独り散善の機類ばかりでなく、定善十三観の機類も、同様に、この三心を具足しなければ、往生は出来ないのである。それでこの三心は散善九品の所に説いてはあるが、実は、定善の機までも摂めるのである。このことはよくよく知らねばならぬ。
【余義】一。此の結文に就いて、例の如く我聖人は、西山、鎮西と所見を異にしておられる。
鎮西の説によれば、「無行不成」の「行」は、定善散善等の諸行を指す。従ってここの文の意〈こころ〉は、上に挙げた三心を具えれば、諸善万行は皆往生の行となるというのである。裏から云えば、諸善万行はこの三心がなければ往生の行とはならぬと云う意味である。西山の説に依れば、「行」とは所帰の仏体、三心は行者が起こす所の帰仏の一心を指す。従ってここの文意は、仏体に於いて往生の行は成就してあるから、吾等は唯帰仏の一心を起せば足る。この心を具える時に往生の行は備わるというのである。
(2-240)
然るに我聖人は、『観経』の此の三心に就いて、隠顕二種の見解を有しておられる。顕の義から云えば、鎮西の解釈と等しく、三心を具すれば、諸善万行は尽く往生の行となると云うのである、されど此の説は不徹底の説たるを免れぬ。それは上の如き三心は到底吾等の力で具えることが出来ぬからである。若し具えることが出来るならば、不完全な諸善万行も往生の行となることは云う迄もないことである。されどこの「定散諸機各別の自力の三心」は、到底完全に成就することは出来ない。之を具えようとするは迷いのしぐさである。かくて聖人は『観経』に対する皮相の見解を破りて、隠説を立てられた。其の説によれば、三心とは、他力回向の信心、行と云うは本願の大行である。他力の信心を獲れば、よしや口に名号を称えずとも、其の一念に所信の名号が行者に具わると云うのである。南無の三心は願、阿弥陀仏の十念は行である。此の行の中に大善大功徳のあらゆる行は備えられてある。願は信心、行は名号、信行具足する故に必ず往生することを得ると云う。
西山のように、行を仏の方にのみつけず、鎮西のように、行を行者の自力の行とせず、信心定まるときに、往生の行は吾等に与えられるとせられる所に、他力宗教の真面目があると思ふ。
(2-241)
第四科『般舟讃』 の一文
又云敬白一切往生知識等大須慚愧釈迦如来実是慈悲父母種種方便発起我等無上信心 已上
【読方】またいわく、うやまいて一切往生の智識等にもうさく。大いにすべからく慚愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり。種々の方便をもて、われらが無上の信心を発起せしめたまえり。 已上
【文科】『般舟讃』の文によりて弥陀釈迦二尊の善巧方便を示し給う。
【講義】同じき善導大師の『般舟讃』には左の如くいうてある。私は茲にうやうやしくすべて浄土往生を願う知己友達の方々に白〈もう〉す。私共は大に御礼を申さねばならぬ。釈迦如来は、実に大慈大悲の父母に在〈ましま〉して、これまでいろいろの御方便をして下されて、私共にこの上ない他力の信心を頂かして下されたのである。
第五科『往生礼讃』の文
貞元新定釈教目録巻第十一云集諸経礼懺儀 上下 大唐西崇福
寺沙門智昇撰也准貞元十五年十月二十三日勅編入云云懺儀上巻智昇依諸経造懺儀中依観経引善導礼懺日中時礼下巻者比丘善導集記云云依彼懺儀抄要文云二者深心即是真実信心信知自身是具足煩悩凡夫善根薄少流転三界不出火宅今信知弥陀本弘誓願及称名号下至十声一声等定得往生及至一念無有疑心故名深心 乃至 其有得聞彼弥陀仏名号歓喜至一心皆当得生彼 抄出
【読方】貞元の『新定釈教目録』の巻第十一にいわく、集諸経礼懺儀 上下 大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。貞元十五年十月二十三日勅になずらえて、勘編して入ると云々 懺儀の上巻は、智昇、諸経によりて懺儀をつくるなかに、観経によりて善導の礼懺の日中の時の礼をひけり。下巻は比丘善導の集記と云々。かの懺儀によりて要文を抄していわく。二には深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して、火宅をいでずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は名号を称すること、しも十声一声等にいたるに及ぶまで、さだめて往生をうと信知して、一念に至るに及ぶまで、疑心あることなし。かるがゆえに深心となづく。乃至 それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一念を至せば、みなまさに彼〈かしこ〉に生ずることをうべし。抄出
(2-243)
【字解】一。『貞元新定釈教目録』三十巻。唐の徳宗の貞元十六年(西暦八〇〇年)沙門円照勅を奉じて撰す。訳経者百八十七人、訳出の経典二千四百四十七部、七千三百九十九巻を録す。後漢明帝永平十年(西暦六七年)より此の年まで七百三十四年間の訳経目録である。
二。智昇、西京、崇福寺に住し、開元十八年、(西暦七三〇年)『開元釈教録』二十巻『続大唐内典録』一巻等を撰す。『集諸経礼懺儀』も此の年の撰なり。
【文科】『礼讃』所出の文と深心、一心の文をあげ給う。
【講義】普通にいう『貞元録』即ち唐の徳宗皇帝の貞元年中に新たに出来た釈教目録の第十一巻に、『集諸経礼懺儀』上下二巻は、大唐の西崇福寺の沙門智昇の撰出にかかるものであるが、貞元十五年十月二十三日の天子の勅命に依って大蔵経中に編み込まれたと記してある。この『集諸経礼懺儀』の上巻は智昇法師自ら、いろいろの経典に依って選出せられたものであるが、その中、『観経』に依って作られた部分は、全く、善導大師の『往生礼讃』の日中の偈文である。また下巻は丸々善導大師の記し給うた『往生礼讃』である。今茲で彼の『集諸経礼懺儀』に依って『往生礼讃』の肝要の文をえらび出そう。
二に深心、深心というは真実信心のことで、その内容をいえば、自身はあらゆる煩悩を
(2-244)
具足〈そな〉えて居る凡夫で、善根は至って少く、三界の苦しみの巷を流転〈めぐ〉って、どうしても自分の力では、焔に囲まれているような迷いの世界を解脱〈のがれで〉ることは出来ないと信知し、同時に、十声、若しくは、一声の名号を称うるものを吃度、極楽へ迎えとると仰せられる弥陀の本願を信知することである。かように信じて、一念も疑う心のないのを深心と名づけるのである 乃至
かの阿弥陀如来の名号の御謂われをきき開いて、大いに歓喜〈よろこ〉び、一念の信心を得れば、皆、極楽浄土に往生することが出来る。
【余義】一。善導大師の『往生礼讃』の文を引用せらるるに、聖人は経録によったことを述べられた。蓋し出処の精確なることを示さんが為であろう。
『礼讃』の三心釈中、第一、第三は自力を明かしたものであると云うので、『化巻』第九の初めに引用せられ、ここには第二の深心釈のみを引かれた、初めに「深心は即ち是真実信心なり」と云い、次に二種深心を挙ぐ、そして終りに「一念に至るに及ぶまで、疑心あることなし。故に深心と名づく」と結ばれた。是等の文によりて見れば、我聖人の此の文を引用せられた御思召しは、機法二種深心は、真実信心であると云うことを示されたことは勿論、上に引用した三心は行者帰命の一心、即ち真実信心であることを証せられたことと思う。
(2-245)
此の文は『行巻』(第一巻六四五頁)にも引用せられたが、『六要』の指導の如くあの時は行に就いて引き、今は信の証文として引用せらる。
第三項 源信和尚の文
第一科 菩提心の文
往生要集云入法界品言譬如有人得不可壊薬一切怨敵不得其便菩薩摩訶薩亦復如是得菩提心不可壊法楽一切煩悩諸魔怨敵所不能壊譬如有人得住水宝珠瓔珞其身入深水中而不没溺得菩提心住水宝珠入生死海而不沈没譬如金剛於百千劫処於水中而不爛壊亦無異変菩提之心亦復如是於無量劫処生死中諸煩悩業不能断滅亦無損減 已上
【読方】『往生要集』にいわく、入法界品にいわく、たとえば人ありて不可壊のくすりを得れば、一切の怨敵その便〈たよ〉りをえざるがごとし。菩薩摩訶薩もまたくかくのごとし。菩提心不可壊の法楽をうれば、一切の煩悩、諸魔、怨敵、壊すること能わざるところなり。たとえば人ありて住水宝珠をえて、その身に瓔珞とすれば
(2-246)
ふかき永中にいりてしかも没溺せざるがごとし。菩提心の住水宝珠をうれば、生死海にいりてしかも沈没せず、たとえば金剛は百千劫において水中に処して、しかも爛壊しまた異変なきがごとし。菩提の心もまたまたかくのごとし。無量劫において、生死のなかのもろもろの煩悩業に虚するに、断滅することあたわず、また損減なし。已上
【字解】一。菩薩摩訶薩 梵語ボ-ドヒサットワ、マハ―サットワ(Bodhisattva Mahasattva)覚有情大有情と訳す。大心衆生、大士、開士等同じ。大菩提心を発して六度の行を修める大乗の行者を指す。菩薩又は摩訶薩の何れ一つにても意味を成すけれども、梵文には此の二語を熟字のようにして一つの意味に用いている。
【文科】『往生要集』によりて菩提心を釈し給う。
【講義】源信僧都の『往生要集』上末には、左の如くいうてある。『華厳経』の「入法界品」に曰わく、譬えを挙げていうて見ると、もし茲に一人の人があって「打ち壊〈やぶ〉ることの出来ない薬」というものを持って居れば、どんな恐ろしい強い怨敵でも、その人を攻め滅す便〈たよ〉りを得ないように、菩薩が、菩提心という攻め滅すことの出来ない法の薬を持って居れば、どんな煩悩でも、悪魔でも、障〈さまた〉げをすることは出来ぬ。又、住水宝珠という珠を、瓔珞にして身体に著けて置けば、この珠の威徳で、いかなる深い水の中へ入っても溺れるということはないように、菩薩も菩提心という住水宝珠を持って居れば、生死の海に入っても生死の海
(2-247)
に沈むというようなことはない。又、金剛というものは百千劫の長い間、水の中につけて置いても、爛壊〈くさ〉るとか変質するとかいうことはないものであるが、菩提心も亦丁度その如く、菩薩が無量劫の永〈なが〉の間、生死海中に沈んで、衆生と同じい様に煩悩を起し悪業を作り給うても、そのために、なくなったり、損のうたりすることはないのである。この菩提心とは云うまでもなく他力信心である。
【余義】一。『往生要集』の中より、特に此の文を此処に引用せられたのは、他力の信心は大菩提心であることを証する為である。
菩提心は訳して道心という。証りを獲んとする心である。自力修行の人々の唯一の旗幟〈はたじるし〉である。従って諸経綸には、此の菩提心の徳を讃えて蘊〈あま〉す所はない。然るに我聖人は此の大菩提心をもって、他力回向の信心に外ならぬと仰せられたのである。
誠に如来回向の信心は広大である。一切の煩悩に障害せられず、悪魔に乱される憂えはない。此の意味に於いて『華厳経』に説かれたる此の菩提心というも、此の信心のことであることが知られる。『和讃』に、 信心即ち一心なり 一心即ち金剛心
(2-248)
金剛心は菩提心 此の心すなわち他力なり。
吾等凡夫の起こす所の他力の信心が、あの天親菩薩の所謂一心であることは.曇鸞大師の『論註』の教える所である。そして其の一心が、金剛心であることは、善導大師が、深心釈に仰せられた所で、その金剛心が菩提心であることは、此処に源信和尚の示さるる所である。そしてこの菩提心は他力回向の心であることは申す迄もない。此の文を普通に解すれば自力の菩提心となるが、今は他力の菩提心の徳をいろいろの譬えに寄せて顕わされたのである。
第二科 摂取利益の文
又云我亦在彼摂取之中煩悩障眼雖不能見大悲無倦常照我身 已上
【読方】又いわく、我また彼の摂取のなかにあれども、煩悩眼〈まなこ〉を障て見たてまつること能わずといえども、大悲倦〈ものう〉きことなくして、常にわが身をてらしたまう。 已上
【文科】『往生要集』の文たる大悲照護の文をあげらる。
【講義】私も亦、彼の阿弥陀如来の摂取の光明の中につつまれて居る身の上である。私の
(2-249)
肉眼は煩悩妄念の為に邪魔をせられて、面〈まのあた〉り、如来を見奉ることは出来なよいけれども、如来の大悲は倦〈う〉みつかれ給うことなく、いつでも、私を照し護り給うのである。
【余義】菩提心の文の次に摂取の文を出された。摂取不捨の故に金剛の信心であるとは、我聖人の深く味わわれ、又強く説かれた所である。『唯信鈔文意』十五丁に、
摂取の光ともうすは、無碍光仏の御こころのうちにおさめとりたまうゆえに、金剛の信心ともうすなり。
『末灯鈔』の各所にも是と同意味に仰せられてある。八丁には、
この信心の人を真の仏弟子といえり。この人を正念に住する人とす。この人は、摂取してすてたまわざれば、金剛心を得たる人ともうすなり。
十八丁には殊に明瞭に、
真実信心のさだまると申すも、金剛の信心のさだまると申すも、摂取不捨のゆえにまをすなり。
と申され、其他二十九丁「摂取不捨事」と題して、真仏房に宛てられた文、並びに、四十丁随信房に宛てられた文にも、摂取不捨の故に金剛心というと仰せられた。『正信偈』にも亦此の文
(2-250)
を出されてある。
吾等の信心が金剛心であるということは如何にして知ることが出来るかと云えば、我心の動乱によりて知られる。心の動乱とは、如来に背き、如来を忘れ、如来に離れんとするのである。この心の強ければ強い程、そこを自覚せしめられて、恰も釘打たれたように、逃げることの出来ないことを感ずるのである。この離れようとすればする程、離れることの出来ない味わいが摂取不捨である。誠に摂取不捨とは、逃げる者をおさえて逃さぬ力である。その力に押さえられた所が金剛堅固である。そして夫を自覚した所が金剛の信心である。
我聖人は深くこの点を味わわれて、源信和尚のこの文を喜ばれたのである。
第四節 総結
爾者若行若信無有一事非阿弥陀如来清浄願心所回向成就非無因他因有也可知
【読方】しかればもしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところに非ざることあることなし。因なくして他の因の有るにはあらざるなり。としるべし。
(2-251)
【文科】上来、略顕、引文を了〈お〉えたから、ここに総結の文を置きたまう。即ち大信の所明はこれにて一応終わりを告げるからである。
【講義】扨て上来の引文に依って、明白〈あきら〉かに知られた通り、南無阿弥陀仏の大行も他力の信心も、一つとして、阿弥陀如来の無漏清浄の御心から起こして下された本願に依らぬものはない。これも衆生のため、あれも衆生のためと、如来の方で回向して成就して下されたのである。それであるから、私共衆生の浄土に往生することの出来るのは、阿弥陀如来の清浄願心を因とするので、因なくして浄土に参るのではない。又阿弥陀如来は自分の力で御成就なし下された行信をすべて、衆生へ回向して下されるから、私共衆生は、丸々貰い受けた行信を以て、浄土へ参らして貰うので、他の因で浄土へ生れるのではない。
【余義】一。上来経論釈の引文が終ったから、簡潔に結釈を施された。即ち是まで広く引文を以て示した所は、要するに信の内容を闡明〈あらわ〉すの外はない。そして本願の行は素〈もと〉より信と離れたものでないから、ここに「若しは行、若しは信」悉く弥陀願力の回向し給う所であると結ばれた。
そして「若行若信無有一事」等の文勢は、『論註』下三十二丁、「若しは因、若しは果、一事
(2-252)
として、利他に能わざること有ることなし」に依より、「清浄願心」等は、『論註』下二十三丁「此の三種の荘厳成就は、本〈もと〉四十八願等の清浄願心の荘厳せる所なるに由て、因浄なるが故に果浄なり、因なくして他の因あるには非ずと知るべしとなり」を巧みに転用せられたのである。『論註』に於いて無因、他因を排斥せられたのは、当時問題になっていた邪執を選ばれたのである、無因と云うは、一切諸法は因なくして自然に生ずるものであると云う自然外道の説である。他因というは、一切諸法は皆大自在天より生ずるという大自在天外道の説をいう。『三論玄義』に四執を列挙してある中の、無因有果と邪因邪果を指す。この二つの見解は最も邪〈よこしま〉の見解〈みかた〉である、自然生の見解〈みかた〉は、因果観念を破壊し、放逸無漸の畜類に人を陥れ、大自在天等のむら気な意志を万物の起因とする見解は、人をして野蛮極まる偶像崇拝に導き、共に深遠微妙なる霊界と遠く離れしめる。鸞師は是等の邪見を斥け、浄土の荘厳は、如来の願心より荘厳する所であるから、是等の無因他因でない、正しい因果の道理より成就したものであると云われたのである。然るに親鸞聖人は、巧みに此の文を転用して、他力信仰の要義を一言〈いちごん〉にして表わされた。
即ち他力信仰に関する論理的難点は、大凡〈およそ〉二つである。一は往生の因たる行信が、若し
(2-253)
も自力を交えないとすれば、夫は其の人に取りては無因ではないか。他の一つは、若し如来回向の行信が因であると云うならば、夫は他因となるではないかと云うのである。聖人は信仰の上に加えらるる此の論理的難点に対して、無因他因を選び乗られたのである。
その模様はどうかと云えば、往生の因たる行信は、如来の回向せられた所であると云う、只夫丈である。吾等に如来回向の行信があるから無因でない。そして既に回向せられて吾等の功徳となっているから他因でない。正しい因果の道理に従って往生することが出来ると云うのである。
斯の如く此の結釈は、極めて簡潔であるが、信仰の微細なる正邪のもつれを巧みに切り開いておる。あの自力の諸行に著する鎮西の如きは、其の実、虚仮の善を握っているものであるから無因である。又は仏体を往生の行と談じて、吾等の機の上に往生の因を認めない西山の説は、他因と云わねばならぬ。この両端を避けて、回向の信行を獲得するのが我聖人の教える所である。