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教行信証講義

序講
総序
教巻
行巻
 正信念仏偈
序講 信別序
信巻 本
信巻 三心一心
信巻 重釈
証巻
真仏土巻
化身土巻 本
化身土巻 末

目次

教行信証講義

   第一巻 教の巻 行の巻 (第13版)
   山邊習學 赤沼智善 共著

―― 行巻 ――

(1-267)

第四編 真実行(行巻)

第一章 解題

第一節 題号

 顕浄土真実行文類二

 【講義】浄土真宗の真実の行を顕わす文類。
 【余義】前巻に於いて浄土真宗の真実の教を説き明し終ったから、これより進んで、その真実の教に説き詮〈あらわ〉されて居る真実の行を出し示し給うのである。この教巻、行巻、信巻、証巻の順序は、上一二五頁四法論の処で説明した通り、浄土真宗の四法が、

 教━━━━━━━━━━━━能詮┓
 行━━所信┳━能得の因━┓  ┃
 信━━能信┛      ┣所詮┛
 証━━━━━━所得の果━┛

(1-268)
の順序になって居るから、先ず能詮の教を示し、次に所詮の義の中、所信の行を示し、その次に能信の信を出し、最後に所得の証果を説き示し給うのである。
 それであるから、「教巻」に於いて、「それ、真実教を顕わさば、則ち大無量寿経これなり」、
と一宗の根本経を挙げ、次にその根本経の経体を出して、「即ち仏の名号を以て経の体となすなり」と示してある。浄土真宗の真実教は何かといえば『大無量寿経』の所説がそれである。『大無量寿経』一経の説き明す根本精神は何かといえば、仏の名号である。而して仏の名号は南無阿弥陀仏の大行にして、即ち、浄土真宗の真実の行である。上に已にその真実教の何たるかはこれを説き示し終ったから、これから、その真実教に説き詮〈あらわ〉さるる南無阿弥陀仏の大行を思うさまに叙説讃嘆せんとし給うのである。
 西派の道隠師は、その著『教行信証略讃』に於いて「教は鞘の如く、行は剣〈つるぎ〉の如し、教行不二あること、剣の鞘にあるが如し、今斯の行巻は鞘より剣を抜くが如し」というて居られる。
 鞘は已に放たれた。名号の利剣はこれより光芒千里、人の子の胸を刺して、煩悩の賊を殺さんとするのである。 (1-269)

第二節 選号

 愚禿釈親鸞集

 上一五一頁をみよ。この六字、御真本にも御草本にもない。後人の手に依って附け加えられたものであろう。

(1-270)

第二章 標挙

 【大意】この「行巻」一巻に説き明すべき行を標し挙げ給うものである。この十八字御草本御清書木共に表紙の裏に書かれてある。

 諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行

 【字解】一。称名 み名をほめたたえること。
 二。選択本願の行 選択本願は『選択集』の題号に出づる語にて、法蔵菩薩が二百一十億の諸仏の国の中から選びとり給える往生の業因〈たね〉を誓わせられた願の意である。もとより四十八願すべて選択本願であるけれども、弥陀選択の真意は特に第十八願の中にあるから、別して第十八願に名けることになって居る。しかしまた第十七願、第十一願をも選択本願ということもある。今は第十七願を指していうので、選択本願の行といえば第十七願に誓わさせられた名号の行をいうのである、なお下二七四頁をみよ。
 【文科】「行巻」二巻に説き明す行を標挙する一段。
 【講義】この巻に説き明す行というは、四十八願の中、第十七諸仏称名の願成就のもので、浄土真実の行であるから、私共はこの行に依って往生さして項くより外はない。また、如来が因位に於いて選びに選び給うた本願の行であるから、私共罪悪の凡愚に契〈かの〉うた
(1-271)
行である。私共の絶対安住は既にこの二行の細註に遺憾なく顕されてあるのである。

 【余義】一。第十七願には下にも出て来るがすべて六種の名がある。しかるにその中、今ここに、殊に諸仏称名之願という願名を標〈かか〉げられたは、どういう訳であろうか。それを少しくいうてみよう。
 というて、別に訳があるのではないが、この願名は、余の願名とは違うて、第十七願のその儘を言い顕わして居る名であるからである。即ちこの願名のうちには、諸仏という「人〈ひと〉」と、名という「法」とを兼ね、諸仏称という「能讃」と、名という「所讃」とをふくんで居って、第十七願名としては、少しも義理に欠けたところがなく、誰でも厭とは曰われない願名であるから、それでここに標挙せられたのである。′
 二。この称名の称は、称念という意味ではなくて、称揚の意味である。咨嗟称揚の義である。何故かというと、どうか、十方の衆生が、きいて信をとるように、十方の諸仏に我名を称揚せられたいというが第十七願の御意〈おこころ〉であるからである。「然し、この称揚の裡〈うち〉には、自〈おのずか〉ら称念の意味も含まれて居るのはいうまでもない。その名を称〈ほ〉めたたえるという事には、どうしても、その名を称〈とな〉えねばならぬ。名を称〈とな〉えるという事が必然の理としてほめ
(1-272)
る中にこもって居るからである。それ故、親鸞聖人は『唯信鈔文意』に左の如く
  第十七の願に十方無量の諸仏にわがなを、ほめられんとちかいたまえる一乗大海の誓願を成就したまえるによりてなり。
 と宣うてあるが、一本にはこの「ほめられ」の次へとなえられの五字が加えられてあるのもこの表面の称揚の義の裡〈うち〉に称えるという義をも含んであることを示すものである。
 三。この二行の細註は諸仏称名之願の名の解釈で、諸仏の讃嘆せられる十七願成就の名号はこうこういうものであるということを示したものである。即ち諸仏の讃嘆せられる名号こそ浄土真宗の真実の行であり。弥陀如来因位に於いて止み難き大慈悲心より選びに選び給うた本願の行であるということ、この行は十八願の信に望めて見ると帰命せられる行体であるぞということを先ず第一に示し給うたものである。
 それで先ず初めの浄土真実之行というは、衆生の浄土へ往生する正定業たる真実行であることを示し、又合せて「信巻」の真実信に対させてあるのである。即ち浄土というは聖道に対し、真実というは方便に対する語であるから、この語を合せて解釈すると、第十八願の信心の対象となる行で、聖道の方便の行ではなくて、第十八願真実の機の信ずる浄
(1-273)
土の真実の行であるということになる。
 次に選択本願の行というは、阿弥陀如来が因位に於いて衆生不憫の心から選びに選び給うた本願の行ということで簡び捨てられる非本願の行に対する語である。浄土真実の行というも選択本願の行というも、ともに同じく南無阿弥陀仏の名号のことをいうたものであるけれども、顕わし方が違うて居る。初の一行は、この行が、衆生の往生のための正定業であるということを示し、後の一行は、この行は阿弥陀如来が、選択摂取し給うた行であるということを示して居るのである。それであるから、古〈むかし〉から初の一行は約機の釈であるし、後の一行は約法の釈であるというて居る。
 浄土真実之行ということには異論がないが、選択本願之行というについて、古来異論が多い。
 その中有力な説は、選択本願というは第十八願のことであるから、選択本願の行というは第十八願に明してある乃至十念の能行である。それで今ここの二行の内、初の一行は所行、彼の一行は能行であって、「行巻」所明の大行は、所行であるがその所行がその儘、能行であるということを特に示したものだという説である。
(1-274)
 この説がまたいろいろに分れて二三の説となって居るが、然し根本はこの説明に依るのであるから余は略して置く。
 私が前に解釈した説は、この選択本願というを第十七願とみてその第十七願の行、即ち弥陀が選択摂取し給うた行ということで第十八願の能行ではなく、第十七願の所行とする説に依ったものである。
 選択本願ということはもとより第十八願のことである。『唯信鈔文意』(二十七右)には明かに「乃至十念若不生者不取正覚というは選択本願の行なり」とある。これは疑うことは出来ぬ。然し、我が親鸞聖人の御意を伺うてみると、独り、第十八願を選択本願と宣うのみならず、第十七願をも、また第十一願をも選択本願と呼び給うのである。この事は『往還回向文類』(如来二種回向文)に明かである。で、今選択本願の行と行の字のつく時には、選択本願は第十七願を指していうので、弥陀の本願に於いて選択せられた行ということが、この選択本願の行という意味になる。第十八願を選択本願という場合は弥陀の能選択の願心を指していうのである。尚委しくいえば、どうぞ衆生をその儘のなりで助けたいと、名号一法を選びとり給うた誠心〈まごころ〉が第十八願であってその誠心に選びとられたそのままのなりで助ける作用〈はたらき〉のあ
(1-275)
る行が選択本願の行である。即ち第十七願の所行の念仏である。
 先きにかかげた第十八願の乃至十念の能行を選択本願の行といわれたのであるという説は、今はとらないのである。何故なれば、今は「行巻」で「行巻」は「信巻」に対して所行の巻である。能行のことを明す処ではない。まだ行者の手許へ渡らない、法の方にある南無阿弥陀仏の大行を讃嘆するのが「行巻」の目的であるから標挙にも、明に諸仏称揚の願とあるのである。而してこの二行はその諸仏称揚の願の細註であるから、選択本願の行というのも、第十七願の大行を指したものであるとするのが、文義共に穏当であるからである。

(1-276)

第三章 真実行

第一節 略顕

 【大意】これから愈々浄土真実の行を説き示し給うのであるが、先ず初めにざっと、あらましをつまんで示し給うのがこの第一節である。その中
 第一項の総標には、往相回向の中に大行と大信とある。我等はこの大行と大信とを丸々頂いて真実の証果を開かして貰うのであるが、その大信は次の巻で説き明すから、今はその大行をこれから説示する旨を宣うのである。
 第二項に入って、愈々第一科に真実行の体を出し、第二科にその真実行の第十七願成就であることを示し、第三科に第十七願の願名を列ね給うのである。

第一項 総標

 謹按往相回向有大行有大信

 【読方】つつしんで往相回向を案ずるに、大行あり大信あり。
 【文科】他力回向の大行大信を総標する一段
(1-277)
 【講義】嚢〈さき〉に「教巻」に於いて、大略〈おおまか〉に教行信証の四法は往相回向の中に含まれていると申したが今謹んで手近く往相回向を頂いて見るに、大行、大信の二つがある。教は行信証の三法を総括〈ひっくる〉めたもので、これは教巻に既に明し了った。この教を割って見ると行信証の三法が生れてくる。その中証は浄土に於ける果実で、只今私共の正しく頂く住相回向は、その証〈さと〉りの果実の正因〈たね〉である所の行信の二つである。その中大信は次の「信巻」に委しく述べるが今は大行に就いて広く申し述べる次第である。

第二項 正顕
第一科 大行の体

 大行者則称無碍光如来名斯行即是摂諸善法具諸徳本極速円満真如一実功徳宝海故名大行

 【読方】大行というはすなわち無碍光如来のみなを称するなり。この行はすなわち、これもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す。真如一実の功徳宝海なり。かるがゆえに大行となづく。

 【字解】一。無碍光如来 尽十方無碍光如来の略語であって、阿弥陀仏のことである。衆生の煩悩の障
(1-278)
壁に碍〈さ〉えられない無碍の光明を放ちて、無明の闇を破し、衆生の志願を満し給う仏で在すから名けるのである。天親菩薩が阿弥陀仏の十二光の第三に依って唱え給うた仏名である。
 二。善法 万善万行のこと、
 三。摂 摂在の義、おさめおくこと。
 四。徳本 功徳のこと、本は因のこと、布施持戒忍辱等の諸々の功徳は悉く菩提涅槃の因となるものゆえ徳本というのである。
 五。極速円満 名号の中に具する功徳善根が、信心歓喜の一念に速かに行者の身にみちみつること。
 六。真如一実 真はその体虚妄ならざる義、如は性の改異せない義である。諸法の実体実性となる絶封平等の理体を真如という。一実というは、この真如の外の諸法は 悉く虚妄であって、この真如のみ真実の法であるということである。真如一実で真如というに同じ。

 【文科】大行の体を示し、その相状を述べ給う一段。
 【講義】さて他力回向の大行は、何であるかといえば申すまでもなく、無碍光如来の御名を称えることである。無碍光如来の御名とは、阿弥陀如来が万善万行を修しその功徳善根を悉く封じ込めて御成就なされた御自分の御名、即ち南無阿弥陀仏の六字である。この六字の名号には、一切の善という善、功徳という功徳を摂め具え、私共が、その名号の
(1-279)
いわれを聞いて信ずる刹那にその功徳善根が電気の伝わるよりも疾く、私共の身にだぶだぶと入り満ちて下されるのである。それであるから、この六字名号の行は、実に理を極め実を尽して唯一無二の大功徳の宝海である。かように真を尽し、善美を極め、直〈すぐ〉と功徳の顕わるること特効のある大妙薬にも喩うべきものであるから、大行と名けたものである。

 【余義】一。この一段の余義を述ぶる前に、先ず行ということについて、あらかたの意味をいうて置かねばならぬ。
 すべて、ある語の意義を了解するために、釈名、出体、義相ということがある。釈名というは、その名目の意味を解釈すること、出体は、その体を出すこと、義相はその意義〈いみ〉相状〈すがた〉を示すのである。今この行ということについても、その三つから説明して進んでみよう。
 行の名を解釈してみると、往趣とか進趣とか造作とかいう義がある。即ち行ということは、因より果にいたり趣く義(進趣、往趣)であり。また因より果にいたり趣くには、必ず身口意の三業の上に顕わるる所作を必要とするから造作という義があるのである。この釈名については天台の『法界次第』中下(十三丁)、『倶舎頌疏』九(十四丁)をみて貰いたい。
(1-280)
 次に行の相状〈すがた〉はというと、所謂、善導大師の「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業(一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるをば、これを正定の業と名づく)」で、行者が口に称え顕わすのが、行の相状である。
 次に行の体は何かというと、いうまでもなく、南無阿弥陀仏である。『教行信証大意』に
  真実の行というは、さきの教にあかすところの浄土の行なり、これすなわち、南無阿弥陀仏なり
とある。『御文』には、明に、南無阿弥陀仏といえる行体云云というてある。これで行の釈名と出体と義相は知れたのである。
 二。茲に一つの不審がある。行ということは、先にもいう通り、進趣造作の義で、布施をするとか、戒律を持〈たも〉つとか、そういう造作をして、それが因になるので行というのである。ところが、南無阿弥陀仏は、弥陀如来の御名である。御名をどうして行と名くることが出来るのであろうか。
 この名が行といわれるについて、法徳〈ほうのとく〉の方からいうと、機受〈きにうける〉の方からいうと二通〈ふたとおり〉あるがどちらからみても行といわれる義があるのである。
 先ず法徳の方からいうと、弥陀如来は、因位の万行、果地の万徳を成就して、光寿二無
(1-281)
量の覚体〈さとり〉を成就し給うてあるのである。而してその覚体の徳用〈はたらき〉を悉く御名に顕わし収め給うてあるのであるから、名号その儘が行といわれるのである。而してこの名号の行は、弥陀如来の進趣造作の結果であって、同時に衆生の進趣造作の業因〈たね〉となるのである。『選択集』上(十七左)には
  名号はこれ万徳の所帰なり。然らば即ち弥陀一仏の所有の四智三身十力四無畏等の一切の内証の功徳、相好光明説法利生等の一切外用の功徳、皆悉く阿弥陀仏名号の中に摂在するが故に、名号の功徳を最も勝〈すぐ〉るると為すなり。
とあり。『御文』二帖目七(九)通には、
  南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神諸仏菩薩も、そのほか万苦万行もことごとくみなこもれるがゆえに、なんの不足あってか余行余善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といえる名号は、万善万行の総体なれば、愈々たのもしきなり。
と記し給うてある。
 次に機受〈きにうける〉の方でいえば、その法体成就の万徳が、全く衆生往生の真因となるので、衆生の願も行も既に弥陀如来の御成就下された所であるから、衆生の称うる十念念仏には、
(1-282)
十願十行が具足して居るのである。行者はただ、これを信受するだけである。『改邪鈔』下(十六丁)に
  弥陀他力の行をもて、凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもて、凡夫報土に往生する正業として、この穢界をすてて、かの浄刹に往生せよとしつらいたまうをもて真宗とす。
と宣うてあるのは、この機受〈きにうける〉の方でいうたものである。
 こういふ意味合〈あい〉があるのであるから、弥陀如来の御名というは、ただ仮りの御名ではない、権兵衛とか、弥七とかいう人間の名とは違って居る、人間の名やその他の名は符号にしか過ぎないが弥陀如来の御名は特に御願〈おねがい〉があって出来上〈できあが〉らせられ、所謂、色心不二、名体不離の御名であって、体徳が悉くその中に篭らせられてある御名である。弥陀の因源果海の功徳善根が悉くつつまれて居る御名である。そういう風に御願に依って御成就なされた御名である。それであるから元照律師は、「我が弥陀は名を以て物を摂す」と喜ばれたのである。茲がまさしく阿弥陀如来の阿弥陀如来たるところで私共の救済は茲に確立するのである。後へ出て来る文ではあるが、茲に法位、元照両師の文を引いて、読者と共に御名の御謂〈おいわ〉れを味わいたいと思う。
(1-283)
 法相の祖師法位の云く、「諸仏は皆徳を名に施す。名を称すれば即ち徳を称す。徳能く罪を滅し福を生ず。名もまたかくの如し、もし仏名を信ずれば、能く善を生じ悪を滅し、決定疑いなし、称名往生これ何の惑かあらん。」
 元照律師の云く、「況んや我が弥陀は名を以て物を摂す、ここを以て耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となる。頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知んぬ。少善根に非ず、これ多功徳なり。」
 三。それで、次にこの所の文について少しく解釈してみよう。先ずここの文を解するに煩鎖のようではあるが、文相からみるのと、文義からみるのとの二様の見方がある。
 (一)文相からみると、「大行というは則ち無碍光如来の御名を称するなり」というは、行の意を釈したもので、「斯行は即ちこれ諸々の善法を摂し……故に大行と名く」というは大行の大の意〈こころ〉を釈したものである。即ち名号の徳の偉大なるを説いて大行と名けられる所以を示したものである。猶委しくいえば、摂諸善法、具諸徳本という量徳と、極速円満の用徳と、真如一実功徳宝海の性徳と、この三徳を挙げて、名号を嘆美し、大行と名けられる所以〈わけ〉を明にしたのである。
(1-284)
 (二)文義から解する時には、「称無碍光如来名」というは行の相状〈すがた〉を解釈し、「斯行則是」以下は行の体徳を出し示したものである。即ち先にいうた釈相と出体を以て、大行を解釈したものである。
 そんなら、普通ならば出体義相と次第して体を出して後に、相状を解釈するが順当であるのに、いま相状を解釈して、後に出体するはどういう訳かというと、親鸞聖人の御心では行という字の意味を先ず初めに示さんがためである。即ち義相に釈名を附して出さんために、順序を変えて義相、出体とせられたのである。それで行という字は、前に出た通り進趣とか造作とかいうことで、衆生が口に南無阿弥陀仏と称うる所で行といわれ、かつまたその称うる所で名号に具えてある万徳を円満具足するのであるから、釈相の中へ直ぐさま釈名をふくませて、その次へ摂諸善法等と出体をなされたものである。
 四。ここの所は、もう一つ踏み込んで味わうことが出来る。それはどういうことかというと、称無碍光如来名といわれた所に、浄土真宗の他力の行が遺憾なく示されてあること、即ち、如来選択の願意が明かに顕われて下されて居ることである。何故かというと、聖道門自力の他宗の行は、六度万行である。布施をするとか、戒律を守るとか、三昧を修する
(1-285)
とかいうことである。我が他力真宗の行はといえば、ただ称えることである。念仏であるこれより外に何〈なん〉にもない。弥陀如来の私共に命じ給う所は、布施を行じて来いでもない。戒律を守って来いでもない。無善造悪のそのなりでただ我が名を呼んで来よというて下されるのである。茲が非常に有難い。親の名を呼びつつ親里へかえる。これより外にはない我が名を呼んで来よ来よ、吁〈アア〉、大悲の至極、親の腹一杯はこれより外はない。称の一字の上に、弥陀如来の選択の願意〈おやごころ〉が有難く頂かれるではないか。それであるから、法然聖人は『選択集』十七右に
  即ち今、前の布施持戒乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取するが故に選択というなり。
と示し給うたのである。称の一字、茲に至って、実に千斤の重みがあるのである。
 もう一つ、そんならば、至極平易に称南無阿弥陀仏は書いたら可〈よ〉かろうと思わるるに何故、わざわざ称無碍光如来名といわれたのか、という疑問がある。
 これは単に称南無阿弥陀仏というと、この称南無阿弥陀仏は『観経』に出でて居る語で、ともすると、無信の念仏、自力の念仏に乱ずる恐れがある。浄土真宗の行というは、無信
(1-286)
の念仏や、自力の念仏ではない。信心を得てその上に、称うる大行であるということを言外に示さんがために、わざわざ曇鸞大師の『論註』の文に依って称無碍光如来名と曰われたのである。
 一体この称無碍光如来名というは曇鸞大師が『浄土論』の「称彼如来名」の文を釈して『論註』の下(三右)「讃嘆門」に示されたものである。その処では、不如実修行の不知二身(如来が実相身、為物身で在すことを知らないこと)と、信心不淳、信心不一、信心不相続の三不信を出して来て、斯ういう無信の念仏ではない。如実修行の信心の上に顕わるる念仏であるということを示されたものである。それであるから親鸞聖人は、今、称無碍光如来名と『論註』の語を借り来って行を釈し、言外に三信具足の念仏をいうのであると示し給うたものである。

第二科 大行の出拠

 然斯行者出於大悲願

 【読方】しかるにこの行は大悲の願よりいでたり。
(1-287)
 【字解】一。大悲の願 如来の大慈悲より発し給うた本願。第十七願をさしていう。
 【文科】先きに示した大行は何処から出てたものかを説く一段
 【講義】処でこのような広大な行はどこから生れたのであろうか。弥陀如来が因位の時御誓いなされた第十七願から生れたのである。

◎名号成就論
 【余義】一。南無阿弥陀仏の六字名号が、第十七願に於いて成就せられたというは、どうしてわかるか。これを少しくいってみよう。
 四十八願の中、我名字と出でて居るのはこの願が始めてである。この十七願から下我名号、我名字の語の出でて居る願が十二ケ所程あるが、それは、皆この第十七願の我名字とあるを受けたものである。我名字というはいうまでもなく南無阿弥陀仏の六字である。阿弥陀如来は十二十三の両願に於いて、光明無量、寿命無量の覚体を御成就遊ばされたけれども、未だその功徳が衆生の手に渡るに及ばない。それで、阿弥陀如来は、更に第十七願に於いて、覚体の功徳を悉く一名号に封じ込め、この我が名字を十方の諸仏が咨嗟称揚して、十方の衆生の我が名号の謂〈いわ〉れをきいてこれを信じ功徳を得るようにと願いかつ誓い給うたのである。この阿弥陀如来の願に報いて、十方の諸仏が六字名号を讃嘆し給うたもの
(1-288)
であるから、衆生も始めて聞いて信ずることが出来たのである。茲にいたって弥陀の本意も始めて満足し、他力回向の義も始めて成立したのである。こういう訳であるから第十七願を名号成就の願というのである。
 二。尤もこれには種々の異説がある。古来からの異説をまとめてみると略々〈ほぼ〉左の三種の説になるのである。
 (一)名号成就は第十八願である。この第十八願に成就した名号を讃嘆するが第十七願である
 (二)名号成就は広く四十八願に通ずる、四十八願成就して、正覚の阿弥陀とならせられたのであるから、四十八願の成就が即ち名号の成就である。
 (三)第十二第十三の光寿二無量の願の成就が名号成就である。名体はもと不離であるから、光寿の体の成就が名号の成就である。第十七願はこの成就した名号を讃嘆する願である。
 皆いずれも一応最〈もっと〉もの説であるが、未だ道理の極成したものとはいえぬ。何故なれば名号成就というは、前にもいう通り、衆生の手に渡るようになって、真実の働きを顕すよう
(1-289)
になったところが成就である。十方の諸仏がこの名号を讃嘆し給うものであるから、衆生もこれをきいて信ずることを得るようになったので、これが成就である。而してこの諸仏の讃嘆の誓われてあるのは第十七願であるから、第十七願が名号成就の願である。それであるから、ただ汎爾〈おおまか〉に四十八願を以て名号成就というてはならぬ。また、第十八願は出来上った名号を聞信して往生することを誓わさせられた念仏往生の願である。十二十三の両願は、覚体成就の願で名号成就の願ではない。
 三。然し、元祖、法然聖人は、十八願を以て、名号成就の願とし、十七願をただ欣慕〈こいしたわせる〉の願、称揚の願として居られるが、これは誤りであるかというにそうではない。法然聖人は、いつもいうように、諸行に対して、念仏を立てんために、一願該摂の法門を立て、四十八願中、第十八願は生因の願、余の四十七願は欣慕〈こいしたわせる〉の願とし、第十八願中に三信十念を誓うてある、その十念が名号成就であって、第十七願は、諸仏がこれを讃嘆して欣慕〈こいしたわせる〉せしむるのであるとせられたのである。
 ところが、我が親鸞聖人は、五願別開の法門というて四十八願中に、真実の五願を立てられるのであるから、法然聖人の第十八願中に摂め兼ねしめ給うた名号成就を第十七願
(1-290)
にもどし給うたのである。乃ち第十八願中の乃至十念を第十七願に引き上げて、第十八願の三信のための所信所行とし給うたのである。それで第十七願は名号成就の願であってこの名号を聞信するものの往生を誓うが第十八願である。法然聖人と親鸞聖人の相違は、ただ開合の相違のみである。
 四。ここに第十七願の願事は何かという問題がある。願事というは、願われて居る事柄というほどの意味で、『六要鈔』には、これを願体というてある。第十七願の願事は何か、一か二かという問題である。
 第十七願には、能讃の称揚と、所讃の名字と二つ出て居る。それで、この称揚と、名号の二つの願事があるという説がある。この説は、はっきりして居って解り易いようであるが、私には至らぬところがある説のように思われる。
 私は、第十七願の願事は、ただ名号であるといいたい。何故かならば、先きにもいう通り、弥陀の名号は、諸仏に称揚せられる所に成就するので、称揚せられなければ成就せないのである。それで我が名をほめられたいというのが、名号成就の誓願で、我が名をほめられたところが、名号成就である。願文の上には称揚ということと、我名という二つ
(1-291)
の事柄があるようではあるが、その二つが相依って、名号が出来上るのであるから、名号一つが願事であると、主張するのである。それであるから、その願名をも、諸仏咨嗟の願、諸仏称揚の願ともいい、また往生正業の願ともいうてあるのである。正業という所に咨嗟称揚の義は、初めからこもり、咨嗟称揚というところに、正業といういわれが成立するのであるからである。

第三科 十七願名

 即是名諸仏称揚之願復名諸仏称名之願復名諸仏咨嗟之願亦可名往相回向之願亦可名選択称名之願也

 【読方】すなわちこれ諸仏称揚の願となづけ、また諸仏称名の願となづく。また諸仏咨嗟の願となづけ、また往相回向の願となづくべし。また選択称名の願となづくべきなり。
 【字解】一。称名 御名をほめたたえること。今一つ御名をとなえる意味もあれども、今は前義を用ゆ。
 二。咨嗟 讃嘆〈ほめたたえる〉すること。
 【文科】名号成就の願たる十七願の御名を列ね給う一段。
(1-292)
 【講義】この願は弥陀がその名号を諸仏に讃めらるることを誓わせられたので、十方の諸仏はこの願によりて他力大行の意味合いを吾等衆生に御勧め下さるるようになったのである。それであるからこの第十七願を「諸仏称揚之願」「諸仏称名之願」「諸仏咨嗟之願」と名ける、三名ともに諸仏が弥陀の名号を讃めたたえる願という意味である。亦この願によりて凡夫が浄土へ往生することが出来るのであるから、「往相回向之願」とも云われ、亦は「選択称名之願」とも名けられる。

 【余義】一。第十七願の願名について、この「行巻」には六名、『略本』には三名出でて居る。そのうち『略本』の二名(諸仏称名の願、諸仏咨嗟の願)は「行巻」に出でて居る名であるから、都合七名となる。先ず願名を解釈して次にその排〈配〉列等を調べて見よう。
 (一)大悲願 四十八願はすべて如来の大悲心から流れ出でたものであるから、実は四十八願すべて大悲願である。それゆえ『略本』には四十八願をさし、『三経文類』には十七、十八、十一、二十二の四願を悲願といい、「化巻」には方便の願をも悲願と名けてある。然し今特に第十七願に名けたのは総則別名というて、総体の願の名を特別に一願に附けたものである。これはどういう所以〈わけ〉かというに、阿弥陀如来は諸仏と異なりて、名号を以て衆
(1-293)
生を済度し給うが本願である。所謂、「我が弥陀は名を以て物を摂す」である。それであるから、阿弥陀如来の他力回向ということは、この名号成就の願に依って始めて成就するのである。四十八願の大きな徳用をすべて南無阿弥陀仏の六字に封じ籠〈こ〉めて、その名号を諸仏にほめしめて、衆生にきかせ、その大悲を満足し給うのであるから、特に第十七願を大悲願というのである。
 それで『和讃』に、「諸仏の護念証誠は、悲願成就のゆえなれば」とあるも、この第十七願を指していうのである。
 (二)諸仏称揚之願、(三)諸仏称名之願、(四)諸仏咨嵯之願。この三名はいずれも、願文の通〈とおり〉に名をつけられたもので称揚も、称名も、咨嗟も、共に讃嘆する事である。第三名の称名というも、「称我名者」の称と名とを合した語で、やはり称揚することである。然しこの称揚の義の裡に称念の義の含まれてあることは前の二七一頁にいうた通りである。
 (五)往相回向之願 往相回向ということは、衆生が他力の回向で、浄土へ往生させて頂くことで、広く第十七の行と、第十八の信と、第十一の証との三願に亘って用いられる語であるが、今はまた、総即別名で、三願に通ずる名をとって特に第十七願に名けたもので
(1-294)
ある。これは前にもいうた通り他力の回向ということはこの第十七願に依ってはじめて成就せられるものであるからである。信も証も皆この南無阿弥陀仏に封じ籠めて衆生に与え給うからである。『一多証文』(三右)「回向は本願の名号を以て十方の衆生にあたえたまう御のりなり」とあるはこの意である。
 (六)選択称名之願 この願名の解釈に二通ある、一は称名というは前の諸仏称名と同じく、称揚することであって、万善万行の中から一名号を択びとってこの名号を諸仏に称揚せられたいという願意であるから選択称名之願と名けるのであるとする説である。二は、称名は称念名号で衆生の名号を称うることであるとする説である。初説には別に難というはないが、どうも聖人の意は後者にあるように思われる。もし後者の説がよいとすると、すぐその称念名号は、第十八願の能行でないか、選択称名とは、我が名を称えるばかりで助けんと選びとり給うたことで、第十八願のことではないかという難が出て来るが、然し一概に選択称名を第十八願とするにも及ばないので、諸仏に我が名をほめられたいと、選び取り給うた名号には、となうるものをそのまま助ける徳用があり、従って、名号には、衆生の称念する意味は必然にこもって居るのであるから、称念名号
(1-294)
をそのまま第十七願の所行所信の位に置いても差し支えないのである。この時には選択称名は、選び取られた称うるものを助ける徳用のある名号という意味になるのである。何はともあれ、この称名というは、前の諸仏称名の称名とは違って、称讃名号よりは称念名号の方が、私共の心に親しく適切に受取〈うけとれ〉るのである。有難く味わわれるのである。
 (七)往相正業之願 この願名は、「行巻」にはなく、『略本』に出でて居るのである。これは、『広本』の往相回向の願と、選択称名の願との二名を合せて名けたものである。衆生が浄土へ往生する正しき業〈たね〉即ち南無阿弥陀仏を誓わはられた願という意である。
 二。以上の願名の中、大悲の願を除いて上の三名は他師の用いられた願名を相承せられたのであり、下の三名(内一名は『略本』)は、親鸞聖人が特別に用いられた願名である。それであるから、上の三名には、「名づく」といい、下の二名には「亦名づく可し」という言使〈ことばづかい〉をなされたのである。亦可の二字に聖人の謙下〈へりくだる〉の態度が充分拝せられるのである。上の三名の中、第一の「諸仏称揚願」は浄影大師の用いられたもので、「諸仏称名之願」、「諸仏咨嗟之願」の二名は憬興師の用いられた名である。
 三。願名の排列は、先ず大悲願という能願の心に依って名けた総名を出し、次に所願
(1-296)
の事柄に依って名けた別名を出し、その別名の中に於いては、他師共許の願名を先きに標〈かか〉げて、後に己証の願名を列せられたのである。

第二節 引文

 【大意】上に於いて既に大行の体相を示し、大行の出拠を出し、名号成就の十七願名を刊ね、真実行のことはおおまかに明し終ったから、これよりすすんで、愈々文類の文類たるところを発揮し、ひろく経論釈に亘って、文を引いて真実行を証明し、名号を讃嘆し給うのである。
 それでこの下が、第一項経文、第二項論文、第三項支那師釈、第四項日本師釈と分れる。

第一項 経文
第一科 『大無量寿経』の文

 諸仏称名願 大経言説 我得仏十方世界無量諸仏不悉咨嗟称我名者不取正覚 已上

 【読方】諸仏称名の願。大経にのたまわくたといわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、こと
(1-297)
ごとく咨嗟してわが名を称せずは正覚をとらじ。已上
 【字解】一。大経 『仏説無量寿経』二巻。双巻経とも大本ともいうて居る。
 二。十方 東、西、南、北、四維、上、下。
 二。我名 南無阿弥陀仏の六字名号。
 四。称 称揚、ほめあげること。
 五。正覚 ただしきさとり。仏のさとり。
 【文科】『大無量寿経』の文を引く中が、因願の文と成就の文と分れる。その因願の文の中が、更に第十七願の文と重誓の偈と分れる。また成就の文が諸仏讃嘆の文と諸仏讃勧の文とに分れる、今はその中、第十七願の文である。
 【講義】諸仏称名願。即ち『大無量寿経』の第十七願に曰く、もし我れ仏となりたらん時に、十方世界のあらゆる諸仏が、悉く我が南無阿弥陀仏の名号を咨嗟〈ほめたた〉えて、広く一切の衆生に説き聞かせることがなかったならば、証〈さとり〉を開かぬであろう。

 又言 我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞誓不成正覚
 為衆開宝蔵広施功徳宝 常於大衆中説法師子吼 鈔要

(1-298)
 【読方】またのたまわく、われ仏道をならんにいたりて、名声十方にこえん。究竟してきこゆるところなくばちかう正覚をならじ。
 衆のために宝蔵をひらきてひろく功徳の宝を施さん。つねに大衆のなかにして説法師子吼せん。要を鈔す。
 【字解】一。名声 名号に同じ。南無阿弥陀仏のみ名のこと。
 二。超 超えわたること。
 三。衆 十方の衆生
 四。宝蔵 経文には法の字になって居る。我祖御覧になった異本には宝の字になって居ったものと見ゆる。たからのくらと御延書にあり。功徳の宝を蔵〈おさ〉めて居る南無阿弥陀仏の名号のこと。
 五。獅子吼 仏の説法を獅子の吼え立てて百獣の恐れ随うに喩えた語。『六要鈔』には『大智度論』を引いて弁じてある。『涅槃経』その他の諸経にもこの語は常に出て居る。
 六。鈔要 肝要な箇所をぬきいだしてあつむること。

 【文科】『大無量寿経』の因願の文の中、重誓の偈を引き拾うのである。第三行目と第八行目の偈である。

【講義】我れ仏のさとりを開く時、我が南無阿弥陀仏の名号が、十方の世界を超えて、涯〈はて〉の涯〈はて〉までも、聞えぬ隈〈くま〉のないようでなければ、正覚を開かぬであろう。
 宝蔵を開いて心ゆくばかり貧しい人々を恵むように、このあらゆる功徳という功徳を集
(1-298)
めた宝蔵のような六字の名号を衆生に施すであろう。そして十方の諸仏は我意を得ていつも大衆の中で、百獣を畏伏せしむる獅子の如く、我名号を称えて、説法するであろう。
 【余義】一。「常に大衆の中に於いて説法獅子吼する」というについて、本文では、法蔵菩薩が果上に於いて、大衆の中に説法獅子吼するということであるが、今御引用の意味では、講義の如く第十七願の重誓の偈になされたのである。即ち十方の諸仏が、大衆の中で説法して名号讃嘆なされることを誓うたものである。下三二二頁に引く『大阿弥陀経』の文の
  皆諸仏をして各々比丘僧大衆の中に於いて、我が功徳国土の善を説かしむ。
とある意味で、それと対照してみねばならぬ。

 願成就文経言 十方恒沙諸仏如来 皆共讃嘆無量寿仏威神功徳不可思議 已上

 【読方】願成就の文。経にのたまわく、十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう 已上
 【字解】一。願成就の文 『大無量寿経』に於いて、四十八願を説いて後、その本願の出来あがらせられた
(1-300)
果徳を記した御文を成就の文という。
 二。経 『大無量寿経』のこと。
 三。恒沙 印度の恒伽(Gangis)河の沙〈すな〉ということで無数ということを喩えてあらわすのである。
 四。威神功徳 阿弥陀如来の果上の自在神力と名号の功徳のこと。
 【文科】第十七願成就の文の中、諸仏讃嘆の文を挙げ給うのである。
 【講義】『大無量寿経』下巻の初めにある第十七願成就の文にいわく。十方にまします恒河の沙〈すな〉の数にも譬うべき諸仏如来は、みな一諸に声を揃えて、無量寿仏の自在に衆生を済度し給う神力と、名号の功徳との、心も言葉も絶えはてて、測〈はかる〉べからざるを讃嘆〈ほめたた〉えたまう。

 又言 無量寿仏威神無極 十方世界無量無辺不可思議諸仏如来 莫不称嘆於彼 已上

 【読方】またのたまわく、無量寿仏の威神きわまりなし、十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、かれを称嘆せざるはなし 已上

 【字解】一。称嘆 ほめたたえる
 【文科】諸仏称嘆の文の中で、二つに分れて初めが長行、後が偈頌。ただ今はその長行である。
(1-301)
 【講義】また同経次下の文には左のようにいうてある。無量寿仏の成徳神力〈おおみちから〉はまことに極まる所がない。それゆえに十方の世界に在しませる数限りなき諸仏の中で、この仏の威徳を称嘆〈ほめたた〉え給わぬ仏は一仏もましまさぬのである。

 又言 其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国自致不退転 已上

 【読方】またのたまわく、その仏の本願力、みなをききて往生せんとおもえば、みなことごとくかのくににいたりておのずから不退転にいたる 已上
 【字解】一。不退転 梵語阿毘跋致迦(Avaivartika)義訳なり。既に一度得た功徳が再び転じ退くことのない位のこと。
 【文科】諸仏讃勧の文の中、今は偈頌を引き給うのである。『大経』下巻三十行偈のうちの偈である。
 【講義】また次下の偈文にいわく、阿弥陀仏の本願の御力はまことに広大なものにて、その御誓いの名号を聞信〈ききひら〉いて、浄土へ生れたいと思う人は、善人も悪人も、智者も聖者も、みな洩るることなく彼の安楽浄土へ到ることが出来る。そしてそれらの人々は、この処にあって、現在直ちに不退転の位を獲るのである。
(1-302)
 【余義】一。この偈を引き給う御思召は、第一に、諸仏の名号を讃勧し給うことを示し、第二には、十七願と十八願の不離の関係にあることを示し給うのである。
 二。この偈頌は、古来、破地獄の文として尊重されて居るので、法然聖人の『和語灯録』一によれば、昔〈むかし〉漢の玄通律師が、ある野寺に宿られた時に、隣坊に人あってこの頌を誦するのを聞かれたが、その後、破戒の非で、地獄に落ち、閻魔大王の前に引き出されて、ふとこの文を思い出して、誦えられた処が、大王は冠を傾けて礼拝し、地獄を免れたということである。こういう伝説がある程、この偈頌は、古来、尊重されて来たのである。
 この文に左の二通の解釈がある。
 (一)は総て十八願の意を示した文とみるのである。其仏本願力とは十八願の全体。聞名とは聞其名号。欲往生とは三信を含んだ往生心、即ち信心。皆悉到彼国、自致不退転とは即得往生住不退転と解釈するのである。親鸞聖人は『尊号真像銘文』本(三右)に
  其仏本願力というは、弥陀の本願力ともうすなり。聞名欲往生というは、聞というは、如来のちかいの御名を信ずともうすなり。欲往生というは、安楽浄刹に生れんとおもえとなり。皆悉到彼国というは、御ちかいのみなを信じて、うまれんとおもう人はみ
(1-303)
なもれず、かの浄土にいたるともうす御〈み〉ことなり。自致不退転というは、自はおのずからという、おのずからというは、衆生のはからいにあらず、しからしめて不退のくらいにいにらしむとなり。自然ということばなり。致というはいたるという。むねとすという。如来の本願の御名を信ずるひとは、自然に不退のくらいにいたらしむるをむねとおもえとなり。不退というは仏にかならずなるべきみとさだまるくらいなり。これすなわち正定聚のくらいにいたるをむねとすとときたまえるみのりなり。
と解釈してあるが、これは今の十八願の意で解釈したものである。
 (二)は十七、十八、十一の三願の意を示した文とみるのである。即ち本願力とは、第十七願、聞名欲往生とは第十八願の三信、皆悉到彼国とは、その十八願の若不生者、自致不退転は第十一願の住正定聚と解釈するのである。存覚上人は『六要鈔』二(七丁)に
  問う、いま言う所の本願力とは何の願を指すか。答う。第十七を指して、本願力という。……第一句は第十七を指す。これ名号なるが故に、第二第三の両句は第十八を指す。これ信心を明し、往生を説くが故に、第四の一句は第十一を指す、不退を明すが故に。
と明〈あきらか〉に説明〈ときあか〉して居られる。
(1-304)
 三。今この文を、この「行巻」に御引用なされたについて、古来〈むかしから〉、この文を存覚上人の御指南の如く、十七、十八、十一の三願の意に解釈して、十七、十八二願の不離の関係を示し給うのであると説明して居るが、頗る当を得たものと思う。
 然し「其仏本願力」を十七願の意とみるは無理でないかという疑難がある。勿論、単に本願といえば常に第十八の王本願のことをいうのであるから、茲の本願力も、これを直ぐ様、第十七願とすれば、いかにも、無理のように思われるけれども、然し本願といえどもこれを所聞所信の位に置けば、名号と同じく第十七願となるのである。何故ならば、何聞所信の位の本願は、称うるものを助けるという謂れであるから、名号と別に離れたものではないのである。いわゆる、本願や名号、名号や本願で二者不二である。それで今ここに、本願力とあるを、そのまま直ぐ様、六字名号のいわれであるから第十七願としたものである。存覚上人も亦いま本願力を十七願としたについて、この質問を立て、十七、十八二願不離であるから、本願力がその儘十七願であると説明して居られる。
 四。それで、次に第十七願と、第十八願の関係について、一言せねばならぬ。存覚上人は、今この下、即ち、『六要鈔』二(七左)に、
(1-305)
  行信能所機法一也。
といい、また「十七十八更に相離れず」とせられてある。行信というは所行と能信ということであり、能所というは、能選択の願心と所選択の行ということ、機法というは十八願正定聚の機と、十七願所聞の名号法ということである。
 今この関係を、猶広く『六要鈔』及び租釈の上に探って便宜のために書きわけてみると、左のようになる。
第十七願    第十八願
 所修     能修    (『六要鈔』一 初右)
 所行     能信    (『同』三 三十 三十八右)
 所帰     能帰    (『同』四 十九右)
 所選択の行  能選択の願心(「信巻」別序)
 所聞     能聞    (成就文の聞其名号)
 所回向の行  能回向の願心(他力回向)
 こういう風に、十七願と十八願の関係は、能所という二字に依って、顕わされて居る。
(1-306)
こういう能所という密接の関係になって居ったのであるから、十七願と十八願とは、全く不離の関係にあるのである。
 猶、更に立ち入って考えてみると、もっと重々の関係があって、二願全く不離であることが知れる。
 先ず十八願の願事を考えてみると、三信と、十念と、往生との三つの事柄がある。この三を対望すれば、信ずるものをたすくべし(三信と往生)、称うるものをたすくべし(十念と往生)という二つの形式に顕わすことが出来る。これが第十八願である。そうして、この謂〈いわ〉れを、十方の諸仏が、讃嘆称揚せられるのが第十七願である。それであるから、諸仏称揚の名号の謂〈いわ〉れの中にも、信ずるものをたすくべし、となうるものをたすくべしという二つの意味がこもって居るのである。こういう具合であるから、十八願の謂れが、その儘、十七願の謂れであり、十七願の謂れが、またその儘十八願のいわれとなる。二者全く一つであるといわねばならぬのである。
 かくの如く本願の上に於いて、不離であるばかりでなく、行者の機に受けたところでも、同様に不離である。衆生の信心は、本願の名号のいわれをきいて起り、本願の名号を回向
(1-307)
にあずかったが、衆生の信心である。又たのむものをたすけんとある名号のいわれが、至心信楽欲生の三信として、衆生に顕われ、称うるものをすくわんとある名号のいわれが、乃至十念の称名として顕われる。これで、所行の法体の名号と、能信の衆生の信心と不離にして一であるということが知れるのである。
 すでに、所行の名号と、能信の信心と不離であるから、今度は、能信の信心と、能行の念仏も全く不離是一であるのである。信心のままが口に顕われたのが、能行の念仏であるからである。これを『御一代記聞書』第五条には、
  念称是一ということしらぬともうしそうろうとき、仰せに、おもいうちにあれば、いろほかにあらわるるとあり。されば信を得たる体は、すなわち南無阿弥陀仏なりと、こころうれば、口もこころもひとつなり。
と示し給うてある。
 それ故に『末灯鈔』(二十六丁)には先ず、
  信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
と行と信の不離を示して、次にその信と行との相〈すがた〉を述べて、
(1-308)
  そのゆえは、行と申すは、本願の名号を一声となえて、往生すと申すことをききて、ひとこえをもとなえ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかいをききて、うたがうこころのすこしもなきを信の一念ともうすなり。
としめし、最後に、
  信と行と二つときけども、行をひとこえするぞとききて、うたがわねば、行をはなれたる、信はなしとききて侯。
と所行能信の不離を示し。
  また信をはなれたる行なしとおぼしめすべし。
と能信能行の不離を明し給うてある。
 かくの如く十七、十八二願は不離の関係にあり、信行は、いずれの方面からみても不離であるから、法然聖人は、『黒谷伝』五に、
  名号をきくというとも、信ぜずは聞かざるがごとし。たとい信ずというとも称えずは信ぜざるが如し。と教え給い、親鸞聖人もまた『末灯鈔』(二十七丁)に、
(1-309)
  信心ありとも、名号をとなえざらんは詮なく侯。一向名号を称うとも、信心あさくは、往生しがたく侯。
と教え給うたのである。
 先きに能行という語を使うたが、これは所行の名号に対して、信心の上に行者の口に顕わるる報謝の念仏をさしていうのである。
  南無阿弥陀仏(所行)―→信心(能心)―→報謝の念仏(能行)
 四。因みにいうが、宗学の上に、非常にある語を嫌うことがある。例えば、上二九〇頁の願事は願体のことであるが、願事というても、願体という語を嫌うて用ひぬとか、又、名体不二は名体不離に同じいのに名体不二という語を用いぬとか、又茲では能行という語を絶対に嫌う人がある。何故にそう、同じい意味の語を嫌うかというと、法相を乱す恐れがあるからである。願体という語は、越中の国に、十八願の称名願体、信楽願体という争〈あらそい〉があってから、用いぬようになり、名体不二の語は、西山派の仏体即行に濫する恐れがあるから用いぬのである。また能行の語は、衆生の行ずる行業といふ意味になって、他力門に自力の意〈こころ〉が入るようになるから嫌うのである。然し、願体という語は『六要鈔』に
(1-310)
も出で、慧空講師なども用いられて居る語である。また名体不二の語も、『六要鈔』に使うてある語である。こういう語は意〈こころ〉を得て用うれば、決して法相を乱す気遣〈きづかい〉はないと思う。殊に能行という語は、聖教の上にはないけれども、先輩の用いて来られた語で、法体の所行に簡んで、報謝の念仏を顕わすに善い語であるから、用いて決して差支ないのである、たゞその意を得て用いねばならぬのである。
 六。最後に、本文に帰ってもう一言せねばならぬ。皆悉到彼国、自致不退転を、そのままに、「皆悉く彼の国に到って自〈おのずか〉ら不退転に致る」と読めば、彼の国に往生してから、不退転即ち正定聚に入る意で、彼土不退の義であるけれども、我が親鸞聖人は、「彼の国にいたる、自〈おのずか〉ら不退転と致る」と読んで、不退転の位は聞信の一念に得る利益であるとし給うのである。『尊号真像銘文』(三左)にいわく。
  皆悉到彼国というは御ちかいのみなを信じて生れんとおもう人は、皆もれず、彼の浄土にいたると申す御〈み〉ことなり。

第二科 『無量寿如来会』の文

(1-311)

 無量寿如来会言 今対如来発弘誓当証(諸応反 験也)無上菩提日 若不満足諸上願不取十力無等尊 心或不堪常行施 広済貧窮免諸苦 利益世間使安楽。乃至
 最勝丈夫修行已 於彼貧窮為伏蔵 円満善法無等倫 於大衆中師子吼 已上鈔出

 【読方】無量寿如来会にのたまわく、いま如来に対〈むかい〉たてまつりて弘誓をおこせり。まさに無上菩提を証(諸応の反、験なり)すべきの日、もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等尊をとらじ。心あるいは常行にたえざらんものに施せん。ひろく貧窮をすくいてもろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめん 乃至
 最勝の丈夫、修行しおわりてかの貧窮において伏蔵とならん。善法を円満して等倫なけん。大衆のなかにして師于吼せん 已上鈔出
 【字解】一。『無量寿如来会』 上二五六頁をみよ。
 二。菩提 梵語ボードヒ(Bodhi)の音を写したるもの。智、道、覚などと訳す。仏の正覚のこと。
 二。上願 上勝の本願の義、すぐれたる本願。
 四。十力無等尊 十力は『倶舎論』二十七巻に、一、処非処智力、二、業異熟智力、三、静慮解脱等特等至智力、四、根上下智力、五、種々勝解智力、六、種々界智力、七、偏趣行智力、八、宿住随念智力、
(1-312)
九、死生智力、十、漏尽智力を挙げてある。仏のみ有し給う智慧力である。この十種の智慧力を有し給うならぴなき尊き仏ということ。
 五。常行 常に断惑修善の行を修むること。
 六。貧窮 今日の私共が功徳善根の宝財を煩悩の盗人にぬすまれて曾無一善の貧しい有様なるをいう。
 七。丈夫 梵語富楼沙〈プルシャ〉(Purusa)の訳。男子のこと。仏は男子の中の極最尊であるから最勝の丈夫というたものである。
 八。伏蔵 宝物をつつみかくしてあることを伏蔵という。『涅槃経』には貧しき女人が真金の伏蔵を得て一時に富者になりたる喩あり。今、弥陀如来か万善万行の功徳の総体たる名号を御成就下されて、曾無一善の貧人たる私共に御与え下されるに依って、この功徳の宝を得て、私共が一時に弥勒菩薩と同じい富者となるを宣うたのである。
 九。等倫 ひとしきともがら。
 【文科】『大経』の異訳。『無量寿如来会』の重誓の偈を引き給うのである。
 【講義】『無量寿如来会』にいわく、今我(法処比丘即ち法蔵比丘)は、世自在王如来に対〈むか〉い奉って、四十八の大願を発したが、仏のさとりをさとるべき日に、もし、この四十八の殊勝の誓願を満足成就することが出来なかったならば、十力具足の並びなき如来とはなら
(1-313)
ぬであろう。
 その心弱くして、常に仏道修行をなすに堪えない凡夫に、名号の宝を施すであろう。功徳善根をもたぬ貧しい凡夫を広く済〈すく〉うて、諸の苦を免れしめ、世間に無上の利益を与えて、人々をして真に安楽の身となさしむるであろう。
 我れは最も勝れたる丈夫として、雄々しく道を修め、誓願を満足し、かの功徳善根の宝をもたぬ貧しい凡夫のために、名号の宝を与えるであろう。あらゆる善根功徳を具〈そな〉え並ぶものなきものとなるであろう。そしてこの名号の宝を施すために、十方の諸仏をして、大衆の中に、獅子の如く畏るる所なく説法せしめ名号を讃嘆せしむるであろう。

 【余義】一。当証無上菩提日の日は御草本御清書本、版本にはすべて因となって居る。この日の字が因となって居るので、意味が非常に取り悪〈にく〉く、古来この一句の説明に難渋して来て居るのである。『略讃』には二義を以て解釈して居る。一義は証は証入で、証ること、無上菩提を証るべき因ということ、一義は証は証拠に立つこと、無上菩提の因とはさとりを開く因〈たね〉ということで、四十八願は阿弥陀如来の正覚を取り給う因となるから、四十八願を無上菩提の因という。それで当証無上菩提因(まさに無上菩提の因を証るべし)とはこの無上菩提の因である所の四
(1-314)
十八願について証拠人と御なり下されと世自在王仏に御頼みなされたことであると解釈してある。香月院師も第二義に解して居られる。
 こういう風に解するのは、もとより聖人の御引用に菩提の因となって居るのを重んずるからであるが何れの解釈にしたところで頗る当を得ない解釈の様に思われる。第一義の様に解すれば、文のつづき具合が悪くなるし、第二義のように解すれば、当証の当の字が頗る不穏当に思われる。
 それで私は非常に恐れ多いことではあるが、これは本文に照して因を日に直して拝読すべきであると思う。坊間の『如来会』高麗本の『如来会』には菩提因となって居るが、明本の『如来会』には正しく菩提日となって居る。因はどうしても書写の誤であろう。我祖は高麗本を御覧になって菩提因となされたものであろう。それで証の下に諸応反験也の反切と字訓を出して因ならば証は験の意味でみねばならぬと御指南になったのである。然し因の字にして置ては、どうも意味が取悪〈とりにくい〉から日に直してみた方が善〈よか〉ろうと思われる。
 勿論祖聖人の本典に字句の修正をなすようなことは恐れ多く謹まねばならぬことであるが、この場合の如きは、聖人が特別の意味を以てわざわざ因の字に変更なされたところで
(1-315)
なく、又日の字にして解しても、義こそよく通ずれ、御引用の御思召を害するところでないから、本文の如く日の字に更えても御咎めはなかろうと思われる。
 二。諸応反験也の細註は、御草本にては、頭註のようにして証の字諸応反験也としてあるのである。御清書本によっては除かれてあるものもある。後人が謹写し奉る時に、本文に入れて細註にしるしたものである。以下皆これに同じいのである。
 三。この『如来会』の文は、「心或いは常に施を行じ、広く貧窮を済いて、諸の苦を免れしめ、世間を利益して、安楽ならしむるに堪えずんば、救世の法王にならじ」とある本文であるがそれを「不成救世之法王(救世の法王と成らず)」の一句を削り、文点を改めて、今の様に読みかえられたものである。それで本文とはすっかり意味が違うて、本文では心とあるは法蔵菩薩の御心であるが、今は衆生の心である。仏道修行に堪えず、自力のかなわぬ悪逆の凡夫に本願成就の名号を回向して、安楽にならしめたいという意味に変ったのである。それで本文でいえば第十八願の意であるが、引用して文点を改めた文は第十七願の意になったのである。かくの如く文点文意を変更せられた親鸞聖人の御心は、矢張り、十七十八二願の不離を示さんがためであって、斯くの如く第十八願の意の文を引き来って、十七願を示すとい
(1-316)
う所に二願の不離密接の関係にあることを知らしめ、且つ、悪逆の凡夫に諸仏の讃嘆し給う名号を回向するという他力回向の義を成立せしめ給うのである。
 四。於大衆中説法獅子吼の文は、上二九九頁の『大経』重誓偈文の如く文意を十七願の諸仏の名号讃嘆になされたのである。

 又言 阿難以此義利故無量無数不可思議無有等等無辺世界諸仏如来 皆共称讃無量寿仏所有功徳 已上

 【読方】またのたまわく、阿難この義利をもてのゆえに無量無数、不可思議 無有等等、無辺世界の諸仏如来、みなともに無量寿仏の所有の功徳を称讃したまう。已上
 【字解】一。義利 義は宜にて、宜〈よろ〉しきに従うて、衆生を利益することを義利という。大利益のこと。
 二。無有等々 無有等はひとしきものなきこと、等々と重ねて使うたのは無有等の中の無有等という意であって、絶対に等しきものなきこと。非常に数多いことを示した語。
 【文科】『如来会』の成就の文を引き給うのである。
 【講義】また同経にいわく、釈尊の仰せらるるよう、阿難よ、阿弥陀如来の名号にはかような真実の大利益があるために、無量無数思い議〈はか〉ることも、比べることも出来ない程の沢
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山の世界の諸仏如来は、みな口を揃え言葉を尽して、無量寿仏のあらゆる功徳を称讃〈たた〉え給ふことである。

第三科 『大阿弥陀経』の文

 仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経言 第四願使某作仏時令哉名字皆聞八方上下無央数仏国 皆令諸仏各於比丘僧大衆中 説我功徳国土之善
 諸天人民蜎飛蠕動之類 聞我名字莫不慈心 歓喜踊躍者皆令来生我国 得是願乃作仏 不得是願終不作仏 已上

 【読方】仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経にのたまわく、第四に願ずらく。それがし作仏せしめんとき、わが名字をしてみな八方上下無央数の仏国にきこえしめん。みな諸仏をしておのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳国土の善をとかしめん。
 諸天人民民蜎飛蠕動のたぐい、わが名字をききて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんものみなわがくにに来生せしめん。この願をえていまし作仏せん。この願をえずはついに作仏せじ 已上
 【字解】一。『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』 『無量寿経』の異訳である。通例略し
(1-318)
て『過度人道経』といい、或いは『大阿弥陀経』という。呉の世月支国の優姿塞支謙の訳出にかかる。「諸仏阿弥陀」は阿弥陀仏は諸仏中の王であるから、諸仏を全うしたる弥陀という意を顕わして、阿弥陀仏のことをいうたもの「三耶三仏薩楼仏檀」は時として耶が那に書き誤ってある事がある。御草本の文字はたしかに耶であるが外の版本には皆那と写し誤ってある。梵音サムヤクサンブッダ、サンボドヒ(Smyaksambuddha Sambodhi)で正遍知、正覚と訳する。仏の十号の一である。「過度人道経」は、人間道を済度(過度)する経ということである。つづけてみれは阿弥陀如来の人間を済度し給うことを説いた御経ということである。
 二。無央数 央は尽と同じく無尽無数ということ。
 三。比丘僧 比丘は梵語ブヒクシュ(Bhiksu)の音写。苾蒭とも写す。乞士、除饉、勒事男とも訳すが、字義は正しく「食を乞うもの」である。家を捨てて欲を離れ食を乞うて活命し、精進に修道するものをいう、僧は梵語僧伽(Samgha)の略。衆と訳す、和合衆のこころ。三人以上の比丘の一処に和合し集って修行する団体のこと。転じて出家して仏門に帰したるものを一人にても僧と呼ぶようになった。
 四。我功徳 阿弥陀如来の仏身に具え給う内証外用の功徳をいう。
 五。国土の善 安楽国土の荘厳の善妙なること。
 六。蜎飛蠕動 こまかい飛びあるく虫けら、うごめいて居るうじ虫のこと。
 七。慈心 他力にすがり喜ぶ愛敬のこころ。
 八。歓喜踊躍 よろこびあまりて天に踊り、地に躍ること。
(1-319)
 【文科】『大阿弥陀経』の文を引き給うのである。
 【講義】『大阿弥陀経』には左の如く出でて居る。「阿弥陀如来は第四に下のような願を立てたもうた。我れ仏となる時には、わが南無阿弥陀仏の名号をして、ひろく十方の無央数〈かずかぎりも〉ない国々へ聞えしめるであらう。そして一切諸仏をして、各その国に於いて、大比丘を初めとして、菩薩人天等に、我が内証〈さとり〉の功徳と善美を尽した浄土の荘厳とを説かしむるであろう。(以上『無量寿経』の十七願に当る)あらゆる天上の民、地上の人間は申すに及ばず虫螻〈むしけら〉の類〈たぐい〉にいたるまで我が名号の謂〈いわ〉れを聞信〈ききひら〉いたならば、歓喜愛楽〈よろこびいつくしみ〉の心を起さぬものはないであろう。かくの如く天に踊り地に躍るほどに歓喜〈よろこ〉ぶものは、みな我安楽浄土へ生れしむるであろう。我れはこの誓願を成就〈ととの〉えて仏となるであろう。もしこの願を果すことが出来なかったならば、いつ迄も仏とはならぬ。(以上『無量寿経』の十八願に当る)
 【余義】一。『大阿弥陀経』には二十四願に説かれてあるので、その第四願は『大経』の第十七願と第十八願である。即ち引用文に於いて前半は十七願、後半は十八願である。かくの如く一願中に十七願と十八願と説かれてあるということが、二願の不離関係にあるということを示してあるのである。全然離れて居るものならば、一願中に並べ説かれるという
(1-320)
ことがないからである。
 それで今茲に二願を合せた第四願を全文引用せられたのは、聖人が前にもなされたように、こうして二願の不離ということを示さんためである。もし聖人にその意志がないならば、第四願中『大経』の十七願に当る前半だけ御引用になって然るべきであるが、茲にても、二願の不離を顕わさんために並べて御引用になったものである。
 且又、今茲に十八願に当る諸天人民等の文を引き給うたところでは、これが直に名号讃嘆の文となりて、「行巻」に明すべき真実行の功徳を宣べることとなって居るのである。

第四科 『平等覚経』の文

 無量清浄平等覚経巻上言 我作仏時 令我名聞八方上下無数仏国 諸仏各於弟子衆中嘆我功徳国土之善 諸天人民蠕動之類 聞我名字皆悉踊躍来生 我国不爾者我不作仏
 我作仏時 他方仏国人民 前世為悪聞我名字 及正為道欲来生我国 寿終皆令不復更三悪道 則生我国在心所願 不爾者我不作仏

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 【読方】無量清浄平等覚経の巻上にのたまわく、われ作仏せんとき、わが名をして八方上下無数の仏国にきかしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳国土の善を嘆ぜん。諸天人民蠕動のたぐい、わが名字をききてみなことごとく踊躍せんもの、わがくにに来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ。
 われ作仏せんとき、他方仏国の人民、前世に悪のためにわが名字をきき、およびまさしく道のためにわがくにに来生せんとおもわん。いのちおえてみなまた三悪道にかえらざらしめて、すなわちわがくにに生れんこと、心の所願にあらん。しからずはわれ作仏せじと。
 【字解】一。『無量清浄平等覚経』 上二五八頁をみよ。
 二。為悪聞 名号を謗〈そし〉ろうと思うて悪意を以て聞くこと。
 二。三悪道 修羅、人間、天上の三善道に対して、地獄、餓鬼、畜生の称。
 【文科】『平等覚経』の文を引く中、今はその因願の文である。
 【講義】『平等覚経』上巻にいわく、我れ仏となる時には、我が名をして、十方のあらゆる諸仏の国々へ聞えしむるであろう。そしてその諸仏をして、御自身の弟子達の中に、我が証〈さとり〉の功徳、浄土の荘厳を称説〈たたえ〉しむるであろう(以上『無量寿経』の十七願に当る)。あらゆる天上、人間、蠕動〈むしけら〉の類〈たぐい〉が、我が名号の謂〈いわ〉れを聞信〈ききひら〉いて、みな天におどり地におどる程
(1-322)
に喜び勇んだならばその者等〈ものども〉は悉く我国に生れしむるであろう。もしこの願いの通りにすることが出来なかったならば、我れは仏とはならぬ(以上『無量寿経』の十八願に当る)。また我れ仏になる時には、他方の仏国〈くにぐに〉の人民〈ひとたち〉が、前世に仏法を謗ろうというような意をもって我が名を聞いても、或いはまた教えに随って、正しく証りを開かんがために、我が国に生れたいと欲〈おも〉うてきいても、信謗の差こそあれ、どちらも我名を聞いたものであるから、その寿〈いのち〉の終った時には、復び三悪道へは堕〈おと〉さぬであろう。かならず智愚善悪の隔てなく願〈ねがい〉の通りに我が安楽浄土へ生れしむるであろう。もしこの通りに行かなかったならば、決して仏とはならぬ。(以上『無量寿経』の二十願に当る)。

 【余義】一。茲には無量清浄平等覚経巻上となって居るが、今伝わる『平等覚経』は四巻になって居る。これについて、高田派の恵雲師は我祖の所覧の『平等覚経』というは、現存の『平等覚経』ではなく七欠中の『平等覚経』であろうというて居られる。香月院師はこれを破して『大経』の五存七欠というのは古くからいうことで、親鸞聖人以後にいうことではない。もし恵雲師のようにいうと親鸞聖人時代には六存六欠と曰わねばならぬことになる。そういう道理はない。それで、成程〈なるほど〉現行の『平等覚経』は四巻に分れて居るが、
(1-323)
然し、調巻の不同は昔しからあることで、この『平等覚経』にも黄檗蔵中の明本〈みんぽん〉には上中下の三巻になって居って、この文はその上巻(八右)の文であるから、恵雲師の説は当って居らないというて居られる。
 二。この『平等覚経』の文は二文合せてあって、三願を含んである。『平等覚経』は前の『大阿弥陀経』と同じく二十四願経であるが前半はその二十四願中の第十七願、後半はその第十九願である。この十七願文と十九願文を合せて引いてあるのである。而して十七願文中には先きの『大阿弥陀経』と同じく『無量寿経』の第十七願と第十八願を含んで居り、十九願文は、無量寿経の第二十願であるから、都合この引文中に、第十七願と第十八願と第二十願とが引用してあるのである。十七十八二願一連の文は、先きの『大阿弥陀経』の場合の如く、二願の不離の関係を顕わすものである。彼の二十願の文は、意味を変えて、今は名号をきく利益を顕わさんがために引いたものである。名号をきいて称うる動機が善であれ悪であれ、動機には拘らず、苟〈いやしく〉も一度、この名号をきくものは必ず本願に帰せしめずには置かないということを示したものである。それで一言にしていえば、名号讃嘆のために引いたものである。悪のために聞いた者をも救うというこれ実に絶好の讃嘆でないか。

(1-324)

 阿闍世王太子及五百長者子 聞無量清浄仏二十四願皆大歓喜踊躍心中倶願言 令我等後作仏時 皆如無量清浄仏 仏則知之告諸比丘僧 是阿闍世王太子及五百長者子 却後無央数劫皆当作仏 如無量清浄仏 仏言是阿闍世王太子五首長者子 作菩薩道以来無央数劫皆 各供養四百億仏已今復来供養我 是阿闍世王太子及五百人等 皆前世迦葉仏時為我作弟子 今皆復会是共相値也 則諸比丘僧聞仏言皆心踊躍莫不歓喜者 乃至

 【読方】阿闍世王太子および五百の長者の子、無量清浄仏の二十四願をききてみなおおきに歓喜踊躍して心中にともに願じていわく、われらまた作仏せんとき、みな無量清浄仏のごとくならしめんと。仏すなわちこれをしろしめして、もろもろの比丘僧につげたまわく、この阿闍世王太子および五百の長者の子、のち無央数劫をさりてみなまさに作仏して、無量清浄仏のごとくなるべし。仏のたまわく、この阿闍世王太子五百の長者の子、菩薩の道をなしてよりこのかた無央数劫にみな、おのおの四百億仏を供養しおわりていま復きたりてわれを供養せり。この阿闍世王太子および五百人等、みな前世に迦葉仏のときわがために弟子となれりき。
(1-325)
 いまみなまた会してここにともに相あえるなり。すなはちもろもろの比丘僧、仏のみことをききてみな心に踊躍して歓喜せざるものなし 乃至。
 【字解】一。阿闍世王太子 阿闍世王は上一六〇頁をみよ、王の太子は和休〈ワク〉太子というて居る。
 二。長者 梵語(Sresthin)の訳。印度に於いて豪族のことを長者という。『法華文句』には姓貴、位高、大富、威猛、智、年耆、行浄、礼備、上歎、下帰の十徳を有するものを長者と呼ぶと出て居る。
 三。無量清浄仏 阿弥陀仏のこと。無量の清浄の徳を具え給うから名け奉る。
 四。菩薩道 菩薩は菩提薩埵(Bodhisattva)の略で、大道心衆生、大覚有情などと訳する。又大士、開士、高士などともいう。四弘誓願(衆生無辺誓願度、煩悩無数誓願断、法門無尽誓願知、仏道無上誓願証)を発して、六度(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の行を修め、上は菩提を求め、下は衆生を化する人をいうのである。五十一段の階級を上〈のぼ〉って三祗百大劫の間の修行を経て仏となる人である。道は今行の義で菩薩の行ということ。
 五。迦葉仏 カーシュヤパブッドハ(Kasyapa Buddha)釈迦牟尼仏の前仏にて、賢劫千仏の第三、過去七仏の第六。人寿二万歳の時出世し給うた仏である。父を梵徳(Brahmadatta)、母を財主(南方所伝 Dhammawati)、妃はスナンダ(Sunada)、王子はイジタセーナ(Vijitasena)といった。波羅奈城(Benares)に生れ、後出家修道して尼拘婁陀樹(Nyagrodha)の下に成道し給うた。
 【文科】『平等覚経』の文を引用する中、今は経をきく宿縁を説く文である。
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 【講義】また同経上巻にいわく、かの阿闍世王の子和休太子は、共に連れ立ちて釈尊の御許〈みもと〉に聴聞にまいった五百人の長者の子息と一緒に、いま釈尊の御説きになった無量清浄仏(阿弥陀仏)の二十四願の謂れを聴聞して、諸共〈もろとも〉に踊り上る程に随喜の涙に咽び、心の中に誓うよう。「吾々も亦仏になる時には、凡〈すべ〉て無量清浄仏の通りにいたすであろう」と。釈尊は直ちに彼等の心の中を御知りになって並みいる多くの御弟子達に仰せらるるには、いまここに聴聞している和休太子と五百の長者の子息等は、無央数劫を過ぎ去った後、みな一所に無量清浄仏のように、願行を積みて仏となるであろう。これというも、彼等がかの仏の名号の功徳を聞信したからである。
 釈尊は更に進んで、この人達がかような聞法の利益を獲るに至った因縁を述べられた。
「この和休太子と長者の子息等は、無央数劫このかた菩薩の修行を続けて、既に四百億の諸仏を供養し、いま復ここに我を供養するのである。嘗つて人寿八万歳の過去世に、過去七仏中の第六仏なる迦葉仏が御出世になったがその時我もこの仏の会坐に法を聞いた。その時にこの和休太子と長者の子等は皆我弟子であった。いま復宿縁厚うしてこの法会に相値うて、道を語ることを得たのである。この御話を聞いて、多くの仏弟子達は宿縁の不可
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思議なるを思い、胸に溢るばかりの歓喜を湛えた。
 【余義】この文を引くは、宿縁深厚のものでなければこの『大無量寿経』を聞くことが出来ないということを顕わし、この経を讃嘆するのである。この経を讃嘆するは、とりもなおさず、名号を讃嘆するのである。

 如是人 聞仏名快安穏得大利 吾等類得是徳 諸此刹獲所好 無量覚授其決 我前世有本願 一切人聞説法 皆悉来生我国 吾所願皆具足 従衆国来生者 皆悉来到此国 一生得不退転 速疾超便可到安楽国之世界至 無量光明土 供養於無数仏 非有是功徳人不得聞是経名 唯有清浄戒者乃逮聞新正法 悪憍慢蔽懈怠難以信於此法宿世時見仏者楽聴聞世尊教人之命希可得仏在世甚難値有信慧不可致若聞見精進求聞是法而不忘便見敬得大慶則我之善親厚以是故発道意設令満世界火過此中得聞法会当作世尊将度一切生老死 已上

(1-328)
 【読方】かくごときのひと、仏名をききてこころよく安穏にして大利をえん。われらが類〈たぐい〉この徳をえん。もろもろのこの刹によきところをえん。無量覚その決をさずけん。われ前世に本願あり。一切のひと法をとくをきかば、みなことごとくわがくにに来生せん。わが願ずるところ、みな具足せん。もろもろのくにより来生せんもの、みなことごとくこの国に来到せん。一生に不退転をえん。速疾にこえてすなわち安楽国の世界にいたるべし。無量光明土にいたりて、無数の仏を供養せん。この功徳あるにあらざるひとはこの経の名をきくことをえず。ただ清浄に戒をたもてるもの、いまし、この正法をきくにおよべり、悪と憍慢と蔽と懈怠とのものは、もてこの法を信ずることかたし。宿世のとき仏をみたてまつるもの、楽〈この〉みて世尊の教を聴聞せん。人の命まれにうべし。仏世にましませども甚もうあいがたし。信慧ありていたるべからず。もし聞見せば精進にしてもとめよ。この法をききてしかもわすれず、すなわち見てうやまい得ておおきに慶ばは、すなわちわがよき親厚なり。これをもてのゆえに道意を発せよ。たとい世界にみてらん火をも、このなかをすぎて法をきくことをえば、かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし。已上
 【字解】一。刹 梵語刹多羅(Ksetra)の訳で、国又は土と訳す。
 二。無量覚 阿弥陀仏のこと。阿弥陀は無量と訳し、仏は覚と訳するからである。
 三。決 記別のこと。嘉祥の『法華義疏』八に「決とは九道の内に於いて、この人は必ず成仏すべしと分決せるが故に決というなり」とありて、汝当来仏になるであろうと他と差別して定むるから決というのである。
 四。安楽国 安楽は梵語須摩提、即ち須駏婆聾(Sukhavati)の訳である、楽有、楽みあるという語であ
(1-329)
る。極楽の異訳である。
 五。無量光明土 経文の当面から云えば、無量の 光明の国々という意味で諸仏の国土であるが、我祖は一経の真意を探りて、阿弥陀仏の真実報土とせられた。光明無量の願に酬い顕われた浄土で、無量の光明の輝きわたる国故に名ける。
 六。経の名 この経に説かれて居るところの名号とする説もあれど今は『大経』の文に照して経の名と解する方がよい。
 七。清浄戒 戒は梵語尸羅(Sila)の訳。三学、六度の一で、身口意の悪を制止することである。これを防非止悪というて居る。清浄の二字のあるは汚戒(戒を持ちてそれを犯すをいう)に簡んだので如実の持戒をいうのである。これは清浄戒とつづけて読むべきであるが、我祖は、自ら御点をつけて清浄に戒を云々と読ませたもうた。
 八。悪 悪心のあるもの。
 九。憍慢 一途に己がよいとほこり(憍)、他人と比べて、彼人〈あれ〉よりは己がよいとほこる(慢)こと。
 一〇。弊 弊悪と熟し、聞きようのあしきこと。
 一一。懈怠 怠って教を奉ぜぬこと。
 一二。宿世 過去世。すぐせ。
 一三。信慧 信心の智慧のこと。
(1-330)
 一四。精進 心を精〈きよ〉らにし、つとめ励むこと。
 一五。親厚 したしきあつき友のこと。
 一六。道意 菩提心のこと。菩提(Bodhi)は道と訳するからである。
 【文科】『平等覚経』の文を引く中、今は聞名利益の文である。
 【講義】十方の諸仏が、その国々の菩薩方に対〈むか〉わせられて、仰せらるるよう、いまかように因縁あって、この教を聞くことの出来る菩薩は、かの阿弥陀仏の名号を聞信〈ききひら〉いて、安穏に快く一切の功徳にも超勝〈こえすぐ〉れた利益を得るであろう。
 諸々の菩薩はこの御教えを聞いて、喜びの胸を躍らせて申すよう。ああ我等も亦弥陀の名号を聞信〈ききひら〉いて、かの安楽世界に生れ、阿弥陀仏と等しい功徳を獲るであろう。そして吾等の各自の刹に於いても、弥陀の浄土の如くに選びに択んだ善妙の国を獲るであろう。
 諸仏は更に仰せらるるよう。
 かの安楽浄土へ往生せば、無量寿仏は汝等に当来〈のち〉必ず仏に成るという記別を授けらるるであろう。即ちかの仏の仰せらるるには、「我前世にかような本願を建てた。我が名号の謂〈いわ〉れを聞信〈ききひら〉いた一切の人々は、皆悉く我が浄土へ生れしめて、我が願いを満足さするであ
(1-331)
ろう。他の多くの国々から我浄土へ生れ来る者は、一人も洩れなく来らしめる。誠に我名号を聞信〈ききひら〉くものは、未来を待たず、この生に不退転の位を獲ることが出来る」と。
 かように殊勝なる弥陀の名号であるから、汝等一刻もはやく名号の謂れを聞き開いて、あらゆる浄土を超えて、阿弥陀仏の安楽世界に往生せよ、かの阿弥陀仏の無量光明土に往生し了って、無数〈かぎりなき〉諸仏を供養せよ。
 けれどもこの阿弥陀如来のことを説き奉ったこの経の名は無暗〈むやみ〉に聞くことは出来ぬ、それには、かつて前世に弥陀の名をきくとか称えるとかいう功徳を積んだものでなければならぬ。また前世に於いて清浄に戒を有〈たも〉った者等でなくては、いまこの世に於いて如来の名号を聞くことは出来ないのである。悪者、憍慢者、聞きようの悪い者、懈怠者〈なまけもの〉とは、この法を信ずることは極めて六ツかしい、当世〈さきのよ〉に諸仏に逢い奉った人々は、自ら楽〈この〉んでこの如来のみ教を聴くであろう。
 人界に生を稟けることは罕〈まれ〉である。人界に生をうけても仏の御出世に逢うことは甚だ難い。更に仏に御逢い申しても、仏を信ずる智慧を得ることは中々容易なことでない。もし耳に仏法をきき、目に仏法を見ることが出来にならば、誠に獲難い機会を獲たと喜びて、
(1-332)
精進〈このみすす〉んで法を求めよ。この名号の謂れを聞きひらいて、憶念相続して忘れず、謙〈へりくだ〉りて如来の御恩を喜ぶ者は、則ち我善き友達である。それであるから、菩提心を起して他力の願海に入れよ。たとい大千世界は満ちみつる劫火の中を打ち超えても仏のみ名を聞けよ。さすれば必ず未来には仏となって、自身のみならずまた普く三界の衆生を済うことが出来るのである。
 【余義】一。この文は『大無量寿経』にすれば、三十行偈に当る偈頌である。その偈頌を飛び飛びに二行三行とあつめて、一連の又として引いて、名号を聞く大利益を述べ、名号讃嘆の又とせられたのである。それでこの一連の偈頌は、第十七願の成就の文となって諸仏が名号の大利益を讃嘆せらるるのである。
 二。無量光明土は字解にも記したとおり、『平等覚経』の本文では、無量の光明土ということで、十方無量の諸仏の世界を指したものである。即ち、菩薩が十方無量の諸仏の世界へ往詣して無量の諸仏を供養することを記した文である。この経の異訳の『大乗荘厳経』に当ててみると、「十方界無辺の浄刹に往いて諸仏を供養する」というにあてはまるのである。我が親鸞聖人はこの意味を変えて、直〈すぐ〉に弥陀の浄土のこととせられたのである。
(1-333)
ここらにも、聖人の信仰的生命が活躍して居るのである。
 三。「この功徳あるにあらざる人」等は、宿善によって、聞法することの出来ることを述べたものである。宿善については、鎮西派には汎爾〈ばんに〉の宿善、係念〈けねん〉の宿善ということをいう。汎爾の宿善というは過去に於いて布施、持戒、忽辱、精進、禅定、智慧等の修行をしたこと。即ち汎爾〈おおまか〉に行うた善根が縁となることをいうのである。係念の宿善というは、宿世に於いて弥陀如来に思をかけ、浄土へ生れたいと願うて行うた善根が縁となることをいうのである。これでいうと、この功徳あるにあらざる人はというこの功徳は係念の宿善であり、唯清浄に戒を持〈たも〉つ者というが汎爾の宿善である。何故ならば、非有是功徳人というは『大無量寿経』の若人無善本に当り、善本というは、名号をきく功徳のことであるからである。又唯持清浄戒者は、清浄有戒者に当り、汎爾に戒を持つのであるから、汎爾の宿善である。然しこの汎爾の宿善というも係念の宿善というも、畢竟するに、弥陀如来の御力である。光遠院恵空師は、その著『叢林集』六に
  摂受衆生の初を宿善とし、摂受衆生の終を往生とすべし。これは当流一途の所談なり。されば過去の宿縁も、現に煩悩具足と信知するも、これみな阿弥陀仏の本願の衆生を摂
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受したまえる御恩なり。
と申されて居る。畢竟、みな如来の方から御縁を結ばせて引きよせて下さるのである。なお上一八三頁をみよ。
 四。汎爾の宿善の中には、三学六度の善根が悉く入るのであるが、今は戒だけを挙げてある。これは何故であろうかというと、戒は、諸善の根本であるからである。戒を修して定に入り、智慧を研〈みが〉くというように、戒は功徳善根の母であるから、今根本の戒を挙げて、余の善根はこの中に略取したのである。それでここではただ戒というてあるが、布施、禅定等の善根を含むものと解さねばならぬ。

第五科『悲華経』の文

 悲華経大施品之二巻言 曇無讖三蔵訳 願我成阿耨多羅三藐三菩提已無量無辺阿僧祗余仏世界所有衆生聞我名者修諸善本欲生我界願其捨命之後必定得生唯除五逆誹謗聖人廃壊正法

 【読方】悲華経の大施品二の巻にのたまわく 曇無讖三蔵の訳 ねがわくは、われ阿耨多羅三藐三菩提を成しおわら
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んに、無量無辺阿僧祗の余仏の世界の所有の衆生、わが名をきかんもの、もろもろの善本を修してわが界に生ぜんとおもわん。ねがわくはその命を捨てのち、必定して生ずることをえしめん。ただし五逆と、聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとをばのぞかん 已上
 【字解】一。『悲華経』十巻 北涼の世、中印度の沙門、曇無讖三蔵の訳出した経である。転法輪品、阿羅尼品、大施品、諸菩薩本授記品、檀波羅密品、入定三昧品の六品から成っておる。今御引用になった文は『悲華経』の第四品授記品の文であって大施品ではない。暗記の失とも云い、我祖所覧の経は異本であったらしいとも云われている。
 二。曇無讖三蔵 中天竺の人であって、曇摩讖とも書いてある。梵音ドハルマラクシヤ(Dharmaraksa)初め小乗を学ばれたが、後に大乗に帰し、亀茲国〈キジコク〉から姑蔵に入って、大集、大雲、金光明等の経典を訳出せられた。義和三年三月(四三三)『涅槃経』を求めに印度に帰ろうとせられたが、蒙孫のために途中に謀殺せられた。年四十九。三蔵というは経律論の三蔵に精通して、印度支那二箇国の語に明な人のことをいうたものである。玄奘三蔵などがそれである。
 三。阿耨多羅三藐三菩提 阿耨三菩提、阿耨菩提ともいう。梵昔アヌツタラサムヤクサンボードビ(Anuttarasamyak-Samdodhi)、無上正遍知、無上正等覚と訳する。仏のさとりの智慧をいうのである。仏の智慧は平等の真理を遍ねく知って、世の最上の智慧であるから、無上正遍知というのである。
 四。阿僧祗 阿僧祗耶(Asamkhya)。無数、無央数と訳し、印度の数の名である。
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 五。諸善本 大善大功徳の名号のこと。
 六。五逆 上一六二頁の逆謗の下をみよ。
 七。聖人 仏、菩薩を指す。
 【文科】以上正依の経を引き終って、今は傍依の『悲華経』の文を引き給う一段である。
 【講義】『悲華経』大施品は両巻に分れている。その第二巻の文にいわく、阿弥陀如来が因位の昔、無諍念王という輪王とならせられた。その時臣下の宝海梵志の子が、曩〈さき〉に出家して法蔵如来となったが、無諍念王はこの如来の許に出家して下の如き誓願を立てられた。
 願〈こいねがわ〉くは我れ無上の証りを開いて仏と成った時には、かず限りもない多くの国々に於ける、あらゆる衆生が、我が名号の謂れを聞信いて、すべて、功徳を摂め善根の本である名号を唱えて、我が国へ生れたいと欲う者は、命終りて後必ず我が浄土へ生れしめるであろう。唯五連罪を作る者、仏菩薩等の聖人を、謗る者と正法を疑い謗り破滅〈こぼ〉つ者を除くであろう。
 【余義】この『悲華経』の文は、『大経』の第十八願に当る願文である。『悲華経』にも『大経』の第十七願に当る諸仏咨嗟の願はあるが、今はその第十七願の文を引かずに、第十八
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願に当る文を引き給うたのである。何故にかくの如くなし給うたのであるかといえば、十七願文は、既に正依の経にて幾度も因願成就ともに引き終ったが、名号讃嘆の文はいくら引いても引き足らぬ。それで今、この第十八願に当る願文を引いて称うるばかりでたすけ給う御謂れのある名号の大利益を斯くして讃嘆し給うのである。あわせてまたこの十八願文を引き給うところに二願不離の関係を示し給うことは前々のとおりである。

 爾者称名 能破衆生一切無明 能満衆生一切志願 称名則是最勝真妙正業 正業則是念仏 念仏則是南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏即是正念也 可知

 【読方】しかればみなを称するによく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願をみてたまう。称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。念仏はすなわはちこれ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりとしるべし。
 【字解】一。正業 正定業というに同じく、正しく浄土参りの業〈たね〉ということ。
 二。正念 信心のこと。この下の【余義】、即ち下三四一頁をみよ。
 【文科】以上経文を引き終ったから茲に以上を引きまとめて聖人の御心に頂かれた味〈あじわい〉を述べられた。
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 【講義】上に広く浄土の教典を引いて、大行を説示〈ときしめ〉したが、今これらの諸教典の教えを一つにして頂いて見ると、弥陀の名号の謂れを聞信〈ききひら〉いた称名は、よく衆生の一切の煩悩の根本となる疑の闇を破り、またよく願という願を尽した浄土往生の願を、現在立〈たちどころ〉に満して下されるのである。それ故に称名は何物にも立ち勝れた真妙の浄土参りの種である。正定業は口に称える念仏である。念仏は南無阿弥陀仏である。この御名は、即ち衆生の信心である。大行の御名は信を離れた御名でない。

 【余義】一。「行巻」一巻は、経、諭、釈の文を引いて、南無阿弥陀仏の大行を証成し給うのであるが、これまでに、経論釈のうち、経文だけを引き終ったから、今ここにその経文に説き示されたところを統べくくって、この私釈を施し給うのである。
 それでこの私釈は、先ず初めに『論註』の語を借り来って、称名に、破闇と満願の二つの徳用のあることを示し、次に五つたび転釈して、大行を種々の方面から嘆美し給うのである。
 この私釈に破闇満願の『論註』の語を引き給うたはこの「行巻」の初めに、「大行とは無碍光如来の御名を称するなり」とあり、この文が、前にもいう通り、『論註』の語に依った
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ものであるから、これと標結相応して、行者にして、もしも信心を得て、如実修行の大行を行ずるならば、この破闇と満願の二つの利益があることは、これまでに引用した経文によって明かに知れるということを示し給う聖意である。
 この闇と志願ということにつき、一体何をいうたものかというと広く総じてみれば、無明というは一切の無明であり。志願というは一切の志願ということになる。又狭く別して見れば、無明というは不了仏智の疑無明にして、志願というは往生治定の志願をいうのである。それでこの一切の無明を破し、一切の志願を満足し給うのは当来に得る利益であり、不了仏智の疑無明を壊し、往生治定の志願を満足し給うは現在只今得るところの利益である。而してこの当益も現益もともに称名の利益である。

挿図(yakk1-339.gif)
     ┏破闇━┳惣━━破一切無明   ┓
     ┃   ┃           ┃
     ┃   ┗別━━破疑無明  ┓ ┣━当益
 称名二益┫             ┃ ┃
     ┗満願 ┳惣━━満一切志願 ┃ ┛
         ┃         ┣━━━現益
         ┗別━━満往生志願 ┛�

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 この当益と、現益のうち、今は特に現益を重しとし給うのであって、文中二益の顕われて居ることは勿論であるが、意は多く現益の方に偏って居るのである。
 右のように古来いうて来て居る。然し今、もうすこし踏み込んで味おうてみると、もっと適切に聖人の御意が頂けるように思う。それはどういうことかというと講義にもその意味で解して置いたが、一体煩悩の根本はといえば如来の本願を疑うことである。「信のなきはわろくはなきか」、「信のなきがくせごと」、「善智識のわろきと仰せられるは信のなきことなり」、蓮如上人はいつも信のなきこと、本願を疑う不了仏智を一番わろきことと仰せられてある。実際これより外はない。信仰は人格の完成である。生活の始点であって又終点である。これに反して疑は人格の根本的破壊である。それであるからこの疑を一切の無明と仰せられたものである。
 又、私共の信仰生活に於いては、往生浄土の願〈ねがい〉が、一切の願である。一切の願でなければならぬ。充実した信仰は、その往生の願の一筋路である。この疑の一切の無明と、往生の願の一切の志願とを、如来の御力を以て信の一念に破して満たし給うのである。これが他力大行の徳である。
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 扨て次に転釈に入つて、称名と、正業と念仏と、南無阿弥陀仏と、正念とこの五名辞を列ねて、これを「即是〈すなわちこれ〉」の二字を以て結びつけてある。この五名辞には能行所行等入り乱れてあるが、聖人の御覚召〈おぼしめし〉は、略〈ほぼ〉次の様なことであろうと思われる。先ず、称名というは先きに出たように曇鸞大師に依り、正業は、善導大師の「散善義」に依り、念仏と南無阿弥陀仏は法然聖人の『選択集』に依り、称名と念仏は機受の大行であり。正業と南無阿弥陀仏は法上〈ほうのうえ〉の大行であり、機受法上並べ挙げて転釈して、終りに南無阿弥陀仏に結帰し、「行巻」に正しく明さんとするは、この所行の法体であるということを示し、最後に正念(すなわち信心)を出して、この南無阿弥陀仏の行というは、単行無信の行ではない。正しく信心を具して居る行であるということを示し給うふたのである。『和讃』にも「如実修行相応は信心一つにさだめたり」とあるごとく、破闇満願の大利益ある大行は必ず信心を具すべきものであるということを顕わし、茲にも、行と信との不離関係にあるといふことを示し、「行巻」についで「信巻」の出ずる義勢を茲に示し給うたのである。
 二。因〈ちなみ〉にこの正念という語は、場処に依って三通りにつかわれてある。
 (一)には定善の正念「定善義」(十一右)一正念、「同」(二右)正念堅持等とあるのがすなわちこれ
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で念はおもいという意味であって、正念とつづいて、正いおもいという程の意である。
 (二)には称名「散善義」の一心正念とあるを、『愚禿鈔』にこの正念を引いて第一希有行と釈してあるのがそれである。この時は念は念仏の念と同じく口に称えることになる。
 (三)には信心「定善義」(十九右)には回心正念とあり、「散善義」(三十一右)には正念帰依とあるのがこれである。『和讃』には、真宗念仏の左訓に、「往生の信心なるを正念というなり」と示し給うてある。この三通の意味があるが、今は第三の信心の義である。

第二項 論 文

 【大意】これまでに、正依の経、傍依の経を引いて大行を証明し讃嘆し、それをすべくくって私釈をなし終ったから、これからは菩薩の論を引いて讃嘆し給うのである。このうち第一科『十住毘婆娑論』、第二科『浄土論』とわかれ、
 第一科『十住毘婆娑論』は「入初地品」、「地相品」、「浄地品」、「易行品」の四品を引いてある。
 「入初地品」は入初地相と歓喜地相の文、
 「地相品」は歓喜縁由と歓喜相異の文、
 「浄地品」は信力増上と深行大悲の文、
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「易行品」は難易二道と易行道の文。易行道の文は十仏章の文と弥陀章の文に分れて居る。第二科『浄土論』は偈頌と長行とを引いてある。

第一科『十往毘婆娑論』の文

 十住毘婆娑論曰有人言般舟三昧及大悲名諸仏家従此二法生諸如来此中般舟三昧為父又大悲為母復次般舟三昧是父無生法忽是母如助菩提中説般舟三昧父大悲無生母一切諸如来従是二法生家無過咎者家清浄故清浄者六波羅蜜四功徳処方便般若波羅蜜善慧般舟三昧大悲諸忍是諸法清浄無有過故名家清浄是菩薩以此諸法為家故無有過咎転於世間道入出世上道者世間道名即是凡夫所行道転名休息凡夫道者不能究竟至涅槃常往来生死是名凡夫道出世間者因是道得出三界故名出世間道上者妙故名為上入者正行
道故名為八以是心入初地名歓喜他

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 【読方】十住毘婆娑論にいわく、あるひとのいわく、般舟三昧および大悲を諸仏の家となづく。この二法よりもろくの如来を生ず。このなかに般舟三昧を父とし、大悲を母とす。またつぎに般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり。助菩提のなかにとくがごとし。般舟三昧の父、大悲無生の母、一切もろもろの如来この二法より生ず。
 家に過咎なしとは家清浄のゆえに、清浄というは六波羅密と四功徳処と方便と般若波羅蜜と善と慧と、般舟三昧と大悲と諸忍となり。この諸法清浄にして過〈とが〉あることなし。かるがゆえに家清浄となづく。この菩薩この諸法をもて家とするがゆえに過咎あることなし。
 世間道を転じて出世上道にいるとは、世間道を即ちこれ凡夫所行の道となづく。転とは休息になづく。凡夫道は究竟して涅槃にいたることあたわず。つねに生死に往来す。これを凡夫道となづく。出世間とはこの道によりて三界をいづることを得るがゆえに出世間道となづく。上は妙なるがゆえになづけて上とす。入はまさしく道を行ずるがゆえになづけて入とす。この心をもて初地にいるを歓喜地となづく。
 【字解】一。『十住毘婆娑論』十五巻。龍樹菩薩(Nagarjuna)の御作で、鳩摩羅什(Kumarajfva)の訳出にかかる。『華厳経』十地品のうち初地二地を解釈した書である。序品から戒報品に至るまで二十五品あって菩提心、易行他力、功徳、帰命相、念仏,不放逸、智慧六度等のことを説いてある。
 二。般舟三昧 発音プラトユトパンナ サマードヒ(Pratyutpanna Samadhi)現前三昧 仏立三昧、常
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行道三昧などと訳する。七日間或いは九十日間身口意の三業に正行を守り、間断なく行ずる定である。この定を修行すれば、諸仏が眼の前に顕われて下さるので現前三昧、仏立三味というのである。又念仏三昧の異名であって、口に常に仏名を称え、心に常に仏を念じ奉ることである。
 三。無生法忍 無生法とは真如の理〈ことわり〉のこと。真如の理は本来〈もとより〉不生不滅の法であるから無生法という。忍は忍可決定で心にさとること。それで無生法忍とは、智慧を以て真如の理〈ことわり〉をさとることである。
 而してこの無生法忍を法に約すると行に約するとの二義がある。法に約する場合には智慧を以て真如の理をさとる位のことで、初地の位、又は八地の位をいう。行に約する場合には、菩薩が智慧を以て真如の理に証入し一切諸法の不生不滅をさとらせらるる菩薩の行をいうのである。今ここでは位をいうのではなく、菩薩の行をいうのである。また、浄土門からいう時には、信心の智慧を以て、我が往生の無生の生なることを決定することであって、今茲では信心ということに解すれはよいのである。
 四。助菩提 『菩提資糧論』六巻中の偈文のことである。この偈文は龍樹菩薩の作で、経文を偈頌になされたものである。これを自在菩薩が解釈されたのが『菩提資糧論』である。隋の達摩笈多の訳である。助はたすけにすることにて資糧というに同じい。般若波羅蜜を菩提の資糧〈たすけ〉と論じ、次第に十波羅蜜、四無量心、五悔の勝行等の菩薩の行を明してある。
 五。六波羅蜜 波羅蜜(Paramita)は度、到彼岸、事究竟と訳す。生死の此岸より煩悩罪濁の海を渡って涅
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槃の彼岸に到るの意である。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧を六波羅蜜という。菩薩の修し給う行である。
 六。四功徳処 菩薩が法を説き給うに入用な利他の功徳のことで諦(真実〈まこと〉なること)、捨(ものを施すこと)、滅(自らの身口意の悪業悪心を滅して名聞利益の心なく法を説きたまうこと)、恵(智慧)の四法をいう『十住毘婆沙論』一に出でて居る。
 七。方便 茲では後得智(一切の法性をさとりたる後、更に世法を縁ずる智慧を得るものであるが、この智慧を後得智という)を以て世俗の諸法の存在を認め、衆生済度の方便をめぐらすこと。
 八。般若波羅蜜 般若はプラジュニャー(Prajna)智慧と訳する。一切諸法の真空の理に達した智慧をいうのである。六度の一。
 九。諸忍 忍は忍可決定で心にさとること。このさとりについて『大経』には音響忍、柔順忍、無生法忍の三忍を説き、『仁王経』にては、伏忍、信忍、順忍、無生忍、寂滅忍を説く等、忍に種々あるが故に諸忍というたのである。然し無生法忍とは単に開合の異なりであって合すれば無生法忍、開けげ諸忍となるのである。
 一〇。涅槃 発音ニルワーナ(nirvana)泥洹とも写す。滅度、円寂、寂滅などと訳する。無為、無作、無生などともいう。迷妄を離れて寂静無為の法性を究めたさとりのこと。
 一一。三界 欲界、色界、無色界の称。迷妄の世界のこと。
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 一二。初地 初歓喜地のこと。
 一三。歓喜地 初歓喜地と同じことで。十地の第一位である。初めて、真の中道観を発し、仏性の理を見て、如来の智慧海に入り、百界に作仏し、八相成道して、衆生を化益し、身は実報土に居りて、大慶喜を得る位である。この位に入れば、もはや退堕することなく、必ず仏の正覚を開くに定るから不退の位ともいう。仏智に疑〈うたがい〉晴れ正定聚の分人となった他力行者はこの位に入ったものと曰われてある。
 【講義】『十住毘婆沙論』入初地品に、「則生如来家」の偈文を説き明すに五説ある中、その第四の有人〈あるひと〉の説に、「般舟三昧と大悲を諸仏の家と名ける。何故かと云えば、この二法から諸々の如来が生れるからである。この二つの中、般舟三昧は父、大悲は母である」というてある。この説の般舟三昧は常行三昧、大悲は利他大悲の行である。地前の菩薩は、般舟三昧の父と利他大悲の行の母とに依って、初地の位に入る。初地不退の位に入れば必ず如来になるのであるから、これを如来の家に生ずるというのである。今これを易行浄土門でいえば、般舟三味は念仏(名号)、大悲は如来の光明である。我等凡夫は光明名号の因縁によって、他力の信心を獲、正定聚不退の位に入る。この位に入れば未来必ず仏になるのであるから、如来の家に生ずというのである。
 復第五説には、般舟三昧は父、無生法忍は母である。この父母に依って如来の家に生ず
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というてある。般舟三昧は前説の如く、無生法忍は菩薩の真如の理に証入する行である。この三昧と行とで不退の位に入るというが第五説である。この第五説を易行浄土門からいえば、般舟三味は同じく念仏(名号)、無生法忍は信心である。名号と信心一つで正定聚という諸仏の家に生れるのである。
 扨てこの両説の根拠は、『菩提資糧論』中の助菩提の経文の偈である。その偈には「般舟三昧の父と、大悲無生の母から、一切諸仏如来が生れる」というてある。それでこの両説の区別を他力浄土門から味おうてみると、初説は光明名号の因縁によりて信心を獲ることを述べ、後説は、名号の謂〈いわれ〉を聞信〈ききひら〉いた処が信心を獲た所であるというのである。信心を獲るとは仏になるに定まった正定聚に入ることであるから、信心を獲るを如来の家に生ずるとも如来を生ずともいうのである。
 次に家に過咎なしという一句の偈のこころは、家とは如来の家のことである。如来の家に過咎なしとは、家に欠目〈かけめ〉も穢れもなく円〈まどか〉に清浄なものであるからである。清浄というは、この如来の家に入るには、第一説に依れば、六波羅蜜を父とし一功徳処を母とするし、第二説に依れば、方便を父とし般若波羅蜜を母とするし、第三説に依れば、六波羅蜜の内
(1-349)
前の五波羅蜜の善を父とし、第六智慧波羅蜜を母とし、第四説に依れば、前に記した通り、般舟三昧を父とし大悲を母とするし、第五説に依れば、般舟三昧を父とし諸忍を母とするので、いずれにせよ、これらの諸法は皆清浄にして欠目のないものであるから、家清浄と名けるのである。この初地の菩薩はこれ等の清浄なる諸法を家とするから、少しも欠くる処、穢れたる所はないのである。今これを他力浄土門からいえば、かくの如きは、実に、信心の行者が如来の慈懐の中に安住して居る相〈すがた〉であるのである。これらの清浄の諸法は皆南無阿弥陀仏の名号中に包まれて居る。信心の行者は、これらの功徳を家とし不退転の位に安住して居るのである。それで他力の行者は、有漏の穢身はかわらねど心は浄土に住みあそぶ」で、凡数の摂に非ず、等覚の弥勒とも同じく過咎がないのである。 世間道を転じて出世上道に入るという二句の偈を解すれば、世間道とは、凡夫の行く道である。
 転というのは、休息〈やめ〉るということ、即ちこの菩薩は従来〈これまで〉の凡夫道をやめて出世上道に入ったということを示すのである。凡夫道はいかに努めても涅槃に入ることは出来なくて、常に生死の巷を往来せなくてはならぬ。これを凡夫道と名けるのである。次に出世間道とい
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うのは、この初地不退の菩薩の道は、三界の繋縛を脱れ出ることが出来るから、出世間道というのである。出世上の「上」とは妙ということ、「入」とは正〈まさ〉しく道を修めること、このまさしく道を行ずる心をもって初地に入る。そしてこの初地を歓喜地と名けるのである。
 今他力門で解すれば、凡夫道というは、我等のいかにしても三界を出づることの出来ない難行道のことである。出世上道というは、他力念仏の一行を行ずることである。自力難行道を休息〈やめ〉て、他力易行の道を信ずる心の一念に初地不退の位に入る。これを歓喜地というのである。
 【余義】一。『十住毘婆娑諭』は、『選択集』の教相章には傍明浄土教の書としてある。この論を傍明浄土教の書とするは当前のことで、もともとこの『十住論』は『華厳経』の「十地品」を解釈した書であって、この論の主眼とする所は此土入証の十地の階級を説き明すことである。その中に傍〈かたわら〉、浄土往生を勧むる語があるだけのことであるから、勿論傍明浄土教の書である。然るに親鸞聖人は今茲にこれを正明浄土教の書として引用し給うものと覗われる、いかにして聖人はこれを正明浄土教の書と御覧になるかというと、聖人は龍樹大士の中心に参して、この論を作り給うた本意はただ十地の義を明にするためではな
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くて、他力易住の念仏を示すためであるということをさとり給うたからである。聖人はこの御見込から、茲に『十住論』を引用し給うたのである。それであるからこの『十住論』は、能詮〈あらわして〉の言教〈ことば〉から見れば、傍明浄土教の書であるが、所詮の義趣から見れば、正明浄土教の書といはねばならぬ。
 そんならどうして、龍樹大士の御心を得ればこの『十住論』が他力易往の念仏を示すための書と伺われるかというと、それは、龍樹菩薩のゆきづまりになった信仰からみて行くので、龍樹菩薩の晩年の最後の著書は『十二礼』である。『十二礼』は全く弥陀如来の他力本願を信ずる菩薩自身の信仰を告白し給うた書である。してみると龍樹菩薩の最後の信仰は全く弥陀如来の本願にあったので、このことを知って、『十住論』を見、猶すすんで『智度論』をみれば、龍樹菩薩の真意が何の辺にあったかということが明に知れるのである。況んや、『十住論』中には、「易行品」の一品があって、明かに弥陀の本願を説いてあるのであるから、『十住論』一部、菩薩の真意を探ぐれば、弥陀の浄土を讃嘆し、念仏をすすめ給うより外はないことが点頭〈うなづ〉かれるのである。
 二。それで今この『十住論』の中、ここに四品の文が引いてある。即ち「入初地品」と、
(1-352)
「地相品」と、「浄地品」と、「易行品」の文である。これらの文は先にもいう通り、この論が能詮の言教の上からいえば聖道門の書であるから、文相の上からみると浄土門の用語としては相応〈ふさわ〉しくない処が多いが、所詮の養趣からいえば、正明浄土教の書であるから、その文の意底を探ると親鸞聖人の読み味わい給うた意味と御引用の覚召が知れるのである。
 それでこの四品の引用文の意味については古来いろいろの説があるが、先ず、「入初地品」の文は南無阿弥陀仏の大行の徳相を示し、「地相品」の文は大行の利益を示し、「浄地品」の文は大行に離れない大信を示し、「易行品」の文は称名の易行なることを示すものと見たがよろしいと思われる。
 「入初地品」の文━━━━大行の徳相を示す
 「地相品」の文━━━━大行の利益を示す
 「浄地品」の文━━━━行不離の信を示す
 「易行品」の文━━━━称名の易行を示す
 何はともあれ、一番大切の文は「易行品」の文であつて、余の三品の又はその序分ともみるべきものである。
(1-353)
 この四品の文を連用し給うたについて、存覚上人は『六要鈔』二(十八丁)に二義を挙げて解釈せられた。
 第一義は、前後の関係を明かにするために、前三品の文は、当用でないけれども、茲に引用したものであるというのである。
 第二義は、難行道に於いても、易行道に於いても、誰しも、先ず不退の位にいたらんことを最も望むものであって、今、これらの引文の中に不退位の、初歓喜地のことが、委しく示してあるから、それで連ねて引用し給うたのであるという義である。この両義ともにあることを思われる。兎に角何れの文も味おうてみれば、名号の徳相利益を讃嘆するものであるから「易行品」の文を中心として連ねて引き給うたものである。 (1-354)

 問曰初地何故名為歓喜答曰如得於初果究竟至涅槃菩薩得是地心常多歓喜自然得増長諸仏如来種是故如是人得名賢善者如得初果者如人得須陀洹道善閉三悪道門見法入法得法住堅牢法不可傾動究竟至涅槃断見諦所断法故心大歓喜
設使睡眠懶惰不至二十九有如以一毛為百分以一分毛分取大海水若二三渧苦已滅如大海水余未滅者如二三渧心大歓喜菩薩如是得初地已名生如来家一切天龍夜叉乾闥婆 乃至 声聞辟支等所共供養恭敬何以故是家無有過咎故転世間道入出世間道但楽敬仏得四功徳処得六波羅蜜果報滋味不断諸仏種故心大歓喜是菩薩所有余苦如二三水渧雖百千億劫得阿耨多羅三藐三菩提於無始生死苦如二三水渧所可滅苦如大海水是故此地名為歓喜

 【読方】問ていわく、初地、なんがゆえぞなづけて歓喜とするや。こたえていわく、初果を得れば究竟して涅槃に至るがごとし。菩薩この地をうれば心つねに歓喜おおし。自然に 諸仏如来の種を増長することをう。このゆえにこのごときの人を賢善者となづくることをう。初果をうるがごとしというは、もしひと須陀洹道をうれば、よく三悪道の門をとず。法をみて法にいり、法をえて堅牢の法に住して傾動すべからず。究竟して涅槃にいたる。見諦所断の法を断ずるがゆえに、心おおきに歓喜す。たとい睡眠懶惰なれども二十九有にいたらず。一毛をもて百分となして、一分の手をもて大海の水を分ち取らんがごとし。二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余のいまだ滅せざるもののごとし。二三滞のごときを心おおきに歓喜す。菩薩もかくのご
(1-355)
とし。動地をえ已るを如来の家に生ずとなづく。一切の天、龍、夜叉、乾闥婆 乃至 声聞辟支等ともに供養し恭敬するところなり。何を以のゆえに、この家過咎あることなし。かるがゆえに世間道を転じて出世間道にいる。ただ仏を楽敬すれば四功徳処をえ、六波羅蜜の果報の滋味を得ん。諸の仏種を断ぜざるがゆえに、心おおきに歓喜す。この菩薩の所有の余の苦は二三の水滞のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提をうといえども、無始生死の苦においては二三の水滞のごとし。滅すべきところの苦は大海のみずのごとし。このゆえにこの地をなづけて歓喜とす。
 【字解】一。初果 須陀(オン 河-可+亘)道に同じ。
 二。須陀(オン 河-可+亘)道 梵音シュロータパンナ(Surota Panna)、予流果、入流果とも訳する。聾聞四果の中の第一果で、三界の見惑を断じ尽して初めて聖者の流類〈なかま〉に入った位である。
 三。見諦所断法 見道位にて断ずる煩悩のことである。通例これを略して見惑というて居る。四諦の理を見つけて、予流果に入る時に断尽する煩悩である。八十八使というて、三界で合せて八十八の種類があるのである。
 四。二十九有 有というは因果不亡の義にて、因があれば必ず果があるという意である。二十九生という意。初果の聖者はいかに懶惰〈なまけ〉ても、人界に七生、天界に七生、合せて十四生、これに中有の十四生を加えて、二十八生だけ了〈おわ〉れば、もう人天の果報を受けることはない。これを極七返有という。かように初果の聖者は極都合が悪くいっても、二十八回だけ人間天上の間を往返すれば無余涅槃に至ることができるから、第二十
(1-356)
九生とは迷わないと云われたのである。
 五。渧 したたり、しずく、
 六。天 八部衆の一。梵語提婆(Deva)。六欲天、四禅十八天、四無色天を総称する。
 七。龍 八部衆の一。梵語那伽(Naga)。仏法守護の龍神を指す。
 八。夜叉 八部衆の一。梵音ヤクシャ(Yaksa)。勇健、暴悪と訳し、捷疾鬼ともいい、獰猛な鬼神である。これに天夜叉、地夜叉、虚空夜叉の種類がある。
 九。乾闥婆 八部衆の一。梵音ガンドハルワ(Gandharva)。尋香、食香などと訳する。帝釈天の楽神であって、須弥山の南、金剛窟の中に住い、酒肉を食わず、唯香だけを食する飛行神である。
 一〇。乃至 阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽を略し収めて居る。これで八部衆となるのである。
 阿修羅は梵音アスラ(Asura)、非天と訳する。略して修羅ともいう。衆相山の中やし大海の底に住んで、常に三十三天と戦うて居る鬼神である。
 迦楼羅は梵音ガルダ(Garuda)、項癭、食、吐悲苦声と訳する。一名を蘇鉢剌尼即ち(Suparni)、金翅鳥、妙翅鳥という。龍を取りて食すといふ鳥類の王である。
 堅那羅は発音キンナラ(Kimnara)、疑人、人非人、疑神と訳する。人とも神とも畜生とも定むることの出来ない歌舞をなす妖怪のことである。歌神。聚楽神などというて居ん。
 、摩睺羅伽は梵音マホ-ラガ(Mahorag)、大腹行、大蟒神と訳し、大蟒〈うわばみ〉のことである。
(1-357)
 一一。声聞 梵語舎羅婆迦(Sravaka)の訳。仏陀の教誨の声をきいてさとる人という義で、仏の言教、遺教に依りて、苦集滅道の四諦の理を観じ、三生六十劫の長の間の修行を経て阿羅漢果を証る聖者をいう。
 十二。辟支 辟支仏の略。梵昔プラトエーカブッドハ(Pratykabuddha)、独覚と訳する。飛花落葉等を観じて、師匠に依らず独力にて証悟する人をいうのである。
 【文科】『十住毘婆娑論』「入初地品」の中、初歓喜地の相〈すがた〉を示す文を引き給うのである。
 【講義】問うて曰く。何故に初地を歓喜地と名けるのであるか、答えて曰く、小乗の初果の聖者となれば、必ず遂に涅槃の岸に到りつくことが出来るように、この初地の菩薩となれば、必ず仏果菩提をさとることが出来るからである。それで、菩薩ひとたびこの初地の位を得ると心は常に歓喜に満ちみつる。而して自然に諸仏如来の種、即ち本有の仏性を増長することが出来るのである。それであるから、この初地の位の人を賢善者と名けることが出来る。今易行他力門でいえば、信心の行者は初歓喜地の菩薩の如く、必ず仏になるに定まった身分であるから、歓喜が胸に躍る。而して自然に信心を増長することになる。かく歓喜は胸に満ち信心を増長し大善大功徳を身に持つから賢善者ということが出来るのである。
 先きに初果を得るが如しというたが、初果を得るようだとは人もし道を修めて小乗の四
(1-358)
果の第一果預流果を獲ると、もはや絶対に、三悪道に堕つる因は亡くなって仕舞うのである。即ちこの位に入ると、見惑というて四諦の理に迷う煩悩を悉く断じて、四諦の理を見つけいだし、四諦の理に証り入り、無漏の法を得るものであるからこの堅固な金剛の様な無漏法に住して、いかなることがあっでも動揺〈ゆる〉ぐことはない。かくして遂には必ず涅槃
の岸に至るのである。かくの如くこの位に入れば、見道所断の八十八使の煩悩を断じ終るから、心に大〈おおい〉なる歓喜が起って来るのである。この後は、たとへ睡眠に耽り、懶惰になるようなことがあっても、決して第二十九返目の生を受けるようなことはない。
 それで譬えてみると、一筋の毛を百分して、この極小さな毛筋を以て大海の水を二三滴分ち取るとなれば、この初地の位に入つて、消滅した苦は、宛然〈さながら〉大海水の様に多く、消滅しない残りの苦は、その毛筋で分ち放った二三滴のように極めて少ないのである。それであるから、初地の菩薩は心に大歓喜を生ずるのである。
 かように菩薩もまた初地の位を獲れば、もう決して生死に返るということがないから如来の家に生れたというのである。この菩薩は、一切の諸天、龍神、夜叉神、乾闥婆神、乃至、声聞、辟支仏等の一様に恭敬〈うやま〉い供養する所である。これというも如来の家には些〈すこし〉の過咎〈とが〉な
(1-359)
く穢れもないからである。即ちこの菩薩は凡夫世間の道を捨てて出世間道に入り、成仏に定まったことを只管〈ひたすら〉心に楽み喜びつつ、仏を敬うて、四功徳処の利他の徳を得、六波羅蜜を修めた果報である自利の利益を得、諸の仏種を断たずこれを増長することが出来るから、心に大なる歓喜が溢れるのである。かような功徳を具えた初地に入ったことであるから、この菩薩のもてる苦みは初果の聖者のやうに僅〈わずか〉に大海水中の二三渧位である。元よりこの後なお百千億劫の間菩薩の行を修めて証りを開かねばならぬとは云え、これまで迷いに迷いを重ねた無始以来の苦みに比ぶれば、よしや百千億劫の修行の期間があっても、それはほんの大海水の二三渧と云わねばならぬ。即ち滅し了った苦は大海水の如く多く今持って居る苦は二三渧の如く少ないのである。この理由〈わけがら〉によりてこの初地を歓喜地と名けるのである。
(1-360)
で居らぬ。臨終まで依然として罪悪深重の凡夫である。ただ本願他力に疑晴れた仕合せには、時々御催促を頂いては、喜ばせて貰うだけである。それであるから、消滅した苦は僅に二三渧の如く、滅しない苦は大海水の如く多くあるのである。けれども、二三渧の様な少いものではあるが、その聞法信喜の味〈あじわい〉に常に舌鼓打たして項いて居るのである。
 清沢満之先生の「他力救済の感謝」に曰く。
  我れ他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るるときは我が世に処するの道閉づ。
  我れ他力の救済を念ずるときは、我物欲のために迷はさるること少く、我他力の救済を忌るるときは物欲のために迷わさるること多し。
  我れ他力の救済を念ずるときは、我が処する所に光明照し、我他力の救済を忘るるときは我が処する所に黒闇覆う。
  鳴呼他力救済の念は、能く我れをして迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟達安楽の浄土に入らしむるが如し。我れは実にこの念に依って現に救済されつつあるを感ず。もし世に他力救済の念たけかりせば、我は遂に迷乱と悶絶とを免かれざるべし。然るに今や濁浪滔々の
(1-361)
闇黒世裡にあって夙に清風掃々の光明界中に遊ぶを得るもの、その大恩高徳豈区々たる感謝嘆美の及ぶ所ならんや。
と。謂〈おも〉うに『御本書』のこの節の意、蓋し、清沢先生のこの感謝である。
 扨てまたこの聞信の行者は、一切の天龍夜叉鬼神乃至菩薩仏方まで、愛敬供養して下されるのである。これ実に名号所具の大利益である。聞信の行者は如来を愛敬して自利利他の徳を得、益々信心を増長するから、何の中からも歓喜が胸に溢れるのである。
 【余義】一。この分取海水の喩の中、本文の文点と引用文の文点と違って居る所がある。本文から読めば、「一毛を以て百分となし、一分の毛を以て、大海水をもしは二三渧分取するが如し、苦の已に滅するは大海水の如く、余の未だ滅せざるは二三渧の如し」と読む。処が引用の文点に依れば、「一毛を以て百分となし、一分の毛を以て大海水を分取するが如し、二三渧は苦の已に滅するが如し、大海水は余の未だ滅せざるが如し。二三渧の如きを心大〈おおき〉に歓喜す」と読ませてある。坂東の御真本、現行の四本、御展書〈おのべがき〉みなこの点に読ませてある。それで本文ではその文点の示すごとく、いわゆる見惑已滅大海水、修惑未滅二三渧という意味で、初果の聖者になれば、ものの道理に迷う煩悩は悉く滅して、事物
 扨て他力浄土門に当てて考えてみると、他力念仏の行者は、聞信の立処〈たちどころ〉に、迷の因果が滅びて仕舞い、ただ残る所は、甞て過去の業因に報い顕われたこの穢身だけであるから、滅した苦は大海水の如く、残る苦は二三渧の様なものである。然し、これは法の利益の上からいうので、更に機に受けた私の感の上からいうと、聞信の一念に迷妄の因果は滅びて恒沙の功徳は身に満てりとはいうものの、信者自身の実際からいうと、煩悩は少しも断じ
(1-362)
に迷う煩悩だけが未だ滅せず、従って苦についても、已に断じ終った苦は大海水の如く多く、未だ断じ終らぬ苦は二三渧だけしかないから、菩薩は大にこれを歓喜するというのである。所が御引用の文義をその文点からみてみると、講義にも記した通り他力の行者は、無明煩悩われらが身にみちみちてつねに四苦八苦にせめられて居るから、苦の滅せざるは大海水の如くである。しかしこういう有様にあり乍らも常に法をきいて歓喜に溢れ、生死の苦に安住して居るが、それは丁度大海水に比べて汲み取った二三渧の水の様なものであるぞということを示し給うたものである。「二三渧の如きを心大〈おおき〉に歓喜す」というは、「有漏の穢身はかわらねど、こころは浄土にすみあそぶ」とあるが如く、四苦八苦の娑婆にありながらも、聞法する身の仕合〈しあわせ〉には、常に法味に飢えず、歓喜に溢れて居ることを示し給うたものである。吾れ吾れ凡夫の機に受けた実感の方からいえば、正しく聖人の改め給うた御点の如くいわねばならぬのである。然し、大法の徳用の方からいうと、聞いて信ずる一念に於いて、本願他力の不思議によって、六趣四生の因を亡じ果を滅し給うから、巳滅大海水というべく、現世一生に受けたこの穢身が残って居る計りであるから未滅二三渧といわねばならぬ。親鸞聖人はこの大法の徳用の方からいう義をも茲に合せていい
(1-363)
顕わさんとし給う覚召があるものであるから、合法の処では、本文通の点にして、改め給わなんだ。譬喩の処で文点を改めるならば、合法の処でも同様に改めねばならぬ咎であるが、それを改め給わぬのが、この二義を以て見よという覚召があるのであろうと思われる。『六要鈔』主もこの二義を以て見ねばならぬということを示さんがために、「その文点に依って義理を解すべし。言う所の文点は口伝に在る可し」と示し給うたのである。これによって『六要鈔会本』には文点を全く省いてあるのである。 (1-364)

 問曰初歓喜地菩薩在此地中名多歓喜為得諸功徳故歓喜為地法応歓喜以何而歓喜答曰常念於諸仏及諸仏大法必定希有行是故多歓喜如是等歓喜因縁故菩薩在初地中心多歓喜念諸仏者念然灯等過去諸仏阿弥陀等現在諸仏弥勒等将来諸仏常念如是諸仏世尊如現在前三界第一無能勝者是故多歓喜念諸仏大法者略説諸仏四十不共法一自在飛行随意二自在変化無辺三自在所聞無閡因自在以無量種門知一切衆
生心 乃至 念必定諸菩薩者若菩薩得阿耨多羅三藐三菩提記入法位得無生忍千万億数魔之軍衆不能壊乱得大悲心成大人法 乃至 是名念必定菩薩念希有行者念必定菩薩第一希有行令心歓喜一切凡夫所不能及一切声聞辟支仏所不能行開示仏法?閡解脱及薩婆若智又念十地諸所行法名為心多歓喜是故菩薩得入初地名為渧喜

 【読方】問ていわく、初歓喜地の菩薩この地のなかにあるを多歓喜となづく。もろもろの功徳をうることをなすがゆえに歓喜を地とす。法を歓喜すべし、なにをもてかしかも歓喜するや。こたえていわく、つねに諸仏とおよび諸仏の大法と、必定と希有の行とを念ず。このゆえに歓喜おおし、かくのごときらの歓喜の因縁のゆえに、菩薩初地のなかにありて心に歓喜おおし、諸仏を念ずというは燃燈等の過去の諸仏、阿弥陀等の現在の諸仏、弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。つねにかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現にまえにましますがごとし。三界第一にしてよく勝たる者ましまさず、このゆえに歓喜おおし。諸仏の大法を念ずとは、略して諸仏の四十不共法をとかん。一には自在の飛行、こころにしたがう。二には自在の変化ほとりなし。三には自在の所聞無碍なり。四には自在に無量種の門をもて、一切衆生の心をしろしめす。乃至念必定の諸の菩薩は、もし菩薩阿耨多羅三藐三菩提の記をえつれば、法位にいり無生忍をうるなり。千万億数の魔の軍衆
(1-365)
壊乱することあたわず、大悲心をえて大人法を成ず。乃至これを念必定の菩薩となづく。希有の行を念ずとは必定の菩薩第一希有の行を念ずるなり。心に歓喜せしむ。一切凡夫のおよぶことあたわざるところなり。一切声聞、辟支仏の行ずることあたわざるところなり。仏法無碍解脱および薩婆若智を開示す。また十地のもろもろの所行の法を念ずるをなづけて心多歓喜とす。このゆえに菩薩初地にいることをうればなづけて歓喜とす。
 【字解】一。然灯 梵語提惒竭羅仏(Dipankara-Buddha)、正しくば灯作仏と訳すべきがあるが、錠光仏、燃灯仏、然灯仏と訳して居る。過去久遠の昔に出世して、釈尊に初めて成仏の記別を授け給うた仏陀である。
 二。弥勒 梵音マーイトレーヤ(Maitreya)梅怛麗耶〈バイタリヤ〉とも写してある。慈氏と訳する。阿逸多(Ajita)即ち無能勝という姓の南天竺の婆羅門で兜率天に上生し、現に兜率の内院に住して、当来、釈迦仏滅後五十六億七千万年の後、即ち器世間の第十減劫、人寿八万歳の時、この土に出世し賢劫千仏中の第五仏となるべき補処の菩薩である。
 三。四十不共法 仏には他の聖者と共通でない特殊の功徳法が四十あるということ。一、飛行自在。二、変化無量。三、聖如意無辺。四、聞声自在。五、無量智力、知他心(他心を知る)。六、心得自在。七、常在安慧処(常に安慧処に在り)。八、常不妄語。九、得金剛三昧力。十、善知不定事(善く不定事を知る)。十一、善知無色定事(善く無色定事を知る)。十二、具足通達諸永滅事(諸永滅事を具足し通達す)。十三、善知心不相応無色法(善く心不相応無色法を知る)。十四、大勢波羅蜜。十五、無碍波羅蜜。十六、一切問答及受記具足答波羅蜜。十七、具足三輪説法。十八、
(1-366)
所説不空。十九、所説無謬失。二十、無能害者。二十一、諸賢聖中大将。二十二ヨリ五、四不守護。二十六ヨリ九、四無所畏。三十ヨリ三十九、仏十種力。四十、無碍解脱。(『十住婆娑論』巻第十)
 四。記 記別のこと。即ち一々分別して記すという意にて、仏が修行者の未来の証果を一々区別してなし給う予言のこと、
 五。法位 菩薩の不退の位のこと。御引用の上では正定聚の位。
 六。無生忍 前三四五頁 無生法忍に同じい。信心の智慧のこと、
 七。大人法 菩薩法というに同じく、菩薩利他の大行のことである。他力浄土門でいえば教人信の大行のこと。凡夫や声聞に対して、菩薩を大人というのである。
 八。第一希有行 十地の菩薩の修する十婆羅蜜の修行のことであるが御引用の上からいうと南無阿弥陀仏の大行のことである。
 九。無碍解脱 無碍道と解脱道のこと。無碍道は無間道のことで、修行成就して正しく煩悩を断ずる一刹那のこと。煩悩は茲に至って最早さわりをなすことが出来ないから無碍道という。解脱道は煩悩を断じ終って後に生ずる無漏道のことで、茲に至って全く煩悩を離れて仕舞うから解脱道という。今御引用の御覚召からいうと無碍道は前念命終の本願を信受すること。解脱道は後念即生の正定聚に入ること。
 一〇。薩婆若 梵音サルワジュニヤー(Sarvajna)、一切智と訳する。仏果の智慧のこと。御引用の御意からいうと必至滅度の利益によりて一切智の証を開くこと。
(1-367)
 一一。十地 五十二位の中、四十一位より五十位迄をいう。菩薩の位である。この位に入れば、大地が不動にして、草木を生長せしむるように、菩薩も中道の仏智を持〈たも〉ちて動かず、而もよく衆生を化益するから地位という。歓喜妙、離垢地、発光地、焔恵地、難勝地、現前地、遠行地、不動地、善慧地、法雲他の称。
 一二。十地諸所行法 十波羅蜜の修行のことであるが、今は南無阿弥陀仏のことと解すればよい。
 【文科】『十住毘婆娑論』の「地相品」の中、歓喜の縁由を示す文を引き給うのである。
 【講義】問うて曰く、「初歓喜地の菩薩はこの初地にあってその心に多くの歓喜あるから歓喜地と名ける。その理由としては諸の功徳を得るからということに帰するようであるが、もし諸の功徳を得るというならば、初地のみならず、二地も三地も同じことである。それでは特にこの地を以て歓喜地とするわけに行かぬと思う。今この初地を以て歓喜の地とするには初地そのものの持前〈もちまえ〉として、他の地に異りて歓喜すべき特長がなくてはならぬ。即ちこの地に於いて、歓喜すべき特有の法があるべきである。それは何であろうか。答えて曰く「常に諸仏と、諸仏の大法と必定と希有の行とを念ずるから歓喜が多いのである。この四種を念ずる因縁によりて、この菩薩は初地の中にあって心に歓喜の念いが多いのである。
 先ず「諸仏を念ずる」とは然灯仏等の過去の諸仏、阿弥陀仏等の現在の諸仏、弥勒仏等
(1-368)
の将来の諸仏を念うことである。常にこれら三世の諸仏世尊を念じ奉れば、現に雲の如く周囲に集ひ給いて護念〈おまも〉り下さるる、されば衆魔は近かず、障碍は来らぬ。三世諸仏とは云え、過去と未来は現在に摂〈おさま〉り、現在の諸仏中弥陀は諸仏の徳を円〈まどか〉に現わし給う本仏であるから、つづめてみれば、弥陀一仏となる。この弥阿如来は三界第一にして、能くこの仏に勝るるものはない。この大悲の如来に護念せらるる故に、初歓喜地の菩薩は心に歓喜が多いのである。
 次に「諸仏の大法を念ずる」とは、素〈もと〉より諸仏には無量の徳があるけれども、菩薩や聖者方の持って居られない仏不共の四十の別徳を諸仏の大法というのである。左にその中の三四を挙ぐれば、一には意のままに自由に遠近を問わず、石壁山岳にも障えられず飛行する徳。二には心のままに、無量の形を変化する徳、例せば身から水火を出し、全世界を金銀瑠璃等に変ずる等の徳である。三には声の大小、多小、遠近に関せず、同時に悉く聞くことが出来る徳、四には心のままに無量の智慧の門戸を通じて、一切衆生の心を知めす徳等である。これ等諸仏の徳も畢竟は弥陀一仏の功徳に摂〈おさま〉ることであるから、諸仏の大法を念ずるとは弥陀の威神功徳を念ずることである。常に弥陀の功徳を念ずる故に、心に歓喜が
(1-369)
多いのである。
 第三に「念必定菩薩」とは、必定の菩薩を念ずるという意味ではなく、念必定菩薩を説き示すものである。即ち初地の菩薩が証を開く記別をうれば、不退の法位に入り、無生忍を獲るから、千万億の悪魔が寄せかけて来ても、少しも心を乱すことは出来ない。大慈悲の心を以て菩薩利他の大行を成就するのである。これを念必定菩薩と名づけるのである。誠に弥陀を念ずる信心の行者は、正定聚不退の位に入り、天神地祗に敬伏せられ、魔界外道にも障えられず教人信の行をいそしむのである。
 次に「希有行を念ずる」とは、この必定の菩薩即ち他力信心の行者は第一希有の行、即ち万善の徳を具えた弥陀の名号を念ずる故、心に歓喜が溢れる。すべて他力の信心のない凡夫の全然及ぶ所でない。また一切の声聞や、辟支仏の行ずることの出来ないものである。その菩薩はよくあらゆる仏法の真髄たる教――即ち聞信の一念に煩悩に碍えられないようになり(前念命終)、それと同時に煩悩を解脱して証りを開く位に定る(後念即生)ことと、命終れば一切智の証りを開く(必至滅度)という大法を衆のために開示〈ときしめ〉す。又心に弥陀を念ずれば、十地の菩薩の願行が自然に身に具〈そなわ〉る故に初他の菩薩が、この六度十波経蜜
(1-370)
等の行を念じて心に歓喜〈よろこ〉びが湧く如く、他力の行者は最勝真妙の正業、第一希有の行たる南無阿弥陀仏を念じて心に歓喜が躍る。
 これらの訳合〈わけあい〉によりて、菩薩が初地の位に入ると歓喜地の菩薩というが、行者一度名号の謂〈いわ〉れを聞信すれば、歓喜地の菩薩というのである。
 【余義】一。この文の問いの中にある「法応歓喜」は本文の意味は「法応歓喜(法として歓喜すべし)」で、即ち「この地の持前〈もちまえ〉として歓喜の意味がなければならぬ」というのであるが、いま聖人は「法応歓喜(法を歓喜すべし)」と点じて、「この地には他とは特別なる歓喜すべき法がなくてはならぬ」と仰せらるるのである。これというも聖人御引用の意は、信心の行者が、正定聚不退の歓喜地に入れば、特別に歓喜〈よろこ〉ぶべき法があることを示さるるに外ならぬ。その信後の光景、即ち歓喜の本因〈もと〉は上の答に示されてあるのである。
 二。この文も、聖人は全く他力浄土門の意で引用し給うたのであるから、講義には、文意を害せない限りその御引用の御思召の様に解釈して来たが、常に本文の意〈こころ〉もつたえ、また御引用の御思召も尚更伝えねばならぬので、措辞に不適当な箇所はあるが、読者の潜心読破せられんことを請うのである。
(1-371)

 問曰有凡夫人未発無上道心或有発心者未得歓喜地是人念諸仏及諸仏大法念必定菩薩及希有行亦得歓喜得初地菩薩歓喜与此人有何差別答曰菩薩得初地其心多歓喜諸仏無量徳我亦定当得得初地必定菩薩念諸仏有無量功徳我当必得如是之事何以故我已得此初地入必定中余者無有是心是故初地菩薩多生歓喜余者不爾何以故余者雖念諸仏不能作是念我必当作仏譬如転輪聖子生転輪王家成就転輪王相念過去転輪王功徳尊貴作是念我今亦有是相亦当得是豪富尊貴心大歓喜若無転輪王相者無如是喜必定菩薩若念諸仏及諸仏大功徳威儀尊貴我有是相必当作仏即大歓喜余者無有是事定心者深入仏法心不可動

 【読方】間ていわく、凡夫人のいまだ無上道心を発せざるあり。あるいは発心するものあり。いまだ歓喜地をえざらんこのひと、諸仏および諸仏の大法を念じてん。必定の菩薩および希有の行を念じてまた歓喜をえんと、初地をえん菩薩の歓喜と、このひととなんの差別かあるや。こたえていわく、菩薩初地をえてはその心歓喜おおし。諸仏無量の徳われまた定めてまさにうべし。初地をえん必定の菩薩は、諸仏を念ずるに無量の功
(1-372)
徳います。我まさに必ずかくのごときの事をうべし。なにをもてのゆえに、われすでにこの初地をえ、必定のなかにいれり、余はこの心あることなけん。このゆえに初地の菩薩おおく歓喜を生ず。余はしからず。なにをもてのゆえに、余は諸仏を念ずといえどもこの念をなすこと能わず。われ必ずまさに作仏すべし。たとえ転輪聖子の転輪王の家にうまれて、転輪王の相を成就し過去の転輪王の功徳尊貴を念じてこの念をなさん。われ今またこの相あり。また当にこの豪富尊貴をうべし。心おおきに歓喜せん。もし転輪王の相なくばかくの如きの喜びなからんがごとし。必定の菩薩、もし諸仏および諸仏の大功徳威儀、尊貴を念ずれば、われこの相あり。かならずまさに作仏すべし。ずなわちおおきに歓喜せん。余はこの事あることなけん、定心とは深く仏法にいりて 心動すべからず。
 【字解】一。無上道心 無上菩提を求むる心。いわゆる菩提心のこと。
 二。必定  正定聚、不退転位のこと。必ず成仏するに定まった位をいう。
 三。転輪王 梵語研迦羅伐竦底羅闍(Cakravaiti-raja)の訳。転輪聖帝。輪王ともいう。須弥四州を統領する大王で、王位に即〈つ〉く時に感得する輪宝を転じて、一切を威服する故から転輪王の名がある。金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王の別がある。仏陀の如く三十二相を具え、人寿無量歳の時から八万歳の間だけに出世するとしてある。
 【文科】『十住毘婆娑論』の「地相品」の文を引く中、今は歓喜の相違を説く文である。
 【講義】問うて曰く、菩提心を起さぬ凡夫や、又は菩提心を起しても、歓喜地には至ら
(1-373)
ぬ凡夫も、諸仏及び諸仏の大法を念じ、又必定菩薩と希有の行を念じて歓喜を得ることが出来るが、これらの凡夫(自力の行者)の歓喜と、初地の菩薩(他力信心の行者)の歓喜と、どれほどの差別があるか。
 答えて曰く、初地の菩薩の歓喜の多いのは、諸仏(弥陀)の無量の功徳も、やがて我身に具わるに相違ないという思がある。かように初歓喜地の位に入った必定の菩薩は、弥陀を念じてその無量の徳を一身に持っている。我もまた屹度この不可思議の徳を獲るに相違ない。どうしてかと云えば、自分はもう初地の位を得て、必ず仏になると定った聚に入っている。この位に入らぬ他の人々は、決してこの決定の心はない。かようにして初地の菩薩は歓喜が多いのである。この位に入らぬ行者は左様な訳にはゆかぬ。何故かと云えば、他の行者はよしや弥陀を念じても、真に成仏の思いがないために、身の仕合せを喜ぶことは出来ない。譬えば転翰王の王子が、身親しく輪王の家に生れ、当に輪王の位に昇るべき相を具えていることを自覚〈さとり〉て、過去の転輪王の勝れた功徳や、尊貴を念〈おも〉うにつけても、自分にも輪王の相を具えている。やがては豪〈おおい〉なる富と、尊貴〈とうと〉い身になるに相違ないと大〈おおい〉に歓喜〈よろこ〉ぶけれども、もしも輪王の相がなかったならばこの喜びの起ろう道理はない。今も初地の
(1-374)
位に入った必定の菩薩は、弥陀を念じ、弥陀の威神功徳の尊貴を念じて、自分にもこの相がある。もう成仏は疑いを容れる余地はないと大に歓喜するのである。この位に入らぬ凡夫(自力の人々)はこのことはあろう咎がない。
 定心というのは、深く仏法の底を知りて、心の動かぬことをいう。信心の行者は、誓願の不思議を信じているから、誠に金剛のように堅固である。

 又云信力増上者信名有所聞見必受無疑増上名殊勝問曰有二種増上一者多二者勝今説何者答曰此中二事倶説菩薩入初地得諸功徳味故信力転増以是信力籌量諸仏功徳無量深妙能信受是故此心亦多亦勝

 【読方】またいわく、信力増上はいかん、聞見するところありて必受して疑いなきに名づ。増上は殊勝になづくと。問ていわく、二種の増上あり、一には多、二には勝なり。いまの説なにものぞ、こたえていわく、このなかに二事ともにとかん、菩薩初地にいれば、もろもろの功徳の味わいをうるがゆえに信力転〈うたた〉増す。この信力をもて諸仏の功徳無量深妙なるを籌〈かぞえ〉量〈はか〉りてよく信受す。このゆえにこの心また多なり。また勝なり。
(1-375)
 【文科】『十住毘婆娑論』の「浄地品」の文を引く中、今は信力増上を説く文である。
 【講義】又云く信力増上とはどういうことであるか。そは耳に聞き眼に見て、ハッキリとこうぢゃと心に受け込んで疑いのないのを信というのである。即ち水を甞めて冷暖を知るように、少しも曖昧はない。これが信である。又増上とは殊勝をいうのである。問う、増上に多と勝との二つの意味がある。今はこの二つの中の何れを指すのか。答う、二つ共に取るべきである。菩薩が初地の位に入ると、諸の功徳の味を得るから、信力はだんだんに増してくる。他力信心の行者はこの如来回向の信力を以て弥陀の限りなき功徳の妙に勝〈すぐ〉れたることを籌〈はか〉り知って、能く心に信受〈うけこ〉む。この故にその心は多大にして、また殊勝である。

 深行大悲者愍念衆生徹人骨髄故名為深為一切衆生求仏道故名為大慈心者常求利事安穏衆生慈有三種 乃至

 【読方】ふかく大悲を行ずるひとは、衆生を愍念すること骨髄に徹入するがゆえになづけて深とす。一切衆生のために仏道をもとむるがゆえになづけて大とす。慈心はつねに利事をもとめて衆生を安穏にす。慈に三種あり。乃至
(1-376)
 【字解】一。利事 利益する事柄。ためになること。
 二。慈有三種(慈に三種あり) 衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、無縁の慈悲の称。
 【文科】『十住毘婆娑論』「浄地品」の文を引く中、今は深行大悲を説く文である。
 【講義】又「深く大悲を行ずる」とは、以上の自利の徳とともに、自と利他の徳具わりて、信なき人々を愍む情が骨髄に徹する故に「深」といい、一切衆生のために、仏道を求むる故に「大」という。「慈心」とは、いつも利益する事柄を求めて衆生を安穏にすることをいう。そしてその慈には三種ある。乃至

 又曰仏法有無量門如世間道有難有易陸道歩行則苦水道乗船則楽菩薩道亦如是或有勤行精進或有以信方便易行疾至阿惟越致者 乃至

 【読方】仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなわち苦しく、水道の乗船は則ち楽きがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり。あるいは信方便の易行をもて、とく阿惟越致にいたるものあり。乃至
 【字解】一。信方便 『一多証文』には信心の方便と解釈してある。
(1-377)
 二。阿惟越致 又は阿毘跋致、梵音アヰニワルトヤ(Avinivartya)、又はアワーイワルテカ(Avaivartika)、不退転位のことである。仏になるに定りて菩薩の地位より再び退堕せない位である。
 【文科】『十住毘婆娑論』の文を引く中、今は「易行品」の文である。「易行品」の中、二つに分れて今に難易二道を判釈する文である。
 【講義】又曰く、仏法には数知れぬ門戸〈いりぐち〉がある。これを譬うれば、世間の道にも困難な道と、容易な道とあって、陸地を歩いてゆくのは苦しく、水路を船に渡ることは楽しいようなもので、道を修める菩薩のゆく道にも大体に於いて難易の二つに分れる。即ち自力で懃め精進〈はげ〉みて苦しい行を修する者もあれば、又他力信心の方便によりて、舟路ゆく人のように、易行の道に趣いて疾く阿惟越致の位に至る者もある。乃至 (1-378)

 若人疾欲至不退転地者応以恭敬心執持称名号若菩薩欲於此身得至阿惟越地成阿耨多羅三藐三菩提者応当念是十方諸仏称其名号如宝月童子所問経阿惟越致品中説 乃至 西方善世界仏号無量明身光智慧明所照無辺際其有聞名者即得不
退転 乃至 過去無数劫有仏号海徳是諸現在仏皆従彼発願寿命無有量光明照無極国土甚清浄聞名定作仏 乃至

 【読方】せしひととく不退転地に至らんとおもわば、恭敬の心をもて、執持して名号を称すべし。もし菩薩この身において阿惟越致地にいたることをえ、阿耨多羅三藐三菩提を成ぜんとおもわば、まさにこの十方諸仏を念じて、名号を称すべし。宝月童子所問経の阿惟越致品のなかにとくがごとし。 乃至 西方の善世界の仏を無量明と号す。身光智慧あきらかにして照すところ辺際なし。それ名を聞くことある者はすなわち不退転をう。 乃至 過去無数劫に仏まします、海徳と号す。このもろもろの現在の仏、みな彼にしたがいて願をおこせり。寿命はかりあることなし。光明、照してきわまりなし。国土はなはだ清浄なり。名をきかばさだめて仏にならん。乃至
 【字解】一。恭敬心 恭はへり下ること。自ら我身は現にこれ罪悪生死の凡夫と頭を下げること。敬は尊びうやまうこと。ただたのむべきは弥陀如来と本願を仰ぎ奉ること。それでこの二字は善導大師の機法二種深心のすがたで、他力の信心である。
 二。執持 「化巻」に「執の言は心堅牢にして移転せざるなり。持の言は不散不失に名く」と解釈され、疑なく堅く、他へ心を転ぜす信ずることである。
 三。『宝月童子所問経』 縮蔵、黄の四に宋の世、施護の訳出にかかる『大乗宝月童子問法経』一巻
(1-379)
というがあるが、それはこの龍樹菩薩御引用の経を縮訳したものであろう。
 【文科】『十住毘婆娑論』の易行品の文を引く中、正しく易行を明す文で、今はその中十方十仏の易行を示す文である。
 【講義】もし人あって、速〈すみやか〉に疾く不退転の位に至りたいと思うならば、応に恭敬の心を以て、疑いなく固く信じて弥陀の名号を称えよ。もし菩薩この現在の身に於いて、直〈ただち〉に阿惟越致地に至ることを得、後世には証りを開きたいと欲うならば、応に十方の諸仏を念じて、その名号を称えるがよい。広くは宝月童子所問経の阿惟越致品の中に説いてある。乃至
 西方善世界の仏を無量明仏と号〈なづ〉け奉る。身の光も心の光も妙にして、智慧また明〈あきらか〉に徹照〈みとお〉し給うこと辺際がない。その仏の御名を聞信〈ききひら〉く者は、その時直〈ただち〉に不退転の位を獲るのである。乃至、過去の限りなき劫波〈とき〉の前に海徳仏という如来がいらせられた。現在の諸の仏達は皆この海徳仏に従いて誓願を起し給うたのであった。即ち寿命の限りなきよう、光明の照す所極りなきよう、その建立する国土の清浄なるよう、そして我名を聞信する者をして定めて成仏せしむるようと誓わせられたのである、乃至。
 【余義】一。この論文は申すまでもなく十方十仏章の文である。十方十仏章は十方十仏
(1-380)
の易行を説き明すところである。今茲にその十仏の内西方の無量明仏の易行を明す文を引いてあるが、この無量明仏というは、論文の当相では、もとより西方阿弥陀仏のことではない。西方ここを去ること無量無辺恒河沙の仏土をすぎて善世界という浄土がある。その浄土に居し給う仏で、成仏以来既に六十億劫を過ぎ給うてあるのであるから十劫正覚の弥陀如来に在さぬことは明かである。
 けれども、親鸞聖人はまたいつもの如く聖人一流の択法眼を以て、無量明仏を阿弥陀如来のこととして茲に出し給うのである。恋するものは、何事の上にも恋のあまさに酔う材料を見出さずには置かないように、我が聖人は、何事の上にも如来の悲懐を仰いで法悦を催うし給うのである。況んや無量明仏といい、西方善世界という。聖人がどうしてこれを見逃し給うことがあろうか。聖人は直にこれを阿弥陀仏のことと拝し給うたのである。
 二。海徳仏は、施護訳の『宝月経』には、精進吉祥如来とある。この海徳仏のことにつき、浄土真宗に三様の取扱がある。
 (一)は阿弥陀如来の弟子仏とする義である。これは『法事讃』上(初丁)「上海徳初際如来より乃至今時の釈迦諸仏皆弘誓に乗じて悲智双行して含情を捨てず」とあるを『口伝鈔』下(初右)
(1-381)
にこの弘誓を弥陀の弘誓と解して、「しかれば海徳仏より本師釈尊にいたるまで番々出世の諸仏、弥陀の弘誓に乗じて自利利他したまえるむね顕然なり」とあるが、これである。
 (二)は同じく『口伝鈔』下(二右)に壇那院の覚運和尚の解釈に従って弥陀の化仏とする説である。「覚運和尚の釈義、釈尊も久遠正覚の弥陀ぞとあらわさるるうえは、いまの和尚の御釈にえあわすれば、最初海徳以来の仏々もみな久遠正覚の弥陀の化身たる条、道理文証必然なり」とあるがこれである。
 (三)は今この『広本』の文で海徳仏を久遠実成の本門の弥陀とし、十方の十仏はこの海徳仏に従って六八の願を起し給うた迹門の弥陀なりとし、西方善世界の無量明仏を十却の弥陀仏とし給うのである。
 こういう三通りの扱〈あつかい〉はあるけれども、それぞれこれに依って言い顕わし給う所があるので、表面からみれば違った三通りの説のようであるけれども、文底の意趣からみれば、義旨おのずから同じで別に会通の必要を見ないのである。即ち第一説は弥陀仏が一切諸仏の本師本仏であることを示すので、第二説は、十方十仏といい、過去の諸仏といい、みな阿弥陀仏の化仏であることを示し、第三説は第一説と同じく、本迹二門の説を以て弥陀仏
(1-382)
の本師本仏であることを顕わし、三説ともに、阿弥陀仏が一切諸仏に卓越し給うことを示すのである。
 突飛な言い方ではあるが、宗教は詩である。情に生きて、その情を歌うものである。冷〈ひやや〉かな理智の頭に論究するものでなくて、我が胸に清かな情操を湛えて、高く天の一方を仰いで、声一杯に歌うものである。詩は三段論法ではない、右をいい、左をいい、前を歌い、後を詠じ、その中に支吾があっても関〈かま〉わない、矛盾があっても頓着せない。ただ、ひたすらに、むくむくと湧き起る思〈おもい〉を、声一杯に歌うだけである。ここに至って支吾も矛盾も問題にはならない。ただその熱情と、興味の中に詩の生命があるのである。宗教は全くそれである。阿弥陀仏を讃嘆し奉るに右よりし、左よりし、矛盾があっても撞着があってもそれには関〈かま〉わず、ただ我が胸に漲ぎって来る讃仰の思を悶ゆるものの如く、吐き出すのである。信仰の生命は却ってこのややもすれば矛盾撞着を生じて来る熱情と興趣の中に溢れて来のである。今の場合も正しくそれではあるまいか。
 三。それで今この下の第三説に帰って申せば、海徳仏という久遠の阿弥陀仏に従って、一切諸仏がみなその願を起し給うたのである。願というは、「寿命量〈はかり〉あることなし」、「光明
(1-383)
照して極りなし」「国土甚だ清浄なり」、「名を聞かば定んで仏に作らん」という四句の願である。この四句願は浄影大師の所謂義要唯三というのでこれで四十八願を収めて仕舞うのである。即ち摂法身の願と、摂浄土の願と、摂衆生の願を以て、四十八願を顕わしたのである。
 図示すれば左の様になる。

 寿命無有量━━ 十三願━━━━━┓
                 ┣━ 摂法身願(第十二願、第十三願、第十七願)
 光明照無極━━ 十二願━━━━━┛

 国土甚清浄━━ 三十一、三十二願━━ 摂浄土願(第三十一願、第三十二願)

 聞名定作仏━━ 十八願━━━━━━━ 摂衆生願(余の四十三願)

 この三要願を以て、四十八願を収めて顕わし給うたものである。三要願を以て四十八願を収むるから義要唯三というのである。
 四。扨てこの久遠の弥陀仏と、十劫の弥陀仏について既に久遠の弥陀仏在して衆生を済度し給うならば、別に十劫の弥陀仏の必要がないでないかという問題がある。然し、この問題は、今日の我等凡夫にかかってあるので、悲いかな、久遠の阿弥陀如来の化縁が尽き
(1-384)
て、今日の我等の救済さるる縁手がかりがなくなったものであるから、「あながちに我等一切衆生を助け給わんがための方便にかりに果後の方便と顕われて、更に誓願を起し、十劫に成道し給うて我等を救済せられるるのである。この処が特に信仰上に味があるのである。
 法界はもとより弥陀一仏で在すのであるけれども、衆生界が広いものであるから、この如来に因縁の深いものもあり、また因縁の薄いものもある。今日の我等はその久遠の如来に因縁の薄いものであるから、我等のために特別に果後の方便を顕わし、本師法王の御座を下り、因位の菩薩と身を示して、改めて本願を起し、修行をなし、御身労を遊ばして、十劫に成道し、我等に深き因縁を結びつけて救済し給うのである。我等はその十劫の弥陀仏の他力回向に依って救済さるるのである。慈悲の至極は立っても居ても居れないで、身を動かすのである。十劫正覚の弥陀というは、我等の有様を見るに見兼ねて、本師法王の御座に安坐するに忍びず、座を立って、自ら身を諸苦毒の中に投じ、衆生に成り代って、衆生の受くべき苦難はこれを受け、衆生の起すべき願行はこれを起し、幾億世々生々身代〈みがわり〉に立って下された大慈悲のかたまりのことである。十劫成覚の四字の中には味わい尽くせぬ大慈悲の至極と云う意味がありあり拝まれるのである。

(1-385)

 問曰但聞是十仏名号執持在心便得不退阿耨多羅三藐三菩提為更有余仏余菩薩名得至阿惟越致邪答曰阿弥陀等仏及諸大菩薩称名一心念亦得不退転如是阿弥陀等諸仏亦応恭敬礼拝称其名号今当具説無量寿仏世自在王仏 乃至有其余仏 是諸仏世尊現在十方清浄世界皆称名憶念阿弥陀仏本願如是若人念我称名自帰即入必定得阿耨多羅三藐三菩提是故常応憶念以偈称讃無量光明慧身如真金山我今身口意合掌稽首礼 乃至 人能念是仏無量力功徳即時入必定是故我常念 乃至 若人願作仏心念阿弥陀応時為現身是故我帰命彼仏本願力十方諸菩薩来供養聴法是故我稽首 乃至 若人種善根疑則華不開信心清浄者華開則見仏十方現在仏以種種因縁嘆彼仏功徳我今帰命礼 乃至 乗彼八道船能度難度海自度亦度彼我礼自在人諸仏無量劫讃揚其功徳猶尚不能尽帰命清浄人我今亦如是称讃無量徳以是福因緑顧仏常念我 鈔出

(1-386)
 【読方】問うていはく、ただこの十仏の名号をききて、執持して心におけば、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることをう。また余仏余菩薩の名ましまして、阿惟越致に至ることを得とせんや。こたえていわく、阿弥陀等の仏、および諸大菩薩、名を称し一心に念ずればまた不退転をうることかくのごとし、阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。いま常につぶさに無量寿仏をとくべし。世自在王仏(乃至その余の仏あり)この諸仏世尊、現在十方の清浄の世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念したまうことかくのごとし。もし人われを念じ名を称して自ら帰すれば、すなわち必定にいりて阿耨多羅三藐三菩提をう。このゆえにつねに憶念すべし。偈をもて称讃す。無量光明慧、身は真金の山のごとし、我いま身口意をもて合掌し稽首し礼したてまつる 乃至。人よくこの仏の無量力功徳を念ずれば、即時〈そくのとき〉に必定にいる。この故にわれつねに念じたてまつる 乃至。もし人。仏にならんと願じて心に阿弥陀を念ずれば、さきに応じてために身を現じたまう。この故に我かの仏の本願力を帰命す。十方のもろもろの菩薩も、きたりて供養し法をきく。このゆえにわれ稽首したてまつる。乃至 もしひと善根をうえて疑えば則ち華ひらけず。信心清浄なれば華ひらけて則ち仏をみたてまつる。十方現在の仏、種々の因縁をもてかの仏の功徳を嘆じたまう。われいま帰命し礼したてまつる 乃至。かの八道のふねに乗じてよく難度海を度す。みずから度し、また彼を度せん。われ自在人を礼したてまつる。諸仏無量劫にその功徳を讃揚せんに、なお尽すことあたわじ、清浄人を帰命したてまつる。われ今またかくのごとし。無量の徳を称讃す。この福の因縁をもてねがわくは仏つねに我を念じたまえ 抄出
 【字解】一。世自在王仏 梵名楼枳湿囉羅羅惹仏陀(Lokesvararaja Buddha)の訳。世饒仏ともいう。
(1-387)
世間一切法に自在を得、世間を利益するに自在なる義である。法蔵菩薩、この仏の所〈みもと〉に於いて四十八願を超し給うたことは「無量寿経」に出でて居る。
 二。無量光明慧 阿弥陀如来のこと。第十二の光明無量の願の成就した徳相を挙げて呼び奉った名である。光明の体はもと智慧であるから、光明慧と慧の字を附け加えたのである。
 三。稽首 頭を地につけ礼拝すること。
 四。八道の船 正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八正道が能く行者を涅槃の岸へ運ぶが故に船に喩えていうのである。
 五。自在人 一切の法に自在を得た仏の義で阿弥陀仏を指していうのである。
 六。清浄人 阿弥陀如来はその浄土について器世間の清浄と、衆生世間の清浄との二種の清浄をそなえ給う方であるから清浄人というたものである。
 【文科】『十住毘婆娑論』の「易行品」の中、更に易行を明す中に弥陀の易行を説く文を引き給うのである。
 【講義】問うて曰く、証〈さと〉りを退くことのない身の上になるには、但この十仏の名号を聞いて固く心に執持〈たも〉つだけであるか、それともまた余の仏菩薩の御名によりて阿惟越致の位に至ることが出来るのであるか。答えて曰く、阿弥陀仏等の諸仏及び諸菩薩の御名を称え、一心に念ずれば、亦不退転の位に至ることが出来る。それであるから恭敬の念〈おも〉いを以て阿弥
(1-388)
陀仏等の諸仏の名号を称えよ。
 今具に無量寿仏を説くであろう。世自在王仏等の多くの諸仏世尊は現に十方の清浄なる世界に在して、自ら、阿弥陀仏の本願を称名し憶念して、また衆生に勧めてかように阿弥陀仏の本願を称名せよ、憶念せよと仰らるる。阿弥陀仏の宣給〈のたま〉うよう、もし人あって、我を信じ我名を称えて、自ら帰命すれば、即時に不退の位に入りて、後世にはかならず真証を開くであろう。弥陀如来が、既にかように仰せらるることであるから、常にその本願を憶念せよ。諸仏はかく御勧め下さる。我(龍樹)いま偈文を以て、かの阿弥陀仏を称讃〈ほめたたえ〉るであらう。
 限りなき光明〈みひかり〉の智慧、身は真金〈こがね〉の山と耀く。我いま身口意の凡〈すべ〉てをあげて、掌〈たなごころ〉を合せて稽首し礼し奉る。乃至
 人よく阿弥陀仏の量〈はか〉りなき威神力〈おおみちから〉、極みなき功徳を念〈おも〉いまつれば、即時に不退の位に入らん。故〈かるがゆえ〉に我は常に御名を称え奉る。乃至
 もし人、浄土の菩提心を起して、心に弥陀を念じ奉れば、時に応じて摂取の身を現わし給う。故に我は弥陀の本願力に帰命し奉る。十方の諸の菩薩も、この仏の御許〈みもと〉に詣でて
(1-389)
供養し奉り、説法を聞く、この故に我れ、おん前に稽首〈ぬかづ〉き奉る。乃至
 もし人、称名の善根を積みても、疑いに覆われてその本願の正意〈こころ〉を頂かざれば、かの浄土〈みくに〉に生れても、疑城の花に包まれて、おん顔を拝みえじ。明〈あきらかに〉に仏智を信ずる者は、正覚の花開いて、み仏に逢い奉る。
 十方の現在の数々の御仏は、様々の因縁によりて、阿弥陀仏の功徳(名号の謂〈いわ〉れ)を讃〈ほ〉め給う。我いまこの御仏に帰命し、礼し奉る。乃至
 かの阿弥陀仏は、八正道の船に乗じて、生死の海を渡り、自らもこの因行によりて正覚を開き、一切衆生をも度し給う。我れ自利利他円満の弥陀如来を礼し奉る。あらゆる諸仏が、無量劫の長い間に、弥陀の功徳を讃揚〈たたえ〉まつるも、尚おほめ尽し難し。我れいま清浄の御仏に帰命し奉る。
 我れいま諸仏のように亦弥陀如来の無量の功徳を称讃えまつりぬ。この福徳の因縁によりて、願〈こいねがわ〉くは仏常に我をみそなわし給え。
 【余義】一。この「易行品」の文もまた文点を改めて引用してあるのである。「この諸仏世尊、現に十方の清浄世界に在〈ましま〉して皆称名憶念せしむ。阿弥陀仏の本願もかくの如し」とあ
(1-390)
るのを、「この諸仏世尊現に十方の清浄世界に在して皆阿弥陀仏の本願を称名憶念することかくの如し」と改めてある。
 二。このことをいうには先ず「易行品」の大体からいわねばならぬ。親鸞聖人はいつも自分の信仰眼から経論を読み破り給うて、文相などには執着せず、直に文の意底に突入し給うのであるから、このことは常にあらかじめ心得て置かねばならぬことである。
 それで、「易行品」一部を七章と分つか、六章と分つかということが先ず問題である。七章というと、一に「十方十仏章」、二に「百七仏章」、三に「弥陀章」、四に「過末八仏章」、五に「東方八仏章」、六に「三世諸仏章」、七に「諸菩薩章」である。六章に分つのは「百七仏章」を「弥陀章」に籠めて仕舞うのである。
 成程「易行品」の文を一通り解釈する時には、七章に分って見る方がよいかも知れぬ。十方十仏章の終った後に、問うて曰くとして、更に「余仏余菩薩の名有〈ましま〉して阿惟越致に至ることを得とせんや」とあり、これに答えて阿弥陀仏等の百七仏のことを挙げてあるのであるから、茲に百七仏章があって、その中から更に次に阿弥陀章を別開したものと見る方が穏当である。
(1-391)
 それを親鸞聖人はその独特の信仰眼からみて、少し位の文相には執着せず、文点を改めて、直に龍樹菩薩の真意に触れんとせられるのである。これで百七仏の名を列ねてある処でも、「今当〈まさ〉に具に説くべし、無量寿仏、世自在王仏……宝相仏(これで百七仏)、この諸仏世尊、現に十方の清浄世界に在して皆称名憶念せしむ。阿弥陀仏の本願もかくの如し」とあるのを、親鸞聖人は文点を改めて「今当〈まさ〉に具に無量寿仏を説くべし、世自在王仏……宝相仏(これで百六仏)、この諸仏世尊現に十方の清浄世界に在して皆阿弥陀仏の本願を称名憶念することかくの如し」と読み給うたのである。こういう風に文点を改めて読めば、百七仏章の存在はなくなって、この処は世自在王仏から実相仏の百六仏が阿弥陀仏を讃歎し称名し憶念し給うことになって、全く「弥陀章」となるのである。
 三。この様に自由に親鸞聖人は自己の法眼を以て経典論釈を読破し給うので、これが聖人の聖人たる処である。然し、誰に依らず心を潜めて「易行品」を読めば、その文相の上にも朧気ながらこういう風に文点を改めねばならぬ気勢〈けはい〉がほのみえて居ることを否む訳には行かぬのである。
 第一に、百七仏章は、別章とすることの出来ないような書方になって居る。外の章には
(1-392)
みな偈讃があるのに、この章にはない。また称名憶念の四字で切って読むとしても、その上に応当等の助辞がなければならぬ咎であるのに、外の章には皆この助辞があって、茲にだけない、それで称名憶念せしむなどと読むには無理な点がある。要するに別章とするには不完全な章である。
 第二に「易行品」には、勿論弥陀の易行許〈ばか〉りではなく諸仏諸菩薩の易行が説き明かしてあるが、龍樹菩薩の真意を探ってみると、「易行品」一品弥陀の易行一法を明かすにあることがわかる。このことは前にも述べた通り同じい龍樹菩薩の作『十二礼』などから振りかえりみると一層はっきりするが、「易行品」の中だけでも、充分にそのように見られるようになって居る。古来このことについて、六種の点を挙げて居る。
 即ち、「易行品」には、諸仏の易行も、弥陀の易行も明してあるけれども、諸仏章と、弥陀章とを対照してみると、六異がある。
 (一)に偈讃の寛狭である。弥陀讃は寛く、諸仏讃は狭い。
 (二)に列名の総別である。諸仏章は総じて多仏を列ねてあるが、弥陀章は別して一仏を挙げてある。
(1-393)
 (三)に本願の有無である。弥陀章には称名入必定の本願が説いてあるが、諸仏章にはこの本願がない。
 (四)に利益の具欠である。弥陀章には不退と往生の二益が列ねてあるが、諸仏章には不退の益のみである。
 (五)に帰礼の具略である。諸仏章には但我今礼と簡単に説いてあるが、弥陀章には、我常念、我帰命、我今帰命礼等と丁寧に述べてある。
 (六)に称讃の能所である。称讃となると、いつも弥陀が所讃になり、諸仏が能讃になって居る、弥陀章には明かに「十方現在仏、彼の仏の功徳を嘆ず」とあって、諸仏章に、弥陀が諸仏を讃嘆することはない。
 これだけの明な相違があるとすると、龍樹菩薩の真意の那辺〈どのへん〉にあるかということは説明するまでもないことである。親鸞聖人はその信仰眼から、これらの差別ある個所を見て、文点を改めて御引用になつたのである。
 次に「阿弥陀仏の本願を称名憶念することかくの如し」というについて、文点に又二種ある。「阿弥陀仏の本願を称名憶念すること」と読んで置く時には、諸仏が弥陀の本願
(1-394)
の名号を称揚し、本願を憶念し給うことが表になって、諸仏既に称名し憶念し給う位であるから、衆生にも称名し憶念せしめ給うという義を裏に現して置くのである。次に、現流の四本、及び、蓮如上人の御延書の如く、「名を称し阿弥陀仏の本願を憶念すること」と読む時には、この上の義を割って、称名と憶念とは諸仏にも衆生にも通ずるけれども、称名は諸仏讃嘆の義がすぐれて居るから、上に属して諸仏の称名とし、憶念は、衆生の信心とする方が勝れて居るから、下に属して衆生の憶念とし給うのである。
 今一言、この憶念ということについて曰わねばならぬことがある。それは外ではないが、この憶念という語は信心相続の意味にも用いられ、また信心の換名〈かえな〉にも用いられてある。『唯信文意』の十右に「憶念というは信心まことなるひとは本願をつねにおもいいづるこころのたえずつねなるなり」とあるが、信心相続の意〈こころ〉であるし、『広本』信巻末(二右)に「憶念というは即ちこれ真実の一心なり」とあるが信心の換名〈かえな〉ということを示してあるのである。
 今この下では、両義を含むとみて差支ない。
(1-395)

第二科 浄土論の文

 浄土論曰我依修多羅真実功徳相説願偈総持与仏教相応観仏本願力遇無空過者能令速満足功徳大宝海

 【読方】浄土論にいわく、われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持をときて、仏教と相応せり。仏の本願力を観〈みそなわ〉すに遇〈もうお〉うて空〈むなし〉くすぐるものなし。能〈よく〉すみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。
 【字解】一。『浄土論』 一巻。『無量寿経優婆提舎願生偈』と題してある。『浄土往生論』とも『往生論』ともいう。天親菩薩の作にて、北魏の永安二年菩提流支これを訳出せられた。五言九十六句の偈を以て極楽浄土の二十九種の荘厳を讃詠して往生を願い、次に長行を以て、その意義を論述し、五念門の因に依りて五功徳門の果を得ることを説いてある。
 二。修多羅 梵音ストーラ(Sutra)、線という意味の語で、経と義訳して居る。前一九〇頁をみよ。
 三。真実功徳相 『銘文』(九左)に誓願の尊号なりと解釈してある。
 四。願偽総持 願偈は今天親菩薩の作り給う二十四行の願生偈のことである。偈は梵音ガートハ(Gatha)、頌と訳し、経論釈の中に、詩句を以て仏徳を讃誦し又は法理を簡単に述べたものをいう。総持は梵名陀経尼(Darani)の訳で、種々の義理を総べ収めて散失せしめない義を有し、今この二十四行の偈頌の中に広博の三経の文義を総べ収むるから総持というたものである。
(1-396)
 五。観 『一多証文』に観は願力をこころにうかべみるともうすと解してある。
 六。遇 『銘文』にマウアフというは本願力を信ずるなりと釈してある。
 七。功徳 『一多証文』に功徳ともうすは名号なりと釈してある。
 【文科】上に『十住毘婆娑論』を引き終ったから、これから天親菩薩の『浄土論』を引き給うのである。『浄土論』の中、今は偈頌である。
 【講義】天親菩薩の『浄土論』に曰く、我れ(天親)は浄土の三部経に説かれてある真実の功徳相、即ち弥陀の名号の謂れに依りて、本願偈という讃歌を作って、三経に説かれてある意義は悉くこれを総べ持ち、少しも違う所なく、他力の教を讃め嘆えた。阿弥陀如来の御本願を心に浮べみ、ひとたび御本願を信じたものは、決して再び生死に流転することなく必ず救済されるのである。大海のような広大な阿弥陀如来の名号の大功徳は、聞信の一念になみなみと信者の胸に湛えさせて下さるのである。

 又曰菩薩入四種門自利行成就応知菩薩出第五門回向利益他行成就応知菩薩如是修五門行自利利他速得成就阿耨多羅三藐三菩提故 抄出

(1-397)
 【読方】またいわく、菩薩は四種の門にいりて、自利の行成就したまえり。しるべし菩薩は第五門にいでて、回向利益他の行成就したまへり。しるべし菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他して、すみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することをえたまえるがゆえに 抄出
 【字解】一。四種の門 五念門の中、礼拝門、讃嘆門、作願門、観察門のこと。
 二。第五門 五念門の中、第五の回向門のこと。
 二。阿耨多羅三藐三菩提 上三三五頁をみよ。
 【文科】『浄土論』の文を引く中、今は長行を引き給うのである。
 【講義】又同論に曰く、弥陀の因位たる法蔵菩薩は、礼拝、讃嘆、作願、観察、回向の五念門の中、前の四種の門に於いて、あらゆる行という行を修めて、自ら仏になり給う所の功徳を成就〈ととの〉えられた。そしてこの自利の功徳は、そのまま衆生に与え給うものがらである。それ故に又菩薩は彼の一門たる回向門に於いて、前の四門で出来上った功徳を衆生に与える所の力を成就〈ととの〉えられた。かように五種の行を修めて、欠目〈かけめ〉なく自利々他の功徳を具え給い、速〈すみやか〉に無上正覚を御開きになった。法蔵菩薩の正覚の始め終りが、かように吾々を救いたいという大慈悲一つから起ったことであるから、その正覚の全体が六字の名号に封じ籠められて吾々に与えらるることとなるのである。
(1-398)
 【余義】一。茲に引用し給う『浄土論』の文は都合三文である。第一の「我依修多羅」の文は名号を讃嘆する文として引き、第二の「観仏本願力」の文は上の文に対してはその讃嘆せられる本願名号のいわれを示すものとして引き、次下の文に対しては所回向の名号を顕わすものとして引き給うのである。第三文の「又曰」からは、法蔵菩薩が因位に於いて万行を修め、これを悉く名号に収めて衆生に回向し給うことを示す文として引き給うのである。

 ┏第一文━━名号讃嘆の文━━━━━┓
 ┃    ┏所讃の名号を顕わす文━┛
 ┣第二文━┫
 ┃    ┗所回向の名号を顕わす文┓
 ┗第三文━━能回向の万行を示す真━┛

 二。第一文について、修多羅というは『浄土三部経』のことである。真実功徳相というは普通に解せば、『論註』の如く『三部経』の中に説かれてある三種荘厳であるが、これをおしせばめて依報荘厳を正報荘厳に、菩薩荘厳を仏荘厳に収めて、如来とすることもある。『論註』(六右)に「如来は即ち真実功徳相」とあるは彼の解釈である。それに今一つ名号を真実功徳相と解することもある。これは如来の功徳をすべて名号に収めて云うので『論註』の
(1-399)
初の経体釈に「無量寿仏の荘厳功徳を説き、即ち仏の名号を以て経の体となす」とあるは、この如来の功徳をすべて一名号に収めたすがたを示してあるので、『銘文』本(九丁)にはこれを受けて、「真実功徳相というは誓願の尊号なり」と釈し給うたのである。それで真実功徳相というに、三種荘厳、如来、名号という三種の解釈があるが、今茲に引用し給うたところでは、名号と解釈すべきである。願偈というは普通、願生偈と解さねばならぬのであるが、今は本願偈と解釈するがよい。依ってこの一文を解釈すれば、「釈迦如来が、『三部経』に於いて弥陀の本願名号を讃嘆し給うた如く、天親菩薩も、それに相応して、浄土真実の行、即ち、本願の名号の功徳を讃嘆するということになるのである。この意で、茲に引き給うたものである。それで『浄土論』一部の主意が仏の本願名号を讃嘆するにあるとすれば、今この引用した一文は能讃能説の辺に於いて一論を代表する文というべきである。
 次の一文は不虚作住持功徳の文であるからこれは上の文に対して、その所讃所説の名号を出し示し、同じく一論を該摂し代表する文である。観とは観知の義で信することである。『一念多念証文』には「観は願力をこころにうかべみるともうす、またしるというこころなり」とある。本願力とは弥陀如来の名号本願力である。総じては六八願、別しては第十
(1-400)
八願である。ひとたび本願を信ずるものが決して空しく過ぎずして、必ず往生を得るに定まるは信ずる一念に、名号の功徳が行者の身にみちみつるからである。功徳大宝海の功徳は、『一多証文』に「功徳と申すは名号なり」とある。それでこの一偈全体が名号の謂れを説いたものであることがわかるのである。
 第三の文は、前にもいう如く、法蔵菩薩が因位に於いて自利利他の行を修し給い、果上の南無阿弥陀仏の真実行を成就し給うたことを説く論文として引いたものである。この文に菩薩とあるは、三様に覗われる。第一は願生の行者である。これは『浄土論』の文の当相からみれば勿論願生の行者である。第二は還相回向の菩薩である。この文は「証巻」にも引いてあるが、其処〈そこ〉ではこの還相の菩薩ということになって居る。第三は法蔵菩薩である。『論註』の巻末から五念門の行を修する菩薩をみれば、因位の法蔵菩薩と見ねばならぬということは前二〇八頁にいうた通りである。同じい場所の菩薩という文字を、このように、三様に解釈することが出来るが、いま茲に、引用し給うた所では、菩薩というは、正しく法蔵菩薩のことである。法蔵菩薩は、五念門の行を修し、前四門に於いて、自利の行を成就し、第五回向門に於いて、その自ら修むる所の一善一行を、悉く衆生に回向して、大悲心を成就
(1-401)
したもうたのである。して見れば、五念門というは、畢竟、名号を成就して、これを衆生に回向し給うことをいうのである。それで前の第二文の所回向の名号を、この第三文に至って、能回向し給う様子が知れるのである。
 こういう訳で、この三文を合せ引いて、龍樹、天親両祖と相承する相を示し給うたのである。

第三項 師釈の一。支那師釈

 【大意】これまでに、経文を引いて大行を証成し、次に菩薩の論文を引いて大行を讃嘆し終ったから、これから、人師の釈文を引いて、引きつづいて大行を讃嘆なされるのである。この内この第三項に於いては、支那の人師の釈文を引き給うのである、この第三項が二つに分れて、初めは正依の師釈、曇鸞、道綽、善導、の三師の釈を引き、次に近くは善導を受け遠くは曇鸞以下を受けて私釈をしてその次に傍依の師釈、法照、憬興、張掄、慶文、元照、戒度、用欽、吉祥、法位、飛錫の十師の釈文を引き給うのである。それで、本項は十四科に分れて居る。

第一科 曇鸞大師の釈文

(1-402)

 論註曰謹案龍樹菩薩十住毘婆沙云菩薩求阿毘跋致有二種道一者難行道二者易行道難行道者謂於五濁之世無仏時求阿毘跋致為難此難乃有多途粗言五三以示義意一者外道相(修醤反)善乱菩薩法二者声聞自利障大慈悲三者無顧悪人破他勝徳四者顛倒善果能壊梵行五者唯是自力無他力持如斯等事触目皆是譬如陸路歩行則苦易行道者謂但以信仏因縁願生浄土乗仏願力便得往生彼清浄土仏力住持即入大乗正定之聚正定即是阿毘跋致譬如水路乗船則楽
 此無量寿経優婆提舎蓋上衍之極致不退之風航者也
 無量寿是安楽浄土如来別号釈迦牟尼仏在王舎城及舎衛国於大衆之中説無量寿仏荘厳功徳即以仏名号為経体後聖者婆薮槃頭菩薩服膺(一升反)如来大悲之教傍経作願生偈 已上

 【読方】論の註にいわく、龍樹菩薩の十住毘婆娑を案ずるに、いわく、菩薩、阿毘跋致をもとむるに二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり。難行道というは、いわく五濁の世、無仏のときにおいて阿毘跋致
(1-403)
をもとむるを難とす。この難にいまし多途〈おおくのみち〉あり。ほぼ五三をいいて、もて義のこころをしめさん。二には外道の相(修醤の反)善は菩薩の法をみだる。二には声聞は自利にして大慈悲を障う。三には無顧の悪人他の勝徳を破す。四には顛倒の善果よく梵行を壊す。五にはただこれ自力にして他力のたもつなし。斯〈かく〉のごときらの事、目にふるるにみなこれなり。たとえば陸路の歩行はすわはち苦きがごとし。易行道というは、いわくただ信仏の因縁をもて浄土に生ぜんと願ず。仏願力に乗じてすなわちかの清浄 の土に往生することをえしむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚にいれたまう。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば水路の乗船はすなわち楽〈たのし〉きがごとし。
 この無量寿経優婆提舎は、けだし上衍の極致不退の風航なるものなり。
 無量寿はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏王舎城およひ舎衛国にましくて、大衆のなかにして無量寿仏の荘厳功徳をときたまう。すなわち仏の名号をもて経の体とす。のちの聖者婆薮槃頭菩薩、如来大悲の教を服膺(一升の反}して、経にそえて願生の偈をつくれり。已上
 【字解】一。『論註』上下二巻。具には『浄土論註』という。曇鸞大師の作にて、『浄土論』を註釈した書である。上巻の終には八番問答を出し、下巻の終には、他利利他の深義を釈し、他力の奥旨を闡明した書である。註釈書とはいうても、実は、曇鸞大師の信念を告白したものである。
 二。龍樹 梵名那伽樹那(Nagarjuna)の訳。また龍猛ともいうて居る。紀元二世紀、即ち仏滅七百年に南印度に生れ、出家して迦毘摩羅に従うて小乗の三蔵を学び、後、雪山地方に入りて一老比丘より大乗経典
(1-404)
を授〈さずか〉りて、大乗を宣揚し、龍宮に入りて『華厳経』を伝えた人である。世に八宗の祖師といわれる程、広博な智弁を以て仏教を宣伝せられたが、異教者のために嫉視を受けて殉教の血を流して大往生されたらしい。その晩年に他力教に帰し、『易行品』、『十二礼』等の著を以て弥陀の弘願他力を宣べられた。
 三。『十住毘婆娑』 上三四四頁を見よ。
 四。阿毘跋致 上三〇一頁の不退に同じ。
 五。五濁 (一)劫濁、病気や戦争など種々の災の濁が溢れる時代をいう。(二)見濁、邪見盛に思想の濁ること、(三)煩悩濁、三毒の煩悩が暴れ狂うて衆生の心を悩ますことの盛なこと、(四)衆生濁、衆生道を畏れず徳を修めず、種々の濁が衆生の心身の上にあること、(五)命濁、煩悩盛に邪見強く、時代が濁って来て人に中禾〈わかじに〉のものが多いこと、即ち命の濁ること。この五をいうのである。
 六。外道の相善 外道は内道に対する語にて婆羅門等の外教のことである。相善は有相の善ということにて、有漏の善、即ち煩悩の交〈まじ〉って居る善ということである。何故に有漏の善を有相の善というかというに、相はすがたのあることにて、凡夫外道の善は常に角がありて、ぎつぎつとさしさわりがあるから有相の善というのである。
 七。菩薩の法 菩薩の修行。
 八。無顧の悪人 あとさきみずの悪人。
 九。梵行 清浄の行。
(1-405)
 一〇。正定之聚 まさしく仏になるにさだめられたともがらのことである。この位には現生に於いていたらして貰うのである。
 一一。『無量寿経優婆提叉』 上三九五頁の『浄土論』のこと。
 一二。上衍  版本には衎の字になって居るが、衎の字は誤りである。御草本は衍の字になって居る。衍は梵音ヤーナ(Yana)の音写で乗と訳する。上衍は上乗で、大乗に同じい。
 一三。不退之風航 風航は御左訓にホカケブネとあり、順風に帆を上げた舟のことである。それで不退の位にいたるホカケブネということである。
 一四。王舎城 梵音羅闍嬉利呬(Raja-grha)の訳。中印度摩掲陀国の都城、紀元前六世紀、頻婆娑羅王これを築き、釈尊の御一生に最も多く居住し伝道し給うた所であった。今のラージュギル(Rajgir)の地である。
 一五。舎衛城 梵音室羅筐悉底(Sravasti)、聞者城、聞物城などと訳する。中印度拘薩羅国の都城であって、今のウード(Uodu)の地である、釈尊在世の時には波新匿王〈ハシノクオウ〉が住んで居られた。祗園精舎はこの城外にあった。
 一六。婆薮槃頭 梵音ワスワンドフ(Vasuvandhu)、新訳では世親といい、旧訳では天親という。紀元三世紀、即ち仏滅九百年に、北天竺健陀羅国に出世した。父を憍尸迦といい、兄を無著、弟を師子覚というた。初め小乗を信じ、盛に述作して大乗を謗られたが、後無著の誘化に依りて大乗に入り、大にこれを讃説せられた。述作が頗る多いので、千部の論主と称〈とな〉えて居る。菩薩の晩年の信仰は他力教であって、『浄土論』はその信
(1-406)
仰の告白書である。
 【文科】『浄土論註』を引く中、今は発端の文を引き船うのである。
 【講義】曇鸞大師の『浄土論註』に曰く、謹んで龍樹菩薩の御作りになった『十住毘婆娑論』を繙いて見るに、かように云ってある。「菩薩が不退の位に入ろうとするに、二種の道がある。一には難行道、二には易行道である。」
 さてこの難行道というのは、自分の力でやって行こうというのであるが、み仏の出世し給わぬこの衰え果てた末代五濁の世に生れて、不退の位を求めることは非常に困難なことである。その修道を妨げるものは非常に数多いが、いま略してその中の三五を挙げて、その困難の意義〈わけがら〉を示すであろう。第一には外教外道に説く所の有漏善〈けがれのあるぜん〉が、正しい菩薩の修行を乱す恐れがある。即ち正道を踏んで居る菩薩が知らず知らずの内に外道の邪行にまぎれ落ちるようなことがある。第二に声聞の修める自利一方の小な教が、大慈悲の教を障げる。即ち大慈悲心を持って居る人が、手っ取り早く小さな結果で満足する利己的なものをみて、それにかぶれ落つる恐れがある。第三には後前〈あとさき〉見ずの悪人が、他の道を修める人の勝れた徳を傷けようとすることがある。第四には、天上界へ生れるというような、僅かな福
(1-407)
徳を求める思想〈かんがえ〉が、真の修行を壊〈やぶ〉ることがある。第五には、このような勝縁なき悪世界のことであるから、ただもう修道者の自力一方にして、それに力を添える他力というものがない。これらの困難は近く吾々の目前に横〈よこたわ〉っている事柄で、少しも疑いを挟〈さしはさむ〉む余地がないのである。こういう具合であるから自分の力でやって行こうとする難行道は譬えば陸路を歩行でゆくようなもので誠に困難至極なことである。
 易行道というのは、如来の本願を信ずる因縁〈こと〉によりて、浄土に生れたいと願えば、仏の願力によりて彼の清浄なる極楽へ往生することが出来、現在只今から摂取不捨の仏力他力にて、大乗の正定の聚に入ることが出来る教である。今茲に正定というはすなわち不退の位のことである。易行道というはこういう具合であるから譬えば水路を船に乗ってゆけば、楽しいようなもので楽々と彼の岸に利りつくことの出来る教道〈みち〉である。
 この天親菩薩の作たる『無量寿経優婆提舎』は誠に大乗教中の至極の教である。そしてこれを信ずる時は、直に不退の位に入ることが出来るから、云わば他力の順風に帆を挙げて、頓に生死の海を渡る大船ともいうべきである。大乗教も種々〈いろいろ〉に分れて、各至極の教と称〈とな〉えるけれども、実際になると、何も迂路〈まわりみち〉を辿ることを説くに過ぎないが、信の一念に不退の
(1-408)
位に入るこの教こそ、大乗の至極、円頓の頂上と云わねばならぬ。
 『無量寿優婆提舎』の無量寿というのは、西方の安楽浄土の主にてまします阿弥陀如来の別名である。大聖釈尊は、摩竭陀国の王舎城に於いて大衆に対〈むか〉わせられ『大無量寿経』と『観無量寿経』を御説きになり、又北の方憍薩羅国の舎衛城に於いて、『阿弥陀経』を御説きになり、この無量寿仏の御自身の荘厳功徳と侍し奉る菩薩方の荘厳功徳、及びその楽土の美わしい荘厳功徳を細々〈こまごま〉と御説き下された。即ちこれらの荘厳功徳の全体が、如来の御名に摂められてあるから、三経の結帰する所はこの御名より外はないのである。その後数百年にして天親菩薩が御出世になって、この如来の大慈悲の教たる三部経の教に服膺〈したが〉いて、この願生偈を御作りになった。これが実に影の形に傍〈そ〉うが如く三部経と並びて浄土他力教の重要なる宝典たる『浄土論』である。
 【余義】一。ここに余義を述ぶる前に一言せねばならぬことがある。それは我が祖が経論釈の文を引き給うについて、経言、論曰、釈云と言曰云の使いわけを厳重になされて居ることである。この文字の使いわけは本典六軸中、厳重に守られて居る。
 ただ茲に『論註』曰と曰の字が使うてある。聖人の文字の使い様からいえば、『論註』は人
(1-409)
師の釈であるから、勿論云の字を用い給わねばならぬ筈であるが、今茲に曰の字が使うてある。これは例外と見ねばならぬのであろうか。また聖人に特別の御思召があるのであろうか。
(1-410)
 二。扨て茲にこれから長々と、『論註』の文が引かれてあるが、これを左の四段の文に分けて、その御引用の御思召を見た方がよいと思われる。

 第一は、二道判の文       論註曰以下━━━━━━━┓
 第二は、一論の分斉を判ずる文  此無量寿経優婆提叉以下━╋四〇二頁の引文
 第三は、経体釈の文       無量寿是安楽以下━━━━┛
 第四は、所願不軽以下の文    次の引文以下

 第一、二道判の文の御引用に次の三様の御思召があるように伺われる。
 (一)念仏の易行が、龍樹天親曇鸞の三祖の相承し給うたものであることを示すのである。何故なれば『論註』はもと、『浄土論』を註解する書であるから、初めから、天親菩薩の御言葉を引いて、講釈して善さそうなものを、その註書の先最初に、「謹按龍樹菩薩十住毘婆娑論(謹みて龍樹菩薩の十住毘婆娑論を按ずるに)」として、龍樹菩薩の二道判を引いてある。これは鸞師の御意では、この念仏が、龍樹菩薩、天親菩薩と二祖相承して来たものであるということを示し給うのである。親鸞聖人、今、また、その文を引き来って、念仏の易行は龍樹、天親、曇鸞と相承して、代々懇ろに進め給うたもので、私の今案ではないということを示し給うのである。
(1-411)
 (二)聖道門、浄土門という二門の教判の起る基〈もとい〉を知らしめようとなさるのである。この聖道門、浄土門の判釈は、道綽禅師が、初めてなされたもので、親鸞聖人も常にこれを用い給うのであるが、その判釈の基礎となるものは、この難行道易行道の二道の判釈であって、聖道門は、自力難行道に当り、浄土門は、他力易行道であるということを示さんためである。
 (三)念仏真実行は、いかにも易行易修であるということを示さんためである。難行道は、これを行ずるに五つの難があって修し難いが、念仏真実行には、この難がなく、、まことに修し易いものであるということを示すのである。
 第二、一論の分斉を判ずる文は、念仏の真実行は、大乗の中にでも一乗教、一乗教の中にても、易行不退の教であるということを顕わすのである。上衍の語は、字解にもある通り、大乗という語であるから、先ず小乗を選び捨て、極致の語は、その大乗の中の至極ということであるから、大乗教の中でも、一乗教であるということを示し、不退の風航の語を以て、一乗教の中でも、自力難行の一乗教ではなく、易行不退の一乗教であることを示すのである。風航は、追風〈おいて〉に帆を上げて航海する船の意味であるから、水道の乗船は、即
 このことを考えてみると、聖人には茲に『論註』に曰の字を用い給わねばならぬ理由があるのである。それはどういうことかというと、『浄土論』という書は、『浄土論註』に依って初めて正意を顕開されるので、『論註』は『浄土論』と同一の書というても差支ない程である。殊に、絶対他力教を最も実際的に極説したのはこの『論註』であって、我が祖は非常にその書を重んじ給うたのである。それで『論註』に書いてある意味を顕わす時に、論曰と、直に『浄土論』の文の如く引き給うてある所が、『御本書』にも『御和讃』にもある。七高祖の第四祖道綽禅師の如きも、『浄土論』に拠るに云々というて、『浄土論註』の文意を引き給うてあるのである。我が祖聖人はかくの如く『論註』を重んじ給うが、その著者をも亦非常に重んじ給うので、一例を挙ぐれば、『愚禿鈔』下には、『曇鸞菩薩の論』には入正定之聚と曰えりと宣うてある。かく人をば菩薩といい、書をば論と尊び給うものであるから、今また、茲に、曰の字を使い給うたのである。
(1-412)
ち楽しくというのと、同じく易行道を顕わす語である。
 因〈ちなみ〉にいうが、従来の『教行信証』の版本では、茲の上衍の衍の字が衎の字になって居って、その衎の字の下に口且反楽也の割註がある。この衎の字の誤りであることは誰がみても明かなことであって、従ってか口且反楽也の割註の茲にあるべき筈のものでないことも一日瞭然であるが、どうしてこういう間違が起ったかというと、坂東の御草本に依ってみると、本文では上衍の極致となって居って、その頭書に、衎字口且反楽也とある、その頭書を誤って本文の中に書き入れて衍の字までも誤り写すようになったのである。聖人の頭書の意味は、衍と衎とまぎれ易い字であるから、衎の字は口且の反楽也で衍の字とは違ふぞということを注意せられたのである。その御注意が後世却って誤りの本となって、今の版本にはすべて衎口且反楽也となるようになったのである。この誤りは明瞭であるから今は除き去ったのである。
 第三、経体釈の文は、『三部経』広しと雖も、『三部経』の経体はといえば、南無阿弥陀仏の一名号である。釈迦如来出世の本懐として、この名号を讃嘆し給い、天親菩薩もまた釈迦如来に倣〈なろ〉うて『浄土論』を作って名号を讃嘆せられた。これに依ってみれば経論釈そ
(1-413)
の数は多いけれども、約〈つづ〉むる所、すべて名号を讃嘆するにあるということを示し給うのである。
 第四、所願不軽の文は、三段に分れて、初めから「釈第一行三念門竟(第一行三念門を釈し竟りぬ)」までは、所讃の名号の謂〈いわれ〉を述べ、「我依修多羅」から「譬如函蓋相称也 乃至」までは、その名号を讃嘆する所以を述べ、「云何回向」するから終りまでは、この名号は、弥陀の御回向の法であるということを示すのである。
 これだけの御引用の御覚召のあることを知って、拝読すれば、その義理も自〈おのずか〉ら通ずるのである。 (1-414)

 又云所願不軽若如来不加威神将何以達乞加神力所以仰告我一心者天親菩薩自督(冬毒反、勧也、率也、正也、俗作督之詞言念無碍光如来願生安楽心心相続無他想問雑 乃至 帰命尽十方無碍光如来者帰命即是礼拝門尽十方無碍光如来即是讃嘆門何以知帰命是礼拝龍樹菩薩造阿弥陀如来讃中或言稽首礼或言我帰命或
或言帰命礼此論長行中亦言修五念門五念門中礼拝是一天親菩薩既願往生豈容不礼故知帰命即是礼拝然礼拝但是恭敬不必帰命帰命必是礼拝若以此推帰命為重偈申己心宜言帰命(眉病反、使也、教也、道也、信也、計也、召也)論解偈義汎談礼拝彼此相成於義弥顕何以知尽十方無碍光如来是讃嘆門下長行中言云何讃嘆謂称(虚陵反、知軽重也、説文曰銓也、是也、等也、俗作秤云正斤両、昌孕反、昌陵反)彼如来名如彼如来光明智相如彼名義欲如実修行相応故 乃至 天親今言尽十方無碍光如来即是依彼如来名如彼如来光明智相讃嘆故知此句是讃嘆門願生安楽国者此一句是作願門天親菩薩帰命之意也 乃至 問曰大乗経論中処処説衆生畢竟無生如虚空云何天親菩薩言願生邪答曰説衆生無生如虚空有二種一者如凡夫所謂実衆生如凡夫所見実生死此所見事畢竟無所有如亀毛如虚空二者謂諸法因縁生故即是不生無所有如虚空天親菩薩所願生者是因縁義因縁義故仮名生非如凡夫謂有実衆生実生死也問曰
(1-415)
依何義説往生答曰於此間仮名人中修五念門前念与後念作因穢土仮名人浄土仮名人不得決定一不得決定異前心後心亦如是何以故若一則無因果若異則非相続是義観一異門論中委曲釈第一行三念門竟 乃至

 【読方】またいわく、また所願かろからず。もし如来威神を加えたまわずは、まさに何をもてか達せん。神力を乞加す。このゆえに仰いで告げたまえり。我一心というは、天親菩薩の自督(冬毒の反、勧なり、率なり、正なり、俗に督につくる)のことばなり。いうこころは、無碍光如来を念じて安楽に生ぜんと願ず、心心相続して他想間雑することなし。乃至 帰命尽十方無碍光如来は、帰命はすなわちこれ礼拝門なり。尽十方無碍光如来はすなわちこれ讃嘆門なり。なにをもてかしる。帰命はこれ礼拝なりとは、龍樹菩薩、阿弥陀如来の讃をつくるなかに、あるいは稽首礼といい、あるいは我帰」といい、あるいは帰命礼といえり。この論の長行のなかに、また五念門を修すといえり。五念門のなかに礼拝はこれひとつなり。天親菩薩すでに往生を願ず。あに礼せざるべけんや。故〈かるがゆえ〉にしんぬ、帰命はすなわちこれ礼拝なりと。しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、かならずしも帰命ならず。帰命はこれ礼拝なり。もしこれをもて推するに、帰命を重〈おも〉とす。偈は己心をのぶ、よろしく帰命(眉病の反、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり)というべし。論に偈義を解するに、ひろく礼拝を談ず。彼此あい成ず、義においていよいよあらわれたり。なにを以てか知る、尽十方無碍
(1-416)
光如来はこれ讃嘆門なりとは、しもの長行のなかにいわく、いかんが讃嘆する。いわくかの如来の名〈みな〉を称(虚陵の反、軽重を知るなり。『説文』に曰わく、銓なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、いわく斤両を正すなり、昌孕の反、昌陵の反)するなり。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんとおもうがゆえに。乃至 天親いま尽十方無碍光如来とのたまえり。すなわちこれかの如来の名〈みな〉によりてかの如来の光明智相のごとく讃嘆す。かるがゆえにしんぬ、この句はこれ讃嘆門なりと。願生安楽国というは、この一句はこれ作願門なり。天親菩薩帰命のこころなり。乃至 問うていわく大乗経論のなかに、処処に衆生畢竟無生にして虚空のごとしと説けり。いかんぞ天親菩薩願生とのたまうや。こたえていわく、衆生無生にして虚空のごとしととくに、二種あり。一には凡夫のおもうところの実の衆生のごとき、凡夫の所見の実の生死のごときこの所見の事、畢竟して所有なし。亀毛のごとく、虚空のごとし。二にはいわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして所有なきこと虚空のごとし。天親菩薩願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生となづく。凡夫の実の衆生、実の生死ありとおもうがごときにはあらざるなり。問ていわく、なんの義によりて往生ととくぞや。こたえていわく、このあいだの仮名人のなかにおいて五念門を修せしむ。前念は後念のために因となる。穢土の仮名人、浄土の仮名人決定して一なるをえず、決定して異なるをえず。前心後心なたかくの如し。何をもてのゆえに、もし一ならばすなわち因果なけん。もし異ならばすなわち相続にあらず。この義一異を観ずる門なり。論のなかに委曲なり。第一行の三念門を釈しおわんぬ。
(1-417)
 【字解】一。神力 威神力、おおみちから。
 二。自督 自らすすめ、自らひきたて、自ら正すこと。自己の領解のこと。
 二。阿弥陀如来讃 『易行品』の弥陀章の讃文のことである。
 四。稽首礼 首を地につけて礼拝すること。
 五。長行 字数に関せず、長短随意に、法相義理を説き示したる散文のこと。こういう散文を偈頌に対して長行というのである。
 六。五念門 礼拝門、讃嘆門、作願門、観察門、回向門の称。阿弥陀仏を念じて浄土へ往生する行因を五門に開いたものである。『浄土論』に出て居る。
 七。天親菩薩 上四〇五頁みよ。
 八。光明智相 光明の体は智慧で、智慧のすがたは光明である。
 九。大乗 梵語摩訶衍那(Mahayana)の訳。小乗に対し、大人〈だいにん〉の所乗という義で、菩薩の大機が、仏果の大涅槃を得る法門をいうのである。
 一〇。因縁生 事物が本来実有のものでなく、みな因と縁とで結び合されて仮りに生じて居ることをいう。
 一一。仮名人 衆生のこと。衆生は五蘊の仮に和合して、出来たものであるから、人と名くべき実体がない。仮和合所成のものを仮に人と名づくるのである。
 一二。論 『中論』、『百論』、『十二門論』、『智度論』等のことである。曇鸞大師は空宗の人であるから、論
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と宣えば、これらの空宗の所依とする論を指し給うのである。
 一三。三念門 第三念門の意味ではなく、五念門の中、前三門、礼拝門、讃嘆門、作願門のことである。
 【文科】『浄土論註』の中、三念門を釈する文を引き給うのである。
 【講義】又曰く、仏意に相応〈かの〉うた論文を造るという願いは、並大抵のことではない。もし大悲の如来が威神〈おおみちから〉を垂れ給うことがなかったならば、どうしてこの願いを遂げることが出来ようぞ。それで威神力〈みちから〉を加え給うことを御願い申すために、「世尊」、と申し上げられたのである。
 「我一心」と仰せられたのは、天親菩薩が御自分の了解を述べさせられた詞〈ことば〉である。(督の音は、冬毒の反にてトクである。勧〈すすめ〉る、率〈ひきい〉る、正す、等の訓がある。俗に督の字に作って居る。それで自督というは自ら勧め、自ら引き立て、自ら正して行くこころで自分の領解である)。即ち渟〈すなお〉に、二心なく無碍光如来を信じて、その勅命〈おおせ〉の如く安楽国に往生せんと願い、このおもい念々に相続して、他の想〈おもい〉の間雑〈まじら〉ぬことである。これが天親菩薩の信念の内容である。
 「帰命尽十方無碍光如来」というのは、「帰命」はかの五念門の中の初めの礼拝門である。
(1-419)
そして「尽十方無碍光如来」は第二の讃嘆門である。帰命に礼拝の意味があるということをどうして知るかと云えば、龍樹菩薩の「易行品」に於いて阿弥陀如来の讃文を作られた中に、「稽首〈ぬかずき〉て礼し奉る」とか、或いは「我帰命し奉る」とか、または「帰命礼し奉る」と仰せられてある。そしてまた天親菩薩はこの『浄土論』の長行の中にも、五念門を修めるということが出て居〈いる〉が、礼拝はその五念門中の第一門である。この論を作られた天親菩薩は、既に弥陀の浄土へ往生したいと願うておられることから見れば、同じく願生浄土の先輩であった龍樹菩薩と等しく、阿弥陀如来を礼拝されたことは疑うべからざるものと云わねばならぬ。してみれば帰命の中にはどうしても礼拝がある訳である。然るにこの礼拝というものは、但〈ただ〉恭敬を形式に顕わしたものであるから、精神上の帰命と全く同じであるとは云われぬ。帰命には礼拝を含むけれども、礼拝は必ずしも帰命とは云われぬ。これから考えて見ると、帰命は礼拝よりも深い意味がある。それ故に礼拝よりも重いと云わねばならぬ。この『願生偈』は天親菩薩御自身の信念を述べられたものであるから、茲には特に深い意味のある帰命という文字を須いられたことである。(命の音は眉病の反でミョウである。これには使〈せしむる〉、教、道、信〈おとずれ〉、計〈はからい〉、召〈めす〉の訓がある。みな他力の意味を表わしている。使〈せしむる〉は弥陀
(1-420)
が吾々衆生をして、念ぜしめ、往生せしめる意、教は弥陀の教命〈おおせ〉、道は本願の大道、信〈おとずれ〉は音信〈おとずれ〉にて弥陀より吾々におとずれ給うこと、計〈はからい〉は仰せに従わぬ吾々を様々に方便をめぐらして従わしめ給うこと、召〈めす〉は弥陀の呼声である。かような他力の仰せに帰するが帰命の意味である)。それでこの『論』の長行に偈文の意味を解釈するに当って、汎〈ひろ〉く礼拝ということを申されてあるのは、礼拝は前にいう通り帰命の中に含まれてあるからのことで、偈の「帰命」と、長行の「礼拝」とが彼此相応じて、その御思召を弥〈いよいよ〉明〈あきらか〉にして居るのである。
 次に「尽十方無碍光如来」がどうして五念門中の第二讃嘆門であるということが知れるかというに、偈の次下の長行の中に「讃嘆とはどういうことかと云えば、彼の阿弥陀仏の名号を称〈とな〉(この字の音は処陵の反ショウである。軽重〈おもさ〉を知ること、「説文」には銓、是、等、といい、俗に秤〈はかり〉に作り、斤両を正すことをいうので、こういう意味が称の字の中にあるのである)え、その如来の摂取不捨の智慧光に叶い、御名の意義通り、法の実義通りに、この他力の道を行じたいと欲〈おも〉う故に」と仰せられてある。
 かように天親菩薩の讃嘆という御思召は、徒〈いたずら〉に空〈あだ〉なる文字を、羅列〈ならべた〉てて讃めるというのではなくして、その科名の御謂〈いわ〉れ通りに信じた上で、尽十方無碍光如来と仰せられたので
(1-421)
ある。弥陀如来の光明には、吾々の暗い胸の中の暗〈や〉みを破り、志願を満して下さる徳があるから、その通り自ら親しく信じ味わわれたから、十方の世界を尽して何物にも碍えらるる所なく、智慧の光明を以て照して下さる如来にていらせらるると讃嘆されたことである。それ故にこの尽十方等の一句が五念門中の第二の讃嘆門に当るというのである。次の「願生安楽国」の一句は五念門中の第三作願門である。天親菩薩が信決定の上から、極楽へ往生したいと願生の意を起されたものである。
 問うて曰く、大乗の経典や論部の処々に、衆生と云えば何か実の体があって生死するように思うけれども、そうではない。畢竟〈つづまる〉ところ空にして無一物、即ち不生不滅にして虚空のようなものであると説いてある。然るにいま天親菩薩は、どうしで、これらの経論の説を顧みずして極楽へ生ぜんと願われたのであるか。
 答えて曰く、衆生が空無生にして虚空のようであるということに就いては二種の意義がある。一つは迷いの凡夫の見解を指すので迷の凡夫は衆生には実の体がある、実の生死があるなどと思うているが、凡夫等が思うている実の凡夫、実の生死などというものは丁度夢のようなもの、亀毛兎角のようなもので、そらごとであるということ。二つには一切諸
(1-422)
法〈すべてのものがら〉は因縁和合によりて生じたものであるから、亀毛兎角のやうな空なものではない。それかというて別に実体はないのであるから、常住不変のものでもない、即ちこれぞといふ確固たる握へ所がない方面から云えば、虚空のようであると云わねばならぬ。一言にして云えば因縁生のものは不断不常である。今天親菩薩の願生と仰せられたのは、この第二義の因縁生の意味である。因縁和合の道理に依るものであるから仮に生というたのである。迷いの凡夫が考えているような実の生死を執ずる常見の意味ではない。
 更に問うて曰く、仏教の真実の見解に従えば、去〈ゆ〉くの来〈きた〉るのと思うは大変な迷いと云わねばならぬ。然るにいま天親菩薩は何れの義理に依って往生といわれるのであるか。
 答えて曰く、今この浄土門の平生の修道に就いて質問に答えれば、先にもいったように、この世に五蘊和合の身を以っている行者が――常住の実体がないから仮名というが――礼拝、讃嘆等の五念門を修めるに当って、前念は後念のための因となって、相続してゆく。次に臨終に就いて云えば、今命終らんとする仮名の行者と、一念の後に浄土に往生する仮名の菩薩と、望み合わせて考えて見ると、決定と同一とは云われぬ。といって亦決定〈きっぱり〉と違っているとも云われぬ。前に述べた平生の前心後念の因果関係に就いてもそうである。矢
(1-423)
張〈やは〉り一とも云われず、異とも云われぬ。何故かと云えば、もし前心後心、この世の人、浄土の人が一であると云えば、因果ということは成立〈なりたた〉ぬ。もしこれらが全く異ったものとすれば、相続する筈がない。然るに実際の処は相続している。因果法は成立〈なれいたっ〉ている。それで天親菩薩が往生といわれるのは不去不来不一不異の道理に外れずに曰われるのである。こういう具合であるから、浄土往生ということは、決して仏教の実義には外れて居らないのである。この一異のことに関しては『中論』等の中に委細〈つぶさ〉に説かれて居る。以上これで、偈の第一行の礼拝、讃嘆、作願の三念門を解釈し竟ったのである。
 【余義】一。この我一心の一心について、西山、鎮西、浄土真宗の三家に於いて解釈がみな違うて居る。西山流にては、安心の一心と、起行の一心という名目をたてて、この一心は、起行の一心であると説明して居る。起行というは、信後に浄土住生の三心を以て、五念門や、五種の正行を修することである。その五念門や、五種の正行を修するに、多想を雑えず、一心になって修するを起行の一心というのである。
 又、鎮西流にては、安心の一心と、作業の一心という名目を作って、この一心を作業の一心と説明して居る。作業というは、行業をなすという意味で、茲では、前の起行と同じ
(1-424)
い意味に使われて居るのである。
 今、浄土真宗に於いては、一心といえば、必ず安心の一心をいうので、起行の一心とか作業の一心とかいう名目さえ立てないのである。何故に、西山流や、鎮西流では、この一心を、起行の一心、作業の一心とするかというに、『論註』に於いて、この一心を釈して、「心々相続して、他想間雑なし」というてある。このように、心々相続というからは、一念端的の信心をいうのでないことは定って居る。後念に於いて、平生相続をして、起行作業をつとむるときに、その修する行に、思〈おもい〉をとどめ、心に掛けて、どうぞ、この行に依って、往生したいものであると守りつめる一心であるから、これはどうしても、起行の一心、作業の一心でなければならないと解釈するのである。けれども、浄土真宗からいうと、こういう解釈は、もとより誤りであって、元来一心というのに、起行の一心とか、作業の一心とかいうことがないのである。一心といえば、必ず安心の一心であるというのである。然らば、「心々相続して他想間雑なし」と釈したは、どういうことかというと、これは初一念端的の一心が、いつまでも相続して、余仏余菩薩に心をかけず、余念を雑えず、弥陀一仏と思ひつづくることをいうのである。即ち、一心の一は専一の義で終始阿弥陀如来なら
(1-425)
ではと思う心である。「信巻」末に「専心というは即ちこれ一心也」とあるのがこの解釈である。又この心々相続という文の前の「無碍光如来を念じて安楽に生れんと願う」というも一心の解釈であって、これは無二の義から釈したものである。唯〈ただ〉無碍光如来だけを念じて往生を願うので無二の心である。「化巻」に「一之言は無二に名づくるの言なり」とあるのがこの解釈である。かくの如く、浄土真宗に於いては、一心を無二と専一の両〈ふた〉つの義を以て解釈して飽くまで、安心の一心を主張するのである。
 こういう具合で、一心には無二の義と専一の義がある。専一の義は時間的に、常に弥陀一仏と思いつづくる心であり。無二の義は、空間的に、ひとえに、弥陀一仏をあつく信ずる心である。それで、これを『論註』下巻に出づる三不信の反対である三心、即ち淳心、一心、相続心にあてはめてみると、よくその趣きがわかる。淳心は弥陀如来をあつく信ずる心で、所謂無二心である。相続心は、常に弥陀一仏と思いつづくる心で、専一心である。この両〈ふた〉つの心を一心を以てつかねて居るすがたである。

    ┏無二━━淳心
 一心━┫
    ┗専一━━相続心

(1-426)
 尚この一心のことについては、いうべきことは沢山にあるが、それは、「信巻」の三一問答の下で見て貰いたい。
 二。帰命の梵語は、南無(Namah)である。南無(Namah)の語は、ナム(Nam)即ち礼するという語原に、アス(As)という接尾語がついて、出来たものである。それであるから、南無という語には、元来礼拝という語義も含まれて居るのである。然し、南無という出来上った語は、どちらかというと、帰敬するとか、帰投するとか、帰命するとかいう意味で、意業を顕わす語である。礼拝という語は、その字面を示す通り、身業に属する語である。それで今、意〈こころ〉の中〈うち〉で帰命するならば、身業に、礼拝の顕わるることは、きまり切ったことであるが、身業だけの礼拝ならば、帰命の意業の添わないこともあるから、帰命と礼拝には、自〈おのずか〉ら寛狭があるというのである。帰命のことは下の字訓釈の所で委しく出て来るから四九三頁を参照して貰いたい。
 なお命の字の下の字訓は、我が親鸞聖人が自ら、附け加え給うたのである。前にもいい、又校合の章にも顕われて居る通り、『御本書』の本文には附けてないので頭首に記してあるのであるが、それが、後人に依って、本文に書き込まれたものである。督の字の字訓も、
(1-427)
称の字の下の字訓も、みなその通りである。
 この命の字の字訓も下四九九頁に出て来るから、更に参照せられたい。
 三。称の字の本訓は「言也呼也」でとなえるということである。これは古来定って居ることである。処が、今茲に称の字の音訓が出してあるが、これははかるという訓で、称の字の転訓である。本訓は誰も知って居ることであるから、今は出さずに、転訓を出して、はかるという義にも見よ上いう聖人の御指南である。
 然らば、はかるという義にみるとはどういうことかというと、善導大師も、上尽一形、下至十声一声と宣うて、念仏を称える度数に如何程〈いかほど〉称えねばならぬといふ制限はないけれども、命のあらんかぎりは、報謝の念仏として、命いっぱいに称えねばならぬということを示して下されたものである。尚語をかえて言えば、命のあらん限り、命いっぱいに計りきって称えよということである。『一多証文』にこの二義を並べて出してある。
  称は御なをとなうるとなり、また称ははかりというこころなり、はかりというは、もののほどをさだむることなり、名号を称すること、ひとこえ、ひとこえ、きくひと、うたがうこころ一念もなければ、実報土へうまるともうすこころなり。
(1-428)
 四。この転訓の処に現行本には写誤がある。現行本にほ
  処陵反、知軽重也、説文曰銓也是也等也、俗作秤云正力雨也(処陵の反、軽重を知るなり、説文に曰わく、銓なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、云わく、力雨を正すなり)
とある。御草稿御真本には明に、
  処陵反、知軽重也、説文曰詮也是也等也、俗作秤云正斤両也、昌孕反昌陵反(処陵の反、軽重を知るなり、説文に曰わく、銓〈はかり〉なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、云わく、斤両を正すなり、昌孕の反、昌陵の反)
とある。即ち銓〈せん〉は詮〈はかり〉の誤り、力雨は斤両の誤りである。校合の草を見て貰いたい。
 これを『広韻』についてみると。
  処陵切、知軽重也、説文銓也亦姓㘝、昌証切。昌孕切、愜意、又是也等也銓也度也、俗作秤正斤両又昌陵切(処陵反、軽重を知るなり、説文は、銓〈せん〉なり、また姓愜、昌証切。昌孕切、愜〈かなう〉の意〈こころ〉、また是なり、等なり、銓〈せん〉なり、度〈たく〉なり、俗に秤に作る、斤両を正す、また昌陵切)
とある。
 これに依ってみると、銓〈せん〉も量も度〈たく〉もハカルコトである。是也は物の軽重を正すこと、等也は秤〈はかり〉に掛けて、物を均等にすることである。斤両を正すというので意味が通ずるのである、俗作秤とは秤は称の俗字である。
 茲にわざわざ転訓を出して下されたところに、上にいうような親鸞聖人の行き届かせら
(1-429)
れた御親切が、いかにも有難く頂かれるのである。
 五。なお、この称の転訓、銓等の字訓を置き給うたについて、はかるというは、中の米の一升あるか二升あるか、ものの内容を知ることで、今もその意味に用い給うたのであって、称名を称えるのも、無信で何の分別もなく、無暗に称えるのでない、彼の名義に相応じて称えるのである。本願のいわれを信じ、摂取不捨の味を得て、名号の中の味〈あじわい〉をはかり知って称えねばならぬということを示されたのであると解する説もある。この説も穿ち得た説の様ではあるが、私には、前の方の説がよろしいように頂ける。本願の謂〈いわれ〉を信じて称えよということはいくたびも御教化下されたことではあるが、茲では、信後には、命一杯にねてもさめても称名せよと、教えて下されたのであると頂きたい。
 六。往生ということはどういうことであろうか。凡夫の思うて居るようなものであろうか。学解を中心にしていうとこういう問題が必然に起って来る。今この往生の問答は、『論註』でも一名所と称せられて居る所であるが、曇鸞大師の本宗が三論宗であり、殊に鸞師の時代は三論宗の盛大な時であるから、実際こういう問題が時々起ったものである。それで鸞師は同じく三論宗の心を以てその難を通ぜられたものである。
(1-430)
 大乗経論というは経は『大品経』『維摩経』、論は『智度論』、『中観論』などを指すのである。こういう経論に依れば、衆生の体は本来空なものであって従って無生無滅のものである。然るに極楽に往生するなどということは可笑なことではないかというのである。この難は理談の上からいうと当然のことである。鸞師はこれに対して、往生というけれども、凡夫の思うて居るような往生ではない。不生の生、不住の往の往生であると通ぜられたのである。
 今茲では問題を二つにして、第一に、願生の生を難じ、第二に往生の往を難じてある。即ち往生を二つに分けて、衆生もと空にして虚空の如く無生無滅のものであるのに、此処〈ここ〉に死んで彼処に生ずるなどというのは可笑しなことではないか。又、此処を去って、彼処に往くなどというも可笑しなことではないかというのである。この二難に対して、鸞師は、自ら三論宗であった因縁もあり、又三論宗の盛んな時で三論宗から起って居る難であるから、三論宗の八不中道の義を以て答えられたのである。
 第一に生の難を通ずるに、不断不常を以て通じてある。即ち不生不滅であるのに、何故に生というかというに対して、不断不常であるからと答えたのである。凡夫の思うような
(1-431)
実の衆生、実の生死はあるものでないというは、それは真理である。然し因縁に依って生じたもので、絶対空、絶対無ということの出来るものでもない。真理は中道にある。断にもあらず、常にもあらず、その断常を払うた処に真理がある。浄土の生とは、断常を払うたところに顕わるる真理の中にいうのでいわば不生の生であるというたものである。
 次に往の難を通ずるには、不一不異を以てしてある。穢土の仮名人と、浄土の仮名人と一ということも出来なければ、異ということも出来ぬ。異といえば因果が成り立たぬ、一といえば差別がない。既に不一不異であるから、不往の往といわねばならぬ。今天親菩薩が往生といわれるのは、この不生の生、不往の往の意味でいわれるので、決して大乗経論の教義に反して居るのでないというのである。 (1-432)

 我依修多羅真実功徳相説願偈総持与仏教相応 乃至 何所依何故依云何依何所依者依修多羅何故依者以如来即真実功徳相波云何依者修五念門相応故 乃至 修多羅者十二部経中直説者名修多羅謂四阿含三蔵等外大乗諸経亦名修多羅此中言
依修多羅者是三蔵外大乗修多羅非阿含等経也真実功徳相者有二種功徳一者従有漏心生不順法性所謂凡夫人天諸善人天果報若因若果皆是顛倒皆是虚偽是故名不実功徳二者従菩薩智慧清浄業起荘厳仏事依法性入清浄相是法不顛倒不虚偽名真実功徳云何不顛倒依法性順二諦故云何不虚偽摂衆生入畢竟浄故説願偈総持与仏教相応者持名不散不失総名以少摂多 乃至 願名欲楽往生 乃至 与仏教相応者譬如函尽相称也 乃至

 【読方】我依修多羅、真実功徳相、説願偈総持、与仏教相応とのたまえり。乃至 何〈いずれ〉の所にか依る、なんの故にか依る、云何が依る。いずれの所にか依るとならば、修多羅によるなり。なんの故にかよるとならば、如来すなわち真実功徳の相なるをもてのゆえに。云何がよるとならば五念門を修して相応せるがゆえに 乃至 修多羅は十二部経のなかの直説のものを修多羅となづく。いわく四阿含、三蔵等のほかの大乗の諸経をまた修多羅となづく。このなかに依修多羅というは、これ三蔵のほかの大乗修多羅なり。阿含等の経にはあらざるなり。真実功徳相というは二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順せず、いわゆる凡夫人天の諸善、
(1-433)
人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒す。みなこれ虚偽なり。このゆえに不実の功徳となづく。二には菩薩の智慧清浄の業よりおこりて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相にいれり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳となづく。いかんが顛倒せざる、法性により二諦に順ずるがゆえに。いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄にいるがゆえなり。説願偈総持、与仏教相応というは、持は不散不失になづく、総は小をもて多を摂ずるになづく、乃至 願は欲楽往生になづく、乃至 与仏教相応というは、たとえば函蓋相称するがごとし。乃至
 【字解】一。十二部経 仏の説法の体裁に十二通あるゆえ、経文を総称して十二部経というのである。十二部とは(一)長行説、字数を定めず長短随意に法門義理を散文的に説かるること。十二部経中の修多羅というはこれである。(二)重頌説、前の長行を更に字数を定めて韻文的に説かるること。(三)授記説、仏が聴衆のために、その未来を予言したまうこと。(四)弧記説、長行を重ねて頌説せず、単独に韻文を以て説法せらるること、即ち伽陀のこと。(五)無問自説、対手〈あいて〉の尋ねざるに説きたまうこと。(六)因縁説、人の問いたてまつった因縁、宿世の因縁など、いろいろの因縁によって説かるること。(七)譬喩説、譬〈たとえ〉をもって法を説きたまうこと。(八)本事説、因位の時のことを説きたまうこと。(九)本生説、過去世の苦行などを説きたまうこと。(十)方広説、義広く理ゆたかに説きたまうこと。(十一)未曾有説、不思議のことを説きたまうこと。(十二)論議説、義理を論議し問答したまうことをいうのである。

 二。修多羅 修多羅のことは上一九一頁に説いてあるが、仏の説き給うたものを全体修多経ということがあ
(1-434)
り、また、仏の所説を十二に分けて、十二部経といいその中の一部長行説を修多羅ということもある。それで、修多羅にも、経律論の三蔵の一なる経をいう場合と、十二部経の一なる長行説をいう場合とで内容が違うて居る。

     ◎            ◎◎◎
    ┏経━━━┳ 一、長行説━━修多羅
 三蔵━╋律   ┣ 二、頌
    ┗論   ┣ 乃至
         ┗ 十二、論議説

『大乗義章』一には、三蔵の一なる経を総修多羅といい、十二部経の一なる修多羅を別修多羅と名けてある。その文を引いて置こう。
  一には惣修多羅、涅槃経に曰く始め如是より終り奉行にいたるまで、かくの如き一切を修多羅と名づく。二には別修多羅、前の惣(修多羅)の中に開いて十一を分ち、余のこれに収まらざらものを還復〈また〉修多羅の中に摂在〈おさ〉む。これを名けて別となす。
 今この『論註』の釈では初めは別修多羅を出して十二部経中の直説をいうといい、後に総修多羅を出して阿含経、大乗経典等というてあるのである。現存する南方仏教の聖典にはこの区別がはっきりとしてある。
 三。四阿含 小乗教の根本聖典たる、『増一阿含経』(縮、昃一-三)『長阿含経』(縮、昃九)、中阿含経』(縮、民五-七)、『雑阿含経』(縮、辰二-四)の称。
(1-435)
 四。三蔵 経蔵、律蔵、論蔵の称。
 五。有漏 漏は漏泄の義で、人の身口の堤を破り善根の苗を損する煩悩の異名である。有漏と熟すれば煩悩を増長せしむるもののことになる。
 六。仏事 仏のなし給う衆生利益の御仕事のこと。
 七。法性 諸法の体性という意味で即ち真如のことをいう。
 八。清浄相  真諦の空無相のことである。浄土の荘厳はあるがままにて空無相の真諦に契うて居ることである。
 九。二諦 世俗諦と真諦の称。世俗諦は宇宙の万有が歴然として肩を並べて存在して居る方面をいい、真諦は、その万有がその儘空無相の真如であるという方面をいうのである。
 一〇。畢竟浄 大般涅槃は畢竟の清浄なもの故に畢竟浄と名ける。
 【文科】『浄土論註』の文の内、今は成上起下の文を引き給うのである。
 【講義】「我修多羅真実功徳相に依りて、願偈総持を説き、仏教と相応せり」乃至 この偈文中、「依」というのは何物に依るのか、何故依るのか、何のように依るのかという三方面から考えて見ねばならぬ。第一何物に依るかといえば、釈尊の御説きになった経典に依るのである。第二何故依るかと云えば、その経典は真実の功徳を説いてあるから、第三何の
(1-436)
ようにして依るかと云えば、謬りなく五念門を修めて、仏の教と相応するようにして依るのである。乃至
 修多羅というは、釈尊の御説きになった十二部経の中に於いて、譬喩因縁等によらず、打ちつけに法門だけを説かれたのを修多羅(経)というのである。これのみならず所謂四阿含経並びに経律論の小乗の三蔵以外の大乗の諸経も亦修多羅と名ける。いま偈の中に「依修多羅(修多羅に依る)」といわれた修多羅なるものは、小乗の経律論以外の大乗の経典をいうのである。即ち阿含経等でなく、大乗浄土三部経を指すのである。次に「真実功徳相」という句を解すれば、凡そ功徳ということに二種の功徳がある。一つには有漏心から起った功徳で、真如法性の理に叶うてはおらぬ。所謂迷いの凡夫や天人の諸善、又は人間天上の果報をいうので、これらは因も果もみな顛倒心〈さかさごころ〉から生れたものであるから、みなこれ虚偽〈そらごと〉たわごとである。故にこれらの功徳を不実の功徳に名ける。二つには弥陀の因位なる法蔵菩薩の清浄な智慧の業から浄土の荘厳を成就し、衆生済度の御仕事をなし給う功徳をいうのである。この功徳は、法蔵菩薩が八地以上の純無漏相続の一心から真如法性の理に依って、どこどこ迄も清浄に仕上げたものであるから、少しも顛倒〈さかさごと〉でない、虚偽〈そらごと〉たわごとでない。それ故に真
(1-437)
実の功徳と名けるのである。どうして顛倒でないかと云えば、真如法性の理に依り、俗諦真諦二諦の道理に順って違う所がないから顛倒でないというのである。二諦の理に順うとは、浄土の依正二報の荘厳が厳然として存在して居るところが俗諦である。その荘厳の存在がそのまま空無自性なところが真諦である。浄土の荘厳はこの空有の二面にかたよらないから二諦に順ずるというたものである。それなら次にどうして虚偽でないかといえば、衆生を摂取して終極の浄〈きよら〉かな証〈さと〉りに入らしむるからである。即ち法蔵菩薩の功徳は、衆生の眼前の小利益のことではなく、衆生の最後の目的、最後の利益を獲させて下さることであるから虚偽でないことが解るのである。
 「説願偈総持与仏教相応」というは、「持」は全体を握〈つか〉んで、散らさず失わせないこと、「総」は小さなもので多大〈たくさん〉のものを摂めること、即ち総持は陀羅尼(偈文)のことで、短文の中に長い経説の意味をすっかり摂めているから総持と意釈したのである。 乃至。「願」は極楽に往生したいと欲楽〈ねが〉うこと。 乃至。「与仏教相応」とは、譬えば函と蓋とがキチンと合うように、三経の函と本論の蓋とが、小しも違〈たが〉う所なくピタリと合うことをいうのである。乃至
(1-438)

 云何回向不捨一切苦悩衆生心常作願回向為首得成就大悲心故回向有二種相一者往相二者還相往相者以己功徳回施一切衆生作願共往生阿弥陀如来安楽浄土 己上抄出

 【読方】いかんが回向する、一切苦悩の衆生をすてずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することをえたまえるがゆえに、回向に二種の相あり、一には往相、二には還相なり。往相というはおのれが功徳をもて一切衆生に回施して、作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまえるなり 已上抄出
 【文科】『浄土論註』の文を引く中、今は回向門を釈する文を引き給うのである。
 【講義】五念門中の第五の回向とはどのようなものであるかと云えば、法蔵菩薩は、苦悩を抱〈いだ〉いている一切の衆生を捨て給わず、愍れみの心を以て願い給うよう、「我大慈悲の心を成就したのは、苦悩の衆生にこの広大の功徳を回向てやることを首とするのである。」と仰せられてある。この菩薩の回向に二種の相がある。一には往相、二つには還相である。往相回向というのは、法蔵菩薩御自身の功徳を、一切衆生に回施〈あた〉え、願いをたてて、諸共〈もろとも〉に正覚成就の阿弥陀如来の安楽浄土へ往生せしめ給うことをいうのである。第二の還相回
(1-439)
向は証巻に譲る。
 【余義】茲の御点のつけ方が親鸞聖人一流のつけ方であることに注意して貰いたい。この御点で文の意味が丸であべこべになって引かれて居るのである。聖人がこういう文点をつけ給わねばならなんだ理由は上一九九頁に記してあるから、そこを見て貰いたい。

第二科 道綽禅師の釈文

(1-440)

 安楽集云観仏三昧経云令勧父王行念仏三昧父王白仏仏地果徳真如実相第一義空何因不遣弟子行之仏告父王諸仏果徳有無量深妙境界神通解脱非是凡夫所行境界故勧父王行念仏三昧父王白仏念仏之功其状云何仏告父王如伊蘭林方四十由旬有一科牛頭栴檀雖有根芽猶未出土其伊蘭林唯臭無香若有噉其華菓発狂而死後略栴檀根芽漸漸生長纔欲成樹香気昌盛遂能改変此林普皆香美衆生見者皆生希有心仏告父王一切衆生在生死中念仏之心亦復如是但能繋念不止
定生仏前一得往生即能改変一切諸悪成大慈悲如彼香樹改伊蘭林所言伊蘭林者喩衆生身内三毒三障無辺重罪言栴檀者喩衆生念仏之心纔欲成樹者謂一切衆生但能積念不断業道成弁也問曰計一衆生念仏之功亦応一切知何因一念之功力能断一切諸障如一香樹改四十由旬伊蘭林悉使香美也答曰依諸部大乗顕念仏三昧功能不可思議也何者如華厳経云譬如有人用師子筋以為琴絃音声一奏一切余絃悉皆断壊若人菩提心中行念仏三昧者一切煩悩一切諸障悉皆断滅亦如有人搆取牛羊驢馬一切諸乳置一器中若将師子乳一渧投之直過無難一切諸乳悉皆破壊変為清水若人但能菩提心中行念仏三昧者一切悪魔諸障直過無難又彼経云譬如有人持翳身薬処処遊行一切余人不見是人若能菩提心中行念仏三昧者一切悪神一切諸障不見是人随諸詣処無能遮障也何故能爾此念仏三昧即是一切三昧中王故也

(1-441)
 【読方】安楽集にいわく、観仏三昧経にいわく、父の王をすすめて念仏三昧を行せしめたまう。父の王、仏にもおさく、仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを存ぜしめざると。仏、父の王につげたまわく諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫所行の境界にあらざるがゆえに、父の王をすすめて念仏三昧を行ぜしめたてまつると。父の王、仏にもうさく、念仏の功その状〈かたち〉いかんぞと。仏、父の王につげたまわく。伊蘭林の方四十由旬ならん、一科の牛頭栴檀あり。根芽ありといえども、猶いまだ土をいでざるに、その伊蘭林唯〈ただ〉くさくして香ばしきことなし。もしその華菓を噉〈くら〉うことあらば狂を発してしかも死せん。のちのときに栴檀の根芽漸々に生長して、わずかに樹にならんとす。香気昌盛にしてついによくこの林を改変して、あまぬくみな香美ならしむ。衆生みるものみな希有の心を生ぜんがごとし。仏、父の王につげたまわく、一切衆生、生死のなかにありて念仏の心もまたまたかくのごとし。ただよく念をかけて止まざればさだめて仏前に生ず。ひとたび往生をうればすなわちよく一切の諸悪を改変して大慈悲を成ずること、かの香樹の伊蘭林をあらたむるがごとし。いうところの伊蘭林というは、衆生の身のうちの三毒、三障、無辺の重罪にたとう。栴檀というは衆生の念仏の心にたとう。わずかに樹とならんとすというは、いわく、一切衆生ただよく念をつみてたえざれば業道成弁するなり。問ていわく、一切衆生の念仏の功をはかりてまた一切をしるべし。なにによりてか一念の功力、よく一切の諸障を断ずること、ひとつの香樹の四十由旬の伊蘭林をあらためて、ことごとく香美ならしむるがごとくならんや。答えてのたまわく諸部の大乗によりて念仏三昧の功能不可思議なるをあらわさん。いかんとならば華厳経にいうがごとし、たとえば人ありて師子のすぢを
(1-442)
用いて、もて琴の絃とせんに、音声ひとたび奏するに、一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごとし。もしひと菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障、ことごとくみな断滅す。また人ありて牛、羊、驢馬、一切の諸乳をしぼりとりて一器のなかにおかんに、もし師子の乳一渧をもてこれになぐるに、ただちに過て難〈はばか〉りなし。一切の諸乳ことごとくみな破壊して、変じて清水となるがごとし。もし人ただよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔、諸障ただちに過るにはばかりなし。またかの経にいわく、たとえば人ありて翳身薬をもて処々に遊行するに、一切の余人この人をみざるがごとし。もしよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪神一切の諸障、このひとをみず。もろくの処々にしたがいてよく遮障することなきなり。なんがゆえぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずればすなわちこれ一切三昧のなかの王なるがゆえなり。

 【字解】一。『安楽集』 二巻。唐の道綽禅師の作、『観無量寿経』を概論したもので十二門に分ち、信を勧め、往生を求めしめてある。
 二。『観仏三昧経』 十巻。東晋の世、仏陀跋陀羅の訳出にかかり、六譬品、序観地品、観相品、観仏心品、観四無量心品、観四威儀品、観馬王蔵品、本行品、観像品、念七仏品、念十仏品、観仏密行品に分れ、仏の相好功徳を観想する相状、利益等を説いてある。
 三。父王 浄飯大王のこと。
 四。念仏三昧 心を阿弥陀一仏に懸け、余へ念を散さず、一心に称名念仏することである。三昧は定と
(1-443)
翻訳する語であるけれども、茲では心を一境に止めて称名念仏することをいうたものである。
 五。仏地果徳 仏となり給うた上の功徳ということにて、仏の功徳のことである。
 六。真如 真は不虚妄の義、如は性の改異せない義で、諸法の実体実性となれる絶対平等の理体をいうのである。
 七。実相 ありのままのすがたということで、真如の異名である。
 八。第一義空 真如の異名、真如は凡情の有を離れたものであるから第一義の空を名けたもの。
 九。神通 神変不可思議なる通力、大神通。
 一〇。解脱 煩悩の繋縛を解き、迷界の業苦を脱し、自由自在になれること。これに慧解脱(智慧の自在になれること)、心解脱(定の自由自在になれること)等の別あり。
 一一。伊蘭林 梵音エーランダ(Eranda)、樹の名である。臭気が非常に強く、四十由旬の間を薫し.花は紅で美しいが、これを食べると発狂して死ぬというてある。
 一二。由旬 梵音ヨージャナ(Yojana)、踰闍那、踰繕那などと訳して居る。印度の里数の名にて、八倶盧舎を一如旬とすといい、四十里又は三十里に当るというて居る。猶これには種類あって、一大由旬は八十里、中由旬は六十里、小由旬は四十里であると古来いうて居る。今の里数に直すと十六哩〈マイル〉に当り、印度で丁度一日の旅行里敷を由旬というたものである。
 一三。一科 一本〈もと〉。
(1-445)
 一四。牛頭栴檀〈ごずぜんだん〉 梵名ゴーシールシャチャンダナ(Gosirsacandana)、印度摩羅耶山(牛頭山)に多く生じ、赤檀ともいい、麝香に似た香気を有する香樹である。樹は白楊〈どろやなぎ〉に似て、蛇が好んでこれに纏〈まと〉うというてある。また与薬樹ともいうて、これを身に塗りて火中に入れば焼けることなく、又風瞳を医〈いや〉する効あり、諸天人が修羅と戦う時にこれを塗って、その創傷を医〈いや〉するというてある。
 一五。三毒 貪欲、瞋恚、愚痴の称。
 十六。三障 惑(煩悩)、業、苦の称。
 一七。業道成弁 業事成弁に同じく、行因の成就して、証果を得ることの決定せられたるをいう。
 一八。『華厳経』 具には『大方広仏華厳経』、釈尊成道第二七日に文殊普賢等の大士のために、自内証のありのままを説きたもうた経典であって、これに三訳ある。(一)東晋の仏駄跋陀羅の訳、六十巻、七処八会三十四品ある。『六十華厳経』、『旧華厳経』、『晋経』というて居る。(二)唐の世、実叉難陀の訳、八十巻、七処九会三十九品ある。『八十華厳経』、『新華厳経』、『唐経』という。(三)唐の世、般若三蔵の華厳経中の普賢行願品だけを訳したものである。新旧二経の入法界品に当る『四十華厳経』、『貞元経』というて居る。
 一九。過無難 あらゆる乳の中へ入り徹りて、少しも滞〈とどこお〉りのないこと。
 二〇。翳身薬 隠身の薬。
 【文科】これから『安楽集』の文が四文引いてあるが、その中、ただ今は念仏功能の文を引き給うのである。
(1-445)
 【講義】道綽禅師の『安楽集』上に曰く、『観仏三昧経』に云く、釈尊が父王浄飯大王に勧めて、他力念仏三昧を行ぜしめ給うたときに、父王が釈尊に申上げらるるよう、仏陀の果徳は真如実相の証りで、色も形もない法身空寂の理であると聞いております。然るに世尊はなぜこの法性の証りを弟子なる私に修めしめ給わないのでありますか。この時、釈尊は父の王に宣給〈のたも〉うよう、諸仏の果徳は無量〈かぎりのな〉い深好〈おくぶか〉な境界で、不可思議の神通と、解脱とを有し給うのである。これは仏のみ知めし給うので、凡夫の行くべき境界でない。それであるからこの天上の月のように取り難い法性の証りを措〈おい〉て、手近な修め易い念仏三昧を行ずるように御勧め申すのである。父の王の申すよう、さらば念仏の功徳は如何程でありますか。釈尊宣給うよう、譬えば四十由旬の伊蘭林の中に、一科の牛頭栴檀があって、それが根と芽だけでいまだ土を出ない間は、この伊蘭の林は臭い一方で少しも香〈かんば〉しい匂〈かおり〉はない。もしこの華や菓を噉〈なめ〉るならば、臭いために狂死をするであろう。然るに土中にあって栴檀の根芽が漸々〈だんだん〉に生長して、漸く樹になるかならないと云う時に、香気が昌益〈さか〉んになって、この四十由旬の伊蘭林の臭を変じて香気馥郁たらしめる。これを見る者は誰しも不思議の念に撲〈うた〉れぬものはない。釈尊は重ねて父王に申さるるよう、一切衆生が伊蘭林のような生死の巷
(1-446)
にあって、念仏する心もこのようなものである。但よく思念をここに注いで、止むことがなかったならば、必ず弥陀如来の御前に生れるであろう。一度往生することを得るや、一切〈あらゆる〉罪悪は変じて、大慈悲心となることは、ちょうどあの栴檀香樹が伊蘭の林を変じで香林となすようなものである。
 今ここに言う所の伊蘭林とは衆生の身の中の三毒の煩悩、三障等のかぎりなき重罪に喩え、栴檀というのは、衆生の念仏の心に喩えるのである。栴檀が樹に成らんとする時に臭林を変ずるというのは、一切衆生の念仏を励みて、機根熟する時に、浄土往生の業が成弁〈はたさ〉れることをいうのである。
 問うて曰く、前に一切衆生に就いて、念仏の功はかように広大であると説かれてあるが、これを思いはかりて見るに、一人一人の念仏の功徳も、すべてそのように諸惑を断ずることと思われる。さすれば人々の根機も区々〈まちまち〉であるから、一生の念仏と問わず、多念の念仏と曰わず、わずか一念の念仏の功力で、一切の諸障を断つようなことがあるであろう。即ちかの一栴檀香樹が、四十由旬の伊蘭林を忽然として香ばしからしめるように。これはどういう訳であらうか。
(1-447)
 答えて曰く、諸部の大乗の経典に依って、念仏三昧の功能の不可思議なことを顕わそうならば、先ず『華厳経』には左の如くいうてある。譬えば人あって、師子の筋を以て琴の絃〈いと〉を作り、一たびこれを弾ずると、一切の余の絃ば一時に悉く断ち切れる如く、人もし信心の上から念仏三昧を行ずるならば、一切〈あらゆ〉る煩悩、一切〈あらゆ〉る諸障〈さわり〉はみな悉く断滅する。更に譬うれば、牛、羊、驢馬等の一切〈あらゆる〉る乳を搾って器の中におき、それに師子の乳を一渧〈ひとしずく〉雑〈まじえ〉ると、その一渧は何の滞〈とどこお〉りもなく、それらの乳を徹りて、見る見る乳を変じて清水とする如く、もし人あって但〈ただ〉信の上に称名すれば、一切の悪魔、諸障等は滞りなく追い払われて仕舞う。又同経に曰く、譬えば人あって、翳身薬〈みをかくすくすり〉を須〈もち〉いて処々を道行〈あるきまわ〉っても、一切の余の人に見られないように、もし人あって信の上に称名すれば、一切の悪神、一切の諸障が、この人を見ることが出来ない。この人は何処をゆいても、何物にも妨げらるる事はない。どうして念仏にこうした利益があるかと云えば、この念仏三昧なるものは、あらゆる三昧中の王三昧であるからである。 (1-448)

 又云如摩訶衍中説云語余三昧非不三昧何以故或有三昧但
能除貪不能除瞋痴或有三昧但能除瞋不能除痴貪或有三昧但能除痴不能除瞋或有三昧但能除現在障不能除過去未来一切諸障若能常修念仏三昧無問現在過去未来一切諸障皆除也

 【読方】またいわく、摩訶衍のなかにときていうがごとし。諸余の三昧は三昧ならざるにはあらず。なにをもての故に、あるいは三昧あり、ただよく貪をのぞきて瞋癡をのぞくことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく瞋をのぞきて癡貪をのぞくこと能わず。あるいは三昧あり、ただよく癡をのぞきて瞋をのぞくこと能わず。あるいは三昧あり、ただよく現在の障〈さわり〉をのぞきて、過去未来の一切の諸障をのぞくことあわはず。もしよくつねに念仏三昧を修すれば、現在週去来来の一切の諸障をとうことなくみな除く。
 【字解】一。摩訶衍 下六九二頁、大乗のこと。今は摩訶衍論、即ち大乗論の義で、『大智度論』を指していう。僧肇法師か『大智度論』を大乗論というた始めの人である。
 【分科】『安楽集』の中、諸障皆除の文を引き給うのである。
 【講義】又云く、『大智度論』第七に説いてある。諸余の三昧も、三昧でないことはないが、その中でも念仏三昧が最も勝れて居るのである。何故かと云えば、ある三昧は貪欲の煩悩を除くけれども瞋恚、愚痴の煩悩を除くことが出来ない。またある三昧は、唯〈ただ〉瞋恚を除
(1-449)
いて愚痴と貪欲を除くことは出来ない。ある三昧はただ愚痴を除くけれども、瞋恚を除くわけにゆかぬ。ある三昧はただ現在の障りを除いて、過去未来の一切の諸障を除くことが出来ない。然るにもしよく常に念仏三昧を修むるならば、三世の一切の諸障はみな悉く除かれる。この故にこの念仏三昧は三昧中の王三昧と云わねばならぬのである。

 又云大経讃云若聞阿弥陀徳号歓喜讃仰心帰依下至一念得大利則為具足功徳宝設満大千世界火亦応直過聞仏名聞阿弥陀不復退是故至心稽首礼

 【読方】又いわく大経の讃にいわく、もし阿弥陀の徳号をききて歓喜讃仰し、心に帰依すれば、しも一念にいたるまで大利をう。すなわち功徳の宝を具足すと。たとい大千世界にみてらん火をも、またただちにすぎて仏の名をきくべし。阿弥陀をきかばまた退せざれ。このゆえに心をいたして稽首し礼したてまつる。
 【字解】一。『大経讃』 曇鸞大師作の『讃阿弥陀偈』のこと。
 二。徳号 至徳の尊号、一切の功徳を摂め尽す名号。
 三。大利 往生成仏の大利益『一多証文』に「為得大利というは無上涅槃をさとるゆえに」宣うてある。
(1-450)
 四。大千世界 中千世界を千倍したるもので、第四禅天に覆わるる全世界をいう。即ち日月、須弥山、四天下、六欲天、初禅天、二禅天、三禅天各々百億づつを含むものである (千万を一億として算〈かぞ〉う)。
 【文科】『安楽集』の中具足功徳の文を引き給うのである。
 【講義】また云わく、『大経讃』に.「もし阿弥陀如来の徳号の御謂〈おいわれ〉を聞信〈ききひら〉いて、歓喜のおもい胸に溢れ、徳難〈ありがた〉や尊〈とう〉と也〈や〉と徳号〈みな〉を讃仰〈たた〉えて、一心に帰命し奉れば、僅〈わずか〉に一声の称名でも、無上涅槃〈さとり〉を開くという大いなる利益が頂ける。則ち限りのない如来回向の功徳の宝は、行者の身に具足〈そな〉わることである。かような結構な御法〈みのり〉であるから、設い世界を滅すという三災中の火災劫の時のように、この三千大千世界が大火に焼かるることがあっても、驀直〈まっしぐら〉にその炎の中を踏み分けて、この名号の御謂〈おいわ〉れを聞かねばならぬ。一度この如来大悲の喚声〈よびごえ〉を聴聞するならば、直に不退の位に入りて、再び悪道に退墜〈おち〉るようなことはない。それであるから一心に稽首〈ぬかづ〉きて礼し奉ることである。 (1-451)

 又云又如目連所問経仏告日連譬如万川長流有浮草木前不顧後後不顧前都会大海世間亦爾雖有豪貴富楽自在悉不得
免生老病死只由不信仏経後世為人更甚困劇不能得生千仏国土是故我説無量寿仏国易往易取而人不能修行往生反事九十五種邪道我説是人名無眼人名無耳人経教既爾何不捨難依易行道矣 已上

 【読方】またいわく、また目連所問経のごとし。仏、目連につげたまわく、たとえば万川長流に浮きたる草木ありて、前は後をかえりみず、うしろは前をかえりみず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴富楽白在なることありといえども、ことごとく生老病死をまぬかるることをえず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後生に人となりて更にはなはだ困劇して千仏の国土に生ずることをうることあたわず。このゆえに我とかく、無量寿仏国は往やすく取やすくして而もひと修行して往生することあたわす。かえりて九十五種の邪道につかう。われこの人をときて眼なきひとと名け、耳なき人となづくと。経教すでにしかなり。なんぞ難をすてて易行道によらざらんや 已上
 【字解】一。『目連所問経』 現存蔵経中の「目連所問経」一巻にはこの文がない。『出三蔵記』の欠経録に『目連所問経』一巻というがあるけれども、『出三蔵記』の撰者は梁の僧祐法師であるから、道綽師のこの『目連所問経』を見られる訳はない、『樹心録』には偽経中の『目連所問経』であろうというてある。『貞元録』二十八(六左)偽妄真録に『目連所問経』一巻というがある。多分これを引用せられたもので
(1-452)
あろう。
 二。目連 梵音マーウドグルヤーヤナ(Maudglayayana)、釆菽氏と訳する。実名を拘律陀(Kolita)というて、仏十大弟子の一人である。初の舎利弗と共に外道に事〈つか〉えて居ったが、釈尊の王舎城説法の時に帰仏し、証果〈さとり〉を得て、神通第一と称せられて居る。
 三。千仏国土 有仏の国土即ち仏の出世在す国土ということである。百年毎に一歳を減じて人寿八万歳から十歳になるまで減する間の減却間に千仏出世在ますのであるが、こういう沢山の仏の出世在す世界のことをいうのである。
 四。九十五種邪道 釈尊在世の時の六師外道(富蘭那迦葉、末伽梨拘賒梨子、刪闍耶毘羅胝子、阿耆多翅舎欠婆羅、迦羅鳩駄、加旃延、尼乾陀若提子)に各十五人の弟子があるので、師弟合すると、九十六種となる。この中小乗の犢子部に似た一派があるので、それを除いて、九十五種の外道邪道をいうのである。
 【文科】『安楽集』のうち誠成勧信の文を引き給うのである。
 【講義】また云く、『目連所問経』に釈尊、尊者目犍連に仰せらるるよう、譬えばあらゆる長河に浮いて流されてゆく草木を見るに、前に流るるものは、彼のものを顧みず、後に流るるものも、前のものを顧みることなく、都〈すべ〉て遅かれ早かれ大海に流れ込むように、世間の無常の有様も丁度この通りである。我や先、人や先、豪貴〈とみ〉さかえて、楽みづくめの人々
(1-453)
でも、生老病死の悲しみを免〈まぬか〉るることは出来ぬ。それであるから一刻も早く如来のみ教を聞かねばならぬ。今世〈このよ〉に仏経〈おしえ〉を信じなかったばかりに、彼の世に人と生れても、聾、盲、瘖瘂、極貧等の劇しい困みの身となり、教をきくことの出来る千仏の出世し給うという有仏の国に生れることは出来ない。この故に我が無量寿仏の極楽浄土は、往き易く、取り易いにも係らず、人々は愚にも教の如く念仏の行を修めて往生することをせず、反対に九十五種の外道の教に随うている。これらの人は実は無眼人、無耳人というのである。
 釈尊は経門の上にかように教えて下されてある。なぜ人々は、自力の難行を捨てて一刻も早く他力の易行道に赴かないことであるか。

第三科 善導大師の釈文

(1-454)

 光明寺和尚云又如文殊般若云欲明一行三昧唯勧独処空閑捨諸乱意係心一仏不観相貌尊称名字即於念中得見彼阿弥陀仏及一切仏等問曰何故不令作観直遣専称名字者有何意也答曰乃由衆生障重境細心麁識颺神飛観難成就也是以大
聖悲憐直樹専称名字正由(以周反、行也、経也、従也、用也)称名易故相続即生問曰既遣専称一仏何故境現即多此豈非邪正相交一多雑現也答曰仏仏斉証形無二別縦使念一見多乖何大道理也又如観経云行観座観礼念等皆須面向西方者最勝如樹先傾倒必随曲故必有事碍不及向西方者但作向西想亦得問曰一切諸仏三身同証悲智果円亦応無二随方礼念課称一仏亦応得生何故偏歎西方勧専礼念等有何義也答曰諸仏所証平等是一若以願行来収非無因縁然弥陀世尊本発深重誓願以光明名号摂化十方但使信心求念上尽一形下至十声一声等以仏願力易得往生是故釈迦及以諸仏勧向西方為別異耳亦非是称念余仏不能除障滅罪也応知若能如上念念相続畢命為期者十即十生百即百生何以故無外雑縁得正念故与仏本願得相応故不違教故随順仏語故 已上

 【読方】光明寺の和尚ののたまわく、また文殊般若にいうかごとし。一行三昧をあかさんとおもう。た
(1-455)
だすすめてひとり空閑に処して、もろもろの乱意をすてて心を一仏にかけて、相貌を観ぜず。もはら名字を称すれば、すなわち念のなかにおいて、かの阿弥陀仏およぴ一切の仏等をえることをうと。間ていわく、なんがゆえぞ観をなさしめずして、ただちにもはら名字を稲せしむるはなんの意かあるや。こたえていわく、いまし衆生さわりおもくして、境細に、心麁なり、識あがり、神とびて観成就しがたきによりてなり。ここをもて大聖、悲憐してただちに勧て、もはら名字を称せしむ。まさしく称名やすきによる(以周の反、行也、経也、従也、用也)がゆえに、相続してすなわち生ず。問て曰く、すでにもはら一仏を称せしむるに、なんがゆえぞ境現ずることすなはち多き、これあに邪正わいまじわり、一多雑現するにあらずや。こたえていわく、仏と仏とひとしく証してかたち二の別なし。たとい一を念じて多をみるとも、なんの大道理にかそむかんや。また観経にいうがごとし。行観、坐観、礼念等、みなすべからく、面〈おもて〉を西方にむくれば、最勝なるべし。樹のさきより傾けるが、倒るるにかならず曲れるにしたがうがごとし。かるがゆえに必ずことの碍〈さわり〉ありて、西方にむかうにおよばずば、ただ西にむかうおもいをなすに、また得たり。問ていわく、一切の諸仏三身おなじく証し、悲智、果円〈まどか〉にしてまた無二なるべし。方〈ほう〉にしたがいて礼念し、一仏を課称せんに、亦生ずることをうべし。なんがゆえぞ、ひとへに西方を嘆じて、専ら礼念等を勧るは、なんの義かあるや。こたえていわく、諸仏の所証は平等にしてこれひとつなれども、もし願行をもて来〈きた〉しおさむるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊もと深重の誓願をおこして、光明名号をもて、十方を摂化したまう、ただ、信心をして求念せしむれば、かみ一形をつくし、しも十声一声等にいたるまで、仏願力をもて往生を得やすし。このゆえに釈迦およぴ諸仏、すすめて西方に
(1-456)
むかうるを別異とすならくのみ。またこれ余仏を称念して、さわりを除き、つみを滅することあたわざるにはあらざるなり、しるべし。もしよく上のごとく念々相続して畢命を期とするものは、十即十生、百即百生なり。なにをもてのゆえに。外の雑縁なく、正念をうるがゆえに、仏の本願と相応することをうるがゆえに、教に違せざるがゆえに、仏語に随順するがゆえに。 已上
 【字解】一。光明寺の和尚 善導大師のこと。光明寺は、支那長安(陜西省西南府〕の西南にある寺である。今は終南山の麓、梗梓谷の百塔に当るというが、善導大師のこの地に住し、この地に往生し給うたので光明寺の和尚という。寺号は、大師の称え給う一声の念仏毎に光明が顕わるるので、大師の滅後、高宗皇帝より勅額を賜うて起ったのである。
 二。文殊般若 『文殊師利所説摩詞般若波羅蜜経』(縮、月、九)を指すのである。
 二。一行三昧 『文殊般若経』の文に依ってみると二義ある。第一義は真如法性の理を観ずる理観のこと、第二義に専ら念仏の一行を修することである。善導大師の御心では、余行余善に心をかけず、ただひたすらに、弥陀の名号を称える専修念仏の一行を一行三昧というのである。
 四。大聖 釈迦如来を指す。
 五。三身 法身、報身、応身のこと。
 【文科】これから善導大師の釈文を引き給うのであるが、その内、『往生礼讃』の文が五文、「玄義分」の文が二文、『観念法門』の文が二文、『般舟讃』の文が三文引いてある。このことは「行巻」の初めの組織の表
(1-457)
をみて貰えば明かに知れる。今は『礼讃』の五文の内前序一行三昧の文である。
 【講義】光明寺の和尚、善導大師の『往生礼讃』に曰く、『文殊師利所説摩訶般若波羅密経』に、釈尊が文殊菩薩の問に対して、一行三昧というものは何であるかと云えば、ただ独り空閑〈しずか〉な処にいて、いろいろの散り乱れる意〈こころ〉をふり捨て、一心に弥陀一仏を念じ奉りてその御相貌〈おんかおばせ〉を心に観ずるのでなく、専ら弥陀の名号を称うれば、その仏を見奉らんと願う念〈おもい〉に応じて、阿弥陀仏及び一切仏を見奉ることが出来る。これ弥陀一仏を念ずることは諸仏を念ずる謂れであるからである。
 問うて曰く、何の意味があってこの経に於いて、阿弥陀仏の尊像〈おすがた〉を観ずることを勧めないでその名号を称えることをすすめるのであるか。
 答えて曰く、それは外のことではない。迷いの衆生は、煩悩の障り重く、その住う所の周囲〈ぐるり〉はどこ迄も悪い刺撃に満ちている。心は麁〈おおまか〉で、細な煩悩を見るの明なく、誠〈こころ〉は常に颺〈あが〉り揺〈うご〉き、神〈こころ〉はいつも散り乱れている。かようにして高遠〈けだか〉い尊像〈みすがた〉を観ずることが出来ないために、大聖釈尊が、悲憐〈あわれ〉み給いて、直に近道の称名を御勧め下されたことである。これというも正しく称名は修め易いことに由(由の字は以周の反切で音イウ、訓は行く、経〈ふ〉る、
(1-458)
従〈より〉、用いるの四義である。もとこの字は縁由、来由の意で、よりておこるわけの場合に須いる。かようなわけによりて等これである。この縁由、来由の意味を上の四訓にて助け顕わすのである。誠にこの「由称名易(称名易きに由り)」ということを四訓にて助顕すれば、本願の一道を行く、念々相続と経てゆく、この本願の一道より往生する、他力の念仏を用いて往生する、等である)るから、命のあるかぎり相続して、間違なく浄土に往生することが出来るのである。
 問うて曰く、既に専ら弥陀一仏の名号を称えしむるに係らず、なぜ一切の諸仏を見奉るのであるか。弥陀一仏を念ずる一行三昧ならば、阿弥陀仏一仏だけ現われ給うが、正しいのに、一切の諸仏の現われ給うことは、心と境と相応〈ふさわ〉しくない邪の観といわねばならぬ。どうしてかように正邪交わることになるのであるか。
 答えて曰く、真理に二つはない。この一真理を証〈さと〉れる諸仏の御証〈おさとり〉は斉〈ひと〉しいもので、決して別なものでない。かように二つない証の方々であらせらるる故、よしや弥陀一仏を念じた時、他の諸仏を見奉ったとて、何も真〈まこと〉の道理に背くことはない。これは弥陀一仏の中に諸仏の智慧も功徳もみな摂〈おさま〉っていることを示すのである。かように弥陀一仏を念ぜしむるこ
(1-459)
とは上の経文ばかりでない『観無量寿経』には、行観、坐観、礼念を勧めて行ぜしめ給うに、みな面〈おもて〉を西方に向けるにしくはないと仰せられてある。譬えば傾いている樹の倒れるには、必ず曲った方に倒れるようなものである。それ故に面を西に向けよというのである。もし何かの碍〈さわり〉のために西方に向うことが出来ない場合には、心だけ西に向う想〈おもい〉をしていれば、それでよい。
 問うて曰く、一切諸仏の法報応の三身は、みな一様に真如法性の理を証りて成仏せられたことであるから、慈悲も智慧も円〈まどか〉に備わりて二つとないことは前に云われる通りである。それならば東方に向って阿閦仏、南方に向って宝勝仏というように、何れの方角に向うても、一仏に向って身に礼し、意に念じて、日課念仏を唱えるならば、亦往生することが出来るに相違ない。然るに何故専ら西方の弥陀如来だけを歎じて、礼念せしめるのであるか。
 答えて曰く、云われる通り諸仏の証〈さとり〉は平等であって少しも異ってはいないけれども、もし因位の願行を以て、対照〈くらべ〉て見ると、種々の相違があるから、今特別に弥陀一仏を念ぜしむるという理由があるのである。というのは、阿弥陀如来は、因位の時に、諸仏に勝れた深重〈ふか〉い誓願を起されたのである。即ち衆生の迷いの暗〈やみ〉を払い、冷い心を温めて下さる光明
(1-460)
の縁と、諸仏に讃〈ほ〉められて十方衆生に知らせんとの名号の因を以て、十方の衆生を化益し給うのである、それであるから、そのまま救うぞと仰せらるる名号の謂れを聞く者は、如来の御慈悲を有難く信じて、御恩を思い、往生を願い 命長〈ながら〉えば一生の間、報謝の称名を唱え、もし短い命ならば、十声でも、一声でも唱えるならば、仏の本願他力によりて、容易〈たやす〉く往生することをうるのである。
 弥陀の本願がかような訳合〈わけあい〉であるから、第十七願に誓われたように、釈尊はじめ、一切の諸仏が、西方の弥陀を念ぜよと御励め下さることである。弥陀と諸仏は、証果は同じであるが、因位の願行がかように別であるから、その証果〈さとり〉の上の衆生済度の側に就いては、かように別異〈ちがい〉があるというのである。併しかように云うた所が、何も余の諸仏を称念しても、障を除き、罪を滅すことが出来ないというのでは決してない。それはよく会得〈のみこ〉んで頂きたい。もし上に申した通りに、弥陀の本願を信じて、念々に相続して命終るまで絶ゆることがなかったならば、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな往生することが出来るのである。なぜかと云えばこの本願を信ずることは、煩悩悪業等の外の離縁に乱されることなく、真〈まこと〉の信念に住することが出来るからである。そして阿弥陀仏の本願にピタリと合っているからである。釈尊の教えて下さることに背いておらぬからである。また諸仏の御勧めに随順〈したご〉うているからである。故に百即百生、必ず間違がないのである。
 【余義】一。これから善導大師の文が、十文引用してある。『礼讃』五文、「玄義分」二文、『観念法門』の二文、『般舟讃』の一文、都合合せて十文である。この十文は一口にいえば、すべて名号讃嘆のために引き給うたので、一文として名号の謂れの説いてないものはないのであるけれども、この十文一々の御引用の御思召については先輩がいろいろ苦心して弁じて居られる。私は茲に、吉谷覚寿師の『六要鈔講讃』の説を借りて御引用の御思召を微〈いささ〉か味わいたいと思う。

      ┏第一文━━━━━━━━━━━━━━━━━━━総じて大行の勝益を示す
      ┃第二文━光明不共徳を示す━┓
  『礼讃』┫第三文━名号不供徳を示す ┣光明名号の徳益┓
      ┃第四文━名号不供徳の誓願 ┃       ┃
      ┃      より起るを示す┛       ┃
      ┗第五文━深重誓願の            ┃
             利益を示す━┓        ┣別して大行の勝益を示す
                   ┃        ┃
(1-462)
      ┏第六文━願力の増上縁  ┃        ┃
 「玄義分」┫     となるを示す ┃        ┃
      ┗第七文━名号必生を示す ┣ 深重誓願の  ┃
『観念法門』┳第八文━願力摂生を示す ┃    相を示す┛
      ┗第九文━善悪往生を示す━┛
 『般舟讃』━第十文━━━━━━━━━━━━━━━━━━━名号讃嘆を結ぶ

 二。この十文を引き給うについて初めには『往生礼讃』を引き、最後に『般舟讃』を引き、中に「玄義分」と『観念法門』を挟み給うたのは、『礼讃』も『般舟讃』も讃文であって、讃嘆を主とする書であるから、この十文全体が名号讃嘆であることを示し給うたのである。実際我が聖人は論議する方でもなく、批評する方でもない、ただ讃嘆する方である。一生九十年、論議の場は逃げ帰って、静かに独り仏徳を讃嘆し給うたのである。『本典』六軸、また実にこの讃嘆である。「行巻」一巻、何事もない、ただ名号讃嘆である。

 又云唯観念仏衆生摂取不捨故名阿弥陀 已上

(1-463)
 【読方】またいわく、ただ念仏の衆生をみそなわして、摂取してすてざるがゆえに阿弥陀となづく。已上
 【字解】摂取不捨 『御一代記聞書』第二百五条にいわく、有人(膽西上人のことなり)摂取不捨のことはりをしりたきと、雲居寺の阿弥陀に祈誓ありければ、夢想に、阿弥陀の今の人の袖をとらえたまうににげけれども、しかととらえて、はなしたまわず、摂取というは、にぐる者をとらえて、おきたまうようなることとここにて思付〈おもいつき〉たり、これを引言〈ひきごと〉に仰せられ候。
 【文科】『往生礼讃』の中。日没礼讃名義の文を引き給うのである。
 【講義】また曰く、限りのない光明を以て、十方の衆生を照し、その中に御慈悲に眼が醒めて、弥陀の名号を信じ称うる衆生のみを、直ちに摂め取りて捨て給うことはない。それであるから阿弥陀仏と名け奉るのである。
 【余義】この文は『観経』の「光明遍く十方の世界の念仏の衆生を照し、摂取して捨て給わず」の文と『小経』の「彼仏の光明無量にして、十方の国を照すに障碍する所なし。故に阿弥陀と名く。」の真意を取りて、かように仰せられたのである。誠に何者にも碍えられぬ智慧の光明は、温く摂め取って下さる御慈悲の光である。我等盲目の衆生は、この光明の御力におさめとられて、すくうて頂くのである。かようにして下さるために、かの仏を
(1-464)
無量光仏と申し奉るのである。
 念仏の衆生とは、憶念称名の衆生のことである。大様〈おおよう〉に称うる衆生のことではない。弥陀の名号を信じ称うるものである。御本願のてずよさに疑晴れて念仏する衆生のことである。唯というは雑行雑修自力のこころのものを簡び捨てて憶念称名の衆生のみを摂取し給うことをしめすのである。『御和讃』に、「金剛堅固の信心の、さだまるときを待ちいてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」とあるがこの意味である。我等衆生の往生の定るは、この摂取不捨の誓があるからであり、摂取不捨の誓の成ずるは、衆生に金剛の信心か起るからである。それで「行者や本願、本願や行者」で、二者不離一体の妙味があるのである。

 又云弥陀智願海深広無涯底聞名欲往生皆悉到彼国設満大千火直過聞仏名聞名歓喜讃皆当得生彼万年三宝滅此経住百年爾時聞一念皆当得生彼 抄要

 【読方】またいわく、弥陀の智願海は深広にして涯底なし。名〈みな〉をききて往生せんとおもえば、みなことご
(1-465)
とく彼国にいたる。
 たとい大千にみてらん火をも、ただちにすぎて仏 名をきけ、名をききて歓喜し讃ずれば、皆まさにかしこに生ずることをうべし。
 万年に三宝滅せんに、この経住すること百年せん。そのときききて一念せん、みなまさにかしこに生ずることをうべし。要を抄す
 【字解】一。智願海 如来の本願は大智慧から起ったものであるから智願という。この本願の十方衆生を助けんというはまことに限りなく広くして且つ深き故、海に喩えて智願海という。
 二。大干 上四五〇頁の大千世界に同じい。
 三。万年 末法万年のことである。正像末の三時に異説はあるけれども、善導大師は、釈尊入滅後五百年間を正法の世(教行証の三法具わりて成仏の出来る時期)、正法の後千年間を像法の世(教行の二法のみありて仏果を証得するものなき時期)、像法の後万年を末法の世(遺教のみあって行証するものなき時期)とわける説をとって居られるのである。
 四。三宝 仏宝、法宝、僧宝の称。
 五。此経住百年 末法万年の後が法滅百歳というて、全く三宝の滅尽する時期である。その百年の法滅の時に、この弥陀の念仏を説く『大無量寿経』のみ残りて法益を施し給うのである。
 【文科】『往生礼讃』の引文の中、今は初夜礼讃の三偈文を引き給うのである。
(1-466)
 【講義】また云く、阿弥陀如来の不可思議のおん智慧より湧き出た本願は、大海の広く深くして、底ほとりのないようなものであるから、いかな智者聖者も、測り奉ることの出来るものでない。かような不可思議の御本願であるから、その名号の御謂れを聞き開いて、往生を願う者は、皆悉くかの極楽浄土へ往生することが出来て一人も洩るるものがないのである。
 この故に設い大千世界に満ちみつる猛火の中をも、驀直〈まっしぐら〉に踏み分けて、阿弥陀仏の御名を聞けよ。その名号の御謂れを聞き開いて、歓喜の余り讃仰の称名をするものは、十人は十人ながら、みな往生することが出来るのである。
 かかる不思議の法門であるから、末法萬年の時節終りて、三宝が滅びて仕舞う時にも、この他力念仏の経教〈みおしえ〉のみは、いつまでも世に栄えて下さるであろう。その凡ての教の滅びるような衰え果てた時代にも、この他力念仏の教を一念信ずるものは、みな洩れず往生することが出来るであろう。
 【余義】この引文は、『礼讃』のうちの三偈文を合せて一緒に引き給うたものである。
 このうち第一偈は、『大経』三十行偈の「如来智慧海、深広無涯底、二乗非所測、唯仏独
(1-467)
明了」と、「其仏本願力聞名欲往生、皆悉到彼国」の二偈を合せ給うたものであり、彼の二偈は『大経』流通の文に依りて作り給うたものである。

 又云現是生死凡夫罪障深重輪回六道苦不可言今遇善知識得聞弥陀本願名号一心称念求願往生願仏慈悲不捨本弘誓願摂受弟子 已上

 【読方】またいわく、現にこれ生死の凡夫罪障深重にして、六道に輪回せり。くるしみ言うべからず。いま善知識にあいて、弥陀本願の名号をきくことをえたり。一心に称念して、往生を求願す。ねがわくは仏の慈悲、本弘誓願をすてたまわざれば、弟子を摂受したまえり。已上
 【字解】一。現是 現在ただいま。
 二。六道  地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道の称。
 三。善知識 正法を説きて、仏道に入らしめ給う方をいう。善知識というは阿弥陀仏に帰命せよといえる使なり、今は釈迦如来を指す。
 【文科】『礼讃』のうち、後序現世利益の文を引き給うのである。
 【講義】また云く、我が身は現在生死〈まよい〉の海に沈んでいる凡夫である、罪は深く、障りは
(1-468)
重く、遠い昔から六道の巷を輪回〈めぐっ〉て来た。その苦みは言葉で尽すことは出来ない。
 然るにいま善知識に遇い奉りて、ここに阿弥陀仏の御本願から出来上らせられた名号の御謂れを聞くことが出来た。その仰せを二心なく信じ称えて、極楽往生を願い奉る。大悲世尊は、元より御慈悲の御親にて在せば、一心帰命の者を摂護し給うという因位の本願を捨てさせ給う道理もないことである故、この弟子を摂め取りて、常に照護し給うのである。
 【余義】この文は本願名号を讃嘆するものとして引き給うたのである。それで送り仮名が聖人の御意で変えてある。「弟子を摂受したまえり」としてある。普通ならば前に「願くば」とあるから「摂受し給え」とある筈であるが、それでは宗義に差し支えがあるようになるから、「摂受したまえり」と変え給うたものである。摂受は摂取護念の意味である。御延書、御草本には摂受したまうらんとしてあるが、高田本には、したまえりとある。したまえりの方が義が通じ易いから、その様にして置いたのである。

 又云問曰称念礼観阿弥陀仏現世有何功徳利益答曰若称阿弥陀仏一声即能除滅八十億劫生死重罪礼念已下亦如是十
(1-469)
往生経云若有衆生念阿弥陀仏願往生者彼仏即遣二十五菩薩擁護行者若行若坐若住若臥若昼若夜一切時一切処不令悪鬼悪神得其便也又如観経云若称礼念阿弥陀仏願往生彼国者彼仏即遣無数化仏無数化観音勢至菩薩護念行者復与前二十五菩薩等百重千重囲遶行者不問行住座臥一切時処若昼若夜常不離行者今既有斯勝益可憑願諸行者各須至心求住
 又如無量寿経云若我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生又如弥陀経云若有衆生聞説阿弥陀仏即応執持名号若一日若二日乃至七日一心称仏不乱命欲終時阿弥陀仏与諸聖衆現在其前此人終時心不顛倒即得往生彼国仏告舎利弗我見是利故説是言若有衆生聞是説者応当発願願生彼国次下説云東方如恒河沙等諸仏南西北方及上下一一方
(1-470)
如恒河沙等諸仏各於本国出其舌相遍覆三千大千世界説誠実言汝等衆生皆応信是一切諸仏所護念経云何名護念経若有衆生称念阿弥陀仏若七日及一日下至一声乃至十声一念等必得往生証成此事故名護念経次下文云若称仏往生者常為六方恒河沙等諸仏之所護念故名護念経今既有此増上誓願可憑諸仏子等何不励意去也(智昇法師集諸経礼儀儀下巻者善導和尚礼懺也依之)

 【読方】またいわく、問ていわく、阿弥陀仏を称念し、礼観して現世にいかなる功徳利益かあるや。こたえていわく、もし阿弥陀仏を称すること一声するに、すなわちよく八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念巳下もまたかくのごとし。十往生経にいわく、もし衆生ありて阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、かの仏すなわち二十五の菩薩をつかわして、行者を擁護して、もしは行、もしは住、もしは坐、もしは臥、もしは昼、もしは夜、一切の時、一切の処に、悪鬼悪神をしてそのたよりをえしめざるなり。また観経にいうがごとし。もし阿弥陀仏を称礼念して、かのくにに往生せんと願ずれば、かの仏すなわち無数の化仏、無数の化観音、勢至菩薩をつかわして、行者を護念したまう。またさきの二十五の菩薩等と、百重千重行者を囲遶して、行住坐臥一切時庭、もしは昼、もしは夜をとわず、つねに行者をはなれたまわず。いますでにこの勝益あり。たのむべし。ねがわくはもろもろの行者おのおの至心をもちいて、往くことをもとめよ。
(1-471)
 また無量寿経にいうがごとし。もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、もし十声にいたるまで、もし生ぜずは正覚をとらじ。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさにしるべし、本誓重願むなしからず、衆生称念すればかならず往生をう。また弥陀経にいうがごとし。もし衆生ありて阿弥陀仏をとくをききて、すなわち名号を執持すべし。もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏か称してみだれざれ。命おわらんとするときまで、阿弥陀仏もろもろの聖衆と現じて、その前にましまさん。この人おわらんとき、心顛倒せずしてすなわちかの国に往生することをえん。仏、舎利弗につげたまわく、われこの利をみるがゆえにこの言をとく。もし衆生ありてこの説をきかんものは、まさに願をおこしてかの国に生ぜんと願ずべし。次下にときていわく、東方の如恒河沙等の諸仏、おのおの本国にして、その舌相を出して、あまねく三千大千世界におおうて、誠実の言をときたまわく、なんじら衆生、みなこの一切諸仏の護念したまうところの経を信ずべし。いかんが護念経となづくる。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、一日、下至一声乃至十声、一念等におよぶまでかならず往生をうと。この事を証誠せるがゆえに護念経となづく。つぎしもの文にいわく、もし仏を称して往生するものは、つねに六方恒河沙等の諸仏のために護念せらる。かるがゆえに護念経となづく。いますでにこの増上の誓願あり。たのむべし、もろもろの仏子等、なんぞ意〈こころ〉をはげまして去〈ゆか〉ざらんや。(智昇法師の集諸経礼懺儀の下巻は善導和尚の礼懺なり。これによる)
 【字解】一。『十往生経』 具には『十往生阿弥陀仏国経』という。弥陀の浄土へ往生するに十種の法あることを説いてある。『貞元録』二十八には偽経の中へ入れてある。
(1-472)
 二。二十五菩薩 観世音菩薩、大勢至菩薩.薬王菩薩、薬上菩薩、普賢菩薩、法自在王菩薩、陀羅尼菩薩、白象王菩薩、虚空蔵菩薩、宝蔵菩薩、徳蔵菩薩、金蔵菩薩、光明王菩薩、金剛蔵菩薩、山海慧菩薩、華厳菩薩、日照王菩薩、月光王菩薩、衆宝王菩薩、三昧菩薩、獅々吼菩薩、定自在王菩薩、大威徳菩薩、大自在王菩薩、無辺身菩薩の称。
 三。化仏 衆生の器に応じ、種々に形を変えて顕われ給う仏身をいう。
 四。観世音 梵名を阿縛廬枳柢溼伐羅(Avalokitesvara)といい、観自在と直訳する。光世音、救世菩薩などという。観世音と訳するのは、「普門品」にこの菩薩はその名を称える衆生の音声を観て救い給うとある故である。然し観世音という訳は誤訳であるとしてみる。シュワラをスワラとみて訳したものらしい、阿弥陀仏の左の脇士であって仏の慈悲を表し、智慧の表衆〈あらわれ〉であるところの右の脇士、勢至菩薩と相対する。
五。勢至 大勢至菩薩。梵名麿訶薩多摩鉢羅鉢多(Maha-Sthama-Prapta)、大精進、得大勢とも訳する。智慧の大きな勢〈いきおい〉が一切の処に至るという意〈こころ〉、阿弥陀仏の右の脇士で智慧を表する。即ち智慧の光を以て一切衆生を照して救い給う菩薩である。この菩薩、足を投ずれば三千世界及び魔の宮殿を震動するという。
 六。三千大世界 大千世界を三千倍したる世界。上四五〇頁をみよ。
 七。六方 東方、南方、西方、北方、下方、上方の称。
 八。増上誓願 増上縁となって下さるる誓願。
 九。智昇法師 唐の人、律を善くし、二乗の学に通じ、西京、崇福寺に住す。開元十八年に、『開元釈教
(1-473)
録』二十巻を著わし時の皇帝に献ぜられたが、その録は勅に依り、蔵中に編入せられてある。
 一〇。『集諸経礼懺儀』 二巻。智昇法師の撰。諸経中の礼讃の文を集めたもので上巻は諸経中の礼讃文、下巻は善導大師の『往生礼讃』を全部収めてある。縮蔵、調の十に入れてある。
 一一。善導和尚 支那臨淄の人。隋の大業九年(紀元六一三)に生れられた。道綽禅師の後を受けて、大〈おおい〉に浄土教を興し、専ら念仏をすすめられた。支那浄土教の綱格を創立したのは和尚の功である。永隆二年三月二十七日六十九歳て往生せられた。『観経四帖疏』、『往生礼讃』、『法事讃』、『観念法門』、『般舟讃』等の著書があった。上四五六頁をみよ。
 【文科】『礼讃』の文の中最後に礼讃後序の現当の両益、即ち護念と往生とを明す文を引き給うのである。
 【講義】また曰く、問う、阿弥陀仏の名号を称え、身に礼し、心に観じ奉ったならば、現世に何程の功徳、利益が獲らるるか。
 答えて曰く、もし阿弥陀仏の名号を一声でも信じ称えるならば、直〈ただち〉に八十億劫という長い間の生死の重罪を除滅することが出来る。身に礼すること、心に念ずることも、これと同じ功徳がある。『十往生経』に曰く、もし衆生ありて、阿弥陀仏の名号を信じ称えて、往生を願えば、阿弥陀仏は直にこれを知しめして、二十五菩薩を遣わして、この念仏の行者を擁護〈おまも〉り下され、行く時、坐する時、往〈とどま〉る時、または臥〈いぬ〉る時も、昼夜を択ばず一切時でも、
(1-474)
一切処〈どこ〉にいても、悪鬼悪神等の外魔をして、隙を窺〈うかが〉わしめないようにいたし下さる。また『観無量寿経』には、阿弥陀仏の名号を称え、身に礼し、心に念じ奉りて、かの極楽世界に往生せんと願えば、その阿弥陀如来は、即時に無数の化仏、無数の化観世音菩薩、大勢至菩薩を御遣わし下され、その念仏の行者を護念〈まもり〉たまう。即ち観音、勢至は二十五菩薩の上首であるから、上に申した二十五菩薩とともに、百重千重にこの念仏の行者を囲繞〈とりかこみ〉て、行住坐臥の何時でも、何処にでも、昼夜を捨てずに、常にこの行者の辺〈ほとり〉を離れ給うことはない。
 既にかような勝〈すぐ〉れた現世の利益がある上は、誠に憑〈たのもし〉いことである。願くは有縁の人々よ、一人一人の一大事であるから、如来回向の至心を頂き須〈もち〉いて、浄土往生を求められよ。
 また『大無量寿経』にはかように説かれてある。もし我れ仏と成らん時、十方世界のあらゆる衆生が、我が名号を十声もしくは一声にても称えるならば、必ず我が浄土へ往生せしむるであろう。もし往生せないならば、我れは仏と成らぬであろう。この本願を建てられた阿弥陀仏は今現に西方の極楽に在して、仏に御なり遊ばされてある。即ち「称うるばかりに助けるぞ」という本願が出来上らせられた。故にこの本願の虚しからざることを信じ
(1-475)
て、称名念仏する衆生は、屹度〈きっと〉かの極楽浄土へ往生することが出来るのである。
 また『阿弥陀経』にはかように説かれてある。「もし衆生あって、阿弥陀如来が無量の光明を放ちて、衆生を摂取し給うことを聞き、即ちその名号の謂れを一心に堅く信じ(執持)て、一日、二日、もしくは七日というように命のある間、信の上から一心に余へ心を散さず、名号を称うれば、命終る時まで、かの阿弥陀如来は、観音勢至等の諸の聖衆とともに現〈まのあた〉りその人の前にましますであろう。さて又命終らんとする時は心乱れず、顛倒せず、即ちかの極楽浄土へ往生することが出来るであろう。釈迦牟尼仏、舎利弗尊者に告げ給うのである。もし衆生ありてこの他力の教えを聞くことがあるならば、応に極楽往生の願いを発して、この浄土へ生れることを願うがよい」。次下の文には、東方の恒河の沙〈すな〉の数程の限りなき諸仏、並びに南西北方、上下に於ける恒河沙数〈かぎりのない〉の諸仏は、各その国に於いて、その舌相を以て三千大千世界を覆い、下の如く誠実〈まこと〉の説法をなし給う。汝等衆生よ、この一切諸仏に護念せらるる経を信ぜよ。なぜこの経を護念経と名けるかと云えば、もし衆生ありて阿弥陀仏の名号を称えて、七日もしくは一日、或いは十声一声にても、一念の信まことな
(1-476)
らば、必ず往生することが出来る。この事を証拠立てる経であるから護念経と名けるのである。またその次の経文にいわく、「もし阿弥陀仏の名号を称えてかの仏の浄土へ往生する者は、常に東西南北上下の六方の恒河数〈かぎりなき〉の諸仏の護念〈おまもり〉を受ける。それ故にこの経を護念経と名ける。」
 今既に我れ等衆生の往生に就いて勝れたる強縁(増上縁)である所の弥陀の誓願がまします。十方の如来は舌を舒〈のべ〉て間違いはないと証拠立てて下さる。誠に憑〈たのもし〉いことである。諸の仏の子(凡ての人々)よ、何故に意を励まして、往生の思いを発さないのであるか。以上の文は唐の智昇法師の著たる『集諸経礼讃儀』の下巻に載せられたる善導和尚の『礼讃』である。これに依りて上に掲げたのである。
 【余義】一。この文は【文科】に示す如く『礼讃』の後序の文を引き給うたのである。現益の諸仏諸菩薩の護念の益と、当益の往生の大益とを明〈あか〉し、この両益は、名号のいわれを聞信〈ききひら〉く時に、自然に御与え下さるる両益であるから、こういう大益があると大益を挙げ給うのが、そのまま名号讃嘆になるのである。
 それで、この文の中には、『十往生経』と『観無量寿経』と『大無量寿経』と『阿弥陀経』の
(1-477)
三文を引用してある。大体からいうと前の『十往生経』と『観無量寿経』の文を引いて現益の滅罪と護念を示し、『大無量寿経」の文と『阿弥陀経』の文を引いて往生の大益を示し給うのである。勿論これは大体の科段を切って見たので、『阿弥陀経』の中には護念の益も往生の益も説いてあるのである。宣明師は『広文類顕真録』に於いて、この『阿弥陀経』の文は証生増上縁の文であるけれども、『礼讃』に引いて摂生増上縁の文とし給うたのであると曰われ居るのはこの意味である。
 二。「乃至七日一心称仏不乱、命欲終時」の文について、『阿弥陀経』の文の顕相では「命終らんとするときに」ということであるが、我が聖人は経文の穏密の義を探り得て命終らんとする時までという意味に読み給うたのである。『一多証文』に
 一切臨終時というは、極楽をねがうよろずの衆生、いのちおわらんときまでということなり
とあり、臨終の時に目の前に顕われて護念し給うのでなく、平生に既に前後左右につきまとうて護念し給うとなされたのである。
 三。この文の中『大無量寿経』の文というは、十八願加減の文と称し、非常に有名なる御
(1-478)
文である。法然聖人も、六八の肝也眼也と推讃なされてある。我が親鸞聖人に真影を御許しになる時もこの文を御銘に遊ばされたことは人の知るところである。この文は字数も丁度四十八字にて、前半は十八願因願の意、後年はその成就文の意である。この前半を正しく加減の文というのである。
 それでこの十八願加減の文について一言して置こう。
 先ず真宗に於いて第十八願加減の文というのに五種ある。四種は善導大師に出で、他の一種は道綽禅師に出でて居る。先ずこれを列ねてみよう。
 (一)若我成仏、十方衆生、称我名号、下至十声、若不生者、不取正覚(礼讃)
 (二)若我成仏、十方衆生、願生我国、称我名字、下至十声、乗我願力、若不生者、不取正覚(観念法門)
 (三)一切善悪凡夫、得生者、莫不皆乗阿弥陀仏、大願業力、為増上縁也。(玄義分)
 (四)若我成仏、十方衆生、称我名号、願生我国、下至十念、若不生者、不取正覚(「玄義分」)
 (五)若有衆生、縦令一生造悪。臨命終時、十念相続、称我名字、若不生者、不
(1-479)
取正覚(『安楽集』上 三十六丁)
 然しこの中で、第三は、文の体裁が頗る違って居るので、一見それとは解らないが、文意が欠張り、第十八願の覚召〈おぼしめ〉であるから、十八願加減の文の中に入れたのである。
 最もこの加減の文というた初まりは、『浄土真要鈔』末(二十三丁)に、「十八願をひき釈せらるる処々の解釈というはいずれぞや」と問うて、その答に上の第三の文を上げ、次に第四の文、第二の文、第一の文を引き、
  これらの文、そのことば、すこしき加減ありといえども、そのこころはおおきにおなじ
といわれたのである。この下の『六要鈔』には加除という語が使うてある。
 見らるる通り、いずれの加減の文でも、本願の十念を出して(第三文は別)三信を略してある。これは、その時代の要求から、自然にそういう風になったのである。それは何故かというと、道綽禅師、善導大師の当時、もしくはその以前から、時代でいうと梁唐の時分、通論家というて、無著菩薩の『摂大乗論』を通釈する一派の教家があって、この人達が、『摂大乗論』に説いてある別時意趣の説というを振り回して、浄土宗の問題をいろいろ
(1-480)
論議して、それがために、浄土教が実際哀えたことがあるのである。別時意趣の説というのは、ただの発願や念仏では、直接に証果を得ることの出来るものではなく、往生成仏の真因ではなくて、猶長い多劫の修行を経て成仏するための縁になるのであるが、それを方便を以て、一応近く来世の往生成仏が出来るというたものであると説くのである。こういう浄土教の不為〈ふため〉になる説が、善導大師の御時代以前から跋扈して居ったので、大師は、いつもこの通論家に対して、論議を重ね、浄土教を擁護してい給うたので、今もその必要から、加減の文に、三信を略して、十念を出し給うたのである。即ち、その通論家の人達の論議の要点が何事も願行具足してこそ初めて証果を得ることを出来るのに、浄土願生の人はただ願だけあって行がないというにあったから、善導大師はこれらの人達に対して浄土願生の人も願行具足であるということを成り立たせられるので、それには信心よりは称名を出した方が都合がよいから、三信を略して称我名号を加えられたものである。然らば何故称名を出せば都合が好いかというと、善導大師の六字釈にもある通り、口に出して、南無阿弥陀仏を称うる所に、南無の願と阿弥陀仏の行とが具わって居るからである。こういう風に説いて行けば、通論家の人達も厭応〈いやおう〉は曰われぬことになるのである。
(1-481)
 四。然し三信を略すというて、全然無用のものを省略したというのではない。言を換えていえば三信の体を略したのでなく、ただこの名目を除いて義を称名に摂したのである。また称我名号の四字は取って居るけれども、別に新たに行体を加えたのでなく、乃至十念の行体に称我名号の名目が加わっただけである。意義は少しも変って居らないのである。
 然らば、その称我名号に三信の義を摂するというはどういふ意かというと、『和語灯録』五(二十一右)に「衆生称念必得往生と知りぬれば、自然に三信は具するなり」とあるが、この意を示して居るのであって、称うるものを助けんという本願を信ずるのが三信であるから、わがはからいをまじえず称名するところに自然に三信が具足して居るのである。即ち、念仏の称えごころが三信、三信具足して称うるが称名、信行全く不離である。道綽禅師も、善導大師も今この不離の関係にある信を略し、行を出し給うたのである。これに依って、加減の文というけれども、実際は義を加減したのではなく、ただ語を加減したのであるということを明かに知らねばならぬ。

 又云言弘願者如大経説一切善悪凡夫得生者莫不皆乗(貪陵反、駕
(1-482)

也勝也登也守也覆也)阿弥陀仏大願業力為増上縁也

 【読方】またいわく、弘願というは大経の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることをうるは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗(食陵の反、駕なり、勝なり、登なり、守なり、覆なり。)じて、増上縁とせざるはなきなり。
 【字解】一。弘願 今は要門に対する語にて定散二善の法門を要門といい、他力の念仏往生の法門を弘願という。
 二。大願業力 大願力と大業力。弥陀五劫思惟の本願の力と、兆載永劫の修行の御力のこと。
 二。増上縁 阿弥陀如来の光明が念仏の衆生のみを摂取し給う理由として、善導大師は親縁、近縁、増上縁の三縁を立てられる。親縁というは、如来の三業と、衆生の三業とが密接して相離れないことをいい、近縁とは、仏を見たてまつらんと願う衆生の念〈おもい〉に応じて仏その衆生の前に現われ給うことである。増上縁というは即来の本願がすぐれてつよい縁となって、邪業繋〈よこしまのごうけ〉に碍えられず、衆生を往生せしめ給うをいうのである。『銘文』には「増上縁とはすぐれたる強縁なり」とあり。すぐれてつよい縁と解すればよい。
 【文科】善導人師の釈文を引き給う中、これより「玄義分」の文を引き給うのである。「玄義分」の文は二つに分れて、弘願釈の又と六字釈の文とになって居るが、今はその弘願釈の文を引き給うのである。
 【講義】、また曰く、阿弥陀仏の純他力の弘願法というならば、それは『大無量寿経』に説かれてある通りである。即ち一切善悪の凡夫が、極楽へ往生することの出来るのは、決して
(1-483)
凡夫自身の力でない。みな阿弥陀如来の大願業力に乗(この字の音は食陵の反切でジョウ、訓は駕――馬車に乗ること。勝――乗るは上に乗るのであるから、勝った者がのるとも云われる。それ故にこの勝の意味があるのであろう。登――舟に乗ることを舟に登るともいう、或いは登用の意。乗ると同意。守――舟等に乗れば、その主になって守るの意味がある。覆――乗るは上から覆うとも云われる。他力信仰は、本願に乗托することである。それ故にこの「乗」の字が大切である)する、その大願業力を強縁とせないものは一人もないのである。即ち我等はこの御与えの強縁によりて御浄土参りが出来るのである。

 又云言南無者即是帰命亦是発願回向之義言阿弥陀仏者即是其行以斯義故必得往生

 【読方】またいわく、南無というは即ちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というは即ちこれその行なり。この義をもてのゆえに、かならず往生をう。
 【字解】一。斯義 願と行と具足して居るわけがらのこと。【文科】「玄義分」の二文の中今は六字釈の文を引き給うのである。
(1-484)
 【講義】さて上に第十八願の意を説示〈ときしめ〉したが、その体は何かと言えば南無阿弥陀仏の名号の外はない。即ち南無は帰命と訳す。我々凡夫が如来の仰せに従うことである。御助けを信ずることである。又この南無は発願回向の意味がある。これは我々凡夫の方から云えば、如来の仰せに従いて、浄土へ生れんと願うこころである。如来の方から云えば、我々凡夫に功徳の宝を与えてやりたいとおねがいになる真心〈まごころ〉である。次に阿弥陀仏というは、我等凡夫の浄土へ往生する所の行である。正定の業因である。かように南無の願と、阿弥陀仏の行とが、一名号の中に具足〈ととの〉うてあるから、この名号〈みな〉一つを戴くことによりて、必ず極楽浄土へ往生することを得るのである。

 又云言摂生増上縁者如無量寿経四十八願中説仏言若我成仏十方衆生願生我国称我名字下至十声乗我願力若不生者不取正覚此即是願往生行人命欲終時願力摂得往生故名摂生増上縁

 【読方】またいわく、摂生増上縁というは、無量寿経の四十八願のなかにとくがごとし。仏ののたま
(1-485)
わく。もし我成仏せんに、十方の衆生、わがくにに生ぜんと願じて、わが名字を称すること、しも十声にいたるまで、わが願力に乗じて、もし生ぜずといわば正覚をとらじと、これ即ちこれ往生を願ずる行人、いのち終らんとするとき、願力摂して往生をえしむ。かるがゆえに摂生増上縁となづく。
 【字解】一。摂生増上縁 『観念法門』(十左)に五種の増上縁がある。滅罪増上縁。護念得長命増上縁、見仏増上縁、摂生増上縁、証生増上縁、の五種である。摂生というは摂受衆生ということで、助かるまじき衆生を願力不思議を以て助け給うことである。如来の本願がこの衆生を救済〈すく〉い給うつよい縁となるを摂生増上縁というのである。
 【文科】善導大師の釈文を引き給う中、今は『観念法門』を出し給うのである。これがまた二つに分れて一は摂生増上縁の文、二は証生増上縁の文である。今はこの摂生増上縁の文を引き給うのである。
 【講義】また云く、五種の増上縁の中、摂生増上縁というのは、『大無量寿経』の四十八願の中に説いてある。即ち四十八願を総括〈すべくく〉っている第十八願には、かように説いてある。阿弥陀仏の仰せらるるよう、もし我れ仏になりたらん時、十方のあらゆる衆生が、我が極楽浄土へ生れんと願い、我が名号を十声乃至一声にても称えるならば、必ず本願他力に乗せられる。かく信ずるものは必ず極楽に往生するであろう。もし往生せないようなことがあるならば、仏にはならぬ、これ即ち平生の時往生を願いて、往生一定の身の上となった
(1-486)
念仏行者が、この世の命終らんとする時も、そのまま弥陀の本願力に摂めとられて往生することを示すのである。それ故に弥陀の本願を指して、衆生を摂めとる増上縁と名けるのである。
 【余義】一。この文は、『銘文』末(二右)以下に委しく解釈してある。ただ今はこの『銘文』の御指南に依ってこの文を解釈したのである。それでこの講義には特に語を加えて解釈した所があるからよく味おうて貰いたい。『銘文』に、「称我名字というは、われ仏にならんにわが名をとなえられんとなり」とある。たのませてたのまれ給う弥陀というと同じくこの御釈に依って、我等の南無阿弥陀仏と称うるのが直に如来の本願力であり、他力であることがしれるのである。
 また同じく『銘文』に「下至十声というは、名字をとなえられんこと、しもとこえ〈下十声〉せんものとなり。下至というは、十声にあまれるもの一念二念聞名のものを往生にもらさずきらわぬことをあらわししめすなり」とある。下至という語に至極短命に称名することも出来なんだようなものを聞信一つで助けるぞという御慈悲の至極を示し、十声の語〈ことば〉で称名は一声二声に限らぬかと称えられるだけ称えよという実践上の報謝行を示し給うてあるので
(1-487)
ある。
 命欲終時の語も、命終らんとする時に初めて摂取して連れて行きて下さるということではなく、平生の時救済せられた衆生が臨終の時もそのまま極楽に迎いとり給うことを示したのである。
 今一つここには第十八願の三信のうちでは欲生心だけ出してある。これは前四八〇頁にも示した通り善導大師は通論家に対戦する必要上願行具足ということを特に曰わんために欲生の願と下至十声の行を出して願行具足して居るといわれたものである。この欲生心のなかに他の至心信楽の二心がこもって居るのである。それで『銘文』には、特に「ちかいを信じたるもの」の語を加えてある。このことも講義中に書き入れてあるから、この意を以て更に講義を読み直して貰いたい。

 又云欲使善悪凡夫回心起行尽得往生此亦是証生増上緑 已上

 【読方】またいわく、善悪の凡夫回心し起行して、ことごとく往生をえしめんと欲す。これまたこれ証生増上縁なり。已上
(1-488)
 【字解】一。回心 心をひるがえすこと、今まで難行雑善に思をかけたものが心を翻して弥陀如来を仰ぎ信じ奉ること。
 二。起行 信心の上から行業を起すこと、口に称名、身に礼拝、心に憶念これみな起行である。
 二。証生増上縁 釈迦如来諸仏及び衆生の往生を証成し給うて、その証成が御縁となって、衆生が救済せられること。
 【文科】『観念法門』の証生増上縁の文を引き給うのである。
 【講義】また云く、この『大経』に説かれてある弥陀の本願は、『観経』に説かれてある九品の善悪の凡夫をして、自力の心を捨て他力本願を信ぜしめ、その信の上から報仏恩の行を起さしめ、かくして尽く弥陀の浄土へ往生せしめんとするの外はない。このことを釈迦、諸仏が『小経』に於いて、間違いはないと証誠し給うのである。この諸仏の証誠によりて、衆生が信心を獲るようになることであるから、これを証生増上縁と名けるのである。

 又云門門不同八万四為滅無明果菜因利剣即是弥陀号一声
(1-489)
称念罪皆除微塵故業随智滅不覚(教音)転入真如門得免娑婆長劫難特蒙知識釈迦恩種種思量巧方便選得弥陀弘誓門 已上抄出

 【読方】またいわく、門々不同にして八万四なり。無明と果と業因とを滅せんがためなり。利剣はすなわちこれ弥陀の号〈みな〉なり。一声称念するにつみみなのぞかる。微塵の故業、智にしたがいて滅す。おしえざるに(教の音)真如の門に転入す。娑婆長劫の難を免るることをうることは、特に知識釈迦の恩をこうむれり。種々の思量巧方便をもて、えらびて弥陀弘警の門をえしめたまえり。已上要を抄す
 【字解】一。八万四 八万四千の法門の略語で仏教の多門なることを示したもの。この八万四千の数を数えるに多途中あるけれども、一二を挙ぐれば、(一)衆生の煩悩に八万四千あるから、これを対治する法門にも八万四千種ありとする説、(二)三百五十度無極の法門があって、この一々法門に布施持戒などの六度があるから、二千一百の度無極の法門となり、この法門を以て、貪瞋、痴、等分の四種の衆生を化度するから八千四百の法門となり、この法門に一々また十法門あるから八万四千の法門となるという説。
 二。無明 煩悩の根本、迷の根本になるものにて、事理に闇きことをいう。
 三。果 生死の苦果――苦。
 四。業 煩悩から生ずる罪業――業。
 五。因 生死の苦果の因となる煩悩――惑。
(1-490)
こういう以上の順序になって、本文では惑業苦と無明のことであるけれども、御点から読むと無明が惑、業因が業、果が苦になって居るのである。
 六。微塵の故業 かずかぎりのないふるき業。
 七。智 念仏の智慧。
 八。真如門 第十八願の他力念仏のこと、この他力念仏に依って、浄土に往生し真如法性 の智をさとるから他力念仏を真如の門と名けたのである。
 九。娑婆 梵音サハ(Saha)、忍土、忍界などと訳する。心の内に諸の煩悩あり、外には寒暑風雨等ありて、その苦〈くるしみ〉を堪え忍ばねばならぬ世界であるから名けたもの。
 【文科】善導大師の釈文の中最後に『般舟讃』の文を引き給うのである。
 【講義】また云く、釈尊一代の教の門戸は種種〈いろいろ〉に頒〈わ〉かれて、八万四千の多きに達している。根本の惑なる無明と、苦みの果報と、その業因とを滅するには、これらの教の中に於いて、弥陀の名号は誠に利剣である。この利剣に較ぶれば、他の多くの教えはみな鈍剣と云わねばならぬ。一声称えただけでもあらゆる罪は除かれる。啻〈ただ〉に現在の罪ばかりでない。曠劫以来の微塵の数ほど多い過去の悪業も、この智慧の念仏に随って滅びる。さてこの念仏の功徳を信じながらも、自力の心を抱いている第二十願真門の機類も、上の如く一代教の
(1-491)
中から、この念仏の利益を信ずるようになると、覚〈おしえ〉(音は教である。それで同音の教の義に従うてヲシヘと訓〈よ〉む)ざれども、自然と第十八願の純他力の弘願に転じ進むに至る。誠に娑婆長劫の長い難〈くるしみ〉を免れることの出来るのは、偏に大善知識たる釈迦牟尼世尊の特殊の御恩徳の然らしむる所である。上のように種々の思量や巧な方便をめぐらし給いて、一代諸教の自力要門から、念仏の半自力の真門に入り、遂に選んで純他力の弥陀の弘願門に入らしめて下された。


第四科 私釈

 爾者南無之言帰命帰言(至也)又帰説也説字(悦音)又帰説也説字(税音悦税二音告也述也宣述人意也)命言(業也招引也使也教也道也信也計也召也)是以帰命者本願招喚之勅命也

 【読方】しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は(至なり)。また帰説なり。説の字は(悦〈えつ〉の音)また帰説なり。説の字は(税〈さい〉の音。悦税の二音。告なり述なり。ひとのこころをのべのぶるなり)。命の言は(業なり。招引なり。使なり。教なり。道なり。信なり。計なり、召なり)。ここをもて帰命は本願招喚(マネキヨビタマウ)の勅命なり。
(1-492)
 【文科】以上、支那の師釈のうち、正依の師釈を引き終ったから、茲に、遠くは印度支那五祖、近くは善導大師を承けて私釈を加え給うのである。この私釈は全く六字訳であるが、これが帰命字訓釈、発願回向釈、即是其布釈、必得往生釈と分れる。ただ今は、帰命字訓釈である。
 【講義】上来〈これまで〉広く名号讃嘆の文を集め、殊に次上には善導大師の六字釈を引いたが、今これらの引文によりて、本巻一部の骨目たる南無阿弥陀仏の名号を解釈するならば、南無の二字は帰命と訳す。「帰」は「至」るの義であるから、我等凡夫の心が弥陀の勅命に至り趣くことである。また「帰」の字は「帰説〈きえつ〉」とも熟する。その「説」の字は音は悦、即ちその意味は悦服であるから帰説〈きえつ〉は帰悦の義となり、悦〈よろこ〉んで弥陀の仰せに服することである。即ちヨリタノム意である。また「帰」の字は「帰説〈きさい〉」と熟する。この時の「説」は税〈さい〉の音である。その意は舎息即ち「やどり処」、「やすみ処」にして、驟雨〈にわかあめ〉に逢うた時、大木を宿り処とするようなもので、ヨリカカルの意である。
 さてこの「悦〈えつ〉」「税〈さい〉」の二字を説の字を写し給うてあるが、説の字は「告ぐる」と訓〈よ〉む。告ぐるは阿弥陀如来がよりかかれよりたのめと告げ給うことである。また「述ぶる」と訓む。述ぶるは「他人の意をそのまま述べること」であって釈迦如来の御教である。帰命の帰が
(1-493)
「至る」というも「帰説〈きえつ〉」、「帰説〈きさい〉」というも、みな我等凡夫の方から如来へ帰入する意味であるが、今この「悦〈えつ〉」と「税〈さい〉」の字を説の字を以て書しその説の字に悦〈えつ〉税〈さい〉の二音あり、又は説の字に告述の二訓があって上に述べる如き意味があるとすると、行者の帰入の裏に、弥陀がつかいに弥陀が来て、よりかかれよ、よりたのめよと告げ給う弥陀の勅命と釈尊が弥陀の本願の意をそのまま述べ給うという二尊の勅命を味わうことが出来る。即ち本願に帰入する思いは、二尊の御喚声に目が覚めたこととなるのである。
 次に「帰命」の「命」は業――業天、天命、仏天の御計いの意。招引〈まねきひく〉――願力によりて自然に牽かるること。使――但使信心求念の使の意にて、欠張り他力をあらわす語。教――教命の意。道――ものを言うの意、即ち弥陀の仰せ。信――音信〈おとずれ〉、弥陀のお便り(善知識の仰せ)。計――弥陀のおん計い。召――召喚の意、直ちに来れとの弥陀の招喚のこと。
 以上細〈こまか〉に帰命の字訓を繹〈たず〉ねてみるに、帰命というは弥陀如来が、吾等凡天に対〈むか〉いて「直〈ただち〉に来れ」と喚び給う本願の勅命である。
 【余義】一。今茲で、帰命の字訓を出して、私釈をし給うのであるが、この私釈は、総じていへば、上に引用し給うた五祖の名号讃嘆の文を受け、別しては上の善導大師の六字
(1-494)
釈を受けて来て「行巻」に於いて正しく説き明さるべき所行の法体、即ち南無阿弥陀仏を解釈し給うのである。

         ┏言南無者帰命━━━━━━南無帰命
  南無阿弥陀仏━╋亦是発願回向之義━━━━発願回向
         ┣言阿弥陀仏者即是其行━━即是其行
         ┗以此義故必得往生━━━━必得往生

 二。この帰命の字訓釈は、大体に於いて三段に分れて居る。総釈と別釈と合釈である。総釈というは、「爾者南無之言帰命(しかれば南無の言は帰命なり)」の八字で、これは善導大師の語である。即ち大師の語をかり来って総釈し給うものである。この総釈を受けて、別釈に帰と命との字訓を出し、訓釈をなし終って、今度は帰と命とを合し、「是以帰命者本願招喚之勅命也(ここを以て帰命は本願招喚の勅命なり)」と合釈したものである。
 今この字訓釈の余義を少しく述べたいと思うのであるが、それについて、先ず第一に字訓の拠処〈よりどころ〉を示そうと思う。
 「帰言至也(帰の言は至なり)」という訓は字書にはない。『大経述文讃』上(三十)に、『大経』の会当帰之の文
(1-495)
を解釈して、「会当者必也、帰之言者至也(会当とは必なり、帰の言は至なり)」とある。それが拠処〈よりどころ〉である。
 「帰悦也帰税也」は、『詩経』曹風蜉蝣篇に「於我帰説(我において帰説せよ)」とある。
 「告也述也宣述人意也(告なり、述なり、人のこころを宣べ述ぶるなり)」は『広韻』劉凞の釈名に出て居る。
 「業也招引也」は『述文讃』下(三十一)に『大経』の追命所生の文を解釈して「命者招引也、又命者業也(命とは招引なり、また命は業なり)」としてある。
 「使也教也道也信也計也召也」は『広韻』に出て居る。
 三。字訓の接処は上に出した通りであるが、次にこの字訓の意味をあらまし述べたいと思う。講義の方と合せ読んで貰えば、大体この字訓釈の意味が知れようと思う。
 前にもいう通り、帰の正訓は至なりで、これは義訓である。「帰悦也帰枚也」は熟字訓というものである。即ち帰説といふ熟字を以て帰の字を訓釈したのである。「告也述也」は帰説の説の字を訓じたもので、これは転訓というものである。「宣述人意也(人のこころを宣べ述ぶるなり)」は述の字を解釈したものである。それであるから、今この帰の字の下に出でて居る訓釈は、一義訓(至)二熟訓(帰悦、帰税)三転訓(告也述也)というべきである。
 「帰言至也(帰の言は至なり)」の解釈に就いては、古来いろいろの説がある。今ここに三説を並べて見よう。
(1-496)
 第一の説は、至というは、「信巻」の至心釈の下に、至者真也、実也誡也とありて、いわゆる真実至誠の義である。即ち至誠心という時の至である。『起信義記』上(二十八丁)には「帰命者顕能機至誠(帰命とは能機の至誠を顕わす)」とあって、今、他力回向の真実心を以て弥陀を頼みまいらするをいうのである。『御文』にたすけましませとおもうこころの一念の心まことなれば」とあるが、この意であるというのである。これは香月院師の説である。
 第二の説は至は字書に到也〈いたるなり〉とあって、到ることである。何がいたるのかというに、弥陀如来の真実が行者の心にいたり届くことである。これは円乗院師の説である。
 第三説は、第一説と第二説の折衷説とも見るべきもので、至は、第二説と同じくいたることであるが、いまは、弥陀如来の方から、衆生へいたって下さることではなくて、行者の方から、弥陀の本願に帰入することである。『御文』に、ふかく如来に帰入するこころとあるがこの意味であるというのである。これは開悟院師の説である。
 どの説でも、大した相違はないので、いずれに解しても差支ないが、今は、第三説が最も当を得て居るように思われる。
 次に帰説の説は、悦の時は、入声にて、喜也楽也服也と注して、帰説し、服従すること
(1-497)
である。即ち弥陀の仰せに喜び従うことである。それゆえに、親鸞聖人は、この意を、示して帰悦の字の左に、ヨリタノムナリと仮名を以て訓を施し給うたのである。税〈さい〉の音の時は去声にて、詩経の朱註に税は舎息也とあって、やどりどころにする義である。本願力に乗托して、身を任せやどすことであるからこの字の左には聖人はヨリカカルナリと訓を施し給うたのである。この帰悦、帰説というのが帰の字の熟字訓である。
 四。然らば何故に直接に悦税の二字を出せばよさそうなものを、帰悦帰税と説の字を出したものかというと、これは、特別に茲に本願招喚の勅命ということを示し給わんがためである。帰の言は至なりで、至の心栄〈こころばい〉は帰悦帰税であるが、その帰悦帰税するのも、我が方からするのではない。久遠劫来の弥陀如来の真実心が至り達〈とど〉いて下されたからである。それで、今も、この帰悦帰税もこちらで帰悦し帰税するのではあるが、それを特別に帰悦せよ、帰税せよ、ヨリタノメ、ヨリカカレと喚びずめに喚んで下される遺る瀬ない本願招喚の勅命とみよという御指南である。悦税の二字をわざわざ説の字で示し給うた処に、それだけの深い意味がこもって居るのである。この意味を次に顕わして「告なり述なり、人意〈ひとのこころ〉を宣述するなり」と転訓し給うたのである。告は「仏告阿難」と宣うが如く、上より下
(1-498)
に向って喚びかけ給う語である。即ち阿弥陀如来の衆生に向って、ヨリカカレ、ヨリタノメと喚びかけ給うことである。この転訓で、説の字にそれだけの覚召〈おぼしめし〉のあることが知れるのである。次に述の字は『論語』述両篇に『述而不作(述して作らず)』とあるが如くに、向うの仰せをそのままに意を加えず、すがたを変えずに述べ伝えることである。今の場合ならば、阿弥陀如来の仰せの儘を釈迦如来が述べ給うことである。それで次に人意〈ひとのこころ〉を宣述するなりとつけ加え給うたものである。今のこの人とは「西岸上有人」、「安楽能人」などとあるその人で、阿弥陀如来のことである。釈迦如来東岸上の発遣の教法は阿弥陀如来西岸上の勅命のままである。招換の乳を乳そのままに、私の水を加えずに与え給うのが釈迦如来発遣の教法である。この発遣招喚の勅命が帰悦せよ、帰税せよ、ヨリタノメ、ヨリカカレというのである。『尊号真像銘文』には「帰命というは釈迦弥陀二尊のおおせにしたがえ、めしにかなうなり」とあるが、この二尊のおおせといい、めしとあるのが帰悦せよ、帰税せよということである。今この「行巻」は具には所行の巻ということであるから、ことさらに帰命を法の方〈かた〉にとりて、勅命といただき、この勅命に帰するすがた、即ち能帰のすがたは次の「信の巻」にいだすのである。してみれば所行の南無阿弥陀仏は弥陀如来からいへば、我をた
(1-499)
のめ、釈迦如来からいえば弥陀をたのめの勅命である。
 五。次に命の字に八訓ある。いずれも弥陀如来の勅命の意味で、法の方〈かた〉についた解釈である。
 業は大願業力である。如来の大慈悲の御はからいのことである。『御消息集』(二十一)に「ともかくも仏天の御はからいにまかせまいらすべし」とあるのがこれである。
 招引は『大経』の自然之所率(自然の率〈ひ〉く所)の意味で招き引き給うをいうのである。『尊号真像銘文』(七右)に「他力の自心信楽の業因の自然に引くなり」とあるのがこれである。
 使とは使令の義で、弥陀如来が「そうせしめ給う」ことである。致便凡夫念即生(凡夫をして念ずれば即ち生ぜしめたまう)の使である。
 教は弥陀如来の教命である。弥陀如来が自ら教え給うことである。「弥陀をたのめと御教え候〈そうろう〉人は……弥陀如来にて候」と『御一代記聞書』にあるのがそれである。
 道は「いう」という字で弥陀如来の直〈ただち〉に来れと宣〈のたま〉う喚声〈よびごえ〉のことである。
 信は音信であって、たよりのことである。「善知識は弥陀に帰せよという使なり」とある如く弥陀如来の衆生に与え給うたよりのことである。
(1-500)
 計ははからい、弥陀の御はからいのこと、弥陀如来が種々に手をまわして、善巧方便し給うことである。
 召は呼なりで、弥陀如来が声を挙げて衆生を呼び寄せ給うことである。
 六。以上、帰と命との字訓を味おうてみるといずれも弥陀如来の勅命である。それでこの解釈を終って、次に帰と命とを合して、「帰命とは本願招喚の勅命なりと」合釈し給うたのである。これは上の字訓から当然出て来ねばならぬ合釈で、帰命の二字合体を勅命とし給うのである。この御釈でいよいよ本願他力ということが知れるように思われる。帰命といえば、命に帰するというのが本義であって、機の方から法の方へ向うのであるとするのが当り前であるが、その帰命ということまでが、本願招喚の勅命なり、弥陀如来先手の御喚声であると頂く処にいうに曰われぬ他力不思議の御慈悲が流れて下さることを感ずるのである。この先手の御喚声に喚びさまされた行者の心は、その儘、あなたのおぼせにしたがうばかりである。こちらからしたがうのではなくして、あなたの御力に催されてしたがわしめられる味〈あじわい〉が、いよいよ充分に顕われて来る。この「帰命というは本願招喚の勅命なり」という御釈を項いて、次に『尊号真像銘文』本(八右)の
(1-501)
  「帰命というは如来の勅命にしたがいたてまつるなり」、
 又『同』末(四右)
  「帰命はすなわち釈迦弥陀二尊の勅命にしたがい、めしにかなうともうすことばなり」
 とある御語〈おことば〉をみれば、この間の消息が充分に会得が出来るのである。要するにおおせにしたがうのも、めしにかなうのも、帰命せよという先手の喚声〈よびごえ〉があるからである。たのませて、たのまれたまう弥陀というはこれである。これが他力念仏門の大道である。これを今この字訓釈で細〈こまや〉かに説き明し給うたのである。
 されば南無は帰命せよという本願招喚の勅命である、南無阿弥陀仏は我に帰命せよという勅命である。親の方から名乗〈なのり〉を掲〈あ〉げて、我をたのめ、我に来れという喚声〈よびごえ〉が南無阿弥陀仏である。茲に於いて私共の信仰問題の一切は我が求むるから得るものではなくて、全く御与えものであることが愈々知れるのである。
 妙好人、三河の七三郎は、若い時に御喚声がきこえず、兎や角思い煩うていたが、ある時、美濃路で、とある同行の家に泊った。そこに一人の老媼〈ばあさん〉があって、非常に御慈悲を喜んで居る。七三郎のいうようには、私はどうも如来様の喚声がきこえませぬ。どうしたな
(1-502)
らば、それがきこえましょう」と。老媼〈ばあさん〉いわく、「お前は何をいうて御座る。御前の口から出る御称名それが如来様の喚声じゃ」。これをきいて七三郎踊り上るほどに喜んだ(『真宗信者の模範』)
 終りにこの尊き実例を附記して置く。

 言発願回向者如来已発願回施衆生行之心也

 【読方】発願回向というは、如来すでに発願して衆 生の行を回施したまうの心なり。
 【文科】私釈のうち発願回向の私釈である。
 【講義】更に南無の二字に発願回向という傍義がある。これは如来の大悲回向の心をいうのである。即ち弥陀如来が、已に因位の法蔵菩薩でいらせられたる時、われら凡夫のために発願修行して、衆生往生の行たる六字の名号を成就し給い、これをわれらに回施し給う大悲を指すのである。
 【余義】一。発願回向は、字義通りに解釈すれば、衆生が願生心を発して、自分の所修の善根を浄土に回向することである。浄土門の他流では、皆こういう風に説明して居る。
(1-503)
口に南無阿弥陀仏を称うる時に、南無の二字に、この願生心を発して、自分の修めた善根を浄土に振り向ける心が具わってあるというのである。ところが、我が浄土真宗にては、この西山流や、鎮西流の解し方とは、全く異なる解釈をして居る。これは前の回向の所でも、委しく説明して置いたのであるから、その二〇二頁を参照して下されば、さように説明を異にせねばならね根本動機、即ち親鸞聖人の真意の那辺〈どのへん〉に存するかも充分会得出来ることと思う。
 二。今この「行巻」に「言発願回向者、如来已発願回施衆生行之心也(発願回向というは、如来已に発願して衆生の行を回施したまうの心なり)」とあるは親鸞聖人の真意であって、聖人の絶対他力の信仰が最も明白に顕われて居るのである。発願回向というは、愚劣の凡夫が願を発して自分の善根を回向するのではない。阿弥陀如来因位法蔵比丘の昔、今日の衆生をその儘すくいたい、たすけたいという本願を発し、一善一行、修する所の善根は悉くこれを衆生に回向して、遂に六字名号を成就したもうたことである。
 故に『大経』には
  衆のために法蔵を開き、広く功徳之宝を施す
(1-504)
諸の衆生をして功徳成就せしむ
ととき、『十二礼』には
  我れ彼尊の功徳の事を説く 乃至 衆生に回施して彼の国に生ぜしむとあり、また『浄土論』には能く速〈すみやか〉に功徳の大宝海を満足せしむ
というてある。これが経論の上に顕われて居る如来の回向である。曇鸞大師は、先二〇七頁にも記した通り、『浄土論』の第五念門の回向を、往還二種の回向を開き、この回向を如来の利他回向を伺われたのである。
 善導大師は、「玄義分」に、
  弘願というは、『大経』の説の如し。一切善悪の凡夫、生を得んとするもの、皆阿弥陀如来の大願業力に乗じて、増上緑となさざるはなし
と宣うて、同じく如来の御回向の義を示してある。
 善導大師が、かくの如くであるから、法然聖人は、猶はっきりと如来の回向し給うことを示し、『和語灯』(十三丁)には
(1-505)
  弥陀は因位の時、専ら我が名号を念ぜんものを迎えんと誓い給いて、兆載永劫の修行を、衆生に回向し給う
と宣い、猶『選択集』(九右)には
  第四回向不回向対とは、正助二業を修するものは、縦令〈たとえ〉別に回向を用いずとも、自然に往生の業を成ず、次に回向とは、難行を修するものは、必ず回向を用ゆる時に往生の因を成ず
と示して、衆生の不回向ということを示し給うてある。
 我が親鸞聖人は、内には、信仰上の実験があり、外には列祖の相承があり、愈々如来他力の回向を絶叫し、謹んで浄土真宗を按ずるに二種の回向あり、「もしくは往、もしくは還、一として清浄願心の回向成就し給う所に非ずということなし」と決し、進んで、経論釈のおくり仮名を改めて、はっきりと如来の回向を示し給うたことは前二一二頁に記した通りである。
 それで蓮如上人はこれを相承して、『御文』三帖目第八通に、
  善導釈して曰く、南無というは帰命、またこれ発願回向の義なりといえり。その意〈こころ〉いか
(1-506)
んぞなれば、阿弥陀如来の因中に於いて我等凡夫の往生の行をさだめ給うとき、乃至 我等にあたえんがために回向成就し給いて、一念南無と帰命するところにてこの回向を我等凡夫にあたえましますなり。故に凡夫のかたよりなさぬ回向なるがゆえに、これをもて、如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。このいわれあるがゆえに、
南無の二字は帰命のこころなり、又発願回向のこころなり
と示された。
 三。以上記す所に依って、我が浄土真宗の発願回向というは阿弥陀如来の本願を発して衆生に回向し給うことであるということが充分知れるであろう。然らば回向するとは何を回向するのかといえば、『一念多念証文』(三右)に「回向は本願の名号をもて十方衆生にあたえたまうみのりなり」とあるが如く、六字の名号を回向し給うのである。今の聖人の釈文には、衆生行とある。衆生行とは衆生往生の行ということで、次の即是其行である。即ち六字名号である。衆生往生の行は南無阿弥陀仏の外にないことは勿論のことである。それで『和讃』に
  安楽仏国にいたるには、 無上宝珠の名号と
(1-507)
  真実信心ひとつにて、  無別道故と述べたまう
としるし給うたのである。
 ところが『御文』の中に、五帖目十三通には、「されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたえたまうを発願回向とはもうすなり」とあり。また四帖目十四通には、「発願回向というは、たのむところの衆生を摂取して、すくいたまうこころなり」とあって、同じ発願回向の所回向の物柄を、名号というたり、無上大利の功徳というたり、また、発願回向とは、摂取の義であると説明してあるが、この差異をどうするかという問題がある。然し、無上大利の功徳というは、何の功徳かといえば、名号の功徳であり、摂取不捨というは、その名号を与え給う時に起る作用をいうのであるから、少しも差別はないのである。
 四。右の発願回向の解釈は、全く阿弥陀如来の発願回向とした解釈であって、このことは前二〇二頁と照し合せて貰えば、その意味合〈いみあい〉が、はっきりするのである。ところが、茲に、この発願回向について、真宗に今一つの解釈がある。同じく親鸞聖人の解釈であるが、今までに述べたのは、法について回向をかたり、これから記そうというのは、機につしいて回向をいうたものである。それで古来前者は約法の釈、後者は約機の釈というて居る。『尊
(1-508)
号真像銘文』に
  亦是発願回向之義というは、二尊のめしにしたごうて安楽浄土にうまれんとねがうこころなり。
とあって、二尊のめしに順〈したが〉うところに帰命は、もともと浄土に往生せんためであるから、二尊のめしに順うところに安楽浄土へ生れたいと願う意〈こころ〉があるというのである。『論註』に、願生安楽国を解釈して、「願生安楽国というは、天親菩薩の帰命の意なり」というのは今の意味を裏からいうたものである。この時には、回向というは、所謂、回思向道の回向で、思いをめぐらして、西方浄土へ向うことであって発願即ち回向、発願と回向とが同じいことになるのである。
 蓮如上人もまた『御文』二帖目十五通に、「南無という二字はすなわち極楽へ往生せんとねがいて弥陀をふかくたのみ奉るこころなり」と同じいこころで解釈し給うてある。
 この約機の釈の発願回向は一寸見ると、前の西鎮二流の自力の発願回向と同じいように見えるけれども、事実は大変な相違があるのである。他流の発願回向は願生の心を発して、自分の修めた善根を浄土へ回向して、これを以て志を遂げたいという自力の運心が
(1-509)
あるが、真宗の約機の釈の発願回向は、阿弥陀如来の発願回向の大慈悲に催おされて、浄土へ参りたいという心が自然に起るのをいうのである。回向ということも他流のこころでいえば狭善趣求の回向である、真宗の約機の回向は回思向道の回向である。決して自力の運心ではない。
 こういう風に、この発願回向にも、約法の釈の回向と、約機の釈の回向があるが、決して、矛盾どころか、離れて居るのでもなく、両釈を合せて見るといよいよ細かに、本願他力の回向ということが知れて来るのである。
 五。猶ここに、今一つ、発願回向の違うた解釈がある。それは、『執持鈔』の解釈であって、こう出て居る。
  そもそも南無は帰命、帰命のこころは、往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万善万行をして、浄土の業因となせば、また回向の義なり。
 「帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり」とは、前の約機の釈の発願回向である。帰命する所に、安楽世界に生れたいと願うこころがあるというのである。即ち回思向道の回向である。処が、彼の「このこころあまねく万善万行をして、浄土の業因とな
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せばまた回向の義なり」というは前の約法の釈でもなく、約機の釈でもない。全く別の解釈である。然し、よくこの解釈を味おうて見ると、矢張り同一の釈であるということがわかる。前には、「あまねく万善万行をして」とある。後には「なせば」とある。この「をしてなせば」の六字は、致使凡夫念即生の使の字、令諸衆生の令の字である。委しく云えば「なさしめ給えば」ということである。吾等凡夫にかかる万善万行のあろう筈がない。万善万行は名号の功徳である。この名号の全体の功徳、万善万行を浄土の業因となさしめ給えば、回向の義があるということで、矢張り如来の回向であることは明かである。その如来の回向を衆生の回向として下さるるのである。それであるから、この回向は不回向の回向ともいうべきである。
 このように、いろいろ発願回向の解釈はあって一見矛盾した解釈のようであるが、畢竟する所、すべてみな他力の回向ということをいうのである。

 言即是其行者即選択本願是也

 【読方】即是其行というは、すなわち選択本願これなり。
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 【文科】私釈のうち即是其行の釈である。
 【講義】次に「言阿弥陀仏者即是其行」という「行」というは、弥陀の撰択本願の行のこと、即ち浄土往生の正定業たる本願の名号をいうのである。この名号の中には万の功徳善根が円〈まどか〉に備わりて、あるからそれがその儘十方衆生の往生の行体となるのである。
 【余義】一。即是其行ということについて、西山流と、鎮西流と、真宗と各々その所見を異にして居る。鎮西流でいうと、即是其行の行とは、衆生の口に称うる南無阿弥陀仏、いわゆる能行の南無阿弥陀仏のこととする。而して行といえば、実は六字なれども、今は行者の願心に従って、南無を願とするから、暫らく四字を行というたものであると説明する、西山流では仏体即行の宗義を立てて、ここに阿弥陀仏というたのは、仏名ではなくて、仏体を指していうたものである。仏名はわれらの往生の行にはならない。十劫正覚の阿弥陀如来の仏体が、衆生の往生の行であるとする。而して、南無の願を以て、阿弥陀仏の体に帰るのであるとする。真宗からいうと、西山流の如く仏体がその儘、われらの往生の行とするも誤り、また鎮西流の如く、口称の能行と局〈かぎ〉るも誤りである。仏体の万徳を摂〈おさ〉め備〈とと〉えた名体不離の、本願選択の行をわれらの往生の行とするのである。もとより、「行巻」に「大
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行とは無碍光如来の名を称するなり」とありて、口称の念仏も、往生の行ではあるけれども、他力の信心より称うる念仏、即ち如来御回向の所行の法体が、口に顕われたので、大行というのである。語を換えていえば、鎮西流の如く、称えてから往生の行となるのではなくて、法体の南無阿弥陀仏の名体が、衆生往生の行であるというのである。
 かくの如く、法体の南無阿弥陀仏六字が、衆生往生の行であるというと、善導大師が、ただ今、「阿弥陀仏というは、即ちこれその行なり」と、六字の中、南無の二字を除いて、阿弥陀仏の四字を行とすると解釈されたのと、齟齬するではないかという難がある。然し、茲が妙味のある所である。真宗にては、二字即六字、四字即六字というてある。善導大師のこの六字釈は、成程〈なるほど〉一応は、六字中、二字と四字に分ちて解釈してあるやうであるけれども、二字は六字を離れた二字でなく、六字その儘の二字である。それゆえ帰命は本願招喚の勅命なりというのである。南無阿弥陀仏の六字が、来いよ来〈きた〉れよの勅命であるが、それを二字に摂めて、帰命とは本願招喚の勅命也というたものである。阿弥陀仏の四字もその通りで、六字の中、二字を離れた四字ではなく、六字その儘の四字である。それゆえ、「即是其行というは、選択本願の行なり」といわれたのである。阿弥陀仏の四字が、選択本
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願の行ではない。南無阿弥陀仏の六字が選択本願の行である。それであるから「行巻」最初の二行の細注に、選択本願の行とあるのである。善導大師の御覚召もその通りで、上に南無の二字を釈し終ったから、次に阿弥陀仏というはと、四字を出されたままで、矢張り六字の仏名を即是其行といわれたのである。このことは、「玄義分」の釈名門に、「無量寿というは乃ちこれこの地の漢音、南無阿弥陀仏というは、またこれ西国の正音」とあって、先きに南無の訳語の帰命を除いた無量寿の三字を牒して置きながら、後には、六字名号全体を出された所でも、善導大師の御心が、六字即ち四字で、六字全具の阿弥陀仏を即是其行と釈せられたのであることが明かに知れるのである。
 二。そこで覚如上人は、『執持鈔』(十二右)に「かの仏の因位の万行、果地の万徳ことごとく、名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、阿弥陀仏即是其行と釈したまえり」と記し給うた。この文に依ってみれば、即是其行の行というは、法体所帰の名号であること、阿弥陀仏即是其行の阿弥陀仏というは、二字を離した四字でなく、六字全具の阿弥陀仏のことであることか明かに知れるのである。
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 言必得往生者彰獲至不退位也経言即得釈云必定即言由聞願力光闡報土真因決定時剋之極促也必言審也然也分極也金剛心成就之貌也

 【読方】必得往生というは、不退のくらいに至ることを得ることをあらわす。経には即得といえり。釈には必定といえり。即の言は、願力をきくによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。必の言は審なり、然なり、分極なり、金剛心成就のかおばせなり。

 【字解】一。経 『大無量寿経』のこと。
 二。釈 「易行品」のこと。
 三。光闡 光は広く、闡は暢〈の〉ぶという義でひろくあらわすことである。
 四。報土 報土いう語の意味は菩薩の因位の願行に酬報して得たる国土ということである。報身仏の居し給う国土である。今ここに報土というは、弥陀如来の願行の酬報した弥陀の報土のなか、方便化土と真実報土とを分ち、その真実報土をいうのである。
 【文科】 私釈のうち、今は必得往生の釈である。
 【講義】 必得往生というは、この名号の謂れを信ずるものは、現世に於いて、聞信の一念に不退転の位に入ることが出来るということを彰わすのである。『大経』成就の文には、
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「即得往生住不退転」ととき、龍樹菩薩の『易行品』には「即時入必定」と仰せられた。この経釈ともに須いてある「即」とは、弥陀の本願力を聞信する時に、真実報土へ往生する真因が決定するが、その決定の時間の最短なるを光闡〈あらわ〉す文字である。すなわち往生の業事成弁するは、平生の時の聞信の一念であるということを示す。「必」の字は審の意、明に信ぜられたこと。また然るの意、行者の計いにあらず、願力の不思議に然しめられること。また分極〈わかちきわむ〉ること、往生一定と分明と極成〈きま〉ることをいう。故に「必」というは、他力金剛の信心が決定した相をあらわすのである。
 【余義】一。善導大師の六字釈の最後に「以此義故必得往生」の語がある。この義というのは願と行とが具足して居ることをさしていうので、南無阿弥陀仏の六字には願も行もともに具足して欠目がないから、南無阿弥陀仏を称うるものは必ず往生することが出来るというのである。
 それで大師のこの釈文の当相からいえば、無論、未来必ず浄土に往生するという当益をいうたので、『尊号真像銘文』末初丁に「必得往生というは、必ず往生をえしむというなり」と解釈してあって、親鸞聖人もこの必得往生を当益とし給うことはみるが、今この「行巻」
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では、殊更〈ことさら〉に往生といわず、現生に不退の位に入ることを示すものと解釈し給うてある。
 親鸞聖人の御覚召からいうと、文面にも出でて居る通りに、必得という二字は、『大経』願成就文の即得往生の得と、龍樹菩薩『易行品』の即時入必定の必との二字から出来た文字で、この文字の上に明〈あきらか〉に現生不退の義が顕われて居るというのである。「願成就文」の即得往生住不退転は、聞信の一念に往生を得るに定まって、現生に不退転位に入るということである。『易行品』の即時入必定も、同じく、聞名の一念に、たちどころに、往生を得るに定まった正定聚に入るということで、いずれも、現生不退の明かな証文である、それで我祖聖人は、他流の人が浄土に往生してから、この不回の位に入ると主張せらるるに反し、いつも、きびしく、信心の一念に直ちにこの不退位に入ると断定せられるので、今もこの必得往生の語について、善導大師の微意をさぐって現世不退と定められたものである。善導大師に、現生不退を宣う御覚召のあることは、『礼讃』(二十九)には「光触を蒙むるものは心不退なり」とあり、「玄義分」(四丁)には未だ安養浄土へ往生せない十方法界同生者を聖衆荘厳の中へ加えられたのでも知れるのである。この「玄義分」の文のことは、これだけいうただけでは充分にわからぬかも知れないが、信心を得て、未だ浄土に往生せない人を、
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極楽の聖衆荘厳の中に加えて、大師自らこれに帰教して居られるので、この未往生の信心者を聖衆荘厳の中に加えるというところに、大師の現生不退を主張せられた意が、充分こもって居るというのである。かくの如く、我が親鸞聖人は、大師の心を得て、茲に必得往生の語に、わざわざ現生正定聚の解釈を下されたのである。
 二。うるという字には得獲の二字がある。この二字に就いては、親鸞聖人八十八歳御筆には「獲の字は因位のときうるを獲という。得の字は果位のときにいたりてうることを得というなり」とあって、因位にうる時には獲の字を用うるようになって居るから、「必得往生といふは不退の位に至ることを獲ることを彰すなり」と、得の字を獲の字を以て見よと御指南を下されてあるのである。それであるから、『真要鈔』本(十五丁)に得の字を解釈して、「うるというはさだまることなり」とあるは得の字を獲の字で見て、即得往生というは、浄土に往生するに定まったこと、現生に正定不退に入ったことであると、説明し給うたものである。我が祖聖人の御覚召を得た説明である。
 三。この現生正定聚のことは、更に筆を改めて後に委しく申し述べねばならぬことであるが、この現生正定聚は特に聖人の上に於いて特筆大書せねばならぬ事柄である。こ
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の現生正定聚という事は、聖人が、如来の御慈悲を極度まで頂かせられた信仰の叫びである。今までは知らなんだが、我が身は現に罪悪生死の凡夫、虚仮諂偽にして清浄の心あることなし、真実の心あることなし。仕様のなかったこの奴が、一念如来の親心に気づかせて貰うてみれば、如来は久遠の昔から、この奴のために血の涙ながして案じわずらい、今現に十重二十重に光明の大縄をまわしてとりかこんでいて下さるのである。この泥凡夫が救済せられたのは明日でも明後日でもない、死ぬ時でもない。奇麗になってからでもない、善人になったからでもない、一念只今である。なみなみと御慈悲の水が我が仕様のない汚ない胸に流れ込で下された刹那である。この一念に仏心と凡心と一体になって、如来の真実心は我が心の底に入り満ちて下され、その時生死界を横さまに飛超えて、六趣四生の因亡し果滅して、最早や我が力で地獄に落ちんと思うても願力の不思議で落されぬようになったのである。正定聚不退の位に頓入したのである。初歓喜地の菩薩と同じ位になったのである。これからはおろおろして行を修して未来の果報を心配しながら待つのではない。一念須臾の問に速に疾く無上正真道を超証してみれば、今は早や、等覚補処の弥勒菩薩と同じく、現在の上に安住して、一事一物の上に溢るる光明と慈悲を味わい、未来の大
(1-519)
希望を抱いて歓喜の日暮をするのである。これが真の仏の子である。真の仏弟子であるというのである。


第五科 法照禅師の釈文

 浄土五会念仏略法事儀讃云夫如来設教広略随根終帰乎実相得真無生者孰能能与於此哉然念仏三昧是真無上深妙門矣以弥陀法王四十八願名号為仏事願力度衆生

 【読方】 浄土五会念仏略法事儀讃にいわく、それ如来、教をもうけたまうに、広略、根にしたがう。ついに実相に帰ぜしめんとなり。真の無生をえんもの誰かよくこれをあたえんや。然るに念仏三昧はこれ真の無上深妙の門なり。弥陀法王、四十八願の名号をもて仏事をなし願力をもって衆生を度したまう。乃至

 【字解】一。『浄土正会念仏略法事儀讃』一巻、略して五会法事讃という。法照禅師の撰である。五会念仏(第一会平声緩念、第二会平上声緩念、第三会非緩非急念、第四会漸急念、第五会四字転急念)の意義、修法を述べ、三十九種の讃文を集めたものである。五会念仏はもと、善導大師が、長安の市の辺の川の水声をきいて深く感するところあって念仏の調べを上に挙げた五種に分ち、この式を定めて、長安内外の貴賎道俗にすすめて、もろともに唱えさせ給うたものである。
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 二。実相 真如実相のこと。上二七八頁をみよ。
 二。真無生〈しんのむしょう〉 一切法の本来、生ずることもなくまた滅することもなきをいう。
 四。無上深妙門 本文には無上深妙の禅門とあり。今もその心である。禅門というは三昧門ということ。念仏三昧はこの上ない深妙の三昧であるということである。
 五。仏事 衆生を化益なされること。
 六。法照 唐の代宗大歴二年衡州の雲峰寺に住し、四年、衡州の湖東寺にありて、五会念仏の道場を開き、五年五台山に入り竹林寺を感得し、文殊普賢の霊告に依りて、専ら念仏を修〈おさめ〉られた。代宗皇帝の勅命に依り、宮中に五会念仏を修するに及び、朝野に大〈おおい〉に五会念仏が行わるるに至った。世人は師を呼んで五会法師と呼んで居た。後善導とも称せられて居られる。『大聖竹林記』一巻、『五会法事讃』二巻の著書がある。
 【文科】以上第四科までに、支那の正依の師釈を引きそれをすべて一私釈をなし給うたのである。それでこれから法照禅師以下十師の傍依の師釈を引き給うのである。傍依師釈のうち今は法照禅師を引き給うので、先ず、この『五会讃』の序分を引手給う一段である。【講義】法照禅師の『浄土五会念仏略法事儀讃』に云く、仰〈そもそ〉も大聖釈尊が種々〈いろいろ〉の教を施設〈もう〉け給いしは、畢竟衆生の根機をみそなわして、ある時は広く説き、またある時は簡略〈てみじか〉に教え、終〈つい〉には導いて、実相無相に帰入せしめんがためである。それであるから真に無生無滅の
(1-521)
証〈さとり〉を開いている者に対しては、何もそれらの法門を与える必要はないのである。処で様々の教の中で、この念仏三昧の教は、無上真実〈このうえもないまこと〉の深妙禅門〈おくふかいおしえ〉である。本師法王の阿弥陀如来は、四十八願から称え易い、修め易い名号を成就〈ととの〉え、かくて衆生化益をなし本願他力を以て衆生を救い給うのである。
 【余義】一。これから下に、支那浄土傍依の師、法照以下十師の釈文を引用してある。律宗の慈雲律師を加うれば、十一師となるが、慈雲律師は元照律師のうちに収まって居るから、やはり十師となるのである。この十師は、律宗の法照、法相宗の憬興、総官の張掄、天台宗の慶文、律宗の元照、律宗の大智、律宗の戒度、律宗の用欽、三論宗の嘉祥、法相宗の法位、禅宗の飛錫の十師でいずれもその肩書に記されて居る通り張掄という人が俗人であるのみで、余はすべて他宗の人師である。我が親鸞聖人は今この他宗の人達の大行讃嘆の文を引き来って、「行巻」に花を飾り給うものである。
 真宗正依の祖師といえば、いうまでもなく、龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、源空の七祖である。傍依の祖師は、菩提流支、懐感禅師、法照禅師、少康禅師である。菩提流支は『高僧和讃』曇鸞章に出でて居り、懐感禅師は同じく源信章に出でて居り、法照少康
(1-522)
二師は同じく善導章に出でて居る。この四師を傍依の師とすることはもと、法然聖人から相承したのであって、『選択集』本願章に法照禅師の名が出て居り、余の三師は『同集』教相章の二個相承中に顕われて居るのである。こういう風に正依の祖師、傍依の祖師のことはすでに定まって居るのに、今、これらの祖師以外にかくの如く他宗の十一師を引用し給うた理由はどういうのであろうか。これを少しく伺わねばならぬ。
 二。恐れながら、先ず我祖聖人の御心持を考えて見ると、第一に、聖人の眼中には自宗だの他宗だのという区別がなかったものと思われる。釈迦一代の説教はただ弥陀の本願海を説くにあり、八家九宗と宗派に分れて居っても、最後のおんづまりは弥陀の本願を信じて西方に往生するにある。各宗の祖師もまたいずれも、最後は、念仏一法を讃嘆して信楽し給うた。それであるから、今宗派を異にする各宗の祖師を悉く拉し来って、二宗興行の根本聖典中に集め自他の区別を超脱して、ひとえに六字名号を讃嘆し給うたのである。
 また、第二に、右のような見地から、今度は、他宗の人を誘引し給う御心持もふくまれて居るように思われる。法相宗、天台宗、禅宗、律宗といえば、先ず当時の宗教界の代表的勢力である。これらの宗旨の祖師方は皆かくの如く念仏門に帰して、名号を讃嘆遊ばされ
(1-523)
で居る。末代の道俗またこれに習うて、自性唯心を離れ、定散の迷謬を脱して、金剛の真心に帰れよとすすめ給うのである。
 今一つ文面の上からみて行くと、この十師のうち九師の文は自然に法照禅師の『七会法事讃』の文を助成することになって居る。
 憬興師の文は十文あるが、すべて『五会讃』の散説の中の第一文の、「弥陀法王四十八願の名号云々」というのを助顕する。
 『楽邦文類』総官の張掄の文は、『五会讃』散説の中の第三文の念仏の易修易証であることを助顕する。
 慶文時の文は、『五会讃』の偈讃の中、第一偈の浄土楽讃の「如来尊号甚分明、称名即得罪消除(如来尊号、甚だ分明なり、称名すれば即ち罪消除するを得)」という旨を助顕して居る。
 元照師の文に五文ある中、第一文は、『五会讃』の第二偈讃正法楽讃の意を助成し、次の「浄土諸経」云々の文は『五会讃』の第三偈讃西方楽讃の中にある邪魔なき旨を助成し、次の「一乗極唱」の文は同じく西方楽讃の「成仏するに諸の善業を労〈いたつかわ〉しくせず」の旨を助成し、次の「況我弥陀」の文は、同じく西方楽讃の「五濁の修行は退転し易いが念仏は不退である」という
(1-524)
意を助成し、次の「正念中云々」の文は同じく西方楽讃の念仏急要の意を助成するのである。
 慈雲法師の文の中、「安養浄業」の文は般舟三昧楽讃の意を助成し、「了義中了義」の文と、「円頓一乗」の文は『五会讃』の第五偈讃観経讃の意を助成するのである。
 戒度師の文は元照師の第三文「万行円修は仏名号である」という意の文を助成する。
 用欽師の文は元照師の第五文勧生の文意を助成する。
 嘉祥師と法位師の文は共に、元照師の第四文「況我弥陀」の文中の億劫重罪を除く旨を助成する。
 最後に飛錫師の文は『五会讃』散説中の第一文、念仏三昧の勝れたることを説く文意を助成するのである。
 かくの如く、順次に助成して、十一師所引の文は畢竟、法照師の文意を助顕し、法照は善導大師に摂まるのであるから、法照以下の諸師を約〈つづ〉めて見れば、曇鸞、道綽、善導三師に摂まって、要するにこの三師の外はないということになるのである。
 なお文の助顕ということについては、一々文に当って見て貰わねばならぬ。
 この十師をかくの如く引き列ねて引き給うたが、この布列に順序があるのかというと、
(1-525)
別に次第を立てて引かれたのではない。古来この布列について、非常に苦心をして順序を立てた人もあるが、要するに無駄骨を折ったのである。ただ法照法師は、後善導とも称せられ、善導大師の後身とも尊まれる人で、浄土門に関係の深い人であるから最先に御引用せられたのである。
 三。法照禅師のことは、『唯信文意』(九右)にも、「唐朝の光明寺の善導和尚の化身なり。このゆえに後善導ともうすなり」ともあり。『和讃』には
  世々に善導いでたまい、 法照少康としめしつつ
  功徳蔵をひらきてぞ   諸仏の本意とげたまう
ともあって、浄土真宗の傍依の師として、尊敬せられる人である。それで、今、上来、支那正依の三師、曇鸞、道綽、善導の引文が終ったから、茲に法照禅師の釈文を引いて、名号を讃嘆し、上に引いてある善導大師の『般舟讃』の文を助顕せられたのである。茲に引用せられる『五会法事讃』は法事道場の儀讃であるから、『般舟讃』と同じく、そのまま、名号
(1-526)
讃嘆の文となるのである。この『五会法事讃」の引文に、散説と偈讃とある。散説の中にまた三文ある。「夫如来説教云々(それ如来の説教云々)」の文と「如来常於三昧海中」の文と「爾大載至理云々」の文である。本文にては第二文が第三文の後にあるのであるけれども、親鸞聖人は位置を顛倒して前に出し給うた。何故前へ出し給うたかというと、矢張りそれに覚召があるので、第一文は実相無生の法と念仏三昧の法との難易相対を示して念仏の易行を説き、第二文でその実相無生と念仏三昧の二法を承けて実相無生を廃し、念仏三昧を立し給わんためである。第三文は上の廃立を承けて念仏一法は易修易証の法であって、釈迦弥陀二尊一致にてただこの法を弘め給うたものであるということを示すのである。それでこの三文の中、第一文は『般舟讃』の初四句の二行相対を助顕し、第二文は次二句の廃立を助顕し、第三文は後の四句の釈迦の勧讃を助顕したものである。
 偈讃は浄土楽讃、正法楽読、西方楽讃、般舟三昧楽讃、観経讃の五文である。浄土楽讃は念仏の一行を讃嘆し、正法楽譜は内道と外道を相対して内道に帰し、内道のうち、諸行と念仏を相対して念仏一行に帰結し、西方楽讃は、此土彼土に於ける二行の難易の相対して、念仏一行に依って彼土に生れて易く証ることをすすめ、般舟三昧楽讃はその念仏に
(1-527)
遇うて浄土に願生する身となったことを喜び、観経讃は下々品の悪人はただ本願の念仏に依って往生することが出来ると総結したのである。この五文も亦、前の散説と同じく『般舟讃』の二行相対と廃立と結勧とを助顕したものである。
 節単に図に示して置こう。

                   ┏難━実相無生の法┓
   ┏第一文(本一丁右の文)難易相対┫        ┣━━『般舟讃』の二行相対を助顕す。
   ┃               ┗易━念仏三昧━━┛
   ┃              ┏廃━実相無生の法┓
┏散説╋第二文(本八丁の文)難易廃立┫        ┣━━━『般舟讃』の廃立を助顕す。
┃  ┃              ┗立━念仏三昧━━┛
┃  ┗第三文(本五丁の文)念仏三昧が二尊一致の法なるを示す━『般舟讃』の釈迦勧讃を助顕す。

┃  ┏浄土楽讃━念仏一行を讃嘆す━━━━━━━━━━━━━━『般舟讃』の廃立を助顕す。
┃  ┃         ┏捨━外道
┗偈頌╋正法楽讃━二道相対┫         ┏廃━諸行┓
   ┃         ┗帰━内道━二行相対┫    ┣┓
   ┃                   ┗立━念仏┛┣━『般舟讃』の二行相対を助顕す。
   ┃             ┏難━五濁の諸行━━━┓┃
   ┣西方楽讃━此土彼土二行相対┫          ┣┛
   ┃             ┗易━彼土往生の念仏━┛
(1-528)
   ┃
   ┣般舟三昧楽讃━━聞名願生の身を喜ぶ┳━━━━━━━━━『般舟讃』の廃立を助顕す。
   ┃                 ┗━━━━━━━━┓
   ┗観経讃━━━悪人の念仏往生を結勧す━━━━━━━━━┻『般舟讃』の釈迦勧讃を助顕す。

 如来常於三昧海中挙網綿手謂父王曰王今坐禅但当念仏豈同離念求乎無念離生求於無生乎離相好求乎法身離文求解脱 乃至

 【読方】如来つねに三昧海のなかにして網綿の手を挙げて、父の王にいいてのたまわく、王いま坐禅してただまさに念仏すべし。あに念を離れて無念をもとめ、生を離れて無生をもとめ、相好をはなれて法身をもとめ、文をはなれて解脱をもとむるに同じからんや。乃至
 【字義】一。網綿手 現行の本文に綱綿の手とあれども、恐らく網綿の手の写誤であろう。網綿の手というは仏三十二相の中、第五手足指縵網相と第六手足柔軟相とを合せ挙げたので、手足の御指の問に網のような皮のあるが縵網相で兜羅綿のような柔さのあるが柔軟相である。『教行信証』の版本にはみな細綿となって居るが、この時は細〈ほそ〉らかの綿のような柔い手ということになる。手が乎になって居るが、これはたしかに誤りである。如来は親しく仏弟子に物語なされる時には右手を挙げて弟子の頂〈いただき〉を摩〈な〉でるさまをなされるのである。
 二。相好 おすがた。
(1-529)
 【文科】『五会法事讃』の文のうち、正しく五会念仏を釈する文を引き給なのである。
 【講義】いつも禅三昧の海中に安住〈やすら〉い給う釈尊は、縵網相と柔軟相との御手をあげて、父浄飯大王に仰せらるるよう、王よ身に相応〈ふさわ〉ぬ行をやめて、ただ静坐して一心に念仏を遊ばされよ。この念仏の法門は、かの念を離れて証〈さとり〉を開くというように、無念無相を観ずるようなことをするのでない。また生を離れて無生無滅の理を証るとか、相好の有相を離れて、色もない形もない所の法身を求めたり、文字言説というものを捨てて我心〈わがこころ〉の中に解脱を求めるという教でない。かような無念無相の法身を求むるような教は唯徒〈ただいたずら〉に高遠の理を談ずるのみで、実際の修道には却って疎いものである。手近な有念、有相、言説の上に弥陀の大悲を頂くのである。乃至

 爾大哉至理真法一如化物利人弘誓各別故我釈迦応生於濁世阿弥陀出現於浄土方雖穢浄両殊利益斉一若易修易証真唯浄土教門然彼西方殊妙難比其国土也厳以百宝蓮敷九品以収人其仏名号也 乃至

(1-530)
 【読方】それおおきなるかな、至理の真法一如にしてものを化しひとを利す。弘誓各別なるがゆえに、わが釈迦、濁世に応生し、阿弥陀、浄土に出現したまう。まさに穢浄両殊なりといえども、利益斉一なり。もし修しやすく証しやすきは、まことにただ浄土の教門なり。しかるにかの西方殊妙にしてその国土は比しがたし。厳〈かざ〉るに百宝をもてし、蓮、九品にひらき、もて人を収むること、それ仏の名号なり。乃至
 【字解】一。応生 娑婆世界の機縁に応じ出現し給うこと。
 二。百宝 無量の宝ということ。
 二。九品に敷〈ひら〉く 蓮華が『観経』九品の体相に開くことである。即ち上上品の浄土に往生するものには、蓮華忽ち開き上中品は一夜を経てひらき、上下品は一日一夜を経て開く。かくの如く開華に差別あることである。今は勿論、百宝と九品とを挙げて、浄土の荘厳をしめし給うのである。
 【文科】『五会法事讃』のうち、荘厳の文を引き給うのである。
 【講義】理〈ことわり〉をつくし、真〈まこと〉を極めたる真如の法は、誠に偉大〈おおい〉なるかな、されど証〈さとり〉の等しい諸仏が、衆生を化益する有様に差別〈けじめ〉のあるのは、その因位の誓願が異るためである。今大聖釈迦如来がこの五濁悪世の機に応じて出世〈おでま〉しになったことも、阿弥陀仏が極楽浄土に出現〈あらわ〉れ給いしも、穢土と浄土の差はあっても、その大悲心から我々を利益し給う点に至っては、少しも変ることはない。ただ弥陀釈迦二尊が、一つ真法〈さとり〉の上から、衆生済度のために、因位
(1-531)
の誓願を異にして、父母のように衆生を恵み給うの外はない。それ故に修め易く、証り易きは真に唯〈ただ〉他力浄土の教門だけである。そして吾等の生るべき西方浄土の殊妙〈たえ〉なることは、他の諸仏の国土の及ぶ所でない。厳〈かざ〉るには無量の宝あり。蓮は九品の差別に敷〈ひら〉いて、往生する人々を収める。これ実に六字の名号の利益の然しむる所である。

 依称讃浄土経 釈法照
 如来尊号甚分明十方世界普流行但有称名皆得往観音勢至自来迎弥陀本願特超殊慈悲方便引凡夫一切衆生皆度脱称名即得罪消除凡夫若得到西方曠劫塵沙罪消滅具六神通得自在永除老病離無常

 【読方】称讃浄土経による。釈の法照
 如来の尊号は甚だ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。観音勢至自〈おのずか〉らきたりむかえたまう。弥陀の本願ことに超殊せり。慈忍方便して凡夫をひく。一切衆生みな度脱す。名を称すれば則ちつみ消除することをう。凡夫もし西方にいたることをうれば、曠劫塵沙の罪
(1-532)
消亡す。六神通を具し自在をう。ながく老病をのぞき無常をはなる。
 【字解】 一。『称讃浄土経』 具には『称讃浄土仏摂受経』一巻。唐の玄奨三蔵の訳。弥陀浄土の依正二報の荘厳を讃説し、十方諸仏の証誠を説いてある『阿弥陀経』の異訳である。
 二。曠劫 上一八四頁をみよ。
 三。六神通 天眼通、天耳通、他心通、宿命通、神足通、漏尽通の称、四十八願中第五願より第十願までにこの六神通を誓い給うてある。
 【文科】以下『五会法事讃』の讃文を引き給うのであるが、この讃文が五つに分れる。今はそのうち、浄土楽讃の文である。
 【講義】同じく法照禅師の『五会讃』の中『称讃浄土経』に依る讃文に云く。
 無碍光如来の尊号〈みな〉は、甚だ明かにして、あらゆる衆生の機類に応じて智慧の光明を分ち給う。即ちその名号の御慈悲は、十方微塵世界の善悪一切の凡夫の胸の中に普く行きとどいて下さる。
 ただひとえに御名を称える人のみが、極楽浄土へ往生する。即ちこの智慧の念仏を信ずれ
ば、観音勢至の二菩薩は、自〈おのずか〉ら影の形に添うが如くに、御自身に親しく擁護〈おまも〉り下さる。
 弥陀の本願は特に諸仏の本願に超勝〈こえすぐ〉れていらせられる。大慈大悲の御心から、種々に善
(1-533)
巧方便の御手をめぐらせて、吾等凡夫を引接〈みちびい〉て下さる。
 一切衆生はこの本願によりて、皆生死の苦みを離れて、解脱に至ることが出来る。ただ名号を称えるばかりで、あらゆる罪業を除いて頂くのである。
 吾等凡夫もし本願力によりて、西号極楽に往生するならば、久遠劫よりこのかたの、造りと造りし塵沙〈かぎりな〉き罪は皆消えうせてしまう。
 六神通を身に具えて、自由自在の仕合せを得る。一度浄土へ往生れば、寿命かぎりなく不懐金剛の身を獲ることであるから、永く老病の悩みを離れ、長〈とこしな〉えに無常の悲みを脱〈のが〉れるのである。

 依仏本行経 法照
 何者名之為正法若箇道理是真宗好悪今時須決択一一子細莫朦朧正法能超出世間持戒坐禅名正法念仏成仏是真宗不取仏言名外道撥無因果見為空正法能超出世間禅律如何是正法念仏三昧是真宗見性了心便是仏如何道理不相応 略抄

(1-534)
 【読方】仏本行経による。法照
 なに者をかこれをなづけて正法とする。いかんが道理これ真宗なりや。好悪いまのときすべからく決択すべし。 一々子細朦朧することなかれ。正法よく世間に超出す。持戒坐禅を正法となづく。念仏成仏はこれ真宗なり。仏言をとらざるをば外道となづく。因果を撥無する見を空とす。正法よく世間を超出す。禅律いかんぞこれ正法ならん。念仏三昧はこれ真宗なり。性をみ、心をさとるはすなわちこれ仏なり。いかんが道理相応せざらん。略抄
 【字解】一。『仏本行経』 七巻劉宋の宝雲の訳。『仏本行讃伝』ともいい、釈尊一代の伝記を三十一品に分ちて記してある。
 二。撥無 はねつけること、なみすること。
 【文科】『五会讃』讃文のうち今は正法楽讃の文を引き給うのである。
 【講義】同じく法照禅師の『五会讃』の中、『仏本行経」に依る讃文に曰く、
 仏教に於いて、正法というのは如何なるものであるか。若箇〈なんら〉の道理に合うているものが、真実の宗教といわれるのであるか。
 答う、是非邪正の教を、いまの問いを機会として解決しておく必要がある。一々仔細〈こまかに〉思考〈かんが〉え調べて、少しも朦朧〈ぼんやり〉しておいてはならぬ。全体正法というものは、世間の様々の教え
(1-535)
に超え勝れているものである。先ず戒律を保つことと、坐禅を修むることを一応正法と名ける。けれども仏教中の真宗とは云われぬ。その真宗は念仏して仏になる所の他力の教がそれである。
 釈尊の御言葉を信用せない者を外道と名ける。外道にも沢山の種類はあるけれども手近い例を挙ぐれば、先ず因果の道理を撥無〈なみ〉する見解の如きはそれであって、これらは空一方に偏〈かたま〉った邪見である。かような外道の教と比ぶれば、禅律の教は一応正法と名けることが出来る。しかし先にも申した通り真の正法は世間のあらゆる教に超え勝れたものである。この明徹〈すきとお〉った見解に坐る時は、坐禅も戒律も正法とは云われぬ。念仏三昧の他力の教こそ、超世希有の正法である。仏教中の真実宗である。他力念仏の教によって、浄土に往生する時、仏性を開発し、心性を証る、これを仏と名けるのである。念仏成仏が仏教中の真宗であるということは、かように能く道理に相応しておるではないか。
 【余義】一。ここに念仏成仏是真宗とあるがこの句が、善導大師の「真宗叵遇(真宗、遇〈もうあ〉いがたし)」の語と共に浄土真宗の宗名の語拠となったのである。この事は、上一九四頁に既に委しく述べたところである。この讃文でいえば、持戒坐禅是正怯というは、一代教を悉く拉し来って、これ
(1-536)
は皆外道邪教に対すれば、誠に正法であるということである。然しこの正法は、所謂、浄土の要門で、いまだ至極の教ではない。一歩を進めて念仏成仏是真宗、如来回向の大行に依って往生する弘願法こそ真実の真教真宗であるというのである。この文は、善導大師の「真宗叵遇(真宗、遇〈もうあ〉いがたし)」、浄土要叵聞〈浄土の要、聞きがたし〉と同じく、要門、弘願二門の相対である。我が祖がこれに一歩をすすめて、三門分別をなし、浄土門中真門と弘願門を開き、自力の執念の脱せない浄土の余流に択んで、善導法然両祖より適々相承の絶対他力教に特に真の字を入れて、四字宗名となされたことは、人の知るところであり、又、上一九三頁に委しく述べたところである。

 依阿弥陀経
 西方進道勝娑婆縁無五欲及邪魔成仏不労諸善業華台端坐念弥陀五濁修行多退転不如念仏往西方到彼自然成正覚還来苦界作津梁万行之中為急要迅速無過浄土門不但本師金口説十方諸仏共伝証此界一人念仏名西方便有一蓮生但使
(1-537)
一生常不退此華還到此間迎 略抄

 【読方】阿弥陀経による。
 西方は道にすすむこと、娑婆にすぐれたり。五欲および邪魔なきによりてなり。成仏にもろもろの善業を労〈いたわし〉くせず。華台に端坐して弥陀を念ず。五濁の修行はおおく退転す。念仏して西方にゆくにはしかず。かしこにいたれば自然に正覚をなる。苦界にかへりきたりて津梁とならん。万行とならん。万行のなかに急要とす。迅速なること浄土門にすぎたるはなし。ただ本師金口の説のみにあらず。十方諸仏ともにつたえ証したまう。この界に一人仏の名を念ずれば、西方にすなわち一〈ひとつの〉蓮〈はちす〉ありて生ず。ただ一生つねにして不退なれば、この華このあいだに還りいたりて迎う。略抄
 【字解】一。五欲 五欲に二種ある。一は色、声、香、味、触の五境を五欲という。この五境は人の欲を引き起すものであるから欲というのである。二は財欲、色欲、飲食欲、名欲、睡眠欲をいう。今この場合は前者をいうのである。
 二。五濁 上四〇四頁をみよ。
 三。津梁 樑の字になってある版本もあるが梁の字の方がよい。津はわたし場、梁は浮橋のことである。
 四。金口説 仏の黄金色の御口より直に説き給うた教法のこと。
 【文科】『五会讃』の讃文のうち、今は西方楽讃の文を引き給うのである。
(1-538)
 【講義】同じく『阿弥陀経』に依る讃文に曰く。
 西方の極楽浄土は道に進むことは、娑婆に勝れている。浄土に到ればその国土の徳として、内に五欲の境界なく、外に邪魔の妨げるということはない。それであるから成仏するに、煩わしく諸の善業を修めることは要〈い〉らぬ。ただ花台〈はなのうてな〉に端坐〈すわ〉りて、本師阿弥陀仏を念〈おも〉い奉るばかりである。然るにこの濁悪世の中に仏道修行することは、並大抵のことではない。多くは内外の悪魔のために、一寸歩みて一尺退くという有様で、中々道に進むということは容易でない。されば他力の念仏によりて浄土へ往生するに若〈し〉くはない。かしこに到れば他力自然の道理にて自力をはたらかさずして正覚を獲ることができる。一度証を開いてからは、再びこの世界に還りて、迷いの衆生のために津〈わたりば〉や梁〈ふなばし〉となって彼岸に渡すことができるであろう。万〈よろず〉の修行の中で、この他力念仏の行ほど急要なものはない。そして逸〈いち〉はやく証果〈さとり〉に至ることはこの浄土門に過ぎるものはない。このことは単に本師釈迦牟尼世尊の金口説〈みこと〉ばかりでない。十方のあらゆる諸仏が、共にこの道の真妙〈たえ〉なることを証拠立てて、吾々に御伝え下されてある。もしこの世界に一人、仏の名を称え奉れば、これに応じてこの西方の浄土には一〈ひとつ〉蓮花が咲〈はなさく〉く。それであるから一念の信心によりて、一生不退の位に入り、
(1-539)
念仏相続するならば、この世の称名に応じて開いた浄土の蓮華が、還ってこの人の命終の時に、来り迎えるであろう。
 【余義】一。この一念仏者あれば、浄土に一蓮生ずといふことは経説ではない。法照禅師の感得である。このことは戒珠の『往生伝』下、法照禅師の伝中に出でて居ることである。禅師ある時念仏し給うに、一僧あり、告げていうには、汝念仏するゆえに、浄土に一蓮生じて居る、汝はこれより三年後、その蓮華の開く時往生すべしと。三年後果して禅師は往生せられたというのが、その記事の大要である。
 香月院師はその『教行信証講義』に、右の『往生伝』の記事を挙げて後、更に、龍舒の『浄土文』五の宋の可久が八十一歳にして命終し三日目に蘇活し、浄土の蓮華には一々往生人の姓名が誌してあると語ったということ、また『同』五に、宋の荊王の夫人、夢中に浄土にいたり、紅白の蓮華の咲き乱れあり、その蓮華が娑婆の念仏者の精進と退転によって栄枯することを感得した旨の記事あることを記して置かれた。

 依般舟三昧経 慈愍和尚
(1-540)
 今日道場諸衆等恒沙曠劫総経来度此人身難値遇喩若優曇華始開
 正値希聞浄土教正値念仏法門開正値弥陀弘誓喚正値大衆信心回正値今日依経賛正値結契上華台正値道場無魔事正値無病総能来正値七日功成就四十八願要相携普勧道場同行者努力回心帰去来借問家郷何処在極楽池中七宝台彼仏因中立弘誓聞名念我総迎来不簡貧窮将富貴不簡下智与高才不簡多聞持浄戒不簡破戒罪根深但使回心多念仏能令瓦礫変成金寄語現前大衆等同縁去者早相尋借問相尋何処去報噵弥陀浄土中借問何縁得生後報噵念仏自成功借問今生多罪障如何浄土肯相容報噵称名罪消滅喩若明灯入闇中借問凡夫得生否如何一念闇中明報噵院疏多念仏弥陀決定自親近 略抄

 【読方】般舟三昧経による。慈愍和尚
(1-541)
 今日道場の諸の衆等、恒沙曠劫より総じて経〈へ〉かえれり。この人身をはかるに値遇しがたし。たとえば優曇華のはじめてひらくるがごとし。
 まさしくまれに浄土の教をきくにもうあえり。まさしく念仏の法門のひらくにもうあえり。まさしく弥陀の弘誓の喚びたまうにもうあえり。まさしく大衆の信心あって回するにもうあえり。まさく今日経によりて讃ずるにもうあえり。まさしくちぎりを上華台にむすぶにもうあえり。まさしく道場に魔事なきにもうあえり。まさしく無病にして総てよく来るにもうあえり。まさしく七日の功成就するにもうあえり。四十八願かならずあい携〈たずさ〉う。
 あまぬく道場の同行のひとをすすむ。ゆめゆめ回心して帰去来〈いざいなん〉。とう、家郷はいずれのところにかある。極楽の池のうち七宝のうてななり。
 かの仏の因中に弘誓をたてたまえり。名をききてわれを念ぜば、すべて迎えかえらしめん。貧窮と富貴とをえらばず。下智と高才とをえらばず。多聞と浄戒をたもてるとをえらばず。破威と罪根のふかきとをえらばず。ただ回心しておおく念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて 金となさしむ。
 ことばを現前の大衆等によす。同縁去〈さら〉んひと、はやく相たずねん。問う、何れの処をあい尋ねてゆかんと。こたえていわく、弥陀浄土のうちに。問う、なにに縁〈より〉てか、かしこに生ずることをえん。こたえていわく、念仏おのずから功を成ず。問う、今生に罪障おおし、いかんぞ浄土にあえてあいいらんや。こたえていわく、みなを称すればつみ消滅す。たとえば明燈の闇中にいるがごとし。問う、凡夫生ずることを得るやいなや。いかん

(1-542)
ぞ一念に闇中あきらかならんや。こたえていわく、疑をのぞきて、おおく念仏すれば、弥陀決定しておのずから親近したまう。要を抄す
 【字解】一。『般舟三昧経』 後漢月支の三蔵支婁迦讖の訳。般舟三昧の行法、功徳等を説いてある。この経には一巻本と三巻本とありて、一巻本は八品(問事品、行品、四事品、譬喩品、無著品、四輩品、擁護品、勧助品、至誠品)より成り、三巻本は『十方現在仏悉在前立定経』ともいい十六品(問事品、行品、四事品、譬喩品、無著品、四輩品、授決品、擁護品、羼羅耶仏品、諸仏品、無想品、十八不共十種力品、勘助品、師子意仏品、至誠仏品、仏印品)より成って居る。
 二。慈愍三蔵 名は慧日、支那青州東莱郡の人、姓は辛氏というた。海路から入竺して法を聞くこと十三年、帰路陸を取り艱難を極めて西方願生の念を生じ、健陀羅国にて観音の霊告を受け開元七年長安に帰られた。天宝七年(西紀七四八〕洛陽罔極寺に六十九歳にて入寂せられた。玄宗皇帝慈愍三蔵と勅謚せられた。支那浄土教三伝の一なる慈愍流の祖である。
 三。優曇華 上二四〇頁をみよ。
 【文科】『五会讃』の讃文のうち般舟三昧楽讃を引き給うのである。
 【講義】同じく『五会讃』に引いてある文で、慈愍三蔵が『般舟三昧経』に依って作られた讃文に云く、
(1-543)
 今曰この道場に集り来った衆〈おお〉くの人々よ、我々凡夫は恒沙〈かぎりのない〉曠劫〈とおいむかし〉から、あらゆる迷いの巷へ経めぐってきた。今この人間と生れて来たことを考えて見ると、誠に値遇〈あ〉い難いことであったのである。譬えばあの罕〈まれ〉に咲く優曇華が始めて花開くようなものである。
 今や正しく罕〈まれ〉にも浄土他力の教えを聞くことの出来る時代に値〈お〉うた。正しく他力念仏の法門か盛んに流布せらるる時に値うた。正しく大悲の阿弥陀如来が本願の御喚声〈およびごえ〉をかけて下さるのに御値い申した。正しく大衆が自力の心を翻して、他力信心に入ることに値うた。正しくこの『般舟三昧経』によりて念仏の功徳を讃えまつるに値うている。正しく同信の行者が、互〈たがい〉に一つ蓮〈はちす〉の台〈うてな〉に上〈のぼ〉るという契りを結ぶことに値うている。正しくこの讃仏の道場に何の障りもなく法を聞くことが出来るような時に値うている。正しく無病にしてこの道場に集り、総てみな往生浄土の身の上となって、法性常楽の故郷に還ることに値うた。正しくこの七日間の念仏の功徳が欠目〈かけめ〉なく成就することに逢うた。それであるからこの念仏を信ずる皆に取りては、弥陀は四十八願の約束に従いて、必ず命終る時は、浄土へ手を取って連れて行かせらるるに相違ない。
 普く道場に集れる同行の人々に御勤めする。どうぞ努力〈つとめ〉て自力の心をふり捨てて行こう
(1-544)
ではないか。さらば我々の落着くべき永遠の故郷は何処〈いずこ〉にありや、そは云うまでもなく、法理〈のり〉の極楽〈みやこ〉の池に咲く七宝の蓮台である。
 彼の極楽の本師阿弥陀仏は、因位の昔、法蔵比丘にていませし時、大誓願を建てさせられた。即ち我が名号の謂〈いわ〉れを聞きひらいて、憶念称名する人は、十人は十人ながら総て我が極楽浄土へ迎いとるであろう。貧窮〈まずし〉い者と、富貴〈とめ〉る者とを簡〈えら〉ばず、愚な者と高才者〈かしこいもの〉とを簡〈えらば〉ず、博学多聞であるとか、大小乗の五戒、十善戒、具足戒、一心金剛法戒等の戒を持〈たも〉ってあるとか、またはこれらの戒法を破った者とか、罪業の深い者とかいうような、択〈えら〉びはない。善人も悪人も、愚者も聖者も、富者も貧窮も少しも簡ぶことはない、唯々〈ただただ〉自力疑心をふり捨てて、大善大功徳の勝(多)〈すぐ〉れた念仏を称うれば、他力不思議の願力として、能く瓦礫〈いしかわら〉の金と変ずるように、あらゆる罪障をそのまま功徳の体として下さる。
 現前〈いま〉ここに集まれる大衆〈ひとびと〉よ、どうぞ有縁の同行にして、この世を去って来世に行く人があるならば、早くもその人の後を尋ねて行きたいものである。
 何処へ尋ねて行くのかと云えば、報〈こた〉えていう、弥陀の浄土の中であると。
 さらば如何〈いかに〉してかの極楽浄土へ往生することが出来るかと云えば、報へて曰く、念仏の功
(1-545)
によりて自然に往生することが出来るのである。
 されど今生に於いても深い罪を造っている、かような穢れた身に対して、どうして浄土の門が開くようなことがあろうといえば、報えて曰く、弥陀の名号を称うれば、あらゆる罪障は尽く消滅する。喩えば暗中に明灯〈ともしび〉を入れるようなものである。
 とは云え、聖者ならばいざ知らず、この罪濁の凡夫がどうして往生することが出来ようや、またどうして灯火の暗〈やみ〉を払うように、一念の中にあらゆる罪が消えるようなことがあろうや。報えて曰く、自力の疑いを離れて、大功徳の勝(多)〈すぐ〉れた念仏を称うれば、阿弥陀仏の方より定めて摂取不捨の光益を以て、親しく擁護〈まも〉り給うのである。

 依新無量寿観経 法照
 十悪五逆至愚人永劫沈淪在久塵一念称得弥陀号至彼還同法性身 已上

 【読方】新無量寿観経による。法照
 十悪五逆いたれる愚人。永劫に沈淪して久塵にあり。一念弥陀の名を称得してかしこに至ればかえりて法
(1-546)
性の身に同ず。已上
 【字解】一。『新無量寿観経』 仏説観無量寿経のこと、但しこの「新」に就いて『六要鈔』に両説ある。第一説は、現行の畺良耶舎の所訳以前に、本経の訳本があったというのである。即ちその旧訳本に対して現行の『観経』を「新無量寿観経」と名けたという。第二説は『大経』は『観経』以前に説かれた経であるから、『大経』を旧とするに対して『観経』を新と名けたのであるまいかという。第一説がよいようである。
 二。十悪 殺生、偸盗、邪媱(身三)、妄語、綺語、悪口、両舌(口四)貪欲、瞋恚、愚痴(意三)の称。
 三。久塵 『立会讃』上巻(二十丁左)正法楽の讃文に「久しく無明に有りて、塵蔵に被〈おお〉わる」とあるを、久と塵とを集めた熟字で、久しく無明煩悩の塵に被〈おお〉われて居るというのである。
 四。法性身 真如法性身にて、色も形もない真如の理体のこと。
 【文科】『五会讃』の讃文のうち、観経讃を引き給うのである。
 【講義】同じく『五会讃』の中、『新無量寿観経』に依れる文に曰く、
 十悪五逆の至極の愚人は、永劫の久しい間輪回の暗〈やみ〉に沈淪〈しず〉み、煩悩の塵に汚され来った。されどかかる悪逆の凡夫も、たった一声弥陀の名号を称えただけで、彼の極楽浄土の本家へ還って、法性常楽の証果を開かせて頂く身の上となるのである。
(1-547)


第六科 憬興師の釈文

 憬興師云如来広説有二初広説如来浄土因果即所行所成也後広顕衆生往生因果即所摂所益也

 【読方】憬興師のいわく、如来の広説に二あり。はじめにはひろく如来浄土の因果、すなわち所行所成をときたまえるなり。のちにはひろく衆生往生の因果、すなわち所摂所益をあらわしたまえるなり。
 【字解】一。憬興 上二六〇頁を見よ。
 二。如来の広説 『大経』上下二巻の正宗分のこと。「仏告阿難乃往過去久遠無量」より下巻終り「昼夜一劫尚未能尽我今為汝略説之耳」までのことである。【文科】これから憬興師の釈文十種引用し給う中、今その初めの科経の文である。
 【講義】憬興師はその著『無量寿経連義述文賛』の中巻に、『大無量寿経』一部の大綱を左の如く述べられた。
 大聖釈迦如来の広説された本経は大凡〈おおよそ〉二段に頒〈わか〉れる。即ち本経の上巻は阿弥陀如来の浄土の荘厳の出来上る因と、出来上った結果とを説いたものである。他の語を以て云えば、行ずる所の因位の発願、修行と、それによって成就〈できあがっ〉た浄土の荘厳である。それで一言にして
(1-548)
云えば、上巻は如来浄土の因果を説いたのである。次に下巻は我々凡夫が浄土へ往生する所の因果を説く。委しく云えば如来の我々凡夫を摂化〈すく〉い利益し給うを、即ち不退の位、往生の利益を与え給うことである。かように衆生往生の因果と云いながら、信心、証果等と云わずして、如来の所摂〈おさむるところ〉所益〈えきするところ〉と云うは外ではない。我々凡夫の往生の正因たる信心も、またその往生の証果も、凡夫自力の起したのでない。全く如来他力の摂化の然らしむる所であることを示すのである。

 又云悲華経諸菩薩本授記品云爾時宝蔵如来讃転輪王言善哉善哉 乃至 大王汝見西方過百千万億仏土有世界名尊善無垢彼界有仏名尊音王如来 乃至 今現在為諸菩薩説於正法 乃至 純一大乗清浄無雑其中衆生等一化生亦無女人及其名字彼仏世界所有功徳清浄荘厳悉如大王所願無異 乃至 今改汝字為無量清浄 已上
 無量寿如来会云広発如是大弘誓願皆已成就世間希有発是願己如実安住種種功徳具足荘厳威徳広大清浄仏土 已上

(1-549)


 【読方】またいわく、悲華経の諸菩薩本授記品にいわく、そのときに宝蔵如来、転輪王をほめていわく、よきかなよきかな 乃至。大宅なんじ西方をみるに、百千万億の仏土をすぎて世界あり。尊善無垢となづく。かの界に仏まします。尊音王如来となづく 乃至。いま現在にもろもろの菩薩のために正法をとく 乃至。純一大乗清浄にして雑〈まじわ〉ることなし。そのなかの衆生等一に化生す。また女人およぴその名字なし。かの仏の世界の功徳清浄の荘厳なり。ことごとく大王の所願のごとくして異なけん 乃至。いまなんじが字をあらためて無量清浄とす。已上
 無量寿如来会にいわく、ひろくかくのごときの大弘誓願をおこして、みなすでに成就したまへり。世間に希有なり。この願をおこしおわりて、実のごとく種々の功徳具足して、威徳広大清浄の仏土を荘厳したまえり。已上
 【字解】一。『悲華経』 十巻。北涼の世、中印度の沙門、曇無讖の訳出にかかる。転法輪品、陀羅尼品、大施品、諸菩薩本授記品、檀波羅蜜品、入定三昧門品の六品から成立って居る、縮蔵、宙三に収めてある。
 二。宝蔵如来 過去久遠往昔、過恒沙劫に出世し給うた仏である。
 三。転輪王のことは上三七二頁を見よ。この転輪王は阿弥陀如来の因位に在した時、自らなり給うた無諍念王という輪王である。
(1-550)
 四。純一大乗 その尊音王如来の浄土には声聞縁覚の二乗もなく二乗の法もなく、大乗菩薩のみあらせられる浄土であるということ。
 五。等一化生 往生するものも往生するものも、みな同じ姿で化生すること。化生は四生の一にて、蓮華の葩〈はなびら〉の中などから生れること。
 【文科】憬興師の訳文の中、浄土因果を証する文である。
 【講義】また『述文讃』に、久遠の弥陀を説いている『悲華経』を指定〈さししめ〉してあるから、今その経文を引く。
 『悲華経』の諸菩薩本授記品に云く、爾時〈そのとき〉法蔵如来は、今出家して道を修めんとする無諍念王という転輪王を讃めて云うには、善哉善哉と 乃至、大王よ、これより西方百千万億の仏土を過ぎて、彼処〈あなた〉に一の世界がある。尊善無垢土と名ける。その世界に在せる如来を尊音如来と名け奉る 乃至、その御仏にいま現に在して諸の菩薩方のために正法を御説きあらせらるる 乃至。その世界は実に純粋な大乗の国土にして、声聞縁覚等の二乗の雑〈まじら〉ぬ清浄な処である。その国に生れるいかなる衆生も、みな同じ菩薩の形相〈すがた〉で生れる。そしてまたその国には、女人の体もなく、その名さえない。かようであるから彼の尊音王如来の尊善無垢土の
(1-551)
所有〈すべて〉の功徳や清浄な荘厳は、悉く大王の本願の通りである 乃至。今大王の名を改めて、無量清浄と名けるであろう 已上。
久遠の弥陀は番々出世し発願修行して成仏せられたのであるが、上の『悲華経』に於いて、吾等は既に成仏せる尊音王如来、並〈ならび〉に将に成仏せんとして発願せる無諍念王を知ることを獲た。共にこれ久遠の弥陀如来であらせらるる。今これに因みて今日の弥陀を説くならば、『無量寿如来会』に云く、広く衆生済度の大弘誓願を起〈おこ〉されたが、その願は悉くみな成就〈できあが〉って、世の諸の仏菩薩の本願に勝れていらせられる。さてこの本願の通りに少しの相違もなく御心を据えさせられ。永劫の長い間、種々の功徳を積み、善根の具足〈ととの〉え、威徳限りない広大の清浄な仏土を建立給うた 已上
 【余義】一。この『悲華経』の文は憬興師の疏には引いてないのであるが、『述文讃』第三十五願を釈する下に『悲華経』に順うという語があるので、その『悲華経』の文を出し給うのである。
 二。『如来会』の文は『述文讃』に引いてもなし、また経を指してあるでもないけれども、上に『悲華経』に依って、弥陀如来の久遠の御修行を出したから、それに合するために、『大経』の異訳『如来会』の文を親鸞聖人自ら引き給うのである。
(1-552)

 又云福智二厳成就故備施等衆生行也以己所修利衆生故令功徳成

 【読方】またいわく、福智二厳成就したまえるがゆえに、備〈つぶさ〉にひとしく衆生に行を施したまえるなり。おのれが研修をもて衆生を利したまうがゆえに功徳成ぜしめたまえり。
 【字解】一。福智二厳 福徳荘厳(善根福徳の荘厳、即ち布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五度の修行のこと)と、智慧荘厳(智慧波羅密の修行のこと)と。すなわち六度の行のことである。
 【文科】憬興師の十文のうち、回施功徳の文を引き給うのである。
 【講義】また『述文讃』に云く、福徳の行と、智慧の行に二つを成就〈ととの〉えさせられ、備〈つぶさ〉に等しく一切の衆生に往生の行たる六字の名号を施し給う。即ち如来御自身で積まさせられた功徳をあげて、衆生を利益し給うことであるから、如来正覚の功徳そのままを衆生の身の上に成就〈ととの〉えて下さるのである。
 【余義】一。校合にも顕われて居る通り、この文の「備〈つぶさ〉に等しく衆生に行を施し給うなり」というは、本文では「施等の衆聖の行を備うるなり」となって居るので、福智二厳成
(1-553)
就し給えるというを説明して、布施持戒等の六度の聖行を備うることぞというのであるが我祖はその文の「聖」の字を「生」とかえて、備さに平等に一切衆生に往生の大行を回向し給うことを見給うたのである。

 又云籍久遠因値仏聞法可慶喜故

 【読方】またいわく、久遠の因によりて、仏にもうあい、法をききて慶喜すべきがゆえに。
 【文科】憬興師の十文のうち、宿因聞法の文を引き給うたのである。
 【講義】また云く、久遠の昔、恒沙の諸仏に逢い奉った宿善によりて、今この阿弥陀如来に値い奉ることが出来たのである。吾等が他力の法門を聞いて、信心歓喜の身の上になったことは、遠い宿善の然らしむる所と喜ばねばならぬ。

 又云人聖国妙誰不尽力作善願生因善既成不自獲果故云自然不簡貴賤皆得往生故云者無上下

 【読方】またいわく、人聖に国妙なり。たれか力をつくさざらん。善をなして生を願ぜよ。善によりてすで
(1-556)
に成じたまえり。みずから果をえず、かるがゆえに自然という。貴賤をえらばず、みな往生をえしむ。かるがゆえに著無上下という。
 【文科】憬興師十文のうち、正勧往生(正しく往生を勧む)の文を引き給ふのである。
 【講義】また云く、その極楽国土の人々はみな菩薩で、国土の荘厳は善美を尽してある。これを聞く者、誰かその国に生れんと努めない者があろうぞ。善本徳本なる名号を信じて、極楽往生を願えよ。如来因位に於いて積まれた無漏〈けがれな〉き善業は既に浄土の果と現われて成就〈できあが〉った。この浄土へは願力他力によって往生するのであるから、凡夫の自力では往生の果を獲ることは出来ぬ。それであるから他力自然の御計いというのである。貴い者、賤い者の御択〈えら〉びなく、皆この名号の謂れを聞き開くばかりでその国土に往生することが出来る。故にその本願の御目的〈おめあて〉は貴賤上下の差別〈けじめ〉を見ないというのである。

 又云易往而無人其国不逆違自然之所牽修因即往無修生尠修因来生終不違逆即易往也

 【読方】またいわく、往きやすくして而も人なし。その国逆違せず。自然の牽〈ひく〉ところなり。因を修すればす
(1-555)
なわちゆく。修することなければ生ずること尠〈すくな〉し。因を修して来生するに、ついに違逆せず。すなわち往〈ゆき〉やすきなり。
 【文科】憬興師の十文のうち、傷嘆重勧の文を引き給うのである。
 【講義】また云く、『大経』の文に「往〈ゆ〉き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽〈ひ〉く所なり」と説かれてあるが、名号の謂れを聞信するという因あれば、自〈おのず〉と往生することが出来るのである。その名号を聞信せなければ即ち往生すること尠〈すくな〉しの道理である。その極楽国土は、苛〈いやしく〉も名号を聞信するの因を修める人ならば、決して来生を違逆〈さまたげ〉ることはない。即ち「往き易い」というはこのことである。

 又云本願力故(即往誓願之力)満足願故(願無欠 故)明了願故(求之不虚故)堅固願故(縁不能壊故)究竟願故(必果遂故)

 【読方】またいわく、本願力のゆえにというは(すなわちゆくこと誓願のちからなり)満足願のゆえにというは(願としてかくることなきがゆえに)明了願のゆえにというは(これを求むるに虚しからざるがゆえに)堅固願のゆえにというは(壊することあたわざるによるがゆえに)究竟願のゆえにというは(かならず果して
(1-556)
遂るがゆえに。
 【文科】憬興師の十文のうち、願力を釈する文を引き給うのである。
 【講義】また云く、『大経』の「本願力の故に」というは、即ち我々凡夫が浄土へ往生することは、法蔵菩薩の誓願力の然らしむる所であるということ。「満足願の故に」というは、衆生利益のあらゆる願という願を満して少しも欠目〈かけめ〉がないということ。「明了願の故に」というは、法蔵菩薩の御願いは「明了として少しも虚偽〈うそいつわり〉の曖昧の点がないということ。「堅固願の故に」とは、いかな悪縁もその願心を壊〈やぶ〉ることが出来ないということ。「究竟願の故に」とは、必ず衆生済度の願いを果し遂げるということ。
 かように吾々凡夫の往生は、偏に法蔵菩薩の本願力に依るのであるが、その本願は満足願以下の四つの理由によりて、非常な手強い御慈悲であることが知られるのである。

 又云総而言之欲令凡小増欲往生之意故須顕彼土勝

 【読方】またいわく、総じてこれをいわば、凡小をして欲往生の意をまさしめんと欲〈おも〉うがゆえに、すべからくかの土の勝れたることを顕わすべし。
(1-557)
 【文科】憬興師の十文のうち勝聖共生を釈する文を引き給うのである。
 【講義】また云く、「大経」下巻の初めに於いて十方の諸仏が、各その国の菩薩に、浄土往生を勧めるのは、総括〈ひっくる〉めてこれを云えば、畢竟〈つまり〉吾々凡夫をして、極楽往生の願意を増さしめんがために、丁度万川の海に帰するような具合に無量の菩薩の往生し給う有様を説いて極楽浄土の勝れたることを御説きになったのである。

 又云既言於此土修菩薩行即知無諍王在於此方宝海亦然

 【読方】またいわく、すでにこの土にして、菩薩の行を修すといえり。すなわちしんぬ。無諍王この方にましますことを。宝海もまたしかなり。
 【文科】憬興師の十文のうち、此土修行を訳する文を引き給うのである。
 【講義】また云く、既に観音勢至の二菩薩が、この娑婆世界に於いて菩薩の行を修めて弥陀の浄土へ往生されたと説いてある。それによりて見れば、かの久遠の弥陀の本地たる無諍念王と、釈迦の本地たる宝海梵志も、みなこの娑婆世界に於いて、菩薩利他の大行を修められたということが知れる。即ち吾々のいるこの世界は、弥陀、釈迦二尊及び観音勢至
(1-558)
の二菩薩にも、誠に深い御縁のある処と云わねばならぬ。

 又云聞仏威徳広大故得不退転也 已上

 【読方】またいわく、仏の威徳広大をきくがゆえに不退転をうるなり。已上
 【文科】憬興師十文のうち聞名不退の文を引き給うのである。
 【講義】また云く、『大経』の会座に於いて、四十億の菩薩が不退転の位を獲たと説いてあるが、それは弥陀如来の威神功徳の不可思議、即ち名号の御いわれを聞信したからである。要するに『大経』一部は、弥陀の名号の謂れを聞き開くことに結帰する。吾等凡夫も、この諸菩薩のように、一刻も早く名号〈みな〉の御謂〈おいわれ〉を聞信せねばならぬ。

第七科 張掄居士の文

 楽邦文類云総官張掄云仏号甚易持浄土甚易往八万四千法門無如是之捷径但能輟清晨俛仰之暇遂可為永劫不壊之資是則用力甚微而収功乃無有尽衆生亦何苦自棄而不為乎噫
(1-559)
夢幻非真寿夭難保呼吸之頃即是来生一失人身万劫不復此時不悟仏如衆生阿願深念於無常勿徒貽於後事浄楽居士張掄勧縁 已上

 【読方】楽邦文類にいわく、総官の張掄がいわく、仏号はなはだもちやすし、浄土はなはだ往〈ゆき〉やすし。八万四千の法門、この捷径にしくはなし。ただよく清晨俛仰のいとまをやめて、ついに永劫不壊の資〈たすけ〉をなすべし。これすなわち力をもちいることはなはだ微にして、功を収むること、いまし尽〈つく〉ることなけん。衆生またなんの苦みがありて自〈みずから〉すててしかも為〈なさ〉ざらんや。ああ夢幻にして真にあらず、寿夭にして保ちがたし。呼吸のあいだはすなわちこれ来生なり。ひとたび人身をうしないぬれば、万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏、衆生をいかがしたまわん。ねがわくは、ふかく無常を念じて、いたずらに後悔をのこすことなかれ。浄楽の居士張掄、縁をすすむ。已上
 【字解】一。『楽邦文類』 五巻。南宋慶元六年、宗暁師の撰せられしものにて、専ら西方浄土に関する文を類聚した書である。経(四十六)、呪(十)、論(六)、序跋(三十二)、文(十三)、讃(十七)、記碑(十九)、伝(十四)、雑文(三十三〕、賦銘(三)、偈(六)、頌(二十)、詩(二十二)、詞(七)、の内容を収めて居る。
 二。総官張掄 官は管の字がよいので、総管はすべつかさどるということで軍を司る官名である。晋代には都督諸軍事と称したが、後周の時、総官と改称した。張掄は宋の高宗皇帝の代にこの職を帯び
(1-560)
た。厚く念仏の法門を尊び、晩年にはその邸内に道場を建立し、蓮地を造り、廬山の慧遠の白蓮社に傚〈なら〉いて、毎日妻子とともに道場に入りて日課念仏を唱えた。高宗皇帝はために蓮社という真翰の額を賜うに至った。
 二。清晨俛仰之暇 清晨は夜わけのこと、平旦に同じ、俛仰はうつむき、あおむきするひま。即ち暁〈あけ〉の暫時〈しばし〉の間ということ。
 四。浄楽居士 浄楽は張掄の号であろう。居士は梵名加羅越(Kulapati or Grhaspati)の訳で、出家をせず、家に居りて、仏門に帰依する男子のことである。
 【文科】支那傍依の師釈のうち居士張掄の文を引き給うのである。
 【講義】『楽邦文類』の第二巻に云う。総官という軍職を帯びていた張掄の云く、
 弥陀の名号は甚だ持ち易く称え易い。そしてこの名号の御謂れを開き開けば、浄土往生はいと易いことである。釈尊御一代の御説法は八万四千の法門とわかれているけれども、この他力念仏の法門ほどの捷径はない。それであるから但〈ただ〉清々〈すがすが〉しい晨〈あした〉のわずかの時間〈ひま〉を割いて、永劫壊れることのない資料を得られよ。これ即ち労力〈ちから〉を費すこと非常に微〈わずか〉にして、功果を収むることは限りがないのである。人々は何を苦んでかような結構の法門〈おしえ〉を省みず、自らこの教へを棄〈すて〉て取らないのであるか。噫、思いをめぐらして見れば、人生は実〈まこと〉に夢幻〈ゆめまぼろし〉
(1-561)
にして、一つも真実不壊のものはない。寿命は草露のように保ち難く、今も一息つがなければ、来世の暗に入らねばならぬ。二度この人身を失うたならば、万劫にも取り返しはつかぬ。いまこの時節〈とき〉に当りて、省悟〈かえりみ〉ることがなかったならば、大慈の御親も如何ともなされようがないであろう。どうか深くこの無常の理〈ことわ〉りを観じて、徒〈いたずら〉に後悔を貽〈のこ〉さないようにいたされよ。ここに浄楽居士張掄謹んで同縁の人々に御勧め申します。

第八科 慶文法師の釈文

 台教祖師山陰(慶文法師)云良由仏名従真応身面建立故従慈悲海而建立教従誓願海而建立故従智慧海而建立故従法門海而建立故若但専称一仏名号則是具称諸仏名号功徳無量能滅罪障能生浄土何必生疑乎 已上

 【読方】台教の祖師山陰(慶文法師)のいわく、まことに仏名は、真応の身より建立せるがゆえに、慈悲海より建立せるがゆえに、誓願海より建立せるがゆえに、智慧海より建立せるがゆえに、法門海より建立せるによるがゆえに、もしただもはら一仏の名号を称するは、すなわちこれ具に諸仏の名号を称するなり。功徳
(1-562)
無量なればよく罪障を滅す。よく浄土に生ず。なんぞかならず疑を生ぜんや。已上
 【字解】一。台教 天台宗のこと。
 二。山陰慶文法師 山陰は地名で支耶越の会稽郡、山陰県である。慶文法師は号を慈恵というたが、伝記はわからない。天台宗第五祖浄光法師の傍系の人であって、正しく天宗台第十七祖四明智礼師の弟子である。『浄土文』を作り、西方往生を勧めた。天台宗の正系の祖師でないから、天台宗とか台宗とかいわず、台教と仰せられたのである。
 三。真応身 真身と応身の意、真身はわかれて、法身と報身となるから、つまり法報応の三身のことである。
 四。法門 金光明文句記に、「仏の師とする所なるがゆえにこれを名けて法となす。智ここより入るが故に名けて門となす。」と釈してある。諸仏自ら手本とし給う真如実相の法を法門というたのである。
 【文科】支那傍依の師釈のうち、天台宗の慶文法師の釈文を引き給うのである。
 【講義】天台の祖師、山陰の慶文法師云く、良〈まこと〉に弥陀の名号は、正覚の体なる法、報、応の三身から建立〈できあが〉ったのである。即ちこの名号の中に、仏体の功徳は残らず封じ籠められてある。またこの名号は、海のような大慈悲から建立〈できあが〉った。限りなき大誓願から建立〈できあが〉った。
限りなき智慧から建立〈できあが〉った。限りなき法門から建立〈できあが〉った。それ故にこの弥陀一仏の御名を称
(1-563)
うれば、あらゆる諸仏の御名の功徳も、この中に摂められてある。かような限りない功徳の名号であるから、これを称うれば不可思議の願力により能く罪障〈つみ〉を滅〈ほろぼ〉して、浄土に往生することが出来る。少しも疑いを狭むことはいらぬ。

第九科 元照律師の釈文

 律宗祖師元照云況我仏大慈開示浄土慇懃勧嘱遍諸大乗目見耳聞特生疑謗自甘沈溺不慕超昇如来説為可憐憫者良由不知此法特異常途不択賢愚不簡緇素不論修行久近不問造罪重軽但令決定信心即是往生因種 已上

 【読方】律宗の祖師元照のいわく、いわんやわが仏の大慈、浄土を開示して、慇懃に勧嘱したまえること、諸大乗に遍〈あまね〉し。目にみ、耳にききて、ことに疑謗を生じて、自〈みずから〉あまく沈溺して、超昇をねがわず、如来ときて憐憫すべき者のためにしたまえり。良〈まこと〉にこの法のひとり常途に異なることをしらざるによりてなり。賢愚をえらばず、緇素をえらばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽をとわず、ただ決定の信心をして、即これ往生の因種ならしむ。已上
 【字解】一。元照 律宗。支那余杭の人、姓は唐、字〈あざな〉は湛然、安忍子と号した。初めは慧鑒について学
(1-564)
び後、神悟虚謙に従うて、天台の教観を伺い、広慈慧才について菩薩戒を受けた。宋の元符元年、四明開元寺に戒壇を創立し、晩年西湖霊芝の崇福寺に居ること三十年、衆徒三百余人、後病気に罹りて微力を感じ、浄土門に帰した。政和六年(紀元一一一六)入寂せられた六十九歳であった。
 二。超昇 娑婆五悪趣を超え出でて、仏果〈ほとけのさとり〉に昇ること。
 三。緇素 緇は黒色、素は白色で、黒衣の人即ち僧侶と、白衣の人即ち俗人とのこと。
 【文科】支那傍依の師釈のうち、元照律師の釈文を引き給うのである。この律師の釈文が七文に分れて居る。今は初め浄土に帰すべきを示す文である。
 【講義】律宗の祖師、元照律師の『観経義疏』上巻に云く、
 況んや我大聖釈迦如来は、聖道一代の教の外に、吾等凡夫のために大慈悲を垂れ給いて、この浄土の法門を御説き下された。そして慇懃〈ねんごろ〉に未来一切の衆生に勧嘱〈おすす〉め下された。実にこの浄土の法門は、啻〈ただ〉に浄土教のみを説かれた経典だけにあるのでない。一切大乗の教の中に行き亘って説かれてある。然るに多くの人々は、現〈まのあた〉り各種の経典の中に見聞していながら、敢えて疑い謗りの思いを懐いて、自ら甘んじて三悪道に沈溺〈しず〉み、迷いの巷を超えて、仏果に昇ることを願わずにいる。釈尊はこれを見〈みそな〉わして、「哀れなる哉、甚だ傷むべし」と仰せらるる。但し一般の人々がかようにこの道に入らないのは、この他力念仏の法門が、常途〈つねなみ〉
(1-565)
の法門〈おしえ〉とまるっきり相違していることを知らないからである。その本願は、実に賢い者、愚な者、在家、出家を択ぶことなく、また修行の年時の長短や、罪を造ることの重い軽いを問わず、ただ他力信心一つを決定するが所詮である。その信心が即ち浄土往生の正因である。

 又云今浄土諸経並不言魔即知此法無魔明矣山陰慶文法師正信法門弁之甚詳今為具引彼問曰或有人云臨終見仏菩薩放光持台天楽異香来迎往生並是魔事此説如何答曰有依首楞厳経修習三昧或発動陰魔有依摩訶衍論修習三昧或発動外魔(謂天魔也)有依止観論修習三昧或発動時魅此等並是修禅定人約其自力先有魔種彼定撃発故現此事儻能明識各用対治即能除遣若作聖解皆被魔障(上明此方入道則発魔事)今約研修念仏三昧乃憑仏力如近帝王無敢于犯蓋由阿弥陀仏有大慈悲力大誓願力大智慧力大三昧功大威神力大摧邪力大降魔力天眼遠見力天耳遥聞力他心徹鑑力光明遍照摂取衆生力有如是等不
(1-566)
可思議功徳之力豈不能使護持念仏之人至臨終時令無障碍邪若不為護持者則慈悲力何在若不能除魔障者智慧力三昧力威神力摧邪力降魔力復何在邪若不能鑑察被魔為障者天眼遠見力天耳遥聞力他心徹鑑力復何在邪経云阿弥陀仏相好光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨若謂念仏臨終被魔障者光明遍照摂取衆生力復何在邪況念仏人臨終感相出自衆経皆是仏言何得貶為魔境乎今為決破邪疑当生正信 已上彼文

 【読方】またいわく、いま浄土の諸経に、ならびに魔をいわず、すなわち知んぬ、この法に魔なきことあきらけし。山陰の慶文法師の正信法門にこれを弁ずることはなはだ詳〈つまびらか〉なり。今ために具にひかん。彼に問ていわく、あるいは人あっていわく、臨終に仏菩薩のひかりをはなち台を持したまえるをみたてまつり、天楽異香来迎往生す。ならびにこれ魔事なりと。この説いかんぞや。こたえていわく、首楞厳経によりて三昧を修習することあり、あるいは陰魔を発動す。摩訶衍論によりて三昧を修習することあり、あるいは外魔を発動す(いわく天魔なり)。止観論によりて三昧を修習することあり、あるいは時魅を発動す、これら並〈ならび〉にこれ禅定を修する人その自力に約してまず魔種あり。さだめて撃発を被るがゆえにこの事を現ず。儻〈もし〉よく明〈あきらか〉にしりておのおの対冶をもちいれば、すなわちよく除遣せしむ。もし聖の解をなせば、みな魔障をこうむるなり。(かみはこ
(567)
の方の入道すなわち魔事を発すをあかす)いま所修の念仏三昧に約するに、いまし仏力をたのむ。帝王にちかづけばあえて犯すものなきがごとし。けだし阿弥陀仏、大慈悲力、大誓願力、大智慧力、大三昧力、大威神力、大摧邪力、大降魔力、天眼遠見力、天耳遥聞力、他心徹鑑力、光明遍照摂取衆生力ましますによりてなり。かくのごときらの不可思議功徳の力まします。あに念仏の人を護持して臨終のときにいたるまで、障碍なからしむること能わざらんや。もし護持をなさずば、すなわち慈悲力なんぞましまさん。もし魔障をのぞくこと能〈あたわ〉ずんば、智慧力、三昧力、威神力、摧邪力、降魔力またなんぞましまさんや。もし鑑察することあたわずして、魔障をなすことを被らば、天眼遠見力、天耳遥聞力、他心徹鑑力またなんぞましまさんや。経にいわば、阿弥陀仏の相好光明、あまねく十方世界をてらす。念仏の衆生をば摂取して捨てたまわず。もし念仏して臨終に魔障を被るといわば、光明遍照摂取衆生力またなんぞましまさんや。いわんや念仏の人の臨終の感相、衆経より出でたり。みなこれ仏の言なり。なんぞ貶して魔境とすることをえんや。いまために邪疑を決破す。まさに正信を生ずべし。(已上かの文)
 【字解】一。『正信法門』 慶文法師作『浄土文』中の一門である、『浄土文』は今伝らぬが、正信法門と浄行法門二篇に分れて世に行われ、元照律師がその序を書いたものである。観経の『正観記』中(八左)「作正信浄行二門、見布于世、疏主(元照)為序。其略云比得山陰浄土文二篇、与天台所論理趣無乖(正信浄行二門を作る、行じて世に見らる、疏主(元照)序を為る。その略に云わく、このころ山陰の浄土文二篇を得、天台の所論と、理趣、乖くことなし)」とある。
 二。『首楞厳経』 首楞厳、首楞厳三昧のことにて梵音は正しくシューランガマ、サマードヒ(Surangama Samadhi)健行定と訳する語である。この定に入れば、諸定の行相を一々明了に知悉し、諸魔に破壊せら
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れないのである。この経には二訳あり、一は唐の世、中天竺の波羅蜜三蔵の訳出にかかり、十巻である。中に、『和讃』に出でて居る勢至念仏円通のことが説いてある。二は後秦の世亀茲国の三蔵、鳩摩羅什の訳出にかかり、二巻になって居る。今は前者の十巻の経のことである。
 三。三昧 三摩地とも写し、梵音サマードヒ(Samadhi)等持と訳し、心を一境に専注せしむることである。定のこと。
 四。陰魔 五陰魔、五衆魔ともいい、色受想行識の五蘊和合のこの肉体がすべて仏道修行のさまたげとなるをいう。陰というは五蘊のことである。仏経に五陰魔、煩悩魔、死魔、天魔、の四魔を説いてあるが、その随一である。
 五。『摩訶衍論』 『大乗起信論』をさしていう。『起信論』は馬鳴菩薩の作で、真諦訳は一巻、実叉難陀訳は二巻ある。一心、二門、三大、四信、五行を説き、一心の上に真如門と生滅門との二面を分ち、その真如門に於いては一心の本体的方面である離言依言の二真如を説き、生滅門に於いては一心の現象的方面たる真如縁起を説き、一心の義理を弁別して、体大、相大、用大となし、次に実践の行法に及びて、真如と三宝を信ずる四信と、布施、持戒、忍辱、精進、止観の五行とによって、迷界を離るべきを説いてある。これを大乗通申論というて居る。
 六。外魔 外部から犯し来る悪魔の義で、前に説いた四魔のうち、天魔のことである。
 七。『止観論』 天台大師の述にて弟子章安の記である。『摩訶止観』十巻のことである。十章に分ってあ
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るが、前七章だけ説いてあって、後三章に説いてない。第一止観の大意、第二止観の釈名、第三止観の出体、第四、止覩の一切法を摂持すること、第五偏円二教の区別、第六方便、第七十乗観法の順序に述べてある。
 八。時魅 魔訶止観に槌惕鬼、時魅鬼、魔羅鬼の三鬼が説いてあるが、その第二である、定を修める時、男女の相、鳥獣の形をなして障碍〈さまたげ〉をなすものである。寅の時には寅の形をなし、丑の時には丑の形をなし出づるから時魅というものである。それで修定者は初めこのことを心得て置いて時魅の形を知り、寅の時には寅と呼び、丑の時には丑と呼べば魔は去るというるのである。
 九。魔種 過去世の因縁によって、自ら作って置いた魔の障を安くべき種。
 一〇。聖解 自ら聖者になったと思うこと。即ち自分が偉いと思う倣慢心のことである。
 一一。経 『観無量寿経』真身観の文を指すのである。
 【文科】元照律師の釈文の中、今は念仏に魔事なきを示す文を引き給うのである。
 【講義】また云く、今浄土の諸経典を繙いて見ると、念仏の行者が魔に障げられるということは、少しも云うてない。これで見ると、この浄土の法門には魔障と云うもののないということは明かである。山陰の慶文法帥の著『浄土文』の中の「正信法門」の下に、この事を委しく述べてある。今左にその文を引くであろう。
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 問うて曰く、かように申す人がある。「臨終の時に、仏菩薩が現われて、光明を放ち、連台を持ち、天楽天〈そら〉に響き、芳香四辺〈あたり〉に馥郁として、来迎するを見るは魔の所作である。左様な往生は魔事である。」この説はどうであろうか。
 答えて曰く、『首楞巌経』に依りて禅定を修めていると、ともすれば、吾々の心身を組織〈くみたて〉ておる五蘊が、修道の妨げをなすことがある。即ち五官の欲望のために修行か出来なくなるなどというがこれである。また『大乗起信論』によりて、禅定を修めていると、眼の前に魔境が表われて心を惑わすことがある。即ち天魔の仕業である。天台の『摩訶止観』によりて、禅定を修めると、昼夜十二時の時刻に応じて、それぞれ鳥獣や男女の形をした魔が現われて、修道を妨げるという。これらは自力で禅定を修める人々が、過去世に魔の障りを受けるような種を蒔いておいたために、今禅定をなすに当りて、ちょうど潜毒が注射薬のために外に出るように、その魔の種が撃ち発〈だ〉されて、正体を現わして、修道者を苦めるのである。それであるから、儻〈も〉し出てくる魔の何者たるを、明に知って、それ相応に魔境を対治すれば箒に塵を払うように残らず除き去ることが出来る。されどこの時、もしもかように魔を対治したのは、定の力であることを忘れて自分が聖者になった証拠であるなどと腰を据える
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と、直〈ただち〉にまた魔障を蒙る。(以上はこの世界に於いて自力で道を修むれば、こうした様々の魔障があることを示したのである)。所でいま云う所の他力念仏三昧に就いては、弥陀の誓願力によりかかっているから、恰も帝王に親近〈ちかづ〉いてその権威で護られておれば、何人も犯すことが出来ないように、吾等の依る所の阿弥陀仏には、大慈悲の力、大誓願の力、大智慧の力、大三昧の力、大威神力、邪を摧く力、大降魔力、天眼を以て遠くまで見る力、天耳で遠い処の声を聞く力、他人の心を徹鑑力、光明遍く照して衆生を摂取し給う力がまします。かような力という力を集めて、如何なる魔障も、障えられる不可思議功徳の力をもっていらせられる如来であるから、どうして念仏の行者を護持〈おまも〉り下さらぬということがあろう、どうして平生より臨終に至るまで、護りづめに御護り下されぬことがあらうぞ。もしも如来が念仏の行者を護持〈まも〉り給うことが出来ないと云うならば、御慈悲のお力がないと申さねばならぬ。もし如来が吾々のために魔障を除くことが出来ないというならば、如来には智慧三昧、威神、摧邪、降魔の諸力がましまさぬといわねばならぬ。もしまた如来が念仏の行者を鑑察〈みそなわ〉すことが出来ずして、魔のために障碍せしむるようなことになるならば、畏〈かしこ〉くも如来には、遠くみそなわす天眼の力、遥に聞き給う天耳力、他心を徹鑑す御力もな

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いと云わぬばならぬ。
 然るに『観経』には、阿弥陀仏の相好より放ち給う光明は、遍く十方の世界を照し、念仏の衆生をみそなわして、摂取して捨て給わずと説いてある。それにも係〈かかわ〉らず、もし念仏の行者にして、臨終に及んで、魔の碍りを被るということがあるならば、光明遍照摂取衆生力は、阿弥陀仏にはましまさぬと申さねばならぬ。その上、念仏の行者が臨終の時に来迎の相を感得するということは、『浄土三部経』等に説かれてあれば、これ実に釈迦如来の聖言である。どうしてこれを貶〈おとし〉めて魔境であるなぞということが出来ようぞ。
 今正しく邪疑〈うたが〉いを破し了〈おわ〉った。この上は他力の信心を起されよ。

 又云(元照律師弥陀経義文)一乗極唱終帰咸指於楽邦万行円修最勝独推於果号良以従因建願秉志躬行歴塵点劫懐済衆之仁無芥子地非捨身之処悲智六度摂化以無遺内外両財随求而必応機興縁熟行満功成一時円証於三身万徳総彰於四乾 已上

 【読方】またいわく、(元照律師 弥陀経義文)一乗の極唱は、終帰ことごとく楽邦をさす。万行の円修、最
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勝をひとり果号にゆずる。良にもて因〈もと〉より願をたつ志をとり、みずから行じ、塵点劫をへて済衆の仁をいだけり。芥子の地も捨身のところにあらざることなし。悲智六度、摂化してもて遺〈のこ〉すことなし。内外の両財、もとむるに随いてかならず応ず。機おこり縁熟し、行満じ功なり、一時にまどかに三身を証す。万徳すべて四字にあらわる。已上
 【字解】一。『弥陀経義』 『阿弥陀経義疏』一巻のこと。いうまでもなく『阿弥陀経』の註疏である。
 二。極唱 至極の教。
 二。終帰 結帰するところ、おんづまりのところ。
 四。果号 果上の名号、南無阿弥陀仏。
 五。塵点劫 非常に長い時間をいう。これに三千塵点劫(三千大千世界を摩して墨となし、それを一点づつ一千国土毎に下して墨汁の尽きた時、今迄に経過した世界を微塵に砕き、その一塵を一劫として数えた総数)と、五百塵点劫(五百千万億那由他阿僧祗の三千世界を抹して微塵となし、その微塵を一つづつ、五百万億那由他阿僧祗の国土毎に下し、微塵の尽きた時、今迄で経過したすべての国土を砕いて微塵とし、その一塵を一劫として数えた総数)との二種類がある。
 六。悲智六度 六度の中、前五度(布施、持戒、忍辱、精進、禅定)は慈悲の一行、第六(智慧)は智慧の行と分ちていうのである。
 七。内外両財 一説には布施をする財宝に、内の財宝(自分の肉身妻子等)と外の財宝(金銀珠玉等)とあ
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るをいうといい、また他の説には内の財宝とは、信、精進、戒、慚愧、聞法、捨財、定慧の七聖財のこと。外の財宝とは肉身、家族、財産のことをいうというて居る。今は前説をよしとする。
 八。三身 法身、報身、応身のこと。
 【文科】元照律師の釈文のうち、今は果号の徳を示す文を引き給うのである。
 【講義】また云く、(これは元照律師の『弥陀経義疏』の文である。)『法華経』、『華厳経』等の一乗の至極の教えというても、その終帰の所は、尽く西方の極楽を指示している。即ち『法華経』の「薬王品」、『華厳経』の「行願品」等に西方往生を説いてあるのは即ちこれである。そして修行という修行を円〈まどか〉に修めて、十方の諸仏に最勝〈たちすぐ〉れていることは、独りこの本願成就の名号にゆずらねばならぬ。良〈まこと〉に思いをめぐらせば、弥陀は因位にありて、衆生救済の本願を建てて五劫思惟の志を秉〈と〉りて少も逡巡〈たじろ〉がず、あらゆる行という行を身みずから実行し給い、塵点劫という長い間を経、偏〈ひとえ〉に常没の衆生を済〈すく〉うという志を懐かれた。その広大の慈心〈みこころ〉は、大海も譬うることは出来ぬ。三千世界の何処を尋ねても、芥子ばかりの土地でも、如来のおん身を御捨て遊ばされぬ処はない。慈悲と智慧との六度の行を修めて、あらゆる衆生に恵みを垂れ、御縁を結ばれた。衣服、金銀、財宝等の財は申すに及ばず、
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妻子までも、自分の肉体までもいつも望みに従いて与えられた。かようにして荒れ果てた衆生の心田は耕され、救済〈すくい〉の御呼声を頂くことの出来る機縁は純熟〈できあが〉った。行は円〈まどか〉に備わり、これによりて功徳は成就して、一時に法報応の三身を証り、あらゆる功徳が総て欠目〈かけめ〉なく、阿弥陀仏の四字に顕現〈あらわ〉れ給うことである。

 又云況我弥陀以名摂物是以耳聞口誦無辺聖徳攬入識心永為仏種頓除億劫重罪獲証無上菩提信知非少善根是多功徳也 已上

 【読方】またいわく、いわんやわが弥陀は名をもてものを摂したまう。ここをもて耳にきき口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。ながく仏種となりて、頓に億劫の重罪をのぞき、無上菩提を獲証す。まことにしんぬ、少善根にあらず、これ多善根なり。已上
 【字解】一。無辺の聖徳 無量無辺の名号の聖徳。
 二。攬入 そのままこちらへとり入れること。また入って下さること。
 【文科】元照律師の釈文のうち、持名の益を示す文を引き給うのである。
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 【講義】また云く、その上我大悲の御親にてまします阿弥陀如来は、諸仏と異なりて名号を以て衆生を摂取〈すく〉い給うのである。即ち「この名号を称える者を助くるぞ、信ずる者を救うぞ」と仰せらるる。この名号の謂れを耳より心の底に聞信〈ききひ〉らき、一念嬉しやと称名する時、かぎりなき名号の一功徳は、その念仏の行者の識心〈こころ〉の中にたぶたぶと攬入〈いりこ〉んで下さる。かくて永〈とこしな〉えに成仏の因種〈たね〉となり、頓に、造りと造りし無量億劫の重罪を除き、命終り次第に無上菩提を獲る身の上にしなして下さる。かような広大な御恵みは、信〈まこと〉に少善根で出来る道理はない、如来他力の多功徳、大善根の然らしむる所であると頂かなければならぬ。

 又云正念中凡人臨終識神無主善悪業種無不発現或起悪念或起邪見或生繋恋或発猖狂悪相非一皆名顛倒因前誦仏罪滅障除浄業内薫慈光外摂脱苦得楽一利那間下文勧生其利在此 已上

 【読方】またいわく、正念のなかに凡〈およ〉そ人の臨終は識神に主なし。善悪の業種、発現せざることなし。あるいは邪見をおこし、あるいは繋恋を生じ、あるいは猖狂を発し悪相一に非ず。みな顛倒のとなづく、さきに仏を誦
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して、つみ滅し障のぞこり、浄業うちに薫じ、慈光ほかに摂して、苦をまぬかれ楽をうること、一刹那のあいだなり、しもの文に生をすすむ、その利これにあり。已上
 【字解】一。繋恋 思いをかけ恋いしたうこと。
 二。猖狂 気のくるうこと。
 二。浄業 浄土参りの業因。
 【文科】元照律師の文のうち、往生の利益を勧むる文を引き給うのである。
 【講義】また云く、臨終正念に就いて云えば、一般に人の臨終の場合には、平生と違い識神〈こころ〉が主〈あるじ〉の資格を失うて、まるで空家同様となる。この時潜〈かく〉れておった善悪の業が空家に出る怪物〈ばけもの〉のように、擅〈ほしいまま〉に飛び出して荒回〈あれまわ〉る。何を云うても平生は悪業ばかり造っていることであるから、立派な思念は起らぬ。嫌〈いと〉わしい悪念が起る、恐ろしい邪見が起る。或いは妻子財宝に恋著し、または心身の悩みから発狂して狂い回わるという悪相を示すこともある。中々一通りや二通りでない。みなこれ心の顛倒した有様である。然るに平生の時に名号の謂れを聞信〈ききひら〉き、称名念仏して、罪は滅ぼされ、障りは除かれ、念仏の利益は内心に薫じつき、摂取の慈光は外から擁護〈おまも〉り下さるる身になれば、一刹那の間に苦みを脱れて、往生の楽みを獲ることが出来る。『阿弥陀経』の下の文に、釈尊が「我この利益を見るが故に、かよ
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うに浄土へ往生せよと説くのである」と御勧め下されたのは、上に述べたような利益があるからである。

 慈雲法師云(天竺寺遵式)唯安養浄業捷直可修若有四衆欲得速破無明永滅五逆十悪重軽等罪当修此法欲得大小戒体還復清浄得念仏三昧成就菩薩諸波羅蜜当学此法欲得臨終離諸怖畏身心安快衆聖現前授手接引初離塵労便至不退不歴長劫即得無生当学此法等古賢法語能無従乎已上五門略標綱要自余不尽委在釈文按開元蔵録此経凡有両訳前本已亡今本乃畺良耶舎訳僧伝云畺良耶舎此云時称宋元嘉初達于京邑文帝

 【読方】慈雲法師のいわく(天竺寺遵式)ただ安養の浄業のみ捷真なり。修すべし。もし四衆ありて、速〈すみやかに〉に無明を破し、ながく五逆十悪重軽等の罪を滅せんとおもわば、まさにこの法を修すべし、大小の戒体、遠くまた清浄なることをえしむ、念仏三昧をえしめ、菩薩の諸波羅蜜を成就せんとおもわば、まさにこの法を学すべ
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し、臨終にもろもろの怖畏をはなれしめ、身心安快にして衆聖現前し、授手接引せらるることをえ、はじめて塵労をはなれて、すなわち不退にいたり、長劫をへずしてすなわち無生をえんと欲わば、まさにこの法等を学すべし。古賢の法語によくしたがうことなからんや。已上五門、綱要を略標す。自余はつくさず、くわしく釈文にあり。開元の蔵録を按ずるに、この経におおよそ両訳あり。さきの本はすでに亡じぬ。いまの本はすなわち畺良耶舎の訳なり。僧伝にいわく、畺良耶舎、ここには時称という。宋の元嘉のはじめに京邑に達〈い〉たる、文帝のときなり。
 【字解】一。天竺寺 支那杭州の飛来峰の傍の精舎にて、飛来峰は、天竺の霊鷲山が飛んで来たのであるといいつたえて居るので、寺号も天竺寺というたものである。正しく円福寺というのである。
 二。遵式 天台宗。支那天台郡寧海の人、字〈あざな〉は知白、禅慧法師、または慈雲懺主ともいう。初め禅を学ぴ、二十二歳の時、宝雲について天台を学び知礼と親交あり、二十八歳『金光明経』『維摩経』等を講じた。咸平三年大旱の時、雨を祈り三日の中降らずんば、我身を焼かんと誓うたが雨大〈おおい〉に降った。天台山の西方に庵室を設けて念仏三昧を修し、明道元年十月(紀元一〇三二)寂光浄土に生るというて入寂せられた。寿六十九。
 三。四衆 仏法の四衆というて比丘、比丘尼、優婆塞(清信士)、優婆夷(清信女)の称。
 四。大小戒体 大乗戒の戒体と小乗戒の戒体。戒体というは、戒を持つときに受戒者の心中に発得する無表色のことをいう。かくの如き特殊の戒の体性となるものがあって、戒を相続せしむるというのであ
(1-580)
る。
 五。塵労 心を労れしむる塵、すなわち煩悩のことをいう。
 六。『開元蔵録』 『開元釈教録』のこと。二十巻、唐の開元十八年西崇福寺智昇の撰。後漢の永平十年より開元までの経律論、集伝、失訳等二千二百七十八部を録したものである。縮蔵、結四にある。
 七。畺良耶舎 梵音カーラヤシヤス(Kalayasas)、時称と訳する。西域の人、宋の元嘉の初め沙河を冒して支那に来って、鐘山の道林精舎に居られた。元嘉十九年(四四二)岷蜀に行きて後、還って江陵に死なれた。寿六十。
 八。僧伝 梁の『高僧伝』。十三巻。梁の会稽嘉祥寺沙門釈慧皎の撰にかかる。縮蔵致二にある。
 【文科】元照律師の釈文のうち、古釈に依って信を勧むる文を引き給うのである。
 【講義】慈雲法師の云く、(この人は天竺寺におった天台の遵式である。)仏教にも種々の教があるが、その中〈うち〉唯〈ただ〉安養浄土へ往生する念仏のみが、真実〈まこと〉の捷径〈ちかみち〉である。進んで修めねばならぬ。もし道に進まんとする出家在家の凡〈すべ〉ての人々にして、心の無明を破り、永く五逆、十悪等の重罪軽罪を滅〈なく〉したいと欲〈おも〉うならば、何を措いてもこの念仏の法門を修むるがよい。また大小乗の戒の功徳を獲て、常に清浄ならしめ、菩薩利他の六度の行を修めたいと欲うならば、この念仏三昧を修むるにしくはない。この念仏の法から自〈おのずか〉ら利他の善根は生
(1-581)
れてくるのである。次に臨終の時、凡〈すべ〉ての怖畏〈おそれ〉を離れ、身も安らかに心も快く、衆〈おお〉くの仏菩薩の接引〈おてひき〉に逢うことを獲、命終るや初めて一切の煩悩を離れて、不退の位に至り永劫の長い修行も経ずして、一念の立〈たちどころ〉に生即無生の証りを開きたいと欲うならば、この念仏の法門〈おしえ〉を学び、古えの聖賢の法語に一致するがよい。この結構な利益が会得〈のみこ〉めたならば、如何な人もよもやこの教えに従わずには居られぬことであろう。
 已上五門に頒けて『観経』を釈し、大略一経の要領を述べ終った。余の委細な事は、下の文義を解釈する所にゆずる。
 さてこの観経に就いて、『開元釈教録』を按〈しらべ〉て見ると、この経に二訳ありて、前訳は欠本になり、畺良耶舎の後訳だけが残っている。今はこの本によりて解釈を施したのである。梁の『高僧伝』には、畺良耶舎は「時称」と訳す。宋の元嘉の初年に京師に達せられた。即ち劉宋の第三代目の文帝の時代である。
 【余義】一。『観経』に二訳説と三訳説とあるが、『開元録』は二訳説であって、元照律師またここに両訳ありといい、その両訳のうち、『開元録』に依ってみると、前本は欠本となり、畺良耶舎の訳が行われて居ると曰われるのである。ところが、現行の『開元録』十二
(1-582)
には、「観無量寿経」一巻、宋の西域の三蔵畺良耶舎訳、第一訳とある。同十四巻には、欠本の部に宋の罽賓三蔵曇摩密多訳の『観経』をあげて第二訳としてある。されば、『開元録』は上の本文の「前本已亡(前本すでになし)」とあるに相違してある。そこで『内典録』を調べて見るに、その第一巻に後漢時代の翻訳にかかる本経の失訳をあげ、第三巻には東晋時代の翻訳にかかる本経の失訳をあげ、更に第九巻の上には今の畺良耶舎の訳をあげている。これによりて見れば、『観経』は三訳ありて、前二訳は欠本となったことが知れる。これは上の本文に、両訳あるというには相違しているが大体に於いて一致している。然れば、本文に『開元録』とあるは、「両訳あり」というは正しく『開元録』であるが、前本已亡〈前本すでになし〉というは、『内典録』に依ったものではなかろうか。或いはまた、「前」の字が「後」の字の誤りか。いずれか判じ難い。

 慈雲讃云(遵式也)了義中了義円頓中円頓 已上
 大智唱云(元照律師也)円頓一乗純一無雑 已上

 【読方】慈雲、讃じていわく(遵式なり)了義のなかの了義、円頓のなかの円頓なり。已上
 大智となえていわく(元
(1-583)
照律師なり)円頓一乗、純一にして雑なし。已上
 【字解】一。了義 真実の義理を明了に説く教。
 二。円頓 円は円教、天台の四教判、華厳の五教判には皆円教を最上完全の教とする。また頓は頓教、迂回の修行を教ゆる漸教に対す。この円頓の二つを完備せる教のこと。
 【文科】元照律師の釈文のうち、今は両師の解釈を引き給うのである。
 【講義】慈雲法師(先にあげた天竺寺の遵式)は、この他力念仏の法門を讃め嘆〈たた〉えていうには、この法門は実に、釈尊一代の教説〈おしえ〉を了義教、不了義教と頒ける中で、その了義教の中にも尤も真実の義理を明了〈はっきり〉と説いたものである。またあらゆる徳と義理を円〈まどか〉に具え、迂遠〈まわりくどい〉い修行を俟〈また〉ずに頓速〈すぐ〉と証りを開くことの出来るという大乗円頓教の中にも、尤も勝れた円頓一乗の法門である、と。
 大智律師(大智は諡号元照律師である)はこの本願念仏に就いて声言せらるるよう、この他力の法門は実に円頓一乗の法門である。即ち絶対唯一の大道であって、二乗三乗等の卑近〈ひく〉い雑多な教えでなく、純一〈まじりけな〉い、曖昧のない徹底〈すきとお〉っている法門〈おしえ〉である。已上
 【余義】一。この慈雲律師の語は、元照律師の『阿弥陀経義疏』上巻に引いてあるか
(1-584)
ら、我が聖人は慈雲律師を元照律師に摂して、その語を引用し給うのである。

第十科 戒度律師の釈文

 律宗戒度云(元照之弟子也)仏名乃是積却薫修攬其万徳総彰四字是故称之獲益非浅 已上

 【読方】律宗の感度のいわく(元照の弟子なり)仏名はすなわちこれ劫をつみて薫修し、その万徳をとるに、すべて四字に彰わる。このゆえにこれを称するに、益をうることあさきにあらず。已上
 【字解】一。戒度 宋の人、四明龍山の沙門、元照律師の弟子となり、「四分律」に達して居られた。晩年余姚の極楽寺に住して、一意西方を願生せられた。
 【文科】戒度律師の釈門を引き給うのである。
 【講義】律宗の戒度律師(この人は元照律師の弟子である。)は『観経』を解釈した自著『正観記』に云く、弥陀の名号は空な名前でない。乃〈すなわ〉ち永劫の長い間の修行の功を積みて薫修〈できあがっ〉たものである。ちょうど巨万の財貨が一枚の手形に移さるるように、吾々の罪を滅し証りを開くべき万徳〈あらゆるとく〉は、すっくりその儘阿弥陀仏の四字に彰われてある。かような大功
(1-585)
徳大善根の名号であるから、この御名を称うれば利益を獲ること極りないのである。

第十一科 用欽律師の釈文

 律宗用欽云(元照之弟子也)今若以我心口称念一仏嘉号則従因至覚無量功徳無不具足 巳上
 又云一切諸仏歴微塵劫了悟実相不得一切故発無相大願修無住妙行証無得菩提住非荘厳国土現無神通之神通故舌相遍於大千示無説之説故勧信是経豈容心思口議邪私謂諸仏不思議功徳須臾収弥陀二報荘厳持名行法彼諸仏中亦須収於弥陀也 已上

 【読方】律宗の用欽のいわく(元照の弟子なり)今もしわが心口をもて一仏の嘉号を称念すれば、すなわち因より果にいたるまで、無量の功徳具足せざることなし。已上
 またいわく、一切諸仏、微塵劫をへて実相を了悟して、一切をえざるがゆえに、無相の大願をおこし無住の妙行を修し、無得の菩提を証し、非荘厳の国土に住し無神通の神通を現するがゆえに、舌相を大千に遍して無説の
(1-586)
説をしめす。かるがゆえにこの経を勧信せしむ。あに心におもい口にはかるべけんや。私にいわく、諸仏の不思議の功徳、須臾に弥陀の二報荘厳にまた持名の行法におさむ。かの諸仏のなかに、またすべからく弥陀をおさむべきなり。已上
 【字解】一。用欽 宋の人、銭唐の七宝院に住す。元照律師に従いて律を学び、弟子にいうよう、「生きては律を弘め、死して弥陀の浄土に生れるであろう」かくて心を浄土に専〈もっぱら〉にして日課念仏三万遍に及んだ。ある日、心、浄土に遊びてその荘厳を拝したが、侍者に云うよう「我明日西方浄土へ往生するであろう」と、果して翌日に至り、合掌して西に面し、結跏趺坐して逝く。
 二。嘉号 よきみな、南無阿弥陀仏の名号のこと。
 三。微塵劫 上五七三頁の塵点劫に同じ。
 四。無相の大願 諸法の実相は無相なりと知った上に、起し給う大願のことであって、こうこういう願であると指し示すことの出来ない大願である。無相であるから、その儘無量相である。仏知見に依って起し給う凡夫の思慮を絶した大願のことである。
 五。無住の妙有 無住というは握るべき実体のないことであって、凡夫の考うるような、励んだり、積んだりする掴みどころのある行体のあるものに非ず、行を行ずれども、その行が行うたとおり滞らず、しかもその儘一切行に円融する妙行のことである。
 六。無得の菩提 不可得の菩提。得た得たと握ることの出来ぬ菩提の妙果。
(1-587)
 七。非荘厳の浄土 凡夫の思うて居るような、ぴかぴかと粧り立てられた浄土ではない。無相にして無量相の荘厳ある浄土。
 八。二報荘厳 依報荘厳と正報荘厳と。
 【文科】用欽律師の釈文を引き給うのである。この律師の書は今に伝〈つたわ〉らず、僅かに『楷定記』等にその鱗片見〈あらわ〉るのみである。
 【講義】律宗の用欽師(この人も元照律師の弟子)の云く、今もし我が心に弥陀の名号の謂れを聞信〈ききひら〉き、口に弥陀一仏の嘉号を称うれば、その仏の因位より果上に至る無量の功徳は、その名号を封じ籠められて、残らず我身に与え具足〈そな〉えて下さるのである。已上
 また云く、一切諸仏は微塵劫という長い間の修行を了〈お〉えて真如実相の理を了悟〈さと〉られた。さてこの真如の理を悟って見ると、すべて本来法爾として有りのままで、別に取り立ててどうという握〈つか〉み処はない。一切が不可得である。積むべき行もなければ、度〈すく〉うべき衆生もない。一切万物処をかえず、そのまま実相である。その仏知見から起さるる願であるから凡夫が考えているようなどうのこうのという有相の願でない。全く言葉を離れ、思慮〈おもい〉を絶した無相の大願である。妙行を修めてもその通りで、これだけの行を励んだ、功徳を積んだ
(1-588)
というて、励んだり積んだりする実体のある行でない。無自性の行を修める。そしてその無相の願、無住の行を因として獲る菩提であるから、証る菩提も空不可得である。故にその住する所の国土も、凡夫の思うような荘厳でなくして、無相の荘厳である。また神通を表わしても、凡夫の思うような神通ではなくして、所謂無神通の神通。舌相を以て大千世界を覆い、この『阿弥陀経』を信ぜよと一切衆生に勧めても、無説法の説法である。諸仏の自内証はかように絶対不可思議なもので、その境界は吾々凡夫の到底心に思量〈おもいはか〉ることの出来ないものである。
 これに就いて私は思う、上に申したような諸仏の不可思議の功徳なるものは、同時に阿弥陀仏の極楽の依報正報の二荘厳に収まり、それがまたその儘弥陀の名号を信じ称える行法に収ってしまう。さればこの名号を称えることは、実に広大無限の功徳を獲ることである。無論これを反対から云えば、仏々平等の理〈ことわり〉によりて、諸仏の名号の中に、弥陀の名号も収められるということも出来るが、併しこれは当面の問題ではない。

第十二科 嘉祥大師の釈文

(1-589)

 三諭祖師嘉祥云問念仏三昧何因能得滅如此多罪邪解云仏有無量功徳念仏無量功徳故得滅無量罪 已上

 【読方】三論の祖師、嘉祥のいわく。問〈とう〉、念仏三昧、なにによりてか能かくのごときの多くの罪を滅することをうるや。解していわく、仏に無量の功徳まします。仏の無量の功徳を念ずるがゆえに、無量のつみを滅することをえしむ。已上
 【字解】一。嘉祥 名は吉蔵、三論宗の祖師。支那金陵の人にて、姓は安氏、十二歳興皇寺法朗に仕え十九才にて早く『百論』を講じ、後、秦望に遊び嘉祥寺に入りて教を説かれた。揚州の慧日道場、京師日厳寺に転住し、唐の高祖の詔〈みことのり〉に依りて延興寺に教を布き、武徳六年六月(紀元六二三)入寂せられた。寿七十五。後世嘉祥大師と称した。
 【文科】嘉祥大師の 釈文を引き給うのである。
 【講義】三論宗の祖師、嘉祥大師はその著『観経疏』に云く、問う念仏三昧はどういう道理〈わけ〉でこの多くの罪を滅することが出来るのであるか。この質問〈とい〉に解釈を与えて曰く、そは阿弥陀仏に無量の功徳がまします。この阿弥陀仏の無量の功徳を念ずるために、吾々凡夫は曠劫このかたの無量の罪を滅して頂くことが出来るのである 已上。
(1-590)

第十三科 法位法師の釈文

 法相祖師法位云諸仏皆徳施名称名即称徳徳能滅罪生福名亦如是若信仏名能生善滅悪決定無疑称名往生此有何惑 已上

 【読方】法相の祖師、法位のいわく。諸仏はみな徳を名にほどこす。名を称するはすなわち徳を称するなり。徳よく罪を滅し、福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すこと、決足してうたがいなし。称名往生これなんの惑〈まどい〉かあらんや。已上
 【字解】一。法位 法師の伝は知れてない。茲の引文は『大経義疏』の文であるが、その書も伝わって居ない。
 【文科】法位法師の釈文を引用し給うのである。
 【講義】法相宗の祖師、法位法師はその著『大経義疏』の上巻に云く、一切諸仏はみなその功徳を名号に収め給う。我が弥陀もまたその通りで、六字の名号の中に、御自身の智慧も功徳も残らず施し収めて下さる。それ故にこの名号を称えるのは、即ち弥陀の功徳を称えることである。功徳の罪を滅し、福徳を生むことはいう迄もない。既に名号は功徳と同じで
(1-591)
あるから弥陀の名号の謂れを信ずれば、その功徳は吾等の身にみちみちて、善根を生み、罪悪を滅すことは少しも疑う余地はない。称名往生ということに就いては何の疑う所があろう。

第十四科 飛錫禅師の釈文

 禅宗飛錫云念仏三昧善之最上万行元首故曰三昧王焉 已上

 【読方】禅宗の飛錫のいわく、念仏三昧は善の最上なり。万行の元首なるがゆえに三昧王という。已上
 【字解】一。飛錫 禅宗、唐の紫閣山草堂寺の沙門である。天宝の初、京師に遊び、終南に止まりて『念仏三昧宝王論』三巻を作った。後、永秦の初、詔〈みことのり〉を奉じ、大明宮内に於いて良賁等と翻訳に従事せられた。
 二。元首 かしら。
 【文科】飛錫禅師の釈文を引き給うのである。
 【講義】禅宗の飛錫禅師はその著『念仏三昧宝王論』に云く、念仏三昧はあらゆる善の中の最上善である。あらゆる行の中の元首〈かしら〉であるから、この念仏三昧を三昧中の王と名けるのである。
(1-592)

第四項 師釈の二。日本の師釈

 【大意】これまで、支那の師釈を引き終った。正依の師が三師、傍依の師が十師、悉く念仏の大行を讃嘆し終ったから、これからは日本に渡って、日本の源信、源空両師の釈文を引いて大行讃嘆をなされるのである。
 第一科、源信和尚の釈文が四文即ち念仏証拠門の文、礼拝門の文、作願門の文、臨終念相の文である。
 第二科、源空聖人の釈文が二文、文前要義の文、流通総結の文である。

第一科 源信和尚の釈文

 往生要集云双巻経三輩之業雖有浅深然通皆云一向専念無量寿仏三四十八願中於念仏門別発一願云乃至十念若不生者不取正覚四観経極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽 已上

 【読方】往生要集にいわく、双巻経の三輩の業、浅深ありといえども、しかも通じてみな一向専念無量寿仏といえり。三に四十八願のなかに、念仏門において別してひとつの願をおこしてのたまわく、乃
(1-593)
至十念せん、もし生ぜずは正覚をとらじ、四に観経 には、極重の悪人他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることをう。已上
 【字解】一。『往生要集』 三巻、現行本は六巻になって居る。源信和尚の撰、経論の要文を集め、往生極楽の教行を勧説した書である。厭離穢土、欣求浄土、極楽証拠、正修念仏、助念方法、別時念仏、念仏利益、念仏証拠、往生諸業、問答料簡の十門に分れて居る。
 二。『双巻経』『大経』のこと。上下二巻に分れて居るから名けたもの。
 三。三輩 衆生の機類を上輩と中輩と下輩との三等に分ちてなづけたもの。
 【文科】源信和尚の釈文のうち。第一念仏証拠門の文である。
 【講義】源信和尚の『往生要集』下の本、第八念仏証拠門の下に十門を挙げる中、第二より第四までの文に曰く、
 『大無量寿経』の下巻に浄土往生の機類を三種に頒ちて、それぞれの行業に浅深あることを説いてあるが、而もかように機類が相違しているにも係〈かかわら〉らず、この三種に通じて、「一向専念無量寿仏」というてある。即ち年齢や気質か違うても母に対〈むか〉えば皆一様に母さんというように、どの機類でも一心一向に弥陀の名号を称えることだけは変りはない。三に『大経』に四十八願の中、念仏を説く諸願中、別に第十八願を立てて云く、この名号を称えて十声
(1-594)
乃至一声する者にして、もし極楽へ往生せなんだならば正覚を開かない」。四に、『観経』には極めて罪の重い五逆十悪の凡夫は、他に助かる方便はない。唯々〈ただただ〉偏えに弥陀の名号を称えて、極楽まいりをさせて頂くだけであると記してある。
 【余義】一。これまでに印度支那の祖師の釈文を引き終ったから、これからは日本の祖師の釈文を引いて、今まで通り、念仏の真実行であるということを証明し給うのである。
 二。この『往生要集』の文に四文ある。
 第一文は『要集』十門に分れて居る中、第八念仏証拠門の中に諸経論から十門引用してあるが、今その中三文を出し給うたのである。前後の七門は要門にも真門にも通ずる文であるからこれを略して、弘願念仏に限って説き明してある三文を引き給うたのである。それで三文というは、『大経』の文が二文、『観経』の文が一文である。今、ここに引かれた第一文中の三文の関係を述べてみると、

   ┏第一文━『双巻経』云々━━『大経』の文━━機法を示す━━総
   ┃
第一文╋第二文━三四十八願云々━━『大経』の文━━法を示す━━┓
   ┃                           ┣別
   ┗第三文━四『観経』云々━━『観経』の文━━機を示す━━┛

(1-595)
 初めの第一文は総じて機法を明し、第二文は別して法を説き、第三文は別して機を挙げ示すのである。それであるから、『双巻経』という語の上に『往生要集』では二の字があるのであるが、今はわざわざそれを略して第一文は総じて第二文・第三文を兼ぬるのであるということを示し給うたのである。それで第一文は三輩九品とわかれて機の善悪の差別はあるけれども(機)、いずれも一向専念の念仏(法)を修せねばならぬということを示し、第二文は弥陀如来の四十八願中に特に第十八願を発して衆生を済い給う(法)ことを示し、第三文は『観経』下々品の取意の文であってこの(法)に救済〈すく〉わるる機は極重の悪人であるという(機)ことを示し給うのである。それでこの三文をつづけて見れば下々品の逆悪の機が極善最上の法、即ち第十八願の念仏に依って助けられることを説き明し給うたのである。親鸞聖人は今ここに引用した文を常に重んじ給うたもので、『化巻』八(十九左)に「楞厳和尚の解義を按ずるに第十八願は別願中の別願」と宣うたのもこの第二文に依り給うたのであろう、また『化巻』御自釈(四十三右)に『観経』定散の諸機は極重の悪人「唯弥陀を称せよと勧励し給う」というのも、この三文に依り給うたものである。今この文の中に、親鸞聖人が定散の諸機みなことごとく極重悪人であるように仰せられるのも、深く源信和尚の真意を得
(1-596)
て、仰せられるので、源信和尚の御意にしてみるもこの引用文の第一文の三輩の業浅深ありと雖もというのが、定散九品の機は種々わかれてあれども、詮じつむれば、極重の悪人にしても自力無功と知って弥陀弘願の救済〈おすくい〉にすがるより外はないぞということを暗示〈あんにしめ〉し給うたのである。親鸞聖人この意を得て定散九品の機も悉く極重悪人であると決し給うたものである。
 第二文は第四正修念仏門の中で五念門の中の礼拝門を明す中の引文であるが、『心地観経』の文の当相ではもとより、釈迦如来が諸仏を讃嘆し給うものであるけれども、源信和尚この文を引いて、諸仏の功徳を弥陀一仏に帰し、弥陀の功徳を讃嘆するものとして引き給うたから、親鸞聖人もまたこの文を以て上の極重の悪人をその儘救済して下さるる六字名号を讃嘆するものとして引き給うたのである。
 第三文は同上の五念門の中作願門を明す中の引文であって、『華厳経』の菩提心の喩〈たとえ〉である。それを今は念仏と諸行を相対して、諸行を廃し、念仏を立てる喩として引き給うたのである。波利質多樹華は念仏である。膽蔔華〈せんふくけ〉、波師迦華〈はしかけ〉は定散の諸行である。
 第四文は同じく『往生要集』、第十問答料簡の中『観経』下々品の念仏の利益を明す文で
(1-597)
ある。前文に於いてすでに諸行と念仏を廃立し終って、一名号に帰し、終ったから今この文に来って衆生もしこの名号と称うれば、三世の業障も一時に消滅して無上の涅槃をさとることが出来るという名号の功徳を讃嘆したものである。

 又云応依心地観経六種功徳一無上大功徳田二無上大恩徳三無足二足及以多足衆生中尊四極難値遇如優曇華五独出三千大千世界六世出世間功徳円満一切義依具如此等六種功徳常能利益一切衆生 已上
 依此六種功徳信和尚云一応念一称南無仏皆已成仏道故我帰命礼無上功徳田二応念慈眼視衆生平等相一子故我帰命礼極大慈悲母三応念十方諸大士恭敬弥陀尊故我帰命礼無上両足尊四応念一得聞仏名過於優曇華故我帰命礼極難値遇者五応念一百倶胝界二尊不並出故我帰命礼希有大法王六応念仏法衆徳海三世同一体故我帰命礼円融万徳尊 已上

(1-598)
 【読方】またいわく、心地観経の六種の功徳によるべし。一には無上大功徳田、二には無上大恩徳、三には無足二足及以多足衆生のなかの尊なり、四にはきわめて値過しがたきこと優曇華のごとし、五にはひとり三千大千界にいでたまう。六には世出世間の功徳円満せり。義つぶさにかくのごときらの六種の功徳によりて、つねによく一切衆生を利益したまう 已上。この六種の功徳によりて信和尚のいわく、一には念ずべし、ひとたび南無仏と称すれば、みな已に仏道をなる。故〈かるがゆえ〉にわれ無上功徳田を帰命し礼したてまつる。二には念ずべし。慈眼をもて衆生をみそなわすこと、平等にして一子のごとし。故にわれ極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。三には念ずべし、十方の諸大士、弥陀尊を恭敬したてまつる。かるがゆえにわれ無上両足尊を帰命し礼したてまつる。四には念ずべし、ひとたび仏名をきくことを得ること、優曇華よりも過ぎたり。かるがゆえにわれ極難値遇者を礼したてまつる。五には念ずべし、一百倶胝界には二尊ならぴいでたまわず。かるがゆえにわれ希有大法王を帰命し礼したてまつる。六には念ずべし。仏法衆徳海は三世おなじく一体なり。かるがゆえにわれ円融万徳尊を帰命し礼したてまつる。已上
 【字解】一。『心地観経』八巻。具には、『大乗本生心地観経』という。唐の世。罽賓国の般若三蔵の訳出にかかる。序品、報恩品、厭捨品、無垢性品、阿蘭若品、離世間品、厭身品、波羅密多品、功徳荘厳品、観心品、発菩提心品、成仏品、嘱累品の十三品に分れて居る。
 二。優曇華 上二四〇頁をみよ。
 三。三千大千世界 小千世界と中千世界と大千世界の総称である。小千世界は一世界(一日月。
(1-599)
一須弥山、四天下、四天王、三十三天、一夜摩天、一兜率天、一楽変化天、一他化自在天、一梵世天)を千倍したるもの、中千世界は小千世界を千個合したるもの、大千世界は中千世界を千個合したるものである。
 四。無上両足尊 両足尊というは、二足を有する生類〈いきもの〉、即ち人天の中にて最も尊き人という意にて仏の事である。これに無上の語を如えても同じ。今は阿弥陀如来の事をいう。
 五。極難値遇者 極めて遇い難い御仏。すなわち阿弥陀如来のこと。
 六。一百倶胝界 倶胝は梵音コーテ(Koti)。数の名であって、度洛叉の十倍すなわち千万一億の数である。百倶胝界は大千世界に同じ。
 【文科】源信和尚の四文のうち、礼拝門の文を引き給うのである。
 【講義】『往生要集』上の末に云く、『心地観経』の如来六種の功徳に依れば、一には如来はこのうえもない大功徳田にていらせられる、菩薩聖者も功徳田であるから、供養すれば功徳が獲られるが如来は殊に大功徳を生ずる田地であるというのである。二。如来は吾等の御親であるから、この上もない大恩徳の御方にてあらせらるる。三。如来は足のない有情〈いきもの〉(蛇等)、二足の有情(人間等)、多足の有情(百足等)、即ち一切の有情の中で最も尊い方である。四。如来の出世には極めて値い難いことは、あの罕〈まれ〉に花開く優曇華に蓬うようなものである。五。天に二日のないように、如来は三千大千世界に唯一独尊の方である。六。
(1-600)
如来は五戒十善等の世間普通の道徳、並びに世間以上の無漏〈けがれのな〉い大功徳を円〈まどか〉に備え給い、あらゆる善根(義)の根拠〈よりどころ〉、源泉〈みなもと〉である。如来はこれらの六種の功徳を具えて、常に能く一切衆生を利益し給う。已上
 この六種の功徳に依りて、源信和尚の仰せらるるよう、
 一。先ずみ仏を念じ奉れ。一声南無阿弥陀仏と称うれば、それによりて仏道を開かせて頂くことである。故に私はこの無上の功徳田にてあらせらるる阿弥陀仏に帰命し、礼拝し奉る。二。み仏を念じ奉れ。慈悲の眦〈まなじり〉をめぐらして吾等衆生を一子のように平等に視〈みそな〉わし給う。故に私はこの大慈悲の母たる阿弥陀仏を念じ奉る。三。仏を念じ奉れ、十方のあらゆる菩薩方は、みなこの阿弥陀仏を恭敬〈うやま〉い奉る。故に私もこの人天の無上尊たるみ仏に帰命し、礼し奉る。四。み仏を念じ奉れ、一度でも弥陀の名号を聞くことの出来るのは優曇華に逢うよりも罕〈まれ〉なことである。吾等はこの罕〈まれ〉なる好機会に逢い奉ったことを喜ばねばならぬ。故に私はこの極めて値い難いみ仏に帰命し礼し奉る。五。み仏を念じ奉れ、一国に二人の君主の在〈ましま〉さぬように、如来は実に大千世界に二仏と並んでは出世〈おでま〉しにならぬ独尊の方にてあらせらるる。この故に私はこの極めて稀〈まれ〉な大法王の阿弥陀仏に帰命し、礼し
(1-601)
奉る。六。み仏を念じ奉れ、仏宝、法宝、僧宝の三宝は、その体全く真如の一体であって、三世諸仏はみな円〈まどか〉にこの三宝を備えていらせられる。故に私は円にあらゆる三宝の徳を備え給う大悲の阿弥陀仏に帰命し、礼し奉る 巳上。

 又云波利質多樹華一日薫衣瞻蔔華波師迦華雖千歳薫所不能及 已上

 【読方】またいわく、波利実多樹の華、一日、衣に薫ずるに、瞻蔔華、波師迦華、千歳薫ずといえども及ぷこと能〈あたわ〉ざるところなり。已上
 【字解】一。波利質多樹 梵音パーリヂャータ(Palijata)、香遍樹と訳する。忉利天の喜見城にある香木の名であるという。
 二。瞻蔔華 梵音チャンパカ(Campaka)、黄食華と訳する。樹が非常に大きくて有名な金翅鳥が、この樹の上に止〈とど〉まるといわれて居る。花は梔子〈くちなし〉に似て居って強い香気がある。
 三。波師迦華 梵音ワルシカーラ(Varucikara)、雨時華と訳する。印度の夏は雨時であるが、この夏に咲く花であるからこの名があるのである。香ばしい花であるという。
 【文科】源信和尚の四文のうち作願門の文である。
(1-602)
 【講義】また同上末に云く、忉利天にあるという波利質多樹の華を以て、僅に一日の間その匂いを衣に薫じつけると、瞻蔔華、波師迦華の香華を千年の間薫じ付けるにも勝るということである。今またそれに同じく念仏の一念は、まことに余の功徳の千年に勝るのである。

 又去如一斤石汁能変千斤銅為金雪山有草名為忍辱牛若食者却得醍醐尸利沙見昴星則出菓実 已上

 【読方】またいわく、一斤の石汁よく千斤の鋼を変じて金となす。雪山〈せっせん〉に草あり、なづけて忍辱とす。牛もし食すればすなわち醍醐をう、尸利沙、昴星をみればすなわち菓実をいだすがごとし。已上
 【字解】一。石汁 薬汁にて、訶宇迦水(Kathaka)すなわち金色水の事である。
 二。雪山 印度ヒマーラヤ(Himalaya)山のこと。四時雪を以て被〈おお〉われて居るからいうたのである。
 三。醍醐 熟酥の上に浮べる油のようなもの、牛乳を最も精製して作ったものである。
 四。尸利沙 尸利沙を月利沙と写し誤って居る版本が多い。尸利沙は梵音(Silisha)、合昏樹〈ねむのき〉の事である。
 五。昴星 すばるぼしのこと。
 【文科】源信和尚の四文のうち臨終念相の文である。
(1-603)
 【講義】また「同上」下末に云く。一斤の金色水は千斤の銅を黄金に変える。雪山に生える忍辱という草を、牛が食すれば、醍醐となって乳房に滴〈したた〉り、尸利沙樹は昴星を見れば菓実をつけるということである。これみな不可思議の妙用である。いま念仏を称えて功徳をうるも、またかくの如くまことに不可思議の誓願力の然らしめたまう所である。

第二科 源空聖人の釈文

 選択本願念仏集(源空集)云南無阿弥陀仏(往生之業念仏為本)

 【読方】選択本願念仏集(源空の集)にいわく、南無阿弥陀仏(往生の業には念仏を本とす)
 【字解】一。『選択本願念仏集』 略して選択集という。二巻。九条関白兼実公の懇請に依って法然聖人の選したまえし書。往生之業念仏為本の旨を叙〈の〉べた浄土教根本の書である。十六章(教相章、二行章、本願章、三輩章、利益章、特留章、摂取章、三心章、四修章、化讃章、讃嘆章、付属葦、多善章、証誠章、讃念章、慇懃章)に分ちて章毎に念仏の要文を引き、聖人の識見に依って重ねてこれを解釈してある。
 二。源空 浄土宗の開祖、法然房と号す。父は美作久米押領使 漆間時国〈うるまときくに〉。長承二年四月七日(紀元一一三三)、久米の南条稲岡に生れ給うた。幼名は勢至丸、九歳の時、父を喪〈うしの〉うて州〈くに〉の菩提寺観覚の下に投じ、十
(1-604)
五歳叡山の源光に従い、皇円に事〈つか〉い、十八歳、黒谷の叡空に学ばれた。二十四歳、奈良に遊び、京都仁和寺等を訪われた。四十三歳の時、初めて浄土門に帰し、念仏を唱道せられた。叡山の嫉祖を受け、建永二年讃岐に配流せられ、建暦元年勅免に依って京都へ帰られたが、同二年正月二十五日洛東大谷の禅房に往生し給うた。寿八十。代々の天子、概〈おおむね〉ね大師号を賜うた。光明大師はその一である。
 【文科】源空聖人の釈文のうち、文前要義の文を引き給うのである。
 【講義】『選択本願念仏集』(法然聖人源空の集述)に先ず巻頭〈はじめ〉に吾々の所信、所行の物柄である所の南無阿弥陀仏の六字を標榜して、本集一部の骨目を示し、その下に細註して、衆生往生の正定業は、この六字の名号である。これより外はない。これにかぎる。これが根本であると申されてある。

 又云夫速欲離生死二種勝法中且閣聖道門選入浄土門欲入浄土門正雑二行中且抛諸雑行選応帰正行欲修於正行正助二業中猶傍於助業選応専正定正定之業者即是称仏名称名必得生依仏本願故 已上

(1-605)
 【読方】またいわく、それすみやかに生死をはなれんと欲わば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣〈さしお〉きて、えらんで浄土門にいれ。浄土門にいらんとおもわば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛〈なげす〉てて、えらんで正行に帰すべし、正行を修せんとおもわば、正助二業のなかに、なお助業をかたわらにして、えらんで正定業を専にすべし。正定の業というは、すなわちこれ仏名を称するなり。名を称すればかならず生ずることをう。仏の本願によるがゆえに。已上
 【字解】一。二種の勝法 二種の殊勝の法ということにて、聖道門、浄土門のことをいう。
 二。正雑二行 弥陀の浄土へ往生する正しき行業たる正行と、正しき浄土往生の行業でない疎雑の雑行と。
 三。正助二業 正行に五正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆、供養)ある中、第四の称名は、第十八願に正しく往生の業として誓い定め給うた行業であるから、正定業、正業といい、前三後一は正定業の称名を助くる行業であるから助業という。
 【文科】法然聖人の文の中、流通総結の文を引き給うのである。
 【講義】また同集に云く、それ速〈すみやか〉に迷いの生死を離れて証〈さとり〉の岸に到りたいと欲〈おも〉うならば、聖道、浄土の二種の勝れた法門の中、先ず自力聖道の教えを抛閣〈なげす〉てて、選びて他力の浄土門に入れ、そして真にその浄土門の真意に達したいというならば、正行難行のニつの
(1-606)
中、先ず諸の雑行を抛てて選んで五行にもとづかねばならぬ。またその正行を真に修めたいというならば、五正行の中の前三(読誦、観察、礼拝)後一(讃嘆)の四種の助業を傍〈かたわら〉にさしおいて、選んで正定業を専〈もっぱら〉にせねばならぬ。かように追々〈おいおい〉と選びに選んで煎じつめた正定業とは何であるかと云えば、即ち弥陀の名号を称えることである。名を称うれば屹度〈きっと〉間違いなく往生することが出来る。何故かと云えば、称うるものを助くるぞという大悲の本願に順〈かの〉うておるからである。
 【余義】一。『選択集』を引き給うについて、題下に源空集と割註がされてある。これについて、こういう説をなすものがある。
 (一)この『選択集』は、親鸞聖人の『御本書』選述の当時には著作なされてから猶余り年時も立って居らないし、また公にされた性質のものでもないから、法然聖人の著作ということを知るものが少なかろうというのでわざわざ選号を入れられたのである。
 (二)この『選択集』には偽作という説もあって、浄土門中聖人の門下に於いても左様いう意見を持って居ったものもある。これに対して法然聖人の真選に相違ないということを示さんがために割註されたものである。
(1-607)
 右のような説をなすものがあるが、然しこれは余り穿ち過ぎた説のようにおもわれる。当時已に三井の公胤、栂尾の明恵、竪者定照、高野の明遍等の他山の学者がこの書を議し、種々『選択集』の難破の書もあることなれば、一般読書界には『選択集』というものは知れ渡って居ったに相違ないし。また法然聖人真選ということもこういう次第で多数の人の信じて居ったものに相違ないからわざわざそれがために割註をして誤解を解くほどの必要はなかったものであろう。
 然らば何故、わざわざ源空集と記されたのであろうか。これについて二つの理由があるように思われる。
 第一には因人重法の故に。これは人に因って法を重んずるということで、当時一天四海の師宗たる法然聖人、浄土門の元祖たる源空聖人の著作された『選択集』なれば殊更に、誰人でも、その所論の耳傾〈みみかたむ〉けねばならぬという意がある。
 第二に師教の恩厚を仰ぐが故に。親鸞聖人の夢寐忘るることの出来ないのは師匠法然聖人の恩教である。今この『本典』選述に際しても、感泣胸に迫るは故聖人の恩教である。この大恩を思い出し、その御述作を引き奉るについても仰がるる師聖人の昔を思い、なつかしさ
(1-608)
尊さに筆を走〈はしら〉せて源空集と遊ばされたのであろう。
 二。茲に『選択集』の中、題号と、題下の十四字と総結の十六句とを引用し給うてある。親鸞聖人の御心持ではこれで『選択集』一部全体を引用し給うたのである。何故かというと『選択集』一部はその名の示す如く、本願念仏を選択するという義旨を示すのが、主眼となって居る。それで、一部全体に、この選択本願念仏のおもむきを三ケ処に見ることが出来るのである。
 先ず第一に『選択集』の総内容である十六章段は、広く選択本願念仏の義旨を明にしたものである。その事は、十六章段の前二章、教相章と、二行章とが示して居るので、明かに、聖道浄土の二門の区別を立て、正雑二行を分別し、正行の中でも、殊に念仏正定業を選択してある。余の十四章は、上二章の義旨を成立せしめんがために、三経の文を引いて、証明してあるのである。それでこの十六章段全体は、広く選択本願念仏の義旨を説き明してあるのであるから、これを広選択というて居る。ところが、『選択集』の最後に、この十六章を結んで、今ここに引用してあるところの八十一字が記してあるのであるが、これが簡略な文字ではあるけれども、全く、教相章と、二行章との意味から出来て居るので
(1-609)
初めの方は教相章、「欲八浄土門」以下は二行章の意である。法然聖人はこの八十一宇を以て『選択集』十六章段の総結とし聖浄二門を廃立し、外に二選択を示して念仏正定業を押し立て給うたものである。それでこれを十六章の広選択に対して略選択というて居る。ところが翻って考えてみると、かくの如くして押し立てた念仏正定業は、すでに題下の十四字に摂めてあるのである。してみれば題下の十四字はこれを広選択略選択に対して要選択というべきである。こういう風に見て来れば、『選択集』一部には要選択と広選択と略選択の三選択があることになる。而してこの三選択は、互に異なって居る選択ではなくて、ただ開合の異のみである。三選択を挙ぐれば、他の二選択は皆これに摂まってしまうのである。それで、親鸞聖人の御思召では、三選択の中、略選択の八十一字を出して、他の二選択を収め、『選択集』一部全体を引用し給うたのである。それで、『選択集』は、この「行巻」でたった一度引かれてあるのみで、外には、少しも引いてないのであるが、ただ茲一個所だけに引かれてある所に却って妙味がある。
 茶人利休が、朝顔が吹きそろうて居りますから、朝茶を上げとう御座いますと太閤秀吉公を招待したことがある。太閤は、朝早く利休の庵へ行ってみられると、奇麗に手入をし
(1-610)
た庭前は美しいが、朝顔の花は一輪もみえない。垣根に一杯に蔓はからんで居り乍ら、蕾も花もみえないので不審に思うて、茶室へ入られると、朝顔の花がたった一輪、一輪挿に生けてあったそうである。今、親鸞聖人の『選択集』を御引用なされる仕方が丁度これである。
 四。然らば『選択集』一部の所明は何であるか、外ではない。南無阿弥陀仏の六字である。この六字は、弥陀如来能選択の大悲の願心を以て、衆生往生の業として撰びとり給うた真実行である。この真実行を弥陀如来は私共衆生に回向して口に称えしめ、往生の正定業とし給うのである。もとより全く弥陀回向の大行にて、衆生からいえば全く不回向のものであるから、称えてどうするという功利的なことではなく、報謝の称名と顕われるのであるが、弥陀如来の方よりこれを往生の正定業に定め給うのである。これが順彼仏願故である。もともとそういう風に選択し給うた本願であるからである。
 五。茲に今一ついわねばならぬことがある。それはこの選択本願念仏ということについて、法然聖人は一願建立というて、常に十八願だけを立てて、法門を談じ給うのであるから、今も選択本願といえば十八願のことである。従って念仏は第十八願の念仏とい
(1-611)
うことになるけれども、親鸞聖人は五願別開というて、法然聖人の意を開いて四十八願中に真実の願を五願立て給うから、念仏はこれを第十七願に属し給うのである。それで選択本願の名目も十七、十八、十一の三願に通じて用いてある。そのことば前にもいう通り『往還回向文類』を見れば知れるのである。かくの如く我が親鸞聖人は選択本願の念仏を今は第十七願の念仏のこととして、この「行巻」に引き給うのである。

第三節 私釈

 【大意】以上に於いて、印度、支那、日本に亘って七祖及び各宗の祖師の釈文を引き来って、南無阿弥陀仏の大行を讃嘆称説し終ったから、これより、親鸞聖人自ら私釈を如え給うのである。この私釈は七祖以下の論訳をすべくくって下し給うたので、引経段の処にはすでに経文を引き終って後に私釈があった。
 この論釈段の私釈で、一先〈ひとま〉ず、「行巻」の所明は終ることとなるのである。
 この私釈は五項に分れる。

  第一項 総結嘆━━第一科 正勧  第二科 引証
  第二項 他力━━━第一科 正説  第二科 引証
  第三項 両重因縁━第一科 正説  弟二科 引証
(1-612)
  第四項 一念━━━第一科 正説  第二科 引証  第三科 釈義  第四科 示益  第五科 引文会意
  第五項 総結

第一項 総結嘆
第一科 正勧

 明知是非凡聖自力之行故名不回向之行也大小聖人重軽悪人皆同斉応帰選択大宝海念仏成仏

 【読方】明かにしりぬ、これ凡聖自力の行にあらず。かるがゆえに不回向の行となづくるなり。大小の聖人、重軽の悪人、皆同じく斉しく選択の大宝海に帰して、念仏成仏すべし。
 【字解】一。大小聖人 大乗の聖者と小乗の聖者。
 二。重軽の悪人 下々品の重罪の悪人と、下上品、下中品の軽罪の悪人と。
 三。選択の大宝海 弥陀如来が選びに択び給うた本願の名号のこと。名号は一切の功徳利益の集りどころなるが故に宝海に喩う。
 【文科】総結嘆をなし給ううち、今は正しく本願の名号に帰せよとすすめ給うのである。
(1-613)
 【講義】これまで、七祖の論釈、及び諸師の釈文を引き来ったが、その引文によりて見ると、この念仏の一行は明かに凡夫や聖者の自力で作ったものでない、全く他力回向の行であると云うことが解る。それ故にこの念仏の大行を吾々凡夫の方から云えば不回向の行と名けるのである。即ちその念仏の行は全く如来より賜ったものであるから、吾々凡夫から念仏の功を積んで、これで助けて下さいと如来に回向〈さしむ〉ける道理はないのである。
 かように少しも自力の計いを交えず、まるまるの他力で助けて頂くのであるから、大乗小乗の聖者の方々も、また本願の正機たる重罪軽罪の悪人凡夫も、皆一様に母の膝下〈ひざもと〉に集る子等のように、この選びに択び給うた本願の大宝海たる名号に帰入し、念仏一つで成仏の素懐を遂ぐべきである。誠に機の善悪を択〈えら〉ばず、凡夫聖者を隔てず、唯本願の念仏独りだちで往生を遂げさせて頂くことである。
 【余義】一。上来〈これまで〉に七祖の論釈を引用し終ったから、茲で聖人自ら私釈を加え給うのである。『略本』ではこの私釈に相当するところに「聖言論説特知非凡夫回向行是大悲回向行故名不回向〈聖言論説、特に知んぬ、凡夫回向の行にあらず、これ大悲回向の行なるが故に不回向と名づく〉」とあって、経論すべてを承〈う〉けて来て私釈をし給うたことになって居る。これは『略本』の『略本』たる所で、『略本』では『大経』の文と龍樹天親二祖の論文だけ
(1-614)
を引いて大行を讃嘆し、経の引文の終った後に私釈を加えず経論の引用のすべて終った後に私釈をし給うたものである。今本典では引経段に於いて、已に私釈をし給うたのであるから、今はただ七祖の論釈を承けて私釈をし給うのである。それで、上来引き来った論釈の中に於いて『浄土論』、『論註』には他力回向ということが示されてあり、光明大師には発願回向ということがあり、『選択集』(十右)には不回向ということが出でて居る。祖々皆他力回向ということを相承発揮し給うてある。それで今その祖々の教をその儘に、「凡聖自力の行に非ず。かるが故に不回向の行と名くる也」と宣うたのである。この意味を『和讃』には
  真実信心の称名は  弥陀回向の法なれば
  不回向となづけてぞ 自力の称念きらわるる
と述べ給うた。蓮如上人『御文』にこれを相承し給うことも已に二〇三頁に記した通りである。
 吁〈ああ〉、不回向!何という意味深長の語であろうか。浄土真宗の飛び切りの有難味〈ありがたみ〉はこの三字にある。徹底した信仰味は茲にある。我等のどうしても阿弥陀様に離れられぬ味〈あじわい〉はここにある。吾等の胸を割って自性の底を示して、そのままだ、俺に任せよ、俺に計わせよと
(1-615)
呼んで下されるがこの三字の味〈あじわい〉である。不回向とは、十露盤〈そろばん〉勘定のないことである。出し合〈だしあい〉根性のないことである。交換問題のない世界のことである。出来もせない僻に、我〈が〉を張りたくて、これで善かろうか、あれでよかろうかと我〈われ〉と、我が心を修飾しようとするのは、皆この不回向の義が解らぬからである。曾無一善、虚仮不実、どうもならぬこの奴のなりで、御助けとは有難やと信ぜられたが、不回向の義に眼が開いたのである。願も行も、あなたの方で御成就下されて、親の頭へ拳〈こぶし〉を当てたなり、君の胸に刃を擬したなり、不忠不孝の奴のままで助けて下さるのである。「仏法にはよろずまいらせ心悪し」と蓮如上人も仰せられてある通り、いつ迄も我が根性に買いかぶりがあるから。それでも少しはどうかなってと力味〈りきみ〉を入れて、御慈悲に徹底せないのである。親一人子一人の生活に、何で親の御慈悲を買う資本が入〈い〉ろうか。
 二。大小聖人というは『観経』に説かれてある九品の中、上三品の大乗の聖者と、中三品の小乗の聖者をいうのである。重軽悪人とは、下上品下中品の軽罪の悪人と、下々品の重罪の悪人とをいうのである。而して、大小聖人は、浄土の傍機であって、重軽の悪人は、浄土の正機である。それで、大小聖人重軽悪人とは「玄義分」のいわゆる「一切
(1-616)
善悪凡竟」とあるのと同一である。
 三。ここに用いてある皆同斉の語は、皆は、「玄義分」の莫不皆乗の皆。斉は同じく「玄義分」の五乗斉入の斉、同は『論註』の同一念仏の同である。この三字を集め給うたものである。有善無善を論ぜず、男子も女人もいわず、選択の本願名号に帰すれば、凡夫も聖者も同じく自力を用いずして他力の念仏に依って成仏することを得るぞと示し給うのである。
 これと同じい意味を『和讃』には
  願力成就の報土には  自力の心行いたらねば
  大小聖人みなながら  如来の弘誓に乗ずなり
とあり、『唯信文意』(十四)には
  自力のこころをすつというは、ようようさまざまの大小の聖人、善悪の凡夫のみずから身をよしとおもうこころをすて、身をたのまず、あしきこころをさかしくかえりみず、またひとをあしよしとおもうこころをすててひとすじに具縛の凡夫、屠沽の下類無碍光仏の不可思議の誓願広大智慧の名号を信楽すれば煩悩を具足しながら無上大涅槃にい
(1-617)
たるなり。
と記し給うてある。これらの文をよくよく味わうべきである。
 猶最後にいわねばならぬことはここに『論註』の同一念仏の文が引いてあるが、この文は「証巻」にも「真仏土巻」にも引用してある。然し「証巻」に於いては、往生即成仏の果の平等なることを証明するためであり、「真仏土巻」に於いては、化土の階次に対して、報土の階位のないことを示すためであり、今茲では、因の同一であることを示すために引用し給うたものである。

第二科 引 証

 是以論註曰彼安楽国土莫非阿弥陀如来正覚浄華之所化生同一念仏無別道故 已上

 【読方】ここをもて論註にいわく、かの安楽国土は阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆえに。已上
 【文科】総勧結のうち上の正勧を証文を引いて証拠立て給うのである。
(1-618)
 【講義】それ故に曇鸞大師の『浄土論註』には、彼の安楽国土に生るる者は、みな一様に阿弥陀由来の正覚の浄華〈はな〉から化生〈うま〉れない者は一人もない。かく一様の相〈すがた〉で生れるのは、その因の念仏が同一で往生する者ならば何人でも別な道では往生することが出来ないからである。」と申してあるのは、全くこの大小聖人も悪凡夫も相〈すがた〉を改めず他力回向の念仏一つで往生させて頂くことを示さるることである。

第二項 他力
第一科 正説

 爾者獲真実行信者心多歓喜故是名歓喜地是喩初果者初果聖者尚睡眠懶惰不至二十九有何況十方群生海帰命斯行信者摂取不捨故名阿弥陀仏是曰他力

 【読方】しかれば真実の行信をうれば心に歓喜おおきがゆえに、これを歓喜地となづく、これを初果にたとうることは、初果の聖者なお睡眠し懶惰なれども、二十九有にいたらず。いかにいわんや十方群生海、この行信に帰命すれば、摂取してすてたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名けたてまつる。これを他力という。
(1-619)
【字解】一。歓喜地 上三四七頁をみよ。
 二。初果 上三五五頁をみよ。
 三。二十九有 上三五五頁をみよ。
 【文科】正しく他力ということを説き給うのである。
 【講義】されば他力回向の真実の行信を頂くと、心に歓喜〈よろこ〉びが多くなる。それ故にこの行信を頂いた位を歓喜地と名けるのである。これを上に引いたように小乗の初果を護た聖者に喩えるのはどういう理由であるかと云えば、初果の聖者はいかに睡眠に耽〈ふけ〉り、道を懶惰〈おこたり〉たりとて、天界に七生、人間に七生それに中有を加えて二十八生までは生死に迷うけれども二十九生を受けることはない。二十九生目には必ず証りを開くに定まったものである。今他力の行信を獲得した念仏の行者にもこの趣があるのである。即ち小乗初果の聖者でさえ、遅かれ速かれどうしても阿羅漢果を開くというが、況んや本願他力の御催しによりて十方の迷いの海に沈んでいる衆生が、一度この他力の行信に帰命し奉れば、如来は直〈ただち〉にみそなわして摂取して捨て給わず、即ちこれによりて直に不退の位に住せしめて下さる。この摂め助け給う謂れが阿弥陀仏の四字である。これを願力他力というのである。かように
(1-620)
摂め取られまいらする身となりぬれば、そのまま五趣八難の悪道を超越〈こえ〉て、必ず往生一定の位に入り、もう再び苦しみの巷に入ることはない。それ故に心に歓喜が湧き出づるのである。
 【余義】一。今この下は遠く経論釈を受け来って、聖人自督の安心法悦の情を述べ給う所である。他力といい光明名号の因縁といい、皆平生成業の安心の状態であって、聖人の法説の情の踊り給う所である。拝読するものも、静かにその心を以て味わうべきである。
 唯この中に、「斯の行信に帰命する」という語がある。これが一寸解せない語である。普通行といえば所行、信といえば能信をいう関係になって居るものであるのに、その所行能信をまた帰命するというのであるから、この儘では解せないものである。これについて、代々大谷派の講者に種々の説がある。
 香月院師は、「行巻」に行信といえば真実行のこと、「信巻」で信行といえば真実信のことである。行信といい、信行というのは真実行には真実信が離れず、真実信には真実行が離れぬことを示すのであって行と信、信と行ということではない。それで今斯の行信に帰命するというのは諸仏讃嘆の名号、即ち所行の南無阿弥陀仏に帰命すること、信ずることで
(1-621)
あると解して居られる。
 皆往院師は、行信ということについて三通の場合があるというて居られる。即ち、一に行は所信、信は能信の場合『御本書』「行信二巻」の関係などがそれである。二に信も行も所信に属する場合、『末灯鈔』に「行と信とは御ちかいを申すなり」とあるがこれである。三に行も信も回向し給うという場合「信巻」本(十六)「もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就し給う所にあらずということなし」というがこれである。今この場合は第二の信も行も所信の場合であってそれに帰命するのであると解せられる。
 開悟院師は因願についていえば行信とは第十八願の行信である。その第十八願の行信を深く信ずることであると解釈し、次に成就についていえば聞其名号(行)信心歓喜(信)の意で、南無阿弥陀仏の六字は行信である。その行信の六字を信ずることであると申されてある。
 いずれの説も道理あることであるが、私は『末灯鈔』に行と信とは御ちかいを申すなりとあるが如く、あなたの御手元にて誓いもし成就もして下された大行大信を信ずることであると解したい。
(1-622)
 二。扨てもとへもどって、今親鸞聖人は他力というは、摂成して捨て給わざることであると喜び給うのである。『論註』で伺えば、他力とは仏力を以て住持し給うことである。逃げる速足〈はやあし〉持って居るこの奴なれども、親様の念力でしかと捕えて放ち給わず、大光明を以て摂取不捨の益にあずからしめ給うから、我身は現に正定聚不退の位に住し、命終れば、無量光明土に光輝く仏にして頂くのである。これ実に他力である。この他力があるから、三毒の煩悩はしばしば起れども、まことの信心はかれらにもさえられず、顛倒の妄念はつねに絶えざれども、さらに未来の悪報を招かぬのである。小乗初果の聖者にして、尚二十九有に到らずして無学果を開く、これを歓喜すること限りがない。今他力の行者は、他力不思議に計われて今生に既に正定聚にあり、次生は直に仏果菩提に昇らしめ給うなれば、どうして喜ばずに居られようか。それであるから、他力の行者を初歓喜地の菩薩と名けるである。
 三。斯の行信に帰命するという帰命は南無の訳語である。摂取不捨は阿弥陀仏の謂れである。帰命するものを阿弥陀仏が摂取し給うのである。『御文』に南無と帰命すれば阿弥陀仏のたすけ給ういわれあるが故に仰せられるがこれである。南無は機、阿弥陀仏は法であ
(1-623)
る。この機と法とが一南無阿弥陀仏の名号の上に具わって居るから、それで機法一体の南無阿弥陀仏というのである。
 それで、今茲に出て居た南無阿弥陀仏の釈と、上四九三頁に出ずる、南無阿弥陀仏の釈とは違うて居る。上四九三頁の処でいうと、南無は帰命せよという本願招喚の勅命、阿弥陀仏は即是其行であると釈してある。即ち、南無も法、阿弥陀仏も法であるとしてあるが、今この下では、南無はたのむ機、阿弥陀仏はたすけ給う法ということになって居る。両処の釈風相違するではないかという難があるのである。
 然しよくよく味おうて見ると、この処が有難いので、古来、南無阿弥陀仏の六字に、六字六字の義門と二字四字の義門がある。というてあるが、この味を説明したものである。今の場合にあてて見ると、上四九三頁の釈の南無は帰命せよという勅命、阿弥陀仏は即是其行の法というのは、六字ながらが所信の法となって下さるる側からいうので、これが六字六字の義門というのである。また今の釈の南無は帰命の機、阿弥陀仏は摂取不捨の一法というのは六字を機法にわけた二字四字の義門である。また、「南無阿弥陀仏とたのませ給えて」とか、南無阿弥陀仏とたのめ、みなひと」とあるようなのは、六字全体がたのむ機となって、これ
(1-624)
また六字六字の義門である。
 かくの如く、一南無阿弥陀仏に、六字六字の義門があり、二字四字の義門があるというのは、ただ説明の便宜上のことのようにきこえるけれども、ここが南無阿弥陀仏の六字に甚深微妙の味〈あじわい〉のあるところで、六字の上に機も法も全部御成就下されてあるから、六字が或いは機となり、法となり、或いは機法となり、変現して、衆生救済の大用をなし給うのである。自ら口に唱えた六字に思わず招喚の勅命をきき、また親をなつかしみ呼ぶ子の心一杯の至誠〈まこと〉となって、南無阿弥陀仏と口に現われるなど、私共の日頃に実験しつつある所でないか。

第二科 引証

 是以龍樹大士曰即時入必定曇鸞大師云入正定聚之数仰可憑斯専可行斯也

 【読方】ここをもて龍樹大士は、即時入必定といえり。曇鸞大師は、入正定聚之数といえり。仰いでこれを憑むべし。もはらこれを行ずべきなり。
 【字解】一。曇鸞大師 支那雁門の人。五台山に於いて出家し、初め四論宗であったが、茅山の仙士陶弘景(1-625)
に値い、仙経を受けて帰らんとする途上、菩提流支より『観無量寿経』を授かり、翻然として仙経を焼き捨てて浄土教に帰せられた。時に歳五十一であった。現生に重ぜられて并州の大巌寺に居り、後移って汾州の玄中寺に住し、魏の興和四年、遥山寺に於いて入寂せられた。寿六十七。
 【文科】上の他力の釈を証文を以て証成したまうのである。
 【講義】龍樹菩薩はこの帰命の一念に不退の位を定めて下さることを「即時入必定」と云い、曇鸞大師は「入正定聚之数」と仰せられた。即ち龍樹大師の御言葉は「帰命の一念同時に必ず往生一定の位に入るというのである」。曇鸞大師の御言葉は「正しく往生一定と定った群の中に入る」というのである。かような訳合〈わけあ〉いであるから仰いで斯の本願を憑〈たの〉み、専らこの念仏一行を修むべきである。

第三項 両重因縁
第一科 正説

 良知無徳号慈父能生因欠無光明悲母所生縁乖能所因縁雖可和合非信心業識無到光明土真実信業識斯則為内因光明
(1-626)
名父母斯則為外縁内外因縁和合得証報土真身

 【読方】まことにしんぬ、徳号の慈父ましさずは、能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁そむきなん。能所の因縁和合すべしといえども、信心の業識にあらずは、光明土にいたることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。
 【字解】一。業識 過去の善悪の業のことである。この善悪の業に依って、今世〈このよ〉の識を得るものであるから、業のことを業識というたのである。信心の業識というは、人間にとって、生を結ぷ一番根本になるものが業識であるから、信心をその一番根本になる業識に喩えたものである。
 二。光明土 無量光明土のことで、即ち極楽浄土のことである。
 三。光明名の父母  光明の父と名号の母。
 【文科】光明名号の因縁を挙げ給うのである。
 【講義】さて他力の御引立によりて信念の起る所由〈わけ〉を考えて見るに、名号は恰も慈父の如く、光明は慈母の如くである。名号の御謂れを聞信〈ききひら〉いた所が往生の正因であるから、名号は慈父である。この名号がなかったならば、能生の因が欠けるであろう。もし吾々の疑いや嫉み猜〈そね〉みの冷い心を漸々〈だんだん〉に温めて、名号の謂れの聞けるように仕立てて下さる光明の
(1-627)
慈母がましまさなんだならば、所生の縁が乖き離れるであろう。吾等の信念の子は、この光明名号の父母によりて生れさせて頂くのである。けれども、いかに父母の因縁が具足〈ととの〉い、和合していても、それが私共に正しく至り届いて、子の方に生を結ぶ識となる過去の善悪の業がないならば、子が生れるということはないものである。今も丁度その如く、光明名号の父母の因縁が和合して下されても、それが私共の心に正しくいたり届いて金剛の信心がわが胸に宿り給わなかったならば、何の所詮もないことである。即ち「父母」ということは「子」に対しての名前である。子がなければ父母もない。如来の御手許〈おてもと〉に名号光明の仕掛けが出来ていても、それが正しくこの胸に戴いた信心とならなければ光明土に往生することは出来ない。それであるから生れた子の業識に喩えた真実の信心は、即ち内の正因で、子を生む父母に喩えた名号光明は、外の縁である、かように内の信心の因と外の名号光明の縁が和合して、初めて報土に往生して真報身の証りを開くことが出来るのである。
 【余義】一。この喩を古来光明名号両重の因縁の喩〈たとえ〉というて居る。この喩は平生業成の他力信心が光明名号の御育てに依って生ずるものであるということを示し、親鸞聖人
(1-628)
自督の了解を述べたもうたものである。親鸞聖人は自己の了解を述べたまう場合には、能くこういう風に大きな喩を出し給うので、今の場合や、日光雲霧の喩の出でて居る場合などは皆そうである。
 二。この喩は、前にもいう通り、光明と名号の御育てに依って、信仰の生活〈ひぐらし〉に入る喜びを嘆〈たた〉えられたものであるが、この喩が出来るまでには、いろいろの出拠がある。それを少しく書いて見よう。
 上『六要鈔』二(十三左)、本書の三四三頁に引用し給うた『十住論』には「般舟三昧を父となし、大悲を母とする」という語がある。般舟三昧とは前にも解釈せられた如く念仏三昧のことである。即ち名号のことである。文の中の大悲とあるは光明のことである。これが先ず一の拠処〈よりどころ〉である。
 次に正しく義の所依となって居る文はこの喩の下に引用してある『礼讃』の「以光明名号摂化十方但使信心求念(光明名号を以て十方を摂化し、ただ信心をして求念せしむ)」という文である。阿弥陀如来は、光明と名号とを以て、十方の衆生を摂化して、衆生の胸に信心を起す報土往生を求めしめ給うという意味の文である。
(1-629)
 この『礼讃』の文を、法然聖人は、『和語灯録』一(四右)に解釈して、
  弥陀善逝、平等の慈悲に催うされて、十方世界にあまねく、光明を照して、一切衆生に悉く、縁を結ばしめんがために、光明名号の願をたて給えり。第十二の願これなり。名号を以て因として、衆生を引接し給う事を、一切衆生にあまねく、聞かしめんために、第十七の願に云々。
と宣うて、聖人もまたおなじく弥陀如来が、光明を縁とし、名号を因として、衆生を摂化し給うことを示し給うた。
 親鸞聖人は、これらの文に依って、この因縁というを立て給うたのである。
 これで光明と名号の御そだてに依って、信仰生活に入るということの文拠はわかったが、然しこの父母業識という喩の形式が、何〈いず〉れから来て居るかという問題がある。
 この喩の形式は『序分義』(二十八丁)に、托生と受身のことが出て居るが、その文に依られたものである。先ず便宜のために、その『序分義』の文を出してみよう。
  もし父なくんば能生の因即ち欠けなん。もし母なくんば、所生の縁即ち乖きなん、もし二人倶に無くんば即ち託生の地を失わん。要〈かなら〉ず父母の縁具して、方〈まさ〉に受身の処あり。
(1-630)
既に身を受けんと欲して、自〈みずから〉の業識を以て内因となし、父母の精血を以て外縁となし、因縁和合するが故にこの身あり。
 もう一つ、因〈ちなみ〉に慈父、悲母の造語のもとを出すと『心地観経』が拠処〈よりどころ〉である。『同経』三(三丁)に慈父の恩高きこと山王の如く、悲母の恩深きこと、大海の如しとあるが、これに拠り給うたものである。
 一。扨て拠処〈よりどころ〉などというて要らぬ穿鑿のようなことをしたが、もとへもどって、光明名号の父母という味〈あじわい〉は、我が聖人の実感である。真に父母と感ぜられた味〈あじわい〉を打ち出して下されたので、ただ漫然と父母と仰せられたのではない。今まで、三界孤独、たれ一人真実の同情者はない。一人ぼっちだ、さびしいさびしいと泣いて居った胸に、我れが親じゃ、案ずるな、我れに来れと呼んで下される南無阿弥陀仏の六字の御謂れがきこえた時には、吁〈ああ〉我が親で在〈ましま〉すかという真の叫び声が出る。それが名号の慈父である。三界は真に南無阿弥陀仏の外はなくなってしまう。この時同時に身心脱落して、真に光明の広海に浮び出た感が起る。光明の温い懐中〈ふところ〉住居〈ずまい〉という感である。この感じを言葉であらわしていえば、光明の悲母というより外はない。過去久遠の昔より、この光明と名号の因縁に依って育てられて、真
(1-631)
実に、光明名号の父母という味〈あじわ〉いのわかったときが、信心の業識を我が胸に頂いた時である。名号の御謂れが我が胸にいたり届いて下されたが、信心である。かくの如く光明名号の父母の因縁に依って信心を頂かして貰い、光明の縁と、信心の因と、内外の因縁、全く他力で参らして貰うのが私共の最後である。これを思えば愈々名号の慈父、光明の悲母のおめぐみを喜ぶ外はないのである。
 親鸞聖人に光明本、名号本といふ絵図がある。光明本には、中央に南無不可思議光仏と大書し、右の方に少しく下げて、帰命尽十方無碍光如来と釈迦如来の尊像をあらわし、左の方にこれに対して南無阿弥陀仏と弥陀如来の御すがたを書し、左辺には下から上へ漸次に龍樹菩薩、天親菩薩、大勢至菩薩、曇鸞和尚、慈愍三蔵、善導和尚、道綽禅師、少康禅師、法照禅師を図し、右辺には大勢至菩薩と対する位に聖徳太子を画き、その周囲に五徳博士、阿佐太子、恵慈法師、日羅上人、曾我大臣、妹子大臣を画き、上方に、法然聖人、釈聖覚、釈親鸞、釈真仏、釈性信、釈是心を画き、上下二図の中央の少しく右傍〈みぎのかたわら〉に偏〈よ〉せて源信和尚を画き、中央の南無不可思議光仏の六字から大光明を放って大幅一面に覆うてある。つまり、聖人の御心からいうと、十字六字の名号も、釈迦阿弥陀二尊も、三
(1-632)
朝浄土の大師も、その他法界海、皆光明の示現でないものはないという御思召であろう。
 名号本というのには、中央に南無阿弥陀仏と大書し、天蓋を以てこれを覆い、宝蓮を以てこれを載せ、その左右に南無阿弥陀仏を稍小さく重ねて二つ書し、その外方に更に南無阿弥陀仏を四重に小書してある。而して、宝蓮の下方に大勢至菩薩、龍樹菩薩、天親菩薩のおすがたを図画してある。これまた天地法界、一南無阿弥陀仏の外はないということを示したものであろう。
 按ずるところ、この光明本、名号本というは一対のもので、光明名号を以て十方を摂化して下される御すがたを画いて、名号は慈父である。光明は悲母である。この父母に依って私は救われたという聖人の実験と感謝と渇仰とを発表し給うたものであろう。聖人の滅後、光明帳などいうて異安心者が出たということであるが、そんなことはなんでもない。聖人は、信仰に目が醒めてみれば、法界海、光明と名号との外なにもないものであるから、かく図画してまで讃嘆渇仰の限りをつくされたのであろう。
 四。もう一つ面倒くさいことであるが、この喩の解釈について古来の先輩の間に異見があるから、それを少しく記して見よう。
(1-633)
 この喩は読んで文面の如くわかり易く、且つ信仰の味を以て読むべきものであるから別に説明を要せないのであるが、この両重の因縁を解釈するに就いて、古〈むかし〉から二種の説がある。一は両重因縁両重因果の義で、香厳院、香月院、円乗院、開悟院はこの説をとって居られる。二は両重因縁一重因果の義で、易行院、開華院、雲樹院のとって居られる説である。
 両重因縁両重因果の義というのは、初重は名号を因とし、光明を縁として、この因縁和合して信心が生ずる。第二重は、信心を因とし、光明名号を縁として、因縁和合して、報土の真身を得証するというのである。即ち、第一重の因果は、獲信の因縁、第二重の因果は、得証の因縁であるとするのである。
 次に両重因縁一重因果の義というのは、信心というものは、常に因につくものや、果につくものでない。委しくいえば、信心というものは、往生の果にのぞめて、その因となるという辺だけでいうもので、信心を結果として眺むべきものではない。それで、光明名号の因縁和合して、信心の果を得るということは、いわないものである。それで『口伝鈔』、『執持鈔』にも、この因縁は説いてあるが、いずれも、報土往生の真因たる名号の因(『口伝
(1-634)
鈔』)、安養往生の業因たる名号の宝珠(『執持鈔』)とはあれども、信心を果としてみる因果関係は説いてない。それで、今ここの喩も、光明名号の因縁で、同じく往生の果を生ずるという二重の因縁は説いてあるけれでも、因果関係は一重に見ねばならぬという説である。

      ┏ 光明━━縁━━━┓
 一重の因縁┫         ┣果━━ 往生
      ┗ 名号━━因━━━┛

       ┏因(名号)━━┓
      ┏┫       ┣┓
      ┃┗縁(光明)━━┛┃
 両重の因縁┫         ┣果(往生)━ 一重の因果
      ┃┏因(信心)━━┓┃
      ┗┫       ┣┛
       ┗縁(光明名号)┛

       ┏因(名号)━━━┓
      ┏┫        ┣果(信心)┓
      ┃┗縁(光明)━━━┛     ┃
 両重の因縁┫               ┣ 両重の因果
      ┃┏因(信心)━━━┓     ┃
      ┗┫        ┣果(往生)┛
       ┗縁(光明名号)━┛

(1-635)
 私はこれについて、前の両重因縁両重因果の説がよろしいと思う。その方が、文面から見て穏かである。信心は、結果として見るべきものでないというけれども、強ち、信心を結果としてみることが無いというでもない。「信は願より生ずれば」とか、「無碍光の利益より、威徳広大の信を得て」とか云うのは皆信心を結果に眺めたものである。してみると、今この第一重の因果は光明の照護と名号の大用とによって信仰の芽を吹き出して下された方をいうのであり、第二重の因果は光明名号の作用によって生じた信仰の力にて往生を得ることを示して、他力本願の大用を且つは嘆じ、且つは喜び給うたものと解した方がよろしいのである。

第二科 引証

 故宗師言以光明名号摂化十方但使信心求念又云念仏成仏是真宗又云真宗叵遇也可知

 【読方】かるがゆえに宗師は光明名号をもて十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむと、のたまえり。また念仏成仏これ真宗といえり。また真宗遇いがたしといえるをや。知るべし。
(1-636)
 【字解】一。宗師 善導大師のこと、今引くは『往 生礼讃』の文である。
 二。摂化 摂取し化益すること。
 【文科】証文を引いて上の両重の因縁を証成し給うのである。
 【講義】この意味を善導大師は如来は光明と名号の二つを以て十方の衆生を摂〈あつ〉め助け給う。そしてこの御縁に逢い奉つる衆生をして、光明によりて疑いを霽〈はら〉し、名号の謂れを信ぜしめ、頼むべきは弥陀如来、まいるべきは安養浄土と喜ばせて下さると仰せられた。また念仏一行によって成仏の因を獲るのが真宗であると云い、この一代仏教中の真実宗は遇い奉ることは容易でないから、遇い奉ったならば仰いで信じなければならぬとも仰せられたのである。

第四項 一念
第一科 正 説

 凡就往相回向行信行則有一念亦信有一念言行之一念者謂就称名遍数顕開選択易行至極

(1-637)
 【読方】おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり。また信に一念あり。行の一念というは、いわく称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す。
 【文科】行の一念ということを釈し給うのである。これが正説、引証、釈義、示益、引文会意と五段に分かれて居るが、今はその正説の一段である。
 【講義】さて上には行信の利益、行信を頂く径路〈みちゆき〉等を述べたが、今や正しくこの他力の行信が、吾々の手許に至りとどく模様を申せば、前にも述べたように大凡〈おおよそ〉往相回向の行信に就いて、行には行の一念、信には信の一念がある。信の一念は「信巻」に譲り、行の一念ということをここに述ぶれば、他力の大行は自力の手数〈てかず〉を多く費して初めて書物になるというのでない。称名の遍数〈かず〉については、唯〈ただ〉信の上の一声の称名で大善大功徳の利益が獲られるというのである。この僅〈わずか〉に一声の称名によりて、大行の功徳が吾等の身に具足〈そなわ〉るということが、如来の選びに択び給うた他力易行の至極であることが顕〈あきらか〉に知れるのである。この持〈たも〉ち易い修め易い大行の謂れを聞き開いて、一声称える所に往生の大利益を頂くことが出来るのである。これを選択易行の至極と云うのである。
 【余義】一。前段に両重の因縁を説いて他力回向の信心に依って往生の業事の成弁する
(1-638)
ことを示し終って、今はその往生の業事の成弁するその時に如来より頂く念仏の大行が我等の口にあらわれて十声一声となる、その称うる行を釈し給うのである。
 往生の業事の成弁するのは、信の一念にあるので、その大信から大行が顕われて来るのであるから、一念というにも、信の一念、行の一念というがある。それであるから、今も「信の一念あり、行の一念あり」と宣うてある。然し、この信の一念ということは次の「信巻」に釈すべきことであるから、今茲では信の一念は標文だけを出して置いて、解釈は後にゆずり、茲では行の一念だけを釈し給うのである。
 二。行の一念とは、ひとこえの念仏ということで、この下の文にも、選択易行の至極を顕閲すとあって、阿弥陀如来が吾等のために万善万行の中から、称え易く持〈たも〉ち易い、易行易修の名号の行を選択なされたのであるが、その名号も、千万遍を称えるのでなく、ほんのただの一遍称えた処で、無上大利の功徳を得る、その信の上の最初の一声の念仏を行の一念というのである。『一念多念証文』(十二左) に、
  一念は、功徳のきわまり、一念に万徳ことごとくそなわる。よろづの善、みなおさまるなり。
(1-639)
と仰せられてある。また同じい文のつづきに、
  如来の本願を信じて、一念するに、かならずもとめざるに、無上の功徳をえしめ、しらざるに、広大の利益をうるなり。
と仰せられてある。これは、皆行の一念を解釈したものである。
 称名ということについては、前に幾度も、いうて来たことがあるが、我が弥陀は名を以て物を摂すとあるが如く、阿弥陀如来は、その生命全体を六字の名号に注ぎ込んで下されてあるから、私の方でも称える一つで、如来の生命全体を頂くのである。牝鹿を恋うて鳴く牡鹿の呼声には、牡鹿の生命が吹き込んであるから、その呼び声に引き出されて、牝鹿が互に声を呼び交しつつ出て来るように、今阿弥陀如来も、如来の生命全体、万善万行を悉く一六字に封じ込めて、自ら、六字を称して、衆生を呼んで下されるから、その御呼声に呼び醒まされて、私共も、南無阿弥陀仏の六字を呼んで、阿弥陀如来に答え奉つるのである。この処に万善万行恒沙の功徳を悉く私共衆生に回施し給うのである。行の一念は大悲の至極を顕開するのである。而して信じて黙って居るのでない。信じたなら称えることである。信が即行である。心に項いた味〈あじわい〉の口を突いて出るが南無阿弥陀仏、待ったなし
(1-640)
の念仏であるという味がこの上に頂かれる。
 三。この行の一念ということを顕わして下されてある経文は何かというと、『大経』の下巻の流通の文である。それを次の引証の一段に引いて、『大本』に曰くと宣うたのである。この流通の文はくわしく、『一念多念証文』(十二右)以下に解釈してある。其有というは成就の文の諸有衆生に当り、得聞彼仏名号は聞其名号に当り、乃至一念は所謂行の一念で、今正しく入用な語である。親鸞聖人は法然聖人から相承して、この乃至一念の一念を行の一念とみ給うたのである。
 一体、経文は常に従容として居るから、どうとも解されるものである。今この流通の文も、乃至一念を行の一念とも、信の一念とも解して解されぬことはないようである。これを行の一念と解するには、元祖法然聖人からの相承と、それから左の二個の理由があるのである。
 一は文面についていうので、文中に為得大利、無上功徳とあって、この流通の文は功徳利益の多少を示すのが本旨になって居る。而して、この功徳利益の多少を論ずるのは信について論ぜずに行に就いて論ずるということが仏教一般の通規になって居るから、今もこ
(1-641)
の流通の一念は行の一念とみねばならぬのである。
 二は義についていうので、経を付属して、末代に流通せしむるには、体を付属して、相を附属せしめないというのが、普通のことである。然るに、行は体であり、信は相である。してみれば、今この流通の文に於いて附属せらるる乃至一念というも、行の一念でなければならぬというのである。
 右の様な相承と理由に依って、親鸞聖人は流通の文の一念を行の一念として茲に引用し給うたのである。但し、親鸞聖人も、時として、この流通の一念を信の一念と見給うことがないでもない。『和讃』に「阿弥陀仏の御名をきき、歓喜讃仰せしむれば、功徳の宝を具足して、一念大利無上なり」とあるはこの例である。信の一念に無上大利の功徳を得るというのであるが、然し、その無上大利の功徳というのは南無阿弥陀仏のことである。これは流通の文の一念を信の一念として解釈し給うたものである。親鸞聖人がこのようにこの流通の一念を信の一念とし給うたによって、覚如上人の『本願鈔』(初左)、『口伝鈔』下(二十二)にこれを相承して信の一念とし蓮如上人もまたこれを『御文』に相承して、「一念に弥陀をたのみたてまつるものには無上大利の功徳をあたえたまうこころを」云云と述べたもうてある。
(1-642)
こういう風に信の一念と見る釈もあるけれども、然しこれは例外と見ねばならぬ。多念はこの一念の延び行くすがたでかわったものではない。多念のことは次の余義を見て貰いたい。
 四。次ぎ下に引用してある『礼懺儀』の文は下至十声一声の一声が正しく入用なので引き給うたのである。然るにこの一声が聞になって居るものがある。寛永本、正保本、坂東本、及び知昇撰の『礼懺儀』の原本にはみな聞の字になって居る。覚如上人蓮如上人の御延書、及び現在の『礼讃』は一声になって居る。明暦本、寛文本、及び綽如上人の御延書には聞の字も一声の字もない。『六要鈔』主所覧の本には聞の字になって居ったものであろう。考えてみると、親鸞聖人は御草本に於いては智昇撰の『礼懺儀』に依って聞の字に書き、御清書本に於いて、別行本に依って一声に改められたものでなかろうか(高田本も十声聞となって居る。校合の章をみよ。)
 五。それから茲では、直接必用のないようの事であるが、ついでであるから願成就文の一念について法然聖人と親鸞聖人の見解の相違をいって見よう。
 前にもいうように、法然聖人は、成就の一念も附属の一念も共に行の一念とみ給うた。
(1-643)
もともとこの一念というのは、因願の乃至十念の変形(この事は次に出てる。)したものであるから、行の一念とみるのが当然なのである。且つ法然聖人御一代の御教化が聖道浄土相対の上にあって、万善諸行を廃して念仏一行を立つるのが本意であったから、すべて皆行の一念とせられたのである。処が親鸞聖人はこの聖道浄土相対から進んで、浄土門中、第十八、第十九、第二十の三願の機が等しく称名念仏を以て往生の行とするから、ただ念仏の行に依って真仮を分けることが出来ぬ。それゆえ、行から信に進んで信に依ってこれを区別せようと御思召されたのである。それで、因願の十念は法然聖人と同じく念仏とせられたに拘らず、成就の一念をば信の一念と解釈せられたのである。
 親鸞聖人が成就の一念を信の一念とせられた根本の動機は茲にあるのであるが、これに就て、『如来会』の第十八願成就の文に、
  他方の仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、能く一念の浄信を発し、所有の善根回向したまえるを歓喜愛楽して無量寿国に生ぜんと願ぜんものは、願に随いてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得ん、五無間と誹謗正法と、及び謗聖者を除く。
とあって、明に成就の一念を信心としてある。これが、親鸞聖人の信の一念と解釈なされ
(1-644)
る文証となったのである、それにまた因願の若不生者が、成就の文には、即得往生となって居る。即得往生というは、聞信の一念に、即時に往生を得るに定まるということで、往生の業事が成弁することをいうのである。この往生の業事の成弁するということは、身業の礼拝や、口業讃嘆に依るものでなく、根本の信心に依って曰わねばならぬ性質のものであるから、この即得往生の語も、乃至一念の一念を信の一念とする根拠とあったのである。それで、親鸞聖人は「信巻」末の初めに、
 一念とはこれ、信楽開発の時尅の極促を顕わし、広大難思の慶心を彰わす也。
 一念というは信心二心なきが故に一念という。これを一念と名く、一心は即ち清浄報土の真因也。
とも述べられた。同じい信の一念でも、その一念に時尅についていうのと信相についていうのと二種の解釈はある。それで、総じて一念ということに左の三種がある訳である。

     ┏時尅についていう━━ひとおもいの信心┓
   ┏信┫                  ┣━成就文の一念
 一念┫ ┗信相についていう━━二心のない信心━┛
   ┃
   ┗行━━━━━━━━━━━ひとこえの念仏━━━流通文の一念

(1-645)

第二科 引証

 故大本言仏語弥勒其有得聞彼仏名号歓喜踊躍乃至一念当知此人為得大利則是具足無上功徳 已上
 光明寺和尚云下至一念又云一声一念又云専心専念 已上
 智昇師集諸経礼懺儀下巻云深心即是真実信心信知自身是具足煩悩凡夫善根薄少流転三界不出火宅今信知弥陀本弘誓願及称名号下至十声一声等定得往生及至一念無有疑心故名深心 已上

 【読方】故〈かるがゆえ〉に大本にのたまわく。仏、弥勒にかたりたまわく、それかの仏の名号をきくことをえて、歓喜踊躍して、乃至一念せんことあらん。常にしるべしこの人は大利をうとす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり。已上
 光明寺の和尚は下至一念といえり。また一声一念といえり。また専心専念といえり。已上
 智昇師の集、諸経礼儀儀の下巻にいわく、深心はすなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せ
(1-646)
る凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅をいでずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十声一声等に及ぶまで、さだめて往生をうと信知して、一念に至るにおよぶまで、疑心あることなし。かるがゆえに深心となづく。已上
 【字解】一。大本 『大無量寿経』のこと。
 二。一念 下至一念の一念は行の一念、一声一念の一念は信の一念を宣うたものである。
 三。集諸経礼懺儀 上四七三頁を見よ。
 四。三界 欲界、色界、無色界の称。
 五。火宅 三界を火宅に喩えていうのである。この喩は『法華経』譬喩品に出て居る。
 【文科】証文を引いて上の一念を証成し給うのである。
 【講義】故に『大無量寿経』の下巻に、釈尊、弥勒菩薩に仰せらるるよう、諸の衆生が彼の阿弥陀仏の名号の謂れを聞信〈ききひら〉いて、歓喜のあまり身も踊り、心も躍りてただ一声南無阿弥陀仏と称えるならば、弥勒よ、この人は大なる利益を獲る。則ち如来の大善、大功徳の大行はこの人の上に具足〈そなわ〉るのである。已上
 光明寺の善導和尚は「下至一念」と仰せられた。上は延びて一生の間の称名となるか、下一声の称名の所に万の善がみな摂〈おさま〉ることを申されたのである。また「一声一念」と
(1-647)
も云われた。一声称名の行の裏に、疑いの霽〈は〉れた信の一念があるという。また「専心専念」とも申された。専心は信の一念、専念は行の一念である。この行信はどこ迄も離れることはない 已上。
 唐の智昇法師の集めた『諸経礼懺儀』下巻に、善導大師の『往生礼讃』の文が引いてある。その文には、「観経に深心というのは、真実信心のことである。その信心の内容を云えば、自身はあらゆる煩悩を具足〈そな〉えている凡夫で、善根は至って少く、三界の苦みの巷を流転〈めぐ〉りて、どうしても自分の力では焔に囲まれているような迷いの世界を解脱〈のがれで〉ることは出来ないと信知し、同時に十声もしくは一声の名号を称うる者を、吃度〈きっと〉極楽に迎えとると仰せらるる弥陀の本願を信知することである。かように信じて一念も疑う心のないのを深心と名けるのであるというてある。

第三科 釈義

 経言乃至釈曰下至乃下其言雖異其意惟一也復乃至者一多包容之言言大利者対小利之言言無上者対有上之言也信知
(1-648)
大利無上者一乗真実之利益也小利有上者則是八万四千之仮門也釈云専心者即一心形無二心也云専念者即一行形無二行也今弥勒付嘱之一念即是一声一声即是一念一念即是一行一行即是正行正業即是正業正業即是正念正念即是念仏則是南無阿弥陀仏也

 【読方】経には乃至といい、釈には下至といえり。乃下その言ことなりといえども、その意これひとつなり。また乃至は一多包容の言なり。大利というは、小利に対せる言なり。無上というは、有上に対せる言なり。まことにしんぬ、大利無上は、一乗真実の利益なり。小利有上は、すなわちこれ八万四千の仮門なり。釈に専心といえるはすなわち一心なり。二心なきことを形すなり。専念といえるはすわはち一行なり。二行なきことを形〈あらわ〉すなり。いま弥勒付属の一念は、すなわちこれ一声なり。一声すなわちこれ一念なり。一念すなわちこれ一行なり。一行すわはちこれ正行なり。正行すなわちこれ正業なり。正業すなわちこれ正念なり。正念すなわちこれ念仏なり。すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。
 【字解】一。弥勒付属 弥勒は上三六五頁をみよ。付属は法を授けてその伝持を嘱托すること。弥勒付罵の文は『大経』下巻流通分に出でてある。
 【文科】上の引証の中の文を引き出して、その中に含まれて居る義理を闡明し給うのである。
(1-649)
 【講義】経には「乃至」といい、善導大師の註釈には「下至」というてある。「乃」と「下」とは文字は異っているけれどもその意味は一つである。またこの乃至という言葉は、長短、多少、遠近等を包容〈ひっくる〉めている言葉である。即ち一以上多数、並に多数以下一というように、延びては一生涯の称名となるが、縮んでは一声の称名で功徳は充分にみちみちて居るということを示すのである。そしてこの修め易い一声称名の易行は、命長〈ながら〉えば、自然と多念の称名となる。この一念多念の関係はどちらにも偏〈かたよ〉らずして誠に尊い味〈あじわ〉いがある。これを「乃至」または「下至」の言葉を以て示したのである。また経に「大利無上」という語があるが、この「大利」とは「小利」に対した言葉、「無上」は「有上」に対している語である。信に大利無上とは、二乗教、三乗教の小利有上の利益ではなく、この上もない絶対真実教の利益を指すことが知られる。この大利無上の念仏法門に対する「小利有上」というのは、聖道自力の八万四千の方便仮門の教えである。大師の註釈に、「専心」というは即ち一心のことをいい、専ら弥陀一仏を信じて二心ないことである。「専念」というは念仏一行のこと、二行を並べないことを形〈あら〉わすのである。今『大経』に於いて釈尊が弥勒菩薩に付属せられた一念というのは、行の一念である。即ち一声の称名をいう。一声は即ち
(1-650)
一念である。一念は即ち一行である。一行は即ちこれ正行、正行は即ち浄土往生の正定業である。この正定業は即ち正念、正念は即ちこれ念仏である。この念仏というは即ちこれ南無阿弥陀仏の六字の名号である。
 【余義】一。上に一念を説き明して来たから、今は、その一念が、自然と、多念に及ぶ道理を示して、ここに、「乃至」と「下至」との語を挙げて、多念の義を解釈し給ふのである。
 『一念多念証文』に「乃至」の語を解釈して、
  乃至は、おおきをも、すくなきをも、ひさしきをも、ちかきをも、さきをも、のちをも、皆かねおさむることばなり。
とある。いまこの下には、一多包容の語なりとある。この一多包容の語というを、義を分ちて解釈してみると、乃至という語に、二通の意味があることになる。
 一つは、従少向多の意味であって、少ないものを挙げて、多い物の乃至を収める義である。即ち乃至一念というのがこれで、一念を挙げて、乃至に多念を収めて置くのである。如来大悲の至極は、短命不幸の衆生を、第一の目的として救済し給うのであるから、その
(1-651)
大悲の至極からいえば、多念の称名をせよと、多念を挙げるよりは、一念二念の最少の称名をせよと、少念を挙げ給うのである。それで、如来の法の御手許からいう時は、この乃至という語は、少ない念仏を挙げて、多い念仏を略取して居る意味になる。即ち一念の称名を本として、命の有る限り、多念の称名を務むるのである。
 今一つは従多向少の意味であって、多いものを挙げて、少ないものを略取する義である。衆生の報謝の行からいえば、称名は、人間一生に渡って務むべきものである。即ち多念の称名をするが本義である。然し、短命のものは、三念一念の報謝の念仏にても結構である。それで衆生の報謝の心からいえば、多念の念仏を挙げて、少念の念仏を略取するのである。この二つの義を収めて、親鸞聖人は、乃至というは一多包容の語と宣うたのである。第十八因願の乃至十念の乃至というは、最も善く、この意味を顕わして居るので、十念というは、前後に対し、一声の称名と、上尽一形の称名に対し、その一声の称名と、上尽一形の称名とを、乃至に収めて居るのである。それで、乃至十念を、語を換えてみれば、一念乃至無量念ということになるのである。それであるから善導大師はこの乃至十念を、上尽一形下至一念と解釈して、多きは一生涯の念仏、少きは一声の念仏をかね
(1-652)
おさめた意というておられるのである。かくの如くこの乃至という語は上下多少を兼ねて、弥陀大悲の至極よりする義と、衆生報謝のまことからする二種の義をふくんで居るのである。
 この「乃至」の語を解釈し終って、更に「大利無上」を解釈せられるのは、多念というも決して一念と異なるのでなく一念の延び行く有様が多念であって、同じいものであるということを暗示してあるのである。何故なれば、この大利無上という語は、『大経』流通文に於いて弥勒付属の行の一念の場合に出て来る経語であるからである。

第四科 示益

 爾者乗大悲願船浮光明広海至徳風静衆禍波転即破無明闇速到無量光明土証大般涅槃遵普賢之徳也可知

 【読方】しかれば大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風しずかに衆禍のなみ転ず。すなわち無明の闇を破して、すみやかに無量光明土にいたりて、大般涅槃を証し、普賢の徳に遵うなり。知るべし)
(1-653)
 【字解】一。至徳の風 至徳は至徳の尊号で.南無阿弥陀仏の名号のことである。御慈悲を頂いて後、自然に称名の称えられるを至徳の風静かというたのである。
 二。大般涅槃 般涅槃は梵語パリニルワーナ(Palinirvana)、滅度、円寂などと訳する。仏のさとりのことである。
 三。普腎の徳 普賢は梵語、三曼多跋陀羅(Samantabhadra)の訳、遍吉とも訳する。普は普遍にて徳の法界に周きをいい、賢は賢善にて順和なるをいうのである。普賢菩薩は、釈迦仏の右の脇士で慈悲を司り、右手に金剛杵、左手に金剛鈴を執って六牙の白象に乗ってい給うのである。この菩薩は延命の徳があるから、普賢延命菩薩とも単に延命菩薩ともいう。普賢之徳とはこの菩薩が慈悲を司り給う菩薩であるから、すべて慈悲を以て普く一切衆生を済度するを普賢の徳というのである。この時の普賢は人普賢、解普賢、行普賢という所謂三普賢の中行普賢になるのである。
 【文科】他力大行の利益を挙げて自ら讃喜し給う一段である。
 【講義】然れば大悲の親心から出来上った名号の大船に乗托して、光明溢るる摂取の広海に浮び出れば、功徳を尽した感謝の称名は、海原わたる清風のように心も爽かになして下され、禍悪〈まがつみ〉の波も消えて、進みゆく信生活の船には何の障りもない。即ち永劫以来〈このかた〉の無明の暗〈やみ〉を破り、速に無量光明の楽土に到りて、大般涅槃を開き、再び浄土より穢土に
(1-654)
還りて、普賢菩薩のような大慈悲を以て、有縁の人々を済度するのである。名号の謂れを信ずることは、かような悠遠広大なる利益を頂くことが出来るのである。名号と光明、功徳と罪障、破闇と満願、涅槃と利他の大用〈はたらき〉、これ実に他力回向の内容である。

第五科 引文会意

 安楽集云十念相続者是聖者一数之名耳即能積念凝思不縁他事使業道成弁便罷亦不労記之頭数也又云若久行人念多応依此若始行人念者記数亦好此亦依聖教 已上

 【読方】安楽集にいわく、十念相続はこれ聖者の一の数の名ならくのみ。すなわちよく念をつみ、思いを凝して、他事を縁ぜざれば、業道成弁せしめて、便ち罷みぬ。また労〈いたわ〉く頭数を記せざれ。またいわく、もし久行の人の念は、おおくこれに依るべし。もし始行の人の念は、数を記するまた好し。これまた聖教によるなり。已上
 【字解】一。業道 業道というは思業が依りて行ずる場所の意味で、性相の学問でいえば、業を正しくなし了〈おわ〉りたる時に得るところの表業と無表業との事であるが、平易に解すれば、業をなし終った時を業事成弁業道成弁というのである。
(1-655)
 二。久行の人 信仰ある人のこと。
 二。始行の人 いまだ信仰なき人、自力の念仏者のこと。
 【文科】『安楽集』の文を引いて、十念相続ということの意味をはっきりさせて一念多念の同一の味〈あじわい〉であることを示し給うのである。
 【講義】『安楽集』上巻に云く、十念相続して往生の業が足ると説いてあるあの十念というのは、普通に云う所の十遍ということではない。これは大聖仏陀の御心の中にある、ある種の数の名前である。故に十念そのものは我々の知ることの出来ないのである。即ち能く称名を積み、他へ心を散さず一心に思いを凝せば、往生の業事は出来上る。そこが十念具足である。そこへ到ればもう往生の業に就いては何も加える必要はない。即ちその事は罷むのである。それであるから何も煩わしく、十念とあるから十遍称えねばならぬと数を極める必要はないのである。
 また云く、もし既に信心決定して、長らく報謝の称名を称えた人は、上に述べたように数を極めずに称えるがよい。されどもし初めて念仏の法門を聞いて、自力念仏を称える者は、数を極めて称えるも結構なことである。これも聖教に説いてあることであるから。
(1-656)
 【余義】一。この『安楽集』の文は多念相続の有様を示されたものである。多念相続の有様とは外ではないが、一念が、命が延ぶるに従って自然と多年に及ぶであって、一念と少しも異ならないのである。この一念と多念の同一なることを、いまこの『往生要集』の文を以て証明し給うのである。
 この『要集』の文は『論註』上の終八番問答の下に出づる釈に依ったもので今文意をいわば、経に十念というけれども、こちらの方で、十遍二十遍と数を知って称えるのではない。数のことは仏が知り給うことである。衆生の方では、無他想間雑に、ただ称名する計りである。而して、往生の業事の成弁するのはもとより、信の一念に定め給うのであるけれども、その信心から顕われて下さるる念仏は、衆生からいえば報謝の念仏であるが、如来の方からは、一々これを往生の正定業として、念々に業事を成弁して下されるのである。これが御回向の大行の性徳であるというのである。
 久行の人というは、信仰ある人のことである。始行の人とは未信の人のことである。未信の人は兎に角一生懸命に数を記してもかまわぬから念仏をして、遂に他力に回入せよというのである。『和讃』に「信心のひとにおとらじと、疑心自力の行者も、如来大悲の恩を
(1-657)
しり、称名念仏はげむべし」と宣うのはこの意である。

第五項 総結

 斯乃顕真実行明証誠知選択摂取之本願超世希有之勝行円融真妙之正法至極無碍之大行也可知

 【読方】これすなわち真実の行をあらわす明証なり。まことにしんぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり。しるべし。
 【文科】この語を以て茲に「行巻」全体を結び止め給うのである。
 【講義】上来遠く本巻の初めから他力回向の大行に就いて多くの経論釈を引いたが、これらは実に浄土の真実行の明証である。かように名方面から細に教示を戴いて見ると、この他力回向の大行は、如来が因位において選びに選んで建主せられた本願の行である、三世十方の諸仏の本願に超え勝れた世にも希〈まれ〉なる勝行である。あらゆる功徳の欠目〈かけめ〉なく備っている真実不可思議の正法である。そして煩悩悪業等にも障えられぬ至極〈このうえもな〉い広大の行であると奉戴すべきである。
(1-658)
 【余義】一。この二行の文は、これまでの「行巻」全体を引きまとめて茲に結び止め給うのである。即ち選択摂取之本願、超世希有之勝行、円融真妙之正法、至極無碍之大行の四句を以て結嘆し給うのである。
 ニ。この四句について四句の次第及び分斉に古来種々の説がある。その中初の二句は因位につき、後の二句は果上につき、因位果上共に、初句は本願、後句は名号について嘆釈し給うたものと解する説が尤も整うて居るように思われる。図示すれば左のようになる。

   ┏選択摂取之本願━━本願┓
   ┃           ┣因位┓
   ┣超世希有之勝行━━名号┛  ┃
   ┃              ┃
   ┣円融真妙之正法━━本願┓  ┃
   ┃           ┣果上┛
   ┗至極無碍之大行━━名号┛

 然し私にはこういう風に解釈せなくともよいように思われる。第一句は選択摂取之本願之行の意味で、阿弥陀如来が、因位に於いて万善万行の中から択びに択び給うた本願の行ということで矢張り名号である。今は「之行」の二字が欠けて居るから本願の行というように解釈しては不穏当の様であるけれども、これは前の処で、選択本願之行是也とある処を選
(1-659)
択本願是也と略し給うたと同じく、今茲に嘆釈し給うのは、行者の称うる能行ではない、所信所行の大行であるということを示さんためにわざわざ「之行」の二字を略し給うたものと解しても可いと思う。超世希有之勝行とは読んで字の如く南無阿弥陀仏の六字は世に超えたる希有の勝行であるということである。円融真妙之正法というは、円融は『一念多念証文』(二十右)に「円融ともうすはよろずの功徳善根みちみちてかくることなし、自在なることなり」とあり。真妙は真実微妙である。正法は、上所引の『五会法事讃』に禅律如何是正法ならん、念仏三昧是真宗とあって、禅律は正法ではない。念仏三昧が正行であるといってある。それを取って来て、茲に用いたので、続けて解釈すれば、称うる一念によろずの功徳善根のみちみちて下さるる真実微妙の念仏であるということである。至極無碍之大行というは、無碍は、『一念多念証文』(二十右)に、『無碍ともうすは、煩悩悪業にさえられずやぶれぬをいうなり」とあって、名号にまどかに備って居る万徳が、衆生にとどこおりなく、行き亘ることである。してみれば、この四句共に、六字の大行を、嘆釈したもうたものと解すれば善いのである。
(1-660)

第四章 重釈要義

第一節 他力

 【大意】以上の処で、「行巻」は正しく終ったのである。経論釈の要文を引いて、大行を讃美称説し、更に私釈を下して、要所要所に釘を打って、最後に上の四句を以て改めて大行を讃嘆して、「行巻」一部の所明は正しく終ったのであるが、これからは、翻えて、「行巻」の要義を重ねて解釈し給うのである。要義というは他力ということと、一乗海ということである。この二要義をこれから重ねて解釈し給うのである。この重釈要義のことは「信巻」の明し方が矢張りこうなって居るのであるから照し合せて貰えば最も妙である。
 それで、これからは先ず第一の他力を重釈し給うのである。この中が、第一項正説、第二項引文と分れて、引文には、曇鸞大師の釈文と元照律師の釈文を引いてある。

第一項 正説

 言他力者如来本願力也

 【読方】他力というは、如来の本願力なり。
(1-661)
 【文科】他力の要義を重釈し給う中、今正しくその義を説き給うのである。
 【講義】先きに「摂取して捨て給わざるが故に阿弥陀と名づく、これを他力と曰う」と申したが、その他力というは、ただ漠然と他の力という位の意味ではなくて、実に阿弥陀如来の本願力をいうのである。
 【余義】一。前段の四句の嘆釈までで、「行巻」に説くべき真実行ということを説き終ったのである。これからは、今まで説き来った中の重要な義を重ねて解釈するのである。先ず第一に他力ということを解釈し、次に一乗海ということを解釈するのである。他力の解釈は上の(十八左)の「この行信に帰命すれば、摂取して捨て給わざるが故に阿弥陀仏と名づけ奉る。これを他力という」とあるを承けて来たもので、一乗海の解釈は上の(二十一右)の「信〈まこと〉に知ぬ。大利無上とは一乗真実の利益なり」とあるを承けて来たものである。かくの如く他力と一乗海ということを重釈して、今まで「行巻」に説き明した大行は他力である。一乗海であるこの他力というはこういう義である。ということを示し給うたものと伺われる。
 二。これを次の「信巻」の説き明し方に比べて見ると全く同一であるということが知れる。「信巻」に於いても、真実信ということを説き終って、嘆釈をしてしもうてから、横超断
(1-662)
四流と真仏弟子ということを重釈してある。この二つの事柄は、「信巻」に於ける要義で、衆生もし、大行大信を信じて、名号の功徳を得れば、横〈よこさ〉まに四流を超断することが出来る。これを真の仏弟子と名けるということを示し給うのである。「行巻」「信巻」照し合せて見ると、一貫した御思召が明に顕われて来るのである。
 三。「他力とは如来の本願力なり」。前に「これを他力と名づく」と仰せられて、凡聖自力の行でたすかるのではなく、仏力他力で摂取して下されるのであるということを充分に示して下された。けれども、親鸞聖人の御心持では、ただ他力というだけでは猶〈なお〉意〈こころ〉が済まぬ。親心から顕われた大慈大悲の力であるぞということを極説せんがために、更に他力とは本願力なりと註解せられたのである。この本願力なりという註解があって、他力ということに一段の生彩を加え、私共の心に甚大の響をもたらして来るのである。
 「他力というは如来の本願力なり」。何という有難いそして意味深長な語であろうか。親鸞聖人は、如来の本願ということを、最も多く仰せられた方である。「弥陀の誓願不思議にたすけられる」、「弥陀の本願を信ぜんには」、「弥陀の本願まことにおわしまさば」、「仏願の生起本末」、「如来の作願をたずぬれば」、聖教の全部は、殆んど本願という文字を以て埋まっ
(1-663)
て居るのである。本願というは如来の親心である。今日の衆生を今のままに見て居られないで動き給うた血と涙の心である。他力というはこの親心から顕われた力のことである。語を換えていえば、親の念力のことである。あるにあられず、居るに居られず日夜に焦慮し給う親の大慈悲力である。聞き誤ると、他力という語には、一種冷かな処があって、私を動かして呉れる一種霊妙の力とか、宇宙に動いて居る大自然の力とかいうようなことに解せられ易い点があって、またいつの時代の人にもそういうとりとめのない中心のない、血と涙の温みのない語のように解して居る人があるのである。今ここに本願力也と註解して下されたので、他力というは、そんな冷かな、中心のないものではなくて極めて具体的な、中心のある、温みのあるものとあって、一大人格の力ということになるのである、茲に私共の信仰が生きて来るのである。
 私共はこの本願力に動かされて居るのである。本願力にすくわれるのである。法然聖人は、善導大師の順彼仏願故の五文字にすくわれて、生涯この五文字を喜ばれた。『和語灯』五(二十五丁)には
  ただ善導の遺教を信ずるのみに非ず、また厚く弥陀の弘誓に順ぜり。順彼仏願故の文、深
(1-664)
く神に染み、心に留めたる也。
と記されてある。私共の信仰も、この本願力の外はないのである、それで私共にはこの他力とは本願力也との御語が何ともいうことの出来ない程、殊更〈ことさら〉に有難く感ぜられるのである。
 他力という語が、明かにその著書の上に顕われてまた最も力説して下されたのは曇鸞大師である。『論註』の他力の語は、「行巻」二(二十四右)に、「唯是自力無他力持」と引用してある。その他力とは本願力なりということを知らせんために、今またこの次下に『論註』の利行満足章の文を引用してある。この下の『論註』の文に三文ある。第一は果の五門の中、第五門を釈する文である。第二は二利成就を明す文、第三は二利満足を結ぶ文である。この第三は、何れも文の顕相から見れば、行者につくので、行者の本願力、行者の二利成就、行者の二利満足であるが、今これを曇鸞大師の指南に依って、阿弥陀如来の本願力、阿弥陀如来の二利満足、二利成就と御覧なされたのである。これはいつもの通りである。鸞師が『浄土論』の当相をひっくりかえして御覧になる御思召は、前二〇八頁にも述べたが、「覈〈あきらか〉にその本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり」とある処に顕われて居る。「他利と利
(1-665)
他と談ずるに左右あり」というのは、有名な他利利他の深義というので、これが、鸞師の、天親菩薩の真意を得て、他力本願力ということを極説せられた源である。鸞師はかくの如く天親菩薩の真意を得て、『浄土論』を註釈せられたのであるから、『論註』と『浄土論』とは一器の水を一器に移したように少しも変らぬものである。それで、今『論註』を引くに「論註云」といわないで、わざわざ「論曰」と書き給うたのである。他利利他の深義のことは前に回向論の処で書いて置いたから、二〇八頁を参照して貰いたい。
 鸞師は他利利他の釈を終って、十八・十一・二十二の三願を出して、前の仏力他力に依って速〈すみやか〉に、阿耨菩提を得る釈明にし給うた。これを三願的証というて居る。今茲に(六七四頁)この三願的証を列ねて引用し給う所に、益々衆生往生の因果が、悉く願力回向であるということが知れるのである。何故かというと、『浄土論』に明してある十門、即ち因の五念門と果の五功徳門とは如来永劫の御苦労とその御回向とであって、我等浄土往生の因果である。即ち因の五念門と果の前四功徳門とは我等の往相で、果の第五門は我等の還相である。而して、今三願の中、第十八願往相信心の願の乃至十念中に因の五念門の行が収まり。第十一願往相証果の願には、果の前四門を含み、第二十二願還相回向の願は、果の
(1-666)
第五門である。かくの如く衆生往生の因果をすべて、本願に誓うて、これを以て助けんという願心であるから、衆生の往還共に、全く本願他力である。而して、この往還二回向をいかにして我等に与え給うかというと、南無阿弥陀仏の六字に封じ込めて、御与え下されるのである。その南無阿弥陀仏は、今この「行巻」に於いて正しく明し終れる真実行であるのである。『和讃』にはこれを、
  南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて
  往相回向のしるしには 還相回向に回入せり。
としめし給うたのである。
 以上の御釈に依って、私共の他力に動かされるというは、全く如来の本願力に動かされることだということが知られたのである。

第二項 引文
第一科 曇鸞大師の釈文

 論曰言本願力者示大菩薩於法身中常在三昧而現種種身種
(1-667)
種神通種種説法皆以本願力起譬如阿修羅琴雖無鼓者而音曲自然是名教化地第五功徳相 乃至

 【読方】論にいわく、本願力というは、大菩薩、法身の中において、つねに三昧にありて、しかも種々の身、種々の神通、種々の説法を現じたまうことを示す、みな本願力より起るをもてなり。たとえば阿修羅の琴の鼓するものなしといえども、しかも音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳の相となづく。乃至
 【字解】一。大菩薩 ここに大菩薩というは、「論」の当相からいえば、八地以上の菩薩を指すのであるが、今御引用の上では、法蔵菩薩のことである。
 二。阿修羅琴 阿修羅のことは上三五六頁を見よ。阿修羅の福徳に依っていつにても聴かんと欲えば、弾き手がなくて自然に意のままに音を出す琴である。
 三。教化地 利他教化地ということにて、他の衆生を利益教化することである。
 【文科】曇鸞大師の釈文の中、今は第五の園林遊戯地門の釈を引き給うのである。
 【講義】然らば本願力というのは、如何なるものであるかと云えば、『浄土論註』に曰く、本願力とは法蔵菩薩が法身の証りの上から、いつも禅定にありながら、衆生済度のために、種々の応化身を現わし、種々の神通を現わし、種々の説法をいたされた。これらは偶然に起ったものでない。如来因位の本願力から起った不可思議の妙用である。譬えば阿修羅の琴は
(1-668)
弾ずる者がなくして、自然に音曲を奏でるようなものである。これは法蔵菩薩が因位に修められた五念門中の第五の利他教化地の功徳の相である。

 菩薩入四種門自利行成就応知成就者謂自利満足也応知者謂応知由自利故則能利他非是不能自利而能利他也菩薩出第五門回向利益他行成就応知成就者謂以回向因証教化地果若因若果無有一事不能利他也応知者謂応知由利他故則能自利非是不能利他而能自利也菩薩如是修五門行自利利他速得成就阿耨多羅三藐三菩提故仏所得法名為阿耨多羅三藐三菩提以得此菩薩故名為仏今言速得阿耨多羅三藐三菩提是得早作仏也阿名無耨多羅名上三藐名正三名遍菩提名道統而訳之名為無上正遍道無上者言此道窮理尽性更無過者何以言之以正故正者聖智也如法相而知故称為正智法性無相故聖智無知也遍有二種一
(1-669)
者聖心遍知一切法二者法身遍満法界若身若心無不遍也道者無碍道也経言十方無碍人一道出生死一道者一無碍道也無碍者謂知生死即是涅槃如是等人不二法門無碍相也

 【読方】菩薩は四種り門にいりて、自利の行成就したまえり。しるべし。成就とは謂く自利満足せるなり、応知というは、いわく自利によるがゆえに、則ちよく利他す。これ自利に能〈あたわ〉ずして、しかもよく利他するにはあらずと知るべきたり。菩薩は第五門にいでて、回向利益他の行成就したまえり。しるべし。成就とは謂く回向の因をもて、教化地の果を証す。もしは因、もしは果、一事として利他に能わざることあることなきなり。応知というは、いわく利他によるがゆえに則ちよく自利す。これ利他に能わずして、しかもよく自利するにはあらずと知るべきなり。
 菩薩はかくのごとく五門の行を修して、自利々他して、すみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまえり。かるがゆえに仏のえたまうところの法をなづけて、阿耨多羅三藐三菩提とす。この菩提をえたまうを以てのゆえに、なづけて仏とす。いま速得阿耨多羅三藐三菩提といえるは、これはやく仏になることをえたまえるなり。阿をば無になづく。耨多羅をば上になづく。三藐をば正になづく。三をば遍になづく。菩提をば道になづく。統〈かね〉てこれを訳して、なづけて無上正遍道とす。無上というこころは、この道は理を窮め性をつくすこと、さらに過ぎたる者なし。何を以てかこれを言うとならば、正をもてのゆえに、正は聖智なり。法相
(1-670)
のごとくして、しかもしるがゆえに、称して正智とす。法性は相なき故に聖智は無知なり。遍に二種あり。一には聖心、あまねく一切の法をしろしめす。二には法身、あまねく法界にみてり。もしは身、もしは心、遍せざることなきなり。道は無碍道なり。経にいわく、十方無碍人、一道より生死をいでたまえり。一道は一無碍道なり。無碍はいわく、生死すなわちこれ涅槃なりとしるなり。かくのごとき等の人の、不二の法門は無碍の相なり。
 【字解】一。四種門 礼拝、讃嘆、作願、観察の四門のこと。
 二。阿耨多羅三藐三菩提 梵音アヌツタラサムヤクサンボードヒ(Anuttarasamyak-sambodhi)、無上正遍知、無上正等正覚と訳する。仏のさとりの智慧のこと、仏の智慧は平等の真理を遍ねく知って、世の最上の方であるから無上正遍知というのである。
 【文科】曇鸞大師の釈門のうち、二利成就を明す文を引き給うのである。
 【講義】かように法蔵菩薩は、礼拝、讃嘆、作願、観察の四種の行を修めて自利の行を成就せられた。この「成就」というは法蔵菩薩御自身のための行が、少しも欠くる処なくはたし遂げられたということである。「応知」というは応に知るべしということである。何を知れというのかと云えば、自利の行が立派に出来上ったために、能く利他の働きが出来るというので、自利の徳が具なわらずして、利他の働きをするというのでないことを知れというのである。溺れている人を救うには、先ず自分で泳ぐ術を知らねばならぬ。自分で泳
(1-671)
く術を心得ているから、人を助けることが出来るので、泳ぎを知らずして、無暗に人を助けようとするのでないというのである。今法蔵菩薩が四種の門によりて自利の行を成就されたのもその通りであるというのである。
 自利の行が出来上ったので、法蔵菩薩は第五の回向門に於いて、自身で修められた功徳を衆生に与えて利益し給う行を成就せられた。この「成就」というは、苦みの衆生に真〈まこと〉の仕合せを与えてやりたいという因位の回向門から、自由に衆生を教化することの出来る果上の教化地の功徳を成就されたというのである。かような訳合であるから、法蔵菩薩の修められた因の五念門の行も、その因によりて得た所の果の五功徳門というも、一として衆生を利益するためでないことがないと云うのである。「応知」というは、衆生を利益する所の利他のためにこそ、自利の徳を具え給うたので、他を利益することをそっちのけにして、自分だけ幸福を獲るようにせられたのではないということを知れというのである。
 法蔵菩薩はかようにして五念門の行を修め、自利々他の徳を得て、速〈すみやか〉に阿耨多羅三藐三菩提を成就せられたのである。それ故に阿弥陀仏の獲られた法を阿耨多羅三藐三菩提と名け、この菩提を得られたので仏と名け奉るのである。
(1-672)
 今上に「速得阿耨多羅三藐三菩提」というたのは、恰も火を燃すために木の火箸を須〈もち〉いると、薪よりも先にその火箸が燃えるように、法蔵菩薩も、衆生のために修められた自利々他の行によりて却って、衆生よりも早く仏になり給うたことをいうのである。さて阿耨多羅三藐三菩提というは梵語の音訳で、「阿」は無、「耨多羅」は上、「三藐」は正、「三」は遍、「菩提」は道と訳する。これを一つに総括〈ひっくる〉めて云えば、即ち無上正遍道である。「無上」とは、仏の証りは諸法の真理を窮め、実性を尽しておって、何人の証りもこれに超え過ぐるものはないということ。何故かと云えば、その次の「正」というがそれである。「正」とは聖智のこと、法の実相の通り少しも誤りなく知る智識であるから正智というのである。即ち根本的な絶対の智慧である。この智慧の対象〈めあて〉となる所の真如法性なるものは、眼に見え、耳に聞えるような事物と違い、相状〈すがた〉がない、それであるからその絶対界を対象〈めあて〉とする主観の智慧も亦無智である。勿論この無智ということは、何も知らぬというのではなく、吾々のもっているような所謂科学哲学等の智識でない。無相絶対を知る所の真智を指すのである。仏はこの絶対的の根本智をもっていられるから「無上」というものである。次に「遍」というに二種ある。一には聖心遍、一切の法(事物)を知〈しろしめ〉す聖心〈みこころ〉、二には法身遍、心の動く処〈ところ〉身もこれに伴い、全法
(1-673)
界の何処にも自在は行き亘ること。「道」とは無碍道のこと。『六十華厳経』に曰く、「十方の無碍人は一道から生死を解脱せられた」という、無碍人とは無碍道を証る人にて、即ち仏である。一道は一無碍道のこと。即ち十方の諸仏は、あの道、この道というように、雑多な道から証りを開かれたのでない、唯一つの無碍道に依って仏果を獲られたというのである。然らば「無碍」とは何であるかと云えば、碍〈さ〉わる所なく融通するという意味で、氷は即ち水というように、煩悩そのままが菩提、生死そのままが涅槃と、凡夫に取っては同じに見ることの出来ないものを、そのまま何の碍る所もなく融通自在に知ることを無碍智というのである。かように煩悩菩提、生死涅槃等は決して別々なるものでない、不二である、一体であるということを知り証って居る人の不二法門が、その無碍の相である。
 かくの如く法性の理を証り、融通無碍の絶対智を獲ることを、無上正遍道を証るというのである。

 問曰有何因縁言速得成就阿耨多羅三藐三菩提答曰論言修五門行以自利利他成就故上然覈求其本阿弥陀如来為増上縁
(1-674)
他利之与利他談有左右若自仏而言宜言利他自衆生而言宜他利今将談仏力是故以利他言之当知此意也
 凡是生彼浄土及彼菩薩人天所起語行当縁阿弥陀如来本願力故何以言之若非仏力四十八願便是徒設今的取三願用証義意
 願言説我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法縁仏願力故十念念仏便得往生得往生故即免三界輪転之事無輪転故所以得速一証也
 願言設我得仏国中人天不住定聚必至滅度者不取正覚縁仏願力故住正定聚住正定聚故必至感度無諸回伏之難所以得速二証也
 願言設我得仏他方仏土諸菩薩衆来生我国究竟必至一生補処除其本仏自在所化為衆生故被弘誓鎧積累徳本度脱一切遊諸仏国修菩薩行供養十方諸仏如来開化恒沙無量衆生使
(1-675)
立無上正真之道超出常倫諸地之行現前修習普賢之徳若不爾者不取正覚縁仏願力故超出常倫諸地之行現前修習普賢之徳以超出常倫諸地之行現前故所以得速三証也以斯而推他力為増上縁得不然乎
 当復引例示自力他力相如人畏三塗故受持禁戒受持禁戒故能修禅定以修禅定故修習神通以神通故能遊四天下如是等名為自力又如劣夫跨驢不上従転輪王行便乗虚空遊四天下無所障碍如是等名為他力愚哉後之学者聞他力可乗当生信心勿自局分也 已上

 【読方】問ていわく、なんの因縁ありてか、速得成就阿耨多羅三藐三菩提といえるや。こたえていわく、論に五門の行を修して、もて自利々他成就したまえるが故にといえり。然に覈〈ひそか〉にその本をもとむれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と談ずるに左右あり。もし仏よりしていわば、よろしく利他というぺし。衆生よりしていわば、よろしく地利というべし。いままさに仏力を談せんとす。このゆえに利他をもてこれをいう。まさに知るべし、この意なり。
(1-676)
 凡〈おおよそ〉これかの浄土に生ずると、及びかの菩薩人天の所起の諸行は、みな阿弥陀如来の本願力に縁るがゆえなり。何を以てかこれを言うとならば、もし仏力にあらずは、四十八願すなわちこれ徒〈いたずら〉に設けたまうらん。いま的〈あきらかに〉に三願をとりて、もて義のこころを証せん。
 願じてのたまわく、設〈たとい〉われ仏をえたらんに、十方の衆生、至心に、信楽して、わか国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。もし生ぜずは正覚をとらじ。ただし五逆に誹謗正法とをば除くと。仏願力によるがゆえに、十念念仏して、すなわち往生を得。往生をうるがゆえに、すなわち三界輪転の事をまぬかる。輪転なきがゆえに、所以〈このゆえ〉に速〈すみやか〉なることを得る一証なり。
 願じてのたまわく、設われ仏をえたらんに、くにのうちの人天 定聚に住しかならず滅度にいたらずは正覚をとらじと。仏願力によるがゆえに、正定聚に住せん、正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。もろもろの回伏の難なし。所以に速なることを得る二の証なり。
 願してのたまわく、設いわれ仏をえたらんに、他方仏土のもろくの菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処にいたらしめん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに 弘誓の鎧をきて、徳本を積累し.一切を度脱して、諸仏のくにに遊び、菩薩の行を修して、十方諸仏如来を供養し 恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをばのぞく。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もし爾らずは正覚をとらじと。仏の願力によるがゆえに、常倫に超出し、諸他の行現前するをもてのゆえに、所以に 速なることを得る三の証なり。これをもて他力を推するに増上縁とす。然らざるこ
(1-677)
とをえんや。
 まさにまた例をひきて、自力他力の相をしめすべし。ひと三途をおそるるがゆえに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆえによく禅定を修す。禅定を修するをもてのゆえに、神通を修習す。神通をもてのゆえに、よく四天下に遊ぶがごとし。かくの如きらを名けて自力とす。また劣夫の驢にまたがりて上らざれども、転輪王の行〈みゆき〉に従〈したがわ〉ば、すなわち虚空に乗して四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。かくの如き等を名けて他力とす。愚なるかな、のちの学者、他力の乗ずべきをききて、まさに信心を生ずべし。みずから局分することなかれ。
 【字解】一。三願 第十八至心楽の願、第十三必至滅度の願、第二十二還相回向の願である。
 二。五逆 上一六二頁をみよ。
 三。定聚 正定聚の略。梵語三藐尼耶多羅尸(Samyyaktva-niyatarasi)の訳である。正しく仏となるに定れる聚〈ともがら〉という意。第十八願他力念仏の機、即ち弘願真宗の行者をいう。
 四。滅度 梵語涅槃(Nirvana)の義訳。涅槃に入れば、生死の苦を滅し、煩悩の流〈ながれ〉を渡るから滅度というのである。
 五。回伏之難 伏は復と同音相通ずるので、渦〈うずまき〉のぐるぐる回りてはてしの無い如く、生死流転のはてしない難ということ。
 六。究竟 (菩薩の極位を)きわめること。
(1-678)
 七。一生を補処 一生を過ぐれば仏処を補うぺき等覚の位をいう。菩薩には五十二段(十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚)の位があって、等覚の位は、その一生が終れば直に妙覚の仏になるのであるからその位を一生補処というのである。
 八。自在所化 自在に化益すること。
 九。弘誓鎧 衆生を済度しようという弘き誓の堅固なことを鎧に喩えた語。
 一〇。積累徳本 三学六度の功徳を積み累ねること。
 一一。常倫 つねなみのともがら。
 十二。諸地之行 十地の菩薩の修行。
 十三。普賢之徳 上六五三頁をみよ。
 一四。三塗 三途ともかく。火塗(地獄)、血塗(畜生)、刀塗(餓鬼)のことにて即ち三悪道に同じ。
 【文科】曇鸞大師の釈文のうち二利満足を結ぶ文を引き給うのである。
 【講義】問うて曰く、如何なる因縁によりて、吾々凡夫が速にこの仏の証りを開くことが出来るのであるか。
 答えて曰く、それは天親菩薩の『浄土論』によれば、矢張り法蔵菩薩が吾々に代りて五念門の行を修めて、自利々他の功徳を欠目なく成就して下されたからであると仰せられてあ
(1-679)
る。「論」文に簡潔にかように仰せられてあるが、然るに今覈〈あきらか〉に吾等の成仏の根本を求めて見ると、「論」文に云わるるように、全く阿弥陀如来が増上の強縁となりて下されることが知れる。この簡潔な「論」文には実に奥深い意味が籠っているのである。即ちここに「自利々他」と仰せられてあるが、この利他という二字に就いて考えねばならね。なぜ他利と仰せられずに利他と仰せられたか。他利と利他とは、文面は僅に位置を代えただけであるがその意味には非常な相違がある。もし仏のことを申す場合には利他と申さねばならず、衆生のことを云う時には他利と云わねばならぬ、他利とは他が利せらるるというほどの意で、利するということについて消極的の言い方である。それで他利といえば力の小さい衆生につくのである。今「論」文に「以自利々他成就」とあるは、一寸〈ちょっと〉見れば、往生を願う衆生が五念門の自利々他を成就したから、速に証りが開けるという意味に思われるが、断じてそうではない。この他利々他の弁別によりて考えて見ると、上述の如く、これが衆生のことならば他利というべきであるのに、今仏力を表わす処であるから、特に論主が自利々他と仰せられたのである。我々凡夫が仏陀の利他の功徳に依って大益を蒙むるので、決してわれわれ自分の力で他の人々を利益するのではない。それ故に、吾々凡夫の証りを開くことは、全
(1-680)
く阿弥陀如来の因位の自利々他の五念門の行に依ることが解るのである。吾々はこの深い御思召を知らねばならぬ。
 凡〈おおよ〉そ一切衆生がかの極楽浄土へ往生すること(往相回向)と、往生した菩薩、人間、天人の人々の起す所の衆生済度の行(還相回向)とは、皆阿弥陀如来の本願力に依るのである。ここには凡夫の力は塵ばかりもない。どうして左様なことが云えるかと云えば、もし一切衆生の浄土往生とその果上の教化が、阿弥陀如来の力でないというならば、かの因位の四十八願なるものは、徒労〈いたずら〉に属することとなる。果してそうであそうか。今試〈こころみ〉にこの事柄に最も関係の深い三願をあげて、的〈あきらか〉に絶対他力の意義を証明するであろう。
 第十八願に言わく「設〈も〉し我れ仏となりたらんとき、十方世界のあらゆる衆生が、至心に信楽して、我極楽浄土へ生れたいと欲〈ねが〉いて、乃至十念の念仏を称えるならば、必ず我国に生れるであろう。もし往生せなんだならば、我は仏とならぬ。唯〈ただ〉五逆罪を造る者と、正法を誹謗〈そし〉る者はこれ限りでない。即ち仏の願力に縁〈よ〉るために、僅に十念の念仏を称うれば至心信楽欲生の三信は自〈おのず〉と具わりて極楽往生を遂げる。往生するによりて三界六道の巷に迷うことを免れる。即ち輪回の苦みが絶える。これが他力によりて速〈すみやか〉に仏となる一の証拠で
(1-681)
ある。
 第十一願に言く、設し我れ仏となりたらんとき、国の中の人間、天人達が、正定聚の位に入り、必ず大涅槃の証果を得ないならば我は仏とはならぬ。かように仏の本願力に縁るために、正定聚不退転の位に入る。正定聚の位に入る故に必ず証果を開く。そこに諸の生死〈まよい〉の渦〈うずまき〉の中に漂落〈ただよわ〉さらるる憂いはない。これが他力によりて速に証りを得る第二の証拠である。
 第二十二願に言く、設し我れ仏となりたらんとき、十方世界の諸の衆生が我が極楽浄土へ生れ来る時に、必ず菩薩の極位を極めたる一生補処の位に入らしむるであろう。かように誓う所以はどうかと云えば、素〈もと〉極楽へ生れる者はみな無上涅槃の妙果を証るのであるが、併〈しか〉し証りを開く時は自〈おのず〉と衆生済度の望みが起る 即ちその証りの上から自〈おのず〉と起る利他の願いにしたがって態〈わざ〉と仏果を除いて一段下ったる補処の位に至らしむるのである。即ちその生れ来る人の本願が他を化益したいというので、衆生のために、大悲の本願の鎧を被〈き〉、あらゆる功徳を積〈つ〉み、数限りなき衆生を度脱〈すく〉い、諸仏の国に遊びて、大悲利他の菩薩の行を修め、十方世界の諸仏を供養し奉り、恒河の沙〈すな〉の数ほどの無量の衆生を化益して、無上〈このうえもない〉
(1-682)
正真之道〈まことのさとり〉に至らせるという還相の力用〈はたらき〉がしたいと云う人々のために、仏果より下の一生補処の位に至らしめるのである、この位は涅槃から自〈おのず〉と起る還相の大悲の用〈はたらき〉をなさしめる位である。実にこの位にいる菩薩は、常並みの修行の順序を経ず、一足とびに初地より十地に至る願行が自然に彰われ、普賢大悲の利他の徳を円〈まどか〉に行わしめるように致すであろう。もし左様にすることが出来ないならば、我は仏とはならぬ。」かように仏の本願力に縁るために、常の格を飛び超えて、諸地の行が自〈おのず〉と彰われ、普賢大悲の利他の徳を行うのである。この常の格を超えて、諸地の行が自と現われるという還相の働きをなすことを見ても、偏〈ひとえ〉に仏力他力によるということが知られる。これ吾々が他力によりて速に証りを得るという第三の証拠である。
 即ち第一は往生の因、第二は往生の果、この二は往相である。第三はその証果〈さとり〉から起る大悲の用〈はたらき〉で、即ち還相である。そして吾々の往生成仏の始終はこれより外はない。この始終全体が仏の願力の然らしめ給う所である。これによりて他力を推し量って見れば、吾等の往生成仏の増上の強縁は、全く阿弥陀如来にてましますことが知れるでないか。如何〈どう〉してもそうなくてはならぬではないか。更に重ねて譬喩をもって自力他力の差別を示そう
(1-683)
ならば、ここに人ありて三悪道の苦みを畏れるために、戒律を持つとする。戒律を持つことから能く禅定を修める。禅定を修めることによりて神通を修習〈なら〉う。神通を獲て初めて心の自在〈まま〉に四天下に遊ぶ。かくの如きを自力と名ける。然るになにも知らぬ野夫の如きは驢〈ろば〉に跨った処で、上に述べた人のように中々空を飛行することなぞは出来るものでないが、あの神通自在なる転輪王の行幸〈みゆき〉に従う時は、即ち王の力によりて何ものにも妨げられず自由に虚空に乗じて四天下に遊ぶことが出来るという。かくの如きを他力と名けるのである。愚なる哉、彼の道を修むる人は、自力を執じて他力に任せることを知らずにいる。今他力本願に乗托せるという教えを聞いたならば、偏〈ひとえ〉に仰いでこれを信じ奉れ。自力の計いに局分〈かたよっ〉てはならぬ。
 【余義】ここに他利利他の探義のことを述べねばならぬ筈であるが、それは上二〇八頁に説き了ったからそこをみて貰いたい

第二科 元照律師の釈文

 元照律師云或於此方破惑証真則運自力故談大小諸経或往
(1-684)
他方聞法悟道須憑他力故説往生浄土彼此雖異莫非方便令悟自心 已上

 【語方】元照律師のいわく、あるいはこの方にして、惑を破し真を証するは、すなわち自力を運ぶがゆえに大小の諸経に談ず。あるいは他力にゆきて、法をきき道を悟るは、すべからく他力を憑むべきがゆえに往生浄土をとく。彼此ことなりと雖も、方便にあらざることなし。自心を悟らしめんとなり。
 【文科】元照律師の釈文を引き給うのである。
 【講義】元照律師も亦『観経義疏』に於いて曇鸞大師のように、一代教を自力他力の二つに頒〈わ〉けておられる。云く、この世で惑〈まよい〉を破りて真理を証るには、自力を運んで様々の修行をせねばならぬ。これがために大小乗の聖道自力の諸経が説かれてある。また他力の極楽に行きて法を聞いて証りを開くには、どうしても他力を憑まねばならぬ。これがために往生浄土の他力教が説かれてあるのである。この自力他力の教はかように異っておるけれども、如来が妙方便〈おてだて〉をめぐらして、我等の心性を悟らしめ給う御思召の外はない。

第二節一乗海

第一項

(1-685)
 【文意】これからは、「行巻」中の一要義、一乗海を重釈し給うのである。この項が三項に分れ、
  第一項に一乗を釈し。
  第一科 正説、
  第二科 涅槃経の引文、
  第三科 華厳経の引文、
  第四科 結文、
 第二項に海を釈し、
  第一科 正説、
  第二科 大無量寿経の引文、
  第三科 曇鸞大師の釈文、
  第四科 善導大師の釈文、
  第五科 宗暁律師の釈文、
 第三項に一乗の機教を対顕し、
  第一科 約教対顕、
  第二科 約機対顕
の次第になって居る。科の下がまた分れて居るがそれはその科の下で説明する。
(1-686)

第一科 正説

 言一乗海者一乗者大乗大乗者仏乗得一乗者得阿耨多羅三藐三菩提阿耨菩提者即是涅槃界涅槃界者即是究竟法身得究竟法身者則究竟一乗無異如来無異法身如来即法身究竟一乗者即是無辺不断大乗無有二乗三乗二乗三乗者入於一乗一乗者即第一義乗唯是誓願一仏乗也

 【読方】一乗海というは、一乗は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは、阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。阿耨菩提はすなわちこれ涅槃界なり。涅槃界はすなわちこれ究竟法身なり。究竟法身を得るは、すなわち一乗を究竟するなり。如来にことなることましまさず。異の法身ましまさず。如来はすなわち法身なり。一乗を究竟するは、すなわちこれ無辺不断なり。大乗は二乗三乗あることなし。二乗三乗は一乗にいらしめんとなり。一乗はすなわち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
 【字解】一。一乗 一仏乗のこと。権大乗の三乗各別の法に対して、実大乗の一切衆生をして悉く成仏せしむる法をいうのである。
 二。究竟法身 この上ない、色も形もない本来自性清浄の理体ということ。
(1-687)
 三。第一義乗 これに上こすことなき教ということ。
 四。誓願一仏乗 弥陀の本願力にて、一切衆生を悉く成仏せしむる教をいう。
 【文科】正しく一乗海の一乗を解釈し給うのである。
 【講義】上に屡々この本願念仏の法門を指して、「一乗究竟の極説」「円頓一乗」等といい、または「真如一実功徳宝海」「選択大宝海」とも申したが、今この処に於いて再び細〈こまか〉にこれらの意味を闡明〈あきらか〉にするために「一乗海」と題して絶対他力教の真意義を発揮するであろう。一乗海に就いて、先ず初めに「一乗」を解釈する。一乗というは不完全な小乗の教えでない。大乗無上の法門をいう。大乗というは、真理に徹底しておらぬ菩薩乗ではなく、絶対円満の仏乗である。
 然らばかような無上殊勝なる一乗の法門の目的とする証果は如何なるものかと云えば、即ち無上正等覚を得ることである。この無上の妙果〈さとり〉は取りも直さず無為涅槃の境界である。この涅槃界は、理を究め智慧を尽した法身の証りである。
 さてこの法身の証りに就いて、進んでその内容を闡明する必要がある。即ち究竟法身を得る者は、一乗大乗の至極を究竟しておられるから、この証りを外にしては、そこに教
(1-688)
もなく、智慧もなく、真理もない、即ち究竟法身の証りを開いた者の外には、そこに別に如来、別な法身もましまさぬ。あらゆる如来という如来、法身という法身を、その証りの中に包含して余す処はない。この究竟法身は唯一絶対の証である。そしてこの証りは吾々が浄土に往生して開かせて頂く証りに外ならぬ。
 かくの如く無上涅槃を証る如来は即ち法身である。一乗大乗の真理を究竟〈きわめつく〉してあるから、横に十方を極め、竪に三世を貫いて断えることはない。裏から云えばこの証りは悠遠広大であるから、全法界を掌中〈たなごころ〉に握って活殺自在の枢機を把〈と〉り、而も三世に亘りて常住不滅の徳を具えている。誠に唯一絶対の妙果と云わねばならぬ。
 一乗大乗の果は上の如く浄土の証りを指すのであるが、然らばその妙果を証する因の一乗大乗の教はいかにと云うに、この一乗の法門は声聞、縁覚、菩薩の二乗三乗の低い不完全な教えを含んではおらぬ。純一円満の絶対教である。但し大聖釈尊が二乗三乗の教えを説かれたのは、万川海に注げばおなじく一味となるように、この一乗至極の教に帰入せしめんがために外ならぬ。故にこの一乗の法門は最初第一の義理を含み、徳を具えた教である。即ち唯一無二の弥陀選択本願の念仏がこれである。唯一の仏乗、唯一真実の浄
(1-689)
土の行たる六字の名号がそれである。この尽天尽地に並びなき唯一名号の乗物に乗托して、絶対無二の大乗涅槃界に証入せしむるが、他力念仏の法門である。
 【余義】一。今茲に重釈し給う一乗海は前にもいう通り、行之一念の釈に、「大利無上者一乗真実之利益也」とあると、引釈段の御私釈に、選択の大宝海とあるを承けて「行巻」の要義、南無阿弥陀仏の大行が一乗真実の教であるということを説き明し給うのである。正しく一乗海という熟語の出て居るのは、善導大師の「玄義分」である。その語は下の三十二丁左に引いてある。
 言一乗海者(一乗海というは)から、唯是誓願一仏乗也までは、『勝鬘経』の文である。然し『勝鬘経』の文その儘を引いたのではない。自由に出没して引いてある。先ず「言一乗海者」の牒拳と、「一乗者大乗」の語は、親鸞聖人の語である。最後の唯是誓願一仏乗也の結語も親鸞聖人の語である。今説明の便宜上『勝鬘経』の文を引いて見よう。

 大乗者即是仏乗、是故三乗即是一乗。証一乗者得阿耨多羅三藐三菩提。阿耨多羅三藐三菩提者即是涅槃。言涅槃者即是如来清浄法身。証法身者即是一乗。無異如来、無異法身、言如来者即是法身。証究竟法身者即究竟一乗。究竟一乗者即離相続、・・・即是大乗、以第一義無有二乗、二乗者同入一乗、一乗即勝義乗(大宝積経 勝鬘夫人会)

(1-690)
 かくの如く文が出没してある。聖人が常に経文に拘泥せず、活殺自在に引き給う有様がこれで明かに知れるのである。
 親鸞聖人は今、この『勝鬘経』の語を以て、一乗ということを解釈し給うのであるが、しかし、聖人はただ経語を用い取ってその経意を取らないのであるから、いま『勝鬘経』曰という経名をも挙げず自分の語として出し給うのである。もともと『勝鬘経』は、弥陀法を説き明した経でもなく、またこの経は所謂、権大乗の経で、三車家、四車家という範疇からいうと、三車家に属する経であるから、四車家の親鸞聖人が引用し給うには、大〈おおい〉に経文を出没加減せなければならぬのである。ただこの経語が一乗を説き明すに、多少の語を加減すれば、最も便利であるから引用し給うたものである。
 二。因〈ちなみ〉に三車家四車家というのはいかなることかというと。『法華経』譬喩品の羊鹿牛の三車のことについて起る議論で、仏教は声聞乗(羊車)、縁覚乗(鹿車)、菩薩乗(牛車)の三乗の教がある許りで、大白牛車に配当さるる一乗教というのが別にあるのではない。三車の中の牛車が大白牛車であってその三乗教の中の菩薩乗を一乗教というのであるとするのが、三車家である。嘉祥大師、慈恩大師などが『維摩経』『勝鬘経』に依って立てるの
(1-691)
である。四車家というのは、賢首大師、天台大師などで、大白牛車は三車中の牛車の別にあるので、仏教は、声聞乗(羊車)、縁覚乗(鹿車)、菩薩乗(牛車)、仏乗(大白牛車)の四乗の教であると主張するのである。『華厳経』『法華経』に依ってこの説を立てるのである。
 我が親鸞聖人は、四車家である。然るに『勝鬘経』は三車家の人達の所依とする経典である。それ故、今聖人かその経文を借用し来って、一乗を解釈するにも、経文その儘には用いられない所がある。それで、「是故三乗即是一乗」の語を除き、下に、「無有二乗三乗(二乗・三乗あることなし)」、「二乗三乗者入於一乗(二乗三乗は一乗に入らしむ)」と、三乗の語を二度まで加え給うたのである。こういうのを我が聖人の転換自在の妙釈というのである。
 三。次に少しく、この文語を解釈して見よう。こういう風に経文を借り来たって説明したものは解釈が頗る困難である。先輩は常にこういう文に苦心せられた。今はただ先輩の跡を辿ってみるのである。
 先ず一乗、大乗、仏乗の語から説明せねばならぬ。一乗は、二乗、三乗に対して、権大乗の三乗各別の法に対して、実大乗の一切衆生をして、悉く成仏せしむる教法のことである。
(1-692)
 大乗は小乗に対し、大人の所乗〈のりもの〉の義で、大苦を滅し、大利益を与うる教道のことである。菩薩の大機が、仏果の大涅槃を得る法門である。これ権大乗と実大乗とある。
 仏乗は、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗に対し、一切衆生を悉く成仏せしむる教法のことである。これも三車家からみると仏乗とは菩薩乗のことである。四車家からみると菩薩乗とは別なものであるという相違がある。また他の方面からいうと菩薩乗は仏乗のことだともいえる。菩薩乗は因について菩薩が仏になる教法、仏乗は果について、菩薩が仏になる教法をいうので、同一教法ともいえるが、今造語の上からみて、また四車家の見地に立って、暫らく別として置くのである。
 今この文の中で、総釈に、一乗は大乗、大乗は仏乗とあるは、念仏法が、至極円融の大法であるというを説明したものである。念仏の法は一乗法である。大乗法である。仏乗法であるというのである。この一乗、大乗、仏乗について、古来困乗、果乗ということを立てて説明して居るが、義をはっきりさせようとして説明したのであろうけれども却って混乱を来して居るように私には思われる。造語の上に因果を分けたり、用語の上に因果をわけたりして、それがみな乱れて居る。今これを簡単にしてはっきりさせてみようと思う。
(1-693)
 一切衆生の往生成仏するは、如来の本願力に依ることは申すまでもない。五乗の機類、弥陀の本願に乗托して、同一念仏無別道故である。このすべてが同一の本願力に乗ずるという所に、一乗の謂〈いわれ〉が出て来る。またかくの如く因〈いん〉已〈すで〉に一なるが故に、果も亦同一である。
「咸同一類形無異状(ことごとく同じく一類にして、形異状なし)」で、すべての機類がみな同じい菩提の妙果を証するのである。この証真の同一であるという所に一乗の意が出て来る。それで、この一乗の語が本願一乗(親鸞)とか、円頓一乗(元照)とかいわれる時は、因について同一の所乗という意がまさり、究竟一乗(経)とか、一乗清浄無量寿世界(大論)とかいう時は、果について、一乗をいうたおもむきが勝るのである。それで、前者の時の一乗を、因乗の義の一乗、後者の時の一乗を、果乗の義の一乗というのである。然し一乗という造語は元来唯一の所乗という意味であって因についていうたものである。大乗、仏乗にもこの意味があるというけれども、却って煩鎖になるからこれは止めて置く。
 それで、今この一乗の釈の下に於いて、ある説では「得一乗」以下の別釈が、因乗、累乗について一乗、大乗、仏乗を明してあるとみるのである。「得一乗」から「即是無辺不断」までは果の一乗、大乗、仏乗を明し、「大乗無有二乗三乗」以下に因の一乗、大乗、仏乗を明
(1-694)
すとする。この説では得一乗者と究竟一乗は一乗、般若(阿耨菩提)、解脱(涅槃界)、法身(究竟法身)は仏果の三徳であるから仏乗、無辺不断は大乗を説いたものとする。因の一、大、仏乗は、大乗、一乗、仏乗という順序で説いてある。こういう説明をするのである。
 煩しい説のようではあるが、この説明を用いて置く。かく、果につき、因について、一乗ということを説明して、最後に唯是誓願一仏乗なりと結び止め給うたのである。
 四。唯是誓願一仏乗也、何という大宣言であろうか。我祖が以上一乗を解釈し来ったのも、つまりこれが言いたかったのである。唯有一乗法無二亦無三。教といえば、ただわが弘願教あるのみ、法といえば、ただわが誓願法あるのみ、この外の教法はすべて皆方便化前の教法である。『大原問答』にはこの意を、
  無二亦無三、十力仏土中、唯有往生法、
というてある。太陽が一度東天に顕われて来ると、今まで輝き亘っって居った星晨も、悉く、その光を吸われて、影をなくするように、弥陀誓願一仏乗の前には、聖道八万四千の教道は、悉く、方便誘引の教となって、全くその権威を没して仕舞うのである。四諦十二因縁六度万行の自力難行道の教というは、偶々〈たまたま〉、我々をして我々の根性を知らしめ、とても、
(1-695)
我が力では埒〈らち〉あかぬということを悟らしめて、弥陀他力の易行に頼らしめ給うためのものである。已に誓願一仏乗の座敷に上ってみれば、自力難行の階段は要らないことになって仕舞ふのである。
 五。茲に問題が起る。浄土真宗に於いては弘願の教を一乗教というて居る。華厳、天台では、それぞれの教を一乗真実の教というて居る。しかのみならず、親鸞聖人も、『愚禿鈔』は、明〈あきらか〉に華天密禅の教を真実教と判じ給うてある。蓮如上人はこれを相承して、『御文』の中に、「いずれも仏説なれば、如説にこれを修行せん人は成仏得道すべきこと更に疑なし」と宣うてある。これ実に大〈おおい〉なる矛盾ではあるまいか。一乗法に二つも三つもある訳はなく、真実教が、いくつも角突きあいをして居る理由がないのであるが、これをいかに解すべきであろうか。このことは、いずれの教説が出世本懐の教であるか。又、出世本懐の教説が左様に幾つもあるべき筈がないと問題になるので、上二四五頁以下に委しく説明してあることであるから、その処を一度見て貰いたい。

第二科 『涅槃経』の引文

(1-696)

 涅槃経言善男子実諦者名曰大乗非大乗者不名実諦善男子実諦者是仏所説非魔所説若是魔説非仏説不名実諦善男子実諦者一道清浄無有二也

 【読方】涅槃経にいわく、善男子、実諦はなづけて大乗という。大乗にあらざるは、実謗となづげず。善男子、実諦はこれ仏の所説なり。魔の所説にあらず。もしこれ魔説は仏説にあらざれば、実諦となづけず 。善男子、実諦は一道清浄にして、二あることなし  已上
 【字解】一。「涅槃経」具には「大般涅槃経」。これに「北本涅槃」と、「南本涅槃」との別がある「北本涅槃」は四十巻あって、北涼の曇無讖の訳である。釈尊双樹の間に入涅槃の時、無量の大衆に対して説き給うた教である。法身常住、大般涅槃の教義、阿闍世王帰仏の因縁等を説き十三品に分れて居る。「南本涅槃」は劉宋の慧観、慧厳、謝霊運が、法顕訳の「小乗涅槃経」を参酌して「北本涅槃」を再治校合したものである。二十五品に分れて居る。
 二。実諦 実は真実、諦は諦実にて、虚妄〈いつわり〉ならぬ真如実相のこと。
 【文科】ここに引き給う「涅槃経」の文が四文に分れて居るが、今第一の聖行品の文である。
 【講義】『涅槃経』聖行品に釈尊言く、善男子よ、実諦とは、実は真如実相、諦は明了、即ち真如実相を明了に説いた教が大乗教である。従って大乗教でないものはまた実諦
(1-697)
ということは出来ない。善男子よ、実諦は仏の親しく説き給う所で即ち仏乗である。魔の説いたものでない。魔の説いたものは仏説でないから、実諦とは名けない。善男子よ、実諦は純一の一筋道であって、二つとあることはない。唯一乗の教である 已上。
 【余義】一。上の一乗の義を証成せんがために、『涅槃経』と『華厳経』の文を引き給うたのである。先ず引文の意味を解釈して、次に特にこの二経を引用し給うた御思召を説明しよう。
 『涅槃経』の文は四文である。第一文(北本十三ノ十五丁 南本十二ノ十三丁)は内道外道相対して一乗を説き、「一道清浄にして二あることなし」と説いて、正しく前の余義に説明した困乗の一乗を示したものである。第二文(北本二十五ノ十八丁 南本二十三ノ十八丁)は信順不信順相対して一乗を説き、菩薩は一切衆生を一道に帰せしむるを知って信順するというので、これも因乗の一乗を説いたものである。第三文(北本二十七ノ九丁 南本二十五ノ九丁)は世間出世間を相対して一乗を説いたもので「一切衆生の得る所の一乗」とは大涅槃、仏果菩提のことであるから、これは果乗の一乗を説いたものである。第四文(北本二十七ノ十四丁 南本二十五ノ十四丁)は一乗多乗相対して一乗を説いて、一切衆生悉く一乗なるが故に」と示し、上の一乗を仏性と名くというを承けて来て、一切衆生既に成仏する義が
(1-698)
あるから、法界にはただ一乗法あるばかりであると説いたものである、そしてその次にこの一乗法から、方便のために無量乗が顕われて来る旨を示したものである。一乗から無量乗が顕われるというのは、八万四千の法門が名号海中より顕われるという意味である。
 かくの如く『涅槃経』の四文は因乗果乗に就いて、一乗を説明したものである。
 『華巌経』(旧華厳六 九右)の文は講義の如く、上の四句は弥陀法王が弥陀名号の一法一道に依って衆生を済度し給うことで、因乗の一乗を説いたものである。下の四句は三世諸仏為念弥陀三昧成等正覚の意で、一切諸仏が弥陀名号の一法を念じて平等の証果を得給うことをいうたので、果乗の一乗を説いたものである。かくの如く因乗果乗に依って一乗を説いたのである。
 二。以上二経の文意をあらまし説き終ったが、次にこの二経を引用し給うた御思召を伺はねばならぬ。
 ただ一乗の義を釈成するためならば、唯有一乗法無二亦無三という『法華経』の明文に就いた方が好都合であるべきに、わざわざ何故に『涅槃経』、『華厳経』を用いたものであろうか。
(1-699)
 いま親鸞聖人の二経引用の覚召を一口にいうてみると、『涅槃』『華厳』の二経を挙げて、茲に一代経を摂め尽す御つもりである。『華厳経』は仏成道一七日〈いちしちにち〉の説法であって、仏教の始経である。『涅槃経』は鶴林の終説、一代の結経である。それでこの初後の経を挙げて、茲に一代経を摂め尽し、『華厳』の一道『法華』の一乗、『涅槃』の一実、皆これ、弥陀誓願一仏乗のことを説いたものであるとし給うのである。語を換えていえば、釈尊一代の経典を悉く浄土の一切経とし給うのである。前に宗名論の所でもいい、また十師引意の処でもいうた通り、我が聖人の信仰眼からすると、自宗、他宗の区別もなく、従って他宗の経、自宗の経という差別もなく、宗をいえば一浄土真宗、教をいえば、一弘願教、一切経悉く浄土真宗の経典にして南無阿弥陀仏の一法を説くより外はないのである。それでその御意を得て、『六要鈔』三(二十九左)には、
  一代の教文、隠顕殊なりと雖、併しながら弥陀済凡の利生を説く。この意を得る時、諸文達することなし
というてある。『涅槃』会本十六(十一丁)已下六念処を説く中、第一念仏の下には常得見仏とあり、その意を得て『涅槃経』を見れば『涅槃経』はそのまま弥陀弘願を説く経となるのである。
(1-700)
『華厳経』も「入法界品」に入りて、善財童子の尋ねる五十三の善知識の中第一の功徳雲此丘は、我れ仏法三昧海の中に於いて、唯一行念仏三昧を知るというて居る。また第五十三の知識普賢菩薩は童子に授くるに念仏を以てして居る。『四十華厳』第四十(十四丁)には普賢自ら偈を説いて、
  願くは我れ命終せんと欲する時に臨んで、一切の諸障碍を尽除して、面〈まのあた〉り、彼の仏阿弥陀を見たてまつり、即ち安楽国に往生することを得ん
と宣うて居る、諸経皆かくの如く、その深意を探れば、悉く弥陀の本願が顕われて下さるのである。
 因〈ちなみ〉に、この二経を引用し給うにも、普通ならば、『華厳経』が、一代の初経であるから、先きに引き給うべき筈であるのに、前後して引き給うのはどういう訳であろうか。これに就いて古来種々の説がある。
 ある人は聖人の当時は天台宗が盛んであったから、先ず天台宗 最経真実経として重んずる『涅槃経』を挙げて、念仏一乗の義を成じ、次に『華厳経』に移ったものだというて居る。
(1-701)
 またあるものは、『華厳経』は如来の智慧門を開き、『涅槃経』は如来の慈悲門を開いたものである。浄土門は勿論慈悲門を先として居るから、慈悲門の『涅槃経』を先きに引いたものというて居る。
 また有る説に依れば、摂末帰本の次第に依ったもので『華厳経』は釈迦一代の根本経であるから、『涅槃経』を先きに挙げてこれを『華厳経』に摂し、次に浄土の一門に帰したものである。
 猶種々の説があるが、先ず、上に挙げた第二説などが、最も真意を得て居るものであろう。

 又言云何菩薩信順一実菩薩了知一切衆生皆帰一道一道者謂大乗也諸仏菩薩為衆生故分之為三是故菩薩信順不逆 已上

 【読方】またのたまわく、いかんが菩薩一実に信順する、菩薩は一切衆生をして、みな一道に帰せしめむと了知するなり。一道は謂く大乗なり。諸仏菩薩衆生のためのゆえに、これを分ちて三とす。このゆえに菩薩、不逆に信順す。已上
(1-702)
 【字解】一。一実 一仏乗のみが真実であるから、一仏乗のことを一実という。
 【文科】『涅槃経』の四文のうち第二の「徳王品」の文である。
 【講義】また『同経』「徳王品」に釈尊言く、菩薩が唯一の実義に信順する模様はどうかと云えば、菩薩は自分ばかりでない、他のあらゆる衆生を導いて、悉くみな唯一真実の道に帰順せしめたいと明了〈はっきり〉と信知している。この真実の一道とは即ち大乗至極の教えのことである。これ即ち弥陀の本願一実の大道である。然るに諸仏菩薩は、衆生を導かんために、この一乗の大法を声、縁、菩の三乗に分って説かれたのである。この故に菩薩は真実の一道に信順して逆〈たが〉うことはない 已上。

 又言善男子畢竟有二種一者荘厳畢竟二者究竟畢竟一者世間畢竟二者出世畢竟荘厳畢竟者六波羅蜜究竟畢竟者一切衆生所得一乗一乗者名為仏性以是義故我説一切衆生悉有仏性一切衆生悉有一乗以無明覆故不能得見 已上

【読方】またいわく、善男子、畢竟に二種あり。一には荘厳畢竟、二には究竟畢竟なり。一には世
(1-703)
間畢竟、二には出世畢竟なり。荘厳畢竟は六波羅蜜なり。究竟畢竟は、一切衆生得るところの一乗なり。一乗はなづけて仏性とす。この義をもてのゆえに、われ一切衆生ことごとく仏性ありととくなり。一切衆生ことごとく一乗あり。無明おおえるを以ての故に、見ることを得ることあたわず。已上
 【字解】一。荘厳畢竟 大乗の因行たる六波羅蜜のこと、大乗一乗はおんづまりの教であるから畢竟といい、その因行ほ能く果を厳〈かざ〉るものであるから荘厳というたのである。
 二。究竟畢竟 大乗の証果たる大般涅槃のこと。大乗の証果はこの上ないおんづまりであるから究竟畢竟というたのである。
 三。世間畢竟 荘厳畢竟の異名。十地の菩薩以下因位の菩薩は未だ生死を離れぬから世間と名けたもの。
 四。出世畢竟 究竟畢竟の異名。仏のみは分段変易の二生死ともに離れ給うたから出世というたのである。
 五。六波羅蜜 上三四五頁をみよ。
 【文科】『涅槃経』の四文のうち第三の「獅々孔品」の文である。
 【講義】また『同経』獅子吼品に釈尊言く、善男子よ、仏法の至極した畢竟に二種ある。一には荘厳畢竟二には究竟畢竟という。これをまた他の言葉で云えば、初めを世間畢竟、次を出世間畢竟というても宜しい。第一の荘厳畢竟とは菩薩の六波羅蜜の修行をいう。
(1-704)
この六度の行が因となって、仏果の華を鮮〈あざやか〉に開かしめるから、その意味で荘厳というたのである。これが因位に於る仏法の畢竟である。如何なる教も畢竟はこれに結帰するから荘厳畢竟と名けたのである。これ即ち生死を離れぬ世間に於ける畢竟の行であるから世間畢竟と名けるのである。第二の究竟畢竟とは、一切衆生が得る所の一乗の妙果をいう。生死の世間を離れた畢竟〈おんづまり〉の証りであるから出世間畢竟という。この一乗の終極なる証果は仏性とも名ける。この意味に於いて我は一切衆生は悉くみな仏性を具えていると説くのである。即ち一切衆生はみな一乗の至極なる涅槃を有っている。けれどもそれが顕現せないのは、無明の煩悩に覆い隠されて見ることが出来ないからである。かく云えばとて、衆生の現在の心中に涅槃の妙果が隠れているというのでない。即ちこの仏性は弥陀の大涅槃をいうので、これは我々衆生のための大涅槃であるから、如来の仏性がそのまま我々の仏性となるのである。この意味に於いて一切衆生悉く仏性があるという。大資産家の子は親の資産がそのまま、ある約束の下〈もと〉に自分のものとなる。この意味に於いて、その子は大資産をもっているということが出来ると同じことである。
(1-705)

 又言云何為一一切衆生悉一乗故云何非一説三乗故云何非一非非一無数法故 已上

 【読方】また言く、いかんが一とする、一切衆生ことごとく一乗なるがゆえに。いかんが非一なる、三乗を説くがゆえに。いかんが非一非々一なる、無数の法なるがゆえなり。已上
 【文科】『涅槃経』の四文のうち、第四の獅子吼品の文である。
 【講義】また『同経』同品に云く、「一切衆生悉有仏性」ということを三方面から考えて見る。初に一切衆生は悉く一であると云われる。それはどうかと云えば、あらゆる衆生は悉く上に述べたように一乗真実の法を具えておるからである。次に「一でない」とも云える。それは三乗の教が説かれて、各々〈めいめい〉それ相応の教を修めているからである。終りに「一でもなければ、一でないでもない」とも云われる。その三乗教から無量の教えが分れるからである。
 これ即ち一乗真実の念仏の法門から、衆生の機に応じて、無量の法門が頒れたことを説くのである。一切衆生はその根底に於いて、一乗の法を具えているけれども、表面差別の側では、かように三種に区別されるというのである。かつまたかく区別されでも、遂には真の一乗法を自覚するに至ることを説いたのである。
(1-706)

第三科 『華厳経』の引文

 華厳経言文殊法常爾法王唯一法一切無碍人一道出生死一切諸仏身唯是一法身一心一智慧力無畏亦然 已上

 【読方】華厳経にいわく、文殊よ法はつねに爾なり。法王はただ一法なり。一切無碍人、一道より生死をいでたまえり。一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。一心一智慧なり。力無畏もまたしかなり。巳上
 【字解】一。『華厳経』上四四四頁をみよ。
 二。法 一切諸法のこと。今は他力本願の一法のことである。
 三。常爾 本来法爾として、不変なること。
 四。法王 無上法王、仏陀のこと。今は阿弥陀如来を指す。
 五。一法 真如法性のこと。仏陀は唯この真如法性を証りて成仏し給うこと。今は六学名号の一法を以て衆生を救い給うこと。
 六。一切無碍人 一切諸仏のこと。仏は煩悩即菩提、生死即涅槃と無碍に証り給うから無碍人と名け奉ったのである。
 七。一道 『華厳経』の意では法界観の観智を起し、真如法性を証る修行をすることであるけれども、今我祖の御思召では、念仏三昧を意味し給うのである。
(1-707)
 八。一心 諸仏の住し給う定心がみな同じく一様なるをいう。
 九。一智慧 智慧の同じきこと。
 一○。力無畏 力は十力(上三一一頁をみよ)。四無畏は四無所畏(一切智無所畏、漏尽無所畏、説障道無所畏、説尽苦道無所畏)のことである。仏陀のおさとりから顕われて来る外用〈はたらき〉である。
 【文科】証文として『華厳経』の文を引き給うのである。
 【講義】『華厳経』に言く、文殊菩薩よ、他力本願の一法は自然法爾の道理であるから、唯計〈ただはから〉いを離れて信じ奉るばかりである。三世諸仏の本師法王たる弥陀如来は、唯六字の名号一つを以て、衆生を救い給う。そして無碍自在を獲たる一切人〈あらゆるひと〉、即ち一切の諸仏は、みな弥陀如来の正覚の一道によりて生死〈まよい〉を離れて証覚〈さとり〉を開かれた。そして一切の諸仏の証る所の法身の理は一つである。即ち法身の真理は一つである。この真理を証れば仏となる。如何なる仏も唯この一真理を証らないものはない。その定心も一つ、その智慧も一つ、また証りの外用たる十力、四無所畏の徳も一つであって異ることはない。
 かように十方三世の諸仏は、一様に弥陀の本願一実の大道によりて、証りを開き、慈悲智慧円〈まどか〉に人生〈ひとびと〉を化益したまうことである 已上。
(1-708)

第四科 結文

 爾者斯等覚悟皆以安養浄刹之大利仏願難思之至徳也
 【読方】しかればこれらの覚悟はみなもて安養浄刹の大利、仏願難思の至徳なり。
 【文科】一乗を重ねて解釈して茲に結び止め給うのである。
 【講義】上に広く一乗の意義を解釈したが、これらの趣をよくよく知らせて戴くこと、すなわち、この真如一実の平等法身の証を得させて戴くは、全くこの世に於ける利益ではない。極楽浄土に生れて証る所の大利益である。これをまた手近く現在戴いている利益としては、吾等の心も言葉も及ばれぬ弥陀の誓願不思議の徳を一乗の利益というのである。

第二項 海
第一科 正説

 言海者従久遠已来転凡聖所修雑修雑善川水転逆謗闡提恒沙無明海水成本願大悲智慧真実恒沙万徳大宝海水喩之如
(1-709)
海也良知如経説言煩悩氷解成功徳水 已上
 願海者不宿二乗雑善中下屍骸何況宿人天虚仮邪偽善業雑毒雑心屍骸乎

 【読方】海というは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願、大悲、智慧、真実、恒沙万徳の大宝海水となる。これを海のごとしと喩うるなり。良にしりぬ、経にときて煩悩のこおりとけて、功徳の水となると言えるがごとし、已上
 願海とは二乗雑善の中下の屍骸をやどさず。いかにいわんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸をやどさんや。
 【字解】一。雑修雑善 あれを修しなりして、心の専にならない自力の善根。
 二。逆謗 上一六二頁をみよ。
 三。闡提 上一六二頁をみよ。
 四。恒沙無明 恒河の沙〈すな〉のかず程ある無明煩悩。
 五。二乗 声聞と縁覚。
 六。中下屍骸 三乗を上中下に分けて、菩薩を上とし、声聞と縁覚とを中下という。屍骸というは同じく声聞と縁覚を指したものであるが、菩薩の大心なき二乗は生気なき屍骸と等しいということから名けたもの
(1-710)
教である。
 【文科】一乗海を解釈し終ったから、今海を解釈し給うのである。
 【講義】「一乗海」と標した中、「一乗」の二字は上に述べたが、「海」という字は、どういう意味であるかと云えば、我等が弥陀の本願を信ずるということは、凡夫や聖者が、久遠劫よりこのかた、自力の計い心で修めた所の雑行雑修の善の諸流をひるがへし、または久遠劫来の五逆、謗法、闡提の類、恒沙の沙の数ほどもある無明の海水を転滅〈ほろぼ〉して、一様に大慈悲、大智慧の塊なる真実の弥陀の本願、限りなき功徳利益の広大なる宝海水となすということである。それを海に喩えたのである。滅する本願の徳は海のように広大である。滅せらるる無智の罪悪も海のように広大である。それ故に「海」という字を須〈もち〉いたのである。これ良〈まこと〉に源信和尚がその著『往生要集』中ノ本に経を引いて、煩悩の氷とけて、功徳の水となると仰せられた所である。即ち罪障そのままが本願名号の不思議によりて功徳の体となる。いかなる罪悪も業報もこの、如来の大慈悲を頂けば、毫〈すこし〉も障とならぬ。寧ろ積極的に氷多きに水多しの道理で、その障りが多ければ多い程功徳が多くなるのである。実に天上天下にたぐいなき法門と云わねばならぬ。已上
(1-711)
 このように如来の本願海は、縁覚(中乗)声聞(下乗)等の自力の計いを雑えた善を受け摂めることはない海には屍骸を宿さずしていつも汀〈なぎさ〉に打ち上げる特性があるように、如来の本願もまたこれら成仏の温い血汐の枯れはてた屍骸のような二乗の根性をうけつけない。聖者でさえ自力の計いがあれば、この本願に入ることが出来ないことであるから、況んや人間、天人等の虚仮〈いつわり〉、邪偽〈よこしま〉にして穢れた毒悪の雑っている自力根性の屍骸がどうして受摂〈うけおさ〉めらるることがあろうぞ。
 【余義】一。一乗海の海には定散自力の善も、逆謗無明の悪も止まらず、ことことく智慧功徳の潮〈うしお〉に転じて一味になることであると釈し給うのである。講義の外に別に解釈を要せないのであるが。少しく文字のくばり方などの上に覚召のある所を伺うてみよう。
 二。初の方の従久遠已来の五文字が意味不明である、この五文字「転」の字の上にあれば久遠より已来雑修雑善を転じつづけた義になり。「転」の字の下にあれば、久遠より已来の雑修雑善を転ずるということになる。処がこの逆悪無明を転ずるのは、聞信の一念にあることで、久遠已来転ずるということはない訳である。してみれば、この五字は所転の雑修雑善、逆謗無明につく語で転の字の下になければならぬ筈である。然るに今転の字の上
(1-712)
にあるのはいかなる訳であろうか。
 これについて古来二つの説がある。
 一は、ここに「転」の字が二字ある。その所転の物柄が、雑修雑善と、逆謗無明の二句に分れて居る。今、「従久遠已来」の五文字は、その二転字の下にあり、二句の上につくべきものであるから、それで、わざわざ転の字の上にこの五字を置いて、その両方へ通ずることを示したものであるという説である。
 今一つは、『和讃』に「久遠劫よりこの世まで、あわれみましますしるしには、仏智不思議につけしめて、善悪浄穢もなかりけり」とある意味で、久遠劫以来、哀々の慈悲を以て慈育し給うて、今日雑修雑善を転じ、逆謗無明を転ぜしめ給うということである、従久遠已来の下に慈育を賜わりてという意味の語を附け加えて見る説である。私には後の説が文に親しいように思われる。
 三。「転」の字には、転変と転滅の二義がある、今この二個の転の字にはいずれの義が正しいであろうか。
 これにも古来二義がある。
(1-713)
 一は、雑修雑善を転ずるというは、転変の義であって、逆謗無明を転ずるというは転滅の義であるというのである。然しこの説はよろしくない。
 他の一義は、両個の「転」の字に転変転滅の二義がある。善悪の相につけば転滅であり。体につけば転変の義であるというのである。この説がよい。少しくこの義を説明してみよう。
 弥陀の本願を聞信する一念に、雑行雑修自力のこころをふりすてるのであるから、この時、雑善の相は、転滅して仕舞う。然し、その雑行雑修の善の体が滅するのではない。正雑二行は、すがたは互に異なって居っても、体に別があるのではない。例えば、一の礼拝の如きでも、余仏に向えば雑行となり。弥陀に向えば正行となるのであって、別に体に変りがあるのではない。南無阿弥陀仏の称名でも、所修の行体に変りはないけれども、能修の心が、未信の人なれば、自力の回向となり。信獲得の人なれば、報謝の行業となるのである。また逆謗無明についてもその通りで、「三世の業障一時につみきえて」と仰せられるは、相の滅するをいうたので、体性が滅するものではない。故に、『唯信文意』(五丁)には
  行者のはじめてともかくも、はからわざるに過去今生未来の一切のつみを善にかえな
(1-714)
すをいうなり。転ずというはつみをけしうしなわずして善になすなり。よろづのつみ、大海に入りぬればすなわちうしおとなるがごとし。
と宣うたのである。「罪障功徳の体となる」といい、「煩悩菩提体無二」というのは皆この体の上から転滅するのでなく、転変するのであるという意を示して下されたものである。なお文について、少しく義をわけてみると逆謗闢提が転じて恒沙の高徳となり、恒沙の無明が転じて智悲真実となるのである。前者の逆謗闡提が恒沙の万徳となるのは罪福相対であって、『和讃』の
  名号不思議の海水は  逆謗の屍骸もとどまらず
  衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしおに一味なり
の意味である。後者の恒沙無明が智慧真実となるのは惑智相対で、『和讃』の
  尽十方の無碍光の   大悲大願の海水に
  煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしおに一味なり
の意味である。
 また文の中に、雑修雑善の川水を転じて、海水を成じ、逆謗闢提恒抄無明の海水を転じ
(1-715)
て海水を成ずとある。川水を転じて海水を成ずというは意味があるが、海水を転じて海水を成ずというは妙なことでないかという難がある。これは、所転のものがら即ち善悪を対照する上に河水と海水という対照の語を用いたので、善は少きが故に川水に喩え、悪は多きが故に海水に喩えたのであって大宝海に望めて海水というたのではない。大宝海に望むればいずれも同じく衆水となるのである。

第二科 『大無量寿経』の証文

 故大本言声聞或菩薩莫能究聖心譬如従生盲欲行開導入如来智慧海深広無涯底二乗非所測唯仏独明了 已上

 【讃方】かるがゆえに大本にのたまわく、声聞あるいは菩薩、よく聖心をきわむることなし。たとえば生れてより盲たるものの、ゆきて人を開導せんと欲わんがごとし。如来智慧海深広にして涯底なし、二乗の測るところにあらず、ただ仏のみ独あきらかにさとりたまえり。已上
 【字解】一。大本 『大無量寿経』二巻のこと。
 二。聖心 大聖の心、仏陀の心、仏智のこと。
(1-716)
 【文科】『大無量寿経』の文を引いて上の正説を証成し給うのである。
 【講義】故に『大経』には、「声聞も菩薩達も、まだ迷いの中にいるために、能く如来の聖心を究め尽すことが出来ない。譬えば生れながらの盲人が、他人を導こうとするようなものである。弥陀如来の智慧海は深くして底なく広くして涯〈はてし〉がない。声聞、縁覚等の測り知る所でない。唯み仏のみ独り明了〈あきらか〉に知〈しろ〉しめし給うのである」と仰せられた。

第三科 曇鸞大師の釈文

 浄土論曰何者荘厳不虚作住持功徳成就偈言観仏本願力遇無空過者能令速満足功徳大宝海故不虚作住持功徳成就者蓋是阿弥陀如来本願力也今当略示虚作之相不能住持用顕彼不虚作住持之義 乃至 所言不虚作住持者依本法蔵菩薩四十八願今日阿弥陀如来自在神力願以成力力以就願願不徒然力不虚設力願相符畢竟不差故曰成就

 【読方】浄土論にいわく、なにものか荘厳不虚作住持功徳成就、偈に仏の本願力を観〈みそな〉わすに、遇〈もうお〉うて
(1-717)
空しく過るものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむと言えるがゆえに、不虚作住持功徳成就は、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。いままさに略して、虚空の相にして住持に能わざるを示して、もてかの不虚作住持の義をあらわす 乃至。言うところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もて力を成す。力もて願につく。願徒然ならず。力虚設ならず。力願あいかのうて畢竟して差〈たが〉わず。かるがゆえに成就という。
 【字解】一、不虚作住持功徳 如来の不虚作力(むだごとにならない仏の力)を以てしっかり持ちこたえ捨う功徳。
 二。法蔵菩薩 阿弥陀如来の因位の名。梵名曇摩迦留菩提薩埵(Dharamakara Boddhisattva)の訳。王位を捨てて、沙門となり、世自在王仏の所に於いて、四十八願を建て給うた。
 【文科】曇鸞大師の釈文を引いて上の正説を証成し給うのであるが大師の釈文が二文になって居る。今は初めの不虚作住持功徳の文である。
 【講義】『浄土論』(実は『浄土論註』下巻の文)に曰く、不虚作住持功徳成就という荘厳はどういうものであるか。それは『浄土論』の偈文に「仏の本願力を見奉れば、遇うて空しく過ぐる者なし。能く速に功徳の大宝海を満足せしむるが故に」というてある。弥陀如来が不虚作住持の功徳を成就せられたということはこの意味に外ならぬ。即ち虚作ならず、金剛のような堅
(1-718)
さを以てしっかりと吾々を懐き取って下さる功徳というのは、阿弥陀如来の本願力のことである。今試〈こころみ〉にこれと反対なる凡夫のなす所の虚作にして、而も確固〈しっかり〉とした住持のないものを示して、如来の不虚作住持の意義を顕わすであろう。乃至
 今いう所の虚作ではなく確固〈しっかり〉と大地のように我々を住持〈もちこた〉えて下さることは、弥陀の因位に於ける法蔵菩薩の四十八の誓願と、今日証りを開かれた阿弥陀如来の無碍自在の威神力とに依るのである。我々を助けずはおかぬという因位に於ける誓願によりて、果上の大威神力が成就〈できあが〉り、果上の威神力によりてまた因位の誓願は円〈まどか〉に成就〈できあが〉ったと云わねばならぬ。故にその誓願も徒然〈いたずらごと〉でない。その威神力も虚設〈むだごと〉でない。果上の威神力と、因位の本願はかように、割符を合せたようにピタリと相応して、どこどこ迄も差〈たが〉うことはない。即ち本願の広大なるを知れば、果上の威神力の不可思議なるが偲ばれ、その威神力の広大なることによりて因位の本願の不可思議なることが知らるるのである。この御力は二つにして一つ、一つにしても而も二つ、両々相俟って大悲の御思召が仰がれる。因と果がかように欠目なく出来上った故に「成就」というのである。
 【余義】この文は勿論『浄土論註』の文であるが、聖人は『浄土論』に曰くとして引き給
(1-719)
うてある。このことは上四一一頁にも既にいうたのであるが、『浄土論註』は『浄土論』の正意を伝えて、『論註』を直〈すぐ〉に『論』というても差し支えない。否『論註』に依って初めて『論』の真価値が顕われ来ったのであるから、茲にその崇敬の意味を顕わして、わざわざ『浄土論』曰と宣うたものである。

 又曰海者言仏一切種智深広無涯不宿二乗雑善中下屍骸喩之如海是故言天人不動衆清浄智海生不動者言彼天人成就大乗根不可傾動也 已上

 【読方】またのたまわく、海とはいうこころは、仏の一切種智探広にして涯〈ほとり〉なし。二乗雑善の中下の屍骸をやどさず、これを海のごとしとたとう。このゆえに天人不動の衆、清浄の智海より生ずといえり。不動とは、いうこころは、かの天人大乗根を成就して傾動すべからざるなり。已上
 【文科】曇鸞大師の釈文のうち大衆功徳の一文を引き給うのである。
 【講義】また、同じく『論註』上の文に曰く、ここに「海」というたのは、阿弥陀如来の一切種〈すべてのもの〉を知しめす智慧は、海のように深く広くして涯〈はて〉がない。そして海が屍〈しかばね〉を宿さずして汀に打ち上げるように、この如来の本願も声聞(下乗)、縁覚(中乗)等の自力根性の死骸を
(1-720)
受け摂めず、従ってその大乗の善根界たる極楽浄土も、二乗の人々を摂め入れることはない。この訳合を海に喩えたのである。故に『浄土論』の偈文には、「極楽へ往生する人間天人の不動の人は、清浄の智海より生れると」仰せられた。「不動というのは、弥陀の浄土へ往生する人間も天人も、みな如来回向の大乗の性分を具えてあるから、如何なる天魔外道が来り侵しても、障碍することが出来ないということである。

第四科 善導大師の釈文

 光明師云我依菩薩蔵項教一乗海又云瓔珞経中説漸教万劫修功証不退観経弥陀経等説即是頓教菩提蔵 已上

 【読方】光明師ののたまわく、われ菩薩蔵、頓敬一乗海による。またいわく、瓔珞経のなかには漸教をとけり。万劫に功を修して不退を証す。観経弥陀経等の説は、すなわちこれ頓教菩提蔵なり。已上
 【字解】一。光明師 光明寺の大師の意味にて善導大師のことである。上四五六頁をみよ。
 二。菩薩蔵 二蔵の一にて、小乗の聖果を証る声聞蔵に対し、大乗の菩薩の因行を修めて仏果を証る法を教ゆる教をいう。
 三。頓教 二教の一にて、歴劫修行の階級を経ずに、一足飛に証果を得る教をいうのである。
(1-721)
 四。『瓔珞経』 『菩薩瓔珞本業経』二巻。姚秦の世涼沙門竺仏念の訳である。集衆品、賢聖名字品、賢聖学観品 釈義品 仏母品、因果品、大衆受品、集散品の八品から成って居る。縮蔵、列一に収めてある。
 五。漸教 二教の一にて、三僧祗百大劫の長〈なが〉の時間を経て、修行の階級を経のぼり、漸次に証果に入る教法のこと。
 六。菩提蔵 現行品には菩薩蔵とある。菩薩蔵は前に出づ。菩提蔵という時は、無上菩提に入らしむる教法ということになる。今一乗海の文を引き給うたのである。
 【文科】善導大師の釈文を引いて上の正説を証成し給うのである。大師の文が二文に分れて居る。即ち、「玄義分」の一乗海の文と『般舟讃』の菩提蔵の文である。
 【講義】善導大師は「玄義分」の初めに、私は声聞縁覚の低い二乗の教には依らず、大乗菩薩の修める教えに依り順うておる。また頓漸二教の中、迂回〈まわりくど〉い漸教を擱〈さしお〉いて、速〈すみやか〉に証りを開く頓教に依りている。即ち証りに至る唯一の乗物たる本願一乗海に帰依している。また『般舟讃』に云く、『本業瓔珞経』の中には、菩薩が五十二位の階級を了〈お〉えて、無量阿僧祗劫という長い間の修行の功〈てがら〉を積んで初住の不退の位を証ることを説いてある。これが即ち漸教である。然るに『大無量寿経』は申すに及ばず、『観無量寿経』、『阿弥陀経』に説かれた他力
(1-722)
念仏の法門は聞信の一念に不退の位に入るという教wであるから、実にあらゆる教の中で、尤も勝〈すぐ〉れた頓教である。そして誓願一仏乗である。已上

第五科 宗暁律師の釈文

 楽邦文類云宗暁禅師云還丹一粒変成金真理一言転悪業成善業 已上

 【読方】楽邦文類にいわく、宗暁禅師のいわく、還丹の一粒は、鉄を変じて金となす。眞理の一言は、悪業を転じて善業となす。已上
 【字解】一。『楽邦文類』 上五五九頁をみよ。
 二。宗暁禅師 『教行信証』の刊本には宗釈となって居るが、釈は暁の誤である。宗暁禅師は『楽邦文類』の編者である。禅師は唐の世の人。天台宗を奉じ。四明石芝の沙門というて居られる 深く浄土教に帰し、念仏三昧を修せられた。
 三。還丹 本文には睘丹となって居る。神仙の作る薬の名である。鉄を変じて金となす作用を持って居る。
 【文科】宗暁禅師の釈文を引いて上の正説を証成し給うのである。
(1-723)
 【講義】『楽邦文類』の第四巻に宗暁禅師の曰く、還丹という薬は、たった一粒でも鉄に塗り付けると、鉄は変じて金となるという。これと同じく真理をこめた一声の称名は、久遠劫来の吾等の悪業煩悩を変じて限りなき功徳の善業とするのである。
 【余義】一。この宗暁禅師の釈文は、先に海を釈して、久遠劫来の雑修雑善、川水を転ずるといいしことを証成するのである。

第三項 一乗の機教
第一科 約教対顕

 然就教念仏諸善比校対論有難易対頓漸対横竪対超渉対順逆対大小対多少対勝劣対親疎対辺遠対深浅対強弱対重軽対広狭対純雑対径迂対捷遅対通別対不退退対直弁因明対名号定散対理尽非理尽対勧無勧対無間間対断不断対相続不続対無上有上対上上下下対思不思議対因行果徳対自説他説対回不回向対護不護対証不証対讃不讃対付属不付属
(1-724)
対了不了教対機堪不堪対選不選対真仮対仏滅不滅対法滅不滅対利不利対自力他力対有願無願対摂不摂対入定聚不入対報化対斯義如斯

 【読方】しかるに教について、念仏、諸善、比校対論するに、難易対、頓漸対、横堅対、超渉対、順逆対、大小対、多小対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対 純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上々下々対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不付属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅不滅対、利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。この義かくのごとし。
 【文科】これから下、他力教の機教と、自力諸行の機教と比較して、一乗の一乗たる所を顕わし給うのである。今は先ず初めに念仏と諸行を対顕して四十八対を出し給うのである。この念仏諸行の対顕が相対と絶対に分れ、初めに相対の比較を出し給うのである。
 【講義】以上この他力教が一乗法であることを説いたが、これから機数の対顕をしてみよう。処〈ところ〉で、「教」の側に就いて念仏とその他の善根とを比較〈くらべ〉あわせて、対論〈あげつら〉うに左に四十
(1-725)
八対を得た。
 一、難易対――自力の諸善は修め難く、他力念仏は修め易い。
 二、頓漸対――念仏は頓に証りを開かしめる頓教であるが、諸善は長い間を経て、漸々に証りに向わしめる漸教である。
 三、横竪対――念仏は横〈よこさま〉に生死を超える教、諸善は堅に長い時間を要する教えである。
 四、超渉対――念仏は一足飛びに生死をはね超える教、諸善は川を渉るように手数がかがる教。
 五、順逆対――念仏は弥陀の本願に順う教、諸善に本願に逆いている数。
 六、大小対――念仏は大善根、諸善は小善根。
 七、多少対――念仏は多善根、諸善は少善根。
 八、勝劣対――念仏は勝れた善根、諸善は劣った善根。
 九、親疎対――念仏は仏の本意であるから、これを称うれば如来吾等に親しく、諸善は仏の本意でないから、これを修めても、如来は吾々とシックリし給わぬ。
 十、近遠対――念仏は仏の本意であるから、これを称うれば、如来我々を近くみそなわし給い、
(1-726)
諸善は仏の本意でないから、これを修めても、如来吾々を遠り給う。
 十一、深浅対――念仏は吾々に因縁深く、諸善は吾々に因縁が薄い。それ故に、念仏は未来永劫この世に行われ、諸善の教はやがては滅ぶ。
 十二、強弱対――念仏は如来の大願強力であるから力強く、諸善は凡夫自力の修めるものであるから力弱い。
 十三、重軽対――念仏は弥陀の本願に誓われたものであるから重く、諸善は自力の行であるから軽い。
 十四、広狭対――念仏は正像末の三時に亘りて行われるから広く、諸行は実際上正像の二時だけにしか行われないものであるから狭い。
 十五、純雑対――念仏は純一〈まじりのない〉往生の業である。然るに諸善は種々雑多で、純一でない、清浄でない。
 十六、径迂対――念仏は真仏土へ至る直径〈ちかみち〉であり、諸善は迂回〈まわり〉の道である。
 十七、捷遅対――念仏は捷〈はや〉く証を開く道、諸善は遅く証りに至る道。
 十八、通別対――諸善は悪を廃〈や〉めて善を修めるという極めて普通な教、念仏は特別に勝れた
(1-727)
弥陀の本願である。
 十九、不退退対――念仏は信の一念に弥陀に摂取せらるるから、決して退くことのない行であるが、諸善はか弱い自力で修める行であるから、稍もすれば道を退く。
 二十、直弁因明対――念仏は釈尊によりて直〈すぐ〉づけに浄土の往生の業であることを弁明〈あか〉されたが、諸善はほんの因〈ちな〉みは、附けたりとして明されたものである。
 二十一、名号定散対――念仏は弥陀回向の名号、諸善は自力の定善散善の行であるから劣っている。
 二十二、理尽非理尽対――念仏は弥陀如来が因位に於いて道理という道理を尽して成就せられたもの、然るに諸善は一部の道理をもっているだけで、真に理を尽してはおらぬ。
 二十三、勧無勧対――念仏は釈尊を初めとして十方諸仏が一様 吾々に御勧め下された教であるが、諸善はこの御勧めがない。
 二十四、無間間対――念仏の行者は他力の御計いに催されて自〈おのず〉と常に如来を憶念〈おも〉いたてまつる故に間断がない。然るに諸善を修める人は、自分の励みで如来を憶念〈おも〉い奉ることであるから、それに間断〈たえま〉がある。
(1-728)
 二十五、断不断対――諸善は貪〈むさぼり〉、瞋〈いかり〉、邪見〈よこしまのかんがえ〉等のために、妨げ断れるが、念仏はいかに三毒の煩悩が群り起っても、妨げ断れることはない。
 二十六、相続不相続対――念仏の人は他力によりて相続するが、諸善の人は自力の励みであるから時々念〈おも〉いがかわりて相続〈つづか〉ない。
 二十七、無上有上対――念仏は無上大利の功徳、諸善は小利有上の功徳である。
 二十八、上々下々対――念仏は上々の勝れた法門。諸善は下々の劣った法門。
 二十九、思不思議対――諸善は悪を廃〈や〉めて善を修め、それによりて善趣に生れるという教えであるから可思議法門〈かんがえうるおしえ〉であるが、念仏に愚悪の凡夫が直〈ただち〉に生死を離れる教えであるから、実に不可思議の法門である。
 三十、因行果徳対――諸善は証りに至る因位の行であり。念仏は弥陀如来が因位の行を積みて成就〈できあが〉った果上の徳である。
 三十一、自説他説対――念仏は弥陀如来自ら我名を称える者を助くると御説きになった教であるが、諸善は釈迦如来が念仏に入るまでの方便として説かれた教えであるから、弥陀如来の自説でない。
(1-729)
 三十二、回向不回向対――念仏はあらゆる功徳を具えた弥陀の回向〈たまもの〉であるから、我々から云えば不回向の行である、即ちこれを以って如来に回向〈さしあげ〉ることは要らぬ、然るに諸善は修むる毎に如来に回向〈さしあ〉げねばならぬ。
 三十三、護不護対――念仏は十方の諸仏が護念〈まもり〉り給う法門、諸善は護念を受けることの出来ぬ法門。
 三十四、証不証対――念仏は十方の諸仏が間違いないと証拠立てて下されるが、諸善は証拠立てて下されぬ。
 三十五、讃不讃対――念仏は諸仏に讃嘆せらるるが、諸善には諸仏の讃嘆がない。
 三十六、付属不付属対――念仏は、釈尊これを阿難に付属せられて、末代に伝えよと仰せられたが、定散の諸善は付属せられなかった。
 三十七、了不了教対――念仏は徹底〈すきとおっ〉た明了〈あきらか〉な教えであるが、諸善はこれに対して道理の底を叩いておらぬ不了義の教えである。
 三十八、機堪不堪対――念仏に機根の哀えている末世の吾々に相応しているが、諸善は我々のような機類の修めるに堪えぬ教えである。
(1-730)
 三十九、選不選対――念仏は弥陀の選びに選び取った教、諸善は選び取られなかった教である。
 四十、真仮対――念仏は絶対真実の教、諸善はこの真実に入る方便、仮りの教えである。
 四十一、仏滅不滅対――諸行を修める人は浄土へ往生しても、弥陀の入滅を見奉る。念仏の行者は常に弥陀の現在し給うを拝す。
 四十二、法滅不滅対――諸善は経道滅尽の時には滅びて仕舞うが、念仏はこの時節に於いても滅亡〈ほろ〉びず益〈ますます〉栄えてゆく不滅の教えである。
 四十三、利不利対――念仏は真実に我々を利益する教であるが、諸善はこれに対して、実際上我々を利益せざる教えである。
 四十四、自力他力対――諸行はか弱い自力の行、念仏は手強い他力の行である。
 四十五、有願無願対――念仏は弥陀の本願の行、諸行は弥陀の本願の行でない。
 四十六、摂不摂封――念仏の人は如来の心光に摂取せられるが、諸行の人は摂取に預ることは出来ぬ。
 四十七、入定聚不入対――念仏の人は現世に正定聚不退の位に入る、諸行の人は定聚の数に入
(1-731)
ることが出来ぬ。
 四十八、報化対――念仏の人は真実報土に生れ、諸行の人は化土に生れる。
 教に就いて念仏と諸行と相対して比較〈くらぶ〉れば、上の如くの相違がある。
 【余義】一。これから文科に示した如く念仏と諸善とを比べて四十八対を立て、またその対機を比べて十一対を立て、優劣を示して一乗教の一乗教たることを顕わし給うのである。これと同じい体裁の比較が『愚禿鈔』上にも出て居る。これとかれとを比べてみると、左のやうな異点がある。
 第一に、『愚禿鈔』に於いても、『本典』に於いても、かくの如く比較をして相対の判釈をしてあるが、『愚禿鈔』に於いては、初めに、本願一乗円融円満絶不二之教と、絶対の判釈をして、その後に、相対に下って、比較判釈してある。『本典は初めに比較をして相対の判釈を下し、その後に、按本願一乗海円融円満足絶対不二之教と絶対の判釈をしてある。この相違は大した意味のあることでなく、ただ両書の明し方の上から来たのである。
 第二に、『愚禿鈔』に於いては、弘願と要門とを対待してあり、『本典』は念仏と諸行とを相待してある。『愚禿鈔』は教相判釈をする場所であるから、弘願教と要門教との相待をし、
(1-732)
今は「行巻」で、念仏の大行の勝れたることを示すのが主眼になって居るから、念仏諸行と相対してあるのである。
 第三に就教対論に、『本典』では四十八封、『愚禿鈔』では四十二対、就機対諭に、『本典』では十一対、『愚禿鈔』では十八対ある。『本典』は教を説き明かすに委〈くわ〉しく、機を弁ずるに簡である。これは何故かというと、『愚禿鈔』は、二教対二機対を対等にしたのである、『本典』は行巻であって行を説き明すのが主眼になって居るから、二教対に委しく、二機対を簡略になされたのである。一体、これは「行巻」であるから、茲に就機対論をなすべきでなく、機の対論は「信の巻」「化の巻」になすべきであるけれども、機法行信の不離なることを示さんがために、教につれて、出したのである。それであるから、機の対論は十一対に略されたのである。
 二。扨てこれらの対論の語は概〈おおむね〉ね、『選択集』や『漢和灯録』に依ったもので中に『往生要集』などに依ったものである。而してこの対論の布列に一定の次第があるかというと、『本典』と『愚禿鈔』では、出没前後して居って、一見全く順序がないようであるが、またその中自〈おのずか〉ら順序をして、居るのである。『本典』『愚禿鈔』ともに教対には、難易対を初めとし、報化対
(1-733)
を終りにして居る。念仏は修し易く、諸行は修し難く、その修し易き念仏の結果は報土に生れ、修し難き諸行の結果は化土に生るるのであるということが示されてある。また機対に於いては、両書共に信疑対を初めとし、明闇対を以て終って居る、これは、機の得失は信疑より起り、信は明信仏智であり、疑は不了仏智である。信疑の差別は、明闇の差別であると知らしめ給うのである。中間の対論は、一々判然とした順序があるのではない。古来これを順序つけて居る人もあるが、却って煩鎖に落ち入って居る嫌〈きらい〉がある。
 三。『愚禿鈔』の教対と『本典』の教対を合せてみると五十対になる。また『愚禿鈔』の機対と『本典』の機対を合せると十九対となる。彼此助成して居るのである。左に合せてみよう。

  『本典』   『愚禿鈔』
 一、難易対―― 一、難易対
 二、頓漸対―― 三、頓漸対
 三、横竪対―― 二、横竪対
 四、超渉対―― 四、超渉対
 五、順逆対―― 六、順逆対
(1-734)
 六、大小対――十一、大小対
 七、多少対――十二、多少対
 八、勝劣対――九、勝劣対
 九、親疎対――十、親疎対
 十、近遠対――十八、近遠対
 十一、深浅対
 十二、強弱対
 十三、重軽対――十三、重軽対
 十四、広狭対――十七、広狭対
 一五、純雑対――七、純雑対
 十六、径迂対――十五、径迂対
 十七、捷遅対――十六、捷遅対
 十八、通別対――十四、通別対
 十九、不退退対――三十四、退不退対
(1-735)
 二十、直弁因明対――三十、因明直弁対
 二十一、名号定散対
 二十二、理尽非理尽対――三十一、押尽非理尽対
 二十三、勧無勧対
 二十四、無間間対――三十一、無間有間対
 二十五、断不断対――三十五、断不断対
 二十六、相続不続対――三十三、相続不相続対
 二十七、無上有上対――二十一、無上有上対
 二十八、上上下下対
 二十九、思不思議対――四十一、思不思議対
 三十、因行果徳対――三十六、因行果徳対
 三十一、自説他説対――三十二、自説他説対
 三十二、回不回向対――二十二、不回回向対
 三十三、護不護対――二十九、護不護対
(1-736)
 三十四、証不証対――二十八、証不証対
 三十五 讃不讃対――二十七、不讃讃対
 三十六、付属不付属対
 三十七、了不了教対――十九、了不了教対
 三十八、機堪不堪対
 三十九、選不選対――二十六、選不選対
 四十、真仮対――五、真仮対
 四十一、仏滅不滅対
 四十二、怯滅不滅対――三十七、法滅不滅対
 四十三、利不利対――二十、大利小利対
 四十四、自力他力対――三十八、自力他力対
 四十五、有願無願対――三十四、有願無願対
 四十六、摂不摂対――三十九、摂取不摂対
 四十七、入定聚不入対――四十、入定聚不入対
(1-737)
 四十八、報化対――四十二、報化二土対
          八、邪正対
          二十五、有誓無誓対
 都合五十対

  『本 典』    『愚禿鈔』
 一、信疑対   一、信疑対
 二、善悪対   三、善悪対
 三、正邪対   四、正邪対
 四、是非封   五、是非封
 五、実虚対   六、実虚対
 六、真偽対   七、真偽対
 七、浄穢封   八、浄穢対
 八、利鈍対   十一、利鈍対
 九、奢足対   十二、奢足対
(1-738)
 十、豪賤対
 三、明闇対   十八、明闇対
         二、賢愚対
         九、好醜対
         十、妙麁対
         十三、希常対
         十四。強弱対
         十五、上上下下対
         十六、勝劣対
         十七、真入回心対
 都合十九対

 然按本願一乗海円融満足極速無碍絶対不二之教也

 【読方】しかるに本願一乗海を按ずるに、円融、満足、極速、無碍、絶対不二の教なり
 【文科】先きに相対的に念仏と諸行とを比較対顕し終ったから ただ今は念仏法の絶対的価値を顕わさ
(1-739)
れるのである。
 【講義】以上は一応念仏の法門と、諸善万行の教えと比校〈くら〉べたのであるが、実の処この唯一無二の一乗教たる本願念仏の法門を、よくよく考え見るに、誠に欠目なく万〈よろず〉の善を湛〈たた〉えて円〈まどか〉に満ち足〈そな〉わり、如何なる宗教も道徳も、みなこの教の一部分となって収められぬことはない。そして煩悩悪業に障えられず、速に疾く証りに至らしむる唯一絶対不二の教である。恰も高山が多くの蕃山を脚下に踏〈ふま〉えて、遥〈はるか〉に九天の蒼空〈あおぞら〉に聳〈そび〉えるように、この念仏の一法は、あらゆる教えを懐きながら、絶対独真の風光を擅〈ほしいまま〉にしているのである。

第二科 約機対顕

 亦就機対論有信疑対善悪対正邪対是非対実虚対真偽対浄穢対利鈍対奢促対豪賤対明闇対斯義如斯

 【読方】また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対 浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賤対、明闇対あり。この義かくの如し。
 【文科】教の対顕が終ったから、今度はその教をうける機について対顕し給うのてある。それがまた教の場合と
(740)
同じく相対と絶対とに分れて、今は相対的に比較し給う一段である。
 【講義】更にまた上の教を受ける「機」について諸善と念仏とを対論〈くらべ〉て見るに、
 一、信疑対――念仏の人は仏智不思議を信ずるが、諸行の人はこの不思議の仏智を疑うている。
 二、善悪対――念仏の人は弥陀の親心を信じているから善であるが、諸行の人はこのやるせない如来の大悲心に逆〈たご〉うているから悪である。
 三、正邪対――自力の邪なるを知りて他力念仏を信ずる人は正である。然るに正しい他力念仏を信ぜず、自力の諸行を修める人は「邪」である。
 四、是非対――仏意に叶う念仏の人は「是」の人である。仏意に叶わざる諸行を修める人は「非」の人である。
 五、実虚対――他力念仏の人は「実〈まこと〉」の人、自力諸善の人は「虚〈そらごと〉」の人である。
 六、真偽対――念仏の人は「真〈まこと〉」であり、諸善の人は「偽〈いつわり〉」である。
 七、浄穢対――他力念仏の人は、弥陀の清浄心を頂いているから「浄」である。これに対して自力諸善の人は常に貪愛の煩悩に汚されているから「穢」である。
(741)
 八、利鈍対――他力念仏の行者は一念の立〈たちどころ〉に仏智を信ずる故に利根の人である。自力諸善の人は仏智の不思議を疑い、ぐずぐずしているから鈍根の人である。
 九、奢足対――奢は賖に通ず、遅きこと。促は速。他力念仏の人は速〈すみやか〉に証りを開く、自力諸善の人は証りを開くことが遅い。
 十、豪賤対――他力念仏の人はあらゆる功徳の富をもちて、等覚の位を獲ている故に豪貴〈とうと〉い人である。自力諸行の人は積む宝も煩悩の賊に盗まれ、いつも凡夫の賤しい位に居らねばならぬ。
 十一、明闇対――他力念仏の人は、常に仏の智慧光に照されているから、心はいつも明いが、自力諸善の人は自ら仏の御光を障えているから、心はいつも暗い。
 機に就いて念仏と諸善と比校べて見れば、上の如くである。


 然按一乗海之機金剛信心絶対不二之機也可知

 【読方】しかるに一乗海の機を按ずるに、金剛信心絶対不二の機なり。しるぺし。
 【文科】本願他力を信ずる機の絶対的価値を顕わし給うのである。
(1-742)
 【講義】上には唯一応比較〈くら〉べただけであるが、実の処、唯一にして二とない本願一乗の御目的たる「機」をよくよく考えて見るに、この絶対不二の法を信じた金剛の信心は、亦絶対不二の機に外ならぬ。ちょうどかの壮美なる山岳を映す湖は、その儘また他に比べることの出来ぬ風光を独占しているようなものである。

第三節 譬喩讃嘆

 【大意】これから下に、これまで説き明して来た悲願の一乗海を讃嘆し給うのであるが、讃仰の語絶えて、譬喩を出して讃説し給うのである この一節は、
 第一項 総嘆
 第二項 出喩
 第三項 結文
と分れて摂る。

第一項 総嘆

 敬曰一切往生人等弘誓一乗海者成就無碍無辺最勝深妙不
(1-743)
可説不可称不可思議至徳何以故誓願不可思議故

 【読方】敬もうて一切往生人等にもうさく、弘誓一乗海は、無碍、無辺、最勝、深妙、不可説、不可称、不可思議の至徳を成就したまえり。なにをもてのゆえに、誓願不可思議なるがゆえに。
 【文科】譬喩讃嘆の中、初めに総じて嘆釈し給うのである。
 【講義】あらゆる浄土往生を願う人々に敬んで白〈もう〉します。この弥陀如来の一乗真実の本願は、大海が限りなき海水を堪〈たた〉えているように、量〈はか〉りなく、辺〈ほと〉りなく、最勝〈もっともすぐれた〉深妙〈おくぶか〉い徳、口や筆を以て説くことも出来ず、心で思い称〈はか〉ることも、思議〈かんがえ〉ることも出来ない程の至徳を成就してある。なぜかと申せば、如来の誓願が不可思議にてましますからである。

第二項 出喩

 悲願喩如大虚空諸妙功徳広大無辺故猶如大車普能運載諸凡聖故猶如妙蓮華不染一切世間法故知善見薬王能破一切煩悩病故猶如利剣能断一切驕慢鎧故如勇将幢能伏一切諸魔軍故猶如利鋸能截一切無明樹故猶如利斧能伐一切諸苦枝
(1-744)
故知善知識解一切生死縛故猶如導師善令知凡夫出要道故猶如涌泉出智慧水無窮尽故猶如蓮華不染一切諸罪垢故猶如疾風能散一切諸障霧故猶加好蜜円満一切功徳味故猶如正道令諸群生入智城故猶如磁石吸本願因故如閻浮檀金映奪一切有為善故猶如伏蔵能摂一切諸仏法故猶如大地三世十方一切如来出生故如日輪光破一切凡愚癡闇出生信楽故猶如君王勝出一切上乗人故猶如厳父訓導一切諸凡聖故猶如悲母長生一切凡聖報土真実因故猶如乳母養育守護一切善悪往生人故猶如大地能持一切往生故猶如大水能滌一切煩悩垢故猶如大火能焼一切諸見薪故猶如大風普行世間無所碍故

 【読方】悲願はたとえば大虚空のごとし。もろもろの妙功徳広大無辺なるがゆえに。なおし大車のごとし、あまねくよくもろもろの凡聖を運載するがゆえに。なおし妙蓮華のごとし、一切世間の法に染せられざるがゆえに。善見薬玉のごとし、よく一切煩悩のやまいを破するがゆえに。なおし利剣のごとし、よく一切驕慢の鎧を
(1-745)
断すろがゆえに。勇将幢のごとし、よく一切のもろくの魔軍を伏するがゆえにしなおし利鋸のごとし、よく一切無明の樹をきるがゆえに。なおし利斧のごとし、よく一切諸苦の枝をきるがゆえに。善知識のごとし、一切生死の縛をとくがゆえに。なおし導師のごとし、よく凡夫出要の道を知しむるがゆえに。なおし涌泉のごとし、智慧水をいだして窮尽することなきがゆえに。なおし蓮華のごとし、一切のもろもろの罪垢に染せられざるがゆえに。なおし疾風のごとし、よく一切のもろもろの障露を散ずるがゆえに。なおし好蜜のごとし、一切功徳の味〈あじわい〉を円満せるがゆえに。なおし 正道のごとし、もろもろの群生をして智城にいらしむるがゆえに。なおし磁石のごとし、本願の因を吸うがゆえに。閻浮檀金のごとし、一切有為の善を映奪するがゆえに。なおし伏蔵のごとし。よく一切のもろもろの仏法を摂するがゆえに。なおし大地のごとし、三世十方の一切の如来出生するがゆえに。日輪の光のごとし、一切凡愚の癡闇を破して、信楽を出生するがゆえに。なおし君王のごとし、一切上乗人に勝出せるがゆえに。なおし厳父のごとし、一切のもろもろの凡聖を訓導するがゆえに。なおし慈母のごとし、一切凡聖の報土真実の因を長生するがゆえにし。なおし乳母のごとし、一切善悪の往生人を養育し守護したまうがゆえに。なおし大地のごとし、よく一切の往生を持つがゆえに、なおし大水のごとし、よく一切煩悩の垢を滌〈すす〉ぐがゆえに。なおし大火のごとし、よく一切諸見の薪をやくがゆえに。なおし大風のどとし、あまねく世間に行ぜしめて所碍なきがゆえに。
 【字解】一。善見薬王 雪山にありという薬樹のことである。最も勝れて居る薬であるから王という。善見という名であって、目でみれば目清浄〈きよら〉となり、耳にきけば耳清浄になると伝えて居る。またこの樹を以て人を照
(1-746)
せば、頭中、腹中、悉く徹視することが出来るというて居る。
 二。出要道 迷の世界を出離する要道〈かなめみち〉。
 二。本願の因 因位の本願力のこと。
 四。閻浮檀金 閻浮檀は梵音ヂヤンブーナタ(Janbu-nada)、ヂヤンブーは樹の名、ナダは江と訳する。閻は樹の下を流るる河の中に生ずる沙金を閻浮檀金というのである。
 五。伏蔵 上三一二頁をみよ。
 六。上乗人 上乗は大乗のことである。今は諸大乗教を摂して上乗人というたのである。
 【文科】正しく譬喩を出して悲願一乗海を讃嘆し給うのである。
 【講義】いま弥陀大悲の本願を喩へて申せば、大虚空のようである。即ちあらゆる妙なる功徳が広大にして辺際がないから。また大〈おおき〉な車のようである、普く諸の凡夫も聖者も載せて運ぶから。また妙なる蓮華のようである、一切の世間の法に染〈けが〉されることがないから。また薬中の王ともいうべき善見薬のようである、この薬が一切の病を立〈たちどころ〉に癒す如く、この本願もよく一切煩悩の病毒を破るから。また利剣のようである、能くあらゆる驕慢の鎧を断ち切るから。また帝釈天の憧たる勇将憧のようである、一切の魔軍を征伏するから。または鋸のようである、能く根強い一切無明の樹をひき載るから。また利斧のようである、能く
(1-747)
一切の諸の苦〈くるしみ〉の枝を伐り落すから。また善知識のようである、一切生死の緊縛〈しばり〉を解釈いて、涅槃に行かしめるから。また導師のようである、よく岐路〈わかれみち〉に迷うている吾等凡夫を導いて、生死を離れる要道を知らしめるから。また湧き上る泉のようである、我々の胸の中に常に智慧の水を迸〈ほとばし〉らせて窮尽〈きわま〉ることがないから。また蓮華のようである、一切の罪悪の汚〈けが〉れに染むことがないから。また疾風のようである、能く一切の迷障〈さまたげ〉の雲霧を吹き払うから。また好蜜のようである、一切功徳の味〈あじわい〉を欠くる所なく満してあるから、また正道のようである、諸の群生をして信心の智城に導き入らしむるから。また磁石のようである、よく因位の本願を果上の利益の上に吸い寄せてあるから。また閻浮檀金のようである、この金が他の金属の光を蔽い隠して独り燦然と光を放っているように、この本願も有為の一切善根の光を奪い映〈かがや〉くから。また伏蔵のようである、一切諸の仏法を摂めておくから。また大地のようである、三世十方の一切の諸仏は、皆この本願より生れ給うから。太陽の光のようである、一切の吾等凡夫の愚痴の闇を照破〈てらしやぶ〉って信楽を生ぜしむるから。また君王のようである、万乗の至尊が国中の何人にも勝れているように、この本願の一乗はあらゆる大乗の教えに勝〈まさ〉っているから。また厳父のようである、あらゆる凡夫聖者を一子のように訓〈おし〉え導くから。また慈母の
(1-748)
ようである、あらゆる凡夫聖者等の人々の報土へ生れる真実の因たる信心を生み育てるから。また乳母のようである、あらゆる善悪の往生極楽の人々を教育〈そだ〉て守護〈まも〉るから。また大地のようである、能く一切の往生極楽の人々を持〈たも〉ち支えて往生せしむるから。また大水のようである、能くあらゆる煩悩の垢を滌ぐから。また大火のようである、能くあらゆる邪見の薪を焼くから。また大風のようである、能く国々をいたる処.吹き亘って碍える所がないように、この本願も一切世間に行われても障えられることはないからである。
 【余義】一。茲に悲願の一乗海を讃嘆する二十八喩を出し給うてある。この多くの喩〈たとえ〉を挙げて、本願一乗の勝徳を嘆じ給うのである。
 この二十八喩はもと『旧華厳経』五十九(十二丁)以下に出で、弥勒菩薩が、善財童子の菩提心の功徳の広大なるを嘆じ給うので、そこには二百十八喩あるがその中のものである。『新華厳経』は七十八(五丁)に出で、二百二十一喩ある中のものである。我が聖人はいつもの如く随宜転用して、この譬喩を以て大行の勝〈すぐ〉れた徳を嘆称し給うのである。
 この二十八喩の布列は、『華厳経』に出でて居る次第に依ったものではなく、前後錯綜し、文字もこれを加除して、転換自在に用い自由に勝徳を嘆じ給うたので、特別に定った次第
(1-749)
布列があるのではない。先輩の中には、非常に苦心をして、布列次第を考え出して居る人もあるが、要するに徒労〈むだごと〉である。かくの如き譬喩讃嘆は、讃嘆それ自身が極まったから、止むなく譬喩を以て讃説するので、始めから実は言語に絶して居るのである。それで、順序を立て、次第を待って讃嘆するのではない。意到り筆これに従うので、行き当りばったりである。而してこの不次第のところ、不順序のところが、最も、強き讃仰の意の顕われて居るところである。

第三項 結文

 能出三有緊縛城能閉二十五有門能得真実報土能弁邪正道路能竭愚癡海能流入願海乗一切智船浮諸群生海円満福智蔵開顕方便蔵良可奉持特可項戴也

 【読方】よく三有繋縛の城を出でて、よく二十五有の門をとづ。よく真実報土をえしめ、よく邪正の道路を弁ず。愚痴海をつくして、よく願海に流入せしむ。一切智船に乗ぜしめて、もろもろの群生海にうかぶ。福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ。まことに奉持すべし。ことに項戴すべきなり。
 【字解】一。三有 欲界、色界、無色界の三界のこと。有は因果の厳然として存在して居る義である。三界
(1-750)
因果厳然として善悪の果あり、存在して居るから有と名けるのである。
 二。二十五有 四洲(四有)、四悪趣(四有)、六欲天(六有)、梵天(一有)、無想天(一有)、五那含天(一有)、四禅天(四有)、四空処天(四有)、の称。迷妄の世界の総称。
 三。福智蔵 上五五二頁をみよ。福智二荘厳を含蔵する教をいう。茲では『大経』の教を指していう。
 四。方便蔵 真実の福智蔵に達する方便の教ということで、『観経』『阿弥陀経』の教を指していうのである。
 【文科】上の譬喩讃嘆を結び止め給う一段である。
 【講義】この如来の大悲願は、三界の繋縛の城から吾等を救い出し、能く二十五有の迷いの門戸を閉じて、再びその迷城に入らしめないようにして下さる。そして能く真実の報土に往生することを得せしめ、能く邪〈よこしま〉の外道の路〈みち〉と、正しい仏教の道の弁別〈わきまえ〉をつけさせ、能く愚痴の海を枯し竭〈つく〉し疑いを除いて、大悲の誓願海に流れ入れしめ給う。かくの如く吾等の迷を翻して証りに至ることも、疑いを離れて本願に帰することも、みな弥陀他力の然らしむる所であります。
 更に真実報土に往生すれば、如来は吾等をして一切の智慧の船に乗ぜしめて、この迷の衆生の浮沈みしている生死の海に浮び、思いのまま利他の行をなさしめ給う。即ち直ちに
(1-751)
大悲の至極を戴けるような機類には、如来真実の福徳と智慧とをこめたる第十八願の名号の利益を与え、もしまた最初から如来の正意を頂き兼ねる機類には、第十九、第二十願の道徳、冥想等の方便門を開顕〈ひら〉いてこれを導き、遂には第十八願の純他力の教に入らしめるように力を与え給う。かようにこの還相の活動〈はたらき〉も全く如来の本願の然らしめ給う所である。
 大悲の誓願はこうした有難い御慈悲であるから、良〈まこと〉に我を忘れて奉持〈おうけ〉申さねばならぬ。特に頂戴〈いただ〉き奉らねばなりませぬ。
 【余義】一。この結文の十句は、前来説き明して来た誓願一乗法に帰人したものの徳益を嘆称するのである。語を換えて言えば、親鸞聖人の自らの実験を語り給うので、一句一句に、聖人の喜びが躍って居るのである。既に聖人の実験を語り給うのであるから、読むものもまた、自らその心を持って読まねばならぬ。
 二。実験の告白は、形式に頓着するものではない。形式を整わせようと思うと、実験の生命が死んで仕舞うものである。それ故に実験の文字は型を以てこれにあてはめて、分科などするのは間違って居るのである。然しこの十句もだんだんと味おうて行く中に、その中に自ら次第前後があって、一貫して整うて居るものであるように思われる。それで、こ
(1-752)
の十句を図示して次第順序の意味を尋ねようと思う。

               ┏総━━━━ 一、能出三有継縛城
            ┏出迷┫
        ┏所得果┫  ┗別━━━━ 二、能閉二十五有門
        ┃   ┃
   ┏往相回向┫   ┗入証━━━━━━ 三、能得真実報土
   ┃    ┃
   ┃    ┃   ┏総━━━━━━━ 四、能弁邪正道路
   ┃    ┗能入因┫
   ┃        ┃  ┏断疑━━━ 五、能竭愚痴海
 十句┫        ┗別━┫
   ┃           ┗生信━━━ 六、能流入願海
   ┃
   ┃           ┏能度船━━ 七、乗一切智船
   ┃    ┏出化相━━━┫
   ┃    ┃      ┗所度海━━ 八、浮諸群生海
   ┗還相回向┫
        ┃      ┏真実━━━ 九、円満福智蔵
        ┗開法相━━━┫
               ┗方便━━━ 十、開顕方便蔵

 前六句が往相回向、後四句が還相回向を示したものであることは一目瞭然である。また前六句の中、初めの三句は三有生死の迷を離れて、真実報土に生るる喜〈よろこび〉を述べたもので、所謂〈いわゆる〉所得の果を記したものである。次の三句は、第一句は総じて信疑邪正の道路を弁別する
(1-753)
を得たることを示し、第二句第三句は、別して、その疑を断じ、本願を信ずることを示し、三句合して、前の出迷入証を得る因を説き明すのである。愚痴海とは、所謂不了仏智で本願を疑うことである。この六句で、信因に依って成仏の果を得る往相が顕われるのである。後四句は還相回向であるが、その中第一句と第二句は、再び娑婆に出で来って、衆生を済度することである。一切智船に乗ずるとは、後得大悲の智慧を得て、衆生の根性を知〈しる〉を述べ、第二句に入りて、正しく化度すべき衆生海に身を投げ入れることを示し給うのである。最後の二句は、衆生に施して利益を得せしむる法を挙げ給うたので、福智蔵とは直入の機に施す弘願の念仏のことであり、方便蔵とは、回心の機に授くる方便の法門のことである。